top .. today .. index
過去のウエイ

5899.4/20/2008
 ガソリンの暫定税率が4月から廃止された。
 それにともなって、異常なほど値上げしていたガソリンが以前のような価格に戻った。石油先物取引の値段が高騰したのが値上がりの原因なので、暫定税率の廃止で値下がりしたことは、異常なほどの値上げとは本来は関係はない。
 しかし、それでも1リットルあたり20円近く値下がりすれば、日常的に車を運転しているひとにすれば大きく助かることだろう。わたしは、電車を通勤に使っているので、暫定税率が廃止されてガソリンが値下がりすることで、一ヶ月にどれぐらいの割安感が得られるのかという実感はあまりない。それでも、価値も品質も同じガソリンが少しでも安く販売されることは消費者にとっては有効なことだろうと想像できる。
 この暫定税率をふたたび元に戻そうという動きがある。
 ガソリンに税金をかけて、集まったお金を道路整備などの財源にあてる暫定税率の考え方は、本当に道路整備にそのお金が使われているという信頼によって成立していた。しかし、この問題が浮上してから、実際にはほかにも道路整備事業を行う団体の職員旅行の費用や国土交通省からの天下り役人への退職金などに使われていたことが判明した。やっぱりという思いと、いい加減にしろという思いが交錯する。
 信頼は完全に失われた。
 その状況で、ふたたび暫定税率を復活させることは、完全に庶民感覚を無視することを意味している。
 暫定税率の復活を声高に叫ぶのは、全国の都道府県や市町村の首長だ。集まったお金は、これらの自治体に補助金として交付されてきた。地方公共団体は、その補助金をあてにして傷んだ道路の補修や、新しい道路整備を行った。自主財源では不足する部分を、暫定税率による税収で補っていたのだ。
 首長はどこに移動するときも、公用車を使い、自分でガソリン代を払うことがないのだろう。傷んだ道路をなおす責任を優先させて、その道路を高いガソリン代を払って走行する庶民の気持ちは想像できない。どんなに立派な道路ができても、ガソリン代が高ければ金持ちの車か公用車しか走行できない。それで十分と考えているのかと思ってしまう。
 為政者や役人は、いつの時代も、ひとびとのもっとも生活に根ざしたところに税をかけてきた。多くのひとがたまにしかお金を使わないようなものに税をかけても、意味がないのだ。いまの日本社会では、消費活動をするだけで、消費税がかけられている。消費税を払いたくないひとは、なにも買わない生活を死ぬまで続けなければならない。ほかに、重量税というのもおかしな税金だと思う。これは車の重量に応じて税金が決まっている。道路を走っていて路面が磨耗するのは、車の重量に応じていると考えたのだろう。同じ重量の車でも、たまにしか乗らないひとと、いつも乗るひととでは、車の傷み方が違うように、道路に与える影響も違うと思う。それなのに、走った距離には関係なく、一律に重量に応じた税金が課せられている。
 ガソリンに税金をかける。それを考えた役人は、自分の生活では困らなかったのだろうか。
 今後、世界的にガソリンに代わる車の燃料が開発されていくことだろう。そのたびにきっと新しい税金が車の燃料には課せられる。ハイブリッド電力税、水素税。運転するなということか。そういえば、車の買い替え期間が昨年度はそれまでよりも2年近くも平均で長くなったそうだ。一台の車に愛着を寄せるひとたちが急に増えたのではない。車を買い替えるお金が用意できないのだ。車両の税金も高い、ガソリンが高い、世界的にも奇異な車検制度の費用も高い。
 与党の中には、暫定税率の復活法案を提出し、参議院で否決されても憲法で保障されている衆議院の議決優先を盾にして再議決すればいいとコメントするひともいる。反対に、野党ではもしもそのようなことが強行されたら、参議院に首相の問責決議案を提出して可決する計画がある。そして、衆議院の解散、総選挙へとシナリオを用意しているらしい。
 オリンピック同様、ここでもひとびとの生活に直結する税金の問題が、解散だ、選挙だと政治的な取引の道具になってしまっている。

5898.4/19/2008
 中国政府のチベットやウイグルの自治区に対する政策に異議を唱えるひとたちが、オリンピックの聖火リレーを妨害している。
 オリンピックというナショナルスポーツの抱える問題性と、中国政府のように多民族国家の抱える問題性は、別次元の話だと、わたしは思っている。それを無理に結びつけて、聖火リレーを妨害する行為は、人権を主張しながら、本当は自らの宣伝をしているように見えてしまう。聖火リレーが世界中のメディアから注目されているからこそ妨害して電波に自らの姿を乗せようとしているように見えてしまうのだ。
 オリンピックは、平和の祭典とか、スポーツの祭典とか言われるが、多くの利権がIOCを頂点とした巨大組織によってコントロールされている。スポーツ用品メーカーにとっては、幕張メッセで開催するイベントよりもはるかに効率のいい宣伝ショーだ。また、都市開催にもかかわらず参加資格は国と地域に与えられている。ひとつの都市が、世界中の国と地域と連絡をとり、会場をおさえ、宿泊先を確保するなんて、本末転倒の話だ。実際には、国レベルの機関が全面的にサポートする。当然だが、そこには税金が予算として投入される。スポンサー料だけではまかなえない。選手団を運ぶ交通手段、選手が身につけるユニフォームやシューズ、選手団が宿泊するホテル、選手団が口にする食べ物、オリンピック期間中の警備、いちいち数え上げたら切りがないほどのお金が動く。
 選手やそれを支えるコーチやスタッフにとって、オリンピックへの出場は名誉だろうし、そこで記録を出すことは競技者としての夢だろう。それを否定するつもりはない。しかし、オリンピックの会場にたどりつく選手は、同じ競技人口のなかのほんの一握りにすぎない。多くのひとたちが夢破れ、なかには競技生活から引退し、先の見通しの立たない生活への転換を余儀なくされている。輝く表面だけをメディアは強調するが、多くの裏面を想像すると、手放しに出場選手だけをたたえるのはいかがなものかと思ってしまう。
 また、選手は国や地域のために闘うのではなく、自らの競技者としての誇りや夢のために闘う。だから、勝っても負けても自らの問題として引き受ければいい。なのに、世論は国の代表としての肩書きを強調して、選手が闘う目的を書き換えてしまう。あくまでも、スポーツなのに。
 中国政府のように、国内に多くの民族を抱える国家では、近年になって分離独立の動きが激しくなっている。
 そもそも国家という想像の共同体には、統治と自治の間に限界があるのに、無理にひとつの権力が領土と領空、領海を拡大し、支配しようとし続けている。支配構造には、必ず差別を受けるひとたちが多く存在する。そのひとたちの気持ちは、自分たちを支配する権力から離れれば、不自由な生活から解放されるだろうという夢で支配されている。分離独立が成功しても、さらに内部分裂が繰り返されるかもしれないのだが、そういう悪いシナリオは考えようとしていない。
 いまも中華民国(台湾)と中華人民共和国は、政治的には対立し、互いに「ひとつの中国」を主張している。権力は建前によって塗り固められる。
 日々の生活に汗を流すひとたちにとって、国家という枠組みはあまり意識するものではない。しかし、国家という枠組みのほうが勝手に土足で日々の生活に入り込んでくるのだ。
 日本でも長野で予定されていた聖火イベントが中止された。リレーだけが行われるという。妨害を完全に予測するのは困難で、リレーに警備の主眼を置くためにイベントが中止されたという。他の地域でも、およそ聖火リレーとは思えない方法で、聖火が駆け巡っている。そんな危険を伴うなら、いっそ世界中でことしのリレーはやめてしまえばいい。聖火リレーはオリンピックとは直接の関係はないだろう。メディアもメディアで「ロンドンでは」「パリでは」など、リレーが順調に行われたか、妨害を受けたかという軸でしか報道しない。
 オリンピックというナショナルスポーツの抱える問題性と、中国政府のように多民族国家の抱える問題性が、無理やり結び付けられて、犠牲者や政治的な対立が増大する。
 もっと人類は賢くなれないものか。
 かけっこ世界一を決める。水泳世界一を決める。決めたからって、戦争がなくなるわけでも、地球温暖化が止まるわけでもない。それでも、がんばるひとたちを応援することで、新聞やテレビを通して多くのひとが勇気づけられたり、がっくりしたりするイベントを4年に一回ぐらい純粋に楽しめないものだろうか。

5897.4/17/2008
 20代の若者が定職をもたないで、殺人事件を犯す。
 生活費に困っていたから。だれでもよかった。明かされる動機は、成人の考えとはとても思えないほど幼稚だ。
 1980年代に生まれたひとたちは、公教育ではちょうど詰め込み教育の最後の時期を小学生として過ごしている。点数が成績のすべての価値観を占め、人間性や社会性は注目されなかった。勉強さえできれば、親も学校も文句を言わなかった。そういった世代が成人を過ぎ、仕事もせず、稚拙な犯行に及んだ。
 その後、公教育は総合的な学習の時間の導入に象徴されるゆとり教育の時代を迎える。そして、ふたたび振り子は詰め込み主義へと戻ろうとしている。ゆとり教育時代、中学を卒業する生徒の内申書が重視された。中学時代の活動が点数化され、高校に送られた。人間性や社会性を数値化することなど、まったく意味がない。そのために運動部のキャプテンになる。委員会の委員長になる。生徒会の役員になる。自治活動や部活に積極的にかかわり、その意義を理解して役職を目指すのではなく、内申書の点数を上げたいがための立候補。これまた、まったく意味がない。
 若者が仕事をしないで、ぶらぶらしていると、学力を声高に叫ぶひとたちは、すぐにゆとり教育が諸悪の根源かのように目じりをあげる。しかし、きちんと経過を振り返り、学習する知性が備わっていれば、そんなはずがないことにすぐに気づくのだ。
 ウインドウズが、98からMEやXPへと進化する時期に成人を迎えた若者は、パソコンや携帯端末が自然な日常の電化製品だった。
「あいつは、ちょっとしたことで、すぐに切れた」
「アルバイトしてもミスが多くて、長続きしなかった」
同級生や、同僚が記者の取材に応じている。
 なぜ、すぐに切れてしまうのか。なぜ、仕事上のミスが多く、長続きしないのか。
 そういう若者を育ててしまった家庭や地域、社会の背景に共通する問題はないのだろうか。
 わたしが勤務しているまちでは、今年の春、小学校の新採用が90人も採用されたそうだ。
 25年くらい前に、わたしが採用されたときには、別のまちだったが、新採用はわたし1人だった。その1人のわたしがいまも教員の仕事を続けている。採用者に占める離職率は0%だ。しかし、近年の新採用は1年間持たないで離職してしまう者が少なくない。かつてに比べ、研修や指導など、新採用者に対するフォローは重厚になっている。にもかかわらず、離職してしまう。
 もともと教員に向かない若者を採用した教育委員会にも責任がある。そういう若者はほかの才能を生かして、別の世界で活躍してほしい。
 問題は、きっと教員を辞めて、どんな職業についても長続きしないだろうと感じる若者の存在だ。
 こどもの前に立てば、甘ったれたことは言ってられない。給料を手にした社会人としての自覚が求められる。しかし、少し厳しい指導をすれば、ひねくれたり、切れたり、泣いたり。はたまた親が乗り込んできたり。いつまでも、打たれ弱いのだ。
 社会は、ほんの一握りのひとたちによって計画され、動いていく。その他大勢は、ほんの一握りのひとたちの計画を忠実に実践する役割を果たす。バルブ崩壊までは、その他大勢の労働力が、日本経済や日本社会を底辺で支えた。しかし、構造改革の名の下に、「痛みを伴った」ひとたちは、誇りも名誉も仕事も奪われた。そのひとたちを親とする世代が、よのなかに希望も夢ももてなくなるのも無理はない。
 経済や社会を底辺で支えるひとたちは、互いに結束し、権利を勝ち取り、差別を撤廃しようと闘った。その闘いの成果が多くのひとたちにしあわせを分配した。しかし、生きていくことがやっとの時代では、結束する余裕はない。
 名ばかり管理職なんて、だれが見てもおかしい役職だが、それが横行する社会が完成したのだ。

5896.4/16/2008
カイドウタケル..8
■水落冴子:伝説の歌姫
 ナイチンゲールにもジェネラルルージュにも登場する。アルコール中毒で末期の肝臓癌患者。自分の死期を悟り、最後の時間を田口が主治医となって過ごす。
■牧村瑞人:網膜芽腫14歳・佐々木アツシ:網膜芽腫5歳・杉山由紀:白血病16歳
 小児科病棟で浜田が担当する患者たち。網膜芽腫(レティノ)という眼球を取り除かなければならない病気が克明に描かれる。手術をするということは、その後の人生を光のない世界で送ることを意味する。親や本人たちのこころの葛藤。看護師の思い入れ。それらが深く交錯する。
■牧村鉄夫:牧村瑞人の父
 アルコール中毒。無職。荒れ果てた生活をして、こどもの入院や手術の費用も払えない。「金がねぇから同意しねぇ」と手術に同意しない。  経済的に貧しい生活を送るおとなが、親になり、こどもに病気が見つかったとき、だれがこどもの将来や日々の生活を支えるのかというテーマが見えてくる。福祉に予算をつけないこの国のあり方もナイチンゲールでは批判する。
■放射線科 3T MRI診断ユニット
○島津吾郎:助教授・レティノグループヘッド
 速水や田口と大学の同期生で、病理医の世界に進んだ。東城大学で強くオートプシーイメージングを主張し、倫理委員会の沼田と対立する。
 海堂尊も病理医と聞いたので、もしかしたら島津は自身をモデルにしているのかもしれない。
○神田博:放射線技師
 島津の下でMRIを操作しながら、Aiには否定的な考えをもつ。倫理委員会の沼田に情報を流すスパイ役。
■病院長室
○高階権太:病院長
 「ごんた」という名前を本人が一番嫌っている。
 バチスタでは、思慮深く、大胆な判断力をもつ存在として登場しているが、東城大学病院に入局してきた若い頃は、速水や島津以上に自分の主張を強く訴え、古い体質の大学病院に果敢に挑んで行く。ペアンでは、出身が帝華大学ということが明かされる。古い体質の外科で、手術チームに新しい技術を導入し、旋風を巻き起こす。手術チームで優秀な器械出しをしていた藤原看護婦と、小さなことから大きなことまで衝突を繰り返す。
■天馬大吉:東城大学学生
 螺鈿迷宮の主人公。やる気のない医学生で、いかさまマージャンがばれたツケで、碧翠院桜宮病院に潜入することになる。
 碧翠院桜宮病院では、白鳥の部下、姫宮も看護師として潜入する。姫宮は、白鳥の指示を受けて、病院の内部を調査するのだが、やることなすことうまくいかず、天馬を本物の病人にしてしまう。
■桜宮巌雄:碧翠院桜宮病院院長 警察医
 螺鈿迷宮の重要登場人物。ブラックペアンで、東城大学出身者であることが明かされる。
(カイドウタケル..終了)

5895.4/14/2008
カイドウタケル..7
■沼田泰三:精神科助教授 倫理検討委員会(エミックス・コミュニティー)委員長
 医学を究め、医療を見ようとしない典型的な学者タイプの医師。教育学を究め、学校を見ようとしない教育学者とオーバーラップした。
 ともに、現場(臨床・教室)では何の役にも立たない存在だ。
■小児科病棟スタッフ
 「チーム・バチスタの栄光」に続く第二弾「ナイチンゲールの沈黙」の舞台は、ここオレンジ新棟2階の小児科病棟だ。
○奥寺隆三郎:教授
 奥寺の印象は薄い。物語ではあまり大きな役目は果たしていないのかもしれない。
○副島真弓:助教授・レティノグループ
 副島の印象も薄い。しかし、ジーン・ワルツだったか、主人公の女医が医学生時代を回想する場面で「真弓が言っていた」という表現が唐突に登場した記憶がある。その真弓がどこのだれなのかという説明はなかった。もしかしたら、この副島のことなのかもしれない。
○内山聖美:医長
 どこの世界にも労働者権利ばかりを主張して、仕事に不熱心な存在はいるものだ。この内山はその象徴として描かれる。患者の家族へのコンタクトを命じられておきながら、こっそりすっぽかし、若い看護師にすべてを任せてしまう。その結果、事件が発生し、物語は進んでいく。当然といえば当然だが、上司から後に他の病院への配置換えを命じられ、東城大学を去ることになる。
○猫田麻里:看護師長
 若い頃、藤原看護婦長のもとで鍛えられたベテラン看護師。花房と同期で、若い頃から院内で昼寝ができる場所を探していた。通称「ネコ」。
○権堂昌子:看護主任
 ほかの物語には登場しないが、ナイチンゲールでは猫田の下で、若い看護師の指導にあたる。
○浜田小夜:看護師
 同じ桜宮市の私立病院「桜宮病院」から転任してきた若い看護師。ジェネラルの如月やバチスタの星野と同期で仲がいい。
 桜宮病院では、死体の解剖を補佐する仕事を長く続けていた。その技術がナイチンゲールでは事件の鍵をとくキーになる。特異な歌声をもち、ひとのこころのなかに映像を転写させる能力が開花する。
■加納達也警視正:警察庁より出向・桜宮警察署警察庁刑事局刑事企画課電子網監視室室長
 厚生労働省の白鳥と大学時代の同期で、白鳥も引けをとるほどの論理派。しかし、白鳥と同じくチームで動くことが苦手で、組織になじめず警察庁から桜宮署に送られてきた。事件解決のための新しい映像再生技術を駆使して、犯人像を効果的に割り出していく。「捜査は足で稼ぐ」という昔ながらの地域警察で、多くの刑事たちを敵にまわしながら、持論を展開し、成果をあげていく。
■玉村誠:桜宮署警部補
 桜宮署でたまたま加納の部下になり、いやいやながらも捜査に引っ張りまわされる。その役どころは、バチスタの白鳥に対する田口に似ている。ナイチンゲールのなかでは、玉村を知った田口が、どこか自分と似た境遇を玉村に感じて、親近感を抱く場面も。新しい捜査技術で検挙できなかったら、責任をとって、玉村とお遍路行脚に出ると宣言した加納に驚く。なんで自分が巻き込まれるのか。ふざけるな。そんな思いが交錯しながら、物語が進むに連れて、あきらめの境地に達し、ついには捜査のかたわら「四国巡礼の旅」という雑誌を手にするようになった。あわれで憎めない存在。

5894.4/12/2008
カイドウタケル..6
 まだ看護師を看護婦と呼んでいた時代の物語「ブラックペアン1988」に、藤原と病院長高階との出会いが詳しく記されている。ふたりとも若い。
 藤原は、東城大学付属病院で花形の総合外科手術チームの看護婦。医師の手術の先を読み、必要な道具を瞬時にそろえ、狂いなく術者に渡す器械出しのプロとして君臨していた。そして、首都東京の厚生省お抱え大学から飛ばされてきた若き外科医師、高階との劇的な出会いと衝突が始まる。
 バチスタがスターウォーズシリーズの第一作だとしたら、ペアンはさながらエピソード1にあたるだろう。興味深いエピソードがてんこ盛りだ。田口が医学生として登場し、本当に手術見学のときに血を見て卒倒する場面も描かれている。
■桐生恭一助教授(42):心臓外科手術チーム(チーム・バチスタ)リーダー。
 バチスタ手術の世界的権威。アメリカの心臓疾患専門病院から帰国して東城大学でバチスタ手術を次々と成功させる。しかし、そもそもなぜ帰国したのかという核心的な部分が、バチスタ物語では重要なポイントになっている。とてもさわやかな人柄と、高い手技をもっていたが、バチスタスキャンダルの後に、惜しまれながら病院を去ってしまう。参考にしている6冊では、バチスタにしか登場しない。
■垣谷雄次講師(49):チーム・バチスタ第一助手。桐生チームの右腕であり、医局長。
 ペアンでは助手として登場し、若き研修医の世羅のサッカー部の先輩として指導をする。それから10年以上を経て、チーム・バチスタでリーダーを支えるポジションにまで上り詰めていた。こうやって調べてわかったが、垣谷は、桐生よりも年上だったのだ。
 東城大学病院は古い建物とは別に、オレンジ新棟と呼ばれる病棟が併設している。
 オレンジ新棟の1階はICUを併設した救命救急センターだ。そして2階は小児科病棟になっている。
■救命救急センタースタッフ
○速水晃一:センター長
 ジェネラルの異名を持つ外科医師。患者の搬送にヘリコプターの導入を強く願うが、予算面での折り合いがつかない。事務方と衝突することが多い。医学生時代、田口と同級生だった。ペアンで、田口とともに外科研修のとき患者の血を顔面に浴び、ぺロッとそれをなめた。赤字体質の救命救急センターの維持のために、製薬会社からのリベートを使う。そのことが院内で匿名の投書になり発覚し、田口がバチスタ同様に取り調べる羽目になる。
○佐藤智則:講師
 速水のもとで腕を上げる若き医師。しかし、内面では速水のやり方に強い反発心をふくらませる。その暴発が「ジェネラルルージュの凱旋」後半の鍵となる。
○花房美和:看護師長
 速水を信じ、救命救急センターという戦場のような場所で的確なひとの配置や手術の器械出しをこなす優秀な看護師。速水が製薬会社に水増し請求していることを知っている。請求書と受領書のすべてを速水に渡され、処理するように頼まれる。しかし、そのすべてを大学ノートに保存した行為が、後々に速水を助けることにつながる。贈収賄の証拠を残したことで、逆に速水がリベートを私腹に使っていないことが明らかになった。
 ペアンでは、藤原看護婦長のもと、若き看護婦として、研修医とのはかない恋愛経験も描かれる。オレンジ新棟2階の小児科看護師長、猫田とは同期。
○如月翔子:看護師
 バチスタで結婚退職した星野、ナイチンゲールで桜宮病院から転任してきた浜田とともに同期の若い看護師。ジェネラルは、如月の視点で物語が描かれる。

