6239.8/11/2009
台風9号と駿河湾地震
8月11日。わたしは、朝食を摂りおえて、新聞を読みながらニュースをつけていた。
「ポロロン、ポロロン。緊急地震速報です」
突然、テレビからそれまでの台風情報をさえぎった放送が流れた。
すでに緊急地震速報の提供サービスが始まってしばらくになるが、本物に出くわしたのは初めてだった。大きな字で緊急地震速報と書かれたわきに、小さな字でなにやら書いてある。なんだろうと思って、テレビに顔を近づける。
「まもなく、大きな揺れが来ます」
えっと思った。その瞬間、遠くから地鳴りのような音が響いてきた。続いて、ガタガタと家具が揺れる。
きたぁー。
でも、こんなにすぐに揺れが来たのでは、家具を押さえたり、机の下にもぐったりする余裕がない。とりあえず、気持ちの準備だけできたようなものだ。
小刻みな揺れの後、本格的なガタンガタンという大きな揺れが続いた。わたしが子どもの頃から何度も言われてきた大きな地震が、ついに来たのかと、なかば開き直る。そんときはそんときよ。生きてさえいれば、なんとかなる。2階に寝ていた二匹の猫があわてて、階段を駆け下りてきた。避難訓練をしていなくても、野生動物の本能が二匹を安全な場所に導いたのだろう。すーと頑丈な家具の下に身を潜めた。
「ただいま、大きな地震がありました」
アナウンサーの表情に緊張が走る。
「午前5時6分ごろ、静岡県地方で大きな地震がありました」
第一報では、たしか5時6分と報じた。その後、5時7分に訂正された。
テレビ画面に静岡県を中心にした地図が表示される。各地の震度がついていた。静岡県や伊豆地方には「6-」。これって、震度6弱。
わたしは、妹夫婦が住む松崎にすぐにメールを送る。もしかしたら、まだ寝ていて家具の下敷きになっているかもしれない。すぐに返信が来た。
「びっくりして外にすぐに飛び出した。台風の雨でびしょぬれになったけど、大丈夫です」
そうだ、そうだったのだ。静岡県地方は台風9号の影響で、これから雨が強くなる。その嵐の前に大きな地震が発生した。
未明の地震だから、被害の全容は明るくなってから出ないとわからない。
しかし、新幹線と在来線の全線はすでに運転を取りやめていた。静岡駅で途方にくれる会社員がテレビカメラに撮影されていた。
東名高速道路は静岡県内で、道路が隆起しているのを発見されたので、全線で通行禁止。並行して走る国道一号線に車が流入していた。お盆期間が近づいて、早朝から車でふるさとを目指すひとたちがたくさんいる。はるか遠隔地まで、しばらく高速道路を使えない走行が続く。道路は大雨。事故が起こらないことを祈る。
地震は突然やってきた。しかし、台風9号は数日前から各地に被害をもたらしている。とくに兵庫県では亡くなった方や、いまも行方不明の方がいる。その台風が静岡県に近づいていた。そのときに、大地震が発生した。自然が描くシナリオは、ドラマや映画以上に残酷だ。台風9号は、開幕したばかりの高校野球をいきなり二日間も中止にした。鎌倉は花火大会も中止にした。ひとの願いや楽しみを、とてもかんたんに踏み潰していく。
わたしが子どもの頃から、やがて関東大震災に匹敵する大きな地震が来ると教わってきた。小学校や中学校の地震避難訓練では、退屈な校長の話のなかに、必ず来るべき大地震に備えるようにという教えが含まれていた。いわゆる「東海沖地震警戒」だ。
学校では、気象庁が「東海沖地震警戒宣言」を発令すると、こどもたちを保護者に引き渡す訓練を何年も続けている。授業を中止し、学校から一刻も早くこどもを非難させる訓練だ。でも、これは実際には機能しないだろうと内部ではささやかれている。仕事先から駆けつけられる保護者がどれだけいるのか。学校でずっと預かる待機児童の扱いを想定した訓練にすべきだと要求しても、行政は建前だけを振りかざす。行政の担当者には「訓練をやっている」という事実が必要なのだ。その訓練が、地震対策として有効かどうかは二の次なのだ。
