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6049.11/18/2008
いつか来た道...7

 こういった教育をめぐる変遷を振り返ると、学校令施行以降のある一定期間において、日本の公教育は、外国の進んだ考えを取り入れながら、かなり自由で活発な内容だったと推測できる。
 こどもたちが使用する教科書の歴史。
1872年(明治5年) 教科書は自由発行・自由選択
1880年(明治12年) 文部省により被適切と認められた教科書の使用禁止措置
1881年(明治13年) 開申制度(=届出制)
1883年(明治15年) 認可制度
1886年(明治18年) 検定制度
1901年(明治33年) 教科書疑獄事件(教科書採択をめぐる汚職で役人152人が検挙され100人が有罪に)
1903年(明治35年) 国定制度
 国家が教科書を一元化しようとする試みに対しては、教科内容の国定化だけではなくて、教科書の粗悪な印刷、不当な価格に対する批判もあった。
 学校令による公教育の発展と応用が、明治・大正・昭和の50年間に渡って続いた。
 そして、1941年(昭和16年)、国民学校令が公布される。
 国民学校令においては、それまで6年間だった義務教育を8年間に延長する規定が設けられたが、施行が延期され、国民学校令による義務教育期間の延長は行われなかった。
 国民学校(こくみんがっこう)とは、第二次世界大戦、太平洋戦争の社会情勢によって日本に設けられ、初等教育と前期中等教育を行っていた学校のことである。ナチス・ドイツの初等教育に起源をもつ。
 国民学校は、こどもが鍛錬をする場と位置づけられ、国に対する奉仕の心を持った「少国民」の育成がめざされていたともいわれている。  1941年(昭和16年)の国民学校令(昭和16年勅令第148号)に基づいて作られ、6年の初等科と2年の高等科からなり、初等科は、それまでの尋常小学校などを母体とし、高等科はそれまでの高等小学校などを母体としていた。国民学校令の施行とともに、それまでの尋常小学校・高等小学校・尋常高等小学校は、すべて国民学校とされた。
 第二次世界大戦降伏後の学校教育法(昭和22年法律第26号)に基づき、初等科が新制の小学校、高等科が新制の中学校にとって変わられるまで存在。国民学校令で懸案だった義務教育期間の延長も、学校教育法の施行によって行われている(6年間から9年間へ)。

6048.11/17/2008
【師範学校令】
 尋常(じんじょう)師範学校は、公立小学校校長と教員養成し、各府県に1校設けられる。
 これは、1897年に師範学校と改称、本科1部(高等小学校卒業生の4年制)と2部の併設(中等学校卒業者の1年制、のち2年制)に。
 高等師範学校は、中等学校(旧制中学校・高等女学校・実業学校・師範学校)の教員を養成し、官立学校として東京に1校設けられる(現筑波大)。
 1902年に広島、1944年に金沢、1945年に岡崎に増設、また、女子高等師範学校は、1890年に東京(現お茶大)、1908年、奈良、1945年に広島に増設された。
 高等師範学校では、『順良・親愛・威重』の3つの気質を要求し、軍隊式教育が行われる。
【1890年(明治23年)『教育ニ関スル勅語』(教育勅語)制定】
 歴代の天皇に対する臣民の忠孝の関係、臣民の遵守すべき項目、そして勅語の普遍的正当性の強調の3つの部分に分かれる。
【第2次小学校令の制定】
 1890年(明治23年)、学校設置義務規定が含まれる。議会の承認を不要とする勅令形式での制定だった。
【第3次小学校令の制定】
 1900年(明治33年)、無償制の原則が含まれる。尋常小学校の課程が4年間で一本化され、1907年(明治40年)の改正で6年間義務教育が成立する。
 学制から教育令に至る時期、実際の学校現場では、おもにアメリカ式の開発型の学習が主流だった。しかし、こどもたちがそれぞれの考えを確立することをねらった開発型の学習は、優秀な臣民と、兵隊を育成したい行政担当側からすれば見当違いの方向に進もうとしていた。
 そこで、明治20年代に入り、開発主義教育の非効率性が指摘され、ヘルバルト派の教授法が導入される。1887年(明治20年)ハウスクネヒトが招聘され、ヘルバルト派の教育理論が日本に導入される。
 東京高等師範学校も、アメリカ教育からドイツ教育へと転換し、ラインの5段階教授法(予備―提示―比較―概括(総括)―応用)が流布する。
 しかし、明治30年代に入り、ヘルバルト派教育が注入主義に陥るなどの弊害が見られるようになった。国内では、樋口勘次郎が『統合主義教授法』の中で『活動主義』を提唱した。谷本富が『新教育講義』『系統的新教育学概要』の中で『自学輔導(ほどう=正しい道に導くこと)』を提唱した。また、沢柳政太郎(成城学園創始者)の『学修法』、西山哲次の『児童中心主義攻久的教授法』などの自発的活動、自発的学習の意義を主張する理論が登場する。
 明治30年代にはナトルプなどの社会的教育学、40年代にはライやモイマンなどの実験教育学が入ってくる。