5893.4/9/2008
カイドウタケル..5
 「ブラックペアン1988」では、バチスタで田口の不定愁訴外来唯一の看護師、藤原が総合外科手術チームの器械出し主任看護師を勤めている。
 バチスタでぼやかされていた藤原と高階の昔の関係も、ここでは明らかになる(のかもしれない)。
 さらに、その後の海堂作品に登場する人物たちの若い頃の物語が織り込まれる。
 などと書いていたら、「ブラックペアン1988」も読み終えてしまった。
 海堂尊ワールドを一通り読んで感じるのは、彼の創作する世界が大きなつながりと広がりを持っているということだ。それは、ある時期の物語として終息するのではなく、それから数ヵ月後とか、その数十年前というように、時間系列でも複雑なつながりを堅持しているのだ。執筆メモをしっかり用意していないと、文脈が乱れ、キャラクターの誕生に違和感が生じる。きっと、海堂は構想を練る段階で作品作りのほとんどのエネルギーを使い果たしているのではないだろうか。
 執筆そのものは、構想に沿って文字を起こしていく単純な作業であり、楽しみはディテールへのこだわりを加えていく仕事だろう。それぐらい、東城大学医学部を中心とする世界は仮想とは思えないほど現実的な姿をしているのだ。
 ここで、少し物語に視点をあてる方法から、別の視点にシフトしよう。
 それは、個々の物語を離れ、それぞれの登場人物の関係や動きを物語横断的にとらえなおすという意味だ。ここで手がかりにする作品は、「チーム・バチスタの栄光」「ナイチンゲールの沈黙」「ジェネラル・ルージュの凱旋」「螺鈿迷宮」「ジーン・ワルツ」「ブラックペアン1988」の6冊だ。いま、わたしの手元には「死因不明社会」と「医学のたまご」という海堂尊作品がある。死因不明社会は、本名で書こうかと考えたという作品で、小説ではない。医学のたまごは、主人公らしき少年の苗字が「曽根崎」というところから、ジーン・ワルツの主人公:女医の曽根崎理恵とのつながりを想起させるのだが、まだ読んでいないので何ともいえない。よって、この2冊はいまの段階では手がかりにはなりにくい。  海堂尊ワールドは首都圏から遠くない海辺の町、桜宮市が舞台になる。
 その桜宮市で昔から地域医療の中核を担ってきた大学病院が東城大学付属病院だ。かつては国立系の大学だったようだが、いまでは独立行政法人化されている。
 参考にする6冊のうち、最初の「バチスタ」だけは、登場人物の語りで物語が進行する。その人物こそ、ワールドのキー、田口公平だ。
■田口公平:神経内科学教室講師であり、不定愁訴外来室長。
 大学時代の外科実習で飛び散る血を見て失神し、それ以来内科医を志す。自らを「下層階級」と呼び、「権力からの距離の取り方に苦労」しながら、出世欲皆無の中年独身医師だ。田口は、バチスタとルージュで活躍する。ナイチンゲールではちょい役で登場するが、重要なポストにはならない。
 初対面の人物に名前の由来を聞くのが趣味。その由来を個人的に記憶して、こっそり想像をふくらませるのではない。自分の名前の由来を聞かれたときの反応や応対の仕方から、その人物のキャラクターを瞬時に読み取ろうとしているのだ。医局のメンバーからは「グッチー」と陰口を叩かれているが、実際は本質的な意味での心療内科的手法を実践している。患者の話を一方的に聞き、自ら指針を示すことはしない。ただの聞き役で仕事になるのだからうらやましいと、これまた周囲から馬鹿にされるが、ただの聞き役ほどつらいことはない。説教人間がたくさんいるなかで、ひとのこころを開かせる手法を習得しているなかなかのやり手だ。
 このキャラを、映画では竹内結子が「田口公子」として演じるのだから無理がると思いませんか。
■藤原真琴:不定愁訴外来専任看護師。
 田口の不定愁訴外来で唯一の看護師だ。「年は60ちょい過ぎ、しかし年齢よりもかなり若く見える。顎がはった四角い顔、いかり肩。小柄だが、かっちりとした安心感が全身に漂う」。定年を過ぎ、再任用として勤務している。藤原看護師は、通称「地雷原」と呼ばれている。定年後も病院内ではかなりの影響力を維持している。何よりも病院長を「ゴンちゃん」と呼ぶことが許されている数少ない看護師だ。第一外科の看護師長をつとめ、とびきり優秀だった。
 田口と藤原のやりとりは、何気ない会話のように読み飛ばしてしまいがちだが、よく記憶しておくと、ほかの物語にもつながるヒントがごろごろしている。

5892.4/8/2008
 昨年から全国学力テストが全国すべての小学校と中学校で実施されている。
 文部科学省の命令のもと、都道府県教育委員会や市町村教育委員会が下請け機関となって、民間企業の作成した問題を使って、学校がこどもの学力を調べている。去年で終わりかと思ったら、なんと今年度も実施するそうだ。
 そのテストにいったいどれだけの税金が投入されているのだろう。そして、その結果があしたの教育にどのように結びついていくのだろう。そういう現実的な問題をジャーナリズムはまったく取り上げない。
「昨今は、こどもの学力が低くなっていると言われいる。実際、教育委員会としてはこどもたちの学力をどのように把握しているのか」
額や鼻の頭にギラギラ脂が浮いたような議員が議会で質問に立つ。教育長を始めとする教育委員会事務局は、その質問に応じようとして右往左往する。そんな統計は取っていないからだ。ならば、全国一斉に同時にテストをしてしまえという官僚的な発想で、きっと学力テストは実施されているのだろう。甘い汁を吸っているのは、だれなのか。
 おまけに今年度から、体力測定も実施されるという。悪名高きスポーツテストだ。いくつものくだらない項目のために、教師は体育の時間を削ってこどもに反復横とびやソフトボール投げなどを実施する。練習も指導もしないテストは、教育活動とは呼べない。まるで徴兵検査のようだ。
 こどもたちの学力や体力は、そもそも一元的に数値化できるものではない。それはこどもの差異を前提として考えれば、常識的にわかることだ。
 あまり大きく伝えられていないが、学力テストは障害児学級では実施されない。障害児学級のこどもたちは、学力テストの蚊帳の外に置かれている。つまり、文部科学省は障害児たちを、学力を知りたいこどもたちの範疇にはくわえていないということだ。ヒエラルキーのトップが、率先して障害児差別ととも受け止められる統計に膨大な費用と無駄な労力を投入している。きっとスポーツテストでも同じ指示が下りてくるのだろう。
 戦場でまともに戦えない者を選別していく徴兵検査と構造は同じだ。
 東京では昨年度の学力テストで、自分たちの学校の成績が上がるように試験官の教師がこどもに正答を教えると誤解されてもしょうがないようなズルまでしていた。官僚の思いつきを、なにも疑わないで尻尾を振りながら責務を果たす教師たちは、少なくとも教育者ではない。上役の意向を汲み取り、その意向以上のものを導き、おほめに預かろうとする忠実な部下のようだ。
 先生なんて、おこがましい。
 この4月に、わたしの勤務する小学校には新採用が2人配属された。去年とおととしは1人。3年前は2人。どんどん20代の教師たちが増えていく。反対に、50代で定年前の教師たちが、どんどん退職(辞職というらしいが)していく。長年、教育活動にかかわりながら、未練も興味も感じなくなって、定年前に学校を去っていく。そんなご時世に若い教師たちが増えていく。両極端の現象が同時に起こる。
 ちょうど文部科学省の官僚が収賄罪で逮捕された。施設に関するポジションで長年実権を握っていた管理職が業者と癒着し、新規建設情報を教える見返りに、金銭を受け取っていたという。管理職は妻の就職の斡旋まで業者に任せていた。断罪されるべき内容は、これからの警察や検察の取調べで明らかになるだろう。同時に、文部科学省の学力テストや体力テストなどを管轄するポジションでも行われていないか、だれかチェックしてくれないだろうか。あれだけ大規模なテストを行えば、必ず特定の業者に莫大な利益が上がっていると想像するのが必然だ。
 なぜ不必要で学校現場の要求ではない学力テストや体力テストがなくならないか。それは官民あげての大癒着作戦の賜物だった。そんな結末が見え隠れする。
(カイドウタケルは休載です)

5891.4/7/2008
カイドウタケル..4
 そうこうしているうちに、「ジーン・ワルツ」を読み終えてしまった。
 海堂作品には珍しく、田口も白鳥も登場しない。舞台も、おなじみの桜宮市ではない。読み始めて、おっと海堂もついに田口・白鳥・東城大学路線を変更したのかと、ややがっくりしてしまった。しかし、そこは緻密な海堂くん。ちゃんと主人公の女医は、東城大学出身者という設定を残し、これまでの作品とのつながりも意識していた。
 第一作のバチスタが心臓。第二作のナイチンゲールが小児科。第三作のジェネラルが救急外科。第四作の螺鈿迷宮が終末医療。発表ごとに医療問題の裾野の広さに驚かされた。まったくどこもかしこも問題だらけではないか。その思いは、教育の世界ととても似ている。
 中央官庁の猫の目行政に地方が振り回されるという構造は、医療も教育も共通点が多い。
 ジーンは、国内では法律で認められていない代理母問題が縦軸として展開する。主人公の女医は、発生学の講義を担当している。そのため、学生たちへの講義場面が多く登場する。学生たちに語りかける場面を通して、素人のわたしにも受精から出産にいたる生命誕生のプロセスがよくわかった。そして、生命誕生の流れが多くの偶然の重なりの上にあやうく成り立っていることもわかった。妊娠者のうち20%がなんらかの異常分娩か死産や流産を起こすという統計結果は、あまり世間には知られていない。そのため妊婦の多くは、生まれてくるこどもを出産の前から健康なこどもと想像し、出産後の明るく幸せな家庭を夢見る。しかし、出産前の健診で異常が見つかり、出産しないことも選択肢の一つと迫る産科医の苦悩が、ジーンの縦軸に複雑にからまる。
 小説はタイムリーな話題も切り取っていた。それは分娩の途中で地方の産科医が遭遇した異常分娩の結果、妊婦死亡の責任で業務上過失致死で逮捕された事件も伏線として描く。何万件に一件の胎盤癒着。子宮と胎盤を切り離す過程での大出血。総合大学病院と違い、経験者も医療器具もそろわない地方病院の産科医が懸命の手術を実施して妊婦が死んだ。その事故を事件として扱う警察や権力への強い抵抗。海堂は医師なので、登場人物にその憤りを語らせているが、それは海堂自身の憤りでもあるのだろう。
 またジーンは海堂作品お得意のウイットが極端に少ない。どろどろしたミステリーや謎解きもそんなに多くはない。それでもあっという間に読み終えさせる筆力は、綿密なプロットと専門性の高い内容、登場人物の明確な設定に裏打ちされている。
 そして第六作の「ブラックペアン1988」を読んでいる。残りあと少しだから、きっともうすぐ読み終えてしまうだろう。
 1988年という時代設定。東城大学医学部と大学病院が舞台。それだけで海堂好きにはたまらない。明らかにこれは「スターウォーズ」シリーズのエピソード1だ。バチスタを発表するときから、この構想があったとしたら壮大な物語が海堂には当初から頭のなかにあったことになる。それとも有能な編集者のアドバイスがあったのだろうか。
 当時の医学部には、手技の優秀な教授を頂点とした科目ごとのヒエラルキーが厳然と存在していて、教授の一言は神の一言に近い。助教授や講師はそれに従う近衛兵のようだ。舞台は総合外科。まだ外科が細かく分化していなかった時代だ。その外科に、首都東京の厚生省の御用大学帝華大学医学部からひとりの男が送り込まれる。医療世界の人事というものはどうなっているのか、よくわからない。病院に勤務するということと、自分の所属というものが一致するのかどうかわからない。アルバイトでほかの病院に診察に行く医師も多く登場するからだ。そんなに給料が安いのだろうか。そんなことはないだろう。
 この送り込まれた男は、厳然としたヒエラルキーの総合外科で、主任教授に面と向かってモノを言い、家来たちの強い反感を買う。しかし知識、技量、人間性に優れ、患者との交流も良好なので、次第に城壁を席巻していく。男の名前は高階権太。タカシナゴンタ。ゴンスケ。ゴンちゃん。バチスタを読んだひとならおなじみの人物だ。将来の東城大学病院の病院長である。
 そう、ペアンはバチスタでフィクサー的な役割を果たす高階の誕生物語なのだ。

5890.4/5/2008
カイドウタケル..3
 「ジェネラル・ルージュの凱旋」は、救命救急センターが舞台になる。
 救急車で運ばれてくる重症患者を、ただちに処置し、その後の状態を管理し続ける将軍(ジェネラル)が主人公。多くの処置例が脳裏に想像できる描写は、さすがに現役の医師である作者の真骨頂だ。まるで、アメリカの救命救急病院をテーマにしたドラマ「ER」を見ているかのようだ。
 心臓マッサージや、電気ショックでよみがえらない心臓。メスで瞬時に胸を開き、あばら骨を切り、腕を突っ込んで心臓を鷲づかみして動かす。想像するだけで卒倒しそうな描写が続く。将軍は、じつは田口と大学時代の同級生という設定だ。
 さらに海堂尊作品にはめずらしく看護師長と将軍とのほのかな感情の絆も物語の伏線としてていねいに描かれる。恋愛小説まで書いてしまうの。あーすごい。
 これまでの二作品で名前だけ登場していた白鳥の唯一の部下である姫宮が、ついにベールを脱いで登場する。なんと看護師研修をするために、ICUに配属されるのだ。そこで繰り広げられるドタバタは、血なまぐさい場面の連続にコミカルな要素として、わたしには安心姫だった。なぜ、姫宮が看護師の研修をするかは、ジェネラルの物語とはまったく関係ない。それが作者のすごいところだ。まるで、スターウォーズなみの叙事詩。じつは、ここでの研修は、次の作品「螺鈿迷宮」で意味があるのだ。
 チーム・バチスタの栄光、ナイチンゲールの沈黙、ジェネラルルージュの凱旋。
 よくもまぁタイトルのパターンが、カタカナ・助詞・漢字という組み合わせで貫いたものだ。
 次の「螺鈿迷宮」は、このタイトルパターンから卒業している。なにか深い意味があるのかなぁ。いいかげんに飽きてしまったのかなぁ。
 ただ、明らかに前作三作品と比べて、螺鈿迷宮には違いがある。場面が東城大学病院ではないのだ。そのため、田口はほとんど登場しない。また、ミステリー色が強まって、全体的におどろおどろしい印象もある。
 わたしは、この4作品ではずばぬけて「ジェネラル・ルージュの凱旋」がおもしろかった。
 ひとつひとつのディテールがたんねんに構築されていて、数行の描写でも読み過ごすと後半の場面展開で意味がわからなくなる。一気に読みたい心境をおさえて、一ページ一ページをじっくり読むことができた。これこそ、映画やドラマにしたらおもしろい。配役を考えただけでもわくわくしてしまう。でも、美男美女を選んではだめ。ちゃんと原作を読み込んで決めてほしい。
 そして、いま第5作目の「ジーン・ワルツ」を読んでいる。
 ふたたび場面は東城大学。しかし今回は病院ではなく、大学の研究室だ。学生に講義をする教授が主人公になっている。テーマは発生学。
 まだ読んでいる途中なので、結論めいた感想はないが、きっとここでもAiが重要なポイントで登場するのだろう。
 わたしはもともと読書という行為はあまり好きではない。得意でもない。
 趣味が読書なんて、とてもとても言えない。
 眠くなる。疲れる。時間がもったいない。
 でも、いい作品に出会うと、その作者に惚れてしまう。だから、同じ作者の本を次々と読みたくなる。思えば、中学時代からそうだった。あの頃は夏目漱石、太宰治に惚れた。高校時代は筒井康隆ばかり。大学時代は、司馬遼太郎、新田次郎に魅せられた。
 就職してからは、小説から離れ、社会学の本を多く手にした。それでも最近は、奥田英朗をかなり読んでいる。そんななか、ひとの勧めでバチスタに出逢い、すっかりはまってしまった。だれが呼んだか「読書の秋」。勝手に読書は秋にしましょうなんて、習慣の義務化はやめてほしい。
 読みたいときに、読みたい本を手にすること。それだけで、じゅうぶんだ。

5889.4/3/2008
カイドウタケル..2
 バチスタは、心臓の筋肉、心筋がのびきってしまい、肥大化してしまう病気の手術方法だ。
 それまでは、心臓移植という心臓を取り替えてしまう方法しかなかったが、それは費用やチャンス、手術技術や倫理問題などの点で、多くの困難さをもっていた。日本では脳死そのものが議論され、臓器移植じたいが倫理面でのクリアしなければならない壁を多くもつ。
 バチスタ手術は、のびきった心筋を切除し、ふたたび縫合して小さな心臓に戻す手術だ。原理はわかりやすいが、いったん手術のために停止させた心臓を、縫合の後にふたたび起動させることがとても困難な要素をもつ。また、起動しても、その後の生活で心臓が以前と同じ働きをするとは限らない。肝臓のように再生する臓器ではない心臓に、どれだけの可能性があるのかは未知数なのだ。神経や電気伝達系、血管などがしっかりつながり元通りの機能を果たすのか。大量の血液をふたたびポンプの役割で全身に送り出す繰り返し作業に、傷口が耐えられるのか。のびきっている心筋とそうでない心筋との境界が、ひとの目にわかるのか。
 その手術のための専門チーム。それが、チーム・バチスタだ。
 国内初のバチスタ手術を次々と成功させた東城大学医学部の心臓外科は全国的に有名になる。しかし、その影で、連続する失敗例。その原因がわからない。同じように手術をして、同じように処置しても、生き返る心臓と、動かない心臓に二分されていく。執刀医の「なぜだ」という疑問が、内偵による原因究明へと発展していく。
 わたしは、「チーム・バチスタの栄光」に触発されて、海堂尊の本を次々と購入した。
 購入して驚いたのが、このひと、とても短期間に長編小説を次々と発表していた。うーん、いつ書いてんだ。
 ちなみに、海堂尊の本は、登場人物や場面設定が同じなので、発表順に読むことをお奨めする。なぜなら、すべてが同じ東城大学やその地元の出来事であり、読み込むと、それ以前の小説に触れられていたことや、その後の小説に触れられていくことが、ちりばめられているからだ。その本だけを読んでいると、なんのことかわからない一説が、次の本を読んで、なるほどとつながるのだ。
 だからこそ、作者はいつアイデアをふくらませ、物語を想像しているんだと驚いてしまう。
 「チーム・バチスタの栄光」はある年の2月から春にかけての話。同じ年の冬から年越しにかけての話が「ナイチンゲールの沈黙」。それに続くのが「ジェネラル・ルージュの凱旋」。この二冊は驚くなかれ、同じ東城大学病院を舞台にして、登場人物も重なり、同じ時期の別々の診療科の話なのだ。表舞台と裏舞台で進行する異なる物語を同時に別々の小説として練り上げる海堂尊の頭のなかは、いったいどうなっているのだろう。
 ナイチンゲールは、小児病棟が舞台になる。近くの民間病院で長期間遺体の解剖に携わってきた浜田看護士が、東城大学の小児病棟に配属される。元来小児科をもたない東城大学病院では、ほかの病院で治療が困難な小児患者を引き受けている。当然ながらこどもたちが登場する。このこどもたちのケアを、バチスタで一躍院内の有名人物になった田口が担当するハメに。そこに、白鳥調査官も加わって、しっちゃかめっちゃかになる。
 こどものなかに、目の癌で眼球を摘出しなければならない患者がいる。家庭環境が不遇で、看護士や医師になかなかこころを開かない。その少年と浜田とのこころのふれあいが物語の縦軸となって、ミステリーが引き起こされる。
 さらに、ナイチンゲールでは、白鳥も頭が上がらないという警察庁キャリアも登場する。2人は大学時代の同級生で、ともに頭の冴えはぴか一。でも組織に縛られることを苦手として、チームプレーをことごとく無視する。地元警察の刑事が、キャリアの相棒になる。2人の関係は、田口と白鳥の関係に似ている。だから、いつしか刑事と田口は互いに似た境遇であることを自覚し、相通じるものを感じるようになる。ミステリー以外の人間関係も、深く緻密に描写され、バチスタに劣らない深みをかもし出す。
 ここでも作者お得意のAiが重要な役割を果たすのだが、それは読んでみて確認しよう。
 バチスタが華やかな舞台演劇、ナイチンゲールがドラマ仕立てのシリアスドラマだとしたら、「ジェネラル・ルージュの凱旋」は戦場物語だ。

