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6229.7/28/2009
坂の下の関所 8章 story 97

 ことしの湘南地方は、梅雨に入っても、しとしと雨が続くことがない。
 雨が降ると、風を伴い、大雨になる。それが翌日には、カラッと晴れ上がり、夏のじめじめした蒸し暑さが空気を占領する。
 関所の自動ドアの向こう。アスファルト道路を隔てて、コンクリートの壁がある。関所の向かいの施設は、関所の位置よりも数メートルも高い場所にある。コンクリートの壁の上は低い樹木で覆われている。そんなかに、山百合に似たかたちの花が空に向けて、五つの大きな花びらを広げていた。
「あの花は、何ていう百合なの」
わたしは、割れせんべいを手にしながら、若女将に聞く。
「たしか、ニッコウキスゲじゃないかしら」
 百合にしては、色が鮮やかな黄色でおかしいとは思っていた。なるほど、ニッコウキスゲか。わたしが商売柄、修学旅行で行く日光で何度も見ているニッコウキスゲは、あんなに大きくない。きっと、湘南の温暖な気候では、たくましく大きく育つのだろう。
 きのうは一つ咲いていた。きょうは、となりにもう一つ咲いている。
「あら、佐藤先生、早いわね」
ドクター佐藤が、手荷物を持って仕事から帰ってきた。
「未明に急に呼ばれて」
きっと病院から急な呼び出しがあったのだろう。佐藤さんは、クーラーから高清水を取り出す。
「お疲れさまです」
わたしもクーラーから山猿を取り出して、ガラスのコップに注ぐ。
「早く出勤して、そのまま病院にいたんですか」
「いえいえ、とりあえずの応急処置をしたら、帰りました。それから、いつものように出勤したんです」
ひょぇー。
「じゃぁ、眠いんじゃないのかな」
「そうね。3時ごろ過ぎたら、ボーっとしちゃって。だから、きょうは早く帰らせてもらったんです」
それでも、まっすぐ帰宅はしないんだなぁ。
「そういえば、こないだの日曜日は無事に田植えがすんだんですか」
佐藤さんは、地元で自然公園をフィールドにしたボランティア活動に参加している。
 参加。そんな受身な存在ではなく、代表を任された年度もあったぐらいだから、かなり中心的な存在だ。
「それがね。テレビ局が来たの」
佐藤さんの目が丸く輝いた。

6228.7/26/2009
別の世界へ
3

 わたしが関係している業界がらみで言えば、大阪の男は、人格障害か統合失調症の鑑定が出るのではないかと思う。この男は、仕事がなくなり、金に困ってから、ひとには聞こえない声が聞こえていたと思う。自分がこんなに苦労するのは、自分が悪いからではない。よのなかが悪いのだ。その声が聞こえるようになってしまうと、ひとには見えないものに向かって普通に話しかけられるようになる。逮捕され、メディアからカメラを向けられても、それが見えていないから、顔を隠さない。完全に、別の世界へ行ってしまった。
 脳の障害として分類される自閉症と、こころの病として分類される人格障害や統合失調症を、ごっちゃにして考えるのはおかしい。しかし、分類とか背景とか投薬とか治療などは専門家にしかできない。だから、そういうひとたちが暮らす社会では、障害や病気の名前を知っていることは意味がないのだ。
 大事なのは、そういうひとたちは、自分以外のひとの気持ちを想像しにくい特徴を持っていることを、多くのひとが知っておくことなのだ。そして、自分の気持ちをだれもがわかっているという気持ちがとても強いので、うまく自分の気持ちを相手に伝える努力はしない。だから、相手にされないと、無視されているようで、破壊に向かう。
 相手の気持ちを想像しにくくても、多くのことを知っていて、テストの点数がよければ、学校や家庭は、そのひとに高い評価を与える。それが、よけいに「勉強さえできれば、親も先生も認めてくれる」という考えを強めることにつながる。やがて18歳になったとき、あるいは大学まで進学して22歳になったとき、よのなかはテストの点数よりも、人付き合いや社会性を重要視することに気づき、落ち込むことになる。
 一番苦手にしていたことが、よのなかではとても求められるとは、思ってもいなかった。それをだれも教えてくれなかった。親も先生も同級生も。悪いのはそいつらだ。壊してしまえ。やがて、見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるようになると、悪いのはだれでもいい。みんななくしてしまおう。
 相手の気持ちを想像する力をイメージ力という。これが足りない状態を、イマジネーション不全という。  イマジネーション不全は、18歳までに特別な支援プログラムで計画的に育てないと、その後の生き方を大きく左右する。何も手をかけないで18歳を迎えたら、就労は難しい。家族がずっと面倒を見る。障害者施設に長期入所する。いくつかの未来像は、自立とは離れていく。
 けさは、いつものひとが煙草を吸いながら向こうから歩いてきた。そのまま進めば、わたしとすれ違う。数メートル手前で、彼は立ち止まり、目を細めた。その視線が明らかにわたしに注がれていたので、手を上げた。反応なし。すれ違いざまに目を合わせて会釈をした。彼の目は澄んでいて、明らかにわたしの目を見ていた。しかし、やはり反応なし。まるで、そこにわたしなどいないかのように、目の焦点は別のところに合っていた。

