6219.7/10/2009
湘南に抱かれて
-1985年春-
1-5
日ごろから腕時計を持つ習慣がない秀夫は、時間を気にすることがない。
大学時代は、のんびりした日常だったから可能だったことだ。しかし、就職してみると、時間を気にしないというのはとても不合理なことがわかった。だから、一人暮らしをしてから目覚まし時計を見る習慣だけは身につけた。でも、まだ腕時計をする気持ちにはならない。その気になれば、駅にも店にも時計はある。ひとがしている腕時計を覗き見ることだってできるからだ。
アパートを出ると、隣りの大家が花に水をやっていた。
「おはようございます。連休が終わりましたね。張り切って行ってらっしゃい」
50歳ぐらいの婦人は、いつもこの時間に庭の花に水をやっている。連休中はしばらく会わなかったが、また出勤と同時に挨拶をする生活が始まる。
「行ってきます」
婦人に顔を向けずに、秀夫は歩道に出た。
アパートには8つの部屋があり、どの部屋にも住人がいた。一ヶ月の家賃が5万円だから、大家は黙っていても一ヶ月で40万円もの家賃を得ることができる。
鎌倉は昔から借地の人が多い。借地に持ち家を建てているひともいたが、借地借家というひとが圧倒的に多い。それだけ古くからの地主が土地を手放さないのだ。土地を持って家を貸すことが、十分に機能するほど、鎌倉の土地には価値がある。
大学卒業のひとたちの初任給の平均が14万円だったので、その三分の一以上を家賃に持っていかれるのは、秀夫にはきつかったが、住み慣れた鎌倉を離れる気持ちはなかった。
花に水をやる婦人の姿を思い浮かべる。
その水道料金や花の苗を買うお金の一部を負担しているのは、俺なんだぜ。連休が終わりましたねなんて、生きる意欲を減退させることを言う前に、いつも家賃をありがとうと感謝してくれよと、言いたくなった。
歩道から幹線道路を経て、5分ぐらい歩くと、湘南モノレールの深沢駅がある。
湘南モノレールは、かつて日本で初めての自動車専用有料道路として開通した京浜急行の道路の上に線路を作っていた。このモノレールは、懸垂式といって、車両が線路の上を走るのではなく、軌道にぶら下がって走った。軌道の中は空洞になっていて、そこに線路が敷かれている。車両の天井から伸びたアームの先に車輪がついていて、軌道のなかに伸び、その中の線路を車輪が走る。懸垂式モノレールは日本で初めて、この湘南の地で開業した。その後、千葉モノレールが開通するが、湘南モノレールは千葉モノレールの実験線として開業したと言われている。
大船から江ノ島に向かう京急(京浜急行)道路沿いには、高度経済成長期に次々と住宅地ができた。そこに住む人たちの交通手段は、公共バスか自家用車しかなかった。そこに登場したモノレールは夢の乗り物だった。渋滞や信号がないので、なにしろ早い。京急道路沿いのひとたちは、東京方面で働く場合、藤沢には出ないで大船に向かう。その足として、モノレールは活用された。
6218.7/9/2009
湘南に抱かれて
-1985年春-
1-4
時計は5時半を指している。
あと30分ですべてを終えなきゃ。
冷蔵庫から、昨夜の残りの味噌汁を鍋ごと取り出しレンジで温める。電子レンジは買っていない。初任給は家賃と親への仕送りで消えた。生活に必要なものは少しずつそろえればいいと思っている。
ジャガイモとキャベツが味噌汁のなかで踊り始めたのを確認して、同じように昨夜の残りのご飯を入れる。鍋ごとの猫飯だ。
ぐつぐつしてきてから、卵を割って入れた。
それを丼にうつして、大きなスプーンをそえた。
新聞受けから毎日新聞を取り出す。こどものときから実家では毎日新聞を読んでいたので、一人暮らしを始めてからも同じように毎日新聞にした。見慣れた紙面のほうがいいと思った。