5888.4/2/2008
カイドウタケル..1
 海堂尊がおもしろい。「カイドウタケル」。現役の医師をしながら文章を書くミステリー作家だ。
 仕事をしながら、どうしてこんなに小説を作る時間があるのだろうと思うほど、人物描写や、物語の構成が緻密にできている。もちろん、ペンネームだろう。本名を使ったら、ファンで病院は機能不全になってしまうかもしれない。
 わたしが海堂尊を知ったのは、「チーム・バチスタの栄光」という小説からだ。映画でも有名になった。もしも映画も小説もまだ触れていないひとがいたとしたら、わたしは断固として小説をお奨めする。小説が原作だからというのはもちろんの理由だ。しかし、それ以上に、小説の人物設定と映画の配役が乖離しているのも大きな理由だ。映画を先に見て、小説を読んだらきっと違和感をもってしまうだろう。小説のほうが圧倒的におもしろい。映画人のみなさん、ごめんなさい。
 精神科医こと田口がバチスタでは重要な役割をもつ。この人物設定が、わたしの好きな作家、奥田英朗のはちゃめちゃ精神科医伊良部シリーズの「インザプール」や「空中ブランコ」に通じるものがある。しかし、田口と伊良部は決定的に異なる。血を見るのがいやで精神科を選んだ田口は、ひとのよさと組織のなかで生き抜く術を上手に使いながら、医療のもつ潜在的な問題に立ち向かわざるを得ない運命に巻き込まれていく。父親が院長のぼっちゃん先生伊良部は、勝手に押し寄せるユニークな患者たちとの出会い頭の診療で、ひとの内面を切り刻んでいく。まったくプロットを立てないで小説を書き上げる奥田は天才だ。海堂尊も、もしもこれだけの内容をプロットなしで書き上げているとしたら、どんな脳みそをしているのだろう。いや、緻密なプロットなしでは難しいと凡人のわたしは決め付けることにする。
 バチスタは上下巻の長編ミステリーだ。上巻で読者を心臓外科手術という密室の舞台に誘っていく。事件の鍵となる素材がうようよしている上巻で、事件の謎解きを依頼された田口が翻弄されていく。その緊迫した筋立ては、これまでのミステリーでもよくある手法だ。それが完全に裏切られるのが、下巻。ここで、厚生労働省の異端児、白鳥調査官が登場する。破天荒な言動と天才肌の対話法を習得している白鳥の介入で一気に事件は、物語へと変貌する。本当の厚生労働省にこんな異端児がいるとは思えないところが味噌だが、そこは小説の世界。鞍馬天狗や仮面ライダーだって、実在しないけど、読者は共感し共鳴し何かを期待するでしょ。
 さすが医師。小説には専門用語がてんこ盛り。わたしのように医療にはまったくのど素人には、意味不明の言葉が並ぶ。でも、睡眠薬のような専門書の気配は感じさせない。それは、人物が語る言葉がわかりやすいからだ。台詞が多い小説なのだ。もともと海堂尊には脚本家としての才能があるのではないか。
 そんなわたしでも、オートプシーイメージング(Ai)という用語は覚えてしまった。じつは、このAiは、海堂尊の作品全体に共通するテーマで、バチスタでは重要な役割を果たす。医療の世界で、海堂尊がAiを声高に叫んでも、見向きも注目もされなかったものが、小説を通じて多くのひとたちに知られるようになった。作者の選択は狭い世界の常識を世に問うことで開花させたのだ。
 亡くなったひとを画像診断する。それをAiという。病気で亡くなったとき、医師は家族を前に死亡宣告をする。しばらくすると、死亡診断書を作成する。それは、それまでの病気の進行や死亡時の外見からの判断で行うことが多い。家族は、医師の診断を疑うことはない。
 わたしの母は肺がんで亡くなった。最後はモルヒネを使って、緩和治療を続け、呼吸不全から心停止した。だれもが死因は肺がんだと疑わなかった。もしも、手術や治療に疑問があって、死因を追及するときは、遺体を解剖してもらわなければならない。しかし、病院側から検体の申し出や解剖の依頼がない限り、遺族感情として、死体を切り刻む解剖という考えは浮かばない。メスを使って解剖をするのではなく、Aiは、磁気共鳴装置(MRI)を使って遺体を調べる。だから、死体が切り刻まれることはない。もしも使用するモルヒネの量が間違っていて死期を早めていたとしたら、それもわかる。てっきり肺がんが転移して死んだのかと思っていたのに、調べたら病巣は別のものだったというのも、わかる。
 つまり、Aiは死因の特定に威力を発揮する。そこには、病院として、医師として知られたくない情報が含まれるかもしれない。しかし、医療の発展という意味では、治療と死因を密接に結びつける手がかりが見つかるので、有効な新しい診断方法や治療方法の確立につながるかもしれないのだ。小説では、なぜ医療現場でAiが広がらないかという背景も説明されているので、気がかりなひとは読んでほしい。

5887.4/1/2008
どこに視線を向けるべきか..4
 東京都ばかりを悪者にするつもりはない。家庭が経済的に苦しく、親がこどもを育てられない問題は、全国的な問題に発展しているからだ。
 また、昨今は親による虐待が原因になって、こどもを家庭から引き離して施設に入れる措置も多く取られ始めている。

児童虐待に関する相談処理件数。
 1990年:1101件。
 1999年:11631件。
 10倍になってしまった。

虐待者の学歴1993-1995。
 34.3%が中卒で、12.2%が高卒だ。

虐待者の続柄1999。
 58%が実母で、25%実父。父親よりも母親の方が多い。

経済的状況1993-1995。
 52.5%が貧困にあえいでいる。

 さらに最新の2006年の統計では、児童虐待に関する相談処理(通告)件数は、37323件にのぼる。16年前の37倍だ。

虐待の内訳。
 身体的虐待:15364(41.2%)件。
 ネグレクト:14365(38.5%)件。
 暴力と育児放棄。そんな家庭で生活するこどもたちが、学校で意欲的な学習をするこころのゆとりがあるはずがない。また、このような家庭のこどもが私立学校に通えるお金もない。

被虐待者年齢。
 小学生:14467(38.8%)人。
 3歳から就学前:9334(25%)人。
 0歳から3歳:6449(17.3%)人。

 当然のことだが、こどもたちはどんな家庭環境に置かれても成長していく。少なくとも義務教育期間は学校に通う。
 いまの日本では多くのこどもがその後の高校までは進学するだろう。
 しかし、経済的な格差や、親の育て方の違いによって、学習意欲が低下し、満足な日常生活もおぼつかないこどもたちが、通常の公立学校教育で落ち着いた学習ができるとは考えにくい。
 学習への意欲が低く、攻撃的な特性や逆に強迫的な特性を身につけ、こころの成長にゆがみを抱いたまま成人になっていくことを、見放していていいのだろうか。

 ネバダ州のレインシャドウ・コミュニティ・チャータースクールは高校だ。
 しかし、そういったこどもたちを引き受ける小学校や中学校の開校が、これからの日本社会には必要になってくると思う。
 いつまでも、公教育には税金が使われるので一定の枠組みは必要だと、高飛車に構えていたら、高額な費用を負担してフリースクールにも通えないこどもたちが、社会を憂い、おとなを恨み、自分を蔑みながら、成人になっていく時代が数年先に訪れることを覚悟しておかなければならない。

 貧しい家庭のこども、虐待を受けたこどもが、みんな学習への意欲をもたずに、社会の底辺で生きていくとは言わない。どん底の状況から這い出て、社会で成功していく人材もいるかもしれない。
 でも、きっとそれはそのこどもがひとりで成し遂げられるものではないだろう。貧しいながらも良心的な親や、献身的にかかわる教育者や支援者の存在がなくしては、こころを安定させることは難しい。
 新しい公立学校は、やはり市民の手で創ることが必要だ。
 こころに傷を負ったり、まともな生活を送れなかったりするこどもを、専門的にささえるひとたちの存在を、いままで以上に職種として、仕事として、確立させていきたいと思うからだ。
(おわり)

5886.3/31/2008
どこに視線を向けるべきか..3
 2003年のデータだが、これに東京都の場合を比較する。

2003年度東京都小学校数。
 1323校うち私立51校。
 4.7%のこどもが私立に通う。全国平均(0.9%)の5倍以上だ。

2003年度東京都中学校数。
 635校うち私立178校。
 24.8%のこどもが私立に通う。全国平均(6.0%)の4倍以上だ。

2003年度東京都高校数。
 私立高校の割合は52.7%で公立高校よりも多い。
 55.9%のこどもが私立に通う。全国平均は29.1%だ。

 つまり首都東京には、私立学校が全国に比べ突出して多く、公立学校の存在意義が、そのほかの道府県よりもウエイトが低くなっていることが推測される。
 家庭が経済的に恵まれ、成績が上位のこどもが私立学校を選択するのだから、当然、公立学校はそれ以外のこどもたちの受け皿になってしまう。
 そう考えると、杉並区の公立中学校が、土曜日に授業料を徴収して成績上位のこどもをさらに引き上げる取り組みを始めたのは、公立中学校に魅力を持たせるひとつの方法だったとも思えてくる。

 しかし、私立学校にこどもを通わせる経済的なゆとりが家庭にないこどもたちや、決して成績が上位ではないこどもたちが、安心して充実した教育環境を選ぶことはいつになったら保障されるのだろう。

 東京都が生活保護世帯数が多いことと関連して、東京都には全国で最も多く児童養護施設がある。

1999年の全国児童養護施設数。
 1位:東京都55施設。
 2位:大阪府36施設。
 3位:愛知県31施設。

 ちなみに神奈川県は25施設あり、関東地方では東京都に次いで多い。

5885.3/30/2008
どこに視線を向けるべきか..2
 日本国内でも、公立学校に通うこどもたちの不登校や中退が決して減少はしていない。ただし、そのこどもたちが不登校や中退する理由は、生活上の貧困が原因ではないことが多い。
 現金を得るために、日雇い労働をしなければいけないから学校に通えないのではないだろう。
 親が日々の仕事に追われ、まともに育児をする時間が確保できず、こどもとの接点を見出せないから、覚せい剤や喫煙、飲酒の世界に入っていくのではないだろう。

 しかし、本当にそうだろうか。
 太平洋の向こうで、林さんが感じた社会の二重構造、富める者と貧しい者との格差は、日本社会には無縁のことなのだろうか。

 1996年以降、生活保護受給世帯は急上昇している。
 2005年度は100万世帯を超えた。
 保護率も1996年は14%台だったのに対して、2005年度は25%を越えている。なんと4世帯にひとつは生活保護を受給している。
 しかし、その実感はあまりない。これは都道府県別の受給世帯数を見ると納得する。

2006年度の都道府県別受給世帯数。
 1位:東京都14万6千世帯
 2位:大阪府4万5千世帯
 3位:北海道4万世帯

 圧倒的に東京都が突出しているのだ。ちなみに、神奈川県は、9位で1万4千世帯だ。

 経済的な格差社会を考えるとき、日本では、東京都とそれ以外という二重の枠組みを念頭に置く必要がある。
 東京で起こっていることが、あたかも日本全土で起こっていることという錯覚を抱かないようにしなければならない。
 こどもが通う公立学校の推移を私立学校の推移と比較する。

2007年度小学校数。
 22693校うち私立200校。
 公立学校は前年比187校減少で、私立学校は2校増加。

2007年度中学校数。
 10955校うち私立729校。
 公立学校は前年比40校減少で、私立学校は3校増加。

2007年度高校数。
 5313校うち私立1322校。
 公立学校は前年比69校減少で、私立学校は3校減少。

 こどもの数は激減し、公立学校の統廃合が進むなか、小学校と中学校では私立学校が増えている。

5884.3/27/2008
どこに視線を向けるべきか..1
 会話の最後に私は語った。
「シエラ・ビスタ・エレメンタリースクールから、レインシャドウ・コミュニティ・チャータースクールに進学する子を出してはならないと思っています」
校長先生は、「そうですね」と強い口調で答えた。

 これは、フリージャーナリストの林壮一さんが書いた「アメリカ下層教育現場」(光文社)の一節だ。
 わたしは、この一節を呼んで落ち込んだ。同時に、チャータースクールの必要性を強く感じた。

 林さんは、ネバダ州のリノという町で、半年間だけ、レインシャドウ・コミュニティ・チャータースクールの教壇に立った。このチャータースクールは高校だ。その後、シエラ・ビスタ・エレメンタリースクール(小学校)で、昼休みにこどもと一対一で、遊んだり、話を聞いたりするボランティア(ユース・メンターリング)をした。その小学校で校長と面接し、最後に語った言葉が冒頭の言葉だ。
 林さんは決してチャータースクールの高校生に辟易して、職場を離れたのではない。むしろ、半年の教員経験を経て、さらに次年度は一年間続けて指導をしたいと希望を出したほどだ。しかし、白人の女性校長による有色人種差別など、理不尽な理由で断念せざるをえなかった。では、チャータースクールの人種差別をする校長に反発して冒頭の発言になったのかというと、それも違う。
 アメリカ社会は日本よりもはるかに学歴が重要視され、就職したときに高卒と大卒とでは初任給から生涯賃金まで桁違いなのだそうだ。さらに、仕事の内容も学歴によって明確に区別されていると言う。
 だから、チャータースクールではあるが法律上高校と認められている学校で、通常の高校を中退した生徒たちを相手に「何があっても高校だけは卒業しろ。単位は取れ」と励まし続けたのだ。

 ユース・メンターリングというボランティア団体に登録して、移民メキシカンの少年を林さんは担当した。
 家庭が貧困だったり、シングルマザーやシングルファーザーに育てられたり、小さいときから育児放棄されたりして育ったこどもたちに、そっと寄り添い、頼りになるおとなの存在を自覚させていくプログラムがユース・メンターリングだ。100年以上の歴史があり、全世界に支部を持つ。
 アメリカでは、公立学校であっても学校が家庭の情報を知ることは許されていない。親の仕事や年収、さらには家庭の状態を教師が把握することは、個人情報違反になる。だから、無断で欠席しても、理由を確かめることはない。学校から遠ざかっていくこどもたちを引き止める情報を学校は持っていないのだ。だから、そのこどもたちに親身になって相談に乗るボランティア制度が充実しているのかもしれない。日本ではとかく児童相談所や教育相談センターなど行政の仕事として責任を転嫁してしまいがちだ。

 すべてのチャータースクールが、レインシャドウ・コミュニティ・チャータースクールのように、高校を中退した生徒のためのチャータースクールというわけではないだろう。
 しかし、1991年に初めてミネソタ州でチャータースクールに関する法律ができて以来、全米の各州でチャータースクールを認める法律が整備されていった背景には、通常の学校を辞めてしまうこどもたちの受け皿が必要になったという社会的な問題が大きく影響を与えている。
 学校を中退しても、一定期間不登校になっても、寝る場所も食べるものもある日本とは大きく背景が異なる。アメリカの中退者のほとんどは親の育児放棄や貧困が理由で、寝る場所も食べるものも確保されていないことが多い。
 それでも、そういったこどもたちに最低限、高校を卒業した資格だけは与えようという使命感がチャータースクールを作ろうとしているひとたちからは感じることができる。そして、できれば高校生になるまで、だれからも見向きもされないこどものまま最低限の生活を経験させるのではなく、小学生の段階から、親に安定した生活を期待できないこどもにはボランティア団体を中心とした支援を充実させる。思春期にさしかかっても、自分を見失うことなく、ネグレクト(育児放棄)や暴力などで困ったときには、気持ちを打ち明けられるおとなが身近にいることを教えていく。それが、結果的に最低の高校に行かなくてすむ方法なのではないかと、林さんは考えたのだろう。

5883.3/24/2008
 引き続き1980年を振り返る。
 日本国有鉄道、通称:国鉄が健在だった。よくストライキをして、大船から茅ヶ崎まで自転車をこいだ記憶がある。さびていくレールを見ながら、いい加減にしてくれーと叫んでいた。当時の最低料金は100円だった。私鉄のほうが運賃が高かった時代なのだ。
 小説でも紹介したが、ハンガリーの美術大ルービック教授が教材用に考案し、日本では2年間に400万個が売られ、模造品も出回った玩具と言えば、ルービック・キューブ[ツクダオリジナル、1,980円](7月発売)。立方体27個に分割されていて、各面を回転させることにより色を揃える。こんなもの、どこがおもしろいのと感じたが、やってみるとついついやめられなくなるおもしろさと深さがあった。知的好奇心を試される玩具としては、初期のものだったのだろう。
 当時のトイレはほとんどが和式で、洋式のものは少なかった。そんな時代に洋式トイレとセットのウォッシュレット[東陶機器、149,000円] が発売された。東陶機器は言わずと知れたTOTOのロゴで知られている。なんと茅ヶ崎に工場があったのだ。それにしても値段が高い。よほどの金持ちが買ったのだろう。わたしは、名前は聞いていても、その見た目も使い方もわからず、初めて使うのはおそらく仕事についてからだった気がしている。
 「それにつけてもおやつはカール」のカール[明治製菓] が、この年に発売されたのは意外だった。もっと以前からこどものおやつ、遠足のおともとして定番だったと勘違いしていた。
 11月29日:豊島区東長崎で「ルルド」が開店。東京のノーパン喫茶第1号とされる。東京とはすごいところだと痛感した。
 パンツを脱いだ女性店員が、ガラス張りの床面でウエイトレスをする喫茶店。その発想も驚きものだが、わたしは、そういう店で働く女性や、そういう店でコーヒーを飲もうとする客がいることに驚いた。自分の感覚と、東京の速さは永遠にずれていくだろう。帰宅部の連中が休みの日に行ってきた話を得意げにしていたのを思い出す。
「どうだったの。本当に丸見えなわけ」
「それがさ、ありゃ詐欺だぜ。店自体が暗い照明で、おまけにノーパンでもスカートははいているし、エプロンはつけているから、鏡に写るのは暗闇だけ」
「なぁんだ」
「おまけに、注文を聞きに来たときに、床ばかりを見つめ続けるのも変だろ」
「そりゃそうだ」
「となりのテーブルに注文を聞きに来たやつなんて、俺たちにも聞こえる屁をしたんだぜ。ノーパンだから屁をしたら音もストレートだし、臭いも強烈」
つくづく高いコーヒーと往復の交通費だったのだろうと同情した。
 女性専門の求人雑誌「とらばーゆ」が発行された。英語がちっともわからに俺でさえ、それが「転職すること」の意味に使われるようになったことは理解できた。ひとつの仕事を末永く続けるのではなく、条件のよい仕事を選んで渡り歩くスタイルがよのなかに認知され始めた頃だ。
 3月2日の「TVジョッキー」で山田邦子が「元祖かわい子ぶりっ子、ぶるぶるぶりっ子」と言ったのがきっかけとされる「ぶりっ子」という新語が誕生し、流行した。声やしぐさを可愛く見せようとすることから、「可愛い子ぶりっ子」という。松田聖子がその代表とされた。
 前年の1979年に発売されたウォークマンの爆発的ヒットで、街でヘッドホンをかけている若者が多くなった。 電車に乗っていても、ヘッドフォンから漏れるシャカシャカという高周波音域が耳障りだった。たしか、ヘッドフォンの音が耳障りという理由で、傷害事件も発生したのではないだろうか。
 9月13日、いまやアメリカで活躍する松坂大輔[プロ野球選手]が生まれた。横浜高校、西武で活躍した名投手であることは周知だろう。  公開映画も懐かしい。「ツィゴイネルワイゼン」。武田信玄の影武者として生きた男の数奇な運命を描く「影武者[東宝]」。北海道の原野の美しい自然の中で、きびしい労働に耐えながら生きていく人間の姿を描く「遥かなる山の呼び声[松竹]」。男はつらいよ・寅次郎ハイビスカスの花[松竹](8月2日封切)。男はつらいよ・寅次郎かもめ歌[松竹](12月27日封切)。二百三高地[東映]。ヤマトよ永遠に[東映洋画]。戦国自衛隊[東宝]。代表的な中流家庭を突然襲う子供の事故死や自殺未遂事件「普通の人々 ORDINARY PEOPLE[米]アカデミー賞(作品・監督など4部門)」。スターウォーズ・帝国の逆襲。「エレファント・マン」と呼ばれて数奇な人生を27歳で終えた実在の人物の半生をつづる「エレファント・マン THE EKEPHANT MAN[英]」。
 もっともっとたくさんあるが、これらは全部映画館で見た記憶があるので、わたしは野球の練習をだいぶさぼっていたのかもしれない。

5882.3/22/2008
 あくまでも虚構でありながら、限りなくわたしの人生と似た物語を二編書き終えた。
 湘南に抱かれての1985年版と1980年版だ。
 1980年はわたしが高校3年生で17歳のときだった。1985年は22歳で大学を卒業したばかりだった。ともに、物語を書くにあたり、当時の資料をたくさん集めた。小説にはそれらの一部をアイテムとなって登場させた。もっと時代をにおわせるものをたくさん書き込みたかったけど、内容の進展にとって不必要と思われて、大半が日の目を見なかった。そこで、物語とは無関係としてぼつになった資料から、往時をあらためて振り返る。
 いまから28年前。1980年は、さる年だった。まだ昭和が続いている。昭和55年。ことし2008年に28歳になるひとが、生まれた年だ。
 野球ばかりしていてよのなかの流れからは遠い生活をしていた高校3年生だったわたしだけど、光州事件(光州民主抗争) は衝撃的だった。対馬海峡を隔てて、わずかな距離の韓国で、兵隊が市民に銃口を向けた。いまでこそ、韓流ブームとして韓国の文化や芸術は日本と深い結びつきをもっているが、当時は軍事政権による独裁体制が強固で、北朝鮮や中国と同様、国内の情報が国外に出ることは珍しい国だった。
 まず、5月18日から全羅南道および光州市民が民主化運動を始めた。それに対して、25日、全斗煥〔チョン・ドファン〕政権は戒厳令で対抗。ついに、27日、デモ隊占拠の光州市に戒厳軍が突入して弾圧した。反発する市民と衝突し多数の死傷者がでた。
 民主化という時代の要請と、弾圧という旧来の手法が、まだ混在する韓国。少なくともその情報がメディアの力で全世界に届けられるようになっていたことは、大きな進展かもしれない。日本国内でも1945年の終戦以前は、治安維持法の名の下に、ひとびとの思想が厳しく取りしまわれていた。ひとの考えにたがをはめ、国家権力と異なる考えを認めない。封建的な手法は大昔の出来事と思われがちだが、じつはそんなに昔のことではない。
 政治の世界でもどたばた続きだった。5月の国会で、社会党(おー懐かしい響き。そうまだ社会党が健在だったよき時代です)が提出した内閣不信任案に野党が同調、自民党の福田、三木両派が衆議院本会議場にはいらなかったため、243票対187票の大差で可決された。いまの首相の親父たちが自民党主流派に反旗を翻したわけだ。これにより5月19日に、当時の大平首相が内閣不信任案可決を受けて衆議院を解散した。直前の新聞報道にもこの流れの予測はなく「ハプニング解散」と呼ばれた。 内閣不信任で解散した国会だったのに、なぜか国民に信を問う第36回衆議院議員選挙(6月22日)では、自民党が圧勝する。このとき初めて衆参同日選挙となった。こうして、ふたたび首相になった大平さん。しかし、苦労が多かったのだろうか、5月31日から「過労」で入院し、6月12日に心筋梗塞のため死亡した。 マイクを前にすると「あー」だの「うー」だのしか言わなかった故人を思い出す。急遽、官房長官の伊東臨時代理内閣(6月12日〜7月17日) が組閣され、その後、鈴木内閣(7月17日〜1982年11月27日)が発足した。 しかし、そういう細かいことは、野球一筋のわたしには興味があるわけななかった。
 ただ、当時の高校で生徒会長をつとめたひとが、生徒会や選挙のときに、よく「いまの政治は」と大声で言っていたのを覚えている。国政と高校の生徒会と関係ないだろと、しらけた気分で聞いていた。そのひとは、いま茅ヶ崎市長をしている。やはり若いときから政治への興味と熱意があったのだろう。
 ちまたでは、玩具のタカラが、新製品チョロQを発売した。これは、爆発的なヒット商品になった。高校でも、いろんな種類のチョロQを持って来て、休み時間にレースをしている連中がいた。わたしは小学校までにミニカーは卒業していたので、おさない連中だなぁと見下していたが。
 封書は50円、はがきは20円だった。携帯電話もメールもない時代だ。ひととのコミュニケーションに手紙が果たした役割は絶大だ。いまだれかに何かを伝えなければいけない緊急性のあるときだけ、電話を使った。電話は各家に固定されていたので、相手家族のだれが出るかわからない。目指す相手が「もしもし」とすぐに反応してくれればいいが、たいていはおとなが出ることが多かった。挨拶や自己紹介など、ていねいな言葉を駆使しなければならなかった。だから、わたしは、電話よりも圧倒的に手紙を使うことが多かった。携帯やメールなどの道具がなければ、意外と日常生活で「いま」「すぐ」伝えたいなかみなどないものだ。

