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5999.9/3/2008
出口のない海-2

 この文庫本の解説を、映画監督の山田洋次さんが担当している。
 山田さんは、出口のない海が回天の話だと知ってすぐに本屋に駆け込んだそうだ。
 搭乗員はどういう思いで、突撃していったのか。
 視覚的な操縦ができない回天の具体的な操縦方法はどんなものだったのか。
 以前から、それを知りたかったという。横山さんなら、必ず本編の中にそれを記録しているはずだと信じて。
 わたしは、以前、呉に研修で行ったときに、実物の回天を見たことがある。
 赤茶けた回天はものを言わない。しかし、これが自分の棺おけになるとしたら、どんな気持ちになるだろうと想像した。海の藻屑。だれも気づかない場所で、自分が知らない相手を殺すために、己の命と引き換えに、出撃していく回天。
 踏み込む一歩の勇気がわくだろうか。
 いまも自爆攻撃は行われている。そのメンバーたちは、必ず旧日本軍の特攻兵器について学習するという。
 自らの身体をばらばらにしてまで守るべきものとは何だろう。
 よのなかには、難病や事故で生死の境をさまようひとが、いまこの一瞬にもたくさんいる。そのひとやその家族や友人は、ともに生き続けることを願っている。
 2008年8月も東京では電車に飛び込む自殺のニュースが伝えられた。多くの悩みがあるのだろう。これ以上生きていく余力がなくなったのだろう。
 しかしだ。
 生き続けて、大学リーグのピッチャーとして完成させた魔球をふたたび投げたいという夢を抱きながら、社会の要請、時代の要請で特攻兵器の搭乗員にならざるを得なかった主人公の気持ちを考えると、自殺するひとには、もう少しだけ生きてほしいと思ってしまう。
 結末は、ぜひ自分で読んでほしい。感じてほしい。
 わたしは予想していたこととはいえ、悲しい結末に瞼を腫らしたが、同時にこういう結末ならば主人公は安らかだっただろうなと思った。ストーリーの作り手としての横山さんの力量に感謝したい。
 とかく戦争ものは、いさましいだけか無慈悲を煽るものだけになりがちだ。しかし、出口のない海には、その両方が同居する。それが、きっと戦争状態という具体的な日常では当たり前のことだったのだろうと想像できた。
 映画を観てしまったひとは、すでに視覚的なイメージが強いと思うでの、まだ映画を観ていないひとにお勧めの本だ。

5998.9/2/2008
出口のない海-1

 出口のない海を読んだ。
 著者は横山秀夫(よこやまひでお・1957年1月17日生)さん。
 たまらなく切なく、悲しい読後感が広がった。しかし、主人公の生き様に魅せられてしまう自分を感じた。勇敢さにではなく、強さとやさしさにだ。
 1941年12月8日。ハワイの真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争が時代背景だ。
 当時、大学リーグで野球部に所属していた主人公が、やがて学徒出陣の命を受ける。厳しい訓練と、修正と呼ばれる暴力を受けながら、海軍の特攻兵器「回天」搭乗員として、出口のない海に向かって旅立っていく姿を描く。
 あー主人公は死んでしまうんだろうな。でも、生きていてほしいなぁ。
 ずっと、その気持ちで読み続けた。
 回天は、人間魚雷だ。魚雷に操縦室をつけ、潜水艦から発射され、敵艦めがけて突っ込み、爆薬もろとも死滅する兵器だ。飛行機で突っ込む特別攻撃隊と違い、回天には目がない。操縦室から海の中を見渡すこともレーダーを使って相手の位置を探知することもできない。突撃寸前に潜望鏡から相手の位置を確認し、再び潜る。水深20メートルをキープして一直線に敵艦を目指す。停泊している敵艦と違い、動いている敵艦に突っ込むので、瞬時に多くの計算をして突撃角度を速度を調整しなければいけない。死のぎりぎりまで、能力の限界を試しながら生き続ける。そして、ハッチは内側から開けることができない。
 逃げることが許されない究極の殺人兵器が、回天だ。
 北京オリンピックが開催された2008年8月。ロシアとグルジアで戦争状態に入った。いまも世界では、大義のための殺人が続行している。  主人公は決して自ら望んで戦争を肯定はしない。また、なぜ特攻兵器で死ぬ決断をしたのかという答えを明確にもしない。家族のため、愛するひとのため、国のため。それらをこころで受け止めてもなお本当にそうなのだろうかと自問し続ける。
 己のための戦争。主人公がたどり着いた結論だ。
 やがて、戦争が終わったときに、家族や愛するひとたちが、自分と同じような生き方をしてほしくない。そのために、このよのなかに回天という人間が機械の一部になり、自らの命と引き換えに出口のない海に消えていった殺人兵器があったことを記録したいと考えた。
 当時の軍隊が暴力によって統制を保っていた具体的な場面が多く登場する。自らの意思や、組織の調和など必要ない。上官の命令ひとつで、命を差し出す。その残酷さと恐ろしさを、何度も感じる。
 潜水艦には6基の回天が装着される。しかし、戦争末期の海軍には十分な兵器を作るための材料や試験のための期間がなく、突撃のたびにいくつもの回天が故障で発射されずに日本に戻った。当然、搭乗員は命拾いして帰還する。しかし、帰還した搭乗員たちは基地で「すででスクリューを回してでも突撃しようと思わなかったのか」という上官や幹部たちからの粛清を受ける。