6227.7/25/2009
別の世界へ
2

 奈良県で私立高校に通う男子生徒が同級生を登校途中に刺殺した。
 お互いによく知っている高校3年生どうしだったという。
 高校2年生のとき、ふたりの間に距離ができた。その後に、容疑者は、恨みをつのらせ、最終的に殺してしまおうと考えた。そして、実行する。
 大阪で、パチンコ店にガソリンをまき、火をつけて、客や従業員を死傷させる事件が起こった。犯人は、パチンコ店の近くに住む男だった。仕事も金もなく、社会全般に不満だらけだったという。だれかを殺し、自分が抱えている不満を解消したいと思った。そして、実行する。
 このふたつの事件は、ほぼ同時期に発生している。
 一年以上も不景気が続き、政治は選挙がらみでひとびとの生活を無視。仕事がないひとがあふれる。千葉県では、ハローワーク職員が相談に来ていた女に逆恨みされ、灯油をかけられた。そして、火をつけられ大火傷を負った。完全失業率が5パーセントを超えて、さらに増え続けても、行政は無策だ。新型インフルエンザの感染者は増え続けているのに、メディアは飽きてしまったのか報道しようとさえしない。
 わたしが生きている現実社会は、ため息をつくことの連続だ。
 奈良県の事件と大阪の事件。
 どちらも、町に出たら、自分の命を狙っている者がいると思って行動しないとあぶないことを教えてくれる。
 どちらの事件もおそらく裁判の過程で精神鑑定が行われるだろう。
 動機を考えたとき、正常な精神の持ち主では想像できない行動を取ったと判断されるからだ。しかし、どんな鑑定結果が出ても、きっと裁判では考慮されないだろう。なぜかというと、事件を起こしたときに、ためらうことなく、計画を実行していたからだ。
 お酒や覚せい剤によって、自分で何をしているのかわからない状態だったのではないのだ。
 明らかな殺意を持って、ひとを殺しているのだ。
 そろそろ、警察だけでなく、学校や家庭、病院や相談機関は、通常の考えとは異なる思考をするひとが、よのなかにはたくさんいることを研究するべきだ。そのひとたちが問題を抱えたときに、すべてをぶち壊す方向ではない解決策を、時間をかけて、そのひとたちに教えていくべきだ。
 わたしが関係している業界がらみで言えば、奈良県の男子高校生は、自閉症関係の鑑定が出るのではないかと思う。それは、自閉症のひとの多くが、相手の気持ちを推し量ることを苦手にしているからだ。だから、自分の気持ちだけを相手に押し付けてしまう。そのことで、相手がどんなに傷ついても苦しんでもおかまいなしだ。それが強調されると、ひとを道具として扱うようになる。自分にとって有益な道具だった時代はよかった。しかし、無駄な道具になったら、邪魔で仕方がなくなり、ついには壊してしまう。「ひとの道具的使用」は、仲良くしているときには見逃されがちだ。