朝刊を座卓に置く。
戸崎の借りていた部屋は、玄関を開けるとすぐに台所だった。そこにはトイレと洗面所、風呂場がセットになっている。台所に小さなテーブルを置くこともできたが、戸崎は隣りの和室を寝室にして、さらに玄関からもっとも遠い奥の和室に座卓を置いていた。そこまで、新聞と丼を運ぶ。
まだ湯気の出ている卵かけ猫飯をスプーンですくって口に運びながら、朝刊を開く。
こどものときから、テレビはほとんど見ない生活をしてきたので、テレビ欄には興味がない。一面に目を通し、テレビ欄の裏の社会面を開く。冷蔵庫に麦茶が作ってあったことを思い出し、戸棚からコップを出して、そこに注いで、ふたたび朝食を続ける。
社会面の事件や事故の報道を斜め読みして、荷物を入れる小さなザックに座卓の周辺に散らかっている仕事道具を詰め込んでいく。飲みながら、食べながら、詰め込んでいく。筆記用具、ノート、こどもたちの成績管理ノート、印刷物の原稿、タオル、そしてポケットティッシュ。
荷物を詰め込み終わるのと、朝食を食べ終わるのは同時だった。
丼とコップを流しに運び、水を浸す。洗うのは帰ってきてからだ。それまでに水の中の水素が適当に消毒殺菌してくれるだろう。洗面所に行って、歯を磨き、ひげをそり、顔を洗う。タオルで顔を拭きながら、洗面台の鏡で髪の毛をチェックする。山登りに明け暮れていた大学時代は短髪にしていたが、就職してからは、そのまま床屋には行っていない。もともと天然のウェーブがかかっている秀夫の髪は、ある程度伸びると先端が跳ね始めてしまう。あちこちで数箇所跳ねていたが、軽く水をつけてくしを通した。
貴重品を入れている棚から、定期入れと財布を取り出し、ズボンのポケットに入れた。
部屋の電灯を消し、下駄箱のなかに隠してある部屋の鍵を取り出し、ザックを背負って部屋を出た。
出掛けに目覚まし時計を見たときには、6時ちょうどになっていた。
6217.7/8/2009
湘南に抱かれて
-1985年春-
1-3
敷布団の上にあぐらをかき、枕元に置いてある着替えのなかから靴下を取る。
アパートの部屋は一階の東端だったので、雨戸を閉めていても虫食いだらけの雨戸から日差しが部屋のなかに注ぎ込んだ。その光でじゅうぶんに着替えの位置を確認することができた。
パジャマを脱いで、下着を交換する。
目覚めてすぐに靴下を履く。これは、大学で山登りのクラブに入ってからついた習慣だ。
山登りでは三種類の靴下を履く。一番肌に近いところがくるぶしまでの木綿の靴下。その上に毛糸の長靴下。さいごに毛糸のくるぶしまでの靴下。たくさん履いて、かかとや指先を寒さやけがから守る。しかし、寝るときにこんなにたくさんの靴下を履いている必要はない。シュラフ(寝袋)のなかは、体温に近い温度を保つことができるからだ。
脱ぐのを忘れて寝ると、蒸れてしまい、間違いなく水虫になる。だから、寝る前に全部脱ぐか、木綿以外は脱ぐ。脱いだ靴下はそのままシュラフのなかに入れておき、目覚めたときにがさごそとシュラフのなかで木綿の靴下を履くのだ。
年間に100日ぐらい旅をしていた秀夫は、起床と同時に靴下を履く生活を4年間も続けた。最後にはそれは意識の世界のことではなく、からだがひとりでに勝手に動いてやれるまでになっていた。
この習慣は、山登りに行かないときも続けた。大学を卒業しても、この習慣は抜けなかった。寝るときに、枕元に新しい靴下を置いておき、起床と同時にそれを履く。足元から気持ちがしゃきっとして、体内にエネルギーが充填されていく。
秀夫はジーンズを履いて、Tシャツを着る。
出勤するときは、それに薄いジャンパーを羽織る。
