5949.6/22/2008
創り出す会の足音...No.37
2001年4月14日 「市民が創る公立学校」刊行
……第3回湘南小学校研究会記録より(つづき)
この部分の協議で少し明らかになったことがあります。
それは「湘南小学校の子どもたち」をどうとらえるかと考えた場合、すでに六歳にまで育った子どもたちには何らかの環境要因が強く影響を及ぼしているだろうということです。それは家庭での親のかかわりだったり、就学前施設での「教育」「保育」だったり、同年齢の子どもたちとの関係だったりするわけです。その「影響」によって、湘南小学校に入学したときから、それぞれの子どもにはかなりの「差異」があるだろうと思われました。
差異とは「興味の持ち方」「意欲持続の時間」「周囲のものを取り込んでいく残り容量」「総合的に学んでいこうとする姿勢」などすべてにおいてです。「差異」は物理量としての差でもあるのですが、時間としての差でもあるとわたしは考えます。何をどれだけ経験してきたかという時間的な差は確実に子どもの現在を考えるときに重要な要素になってくると思いました。
その上にたって、わたしたちは「湘南小学校の子ども」について明確な共通認識を得るにはいたりませんでした。
なぜか。
そこには子どものとらえ方に対する基本的な違いがあったように思います。
一つは「状態」として認識しようというものです。状態ですから、それが「良い」とか「悪い」とか判断するものでなく、あるがままの現在を「子ども」だと認識しようというものです。それが言葉となったのが「子どもは吸収しようとしている」というものではなかったかと思います。
これに対し子どもの心の中にある「意思」を認識しようというものがありました。前向きに自らを実現していくために子どもは生きているのだという考えです。それが言葉となったのが「子どもは自ら学ぼうとしている」というものではなかったかと思います。
このどちらについても、見解はわたし個人のものなので、発言者や同調者にとってはわたしと認識のずれがあるかもしれません。
「吸収する存在」か「学ぼうとする主体」か。
この答えは残念ながらここまでの協議では明確になりませんでした。(引用ここまで)
2001年1月20日に第4回湘南小学校理論研究会を開催した。そのなかで、湘南小学校における学びとは何かについて合意形成をした。
@ 子どもが自分のやりたいことをやる。そのことを湘南小学校では、学びと呼ぶ。
A そのようにして始めた学びには、発展する可能性があると信じる。
B 何もやらないという子どもはいない。すぐに計画を立てられなくても、計画は立ててもすぐに実行できなくても、子どもの心の動きを想像すると、何も考えていないわけではない。
C 小学校だから、必ずこれをしなければいけないという、大人側からの押し付けはしない。
D よって、一般に言われている、基礎学力という考え方は、湘南小学校には通用しない。湘南小学校では、その子どもが現時点で得ている情報や技能を、基礎と呼ぶ。
5948.6/21/2008
考察:アキバ事件[5]
社会性の障害に含まれる特徴のうち、Kについて報じられる内容に関するものとして次のことが挙げられる。
・警戒心や羞恥心の発達にも不全がある
・生命の尊厳や畏怖の念に欠ける
・自分の感情を相手にわかりやすく表現するのが苦手
・他人と感情を共有するのは困難
・ひとと一方的にかかわる(道具的使用)
犯罪を予告していると思われる多くの行動や、証拠を隠滅していなかったり逃亡計画がなかったりする稚拙な行動から、警戒心や羞恥心は皆無と考えていいだろう。正常な犯罪者には動機があり、犯罪を実行した後はそれを隠す行動を優先する。それがまったく感じられない。
トラックで無差別にひとを轢き、倒れたひとをさらにナイフで襲う行動には、生命への尊厳は感じられない。
仕事着がなかったとき、「辞めろってことか」とわめいても周囲は驚くばかりで、Kを理解しようとはしなかっただろう。「どこになるのか、だれか知りませんか」という言葉を使うことができなかった。
ネットに心境をつづったとき、最初の段階では多くの応答があった。なかには励ますものもあった。そういう相手の気持ちを感じる力がなく、一方的に自分を卑下し、同時に社会全体への憎悪を膨らませていった。また女性にもてるとかもてないとか、記号としての女性像を対象にして、個人としての憧れのひとや片思いの相手を具体的にイメージできていない。恋する相手としての具体的な女性ではなく、記号(道具)としての女性像しかイメージされていない。
イマジネーションの障害に含まれる特徴のうち、Kについて報じられる内容に関するものとして次のことが挙げられる。
・わくわくする能力に障害があるので、知らないことや見えないものは不安に感じる
・不安を解消するために、勝手に決め付けることが多い
・一度思い込んでしまうと考えを修正するのが苦手
・不測の事態で混乱する
・原理や原則を抽出することが苦手
・自分の経験が他人の経験とすべて一致すると信じ込む
・自分なりの秩序を守りたいという気持ちが大きい
・興味がかたより、狭い範囲の知識が多い
派遣社員を解雇する計画。いつ自分に降りかかるかわからない見えない不安に対して、極端なほどの恐怖を感じている。この仕事がなくなったら、次の仕事を探そうという前向きな姿勢は見られない。
勝手な決め付けは、Kのネットへの書き込みに随所に見られる。また、強い思い込みがありすぎて、励ましの書き込みを受け付けられていない。
唯一の不測の事態は目的を達成した後に、警察につかまったことだろう。警察につかまらない計画を立てていなかったので、ひとを殺すことが計画のゴールだったと考えられる。
無関係のひとを傷つけたら、自分の親や兄弟がその後、どんな苦しい立場になるのかとか、傷つけたひとやその家族にどんな悲しみを与えるのかという、よのなかの原則を抽出できていない。
相手の気持ちを想像できないので、どうしても自分の経験を世界の中心にしてしまう。周囲のひとも同じことを考えていると信じる。それに流されない存在は、全面的に否定する。職場の同僚や、漠然とした女性像など、自分の秩序を崩そうとする存在が許せない。
興味がかたより、狭い範囲の知識が多いことは、決して間違ったことではない。しかし、ひととの関係不全の裏返しとして、ゲームや音楽、ビデオやネットなどにはまり込んでいく、いわゆるオタク系の心理では、世界を広げられない。
この考察は、決してKを擁護するためのものではない。
また、自閉症スペクトラムという発達障害があればなにをしても罪に問うべきではないと訴えているわけでもない。判例では、アスペルガー症候群と鑑定されても有罪が確定している現実がある。
少なくとも高校を卒業する年齢までに、適切な支援が長年にわたり行われれば、自閉症スペクトラムであっても、社会に適応して生きていく可能性がある。知的能が高いがために、テストの成績だけで優秀の人物評価を与えられ、社会性やイマジネーション、コミュニケーションの障害が見落とされてしまう危険性を、多くのひとに考えてほしいのだ。
6月21日付けの毎日新聞に、警察がKの精神鑑定を裁判所に依頼したと報じていた。今後は病院に移され、専門的な診断が行われる。その結果に注目したい。
(終わり)
創り出す会の足音は次回から復活です
5947.6/19/2008
考察:アキバ事件[4]
四肢に見かけ上の問題がなく、脳の発達に問題があるこどもを発達障害児と呼ぶ。
発達障害は大きく分けて、脳のどの部分に障害が見られるかで、知的障害と情緒障害に分類される。ひとの脳は複雑なので両者を併発しているケースもある。
知的障害は、同年齢のひとたちに比べて、知的能が低い。時間をかけて、少しずつできることを増やしていくことが社会的自立へ向けては有効な手立てだ。おもに大脳新皮質に何らかの障害があると考えられている。大脳新皮質は、脳が進化してきた過程で最後に創られた領域だ。人間の脳とも呼ばれる部分だ。ほかの動物に比べて、ヒトは大脳新皮質がとても大きい。読む・書く・話す・計算をする・覚える・見る・聞く・手指を操作するなど、重要な働きをしている。
情緒障害は、おもに中枢神経に障害が見られると言われている。中枢神経は脳が形成される最初の段階で創られる。呼吸や脈拍などを管理する生命の維持管理装置としての役割を果たす。また、相手との距離感や表情から感情を読み取ること、その場の空気を読むことなど、社会的な存在として必要な能力とも関係している。
情緒障害は、その特徴によってさまざまな障害名がついているが、そんなことはどうでもいい。すべてを自閉症スペクトラムという範疇でとらえた方が、臨床的な判断ができる。
自閉症スペクトラムの大きな特徴は3つある。
とくにきわだつ不得手な三つの発達領域を1996年にローナ・ウイング(児童精神科医・英)が示した。
・社会性の障害(ひとと相互的にかかわって場にふさわしい行動をとる能力の不全)
・コミュニケーションの質的障害(相手との相互的コミュニケーションを楽しみ発展させていく能力の不全)
・イマジネーションの障害(思考と行動の柔軟性の発達不全)
この3つの特徴は、ひとが社会的に生きていくときには致命傷になりやすい。よほど、周囲が理解しないと、仲間はずれやいじめの対象になる。就職しても長続きしないだろう。だから、幼年期からの専門的な指導や支援が必要になる。
自閉症スペクトラムの発生率は100人に1人ととても高い。珍しくない障害なのに、成長してから事件を起こすひとが多い。それは、100人に1人の自閉症スペクトラムのうち、6割から7割が知的障害を伴わないからだ。
つまり自閉症スペクトラムの特徴をもちながら、150人に1人ぐらいは勉強ができ、なかにはとてもできるひともいて、進学校に行くケースもある。就職も結婚もする。しかし、自閉症スペクトラムとしての特徴が成長とともに消えることはないので、成人してから、社会との不適合・不適応に悩むことになる。こどものうちは、勉強さえできれば許される日本固有の学校的価値が自閉症スペクトラムの問題行動を隠していると言える。
当然のことだが、親にはこどもが自閉症スペクトラムであるという自覚症状はない。
最近、事件を起こし、裁判で精神鑑定が行われ、アスペルガー症候群と診断されるケースが多い。成人してから、アスペルガー症候群と診断されたということは、かなり顕著な特徴が発現していたのだろう。もっとこどものときに周囲が気づいてあげればよかったのにと、そういう記事を読んで思う。
アスペルガー症候群は、知的障害を伴わない自閉症スペクトラムのほとんどと考えていいだろう。適切な特別支援教育を受けてこなかったがために、成人して犯罪を犯してしまう悲劇の責任は、だれにあるのだろう。
判例では、アスペルガー症候群と鑑定されても、正常な判断能力はあると認定され、有罪になるケースが多い。アスペルガー症候群だからといって、決して軽い障害だと誤解してはいけない。適切な支援がない限り、生き方が困難なままおとなになっていくのだ。
創り出す会の足音は休載します
5946.6/18/2008
考察:アキバ事件[3]
文部科学省は、青少年が切れる現象について、脳科学的に研究するチームを発足させると発表した。
異常行動をとる青少年のものの考え方を、その本人の成育や環境に限定するのではなく、脳の発達の問題としてとらえようとする試みならば意味があるだろう。しかし、統計をとったり、分析したりするだけでは、まったく意味がない。具体的な手立てが実行されない限り、時間が経過すれば予算がカットされチームは消滅するのだろう。
また、わたしは今回のKの行動は、決して切れた勢いによるものとは考えていない。
出勤した。仕事着が用意されいなかった。
「くびってことか」
ロッカーを蹴っ飛ばし、大声でわめき、勝手に職場を放棄した。
ことしの4月に派遣労働者を大量解雇する方針を会社側から伝えられていた。その不安感が増幅して、仕事着がなかったことで爆発したととらえることもできる。しかし、実際には仕事着は用意されていた。Kが見落としただけなのだ。
学校で100点ばかりを取っているひとたちは、人格的にも、人間的にも優れているという、日本独特の価値観を根底から見直さないと、文部科学省のチームは何の成果も挙げられないだろう。
職場で仕事着がなければ探せばいい。探しても見当たらなければ同僚に尋ねればいい。
「おかしいなぁ。いつもならここにあるはずなんだけど、俺のつなぎを知らないか」
「週明けだけからリネンから回ってきて、新調されたものが別のところにあるんじゃないのか」
「あーそうだった。ありがとう」
Kは、こういうコミュニケーションを職場のひとたちととったのだろうか。それでも、仕事着がなくて、駄々っ子のようにわめいたのか。
わたしはKを知らない。見たこともない。話をしたこともない。
だから、Kを決め付ける手がかりを持たない。
だけど、Kのような行動や考えをする多くのひとたちと出会っている。そのひとたちとの日常を通して、Kがどうして今回のような事件を起こしたのかを想像することができる。もちろん、Kの見たてはまったく外れているかもしれない。だから、Kとはこういうひとだったとか、こういうひとだったのかもしれないなどと、考えようとは思っていない。しかし、わたしが日常的に出会っているKのような行動や考えのひとたちが、成長して同じような事件を起こしてはほしくない。
だから、今回の事件で報道されているKの人物像を、もう少し別の視点からとらえて、よのなかにたくさんいるだろうK予備軍が、社会的に生きやすいようにするにはどうすればいいのかを考えたい。
創り出す会の足音は休載します
5945.6/16/2008
考察:アキバ事件[2]
Kは警察の取調べに対して、動機につながる供述をしている。
仕事がうまくいかなかった。自分が馬鹿にされていた。むしゃくしゃしていた。女性にもてなかった。よのなかがいやになった。だから、秋葉原に行ってひとを襲うことを考えた。
この動機につながる供述は、Kの尋常ではない精神構造を現している。尋常ではないというのは、通常のものの考え方では、そういう結論にはならないだろうということだ。
つまり、仕事がうまくいかないひとはたくさんいる。馬鹿にされることだってだれにでもある。むしゃくしゃしたくなるときは、わたしだってある。女性にもてない自分を悲観しているひとだってたくさんいるだろう。わたしはしょっちゅうよのなかがいやになる。
それでも、こういう理由の結論が、無関係のひとを襲うことにはつながらない。そんなことをしても、不満や不平は何一つ解消されないことを知っているからだ。Kは偏差値の高い高校に進学した知的能力を有しているにもかかわらず、こんな単純なことが理解できていない。無関係のひとを襲ったら、新たな悲劇が生まれるだけで、自分を含めて家族や友人も生きてはいけないような地獄の始まりになることを、多くのひとは知っている。だから、そんなことはしない。また、無関係のひとには、家族や友人がいて、そのひとたちからの恨みや憎しみが生じるだけで、やはり何も自分の苦しみを解決することにはつながらないことに気づく。だから、そんなことはしない。
それなのに、Kは北陸地方までわざわざナイフを買いに行き、事件を起こした前週にも秋葉原を下見している。とても用意周到なのだ。こうと決めたゴールに向かって、揺るがない計画を淡々と実行している。
ブログやネットの掲示板に、刻々と心境や行動をアップしている。それを「だれかにわかってほしい、救ってほしい気持ちの現れだったのではないか」と指摘した専門家がいた。わたしはそう思わない。わたしは、自分の行動を記録するための手段としてKはネットを使っていたと考える。計画したことを着実に実行しているかを確認するための手段だったのではないかということだ。手帳への書き込みと同じだ。手帳と違って、不特定多数からの反応があるから、多少のつながりを意識したとも思われるが、決して反応と同調する姿勢は見せていない。そのことからも、とても救いを求めていたとは思えない。
また警察の取調べに対して「ネットに書き込みをすることによってだれかに制止してほしかった」と供述したと新聞では報じていた。この供述にも疑問がある。あれだけの細かい書き込みをして、救いや制止を求めていた。しかし、その手が差し伸べられないから、行動をエスカレートさせた。これが事実なら、かなりの性格異常か、人格の破綻が想像できる。常軌を逸した精神状態で、ナイフを用意したり、車を借りたり、高速道路を使って運転したりできるとは思いにくい。
警察の取調べは、取調官の質問に対して応じる形が一般的だ。その答えを調書に書く段階で、主語が容疑者になる。
「どうして、ネットにあんな書き込みをしたんだ」
「書き込みをしたんだ」
「おい、それを聴いているんだ」
ひとを刺した感触や、流れた血の記憶、怒号や罵声、ひとが自分を取り押さえた事態に直面して、極端に精神状態が高揚し、整理できない状況だと予想される。自閉症スペクトラムでは、そういう自分のなかで情報が整理できない、つまり相手が自分に何を聴いているのかを考えられないときには、エコラリアといって、相手の言葉を即座に返す傾向がある。即時のエコラリア(鸚鵡返し)という。
「ああやって、細かく書き込むことで、だれかに制止してほしかったのか」
「制止してほしかったのか」
「やっぱり、そうなんだな」
「そうなんだな」
「よし、じゃぁ調書を作るぞ。わたしはだれかに制止してほしくて、ネットに書き込みをしました。これでいいな」
「これでいいな」
取調べの現場に、精神医療の専門家がいれば、こういう応答からすぐに自閉症スペクトラムであると判断するだろう。
5944.6/15/2008
考察:アキバ事件[1]
2008年6月8日。東京の秋葉原で無差別殺人事件が発生した。歩行者天国にトラックで突っ込んだ男が、さらにナイフを振り回して通行人を殺傷した。7人が亡くなり警察官を含めて10人が負傷した。
たまたま現場に居合わせた医師が救急隊に引き継ぐまで応急的な措置をした。学会で東京に来ていた医師は、飛行機で帰るまで時間を使って秋葉原で楽器を買おうとしていた。そのときに惨事に遭遇する。多くの負傷者を救護しようとするひとたちに指示を出し、トレアージュさながらの措置をした。その医師が、現場での応急措置をしているとき、負傷者をただ興味本位で覗き込むだけの見学者に対して、ぶん殴ってやろうかと思ったと感想を述べている。
このことは、無差別殺人事件の報道では、あまり報じられていない。わたしは、犯人の男の異常さと同じぐらい、この医師が感じた憤りも、この事件の特徴であろうと感じている。目の前の惨事や傷つくひとたちを傍観し、観客になりきってしまう感覚は、傷ついているひとたちやそれを救護するひとたちの気持ちを想像する力を失っている。何もしないで傍観するなら、きっと惨事の現場では邪魔なだけの存在だ。しかし、自分が邪魔だと思われていることには気づけない。
相手の気持ちを想像する力が欠如しているか、もともとないか、減退してしまったか、麻痺してしまったか。いずれにせよ、それはひととしての社会的な能力が低いことを意味している。
青森県出身の25歳の男Kは、青森県内で有数の偏差値の高い高校を卒業し、短大に進学。静岡県で人材派遣会社の仲介で自動車会社で塗装の検査係をしいた。
この履歴を知って、まず思うことは知的には高いということだ。学校的な課題には、問題なく答えを用意できる記憶力や判断力があったと想像できる。さらに新聞報道では卒業文集が紹介されている。そのなかで、親の意向に従っているからよいこどもに思われるのは当然だという書き込みをしている。思春期を経た男が、自分を紹介するときに、親の産物であることを自慢する傾向そのものが何らかのコンプレックスを背負っていると判断できる。父親は勉強には厳しかったらしく、Kがこどものときは家から父親の怒鳴り声が周囲に聞こえたという。
知的に高く、親の精神的な支配から脱しきれないまま高校と短大に進学したKは、いいひとを演じてひとをだますことぐらい簡単だと、ネットに書き込みをしている。親との関係を良好に保つために身につけた術だと思うが、自我の形成が必要な時期に、親の顔色をうかがう人格を優先させてしまったのか。
ひととひととの関係は、支配と従属ではない。しかし、こども時代に親の支配力が強すぎると、こどもは精神的な自立がはかられないまま成長してしまう。いつまでも従属する考え方から抜け切れず、欲求不満を何らかのかたちで解消しようと試みる。なぜか、多くの場合はテレビゲームなどのひとを相手にしない対象に向かう。従属することを受け入れながら、そんな自分がゲーム世界で支配者になろうと試みる。とても悲しい一方通行だ。地面に穴を掘って「王様の耳はロバの耳」と叫んでいたほうが健康的かもしれない。
創り出す会の足音は休載します
5943.6/14/2008
創り出す会の足音...No.36
2001年4月14日 「市民が創る公立学校」刊行
もともと湘南に新しい公立学校を創り出す会の活動を出版しないかという話をいただいたとき、メンバーのなかでは消極的な意見が多かった。まだ目標を達成していないので、時期尚早だというものだった。だから2日に話をいただいて、いったん12日に会って、お断りをした。しかし、社長の熱い思いや、メンバーのなかでの再考もあり、「より多くのひとに活字として湘南に新しい公立学校を創り出す会を伝えよう」という結論になった。年末の26日に東京まで行ったのは、お断りした話を撤回し、出版の意向を伝えるためのものだった。
しかし、プロの作家ではないのでまとまった時間などない。わたしは年末年始を集中的な執筆期間に設定した。
打ち合わせたプロットにしたがって章ごとに書く。できた段階でメールで送る。コモンズからプリントアウトした原稿がファックスで届く。幅の広いきし麺のように長いファックスが延々と続いた。そこに、書き直しの指示が太いマジックで入っていた。ファックスだから赤鉛筆の指示はわかりにくい。マジックの指示は見やすかったが、大きく×が数行に渡り引かれ、欄外に「トル」と書かれると、さすがにガクッとした。書き直しをしながら、別の章を新たに書き下ろした。その繰り返しが年末から年始にかけて連日続いた。
また、活動の全体像を正確に伝えるには個人に向き合う必要があった。たとえ仮名にしても読むひとが読めばだれだか判明してしまう。だから、登場したこどもたちや取材に来られたひと、スタッフには掲載部分をその都度送った。内容に不備や認識違い、誤解がないか。活字にしてもかまわないか。いちいちその了承を得た。写真もたくさん掲載した。写真は個人が特定されるので、用意した写真に写っているひとたち全員分を焼き増しして、掲載の了解を確認した。もちろん、文章にしても写真にしても掲載を遠慮するひとがいた。そのたびに、本文を修正した。また、こどもの活動についての描写でわたしの見立てと保護者の見立てに食い違いがあったときは、掲載を見送った。ごり押しして掲載しても、不承不承掲載しても、どちらも後味が悪いと判断した。