6226.7/23/2009
別の世界へ
1

 わたしは、電車通勤をしている。
 自家用車通勤ではない。だから、駅に向かう道、改札口、ホーム、ロータリーなどで、毎朝、多くのひとに会う。それぞれの人生を生きるひとたち。これから仕事へ向かうのだろうか。朝まで仕事をして、家路に着くのだろうか。学校に行くのだろうか。行く当てもなくぶらぶらしているのだろうか。想像力のつまみを最大限に上げて、わたしは、見知らぬひとたちに物語を作る。
 若者の多くはだいたい想像がつく。それも高校生になると、きっとわたしの想像は事実とほぼ間違いないだろう。運動部の朝練習に向かう。あくびをかみ殺しバックを椅子にして座る。電車が入ってくると、降りる客よりも先に乗ろうとする。空いている座席を狙っているのだ。
「こいつら、そのうち、罰が当たるぜ」
内心でいつもそう願っている。はとの糞、犬の糞、チューイングガムを踏む。どんなパターンだろう。
 乗り物のなかでは、あまり会わないが、改札口やロータリーなど、駅に周辺には、路上生活者が多い。何日も入浴していないので、夏が近づく季節は、ものすごい体臭を放っている。このひとたちの人生を想像することは難しい。
「どうして、ここで生活するようになったんですか」
いつも聞いてみたいと思っているが、まだその勇気に満たされていない。
 路上生活者に混ざって、ベンチに座りながら、ぶつぶつ独り言を喋っているひとがいる。わたしの通勤途上に、最低3人は確認している。怒っているときがある。説明しているときがある。笑っているときがある。
 おそらく、常人には見えないものが見えているのだろう。空想や妄想、あるいは幻覚や幻視という言葉が正しく当てはまるかどうかはわからない。また、一般的にキチガイとか、狂っているとか、分裂病とか、失調症とか。そういう表現でくくることに意味があるとも思えない。
 わたしは、何度か、そのひとたちの視界に入るように自分の立ち位置を調整し、会釈をしたことがある。しかし、数メートルの距離でも、わたしの会釈はいつも無視されてしまう。その澄んだ瞳は、わたしをとらえているようで、わたしを素通りしているのだ。
 何がそのひとたちを別の世界に誘(いざな)ったのか。
 もともと脳の構造として、別の世界に行きやすいものを持っていたのかもしれない。あるいは、生きている環境が劣悪で、現実を受け入れることがつらかったのかもしれない。
 ただ、そのひとたちが別の世界に行ってしまっている表情を見ていると、きっとわたしが生きている現実社会よりも、あっちの世界に行ってしまったほうがラクなのだろうと共感する。