スーツやネクタイは、学校のロッカーに入れてある。授業参観や研究授業のときに、いつでも着られるようにしている。運動用ウエアーもロッカーに入れてある。こどもと過ごす時間の多くは、この運動用ウエアーが作業着になる。
新採用者は、通勤時にネクタイをスーツを着用するようにと採用の面接のとき教育委員会のひとに言われた。赴任先の学校に、顔を出した4月1日に、校長から
「そんな格好じゃ、仕事にならない。スーツとネクタイは学校に置いておきなさい。学校を出たら、自分が教員であることを忘れて、気持ちを楽に切り替えるためにも、なるべくカジュアルな格好を心がけなさい」とまるっきり反対のことを言われた。
ほかの職員たちを見ると、なるほど入学式や始業式のときはフォーマルな格好をしていたが、儀式が終わり、各自の仕事に戻る頃には、みんなロッカーで運動着やジーンズに着替えていた。ワイシャツにネクタイでは力仕事はやりにくい。
起き上がり、雨戸を開ける。
近くの中学校に通う中学生が、制服に肩から提げる白い丈夫な生地のバッグをかけて登校している。丸刈りの頭、バットケース、自分も数年前は同じ野球少年だったと思い出す。きっと朝練があるのだろう。連休明けの登校に、中学生の足取りは重い。
そりゃ、そうだよね。教員だって、元気ないんだから。
秀夫はサッシ戸を閉めて、布団をたたみ、台所で湯を沸かす。
6216.7/7/2009
湘南に抱かれて
-1985年春-
1-2
秀夫は木綿の重い布団を捲り上げる。
大学卒業と同時に一人暮らしの準備をした。
そのとき、祖父母が「これ、いらないから」とくれた布団だ。
ふつうは孫の一人暮らしに、新しい寝具でも贈ってくれるのかと思っていた。しかし、明治生まれの祖父と、大正生まれの祖母は、古いものを使えるのに捨てるという発想はもっていなかった。使えるうちは、何度でも、だれでも使うのが当然と思っていたのだ。
秀夫は、中学のときから大学を卒業するまで、実家と同じ敷地内に住んでいた祖父母の家に預けられて育った。
預けられてといっても、寝るだけで、食事は実家で食べていた。入浴も多くの場合は実家で済ませた。実家が、秀夫と両親、妹の4人で暮らすには手狭な平屋だったという理由からだろうと思ったが、父と祖父との間でどんな話があったのかは秀夫にはわからない。
小学校6年生のある日、
「中学に行ったら、向こうで寝起きをするんだぞ」
と父から言われて、何も考えずに
「うん」
と答えた。そんなもんかと思っただけだ。
祖父母の家は二階家で、二階を荷物置きにしていた。荷物置きといっても、かつては父の弟、秀夫にとっては叔父が住んでいたので、六畳の広さがあった。押入れも床の間もある立派な和室だった。秀夫は、その部屋で中学から大学までの10年間を過ごした。
窓を開けると、遠く金沢八景の山並み、手前には北鎌倉の六国剣山が茂る。視線をずらしていくと、大船の町並み、それを見下ろすように大船観音の上半身が大きくそびえていた。西側は通称「水道山」の崖にさえぎられていた。だから、午前中は日射病を起こしそうなほど日当たりはいいが、午後はどんなに晴れた日でも部屋の明かりが必要なほど暗くなった。
実家と秀夫の部屋には、当時としては珍しく内線の通話機械がついていた。ボタンを押すと通話が可能になり、ボタンを放すと通話は終わる。大きなスピーカーから相手の声が聞こえてくる。もっぱら、その機械は母が「朝食よ、遅れるわよ」「夕食よ、冷めちゃうわよ」と言うのに使われた。
「はーい」と応じるが、秀夫は、机で本を読みながら、あるいはこたつで寝転びながら、言っていた。機械のある部屋の隅まで行って、通話ボタンを押すことはなかったから、相手には返事は聞こえていなかった。いくら呼んでも応答がないと、そのうちに母の声のトーンや言葉遣いが荒くなった。
「いつまで待たせるの」「片づけるわよ」「今夜は食事がないからね」。