もしも、今回の駿河湾地震が、いわゆる「東海沖地震」だったとしたら、気象庁は警戒宣言すら発表しなかったことになる。わたしたちは、発表されることのない警戒宣言を前提として、こどもたちを保護者に引き渡す訓練を教育活動として何年間も続けていたのだ。
お笑いである。
だから、きっと各地の圧力によって、今回の地震は「東海沖地震」にはならないだろう。そう命名してはやばいのだ。
こういう行政の建前仕事は、台風9号の被害と関係していないだろうか。地域の防災計画や、防波堤の補強工事など、財政逼迫という言い訳の前におざなりにされていないだろうか。
台風も地震も自然災害だ。だから、被害を受けても、あきらめるしかない。しかし、被害を未然に防ぐことができなかったかを検証する必要はある。もはや、清純派女優の覚せい剤騒動は放置して、メディアは自然災害と行政の安全対策について報じるときがきている。やたら、台風や大雨、突風や竜巻に弱い社会になっていないか。
(坂の下の関所・休載しました)
6238.8/10/2009
坂の下の関所 8章 story
106
6月20日土曜日。
わたしは、前夜から気合を入れて朝を迎えた。何しろ、午後8時前に寝たのだ。だから、3時半に目覚めたとき、頭もこころもすっきりしていた。金曜日だというのに、お酒も絶った。
そこまで気合を入れるのは、この日が築地への買出しの日だからだ。
わたしは、以前から、家族や仲間と食材を持ち寄り、何かの記念日や互いに都合のいいときに食事会をしてきた。こどもたちが大きくなり、母が他界してからは、家族での食事会の回数は減った。互いに時間をやりくりして顔をそろえることが難しくなったのだ。全員の血液型がB型なので、そういう機会が少なくなることを、寂しいとか残念とか感傷にひたる感覚の持ち主はいない。だから、家族の食事会は減っても、仕方がないと、それぞれが納得している。
仲間との食事会も、最近はそれぞれの都合がなかなかつかなくなってきた。それでも一年に数回は実施している。それぞれの得意料理を食べるたびに、いままで自分はどれだけレストランや飲食店で、味の濃い料理や素材の悪い料理を食べてきたのだろうと思い知らされた。
だから、わたしにとって、仲間との食事会は、将来、自分で飲食の店をもつときのための練習であり、勉強であり、修行でもあるのだ。
食事会は、仲間の家を転々と会場にしていた。そのうちに、仲間本人ではなく、そのひとの母親が腕をふるうケースが発生した。その仲間の家での食事会になると、お母さんが登場して
「あー、その包丁の握り方、見てらんない」
「なにそれ、それじゃ、魚の食べるとこ、なくなっちゃうじゃないの」
わきから料理人にプレッシャー。挙句の果てに
「ちょっと、どいて。わたしのやるのを見てらっしゃい」
こうなるのだ。
この仲間には妹がいる。名前の一部をとって、あーちゃんと呼ばれている。あーちゃんは妹だから、わたしの知り合いの仲間はお姉ちゃん。ふたりの母親はお母さんだ。残念ながら、ご主人は3年前に亡くなった。
わたしは、お母さんに魚のさばき方から、餃子の皮の包み方、酒の飲み方、握り寿司の握り方など、多くを学んだ。何しろ、教えてくださいと頭を下げなくても、師匠の方から、あーしろ、こーしろと指示を出してくれるので、自尊心やプライドがひとよりも少なければ、だれでもいい弟子になれるのだ。
そのお母さん、お姉ちゃん、あーちゃんとともに、築地に買出しに行く。
約束の時間はお母さんの家に午前5時。遅れようものなら、何を言われるかわからない。
二日酔いで車を運転したら、次の食事会の格好のネタにされてしまう。
中学、高校、大学と体育会の運動部で先輩後輩の上下関係のなかで、わたしはもまれてきた。そのときの緊張感に似た真剣さが、早朝の買出しにはみなぎっているのだ。
6237.8/8/2009
坂の下の関所 8章 story
105
