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過去のウエイ

6139.3/26/2009
坂の下の関所 四章

41
 きのうは日曜だというのに、わたしは関所で飲みすぎた。
 その翌日の月曜日。きょうは軽くコップ酒2杯で切り上げると、自分に宣言して、関所の門をくぐる。
「ただいまぁ」
だんだん我が家のようになってきた。
「お疲れ様」
首都リーブスの赤坂さんが、店内中央でこちらにお辞儀をする。
 すぐ隣りで、難儀だなぁの烏丸さんが、ニタッと笑う。
 奥の商品ケース沿いでは、永田さんが焦点のあわない目で、お湯割を飲む。
 ウイスキーコーナーの近くでは、シンロートの相田さんと山ちゃんが、仕事の愚痴をこぼしあう。きのうの競馬は、あまりいい結果ではなかったらしい。
 わたしは、レジ横の定位置に行き、荷物を下ろし、ジャンバーを脱ぐ。
「センセー、難儀だなぁ」
きたぁ、一発。烏丸さんが話したそうだ。
「いや、まだ月曜ですよ」
「俺、あした、これ」
そういって、烏丸さんは右手に刃物を逆手で握るポーズをし、自分の腹を横一文字に腕を動かす。それじゃ、切腹だ。
「どうしたんですか」
「健康診断の結果よ。病院に行けってさ」
健康診断では、あまり悪くはなくても再検査になることがある。そして、再検査をすると何でもない。ひとをびびらせておいてと怒りたくなる。
「精密検査をするんでしょ。いきなり、手術ってことじゃないと思いますよ」
わたしは、山猿をコップに注ぐ。
「いや、俺にはわかるんだ。なんてったって、てめぇの身体だから」
それだけよくわかっているなら、もっと早く手が打てただろうに。
「カラス、そろそろ、帰るぞ」
赤坂さんが、帰り支度を始めた。
「もう少し待てよ。今夜は名残の酒かもしんないんだから」
どうやら、本気で精密検査の結果が悪いと感じているようだ。
「大丈夫だって」
赤坂さんが、気を配る。
「さすけねぇんだな。もうちっと飲む」
「しょうがねぇなぁ。じゃぁ俺のをやるよ」
赤坂さんは、いつものように紙パックの酒を、烏丸さんの空のコップに注ぐ。これが始まると2人の帰りは遅くなる。

6138.3/24/2009
坂の下の関所 四章

40
「佐藤さんがそこの寿司屋にいて、いまから来るって」
わたしは、話の展開を別方向へ持っていく。
 自動ドアが開き、大将が大きなため息とともに配達から戻る。
「また、昼間っから飲んでんのか」
「いいじゃんよ。悪いか」
大将の矛先はわたしではなく、カンちゃんだ。カンちゃんも負けていはいない。
「ねぇねぇ、佐藤さん、そこの寿司屋にいるんだって」
若女将の言葉に大将がうなずく。
「いま、酒の配達に行ったら、宴会やってたよ。まだ料理が出てないのに、みんなかなり真っ赤だった」
 わたしは、かなり嫌な予感がした。疲れて酒を入れた佐藤さんが来る。カンちゃんもいる。また深酒になるのではないか。
 幸い、外はまだ明るい。でも、あしたは月曜日。お仕事です。
「わたし、何がいいかな。アンキモ、そうだ、アンキモがいい。あそこのアンキモ、おいしいんだよ」
>若女将よりアンキモの注文が出ています
わたしは老眼鏡をかけ、すかさずメールを送信した。
 大将は自動販売機のタバコの在庫を確認している。残りが少ない商品を若女将に伝える。若女将は壁の棚から、カートンを出す。それを受け取り、大将は商品を自動販売機に詰める。
 一仕事を終えて店内に戻る大将に、若女将は電話で注文のあった品物を伝える。灯油、ビール、焼酎。大将はそれらを届ける道順を考えながら、レジに放り投げた車のキーをふたたび握る。
 ふわぁー。さっきよりも大きなため息をこぼし、配達に。自動ドアを出る。振り向きざまに言う。
「佐藤さんに、オオトロの握りでいいって、よろしく」
いやぁ、それはできないでしょ。
 大将と入れ替わりに、佐藤さんがレジ袋に入ったアンキモを持参して登場した。確かにおでこも頬も真っ赤だ。
「佐藤さん、やだ、かなり足元ふらふらだよ」
カンちゃんが、二歩退く。
「いやぁ、みんなで注文したから、料理が出てくるのに時間がかかっちゃって。はい、これ」
レジ袋に入ったアンキモを若女将に渡す。佐藤さんは、本当にアンキモを買ってきたのだ。だったら、わたしもウニを頼んでおけばよかったか。
「そんで待っている間に、けっこう飲んだ」
何も食わなくても、飲めるひとだということは、よく存じ上げております。

