top .. today .. index
過去のウエイ

5849.2/4/2008
 昨年の暮れに奥歯の付け根が腫れた。
 いつも疲れがたまると菌が入って腫れるところだ。
 わたしは親知らず4本のうち、すでに上の2本は抜いていてない。下の2本はまだ生えていなくて、抜いていない。
 その下の1本が、いつも一番奥の歯を歯茎のなかで押していて、腫れの原因になっていた。そのつど、歯医者に行くと切開して膿を抜く。しかし、何度も同じことを繰り返すので、さすがに医者も「こりゃぁ、もう抜いちゃいましょう」ということになった。
 年明けに時間ができたので予約の電話をしたら、1月はすでに手術の予約でいっぱいだった。こちらも1月は新年会の予定があったので、気持ちの隅っこではラッキーと思った。あらためて、予約を入れると、2月上旬なら空いていたので親知らずを抜くことにした。
 1月になってからは、腫れはすっかり引いていつもの歯茎に戻っていた。これなら、わざわざ抜く必要もないかなぁとあまいことを考えた。しかし、あっという間に予約をしていた日になってしまった。
 親知らずを抜くと言っても、まだ生えていないので、抜く前に歯茎を切開しなければならない。想像しただけでも貧血になりそうだ。
 歯医者に着いて時間になるのを待っていたら寝てしまった。名前を呼ばれて診察室に行っても、まだ寝ぼけていた。そこに医者がやってきた。
「じゃぁ、やりましょうか」
腫れも引いたことだし、きょうのところはやめておきましょうかと言われるのではないかという期待は一瞬で吹き飛んだ。
 覚悟を決めて口を開ける。チクンという痛みが歯茎に走る。きっと麻酔をしているのだろう。そのうちに、顎と歯茎が自分のものではない感覚になった。
 メスで切開をしているのはわかったが、痛みはないから、不思議な感覚だった。自分のからだなのに、別のパーツをいじられているような感じがした。
 生えている奥歯と接している部分を、てこのような道具を使って、離しているのがわかった。顎に響く。
「痛いですか」
そんなことを言われても、唇をぎゅうぎゅうに何かで押さえられていて答えることができない。
 もう切開をして、肉のなかから親知らずが顔を出しているのだろう。目を閉じながら、自分の口の中を想像する。吸引機が動いているから、唾液や血液はたまらない。
 そのうちに、削ったり、押したりしていた医者の手がやんだ。
「ヘッドが大きいなぁ」
 以前、虫歯で来たときに言われた。
「あなたの歯は歯茎から出ている部分、ヘッドっていうんだけど、そこが大きいね。こういうひとは虫歯になりにくいんだよ。ご両親に感謝しなくちゃね」
まだ生えていないはずの親知らずまで、ヘッドがでかかったとは。きっと、それは抜くのには不都合なのだろう。医者の声のトーンからわかった。
 歯科衛生士を2人つけて、○○を変えて、○○をつけて、○○を押さえてと、てきぱきと指示を出す。
「超音波メスを取って」
さっき切ったはずなのに、また切るのだろうか。切られても、麻酔が効いているからわからない。
「ヘッドが大きいから、割ってから取るね」
ぎょっと思ったけど、やめてくれとは言えない。小さくうなずく。割るって簡単に言うけど、歯だよ。歯なんてそんなに簡単に割れるのかな。
(湘南に抱かれて:1980年・夏は休載します)

5848.2/2/2008
湘南に抱かれて:1980年・夏
1-5

 茅ヶ崎からは相模線に乗り換える。国鉄が民営化されるずっと以前の相模線は、ディーゼルだった。
 黒煙と騒音を響かせて、一両か二両の気動車が踏ん張りながら橋本まで走っていた。
 海嶺高校は、北茅ヶ崎で降りる。茅ヶ崎から一つ目の駅だ。茅ヶ崎から歩いて行くこともできたが、せっかく定期があるのに歩いて行く必要はない。部活が終わった帰り道、高校から茅ヶ崎まで歩いて帰るのは、のんびりした時間を楽しみたいカップルだけだった。
 北茅ヶ崎駅から高校までのわずかな道のりを秀夫と小坂が歩く。
「対戦相手が決まりましたね」
小坂が神奈川県大会の情報を教えてくれる。
「おっそうか、どこだ」
秀夫は知らない。
「先輩、気楽っすね。知らないんですか。きのうのTVKのニュースでやっていましたよ」
テレビ神奈川はUHFアンテナを設置していないと視聴できない。秀夫の家はVHFアンテナだったのでTVKを見ることができない。それに、祖父母の家に預けられている秀夫の部屋にはテレビはもともとない。たまに実家に行っても、テレビのチャンネル権は父親にあり、自分が見たい番組を見るなんてことは経験したことがなかった。
 秀夫の文化情報源は、アイワの古いラジオだけだった。
「桜ヶ丘ですよ」
「あちゃー、強そうだなぁ」
「公立ですけど、いつも上のほうまで行きますからね。とくに今年入った阿波野っていうのはすごいピッチャーらしいですよ」
「でも、一年だろ」
将来、近鉄に入り、後に巨人にトレードされる阿波野の存在を、秀夫はまだ知らない。
 高校のグランドにはまだだれもいない。部室の鍵を持っている秀夫は、部室を開けて、スポーツウエアに着替える。自主的な練習なので、いちいちユニフォームには着替えない。小坂もジャージに着替える。
 そのとき、小坂のバッグから立方体の大きなサイコロのようなものがこぼれた。
「なんだ、これ」
秀夫が拾って小坂に渡す。
「何にも知らないんっすね。ルービックキューブっていって、いまめっちゃ流行ってるんですよ。こうやって、あちこち動かして、全部の面を同じ色にするんです」
「おもちゃか」
「っていうか、頭の体操ですね」
「やだやだ、体操はからだだけでいいよ。さぁ行くぞ」
 秀夫は小坂とグランドを走る。スパイクではなく運動靴で走る。スパイクは靴の裏に金属の鋲が打ってあって、地面への食い込みをよくしてある反面、遊びがないので足首や膝への負担が大きい。ランニングには運動靴が向いていた。

5847.2/1/2008
湘南に抱かれて:1980年・夏
1-4
 6時過ぎの東海道線下りには、あまり乗客は乗っていない。
 秀夫はバランス感覚のトレーニングを兼ねて、つり革や支柱につかまらずに、車両の真ん中で足を踏ん張って立つ。電車の揺れにあわせて、からだが倒れないように重心を低くしてバランスをとる。野球の守備をするときに、重要な感覚だ。腰高だと、転がってきたボールをグローブで捕り損ねて、後ろにやってしまうのだ。
 ベンチシートに、釣り道具を持った二人連れが座っている。大磯や小田原方面に釣りに行くのだろう。
「いいよなぁ、俺も拾ってみたいもんだ」
スポーツ新聞を広げていたキツネ顔の男がため息をつく。
缶コーヒーを飲んでいた隣りの男が新聞を覗き込む。
「なにが」
「ほら、4月に一億円を拾ったやつがいただろ。あれ、まだ落とし主が現れないんだって」
「あったあった、そういう事件。相当、やばい金なんじゃないの」
「このまま落とし主が現れなかったら、こいつの金になるんだよ。うらやましいなぁ」
 キツネとコーヒーの会話は、聞こうとしなくても、秀夫の耳に入った。
 一億円かぁ。それだけあったら、楽して暮らしていけるだろうなぁ。秀夫も、男たちと同様にうらやましくなった。
「おはようございます」
 藤沢から、小坂が乗り込んできた。秀夫が何両目に乗っているのかをチェックして、いつも同じ時間、同じ車両に乗ってくる。私立学校とは違って、公立の新設校である海嶺高校野球部は、運動部といっても、上下関係は厳しくはなかった。それでも、言葉遣いは上下関係を表していた。
「おぅ」
 小坂がていねいに挨拶をしても、秀夫は同じように返礼はしない。一年生の小坂と、三年生の秀夫の間には、友人にはなりえない大きな開きがあった。それでも、立ったままバランス感覚の練習をしている秀夫の近くのシートにどっしり座る小坂。もしこれが私立高校の野球部だったら、ぶん殴られていることだろう。
「戸崎さん、よく、そんなにいつも突っ立ってられっすね」
「俺みたいに、ずばぬけた能力がないやつは、こうしてほかのやつがやらないことを、毎日続けるしかないんだよ」
 東海道線は、辻堂を過ぎ、茅ヶ崎に向かう。窓外に、海からの砂を防ぐための松林が広がっていく。
 週刊誌の広告が、秀夫の目の上で電車の震動にあわせて、前後に揺れる。
「光州事件の全貌」
 大きく印字された活字が目に入った。韓国では、光州民主抗争ともいう。5月18日から全羅南道および光州市民が民主化運動を始めた。全斗煥〔チョン・ドファン〕政権は戒厳令で対抗。デモ隊占拠の光州市に戒厳軍が突入して弾圧した。反発する市民と衝突し多数の死傷者がでた。 市民に権力が銃を向け、死傷者を出した悲劇的な事件を、秀夫は知らない。
 光州ってどこ。事件ってどんな事件。そんなことより、いまは目の前の野球に集中するしかない。

5846.1/31/2008
湘南に抱かれて:1980年・夏
1-3
 朝、六時。国鉄大船駅の東海道線下りホーム。
 茅ヶ崎に向かう戸崎秀夫は硬式野球部に所属する3年生だった。
 すでに高校は夏休みに入っていた。最後の夏の大会で運良く勝ち続けた海嶺高校は、準々決勝を間近に控えていた。
 これまでの3年間を野球一筋で過ごしたわけではない。野球をやりながら、横浜でフォークギターを片手にコンサートもした。作詞作曲活動も続けた。映画も観た。それでも、日常生活の多くは野球生活だった。年末年始の数日だけが練習のない日だった。それ以外は野球の練習か試合だった。練習や試合のない日でも、秀夫は体力をつけるために自宅周辺の野山を走った。家の周辺でバットを振った。近くの小学校に行って、壁当てのキャッチボールをした。自分にはすぐれた技術や野球センスがないことはわかっていた。だから、試合に出るためには練習を続けるしかないと思っていた。たとえ、試合に出てもミスをしては次から使ってもらえない。結果を残すために、練習のときから気持ちのなかでは試合をいつも想定していた。
 だいたい野球はひとつの試合で3回から4回打席がまわってくる。バットにボールを当てて、打つ。空振りをしては打ったことにならない。たとえバットにボールが当たっても、フィールドに入らないとファウルになってしまう。また、当たったとしても野手の正面へのゴロや捕りやすいフライを打ったらアウトになってしまう。気持ちを集中して、ボールをバットの芯でとらえ、野手のいないところにボールをはじき返す。ひとつの試合でそういうバッティングをするチャンスは3回から4回しかないということだ。
 素振りといって、ボールを打たないで、バットだけを振る練習がある。だいたい50回とか100回とか回数で区切る。しかし、秀夫はそういう練習をしなかった。一試合で50回も100回もバットを振ることはありえない。多くの選手は、だらだらとバットを振り、バットを何回振ったかを数えることに神経を集中している。それでは、試合とは結びつかない。秀夫は素振りは極力少なくした。そして最初の1回からピッチャーを想定して全力で振った。ピッチャーが外角へ投げてきたと想定して、ライト方向への振り方をする。ピッチャーが内角に投げてきたと想定してレフト方向への振り方をする。振った後は、打球が飛んでいくイメージを必ずもつ。
 だから、秀夫は素振りよりも、実際にバットにボールを当てる練習を重視した。家では物干し竿に、手製の練習球をぶらさげた。練習球といっても、お粗末なものだ。新聞紙を丸めてガムテープでぐるぐる巻きにする。それに麻のひもをつけただけだ。この練習球は自分の立ち位置によって外角にも内角にも、またひものながさを調整すれば高めの球にも低めの球にもなる優れものだった。
 どんなに疲れても家に帰って秀夫は新聞紙で作った練習球を打ち続けた。あるとき、あまりにもバットの芯でとらえたために紐が切れ練習球が本当に飛んでいってしまったときにはたまげた。近所の家の窓ガラスを割ってしまいそうになった。
 秀夫の両手の皮は一年中むけていた。むけたところが硬くなり厚くなる。その繰り返しで、手のひらは足の裏よりも硬かった。硬くなった皮膚は、顔を洗うときに頬に引っかき傷を作った。あまりハンドクリームをぬると、やわらかくなってむけてしまうので、注意が必要だった。プロ野球選手がしているバッター用の手袋がうらやましかったが、当時はまだ高校野球では手袋をしてはいけないことになっていた。
 そして、秀夫が一番大事にしていた練習は、ティバッティングだった。実際に、硬式球をバットに当てて打つ。ネットに向かって打つので、思い切りバットを振りぬくことができる。後輩の小坂にボールボーイをさせた。小坂は秀夫のすぐわきから下投げでボールをトスする。それを秀夫はピッチャの球と想定して打ちぬく。ボールに勢いがないので、しっかりバットの芯でボールをとらえないとボールは真っ直ぐに飛ばない。ふつう、バッティングはピッチャーの投げた球の勢いを利用して、その反発力でボールを飛ばす。だから、ピッチャーの球が速ければ速いほど芯でとらえれば遠くに飛ぶ。そのとき、ボールを自分のねらった方向に真っ直ぐにはじき返すには、ボールをバットの芯でしっかりとらえることが必要になる。
 バットには芯があり、そこにボールが当たると遠くまで飛ぶようにできている。先端から10センチぐらいのところにボール一個分ぐらいの芯がある。逆に言うと、たとえバットにボールを当てることができても、芯を外すと手がしびれて、ボールはボテボテの当たりにしかならない。だから、ボールをバットの芯に当てるには、ティバッティングのように、実際にボールを当てる練習を何度もして、からだでバットの芯の位置を覚えるようにするのだ。