佐藤さんは、わたしの顔をチラッと見る。
「やっぱり、あれですか。このコロッケは、何もつけない方が」
わたしは、佐藤さんに血圧の話で食の改善をしたことを、以前に伝えてある。だから、うまいものには味つけをしない、がまんできないほどまずいときだけ味つけをするという、基本ルールを知っている。
わたしは、もちろんと目で伝え、うなずいた。
中濃ソースを手にした永田さんを傷つけないように、佐藤さんは「ありがとうございます」とソースを受け取った。そっと、それを冷酒の棚の奥にしまう。
佐藤さんも、がぶりとコロッケに噛みついた。ややずり落ちたメガネを左手の中指で押し上げる。
「や、これはおいしい」
それを聞いて、レジの若女将と大将は笑みを浮かべる。
「ところで、昨夜は報道ステーションで流れたの」
わたしは、田植えの様子を取材に来たというお天気お姉さんのことを思い出した。さっき、佐藤さんの顔を見るまで忘れていたくせに。
これを、わたしの業界ではラベリングと呼ぶ。忘れてしまうかもしれない記憶。それをいったん忘れても、思い出させるラベルを、わたしたちの脳は、記憶に対してつけていく。
ラベルは、どうでもいい記憶にはつかない。天気予報とテレビ放送、田植えの様子。これらのキーワードでは、わたしの脳は反応しなかったかもしれない。しかし、佐藤さんが熱弁した美人で有能なお天気お姉さんという存在が、脳にラベルを貼らせた。
「それがね。ちゃんと流れたんですよ。でも、あれだけ長時間撮影して、えっこんだけ?っていう短さでした」
きっと、録画したひとたちが多いだろう。たとえわずかな時間でも、自分たちの活動がテレビを通じて流れたという経験は、こころの財産になる。
「佐藤さんは映っていたの」
「お姉さんの後ろのほうで、ボーっと突っ立っている感じで」
「手かなんか、振らなかったの」
「そんなこと、できやしません」
やはり、佐藤さんはシャイなのだ。わたしなら、踊っているかもしれないのに。
「そうだ、佐藤さん、また築地に買出しに行こうと思っているんだけど、何か買って来ようか」
「いつですか」
わたしは、縦長のカレンダーを指差す。
「その日かぁ。ちょうど遠くに行っているので、今回はパスします」
佐藤さんは、週末になると、専門の麻酔の技術を活かして、地方の病院に泊まりこむ。麻酔医を常駐させられなかったり、ひとりしかいない麻酔医の休みの日に困っていたりする病院をまわるのだ。
「でも、ジャコはお願いします」
6236.8/6/2009
坂の下の関所 8章 story
104
若女将が空になった皿を片づける。
「どう」
わたしに、味を聞く。
「すごい、うまかった。いただいちゃって、申し訳ないぐらい」
「それは、喜ぶわ。娘の旦那もね、料理が好きなひとなのよ」
そうでしょう。コロッケのような日常的なおかずにこれだけの心遣いをこめられるのだから、ご主人が理解あるひとでないと価値を高められない。
「前に、センセーが出汁をくれたことがあるでしょ」
「うん」
鶏がらと豚ばら肉を煮込んで、万能スープを作ったのだ。それをペットボトルに詰め替えて、関所にプレゼントした。
「あれでラーメンスープを作ったときに、娘の旦那が、これはちゃんと出汁を取っているってわかってくれたの」
「それはすごい。かなりいい味覚」
「いつかね、こっちに来て、小料理屋みたいのを開きたいみたいよ」
おそらくわたしよりも20歳近く若いだろうご主人。その年齢から、いい味を舌に覚えさせておけば、きっといいお店が開けるだろう。
ぜひ、夢を実現してほしい。
いや待て、わたしもいずれは飲食店をオープンしたいと思っているので、競合してしまうな。
関所の自動ドアが開く。
佐藤さんが、右手を上げて登場した。
「佐藤さん、ほら、センセーがお待ちかね」
ウイスキーコーナーの奥から、からだの大きな相田さんが佐藤さんに挨拶をする。
おいおい、わたしは男色の趣味はない。
若女将は、奥からコロッケを出す。