6047.11/16/2008
いつか来た道...5

 学制から国民学校令に至るなかみを少し詳しくとらえていく。
 学制は、フランスの学制にならって学区制をとっている。全国を8の大学区に分け8大学校の、1大学区を32中学区にわけ256中学校の、1中学区を210小学区にわけ53760小学校を置くことを定めた。翌年に改正され、大学区は7大学区に改められて実施された。
 大学南校、開成所、広運館がそれぞれ中学となり、それぞれ第一大学区、第四大学区、第六大学区に属され、大学東校、大阪医学校、長崎医学校が各大学区の医学校となった。
 8の大学とは 北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、大阪大学、京都大学、広島大学、九州大学である
 現在につながる公教育のヒエラルキーが、土台の部分で完成した。
 教育令は、地方官(府県長官)に与えられた権限を縮小し学区制を廃止した内容になっている。私学校設立と国民の重い負担に鑑みて就学に関する規定を緩和したが反対意見が噴出し、翌1880年(明治13年)12月と1885年(明治18年)8月の2度の改正がなされた。
 徳川幕藩体制から、明治新政府体制への移行は、戊辰戦争終結後にすぐに行われたわけではない。とくに、教育の世界では学校校舎や教職員給与など、莫大な予算を政府が用意していなかった。だから、それぞれの自治体に予算措置がゆだねられた。その結果、財政的に苦しい自体体は、学区制が敷かれても、それを実現することは不可能だったのだ。また、教職員も、それぞれの自治体に雇われたので給与格差は大きく、少しでも給与の高い自治体にひとが集中してしまうという傾向があった。
 加えて、ひとびとの生活様式が基本的には変わらなかったことも忘れてはならない。封建領主に年貢を納める方法から、大地主や庄屋に小作として雇用されたひとびとは農地法の制限を受け、少しでも労働力を確保するために、こどもたちを学校へ通わそうとはしなかったのだ。つまり、器は用意したが、教職員もこどもも、政府権力が思うほどには、集まらなかったのだ。
 こういった紆余曲折を14年間も経過して、1886年(明治19年)、初代文部大臣の森有礼による学校令が制定された。
 その前年に、初めての内閣制度が発足した。
 当初の学校令で、(第1次)小学校令(就学義務規定が含まれる)、中学校令、帝国大学令、師範学校令の4つの学校令が制定された。