5845.1/30/2008
湘南に抱かれて:1980年・夏
1-2
 秀夫は信じられなかった。
 同じ野球部の仲間も半信半疑だった。
 平手打ちぐらいで、出場辞退するのか。
 それも、将来はプロを目指すような選手ばかりを集め、試合に出られない補欠を含めると100人を越える部員を抱える東海大相模が、自分たちの実力を世間に一番アピールするはずの夏の大会を途中で棄権するなんて。名前も知らない公立学校が、出場辞退しても、影響を受ける人数はたかが知れているが、伝統も実力もあり、きっとOB組織もしっかりしているだろう東海大相模が、それしきのことで大事な大会をあきらめるなんて。殴った監督、殴られた選手は、殴った痛みや殴られた痛みの何倍もの精神的なつらさをこれからの人生で背負っていかなければならない。そのことを思って、秀夫たちは複雑な心境になった。
 2年生以下の部員は、単純に喜んでいた。
「先輩、まだいっしょに練習できますね」
「よかったですね。次は横スタ、テレビ中継ですよ」
 四回戦に残ったチームは16校。勝ったチームがベスト8になり横浜スタジアムで準々決勝を戦う。
 練習後のグランドで、最後までマウンドの整備をしていた監督の上野のところに新田は向かった。
 去年、ソニーが販売して爆発的にヒットしたウォークマンを聴きながらグランド整備をしていた上野は、新田が近づいて来てもわからない様子だった。小さなヘッドフォンをつけ、からだでリズムを取りながら土をならしていた。新田は上野が自分に気づいてないことがわかり、正面に回り、上野の視界に自分を入れた。いままできれにならしていたマウンドに革靴の新田が乗り込んできたので、あきらかに不機嫌な顔で上野はヘッドフォンを外した。
 教員経験で言えば新田のほうがはるかに先輩だ。上野は4月に教員になったばかり。新採用だが、野球経験は新田を上回る。新田には野球経験がないから、上回るというのが正確な表現かはわからない。上野は京都の公立高校で野球をしていた。卒業して日本体育大学に進み、野球部に所属した。途中で実力に気づき、選手の道をあきらめコーチ学を専攻し、コーチの勉強をした。卒業と同時に体育教諭の資格も取り、海嶺高校に赴任してきたのだ。
 部室周辺にいる秀夫たちからは、校庭の端の新田と上野の会話は聞こえない。
 しかし、明らかに不機嫌な顔でウォークマンのヘッドフォンを外した上野は
「なんや」
と新田をどやしつけたに違いないと思われた。
 その後、ふたりは肩を抱き合い、マウンドでジャンプしながら小躍りしていた。
 東海大相模関係者の胸のうちを想像して複雑な心境の秀夫たち3年生とは大きな違いだった。

 準々決勝は一週間後。自分たちの高校野球人生が一週間のびた。高校は夏休みに入っていた。
 ブラスバンドは連日、野球応援のための合奏練習をしていた。グランドで練習している秀夫たちの耳にも聞こえた。気持ちが高ぶる。
 野球専用のグランドを持たない公立高校なので、練習は野球、サッカー、陸上、女子ソフトボールが共同で使用していた。明確な線引きがないので、選手もものも交錯しながらの危険な練習だった。

5844.1/29/2008
湘南に抱かれて:1980年・夏
1-1
 1980年、顔から首から黒人のように肌をこげ茶に塗ったシャネルズが「ランナウエイ」を、もんた&ブラザーズが「ダンシング・オールナイト」をしぶいハスキーボイスでヒットさせた。
 アリス解散後、ソロ活動をしていた谷村新司が「昴」を熱唱。松田聖子の「青い珊瑚礁」が連日音楽番組から流れた。
 この年の暮れ、12月8日に、ジョン・レノンがニューヨークの自宅前の路上で射殺された。犯人は熱狂的なファンの25歳の青年だったというが、真相は不明のままだ。
 第21回オリンピックが当時のソビエト連邦共和国の首都モスクワで7月19日から8月12日まで開催された。ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して日本、アメリカ、西ドイツなど、IOC加盟148カ国中67カ国が不参加だった。スポーツの祭典が冷戦構造のなかに巻き込まれた。
 5月28日、張本勲が通算3000本安打達成 。10月21日、巨人長嶋監督辞任。11月4日、巨人王選手、現役引退を発表、助監督に就任した。「王貞治としてのバッティングができなくなりました」。
 第52回選抜高等学校野球大会は、決勝戦で高知商(高知)と帝京(東京)が対戦し、1対0で高知商業が優勝した。 
 第62回全国高等学校野球選手権大会は、決勝戦で横浜(神奈川)と早稲田実(東京)が対戦し、6対4で横浜が優勝した。優勝投手は愛甲だった。

 その夏の神奈川県大会。後に優勝するのは横浜高校。甲子園に行っても実力を発揮して、そのまま優勝した。
 神奈川県大会の準々決勝。第三試合で横浜高校が使ったベンチやロッカーを、第四試合で戸崎秀夫の高校、海嶺高校が使った。
 100校以上が参加するマンモス大会の神奈川大会。優勝するには七連勝しなければならなかった。準々決勝は五回戦にあたるので、海嶺高校は記録上、四連勝して五試合目にのぞもうとしていた。しかし、実際には初戦がくじ運のおかげで免除され、二回戦から試合にのぞんだ。また、さらにくじ運のおかげで、二回戦も三回戦も県立高校が相手だった。海嶺高校も新設の県立高校だったが、選手を集める私立高校と試合をするよりも、できれば公立高校との試合をだれもが望んでいた。
 そして四回戦は、優勝経験のある東海大学附属相模高校、通称、東海大相模だった。
 試合前日の練習では、高校3年間の練習もこれでおしまいかと、3年生はだれもが覚悟を決めていた。
 秀夫も、練習を終え、グランドに頭を下げて礼をするときに、いつもよりも長く深く頭を下げ、次にここに来るときは引退したOBとしてだろうと想像した。
 事態が一変したのは、その直後だった。テレビ中継された東海大相模の三回戦の試合で、監督がベンチ前で選手を平手打ちするシーンがカメラからテレビに流れてしまった。テレビ局、神奈川県高校野球連盟、東海大相模に視聴者からの抗議が殺到した。
 体罰だ、暴力だ、指導者としてなっとらん。
 高校野球の選手のみならず、体育会の選手はだれもが知っていた。監督やコーチが選手を殴ったり、蹴ったりするのは日常茶飯事で、珍しいことではなかった。でも、テレビ中継のある試合で、それをやったらまずいということも知っていた。高野連も学校も、表向きは体罰を禁止していたからだ。
 グランドに礼をして、部室に戻る秀夫たちに、部長が再集合をかけた。
 古文が専門で、東北出身の新田部長は、もごもごした言い回しをする。ときどき東北訛りも出て、聞き取り不能になることもあった。野球経験はない。それでも部長を引き受けなければならないほど、新設の県立高校には教員が集まっていなかったのだろう。監督が不在のときにノックをすると、よくボールがバットに当たらずに空振りをしていた。
「いんまなぁ、高野連から電話があってなぁ、東海大相模さ、出場ずたいするって」
出場ずたいが、出場辞退を意味することは、すぐにわかった。

5843.1/28/2008
 このちくちく刺していく作業が不思議なほど精神修行になる。
 直線を刺しているつもりでも、何かの加減でやや斜めになったり、蛇行したりする。
 五目ぐらい先でそのことに気づく。いまから糸を抜いてやり直すか、気にしないで刺し続けるか。やり直すのは面倒だ。でも気にしないで刺したら、完成したときに後悔する。
「えーい、どっちを選ぶ」
自分のなかで2つの声が戦いをする。
 疲れているときは、たいてい問題を無視して先に進めてしまう。その結果、間違いなく完成後に後悔した。
 いまは、なるべくミスをしないように気をつけながらも、少しのよじれや蛇行が見られたら、躊躇なく針から糸を外し、何目先に進んでいようとも糸を抜いている。ふたたび針に糸を通し、やり直す。失敗した針の穴が布に残っている少しわきを刺しなおす。
 どんなことでも失敗はつきもの。そのときに、いちいち気持ちひとつでなげやりになっても、いい結果は何一つない。迷ったり、考えたりするのではなく、反射的に失敗を帳消しにする手立てを実行したほうがいい。これは、刺し子だけのことではなく、日常生活の多くの場面であてはまることだ。
 気持ちに余裕があるかないかは関係ない。どんなときも、失敗を気にせず、それもありかなと受け流し、さぁ修正しようとすぐに手が動く、足が動く、こころが動くようにしておこうと精神に叩き込む。
 刺し子は手間がかかる。だから時間もかかる。作品が大きくなればなるほど、一つ完成させるのに一週間以上もかかるようになる。しかし、やっていると時間を忘れる。あっという間に2時間や3時間が過ぎてしまう。それだけ心身ともに集中しているのだろう。冬休みに勤務したとき、午前中から刺しはじめ、昼食を忘れたこともある。
 その集中している時間、何も考えていない。といえば大げさかもしれないが、ほとんど何も考えていない。ただひたすらに、作業に気持ちが集中している。周囲を気にしたり、あしたのことで頭がいっぱいになったり、過去のことで気持ちがなえたりすることがない。現実から逃避しているわけではないが、逃避したい現実があったときには、便利なツールかもしれない。
 こころを無にするというのは、とてもトランスな気分だ。禅の世界で言う「空」とはこういう感覚なのかもしれない。よのなかのしがらみや、自分の仕事、日常生活の約束などから解放されて、だれにも迷惑をかけず、創造的な作業に没頭する。その経験は、自分が気持ちの上で追い詰められたときに、気持ちをコントロールする力になるかもしれない。
 何も知らないときは、完成したら、スチームアイロンを表にも裏にもかけていた。しかし、教本には裏のみアイロンをかけると書いてあった。
 たしかにアイロンをかけると布はピンと張るが、糸がつぶれてしまう。そんなものかと思っていたが、そんなものではなかった。
 裏からアイロンをかける。熱が表にも伝わり、布だけがピンと張り、糸は刺したときの状態を保っていた。
(刺し子特集・終わり)