「どうしたんですか、これ」
カバンを下ろし、クーラーから、高清水とコップを出す。
「東京の娘が作ってくれたのよ」
「すごい、うまいよ」
わたしは、太鼓判を押す。
「熱いうちに食べるのが礼儀だよ」
わたしは、割り箸を佐藤さんに渡す。
「佐藤先生は、ソースは使わないのか」
奥から、永田さんが中濃ソースを手に現れる。
6235.8/4/2009
坂の下の関所 8章 story
103
30歳を過ぎたときに、わたしは高血圧で倒れた。そのときは上が200を超えていた。
通院しながら、医師のアドバイスを受け、塩分や醤油を使わない食事をこころがけた。
いまでは、お刺身に醤油をつけない。餃子はもちろん、そのまま食べる。かまぼこは塩分が多すぎるので、それ自体を食べない。
わたしは、祖父母に育てられた。長野県長野市に生まれた祖母。岩手県八戸市に生まれた祖父。必然的に食卓は味の濃いもので占められていた。祖母は78歳のとき、クモ膜下出血で亡くなった。お新香に醤油をかける生活だった。炊きたてご飯に塩をふって食べたこともある。
40歳を過ぎた頃から、糖分も控えめにした。それまでと同じように食べていたら、代謝が悪くなったので、消費しないで残ってしまうカロリーが多いことに気づいたのだ。
いまでは、最高血圧が110を超えることはめったにない。
そして、何よりも舌が敏感になった。味つけをしないか、少ししか味をつけない料理を食べていると、味覚が敏感になる。そのうちに、どんな料理を食べても同じ味が混ざっていることに気づいた。それは、あの化学調味料だ。ここで、あえて商品名をいうと営業妨害になるので触れない。
それ以来、あえて、化学調味料を使わない調理や料理にこだわるようにした。すると、食材のうまみを感じられるようになってきた。これは、鶏がらや豚ばら肉を使ったスープ作りや、鰹節やジャコを出汁をして使う調理方法などに活かされている。
化学調味料は、レトルトと呼ばれる食材に多く使われている。また、安価なレストランや食堂でも使われている。意外にも、わたしの好きな中華街の多くの店は化学調味料をふんだんに使っている。
だから、完全にあの共通する「うまみ」から逃げ出すことはできない。しかし、自ら調理する料理ぐらいは、食材のうまみと自分の腕で味の勝負をしたい。
若女将が出してくれた長女さんが作ったコロッケ。それをがぶりと噛みつき、もぐもぐと咀嚼した。ジャガイモのふんわりした感覚。舌に広がるイモのあまみとうまみ。コロッケはレシピ本でも砂糖を使うケースが多い。しかし、わたしの感じた味にはほとんど糖分はない。あったとしても、わずかな量しか使っていないのではないだろうか。
「こりゃ、うめぇなぁ」
奥のコーナーから、永田さんが感動の声を上げる。
やはり、おいしいものは年齢を問わないのだ。ふと、空になった永田さんの皿を見たら、ソースがたっぷり。
あれでは、このコロッケの売りになっているイモのやさしさが、ソースの強さに負けて、わからない。もったいない。でも、おいしさはそれぞれのものだから、わたしの価値観を押し付けるつもりはない。ただし、いつか飲食店をオープンしたら、テーブルに調味料は置かない。使わせないのだ。
あまりにもイモがうまかったので、思わず残り半分のパン粉やつなぎを断面で観察した。こだわりの長女さんなら、パン粉も外国産の安いものではないかもしれない。そう思って、残りを堪能しながら、口に運んだ。
6234.8/3/2009
坂の下の関所 8章 story
102
関所は火曜日が定休日だ。
シンロートメンバーが月曜日も休みになってしまった。不景気は、社会の隅々にまで広がり、長引いている。
だから、木曜日に会うと、次に顔を合わせるのが水曜日。約一週間後になってしまった。去年は、いや半年前までは、火曜日と週末を除けば毎日会っていたのに。
つくづく不景気が、よのなかに与えるマイナスの影響を考えてしまう。