5881.3/21/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

4-7
 餃子もいただいて、万里飯店をあとにする。
 秀夫は、自宅までの道のりを歩く。モノレールやバスを使ってもよかったが、歩きたかった。
 横須賀線をまたぐ陸橋にさしかかる。鎌倉方面からの木々の香りと、江ノ島方面からの潮の香りが交差した。
「ただいま」
家の引き戸を開ける。ガラガラと音を立てて、家のなかに入る。午後10時だった。
「お帰り」
母親はもう家事を済ませて、入浴も終えたのか、頭にタオルを巻いていた。
「親父は」
秀夫が聞くと、まだこの時間も仕事みたいと母親は言った。荷物を降ろして、手を洗う。炊飯器からご飯を茶碗に盛る。冷蔵庫から梅干を出して、湯をかける。テーブルに運んで、胃袋に流し込む。
 向かいの席に母親が座る。
「負けちゃったね」
いきなりずしん。もう少し、デリカシーのきいた台詞はないものか。
「でも、いい写真が撮れたと思うよ」
撮影した写真は現像してもらい、後日受け取りにいかないと、どんな仕上がりかわからない。スピード仕上げも、デジカメもなかった1980年。
「おじいちゃんは、なんか言ってたかな」
「ご機嫌だったよ。最後のヒットはとくに気分がよかったらしく、何度もうなずいていたよ」
 茅ヶ崎に海嶺あり。そのヒットが、客席の祖父にも感動を与えていたらしい。
 自分が一生懸命取り組んだ結果に、ほかのひとたちが別の意味づけをする。その意味づけは、秀夫にはまったく関係ないことだけど、それを受け取ったひとたちの何かを変える力になるのだろう。野球っておもしろい、スポーツっておもしろい。
「あしたからは、受験生ね」
母親の頭の切り替えの早さに驚く。
 高校時代、最後の野球の試合を終えて帰ってきた息子に、いままでご苦労さんというねぎらいの言葉はない。もう次の話だ。
「ごちそうさま。風呂に入るね」
 秀夫は、食器を片付け、風呂場に向かった。
 バックのなかのユニフォームを出す。ところどころに、横浜スタジアムの人工芝のくずやアンツーカーの汚れがついていた。
 さっきまで、これを着てプレーをしていたんだなぁ。手にしたユニフォームを頬に近づける。愛着。でも次の瞬間。
「くせっ」
汗と汚れの混じった臭いが秀夫の鼻をついた。センチメンタルは一瞬に吹き飛んで、秀夫はユニフォーム一式を洗濯機にぶちこんだ。
(湘南に抱かれて:1980年・夏 おしまい)

5880.3/20/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

4-6
 秀夫は、レンゲでスープを飲む。いつもと変わらないコクのある塩味。
 さっきまで横浜スタジアムで緊張のなか、高校生活最後の野球の試合をしていたとは思えない。練習帰りに、いつものようにここに寄って、タン麺を食べている感覚に陥りそうになる。
 割り箸をもって、器の底の麺をぐいっとつかんで野菜の上に乗せる。こうすると、スープがからまった麺が野菜の上で温度を下げる。スープと麺にはさまれて、野菜に適度に味がしみこむ。
「秀夫のレフト前ヒット、しびれたぜ」
さすがに、高校時代3年間も通うと、大将は名前を覚えていた。
 温度が下がった麺を口に運びながら、秀夫は大将に目で礼を言う。
「あそこで、一本打っておくのとおかないのとでは、これから先の海嶺の名前の響きが違うからな」
「監督も同じことを考えていたみたいです」
「やっぱな。そういう意味では、茅ヶ崎に海嶺ありという礎を秀夫のヒットが作ったわけだ。母ちゃん、餃子もサービスだ」
「了解」
ここでは、餃子は女将の仕事だ。
 万里飯店の餃子は決してまずくはないが、秀夫にとって、餃子といえばという店はほかにあったので、そんなサービスはしてくれなくてもよかった。
「ありがとうございます」
でも、そう答える。
 大将が話している間も、秀夫はタン麺をどんどん食べ続ける。客の注文が入っていないので、大将は秀夫のカウンターごしから離れない。
「俺はな、なんか一つのことにとことんのめり込む若いやつが好きなんだよ。ちゃらちゃらした若いもんを見て、最近の若いもんはって文句を言う客がいるけど、ありゃ間違ってると思う。若いやつにもいろいろいるってことを知ろうとしていない。てめえの世間の狭さを暴露しているようなもんだ。別に野球じゃなくてもいいんだ。でも、俺は野球が好きだから、ついつい野球にのめりこんでいるやつがいると無条件で応援しちまう」
 たぶん、これまでに100回近くはこの話を秀夫は聞いた。大将だって、それだけ言えば同じことを何度も話していることに気づいてはいるだろう。いつも新鮮な気持ちで話していたら、病院で検査をしてもらったほうがいい。秀夫は、この話は俺に向かってしゃべっているふりをして、ほかの客に届けと思っているのだとわかっていた。
「あーあ、でも終わっちまったな」
 秀夫は、麺と野菜、そしてサービスの焼き豚を食べ、器の底のスープを飲む。
「この先も野球を続けるのか」
 ごちそうさま。器をカウンターに戻す。
「いまはまだわかりません。とりあえず、卒業までは何度か練習をサポートしようとは思っているけど。その先のことは考えていません。でも、何らかの形でグローブとバットの世界とはつながっていたいな」
 空になった器をシンクに戻しながら、大将がうなずく。
「そういうのでいいと思うよ。大学野球だ、実業団だという目先のことじゃなく、好きなことを好きなやり方で無理なく続けていけば」

5879.3/18/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

4-5
 この3つのメニューを一度に全部頼むことはしなかったが、同じ店に何度か足を運ぶと、これらのメニューを交互に注文した。3つとも絶品という店はなかった。だから、秀夫のリストには、餃子ならここ、炒飯ならここというおすすめスポットがあった。
 万里飯店は、タン麺リストの永年トップだったのだ。ただただしょっぱいスープとは違う。コクがあり、脂っぽくない。それでいてあっさりもしすぎていない。適度な後味が飲んだ後に口のなかに残り、さらに食欲をそそった。キャベツ、人参、もやし、たまねぎ、しいたけなどの野菜がてんこ盛り。麺のゆであがり直前に、大きな中華なべにスープを入れさっとあおって麺とスープを入れた器に盛る。こんなので火が通っているのかと思うほど、野菜の形状は包丁で切ったときのまま。ところが口のなかに入れると、しゃきしゃきしながら、しっかり食べることができた。
 秀夫は大船駅の階段を降りて、万里飯店の赤い暖簾をくぐった。
「いらっしゃい」
厨房から大将の大きな声が聞こえる。秀夫は、大将と女将さんに会釈をした。カウンター席の端が空いていたので、そこに座る。荷物は足元に置いた。
「試合、残念だったね。見たわよ」
女将さんがコップに水を入れてくれた。
 カウンターの端、秀夫の位置からは逆の位置に小さなカラーテレビがある。
「TVKが試合を中継していたから、みんなで応援していたのよ」
TVKは地元のテレビ局、テレビ神奈川のことだ。VHFではなく、UHFのアンテナを入れないと受信できない。もっとも、鎌倉の多くの地域は山と谷の地形の影響で、UHFアンテナがないとまともな映像を受信できなかった。
 秀夫は、バックからタオルを出して、顔をふく。じっとりかいた顔の汗をふきとって、コップの水をグイッと飲む。
「はーぁ。見てくれたんですね。ありがとうございます」
 カウンターは、個人でラーメンを食べに来た客で満席だった。互いに知人ではなさそうだ。ここには、仕事帰りのひとたちがビールとラーメンを楽しみに来る。なかには餃子や炒飯のひともいたが、圧倒的にビールとラーメンが定番だった。
 大きな中華鍋を大将があおる。レンジから大きなオレンジ色の炎があがる。中華鍋の料理を平らな皿に盛って、奥の客に出した。
 お、珍しい。チンジャオロースーを頼むひともいるんだ。
 中華鍋に湯を引いて、大将は軽くジャレンで洗う。火を弱めて、キャベツ、人参、もやし、たまねぎ、しいたけを手際よく切る。気のせいか、いつもより野菜が多い。
「横浜スタジアムで試合をするって、どんな気持ち」
女将の言葉に、カウンターの客が顔を上げて、視線を秀夫に向ける。こいつ、横スタで野球をやってきたのか。初めて、高校球児の登場に気づく。
「でかかったぁ。ロッカーもベンチもみんな野球専用で、それだけで嬉しくなりました」
 大将は鍋に油を入れ、玉じゃくしで野菜を適度に混ぜる。塩やコショウなどの調味料を加え、火を弱める。麺を一束半とって、沸騰している湯の中に突っ込む。器を棚からとる。タレを落とす。スープの鍋からあつあつのスープを器の半分まで入れる。レンジの火を最大にして、残りのスープを鍋に注ぐ。ジュー。蒸気が上がる。麺の湯きりをして器に移す。スープに浸るほどの麺。中華鍋から野菜をスープごと麺の上に乗せる。冷蔵庫から焼き豚を取り出し薄く切って野菜の上に乗せた。
「おまち」
秀夫の前に大将が、タン麺なのになぜか焼き豚サービスの特製ラーメンを運んだ。

5878.3/17/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

4-4
 1980年7月下旬。午後9時近く。大船駅改札から、階段を降りる。
 夜の光が大船の繁華街から漏れてくる。ムッとする熱気は、湘南の夏の代名詞だ。夜になっても熱気が冷めることはない。遠くで暴走族の爆音が響く。
 家路に着く多くのひとたちのなかで、秀夫はこれから向き合わなければいけない孤独という存在の大きさに押しつぶされそうになりながら、野球道具の入ったバックをかつぐ。いままで、いつも同じと思ってきたことやいつまでも繰り返されると感じてきたことに、幕が下ろされた。舞台を終えた俳優の充実感と空虚感に、いまなら共感できそうな気がした。これから先、どうやっていけばいい。
 だれも答えを用意してくれているわけではない。
 階段を降りた。駅前の小さなロータリー。先日、店を閉じた牛丼の吉野家の看板が見えた。たしか新聞で、負債総額が122億円と書いてあった。ふたたび大船に吉野家が開店する日が来るのだろうか。部活動の練習帰りに、何度も寄ろうと思った。でも結局一度も行くことがなかった。牛丼が嫌いだったからではない。
 ほかに行く店があったからだ。
 大船で生まれ育った秀夫が物心ついたときにはすでに開店していたから、大船駅前で何年も看板を守ってきている中華料理店があった。赤くて、端がほつれ気味ののれんには、ラーメン・ギョーザ。中央に大きく「万里飯店」と白抜きしてある。厨房とカウンターしかない小さな店だ。大将と女将さんがいつも大声でケンカしながら料理を作る。本来はステンレスの光沢がまぶしかっただろう厨房の壁は、油と煙がこびりついて黒光りしていた。換気扇の羽根には茶色く変色した埃が油といっしょにかびみたいにへばりつく。ときどきカウンターの割り箸入れの後ろで、ゴキブリたちが運動会をしていた。カウンターの奥には小さなカラーテレビが一台。チャンネル権は大将が持っている。客がチャンネルを変えようものなら、「だれのテレビだと思ってんだ」と怒鳴られる。野球が何よりも好きな大将は、プロ野球中継を年中見ながら仕事をしていた。
 万里飯店は、小さな店だが値段は決して安くなかった。駅の立ち食いそばが280円だった。それに対して、万里飯店のラーメンは500円。野球の練習に疲れて、腹が減ってどうしようもないとき、秀夫はここで夕食前の腹ごしらえをしたが、さすがに値段が高いので毎日通うことはできなかった。それでも週に一度は顔を出すうちに、大将と女将さんは、秀夫が高校で野球部に所属していることを知った。
 秀夫が野球をしていることを知った大将は、なぜか一番安いラーメンが500円なのに、それより20円高いタン麺を注文する秀夫に餃子をつけて400円にしてくれた。ほかの客が文句をつけたら
「学割」
と、大将は切って払いのけた。
「それも野球部専門」
なのだそうだ。
 万里飯店の中華麺は太かった。パスタ麺かと思うほど太い。その麺が器いっぱいに入っているので、おとなでも食べきると満腹になっていた。値段が高いのも仕方がない。秀夫は駅の立ち食いそば2杯と、万里飯店のタン麺1杯を比べたことがある。両方とも値段は同じ。駅の立ち食いそばを連続して2杯食べたら、気持ちが悪くなった。よけいな具が入っているわけではない。体調が悪かったわけでもない。でも食べ終わって、歩き出したら、胃の奥からつきあげるものを感じるほどだった。
 まずいものはたくさん食べるとからだが悲鳴をあげる。いい教訓だった。少しの量だと味覚が反応するだけだが、多くの量だと全身症状に変化するのだ。560円も出して、気持ちが悪くなった自分をアホだと思った。
 秀夫は中華料理が好きだった。母親が手作り餃子を作るのが上手で、餃子が好きになったのがきっかけかもしれない。その後、家族で中華料理店に行くたびに、いろんなメニューに挑戦した。高級料理店ではないので、味は違ってもメニューは似たものが多かった。その結果、秀夫は炒飯、餃子、タン麺が、店の価値を左右するメニューだと気づいた。

5877.3/15/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

4-3
 午後9時前。会社帰りのひとたちが、終着駅の大船に到着した京浜東北線から降りる。男性は上着を脱いでワイシャツ姿が多い。これから湘南の真夏が本番を迎える。女性はとっくに半そでのワンピース。スカートも春よりも生地も長さも風通しをよくしている。
 秀夫は、竹田と大船で別れた。鎌倉に向かう竹田は、ここで横須賀線に乗り換える。
「じゃぁな」
いつもの練習後の学校帰りと同じ挨拶。竹田も、秀夫を振り返り「あー」と小さくうなずく。
 でも、この別れはいつもとは決定的に違っていた。
 きっともう2人は、こうして野球の後に大船駅で別れることはないだろう。
 理由は2つある。
 1つ目は、かんじんの野球がきょうの夏の大会の敗戦で、終わったからだ。3年生の夏は、夏の大会が最後で終わる。最終練習日が設定されていて、その日で終わりということはない。試合に負けた日が、現役を引退する日なのだ。次に海嶺高校の硬式野球部が練習を再開するときは、2年生以下の新チームが主力になる。3年生は引退したOBとなり、練習に参加してもコーチ役に徹する。
 だから、いっしょに野球をやってきた竹田と秀夫が同じ日に練習にコーチとして参加し、練習の最後まで付き合い、同じ日に帰ることは確率的にとても低い。
 そして、もう1つの理由は、2人は学業での接点がないということだ。理系コースの竹田は、物理や数学が中心の授業で、きっとこれから塾に通い、補習を受け、秀夫とは違った生活リズムのなかに身を置いていくだろう。大学受験を目指すと言っていたから、あしたからでも塾の門をたたくかもしれない。
 それに対して、就職するも進学するも浪人するも自由の私立文系コースの秀夫は、野球を引退する日まで、卒業後のことはなにも考えていなかった。ただぼんやりとした時間をしばらくは送るのかもしれない。せっかくの夏休みだから、海に繰り出して波に身をあずけ、湘南の夏を謳歌しようか。野球漬けの日々では決してできなかったことをしてみたい。
 そんな2人が生活のなかで重なり合う時間を共有することは、偶然でも少ないだろう。
 横須賀線の階段を降りていく竹田。その背中を見送りながら、卒業とは違う仲間との実質的な別れを秀夫は自覚した。この別れは、竹田とだけではないんだ。野球部の全員と同じことが言えるんだ。
 胸にこみあげるものを、初めて感じた。昔から秀夫には、壊れた蛍光灯のような感情の癖があった。みんなが感動しているときではなく、その後時間が経過してから、みんなが感動した内容を理解し遅れて喜んだり怒ったりする癖だ。みんなが感動している瞬間には、その場の文脈を受け止めることが精一杯で、それを気持ちのなかで整理する余裕がないのだ。これはきっと器質的なものだから仕方がない。そのかわり、時間が経過してゆっくりと自分のなかに沈殿していく気持ちを味わうことができる。瞬間的に流れていく感動ではなく、じっくりと自分のなかで発酵させ、芳醇な香りとともに気持ちを味わうのだ。
 中学校、高校の6年間を通じて、白球を追いかけた日々。汗と泥とケガにまみれ、一球一球に悲喜こもごもの思い出がある。同じクラスの帰宅部の連中の話題に憧れを持ちつつも、それらを全部振り切ってグランドに足を向けた。そこに何があったかはわからない。でも、好きなことを苦労してやり続ける楽しみがあった。一人ではできないおもしろさがあった。ケンカもした。気持ちを通じ合う努力もした。夏の合宿では、慣れない自炊も経験した。いつも一人ではなかった。孤独とは無縁の日々。
 その孤独が、あしたからの自分に覆いかぶさってくるかもしれない。
 きょうから後は、自分の道をだれも切り開いてはくれない。練習がかったるくて、だらけていたとき、仲間はカツを入れてくれた。あしたからは、怠惰な日々を送っても、ぶん殴ってくれる相手もいない。
 大船駅の駅員に切符を渡す。瞳にあふれるものがあって、駅員の顔を見上げることができなかった。

5876.3/13/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

4-2
 午後8時半の横浜スタジアム場外公園。
 あたりはすっかり暗くなっていた。応援のひとたちはほとんどが帰ったのだろう。海嶺高校のメンバーも、荷物を持って関内駅に向かう。
 夜風が肌に気持ちいい。
「終わったな」
さっきまで号泣していた菊地が、すっかり気分転換したかのように、さっぱりした顔で言う。秀夫は肩を並べて歩く。2人の後ろを、後輩の小坂が続く。
「そうだ、小坂。これ使えよ」
秀夫は歩きながら、バックから外野用のグローブを出して、小坂に渡した。
「えー、いいんですか」
遠慮した口調のわりには、渡されたグローブを返却しようとはしていない。
「お前のグローブは外野用にしては小さいから、これを使うといいよ」
菊地が会話に入ってくる。
「ヒデは、もう野球はしないつもりなのか」
そんなこと、わかるはずがない。
「どうかなぁ。たとえやることになっても、ほかにもグローブはあるから大丈夫だし、必要なら買うよ」
 秀夫はグローブの手入れに時間をかけてきた。専用のオイルを最低3種類は用意して、暇があれば磨いていた。だから、小坂に渡したグローブが汗や泥で汚れていることはない。いつも新品に近い状態で保管していた。外野用のグローブはほかにももう一つ持っている。さらに内野用のグローブもある。ポジションによって、グローブが違う野球では、オールマイティなグローブはないのだ。
 関内駅で、メンバーは上りと下りに別れた。藤沢や茅ヶ崎方面に帰るメンバーは上りに乗って横浜に出る。そこから一気に東海道線で帰る。反対に大船や鎌倉方面に帰るメンバーはそのまま京浜東北線で下り列車に乗り、大船を目指す。
 ほとんどのメンバーが上り方面だった。下り方面は数えるほどしかいない。秀夫は、改札をくぐって、菊池や小坂と別れた。
 3年間、野球を続けてレギュラーにはなれなかった竹田といっしょに下り電車に乗る。竹田は鎌倉駅まで行く。大船で横須賀線に乗り換える。幸い、車内は空いていた。2人で隣同士に座る。
「竹ちゃんは、この先、どうするの」
秀夫は、ベンチシートのぬくもりを下半身に感じる。
「俺は理系クラスだから、どこかの大学の工学部を目指そうと思ってるんだ。ヒデは」
「理系かぁ。そうだよな。これからの時代は理系が就職には引く手あまただろうなぁ。俺は、まだ何にも決めてないよ」
正直なところだった。私立文系コースの秀夫は、大学受験すらまだ念頭に置いていなかった。すべては野球が終わってからにしようと決めていた。そして、そのときはずっと先のことのように考えてきた。それが、あっという間にきょうになり、そして終わった。
「野球は続けるのか」
竹田が聞く。
「野球の強い大学に行けば考えるかも。でも、そうじゃなかったら別のスポーツにも挑戦したいな。竹ちゃんは」
「俺は、もう野球はしないよ」