6137.3/23/2009
坂の下の関所 四章

39
「そうでしょ、そうでしょ。わたしは、この7番目の歌が好き」
そう言いながら、若女将はCDデッキのスイッチを入れた。
 一曲目の前奏。バイオリンとギターの静かな音が始まる。
「ちょうど、カンちゃんも来たことだし、いっしょに歌いましょう」
関所はいつから歌声喫茶になったのだ。
「いいよ、そんな恥ずかしい」
わたしは、隅で小さくなる。
「わたしも、目覚めのCDはずっとセンセーのだよ。ただ、最後までは聞いたことがないけど」
「どうして」
「だって、朝は忙しいから、全部を聞いているひまがないじゃん」
そりゃそうだけど、CDデッキは昔のカセットテープデッキと違い、聞きたい曲の頭出しが簡単にできるはずだ。
「聞いていないところから、スタートすればいいじゃん」
「そんなの面倒だし」
すごい無精者だ。そもそもレコードがCDに駆逐されたのは、その利便性が最大の理由だった。その利便性を無視し、面倒だと看破し、レコードと同じ聞き方をしているひとがいた。
「なかなか7番目にならないのよね」
若女将は、歌詞カードの7番目を開いて、曲がかかるのを待っている。
「あの、もしかして、いつも最初から聞いて、7番目が来るのを待っているの」
「そうよ。そして7番目が終わったら、また最初から聞きなおすの」
CDには12曲収録した。好みの曲が12曲目だったら、若女将はいつも全曲を聞いてくれていたかもしれない。
 ここにもCDのレコード的使用をしているひとがいた。3人しかいない店内で、2人が同じ使い方をしている事実を向き合うと、わたしの知識は少数否決。多くのひとが、この2人のような使い方をしているかもしれないという気持ちになってきた。
「この三角のボタンを押すと、どんどん曲が飛ぶんだよ。ほら、一気に7番目になったでしょ」
「だめよ、そんなことしたら、CDが傷ついてしまうじゃない」
若女将は本気で怒る。
 もしかして、CDもレコードと同じように針で再生されていると思っているのかもしれない。わたしは、それ以上、このことに関与するのをやめた。
>いま、寿司屋です。
>すぐに行きます。
佐藤さんから返信が届いた。