5997.8/31/2008
創り出す会の足音...No.61
2002年5月4日 国際文化会館にてカッター女史と

 サドベリー学習会の記録より……
「(質疑応答)
質問●子どものリクエストとして、お金がとてもかかることや、遠くまで行くようなことが出てきて、スタッフが対応できないときはどうしているのですか

 まず、小さい子どもたちはそんなにお金のかかることは計画しません。ただ、内容的に、いつも子どものニーズを満たすことができるとは限りません。サドベリーで不可能なときは、ほかの学校でそのことを満たすコースを選択する子どももいます。
 また、お金が必要な子どもは、そのためにセールを開いてお金を集めています。

質問●遊びと学びの違いはどのように考えていますか

 それを区別する必要はありません。遊びこそ、子どもの生きる力をたくさん引き出すからです。
 そして、子どもが退屈するまで、とことん遊んだとしたら、そこまでが学びです。退屈するまで学ぶことによって、子どもは学ぶことを学びます。だれかに教えられても、学ぶことはありません。

質問●親のなかには、なかなかサドベリーの方針をわかってくれない人もいると思います。その人たちに、たくさんのエネルギーをかけて説明するよりも、もっとべつのことにエネルギーをかけたくなりませんか

 実際、わたしはいままでそのことで、とても苦しんできました。
 そういう親を前にすると、気分が重くなります。いままで生きてきたことと、まったく違う価値観をもたせることはとても難しいことです。
 しかし、わたしたちのやり方によって、子どもたちはとてもエキサイティングになります。そのことがわかっているから、わたしは決してあきらめません。(つづく)」

5996.8/28/2008
創り出す会の足音...No.60
2002年5月4日 国際文化会館にてカッター女史と

 サドベリー学習会の記録より……
「(質疑応答)
質問●サドベリーバレースクールが長いこと、開校しつづけている背景には、親からの強い信頼があると思います。そのために、スタッフのみなさんはどんな努力をしているのでしょうか

 今年、本校は34周年です。生徒数が200人を超えたのは、ここ4年ぐらいのことです。
 じつは、子どもから学校のやり方について信頼を得るのにはそんなに時間はかかりませんでした。しかし、親から信頼を得るのはそんなにたやすいことではありません。
 親の不安の多くは、学校の様子がわからないことと、自分の子どもが本当に自分の考えで動き出すのかということです。そのためには、すべての家族と時間をかけて面接をしています。そして、遊びが子どもの想像性を開花させるということを何度も何度も説明します。こういうことを実現するには、学校事務を担当する人の役目がとても重要になってきます。