5842.1/27/2008
 そして、柄を写す。
 あらかじめ、作成してある型紙を使う。型紙は、専用の斜め方眼紙があるみたいだが、わたしはパソコンで作った。図形ツールを駆使すれば、刺し子特有の幾何学的で反復する模様は簡単に作成できる。それを印刷して布のサイズに合わせて切れば型紙ができる。パソコンに保存してあるので、型紙が使い物にならなくなっても、また印刷すればいい。
 布の周囲とぴったり重なるようにするか、1センチぐらい余白を作るようにするかは、どちらでもいいみたいだ。
 布と型紙を洗濯バサミで固定し、間にチャコペーパーを入れる。布とチャコペーパーと型紙をブスブスとマチ針で固定する。これがずれたら、柄が正確に写し取れない。
 専用のペンや道具を使って、柄をなぞっていく。
 わたしは、いまカゴメという基本的な模様をいくつも作成している。カゴメは直線しかない模様なので、柄を写し取るときには、定規と棘のついたローラー(ルレットと言うらしい)を使っている。棘によって型紙に穴が開いてしまうが、10回ぐらいは使い回しがきくことがわかってきた。
 ここまでできて、いよいよ刺し子を始めることができる。準備に全体の7割ぐらいの時間と労力がかかる。
 玉止めをしないで縫うので、これから縫おうと思う三目先の裏から針を入れる。そして、縫い始めようとするスタート地点まで三目戻す。糸の端は3センチぐらい出しておく。端まで戻ったら技を使う。ふたたび針を入れたところに向かって同じ刺し位置を使って針を戻す。糸が布から外れないようにするのがコツだ。糸は一本取りにしてあるので、この三目だけは往復で糸が重なるから、二本の糸が重なる。その後は、チャコペーパーで印をつけたところを刺し続ける。
 カゴメは直線が多いので、やや長めの針を使い、可能な限り、刺し切る。
 わたしは、右手の中指の関節を脱臼したことがある。そのときに正しい治療をしなかったので、右手の中指がげんこつをしたときに完全には戻りきらない。じゃんけんのグーをすると中指だけ、少し浮いてしまうのだ。鍼をする前は、硬貨を握っても中指がげんこつにならないので隙間ができて、10円玉や100円玉がこぼれ落ちた。鍼治療でだいぶ改善されたとは言え、まだ完全には戻りきらない。だから、指貫を使うことができない。指貫を使えば、一度にたくさんの目を刺し切ることができるだろうにと思う。
 布の端から端まで直線で刺し切る。次はとなりの直線を刺す。ここで、糸は布の間を通してとなりに渡す。
 やがて、糸は刺している途中で短くなってしまう。それでも限界まで刺す。針を抜き、次の糸をつけて、それまで刺してきた縫い目から三目戻って、重ねて刺していく。出ている糸の端は、1ミリぐらい残して切る。
 糸といえば、最初は長い刺し子用の糸を、使うときにどうすればいいのかわからなかった。だから、わざわざからまないようにほどいて、厚紙に巻きなおしていた。しかし、教本を見たら、糸の扱いも載っていた。刺し子用の糸は、幾重にも輪になって束ねられている。その輪を崩さないように一重の輪に戻す。途中を短い糸で3箇所ぐらい結ぶ。長髪のひとが髪を折って束ねているような感じにする。そして、片方の輪の端を裁ちばさみでジョキジョキと全部切ってしまう。こうすると、反対側から一本だけ糸を取り、スーッと抜くだけでいい。しかもみんな同じ長さになるので、刺すときにどこまで糸を使うかという目安にもなる。
 どんなものにもコツがあるんだと実感した。
 刺し子の約束は2つしかない。
 交差する場所では、空白を作る。仮に十字に交差するとしたら、縦も横も交差する点だけは糸を通さない。当然、裏では糸が交差する。  角は必ず一方のどちらかが取る。両方から刺してきて、角に達したときに、どちらか一方が角を取るようにする。両方で同じ角に刺したり、両方とも角から距離を取ったりはしない。
 この2つの約束だけを守りながら、ひたすらちくちく刺していく。

5841.1/26/2008
 去年の夏に初めて行った手芸店には、この半年で何度も足を運ぶ。
 そのため、店のひとが会計のときに、なにも言わないで領収書を切ってくれたこともあった。すっかり職人か業者だと思われてしまったらしい。
 あるとき、裏地にするいい布があったから、3種類ぐらい手にして会計を待っていた。わたしの前で会計をしていた若い女性が店員に尋ねている。購入したのは、わたしが最初に買ったキットの刺し子だった。
「一枚に縫えばいいんですか。それとも裏とあわせて二枚に縫えばいいんですか」
手芸店の店員は、返答に困っていた。手芸店の店員だからと言って、すべての手芸についての知識があるわけではないだろう。
 思わず、わたしはアドバイスをしてしまった。何を作るかによって違うんですよと。
「じゃぁ、裏には玉止めした糸のかたまりや、糸を渡したところが出てしまうんですね」
わたしも、同じ疑問を持ったことだ。
「玉止めをしない方法があります。もしも糸をどうしても渡したいのなら、二枚の布の間を通します」
 最近は、基本技術の習得のため、基礎的な作品を急がないで作っている。急ぐと、どうしても縫い目が均等にならず、出来上がってから不満が残るのだ。
 おかげで年末年始は、家にいてパソコンをつける時間が大幅に減った。刺し子も目を使うが、電磁波の影響はないので、こっちのほうがいいかもしれない。でも、かなり肩がこる。いつのまにか歯を食いしばっている。
 基本に戻ると、刺し子は模様を刺し子糸で刺す段階よりも、それまでの準備がとても手間がかかることがわかった。
 まず、作りたい作品の図面を描く。完成作品を想像し、縫い代をとる。ひとつの作品を仕上げるだけでは技術の習得にはならないから、同じ柄で3つから4つ作る。糸の色を変えれば、変化のある作品になる。
 布のサイズが決まったら、さらしを準備する。藍色の木綿布が適しているのだが、さらしに青や藍の色の糸を使うほうが基本練習としては安く上がっていい。
 切る前に、切ろうとする部分の横糸を抜く。布は刺している間に、縦糸と横糸がよれてしまうので、裁断のときに正確な直線を取っておく必要がある。横糸を抜く作業は、最初は困難を極めた。目がしょぼしょぼしてくる。せっかく一本の横糸を引っ張ることができたと思ったら、プチンと切れてしまう。どこから切れたのかを探す。また目がしょぼしょぼする。しかし、何度もやっているうちに、コツがつかめるようになった。今では、糸を切ることなく、1回ですーっと横糸を抜くことができる。横糸を一本抜くと、その部分は縦糸だけになり、見た目にも直線がわかる。その部分に裁ちばさみをあてて、慎重に切り抜く。ちょっとでもずれると、ピンと張っている横糸を切ってしまう。
 わたしが買ったさらしの幅は35センチ弱なので、花ふきんやランチョンマットを作るのに向いているが、教本では幅をもっと大きくとるものもあるので、さらしにもいろんな幅のものがあるのかもしれない。
 布が裁断できたら、二つ折りにして、折り返した部分は残して、そのほかの三箇所の端を縫う。さらしは白いので白い細い糸で波縫いをする。
 このときに、折って重なっている布を正確に縫い合わせていく。この段階でずれがあると、刺し子の途中で修正することができない。完成してアイロンをかけたときに、布がよれてかたよりが目立つ。
 わたしは始めこの行程を、やらないか、刺し子のなかで代用していた。しかし、やっている途中でどんどん表と裏の布がずれていき、端まで刺し終わったときに、後悔の残るよじれとあまりが端にできてしまった。どうすれば二枚の布をずらすことなく最後まで刺し続けられるのかを考えて、この方法にした。教本にも、すべての場合にではないが、こういう方法も載っていたので、あながち見当外れでもなかったのだろう。

5840.1/24/2008
 どんな布がいいのかわからず、大船の手芸店に行き、キットを買った。始めから、布に縫い目がプリントされているものだ。
 模様は昔からのもので、同じ模様の繰り返しだった。波縫いの連続だから、きっとすぐにできるだろうと、素人判断で始めた。しかし、同じ模様をひたすら繰り返して縫うのは、さすがに途中で飽きが来て「これは俺に向いていない」と投げ出した。
 それでも、数日出勤するたびにちくちく針を進めた。完成が近づいてきて、なんとか作品に仕上げた。すると、不思議なもので、もう少しほかの模様も作ってみたくなった。
 いま振り返ると、当時の模様は昔古来の「野分」「矢羽根」「麻の葉」というものだった。同じ模様が繰り返される刺し子の定番だ。
 作った刺し子の花布巾は、いつも世話になっているひとたちにプレゼントした。すると、わたしの想像を超えて、とても感謝された。
 難しいテクニックが必要なわけではない刺し子なのに、なぜとても喜ばれるのか不思議だった。その謎が解けたのは、デパートでたまたま販売している刺し子作品の値段を見たときだ。5000円とか6000円など、どれもとても高額だったのだ。
 そうか、刺し子は価値が高いんだ。
 これは、もう少し作ってみよう。
 そう思って、手芸店でほかのキットを買った。今度は伝統的な柄ではなく、サクラの花やウサギなど、現代的にアレンジされたものにした。
 サクラもうさぎも、曲線が多くて直線が多い矢羽根などよりも刺すのが難しかったが、それなりにできばえはよくて、やはりプレゼントすると、とても喜ばれた。
 プレゼントしたなかに、何かとお世話になっているわたしの師匠がいた。師匠は、できたひとで、受け取るときは感激してくれて、その後で
「縫い代は幅をそろえなさい」
「糸を渡しすぎないように」
「裁断は糸を抜いて正確に」と
適切な指導を段階的にしてくれた。
 花布巾、コースター、ランチョンマットなど、何種類かの作品を仕上げた。
 そのうち、オリジナル模様に挑戦した。昔から、与えられたものをその通りに仕上げるのが嫌いな性質だ。プラモデルも設計図通りに作ったためしがなかった。
 オリジナル模様では、直線的な幾何学模様やサクラの花びらを使ったコースターを作った。
 しかし、ここで師匠から、刺し子の本をプレゼントされた。一応、誕生日祝いだったのだが、きっと
「もっと基礎を学びなさい」というメッセージだったのだろう。
 その本をめくって、それまで疑問だったことが目から鱗が落ちるように解けていった。
 手芸店では、もうキットは買わないことにした。
 さらしを買う。裏地用に端切れコーナーで好みの布を買う。模様を写し取るチャコペーパーと、チャコペンなど、必要な道具を買う。アイロン台も買った。それまで完成した作品には表も裏もアイロンをかけていたのだが、刺し子の場合は表にはかけないのが基本だということを知った。
 また一枚布に刺し子をして、裏地をつけるときと、二枚布に通して刺し子をするときと、どんな違いがあるのかわからなかったが、師匠からの参考書で、基本は布を丈夫にすることだから、二枚の布をあわせて針を通すことを知った。一枚のときは、後で裏をつけるので、布の裏に糸を幾重にも渡しても表からは見えないのでごまかすことができた。しかし、二枚の布をあわせて針を通すと、裏側にも糸が出るので、模様の端で縫い終わったときに、近くの模様に糸を渡すことができない。そういうときにどうすればいいかも知った。

5839.1/22/2008
 昨年(2007年)の夏から、刺し子にはまっている。
 仕事の都合上、わたしは3年前から刺繍を始めた。
 特別支援教育では、通常の教科学習とは異なり、こどもの将来の自立へ向けて、作業的な学習が取り入れられている。こどもの能力と適正に応じて、作業学習のなかみが決められる。紙工作、工作、ちぎり絵、刺繍、編み物など、内容は多くある。いずれも、こどもが自分の力で取り組むことができ、作品を完成させるなどして、少しずつ達成感が味わえる内容だ。自立的課題とか課題学習という言い方をしている。
 手、とりわけ指には多くの神経が集中している。指をたくみにあやつることは、多くの神経を通して、脳に刺激を与え続けることができる。その刺激によってシナプスがのび、脳細胞の関係が強化される。
 また、指を使うことは目の働きと連携している。自閉症スペクトラムのこどものなかには、不注意症状をともなうケースが多い。視線が自分の興味あることにのみ向いてしまい、そのほかの情報をキャッチしにくい状態が不注意症状だ。注意欠陥という言い方もする。これは性格とか育て方の問題ではなく、脳の機能の問題だ。そういうこどもは、手先に神経が集中しないことが多い。しかし、本人の興味あることには目線が向くので、作って楽しい内容を用意することで、目と指の連携が強化されやすい。本人の興味あることを見抜くことは容易ではない。何度も手を変え品を変え試していきながら確かめている。
 もともと工作は好きだったので、はさみやボンドを使うのが好きなこどもには指導しやすかった。
 しかし、刺繍は自分がやったことがなかったので、こどもに提供しながら、かたわらで自分も同じようにトライし続けた。
 最初はスウェーデン刺繍から始めた。縦糸と横糸が4本から5本ずつ交差しているスウェーデン刺繍独特の布を使う。針も、普通の縫い針と違い太く長い。普通の刺繍とは違いスウェーデン刺繍は、糸を拾って縫っていく。そのため糸が布の裏に出ることはなく、比較的作業としては取り組みやすい課題だった。しかし、縫い方に制限があり、縫うパターンも限定されているので、幾何学的な模様としてはいいのだが、具体的な模様になると、どうしても思い通りにできない難点があった。
 次にある程度スウェーデン刺繍ができるようになったこどもには、クロスステッチを教えた。クロスステッチは糸と糸を交差させながら、自由な模様を縫う縫い方だ。糸が布の裏に出るため、見えない部分を想像する力が必要になる。また、布の目が細かくて、かなり集中力がないと途中で息切れをしてしまう難点があった。それでも、クロスステッチではスウェーデン刺繍よりも多くの作品をこどもたちといっしょに完成させた。
 完成作品は裏地をつけ、クッション・バッグ・ランチョンマット・ペンケース・タペストリー・コースターなどに加工した。そのときわたしは初めて袋縫いなるものを教わった。
 クロスステッチは、スウェーデン刺繍よりも模様に自由度があった。それでもデジタル模様の積み重ねで大きな模様を作るので、曲線ではどうしても角が立ち、なめらかさを表現することは難しい。
 そんなときに出会ったのが刺し子だった。
 刺し子は、波縫いの連続だ。基本的にはどんな模様でもかまわない。デザインに大きく自由度が増した。
 しかし、刺し子は完全に布の表と裏に糸を通すため、見えない部分を想像し、尖った針の扱いにも注意する必要がある。
 一般的な刺繍用の輪を使って指導しているひともいる。いくつもの刺し目を連続して針に通し、一気に糸を引き抜くのではなく、1回ずつ表と裏の刺し目に針を通していく。これはとても時間がかかるが、布が引っ張られているので、目が縫う場所に行きやすい。
 わたしは、自分が刺し子をやったことがなかったので、2学期以降の導入へ向けて、8月に出勤したときに修行のつもりで、ちくちくと刺し子を始めたのだ。