その部屋では、秀夫はベットを使っていた。しかし、自立を前にベットは解体し、布団は捨ててしまった。新しい生活では、新しい寝具にしようと思っていたのだ。
給料が入るのだから、布団ぐらい自分で買おうと考えた。
なのに、祖父母が押入れの奥から、自分たちでさえ使っていない古い布団を出してきたのだ。秀夫の家には車がなかったから、引越しの荷物を運ぶのは、一苦労だった。基本的には背中に背負える荷物だけをもって、何度も実家とアパートを往復した。片道30分ぐらいの距離にあったからできたことかもしれない。その荷物のなかで、木綿の布団はひときわ大きく重かった。長い時間、押入れの奥で湿気を吸いまくった布団は水につけた大きな座布団みたいな感じだった。
それに祖母は押入れに何を入れていたのか、やたら布団が薬臭かった。使い始めた4月は、寝ようとすると、布団のなかからむっと湧いてくる防虫関係の薬の臭いと戦う必要があった。
6215.7/4/2009
湘南に抱かれて
-1985年春-
1-1
4月23日にまとまった雨が降ったきり、ことしの春は好天が続く。
5月に入ってからも平均気温が15度から20度の間を往復する好天続きだ。
鎌倉の由比ヶ浜から七里ガ浜を経て、江ノ島の片瀬海岸に続く湘南の砂浜には、南からの風と波を求めて、流行り始めたサーフボードを車の屋根に取り付け、ウエットスーツに身を固めた若者が集まっているかもしれない。しかし、風も波も穏やか過ぎるので、ビッグウエーブを期待することは難しいだろう。
ことしの大型連休は、4月28日が日曜日、29日の天皇誕生日が月曜日、火曜日と水曜日が平日で3日の木曜日が憲法記念日だが、4日の土曜は平日だった。5日のこどもの日は日曜日なので6日の月曜日が代休になる。大企業は平日もまとめて連休にしているだろう。しかし、公立学校はカレンダーどおりなので、とても虫食いだらけの中途半端な大型連休だった。
戸崎秀夫は寝床のなかで目覚まし時計を眺める。
2ヶ月前まで、大学4年生の生活を送っていたとは思えないほど、4月は規則正しい生活だった。
大学時代に、ワンダーフォーゲル部に所属して全国各地を年間100日の割合で旅していたので、早起きには慣れていたが、教員として学校に勤務する精神的な重圧は、肉体の疲れをはるかに上回っていた。
だから、連休はどこにも行かないで、古いアパートの一室で睡眠をむさぼる毎日だった。
それが昨日までで終わり、きょうからふたたび教員としての慣れない日々に戻っていく。五月病とはよく言ったもので、就職したひとたちが辞めていく気分になるのがわからないでもなかった。まだまだ寝ていたい気持ちで、時計の針を恨めしく見つめてしまう。カチカチと確実に一秒一秒を刻む秒針に、思わず「止まれ」と叫んでしまいたい。
時計は午前5時を指していた。
そろそろ起きなければならない。
1985年5月7日の朝が始まろうとしている。
実家にいたときは、母のうるさい声でしぶしぶ起きていた。大学4年の講義は、ほとんど昼からにしていたので、午前中は寝るための時間だった。よのなかに午前9時前はないのではないかと思うほど、太陽が高くなってから朝食をとる生活が身についていた。山歩きには終わりがある。午後6時に寝て午前3時に起きる生活をしていても、やがて山の旅が終われば、深夜まで起きていて昼近くまで寝ている生活に戻ることができた。
しかし就職してからの毎日は、果てしなく続く早起きの連続で、日曜日しかのんびりできるときがなかった。とっくに地方公務員は週休二日制に移行していたのに、教員はまだ土曜日も学校が開校していたので、週に6日間の連続勤務が続いていたのだ。
6214.7/3/2009
湘南に抱かれて