6225.7/22/2009
湘南に抱かれて
-1985年春-

1-11

 就職するには、教員しかない。そんなふうに将来の展望を固めてしまうには、社会の状況が厳しすぎた。だから、いくつもの人生の選択肢が必要だったのだ。
 朝の7時の逗子駅ロータリーには、京浜急行のバスとタクシーが客を待っていた。
 自分が目指した職業に就けたことは、実力よりも、運が強かったと思うようにしている。なにしろ2000人を超える受験生がいて、合格者数すら公表できないほど若干名しか採用されなかったのだ。自分にそんな実力があるとは思わない。全部で5次試験まであった採用試験で、最後まで全力を出せたとも思えない。自分の力で合格できたと豪語したら、その瞬間に天罰が下りそうだった。
 だからこそ、こうして職業人として、確実な一歩を踏み出している自分をあきらめないようにしようと思う。
 秀夫は、就職して一ヶ月が過ぎていた。
 いつも朝の逗子駅改札口を出ると、気持ちが厳粛になる。緊張もする。
 よし、きょうもいっちょ、やったろか。
 野球をやっていた頃、試合前のベンチでボルテージを高め、気が散ってしまいそうなとき、相手チームのピッチャーを叩きのめしてやろうという一点に気持ちを集中た。もしもからだに近い球を投げてきたら「ふざけんじゃねぇ」とすぐさま睨みつけてやろう。気負いではなく、気持ちで負けない覚悟を持たなければ、130キロ近い速球なんて打てやしない。
 逗子駅の改札をくぐり、駅前のロータリーに足を踏み入れるとき、秀夫は、野球をやっていた頃のように、きょう一日を悔いなく前向きに乗り切ろうと気合を入れる。プレイボールと叫ぶ球審の声が、空の上で響くような気がする。
 ロータリーは三角形をしていて、そこから金沢八景方面と葉山・横須賀方面と鎌倉方面の三方向に道路が分かれている。バスもそれぞれの方向に出発する。
 正面の魚屋では、仕入れを終えたきょうの売り物が、店頭に並べられている。きっと秀夫が帰りに通るときには、もう店はシャッターを閉めているだろう。いつも開店前の準備の時間にしか店の様子がわからないのだが、干物をじょうずに鉄網に並べる親父がきっと店主だろう。逗子の干物はアジもサンマもとても肉厚だ。干しても干しても蒸発しない特殊な脂でももっているかのように、開かれた肉が盛り上がっている。さーっと焼いて、おろし大根で食べたらおいしいだろうなぁといつも思う。
 海の匂いというのは、よく潮の匂いだと言われている。しかし、潮の匂いってどんな匂いかと考えると、匂いが鼻の奥に記憶としてよみがえらない。秀夫は、ロータリー一面に広がる、この干物の匂いこそ、潮の匂いだと思った。乾いていても、生臭ささが残り、少ししょっぱいような甘いような、いい出汁の香りだ。
 この匂いに包まれると、きょうもここに来ましたぜ、アジの兄貴と叫びたくなる。朝食を済ませてきたのに、腹の奥で、胃袋がおかわりと言っているようだ。
 秀夫は、山の手まわりの葉山循環バスに乗る。運転手は新聞を広げて、まだエンジンをかけていない。出発予定時刻まであと数分。どのバスも、始発駅ということだからか、エンジンを切っている。そして、この会社の運転手は、みんな暖気運転を教わってこなかったらしく、エンジンをかけたとたんにドアを閉め、もそもそもそもそとなにやらアナウンスをしてアクセルを踏む。
 連休明けの初夏の日差しは、まだ夏というには早すぎて、でも春というには暑すぎる。もうすぐ一年中でもっともこの地域がにぎわう季節がそこまで来ていることを、秀夫は肌で感じながら、運転手の後ろの席に座って、まだ干物を干している親父の後姿を眺めていた。