6136.3/22/2009
坂の下の関所 四章

38
「あー、びっくりした」
「そろそろ佐藤さん、来る頃かな?センセー、メールしてみてよ」
わたしの驚きなど、どうでもいいらしい。
「佐藤さんは、きょうもあそこなの」
 あそことは、市立の自然公園のことだ。関所から近いところにある。もともとは、田畑の広がる鎌倉にいくつもある谷戸の一つだった。乱開発を防ぐために、鎌倉市が買い取り、自然公園として整備したところだ。
 その管理と運営は、地元のひとたち有志が行っている。
 佐藤さんは、その有志のボスなのだ。ボスといっても、実際には事務的な仕事が多いらしく、毎週、休日になると忙しく動き回っている。平日はひとの命にかかわる仕事をこなし、休日はひとの生活にかかわる奉仕活動をこなす。佐藤さんにとっての休養とは何だろうと考えてしまう。こういうひとこそ、メディアは取り上げるべきだ。
 この時期は、公園内外の古い木を間伐し、炭を作っている。昨今では、炭焼きの煙と臭いに対して、批判的な住民が登場し、昔ながらの炭焼きは難しくなったとぼやいていた。
「さっき、きょうの仕事が終わったからって、ビールを買っていったところ」
「じゃぁ、ここには来ないで盛り上がっているんじゃないかな」
「それがね」
若女将の声が小さくなる。
「最近では、ひと目につくところでお酒を飲んでいると何かとうるさいんだって」
いやな時代になったものだ。
 自然公園の管理と運営という奉仕活動に携わるひとたちが、一日の仕事を終えて乾杯している姿を、同じ地域に住むひとは、ありがたいと思いこそすれ、どうして批判的な思いで見てしまうのだろうか。
「そういうことに、文句をいうひとって、本当は自分もやりたいけど、その一歩が踏み出せないだけじゃないのかな」
「難しいことは、わかんない」
 わたしは、携帯を取り出し、老眼鏡をかける。
>地域貢献活動。ご苦労様です。
>仲間と乾杯して盛り上がっているところでしょうか。
>いま関所にいます。
>よろしかったらお立ち寄りください。
 送信ボタンを押した。
「こんにちは」
さわやかな顔をして、カンちゃんこと、神崎さんが登場した。
「海のほうまでサイクリングしてきた。あれ、センセーいたの。あのCDいいねぇ」
ぎょ、カンちゃんもCDを持っているのか。

6135.3/20/2009
坂の下の関所 四章

37
 わたしは、頭のなかを整理する。
 昼間にあのCDを聞いていた。それって、奥の居間でくつろぎながらではなく、店内で仕事中に聞いていたってことなの。
 お客さんのなかにほしいってひとがいた。だれもいないときに、こっそり聞き、お客さんが来たらボリュームを絞ったのではなく、お客さんがいても、ずっとそのまま聞いていたってことなの。
 しかも、どこのだれだかわからん素人の歌声を聞いて、CDがほしいって思ったひとがいたっていうわけ。
 そんなこと、あるわけないじゃん。
 わたしの脳は、否定の結論をはじき出した。ちょっと早いエイプリルフールだなぁ、こりゃ。
「うそばっかり」
「本当よ。しかもその方は、CDを買いたいっておっしゃったの」
今度は、口に含んだ山猿が小さじいっぱいぐらい鼻に逆流した。どうやら、事実らしい。
「だからね、ちゃんと説明したのよ。こういうひとがいて、よくここに来て、料理が好きでとか」
「信じられないなぁ。でも、まさかお店でかけているとは」
「だって、昼間じゃないと聞く時間がないもの」
そりゃ、そうでした。
「じゃぁ、あした新しいのを持ってくるよ。もちろんプレゼントしてください」
「了解」
そういうことってあるんだなぁ。
 その後、わたしが持参したCDは、若女将を経由して、無事に希望したお客さんに届いた。
 ことしは、よっちゃんの酢漬けイカは当たるし、CDは日の目を見るし、なんかいいことがあるかも。そんな思いで、週末の日曜日、午後の時間に関所を覗いた。
 平日の仕事帰りとは違う。休日は、メタボ対策と大船の町チェックを兼ねて散歩をする。じっとしていられない性分なのだ。その帰りに寄った。
「こんにちは」
さすがに、ほかに呑み助はいない。
「ちょうどよかった。さっきね、あのCDを渡した方が、ただでいただくのは気が引けるって言って、これを置いていってくれらのよ」
若女将の手には、封筒が握られていた。受け取って開封すると、なかみは図書券だった。
「そんなぁ、そういうつもりじゃなかったんだから」
「いいのいいの、もらっておきなさい。あらぁ」
そのとき、わたしは知らないお客さんが来店した。商売の邪魔をしてはいけないと思い、わたしはクーラーから山猿を取り出した。
「センセー、この方よ。CDを気に入ってくださったのは」
「えーっ、ありがとうございました」
わたしは、左手に一升瓶、右手にコップを持ちながら、お辞儀をした。
「あらぁ、なんか歌のイメージが崩れちゃう」
その方は、やや困惑した様子だった。あー、いまのわたしの状態は、どう見ても、演歌が似合う。友だち、仲間、笑顔というテーマがてんこもりのあのCDのイメージからは、世界の果てまで到達するほど、はるかに遠い雰囲気なのだろう。
「申し訳ありません」
でも、なんで謝らなきゃいけないんだろう。