ひとは、日常を繰り返していくことで、こころもからだも安定させている。少しの変化が、不安をもたらし、こころとからだのどこかに小さな影響を与える。
さらに、ひとはひとのなかで生きている。孤独とはともだちになれない。
不景気を理由に従業員から仕事を奪う会社は、仕事のない日にはアルバイトを認めればいい。わたしのような公務員は、給料が減った分、労働時間を短くしてほしい。労働時間以外では、アルバイトやほかの仕事をしていいように法律を改正してほしい。
勤労意欲はあるのに、働かせないで、給料だけを少なくする。このクニがよくなるはずがない。
「こんにちは」
水曜日の関所はにぎやかで好きだ。
正面に赤坂さんが陣取る。奥のコーナーに、永田さんや烏さん。左のウイスキーコーナーに、シンロートのメンバー。最近は、わたしがふだんいるソーセージと焼酎コーナーに名前を知らない首都リーブスの方が固定している。
なんにせよ、にぎやかなのは楽しい。
だいたいわたしが定時に職場を出て、関所に着くのが5時40分ぐらい。横浜で病院に勤務し、5時過ぎに退庁する佐藤さんが着くのが早くても6時半ごろ。その間に、このにぎやかなメンバーの多くは、家路に着く。にぎやかな時間と静かな時間が潮の満ち引きのように繰り返す。
佐藤さんが登場する6時半以降は、近隣の方やスイミングをした帰りの中山さんが訪れる。さらに7時半過ぎまで長居をすると、東京でよのためひとのために働くカンちゃんが登場して、さらに帰り時間が遅くなる。
「ちょっとつついてみて」
若女将が持ってきたのは、コロッケだ。
「どうしたの」
「東京の娘がたくさん作ってきてくれたのよ」
長女さんは、東京で結婚して暮らしている。ときどき関所を手伝うために里に戻る。そのときにたくさんの料理を作る。まさか、それを立ち飲みのメンバーが食べているとは思わないだろう。
「ごちそうさま」「ありがとう」「ソースはどこだぁ」
関所のあちこちから、感謝の声が上がる。
わたしは、何もつけないでアツアツのコロッケにがぶりと噛みついた。
6233.8/2/2009
坂の下の関所 8章 story
101
わたしと中島さんと大将が、ひとしきり鉄道談義に花を咲かせる。
「あーあ、つまんない。わけ、わかんない」
若女将は、正直な感想とともに、ため息をつく。
横須賀線や東海道線の旧車体の話題。わたしはてっきり現在のアルミ車体の前の話かと思っていた。しかし、よく聴くと、中島さんも大将も、さらにふたむかしぐらい前の車体の話をしている。
自分が雑誌や映画でしか見たことがない車体は、実感がわきにくい。ましてや、蒸気機関車の話題になると、わたしには古典としか言いようがない。
「番組でも、横須賀線を取り上げたんですよ」
「番組って、メディアの仕事をなさっているんですか」
わたしは、こんなに身近にテレビ番組制作スタッフがいたとは思わなかった。
「いえいえ、鎌倉市から委託された市民チャンネルに協力しているんです」
何しろ、さっきから何杯か山猿を飲んでいるわたしには、正確な状況判断は困難になっている。中島さんの正体は、いまの状況では理解しづらいだろう。ただ、どうやら本業は別にあって、ライフワークとして市民チャンネルの番組制作に携わり、さらにむかしからのテッチャンらしいことはわかった。
「以前の番組なんですが、サイトに公開してるんですよ」
「わー、見よ見よ」
ため息をついていた若女将が元気になって、パソコンのスイッチを入れた。
その番組は、スカ色と言われたアイボリーと青の二色に塗られた、鉄でできたむかしの横須賀線が、ステンレスアルミ車体に変わることを伝えていた。北鎌倉や明月院近くの線路際からの撮影とともに、すでに姿を消しているむかしの車体が鉄道模型として走行していた。HOゲージと呼ばれる縮尺のように見えた。
「この模型も中島さんが制作したんですか」
「えー」
とても満足そうにうなずいている。