湘南に抱かれて-1985年春-1章終わり
初版2007年11月8日
二版2009年7月21日

6224.7/20/2009
湘南に抱かれて
-1985年春-

1-10

 1985年は、教員を志すひとたちにとっては、超がつくくらいの氷河期だった。
 その前後も含めて、全国の教育委員会は、ほとんど新採用を取らなかった。
 自分が就職することで手一杯で世の中の動きがどうなっているのかとか、権力者による不正が蔓延しているとか、国鉄が民営化されるとはどういうことかとか、考える余裕などなかったのだ。
 秀夫が大学4年のときに、学生課の就職窓口で神奈川県教育委員会の採用要項を手にしたとき、募集人員に「若干名」と書いてあった。
「これって、どういうことですか」
学生課の窓口の人に聞いた。
「運がよければ合格するということでしょう」
 つまり、試験は受けてもいいが、採用の見込みはないという報せでもあったのだ。
 教員は定数法という法律で、学校規模に応じてではなく、こどもの人数に応じて採用者が決まる。
 全体的にこどもの数が減ってきていたので、当然のこととして、教員の採用人数は減っていく。アメリカのように公立学校でも教員は一年契約の雇用ではない。日本では一度正採用になると、60才の定年まで辞職したり解雇されない限り働き続けることができる。
 その後、この伝統は小泉改革を引き継いだ安倍首相のもと、教員免許法の改悪へとつながる。2009年より正式に、10年ごとに教員免許が更新される制度が導入された。更新のために大学に2年間も通い、必要な単位が取れなければ、教員免許は失効し、資格は剥奪、退職という制度が運用される。
 そういうことがわかっていれば、秀夫は絶対に教員の道を選択しなかっただろう。資格や出世、営業や組織にとらわれないからこそ、こどもたちにのびのびとした考え方や自由な教育ができると信じて教職の道を選んだ若者は少なくない。それが自動車の運転免許みたいに、期限がきたら、自腹を切って更新しなきゃならない。そのことで、本職が受ける影響は少なくない。クラスの授業プランを作る時間を、免許を更新するためのレポート作りや試験勉強に振り替えなければいけないのだ。
 しかし、1985年当時、票にならない教育改革に目を向ける政治家などいなかったので、20年後に、教員免許に更新制度が導入されるとは、だれも知らなかった。
 一学年一学級45人で教員がひとり採用される(その後、現在では40人に法律改正)。
 もしも46人になったら、二学級を作り教員は二人採用しなければならない。子どもの数ひとりによって、一クラスの人数が45人のときもあれば、半分の23人のときもある。この差はとても大きいのだが、その問題点を指摘する保護者や社会的勢力はない。教職員組合が定数是正の要求をしても、保守系政治家は教職員の組合員に対して敵対心をもっているので、要求の内容など、聞く耳をもたない。
 また、電子立国が叫ばれ、1980年代の若者たちは理工系の知識を携えて、多くは公務員ではなく民間企業へ就職した。公務員は採用がほとんどない時代だったが、パソコンやプログラミングの知識や技術のある若者は引く手あまたの売り手市場だったのだ。
 秀夫の初任給は大卒者平均給料よりも低く、工学部でろくに漢字を書けなかったワンダーフォーゲル部の仲間は倍近くの給料をもらった。秀夫たち難関を突破した教員組は大卒者平均給料を押し下げることに貢献し、キーボードを前にすれば漢字が書けなくても問題ない工学部の仲間たち理工系組は平均給料を押し上げることに貢献していたのだ。
 いざとなれば、教員の夢は捨てようと思っていた。
 実家の経済状況を考えると、とても就職浪人などできる状態ではなかった。アルバイトをしてでも自分の生活は自分の力で切り開いていかないと、親や妹に迷惑をかけることは必至だった。高校時代からエキストラのアルバイトをしていた大船松竹撮影所の門をたたくのもいい。もともと映画には興味があったので、その世界で生きていくのに魅力があった。海に出て砂浜で夏場だけ死に物狂いで働いて一年間を遊んで暮らすのもいい。工場にアルバイトで入り、お金ができたら山に入る登山家を志してもいい。
 人生、これだけというかけ方はできない時代だったのだ。

6223.7/18/2009
湘南に抱かれて
-1985年春-

1-9

 若宮大路には、由比ヶ浜に近いところから三つの大きな鳥居が設けられている。
 もっとも海に近い鳥居を一の鳥居、中間地点の鳥居を二の鳥居、八幡宮境内直前の鳥居を三の鳥居と呼ぶ。海から一直線につながる道はおよそ一キロぐらいだろうか。夏にはここに車とひとがあふれ、ラジオ局やテレビ局が季節スタジオを設けて、情報と流行を発信する。
 中間地点の二の鳥居近くに、国鉄の鎌倉駅がある。
 秀夫を乗せた横須賀線は、鎌倉駅に停車する。
 6時半過ぎのホームには、上り電車を待つ通勤通学客が並んでいる。下り電車に乗っていた客の大半もここで降りた。ほとんどひとのいない車両に、秀夫は残った。それでも座らずに立ったままドアの近くで外を眺める。
 まず、出勤したら、着替えて、漢字テストを印刷しなきゃな。
 少しずつ気持ちを職業人モードに切り替えていく。
 鎌倉を出発した横須賀線は、大町の町並みを抜け、名越切通しのトンネルをくぐり、逗子の町に入る。トンネルを抜けて惰行運転をしていた横須賀線は、徐々にブレーキを利かせて、逗子駅のホームに入り、停止線ちょうどに止まった。
 おっ、きょうの運ちゃんはじょうずだな。
 秀夫は電車の運転士に敬意を払う。乗客にブレーキの衝撃を感じさせず、ホームでは停止位置ちょうどに車両を止める。運転士になるために何年も鉄道乗車勤務をしなければいけない国鉄のならわしで、職人としての技をつけたひとたちならではのドライビングテクニックだ。
 これも分割民営化によって、もしかしたら消えていく財産かもしれない。何年もかけて運転士を育成するのには金と手間がかかる。入社してわずかの者に、どんどん通勤通学の近距離電車を運転させる時代が来るかもしれない。経験も技術も未熟の者に、多くの技と勘、専門知識が必要な電車の運転を任せたら、一番大切にしなければいけない乗客の生命が二の次にされ、大事故を招く日が来てしまうのは明らかなことだ。ひとのいのちと引き換えの民営化に、どれだけのひとが気づいているだろう。
 そんなこと、だれもわかっちゃいないな。
 駅員に定期を見せて、改札をくぐりながら、秀夫は思った。みんな、自分が生きているいまに必死で、ひとのことやよのなかのことなんて、考える余裕はないのだろう。
 1985年の夏が近づいていた。