6134.3/18/2009
坂の下の関所 四章

36
 関所ではいつも世話になりっぱなしなので、ときにはわたしから御礼をすることもある。
 以前に、学級で「今月の歌」として歌っていたオリジナルソングを音楽CDにしたことがある。ある音楽メーカーが一般公募していたので、だめでもともとと思って、カセットテープに録音して送ったら、採用されたのだ。だから、いわゆる自費出版ではない。
 その後、数年間、夢の印税生活を味わった。印税といっても、半年で数百円というものだったが。
 自分でも記念に100枚を買い取っていた。
 折に触れ、それらを知り合いにプレゼントしていた。引越しのときに、棚の奥にしまったのをすっかり忘れていた。暮れの掃除で偶然見つけた。
「これ、お年賀に」
少し照れながら、わたしは若女将にCDを渡した。
「え、あら、なに、これ」
何のことやらわからないので、戸惑ったのだろう。制作の経緯を説明した。
「へー、センセーって器用なんだね」
「いえいえ、器用貧乏ってやつだよ」
「これ、いただいてしまっていいの」
「うん、もしよかったら。眠れない夜の睡眠薬にでも使ってみてよ」
「それはない。横になったらたちまちグー。朝まで起きない」
 関所には有線放送やラジオがBGMとして、日常的に流れている。相撲や野球の季節は、関所に集まるメンバーの要望にこたえて、スポーツ中継も流れる。
 だから、わたしは、まさか、あのときにプレゼントしたCDを昼間の営業時間に流すとは思ってもみなかったのだ。
 CDを渡して数日後。わたしが関所に立ち寄ると、若女将が目をまん丸に見開いている。
 え、なに、おれ、なんかやばいものでもどっかにくっつけているの。
 鳩の糞かなんかが、頭のてっぺんから、たらーっと尾を引いているとか。
「きょう、すごいことがあった」
あー、びっくりした。なんか、すごいことがあって、それを言いたくて待っていたのか。
「なになに」
荷物を置きながら、クーラーから山猿を取り出す。ふと、レジに見慣れないCDデッキが置いてあるのを確認した。コップに山猿を注ぐ。
「きょう、昼間にセンセーのCDを聞いていたら、お客さんのなかにほしいってひとがいたんだよ」
えーっ、思わず、小さじいっぱいぐらいの山猿がコップから飛び出した。