質問●サドベリーの予算について教えてください

 予算はすべて授業料のみです。
 サドベリーは開校から15年間はスタッフに給料を払えませんでした。しかし、わたしたちは外部に補助金を求めるようなことはしませんでした。生徒数が200人を超えたあたりから、スタッフにも給料が払えるようになりました。

質問●入学の条件に自分の行動に責任を持つということがありますが、自分の行動に責任を持つとはどういうことでしょうか

 4,5才の子どもたちにとって、自分の行動に責任を持つというのはそんなに難しいことではありません。行ってはいけないところには行かないとか、おとなに見ていてもらわなくても自分だけで心地よく過ごすことができるとか、ほかの子どもをぶってはいけないとか、学校の物を壊してはいけないとか、違法行為をしてはいけないとか、火を使ってはいけないとかです。(備考・ミムジーさんは、リスペクト アザー ピープルと言っていました)
 こういったことが守れない子どもたちは、迅速に司法委員会の手に、その子どもの対処がゆだねられます。10才を過ぎるまでは子どもには、自分の行動に責任がもてないようなことをしたとき、最初だけ説明はしますが、二度目はありません。何度も、このようなことが繰り返される子どもは、司法委員会によって、停学や放校の処分が下されることもあります。
 サドベリーに通う子どもたちも、家庭などのバックグラウンドはさまざまなので、このようなルールに適応するには個人差があります。適応するまでに、だいたい4.5年はかかるでしょうか。その期間は、ティーンエイジャーになってから入学した子どものほうが長くかかります。

質問●学習障害をもった子どもたちに対してなんらかのケアをしているのですか

 何もしていません。自分たちにはその能力はありません。そして、そのための特別なトレーニングもしていません。また、月謝のなかにそのためのサービスを行う予算も含めていません。
 サドベリーにも学習障害の子どもたちはいます。しかし、そのことは親から言われなければわたしたちにはわかりませんし、そのことでサドベリーの生活が困難になるようなことはありません。(つづく)」

5995.8/27/2008
創り出す会の足音...No.59
2002年5月4日 国際文化会館にてカッター女史と

 サドベリー学習会の記録より……
「(ミムジーさんの話)
 子どもたちは、自分がやりたいことを自分のコントロールのなかでやっているので、どの子どももとても注意深く、集中しています。バスケットボール、サッカー、音楽、絵画など、ふつうの場所で考えられるあらゆることをやっています。テレビゲームやカードゲームをやっている子どももいます。だれがどんなことをやっていても、それは等しく価値があることです。そのことは、全校で共通に理解されています。
 つまり、やりたいことはやって、やりたくないことはやらないと思っている人たちが集まっている場所なのです。
 そのため、どの子どもも、自分で自分をコントロールしている存在として、互いに意識しあっています。4才から入学できますが、7-14才ぐらいになると、子どもたちはスタッフも自分たちと同じ、対等な存在として認識するようになります。
 サドベリーバレースクールには、監督という考え方はなく、すべての人がすべての人のことを面倒みなければならず、子ども自身は自分の行動に責任を持たなければなりません。

 一週間に一度、全校集会が開かれ、そこにはだれでも参加することができます。この考え方の背景には、参加型民主主義という考え方があります。集会に参加するかしないかは本人が決めることですが、ミーティングで決まったことは、だれもが守らなければならないのです。三権分立という考え方に従うと、全校集会の役割は立法になります。
 司法の役割は司法委員会が担当しています。司法委員会は全校集会で子どもたちのなかからメンバーが決められます。司法委員会は毎日一時間ほどの委員会を開催します。子どもたちはサドベリーバレースクールでの不満や、自分たちの要求を司法委員会に届けます。司法委員会はそのことについて審議し、妥当な対処をします。司法委員会のメンバー以外は、サドベリーバレースクールで起こるトラブルやプロジェクトについて、自分たちで勝手に「これはいい」とか「これは悪い」という判断をすることは許されていません。司法委員会は、最終的に罰則まで決めます。子どもたちにとって、同じ年齢の子どもたちからの判決は、とても強い影響力があります。(後日談・じつはミムジーさんもダニエルさんも、いままでに何度か罰則を適用されているそうです)