5838.1/20/2008
湘南に抱かれて-1985年春-
おまけ
 小説・湘南に抱かれての1985年春編は前号のウエイで終了した。
 小説では補えなかった1985年について、触れておく。
 1985年は元号でいうと昭和60年。干支は丑年。
 この年の大きな事故といえば、8月12日の日航ジャンボ機墜落事故があげられる。羽田空港を離陸し大阪に向かった日航ジャンボ機が、午後6時50分ごろ、後部ドアの破損を訴える緊急連絡の後、消息を絶った。午後9時すぎ群馬県の御巣鷹山の尾根で機体が発見され、奇跡的に4女性が救出されたが、歌手の坂本九ら乗客乗員520人が死亡するというわが国航空史上最悪の惨事となった。客室内の機密を保持するための後部隔壁がずさんな修理のため金属疲労をおこして裂けたため、垂直尾翼などが空中分解したのが原因とみられている。
 日本航空は、鉄道の国鉄と並んで、空の輸送機関としてはナショナルフラッグと自負する中心的な会社だ。多くの旅客機を所有し、国内はもとより世界の空港へ旅客機を飛ばしている。あまりにも巨大な会社組織は、すでに当時執筆に入っていた山崎豊子さんの「沈まぬ太陽」という小説で、権力闘争と労働者軽視の内部事情が暴露された。山崎さんは執筆中にこの事故を知り、予定にはなかったジャンボ機墜落事故編も追加執筆した。
 多くの人命を預かる飛行機会社が、安全よりも利益を優先し、役員たちが自己の保身と権力の維持のために労働者を軽視する体質のなかで悲劇が起こった。
 もともと飛行機に乗るのが嫌いだったわたしは、この事故を教訓に、その思いを新たにしたのを覚えている。
 安全の上に安全をさらに考慮したなかで、それでもふ不可避の事故に巻き込まれたのなら、仕方がないとあきらめるかもしれないが、乗客の安全を軽視するなかでの事故に巻き込まれるのはまっぴらごめんだ。過失や不運という類の事故として片づけるのではなく、明らかにいくつもの無責任体質が重なったなかでの人災という認識を会社がどれだけ認識したのか、事故直後も、あれから20年が経過したいまもわたしのなかにはすとんと落ちないものがある。
 おりしも3月10日には青函トンネルが開通した。
 飛行機や船舶を使わなければ行けなかった大好きな北海道に、これまた大好きな鉄道を使って行くことが可能になった。
 無理をして飛行機を使わなくても、これで沖縄や離島以外は鉄道で行けるようになったと、ずいぶん喜んだものだ。
 未知の病が世界中を席巻し、ついに国内に患者第一号が発見されたのが3月22日だった。「現代の黒死病」と言われたエイズ患者を厚生省が認定したのだ。その後、国内では同性愛者を中心にエイズが広がっていく。しかし、実際には血液製剤による薬害問題としてのエイズ感染のほうが水面下で広がっていた。ジャンボ機墜落事故の日航と同様、学会や製薬会社の無責任体質が大きな悲劇を生んでいく。
 また反面、行政のなかから社会創造のうねりも生まれた。
 広島市議会は全会一致で非核宣言都市を採択した。「自治体と住民が主体となり、核兵器の製造、持ち込み、保有を許さない」という宣言だ。この宣言はその後、全国の都市に広がって行った。戦争が終わったとはいえ、アメリカ軍が駐留する自治体では、鉄条網に囲まれた治外法権地帯が多く、どこの国の領土だと疑ってしまう光景が残る。わたしが勤務した葉山。そこに至る逗子には池子弾薬庫跡地があり、それをアメリカ軍住宅として利用する防衛施設庁(当時)と反対する地元との大きな対立が1985年以降続いた。
 自治体の社会創造のうねりと逆行するように、「日本列島はアメリカの浮沈空母」発言をした当時の中曽根首相は、8月15日に戦後の首相としては初めて靖国神社を参拝した。個人として参拝してのではなく、首相として参拝したので、アジア諸国からの大きな反発を招いた。
 労働白書では、前年の84年の女性の就労人口が、初めて1500万人をこえ、家事専業主婦の人数を上回ったと報告している。
 夫が働き、妻が家事という戦後日本が理想としたアメリカ型ホームイメージが変わっていく。
 山田太一脚本の「岸辺のアルバム」が崩壊していく核家族を描写したのは当時のことだっただろうか。

5837.1/19/2008
湘南に抱かれて-1985年春-
5-7
 あしたからの俺の生活はどうなるんだろう。
 朝、起きたときに、どっちが先に起きているんだろう。
 いったい、酒田には何があったのだろう。そして、酒田はなぜ俺のアパートに転がり込んできたのか。
 おふくろ。何か、この件には深くおふくろがからんでいる気がする。
 このアパートの合鍵を持っているのは実家のおふくろだけのはずだ。酒田はまさか大家に鍵を借りたわけではないだろう。どこのだれだかわからない人間に鍵を貸すような大家では、こちらは安心して生活できない。
 22歳の男女が同じアパートの部屋で生活をしたら、ひとはまず同棲か新婚と見るに違いない。恋愛感情抜きで、本当に互いを意識しないで生活することなどできるのだろうか。

 アルコールの酔いも、一日の疲れもすっ飛んで、秀夫の脳は活発に働いていた。目がらんらんとして、眠れそうにない。

 教員を目指してきて、夢がかなった。
 一人暮らしをしたかったわけではないが、「勤労者の住む場所はない。生活場所を見つけろ」という親父の命令でこのアパートでの生活を始めた。親元で私生活を管理されたなかで息苦しさを覚えるよりも、自由な空気が吸いたいと思っていたので、その命令はラッキーだった。
 しかし、一ヶ月生活してみて、一人暮らしとはとても大変なものだと実感した。
 そこに、小学校の同級生が転がり込んできた。しかも女性だ。
 こんなことが本当にあるのだろうか。これは悪い夢なのか。夢なら覚めてくれ。いや、覚めてしまったら、教員になったことも消えてしまうので、それはやばい。
「ヒデ」
 ふすまの向こうから、三重の声がした。まだ起きていたのか。
「ん」
 秀夫は目が冴えていた。
「なるべく早く自分の生活場所を探すようにするからね」
「あー」
 そうしてくれないと困るよという気持ちと、無理して出て行かなくてもいいよという気持ちがせめぎあう。
 湘南、鎌倉、深沢。1985年5月7日が暮れていく。
(おわり)

5836.1/17/2008
湘南に抱かれて-1985年春-
5-6
 秀夫の額に汗が流れる。ずいぶん長く湯船につかっている。もう出たいのだが、三重がドアの向こうにいてなんだか出づらい。
「俺が」どうして怖いのよ。こんなに受け入れがいいのに。
「変なことをしないでね」
 いつも一方的な喋り方をする三重が、物事を頼む言い方をするのは珍しかった。その声はかぼそくも、芯がしっかりしていた。
「うん」
 えーえー、どうせ男は野獣。理性よりも本能が上回るときがあるかもしれません。じゅうぶんコントロールするように自分に言い聞かせますよーだ。
「そういうときは、わたしからするから」
「バーカ、俺にだって選ぶ権利はあるんだよ」
 互いに、回鍋肉を食べたときのテンションに戻る。
「そろそろ出たら、のぼせちゃうよ」
「アホ、お前がそこにいるから出にくいんだろうが」
「はい」
ドアが少し開いて、熊の絵が描いてあるタオルを三重が風呂場のなかに差し入れた。秀夫は湯船から出て、それを受け取る。ドアの隙間から向こうを見ると、三重はこちらに背中を向けて手だけ後ろに回していた。タオルを受け取りドアを閉める。
「下着と寝巻きは、ここに置いておくよ」
「ありがとう」
 なぜだろう。自然に感謝できる。
 秀夫はからだをふいて、台所で着替える。三重は奥の部屋に行ったらしい。
 今夜中にやらなきゃいけないことがあるように思ったけど、いまから何かをする気にはならない。なんとかなるだろう。いやかなりやばいかもしれない。でも、いまは布団に入りたい。台所の壁にあるコンセントにドライヤーをプラグをさして、髪の毛を乾かす。奥の部屋からは物音ひとつしない。ドライヤーの乾いた音だけが響く。
 秀夫は台所の照明を消した。中央の部屋に行き、布団を敷いて横になる。
 天井の中央にある電灯からは、寝ていても手が届く距離にひもが伸びている。布団から出ていちいち電灯を消さなくても済むように引っ越してきてすぐにつけたものだ。
 布団の中で両手両足を伸ばしてあくびをする。伸びた手でひもを引っ張り照明を消す。
 待てよ、もし夜中に酒田がトイレに起きたとき、ここを通過するわけだから、真っ暗だと踏んづけられるかもしれない。
 秀夫はもう一度照明をつけ、豆電球にした。
 気にしようとしなくても、ふすまの向こうが気になってしまう。

5835.1/16/2008
湘南に抱かれて-1985年春-
5-5
 食器洗いをしている間、三重はちゃぶ台を片付け、ふすまを閉めた。パジャマにでも着替えるのか。
 秀夫は歯を磨き、まだ風呂の種火が点いていることを確認して入浴した。洗面所がない部屋なので、脱衣所もない。洗濯機はドアの外の通路に出してある。いつもの習慣で脱いだ服はそのまま台所に脱ぎちらかした。
 顔を洗う。髪の毛を洗う。からだを洗う。全身の汚れや汗を洗い落として、湯に入る。狭い湯船だから、膝を抱えなければならない。湯気を通して、通路に面した窓枠に秀夫が使わないシャンプーとリンスを見つけた。きっと、酒田のだ。
 そのとき、窓の向こうの洗濯機がまわる音がした。しまった。脱いだ服をいつものように台所に置いてきた。下着も。秀夫はあわてて窓を開ける。そこにはもうひとの姿はない。スイッチを入れられて自動的に洗濯をする機械だけがあった。窓を閉めて湯船につかる。
 あいつは、何を考えてるんだ。どうやってここの鍵を手に入れたんだ。そもそもどうしてここにいるんだ。聞きたいことがうずになっていたけど、どれから聞けばいいのかわからない。質問攻めにしてしまうのは、なんだかいまの酒田には酷な気もする。おいおいわかってくることなのか。でも、そんなに長い期間、居候をするのだろうか。結婚するって言っていたよな。結婚相手がこのことを知ったら、俺は袋叩きに遭う。ひえー。でも、22才の男女が一つ屋根の下でいっしょにいたら、いくとこまでいっちゃうでしょ。
「ヒデ」
風呂場のドアは曇りガラスになっている。そのガラスに三重の影が映っている。
「わたし、怖い」
そりゃ、そうでしょ。結婚を間近にした女性がこんなことをして、だれかに知られたら結末はどう考えてもハッピーにはならない。だれかに知られたらって、そもそも酒田の実家ではいまごろ大騒ぎになっているはずだ。すでに実家は娘の行動に気づいているんだ。
「どういういきさつか知らないけど、無理に喋らなくてもいいよ」
本当は喉から手が出るほど聞きたいんだけど。風呂場の声はエコーがかかって、よく響く。
「そういうことじゃない。それは、もう自分で整理してきたから」
「整理って」
聞いてしまう。答えが返ってこない。何もいま聞くんじゃなかった。三重の影が小さくなった気がする。泣いているのか。秀夫は自己嫌悪に陥り、口まで湯につかる。
「深沢のスーパーであしたからパートで働く契約をしてきた」
プッ。うげ。口まで湯につかったまま秀夫はふいた。ふいた口に湯が逆流して喉につまる。
「きょうだけじゃなくて、ここに住むってことなの」
「あしたもいいよって言ったじゃん」
「それは」弾みでしょ。
「しばらくここに住むことにした」
ここの住人は俺だぜ。ふつう俺の許可が先にあって、それから物事を進めるんだろう。家賃は俺が払っているんだし。
 三重は言葉を続ける。
「だから、パートの収入で家賃は援助するよ」
「じゃぁ、何が怖いわけ」
「ヒデが、怖いんだよ」