6046.11/14/2008
いつか来た道...4

 1872年以降の学校教育制度の変遷は大きく区分して以下のように分かれる。
 まず、1872年の「明治5年太政官布告第214号」、すなわち学制である。日本で初めて公布された教育法令だ。これは7年後に廃止された。
 次が、1879年の「明治12年太政官布告第40号」、すなわち教育令だ。これにより私立学校の設立が可能になった。これも7年後に廃止された。
 続いて、1886年の学校令だ。初代の文部大臣が制定した。学校令には、小学校令(就学義務規定が含まれる)、中学校令、帝国大学令、師範学校令の4つの学校令が含まれ、こどもたちが学ぶ場所と期限が明示された。学校令は、その後改正されながら、なんと50年間も効力を発揮する。
 そして、1941年の国民学校令(昭和16年勅令第148号)に至る。それまでの尋常小学校・高等小学校・尋常高等小学校は、すべて国民学校とされた。第二次世界大戦降伏後の1947年の学校教育法(昭和22年法律第26号)に基づき、初等科が新制の小学校、高等科が新制の中学校にとって変わられるまで存在した。
 まとめる。
 学制は7年間、教育令も7年間、学校令は50年間、国民学校令は6年間。
 通算70年間の大きな公的な学校教育の変遷があった。そのなかで、学校令がこどもたちの学校教育に影響を与えていた時期がもっとも長い。しかし、戦前から戦後の多くのひとびとのこころに大きな影響を与えたのは、50年間の学校令よりも6年間の国民学校令だったといえるだろう。国家権力が学校という装置を使って、こどもたちを兵力として増産することを目的としたのが国民学校だったからだ。教え子を戦場へ。わが子を戦場へ。そのスローガンのために、教師も保護者も一丸となった時代だったのだ。
 国民学校令は、学制・教育令・学校令と違って、敗戦によって効力を消滅した法令だ。もしも戦争が継続していれば、効力は持続されていたことだろう。つまり、国民学校令は、政治の権力者たちの考えによって消滅した法令ではないということだ。戦勝国からの要求に屈服するかたちで、不承不承敗戦の処理をする過程で消えていった法令なのだ。その不満と鬱屈した精神が、戦後の長きに渡って保守的な考え方をもつ勢力に脈々と引き継がれてきたことは否めない。
 いまその保守的な勢力は、政治勢力として日本政治の主流を占めている。過半数を占める国会で、ふたたび国民学校令の精神を受け継いだ教育的な施策を法律に反映させることが可能になっている。すでに、教育基本法や学校教育法は、そういう意味で改定されてしまった。

6045.11/13/2008
いつか来た道...3

 日本の近代化はいつから始まったかという議論は、歴史的には確定していない。
 諸外国との通商や文化の交流を起点とするならば、安土桃山時代にまでさかのぼるだろう。
 植民地主義と帝国主義を起点とするならば、江戸時代の後半から明治時代以降になる。
 少数の支配階級が、多数の被支配階級を抑圧し、税を徴収していた時代から、原則的には出自による差別が撤廃された時代に変化したのは、1868年の戊辰戦争以降と考えるのが一般的だ。
 これは、徳川幕府を転覆させたのが、長州や薩摩の下級武士たちによるクーデターだったという事情が大きく影響している。もしも、諸藩の大名クラスが徳川幕府を倒していたら、征夷大将軍が替わるだけで、封建体制は何も変わらなかったと推測できるからだ。
 また、織田信長に反旗を翻し、ある一定期間王国を築いた農民たちや、比叡山や天草の反乱のように、武家以外のひとたちが起こした革命だったら、天皇制そのものが根本から消滅し、坂本竜馬が夢見た大統領制(彼はそれを入れ札と称した)が、いまから130年も前に始まっていたかもしれない。
 明治維新(クーデターと呼ぶにふさわしい)が、支配階級の武士でありながら、そのなかで下層に位置づけられたひとたちによる反乱だったという複雑な性格が、その後の日本の舵取りに、大きな影響を与えたと考える。
 なぜなら、徳川幕府消滅の後、彼ら倒幕の立役者は、維新の志士とか元勲と称され、華族や士族として、実質的な支配階級相応の身分を収穫することに奔走したからだ。
 江戸時代の後半から、明治時代にかけて、全国の平均的な世帯のこどもたちは、何をどこで学んでいたのか。
 江戸時代には、公的な教育施設は存在していない。もちろん平均的な世帯のひとびとは、農民や商人、漁民など、生産的な仕事に従事していた。こどもの頃から、親の手となり、足となり、労働に従事し、そのなかで成長し、おとなになった。文字を読めないのは当たり前だった。多少、読めるこどもでも、書くことはできなかった。そもそも筆記用具など、日常生活に存在していなかった。必要がなかったのだ。
 寺小屋があった。浪人となった武士が、庶民にそろばんや習字を教えていた。しかし、それらは任意の意思によるものであり、公的な教育機関と呼べるものではない。
 学校教育制度の確立という視点で、日本の近代化をとらえるならば、それらは、1872年以降が該当するだろう。