コモンズからの編集の指示は細部に及んだ。
「いろいろとは具体的に何ですか。最低三点は具体的に列挙してください」
「この会話は文脈上無関係です。トル」
「この場所を特定する具体的な季節感や周囲の景色描写を入れてください」
「語尾の過去形が続きすぎ」
「体言止は連続しない」
まるで、作文の添削のようだった。あらためて、自分の作文能力の低さにため息をつきながら2001年、つまり21世紀の元旦を迎えた。
湘南小学校理論研究会は年末年始にかけて、湘南小学校のこども観を検討していた。
……第3回湘南小学校研究会記録より
湘南小学校において打ち出している「学習の中身を子どもが決める」という前提には、「子どもには自分で何かを決める力がある」という共通認識があるはずです。あるいは、完全にではないにせよ、「自分で物事を決めていきたいという気持ちだけはある」と考えていると思います。
この大前提がないと、「学習の中身を子どもが決める」ことは不可能になります。あるいは、自分で物事を決められるような「指導」を事前段階として取り入れる必要が生じてくるのです。(つづく)
5942.6/13/2008
創り出す会の足音...No.35
2001年4月14日 「市民が創る公立学校」刊行
藤沢から小田急線の各駅停車で2つ目、善行という駅がある。そこから歩いて15分ぐらいの谷あいに、乾塚市民の家があった。
創り出す会は12月9日(土)から、無認可湘南小学校を開校した。夢キャンに参加したこどもの保護者が夏休みだけのイベントではなく日常的なつながりを大事にしたいという声があがり、それをかたちにした。
無認可湘南小学校は翌年の2001年7月14日まで毎月一回ずつ藤沢市内の市民の家を使って開校した。学びのなかみをこどもが決めるという学びのスタイルを受け入れるこどもたちが確実に湘南にはいるという証明だった。
2000年12月の手帳を振り返る。
2日(土)ワーク。コモンズの相談。
4日(月)ソニーとの面談。18:00藤沢。アキズコーヒー。
7日(木)ふれあいあさひ・Tさん。17:00大船。
8日(金)木更津市民ネットワーク取材。16:00大船。
9日(土)無認可湘南小学校。
12日(火)コモンズ社長。18:00大船。
14日(水)電通ふむふむネットHさん。17:00大船。
16日(土)湘南小学校研究会14:30事務所。プレイボーイIさん。17:30藤沢。
20日(水)構想日本。19:00東京。
22日(金)定例会18:00市民会館。
26日(火)10:00事務所で全国チャータースクール推進協議会構想。14:00コモンズ社長と大崎で。18:00U助教授と品川で。
27日(水)教育家庭新聞Nさん。18:00大船。
コモンズとは、出版の話をいただいた出版社だ。手帳には記載していないが、無認可湘南小学校の準備作業のため、仕事帰りに事務所に連日詰めていた。月の中盤は理論研究会の資料を作成した。構想日本とはシンクタンクで、教育に限らず多くの提言をしている。全国チャータースクール推進協議会構想とは、全国的に広がりを見せたオルタナティブな教育活動を支援するナショナルセンター設立へ向けての考えだった。
いくつもの複層的な内容が同時進行で駆け抜けていた。もちろん、わたしを含めメンバーはみんな仕事をしながら、この活動を乗り切っていく。
5941.6/12/2008
創り出す会の足音...No.34
2000年11月19日 NHKスペシャル「世紀を越えて:未来世代 市民が学校を創る」
放送終了後、となりに住んでいた母がやってきた。
「見たわよ。みなさん元気そうねぇ」
電話が鳴りっぱなしになる。下北沢の叔父からだった。
「言ってくれれば、帰りにお店で夕飯を出したのに」
叔父は大崎でレストランのオーナーをしていた。東京に行く機会が多かったが、大崎に寄ることはしなかった。でも、放送以降、東京に行くときは事前に連絡をして帰りには立ち寄るようにした。
品川の祖母からも。
「ネクタイの色が悪かったわ。今度、贈るから」
数日後、帝人のシックなネクタイが贈られてきた。
後に来た北海道の恩師からの手紙には「テレビを見ました。相変わらずエネルギッシュで安心しました」と書いてあった。
みんな、かんじんのなかみの感想ではなかった。
しかし、この日を境に明らかに学校教職員世界の対応は変化した。これはきっとわたしだけなく、放送された映像に映ったメンバーも同じだったのではないかと思う。
それまで、創り出す会の存在は「何かあやしいことを企んでいる秘密結社」のような印象だった。組合とも関係ない。宗教でもない。でも行政にものを言う。陳情を出す。公共施設でイベントを行う。できればかかわりを持ちたくないと多くのひとの顔に書いてあった。
わたしは2000年4月に異動していた。新しい学校に赴任したとき、知り合いがいなかったせいもあるが、多くのひとが「学校破壊論者が来る」と言って噂していたと後で聞いたほどだ。
そのひとたちも含め、何もかもが、放送を境に態度を一変させたのだ。
「なかなかおもしろいことをやっているんだね」
「会報とかあったら、ほしいな」
「いままで苦労がたくさんあったでしょ」
「いつごろ湘南小学校は開校する見通しなの」
「今度、定例会に行ってもいいかな」
みんなNHKが取り上げたのだから、それはもうよのなかのお墨付きとでも感じたようだった。
メディアが世論を先導し、ときには世論を作っていくとは、こういうことかと納得した。創り出す会は、11月18日も11月20日も何一つ変化していないのに、それを見る周囲が11月19日を境に勝手に考え方を転換したのだから。
また、この放送を契機にして、わたしに出版の話が舞い込んだ。自費出版ではない。出版社からの正式な出版依頼だった。
5940.6/11/2008
創り出す会の足音...No.33
2000年11月19日 NHKスペシャル「世紀を越えて:未来世代 市民が学校を創る」
わたしたちは、活動の発足当時から、活動のなかみを公開していた。部外者お断りにしなければならない理由がなかったからだ。
だから、考え方の異なるひともたくさん参加して持論を展開した。
自分たちの考えを確立していくためには、反対意見も含めて社会の声を受け止めていくことが必要だと思った。自分がやりたいことだけに没頭するなら、私立学校を作ればよかったからだ。公立学校を目指している以上、税金が投入されるコンセンサスをはかっていくことが求められた。
メディアのひとたちは、テレビ、雑誌、新聞を含め、多くが取材に来られた。わざわざ湘南の地まで足を運んでいただくのは申し訳ない気持ちがした。しかし、記事や番組になって創り出す会のことが多くのひとたちに伝えられると、趣旨に賛同する一般のひとたちが活動に興味を抱いて物心両面の支援をしてくれた。そのなかでもNHKは全国ネットで、創り出す会の活動や考え方を伝えてくれたので反響も大きかった。
わたしたちは、決してメディアを利用しようとは思っていない。社会的な話題として、多くのひとに伝えようと記者やディレクター、プロデューサーの方々が判断して取材してくれているのだ。
教育委員会に行けば、仕事を終えた時間を指定される。市議会に陳情を出せば了承されない。法律を作る権限がわたしたちにはない。やりたいことははっきりしているのに、それらをやろうとする下地が行政から得られない。多くのひとたちが、実際にはどう考えるのか。それを確かめるためにシンポジウムを開催した。しかし、それさえも、きわめて限られた地域のひとたちが足を運ぶことしかできなかった。その点、メディアに取り上げられることは、全国的なスケールで創り出す会のことを知ってもらう絶好のチャンスになった。
「あのひと、怒っていたね」
「心象を悪くしちゃったかな」
永田町からの帰り道、円卓会議のなかみではなく、テレビ取材が入っていたことを憤っていた文部科学省のひとのことが気がかりだった。きっと偏差値の高い大学を卒業して、国家試験に合格して、念願の官僚になったひとだろう。それが、地方の教員ふぜいと対等に、同じテーブルでテレビ取材されたことが想定外だったのか。しかも自分は官僚言葉を使い、相手は本音をずばずば持ち出す。絵柄としては自分が相当悪く映っていると感じたのだろう。
11月19日は日曜日だった。大河ドラマが終わって、世紀を越えてのオープニングがかかった。ビデオをデッキにセットして、わたしはふだんはあまり見ないテレビの前に鎮座した。
前半はアメリカのチャータースクールの紹介だった。1960年代から公立学校での社会的な問題がクローズアップされ、いくつかの改革が行われた。その一つとして、1991年にミネソタ州で初めて可決されたチャータースクール法が全米で広がりを見せている。その成果と課題が映像で伝えられる。
後半、東京の山手線の映像に替わる。心臓がドキドキした。藤沢市民会館で夢キャンをしているときの映像が流れた。素人のビデオ撮影とはやはり違う。事務所での検討風景も流れた。そして、松平アナウンサーによる創り出す会の紹介。
「そのとき歴史は動いた」ではありません。
わたしの家にも取材に来た。わざわざ日が暮れるのを待って、窓の外から書斎の風景を撮影していた。音声やカメラマンは鎌倉の蚊にあちこち刺されて苦労していた。その映像も流れた。
5939.6/10/2008
創り出す会の足音...No.32
2000年11月19日 NHKスペシャル「世紀を越えて:未来世代 市民が学校を創る」
夢キャンを終えた2000年の秋は、湘南小学校理論研究会の資料作成や、議事録の整理に追われた。
サドベリーバレースクールに感銘を受け、チャータースクールに衝撃を受け、日本国内に新しい公立学校制度の実現を目指してきた湘南に新しい公立学校を創り出す会の根幹にかかわる部分だ。それを理論的に構築しようと試みたのだから、たやすいものではなかった。
しかし、この活動はいつも重層的に、進んでいく。
以前、民主党の金田代議士に誘われた市民政調がもう一歩踏み込んで、文部科学省との円卓会議を開くという情報が入った。しかも、今回は湘南に新しい公立学校を創り出す会が前面に出て、直接、願いを伝えていいという話だった。当日は多くのフリースクール関係者が傍聴するかもしれないが、創り出す会の話題をメインに進めていくと言われた。
10月5日は水曜日だった。指定された時間はこどもが帰った時間とはいえ、午後3時ごろだった。理事メンバーは休暇をとって、永田町の衆議院議員会館に向かった。
あまり大きな部屋ではなかったが、会議室に通された。文部科学省の初等中等局から2人の方がテーブルの向こうに座る。こちら側には創り出す会の理事がずらっと並ぶ。正面には司会役の金田代議士がにこやかに立つ。わたしたちの後ろには、フリースクール関係者がずらっとパイプ椅子に腰掛けていた。
わたしたちは、不登校のこどもが増加している現状を伝え、公教育の枠内にオルタナティブな教育機関設置の必要性を訴えた。傍聴に来ていたフリースクール関係者は、自らがフリースクールを運営しているひとたちだったので、国や都道府県からの補助の必要性を訴えていた。
「みなさんのおっしゃることは、うちとしても憂慮すべきこととして受け止めています。しかし、創り出す会のみなさんにはまず学校で最善の力を発揮していただいて、こどもたちが学校を楽しいと感じられる実践を積んでほしいと願います」
創り出す会のメンバーは、発足当時こそ教員が多かったが、円卓会議に臨んだこの時期には必ずしも教員だけではなくなっていた。どこから「教員グループ」という情報を得ていたのかは知らないが、文部科学省の官僚は、そう言ってしめくくった。また、終了後に今後のことも含めて挨拶すると
「なぜ、テレビが入ることを事前に知らせてくれなかったのか」
と憤っていた。
テレビ取材があることは、事前にわたしたちは知っていた。しかし、場所が議員会館内なので、わたしたちの了解があっても簡単にはできないことだ。代議士に話を通してほしいと取材先のNHKには伝えておいた。わたしたちはテレビも含め、メディアに隠すようなことは何もしていない。また、メディアがいる場で言葉を選ぶ必要もない。だから取材を受けたのだが、そのことを円卓会議の相手官庁になる文部科学省サイドに、わたしたちが報告する必要など考えもしなかった。テレビがあると本音がしゃべれないのか。
それが霞ヶ関のルールとは、田舎者のわたしたちには気づきませんでした。
2000年の春に、NHKのKディレクターから取材を受けていた。定例会や夢キャンを定期的に取材させてほしいという要求だった。定例会や理事会で相談して、取材を受けることにした。当然、こちらの活動についてはディレクターには伝えていた。2000年は20世紀最後の年だった。NHKは各分野ごとにテーマを決めて、20世紀の課題と21世紀への希望を込めた「世紀を越えて」というドキュメンタリーを制作していた。
Kさんはそのなかの教育に関するドキュメンタリー制作を任されていたのだ。放送予定は11月19日。本来ならもう取材は終了していて番組の編集に入る時期だったそうだ。それでも、国の対応を撮影する必要から円卓会議の取材を決めた。
5938.6/9/2008
創り出す会の足音...No.31
2000年11月19日 NHKスペシャル「世紀を越えて:未来世代 市民が学校を創る」
……第1回湘南小学校研究会記録より
・ 何を学ぶかは子どもたちが決めること。
・ どういうふうにやっていくかを決めるというなかでは、何人かでまとまる、いっしょにやることもあるだろう、ということ。
・ 何を用意するかは、大人が話し合って考え準備していくということ。
それでは子どもたちが学びを展開するときに「用意されるもの」にはどんなものがあるのでしょうか。
そこにはビデオテープや書籍などといった「もの」や、小川や林や町といった「風景」があります。これらを「場」と呼ぶとしたとき、これ以外にも大人がプランを示していく「ひと」という要素も含まれてきます。
料理を作るとか、工作をするとか、楽しみながら漢字学習をするなどといった大人側からの働きかけについて、どのように考えていけばいいのでしょうか。これらは子どもたちに強制するものではないにせよ、子どもの活動を方向付ける可能性を含んでいます。「場」も同様に子どもの活動を方向付ける可能性を含んでいるのですが、「ひと」がもつ意味と「場」がもつ意味は子どもにとって均等な価値のものなのかは意見が分かれるところです。
・ 子どもが選択する力を考えるときに、何を(どれくらいの範囲のものを)そろえたかということは、情報の制御。子どもがどう受け取れるか。中身が偏っていたり。どこまで用意するか、という問題。場合によっては情報によって操作されてしまうと思う。その中に人の情報も含まれるのではないかと思う。
・ そんなに心配しなくても、子どもがどんどん持ち込んで最初の設定だけが維持されるわけではない。
・ 誘う人が嫌だと、内容が魅力的でも乗りたくないと思う。「からみ」という要素は「もの」とは違う気がするのだが。
・ 子どもは案外自分で選んでいくと思う。
・ 大人が何人かそろったときに、その顔ぶれでもう雰囲気が違う。存在そのものが場を作っている。その情報は言葉として発信しなくても子どもは受け取り、切り離せないと思う。
子どもたちが学ぶ具体的な場は大人たちが意図的に用意する必要があるというコンセンサスがはかられました。
湘南小学校では子どもたち自身が何を学習するかということから始めます。このことは大人が一方的に学習内容を決めたり、指示したりしないことを意味しています。しかし、そうすると同時に、子どもたちはわがままになり、やりたい放題になってしまうのではないかという心配も生まれます。そんなとき「自由と責任、自由と社会」についてわたしたちはどのように考えていけばいいのでしょうか。
・ この文章のように、自由について小さくまとめると問題がある。日本には、幕末前までは『自由』という概念がなかった。幕末に咸臨丸でアメリカに行った福沢諭吉がアメリカの自由(フリーダム)に驚き、日本語でなんと訳せばいいか考えた末、『自由』という言葉に決めた。そのせいもあって、日本人の持つ『自由』に対するイメージはバラバラだ。責任が含まれてない。また、他人をリスペクトするという意味も、相手の痛みを感じる・思いやりなどとはニュアンスが違っている。リスペクトは、自分以外の人の存在を認め、敬意を持つといった意味だ。相手を常にリスペクトする心をもつことが大事。勝手気ままを自由だと思っている人が多い。たとえば、3歳ぐらいの子どもが他人の子どもを砂場でシャベルで殴ったりことを抗議した親に対して、『うちでは子どもを自由にのびのび育てていますから・・・』と言う人もいる。また、ルールは、教えるものではなく、ルールはなぜあるのか、なぜ作るのか考えることが大事。社会のルールより自由を先行させるべきだと発言した方は、押し付けられるルールより、という意味で言っているのではないか。勝手気ままであり続けるのは、人にとってかなり厳しいのではないか。GHウエルズは、社会保障にしろ、いろいろ与えられ過ぎて無気力になっていく人間について書いている。
・ 小学校入学以前の段階で(人との関係の取り方は)形成されているもので、就学以前から考えていかないといけないのではないか。自由の保障のためには相手の自由も保障する、そのために自分も責任をもつ、ということを頭で理解するのではなく、けんかなどの機会に体で理解するためには低年齢のうちに。幼稚園も提案すべきではないか。
・ 湘南小というのは、それまで背負ってきたことはあっても誰でも受け入れるというものがあるので。幼児期から高等教育までサドベリーバレーのような学校を作るという考えも理想としてはあるかもしれないが、どういう状況で入ってきてもそのままの姿で受け入れる、というか。・ 選ばれた子どもたちだけの方がいいようなことになる。さまざまな子がいる中で、じゃあどうしていくのか、ということをこれから話し合っていく。最終的にこういう子どもを育てたい、ということが大事。
・ ドリームプラネットは入学でそれまで引きずってきたものを一度リセットしていくという考え方をもっている。全部はリセットできないけれども。湘南小では、入学後どうしていくかということを考えていく。
・ 湘南小では、よっぽどの忍耐力とプロ意識がないとできない。自由と責任は表裏一体。教えるものではなく、感じて身につけるものだと思う。
(第1回湘南小学校研究会の記録からの引用は、とりあえずここまで)
テストマッチや夢キャン、定例会に興味半分で顔を出した参加者が、湘南小学校のこどもたちはわがままに育つと感想を言うことがあった。しかし、こういった議論をわたしたちが別の機会に繰り返していることを伝えても、それに参加して持論を展開しようとはしなかった。
5937.6/8/2008
創り出す会の足音...No.30
2000年11月19日 NHKスペシャル「世紀を越えて:未来世代 市民が学校を創る」
1999年のテストマッチ、2000年の夢キャンを実施して、わたしたちはそろそろ湘南小学校の教育理論について、ある程度確立する必要を感じていた。
まなびの中心をこどもにする。その考え方は、こどもは何も知らないという考えからスタートする現在の公教育とは大きく地平を分かつ。何も知らないから、おとなが教える必要が生まれる。これに対して、わたしたちはこどもは自分が興味あることを中心にしてまなびを広げていく力があると仮定していた。考えの方向性に間違いはないと実感していたが、メンバーが理論家の集まりではないので、学術的な科学性を問われるとうまく応じられなかった。
そこで、定例会やワークとは別に定例の研究会をスタートさせた。それが「湘南小学校教育理論研究会」だ。
まんまのネーミングです。
10月21日を第1回として、翌年の6月9日まで9回開催した。
……第1回湘南小学校研究会記録より
果たして本当に子どもが何も無いところから自分の考えで何をするか、どうやってするかという学習のスタイルを確立することができるのかどうかという疑問はたえずわたしたちの脳裏をよぎりつづけています。そのためにサマースクールなども行ってきましたが、それでさえも数日間の取り組みであり、決して通年の実践まで考えを飛躍できるものではないと感じています。
その部分で考えを明らかにしておかなければならないのは、子どもたちが考えるときにその周囲の「ひと」や「もの」はどのように子どもと関係をもつのかということです。
・ 小さい頃から見つけられるようになるための段階として、そのためにどういう過程があったらいいのか。もっと小さい頃からそういう機会を与えるべき。本当に難しい。
・ 子どもだけの世界で見つけることもできるが、それでも刺激があった方がいい。
・ 小さい頃はまだできない、というイメージがあるのではないか。そういうことをここで話し合うべきではない。コースづくりなどは簡単。おもしろそうなことを用意して子どもにふるのはいくらでもできる。小さくても見つけられると思う。
・ 子どもは目の前に現れた時点で、すでに社会的存在でありからみが出てきている。「これはどう?」なんて誘うのはお節介で、そこにいるだけですでに背中に背負ってる。
・ フレームワーク(環境)がいいと思う。テーマは決めないで、いろんな遊具が置いてある、夢キャンの市民会館のような学びの場の環境を与えるということ。その中にいるということが、ある意味で制御された環境を与えられている、ということ。サドベリーバレーならサドベリーバレーの、ドリームプラネットならドリームプラネットの、自由な雰囲気というような。
ここでわたしたちが共有するのは、子どもたちに大人が一方的に与える刺激が教育ではないだろうということです。この考えは現在の学校教育の方向性とある意味でまったく反対のことを意味しています。
現在の学校教育は、すでに子どもたちが学ぶべき内容が決められていてそれを子どもたちが教員によって学ばされているのが実状です。
・ 今の学校だとこれが正しい、これが意味があると決められた中でやることになっているんだけど、もっと多様なテーマ(実験器具や本が山ほど置いてあるとか)を子どもたちは選ぶんじゃないか、と思う。
・ 大人が先へ先へと指し図しない学校。(今の学校では子どもたちに)考えさせるよりも先に教師がレールを作ったりしているので、そういうのをしない。子どもたちの可能性を引き出していく。
・ 教師の方も教師を辞めていかなければならない。大人と子どもの関係を変えたい。
・ 楽しくて厳しい学校。自分で考えるのは厳しいことだ。先に周囲が決まっていくときや、先に決まってからといっても絶えず試されていたりとか。でも、それはきっと生きていく上で楽しいことだと思う。
その上でわたしたちはまず次の合意をしました。(つづく)
5936.6/5/2008
創り出す会の足音...No.29
2000年6月17日 夢キャン2000開校
◆アンケートに見られる保護者の声◆
夢キャンを通じて子どもの姿に変化が見られたと答えた人のコメント