5875.3/12/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

4-1
 秀夫たち海嶺高校硬式野球部メンバーは、横浜スタジアムの一塁側ベンチ前に整列をして、桜ヶ丘高校の校歌を聴いていた。
 高校野球は試合に勝つと、ホームベース上に並んで勝ったチームが校歌を斉唱することができる。反対に負けたチームは自分のベンチの前で、それを聞かなければならない。試合に負けたことを痛感する時間だ。勝者を称えるのはわかるが、敗者をさらし者にするのはいかがなものだろう。
 主将の菊地は、人目もはばからずに声を上げて泣いていた。右腕を負傷した加藤も、瞳を真っ赤にはらしていた。最終回に、加藤の代打で出場した竹田も、ときどきアンダーシャツのそでで顔の汗をふく仕草をしているのは、汗だけをふいていたのではないだろう。
 桜ヶ丘高校の校歌が終わる。
「行くぞ」
泣き声交じりに、菊地が吼える。
 メンバーは一塁側内野席で、試合終了まで応援してくれた海嶺高校の応援団、ブラスバンド、保護者、商店街の面々に挨拶に行く。
 みんなフェンスの向こうで、声援を送ってくれる。
「よくやった」
「くよくよするな」
「ありがとう」
 秀夫も、胸の中心あたりからこみあげるものがあった。でも、不思議とそれが涙になることはなかった。無理に湿っぽくなる必要はない。
「応援、ありがとうございました。礼」
菊地の合図で、監督の上野も部長の新田も、メンバーといっしょに深々と頭を下げた。
 秀夫は、頭を下げながら、人工芝を見つめ、これで野球人生が終わったのかなぁとぼんやりした気持ちになっていた。
 ふと、亜美はどうしているだろうと思い、顔を上げて、フェンスの向こうを探した。でも、もうそこには亜美の姿はなかった。試合が終わっているし、時間も午後8時を過ぎている。早く帰ってしまっても不思議ではない。
 そんなものだろう。
 ロッカールームに戻ると、ベンチに入らなかった下級生たちが加わって、大人数になっていた。
 ベンチ入りしたメンバーは、汗と土と涙で汚れたユニフォームを脱いで、瞼を真っ赤にはらしたマネージャーが用意してくれた濡れタオルで身体をふいた。メンバーが全員、学生服になったところで、監督の上野が口を開く。
「きょうの試合は完敗や。そやけど、自分たちはなにも恥ずかしがらんでええ」
相手のことを、自分という関西独自の言い回し。
「わいが赴任した春には無名の高校だった海嶺が、ここまで世間に注目されたんは、3年生を中心としたたゆまない努力があったからや。それは、これからの人生に必ず大きな財産となる。それを誇りにしたらええんや。ここまで支えてくれた家族に、今夜は感謝をせなあかん。ご苦労」  部長の新田もなにかを言いたげだったが、菊地以上に男泣きをしていたので、上野の挨拶で解散になった。

5874.3/9/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

3-11
 いよいよだ。秀夫は片手を阿波野に向け、投球を制しながら、足元を固める。
 このとき、秀夫は当然ながら、阿波野の将来を知らない。阿波野は、高校卒業後、実業団野球で活躍し、プロ野球の近鉄に入団した。その後、巨人に移籍して現役を引退する。野球人の素質をもった高校一年生だったのだ。
 左ピッチャーの阿波野は、一塁方向を向いてセットポジションに入った。二塁ランナーの菊地を見る。一年生にしては、落ち着いたマウンドさばきだ。
 何を投げてくる。初球はストレートか変化球か。上野の予想通りになってくれ。
 秀夫は、肩の力を抜いて、へその下あたりに重心を感じるようにこころがける。打とう、打とうとして、力を入れると、上半身の動きが硬くなり、バットがスムーズに振り始められない。へその下から腰にかけて、どっしり構えていると、ピッチャーが思いっきり投げてきたボールを、自分のからだがバットと一体になって大きな壁のように簡単にはじき返すことができる。バットを振る力でボールを跳ね返すのではなく、動じない壁になってピッチャーの球の速さを使ってはじき返すのだ。
 阿波野が投球モーションに入った。
 かすかにボールを握る左手が見えた。指の握りは直球だ。よし。よほどのボールでない限り、叩き返してやろう。阿波野の投球モーションに合わせて、二塁ランナーの菊地がスタートを切っていた。もしも、秀夫がフライを打ってしまったら、菊地は二塁に戻ることができずにダブルプレーになってしまうかもしれない。フライだけは打たないように、秀夫はバットを上から下に打ち下ろすイメージを頭に浮かべた。
 阿波野がボールを投げた。直球だ。コースは内側。きっとストライクコースだ。高さは低め。
 内角の低めの打ち方を瞬間的に思い出し、秀夫はバットを握るグリップを素早く肩からへそ、へそから膝にかけて振り下ろす。グリップに続いて、バットの芯が出てくる。投球が、バットの芯に命中した瞬間を見届けて、秀夫は全身を使ってバットを三塁方向に振りぬいた。
 キーン。金属音をあげた打球は、低く三塁手の頭上目がけてライナーで飛んでいく。三塁手がタイミングを合わせてジャンプをする。捕られたら終わりだ。抜けてくれ。一塁方向に走りながら、秀夫の顔は打球を追う。一メートルぐらいジャンプした三塁手のグローブの上を打球はレフト前に飛んで行った。
 やったぁ。秀夫は一塁ベースにたどり着き、ガッツポーズで応援席の声援に応じた。
 ピッチャーの投球と同時に走り出していた二塁ランナーの菊地は三塁を蹴り、ホームベースに悠々到達していた。最終回に、意地の得点をした。
「ナイスバッティング。ねばるねぇ」
桜ヶ丘高校の一塁手が声をかける。
「ありがとう」
 秀夫は全身から噴き出す汗をぬぐいながら、ヒットを打った余韻と、まだ試合が続いている緊張を味わう。
 ベンチを見ると監督の上野が大きくうなずいていた。
 ふと次の打者を見たら、ベースコーチをしている竹田が審判にピンチヒッターを告げていた。四番バッターは加藤のはずだ。決して調子が悪いわけではない。その加藤に変えて、竹田を使うということは、三年生として練習を続けてきたメンバーに最後の舞台を上野が用意し始めたということだ。秀夫のヒットで意地の得点をした。上野はそれでもう満足だったのだ。

5873.3/7/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

3-10
 送りバントでワンアウトでランナーが二塁になった。
 秀夫はロジンバックを手につけて、すべりを止め、バットのグリップを握りなおして、バッターボックスに向かう。これが、高校時代最後の打席になる。手のひらに血豆をたくさん作って、日ごろからバットスイングを練習した。何度も皮がむけた。風呂に入るときにしみた。化繊やウールの服を着るときに、硬くなった手のひらの皮が引っかかった。
 疲れて学校から帰った日も、多少風邪で熱がある日も、夜に寝る前にバットを持って自宅の庭に出て100回以上の素振りをした。
 たった一球のボールをバットの芯に当ててはじき返すために、これまで費やした時間と労力の総決算が、この打席を最後に終わる。感傷的な気持ちが、こころを包み、できるだけ長く自分の打席を楽しみたいと思った。
 そのとき、桜ヶ丘ベンチが動いた。ピッチャーが交代したのだ。
 点差が開いた試合では、往々にして、エースを引っ込めて、ほかのピッチャーに登板機会を監督が与える。マウンド経験を多くのピッチャーにさせておかないと、いざというときにピンチで出したピッチャーが、逆に緊張してピンチを広げてしまうことになる。
「桜ヶ丘高校選手の交代をお知らせします」
アナウンスの声がスタジアムに広がった。
「ピッチャーは阿波野君」
 秀夫は、相手チームのデータを思い出していた。
 阿波野、たしか一年生で登録されていたやつだ。俺もこけにされたもんだぜ。
 軽く見られてしまったことに、少し腹立たしさを感じた。投球練習をしているときに、タイミングを合わせながら、素振りをした。一年とは思えない速球を投げていた。阿波野は左投手だった。
「秀夫」
ベンチ前で監督の上野が大声で秀夫を呼びながら、手招きをしている。秀夫は、あわててベンチに走った。
「お前、なめられてるんとちゃうでぇ」
「でも、一年ですよ、交代投手は」
「あほ、エースを引っ込めたやろ。引っ込めたピッチャーは二度と使えんから、この一年はリリーフとして期待されとんのや」
 なるほどと思った。
「えーか。投球練習見た限りでは、かなり、えー球を投げちょる。追い込まれたら、やつの手中や。初球からいけ」
 えーっ。できるだけ長く高校時代最後の打席を楽しみたいと思っていたのに。
「最後の打席を楽しもうなんて色心出したら、三振やで。初球が肝心や。必ず、直球でストライクを取りに来るはずや。サインはヒットエンドランやけど、出さへん。ここで口で言う。菊地も呼んで口で言う。そろそろブロックサインも読まれている頃や」
 秀夫はバッターボックスに戻りながら、初球に向けて気持ちを高めていた。ふっとネット裏を見たら、母親がカメラを構えていた。まだ投球練習は終わっていない。秀夫は、ネット裏に向かってバットを構えて静止した。母親は意味がわかったのか、必死にシャッターを押していた。何枚かの写真を撮影して、ファインダーから目を離し、指でオッケーサインを作った。母親の隣りの祖父は、静かに笑っていた。
「バッターラップ」
審判の声がした。

5872.3/6/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

3-9
 今だ。
 秀夫は、顔を上げた。すると、まさに秀夫の走る方向の3メートルぐらい上空の向こうに、打球が落ちようとしていた。秀夫がグローブをのばせば2メートル。ジャンプをすれば、3メートル先のボールをとらえられるかもしれない。
 秀夫は、いちかばちかフェンス方向に走りながら、自分を追い越して飛んで行こうとしている打球に目がけてグローブを差し出した。
 パン。乾いた音を立てて、打球は秀夫のグローブにおさまった。ジャンプから降りるはずみで、グローブからボールがはみ出さないように、秀夫は空中にいる姿勢のまま、グローブをしていない右手をグローブに当てて、ボールが出てこないようにした。地面に着地した。その勢いで、秀夫は横浜スタジアムの巨大なレフトフェンスに右肩から衝突した。はずみで、からだが跳ね返り、グランドに腰から倒れた。目の前が真っ暗になった。それでも、意識は左手のグローブとそれを押さえているはずの右手に集中していた。
 レフトの線審が近寄ってきて、グローブのなかを確認した。
「アウト」
 倒れたままの秀夫から、加藤がボールを受け取り、ショートの江藤に返球した。
「おい、頭を打っていないか」
返球した後で、加藤が声をかける。
 軽い脳震盪を起こしたようなふわふわした気分になって、秀夫は立ち上がる。
「あー」
そう言うのが精一杯だった。
 スリーアウト目はどういうかたちだったか、よく覚えていないまま、レフトのポジションで秀夫はボーっと突っ立っていた。それでも、チェンジしたことはわかり、ベンチに走って帰った。自分は真っ直ぐに走っているつもりでも、からだが言うことをきかずに、ふわふわと雲の上を飛んでいるような感覚だった。
 ベンチに戻り、マネージャーが加藤の右腕の治療をした。出血は思った以上に多く、消毒と止血の応急処置をして、包帯を巻いた。秀夫はベンチ裏に連れて行かれ、監督の上野から横になるように指示された。
 幸い、二回の裏の攻撃は得点こそ入らなかったもののかなり長い時間をかけることができた。そのうちに、秀夫の意識は鮮明に戻った。
 試合は、中盤までに桜ヶ丘がさらに追加点を加えて、9対1と点差が開いた。
 秀夫の意識は、守っているときも、攻撃しているときも、すっかり元に戻っていた。
 これだけの点差を開けられると、これから挽回するのは難しい。高校時代のほとんどを硬式野球にかけてきた日々が、きょう終了のゴングが鳴るかもしれないと覚悟をした。中学校のときから数えたら、6年間の野球人生だった。思春期の真っ只中を、ほとんどグローブとボール、バットの世界で過ごした。そのことに悔いはない。でも、許されるなら、もう一度バッターボックスで渾身の力を振り絞って、バットに快音を響かせたかった。
 最終回。幸い一番バッターの菊地からの攻撃だった。
 菊地は、ボールを選んでフォアボールで出塁した。点差の開いたゲームでは、有効な策はランナーをためて、一点ずつ得点していくことしかない。それなのに、上野は二番バッターに送りバントを命じた。送りバントは、出塁した菊地をセカンドに進めることはできるが、バントをしたバッターはアウトになってしまう。あと三つのアウトで試合は終了するのに、わざわざそのうちに一つのアウトを相手にプレゼントしてしまう考えだ。選手たちは、監督のサインを見て、目を見張った。
 でも、ネクストバッターサークルで、自分の打席を待つ秀夫は、監督のサインの意味が理解できた。負けること以上に、ここで一点でも得点することが、秀夫たちが引退した後の新しいチームに、あきらめない野球を印象付けることになるのだ。どんなに点差が開いても一点を取りに行く野球を上野がやろうとしていることがわかったのだ。

5871.3/5/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

3-8
 そのとき、秀夫は加藤のグローブをはめた腕から肘にかけて、大きくすりむけているのを見た。
「おい、治療しなくて大丈夫か」
「これぐらい、平気だよ」
それは、ただの擦り傷ではなかった。人工芝の熱で、皮膚の表面が火傷をしていたのだ。まだ、出血はしていなかったが、それでもじんわりと赤いものが剥けた皮膚に浮かび上がっていた。
 秀夫は守備位置のレフトに戻る。センターの加藤を見ると、傷が気になるのか、腕に目をやっている。左利きの加藤はグローブを右腕にはめている。レフトの秀夫からは、右腕の擦り傷から、赤い液体が大きくアンダーシャツにしみこんでいくのがわかった。
 桜ヶ丘高校と海嶺高校の試合は、その日の第四試合だった。三試合目まで熱戦が続き、試合時間が長くなり、第四試合の始まりは予定時刻よりも大幅に遅れていた。そのため、まだ試合が始まって二回だというのに、空は少しずつ薄暗くなり始めていた。
 おーっ。客席からどよめきが起こる。
 照明に光が灯り始めたのだ。野球専用のスタジアムで、ナイターの試合をするなんて、プロ野球みたいだ。
 照明は、一度に全部がつかないで、まだらに少しずつ光が広がっていく。一度につけると、なにか問題があるのだろうか。
 加藤の傷のことよりも、秀夫は照明が気になった。
「先輩、次、来ますよ」
ショートの江藤が、直接、振り返って秀夫に声をかけた。ベンチの竹田からの情報で、次のバッターは引っ張り専門で、レフトへの打球が多いことを伝えていたのだろう。照明にばかり気をとられている秀夫に気づき、江藤がサインではなく、声をかけてくれたのだ。
 秀夫は、グローブを高くあげた。
 ピッチャーの斉木は、振り返り、内野手と外野手に指を一本かかげた。ワンアウトという意味だ。
 初球のサインは、カーブ。秀夫は、斉木のカーブは、真ん中に集まる傾向があることを知っていた。打者の肩口から、真ん中に曲がる変化球は、とても打ちごろになってしまう。真ん中から外角に逃げいてくカーブならいいのだが、コントロールが定まらない斉木では、きっと真ん中にボールが落ちていくことだろう。
 秀夫は、腰をかがめ、かかとをあげて、爪先だけで立つ。いつボールが自分の方向に飛んできても、すばやく一歩目を出せる覚悟をした。  案の定、初球のカーブは打者の肩口から、真ん中に落ちていく。
 あちゃー。秀夫はこころで叫んだ。
 バッターは、思い切り、バットを振りぬいた。おそらくバットの真芯に当たったボールは、キーンという快音をあげて、レフト方向に飛んだ。
 秀夫のこれまので経験では、あの打球の音とバットの振り具合、そして、打球の角度から、自分の頭を越す当たりになるだろうと覚悟した。打球が落ちる位置を予想し、ボールを見ないでその方向に振り返って走り出した。
 センターの加藤が近づいてきて、打球と秀夫の位置を確認しながら、バック、バックと叫んだ。予想通り、打球はかなり大きな当たりらしい。加藤が近づいていたので、もしもフェンスに当たっても跳ね返った打球は加藤に任せようと思った。秀夫は一気にボールの落下点に向かう。まだ、顔はボールを見ない。
 ボールの落下位置を予想して走っているので、全然違う方向に走っているかもしれない。見上げて、ボールを探したときに、ずっと離れた位置にボールがあるかもしれない。いままでの練習や試合の経験から、予想して走っているので、その感覚を信じるしかない。

5870.3/4/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

3-7
 二回の表。桜ヶ丘高校の攻撃。海嶺高校は守備だった。
 秀夫はレフトを守っている。レフトは、三塁と二塁の間の後方で、外野フェンスの近くを守っている。レフトのことを日本語で左翼手と呼ぶ。二塁の後方で、外野の中心位置を守るのがセンターだ。センターは日本語で中堅手と呼ぶ。レフト前やセンター前のヒットは、単打と言ってヒットにはなるが、一塁止まりだ。しかし、レフトとセンターの間のヒットは左中間と呼ばれるエリアで、二塁打や三塁打になりやすい。左中間の飛球をいかに守るかがレフトとセンターの大きな役目だ。
 何度も練習をして、左中間のポジションについてはからだに叩き込んでいた。
 レフトの秀夫とセンターの加藤では、ボールを遠くまで投げる力、つまり遠投力では秀夫のほうが上回る。だから、左中間に飛球が来たときは、加藤が前進してボールにくらいつく。秀夫は加藤のバックアップに回る。左中間を大きく越えるフェンス直撃のような飛球のときは、秀夫がボールに一直線に駆けて行き、加藤は秀夫にランナーがどこを走っているのかを大きな声で教えることになっていた。秀夫はフェンスに跳ね返ったボールを捕球する前に、加藤の声を聞き、ボールを捕ったと同時に二塁か三塁にボールを条件反射のように投げる約束になっている。ボールを捕ってから、振り返り、どこに投げようかと迷っている余裕はない。ホームベースから100メートルぐらい離れたところでボールの処理をしているのだから、一秒や二秒のロスでも、ランナーは次のベースに向かって走ってしまう。それをいかに阻止するかが外野の重要な役目だ。
 攻撃のときは三塁ベースコーチをしている竹田が、守備のときはベンチからバッターの情報を守っているナインにサインで伝える。
 先頭打者は、左中間方向に打球が多い情報をサインで竹田が送ってくる。ナインがみんな竹田のサインを見ている。ショートの江藤が振り返り、加藤と秀夫にグローブを上げる。秀夫も加藤もグローブを上げて応じる。サインを了解しているという意味だ。江藤は二年生ながら内野の守りの要のショートのレギュラーだった。バッティングはまだ非力だったが、守備が堅実なので三年生を抜いて背番号6のレギュラーを張っていた。
 秀夫は加藤にアイコンタクトを送る。加藤も秀夫を見てうなずく。
 ライトの石田は気軽なもので、大きなあくびをしていた。ライトは一塁と二塁の後方を守る外野手だ。日本語で右翼手と呼ぶ。ちなみに、センターとライトの間のエリアを右中間と呼ぶ。バッティングセンスのある右打者は右中間の打球が多い。力任せの右打者は左中間方向の打球が多い。秀夫はどちらかというとセンターから右中間方向のヒットを得意としていた。
 一回に続いてエースの斉木はコントロールに苦しんでいた。
 ショートの江藤が守りながら、キャッチャーの荒井のサインを腕を後ろに回して教えてくれる。
 直球のど真ん中。あまりにも斉木のコントロールが安定しないので、荒井もやきがまわったのだろう。バッターに、打ってくださいというコースを要求している。斉木はサインに首を振ることなく、本当に直球をど真ん中に投げた。
 キーン。金属バットの音が響く。打球は二塁ベースからやや三塁寄りをバウンドをしないライナーで抜ける。
 左中間の打球だ。瞬時に、判断した秀夫と加藤は練習の通りの位置取りをした。
 加藤は、空中をミサイルのような弾道で飛んでくるボールめがけて突っ込んでいく。秀夫は回りこんで、加藤のバックアップに回る。やがて、打球は高度を下げ、地面に落ちようとした。間一髪、加藤がスライディングキャッチを試みた。グローブをはめた腕をいっぱいに伸ばして、頭から人工芝に滑り込んだ。
 ボールは、見事にそのグローブにおさまった。
 一塁側応援席がわく。秀夫は加藤の近くにかけよる。
「ナイスキャッチ」
滑り込んでキャッチをした加藤は、片膝を立てグローブからボールを取り出した。審判が腕を高く上げて「アウト」とコールをした。
 秀夫はボールを受け取り、江藤に返した。滑り込んだときに外れた加藤の野球帽を拾い、渡した。