5834.1/15/2008
湘南に抱かれて-1985年春-
5-4
 三重は内側からドアのチェーンを外した。
 秀夫は、なかに入ってドアを閉めた。ふたたび、三重は台所に戻りレンジに火をつけて炒め物を作り始めた。
 秀夫には何がなんだかわからない。これが一人暮らしってこと。これが自由ってこと。これが湘南のアバウトさってこと。頭のなかに疑問符が浮かんだ。
 台所を通過して、寝室にしている和室に向かう。その向こうが小さなちゃぶ台やテレビのある部屋だ。しかし、最近は奥の部屋に布団を敷いたままにすることが多かった。寝室の和室に、いつもは奥の部屋にある秀夫の私物が移されている。まさかと思って奥の部屋を覗くと、可動式の洋服がけに女物の洋服が数着かかっている。見たことのない小さな鏡台があり、口紅とブラシが置いてあった。
 あいつ、きょうだけって言いながら、しばらく居座るつもりかな。
 荷物を置いて台所に戻る。秀夫の部屋には風呂と便所はあるが、洗面所はなかった。手洗いや歯磨きは台所のシンクでする。レンジで炒め物をしている三重の横に行って蛇口をひねる。コップに水を入れてうがいをする。両手に水を受けて顔を洗う。風呂場のドアにかけてあるタオルで顔をふく。熊の絵の描いてあるタオルだ。そうだ、これは酒田がおふくろを通して俺にくれたんだ。
「できたよ、回鍋肉。さぁ、食べよう」
三重は、フライパンから回鍋肉を大皿に移し、奥の部屋に運ぶ。できたてを食べないときっと怒ると思い、秀夫も後に従う。
 さっき荷物を置くときには気づかなかったが、ちゃぶ台には小皿と箸が2セットずつ用意されていた。箸はなぜか夫婦箸だった。
「乾杯をしなきゃ」
 三重は、ふたたび立ち上がり台所に戻り冷蔵庫を開ける。缶ビールを2本持って戻ってきた。
 ふたりは、ちゃぶ台に向かい合わせに座り、缶ビールのプルを抜く。三重が先に缶を持つ手を上げて、秀夫がそれに缶を合わせる。
「かんぱーい」いったい何に乾杯なんだ。
 すでに軽い夕食を済ませ、ビールも飲んできた秀夫にはこのビールは苦く感じられた。
「帰りに飲んできたでしょ。せっかく冷して待っていたのに。バーカ」
「バーカって、お前か、駅の伝言板にメッセージを書いたのは」
 酒田は、うふふと笑う。
「でも、あれ、書いた時間が20時だったぜ。それからここに来て、これだけいろいろ荷物を運んだり、料理を作ったりしたわけ」
「風呂も洗ったよ。わたし先に入っちゃった」三重の飲みっぷりはいい。
「よくそんなわずかな時間でたくさんのことができたな」
「相変わらず、考え方が直線的だね。そんなことできるはずないじゃん。少しはよのなかを疑ってかかれ」もうビールは残りが少なくなっている。
「ま、いっか」酒田といるとよけいなことはどうでもよくなってくる。
「そう、どうでもいいのよ。さぁ、食べて」
 回鍋肉は、キャベツのしゃきしゃき感と豚肉のジューシーさがマッチしていた。くやしいけど、秀夫がクックドゥで作る回鍋肉よりも数段おいしかった。テンメンジャンと豆板醤の利かせ方がうまい。
 秀夫は、いま自分が置かれた状況を整理するのをやめて、回鍋肉を味わうことと、ビールが合うことに神経を集中した。気分が大きくなって、つい「あしたもいていいよ」と言ってしまうほどに。

5833.1/13/2008
湘南に抱かれて-1985年春-
5-3
 鍵穴に鍵を挿した。そのとき、ドアの隙間から光が漏れていて、通路の自分のからだが照らし出されていることに気づいた。
 わー、ぼけたぁ。部屋を間違えるところだった。
 あわてて、鍵穴から鍵を抜く。
 いや、待てよ。部屋が違ったら、鍵がそもそも入らないはずだ。ドアから少し離れ、秀夫は通路の部屋を確認する。一階の端が秀夫の部屋だ。これ以上向こうに部屋はない。表札は出していないけど、部屋番号は秀夫の知っている番号だった。
 どういうこと。少し酔った頭では、深い考えが浮かばない。
 ま、いいか。もう一度、鍵穴に鍵を挿した。ロックを外す。ガチャ。開いた。やぱりここは俺の部屋だ。ドアを手前に引く。ガン。ドアチェーンがかかっている。
 え、そんなはずはない。
 出てくるときにドアチェーンをかけることはできない。
 だれか、中にいるのか。
 よく見ると、ドアの隙間から、台所の人影が見えた。おふくろか。フライパンで炒め物を作っている。炒める音で、ドアの物音に気づかないらしい。
「あのぉ」どうして、俺が遠慮しなくちゃいけないんだ。
 人影は、秀夫の声に気づいて振り返った。酒田だった。ショートヘアなのに、後ろをあげて、大きな洗濯バサミみたいな髪留めで押さえていた。エプロンは俺のではなかった。素足にジーンズをはいていた。背中に、SHONAN WINGとプリントされたTシャツを着ている。レンジの火を止めて、ドア口に来た。台所の照明を背中に受けるかっこうで、秀夫からは顔が逆光になり、表情がよく見えなかった。
「お帰り」とても自然な言い方だった。
秀夫も思わず「ただいま」と言ってしまった。
「遅いじゃん」少し、口を尖らせているようだ。
「なんで、お前がいるんだよ」
「きょう、ここに泊まる」
「えー」いつも、酒田はやることが突然だ。
「だめなら入れてあげない」
「そういうのって変じゃない」
少しだけ開いたドアをはさんで秀夫と三重がやりあう。
「じゃぁ、閉めるよ」
「なにそれ、わかった。泊まっていいから、とりあえず、ここを開けてよ」
「とりあえずって言い方、気になるなぁ。なかに入ってから追い出そうとしてるんでしょ」
「そういうわけじゃないから」そういうわけだよ。お見通しだなぁ。
「だから、秀夫は思っていることが顔に出るって」
「しょうがない。きょうは泊まっていいよ。これ、本心」覚悟を決める。

5832.1/12/2008
湘南に抱かれて-1985年春-
5-2
 連休に久しぶりに会った酒田のことが思い出された。
 あいつは、今頃、どうしているだろうな。
 結婚を控えて、いろんな準備をしているんだろうか。おふくろに相談していると言っていたから、そのうちにどんな相談を受けたのか、聞いてみようかな。でも女同士の絆は強いから正直には教えてくれないかもしれない。
 秀夫は、21時ちょうどの湘南モノレールに乗った。
 懸垂式の湘南モノレールは、座っていないと大きく揺れるのでからだが倒れそうになる。混んでいて倒れたくても倒れない状況なら別だが、空いているときは、座ったほうが安全だ。戸口に近い席が空いていたので、そこに秀夫は座った。富士見町、湘南町屋を過ぎて、湘南深沢で降りた。
 駅からアパートまでの道は、あまり街路灯がないので暗い。
 それでも鎌倉山から吹き降ろしてくる風に吹かれていると、気持ちが良くて、暗がりの不安はなくなる。

 一人暮らしを始めて一ヶ月が過ぎた。
 最初は期待のほうが不安よりも大きかった。自分だけの空間で自分だけの時間を過ごせる。ずっと家族と暮らしてきた秀夫には、だれにも左右されない自由というものが実感できにくかった。だから、引越しの荷物をまとめるのは内心では楽しかった。
 しかし、実際に一人暮らしを始めると、期待していた自由は、とてもハードなものだということがすぐにわかった。生活を維持するためにしなければならないことが多すぎて、それをさぼると生活が目に見えるかたちで、どんどん崩れていくのがわかった。毎日の風呂の掃除、週末しかできない部屋の掃除、ごみの片付け、布団の上げ下ろし、食事、靴の手入れ、洗濯。これできれいになっただろうと、ホッとしてサッシの枠を見ると埃が薄く積もるのを発見する。たまる一方の新聞や広告、自動引き落としの残金を入金しに行かなければならないこと。買い物。
 こういった最低限のことをやった後に、体力と時間があれば、仕事の続きをすることができた。しかし、多くは時間はあっても体力が残っていなくて、すぐに寝てしまい、気づくと翌朝になっていた。だから、あわただしく感じた4月は、秀夫にとってあっという間の出来事だった。いかに、自分を育ててくれた母や祖母が偉大だったかがわかった。実家にも顔を出さなきゃと思いながら、時間はあっても体力がなく、せめて電話だけでも引こうと思っても、手続きが面倒くさそうでやらないままでいた。
 一人暮らしを始めて、愕然としたのが、夕方から夜にかけてアパートに帰ると、部屋の中が暗いことだった。
 だれもいないのだから当然のことだが、それまでの生活との大きな違いを実感した。
「ただいま」と言っても、帰ってくる言葉はない。話し相手がいないのだから、自分が喋らない限り、声は響かない。ついついラジオやテレビをつけてしまう。でも、それは音を満たすだけで、コミュニケーションの相手にはならない。こっちも向こうも互いに、相手を意識しない情報を発しあうだけの苦しい空間だ。だから、最近ではラジオやテレビもつけなくなった。映画やスポーツなどをじっくり観ようというときぐらいしか、番組を見ない。
 せめて、夕方になると、自動的に部屋の明かりがつくような機械があればいい。でも、こんなに家賃の安い完全に木造のアパートで、そんな機械化された設備を期待することはできない。通路で、暗がりのなか、キーホルダーから部屋の鍵を探すとき、いつも少しだけ寂しさを感じた。なかなか鍵が見つからなくて、あせっていると、となりの大家の飼い猫が、ざまあみろという鳴き声をして、足元をすり抜けていく。
 蹴っ飛ばしてやろうか。
 今夜は、ラッキーなことに一発でキーホルダーから鍵を見つけることができた。

5831.1/11/2008
湘南に抱かれて-1985年春-
5-1
 午後8時を過ぎた逗子駅。
 秀夫は、田辺と改札口で別れる。
「まったく、あの2人は、平日だっていうのに、まだ飲みに行くんだから、大丈夫なのかな」
田辺が呆れていた。佐藤と立木は、万紫美を出てから、さらにもう一軒行くと言って肩を組んで歩いて行った。
「いつものことだから、気にすることはないと思うけどな」
きっと、あしたは2人とも酒臭い。もしかしたら、きょうと同じ服装かもしれない。こっそりチェックしよう。
「じゃぁ、わたしはタクシーで帰るから、気をつけてね」
田辺はタクシー乗り場に向かった。逗子市内に両親と暮らしている田辺は、タクシーでもワンメーターの距離だった。
 秀夫は、改札を通り、横須賀線の上りホームで電車を待つ。反対側の下りホームに到着する電車からは、通勤客がたくさん降りてくる。これから逗子や葉山の自宅に戻るひとたちだ。スーツ姿のひとが多い。年齢層は様々だが、この時間に戻ってくるのだから、あまり付き合いのいいひとたちではないかもしれない。あたりはすっかり暗くなっていた。
 電車が来るまでの間に週案を出して、メモを確認した。
 しまったぁ。小出さんに電話の申し込み方法を聞くのを忘れた。米も買わなきゃいけないけど、この時間からじゃ持って帰るのが面倒だなぁ。あしたの朝は、ヨーグルトでもいいか。床屋はもう終わっているから、予約もできない。
 やろうと思っていたことが、ちっともできない日常がまた始まる。時間がたっぷりあった大学時代までと違い、就職したら、一日があっという間に過ぎていく。少なくとも昼間は、自分の時間なんて確保できない。
 横須賀方面からの上り電車に乗る。
 座ってしまうと、疲れと酔いから寝てしまいそうだから、戸口に立って、暗がりの窓の景色を眺める。
 鎌倉、北鎌倉が、あっという間に過ぎた。もしかしたら、立ったまま寝ているのかと思うほどだった。
 さっき、週案をチェックしたときに、あしたの授業の流れを見た。算数のテストを返して、間違い直しをすることになっていた。そのためには、やはり、帰ったら今夜中に集計しなければならないことに気づいた。まずは、風呂を沸かして汗を流そう。まだ冷蔵庫にはビールがあったっけ。
 ふと、気づくと、横須賀線は大船駅に到着していた。
 ホームから、大船観音の大きな姿が見える。下からライトアップされた姿は、懐中電灯で自分の顔を顎から照らして「おばけー」とひとを驚かせているようだ。
 改札口に続く階段を上がる。伝言板と書かれた小さな黒板がある。
 待ち合わせのひとや、急な連絡に使う黒板だ。いつもは気にも留めないのに、きょうは違った。
 黒板に使うチョークは白のはずなのに、黄色のチョークで目立つように「秀夫のバーカ」という字が見えたからだ。
 なんだよ、いろんな秀夫がいるとは思うけど、こんな書き方はないだろう。俺みたいに無関係な人間まで、バカにされているようで頭にくるじゃん。
 書いた日付はきょうだった。書いた時間は、20:00になっている。ついさっきだれかが書いたんだ。よく見ると、「バーカ」の下に「M.S」とイニシャルが書いてあった。みえ・さかた。まさかね。