・ すぐには変化は見られないと思いますが、何か心に子どもなりに感じるものはあったとわたしは思います。表面には出てこない、そういった経験こそが大切だと思っています。今回参加できて良かったです。そして「湘南に新しい公立学校を創り出す会」を知ることができて嬉しく思っています。ぜひ使いうちに現実化してほしいと強く望みます。またスタッフのみなさまにはいろいろとしていただきありがとうございました。心より感謝申し上げます。
・ 娘は楽しかったと何度も言った。現役の先生たちが自ら動いたという力をもらったと思う。今は「創る会」の意味が分からなくても、この思い出が大きくなた時、考えるきっかけになると思う。ありがとうございました。藤沢から遠く離れているところに住んでいるのが残念です。
・ 夢キャンに参加する前は不安いっぱいの様子でしたが、一日参加すると明日のことが楽しみで、積極的になりました。これからのすべてのことの自信につながると思います。また発表もふつうの学校でするより、イキイキと(やはり好きな内容なので)やっていたように思います。スタッフの方のご苦労は大変なことと思いますが、月に一回or二回のペースで続けていってくれれば、せっかくのWA(輪)がもっと強く、そして大きくなっていくと思います。ありがとうございました。そしてよろしくお願いします。
・ 直接夢キャンではないけれど、友だちといっしょだったからではあっても藤沢まで子どもどうしで行くことができたことが大きな自信につながったと思う。夢キャンは22日は同じくらいの子が友だちどうしくっついていたことに不安だったよう。娘の友だちも入っての1日からは気持ちは楽でも、プラスだったのか、マイナスだったのか……と親としては思う面もありました。友だちとくっついてしまうとそれだけ他の子ときちんと出会えなくなってしまうと思います。お世話になり本当にありがとうございました。きっと忘れられないよい思い出になったと思います。
・ 水を得た魚のように楽しそうでした。子どもに変化が見られたことも確かですが、それ以上にわたしが子どもを見る目に変化が生じています。自分で、はじめからやらせてみようと思うようになりました。五日間ありがとうございました。
・ 五日間、毎日、6時30分に起きて7時30分に家を出て帰ってくると1日の出来事を楽しそうに話をしてくれました。今、5年生なので、本人は早く小学校ができたら行きたいと言っていました。現実に湘南に新しい公立学校ができることを楽しみにしています。五日間本当にありがとうございました。楽しい夏休みになりました。来年も行きたいと今から楽しみにしています。
夢キャン2000は、前年のテストマッチを、わたしたちが目指す「湘南小学校」により近づけたかたちのテストスクールだった。テストマッチは宿泊型の学校だった。寄宿舎制の学校を目指してはいなかったので、それは当初から大きな違いだった。しかし、集中的にスタッフとこどもが生活をともにして、その日にあったことを確認しあうためには、宿泊をともにする必要があった。
テストマッチの経験を生かして、夢キャンは通いスタイルのテストスクールに発展した。湘南小学校はなかみこそ独自のものを目指したが、学校としてのスタイルは通常の学校と同じものだ。こどもたちも、おとなたちも、日々通ってきて開校する。
とはいっても、自前の校舎があるわけではない。荷物や資料など、日々スタッフが持ち帰らなければならない。大きな荷物は特別に翌日まで会場の隅に保管させていただいた。また、宿泊型と違い、協力してくれるスタッフが仕事やプライベートの都合があうときに参加するかたちだったので、こどもは同じでも、担当するスタッフが日替わりになった。これは、目指す湘南小学校とは大きく異なった。
5935.6/4/2008
創り出す会の足音...No.28
2000年6月17日 夢キャン2000開校
◆アンケートに見られるスタッフたちの声◆
通いスタイルのサマースクールについて
・ 長時間で小さい子どもは少し疲れていた。ただやりたいことがある子どもには時間が必要だが。
・ 会場はとても良かった。
支援のあり方について
・ 子どもの行動から日常がいろいろ見えてくる。この子どもたちの日常と学校の関係をどのようにとらえるべきか悩んだ。
・ 朝のミーティングをスタッフだけで時間を取ってやりたい。
・ ボランティアに対して交通費や昼食の援助が必要。
今後にいかせる課題
・ 期間限定でなく、月一回(例としてworkの日とか)くらい夢キャンをやり、子どもたちの中からこの方が学びだ、この方が学校だという声が上がるともっと実績につながると思う。
・ アフターケアが必要ではないか。
・ 夢キャンは五日間という制約がある。その中で湘南小学校のすべてをシュミレートするのは不可能なので、五日間でできることは何か?をもっとしぼるべきだと思う。
・ 今回、支援方をはじめてやって不安を感じていたが、スタッフの中での「これだけは」というものをもっともっと話し合っておけば良かったと思いました。が、やってみなければ分からないことも多いので、これからの課題とすれば良いと思いました。
・ 五日間連続という形式はスタッフ・参加者両方に大きな負担がかかるので、日程の組み方を考慮した方が良いのではないか。
・ 参加者が持参したお金に関しては、管理方法を考えた方が良いのではないか。
・ 新聞報道により、募集時期にばらつきがあった点を考慮しても、プレゼンテーションの意義・方法についてもう少し説明しなければならなかったのではないか。
・ 外に出る人が同じ人であった点、あるいは中にいる人が同じだった点については検討する必要があるのではないか。
・ 参加者募集は最初からマスコミにお願いしたら良い。
・ 全日日程の時間が長い。午後は3時ぐらいまで。
5934.6/3/2008
創り出す会の足音...No.27
2000年6月17日 夢キャン2000開校
当時、民主党の金田誠一代議士が中心になって「市民が創る政策調査会(通称:市民政調)」という活動があった。わたしたちは、活動発足当初から国政関係のひとたちに資料や会報を送っていた。多くは反響がなかったが、そのなかで早い段階から返事をくださっていたのが金田代議士だった。その金田代議士が、市民政調でいまの学校問題について取り上げるから、傍聴というかたちで来てみないかと誘われたのだ。
そこでは、不登校問題や、学校間格差、学力低下問題など幅広い議論が行われていた。傍聴者も発言することができたので、わたしは文部科学省から参加していた担当者に、不登校問題について質問をした。
「公立学校に通っていて行かなくなったこどもは、それ以外の選択肢がないので、家庭にいるしかありません。適応指導教室は、ふたたび学校に戻すことを目的にしているので、その目的になじめないこどもはそこにも行かないのです。フリースペースやフリースクールなど、代替教育機関はありますが、それらは法的に学校として認められていません。公立学校に行かないという選択をしたこどもたちに対して、同じ公的機関を受け皿にした代替学校を設立する準備はないのでしょうか」
あくまでも傍聴者からの質問だったので、質問の扱いは軽く、あまり正確な回答を得られなかったと記憶している。
そして、8月1日(火)から5日(土)まで、夢キャン2000は開校した。
参加者は、こども38人、スタッフ38人、見学者10人、取材者7人だった。取材に訪れたメディアは、アエラ、神奈川新聞、NHKスペシャル「世紀をこえて」取材班、読売新聞、毎日新聞。雑誌、新聞、テレビがそろった。
◆アンケートに見られる子どもたちの声◆
心に残ったこと
・ 海へいったこと。8女
・ スタッフの人がいろいろ教えてくれて嬉しかったです。8男
・ スタッフの人といっしょにプールでスライダーとかをしたこと。11女
・ 8/4に博物館に行ったこと。箱根まで行けてラッキーでした。また行きたいな。11女
・ 生命の星地球博物館にまた行けて嬉しかった。6年前に行った。また行ってちょっとかわってる所もあったし、よかった。11女
・ 五日間、いっしょにいたスタッフはちがかったけど、みんなやさしかったです。こんどもまた行きたいです。10女
こどもたちは夏休みとはいえ、協力するスタッフは仕事をしているひとたちだったので、平日の5日間を連続で参加できるひとは多くなかった。どうしても、毎日のスタッフはメンバーが変わってしまうことになった。
5933.6/2/2008
創り出す会の足音...No.26
2000年6月17日 夢キャン2000開校
若月教育長をお招きしたシンポジウムを終え、当日の様子をまとめていた頃、神奈川県から湘南に新しい公立学校を創り出す会の特定非営利活動法人認証の連絡が届いた。5月24日(水)だった。
この日を境に、創り出す会は有志の集まりから、法的に求められた法人という組織に変わる。法務局への登記とともに、理事会を中心とした法人組織になったのだ。
6月に入ってからは夢キャン2000の準備で平日の夜は忙しくなった。
法人化にともない、わたしたちは藤沢市藤沢に事務所を構えた。理事のひとりが敷地内にあった建物を提供してくれたのだ。その事務所で、法人になったばかりの創り出す会は後に事務所を鎌倉に移転するまでの5年間ぐらいを過ごすことになる。
メンバーは仕事帰りに徒歩や自転車で事務所に集まる。夢キャンの参加者名簿の作成、協力スタッフの日程調整、教材の手配、場所の管理など、やるべきことはいくらでもあった。現役教員が多いという利点を生かし、印刷機も安価で入手した。取材の申し込みもその場で受けた。
それまで、活動の拠点がなかったので、紙や文房具、テストスクールに必要なもの、資料などをメンバーが分散して自宅に保管していた。連絡先は代表者の自宅になっていた。それをすべて事務所に集約したので、動きがとても機動的になった。大学ノートを置き、ほかのメンバーに引き継ぐなかみを記載する。主婦メンバーは昼間、事務所に詰めて仕事をする。何をどこまでやり、続きはどこからかという記録が書かれた。夕刻から集まったメンバーは、それぞれにその続きを担当した。
湘南の夏が近づいていた。梅雨の蒸し暑さ。準備を終え、事務所の扉に鍵をかけてから、近くの居酒屋に行き、空腹と枯れた喉をみんなで満たした。
6月17日(土)。創り出す会は2度目のテストスクール「夢キャン2000」を開校した。
夢キャン2000は、夏の本番前に3回のプレスクールを開校した。6月17日、7月8日、7月22日だ。それは、前年のテストマッチの反省から、こどもたちが本番で何をしたいかという一番大切な部分を、わたしたち夢キャンスタッフと相談しながら決めるためだった。こどものなかには、自らやりたいことが泉のようにあふれているこどももいるが、多くの場合はどんなことをしたいか定まっていない。それまで、自らの好奇心に従って学校や家庭で活動した経験がないこどもたちに、さぁ自分で考えてみようといっても、何をすればいいのか迷うのは当然だ。そのため、何をするかというなかみについて、3回の準備期間ではっきりさせ、それに必要なものを具体的にして、8月の本番を迎えられるようにしようと考えた。
最初の開校日には、イラストが得意なメンバーが夢キャンのなかみについてこどもたちに紙芝居を作って説明した。去年のテストマッチの写真も壁に掲示した。こどものなかに具体的なイメージをわかせた。せっかくの土曜日を、遊びに行くことができず、親に連れられて参加した多くのこどもたち。最初は無関心を装っていたが、プレゼンテーションが進むに連れて
「折り紙を買ってもいいのかな」
「絵の具で絵を描くことはできますか」
と、具体的な質問をするようになった。
こどもが自分で用意するものと、こどもたちが共通で使用するだろうと予想される文具を列挙した。
プレスクール最終日の7月22日を終えた25日(火)。理事メンバーは、東京に向かった。
5932.6/1/2008
創り出す会の足音...No.25
2000年6月17日 夢キャン2000開校
設立総会において、人事が提案され、了承された。これにより、1997年の発足以来、会長だったわたしは名実ともに、理事会にその役割をバトンタッチする。会長という役職名も消え、この時点から、湘南に新しい公立学校を創り出す会の責任者は、ふたりの代表理事が担うことになった。
藤沢市議会への陳情が不了承になった責任を感じていたわたしは、このとき代表に就任せず、広報担当として、多くの人たちに、わたしたちの活動を知らせることに専念する。
2月28日(月)。わたしは関内にある神奈川県庁県民総務室に、NPO法人化の準備を担当したメンバーふたりと、向かう。設立総会で、代表職を退いたとは言え、まだ「申請」「認証」というプロセスが残っていた。少なくとも、自分なりの役割として、申請の瞬間には立ち会おうと考えていた。このような活動をするとき、理念や計画を語るのはたやすいことだ。もっとも重要なのは、具体的に事務作業を担当する人たちである。NPO法人化を担当したメンバーにご苦労さんと感謝の気持ちもこめて、わたしは京浜東北線に乗った。
当時、頭痛がひどく、たどりつくことができるかどうか心配だったが、無事に書類を提出し、県民総務室の扉の前で記念写真まで撮影する余裕があった。伊勢崎町で祝杯をあげたときは、さすがにノンアルコールだったが、気持ちの高揚は抑えきれないものがあった。
新しく代表理事に決まったメンバーは、2度目のサマースクール「夢の湘南小学校サマーキャンパス2000」(通称:夢キャン2000)の企画に追われるようになった。
同時にイベント班が中心になって3回目のシンポジウムを企画した。広く湘南地域のひとたちに、学校選択制についての情報提供をすることが目的だった。
全国で学校選択制のさきがけとなった東京都品川区の若月教育長をお招きして「もしも学校が選べたら」というタイトルのシンポジウムだった。5月13日(土)の藤沢市民会館の展示ホールは、超満員になった。公用車で乗りつけた教育長は、わたしたちからの交通費を含めた謝礼を「これは公務だから」と一切受け取らない身辺の清潔な方だった。
品川区にはもともと学校選択制度を導入しなければならない事情があった。私立学校が公立学校と同じぐらいある品川区では、経済的にゆとりのある家庭は小学校段階からこどもを私立学校に通わせる。そのため、どうしても公立小学校はこどもの数が減る結果になる。こどもが少ない学校は統廃合の対象になる。しかし、それぞれの学校には長い歴史があり、学校周辺の地域住民にとってかけがえのない文化の中心としての役割も果たしてきた。こどもが減ったからという理由だけで、行政が一方的に学校をなくしてしまうことは難しかった。保護者がこどもを通わせる学校を自由に選んでいい条件と引き換えに、あまりこどもが集まらない学校を閉校にしていくやり方は、地域住民にも受け入れられやすかったのだろう。
このシンポジウムには、湘南地域の公立学校の校長や管理職、あるいは現役教員もたくさん出席した。教育委員会からも興味のあるひとたちが参加した。
「どこを切っても同じ金太郎飴みたいな学校ばっかりでは、学校を選んでいいと言われても、選ぶ基準が見つかりにくい」
一般の参加者からの質問に、教育長はていねいに応じた。
「もちろんです。だから、品川ではそれぞれの学校にかなりの特色を出す権限を与えています。学習指導要領を外れない限りという条件がありますが、それでも総合的な学習の時間や、少人数の教科学習など、各学校での工夫を教育委員会として応援しています」
公立学校には違いがないと思ってきたひとたちには、公立学校がそれぞれ特色をもつという考えは魅力的に感じられた。しかし、品川での実践が、即湘南地域で始まるものではないという現実も認めなければならなかった。
5931.5/30/2008
創り出す会の足音...No.24
2000年6月17日 夢キャン2000開校
1月11日。メンバーのうちふたりが神戸のラーンネットグローバルスクールを見学に行く。見学と行っても、こちらから一方的に訪問したので、相手の都合などおかまいなしだ。予想通り、まだ新学期が始まったばかりで、子どもたちの活動の様子を見ることはできなかったそうだ。それでも、実際にLGSが、どんな環境にあって、そこでどんな人たちが働いているのかというのを、見て聞いてきたことはとても大きな成果だ。
LGSは、NHKの「列島ドキュメント」でも放送されたが、子どもたちの自主性を重んじる教育理念に則ったフリースクールだ。フリースクールなので、学校教育法上の学校ではないが、当時でも、入学の段階からLGSへわが子を通わせる親が現れていた。それまでのフリースクールのイメージは、学校に通いながら、これになじめなくなった子どもたちの受け皿という印象が強かったのだが、LGSは、入学者にとって当初から学校として認知された新しいタイプのフリースクールだった。私立学校、各種学校、特別認可公立学校などの、学校としての認可さえおりれば、子どもからの授業料を抑えることができ、もっと多くの子どもが入学しやすい条件が整うのにと思っていた。
わたしは、1月から3月にかけて、取材や活動の様子を知りたいという人たちへの対応で追われていた。
逗子キッズクラブ、シンクタンク構想日本、神奈川新聞、日本経済新聞、NHK教育トゥデイ、神奈川教育科学研究会、生活と自治(生協)、ジャパンタイムス、日本テレビ。
取材を受けた場合、それらがその後、記事や電波に乗る場合と、そうでない場合があることを、このときまでにわかっていた。だから、すべての取材に対して全力で応じると、こちらの体力も気力も消耗してしまうので、相手の様子をうかがいながら応じるようにしていたのだが、それでもそれぞれに3時間ぐらいはかかるので、スケジュールの都合から連続日程になると、家までの夜道をフラフラしながら歩いていたのを思い出す。
2月25日(金)。藤沢市民会館第2会議室。いつも定例会を開いている会議室で、わたしたちは午後6時から、NPO法人設立総会を行う。
NPO法人化は、前年の6月あたりから担当者を中心に準備を進めてきたものだ。
それまでの創る会は、任意団体だったので、行政に話をしにいくときも、相手は記録など取らず、あくまでも個人がやってきたという対応が多かった。任意団体というのは、同好の集まりなので、社会的に存在意義が認められにくいことを、エアコンを切られた時間帯に応対させられながら、わたしたちはいやというほど感じていた。どこかのお墨付きがあれば。自分たちのやっていることを正しく認識してくれる標識がほしい。その望みにかなったのが、特定非営利活動法人、通称NPOだった。
神奈川県は、早くからNPO団体の育成に力を入れ、申請の仕方や、設立までの道のりを、県民にわかりやすく提供していた。そのため、まったくの素人であるわたしたちでさえも、定款を作ることができ、法律と条例に則った設立総会までの準備を整えることができた。
ちょうど、数日前の神奈川新聞の取材のとき、設立総会のことを伝えたこともあって、25日の朝刊一面に、デカデカと「創る会NPO法人化」と記事が掲載された。いくら地元の新聞とは言え、一面は新聞社の顔である。とても小さな市民団体が、NPO法人になろうとしていることが、その紙面を独占したことに、こちらが驚いてしまった。勤務先の小学校では神奈川新聞を購読している。出勤すると、多くの職員が「新聞を見たよ」と声をかけた。
新聞の効果は絶大で、その日の神奈川新聞を見て、設立総会に参加した人がとても多かった。ふだん広い第2会議室をひっそりと使っていたのに、このときばかりは会場が人で埋まるのではないかと思うほどだった。
5930.5/29/2008
創り出す会の足音...No.23
1999年12月13日 ホルモン酒場・三平
そして13日、藤沢市文教常任委員会。
わたしたちの陳情が扱われる時間は昼間だった。その時間は、学校があり、こどもがいる時間だったので、教員は休暇をとらないことにした。傍聴は市民の権利だが、そのことで陳情のなりゆきが左右されるようなことがあってはならない。メンバーのうち、都合のつく人たちが傍聴する。
議員のなかには理解を示してくれる人や、継続審議を望む人もいたが、時期尚早であるという理由で、不了承となる。
わたしたちは湘南小学校の開校を望んだのではない。公募型研究開発校に公立学校が名乗りをあげやすいように、行政として積極的なはたらきかけをしてほしいという陳情を出したのだ。いったい、なにが、どうして時期尚早なのか、まったく意味のわからない採決だった。
13日の夕刻、多くのメンバーが期待と不安の気持ちを交錯させながら、三平に集まった。
わたしは部屋に入って、陳情が通らなかった空気を感じた。傍聴したメンバーの表情が一様にかたかったのだ。
不了承。
多数の議員の感触はつかめていたのに。教職員組合出身の議員は、反対したそうだ。
口惜しがるメンバーからは、責任のなすりつけと、意味のない文句が続出した。
「ちがうだろ。この陳情がとおると読んだ、オレたち自身の問題だぜ。判断が甘かったことを忘れちゃいけない」
メンバーの多くは、わたしたちの活動を理解してくれる人たちに挨拶し、陳情の説明を繰り返していた。しかし、わたしはかんじんの文教常任委員会で、わたしたちに代わって、議員からの質問に応じる当局者と話しあってきた。そこからは、残念ながら、熱いものは感じることができなかった。そのことを、メンバーに、正確に伝えきれなかった自分の非力さを恥じた。このときの責任をとって、わたしは会長の辞任を決意した。
これで、わたしたちの相手は市議会ではなくなった。
市議会や教育委員会とのやりとりを通じて、創り出す会という組織の性質を考えさせられた。
有志の集まりを任意団体という。任意団体は法的に何の拘束も根拠もないので、社会的信用度はない。話し合いの決まりや、メンバーの資格などの規定もないので、教育委員会からの取り下げ要求も、代表の一存で変更できるだろうと読まれたのかもしれない。
組織体としての社会的信用度を高める必要があると考えたメンバーが中心になって、年が明けた2000年1月8日に特定非営利活動法人(NPO法人)への準備作業が始まった。法人になると法務局への登記が必要になる。登記が完了すると民法上の団体、つまり会社として認められたことになる。会社になれば、仕事を終えた5時過ぎに、電気も冷暖房も止まった役所に来てくれという、個人的なお願いは教育委員会としてはやりにくくなるだろう。また、多くのひとに活動の内容を伝えていくときも、主体を説明するのに、任意団体のままでは初めてのひとは最初は疑いを抱く。それが、法人であれば、法律が認めた団体としての信用があるので、垣根が低くなる。
5929.5/28/2008
創り出す会の足音...No.22
1999年12月13日 ホルモン酒場・三平
ひととおり、委員会の言い分を伝え、会として取り下げ要求をどうするか検討する。約二ヶ月間、陳情の了承へ向け全力を投入してきたメンバーにしてみたら、正式に提出したあとの方針転換は容易には受け入れがたく、また定例会で議決したものについて、たまたま集まることができたメンバーだけでこれをくつがえすことはできないという結論に達した。