わたしは、最近は時間がないのを言い訳にして、鉄道模型は走らせていない。しかし、お金のなかったこどものとき、模型店のウインドーにかじりついて、鉄道模型が走り続けていた光景を眺めた。いつか、お金を稼ぐようになったら、お店にある鉄道模型を全部買って、専用の部屋を作り、思う存分、模型を走行させるぞと願った。その夢は、一部はかなったが、ほとんどはかなっていない。
模型専用の部屋をもつなど、いまのわたしには許されない。
お店全部の模型を買う。仕事につけば、それぐらいのお金を稼ぐだろうと思っていた自分が情けない。宝くじにでも当たらなければ、全部を買えるわけがない。それぐらい鉄道模型は精巧で高価だったのだ。
6232.8/1/2009
坂の下の関所 8章 story
100
新生姜の酢漬けを楊枝で刺して、口に運ぶ。
口のなかで、酸味が広がり、唾液が舌の両脇からあふれ出る。その唾液に包まれて、生姜のうまみがあまみへと変身する。ボリボリと食べてから、喉に流し込む。食道を通過したら、山猿で追いかける。
酒のうまみが、生姜のあまさを連れて、いっしょに胃袋に滝となって落ちていく。
日本酒を飲んでいて、一番、幸福感にひたるひとときだ。
佐藤さんは、バス停の前の小さな窓こと「鳥藤」に向かった。今夜の放送に間に合うように帰られればいいのだが。
赤坂さんは、「最近、弱くなった」と咳き込みながら、フラワーセンターのバス停を目指して関所を後にした。
奥のコーナーには、いつもにぎやかなシンロートのメンバーがいない。不景気の波は、特殊塗料メーカーにも影響を与える。今月は、金曜だけでなく、月曜も休みの週があるという。
わたしは、縦長のカレンダーを見て、ボールペンで印をつける。
「今度、二十日に築地に行ってきます。もしも、何か注文があれば、考えておいてね」
「あら、何がいいかしら」
前回の買出しから二ヶ月以上が過ぎていた。キムチやジャコが底をつき、わたしの食生活は悲しいものになっている。生の魚はさすがにあっという間に食べてしまう。しかし、日持ちする食材は、築地のものが安くてうまくて量が多い。スーパーで30グラム500円ぐらいで売っているようなジャコは、高すぎる。築地ではキロ単位でグラム400円前後のものが最高級品だ。
自動ドアが開く。尻尾を振って、大型犬のミッキーが関所に入る。首からかかるひもを手にして、飼い主の中島さんが入店した。
「よ、元気か」
大将が、クーラーボックスからチーズを取り出す。
待ってましたとばかりに、ミッキーが大将の前に鼻を突き出す。しかし、口元にチーズを持って行くまで、大将の手元からチーズを奪って食べることはしない。しつけができているのだろう。
「こないだ、関所の話を会社のひとに見せました」
えーっ。どういうこと。
「センセーがインターネットでここのことを小説にしているって教えたのよ」
若女将が教えてくれた。
「ぜひ、あの小説の中のテッチャンとお話がしたいと思いました」
中島さんは、わたしよりも年上だ。大将たちと同年齢かもしれない。
「中島さんも、鉄道が好きなんですか」
好き。そんなレベルじゃありませんよと言わんばかりの目じりで、生ビールを口に運ぶ。
年季の入った鉄道ファンだと確信した。
6231.7/29/2009
坂の下の関所 8章 story
99
わたしも10年ぐらい前に、フリースクール活動で、テレビの取材を受けた記憶がある。何日間も、いや何ヶ月も取材に来た。
「その田植えの様子は、いつ放送されるの」
赤坂さんが、佐藤さんに確認する。でも、赤坂さんは、帰ったらテレビを見ないでウイスキーを枕元に置き、寝てしまうはずなのに。
「たしか、きょうのお天気コーナーって言ってたような」
「ずいぶん、早いんだね」
わたしは、驚く。ま、でも田植えに行ってきた話をするのに、収穫の頃に放送しても意味はないか。
後日、聞いてみよう。谷戸でボランティアをするひとたちの活動が、電波に乗って、全国の茶の間に届く。その届き方はどうなっていたのかを。もしかすると、画面には田植えに勤しむ佐藤さんが映っているかもしれない。こっそり、カメラ目線で。