5869.3/3/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

3-6
 横浜スタジアムは人工芝のグランドだった。しかし、バッターボックスやピッチャーのマウンドなどは土だった。それは、自然の土ではなく、人工的な土だった。
 バッターボックスで足場を固める。ひとそれぞれ歩幅に違いがあるので、バッターボックスは足の位置がへこんでいる。自分のへこみを作らないと、バットを構えたときに、両足が安定しない。
 上野のサインはフリーだった。初回とはいえ、ツーアウトでランナー二塁では有効な作戦は立てにくいのだろう。秀夫は、コーチの竹田が直球が多い指示を出していたことを念頭に置いた。きっと初球から直球で来る。そのタイミングで待って、打ちごろならば思いっきり振っていこう。
 ピッチャーはサインを見て、セットポジションに入る。セカンドランナーをチラッと見て、ホームに投球した。秀夫の予想ははずれ、初球は変化球だった。秀夫はタイミングがずれたので振らなかった。判定はストライク。名もない公立高校が相手とはいえ、さすがにクリーンナップには慎重な投球になるらしい。
「かっとばせー、ひでおー」
一塁側応援席から声援が飛ぶ。あのなかに、亜美はいるのかな。
「どこを見とるんやー」
京都出身の監督、上野が大声を張り上げる。自分のサインを見ていないことに気づいたのだろう。
 だって、どうせフリーだろ。そう思ったが、秀夫は一応、サインを見た。やはりフリーではないか。
 初球の変化球を見送ったことを、相手キャッチャーはどう思っただろうか。直球ねらいだから、変化球は見送ったとばれただろうか。だとしたら、次も変化球で来るはずだ。しかし、その裏を読めば、今度は直球かもしれない。一瞬、秀夫は迷った。
 二球目は外角に外れる直球だった。
 カウントはワンストライクワンボール。直球ねらいを探ったのだろう。
 きのうの今頃は、茅ヶ崎の海岸で砂まみれになっていたんだっけ。
 上野のサインは、またもフリーだった。ただし、今度のサインには、投球への予告が入っていた。変化球を頭に入れろ。秀夫も三球目は変化球で来ると思った。
 案の定、三球目は真ん中から外角に逃げていくカーブだった。秀夫は、読みが当たったので、どんぴしゃのタイミングでバットを振った。ボールは、一塁と二塁の間に低い弾道で転がって行った。抜けてくれ。一塁に走りながら、秀夫は祈る。二塁手が必死に追いかけ、グローブを差し出す。しかし、秀夫の打球はそのグローブのわずか数センチ先を抜けて、外野に転がって行った。
 二塁ランナーの菊地は、三塁をまわって、ホームに突っ込んだ。ライトからの返球よりも早く菊地はホームベースを踏んだ。
 3対1。一応、得点はあげた。一方的な試合にはさせない意地の打球だった。
 しかし、秀夫の後続は打ち取られ、初回の反撃は一点止まりだった。
 秀夫は、ベンチにグローブを取りに戻る。
「ナイスバッティング」
メンバーが口々に声をかける。ネットの向こうからも、よく打ったと声が飛ぶ。ベンチでグローブを手にして、レフトの守備位置に向かうとき、ネット裏を振り返った。野球部の後輩がエールを送る。ブラスバンドの部員が演奏をする。そのなかに、海嶺高校の制服を着て、数人の女子といっしょに亜美の姿を見つけた。亜美もこちらを見ていた。小さく手を上げたような気がした。秀夫も、グローブを高く上げた。

5868.3/1/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

3-5
 「打たれてもいいから、勝負にいけ」
「自信をもって、ストライクを投げろ」
フィールドのメンバーも、ベンチのメンバーも、ピッチャーの斉木に声をかける。観客席の声援が大きいので、それらの声は斉木には届いていないかもしれない。
 内野手が交代に、斉木のところに歩み寄り、目を見て声をかけている。ジェスチャーまじりに声をかける者もいる。そのたびに、斉木はうんうんとうなずく。きっと斉木自身も頭ではわかっているのだろう。しかし、慣れないマウンドで、キャッチャーのミットだけを意識するのは難しいのかもしれない。周囲の色や景色に気が散ってしまって、ボールをうまくコントロールできないのだ。
 桜ヶ丘の攻撃はとても巧みだった。慣れないマウンドで、不安がいっぱいのピッチャー斉木を、さらに困らせるかのように、ランナーが出ると送りバントをする。ピッチャー前の送りバントは、ピッチャーが自分で処理をする。投げることだけで精一杯の斉木は、目の前に転がってきたバントのゴロを捕球するために前進し腰をかがめ捕球する。体勢を入れ替えて一塁に投球する。しかし、捕球するのが精一杯で、ふんばりがきかずに人工芝に足をすべらせ、そのままドテッと尻餅をつく。一塁に投球しようとしたときには、すでにバントをした打者はベースを駆け抜けていた。味方の応援席からは大きなどよめきが起こる。そのどよめきが、一層、斉木にはプレッシャーになっていく。
 ランナーがたまる。一か八かで勝負に行くと、カキーンとクリーンヒットをお見舞いされる。得点を取られた。
 決して大きな当たりを打たれたわけではない。自分たちのミスが重なって、傷口を広げてしまったのだ。
 一回の表、何とかアウトを三つ取り、ベンチに戻ったとき、スコアボードを見ると、桜ヶ丘は3点も取っていた。ベンチの前で円陣を組む。
「失敗をしても気にするな。慣れない人工芝でミスはつきものだ。いままでやってきた自分たちの野球をすればいい。かっこいい、野球をしようとするな」
監督の上野が、めずらしくやや抽象的な指示を出す。
 はい。メンバーが返事をして、一回の裏の海嶺高校の攻撃に入った。
 トップバッターはキャプテンの菊地。審判に目礼をして、バッターボックスに入った。二番バッターはベンチとホームベースの間に丸く書かれたレクストバッターサークルで、ピッチャーのクセを盗む。三番バッターのセンター加藤は、ベンチの端で、ヘルメットをかぶって気持ちを集中させていた。
 四番バッターの秀夫は、ピッチャーとの間合いをこころのなかで数えていた。ピッチャーが投げたとき、いち・にの・さんで打てるのか、いち・にーの・さんで打てるのか。投手のクセを盗まないと、バットが振り遅れたり、早く振りすぎたりしてしまうからだ。
 初回のピッチャーの練習球は8球だ。それを投げ終え、審判の腕が上がる。
「プレーボール」
三塁ベースコーチの竹田が、両手の指を最初6本立てた。次に2本立てた。これは、8球の投球練習のうち、6球が直球で2球が変化球だったというサインだ。全体的には直球主体の投手らしい。決め球として、変化球を使うのかもしれない。いずれにせよ、初球から変化球を使ってくる可能性は、とても低いピッチャーだ。直球が得意なバッターは、初球からガンガンねらっていったほうがいい。竹田の6本と2本のサインから、ベンチの打者は、自分なりのバッティングプランを作っていく。
 相手ピッチャーも初回は緊張したのか、菊地をフォアボールで出した。監督の上野は二番に送りバントをさせた。
 緊張していたと思えたピッチャーは、送りバントの処理を正確にこなし、菊地を二塁に送ったものの、一塁はアウトにした。
 ワンアウト、ランナー二塁。バッターは三番の加藤。しかし、加藤は変化球に惑わされ、空振りの三振だった。
 ツーアウト、ランナー二塁。秀夫がバッターボックスに入った。ちらっと、ネット裏を見たら、母親がカメラを構えていた。「写すまで動くな」とこころで叫んでいるのが聴こえた。

5867.2/28/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

3-4
 新人歌手の松田聖子の曲を海嶺高校のブラスバンドは演奏している。この日のためにブラスバンド用のアレンジをしたのかもしれない。
 対する桜ヶ丘高校のブラスバンドは、高校野球では伝統的な応援曲目を演奏している。歴史が古い桜ヶ丘高校は、運動部の応援をすることに慣れていると感じた。
 横浜の高校と茅ヶ崎の高校では、なんだか同じ神奈川県の公立高校でも、都会と田舎の違いを痛感した。  それは、桜ヶ丘高校メンバーのスパイクを見たときにも感じた。全員のスパイクが、人工芝用だったのだ。裏に鉄の刃がついているのではなく、プラスティックで円筒状のピンがいくつもついていた。こういうグランドでの試合に慣れている証拠だ。きっと、野球場によってスパイクを使い分けているのだろうと思った。
 試合前の円陣をベンチ前で行う。
「慣れていない人工芝だ。いつも以上に腰を低くして、からだ全体でボールを捕りにいけ。バッターはサインを見落とさずに、フリーのときは遠慮しないで思いっきり振るように。大量得点は見込めない相手だから、チャンスが訪れたときは確実にランナーを進めるバッティングをこころがけよう」
監督の上野が指示を出す。
 去年まで監督だった部長の新田なら、東北訛りの言葉で「ずぶんをすんずろ」とだけ言い放ったことだろう。ズボンをどうするというのか。最初の頃はわからなかった指示だが、試合のたびに聞いていると、自分を信じろと言っているのがわかるようになった。抽象的な言葉のなかに、選手に試合を任せる覚悟を感じた。しかし、大学で専門的なコーチ学を研究してきた上野からは、具体的な指示が多かった。
 主審と塁審の4人がホームベース上に並び、「集合」の合図がかかった。
 湘南の意地と言ったらおおげさだけど、横浜の実力校にどこまで胸を借りることができるか、当たってくじけろという覚悟で、秀夫はホームベース上で相手ナインと向かい合う。後攻の海嶺メンバーはグローブを持っている。先攻は桜ヶ丘だ。
 西日が差し込んでいた横浜スタジアムの空は、いつのまにか低い雨雲が広がっていった。曇り空にボールが上がると、雲の色とボールの色が重なり、外野手には見えにくい。これはまずいことになると思った。
 一回の表、アンツーカーのマウンドに慣れていない海嶺高校エースの斉木はボールを連発した。
 野球は9人で行う。だから、メンバーのことをナインと総称する。実際には、試合に出ている9人のほかにも監督や部長、スコアラーやマネージャー、控え選手がいるので、だいたい20人ぐらいが試合にかかわる。しかし、フィールドでバットやグローブをもって実際に試合をするのは、あくまでも9人のメンバーだ。監督が試合中は選手に指示を出してはいけないとルールに明記してあるラグビーと違い、野球は監督の指示が選手に直接伝わる管理的なスポーツだ。だから、試合の責任の多くを監督が負う。監督の指示通りに選手がプレーをしたら、どのチームもとても強いチームになることができる。そんな超人的なメンバーが9人もそろうことは少ない。そこに、人間味がある。
 ピッチャーはバッターに向かってボールを投げるポジションだ。キャッチャーはそのボールを捕球するポジションで、ホームベースを守る。ピッチャーとキャッチャーを除くと、内野手はファースト、セカンド、ショート、サードの4人がいる。外野手はレフト、センター、ライナーの3人がいる。どのポジションにも特性があり、グローブもポジションによって、作りが異なる。ピッチャーとキャッチャー以外は、いつ自分のところのボールが飛んできてもいいように、ピッチャーがボールを投げるたびにかかとをあげて重心を低くして素早い一歩目が出せるように準備する。ピッチャーは一試合に100球以上投げるので、かかとを上げてはスタート切る動きを一試合に同じだけする。試合の後半ではふくらはぎがパンパンになってしまう。
 とくに、ボールをピッチャーが連発すると、打球へのスタート準備の動作を何度も繰り返さなければいけないので、守っているだけで疲れてしまう。
 初回から、メンバーに疲れを導入した斉木は、それでもストライクが決まらずに、ファーボールからランナーをためてしまった。

5866.2/27/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

3-3
 試合前のノック、つまり守備練習は5分間と決められていた。
 いつもはたっぷり1時間はノックの時間があるので、たった5分でノックをするには、最初から全開でボール回しをしなければならない。それは、相手チームも同じことだから、秀夫は球場の広さを身体で覚えようとした。高校の校庭は、野球場に比べれば狭い。バッターが打ったボールがファウルの場合は、ついつい追いかけるのをやめてしまう。しかし、野球場のファウルグランドはとても広いので、追いかければ追いついてアウトにすることができるかもしれない。
 監督の上野も、そのことを念頭に、外野への打球は、およそ野手が追いつかないようなボールを連発していた。そのため、ろくに追いつけそうもない当たりを秀夫たちは右に左に追いかける羽目になった。何も、そこまでと思ったのは、ホームランまで打ったことだ。ノックで外野スタンドに打ち込んでどうするんだと内心では思った。
 しかし、レフトを守っていた秀夫は、その打球を追いかけながら、外野のフェンスの高さに驚いた。軽く三階建てのビルぐらいの壁がそびえているではないか。もしも、大きなフライを打たれたときに、あまりバックで追いかけすぎてフェンス近くまで来ると、フェンスで跳ね返ったボールを取り損ねる危険性を感じた。明らかに頭を越えるような打球のときは、あまり深追いせずに、跳ね返るボールを素早く捕球しようと思った。
 三試合目まで、白熱した試合が続き、四試合目の秀夫たちの試合のときには、時計が6時近くになっていた。まだ西日が差してはいたが、試合の途中で真っ暗になり、照明に明かりが灯るかもしれない。これまで夜間設備のある球場を使ったことがない海嶺高校野球部では、ナイターの試合など慣れているはずがなかった。
 そのときは、そのときさ。どうにかなるだろ。
 つねに、前向きに考えておかないと、これから始まる試合に気合で負けてしまう。
 スタンドでは恒例の応援団どうしによるエール交換が行われている。
 海嶺高校には専属の応援団はない。ベンチに入れなかった下級生野球部員が中心になって、応援団が編成されていた。いつも秀夫の早朝練習につきあう小坂の姿もあった。もちろんチアリーダーも専属はない。なぜか、女子運動部から有志が臨時のチアガールを担当していた。いつの間に練習したのだろうと思うほど、統制の取れた動きをしている。
 海嶺高校、桜ヶ丘高校、互いのブラスバンド部が校歌を演奏する。試合が終わったときには、勝ったチームしか校歌を演奏することはできない。校歌の演奏、エール交換が終わる。それぞれのスタンドは大きく盛り上がり、流行の曲を演奏し始めた。耳をつんざく大音響がスタジアムにこだまする。この音響のなかでは、近くのメンバーに声をかけても、聴こえないだろう。ジェスチャーで意思を伝達することが重要だと秀夫は思った。
 フィールドにいると、意外とスタンドの顔がよくわかった。
 一塁側ベンチが海嶺高校だった。その上の内野スタンドに、高校から応援に来た生徒や、地域のひとたちがかたまっている。
 ホームベースの後ろのバックネット裏は、一番値段が高い席だ。さすがに高校野球の地方予選では、その席に陣取る客は少ない。だから、まばらに座る客の顔が、よけいにはっきり目立つ。
 秀夫は、そのなかに、母親と祖父が並んで座っているのを見つけた。母親の父である祖父は品川から、わざわざ応援に来てくれたのだ。プロ野球をこよなく愛し、母がこどものときは、よく後楽園球場に巨人の試合を観戦しに連れて行ってくれたと話していた。秀夫を含め、多くの孫がいたが、そのなかで高校で野球をやっていたのは秀夫だけだった。秦野球場にも、八部球場にも、祖父は応援に来てくれた。スーツにネクタイという正装で、背中をしゃんと伸ばし、まるで何かの儀式を見るかのような眼差しをしていた。
 母親はこの大会のために数ヶ月前から写真教室に通い、一眼レフの高額のカメラを手にして、シャッターチャンスをねらっていた。秦野球場でバッターボックスに入っていたとき「いま、写すから、動くなぁ」と大声で叫び、近くの客を笑わせていた。

5865.2/26/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

3-2
「うぉー」
思わず、秀夫は声を上げた。
 二回戦の秦野球場も、三回戦の八部球場も、どちらも市営球場だった。野球専用の球場とはいえ、プロ野球の球場とは格が違う。
 この横浜スタジアムは、れっきとしたプロ野球のレギュラーシーズンのゲームが行われる野球場だ。野球を仕事にしているひとたちの職場なのだ。
 さっきのロッカーも、このベンチも、秀夫たちがこれまで経験してきた試合会場とはまるっきり違う輝きをもっていた。生涯に一度かもしれないけど、こういうとろこで野球ができる幸せを感じ、同時に、身が引き締まり、鳥肌が立った。
 ベンチの端には、飲み物のタンクがあった。
 よく見ると、ボタンを押すと、小さな蛇口から飲み物が出る仕組みだった。
「これって、どこに金を入れるのかな」
秀夫はタンクの周辺を探したが、コインの投入口は見つからない。
「もしかして、ただで飲めるのかもよ」
菊地が目を輝かせる。
「そりゃそうだよな。プロ野球の選手が試合中ののどがかわいたときに、財布から金を出している光景なんて見たことないもんな」
秀夫は、タンクのボタンを確かめる。コーラ、ファンタ、麦茶、ポカリスエットのボタンがあった。タンクのよこに紙コップがたくさん重ねてあったので、そこから一つを取って、小さな蛇口の下に置く。試しに端のコーラのボタンを押す。蛇口からこげ茶色のコーラが紙コップに注がれた。炭酸がはじけて泡ができた。
「うわー、本物のコーラだぜ。しかもただだぞー」
大声を出したものだから、ベンチ入りしていたメンバーがみんな気づいた。監督と部長はグランドで審判から試合の説明を聞いていて、ベンチにはいなかった。
 相手チームの桜ヶ丘高校は、ベンチ前で軽いキャッチボールを始めていた。
 海嶺高校のメンバーは、次々と飲み物タンクに列を作り、自分の好きな飲み物を紙コップの縁ぎりぎりまで注いで飲んでいた。秀夫も、コーラに続いてポカリスエットを飲んだ。すでに免疫はできていたが、やはりおいしいとは思えなかった。
「あー、ション便がしたくなってきた」
ひとりで何杯も飲んだ者がいて、ベンチ裏のトイレに駆け出していった。
「お前ら、もういい加減にしろ。うちもキャッチボールをするぞ」
さすがに、これはまずいと思ったのか、主将の菊地がメンバーに声をかける。秀夫はややおなかをタポタポさせながら、人工芝といういままで踏んだことのない地面にスパイクの歯を立てた。
 海嶺高校のように、実績も経験もない高校は、野球の試合といっても、高校の校庭を使うことが多かった。内野も外野も関係なく土の地面だ。そういう場合は、スパイクの歯が鉄で地面に食い込むのは便利だった。グリッドがきいて、走り出すときに勢いをつけることができた。秦野球場や八部球場は、外野が天然芝だった。芝生で野球をした経験などなかったので、スパイクの歯に芝の根がからまって、走りにくかった。
 それに比べて、横浜スタジアムの人工芝は、明らかにゴムだった。ゴムを細く切り、緑色に塗って、敷き詰めた感じだった。機械的に敷き詰められているので、スパイクの歯が芝をとらえるよりも、芝目にはまってつるんと滑りそうな感じがした。

5864.2/25/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

3-1
 横浜スタジアム。一塁側ロッカールームから、海嶺高校メンバーが一塁側ベンチに向かう。
 通路を歩くスパイクの足音が響く。コンクリートの通路に、鉄の歯がついたスパイクの乾いた金属音が反響する。
 秀夫の後ろを、ベースコーチの竹田が歩く。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない。赤信号、みんなで渡れば怖くない」
ぶつぶつ繰り返している。
「なんだ、そりゃ」
秀夫が振り返って尋ねる。ハッとした顔で竹田が反復するのをやめた。
「ツービートっていうお笑いコンビがブレイクしていて、そのひとりのビートたけしっていうのが、おもしろいギャグを言うんだよ。その一つ」
秀夫は、ほとんどテレビを見ない。だから、ツービートを知らない。
「ギャグはわかるけど、それといまの状況となにか関係あるわけ」
「気持ちを落ち着けようと思ってさ。ほら、監督だってウォークマンをしているだろ」
メンバーの先頭を歩く監督の上野は、ヘッドフォン式のウォークマンをしながら、ベンチに入ろうとしている。
「どんな曲を聴いているんだろ。演歌かな、ロックかな」
竹田は、ウォークマンを持っていない。でも、裕福な家庭のことだから、近いうちに手に入れることだろう。竹田は鎌倉に住んでいた。同じ鎌倉に住んでいても大船に住んでいる秀夫と違い、鎌倉駅まで行く竹田は生粋の鎌倉人だ。茅ヶ崎から東海道線で帰るとき、藤沢で菊地は降りる。そこから先は、いつも秀夫と竹田はいっしょに帰った。
 中学で野球経験のなかった竹田は、高校で初めて野球部に入った。運動センスは悪いほうではなかったが、試合経験が少ないため、なかなかレギュラーにはなれなかった。その代わり、野球部のなかでだれにも負けない持久力の持ち主だった。ランニングをさせれば、いつも先頭を涼しい顔をして走った。中学では陸上部に所属していたのが影響しているのかもしれない。全校のマラソン大会でも、3年間優勝した。陸上部が冬に高校駅伝の選手が足りなくて、いつも竹田を借りて出場していたほどだ。
 しかし、持久力だけでは、野球はできない。ボールを遠くへ正確に速く投げること。ボールを遠くに速く打ち返すこと。グローブでゴロもライナーもフライも捕球すること。最低、この3つができないと試合では味方を不利にしてしまう。どれも、竹田はそこそこの実力を備えていたが、ほかのメンバーがもっと力があったので、上野は竹田をベースコーチに抜擢していた。
 ベースコーチは監督のサインをバッターやランナーに伝える。また、相手の弱点を探ったり、アウトカウントを確認したりする。プレーには参加できないが、重要なポジションだ。バッターやランナーが監督のサインを見落としたとき、コーチを見ると、同じサインを出してくれる。だから、コーチがサインを見落とすわけにはいかない。神経が張り詰める仕事だ。そういう意味で、緊張を高めていたのかもしれない。解消策は、ビートたけしだったのだ。
 コンクリートの通路の向こうにベンチにつながる出口があった。暗い通路の先の出口から、光が差し込んでいた。監督の上野を先頭に、メンバーがその出口からベンチに入っていった。秀夫も、その光の出口をくぐった。グランドよりも30センチぐらい低いコンクリートの地面があり、そこにプラスティックのベンチが並ぶ。公園のベンチではない。野球専用のベンチだ。