ふたたびわたしは教育委員会へ行き、取り下げ要求には応じることができない旨を伝える。
創り出す会「急遽、中心的なメンバーに集まってもらい協議をしました。その結果、陳情の取り下げはしないという結論に達しました」
教育委員会「ちゃんとさきほどのわたしたちの説明を伝えていただけましたか」
創「もちろんです。ただ午後3時に電話を受けて、今日中に返事がほしいとのことだったので、集まることのできるメンバーは限られていました」
教「あなたは代表でしょう。メンバーの意見に左右されないで一存で決められないのですか」
創「わたしはメンバーの意見をまとめて、その責任をとる立場だから代表なんです。勝手にメンバーの総意をくつがえすための代表ではありません」
教「同じ学校関係者としてもう少しこちらの事情がわかってもらえると思っていたのですが。失望しました」
創「教育委員会は、陳情を受けて、それを取り下げさせることをほかにもやっているのですか」
教「ほかのことは関係ありません」
創「わたしたちは正式な手続きをもって陳情したまでです。内容に不備があるのなら修正にも応じようがありますが、それ以外の理由で陳情じたいを取り下げる必要はないと思っています」
教「文教常任委員会で、この陳情についての説明をして質問を受けるのはあなたたちではないということはわかっていますね」
創「もちろんです」
教「だったら、取り下げてほしいということがどういうことを意味しているのかは察しがつくでしょう」
創「それは脅しですか。それともやる気がないという本音ですか」
教「どう受け取ってもらってもかまいません」
わたしは、教育委員会の突然の取り下げ要求は、もちろん公式なふたつの理由が本音だったとは思っていない。おまえたちのために、なんでわれわれが、文教常任委員会で、公式に記録の残る発言をしなければならないんだ!という感情的なものが底流に脈々と流れていたのではないかと思っている。実際に、委員会に足を運び、相手の言葉遣いや表情とじかに接してきたわたしには、教育委員会の人たちが、決してわれわれの陳情に前向きではない空気を感じた。
5928.5/27/2008
創り出す会の足音...No.21
1999年12月13日 ホルモン酒場・三平
定例会で、市議会議員への挨拶と陳情の説明の分担を決める。
10月15日には、チャータースクールワーキンググループ主査の保岡代議士が、直接に神奈川県知事と藤沢市長を挨拶に訪れ、その帰りに創る会の会合に市民会館で合流した。
25日にはわたしと会のメンバーで、午後5時過ぎに教育委員会へ陳情についての説明をしに行く。
11月24日には市議会最大会派の学習会に参加し、チャータースクールについての説明をした。
会のメンバーは、それぞれに時間の都合のつくときに議員事務所や自宅を訪問し、陳情への協力を仰ぐ。なかには、市長の乗る小田急線の時間を調べ、同じ号車で待機し、朝から挨拶をするメンバーもいた。26日の定例会で、それまでの活動の報告がそれぞれから行なわれる。全体としての感触がとてもいいという結論に達し、陳情を正式に提出することが決まる。
協力的な議員のアドバイスで、陳情者が教員だとそれだけで別の問題とすりかわる危険性があると教えられ、会のなかの民間に勤めている者を陳情者にする。29日、市議会事務局で、わたしたちは陳情のための説明を受け、12月6日正式に陳情書を提出した。
陳情は市民に与えられた権利だ。よりよい生活を築くために、議会に対して直接意見反映をさせることができる制度だ。しかし、日本の制度はとても複雑で、必ずしも陳情者の意思が議会で反映されるとは限らない。まず、議員に直接語ることは許されていない。議場に入れないのだ。だから、自分たちの代わりに役所の担当部署が陳情を伝える。担当部署は市民の意見を代弁するのだから、私情をはさんではいけない。陳情の趣旨がねじまがってしまう。専門の委員会で陳情を聞いた議員が検討し、議論に値すると判断した場合、議会にかけられる。そこで賛成多数を得られれば、陳情内容は政策として実行される。
公募型研究開発校制度の陳情は、教育に関する陳情だったので、原文は教育委員会に回され、その後、わたしは2度ほど教育委員会に呼び出され、さらに詳しい陳情に関する質問を受けた。
これは、文教常任委員会で、わたしたちの代わりに、議員からの質問に応じるのが教育委員会だったからだ。そのため、質問は本来、陳情者の書類に対して、不明朗な点や、議員から質問があったときに返答に困る点について尋ねるものだったのだが、やはりわたしたちが現場の教員ということもあって、教育委員会のメンバーは、質問というよりも詰問、あるいは委員会としての意見表明のような態度をあらわにした。
さすがに遅れてきた学校教育部長が、様子がおかしいのに気づき、委員会の担当者をたしなめてはいたが、同席していた創り出す会の一般の人たちは、自分たちが悪さをして怒られている印象を得たという。
8日、勤務中に連絡が入り、午後3時に委員会に呼び出される。
狭い倉庫のような会議室にわたしだけひとり、指導課長、学務課長、主査の3人から「陳情の辞退をお願いしたい」と言われた。
「もしも、不了承になった場合、創る会のイメージが低下するのではないか」
「予算的裏づけのない公募型研究開発校を議会として了承するとは考えにくい」
このニ点が取り下げ要求の理由だった。午後6時に返事をすることを約束し、わたしは携帯電話で集まることができる中心的なメンバーを緊急に集めた。
5927.5/26/2008
創り出す会の足音...No.20
1999年12月13日 ホルモン酒場・三平
公募型研究開発校とは、指定型研究開発校に対して使われる言い方だ。
わたしたちの目指すチャータースクールが、いまの日本国内にない以上、学習指導要領に適用されない湘南小学校の開校は不可能だった。そこで、わたしたちは法律のなかに学習指導要領の適用が除外される例外がないか調べた。その結果、学校教育法のなかに適用除外をふたつ発見する。
ひとつは障害児教育の現場においては、個人に応じた学習プランの設定が義務付けられていた。もうひとつが研究開発校だった。
研究開発校は、将来の導入が予定される教科や領域について文部省が全国の公立学校からピックアップして、先行実施させる制度だ。生活科が導入されたときも、本格実施の数年前から、研究開発校では生活科を実際に行なっていた。これは、その当時の学習指導要領違反になる。だから、適用除外として法律で認めている。ただし、この制度は文部省のプランに対して現場が従うという方法なので、指定型と言われる。
これに対して、自民党文教部会チャータースクールワーキンググループで検討していたプランが形になったのが、公募型研究開発校だった。このプランは、学校が独自にテーマを決めて文部省に申請する。内容が審査され、認可されれば、3年間の期限でそのテーマについての研究を行っていいことになっていた。
当時の新聞には「日本型チャータースクール開始」という見出しも載った。
たしかに、学習指導要領の適用除外を、学校現場の発案に対して与えるというプランは画期的なものだったと言える。最初、文部省は自民党案に難色を示したと聞くが、通達がおりたということは、いよいよ文部省が政策として12月の大蔵省との予算折衝の項目に入れたことを意味していた。
公募型研究開発校とチャータースクールの大きな違いは、だれが申請できるかという点である。個人・法人・学校が申請できるチャータースクールに比べ、公募型研究開発校は学校にしか申請を認めていなかった。だから、わたしたちのような市民グループはプランはあっても申請することは不可能だった。それでも、これまで研究開発校は公立にしか認めていなかったのが、公募型では私立にも申請を認めたという点では、門戸を開いた意味合いは大きい。
当時のわたしたちは、公募型研究開発校はチャータースクール実現へのプロセスととらえ、翌年度に藤沢市でもこれに名乗りをあげる公立小学校が出るようにと考えた。
つまり、文部省が審査するとはいえ、学習指導要領の適用除外を認める公募型研究開発校の開校は、学校現場にもっとも子どもにあった教育を、全国各地でそれぞれに実施していい可能性を秘めていたからだ。藤沢市内で、一校でも公募型研究開発校に名乗りをあげれば、たとえ湘南小学校のプランは実現できなくても、新しいタイプの学校教育がスタートする可能性を、子どもも親も教員も実際に体験できるというメリットがあった。その経験が、多くの親や子ども、教員たちに「やらされるよりも、自分たちで考え、創り出すことができるんだ」という実感となってくれれば、チャータースクールの実現は必然の帰結になっていくと思ったからだ。
そこで、創る会では12月の藤沢市議会文教常任委員会へ、公募型研究開発校の実施を要望する陳情を提出する計画を立てた。
あくまでも陳情なので、常任委員会で了承されても、予算的裏づけがなかったり、時間的に制約があったりすれば、実現と直結するものではないことはわかっていた。しかし、翌年度の春は無理だとしても、準備期間をおいて、2001年度にはゆとりをもってスタートできると考えた。
5926.5/25/2008
創り出す会の足音...No.19
1999年12月13日 ホルモン酒場・三平
小田急線六会駅近くの公民館で行っていた定例会を、藤沢駅近くの藤沢市民会館で行うようになったのは、1997年の暮れ頃からだったろうか。
定例会に、東京や横浜からの参加者が増えるようになって、小田急線の各駅停車の六会駅では、あまりにも不便だということで場所を変更したのだ。藤沢市民会館での定例会は、その後、数年にわたって開催された。そして、終了後の多くは藤沢駅まで歩く途中になる「ホルモン酒場・三平」での飲み会に流れた。
三平は、小田急デパートの裏にあり、階段を地下に降りたところ。近海ものの刺身や生シラスから、焼き鳥やトンカツにいたるまで、酒の肴は豊富に用意されていた。置いてある日本酒は、秋田の銘酒「高清水」。わたしたちは、高清水を一升瓶でキープして、コップに注ぎながら、定例会で話し足りなかった続きを熱く語った。
8月に逗子の野外活動センターで初めてこどもたちを集めたテストスクールを開校した。
10月には第二回目のシンポジウムを開催した。
創り出す会という想像の共同体が、どったどったとそろわぬ足並みで湘南の町をかけぬけた。
9月、わたしたちは文部省が都道府県教育委員会へ、公募型研究開発校についての通達を送った事実をつかむ。7月22日に自民党文教部会で説明したことを思い出す。ついにそれがかたちになって、動き始めたのだ。しかし、この通達は学校現場に伝わることはなく、市町村の教育委員会どまりだった。だから、わたしたちのようにアンテナを張っているひとたち以外は、何も知らなかっただろう。何か、公募型研究開発校制度を学校現場に伝えたくない理由があったのだろうか。
11月22日付の読売新聞に、学校選択制度についての記事が掲載された。
『【学校選択制】
文部省が一昨年(1997)、通学区域の弾力化を打ち出したことが契機となった。紀伊半島の先端に近い三重県紀宝町が昨年(1998)、全国で初めて導入した。児童数が数人の小学校の統廃合を前提に、在校生も含めた小、中学校で行われている。
品川区の場合、都市部の自治体では初めての試みで、来年(2000)四月に入学予定の児童について、計四十校の区立小学校を八〜十二校の計四ブロックに分け、その中なら保護者が自由に通学する学校を選べる。選択制の流れは全国に波及し、岐阜県穂積町では来春から小学校のほか中学校でも導入の予定。また、東京都日野市でも小中学校で再来年(2001)から取り入れる予定だ。
また、東京・杉並区でも、山田宏区長が導入に前向きな姿勢を見せており、来年度にも有識者と区民による同区教委の諮問機関である懇談会を設置し、是非を検討するとしている。 』
自治体によっては、それまでの公教育の枠組みを大きく変えていく動きが始まろうとしていた。教育委員会が強く手放さなかった学区制度を撤廃する動きは、総論としてはチャータースクールの考え方と似ていた。しかし、各論としては、こどもの数の減少で学校を統廃合したい自治体の思惑が動いていた。これは、チャータースクールの考えとは重ならない。
5925.5/24/2008
創り出す会の足音...No.18
1999年8月24日 逗子市野外教育センター
4泊5日のテストマッチの様子は、9月20日と27日の読売新聞に2週にわけて掲載された。
学びの中心にこどもを据える新しい教育方法の学校。その設立へ向けて、確実な手ごたえを感じた。これは、いける。まだまだ、細かい部分では修正しなければいけないところは多かった。しかし、机上の話だった構想を具体的に実現してみて、こどもたちは予想以上に意欲をもって自分のやりたいことをやり通した。
「こどもが自分で考えることなどできない」
わたしたちが新しい学校について語るとき、このような否定的な意見を異口同音にいただいた。
自分で考えたものが、世間的に学習に見えるかどうかは別にして、少なくともテストマッチに参加した40人近いこどもたちは、5日間を思う存分に自分のスタイルで駆け抜けたのだ。それは、こどもには自ら学ぼうとする意欲や好奇心があるという証明でもあった。
だから、わたしはこれ以降、アンチ学校のようなスタンスはなるべく避けるようにした。よのなかのすべてのこどもにぴったりの教育方法などない。こどもたちは、それぞれに異なる学びのスタイルを持っていることがわかったので、たとえほんの一握りでもいいから、教えられることよりも、自ら考えて行動することが得意なこどもにターゲットを絞るようにしたのだ。
10月2日(土)work14:00-18:00(註:work 会報の帳合いなどの事務作業)
10月8日(金)18:00Nさんと今後のことについて
10月9日(土)pm N新聞取材申し込み
10月15日(金)15:30藤沢市長に面会
10月17日(日)第二回シンポジウム
10月22日(金)定例会18:00-22:00第二会議室
10月25日(月)18:00大船改札・S誌取材申し込み
10月30日(土)work14:00-18:00
10月31日(日)創る会2周年
当時の手帳に記載されている10月の記事から創り出す会関係のものをピックアップした。ただし固有名はアルファベットに替えた。
8月後半のテストマッチから、わずか一ヵ月半で、わたしたちは大きなイベントを開催した。それは、2周年の大宴会ではありません。
湘南台文化センターの大ホールを使ってシンポジウムだった。二部構成にした。一部はテストマッチのレビュー。パワーポイントと画像を駆使してステージの壁面に、テストマッチの様子を映し出し、参加者に視覚的に新しい学びの現場を届けた。
二部はメインの講演会だった。社会学者の宮台真司さんをお招きして、若者を取り巻く状況を語っていただき、創り出す会の方向性についてパネルディスカッションをした。宮台さんには、会の発足当時から一方的に資料や会報を送っていた。彼の著作の多くに、事務局メンバーが賛同する内容が多く、どんな教育書物よりもこどもや家庭、それを取り巻くサブカルチャーを真正面からとらえていたのだ。このときの様子も、記録集として作成した。「宮台真司と湘南に新しい公立学校を創り出す会」というタイトルで作成した記録集(100部)は、あっという間に完売した。
また10月30日のワークで、わたしたちは新しい学校のコンセプトを「『センセイ、つぎ何やるの』から『わたし、これをやりたい』へ」と決め、新しい学校の名前を正式に「湘南小学校」とした。
5924.5/22/2008
創り出す会の足音...No.17
1999年8月24日 逗子市野外教育センター
この当時、おそらく全国的に見回しても、こどもがまったく何もないところから、学びのなかみを決めていく教育活動は皆無に近かったと思われる。学校でも、私塾でも、キャンプでも。だから、親たちが、自分のこどもの活動内容について気がかりになってしまう気持ちを、もう少しわたしたちは予測しておくべきだった。
事前の説明会で、たとえ何も考えが浮かばないまま当日を迎えたとしても、それでもかまいませんと、言っておくべきだった。
こどもたちの多くは、自分が何をすればいいのかを、学校や家庭で、それまで自分の頭で決めていい経験をしてきていない。だから、テストマッチを前にして、5日間という時間のイメージや、野外活動センターという場所のイメージがないのに、いきなり自分で学びのなかみを考えるといっても難しすぎたのだろう。こども側にも親のアドバイスを受け入れる事情はあったのだ。
テストマッチ開始早々、わたしたちはすべてをリセットするところから始めた。
スタッフ「ここでできることを考えよう。無理に最終日にかたちあるものに仕上げなくてもいいんだよ。何か動き回っていなければいけないというわけではない。何をしようか、じっと考え続けるというのも大切なこと。お父さんやお母さんと考えてきたことを忘れて、自分の頭で考えたことをやってみよう」
野外活動センターには、自炊用の炊事場があった。ほかにガスが使える台所もあった。キャンプではないので、わたしたちは、一日三回の食事を係りを決めてスタッフで作った。こどものなかに、うどん作りやご飯作りなどをしたいというアイデアが出て、そういうこどもといっしょに食事が作れたらいいなぁとも思ったが、それは甘い夢だった。
自炊用の炊事場は、きっとキャンプで使う団体が薪を使ってカレーや鉄板焼きを作ることに使うのだろう。そのため、ふんだんに薪が用意されていた。
ここでできること。
そのヒントをもとに、ひたすら薪を燃やし続けるこどもが現れた。燃やしたエネルギーを何かに使おうというわけではない。ただ、ひたすら火を起こし続けていたのだ。思えば、火遊びが口うるさく禁止されるようになっていた。町中で焚き火ができなくなった。こどもは、放課後の生活で火遊びをする経験が少なくなった。だから、炎天下の逗子で汗と煙にまみれても、薪やゴミを燃やし続けることは、至福の喜びだったのかもしれない。あがる炎のゆれる姿に、無心になれる自分を発見したのだ。
無心になって釜戸で火を燃やし続けるこども。それを遠巻きにしていたほかのこどもも、火の近くに近寄る。
「燃やすだけではもったいないから、お湯をわかそう」
あるこどもが発案し、スタッフからやかんを借りて水を入れて、釜戸に乗せた。
その瞬間、ひたすらに火を燃やすことが目的だったこどもの行為は、お湯をわかすという生産的な行為へと変化した。
「お湯が沸いたら、紅茶を飲もうかな。コーヒーにしようかな」
今度は、湧いたお湯のことに気持ちをはせるこどもが現れる。
こういうこどもどうしの発展性のある活動こそが、生きた学びだとわたしは感じた。
決められた時間内に、決められた内容を覚える学習方法では、このような発展性のある生きた学びは発生しない。また、こどもどうしの関連性も誕生しない。こどもが、まず自分の頭とからだで無心になれる環境をおとなが用意する。その環境を使って、こども自身が自分にできることにトライする。その過程で、ほかのこどもたちが適度にかかわり、適度に距離を保つ。やらなければいけない場面で、協力を求めるやり方では、こどもはひととのかかわりをこころのなかでは避けるようになる。意欲のわかないことに対して、気乗りのしない相手と無理に笑顔の関係を維持する苦痛は、おとなになってから経験すればいい。こどものうちは、もっと自由にやりたいことをとことんやりぬく経験を積むことが大切だ。
5923.5/21/2008
創り出す会の足音...No.16
1999年8月24日 逗子市野外教育センター
5月から参加者を募集。6月には会場を下見。7月には現地説明会を開催。付近の医療機関を調べ、万が一のときの救急体制を整える。栄養士にお願いして毎日の献立を決める。
テストマッチの準備が、そのまま創り出す会の定例会の議題だった。その頃、わたしたちはふたたび自民党文教部会に呼ばれた。
3月のチャータースクール研究会へ向けた学習会以降、文教部会ではこれからの公教育のあり方に向けた議論が交わされていた。それを受けて、さまざまな方面からの意見集約をするヒアリングが、7月から始まっていた。それに、参加して、前回よりも多くの代議士にチャータースクールに向けた話をしてほしいとのことだった。
7月22日。わたしたちはふたたび永田町の自民党本部に足を運んだ。前回のアドバイスを参考にして、チャータースクールやテストマッチについて、見やすく、少ない文章の資料を用意した。ヒアリングでは、わたしたちではなく、メンバーの中の一般のひとたちに話してもらった。専門的な話よりも、こどもをもつ母親の話のほうが、代議士の方々には具体的でわかりやすかったようだ。
同時に、このときわたしたちは公募型の研究開発校制度についても意見を述べた。従来、研究開発校は文部科学省が将来の学習指導要領改定に向けて、事前に試行することを認める制度だ。将来の改定内容を事前に扱うので、厳密に言うと、学校教育法違反になる。それを特例措置として認めるのが研究開発校制度だった。それを応用して、公募型にすれば新しいなかみの公教育が実践できるのではないかと考えた。公募主体は学校になるが、学校の全部を使う必要はない。空き教室を使って実験的に行えばいい。規模が大きくなるとコストがかかるので、現存の施設や設備を使って、低コストで実現できるメリットも説明した。公募型研究開発校制度は、チャータースクールとは程遠いなかみだが、公教育に新しい風を吹かせるひとつの方法としては機能するのではないかと考えた。
学びの中心にこどもを据える。
この考え方は、波紋を呼んだ。賛否両論が沸騰した。
わたしたちは、是非論を研究する団体ではなかった。それぞれの考え方のひとを尊重し、創り出す会として、なにがしたいかを伝えるしかなかった。こどもは自分では何もできない存在だから、おとなが指標を示すべきだというひとには、ぜひそういう学校をお作りくださいとしか、言いようがない。反対に、いまの学校ではこどもが窒息するとため息をもらすひとには、ではどういう学校をお望みですかと、聞くしかない。わたしたちは、だれの救済者でも、何かの回し物でもない。自分たちで、自分たちの創りたい公立学校の開校を目指しているだけだった。
テストマッチの募集をかけたところ、わずかな期間で定員に達した。募集要項には「何も企画はありません。キャンプファイヤーも、星空の観察も、海水浴も。全部、こどもが決めたことをおとなが支援します。それでよければ参加してください」と書いた。なかみが決まっていない宿泊イベントなのに、あっという間に参加者が集まったのだ。
事前説明会でも、そのことを再確認した。それでも参加者が減ることはなかった。公教育の縛りに対して、こころの底で抵抗感のある親が確実にいることを実感した。