二〇〇九年六月、販売と同時にミリオンセラーになった怪物的な小説がある。
1Q84と書いて「いちきゅうはちよん」と読ませる。意味は、西暦の一九八四年のことだ。作者は、村上春樹さん。近いうちにノーベル賞をとるのではないかと、気の早い雑誌では紹介している。
わたしは当時、大学四年生だった。就職氷河期。もっともわたしが志望したジャンルが氷河期だっただけだ。よのなかは、IT革命で、各大学の工学部出身者が次々とコンピュータ関係の企業に高所得で就職した時代だ。わたしが志望していたのは、小学校の教員だった。景気がいい時代にはだれも見向きもしない公務員の王道だ。こどもの数が激減したために、教育委員会は全国的に教員の採用を控えた。そんなことが四年前にわかっていれば、だれも教職課程など受講しなかったと、当時は何度も後悔したものだ。
一九八四年の神奈川県教育委員会主催の教員採用試験では、募集人員が若干名と要項に書かれていた。
「ふざけるな」
要項をゴミ箱に捨てた記憶がある。四年間も教職課程を受講してきて、いざ採用試験を受ける段階になったら、確定した数字さえ示せない状況になっていたのだ。四年間の学費を返せと抗議のハンストでもすればよかった。
当時は、やがて崩壊するバブル経済の真っ只中で、地価が全国的に異常なほどに上がっていた。利用する目的がないのに、土地を買い、値上がりを待って転売する「転がし」が全国で横行した。
わたしは、翌年の一九八五年に幸運にも志望した職業に就くことができた。
若かった。三浦半島の付け根。三浦郡葉山町の公立小学校に新採用で赴任した。
それから二〇年以上経過してから、ウエイで当時の様子を小説風にして書き残した。初出が、二〇〇七年一一月八日。タイトルは「湘南に抱かれて 一九八五 春」全部で五八話の長編だ。
いま、ここに、村上春樹さんのミリオンセラーを意識しつつ、リバイバルさせよう。
6213.7/2/2009
ドクター・ケイ・スカーペッター
もうすぐ検屍官シリーズを全部読み終えてしまう。正確に言うと全部ではない。
わたしがいつも仕事帰りにお世話になっているお店で本を借りた。パトリシア・コーンウェルさんの検屍官シリーズだ。ドクター・スカーペッタを主人公にした物語。
その店の女将が、かつて愛読した本なのだ。
わたしが興味を示したら、五冊ぐらいずつ貸してくれた。しかし、残念ながら、すべての作品が現存されていなかった。だれかに貸したきり、返ってこないものがあるらしい。
これは、わたしもよくある。読みきった本なので、戻ってこなくても気にしない。そのうちに貸したことを忘れてしまう。何年か経って必要になったときに、あわてて探す。どうしないんだろう。疑問のまま、問題は解決されない。
わたしは有難かったのは、検屍官シリーズを次から次へと読めたことだ。最初は次の作品まで一年かかっていた。次第に作者がほかのシリーズものも手がけるようになり、二年後とか三年後とかに出版される。それをまとめて借りているので、立て続けに読むことができたのだ。スターウォーズの全六作を一気に見ているようなものだ。
検屍官シリーズのタイトルを紹介しよう。
検屍官※・証拠死体・遺留品※・真犯人※・死体農場・私刑・死因・接触・業火・警告・審問(上下)・黒蠅(上下)・痕跡(上下)・神の手(上下)・異邦人(上下)。
よくもこんなにたくさん書けたものだ。このなかで※印のつけたものは、読んでいない。借りた本の中にはなかったからだ。そこで、異邦人まで読み終えたら、※印の本を買って読もうと思う。ひとりの小説家の作品群を全部読みきるのは、とてもぜいたくなことだ。
まだ検屍官シリーズを読んでいないひと。もしも興味をお持ちなら、時間はかかるが順番に最初から読むことをお奨めする。検屍官シリーズは、ミステリーとしての楽しみ方だけではない要素がある。それは、登場人物たちの人間関係や個人的な成長を見事に描いていることだ。