 ここに集まっている人たちは、かなりサドベリーバレースクールのことを知っていること人たちなので、ここから先は、みなさんからの質問を受けていきたいと思います。(つづく)」

5994.8/26/2008
クライマーズ・ハイ-2

 クライマーズ・ハイを読むと、日航ジャンボ機の墜落事故という前代未聞の大惨事が物語の重要な要素だと気づく。そして、もう一つ、その大惨事の現場の描写がほとんど描かれていないことにも気づく。
 そこから、本編は大惨事そのものを扱った話ではないという横山さんの気持ちが伝わってくる。
 群馬県では過去何年も全国的なニュースがなく、新聞社の上司たちはかつて若いころに経験した浅間山荘事件や連続殺人事件の記憶だけで食いつなぐ。若いものたちを相手に説教するときに、決まって「あの頃はなぁ」と得意がる。
 この部分。わたしは、あーわかるわかるとこころで叫んだ。
 学校や教育の世界は、大きな事件があってはならない世界だ。だが、社会が学校を見る目が大きく変化し、かつてとは違った価値観でこどもと接しなくてはいけなくなっている。
 年配の教員が
「あの頃は体罰も居残りも何でもOKだった」
「親で文句を言うやつなんかいなかった」
昔を懐かしみ、少しだけ得意になって、そして寂しそうに、啖呵を切ることは少なくない。
 そんな話を何度聞いても「だから、なに?」と問い返すしかないのだが。
 新聞社を舞台にしている。
 組織のなかで、ひとはいかに人間性を担保しながら生き続けることが可能か。組織のために働きながら、確実に失っていく自らの信念や夢。それも仕方がないんだと、やけになりながら自分に言い聞かせていく多くの登場人物たち。正義感を前面に立てても、結局、組織の一員として最後は上には逆らえない。悲哀。省みない家庭では、家族と自分との間に、修復不可能な距離ができていく。
 横山さんがもっとも得意とするテーマだと思う。
 映画も上映されている。しかし、観ない。そういえば「半落ち」もドラマや映画は観ていない。かつて、小説を読んで映画を観て失望した作品がたくさんある。小説のイメージを自分のなかで壊したくないという気持ちが強いのだろう。映画と小説は別物だと割り切ることができれば、映画も楽しく鑑賞できるのに。もともと映画は好きだから、自分のなかで勝手な区切りをつける必要はない。でも、映画の宣伝を観てガクッ、配役を知って「それは違うだろう」とさらにガクッ。こういうことが多いのだ。
 クライマーズ・ハイを読み終えて、わたしは本屋ですかさず「出口のない海」を買った。これも映画は観ていない。