5830.1/10/2008
湘南に抱かれて-1985年春-
4-11
「だから、ちゃんと謝りましたよ」
立木の顔を見て答えた。次の瞬間、すぐに分度器と赤ペンを持つ。
「また、そうやって、お仕事をしちゃう。だいたい、何なんだよ。その仕事は」
見ればわかるだろ。算数のテストの採点だよ。
 言いかけた言葉を飲み込んで、秀夫は作業を続ける。この一枚が終われば、食事や会話にも気兼ねなく参加できるのだ。
「まぁ、いいじゃないの。若いうちは要領をつかむことも大事なんだから、こういうところにまで仕事を引きずらないように少しずつ学習していくよ」
佐藤が立木をなだめる。
 そうかなぁ、佐藤さんはいつも甘いんだよなぁ。納得がいかない感じで立木は、田辺と佐藤との会話に戻っていった。

 秀夫は、最後の一枚の最後の問題の採点を終えて、ふーっとため息をつく。
 目の前のビールに口をつけ、これが本当の仕事の後の一杯だなぁと思った。
 集計は、帰ってからにしよう。この先、こどもたちの各教科の成績が記録してあるノートを出して、採点したテストの集計をしたら、今度は立木だけではなく、ほかの2人からもクレームがつくかもしれない。
 答案用紙をまとめてリュックにしまう。
「お待たせいたしました。内職は終了です」
秀夫は、少しビールがまわった口調でほかの3人の会話に参加する。
「音楽をやっていると、クラスの雰囲気やこどもどうしの関係がとてもよくわかるのよ」
田辺が説明をしている。
「どういうこと」佐藤が尋ねる。
「だって、歌を歌うことができるかどうかで、すぐにわかるんだもん」
「うちのこどもたちは、うるさいくらい声がでかいでしょ」立木が、女将が運んできたイサキに箸をつけながら聞く。
「そうね。ここにいる3人のクラスは、みんなお世辞抜きに元気に歌うわよ」
「それって、授業がやりやすいってことなの」佐藤がいじわるな質問をする。
「そういうことじゃないの。歌って、歌うひとがいたり、歌わないひとがいたりすると、どんどん低いほうに流れていって、どんどん全体のボリュームが小さくなっていくんだ。まじめに歌っているひとを、歌わないひとたちが、しらけた目で見るようになるのよ。出る杭を打つみたいな状況。それは、こどもどうしの関係があまりよくないことを意味しているの。目に見えない仲間はずれや、いじめがあることを示しているのよ。ボス的な存在が、自分の権威を示すために、自分と同じようにしないこどもを選別していくわけ。そうなると、音楽の時間だけじゃ、どうにもならない。だから、多少、音程が外れていても大きな声で周囲を気にせずに歌うこどもたちが多いクラスは、まったく問題がないのよ」
「へー、そういうもんなんですか」秀夫が感心する。

5829.1/8/2008
湘南に抱かれて-1985年春-
4-10
 佐藤も立木もタオルを両手で広げて、顔を拭く。
 親父くせぇ。秀夫はそれを見て、いつもそう思う。田辺はさすがにそんなことはしない。でも、2人のそんな仕草を自然に眺めていた。
「静香ちゃんは逗子が長かったから、ここにもよく来たでしょ」
立木がもう田辺をくどく。田辺は、この春に逗子の小学校から長田小学校に異動して来た。着任は新採用の秀夫と同じだ。
 秀夫は、3人の話題に入る前に、リュックから算数の答案用紙と赤ペンを出した。ここでやらないとあしたまでに採点できない。
 いらっしゃい。まいどどうも。あたりめ、まだぁ。生ビール入ります……
 喧騒の中で仕事をするのにも慣れた。佐藤も立木も最初は、そんな秀夫のことを馬鹿にしたが、やりたいようにしなさいという基本スタンスだったので、秀夫は納得がいくようにさせてもらっていた。田辺だけが不可解な表情で秀夫を見たが、気にせず採点を続けた。
「兄さん、ここで分度器を出してちゃ、仕事がバレバレだね」
包丁を洗いながら店主が笑う。
 分度器がないと、この問題は採点できないんだよ。
「えーと、きょうは何にします。まだ時期は早いけど、イサキが入ってるよ」
ビールジョッキを運んできた女将が注文を聞く。
「もうイサキが入ってるんだ。早いねぁ。じゃ、塩焼きにして。それとしったか盛り」
趣味で釣りをする立木が素早く反応した。
「じゃぁ乾杯するぞ。おい、秀夫、まだやってんのか」
ずっと向こうの佐藤がせっつく。はいはい。秀夫もジョッキを手に持つ。
「じゃぁ、長田の若きアイドルに乾杯だぁ」
「もう25なんだからアイドルなんかじゃないですよ」
田辺が照れていた。
 ジョッキを口につけ、一気に半分ぐらいのビールを胃袋に流し込む。ふーっと息を吐く。秀夫は、ふたたび採点作業に戻る。あと一枚で終了だ。
 そのとき、となりの立木がコツンと秀夫の頭を叩いた。
「いて、何ですか」
「お前、きょう静香ちゃんの授業をすっぽかしたんだってなぁ」
あ、言っちゃったんだ。田辺さん、それはないだろう。瞬間的に田辺を見たら、いじわるそうに笑っていた。
「いや、はい。まぁ」
「はっきりしねえやつだな。ちゃんと詫びたか」
「そりゃ、もちろんです」と言いながら、秀夫は、答案用紙に分度器をあてて、角度を確かめる。
「お前、そういうながら族はいけないなぁ。話をするときはちゃんと手を休めて話をしなきゃ」
違うだろ。仕事をするときに、話をしながらするほうがいけないんだろう。もう、あとひとりなのに。

5828.1/7/2008
湘南に抱かれて-1985年春-
4-9
 教員の仕事は、休憩も休息もないまま連続8時間勤務だということを、大学時代に知っていれば、秀夫は教職を選択しなかったかもしれない。
 さらに勤務時間前と勤務時間後にどんなに仕事をしても、なんの手当てもつかないことを知っていれば、秀夫はミュージシャンの道にまい進したかもしれない。
 4時15分に仕事が片付く教員など、ほとんどいない。実際には6時や7時まで学校に残り、各自の仕事をしていた。ただ働きが恒常化していた。

 職員玄関に行くと、すでに立木も田辺もドアの向こうで待っていた。
「すみません。いま行きます」
秀夫は、あわてて自分の靴箱から靴を出して、外に出た。
 校舎の西側の壁には、オレンジ色の太陽の光が少しだけさしていた。まだ夕暮れには早いけど、これから夕焼けの色に変化していくのだろう。遠く丹沢の山並みに沈んでいく太陽。いつもは、職員室から見ているが、きょうは飲み屋なので気づきそうもなかった。
 佐藤と立木と田辺と秀夫の4人で階段を降りて、逗子の町まで歩く。バスに乗ればすぐだけど、横須賀方面から来るバスは途中の渋滞を含めて時間通りに来たためしがない。バス停で3個ぐらいで逗子に着くので、それぐらいは歩く。
 桜トンネルを抜け、葉山町から逗子市に入る。京浜急行の逗子駅方面に曲がると、逗子市役所が見える。ちょうど、その建物の向かいに、万紫美と書いて「ましみ」と読む小料理屋があった。引き戸の横には「エビスビールあります」という幟が立っていた。暖簾をくぐって、4人は店内に入る。
 まだ5時前なのに、店内は混んでいる。この時間に居酒屋に寄ることができる職種は限られている。きっと多くは逗子市内の公立学校の教員か、早めに退庁した市役所のひとたちだろう。店内は、カウンターが10席ほどで、4人がけのテーブル席が10席ぐらいある。照明は明るく、壁には手書きのメニューが貼ってある。秀夫はまだ葉山に勤務して2ヶ月も経っていないのに、万紫美にはもう数え切れないくらい立ち寄っていた。ひとりで来ることはなく、たいていは佐藤や立木がいっしょだった。
 カウンターの向こうで店主が魚をさばく。刺身包丁や出刃包丁を使い分けて、アジやサバをきれいにさばく。見事なほど、ツルツルの頭には日本手ぬぐいが鉢巻のように巻いてある。
「いらっしゃーい。お久しぶり、連休中は元気だったの」
常連の佐藤に店主が挨拶をする。
「久しぶりって、一週間前に来たじゃん」
「一週間も前なんて、大昔だよ。ちょっと混んでいて、カウンターしかないけどいいかな」
 秀夫たち4人は、カウンターの端がちょうど4席空いていたので、そこに座る。秀夫は壁に近い席に座り、となりに立木、その向こうに田辺、反対側の端に佐藤が座った。どうせ、佐藤と立木の目当ては田辺だろうと秀夫は思っていた。
「はい、お帰りなさい。まずはビールかな」
割烹着にエプロン姿の女将がお手拭を配りながら聞く。
「あー、4つお願いね」
佐藤は、メンバーに確認も取らずに注文する。
 カウンターの前には台があり、その上に大きな皿がいくつも並んでいる。そこにはしょうゆやみりんで煮た貝が入っていた。しったか、とこぶし、はまぐり、さざえまで、秀夫は名前を覚えた。

5827.1/6/2008
湘南に抱かれて-1985年春-
4-8
 時計は午後4時を指していた。
「それじゃ、定時退社ね」
「えー、定時ですかぁ」 
算数の角度のテストの採点が残っていた。仕方がない。飲み屋で続きをしよう。

 急いで更衣室に行き、着替える。
 後から立木が入ってきた。着替えながら秀夫に聞く。
「どう、2組のこどもたち」
「はい、とても元気ですよ」
「だろ、俺は別れたくなかったんだ。あの子たちと」
 またその話題か。立木はいま秀夫が担任している4年2組のこどもたちの3年生のときの担任だ。こどもたちはクラス替えがなかったので、3年と4年の2年間、同じメンバーだ。ふつう担任も持ち上がるのだが、新採用の秀夫を担任にするために校長が立木にもう一度3年の担任を頼んだ経緯がある。
「そんなに、いまの3年生は大変なんですか」
「バカヤロー」
コツン。頭をはたかれる。
「だれもそんなことを言っているわけじゃないの」
怒るところがあやしい。まだ1学期が始まって2ヶ月も経っていないのに、もう行き詰っているのか。
 秀夫は職員室に戻り、リュックに算数のテストを入れた。胸のポケットに赤色のペンも入れる。
 もう5月になっているのに、クラスの歌を作っていなかったなぁ。
 秀夫は、机上のカレンダーを見ながら考えた。中学のときからギターを弾きながら人前で歌う活動を続けてきた。グレープやかぐや姫の歌をコピーしては歌っていた。高校に入ってからは見よう見まねで作詞作曲をした。大学では音楽喫茶で定期的にオリジナル曲ばかりのライブもやった。だから、教員になったらクラスの歌は自作しようと思っていた。4月の歌は、準備期間がたっぷりあったので、始業式に間に合うように作った。5月の歌は4月にこどもたちの様子を見ながら作ろうと思っていた。自分がこどもたちに伝えたいことや、反対にこどもたちから学んだことを歌詞に託して曲をつける。おおよそのモチーフはできていたが、ギターとペンを手にして譜面に起こす作業をするゆとりがなかった。
 今週中には作ろう。でも、そんな時間があったっけ。週案を開く。放課後に何も行事や会議が入っていない日を探す。
「おい、もう定時だ。行くぞ」
背中で、すっかり帰り支度をした佐藤が声をかけた。秀夫は、あわてて週案を閉じて立ち上がる。
 4時15分になっていた。
 労働基準法では、6時間を越える労働では、事業主は45分の休憩と15分の休息を労働者に保障しなければならないと規定している。ふつうは昼食の時間が休憩休息になるが、給食も指導の一貫なので、教員たちは学校を離れて休憩することは許されていない。だから、休憩や休息の時間を一日の労働時間の後半に持ってきていた。8時半から勤務を開始し、労働時間の8時間を経過した16時半以降に休憩時間をつける。さらにそこから15分の休息時間を前倒しすると、午後4時15分が勤務終了の時間になる。