6133.3/17/2009
 そんな村田さんに対して、市は2月までで介助員予算を使い切ってしまった。
 3月になって学校に配当された時間は0時間だった。
 毎月、介助員時間数を教育委員会に報告している。4月に配当された合計時間数から、実際に勤務した時間数を毎月差し引いていく。
 例年は各学校で2月末に微調整を行う。介助が必要だと思ったこどもが、実際には担任だけで指導できるようになる。すると介助員時間数を返上する。介助が必要だったこどもが、他地区に転校する。これも介助員時間数を返上する。台風による休校、学級閉鎖などで、こどもが登校しない日が生じる。それも介助員時間数を返上する。
 逆に、配当された時間数では不足なほど介助が必要なこどもだったというケース。
 この両者の加減を2月末に行うのだ。そうしないと3月に入ってから、最終的に年度始めの予算を残してしまう可能性がある。公共予算は残してしまうと、翌年の配当が確実に減る。「あんなに必要なかったじゃないか」と。実際には行政担当者のさぼりで、必要なところに十分な予算がまわってこなかっただけの話なのだ。
 いつもなら、各学校からの返上時間数がまわってくるはずの3月。教育委員会からの連絡はまわす時間は「ない」。
「毎月、各学校が報告をあげているのは何のためなんだ。それぞれの学校で実際にどれぐらい使っているかを教育委員会が把握するためだろう。だったら、今年度は例年に比べて、各学校ともぎりぎりまで使い切っていることが、毎月の報告から読み取れたはず。それを12月ぐらいに連絡してくれたら、残りの時間を3月まで使えるように計画しなおせたのに。いい加減にしろ。この先、3月に介助員がいないことでこどもに怪我やトラブルが起こっても、決しておかしくない状況だということを認識しておいてください」
 3月の配当時間はないそうです。ただそれだけのメモを職員室の机上に置いた管理職に、わたしは「あなたは教育委員会の伝令か」と前置きをした上で、忠告をした。
 その甲斐があってか、3月中旬になって、15時間の再配当があった。
 久しぶりの村田さん登場。
「今月は、働きが悪いから、特学の懇親会を欠席しようかと思っていたのよ」
「そんなぁ、来てよ。村田さんに十分な仕事の機会を与えられなかったのは、行政の責任なんだよ。村田さんの働きが悪いから、介助員をお願いできなかったなんて思わないで」
「そういってくれると、嘘でも嬉しいわ」
嘘のわけ、ないやん。
 村田さんのように、長年、公立小学校や公立中学校の特別支援の現場で、骨身を削って低賃金の介助員を継続しているひとは多い。そのひとたちの支えがなかったら、とても円滑な特別支援教育は成立しない。そういう熱意あるひとたちが、行政の「鶴の一声」で予算を削減され、仕事を追われる。
 経済効率最優先の首長が選挙で人気を得て当選する。
 無駄なコストを削減します。その名の下に、教育や福祉は無駄なコストリストの上位を占める。なにしろ資本を投下した分の生産性に裏打ちされた利益をあげないのだから。
 ひとをひとと思わない政治がまかりとおる。すると、首長が勝手に予算を削減しただけなのに、村田さんのように「自分の働きが悪いから」と、我がことに置き換えて理解しようとするひとが苦しむのだ。
 教育と福祉を切り捨ててきた社会は、将来、必ず疲弊していく。自立できない若者たちで街はあふれ、説教臭い老人ばかりがメディアをにぎわすだろう。経営者は安い賃金の外国人労働者を調整しながら雇う。日本人の完全失業率と自殺者は増え続ける。
 時代はいきなり最悪を迎えない。その何十年も前から、徐々に悪くなっていく兆候を示す。それは、自然現象ではない。政治に身を置いた一部の権力者たちが招いた結果なのだ。ひとが時代を先取りし、社会を左右するのだ。