テストマッチの初日。わたしたちは、こどもが考えてきた学びのなかみを知って、頭を抱えた。夏休みの宿題。まぁ、それぐらいなら本人が決めたと思ってもいい。しかし、多くはとてもこどもが発案したとは思えないほど高度な内容だった。その割には必要な材料や、資料がそろっていない。
スタッフ「これって、どうやって作るの」
こども「知らない」
スタッフ「これをやるには、地図がないと不便だと思うんだけど、どうやって行き先を見つけるの」
こども「わかんない」
学びのなかみに、多くの親がヒントを与えていた。そのことをこどもがそのままプログラムにしていた。
5922.5/20/2008
創り出す会の足音...No.15
1999年8月24日 逗子市野外教育センター
そのサマースクールをわたしたちは、テストマッチと名づけた。
やがて、チャータースクール制度によって開校を目指す新しい学校を試行するという意味だ。
公立学校では小学校や中学校の学びのなかみが学習指導要領によって規定されている。こどもが学びたいなかみを学校が提供する仕組みにはなっていない。おとなが決めた学習内容を、おとなが教え、こどもは覚えたり、応用したりするのが、広い意味での日本の公教育の姿だ。そういうこどもたちが成人して社会人になったとき、自立性に乏しいとか、自分で考えることができないと嘆くおとながいる。その責任は、こどもにはない。自立性や自分で考えることを排除して、ひたすらおとなが教えることを従順に模倣し、再生することを求められてきたのだから。すると、嘆くおとなは学校関係者の責任に転嫁する。学校関係者は自分の判断で教えるなかみを変更することはできない。使用するテキストさえ、自分で選べない仕組みになっている。決められた内容を教科書という決められたテキストで、こどもに覚えさせることが仕事なのだ。こどもに、自立性や自分で考える力を求めるおとなは、日本の学校教育制度そのものに責任を求めなければ何も解決しない。
創り出す会が発足してからの10年で、文部科学省は学習指導要領に、こどもたちが自分で考える力を伸ばす教科として、総合的な学習の時間を導入した。一週間に1時間から2時間しかない枠で、自分で考える力がつくかどうかは疑問が残るが、それでも現行の制度のなかに、教えるなかみや教科書のない教科を創設した意義は大きかった。しかし、それも2008年度以降、徐々に減少し、やがては消滅の道をたどることが決定している。ふたたび、学校はこどもに暗記と応用力を求める時代に逆戻りする。
そもそも教育という営みを、教えれば覚えるという定量的な考えでとらえることに無理がある。こどもにはさまざまなタイプがあり、工場のラインで規格製品を大量生産する考え方と、教育を同じ土俵でとらえれば、規格外のタイプのこどもはそこからはみ出さざるを得なくなる。経済論理では規格外品として分類されるが、こどもは生きているひとだ。将来に向けて可能性のある存在を、こどもの時期に規格外だからといって、教育の対象から分類排除してしまえば、一部のエリートしか優遇されなくなるだろう。
わたしたちは、こどもの特性や可能性を優先し、個々人の能力や学びのスピードにマッチした学校を設立したいと考えた。すべてのこどもが、そういう学校に適しているとは考えない。しかし、覚えることや覚えたことを応用することだけを強制されることに辟易しているわずかなこどもには、朗報になるだろうと考えた。やがて、こどもを学びの中心に据える学校を設立するための試行学校がテストマッチだった。
逗子市に公設の野外活動施設があった。逗子でこどもの放課後の遊び塾を主宰しているひとがテストマッチに賛同し、8月24日から4泊5日で借りることができた。キャンプや自炊ができる施設があり、宿泊部屋も用意されていた。スタッフの多くは、開催期間中、泊り込んで運営にあたった。
■神戸新聞より
http://www.kobe-np.co.jp/rensai/0101tihou/0103tihou3_6.html
『子どもの自由な学び。そのことを確認するため九九年夏、四泊五日のキャンプ形式でテストマッチを開いた。参加した子どもは七歳から十二歳まで三十一人。試行錯誤の第一歩を約四十人の大人が支えた。
毎日、自分たちでプランを立てて行動する。釣り、野球、探検、町歩き。遊びの要素が強かった子どもたちの計画の中から、次第に砂の研究、くん製づくり、天体観測などが生まれていった。最後はそれぞれが何をしたのか、自ら発表する形を取った。
佐々木のレポートにこうある。
「大人が意図した内容を子どもに提示する前に、どっぷりと自分を開放する時間を提供することが大事と感じた。(子どもたちは)やりたいことに本気で付き合ってくれる大人と信頼関係を築いた時点で、はじめて大人の言葉が心にストンと届くようになるのです」』
5921.5/19/2008
創り出す会の足音...No.14
1999年3月2日 文教部会教育改革推進本部
それまで4人の事務局と数人のメンバーで活動を続けていた創り出す会が、大きく7つのセクションに分かれて行くことが決まった26日の定例会。
一夜明けて、27日の土曜日。小田急線の善行駅に近い公民館で、「小さな創る会」を開催した。これは、土曜日の昼間の時間帯を使って、まだこどもが就学前のひとたちに、公立学校の内実と、チャータースクールについて知ってもらう宣伝活動だった。それぞれの個人的なつながりで若い母親たちが集まった。テレビで放送されたチャータースクール関係の番組を録画しておいてビデオとして流した。地道な宣伝活動がなければ、将来的にフリースクールやチャータースクール法制定の動きをしても、それを支えてくれる市民がいないと考えた。
「小さな創る会」は、その後藤沢市内の公民館を転々として開催し、試験的な学校の開始に伴って消滅していく。
そして、週末の日曜日、28日。藤沢市労働会館で、創り出す会は最初のシンポジウム「学校を創ろう」を開催した。パネラーには、大沼安史さんをお招きした。
労働会館の一番大きなホールを使って、大沼さんがチャータースクールについてのレクチャー、わたしが創り出す会の紹介を担当した。ほぼ労働会館の座席が満席になるほど参加者が集まった。もちろん、メンバーが口コミで参加者を募ったが、それ以上にちらしやホームページを参考にして一般の方々が多く集まった。
草の根の教育改革は、何もない土地を耕し、だれも知らない花の種を植えるような地道な活動だ。どんな肥料が必要で、だれの支援が必要なのかもわからない。だから、見通しをもった動きが取りにくい。シンポジウムや小さな創る会では、「それでは、いつになったら、チャータースクールが実現するのですか」という好意的な質問を多く受けた。それがわかっていれば、あえて多くのひとたちに賛同を求める回り道のような方法は選択しない。だれもが、できあがったものに期待はしても、だれも知らない花を育てていく手足を汚し汗を流す活動には、自らを踏み入れようとはしないことを痛感した。だが、このシンポジウム以降、定例会への参加者や毎月の会報を購読する会員は増加した。活動の推移に興味をもとうとするひとたちの存在は、わたしたちの活動を側面から元気にしてくれた。このときのシンポジウムの報告書(録音したものを活字に起こした)は、100部作成したが完売することができた。6月までに会報を送付したのはのべで3000通を超えた。
現役の教員を中心としたアナログ・ローカルな活動だった時期から1年半を経て、創り出す会は一般のひとや政治家、メディアスタッフを交えたデジタル・グローバルな活動へと転換をはかろうとうしていた。当時の様子を『学校を創ろう・第一章』から引用する。
『現在(一九九九年六月)、わたしは「湘南に新しい公立学校を創り出す会」の会長として次の二つのことに取り組んでいます。
一つは八月に実際に子どもたちを集めてわたしたちの目指す新しい公立学校「湘南小学校」のテストマッチを行う準備です。本当は実際の校舎を数日間借り切りたかったのですが、現実には困難な条件が重なって逗子の「学びを遊ぶ会」などの協力により逗子市野外活動センターで八月の後半に五日間かけて実施することになりました。五月後半から参加申し込みを受け付け始めたところ、わずか一週間の間に定員に達してしまったため急いで募集を締め切りました。
もう一つは「創る会」の方向性についてです。これは発足からもうすぐ二年になる「創る会」の今後へ向けてどのような展望をもつかという将来的な側面と、毎月の定例会の性格をどのようにしていくかという現実的な側面があります。
今後の「創る会」をどのようにするか……。これは大きく三つの選択肢に分かれます。
一つはあくまでも特別認可公立学校制度の立ち上げを優先しそれまでさまざまな活動を幅広く展開し、いよいよ法律面で整備されたときに湘南から名乗りをあげ「○○市立特別認可湘南小学校」の開校へ結びつける。
もう一つは特別認可公立学校制度の立ち上げは運動として求めながらも、自らの目指す湘南小学校の開校を優先し無認可でも私立でもいいから先に学校創りに着手していく。その後、特別認可公立学校制度が整備された時点で実績を盾に名乗りをあげていく。
そして最後が特別認可公立学校制度の立ち上げや湘南小学校の開校が無理で困難であると判断したときには、そのどちらもいったんはあきらめ「創る会」を解散する。
これらについては年内をメドにわたし個人の考えを明らかにしていこうと思っています。
また現実的な側面としての定例会のあり方についても考えています。発足からほぼ一年間は定例会は「学習会」のような意味がありました。各方面の人たちに来ていただいてわたしたちが報告を聞くというスタイルを多くとったからです。二年目に入ったあたりから役割を少しずつ決め署名活動や宣伝活動、イベントの企画やシンポジウムなどを相談したり企画立案したりする「企画会」のような性格を定例会が担うようになったのです。学習を積み重ね力を蓄える段階から、その力をバネにして具体的な「ものづくり」へ移行してきた感じです。
一九九九年六月の定例会までに足を運んだ人はのべ五百人を数えました。定例会の報告を郵送する報告書は約三〇〇〇通も発送した計算になります。
そんな定例会は発足当時からだれでもいつでもを基本にしてきたので毎回の参加者がまったく想像できないという綱渡りをしてきました。学習会の段階ではそこに偶然に集まった人たちで学びあっていても「創る会」全体には大きな問題は生じないと思います。しかし企画会のような段階に入った現在、いつまでも偶然にそこに集まった人たちで議論し合意に達していく方法で良いのかと思うようになったのです。初めて参加した人やたまに参加した人と提案プリントを持参して参加者に説明する人との間の意識の差や感覚の差が出てきたように思うのです。決して閉じていくつもりはないのだけれど、限られた時間の中でいつも初歩的な疑問や質問に応じていることは合意事項の先送りをやむなしとしてしまうわけです。
今後、わたしは定例会は今にもまして専門的で計画的になっていくだろうと予測します。それは切実に湘南小学校の開校を願う人たちの声が聞こえてくるからです。そのことを思うとき、いわゆる多くの人たちが自由に議論しあえる場としては三月より開始した「小さな創る会」を充当し、定例会は話し合う内容を明確にした常任委員会のような存在にできればと思いました。
五月の報告書にわたしの私見として同様の提案をしたところ、数日間の間に賛否さまざまな意見が寄せられました。インターネットで創る会にかかわっている人たちからの情報も多数ありました。とても一つにまとめられないほど集まった意見は多種多様でした。これまで「創る会」はそれだけいろんな考えの人たちを同じ列車に乗せてきたのだなぁとつくづく感じました。今、列車は途中の駅に着いて長い停車時間を過ごしているのかもしれません。再び動き出すまでに乗りかえる人と弁当や飲み物を調達する人とに分かれていくような気がします。そうやって自分の進む方向をいよいよ個々人が明確にすること、それ自体、わたしたち「創る会」が子どもたちにもっとも望む「責任ある生き方ができる力」を身につけることだと思っています。はからずも、わたしたちはプロセスであるはずの今、湘南小学校を懸命になって実践している気がしています。』
5920.5/17/2008
創り出す会の足音...No.13
1999年3月2日 文教部会教育改革推進本部
どうして、そういう方向に論点が歪曲していくのだろう。
きっと、こういうなかから、メディアは「創り出す会、国旗・国家を了承」のような見出しをつけて伝え、多くのひとがその情報から保守的な団体だという印象を抱くようになるのだろう。
ちなみに3月2日は火曜日だった。
平日だ。現役の教員が多いので、文教部会に行く時間は夕方にしていただいたが、それでも退庁時間まで学校にいては間に合わない。メンバーはみんな休暇をとって、永田町まで足を運んだ。でも、こういう活動って、休暇をとって遊んだり、病気療養をしたりしているわけではない。あしたの日本の公教育のための活動、それもお仕着せの出張ではなく、自主的な活動なのだから、公費による出張扱いになってもいいのになと、会議室の向こうの国会議事堂を見ながら思った。
この勉強会で、代議士の方々から異口同音のアドバイスをいただいた。
「運動のねらいやなかみを、一枚の紙に、わかりやすく載せたちらしが必要。文字が小さくて、文章が長いのはだめ。多くのひとは、忙しくて、ちらしを手にしたときに、文字ばかりのものは読もうとしない」。
早速、週末の土曜日にメンバーで集まり、ちらしを作成した。そのちらしに、3月26日の定例会と27日の「小さな創る会」、28日の初めてのシンポジウムの案内も宣伝として含めた。
「湘南の議員にも話を通しておくから挨拶に行くといい」
人脈というのは、こういうところから作られていく。翌週には早速、メンバーが代議士の紹介で地元の藤沢市の議員事務所に挨拶に行った。いきなり事務所のドアを開けるのではなく、事前に電話でアポイントメントをとり、紹介してくれた代議士のことを伝えて行くのだから、不審者扱いされることはありえなかった。夕方5時過ぎに、エアコンも電気も消えた庁舎に来てくれという、教育委員会の対応とは大きな違いを感じた。ちなみに、このとき面会した議員は、その後藤沢市長選挙に立候補して当選した。
創り出す会発足から1年半を経て、定例会には藤沢市内外から多くの参加者が増えていた。もはや小田急線の各駅停車しかとまらない六会の駅前公民館では、東京や横浜などの遠方からの参加者に申し訳ない。ということで、このときまでに、すでに定例会の会場は、藤沢駅から歩いて行ける藤沢市民会館の会議室を使うようになっていた。振り返れば、この会議室はその後、数年にわたり創り出す会の会合やシンポジウム、フリースクールを開いた思い出の場所になった。
よく定例会に参加していたひとで、たまたま仕事でアメリカに出張に行ったひとがいた。仕事以外に時間が取れるというので、チャータースクールの取材を、事前にお願いしてあった。3月26日の定例会(第20回)は、帰国したその方に、取材してきたチャータースクール報告をしていただいた。8校のチャータースクールと1校のマグネットスクールの報告だった。多様な学校の方向だったので、あらためてチャータースクール制度が生み出す公教育の可能性について参加者で確認することができた。
またこのときの定例会は、その後の創り出す会の方向を決める組織分化も行った。
『学校を創ろう・第一章より』
「従来の事務局は仕事の規模を縮小し内容を明確にしました。資料の管理や対外的な窓口です。さらに事務局内に財務担当を置き、資金や通帳の管理を担当することにしました。
・やがて創る会が開校を目指す湘南小学校の具体的な姿を構築する「湘南小学校の四季検討委員会」
・その湘南小学校で子どもたちが手にする教材を集める「学習教材の整理・保管委員会」
・実際にプレ湘南小学校を試行する「テストマッチ実行委員会」
・一般の人たちに広く創る会の活動を知ってもらうための文化活動を企画運営する「文化活動実行委員会」
・公民館などを使って地道に活動を宣伝する「お気楽会」
・創る会のことを全般的に宣伝する「情報・宣伝委員会」
・政治面・法律面で国内にチャータースクールの実現を模索する「チャータースクール法準備委員会」が立ち上がりました。
これだけのセクションがうまれたのは、創る会に携わる人たちが増えてきたことの証だと言えます。
さらに四月からは創る会の定期購読物としてそれまで無料で送付してきた報告書などを購読してくれる購読会員制度も設けました。」
5919.5/15/2008
創り出す会の足音...No.12
1999年3月2日 文教部会教育改革推進本部
ものものしい警備員の詰め所が正門に立ちはだかる。大沼さんが来意を告げると、とても簡単に入館することができた。
エレベーターを上がって、広い会議室には長机が円形に並べられていた。自民党文教部会といえば、文部行政に大きな影響力がある。実際に、指導要領に反映されるなかみを決めてきた経緯もある。そのなかみは、神奈川県で教員をしてきたわたしたちとしては、考え方が異なるものも含まれていた。そのため、労働組合運動を通して、自分たちの考えを示してきた。だから、まさか、教育長でも校長でもない自分に、こんな席で文教部会の代議士たちと同席する機会が訪れようとは夢にも思っていなかった。あらためて、難解な書物「複雑系」のなかの「動き続けなければ、何も起こらない」という言葉を思い出す。
文教部会はさらにいくつかの部会にわかれているようだった。このとき参加したのは、文教部会のなかに新しくアメリカのチャータースクールについて研究する部会を立ち上げるための勉強会のようだった。だから、勉強会の推移によっては、部会の必要なしと却下されてしまうかもしれない。大沼さんにしても、わたしたちにしてもかなり正念場の会議だった。
まず、大沼さんが参加した代議士に対してチャータースクールについての説明を行う。勉強会に参加するからといって、みなさん予習しているとは限らない。また、少し知っているくらいの知識が逆に勘違いということもある。だから、大沼さんによる原則的な話は重要だった。
続いて、わたしたちがいまの公立学校の置かれている状況と、創り出す会発足の理由と目的を語った。代議士のなかには、現場の教員と対面して学校の状況を知る機会がほとんどないひとが少なくなかった。だから、説明後の質問は、チャータースクールに関するものよりも、学校やこども、保護者の現状に関する細かいものが多かった。
「で、文科省としては、この先生たちが話している状況をどう受け止めているわけ」
代議士は、わたしたちの話を聞いて、同席している文部科学省の官僚に質問をふる。
よく政官癒着という問題が報じられるが、そのときの印象は異なった。勉強会に参加している代議士と、きっと呼び出されたであろう官僚との間には、ピーンと貼り詰めた緊張の空気があったように思う。官僚の方々は、国家試験にパスしたひとたちだから、代議士の質問に即座に応じる。ニーズとシーズがこの速度で対応すれば、チャータースクール作りはものすごく早いだろうと感じた。それまで、わたしたちの会った行政のひとたちは、二言目には「それは上(きっと県や国をさしているのだろう)に聞かないと」とか「そもそも法律にないものを創ることなんてできない」と口にした。どんなにチャータースクール設立のメリットや目的を説明しても、最後には思考停止の答えが多かった。しかし、文教部会には、すぐに問題解決のための具体的な方法へ直結しそうなパッションがあった。政治家を志すひとたちの動機って、この熱さなのだろう。
「あなたたちは、組合運動が盛んな神奈川県、それも湘南地方の先生方だ。このチャータースクール設立の後、その学校では日の丸や君が代についてはどうするつもりなの」
あー自民党ならではの質問だなぁと感じた。多くのひとが選挙で自民党を支持しているのだから、間接的にはそれは多くの有権者の質問なのかもしれない。
「わたしたちは、チャータースクール設立を政治の道具にしようとか、政治運動にしようとうか考えていません。純粋に、チャータースクールという制度に基づいて、多様な公立学校が全国に開校することを願っているだけです。本来の趣旨に従えば、チャータースクールは申請と審査、そして認可という流れがあるので、審査の段階で、質問にあった国旗や国家についての扱いが問われます。つまり、申請をしていないいまの段階で、それをどうするつもりかと問われても、答えに困るわけです。
もしも、認可条件に国家や国旗についての条項が含まれていれば、チャータースクール設立を目指すひとたちは、当然、その条件に従った申請をするでしょう。その申請のなかには、もちろんわたしたちの申請も含まれることと思います」
「じゃぁ、日の丸や君が代を認めるってことなんですね」
5918.5/14/2008
創り出す会の足音...No.11
1999年3月2日 文教部会教育改革推進本部
湘南に新しい公立学校を創り出す会は現在のホームページまでに3度もサイトを変更している。
当時、その最初のサイトを開設した。事務局をはじめ、中心的なメンバーはだれもインターネットのことを知らなかったが、一般の参加者のなかにパソコンやインターネットに詳しい方がいて、全面的にサイトの構築をお願いした。インターネットの力を痛感したのは、1月の研究会で初めて会ったひとと名刺交換をした後からだ。そこに創り出す会のURLやわたしのメールアドレスを印刷しておいたら、ばんばんアクセスが増えたのだ。よのなかのひとは、もう切手を貼って手紙を出したり、受話器をもって電話をしたりして、連絡を取り合う時代から、次の時代に入っているのだと思った。
『またこの頃からホームページを開設しインターネット上に「創る会」の活動を公開しました。
参加者の中にパソコンに堪能な方がいたことが大きな助けになりました。同時にわたしの家のワープロがたまたま壊れてしまい、必要に迫られてパソコンを購入したのも良いタイミングとなりました。
創る会のことをまったく知らない人たちに伝えるとき、それまでわたしたちは経験からつかんでいた人と人の関係を頼りに手紙・電話・口コミという方法で対処していました。しかしこの方法には限界があり本業を犠牲にするわけにもいかず爆発的な広がりという点では困難でした。それを可能にしたのがインターネットでした。大阪の臨時採用の教員や静岡で子どもを私立に通わせている夫婦、札幌のPTA会長などが連絡をとってくれました。またEメイルでは札幌大学や東京大学、都立大学の教員たちからとても専門的なお便りが届くようになりました。
ホームページは書きこみが可能な会議室にリンクしています。会議室からは双方向のやりとりができるチャットや創る会全体のことが分かるサポートページにアクセスすることが可能です。』(「学校を創ろう・第一章」より引用)