6044.11/12/2008
いつか来た道...2

 質問者は涼しい顔で質問を続ける。教育長の狼狽振りを内心楽しみながらも、その内面は唇の端にわずかに示すだけにとどめる。
「それから、国歌を斉唱するときの伴奏についてです。多くの学校がCDを採用していますね。それも歌唱つきのものを。あれは、その場のひとたちが本当に声を出しているかどうかがわかりにくい。口をパクパク開け閉めしているだけで、肉声が聞こえないと思われる学校関係者がいるという、参列した議員からの情報があります。国歌を歌うのに、口パクはないでしょう。来年の卒業式からは、CDを使うなら歌唱のないものを、できれば体育館にはピアノがあるわけですから生の伴奏をとは考えてはいませんか」
「たとえ、歌唱つきの伴奏でもその場にいるひとたちがそれにあわせて国歌を斉唱していると教育委員会としては考えていますが、おっしゃる内容については順次校長会を通じて学校現場に指導をしても、やぶさかではないと思います」
あらかじめ、議員サイドと教育委員会側で質問内容のすり合わせができている部分については、教育長の答弁に焦りや緊張はない。
 こういう重要な政治的圧力に対して、教育委員会はあっさり屈服してしまう。
 国旗「日の丸」、国歌「君が代」。20年前の全国の公立学校では、それらが大きな問題になることはなかった。そもそも公立学校は地方公共団体の資金で運営されているのだから、ことさらに国の影響力を誇示する必要がない。
 しかし、学習指導要領でそれらの指導が義務付けられ、儀式での使用がチェックされるようになってから、保守勢力と、それを応援する市民層による学校監視が強くなった。卒業式や入学式などの儀式でこどもを撮影する振りをして、会場を撮影する。国歌斉唱のときだけ、学校関係者の口元を狙ってビデオカメラの録画スイッチをオンにする保護者までいるほどだ。
 2008年11月1日。航空自衛隊の幕僚長が更迭された。
 独断で発表した論文に、過去の戦争が侵略戦争と評価されているのは濡れ衣だという趣旨を公言したからだ。
 戦争行為そのものに、正義はない。勝った者が歴史を作る。しかし、だからといって過去を書き換えることはだれにもできない。記憶と記録の隠蔽は、これだけ情報化が進んだ時代には限りなく困難なことになる。
 太平洋戦争突入よりもはるか以前に中国大陸に軍隊を派遣していた事実は消せない。
 満州国建国以前に、満蒙開拓団が内地で組織され、多くの民間人が中国東北部で生活していた事実も消せない。
 中国大陸や朝鮮半島のひとたちを、強制的に内地に連行して労働に従事させていた事実も消せない。
 侵略とは何か。あるいは侵略があったかどうか。これらは将来の歴史家が確定するだろう。少なくとも、国防の任にあるトップが公然と断定するほど軽率な内容ではない。