6222.7/16/2009
湘南に抱かれて
-1985年春-

1-8

 大船を出発した横須賀線は、すぐに東海道線と分かれ、三浦半島方面に向かう。
 富士見町、末広、台、小袋谷、山内と呼ばれる地区を抜けて、北鎌倉駅に到着する。円覚寺の境内を線路が横切っている。その敷地の中に、北鎌倉駅がある。もう桜の木に花はない。どの桜も青々とした葉で覆われている。
 アイボリーホワイトと紺の110系車両は、国鉄車両のなかで中距離輸送に適したシンボル的な存在だ。同じ型の車両がオレンジと緑に塗られて東海道線を走行している。同じ型の車両でも、北鎌倉の谷間と樹間を走る車両には、なぜか空と海をイメージした「スカ色」の110系が似合う。もしもここに東海道線を走行している110系車両が入線してきたら、環境と適合せず、歴史と自然と文化の町に、湘南のにぎわいが侵入してきたような感覚になるのではないだろうか。
 国鉄の車両には、100年金属と呼ばれるほど、不純物の少ない純粋な鉄(純鉄)が使われている。とくに錆びたり、破損したりしては困る床下の機器には多く使われている。それらは国鉄が所有している製鉄所で造られ、大井町や蒲田の職人のいる中小工場で製品に加工される。アルミ合金を使い、外国工場で安く仕上げた製品と違い、メンテナンスさえしっかりすれば100年は同じものが繰り返し使えるという。だから100年金属だ。
 もうすぐ国鉄は、分割民営化されるという。手間やお金がかかるこれまでの車両作りのコンセプトは、きっと根底から否定され、コスト優先の軽量車両が増産されるだろう。もしかしたら、車体前面にペンキは塗らずに、ステンレス合金車体にして最小限のライン程度しか塗らない銀色車体が登場するかもしれない。幾重にも重ねられた車体のペンキは、さびや腐食を防ぐことが目的だが、同時に景観とのマッチングや、路線を象徴するオリジナルカラーとして地域に溶け込んできた。それらが、経営の論理のもと破壊され否定されていく日が近いことを、こどものときから鉄道が好きだった秀夫は、閉まる扉の内側で寂しく思う。
 線路に平行して走る鎌倉街道。北鎌倉の駅を過ぎると、左右にいくつもの寺が並ぶ。
 縁切り寺として有名な東慶寺、あじさい寺として有名な明月院。そのなかでも、禅寺として有名な臨済宗の建長寺と円覚寺は多くの観光客と檀家をかかえる大きな寺だ。ともに数百年のときを越えて、同じ臨済宗でありながら、建長寺派と円覚寺派にわかれ交わろうとしていない。
 鎌倉街道は、旧鎌倉市内へ通じる坂道にさしかかる。巨福呂坂(こぶくろざか・小袋谷と書いてこぶくろやともいう)切通しだ。横須賀線の線路は切通しの下にトンネルを貫いて旧鎌倉市内へと入っていく。
 源頼朝が征夷大将軍として幕府を開いた鎌倉は、南に相模湾、西・東・北に山並みをかかえ、天然の要塞としての地形を備えている。厳しく山野を切り崩すことを制限する条例があり、いまも基本的には大きな重機で山野が壊されることなく、当時の地形を残している。巨福呂坂切通しは、鎌倉の北面の山並みを切り開いて作られた。鶴岡八幡宮を懐に抱く、いくつもある切通しのなかでもとても意味のある切通しだ。
 鶴岡八幡宮は、源氏を祭る神社で、大晦日に除夜の鐘をついたり、元旦に初詣に訪れたりする観光客で毎年にぎわう。本殿に向かう幅の広い石段を上がると、相模湾に向かって一直線の道が見える。源頼朝が作らせた若宮大路は、遠近法を駆使して、海岸の由比ヶ浜に向かって少しずつ道幅が広くなっている。そのため、八幡宮の本殿から由比ヶ浜方面を見ると、道路幅が同じ広さで海に続いて見える。本来ならば、同じ道幅の道路は、遠近法の関係で遠くなるほど幅が狭くなり、はるか彼方では道幅がなくなってしまうように見える。先細りは縁起が悪いと考えた頼朝の発案と伝えられている。