5863.2/24/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

2-10
 亜美は秀夫からシャトルを受け取ったのに、まだ体育館に入って行こうとしない。
 先に、秀夫が自分に背中を向けてくれるのを待っているようだ。前にもこんな場面があったよなぁ。秀夫は少し前のことを思い出した。いつも、こいつはこうなんだ。思わせぶりな態度を取るくせに、ひとが踏み込むことは拒んでしまう。高校時代、たまの休日に亜美を映画や喫茶店に誘って、何度も待ちぼうけをくって、何度も寂しい思いをした。
「あした、行くね」
そう言うと、初めて亜美は顔を上げた。バトミントンの練習で全身が火照っているのか、秀夫と話していて恥ずかしくなっているのか、頬が紅かった。
「ありがとう」
でも、期待しないで待ってるよ。
「お前、このシャトル、それを言うために、わざと投げたんだろ」
亜美は、えくぼを作ると、体育館のなかに戻って行った。
 秀夫は、小坂と菊地が飯を食べているところに戻った。
「彼女、何だって」
菊地が興味ありげに聞く。
「あしたの試合に応援に来るって」
箸を持ちながら、秀夫がぶっきらぼうに応じる。
「よかったですねぇ」
小坂が自分のことのように喜ぶ。
「でも、信用してねぇよ」
「どうしてですか」
菊地が小坂を小突く。
「こいつ、そうやっていままで何度もあの子に振られてきたの。映画のチケットを二枚買って、一枚を渡した。受け取るってことは行くってことだろう。いっしょに行くつもりがないなら、受け取らなきゃいいじゃん。映画館の前でずっと待っても彼女は来なかった。秀夫は彼女を、映画一本分も待っていたんだぜ。深い片思いだろう」
秀夫は、黙々と飯を食う。
 ずっと待って、それでも来なくて、あきらめて帰った日のことが思い出される。次の日に学校で会ったら、ぶん殴ってやろうか、問い詰めてやろうか、胸倉をつかんでやろうかと想像だけは勇ましかった。でも、実際には翌日も、その次の日も、秀夫は亜美に声をかけることすらしなかった。反対に、亜美からもごめんの一言もなかった。
 菊地には何でも話せた。そのたびに、もうあきらめろ、忘れちゃえ、ひでぁやつだなぁと慰められた。自分のなかのイライラやモヤモヤは、自分だけでこらえていたら、耐え切れなかったかもしれない。でも、菊地に話をすることで、ほかのことが考えられるようになっていた。きっと、小坂にこれまでのことを秀夫に聴こえるように話すのも、あしたの試合に亜美が来るなんて期待をするなよと、言外に教えてくれているのかもしれない。  弁当を食べ終えた秀夫は片付けて、立ち上がる。
「あいつが来ても来なくても、俺は俺の野球をするだけだよ」
「そうこなくっちゃ」
菊地が、秀夫の尻をポンと叩いた。

5862.2/21/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

2-9
 どいつもこいつも、ひとの恋路を邪魔するな。うるさい、うるさい。こころで叫びながら、秀夫は飯を口にかきこんだ。さっきのポカリスエットの人工的な甘さが口の中に残っていて、それとご飯が混ざり、菓子を食べているようだった。
 そこに、またシャトルが飛んできた。
 コートの中に打たなきゃいかんのだろ、バトミントンは。なんで、こんなところまでホームランを連発するんだ。今度のシャトルは、菊地の近くに飛んできたので、秀夫は知らん振りをした。もっとも、さっき亜美はここで秀夫が弁当を食べていることに気づいたから、もう取りには来ないだろう。
「秀夫、お前が拾ってあげろよ」
菊地が体育館の扉を見上げて言う。
「お前のほうが近いじゃん」
「いいから、ほら」
菊地は、自分で拾ったシャトルを秀夫に渡した。バトミントン部員はだれもシャトルを取りに来ない。
 もらっちまうぞ。
「上に持ってけよ」
菊地が顎を体育館の扉方向に向ける。
 なんで、そこまでしなきゃなんねぇんだ。そう思いながら、菊地が顎をしゃくった方向を見た。体育館の扉を少し出たところに、亜美が立っていた。
 少し大きめの白いシャツは汗で下着が見え隠れしていた。秀夫は頭がくらくらしそうになる。大きな瞳で、秀夫を見つめている。さっきは取りに来たのに、今回は取りに来ない。いつも何を考えているかわからないやつだけど、きょうも変なやつだよ。まったく。
 秀夫は、シャトルを持って、階段を上った。亜美の前に立つ。身長差は20センチぐらいあるだろうか。もともと小柄な亜美は、髪を首よりも上でカットして、細い首が目立つ。
「はい」
秀夫は、シャトルを亜美に渡して、引き返そうとした。
「あした」
小さいけど、はっきりした声がした。振り向くと、亜美がうつむきながら、言葉を選んでいる。
「試合だよね」
秀夫のこころにたくさんのバラやコスモスが咲き乱れる。
「うん」
少年のように軽やかな返事をした。瞳の片隅に、菊地と小坂が息を凝らして聞き耳を立てている姿が映る。
「どこでやるの」
「横浜スタジアム」
「すごーい」
というわりには、まだ亜美はうつむいていて、秀夫を見ない。さっきは見つめていたくせに、射程距離に入ったら、目を合わせない。

5861.2/20/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

2-8
「どれぐらい入れればいいのかわからなかったので、コップの半分ぐらい粉末を入れて水で薄めてみました」
小坂が、部室から紙コップを持ってきてポカリスエットと水を混ぜた液体を運んできた。
「どんな味だった」
「いや、まだ口をつけていません。菊地さんからどうぞ」
「俺かぁ。しゃぁねえなぁ」
菊地はコップの縁に口をつけ、一口液体を飲んだ。
「何だか、甘いなぁ。これじゃ、かえって喉が渇くんじゃないか」
「どれどれ」
秀夫も少し飲んでみた。確かに、砂糖水のように甘かった。
「これって、粉が多すぎたんじゃないのか」
 1980年。大塚製薬のポカリスエットは94億円を売り上げる大ヒット商品になった。
 残りはお前が飲めと、紙コップを小坂に押し付け、菊地と秀夫は弁当の続きを食べた。
 そこに、体育館のなかから、バトミントンのシャトルが飛んできた。だれかが大きく打ったのだろう。扉から外に出てしまったのだ。風や光の影響を受けないようにいつもは暗幕を閉めて扉も閉じて練習しているのだが、さすがに夏の練習では扉ぐらいは開けている。
 秀夫は、シャトルを拾い上げた。体育館のなかからバトミントン部の部員が拾いに出てきた。
「すみません」
その声に聞き覚えがあった。シャトルを持って、見上げると、そこには亜美がいた。
「あ」
お互いに、声にはならない声を同時にあげる。
 秀夫は、シャトルを持ち上げ、亜美に差し出した。首筋に汗が光る亜美は、秀夫からシャトルを受け取るのを一瞬ためらう。しかし、小さく手のひらを差し出したので、その真ん中に秀夫はシャトルを落とした。
「ありがとう」
それだけ言うと、小走りに亜美は体育館に戻って行った。
 それだけかよ。秀夫のこころに細波が立つ。もう少し、なんかあってもいいだろう。淡い期待だった。
 秀夫と亜美のやりとりを静かに見ていた菊地はにやにや笑っている。
「お前、相変わらず、振られっぱなしか」
「うるさい」
秀夫は、入学以来、亜美に思いを寄せ、何度かデートに誘っても、いつも断られていることを菊地は知っている。
「戸崎さんは、野球やってるときと、亜美さんを前にしたときでは、全然顔つきが違うんですよね」
小坂も菊地の乗りにつきあう。

5860.2/18/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

2-7
「こんなもん売ってたんですけど、知ってますか」
小坂がパンが入っている紙袋から、青いビニールのような中身の見えない袋を取り出した。
「なんだ、それ」
菊地が手にとって調べる。
「ポカリスエットって書いてあるぞ」
「知らねぇなぁ」
「けっこう、コマーシャルでやってんですけど」
秀夫はほとんどテレビを見ない生活をしているので、当然、流行のコマーシャルなど知らない。
「開けてみるぞ」
菊地が封を切る。
「塩みたいのが入ってるぞ。これ、どうすんだ」
「店に置いてあったからとりあえず買ったんですけど、さぁどうすんでしょう。飲み物だと思うんですけど、これじゃ粉ですよね」
小坂もよくは知らないらしい。
「ちょっと、なめてみっか」
秀夫は袋から一つまみを出して、口に含んだ。それは、いままでに感じたことのない味だった。はっきりしているような、はっきりしていないような、甘いような、しょっぱいような。
「なんだ、これ」
「なぁんだ、水で薄めるんだとよ」
袋の裏書を読んでいた菊地が教える。
「早く、言えよ」ぺっぺっと、口に入れた粉を吐き出す。
「スポーツ飲料って、何だよ」
青い袋に書いてある。
「そんなジャンルの飲み物って聞いたこと、ないぞ」
「スポーツをしていて喉が渇いたら水だろ。じゃぁ、これって水の粉末か」
菊地がとぼける。
「いや、水は水なので粉末にはならないと思うんですけど」
小坂が恐縮して意見をする。
「とりあえず、何かのコップを探して薄めてきてよ」
秀夫が小坂に頼む。コーラやペプシ、ファンタやジンジャーエールは炭酸飲料だ。果物の汁はジュースだ。紅茶や麦茶は茶だ。どれもスポーツ飲料なんて呼ばない。秀夫は、自分の水筒から麦茶を注ぐ。秀夫はいつも前の夜に煮出しておいた麦茶を冷蔵庫で冷やし水筒に入れてくる。紅茶のパックのような麦茶も最近は販売されているようだが、秀夫の家ではまだ登場していなかった。

5859.2/17/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

2-6
 部室は体育館の一階にあった。
 体育館は二階がバレーボール、バスケットボール、バトミントンなどができる広いスペースで、一階は格技場、部室、駐車場になっていた。校舎から直接二階に通じる渡り廊下があった。一階から二階に上がるコンクリートの階段もあった。二階は周囲をぐるっと幅2メートルぐらいの通路でおおわれていた。バレーやバスケットのボールが扉から飛び出しても直接一階に落ちないように通路は1メートルぐらいの壁があった。
 野球部のメンバーは、各自が持ってきた弁当を食う。部室で食う者もいたが、汗臭い部室で飯を食うのは秀夫は嫌いだった。主将の菊地と後輩の小坂と三人で体育館の二階につながるコンクリートの階段に腰掛ける。階段は幅が5メートルぐらいある広いものだった。三人が腰掛けても、ひとの通り抜けには問題にならない。
 秀夫の弁当箱は、工事現場で働くひとたちの間で流行していた三段重ねのポット形式のものだった。ご飯、汁物、おかずが入る容器が、それぞれあり、それらをさらに包み込む大きなポットのような入れ物に入れていた。だから、飯も汁物もあたたかい。それにさらに握り飯が2つ。
「ほら」
秀夫は握り飯を菊地に渡す。
「いつもわりいな。お母さんにはよろしく言ってくれよ」
主将の菊地はいつも恐縮して受け取る。
「一つ作るのも、二つ作るのもいっしょだって、いつも言ってるから気にするなよ」
 菊地は早くに両親が離婚して、妹と菊地、母親の三人暮らしだった。母親は仕事が忙しく、菊地の弁当を作る時間的なゆとりはなかった。菊地はいつも前夜の夕食の残りをおかずとして持ってきていた。秀夫の母親はいつも菊地に飯かパンの主食を用意した。一年のときから、ずっと繰り返されてきていることだった。
 菊地と秀夫はプライベートでも同じ時間を過ごすことが多かった。秀夫の家に泊まりにきて、家族たちといっしょに飯を食い、風呂に入り、試験前勉強をしたこともあった。
 コンビニはまだ社会に登場していない時代だ。
 グランドの近くにパン屋があり、小坂はいつもそこで調理パンを買ってくる。焼きそばやコロッケがはさまった調理パンを5個買ってきて牛乳を飲んでいた。
 菊地が女子バレーボール部の主将と付き合うようになってから、秀夫とのプライベートな時間は減った。しかし、飯を彼女に頼むことは気が引けたのだろう。秀夫の母親からの飯やパンをいつも頼りにしていた。
「きょうは、カツサンドを買ってきました。おふたりの分もあるのでどうぞ」
パン屋から戻ってきた小坂が、紙袋の中から、カツサンドを取り出し、ふたりに渡す。
「気がきくじゃん。いくらだ」
秀夫はバックのなかから財布を出す。
「いや、いいんです。きょうはお袋が先輩たちにおごれとこづかいを持たせてくれたので。あしたの試合に、勝つことを願ってのお袋からのプレゼントです」
菊地もポケットから財布を出す。
「おふくろさんに礼を言ってくれな。でももらうわけにはいかないよ。そういう流儀を上下関係で作らないのが、海嶺のいいとこなんだから。ほら」
金を渡す。秀夫も続いて渡した。
「これで、俺たちからといって、おふくろさんになにか買って渡してくれよ」
 海嶺高校の体育館からは正面に富士山が大きく見えた。空は青く澄み渡っていたが、富士山の頂上には、綿のような雲が小さくかかる。あしたは雨かもしれない。

5858.2/16/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

2-5
 秀夫たちがアメリカンと呼んでいた練習だ。
 なぜ、アメリカンなのかはわからない。
 波打ち際で、波が引いていくのに合わせて、自分が海に入り込む。再び、波が寄せてくるぎりぎりのところまで行って枝を濡れた砂浜に刺して戻ってくる。寄せる波で枝が倒れてはいけない。ひとりひとり交代で行い、いかに奥まで枝を刺して来れるかを2つのチームに分かれて行う。負けると、その後の練習量に差がつく。すでに海岸には海の家ができ、平日だったが遊泳客も来ていた。野球のユニフォーム姿の高校球児が、わいわい言いながら波に果敢に突入していく姿を好奇のまなざしで見つめていた。
 昼飯時とあって、海の家では遊泳客にラーメンやおでんを提供している。その匂いが練習をしている秀夫たちの鼻に届く。
「たまんねぇなぁ。この出汁のにおい」
「これって、新発売のやつだよな」
「そうそう、東洋水産の赤いきつねの次のバージョンで、緑のたぬきっていうんだって」
「もう、食べたか」
「まだ出たてだから、買ってないよ」
 選手たちは口々にカップ麺の話題で盛り上がる。
「お前たち、あしたは試合があるっていう緊張感がないんだよな」
主将の菊地があきれる。しかし、そんなことを言う菊地の腹から、グーっと音が聞こえた。
「お前だって、からだの声には逆らえないだろ」
「そろそろ、帰って、飯にしようぜ」
 ユニフォームもスパイクも砂まみれになった。汗がつく腕や首筋には、べっとり砂がこびりついている。潮の香が全身を包んだ。
 スパイクから運動靴に履き替える。その姿を見ながら、秀夫は思う。
 みんな、いつもと同じようにこうしているけど、もしかしたらこれがここでこういうことをする最後になるかもしれないんだな。
 俺たちに明日はない。昔、そんな映画があった気がする。ロバート・レッドフォードだったっけな。
 海岸から学校までの帰り道も隊列を組んでのランニングだった。額から汗が目に流れる。
 夏の高校野球神奈川県大会で連勝し、ラッキーも重なって準々決勝まで進んだ海嶺の文字が入ったユニフォームを着て、メンバーが茅ヶ崎の町を走る。
 花屋の店先で水をまく親父が「がんばれ」と応援する。
 ほかの高校の運動部がランニングをしてすれ違うと、こちらを目線で追う。
 自分たちが注目を集めている。自分たちに注目が集まっている。その実感は、決して悪いものではなかった。
 ここまでの3年間で、秀夫たちと同じ代のメンバーは半分ぐらいが野球部を辞めた。多くは自分がレギュラーとして通用しないことが理由だった。補欠ではやっていても意味がないと思ったのだろう。どんなチームスポーツも人数に制限がある。だから、レギュラーと補欠は必ず存在する。できるなら、試合に出たいと思うのが自然な気持ちだ。でも、出られないなら、その運動を辞めるという気持ちは、秀夫にはあまり理解できなかった。人生はそんなにいつも自分の思い通りになることばかりではない。うまくいかないこともあるだろう。でも、自分が満足するほど練習を通して、その運動に没頭できれば、試合に出るとか出ないとか、出てから結果を残すとか残さないとか、大きな問題ではないと思った。

5857.2/14/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

2-4
 秀夫は、ともかくバットにボールを当てることに専念した。
 想像以上にボールは曲がり、ホームベースでバウンドしそうなほど落ちてきた。しかし、もうバットを振り始めている秀夫には、時間を巻き戻すことはできない。秀夫はとっさに膝を折り、低めのボールを打つ姿勢をとった。そして、落ち際をたたいた。
 打球は、バットから発射されたミサイルのようにパッチャーの横をライナーで抜けていく。二塁手の頭上も破った。一塁に向けて走りながら、秀夫はガッツポーズを作る。センターが打球に追いつき、ホームにボールを返球する。二塁ランナーが三塁をまわりホームに突入していた。キャッチャーがボールを取り、ランナーにタッチをしにいく。間一髪で、セーフ。得点が入った。
 秀夫は一塁をまわったところで、ボールがホームに投げられたのを確認して、二塁に向かって走った。ホームでの交錯プレーになっている間に、次の塁に進むのは、ランナーのセオリーだからだ。二塁には滑り込まないで到達できた。得点が入り、さらにランナーを二塁に残した。チャンスが継続する。攻撃側としては合格点の結果になった。動揺したピッチャーの横顔が見える。喚起でスタンドがわく。たったひとつのプレーで明暗が分かれ、劇的にゲームが進行していく。野球をやっていて楽しいと感じる瞬間だ。負けていた海嶺高校が、自分のバッティングで一瞬にして同点に追いついたのだ。
 4番バッターの加藤が左バッターボックスに入る。秀夫と加藤は、互いに海嶺高校の3番と4番として打線の中軸を担ってきた。3番バッターには、大きな当たりではなく確実なヒットが求められる。4番バッターには三振になってもいいから、大きなあたりが求められる。加藤は確実にヒットを打つタイプではなかったが、二塁打や三塁打などの長打を打つ能力があった。夏の大会前の練習試合から調子を上げてきている。しかし、前の試合の荏原高校との試合では快音は聞かれず、この試合でもそれまでヒットはなかった。
 秀夫はセカンドベース上で監督のサインを見る。ランナーへのサインは盗塁やバントなど、バッターよりも少ないがいくつかはある。バッターが4番の加藤なので、細かいサインを監督の上野は出さなかった。好球を打たせることが必要だからだ。初球のサインはフリー。ランナーもノーサイン。秀夫は、ここで無理をして三塁に盗塁してアウトになるよりも、自分がホームを踏んで逆転することが大事だと思っていた。ピッチャーの肩越しに、キャッチャーのサインが見える。キャッチャーミットがバッター寄りに構えられているのか、バッターから遠いところに構えられているのかを確認し、バッターにサインを出す。加藤は打席で、ピッチャーの向こうで秀夫が出すサインを見ながら、コースを頭に入れる。
 初球のストレートが左バッターの加藤のからだに近いところに投げ込まれた。加藤の好きなコースだ。案の定、加藤は迷うことなくバットを出した。秀夫は打球が当たった瞬間に、これはライト前のヒットになると判断した。すぐにスタートを切り、三塁ベースに進む。三塁ベースの外側にあるコーチャーズボックスで、コーチがグルグル腕を回している。そのまま三塁を通り越してホームに突入しろというサインだ。きっと、加藤の打球はライト方向へのヒットになったのだろう。スタンドがわいている。秀夫は、ホームに向かう。外野から返球が来れば、キャッチャーとの交錯プレーになる。防具をつけているキャッチャーとまともに衝突すれば、こちらのからだが痛む。防具にぶつからないようにすり抜けながらホームに触れようと思った。しかし、加藤の次の5番バッターが、ホームを駆け抜けろというサインを出していた。きっとボールはホームに返球される状態ではないのだろう。秀夫は両手を上げてホームを踏んだ。その瞬間、海嶺高校は逆転した。
 結局、そのまま2対1で海嶺高校は野田高校に勝つことができた。
 2つの試合で適時打を放つことができた秀夫は、高校3年間の練習の成果が出たことに満足していた。
 海へ向かうランニングの途中で、きょうのこの練習も、きっとあしたの試合につながる経験になるだろうと信じていた。
 海岸に着く。メンバーはマネージャーから自分のスパイクを受け取り、履き替える。各自で体操をして、ストレッチをする。
 やがて、主将の菊地が防砂林から松の枝を拾ってきた。
「きょうは、これで勝負だ」

5856.2/12/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

2-3
 秀夫の理想は、犠牲フライではなく、セカンドの頭の上をライナーで抜くヒットだったので、フライになってベンチに戻りながら、不満が残った。 「もう少しでホームランやったわ」
監督の上野が両手をたたいて小躍りしていたので、秀夫は反対に驚いた。そんなに伸びたのか。自分はパワーヒッターではないと思い、ミート打球に専念してきたが、その延長上にホームランがあるのかもしれないと感じた。
 野田高校との三回戦。先取点を許し一点リードされた試合展開になった。
 2番バッターのショートの2年生がヒットを打ち、ランナー二塁だった。3番バッターの秀夫は打席に立つ。
「かっとばせー、ひでお」
スタンドからはベンチに入れなかった下級生たちを中心に結成した臨時応援団が声援を送る。前の試合に勝ったことで、野球部だけでなく、ほかの生徒も多数応援にかけつけていた
。  ノーアウト、ランナー二塁。セオリーから言えば、一塁か二塁方向にゴロを転がせば、ランナーを三塁に進めることができる。右バッターの秀夫にしてみれば、打球を自分のからだから右方向に転がすことが求められた。逆に引っ張ってしまって、三塁やショート方向のゴロでは、自分がアウトになり、さらにランナーを進塁させることもできない。リードされた局面なので、まずは二塁ランナーを返して同点に追いつくことが先決だ。
 秀夫は、バッターボックスに入りながら、一塁や二塁方向に打球を転がすイメージを思い出していた。
 しかし、相手バッテリーも同じことを考えているはずだ。だから、一塁や二塁方向に打ちやすい投球はしないだろう。ボールは内角に集中すると思った。
 上野監督のサインは、ウエイティング。打たないで様子を見ろということだ。
 ピッチャーが初球を投げた。三塁手が前進してきた。秀夫が送りバントをすることを警戒したのだろう。投球は想像した通り、内角のストレート。ストライクだった。秀夫が打つのを得意としていたコースだった。喉から手が出る思いで、ボールを見送った。
 二球目のサインもウエイティング。これでストライクだったら、ツーストライクに追い込まれてしまう。それでもサインには従わなければならない。  ピッチャーが投球モーションに入った。今度は三塁手は前進して来なかった。初球でバントのジェスチャーをしなかったので、バントはないと決めたのだろう。二球目は外角のストレート。このボールのタイミングで待っているので、もしもこれを打てば確実に二塁手の頭の上を抜けるヒットが打てると思った。それでもバットは出さない。サインはウエイティングだからだ。判定はストライク。これでツーストライクに追い込まれた。
「へいへい、バッチ、打つ気、あんのか」
キャッチャーがプレッシャーを与える。そんなことにいちいち応じていたら、相手の思う壺だ。無視して、サインを見る。
 さすがに追い込まれたので、サインはフリーだった。つまり自由に打てというものだ。上野が目の前で大きな四角を作った。ストライクゾーンを広めに取れという指示だ。自分はボールだと思っても、審判の判断でストライクに判定されるかもしれないということだ。
 三球目は真ん中やや高めのストレートだった。いつもなら見逃すが、ストライクにされてしまうかもしれない。やや遅れ加減でバットを出した。ボールはバットの端に当たって、ファールグランドに転がった。
 四球目のサインもフリーだった。ここまで三球とも直球ばかりというのが気になった。スコアラーからの情報では、変化球があるとのことだった。秀夫はそのことを頭の片隅にインプットした。
 想像したとおり、四球目は大きく曲がるカーブだった。カーブは一瞬、バッターのからだにボールが飛んでくるように見せかけて、途中から曲がってストライクゾーンに落ちてくる変化球だ。ボールになるか、ストライクになるかわからない。