6043.11/11/2008
いつか来た道...1

 関東地方の観光と商業のまち。
 人口は30万人から40万人。政令指定都市には程遠いが、過疎の村とも縁遠い。
 その議会で、保守派の議員から教育委員会が槍玉に上がっている。
「もうすぐ卒業式が近づきますが、これまでの市内の公立小学校や公立中学校の卒業式に参列したところ、貼り出されている式次第や手元のしおりに、本来ならば国歌斉唱とすべきところを、ただ一言、国歌としか書いてない学校が多数あることがわかりました。これについて、教育委員会はどのような見解をもち、かつ学校現場にどのような指導をしたのかうかがいたい」
物腰はていねいだが、眼光は鋭い。質問のなかみは、意見を多く含んでいる。
 来賓として招いている学校周辺の市議会議員は、堂々と参列しながら、卒業式という儀式が学習指導要領通りに遂行されているかどうかをチェックしている。不審な点があれば、これを記憶し、あるいは記録し、定例議会での質問内容に含める。
 その地方都市周辺は、かつてもいまもアメリカ軍関係施設が多い。こどもたちが学習している昼間も、音速戦闘機が爆音をあげて低空を飛来する。戦後の長い時期を通じて、市長や議員は革新的な考え方のひとが多かった。労働組合運動も盛んで、平和や人権に関する意識は、日本の平均的な地方都市のなかではとても高いレベルを維持していた。
 しかし、全国的な革新政党の衰退や労働組合運動の減少と保守勢力のたくみな切り崩しによって、ここ10年来、議会勢力は基本的には保守が過半数を確保している。
「式次第やしおりに国歌としか書いていなくても、儀式の流れのなかでは国歌を斉唱することと同じ意味をもつと考えています」
教育長は額の汗をぬぐいながら答弁する。
「だったら、国歌斉唱と始めから書けばいいじゃないか。それとも、国歌と書くことで別に歌わなくてもいいという一部の教員たちの肩を教育委員会がもっているわけですか」
「け、け、決してそのようなことは」
コップの水を飲もうと伸ばした手が震えていることに気づいた教育長は、喉を潤すことをあきらめた。議論で百戦錬磨の議員たちと正対する教育行政のトップとはいえ、もともと教員あがりの教育長には、議論の術や硬軟混同の会話術など体得しているはずがない。
 小学生や中学生を相手に、上から見下ろしたものの見方や考え方、発言を繰り返してきた時間が長いから、自分が攻撃されるともろさを露呈する。

6042.11/10/2008
創り出す会の足音...No.87
2004年4月1日 湘南憧学校開校

 2004年になった。
 それまで、わたしたちは学びの主人公をこどもにをモットーにしたテストスクール「湘南小学校」を週末や夏休みに開校してきた。
 その準備段階から飛躍して、4月からは月曜から金曜までの平日の昼間に開校する「湘南憧学校」へと移行しようと決めた。
 1月18日には、藤沢市学習文化センターで、そのための運営委員会が開かれた。
 それまで予定していた開校場所の再検討が必要になり、あわてて不動産物件を探すことになった。開校を目前に控えて、開校場所が決まっていなかったのだ。
 2月14日には、ガイダンス。3月13日には、入学説明会が予定されていたのというのに。
 また、テストスクールのときは、携わるひとたちはボランティアだったが、事業として開始する「湘南憧学校」は有給の教師を雇わなければならない。年間200日近い事業なので、ボランティア頼りでは、こどもも保護者も不安だろう。そのために雇用や保険に関する専門家ともつながりを持ち、準備を進めていた。
 同時に、チャータースクール推進センターからは着実な活動報告が続く。
 12月28日に理事会を開催し、今後の活動予定と方針について検討した。
 12月後半に、S新聞の取材をうけた。
 1月15日に、ネットタンクのTさんと面会した。
 1月24日に、定例会を開催した。
 2月14・15日に、D.トーマス校長(ニューカントリースクール:プロジェクト学習)を招いてのプレゼンテーションを行う。
 前年の春から開校していた湘南小学校2003は、3月13日をもって終了した。
 2004年の春からは、湘南小学校2004として再スタートする。しかし、湘南小学校としてのテストスクールはすでに役割を終えていたので、週末を使ったテストスクールは湘南小学校2004で最後にすることになっていた。3月26日の第80回定例会での報告では、湘南小学校2004には23人の応募があったと記されている。
 また平日開校の湘南憧学校は4人の応募があった。定員は10人だったので、定員不足での船出が確実なものになっていた。