ちょうどハリー・ポッターシリーズで、作者のローリングさんが、ハリーやハーマイオニーたちの関係や成長を、物語のなかにていねいに書き込んだのと同じ手法だ。
おもしろい本は、どんなに分厚くても、あっという間に読み終えてしまうことを実感できる。
6212.6/30/2009
説明責任を果たすために
先日、救急法講習会があった。
毎年、水泳学習が始まる時期に職場では日本赤十字から講師を招いて2時間程度の講習会を行う。水泳学習をしていて、こどもたちが心肺停止、意識不明の状態になったとき、即座の対応がわたしたちには求められているのだ。
しかし、救命救急は、まったくの素人にとっては現場で冷静な行動ができるのかどうか疑問が多い。
わたしは、大学時代にワンダーフォーゲル部に所属し、1週間泊り込んで山岳救助の講習を受けた。主催したのは日本赤十字だ。それぐらいしないと、身につかないほど、救命救急のなかみは多いし、技術も深い。それをわずか2時間程度で習得するとは思えないのだ。よく、公的機関がやるパターン。
事故が発生したときに
「職員には救命救急の講習を受けさせていました。万全の態勢でのぞんでいましたが、このようなことになり遺憾です」
と、校長が頭を下げるための言い訳なのではないかと思う。
また、救急法は山岳救助や水難救助など、内容が特化しているケースが多い。にもかかわらず、一般的な救急法の講習で、水泳学習への備えと言えるのかどうかも疑問なのだ。
明らかに対象はこどもを想定しているのに、いつも講習会で使われる人形はおとなの体型だ。おとなとこどもでは、人工呼吸のときに吹き入れる息の量が異なるのに、講習ではおとなの肺に息を吹き入れる想定で行う。小さな肺のこどもだったら、それだけで肺がパンクしてしまうのではないかと心配になる。
それでも、何もやらないよりかはましだ。担任しているこどもが、目前で意識不明、呼吸も停止している。担任が、その場に立ち尽くし、わなわなしたり、動揺したり、ショック状態に陥ったりしていては、話にならない。頭の片隅に、安静の体位や気道確保などが残っていれば、とりあえずやるべきことが見えてくる。
今回の講習会。出張で参加できなかった教員がいる。調べたら、年次研修があり、そちらを優先していた。年次研修とは初任者とか二年目とか三年目など、採用年数ごとに行われる研修会だ。最近は、年次研修が一年間の学校の出張の半数近くを占めているのではないかと思うほど、多すぎる。それだけ若いひとたちの採用が続いているということだ。クラスのこどもの人命を救うことよりも、教員としての資質の向上が優先されるよのなかになってしまった。
管理型学校教育は完成に近い。
ちなみに今回の講習会で、わたしはとても体重が重い患者にさせられた。そして、とても体重が軽いひとたちが毛布だけでわたしを搬送する練習をした。わたしよりも、もっと体重が重たいひとはいたかもしれないが、参加者のなかで指名されれば、強い印象を与えてしまうだろう。こういうハラスメントがまかりとおる講習会が、こどもが帰った後の学校では行われているのだ。
6211.6/29/2009
ミュンヒ・ハウゼン症候群
中世の昔。ヨーロッパのドイツにいつも嘘ばっかりついている男爵がいた。
その名をミュンヒハウゼンという。
現代に、その名がよみがえり、当時「ほら吹き男爵ミュンヒハウゼン」として有名だった彼は、精神病のひとつに数えられる病名になった。
インターネットで調べたら次のような説明が載っていた。
…………………………
患者は病気を創作もしくは既に罹患している病気を殊更に重症であるように誇張し、病院に通院・入院する。