このチャータースクール研究会以降、事務局の動きはあわただしくなる。それまでは4人の事務局メンバーみんなか1人かけても3人で動くことが多かったが、活動のなかみが拡大し、多様化し、とても複数で動いていては追いつかない状態になった。そこで役割を分化した。おもにわたしは、連絡調整役として、取材に応じたり、質問に答えたりした。ほかのメンバーは、財政を確立する役目、地方議員や代議士に連絡をとる役目、湘南地域に根ざした活動を広げる役目、インターネットを活用する役目などを担当した。一ヶ月に一度、定例会で顔を合わせていては仕事が追いつかず、日々、電話やメールで連絡を取り合うようになった。
そして、わたしは3月2日、地下鉄の永田町駅で、大沼さんと待ち合わせをして、自民党本部に足を運んだ。
大沼さんは精力的にチャータースクールの国内での法制化のために動き、代議士や官僚ともパイプを構築し始めていた。まだ、多くのひとたちがチャータースクールという言葉すら知らなかった時代なので、そのパイプ作りは困難を極めたことは十分に予想できる。その大沼さんが、自民党の文教部会にチャータースクールを考える研究会を立ち上げるために奔走したのは、当然のことだろう。日本では法律を作ることができるのが唯一国会しかない。国会で法律を可決する権限は、代議士にしか与えられていない。いくらわたしたちが声をあげても、最終的に代議士が賛成しなければチャータースクールに関する法律はできない。国会で多数を占める自民党の代議士に働きかけをしたのは、大沼さんとしては実際に法律を作るという目的のための行動だった。そのときに、イメージを語るのでは印象が伝わりにくい。実際に、地方でチャータースクールを目指すひとたちがいるという事実を伝えることが必要だと考えたのだろう。その矛先が湘南に新しい公立学校を創り出す会だったのだ。
5917.5/13/2008
創り出す会の足音...No.10
1999年3月2日 文教部会教育改革推進本部
1998年の12月に入り、一本の電話を受けた。
それは大沼安史さんという方からの電話だった。
インターネット上で、オルタナティブ教育情報センター(当時)というサイトを主宰していた。オルタナティブ教育情報センターは、日本で唯一「チャータースクール」を中心としたオルタナティブ教育の情報を収集し公開していた。大沼さんは、北海道新聞の記者時代にアメリカでチャータースクールを継続的に取材し、日本国内に1997年に初めて紹介した人だ(一光社「チャータースクール」ジョー・ネイサン著・大沼安史訳)。
その後、宮城教育大学講師時代にNHKの教育トゥデイで文部省生涯学習振興課の寺脇課長(当時)と対談をした。もともと「創り出す会」の発想の根本に「チャータースクール」という書物があったこともあり、わたしは大沼さんからの電話にこころが震えたのを覚えている。
電話の内容は、年が明けてから、東京でチャータースクール研究会という勉強会を発足させるので、参加しないかというものだった。
湘南に新しい公立学校を創り出す会の発足から、1年以上を過ぎて、まだ当時のわたしたちの周囲には、チャータースクールを知らないひとが多かった。名前を知ってはいても、その内容を正確に把握しているひとは、湘南地域全部を合わせても10人もいなかっただろう。でも、東京では、勉強会を開催できるほど、チャータースクールへの関心が広いのかと、大きな衝撃を受けた。さすが、首都だけのことはある。当時は、チャータースクールの情報を書籍出版物で得るのは皆無に近かった。大沼さんの翻訳した「チャータースクール」(一光社)をバイブルとして、いつも手元に置いていた。ネット上でも、チャータースクール関連の情報は、オルタナティブ教育情報センター以外には、本場のアメリカ以外にはなかった。
1997年の発足以来、毎月の会報を一方的に大沼さんのもとに郵送していた。8月の資料も送った。それらに目を通していてくれたのだろうと、このときの電話で確信をした。
地元では、新しい公立学校を創るという考え方に賛同するひとが少なく、行政側のひとたちも協力的ではなかった。でも、東京には興味を抱いているひとたちが確実にいるんだという事実が、しょぼくれそうになっていた気持ちに喝を入れてくれた。
1999年1月23日。土曜日の夜。文京区のとあるビルの会議室にわたしは事務局メンバーと行った。大沼さんとは面識がなかったが、部屋に入ったとたん、アイコンタクトで互いの存在を感じた。同士という感じがした。もっとも、こちらはテレビ番組を通じて、大沼さんの顔は知っていた。
「ぼく、たまたま風邪を引いちゃって、あまり声が出ないんです。急で悪いけど、簡単な挨拶を済ませたら、湘南の会(という呼び方をしていた)に振るので、活動の様子を話してくれないかな」
ドタキャンというのは聞いたことがあるが、ドタキャス(土壇場・キャスティング)というのは聞いたことがない。
「えーっ、わたしたちでいいんですか」
東京でチャータースクールを志向するひとたちから元気をもらいたいと思って参加したのに、そのひとたちを前に話をしろと言われてもなぁ。
それでも、活動の足跡を話すだけの内容は思い出せばたくさんあったので、具体的な事実を参加者(30人ぐらい)を前に話した。その後の質疑で感じたことは、そこでも、湘南でわたしたちが受けた質問や疑問と同じなかみが重複され、驚いたことだ。チャータースクール研究会というから、そこに参加するひとたちは、個人でも団体でもチャータースクールを目指すひとたちだと信じていた。しかし、おそらく半数以上のひとたちは、大沼さんの本を読み、読者カードを郵送し、今回の会合を知り、興味本位で参加していたのだ。しかし、わずかではあったが、残りのひとたちのなかから、その後、オルタナティブ教育を目指すひとや、大沼さんの活動を補佐し拡大するひとが誕生したのは、研究会としての大きな成果だった。
5916.5/12/2008
創り出す会の足音...No.9
1999年3月2日 文教部会教育改革推進本部
前年の8月に作成した湘南に新しい公立学校を創り出す会の企画書・設立趣意書・署名は、秋に入ってからメンバーが各方面に配布したり、郵送したりした。藤沢市教育委員会にも郵送した。何度か、教育委員会から内容に関する問い合わせの電話を受けた。11月4日にはふたたび教育委員会に挨拶に行く。このときも、5時を過ぎてから来てほしいとのこと。ちなみに、このときに会った3人の指導主事は、みなさんその後めでたく校長になり、なかにはもう定年退職を迎えた方もいる。
読売新聞の記事、メンバーによる資料の配布などを通して、藤沢の学校教育界では少しずつ、湘南に新しい公立学校を創り出す会の知名度は上がった。とはいっても、まだまだ「何を企んでいるかはわからないけど、名前だけは知っている」という段階だった。同時に、意欲的に活動するメンバーのなかには、やりすぎてしまうケースも目立つようになる。たとえば、授業参観の後の懇談会の時間を使って、署名の協力を保護者に要請する教員がいた。これは、公私混同であり、後に保護者から教育委員会に匿名のクレームが入り、代表としてわたしが注意を受けた。
それ以来、行動の規律についても、メンバーで確認しあった。
「だって、学校には印刷機もあるし、親も多く集まるじゃん。そういう条件を宣伝の場に使わない手はないよ」
「そういうことをしていると、この活動に批判的な勢力が足元をすくうきっかけを与えることになるのがわからないかな」
「少年サッカーやミニバスケの指導者をやっている連中なんか、ちらしを印刷機で印刷してるぜ。それに新しい団員の募集を学校の掲示板に堂々と貼っているのに」
「きっと社会教育の一環として、許可を受けているんじゃないの」
「じゃぁ、印刷機で暑中見舞いや年賀状を印刷している教員がいるのは」
「そりゃ、まずいでしょ。でも、俺たちの行動とそういう私人の行動を同じステージで比べるのはちょっと違う気がするよ」
メディアの反響は、同じメディアの方からもあった。週刊金曜日、朝日新聞、共同通信、湘南朝日新聞、NHKの記者やライター、ディレクターから取材の申し込みがあり、仕事を終えてへとへとの6時過ぎに大船で会って質問を受けた。
わたしは、11月の終わりに、校長室に呼ばれた。
「御用でしょうか」
「まぁ、そこに座りなさい」
当時のT校長は、人柄がとても穏やかで、職員に対しても、あまり上からものを言わない方だった。その校長が、少し頬を上気させている。
「こないだの校長会で、ほかの学校の校長たちから、きみたちの活動について質問を受けたんだ」
「えーっ。校長会でですか」
「なにやら、いろいろ資料を配っているそうじゃないか。それが校長の手元にも届いたみたいだった」
「わたしが活動に参加していれば質問にも応じられたんだが、まったく知らなかったので、後日返事をすることにして、質問だけを聞いてきた」
ひとこと、わたしゃ、関係ありませんと言えばよかったのに。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
校長はていねいに質問をメモにしていて渡してくれた。
「急ぐことではないし、質問した校長たちも冷やかし程度の気持ちかもしれない。あんまり気にしなくていいよ。そのときの校長会にたまたま教育長が同席していて、あのひとたちは熱意があるんだから退職して私財を投げ打って作ればいいのよと言っていました」
それでは、新しい学校にはなっても、新しい公立学校には永遠になれない。
5915.5/11/2008
創り出す会の足音...No.8
1998年8月28日 藤沢市民会館
畳が20枚ぐらいあっただろうか。そこはかなり広い和室だった。
座卓の長机を並べて、3つの作業グループに分かれた。必要な文具があれば、すぐ近くの東急ハンズまで買いに走った。タイムリミットを最終日の午後と決めていたので、議論、検討、資料収集、作成という一連の工程をそれぞれのグループが一気に練り上げた。
途中、多くの協賛者が差し入れを持って部屋を訪ねた。
そこには、少しずつ定例会からは足が遠のいた教員もいた。また、当時の作業グループには、後に指導主事になって教育委員会の人間になったひともいる。
3月7日、愛知県日進市で中学3年生の女子が交際中の19歳の男に別れ話のもつれから殺される。
3月9日、埼玉県東松山市立東中学校で、こどもどうしが口論になり、相手を刺殺する。
同日、神奈川県厚木市で16歳の少年が17歳の少年を出刃包丁で刺す。
3月10日、名古屋市本城中学校で中学2年生男子が同級生の男子を菜切り包丁で切りつけ重傷を負わせる。
同日、京都で高校1年生男子が警察官を襲う。
創り出す会の目指すものに、個人的に完全には賛同できなくても、いまのままではこどもも、若者も、社会や教育への閉塞感から、犯罪に走ってしまうのではないか。あるいは不登校を経て、ずっと自宅・自室に引きこもるひとたちが増えるのではないか。教育に関心のあるひとたちは、何かしら新しい方向性を探ろうと動き出した創り出す会に、この3日間に物心両面の支援をしてくださった。
毎月の定例会の内容をまとめ、事務局は会報として参加者に配布していた。それを、文部省の寺脇課長にも送っていた。4月28日、当時、わたしが勤務していた小学校に文部省生涯学習振興課から直通の電話があり、取り次いだ管理職に「課長は毎月、会報を楽しみにしていると、伝えてください」と言付けを頼んだ。
「お前たち、直接、霞ヶ関と連絡を取り合ってるの」
びっくりしながら、電話の内容を教えてくれた。
1998年のゴールデンウィーク明けには、創り出す会の活動を4人の事務局だけが担うのではなく、それ以外のひとたちも中心的な存在としてかかわるようになった。いきなり、事務局の仲間入りというのはハードルが高すぎるというので、拡大事務局会という名前で一ヶ月に一度の割合で会合を開いた。拡大事務局会のメンバーは、教員が多かった。6月20日の拡大事務局会で、初めて創り出す会が設立を目指す学校の名前として「湘南小学校」という名前があがった。その後、湘南小学校という名前は、会報やパンフレットにも掲載するようになった。メディアからの取材を受けたときも、新しい学校の名前として、湘南小学校という名前を使うようになる。
拡大事務局会による湘南小学校構想が動き始めていたことが、8月28日の3日間ぶち抜きの定例会へと発展した。
9月を過ぎて、読売新聞の中西茂記者から取材を受けた。そのときの内容が、10月27日のコラムに掲載された。新聞の影響というものをまったく実感していなかったわたしは、10月27日以降、その影響力に圧倒されることになる。学校でも、地元でも、「読んだわよ」「見たよ」「おもしろいことやってんじゃん」と声をかけられた。親戚から電話までかかってきたのだ。
でも、みなさん、わたしの名前が新聞に載っていたから声をかけたのであって、そのなかみに興味をもっていたわけではありません。
5914.5/9/2008
創り出す会の足音...No.7
1998年8月28日 藤沢市民会館
神戸新聞2001年1月3日の記事より。
http://www.kobe-np.co.jp/rensai/0101tihou/0103tihou3_6.html
『「チャータースクールは特別認可の学校。地方自治の中で、例えば条例制定の形で設置できないか」
「学校の設置や運営は、教育基本法や学習指導要領などに規定される。自治体の判断では難しい」
一定の理解は得られた。が、実現のためには、まず霞が関や永田町を動かしてほしい、というのが市教委の返事だった。』
「学校を創ろう・第一章」より引用。
『はじめてのことだったので活動の報告と今後への協力要請という程度でしたが、まったく相手にされないことまで予想していたわたしたちにとってはかなり手応えを感じました。それまで一方的に送っていた資料を担当の方がファイルしていたりして内容面で質問も受けました。その中に
「賛成か反対かは別にして議会から予算をつけようとするとき、何をどのようにという具体的なプランがまったくない状況の中では何もすることができない。」
という指摘を受け九八年は創る会の方向性を「形」に残す目標をひそかにわたしの心の中で持ちました。』
教育委員会では、学校教育部長(当時)が応対した。
事前にアポイントをとったとき「いつでもいらっしゃい。ただし、5時以降にしてほしい」と言われていた。
5時以降に行くというのは、勤務が終わってから来いという意味だ。また、教育委員会としても正式な業務時間は終了しているという意味でもある。つまり、わたしたちの訪問は、交渉や申請という正式なかたちではなく、記録の残らない挨拶という扱いだった。正式な記録が向こうに残らないのだから、本音で話せる利点はあっても、そこで何かの約束を取り付けるというわけにはいかなかった。5時になって、扉が施錠される。わたしたちは裏口から入り、帰るときにはセコムのかかっていないサッシ窓から退出した。まるで、こそ泥です。
それでも、教育委員会という敷居の高い役所に、学校現場の教員が、労働組合の団体交渉でもなく、研究団体の資料請求でもなく、ただの市民として学校作りの相談に行ったわけなので、前代未聞の奇異な目でカウンターの向こう側のひとたちにじろじろ見られた。インパクトはあったかもしれません。
対外的に、創り出す会の目指すところを伝えるには、わかりやすいなかみと、それらをかたちに残す必要があると考えた。
1998年8月28日から30日までの3日間。その議論と作業を集中的に行ったのだ。藤沢市民会館の和室を一日12時間ずつ借りて。「企画書」「設立趣意書」「署名用紙」などの検討と作成を行う。台風と地震に見舞われた嵐の3日間だった。
「学校を創ろう・第一章」より引用。
『企画書とは一般の人たちにわたしたちの活動と開校を目指す湘南小学校のについての簡単な説明をしたものです。見開き一枚のコンパクトサイズです。
設立趣意書とはやがて専門機関にわたしたちの活動を伝えていくときに資料となるものです。湘南小学校設立の理由について表やグラフ、国内外の情報などをもとに説明しています。このときに作成した署名用紙は早速その年の秋から広く一般向けに署名活動が展開されることになりました。』
5913.5/8/2008
創り出す会の足音...No.6
1998年8月28日 藤沢市民会館
埼玉県飯能市に自由の森学園がある。画一的な方法の学校教育から脱した理想教育を目指して開校した私立学校だ。
その頃の湘南に新しい公立学校を創り出す会は、まだ具体的な新しい学校像については固定しきれていなかった。イメージはあったが、一本化するまでは到っていなかったのだ。正月7日に、事務局のメンバーで池袋まで行き、自由の森学園の教師に会い、学校の現状をインタビューした。すると、学校開校から時間を経て、第一志望で入学してくる生徒が減少していることを教えられて驚いた。理由はさまざまで、何が主因なのか、インタビューした教師自身もはかりかねていた。
1月11日、シンナーを吸引した19歳の少年が5歳の女児を刺殺した。
1月14日、川崎市で中学3年生の男子が母親を包丁で刺殺した。
1月22日、日本体育大学スケート部と帝京大学ラグビー部が無期限の活動停止(対外試合停止)。ともに部員の婦女暴行事件が原因だった。
1月28日、栃木で中学1年生の男子が26歳の女性教諭を学校内でナイフで刺殺した。
こどもから若者まで、どこかでこころの歯車が狂い出し、犯罪の一線を飛躍していく。それぞれに共通した背景があるのかないのか、わからない。社会学者の宮台真司氏は「世紀末の作法」を出版した。
理想と現実のはざまには、深くて大きな溝があり、新しい学校というポジティブなアイデアが、目の前の暗い現実に押しつぶされそうな予感がした。
そのあたり、またまた「学校を創ろう・第一章」から引用する。
『また、学校関係者以外の人たちが参加し始めた時期、わたしたちはもう一つの悩みもかかえました。
それは今の学校や子どもの担任に問題意識をもつ親たちの駆け込み寺的印象を持たれたことです。また、自然志向・環境志向の人たちに受け入れられ誤解を与えたことです。
創る会のイメージする学校はこの時期はまだ立ち上げていませんでした。むしろどんな学校を創造するかというアイデアを蓄積する準備期間だったのです。そのため、明確なイメージをもっているこれら進歩的な人たちに時として話し合いの場面そのものを席巻されそうにもなりました。
こういった経験を通して創る会の面々は、ある固定した価値を工夫して子どもたちに伝えるタイプの従来の学校教育パターンから、子どもたち自らが学びを築いてゆけるメカニズムの構築が大事だと思うようになった気がします。
教科書通りの授業を批判する人たちが、自分たちが用意したテキストを子どもたちに強要するとき、それは内容は異なっていても方法は変わっていないのです。わたしは、この方法そのものが今の子どもたちの中に学びの可能性を摘んでしまっている原因があると思っています。だから、その点ではどんなにすばらしい価値観をもった人たちもこれを子どもたちに伝えたい・知らせたい・学ばせたいという「使役の関係」を崩せない限り、新しい公立学校を創る活動をともには築いていけないだろうと思っていました。案の定、教員の看板をおろせない人たちとこれら進歩的な人たちの足は確実に遠ざかっていきました。
このまま創る会の活動は終息してしまうのかと思った時期に市教育委員会に挨拶に行きました。対外的な接点を築いたのはこのときが最初です。』
1998年2月3日。文部省生涯学習振興課課長の寺脇研氏(当時)に、創り出す会の資料を郵送した。海のものとも山のものともわからない団体からの郵送物に、時間を割いて目を通してくれるとは思わなかったが、目指すところを要約した資料を送った。9日には、直通の電話までかけ、資料が届いたかを確認した。寺脇氏とは話ができなかったが、「資料は確実に課長に届いている」と取次ぎのひとが教えてくれた。
そして、2月18日に藤沢市教育委員会に挨拶に行った。
5912.5/7/2008
創り出す会の足音...No.5
1998年8月28日 藤沢市民会館
わたしたちは、1997年10月の最初の定例会以降、毎月、会合を開き、市民が創る新しいタイプの公立学校構想について、参加者と議論を重ねた。
同年11月の定例会では、教師ばかりの集団は話が偏るときがあるので、なるべくそれぞれ学校関係者以外を呼んで来ようということになった。その結果、民間に勤務しているひと、主婦、学生など、幅広いひとたちが、毎月の定例会に少しずつ参加し始めた。
さらに同年12月には「いっしょにやりましょう」という小冊子を作成した。それまで参加者として意見を言っていたひとたちに、チャータースクールを日本国内に実現する運動の担い手になってほしかったからだ。そういうひとたちを増やすために、いまの公立学校の構造的な問題点や、不登校・いじめなどの現実的な問題、それを解決するひとつの方法としてのチャータースクール制度の概要をかんたんにまとめた。
年が明けて、1998年1月の定例会では、チャータースクール制度の導入には不可欠の学校選択の自由について、参加したひとたちとの共通認識がはかられた。
当時は、学区が厳然と存在していて(いまでも、もちろん)、公立小学校と公立中学校に通う限りは、教育委員会が定めた学校に行かなければならなかった。チャータースクールは、学区に拘束されない学校なので、こどもや保護者が学校を選択する権利がないと実現できない。
日本の憲法は、こどもの就学義務を親の義務として規定している。親がこどもに対して9年間の義務教育を受けさせなければいけないと規定している。フィンランドの法律では(現在のもの)、こどもに就学義務を与えている。だから、親の意思に反してもかまわない。主体はこどもにあり、そのこどもの義務を行使するために親はこどもによりよい学校を選ぶ権利が発生する。
日本では、憲法が規定した親の義務を遂行するために、教育基本法・学校教育法などの教育法規が教育委員会や首長に対して、学校の設置権と就学の認可権を与えてしまった。ここに、就学指定という、通うべき学校を指定する制度、すなわち学区制度が成立する。
学区制度は、さまざまな理由で不登校を選択したこどもや親に対して、ほかの受け皿をなんら用意していない。不登校のこどもをもつ親や、自身が不登校の経験のあるひとたちは、学校選択の自由について、肯定的な考えのひとが多かった。これに対して、かなり柔軟な考えの教員でさえも、学校選択の自由は学校間に競争をあおり、格差を助長するとして否定的な考えのひとが多かった。
当時の様子をふたたび「学校を創ろう・第一章」から引用する。
『九八年になって創る会の参加者に少しずつ学校関係者以外の人たちが集まるようになりました。最初は口コミで広がっていったのですが、そのうちにだれからの紹介なのかは分からなくなるほど各方面からの参加者が集まるようになったのです。
ただし、わたしたちはここにおいてもう一つの壁を経験しなくてはなりませんでした。
それは話し合いをしていくうちに、なぜか教員たちは「学校側」の代弁者のようになり、それ以外の人たちは「保護者側・地域側」の代弁者になってしまったのです。それぞれにそんなつもりはないところからスタートしていても、圧倒的に学校内部の情報という点では教員の方が知っていることが多いために