6132.3/16/2009
 わたしは、村田さんと仕事をして4年目が終わる。
 おそらく年齢は、わたしよりも3歳か4歳ぐらい上だと思う。お子さんは社会人として独立している。いまはご主人とふたり暮らしだ。
 どこの学校にも長く介助員を勤めるベテランがいる。
 村田さんはそのひとりだ。
 市が払う給料は、労働基準法に抵触しているのではないかと思うほどに安い。学生たちのアルバイトの方がずっと高収入だ。それに特学の介助員は、頭脳労働ではなく、肉体労働だ。汚れ仕事も多い。罵詈雑言をこどもから浴びせられることもある。肉体的にも精神的にもタフでなければ継続しにくい。そして、介助員の仕事が好きだという強い気持ちが揺らがないことが必要だ。
 わたしは、村田さんの支援で尊敬していることがある。
 それは、村田さんはどのこどもにも同じ接し方ができるということだ。
 憎たらしいこども、わがままなこども、指示に従わないこども、ひとを傷つけるこども。おとなから見ても相手にしたくないこどもは、学校にはたくさんいる。家庭で親の前では見せない姿を、学校で披露しているケースも多い。
 反対に、素直なこども、純粋なこども、指示に従うこども、だれにでもやさしいこども。おとなから見ても大事にしてあげたいこどもは、学校には少数だがいる。よほど家庭での子育てが順調に行われたケースだろう。
 両者が混在する教室では、おとなはどうしても憎たらしいこどもよりも、素直なこどもに多くの時間をかけやすい。同じことを言うにも、少しずつ声のトーンが変わりやすい。教員を20年以上やっているベテランにも、この傾向は見られる。
 本来は、先入観をもってこどもに接してはいけないのだが、専門職以前の「ひと」の部分が自然な反応をしてしまうのだ。
 しかし、村田さんにはこれがない。どのこどもにも同じように怒るし、同じように褒める。同じように感動し、同じように愚痴をこぼす。
 こどもは、感受性がひとりひとり異なる。褒め方ひとつでも、あまり大げさに褒めると逆に嫌味として受け止められやすい。逆にさりげなく褒めたら通じないということもある。村田さんは、相手によって褒め方をかえることをしない。
 休み時間が終了し、こどもたちが遊び道具を片づける。学習時間への切り替えが苦手なこどもは、いつまでも遊び道具を片づけないで遊び続ける。少し様子を見てから、声かけをしようとわたしは思う。周囲が学習を始めていることに気づかせてからでも遅くはない。
「ほら、いい加減にしなさい。みんなちゃんと片づけているでしょ」
村田さんは、例外を認めない。その結果、こどもが癇癪を起こしたり、ものを投げたりしても、おかまいなしだ。
 最初、わたしは村田さんの支援姿勢に疑問を抱いた。
 通常級のこどもと違って特学のこどもは、何らかの発達障害を抱えている。みんなと同じようにさせようとしても困難なこどもたちだ。だから、場面に応じて、個々に対応を変えるのは当然だと考えていた。しかし、村田さんは、どんな場面でも、そこにいるこどもには同じなかみを要求する。つまり全体の流れに乗ることを最優先した。
 いっしょに仕事をして4年目が終わる。これまでに見えてきたのは、社会との結びつきだ。村田さんは、こどもたちが高校を卒業した後をいつも気にしている。社会に出て行ったとき、学校のように待ってはくれないし、別メニューを用意してはくれない。わがままを言ったら解雇されるのが、日本の福祉就労の現状だと。切捨ての現実に対応するには、こどものときから、注意すべきは注意し、励ますべきは励まさないといけないんだと。

6131.3/15/2009
 「センセー、これ使ってくれない」
村田さんが、特学職員室のロッカーで声をかけた。
「これって、いいんですか。新品同様みたいだけど」
レジ袋のなかには、90枚入りの使い捨てマスクが入っている。
「安いと思って買ったのね。でもつけてみたら、どうもほっぺたがかゆくなっちゃって」
「ありゃ」
「ほら、わたしって、皮膚が敏感だから」
え、そうだったっけ。
「センセーも花粉がひどいんでしょ。いつもマスクをしているから、これが役立てばいいと思って持ってきたんだけど」
「助かります。ありがとうございます」
 村田さんは、介助員だ。
 介助員は、支援が必要なこどもに対して、教員の指導を助ける仕事をする。
 たとえば、わたしが3人のこどもに同時に個別学習を指導しているとする。Aは、漢字の練習。Bは、ひも結び。Cは、電子計算機。それぞれに内容も進み方の速度も違う。わたしは3人を交互に見ながら、つまずきやわからないところを助ける。そこに、介助員が入ると、3人のなかで、とくに手を取りながら(業界ではクレーンという)の支援が必要なBのひも結びを頼む。それによって、わたしの指導のウエイトはほかの2人に重きをかけられるようになる。
 介助員の役割はとても大きい。介助員がいることによって、こどもひとりひとりの指導計画が確実に実施される環境が整うのだ。
 介助員は、特学だけでなく、特別支援学校(昔の養護学校)や通常級にもいる。通常級では、担任だけでは指導しきれない個別対応が必要なこどもに対して、保護者の了解を得て、担任が申請する。
 介助員の給料は、学校設置者が払う。特別支援学校の多くは都道府県立だ。公立の小学校や中学校の多くは市町村立だ。だから、自治体によって介助員の配置には格差が大きい。
 財政的に破綻している自治体では、介助員制度は物理的に不可能だ。
 財政的に恵まれていても、首長が教育や福祉に無関心だと、関連予算は計上されない。
 わたしが勤務する市では、近年、市長がかわり、教育関連予算が激減した。全体的に歳入が少なくなったという事情を差し引いても、市長が教育関連に予算を支出するよりも、ほかにまわしたい気持ちが強いのではないかと推測できる。
 ついに2008年度は2月で介助員予算を使い切り、3月は介助員がいないという状況が発生している。先日など、介助員がいないなか、教員まで風邪でダウンし、てんてこまいの一日になったほどだ。
 村田さんに戻る。
 村田さんは、いまの特学で介助員を始めて、10年以上になるベテランだ。だれよりも、いまの小学校を知っている。教職員で10年以上在職しているひとはいない。着任と離任を繰り返していく公務員世界を、介助員という立場で、地に根を生やして見守ってきたのだ。