6041.11/9/2008
創り出す会の足音...No.86
2004年4月1日 湘南憧学校開校

●中期的な活動ビジョン
今回の場所の選定で多くの外部の方々と接している担当者から「あなたたちは3年間ぐらいのビジョンをどう立てているのかが見えませんね。まず、それがあってから1年目をどうしようとか、2年目をどうしようとか考えるほうがいいですよ」とアドバイスを受けたそうです。
また「運営(マネジメント)サイドと、子どもにかかわるスタッフサイドは区別しないと、長期的な運営計画は作りにくいですよ」とも。
湘南に新しい公立学校を創り出す会は「日本型チャータースクール推進センター」の発足までは、その両者を活動の両輪として担当していました。しかし、アドバイスの通り、2001年以降は、湘南小学校の教育の創造に特化した活動を推進してきました。
長期的にはもちろん市民が公立学校を創る制度をスタートさせ、その制度を使って新しい公立学校を開校することが目標です。そこに迫る中期的な目標を、今後はわたしたちが立て実行する段階になったと感じました。
そこで、来年は湘南小学校や湘南憧学校の教育実践を積み上げる(教育内容や評価など)役割と、湘南に新しい公立学校を創り出す会の目指す学校作りを具体的に実現させるための役割(運営)を区別して推進する確認をしました。
●開校場所
前回の話し合いであがった候補地から、予算面や条件面で折り合いのつく2つの候補地を選びました。
1つは大船カトリック教会です。もう1つは藤沢カトリック教会です。窓口になってくれている人を通して、年明けに具体的な話が進展する予定です。
●予算編成
今回の話し合いで、開校当初から定員の10人に達していなくても、始めようという確認がされました。
それを受け、有給および非常勤のスタッフへの給与計画の練り直しが了承されました。
当初、募集をかけたときに、このようなことになることをうたっていなかったので、いまの段階での変更はとても心苦しい限りですが、開校後に少しずつ入学者を増やし、当初予定の財政的支援ができるように努力したいと思います。」

6040.11/8/2008
創り出す会の足音...No.85
2004年4月1日 湘南憧学校開校

●平日開校
意見のなかには「平日開校ではいわゆる不登校の子どもたちしか集まらないのではないか。自分たちが目指してきたものは不登校の子どもたちの学校だったのか」というものがありました。
継続的な湘南小学校を開校したいので、対象をわたしたちが限定しているわけではありません。だから、週末を含めた「土日月」とか「金土日」という開校日の設定も可能です。しかし、そこに通う子どもたちのことを考えると平日は普通の学校の通い、週末すべてを湘南憧学校に通うというのは、精神的にも肉体的にもかなりの負担をかけてしまいます。
今回の議論でも開校する曜日については時間をかけて話し合いました。その結果、月・水・金を再確認しました。結果として、いわゆる不登校の子どもたちが入学してくることでしょう。そのことを否定的にとらえるのではなく、学びのなかみを子どもが決める湘南小学校のスターティングメンバーとして前向きにとらえていきましょう。
●メンバーの交流
もうひとつ、懸念されていたのが平日開校にすると、湘南に新しい公立学校を創り出す会の中心的なメンバーが湘南憧学校にかかわれなくなり、気持ちの線引きがされてしまうのではないかということでした。
多くのメンバーは湘南憧学校の開校時間にそれぞれの時間を過ごしているので、湘南憧学校の場所でともに新しい学びの創造をサポートすることは困難です。しかし、常勤を志願した方が「じぶんたちだけでできるとは思っていない。困ったときには相談できるみなさんがいるという信頼があるから立候補しました」と述べたように、かかわり方の方法を工夫すれば、情報や問題の交流と共有ははかれるという合意に達しました。
具体的には、月に一度ずつケース会議を開催したり、ウエブを使った日報を発信したりすることが考えられます。このほかにもよりよいアイデアを今後出し合っていきましょう。
●開催日
「週に3日というのが中途半端で、なかなか入学を希望する声があがらない背景にあるのではないか」という意見もあります。
中途半端なのは否めません。本来は毎日開校を望んでいます。しかし、場所の問題と給与の支払いを考えたとき、いまの湘南に新しい公立学校を創り出す会の財政ではそこまで開校日を拡大する余裕がありません。
入学を希望する声が上がらないのは、私見(佐々木)ですが、まだわたしたちが積極的な宣伝をしていないことが大きな理由だと思います。働きかけをするには、少なくともどこで開校するのかという情報は含める必要があり、それが解決してからと考えていました。