6221.7/14/2009
湘南に抱かれて
-1985年春-

1-7

 一人暮らしを始めて一ヶ月が過ぎた。だれかに連絡をとるのに、もしも自分の部屋に電話があったらきっと便利だろうなと思い始めていた。
 大家に取次ぎを頼もうかとも思ったが、電話のたびに頭を下げに行くのは、気が引ける。逆にかかってきたときに、自分が風呂にいても便所にいても行かなくてはならないのも面倒くさい。
 自室に電話があれば、自分の都合で電話を使うことができる。
 きょう、出勤したら、小出に電話の申し込み方法について聞いてみようと思った。
 それでも一人暮らしの身に電話の導入は、経済的に負担になるだろうと、心配がよぎる。
 モノレールは湘南町屋を出発し、下り勾配に入る。
 窓外には山崎の町並みが広がる。そして、秀夫の実家のある台の山並みがそれを囲む。モノレールは速度を緩めて、富士見町駅に到着した。
 富士見町では、かなりの乗客が待っていた。そのため、深沢ではまばらだった乗客が、富士見町を過ぎたら、ほぼ満員になった。それでも、立っている客と客のからだが触れ合うことはない。これが一時間後だと、乗車率200パーセント状態になる。駅には、乗客を車内に押し込むための駅員が待機するのだ。
 モノレールは富士見町を出発し、横須賀線の線路をまたいで、大船の町に入っていく。小高い丘に上半身を起こした大きな大船観音が近づいてくる。
 その観音様の下を、オレンジと緑の車体の東海道線が藤沢方面から入線してくる。これから東京へ向かうひとたちを乗せて、大船を出発していくのだろう。
 モノレールもゆっくりと終着駅の大船に入っていく。
 列車を降りて改札口で駅員に定期を見せる。足早に木造の大船駅に向かい、同じように改札口の駅員に定期を見せて、下り横須賀線ホームに降りた。
 6時20分の横須賀行きが戸塚方面から入線する。アイボリーホワイトと紺の横須賀線は、重量感のある鉄の車体をきしませて停止する。最近は車両のトイレがタンク式になって、かつてのように糞尿をそのまま線路に垂れ流すことはなくなった。以前は、停車中の排便・排尿は暗黙の了解でだれもがしないのがマナーだった。そうしないと、ホームから見下ろす先に、だれのものとも知らぬ糞尿がばらまかれてしまうからだ。しかし、電車を利用するひとが増加するのに伴って、暗黙の了解は簡単に崩れ、ホームから線路にこびりついた糞尿が見え、そこから発する臭いで気分が悪くなることも珍しくなくなっていた。
 だから、タンク式のトイレへの改良は画期的なことだった。
 秀夫は、横須賀線に乗り、ドア近くの席に座る。多くの乗客が東京方面の上り電車に乗る。秀夫のように、下り電車の乗るのは通学で使う学生が多かった。だから、6時20分の電車に乗る学生は、運動部の早朝練習をする者ぐらいでそんなに多くはなかった。
 座席に座り、秀夫はザックから手帳を出す。5月のページをめくり、7日(火曜日)の欄を見る。
 漢字テスト。校内研究。算数採点・集計。理科教材研究。5月の歌。
 秀夫は、ボールペンを出し、そこに「電話の申し込み方法・小出」と追加した。それから、ふと思い出し「帰りに、米5キロ。床屋の予約」と書き加えた。
 社会そのものは巨大な組織ではない。そのなかで、社会を構成する要素の一つ一つが組織として存在する。組織には、個人を尊重する考え方はない。個人は、組織のなかで個人の人格を切り売りする生き方をするしかない。それを後年、作家の村上春樹さんは「システム」と呼んだ。システムに毒された多くのひとびとが、新興宗教に魂のよりどころを求めて先鋭化した。秀夫は、学校というもっとも硬直化した組織に就職をした。しかし、就職するまでは、学校がまるで自由のきかないかちんこちんの組織だとは思ってもみなかった。