「今の学校の……というところはどうなっているのですか。」
という問いがあったときに
「それはね。」
と応ずる関係が生じてしまったのです。
こういった関係で何回かの定例会を行いました。その頃を境にして教員たちの参加が減少していったように思います。昼間、学校現場で仕事をして様々な矛盾につきあいながらもそれを乗り越えようと努力をし、夜間にそんな理想の実現のために話し合い活動をと思って参加してみたらそこでも現実が押し寄せてきたわけですから、タフでないとつらかったのかもしれません。また、そんな場面においてもまだまだ教員の看板を下ろすことができなかったのかもしれません。』
5911.5/6/2008
創り出す会の足音...No.4
1997年10月31日 六会駅前公民館
当時のわたしの手帳には、毎日新聞からの引用が記されている。
「公立学校の教員の中に、こどもを適切に指導できない教員がいるとして、都(東京都)がこうした教員を指導力不足教員と位置づける要項を定め1997年度から運用を始めたことが15日までにわかった。授業の進行が極端に遅かったり、こどもと対人関係が作れない教員らが対象で、指導力不足教員に認定されると定員の配置外として扱われる。指導力不足教員は区市町村の学校では各自治体の教育長が、都立学校は校長がそれぞれ都に認定を申請。都教育庁人事部長は関係課長による判定会議を開き年度末の人事異動に配置外とするかどうかを決定する。認定された教師は休職扱いとなり、最長3年間、都の指導を受けるが、3年間休職が続いた場合は、免職もありえる」。(毎日新聞1997.11.15夕刊)
校内暴力、学級崩壊、いじめなどが全国的に広がり始めていた時期。まだ、総合的な学習の時間は導入されていない知識中心の詰め込み教育が続いていた時期。こどもたちのこころとからだの荒れは、ピークに達していた。
その時期に、教育行政は教員の質を向上させることで、こどもたちを押さえ込めると判断したのだろう。教員の質を向上させることは必要なことだと思うが、問題はその方法だった。官制による一方的な「指導力不足教員」の認定によって、強制的に配置外として学校現場から退去を命じる方法は、果たして教員の質の向上につながる方法だったと言えるのだろうか。また、そもそもこどもたちのこころとからだの荒れは、教員の質が悪かったことが原因だったのか。その因果関係を科学的に立証しないまま、現場の教員を官制側が、雑草を摘み取るかのように一掃していく管理的な流れ。こどもの意欲だけでなく、教員の意欲も同時に奪ってしまったと感じる。
事務局「このままでは、やる気のある教員が学校を去り、上の顔色をうかがう教員ばかりが学校に残るようになります。そうしたら、一番、被害を受けるのはこどもたちです」
参加者「それなりの授業をして、こどもの関係に気を配っていれば、ほどほどの毎日が送れると思うんだけど」
事務局「そりゃ、確かにここに集まったみなさんは授業もこどもとの関係も優秀な方ばかりです。だから自分は大丈夫だと感じるでしょう。でも、ほかの多くの教員のことを考えてください。そのひとたちも、みんな授業もこどもとの関係も優秀ですか。ひとりとして、思い悩んだり、落ち込んだりしているひとはいませんか」
参加者「まぁ、ひとはひとだから。いまは自分のことで精一杯だよ。自分のクラスから不登校やいじめを出したら、たちまち校長に呼ばれてしまうからね」
湘南に新しい公立学校を創り出す会という長い名前を知るひとは、当時は日本中にだれもいなかった。
秋も深まった湘南の夜、小田急線の小さな駅「六会」に集まったひとたちしか知らなかった。しかも、そこに集まったひとたちは、会合への参加者であり、自由な出入りが認められていた。つまり、会という組織のメンバーではなかったのだ。
だれかが何かをしてくれる。その話に乗ったり降りたりするなら、話は聞いてもかまわない。そういう程度の気持ちだったのだろう。
しかし、法律さえも変えようとする運動には、少数でもいいから、組織のメンバーとして、自立的に動き続けるひとが必要だった。最初の会合に参加したひとたちのなかに、その後、継続的に会合に参加し、中心的なメンバーとして長いつきあいをするようになるひとがいたこと。その出会いが、大きな財産となった1997年10月末日。
黙っていては何も始まらない。動きのなかで考えを整理していく。この運動を続ける基本的なスタンスを、からだにしみつけた夜だった。
5910.5/4/2008
創り出す会の足音...No.3
1997年10月31日 六会駅前公民館
駅前公民館の夜は更けていく。
事務局「というわけで、チャータースクールは設立が認可されれば、自分たちの創りたい学校が開校できる制度です」
参加者「あんまりよくわからないなぁ。ところで、チャータースクールってどんな学校なの?」
本当によくわかっていない。
事務局「チャータースクールという学校があるわけではありません。チャータースクールという制度があって、その制度を使って、内容の異なる様々な学校が設立されているんです」
参加者「でも、契約だから、目標に達しなかったら、閉校になるんでしょ」
事務局「少し、理解できてきましたね。その通りです」
参加者「そりゃ困るよ。ローンはあるし、将来の生活もあるし。仕事がなくなったら困るもん。それに、学校を追われるこどもたちへの責任はどうするわけ?」
従来型の教育改革は、公立学校を実験の場として、様々な内容をトップダウンで実施してきた。
自主的な研究会や、労働組合の教育研究でも、基本的には教員の思いを授業に生かすかたちだった。
どちらも、成果があがったのか、あがらなかったのかという客観的な評価は必要としていない。だから、こどもにしてみれば、うまくいこうがいくまいがどうでもいいことだった。学校での新しい取り組みは、いまもなお、このようなかたちで継続している。
学校で、熱心と言われる教員や授業に大きな工夫をする教員でさえ、自分たちのやり方が評価され、結果によっては、解雇されるかもしれないというリスクには敏感だった。
■仮想チャータースクール申請書
http://www.suzume.com/~yoheisan/top/acnips/cs/apli.htm
こんなものまで用意していました。
最初の会合の様子をわたしのレポートから引用する。
『当初、わたしたちは同じ職業の人たち、つまり学校の教員に対していっしょに活動をしていく仲間を募りました。子どもたちのことを考えるときに、同じ土俵で仕事をしている人たちとなら話が通じやすいと思ったからです。最初の会合にはおよそ三十人くらい集まりました。その会合の中でわたしたち四人で考えていた新しい学校のイメージを発表したのです。しかし、なかなかそのイメージが具体的に伝わらず、「今の学校で起こっている諸問題に対してもっとやれることをやってからでも遅くはないのではないか。」「公立学校を創ることなどわれわれにできるはずがない。」「どんな学校を創りたいのか具体像が見えない。」など厳しい意見をたくさんもらうことになりました。
そこでわたしたち四人(事務局と称するようになります)は月に一度の定例会を学習や討論の場として位置付け、すぐに新しい学校を目指す市民運動的な行動へと考えていた計画は頓挫してしまいました。
現役の課題集中高校の教員の話、私立でビジョンをもった自由学校の教員や保護者の話、塾の実態などを一回ごとの会合で検討したのです。この時間はとてもまどろっこしいものでしたが、集まった人たちの心に確実に今の公立学校教育制度がかかえている問題点に気づいてもらう効果はあったと思います』。(「学校を創ろう・第一章」http://www.suzume.com/~yoheisan/top/library/1edu/07acnipssindex.htm)
5909.5/3/2008
創り出す会の足音...No.2
1997年10月31日 六会駅前公民館
第1回湘南に新しい公立学校を創り出す会の定例会には、30人近い現職の小学校教員が集まった。午後6時からの開会なので、夕食は各自が持参することにした。事前に100人ぐらいの教員に声をかけた。そのうちの三分の一のひとが、興味本位だったかもしれないが、週末金曜日に、酒を飲みにも行かないで、まじめな勉強会に集まったのだから、湘南の底力を感じた。
もっとも、握り飯やおしんこに加えて、ビールや缶チューハイを片手に持つひとがほとんどでした。
事務局「きょう、集まってもらったのは、既存の公立学校に変わる新しい公立学校を創ろうという考えに賛同してもらいたかったからです」
参加者「公立学校を創ることなんて、一介の教員にできることなんですか」
事務局「いまの日本の法律制度では不可能です」
参加者「それじゃ、どうやって創ろうとしているんでしょうか」
事務局「アメリカで1991年から新しい法律、チャータースクール法というのができました。その法律を日本でも作って、新しい公立学校を創ろうと考えているのです」
参加者「チータースクールって何ですか?」
事務局「チーターじゃありません。それじゃ、ペットスクールになってしまいます。チャーターです」
参加者「チャータースクールね。聞いたことないなぁ」
集まった参加者は、だれもチャータースクールを知らなかった。わたしたちは、チャータースクールの解説から始めなければならなかった。
じつは、このあたりのことについてわたしは過去にかなり詳細に記している。
■「学校を創ろう」■
http://www.suzume.com/~yoheisan/top/library/1edu/07acnipssindex.htm
活動の開始から1999年6月を現在として、2年間を総括しているのだ。それにしても、いつ寝ていたんだろうと思うほどの動きをしていたことがわかる。だから、頭痛や肩こりに悩まされたのか。今頃になって原因がわかりました。
■チャータースクールとは■
http://www.suzume.com/~yoheisan/top/acnips/cs/charterschool.htm
日本語に訳すと「特別認可学校」です。1991年にアメリカ・ミネソタ州ではじめて「チャータースクール法」が可決成立しました。
@公立学校の改革制度です
従来の公立学校がかかえてきた問題を解決するためにアメリカで始まった公立学校の改革制度がチャータースクールです。共通な枠でくくられている公立学校に特別な認可を与えようとするものです。
A教育の内容に責任を負うものです
特別な認可とは自治体以外にも設置権限を認めるとか学区を撤廃するとかさまざまです。その中でとくに重要なのが特色ある学校にするため、そこで行われる教育の内容について一切外部からの制約を受けないという点です。その代わり、教育内容には結果責任を負います。
B契約の学校です
設置者と学校を創りたい人たちとの間で「契約」が成立すればその学校は開校できます。こういった仕組みのことをチャータースクールと言います。契約満了時点で結果責任を問われ、十分な成果が上がっている場合は契約は更新されます。反対の場合、学校は閉鎖されます。
C公正に用意された競争を導入するものです
全米のチャータースクールは多様性に富んでいます。演劇中心の学校、情報教育中心の学校、基礎学力中心の学校、自主課題学習中心の学校など。これらを子どもと保護者が選択できる条件が整ったとき、チャータースクールどうし・チャータースクールと従来の公立学校・公立学校どうしの間に、子どもや保護者が望む教育が問われることになります。その結果、公教育が多様化し、学習主体としての子どもや保護者が真に尊重されていきました。
D確実な成果をあげています
アメリカのハドソン研究所がまとめた調査によるとチャータースクールに通う子どもたちの学力や学校への意識は、それ以前に通っていた公立学校時代よりも確実に向上している結果が出ています。
5908.5/2/2008
創り出す会の足音...No.1
1997年10月31日 六会駅前公民館
そこは小さな公園に面した一画で、公民館とは名ばかりの地域の寄り合い所のようなところだった。とくに専門のひとが常駐するわけではない。近くの住民に鍵を取りに行って、ドアを開けるシステムだった。
わたしを含む神奈川県藤沢市内の公立小学校の現職教員4人が、自分たちの手で公立学校を作ろうと思い立ち、活動を開始した。
当時の様子が神戸新聞の2001年1月3日版に掲載されている。
『それは、四畳半ほどの物置部屋から始まった。江の島で知られる神奈川県藤沢市にある市立T小学校の一階。
四年前のことだ。三人の教師がここを喫煙場所に使い始めた。煙草を吸わない教師も輪に加わった。メンバー四人。いずれも現場で限界を感じていた。
一番の若手がS。「子ども一人ひとりの能力差はあまりに大きい。しかし、今の教室でそれぞれに合った指導をすることは不可能に近い」。三月、担任を終えるといつも無力感にさいなまれる。
卒業生が暴力団にかかわっていると聞いて落ち込んだこともある。「学力が低い子どもは何にも自信が持てない。だから人生を切り開いていけない。学力も大事だが、何でもいい、『これが得意なんだ』っていう実感を小学校で味わっていれば、違う生き方ができたんじゃないか」
メンバー最年長のHの言葉。「今は勉強ができないと、人格までだめだと言われちまうんだな。家に帰っても学校の評価がついて回ってさ、ずっと『教育』に囲まれてる。そりゃ、やってらんないよ」
ある日、Hが一冊の本を持ち込んだ。「チャータースクール」。アメリカで生まれた新しい公立学校。親や市民、教師が独自のカリキュラムで主体的に運営する。そこでは子どもの個性、能力の差がしっかりと認められていた。
四人は、残りの教員人生を日本版チャータースクール実現にかけることで一致した。一九九七年九月、「湘南に新しい公立学校を創り出す会」を設立。会長には「若いやつがやれ」とSが指名された』。(一部固有名詞は変更しました)
あれから10年以上が経過した。SやHの言葉は、過去のものになっただろうか。日本の公教育は、劇的な変化を迎え、こどもたちが意欲に満ちた学校生活を送れるように進化しただろうか。
総合学習の導入や、学習内容の厳選で、過去のような詰め込み状況は打破された。しかし、それも学力論争で衰退し、振り子は元に戻り、いまや完全に逆に触れようとしている。2009年からは、小学校でも一週間あたりの授業を1時間増加するという。6時間目まである日が当たり前の時代が目の前にさしかかる。何も知らないこどもたちの悲鳴を想像しよう。
きっとまたいじめや校内暴力、学級崩壊が復活する。授業時間数を増加し、学習内容を難しくするのだから、意欲のない、勉強がわからないこどもが相対的に増加するのは、統計上明らかなことだ。それを、システムも人材も変えないで、全国一斉開始させようというのだ。むしろ教育予算は年々削減されている。マンパワーには限界がある。管理職や教育行政の不当な介入や押し付けから、こどもたちを守ってきた気骨あるひとたちは、すでに定年退職を待たずに学校現場を去っている。自分で考えることを封印した教員たちが残る学校に、いま以上の負荷をかけるのだから、病気休職者が増加するのは当然だ。
1997年当時が、いまのような学校を取り巻く状況だったら、現職教員が4人も同調して、仕事以外の活動を始める元気はなかったかもしれない。
5907.5/1/2008
1997年に湘南に新しい公立学校を創り出す会の活動を仲間と始めて去年が10年目だった。
去年の活動方針に、10年間を振り返り、季刊の報告書に歩みを載せていくというのがあった。先日、今年度の活動方針を確認したときに、その項目をすっかり忘れていたことに気づいた。湘南憧学校の3年間の歩みを振り返るレポート作りに半年をかけたので、それどころではなかったという理由がある。でも、本音のところでは、活動方針に創り出す会の歩みを振り返るという項目があったのを忘れていたのです。
そこで、今年度は、がんばって10年間を思い出し、湘南に新しい公立学校を創り出す会の歩みを振り返ることにした。
いきなり振り返っても、思い出せることには限りがあるので、このウエイ上に、下書きのつもりで、載せていこうと思う。
現在の湘南に新しい公立学校を創り出す会について知りたいひとは、下記アドレスにアクセスしてください。
http://www.shonansho.org
湘南に新しい公立学校を創り出す会はれっきとした特定非営利活動法人(以下、NPO)だ。それも、まだ全国にNPOがあまり誕生していない黎明期に神奈川県より認証を受けた。法人なので、法務局に登記をしている。法律上、会社と同じ扱いだ。理事会もある。年次総会も開いている。
一人前に、英語表記もある。
The Association for Creating New and Innovative Public Schools in Shonan(ACNIPS)
ちゃんと英語の専門家に名づけていただいた。たぶん、英語圏では通用する呼び名だと思う。
それにしても、和名も英名も長い。正式な登記文章を作成するときに、いつも苦労している。和名を省略して、仲間うちでは「創り出す会」と呼ぶ。
そこで、この連載では、「創り出す会の足音」という表題を考えた。足跡では、なんだか、もう活動が終息してしまったようで悲しい。かといって、栄光では、うそ臭い。足音というタイトルで、自分たちのどんな歩き方をしてきたのかを振り返る。また、足音をいまも立てて歩き続けていることも念頭におく。
それにしても、この活動を始めたとき、まさか10年以上も続くとは思わなかった。もっと早い段階で市民の手で公立学校が設立できる時代が到来すると考えていた。よのなかの構造や法律を知らないというのは、暢気なものだ。実際に活動を始めて、税金を投入している公立学校が、いかに市民の手から遠いところで運営されているのかを痛感した。たくさんの法律や条例でがんじがらめの公立学校は、たやくすわたしたちが、役所の窓口に行って
「あのー、来年から自分たちで公立学校を作りたいのですがー」
と申し込む類のものではなかった。
だから、設立から10年以上を経ても、まだ活動を続けている。その壁は断崖絶壁よりも高く、崩せそうな崩壊箇所も見つからない。しかし、確実に壁の向こう側で、こどもや保護者の「これでいいのかな」という声は大きくなった。自ら、公立学校の枠組みから抜け、壁のこちら側に脱出してくるこどもや保護者も10年前に比べると増加した。
なお、この連載は不定期のつもりです。
ウエイじたいは、わたしの自由な発想と表出欲求によってアップしているものなので、ずーっと同じ内容をアップし続けるというのは、疲れてしまいそうだから。
わたしは、30代の半ばにこの活動を始め、いま40代の半ばを過ぎてしまった。年齢を四捨五入すると50になってしまう。仕事的には、もっとも仕事が多く、上にも下にもはさまれて忙しかった10年間に、仕事を終えた夜の時間や休日に、この活動を続けた。
ハードワークは学校の教員、ライフワークは学校作り。そんなキャッチフレーズをのぼりに書いて、ひたすら走り続けた足音が聞こえてくる。
5906.4/30/2008
がんばれ、教員新採用..7
300時間もある学校内での研修の計画書は見るのもいやになるようなエクセルの表が用意されている。
4月1日から3月20日まで、約一週間単位で細かく研修内容が網羅されている。
たとえば「授業力向上」の項目には、教科教育の基礎技術・道徳の指導・特別活動の指導・総合的な学習の時間の指導・年間指導計画・学習指導案の作成・授業実践に関する技術・教材研究の進め方・情報機器の活用・授業参観・授業研究・評価が並んでいる。
さらに「課題解決力向上」の項目には、学校教育目標と教育課程・学校組織・学級経営と学級担任の役割・学級経営案の作成・児童・生徒との関わり方・学級集団づくり・日常の指導・保護者との連携・学級事務について・諸表簿の作成・児童・生徒理解の内容と方法・教育相談・いじめ、不登校等に関する事例研究・進路指導(キャリア教育)の意義と展開・家庭・地域や関係機関との連携・課外活動、部活動の指導についてが並んでいる。
まだまだあるぞー。
「人格的資質の向上」の項目には、教員としての心構え、服務の実際・研修の意義・"平和、人権教育等の視点に立った指導について"・支援教育・保健・安全指導・保健室との連携・新たな教育課題等の理解と対応が並んでいる。
これだけの内容を、たった一年で習得しろというのは、無理な話だ。どれも教員になって時間をかけて力にしていくものであり、だれかに教えられたからといって、力になるものではないからだ。
どう考えても、こんな盛りだくさんの研修を計画しているひとだって、これはやりすぎと思っているだろう。
新採用の教員のための研修計画という気がしない。むしろ、議会や学校を批判する勢力への対策として準備している計画のような気がする。
「これだけの新採用研修を実施しているんです」
こんなにやらされて、パンク寸前になる新採用者は、その問題性をどこに向ければいいのだろうか。
それでも、わたしは研修を拒否しますとは言えないのだから、適当にやり過ごしながら、一年が終わるのを待つしかない。研修に押しつぶされて、気持ちがクラスから離れないようにするための自己防衛作戦だ。
こういう研修に生き生きとして参加し、秀逸の報告書を書き、なんの問題性も感じないひとが、必ずしも教室で優秀な教員とは限らない。
困ったことは仲間や同僚に相談すべきだ。当然のことだろう。問題が大きくならないうちに、日常的に愚痴を言い合える関係を職場に築きなさい。いつまでも学生気分でいないで、自立したおとなとして、用意された答えを覚えるだけの能力を捨て、予測不能な毎日を乗り切る判断力と決断力を育てなさい。
「なんでもかんでも聞くんじゃない。少しは見て覚えろ、考えろ」
何でも聞けば答えがあると勘違いしている新採用に、わたしはよく言う。
膨大な量の新採用研修が導入されたとき、多くの現職教員が「これでは新採用者がパンクする。クラスが壊れる」と危惧をした。実際に、いくつかのクラスはこどもたちが担任の気持ちから離れ、壊れた。一年を待たないで、辞めていく新採用が続出した。保護者は、若い教員を歓迎しなくなった。
しかし、最近の様子を見ていると、必ずしもこの流れは強化されていない。新しい流れとして、新採用者が研修で顔を合わせる機会が多くなったので、同期としての自覚と横の連帯が増し、学校をこえたつながりを大事にするようになっている。わたしは、このつながりはとても大切だと思う。
困ったことがあったとき、即座に解決する答えが必要なのではない。未熟な者どうしが、正直に互いのこころのうちを出し合うことが大切だ。困っているのは自分だけではないという自覚が、よしあしたも何とかがんばるぞという気持ちにつながる。そして、またくじけそうになったら、同期で集まり、愚痴やため息を共有すればいい。そういう実質的なつながりの場に、新採用研修の機会を使えば、学校外の研修は少し気が楽になるだろう。
(がんばれ、教員新採用・終わり)