5826.1/4/2008
湘南に抱かれて-1985年春-
4-7
 単元計画の作成は、時間とともに細部に絞り込まれていく。
 単元目標。単元設定の理由。指導計画。指導案。評価。
 その日の研究会では、指導計画まで検討することができた。
「それじゃ、指導案は分担して次の研究会までにやってくることにしよう。戸崎さん、指導案ぐらいは大学で書いたことがあるでしょ」
「はい。45分の授業の流れですよね」
佐藤に言われて、秀夫は頭をかいた。
「まぁ、そんなもんかな。よくわからなかったら、去年の研究冊子を見て書き方を参考にしてね。次の研究会まで一ヶ月あるから、焦らなくていいよ」
「お前、今度は忘れるなよ」
立木が釘を刺す。
「あらあら、先輩面しちゃって」
立木が飯野に冷やかされる。
 黒板の字を佐藤が消そうとしたので、「俺、やります」と秀夫は黒板消しを受け取った。
 飯野と立木は図工室の机に広げた資料やノート類を整理する。荷物をまとめた佐藤が黒板の字を消している秀夫に声をかけた。
「ところで、きょう、どう」
どう、そういう手はビールのジョッキを飲む仕草だった。
「えー、火曜からですか」
「そ、立木さんも行くよ。飯野さんにはふられた」
「あら、ふられたなんて言い方はひどいな。こどもに食事を作らなきゃいけないんだからしょうがないでしょ。いいわね、男どもは」
飯野が口を尖らす。そうだ、と立木が手をたたく。
「さっき、田辺さんも誘ったら行くって喜んでいたよ」
「おー、静香ちゃんもいっしょか。久しぶりだな」
佐藤の顔がほころぶ。
 田辺さんも行くなら行こうかな。秀夫は前向きに考えた。

 佐藤も立木も、とてもよく飲む。仕事帰りにしょっちゅう秀夫を誘った。もともと酒は嫌いではなかったので、秀夫は週末には飲みに行ったが、佐藤たちは平日でもおかまいなしに飲みに行っているようだった。飲みに行くといっても、深夜まで悪酔いするという飲み方ではなく、帰りに居酒屋で軽く飲んで景気をつけて帰宅するというものだった。
「少しなら、つきあいます」
 少しで済んでくれればいいんだけど。ほとんどは30分から1時間の軽い飲食だが、ときどきは遅くなることもあったのだ。
 きょうは帰ったら、よく覚えてないけどやらなきゃならないことがあったように思う。

5825.1/3/2008
 特学で3年目を迎えて、通常級と大きく違うのが、入って来るこどもたちのシステムだ。通常級では、入学者名簿をもとにクラス名簿を作り、入学式で発表し、初めて担任とこどもが対面する。特学では、前年度、とりわけ3学期が多いのだが、保護者が見学に訪れる。入学を決心すると、こどもを連れて来校し、体験入学をする。それでもほかの学校を最終的に選ぶ場合もある。しかし、入学以前に教員と親・こどもが対面していることは、通常級とは大きく違うのだ。
 先に報道機関から伝えられた2006年度中の教員の精神疾患による休職者の数が増加したことの一因に、親との対応から気持ちが押しつぶされてしまうケースがあるという。じつは、文部科学省(http://www.mext.go.jp/)のサイトを調べると、この記事は、記者発表のコーナーにも掲載されていない。仕事納めの日に公表して、担当者は年末休暇に入ってしまったのだろう。教員の多くが研修や休暇で学校にいない夏に、学校現場を揺るがす大きな変化を突然発表する官僚たちの思いつきそうな手だ。年が明けて仕事始めの頃にのんびりとサイトアップでもしようと思っているのだろう。その頃までには、「こんなにこころを病む教師が多いのか」という世間の驚きがトーンダウンしているとの判断だ。
 東京都教職員互助会「三楽病院」の精神神経科部長は朝日新聞上で話す。
「(休職している数は)倒れてしまって学校に行けない先生の数で、短期通院者はさらに増えている」。
だから、働きながらこころが疲れて、うつ病などの症状が出ているひとは、この何倍もいることが想像できる。教員の多くはプライドが高いので、自分が追い詰められても、何とか乗り切ろうとする。弱音をはかないで、努力と気力で乗り切ろうとする。それが症状を悪化させると、別の病院の医師も指摘している。
 わたしの身近にもそういうひとが……、以前の勤務校でもそういうひとが……。という話題は、個人を特定し、不利益を与えるだけなので、ここでは触れない。しかし、新聞発表を見て、学校内部で働いてきた者として、大きな驚きがなかったのは確かなことだ。逆に、よくこんな仕事で自分の気持ちが傾かないでいられると自分をほめてあげたくなった。わたしだって、いつうつ病の症状が出てもおかしくない日常を生きてきた。
 4675人という人数をどう読むか。その前年度と比較して497人の増加だという。一つの業種で、同じ病気の発症度数を比較したら、とても自然な増加とは思えないだろう。今後、増加者は500人を越え、毎年100人以上の増加ペースで進むと、わずか5年後には5000人以上の教員がこころの病気休職扱いとなる。ちなみに、実際には2003年度から毎年400人から600人のペースで増加している。そのうち10000人を越えてしまうかもしれない。
 文科省は原因として、教師が多忙になっていることに加え、保護者の理不尽な要求で、ストレスを抱える教員が多いことなどをあげている。仕事が多忙なのはある程度は仕方がないことだ。また個人の力量という問題もあるので、同じ仕事でもかかる時間には差が出てしまう。
 保護者の理不尽な要求は、バブル崩壊以降、顕著になった。地域社会が崩壊し、となりのひとが犯罪をしていても気づかない。相互に問題を共有し、ときにはいさめたり、同情したり、悩んだりした関係性が消えた。だから、問題を感じた保護者はワンクッションなく直接学校に連絡をしてくる。
 家の前に犬が死んでいるけどなんとかしろ。呼び鈴が鳴ったので出たけどだれもいない。きっと学校のこどもの仕業だ。終業式には家族で海外旅行に行くから、通知表を事前に作成して渡せ。うちのこどもがいじめをしているという証拠を示せ。
 ある自治体が作成したマニュアルには、理不尽な要求の事例がこのように掲載されている。
 教員の多くはいいひとだ。悪いことをした経験がない。悪態をついた経験も少ない。
「ふざけるな」と恫喝できれば、きっとこころは病まない。
「あんた、いい加減にしなよ」と一喝できれば、きっと胸がスーッとする。
 でも、そんな対応をしたら、あっという間に教育委員会に呼び出され、もっと適切な対応をと注意を受ける。不適格教員のリストに掲載される。やがては仕事を失う。だから、本音を隠して、いいひとを演じ続ける。これではこころが悲鳴をあげるのも無理はない。

湘南に抱かれて-1985年春-は休載します。

5824.1/2/2008
 わたしは4日から出勤する。
 学校は冬休み期間中で、こどもたちはまだ登校しない。でも、教職員は勤務が始まる。3学期の授業準備をする。クラス通信を書く。学年通信を書く。校内の仕事分担で始業式以前にやらなければいけない事務仕事をする。とくに転入と転出の係りのひとは、これをしなければならない。給食の会計事務をしているひとも転入者には口座引き落としの用紙を渡し、転出者がいたら口座引き落としを停止する作業を銀行に依頼する。
 かつては、教員の自宅研修が認められていた。いまでも都道府県によっては認められている。神奈川県はいまの知事になってから、学校公開が増えたり、学力テストが導入されたり、学校評議員が誕生したりした流れのなかで、自宅研修は認められなくなった。べつに知事が悪いのではないだろう。議会で、そのことをつつくことを生きがいにしている議員グループがいて、その対応からどんどん教員の自由度は制限されているのだ。議員を選ぶのは有権者なので、大きな枠組みでとらえれば、有権者の多くが、教員の自宅研修を許さないという気持ちを持っているということだ。それなら、仕方がない。
 自宅研修が認められなくなっても、自主研修は認められていた。厳密に言えばいまでも実施は可能だが、校長の許可がなかなか下りなくなった。それに研修のたびにレポートを提出しなければならないので、そんな面倒なことをやるひとが減ってしまった。自主研修とは、裁判の傍聴、映画鑑賞、美術館や博物館の見学など、日ごろの教科指導に役立ちそうな社会勉強的な内容を保障するものだった。しかし、個人の趣味の範囲との区別が難しく、なかには研修計画は提出しても実際にはやらないひとがいて、実施に際しては厳しいチェックが入るようになったのだ。新採用の頃は、神田の本屋めぐりというのもかんたんに認められていたのに。
 その結果、教員たちは自主的に研修をする意欲をなくし、いままでは課業中に片づけていた事務仕事を夏休みや冬休みに先延ばしするようになった。こどもがいない学校は、とても静かで仕事がしやすい。けがをした、けんかをした、親から電話だと、課業中はなにかを集中してやろうとしても不測の事態が多くてまともにそれらが手につかないことが多い。
 あるいは、有給休暇を使う。しかし、休暇をとって、自宅でテストを作ったり、教材研究をしたりするのなら、わたしは出勤するようにした。休暇はもっと有意義に使いたい。でも去年はそんなつもりで8月にドカンドカンと使ってしまったら、9月の時点で残りが1日と7時間になってしまってだいぶあせった。学校職員は仕事の特殊性から、休暇を1時間単位で取得できる。1日を8時間として計算する。
 わたしは4日に出勤して、3学期に見学や体験入学に来るこどもの保護者向けの資料を作成する。
 特別指導学級(国の言い方では特別支援学級)の担任になって3年目が終わる。だいぶ年間の仕事の流れが見えてきた。いまさらながら、通常級の担任とは仕事の質も量も大きく違うと感じる。まず、出勤して職員室できょうの予定を確認したら、こどもたちを帰すまでふたたび職員室に戻ることはない。わたしは7時半ごろ特学の教室に行って、夕方の5時ごろに職員室に戻るから、9時間半も特学の教室で過ごしている。
 特学の教室は、通常級の教室とは違い多くの教材や教具がそろっている。だから、放課後の事務仕事もいちいち職員室に戻らなくてもいいのだ。また、こどもがいる時間は、片時も目を離すことができないので、こどもといっしょにいる。トイレまでついて行くこともある。
 これが通常級の担任なら、8時半からの職員打合せを終えて、こどもたちが待つ教室に向かう。45分の授業ごとに休み時間があるので、その時間に印刷事務や教材の準備などで教室を空けることができる。適度にこどもたちと距離をとることが、逆にこどもたちの自立心を育んだり、自尊心を大切にしたりすることにもつながる。いつもべったりしている必要はない。
 わたしは、その両方を経験して、いまの状態が自分にはあっていると感じる。おとなとのつきあいが面倒という気持ちが多少はあるが、それ以上にこどもたちといっしょにいると、いやなことも楽しいことも頭にくることもしんみるすることも含めて、おもしろいのだ。天職とまでは言わないが、日々を違和感なく過ごすことができる。