5993.8/24/2008
クライマーズ・ハイ-1

 クライマーズ・ハイ (文春文庫)を読んだ。
 著者は横山秀夫(よこやまひでお・1957年1月17日生)さん。
 横山さんは、東京都生まれの小説家・推理作家。
 東京都立向丘高等学校、国際商科大学(現在の東京国際大学)商学部を卒業。
 上毛新聞社に入社し、以後12年間の記者生活を送る。1991年に「ルパンの消息」で第9回サントリーミステリー大賞佳作を受賞し、これを契機に退社。以後フリーランス・ライターとして『週刊少年マガジン』にて漫画原作(ながてゆか作画『PEAK!』など)や児童書の執筆、ときには警備のアルバイトなどをする。
 1998年「陰の季節」で第5回松本清張賞を受賞。2000年「動機」が第53回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。2002年には『半落ち』が「このミステリーがすごい!」および「週刊文春ミステリーベスト10」で第1位を獲得。2004年1月同作品は映画化(監督は佐々部清)され公開された。横山は法廷記者としてエキストラ出演している。
 2003年『半落ち』が直木賞候補作となったときのことだ。
 選考委員の北方謙三が、この小説中で重要な鍵となる要素について実際に関係機関に問い合わせたところ、現実ではありえない、という回答を得るに至り、北方は選考会でこの回答を報告、『半落ち』は現実味に欠けると批判され落選した。また本作が数々の賞を受賞したことに対して、選考委員・林真理子が講評の記者会見で「欠陥に気づかず賞を与えた業界も悪い」とミステリー業界を批判し、のちに雑誌で「欠陥があるのに売れ続けるなんて、読者と作者は違うということ」と読者をも批判した。目黒考二は選考委員を非難し、「直木賞にそこまで権威があるのか」と論議が起こる。横山はミステリー作家たちだけでなく読者までもが侮辱されたと反論し、直木賞と訣別宣言をする。
 確かに、半落ちの重要な部分は読んでいてもこれはないかもしれないと感じていた。
 しかし、そこは小説であり、ものづくりという視点からとらえれば、現実味に欠けていたとしても作品の価値とは無縁のものではないかと思う。事実に基づく作品しか評価されないのであれば、小説はノンフィクションばかりになってしまうだろう。
 直木賞と決別しても、横山さんの実力は不変だろう。
 しかし、よほど頭に来たのか、見返してやろうと思ったのか、本編はとても詳しく事実を丹念に積み上げた文章構成になっている。
 本編は、横山さんが記者時代に遭遇した日航機墜落事故取材の体験をまとめあげたもの。小説のなかに出てくる「北関東新聞(通称:キタカン)」が「上毛新聞」のこと。
 わたしは、横山さんの本は本編が最初だった。人物描写の正確さと、リズム感ある筆運びが嬉しくて、その後に「半落ち」「出口のない海」などを読んだ。加えて、一つずつ本屋で買うのが面倒になり「陰の季節」など5冊もまとめ買いをした。

5992.8/22/2008
創り出す会の足音...No.58
2002年5月4日 国際文化会館にてカッター女史と

 10月3日には、メンバーが内閣法制局に国内の法律とチャータースクールの関連性を尋ねに向かった。
 10月13日の湘南小学校には、教育テレビのETV2001取材班が訪れカメラ取材をしていった。
 10月20日には、「湘南小学校、現る」の編集会議を開催した。
 そして11月4日。
 わたしたちは、長い間、夢見ていたアメリカ・ボストン郊外のサドベリーバレースクールから客人を招くことができた。
「サドベリーバレースクールは、1968年に開校したアメリカの私立学校です。
学びのなかみを子ども自身が決めるという方法で、5才から18才までの生徒が通っています。
教師の役割は、子どもの立てた計画を支援したり、子どもに必要な人材を教師として呼んでくることです。
湘南小学校は、このサドベリーバレースクールのやり方を限りなくモデルにしたチャータースクールを創ろうと考えています」(当時のHPより)
 客人の名前は、ミムジー・サドフスキーさん。サドベリーバレースクールの運営面でのトップを任されていた。
 ミムジーさんを招いたのは、わたしたちだけではない。
 むしろ、わたしたちはその話に乗せていただいたかたちだ。サドベリーバレースクールは独自の発想と教育法によって、アメリカ以外にも姉妹校を開校していた。日本国内にも、サドベリーバレースクールを目指すひとたちが大勢いる。このひとたちが中心になって、国内で学習会やシンポジウムを開催する企画があった。わたしたちが、チャータースクールを開校し、サドベリーバレースクールのような学校を作りたいと考えていたことが、このひとたちに伝わり、湘南で企画を打ってみないかということになったのだ。
 会場の藤沢市労働会館第2会議室は、湘南に新しい公立学校を創り出す会関係者だけでなく、サドベリーバレースクールやフリースクールに興味のあるひとたちで埋まっていた。
 当日の記録より……
「(ミムジーさんの話)
 サドベリーバレースクールに、入学するできるのは17才までです。現在、210人の子どもたちがいます。入学の条件は、自分の行動に責任が持てることです。(つづく)」

5991.8/21/2008
閉鎖病棟-2

 歴代の作品の続き。
逃亡(1997年5月)第10回柴田錬三郎賞 (中国語翻訳版有)
受精(1998年6月)
安楽病棟(1999年4月)
空山(2000年6月)
薔薇窓(2001年6月)
エンブリオ(2002年7月)
国銅(2003年6月)
アフリカの瞳(2004年7月)
千日紅の恋人(2005年8月)
受命(2006年6月)
聖灰の暗号(2007年7月)