6130.3/14/2009
 野地さんは、通算二年半も特学でボランティアを経験した。
 その野地さんについでボランティア経験が長いのが、桃井さんだ。桃井さんは、教育系の大学に通う女性だ。
 2007年の春からボランティアを開始した。
 桃井さんは、学校ボランティアのほかにも、地域の福祉活動にかかわっている。大学2年生の春からボランティアをしてくれた。講義が立て込んでいたので、最初の時期は週に一度、それも一日中ではなく、限られた時間だけの協力だった。大学時代は、遊んでばかりいたわたしには想像できない。
 大学三年の今年度は、時間ができたといって、一日中の協力もしてくれた。
 桃井さんは、驚くほどの美形だ。
 けばけばしいというのではなく、最低限の身だしなみで、自分のよさを最大限に発揮している、内側からほとばしる誠実さを感じさせるひとだ。どういう育て方をすれば、こんなに美しいお嬢さんが育つのかと、ご両親に尋ねてみたくなるほどだった。
「はじめまして。桃井です。よろしくお願いします」
初めて、特学に来たときに、こどもたちの前で挨拶をした。男の子の目は、本能丸出しで、うっとりしていた。桃井さんが来る曜日を楽しみにしている男の子は、とても多い。
 今年度、特学には完全な支援が必要なこどもが転入してきた。そのこどもには、毎時間、支援者がひとりつきっきりになる。たとえば、わたしがそのこどもの担当になると、わたしが本来担当している3人のこどもたちを、ほかの支援者が受け持つ。分散して受け持ってもらうとしても、ほかの支援者は自分が担当するこどもがいるので、通常よりも多くのこどもを支援することになる。
 完全な支援とは、一時たりともこどもから離れず、排泄やよだれの処理、散らかした学習道具の片付けなどをすべておとなが行う形態だ。言葉によるコミュニケーションは成立しない。それでも、一年をかけて日々小さな積み重ねを繰り返すと、できるようになっていくことが増えていく。
 完全な支援は、授業時間帯だけではない。休み時間、掃除時間、給食時間など、学校生活のあらゆる時間帯で実施される。日々、そのこどもの担当は時間ごとにローテーションしていく。
 そのローテーションの輪の中に、もっとも入ってくれたのが桃井さんだった。
 ついたてで区切ったなかで、桃井さんとこどもが向かい合う。桃井さんがテニスボールを渡す。
「ちょうだい」
こどもの目を見て、桃井さんが指示を出す。最初は、手にしたボールをあらぬ方向に捨てていたこどもが、少しずつ桃井さんの手にボールを渡そうとするようになった。
「すげー。桃井さんをこの子は認めたんだよ」
わたしは感動した。
「毎日、少しずつやっていれば、だれに対してでもできるようになるんじゃないですか」
桃井さんは謙遜する。
「ひとは機械じゃないんだよ。この子は不自由なことがたくさんあるけど、こころは育っている。桃井さんの気持ちに触れたいと思うようになったんだよ。それを実現するために、ボールを渡して、桃井さんに喜んでもらいたいんだ。だから、なんとかしようとしている」
 いつもきらきらしている桃井さんの瞳が、少しうるんだように感じた。
 わたしの息子と同い年。ということは、彼女のご両親とわたしは年齢が近いだろう。わたしは、少しがっかりする。なんでやねん。