わたしは、関所正面の日本酒コーナーに足を運ぶ。
最近、ホームページに「関所コーナー」を開設した。新しい商品をチェックして、勝手に宣伝をしているのだ。
「あれ、山猿に、違う銘柄があるよ」
「やっと、気づいたのね」
奥から、新生姜の酢漬けを皿に盛って、若女将が出てきた。
「うわー、生姜、うまいんだよな」
「この時期の生姜は、格別ですね」
赤坂さんも、佐藤さんも、山猿には興味がないらしい。
「これ、ニホンバレって読むのかな」
新しい山猿は、ラベルが白い。そこにおなじみの味わいのある書体で「山猿」と書かれている。漢字の上に、日本晴れ使用の活字。わたしがふだん愛飲している山猿は、穀良都と書いてコクリョウミヤコと読む酒米を使っている。酒米が違うのだ。
「日本晴れは、わりとほかの日本酒にも使われている米だぜ」
いいところに気づいたと言わんばかりに、大将が注文聞きから戻って教えてくれた。新しい山猿は、日本晴れを使い、本醸造と純米酒の二種類があった。わたしは、携帯電話をカメラモードにして、早速撮影した。値段は、穀良都よりも500円ぐらい安い。これはお手ごろだ。
「どうする、そろそろ終わりそうだから、次はそっちにしてみるかな」
若女将は、わたしが入れている山猿の残り量を把握している。
「まだ、ちょっとあるから、もう少し飲んでから考えるよ」
「遠慮するなって、こっちで処分しておくから」
大将が、右手の親指と人差し指で猪口をもつ格好をした。
6230.7/28/2009
坂の下の関所 8章 story
98
てっきり、地元のケーブルテレビ局の取材だと思った。
「こんにちは。あれ、二人とも珍しく早いな」
首都リーブスの赤坂さんが、仕事帰りにやってきた。
「いつもは、赤坂さんのほうが早いのに、きょうは逆ですね」
佐藤さんが、少し嬉しそうに自慢する。
「赤坂さん、佐藤さんたち、テレビに出るんだって」
「そりゃ、すげぇ」
赤坂さんは、奥の大きなクーラーから缶ビールを取り出す。ふだん、日本酒しか飲まない赤坂さんが、350ミリリットルの缶ビールを飲むようになると、季節は夏だ。
「そんな大したことじゃ、ないんですけどね」
佐藤さんは、いつも謙遜する。
「どこのチャンネルに出るの」
わたしは、質問する。
「むかし、10チャンでニュースステーションっていうのをやっていたでしょ。その後、報道ステーションって名前を変えたんだけど」
「あー、古館さんがキャスターをやっているやつ」
そうは言っては見たものの、最近、10時前には寝ているので、どんな番組か、わたしには正確にはわからない。
「そうそう、そのなかのお天気コーナーなんですけどね」
「あれか、田植えの季節になったとか言いながら、天気を放送するわけ」
赤坂さんが想像をふくらませる。
「なんだか、最近は、お天気キャスターも大変みたいで。スタジオで原稿を読んでいればすむわけにはいかなくて、折々の行事を体験して季節感をテレビを見ているひとに伝えるのも仕事みたいなんです」
「ということは、谷戸の田植えを体験しに、キャスターが取材に来たの」
「えー」
言いながら、うなずく佐藤さんの頬が紅いのは、高清水に酔ったからではないだろう。何か、楽しかった思い出が脳裏に浮かんだのではないか。
「最近のキャスターというか、お天気お姉さんというのは、有名な大学を出て、気象予報士の資格を取って、しかも美人なんですよね」
ホラホラ。佐藤さんは、取材とは関係なく、田植えにちゃんと集中できたのだろうか。
テレビの取材。非日常が、ボランティア活動に入り込んで、いつものペースを乱したのではないだろうか。ひとは、お祭り的日常に弱い。
「しかも、朝から田植えの準備をしてきて、最後まで、いっしょに体験していきました。番組で流れるのは、きっとわずかな時間だと思うんですよ。番組作りというのは、時間と手間がかかると感じました」