6220.7/13/2009
湘南に抱かれて
-1985年春-

1-6

 深沢駅に着き、秀夫はホームまでの階段を上る。道路の真上に線路があるので、駅も地上ではなく空中にある。
 6時過ぎのホームには通勤や通学のひとたちがまばらにいた。いつもはもう少し多いが、連休明けで出足が悪いらしい。
 鎌倉山のトンネルを抜けて、上り列車が深沢駅に到着した。モノレールは単線なので、いくつかの駅を複線化して、上り列車と下り列車が交差する仕組みになっていた。深沢駅もそんな拠点駅で、上り列車に続いて、大船方面から下り列車が到着した。
 上り列車に乗る。空席があるが、座らないでドア近くに立って窓外を眺める。
 高所を走るモノレールなので景色がいい。西側の風景を目で追う。深沢を出発したモノレールは、町屋の登り勾配にさしかかる。軌道にぶら下がって走行するので、どこかにつかまっていないと転んでしまうほど、湘南モノレールは揺れる。開通したばかりの頃は、モノレールを知らないで初乗りした客が、揺れの大きさに驚く光景が見られた。最近は、多くのひとたちの交通手段となり、揺れ方の大きさで驚く客はあまり見なくなった。
 町屋の坂道を登りきると、湘南町屋の駅に着く。深沢からわずかに1分ほどだ。モノレールの各駅は、どれも1分ほどで到着する距離だ。実際に線路下の道路をバスで走行すると、渋滞や信号があるので5分近くはかかってしまう。揺れがどんなに大きくても、時間がかからないというのは通勤や通学のひとたちには大きな支えになっている。大船と江ノ島を、わずか13分で結んでいるモノレールは、道路が空いていても車なら30分、混んでいたら1時間はかかるだろう道のりを、確実なときを刻んで走行している。
 町屋は高台にあり、背後に梶原の山並みを抱えている。三菱が大きな工場を構え、国鉄も深沢に大きな修理工場を展開していた。国鉄は2年後には完全民営化が計画されているが、労働組合の闘いで本当に民営化されるかどうかはわからない。
 しかし、先月の一日から、電信電話公社が完全民営化されNTTグループに生まれ変わったことを考えると、国の基幹事業が民営化されていくのは時代の流れなのかもしれない。
 秀夫は、三菱工場や国鉄深沢工場を眼下に眺めながら、その向こうに朝日を浴びる富士山を拝んだ。
 そういえば、事務の小出から「電話だけは入れてくれ」と頼まれていた。
 公社のときは、勝手な想像で電話料金が高いのではないかと考え、一人暮らしのアパートに電話を入れなかった。
 NTTになってから、大きくサービスが変わるかと思ったら、もう一ヶ月になるというのに、電話機や電話料金が大きく安くなるというニュースは聞かない。
「なぜ、電話が必要なんですか」
 これまでの生活で、電話が必要なときは公衆電話を使っていた秀夫は、自宅に電話を入れても、日常的に使わないので、毎月の基本料金の支払いが生活費を圧迫すると考えた。しかし、小出は秀夫が当然と考える内容に逆に驚いた。
「いまの時代、家に電話がないと不便でしょう。それに先生はこどもにいつ何時どんなことが起こるか分からないから、絶えず連絡が取れる状態にしておいてもらわないと。だいいち、電話連絡網を作ったときに困ったのではないですか」
「いえ、わたしの欄は、電話なしと明記しました。実家にも長い間、電話はなくて、必要なときはとなりの祖父母の家の電話を使っていました」
 秀夫がこどもの頃の電話連絡網には、電話のない家もあった。そういう家は、○○方という書き方をして、近所で電話のある家に取次ぎを頼んでいた。秀夫の家も、祖父母の家の電話番号を載せていた。
 用もないのに電話を使うことなど想像もできない秀夫は、当時の若者のなかで特別な存在ではなかった。