一つの病気の問題が解決、虚偽が見破られたり、小康状態に陥ると更に新たな病気を作り出す。
重篤な患者と見せかける為に自傷行為や検査検体のすり替え、偽造工作と言ったものを繰り返し行うことがある。
患者はケガや病気という口実を利用して周囲の人間関係を操作することを目的にして、同情をかったり、懸命に病気と闘っている姿を誇示する。
また、病気に関わる事、関わらない事に関係なく独特の世界を作り上げるエピソードを創作する空想虚言癖を伴う事が多い。
患者のエピソードによる病歴は多彩であり、多種多様な既往歴を話す事が多い。
ただしそのエピソードや時期に関しては曖昧な事が多く、時期や内容も話す相手によって異なる事が多い。
…………………………
つまり嘘つきなのだが、そのつき方が迫真の演技なのだ。あるいは、本人的には本当に病気や怪我のつもりになっているのかもしれない。
たとえば、だれも見ていないところで故意に転ぶ。
その結果、膝をすりむいたり、肘を打ったりする。
「後ろから急に人が来て、押し倒された」
涙をこらえて、助けてくれたひとに訴える。
「ひどいことをするやつがいるな。待ってろ、いま助けてあげるから。大丈夫か。偉いなぁ、痛みをこらえて」
だれも患者のオリジナルストーリーだとは思わない。
日本国内では数年前に、関西地方で母親が娘の点滴に水道水を混入して逮捕された。精神鑑定の結果、代理ミュンヒハウゼンと診断された。この嘘つきは、自分を苦しめるのではなく、苦しむひとを助ける自分への同情や哀れみを求めようとする。児童虐待の一例である。
6210.6/28/2009
坂の下の関所 七章
96
そこも知りたいのか。
「しばらく待つと、ギーッと音がして、どっかから、写真が出て来るのか」
携帯はポラロイドカメラではない。
「永田さん、そりゃ無理。第一、どこに印画紙がセットされているのよ」
「じゃ、どうすりゃいい」
「家にパソコンがあるかな」一応聞いてみる。
「そんなもん、触ったことない」聞いてみただけだよ。
「じゃぁ、もしかすると、このまま携帯を写真屋に持っていけば、現像してくれるかもしれない。でも、確かなことはいえない。そういう使い方をしたことがないんだ」
永田さんにとって携帯で写真を撮影する意味とは何だろう。
「めんどくせぇな」
「そうしたら、この携帯自体をアルバムにすることもできるよ。撮影して、ときどき撮影したものを携帯の画面で確認するわけ」
「そりゃいい。じゃ、いま写したものもこんなかにあるわけ」
きっと、永田さんにとっては不思議なことなのだろう。フィルムなしで写真が保存されているはずがないのだ。印画紙に現像しない写真なんかありえないのだ。
「そうだよ」
「見てぇなぁ」
わたしは、データの機能ボタンを教える。かんたんにカメラのフォルダがわかった。そこを開くと、撮影した日付のついたフォルダが二つあった。
「あれ、永田さん、さっき写したばっかだよね。でも、二ヶ月ぐらい前にも写した写真が保存されているよ」
永田さんの顔がうつむき加減になる。
「どうしてそんなこと、わかるんだ」
「だって、ここに写真が保存されているもん」
「ばれたか」
容疑者を追い詰める刑事ではないので、そんなことを白状させても、わたしは嬉しくない。
「この以前の写真も見てみますか」
「おぅ」
その写真を画面に呼び出した。
わたしは、飲もうとした山猿をこぼしそうになった。
そこには、永田さんのおそらく人差し指がでかでかと写っていたのだ。
「永田さん、これ、指だよ」
「そうみてぇだな」
ばつが悪そうに、永田さんは携帯をポケットにしまった。
「初めてのときって、ついついやっちまうもんですよ」
気にしないでください。
「センセー、これ内緒な」
七章・完