5855.2/11/2008
湘南に抱かれて
1980年・夏

2-2
 ランニングをしながら、秀夫は二回戦と三回戦の試合を思い出していた。
 二回戦は秦野球場まで行った。そこで新設の県立荏原高校と対戦した。県立では珍しい体育専門の課程を用意した高校だったので、運動能力の高い選手たちが集まっていた。同じ新設高校だった海嶺高校は帰国子女受け入れのモデル高校だったので、運動能力は関係ない。試合前から荏田高校有利の下馬評だった。
 しかし、ピッチャーの佐伯がふんばり、相手打線を無得点に押さえ、秀夫の犠牲フライの一点を守りきり完封勝ちした。
 三回戦は藤沢の八部(はっぺ)球場で県立野田高校と対戦した。先取点を取られ苦しい展開だったが、この試合でも秀夫の勝ち越し安打で、二対一と逆転勝ちをした。
 新聞に、「伏兵、海嶺、破竹の進撃」と見出しが載り、校内でも話題になった。
 荏原高校との試合。実質的に夏の大会の初戦になる海嶺高校ナインにとっては、緊張する試合だった。みんな動きがぎこちなく、いつもよりも掛け声も小さかった。
 荏原は、一回戦を勝って海嶺との試合を迎えた。試合に対する慣れは向こうのほうが上だった。
 負けたら終わりというプレッシャーは、選手個々人の動きを縛り付けた。
 それでも、好機は必ず訪れる。
 四球で出塁した一番バッターの菊池が盗塁で二塁に進む。二番バッターが送りバントをして、ワンアウト三塁で秀夫に打席が回ってきた。打席に立って監督の上野のサインを見る。となりで部長の新田が大あくびをしている。
 初球のサインはウエイティング。打つなというサインだ。ピッチャーの投球を見定める。投げどころがはっきり見える素直な投球に見えた。投げどころがはっきり見えるピッチャーのボールはタイミングがつかみやすい。ストライクだった。
 次のサインはバントの仕草をしてのウエイティングだった。三塁ランナーをホームに招き入れる方法のうち、バッターがバントをして得点を取るスクイズという方法がある。バッターはアウトになるが、確実に得点をとるときに使う方法だ。当然、守備側も警戒をする。その警戒の具合を探るために、バントはしないが、そのまねだけをしろというサインだ。ピッチャーが投球動作に入る。秀夫はバットを持ち替え、バントをするふりをした。キャッチャーは大きくコースを外したボールを投げた。もともとダミーサインなので、秀夫はすぐにバットを引っ込めた。ボールだった。
 これでカウントはワンストライクワンボール。ピッチャーとしては次はストライクがほしいところだ。
 三球目のサインは、スコアラー情報だった。試合ではネット裏でピッチャーの投球パターンや審判のクセを観察するスコアラーを配置する。そのスコアラーが定期的に監督に情報をサインで送っている。情報は、取りに来るストライクは外角が多い。審判は外角に甘い。ライト方向を意識しろというものだった。つまり自由に打っていいが、頭のなかに外角球を意識しておけというものだ。秀夫はもしも内角だったら振らずに捨てようと決めた。最初から外角ストレートだと意識してボールを待っていれば、これまでの小坂との練習量を思えば百発百中の確率でバットの芯でボールをとらえる自信があった。こういう瞬間のために、毎朝始発に近い電車に乗って練習を続けてきたのだ。審判は外角に甘いから、ボール気味に見える球でもストライクにするだろう。すると、カウントがツーストライクワンボールになり、バッターとしては追い込まれる。ピッチャーは決め球を使いやすくなる。決め球はピッチャーがもっとも得意とする球種なので、打つのは難しい。ストライクを取りに来る球をねらうほうがバッターとしては有利だ。
 サイン通り、投げた瞬間、外角のストレートとわかった。しかし、これはややホームベースを外れるとも思った。通常の審判ならボールにするだろう。きょうの審判はストライクにするかもしれない。秀夫はテイクバックをしてボールをひきつけライト方向にはじき返した。思ったよりも打球は高く上がり、ライトが下がる。フェンス直前までボールは伸びた。ライトが捕球したのを確認して、三塁ランナーの菊地がベースを離れホームに突入した。ランナーはフライでは進塁することができないが、フライを捕球した後はインプレイなので自由に進塁することができる。三塁ランナーが外野へのフライ捕球のあとにホームに突入するのはそのためだ。そういうフライを犠牲フライという。打者にとって、自分はアウトになるがランナーを進塁させたという格付けになる。

5854.2/9/2008
湘南に抱かれて:1980年・夏
2-1
 あしたはいよいよ夏の神奈川大会準々決勝。
 これまで海嶺高校野球部は一回戦がくじ運で免除され、二回戦と三回戦を勝ち進んだ。四回戦が東海大相模高校との試合だったが、先方が不祥事で出場を辞退したので公式記録上コールドゲームとなり9対0で勝ったことになっている。
「試合前日にけがをしては悔いが残るやろ」
監督の上野の判断で、前日のこの日はボールを使わない練習になった。主将の菊地が部員を集め、プランを説明する。
「ここまで来たら、あしたの試合で全力を出すしかない。きょうは海まで走って気合を入れよう」
青春を絵に描いたような菊地は、どこまで行っても精神論で考えるタイプだった。
 海嶺高校は茅ヶ崎駅の北側にある。海まで行くには、国道一号線を横切り、東海道線の線路を渡り、通称「加山雄三道路」を走って行く。監督はせっかくけがのないようにと配慮しているのに、片道で5キロはあるコースを走って、途中で捻挫でもしたらどうするつもりだろう。しかし、部員からは反対の声は上がらなかった。軽い素振り程度で終わりかと思っていたのは秀夫ぐらいだったかもしれない。みんな、もしかしたら、これが高校生活最後の野球部としての練習になるかもしれないという気持ちを共有していた。確かに夏の大会はトーナメント戦だから負けたら終わりだ。準々決勝にもなると、相手が公立高校といっても、簡単に勝てるとは考えにくい。
 でも、負けると覚悟して最後の練習みたいに決め付けるのも、後ろ向きだなぁ。
 ランニング用のシューズを履きながら、秀夫は思った。アスファルトを走るのに裏に金具のついたスパイクでは走りにくい。海岸に行ったら、スパイクに履きかえられるように自転車で併走するマネージャーがみんなのスパイクを籠に入れた。
 軽い体操をして二列縦隊に並んで高校の門を出て走り始めた。
 海嶺高校は、秀夫たちが一年生で入学して初めて三学年そろった新設高校だった。秀夫たちが三年になった1980年に、すべて一年生のときから入学してきた生徒でそろった開校三年目の学校だった。
 広い水田のど真ん中に校舎とグランドが建設されていた。そこから車道まで一直線のアスファルトが伸びている。両側は水田だ。
 車道に出ると、パン屋や文房具屋など、生徒目当ての店が並ぶ。
「頑張れよ」
「あした、応援に行くからな」
胸に「海嶺」と漢字でプリントされたユニフォームを見つけた地元のひとたちから声援が聞こえる。
 高校には運動部が複数ある。しかし、そのなかで県大会の予選に全校を挙げての応援や、ブラスバンドの演奏がつくのは野球部ぐらいだろう。海嶺高校のワンダーフォーゲル部は関東大会で優勝する成績をあげていても、だれも応援に行ったことはなかった。無名の公立高校ではたとえ野球部でも試合をすれば負け続けるので、そんなに高校のなかでのステータスはあがらない。しかし、この大会で連勝をおさめ、準々決勝まで進出したので校内でのステータスが上がり、地元のひとも意識するようになった。
 勝ち進むに連れて、練習を見学する地元のひとたちが増え、ネットごしに声援を飛ばす。
 それまでそういう経験のなかった秀夫たちは、恥ずかしいような、嬉しいような複雑な心境だった。

5853.2/8/2008
湘南に抱かれて:1980年・夏
1-8
 夏の高校野球神奈川県大会。準々決勝第四試合。横浜スタジアム。
 海嶺高校は、その前の試合で横浜高校が使ったロッカーを使った。プロ野球の大洋ホエールズが使っている本物のプロのロッカールームだ。
 ひとりひとり仕切りがあって、荷物を置く棚もある。ドアはないが、カーテンで仕切られている。カーテンにはホエールズの選手の背番号が印刷されていた。それぞれの選手が自分専用のロッカーを使っているのだろう。海嶺高校メンバーは、どのロッカーを使うかよりも、横浜高校の投手、愛甲選手が使ったロッカーはどれかでもめた。
「そんなの名前が書いてあるわけじゃないからわかんないじゃん」
「ピッチャーだから、ホエールズのピッチャーのロッカーを使ったんじゃないの」
「そうとは限らないだろ」
みんな、できれば有名な愛甲選手と同じロッカーを使いたい。
「愛甲の匂いがしみついているかもしれない」
そんなことを言う者がいるから、みんなでベンチやカーテンの匂いをかぐ。
「でも、愛甲の匂いってどんな匂いなんだよ」
 これから準々決勝の試合が始まるというのに、緊張感というものがまったくなかった。
「そういや、テレビに映るんだよな」
「うちは、UHFがないから見れないよ」
「うちは、この日のために親父がUHFと契約していたぜ。おまけにビデオまで買って、録画するんだって」
「おー、それ後で見せてくれな」
「ビデオデッキがないと、テープだけじゃ見れないぜ」
「俺が打つときに、コマーシャルにならなきゃいいんだけど」
 目立つことしか考えていない。
 秀夫は、制服を脱いで、まずスライディングパンツをはいた。スライディングパンツはトランクス型のパンツで、表と裏の布の間に綿が入っている。スライディングをしたときに、尻や腿への衝撃を吸収し、同時に皮膚が摩擦ですりむけるのを防ぐ。スライディングパンツをはくと、股間が蒸れるので、それを嫌ってはかない者もいた。以前は、秀夫もはかなかった。しかしあるとき、たまたまスライディングをして、尻を強打して、医者に行ったら、看護婦の前で尻を出すはめになった。それ以来、暑くても、蒸れても、はくことにしている。次にアンダーシャツを着る。そして、アンダーストッキング、ソックスをはく。何百回と繰り返してきたユニフォームの着替え。
 なんだか、こないだ封切で見てきたスターウォーズ・帝国の逆襲に出てきたアンドロイドのロボットみたいだな。
 映画を見るのは昔から好きだった。スターウォーズを見た日に、映画館を梯子して邦画の二〇三高地も見たほどだ。亜美のチケットも買ってあったけど、やっぱり来なかったから、二本ともひとりで見たのだ。
 映画ぐらい、いっしょに見てもいいだろ。秀夫は勝手に落ち込んだ。片思いとは、そんなものだ。しかし、ブルーにならずに予定通り映画を見たのだから、本気の片思いと言えるのかどうか。
 ユニフォームを着て、スパイクをはく。靴の中に砂が入っていたから、逆さまにして出した。
 それは、こないだの練習で、茅ヶ崎の海岸まで走ったときの砂だった。

5852.2/7/2008
湘南に抱かれて:1980年・夏
1-7
 内野手の頭の上をライナーで抜けていく当たりを打つためには、ピッチャーの投げた球を確実にバットの芯に当てる必要がある。バットはラケットのように面で打つのではなく、木や金属の棒なので点で打たなければならない。だから、バットが自分の腕の延長という感覚になるまで練習しないと、100キロを超える投球に対して、瞬時にバットの芯をボールに当てることは難しい。少しでも練習を休むと、たちまちこの感覚が薄れてしまう。
 また、自分のからだに近いところ(内角)に来たボールと、遠いところ(外角)に来たボールでは、スイングを変えないと、バットの芯からずれたところにボールが当たってしまう。ピッチャーが投球して、一秒にも満たない間にボールがどこに来るのかを判断し、それにあったスイングを開始できるようにからだが動く必要がある。これは、考えてから動いていては遅いタイミングだ。目からの情報が脳を経由しないで全身の神経に命令が出せるぐらいまで、感覚の鋭敏さを高めなければならない。
「いまのコースは引っ張っちゃだめだ。流さなきゃ」
秀夫は、小坂にアドバイスをする。中学時代にパワーを売り物にボールを遠くに飛ばしていた小坂は、ボールのコースに関係なく同じ方向にボールを打とうとするくせがからだについていた。ボールのコースに関係なくスイングしようとすると、バッティングに無理が来る。その無理を承知で自分のバッティングをするには、腕力や腰の回転を含め、かなりの筋力の強化が必要だ。素質のある小坂には、自然で無理のない打ち方で長打を量産してほしいと思っていた。
「流すときって、バットが下から出ちゃうんですよね」
小坂が流す方向に素振りをする。
「ちょっと貸してみろ」
秀夫がバットを振る。
「いいか、外角の球を打つときは、なるべく自分のへそぐらいまでボールを引きつける。そして、このままでは間に合わないかなというぐらい遅くスイングを開始する。そうすると、大振りしてバットを下から出している余裕はないから、コンパクトなスイングができるようになる」
小坂が言われたようにスイングをする。
「頭ではわかっていても、すぐには」
「まずは、頭でわかってることが大事なんだよ。適当にやったって、絶対に打てないけど、頭でわかっていれば、失敗したときにどこがいけなかったのかを振り返ることができる。その修正のために練習があるんだ」
「先輩はどうして、そんなにヒットにこだわるんですか」
「気持ちよさかな。打った瞬間にボールがバットから発射されたロケットみたいに真っ直ぐにねらった方向に飛んでいったときの爽快感がたまんないんだよ」
 秀夫と小坂が練習を開始してから一時間が経過した。
 二人はバットとボールケースを持って、部室に戻る。
 9時からの練習のために、少しずつ部員が集まり始めていた。
「カラスなぜ鳴くの、カラスの勝手でしょ」
 いつもチームのムードを高める主将の菊地が鼻歌を歌いながらユニフォームに着替えていた。テレビ番組「8時だよ!全員集合」のなかで、童謡「七つの子」を志村けんが替え歌で歌い、子供たちの間で流行していた。

5851.2/6/2008
湘南に抱かれて:1980年・夏
1-6
 はるかに丹沢の山並みが広がり、その向こうに富士山がそびえていた。
 田んぼの真ん中にポツンと立っていた海嶺高校の周辺は、まだ開発が進んでいなくて、のどかな農村という感じだった。茅ヶ崎駅の南側は湘南ブランドのイメージが強かったが、相模線沿線の駅北側は湘南というイメージのものは少なかった。
 軽く汗をかいた頃、ランニングをやめて、二人で柔軟体操をした。それから、ネットの張ってあるホームベースの近くにバットとボールをもって移動した。
 キャッチボールはしない。バッティングの早朝練習のために来ているのだから、よけいな練習はしない。
 ネットの近くにかごに入ったボールを持って小坂が座る。下投げで、軽く、秀夫の構えているところにトスをする。秀夫は、トスされたボールをネットに向かって打つ。かごには、だいたい100個のボールが入っている。100個打ち終わると、役割を交替した。
 小坂はもともと中学のときからスラッガーでならしていた。高校でも同じようにできると思ったらしいが、軟式球と硬式球では打ち方が違うので、戸惑った。たびたび練習のときに打ち方を秀夫に聞くので、自主練習に入部当初から付き合わせた。
 秀夫は体格が大きいほうではなかったので、パワーヒッターにはなれないと見切りをつけ、ミート中心の安打ねらいの打ち方を練習していた。その甲斐があって2年生の途中からは試合でヒットを打つことが多くなり、3番バッターを任された。軟式球はバットのどこに当たっても、バッターにパワーがあれば、ボールを遠くに飛ばすことができる。しかし、硬式球は、バットの芯に当てない限り、ボールはピッチャーの投球よりも遅いボテボテの当たりになる。いかにうまくバットの芯に当てるかがヒット量産の鍵を握っていた。
「お前はもともとパワーがあるから、コツをつかめば俺よりもずっと遠くにボールを飛ばせるよ」
秀夫は、小坂にいつも言い聞かせた。
 バッティングは個性が出る。スイングひとつとっても、こういうスイングがベストというものはない。
 しかし、日本の少年野球から高校野球に連なる武士道のような体育会系野球世界では、ある型がもっともいいと決め付け、凡庸な監督やコーチは選手の特徴に関係なく、その型を押しつけた。
 中学までの秀夫のバッティングもそうだった。ろくに野球経験のない教員が監督になり、どこで調べてきたのかわからないやり方を選手たちに教えた。
 高校に入って、2年生までは野球経験のない東北訛りの強い新田が監督をしていた。新田はそれまでの教員とは違い、自分が素人だということを隠さなかった。
「おらぁ、なんにもすらねぇ。だから、おめえらで工夫するしかなかんべ」
選手を集めてよく言った。バッティング練習や守備練習でも、具体的な技術指導はほとんどなかった。
 ただし、「走れ、走って腰を作れ」という指示だけは出した。野球はボールを投げるのも、ボールを打つのも、からだの回転を必要とする。そのときにかなめになるのが腰だった。腰周辺の筋肉を強化し、関節をやわらかく保つことは、ボールを遠くに速く投げることにつながった。ボールを遠くに速く打つことにつながった。
 3年生になって、コーチ学を専攻した上野が監督に就任して、秀夫たちの練習を見たときに、あまりにも各自が独自のスタイルで投球したり、捕球したりしているのを見て、度肝を抜かれていた。それでも上野は無理に基本的な技術を教え込ませようとはせず、試合に勝つための戦略的なノウハウを秀夫たちに叩き込んだ。3年生は夏の大会で引退する。4月から7月までの3ヶ月で、基本練習をしていては間に合わないと思ったのだろう。
 秀夫は、中学校から高校までの6年間で自分にはボールを遠くに飛ばすパワーがないことはわかっていた。だから大きなフライを打っても、外野手のグローブにおさまってしまい、ホームランにはならない。腕立て伏せやバーベルなどの筋力トレーニングは嫌いだったので、筋力強化は目指さなかった。そのかわり、内野手の頭の上をライナーで抜けていく当たりならヒットになるのでできそうな気がした。高校に入ってからの早朝練習は、いつもそういう当たりを試合で打てるようになることを目指してきた。

5850.2/5/2008
 しばらく、いろんな機械の音がしていた。
 舌が鉄のような味を感じるようになった。
「セイショク、お願い」
生理的食塩水で、口の中を洗っているんだ。きっと出血が多いんだ。だんだん不安になる。
「うまく割れたんだけど、根もしっかりしているね。顎の骨に食い込んでいるから、まず骨を削ることにします」
ぎょぎょ。いまさら、ここまでにしてくださいとも言えない。
 歯茎の下のほう、口の底みたいな部分にチクンとメスが入った。唇は、「イー」と言ったときのように横に大きく引っ張られている。
 虫歯のときに歯を削る機械の音がする。いま俺の顎の骨が削られているのだろうか。
 ほかの歯の神経が興奮して、あとで痛み出さないかな。今夜は食事ができるのかな。風呂にも入りたいんだけど。あれこれ頭のなかで考えているうちに、縫合が始まった。
 えっ、もう終わったの。いつ親知らずが顎の骨から分離したのかわからなかった。
 縫合が終わり、ガーゼをたくさん詰められた。
「ぎゅっと噛んでいてください」
圧迫して止血するのだろう。
「顎が内出血しやすいから、軽く圧迫しながら、冷して」
医者は歯科衛生士に指示を出して、どこかに行ってしまった。若い女性の衛生士が、保冷剤にタオルを巻いて、頬から軽く顎を押す。顔を抱かれているような感覚があった。なんだかちょっと甘い気持ちになる。もう少しこのままいたいなぁ。
 医者が戻ってきた。2つにスパンと割れた歯を見せてくれた。自分でも大きな歯だと思った。
「あした、来てね」
えー、1回で終わりではないの。なるべく病院と名のつくところには行きたくないのに。
「あした、すぐですか」
「そう、消毒しなきゃね」
 仕方なく、うなずく。
「顎の骨を削ったところが腫れてくるから、血行がよくなるような、長風呂とか飲酒は控えてね」
 帰るときには、まだ麻酔が効いていて痛みはあまり感じなかった。いい気になって、冷えた身体を風呂であたためたら、夜になって医者の行ったとおり、顎が痛みをともなって腫れてきた。
 翌日には、腫れはおたふく風邪みたいにふくらんだ。さわると、頬がこんもりふくらんでいる。冬眠前のリスみたいだ。
 言われたとおり、翌日も通院した。
「術後の腫れだから心配ないよ。来週、抜糸に来てね」
この日の診察は2分ぐらいだった。
(湘南に抱かれて:1980年・夏は休載します)