 現役の医師であり、院長である帚木さんが、ものすごいバイタリティーで作品を書き続けている。職業作家と違い、文章を創り出す時間をいつ確保しているのかなぁ。
 閉鎖病棟は、読むのがつらくなるほど、ひとと社会のひずみを感じさせられる。
 ひとは社会のなかで、順応し、慣習に従い、あるいは私欲を満たして生きていく。
 しかし、よのなかには何らかの脳の障害やこころの病気によって、家庭と病院を往復したり、病院で生活したりするひとが少なくない。
 本編は、まだ日本社会が障害者に対して人権を無視した差別的扱いをしていた戦後を時代背景にしている。しかし、読めばわかるが、当時の人権無視と現在の社会的抑圧は決して異なるものではないことに気づく。退院を渋る家族がいる。警察で面倒見切れない患者が病院に送られる。虐待によって心身が傷つく。
 いくら精神科の専門医だとは言え、ここまで患者の内面が洞察できるのかと、驚いた。
 登場人物の内面や表情、置かれた立場や行動など、とても鮮明に正確に描写され、読むだけで具体的な人物像が視覚的に脳裏に浮かんだ。小説を書くために医師を続ける。医師をするために小説を書く。そのどちらでもあろうし、どちらでもないかもしれない。帚木さんにとっては、医療も著作活動もきっと内面では同じ目的をもった精神活動なのだろう。
 その同じ目的が何かは、本編を読んで感じてほしい。
 最後の最後までこころが締め付けられる思いが続く。しかし、ほんのわずかな結末部分で、その締め付けられた部分が、とてもさわやかにゆるやかに解放されていく。読後の清涼感があふれる作品だった。

5990.8/18/2008
閉鎖病棟-1

 閉鎖病棟(新潮文庫)を読んだ。
 著者は、帚木蓬生(ははきぎ ほうせい・1947年1月22日生まれ)さん。
 現役の精神科医だ。
 福岡県小郡市生まれ。本名、森山 成彬(もりやま なりあきら)。
 東京大学文学部仏文科卒、九州大学医学部卒。ペンネームは、『源氏物語』五十四帖の巻名「帚木」と「蓬生」から。
 東京大学を卒業後、TBSに勤務。退職後九州大学医学部を経て精神科医に。その傍らで執筆活動に励む。1979年、『白い夏の墓標』で注目を集める。1992年、『三たびの海峡』で第14回吉川英治文学新人賞受賞。八幡厚生病院診療部長を務める。
 現在は、福岡県中間市にて「通谷メンタルクリニック」を開業。開業医として診察をしながら、人間の心と社会倫理を鋭く射抜く、ヒューマニズムあふれる作品を世に出し続けている。医学に関わる作品が多く、また自身(精神科医)の立場から『ギャンブル依存とたたかう』を上梓している。
 受賞歴は華々しい。
1975年 - 『頭蓋に立つ旗』で第6回九州沖縄芸術祭文学賞
1990年 - 『賞の柩』で第3回日本推理サスペンス大賞佳作
1992年 - 『三たびの海峡』で第14回吉川英治文学新人賞
1995年 - 『閉鎖病棟』で第8回山本周五郎賞
1995年 - 福岡県文化賞
1997年 - 『逃亡』で第10回柴田錬三郎賞
 歴代の作品のものすごい。
白い夏の墓標(1979年4月)(直木賞候補)
カシスの舞い(1983年10月)
空の色紙(1985年2月)
十二年目の映像(1986年6月)
賞の柩(1990年12月)第3回日本推理サスペンス大賞佳作
アフリカの蹄(1992年3月)
三たびの海峡(1992年4月)第14回吉川英治文学新人賞
臓器農場(1993年5月)
閉鎖病棟(1994年4月)第8回山本周五郎賞
空夜(1995年4月)
総統(ヒトラー)の防具(1996年4月)