5905.4/29/2008
がんばれ、教員新採用..6
官制側と民教側の研修があった時代から時間が経ち、新採用のみなさんが受ける研修は、ほぼ100%官制研修のみになった。
官制の新採用研修は、学校の研修、市町村の研修、都道府県の研修の3種類がある。
わたしの知っている新採用研修は、神奈川県の湘南地方の研修なので、その他の地域の研修は知らない。しかし、大枠は全国どこでも似たような研修が行われていると想像できる。
まず学校の研修には、校内指導教員と拠点校指導教員という2人の教官がつく。校内指導教員は、同じ学年を担任する教員のなかから選ばれている。日々の学習指導や生活指導について、全般的に指導を行い、校内の研修体制も準備してくれる。まぁ将来的には「お世話になった先生」になるのだろう。拠点校指導教員は、ひとりで複数校の新採用の研修を担当する。おもに授業に関する指導や助言を担当する。2003年度から導入された新しい制度だ。多くは定年退職したひとが、再雇用制度で担当している。「経験豊かな教職員として『教育指導力の継承』を推進し、初任者研修の専門的な指導者として活躍するとともに、校内指導教員との役割分担及び連携を図ることが求められて」(県の手引きより)いるそうだ。
学校外での研修が年間に25日間もある。すべてが授業日というわけではない(こどものいない夏休みなどに集中的に実施)が、授業を自習や振り替えて研修に行くことも少なくない。初年度の夏は、ゆっくり休養できると思ったら大間違い。研修の連続なので体力を残しておいたほうがいい。
また、担任がクラスを空けることが多いというのは、こどもたちにとってあまりよい状態とは言いがたい。こどもの気持ちが担任から離れていかないように、なんらかの日々の取り組みを推進しておいたほうがいい。
学校内での研修は、年間に300時間もある。ほかの教員の授業を参観したり、個々に専門的な教育領域の話を聞いたりする。授業日数は年間200日前後で推移するから、毎日放課後の1時間を研修に当てても100時間も残る。大変な研修内容だ。
こういった研修を通して、神奈川県では「人格的資質・情熱」「課題解決力」「授業力」の育成をねらっているという。
しかし、こんなに研修の漬物にしたら、とても余裕ある学級作りのための時間は確保されないだろう。つねに、教えを受けることばかりで、自分から考える力を伸ばすことにつながるとは、わたしには思えません。
県教育委員会が拠点校指導教員を通じて新採用のひとたちに指導する留意点として、興味深い内容がある。
それは、「初任者本人の力で解決が難しい問題については、指導教員や学年代表、管理職等に相談するよう助言する」という一節だ。すべて、新採用者にとって立場が上にある者に問題を打ち明けろというのだ。いかにも、個人情報審査会の答申を無視する神奈川県らしい内規だ。こういうひとたちに問題を打ち明けているから、そのほかの多くの教職員が、こどもや親との対応で苦しむ新採用のこころうちを知らないで、ある日突然休み出し、そのうちに退職する新採用がいるのだろう。だれに相談するかが問題なのではない。だれに相談しろと指導するのがおかしい。立場が上のひとたちは、問題の発覚を恐れ、最終的には新採用者の排除に乗り出すかもしれないというのに。
25日間の学校外での研修の内訳。
○授業力向上:授業技術、授業研究(9.5日)
○課題解決力向上:課題解決力、学級経営、児童・生徒指導(3.5日)
○人格的資質向上:モラールアップ、メンタルヘルス、人権教育、事故・不祥事防止、ふれあい研修、社会体験(10日)
○選択研修:(2日)
人格的資質向上研修が半分近くもある。これって、本当にあしたの授業につながるのだろうか。教員にもっと自由な時間を与えて、自ら研鑽できるようにしたほうがよっぽどネタ探しや人間の幅を広げることにつながると思うのだが。
5904.4/26/2008
がんばれ、教員新採用..5
たとえば、いまでも小学校の教科書に載っている「ごんぎつね」とう話がある(もう排除されちゃったかな?)。
とても難解な物語だ。猟師に自分の存在を認めてもらいたい気持ちのごん。しかし、やることなすこと裏目に出て、反対に猟師に悪く思われてしまう。それでも、ごんはピュアな気持ちを捨てずに、自分のいのちを落としても猟師に認められようとした。ごんの亡骸を見て、猟師は初めてそれまでの誤解に気づくという話だ。かなり強引にあらすじをまとめています。
物語の理解や音読の技術向上だけを目指す授業をすればいいという考え方が官制側の考えになる。
しかし、それで完結しては、こどもたちは「ごんぎつね」という物語を通じて、自分の生活に結びつく何を得ることができたのか見えてこない。
きつねと人間というもともと異次元の存在が、互いを理解しないまま過ごすと、いかにすれ違い、悲しい結末を迎えるのか。そのときになってすべてを悟っても、犠牲になったいのちは元には戻らない。こどもたちの日常に似たようなことはないだろうか。こどもたちが生きるいまという社会を見渡したとき、似たようなことはないだろうか。もっと大きく世界に目を向けたとき、似たようなことはないだろうか。そういう思考の広がりまでを求めるのが民教の考えだ。これを推し進めると、どうしても政治的な問題や戦争や内戦にまでたどりついてしまう。
こういった官制側と民教側の決定的な溝は、すべての教科のすべての内容に存在した。
こどもたちが学習を深めれば深めるほど、自治や民主主義、平和や平等などを希求する思考力をつけていくことは、官制側には都合が悪かったのでしょう。ただし、民教の教育実践が、いまでは教科書で扱う内容に平然と含まれるようになっているのも事実だ。だから、先人たちの功績はいまも輝きを失ってはいない。
当時のわたしが研究した内容で、いまも通用しているものは少なくない。
その一つに行動目標(目標行動ともいう)がある。全生研サークルで何ヶ月にも渡りレポートを出し続け、先輩たちに批判を浴びながらも、ひとつの体系として完成させたものだ。
当時もいまも授業を計画するときに、その授業が目指すところを考える。こどもたちの到達点だ。授業が終わったときに、こどもたちがそこまで到達していれば、授業計画は正しかった証明になる。反対に、到達者がいなければ、計画に無理があった、指導技術が未熟だった、目標の立て方に問題があったと反省する。
大学を卒業したてのわたしは、小学校のようにやり直しのきかない一発勝負の授業を連続する環境では、目標到達者の少ない授業をするのは無責任だと考えた。実質的にやり直しをする時間は用意されていないのだから、多くのこどもたちが目標に到達していなくても、翌日には別の学習をしなければならなかった。
だから、目標のあり方を根底からくつがえした。多くの授業目標は、「○○を理解する」とか「○○を通じて、協力する態度を養う」という語尾が多かった。これは日本語としては成立しているが、実際にこどもが目標に到達しているのかいないのかを判断するときには基準が示されていないのでわかりにくい。そこでわたしは、授業の流れに沿って細かい目標を連続した。
・学習の始まりに教科書とノートを机上に出している。
・○○という発問(教師の出す問題)に対して、ABCの3通りのいずれかの答えをこどもがノートに書く。
・ひとつの解答に対して、二つ以上の視点の異なる解答が出る。
・はさみで点線を切ることができる。
こどもの行動を見て、目標への到達度を判断するやり方だ。当時は、そんなにたくさんの目標を考えるのは実質的には難しいとか、目標を細分化しすぎると全体として何を学ばせたいかがぼやけてしまうなどといった批判が多かった。しかし、いまでは行動目標は、こどもの学習の流れを追うひとつの方法として確立し、教育雑誌の授業計画案サンプルには、書き方が載っていることもある。
5903.4/24/2008
がんばれ、教員新採用..4
さてこの考察の本丸、研修について。
おっとその前に、かつて教員の研修には、いまとは違う時代があったという思い出話からさせてください。
かつてとは、いまからだいたい20年から30年前の話だ。
教育委員会が企画する研修を、当時は官制研修と呼んだ。官制研修は、どれも質という点ではいまいちの内容が多かった。地元の教育委員会が企画するので、どうしても本当に教員としての力量が高いひとが企画するとは限らない。抽象的な講義ばかりが先行して眠くなるような研修が多く、あしたの授業につながる実りの多いものが少なかった。基本的に官制研修の質は、いまもあまり変わっていない。
それに対して、全国の教員がネットワークを形成し、独自の教育団体を作った。その団体が企画する研修を官制研修に対して、民間研修と呼んで区別した。仮説実験授業(通称、仮説)、歴史教育研究協議会(通称、歴教協)、数学教育協議会(通称、数教協)、全国生活指導研究会(通称、全生研)、全日本レクリエーションリーダー会議(通称、全レク)など、あまたの民間教育団体(通称、民教)が存在した。それらは、ゴールデンウィークや夏休みを利用して全国大会を宿泊つきで開催し、多くの実践報告と討議を行い、若い教員から年配の教員まで教育技術や学級作りの質の向上に貢献した。それぞれの団体が機関紙を発行し、職員室の机上には、毎月それらが届いた。それを見れば、だれがどの民教に所属しているのかがわかるほどだった。
全国大会は年に数回しか開かれない。地元で同じ民教に所属するひとたちが、地域サークルを作った。当時は土曜日も午前中まで授業があったので、その午後の時間にサークルでだれかの家に集まって、定例会を開催した。民教の研究大会への参加にも公費から旅費が支出された。これはいまでは考えられない。
わたしは、若い頃、先輩の教員に誘われて、全生研のサークルに参加した。学級作りを中心にした研究会で、とくに特定の教科に限定した内容ではなかった。当時は、こどもたちの人間関係が希薄になりかけていった時代だったので、教室のリーダーが育たないという問題があった。リーダーを核と呼び、核を育てる教育というのが中心的なテーマだった。一週間の実践をレポートにしてサークルに持って行く。ほかの参加者も、自分の実践をレポートにしてくる。レポートを発表し、問題点を洗い出す。翌週の課題を持ち帰り、次のサークルで経過を報告する。そういう技術の磨き方を新採用から3年間ぐらい続けた。
民教は、時代の変遷とともに参加者が減り、組織体としての維持が難しくなり、どこも当時ほど大きな活動はしていないが、いまでも精力的に活動を続けているところもある。参加者が減った背景は、民教側にもあったかもしれない。しかし、それ以上に官制側の研修が多くなり、時間が確保されなくなったことも理由にあげられると思う。また、教育委員会は、民教への参加を出張と認めなくなったので、休暇をとって自腹で参加しなければならなくなり、物理的に参加しにくくなってしまったことも、参加者が減った理由だろう。
官制側が民教を排除した理由に、民教の多くが政治的な主張を明確にしていたこともあげられる。労働組合ではないが、こどもたちの未来を担うひとたちの集まりなので、当然のこととして、なんのための教育なのかという視点が重要だった。その視点を抜きにした「教育技術の法則化」運動(これも厳密には民教のひとつ)は、官制側からの攻撃を受けず、いまでも多くの会員を全国に抱えている。
つまり、教育技術の質の向上や役に立つ授業教材の準備を研究し実践を積み上げるのはいいが、その先にそれらがこどもたちの未来にどうつながるのかを考えることは必要ないというスタンスが官制側の考えだった。
5902.4/23/2008
がんばれ、教員新採用..3
新採用教員は研修が多い。そのことには後で触れる。研修が多いので、当然ながら授業の準備をする時間がない。
授業の準備といっても、マニュアルがあるわけではない。こどもの実態に応じて教える中身を細分化し、時系列に沿って構成しなおす。プリントや具体物などの教材や教具を用意する。それらは、失敗の連続の果てに見えてくる少しの光明を集積していく地道な作業だ。
失敗をするためには、成功を目指す準備が必要なのだが、その時間さえも確保されていないのだ。
教科書会社が用意する教師用の指導書を頼ってしまう心境を、頭から否定はできないでしょう。しかし、指導書に頼ると、その世界から抜け出せなくなるので注意したほうがいい。教科書会社の手先として、忠実な教科書実行人になるのは、そんなに難しいことではありません。
少しずつ教員としての経験を重ねると、いくつもの仕事を抱えていても、手を抜いても困らない仕事が見えてくる。期限に遅れても、だれも困らない仕事が見えてくる。そういうコツをつかんで、自分の仕事(授業の準備)のための時間を一分ずつ広げていくしかないのだ。組合は、権利や研究もいいが、最低限の授業準備の時間確保闘争をぜひやってほしい。
教員社会は、予想以上の人脈社会だ。教員同士で結婚するひとは少なくない。
研究部で、同じ教科に所属すると「あのひとは国語だから」「あいつは体育系ね」と、派閥が分類されていく。
小学校では教科の専門性はないので、年度によって所属する教科研究部は変更してもかまわないのだが、一度所属すると簡単には抜けられない仕組みになっている。まるで大学のサークルが新入生を入会させ、将来の幹部に育て上げようとするようだ。ほかの教科研究部へ移るということは、それまで所属したひとたちとの縁を切るということと同義語だ。
厳密なデータはないが、国語部、算数部、体育部に所属していると、将来的に主任や教頭、校長になるひとが多い。こういうひとたちは、校内でも運動会や読書感想文、書初めなどを仕切っていく。
「そんなもん、いらん。やりたくないこどもはやらなくていい」
弱小教科部の図工や特別支援部に所属してきたわたしが声を上げても、一笑に付される。
人脈社会で主流派に乗っていきたいと思うなら、選ぶ教科を考えたほうがいい。
そして、親の要求の前に自滅しないように。
最近の学校ドラマでは、目じりをあげていきまく親の姿が描かれることが多い。あれはデフォルメしたかたちではない。あんなのはざらで、実際の学校で直面する親のほうが、テレビ番組をデフォルメしたような錯覚にさえなる。全部の親が、ひどいのではない。ほんの一握りだ。しかし、わずかな親が全体をかき乱すことは珍しくない。そうやって、対応に苦慮し、精神を病み、休暇をとって教室から離れていく教員のなんと多いことか。そういうひとは、被害者であり、弱者だ。
反対に、どんな親の要求にも決して屈せず自分の考えを押し通す教員もわずかだがいる。これは教員としてのセンスがゼロ。辞めた方がいいが、絶対に辞めない。看守として受刑者の上に立つ快感を教室で体現しているに過ぎないのだ。
親の要求を受けたとき、瞬時にこどものあしたに影響のあることなのか、ないことなのかを感じ取る。このセンスを磨く。親は自分のこどものことしか見えていない。ほかの家のことなんて知らなくて当然だ。しかし、自分のこどものことなら、教員以上に見えている。教員は、学校という集団生活の場で、こどもを預かる。親の要求が、集団生活のなかで支障をきたしている警鐘ならば、真摯に受け止めればいい。そして、そのこどもについて教員として見えなかった部分を教えてくれた感謝の姿勢を示す。
反対に、集団生活とは無関係の要求のときは、基本的には家庭で解決してもらうように対応する。できもしないことを、何でもはいはいと受け止めるのは、かえって無責任な対応だ。
5901.4/22/2008
がんばれ、教員新採用..2
まず残業手当がない。勤務時間を過ぎて仕事をしても給料には一切反映されない。
一枚40問のテストの採点を40人分する。1600問の採点にどれだけの時間がかかるかは、ひとそれぞれの事務処理能力によって異なる。あるひとは30分で終わるかもしれない。あるひとは倍の60分かかるかもしれない。たくさん時間がかかるひとが、採点を終えたとき、勤務時間を過ぎていても、超過分は残業扱いにはならない。
厳密に言うと、修学旅行のように宿泊を伴う行事では勤務時間以外の時間も手当てとして換算される。しかし、それは計算上、寝る時間がないほどの激務扱いになる。こどもたちが寝てから引率教員が集まって酒盛りをしても許された時代は大昔。いまそんなことをしたら厳罰が下る。
校長の命令で勤務時間以外に1時間以上の仕事を命じられたときも残業扱いになる。しかし、そういう命令を出す校長はほとんどいない。予算出動が伴う判断を校長はしたがらないのだ。教育予算は削減の一途を辿っている。教育委員会から無駄な出費を抑制されているのだろう。
中学校や高校の教員は部活動の顧問を兼務する。部活動は勤務時間を越えることが日常的だ。休日に出勤することも珍しくない。これには部活動を担当したという手当てがつく。時間給にしてとても日常勤務とは比較にならない低価格の手当てだが。
学校にいても給料が増えるわけではないので、家に仕事を持ち帰るひとも多い。まっすぐ帰ればいいものを、途中でパチンコや居酒屋に行くものだから、個人情報入りの資料を盗まれたり、置き忘れたりする事件や事故が起こる。そういうことをしたら、もちろん処分が下る。
残業しても意味がない。家に仕事を持ち帰るとリスクを追う。だから、勤務時間内に最大限の仕事をする能力が必要になる。そのためには、職員室ではなく教室で仕事をすることをお奨めする。
職員室は、電話や他の職員の話し声で集中できない。保護者や業者が出入りするので、あわただしい。
「忘れ物をしました」
いちいちそんなものを取りに来なくてもいいのに、必ず取りに来るこどももいる。
とても集中して仕事をする環境ではない。新聞を広げ、世間話に盛り上がり、勤務時間を過ぎて多くの職員が帰ってから「さぁて仕事を始めるか」という熱血漢もいるが、文化的な生活とは思えない。
授業準備の時間が確保されていない。
会議や研修、出張の予定はやまほどあるのに、翌日の授業の準備をする時間が勤務体系に確保されていない。
小学校ではだいたい3時から4時の間にこどもたちが下校する。それから5時過ぎの退庁時間までが「こどもがいない時間」になる。わずか1時間から2時間だ。
そのわずかな時間に、学年の教員たちの会議、教科ごとの会議、分掌上の会議、職階が上がると学校運営上の会議が所狭しと入る。保護者からの電話は突然入る。面談の申し込みもある。遠足の下見にも行かなければならない。
「地元で花見をするのでぜひ先生たちも」
自治会やPTAの役員が、教員はひまだと思っているのか、断りようのない依頼をしてくる。断れば、付き合いが悪いとののしられる。
金八先生などの学校ものドラマ。あのタイプのドラマでは、教員が一番時間をかけなければいけない授業準備の場面がほとんど描かれていない。こどもの問題や事件や事故は扱うが、日々のルーティンを映すことはない。
これに出張が入る。これはもうどうにもならない。学校を離れて別の場所に行くので、授業の準備をしようにも物理的にできない。
では、みなさん、どういうウルトラCを使って授業を成立させているのか。まさか、大した準備もなく、出たとこ勝負なのか。
そのまさかなんです。
5900.4/21/2008
がんばれ、教員新採用..1
新年度が始まって2週間が過ぎた。
全国の小学校や中学校に新採用の教員が着任して、フレッシュな感覚をこどもや保護者、職場に振りまいているだろうか。
いや、もしかしたら、すでに想像していた仕事とのギャップに苦しみ「この仕事は向いていないのではないか」とため息の連続になっているかもしれない。
最近は、毎年各学校に新採用者が配属される。数年前は2つから3つの学校に1人の割合だった。それが徐々に増えていき、各学校に1人ずつ配属されるようになり、ここ数年は各学校に2人以上配属されることも珍しくない。それだけ、ベテラン教員が毎年必ず退職しているのだ。
退職するのは、ベテラン教員ばかりではない。
定年前に勧奨退職制度を使って、退職している50歳代のひとたちがいる。給料が高く、団塊の世代のひとたちは、定年を待たないで学校を離れていく。理由は統一されない。個々に抱えた事情が異なるからだ。わたしの周囲で勧奨退職制度を使うひとは、家族に介護が必要なケース、クレーマー(過度の学校批判を繰り返す親)との対応に疲れたケース、自身の病気で仕事が続けられないケース、日ごと強まる管理的な職場環境に嫌気がさしたケースなどだ。
結婚や出産を境に退職するひともいる。他県への転居が必要な場合は、仕事を継続するのは難しいだろう。公務員の仕事は、出産すると続けられない仕組みにはなっていない。子育てをしながら仕事を続けているひとはたくさんいる。とくに小学校では女性教員が多いので、母と教員を両立させているひとも多い。しかし、それでも子育てを優先して退職するひとは皆無ではない。
経験年数に関係なく退職するひともいる。これこそ理由は統一されない。事件を起こして処分されるケースもあれば、私立学校への転職によって新たな世界を開拓していくケースもある。
そういえば先日わたしの同期で40歳になって出身の私立学校に転職した仲間が、ことしからそこの小学部の校長になっていたのを知って驚いた。40歳なかばで校長。才能豊富な男性だった。それが学校経営や職員の管理をわたしと同じ年齢でやっているのかと思うと、感動してしまう。決して、あこがれはしない。むしろ、仕事にからだを蝕まれないように祈る。
新採用者が増えたことに伴って着任から一年ももたないで離職していくケースが増えている。若者特有の無責任さと、現代特有の親コンプレックス。出勤日に無断で休んでいたら「ふざけんじゃねぇ」と家を追い出せばいいものを「職場の人間がかわいいわが子をよってたかっていじめている」と、教育委員会に訴える親がいると聞く。社会人になっても、社会的な自立がはかれないまま、多くのこどもの精神的・社会的自立を目指す教職に就くことの矛盾。早くステージから退散してくれ。
教員新採用は、必ずしも大学や専門学校を卒業してすぐのひとたちばかりではない。
民間企業で働きながら教員採用試験に合格したひと。教員免許を持っていて、臨時任用として学校現場で働いていたひと。結婚や出産などで退職し、ふたたび採用試験を受けなおして合格したひと。だから、みんなが22歳や23歳の若者とは限らない。
まだよのなかのことを肌で感じていない若者も、30歳や40歳を過ぎて人生の奥深さを堪能したひとも、みんな教員新採用として同じ研修を受ける。
臨時任用として実績があり、専門教科の技術やネタが豊富なひとも、大学卒業ホヤホヤの若者と同じテーブルで、つまらない講義を聴き続ける苦痛を味わうのだ。
この春、長年の夢がかなって正規の教員になったひと。これからなろうとしているひと。
その夢が本物かどうかを明確にするために、教員の現実を知っておくといい。
「先生、先生」
親からも社会からも尊敬される仕事だった時代は、もう大昔。だれも尊敬してくれないから、仕方なく同僚を「先生」呼ばわりして不満を解消している世界が、どんな世界かを知り、それでも自分の夢を実現させようと思えるのか、考えてほしい。