湘南に抱かれて-1985年春-は休載します。

5823.1/1/2008
 2008年が始まった。
 全国的には大荒れの天候のところが多かった。でも、鎌倉は快晴無風の元旦だった。
 鶴岡八幡宮へ初詣に行った。6時半に出発して、7時半前に着いた。歩くうちに体中がポカポカしてきた。鎌倉市内は毎年正月三が日は車の乗り入れが禁止される。許可を受けた車と、バス・タクシーのみが入ることができる。だから、歩いていくとき、歩道ではなく、車道を歩いてもそんなに危険はない。町全体が歩行者天国のようだ。
 若いときは、大晦日から元旦の朝まで寒い中を鎌倉で過ごした。でも、年齢を重ねるうちに、寒さと人ごみと眠気に勝つ気力が失せ、最近は人が少なくなる時間帯をねらっての初詣にシフトチェンジしている。深夜から早朝までを鎌倉で過ごすひとたちは、初日の出の時間にはたいてい家路に着く。横須賀線は最終電車の時間がなくなり、終夜の運行をする。
 元日になってから初詣に来る人たちは、朝食を済ませてから出かけるから、7時から8時ぐらいの鎌倉はちょうどひとの入れ替え時間帯になる。深夜は、何本もロープが張られ入場規制されて初詣をする八幡宮。それも朝の時間にはどこからでも自由に初詣ができる。
 ことしは、年末の30日と31日が大風だった。冷たい風が草木をたたいた。でも、元日はそれが嘘のような快晴無風となった。八幡宮の本殿でお参りをするころ、金沢八景の山並みから初日の出が見えた。針葉樹の葉の間から、金色に輝く太陽の光がわたしの目に刺さるように伸びてきた。いつもは寒い中、息を白くさせているのに、今回はそんなことはなかった。ふーふー言いながらお茶の入ったポットで暖をとるのに、今回は帰るまでお茶を飲むことすら忘れるほどだった。
 2007年は国内では、偽装が次々と明らかになった。食品業界の話題が多かったように思われるが、実際にはほかの業種、業界でも、うそを隠していたことが多かった。
 2008年は中国の北京でオリンピックがある。スポーツメディアが高い視聴率をとる日本社会では、これから8月までテレビ・ラジオ・新聞が総力をあげてメダルの取れる競技を追いかけてゆくことだろう。しかし、世界のひとびとがみんなオリンピックを絶賛しているわけではないことを、競技一筋に生きてきた選手たちは自覚して東シナ海を渡ったほうがいい。過去のオリンピックでは、選手やコーチが殺害されるテロ事件が起きている。また、オリンピック自体が、国際オリンピック委員会を支える巨大企業の宣伝の場であることも忘れてはならない。洞爺湖サミットも実施される。世界の要人が多数集まる重要会議を、無事に乗り切ることができればいいが、これもオリンピック同様にテロの標的になる危険性がある。
 おそらく衆議院選挙が今年中のどこかで実施されるだろう。いつまでも衆議院と参議院の勢力が逆転している状況では、与党も野党も審議がまともに進まないのは承知しているはずなのだ。そういう背景を考えると、先日のC型肝炎訴訟で、国が全面的に責任を認め謝罪を盛り込んだ法律作りに着手したのは、選挙前の大盤振る舞いのように思えてくる。
 公教育の世界では、あまりよいニュースが起こりそうもない。春には、税金の無駄遣いもいいところの学力テストがまた実施される。昨年は、テストの結果をめぐって、いくつかの不祥事が明らかになった。ことしは、手口が明らかにならないように、巧妙な方法でのふたたびごまかしが横行するのだろう。外部からは見えにくい学校内部が、ますます壁を高くする。
 2006年度に教員が病気療養で休暇を取っているひとのうち、過半数が精神疾患だということが発表された。全国で4600人を超えているそうだ。2007年度の結果はこれから集計して発表されるのだろうが、おそらく大きく減ることはないだろう。こどもたちと過ごし、こころを病んでいく。親との対応や同僚との軋轢で、こころを閉ざしていく。教員の仕事は生産性があるわけではないので、やりがいが見えにくい。昔のように、だれからも尊敬される仕事ではなくなっている。ひとの心配ができる余裕のある教員が減っている。校長でさえ自殺する時代だ。だれからも評価されなくても、自分のなかにしっかりと信念を持たないと、簡単にこころは追い詰められてしまうだろう。

湘南に抱かれて-1985年春-は休載します。

5822.12/31/2007
わたしの記憶の2007年(後半)

7月

8月 9月 10月 11月 12月

 このほかにもちろん国内を騒がせた社会的な出来事はたくさんある。
 赤福・舟場吉兆・白い恋人・比内地鶏などの食品関連の偽装は、公表されるたびに「またか」と思った。そして、次々と公表されていくうちに、びっくり度が低くなり、「きっとどこでもやってんだろうなぁ。ばれちゃったらしょうがない」と感じるようになった。嘘のまかり通る社会だった現実に気づき、正直者を絵に描いたような生き方をしてきたひとたちは、こころのよりどころがなくなり、やけっぱちになってしまうのか。それでも、嘘をつくのは少数で、多くのひとは正直に生きていると信じようとするのか。


湘南に抱かれて-1985年春-は休載します

5821.12/30/2007
わたしの記憶の2007年

 2007年がもすぐ終わろうとしている。年齢を重ねると、時間が過ぎるのがとても早く感じるようになった。若いときは〜なんて思ってしまう自分が情けない。
 ことしも国内外で多くの出来事があった。ついこないだのように思う出来事もあれば、それってことしのことだったのと思うほど遠い記憶になった出来事もある。わたしにとって記しておきたい出来事をピックアップしておく。

1月

2月
3月
4月
5月
6月

湘南に抱かれて-1985年春-は休載します

5820.12/29/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
4-6
 立木も飯野もこのやり方に慣れているので、次々と佐藤に意見を出していく。それを整理して佐藤が黒板に書く。
 三角刀を使って直線彫りができる。けがをしないように添える手は、彫刻刀の手前に置く。絵の具のパレットに三色以上の色を置く。教師の指示を聞くときは作業の手を休める。云々。永遠と続く。
 これらのなかから、実際の学習指導場面で有効な目標を選んでいく。
 3人とも、作業に慣れているので、一通りアイデアを出し終えたら、次は不要な意見や、同じ意味の意見を探しては消していく。
 秀夫は、大学時代に教職の講義で指導案を教わったとき、こんなのが実際の学校現場で役に立つのか疑問だった。毎日の授業は5時間から6時間まである。それぞれの授業について指導案を作っていたら、教師は寝る時間がなくなるだろう。現場の教師たちがそんなことをしているとは思えなかったのだ。しかし、研究部に所属して、授業を組み立てていく先輩教師たちの仕事振りに接して、役に立つ指導案のあり方に触れることができた。
 指導の道筋を構造化していく。それにより、ひとりの教師の授業が複数の教師の授業になる。秀夫は、小学校の授業は、中学校の授業と違い、一度きりだと思っていた。教科担任制の中学校では、同じ内容の授業を複数のクラスで行う。ひとつの授業を用意すれば、週に何回か同じことを繰り返せばいい。しかし、学級担任制の小学校では、授業はいつも1回きりだ。同じ内容の授業を繰り返すことはない。だから、ひとつの授業を準備しすぎると、ほかの教科準備がおろそかになる。
 しかし、研究部で同じ単元計画を話し合うなかで、ひとつの指導案を複数の教師で共有するやり方があることを知った。ひとつのクラスでの授業は一度きりだが、同じ指導案の授業をほかのクラスでも実施することは可能なのだ。それによって、反省点を洗い出し、単元計画を修正していく。ある程度見直された単元計画は、ほかの年度に違うこどもたちに対して再び使うことができる。教科書に書いてあることだけを、必死に覚えさせる授業では教師の役割が見えてこない。教師自らが授業を作っていくことこそ、重要な役割だと感じた。
 また、指導案を作っていく過程で、いわゆる業界用語も多く学んだ。あまりにもひんぱんに使われるので、言葉を知らない秀夫はその都度メモをして、佐藤たちに聞いた。
 先行。
 同じ内容の授業を同じ学年で時間をずらして実施する。そのときに、ほかのクラスよりも先に進んで授業をすることを先行という。単元計画を作成しても、それはあくまで机上のものであり、こどもたちとの応答のなかで通用するかどうかは、やってみなければわからないことがたくさんある。だから、だれかが実験的に行い、それをもとに作り変えていく必要がある。先行を引き受ける教師はベテランが多かった。秀夫のような新米がやったら、単元計画に問題があるのか、教師の指導力に問題があるのか、区別がつかなくなってしまうからだろう。
 飛び込み。
 ふつう10時間計画の単元を扱っていたとしたら、その時間が終わるまでは次の単元を入れることはしない。また、年間の単元計画が決まっているので、ある単元が終わったら予定してあった次の単元を扱う。しかし、秀夫のクラスには、杉田や図工部のメンバーがやってきて臨時授業をよくやった。こどものどんな発言を引き入れていくのか、黒板に文字を書くときはどこから何を書けばいいのか、声に出して文章を読ませるコツや水彩絵の具を教えるときの留意点などを、自分で指導しながら秀夫に教えてくれた。臨時授業は1回きりのことが多かったが、2時間続きの場合もあった。同じことを秀夫が指導しても、大きな変化を示さなかったこどもたちが、目の前でぐんぐん変わっていく様子を目の当たりにして、驚くばかりだった。そういう臨時授業を、飛び込みと呼んでいた。
「あした、2時間目に図工で飛び込むから」
「きょうの5時間目に朗読で飛び込むね」
何を恐ろしいことを言うのだろうと、最初のころの秀夫は戸惑うばかりだった。

5819.12/28/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
4-5
 立木も秀夫もうなづいた。
「じゃぁ、単元計画について検討しよう」
 佐藤は、立って図工室の黒板に、一版多色を学習として位置づけるための作業に入る。
「まずは、飯野さんからやってみてよ。1学期がいいかな」
「初めてのことだから心配だなぁ」
「大丈夫だよ。ここで俺たちが試しにやってみてから、授業に入ればいいんだから。来月は、4人で実際に試してみよう。だから7月に授業を組んでみて」
「7月なら、まだ2ヶ月もあるし大丈夫かもしれないわ」
飯野は、週案の7月のページに「研究授業」と記入した。
「飯野さんの授業を受けて、俺と立木さんが2学期に実施する。できれば、同学年のほかのクラスにも協力してもらうといいかもね。同じ学年で違う作品を取り上げると、うるさい親がいるからね」
立木もクラスの親を思い浮かべる。
「いるいる。どうして、教科書通りにやらないんですかって電話をかけてくるひとが。俺たちは教科書会社の手先ではないっていうんだけど、伝わらないんだよな」
「ほかのクラスの先生たちは、どういうものかがわかっていないから、俺たちがしっかりとノウハウをつかんでおく必要があるね。そして、戸崎さんが3学期にやればやりやすいでしょ」
ほかの3人が授業をした後ならば、長短がでそろって単元計画も作りやすいかもしれない。
「はい。ありがとうございます」
「じゃぁ、決まりだ。3学期の戸崎さんのを図工部としての研究授業にしよう」
よくわからず、戸崎は週案の1月のページに、飯野と同じように「研究授業」と記入した。しかし、杉田と田淵が、自分の説明で図工の時間に一版多色を扱ってくれるだろうか。そのことが心配だった。教科書には掲載されていない教材を扱うので、2人とも抵抗が大きいかもしれない。立木が言うように親からクレームが来たら、どのように対処すればいいんだろう。
「授業計画が決まったから、単元目標から決めていこう」
佐藤は、黒板に単元目標と書いた。
 単元目標は、その学習を通じて、こどもに何を学ばせたいかというもっとも重要な柱だ。
 従来の教育目標の立て方は、○○を通して理解を導くとか、○○を育む気持ちを養うという抽象的な表現が多かった。戸崎の大学時代も、研究で単元目標を書かされたときは、そういう表現でかまわないと教官に教えられた。
 しかし、杉田の指導案で驚いたのだが、長田小学校の研究では、長い積み上げのなかで、行動目標という概念を打ち立てていた。
 目標は評価に直結するという考え方から、こどもたちが示す行動を目標に掲げる方法だ。だから、従来の抽象的な目標なら3つぐらい作ればいいものが、膨大な数になる。こどもたちに予想される行動の一つ一つをいちいち目標にしていく。

5818.12/27/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
4-4
 校内研究図工部には、秀夫を含めて4人の教員が所属していた。2年担任の飯野、3年担任の立木、5年担任の佐藤だった。
 飯野は30歳。横須賀に住んでいた。こどもが2人いる母親だった。
 立木は28歳。藤沢に住んでいた。結婚はしていたがまだこどもはいなかった。
 佐藤は35歳。藤沢に住んでいた。こどもたちは中学生で、よく秀夫を仕事帰りに飲みに誘った。
 4人の教員のうち、飯野だけが女性で、ほかの3人は男性だった。全国的に、小学校の教員は7割近くが女性なので、この男女比はそれに反比例していた。長田小学校全体でも、男女比は半々ぐらいだったので、ほかの部が女性が多くなったのだろう。
 秀夫が図工室に行くと、ほかの3人の教員はもう集まっていた。各自、職員室から自分の湯飲みを持ってきて、コーヒーやお茶を飲んでいた。秀夫は、飲み物を忘れたことに気づいたが、遅れてきて、さらに飲み物を取りに行くのは気が引けて、そのまま着席した。
 こどもたちが学習で使う図工室の机は、教室の机よりも大きい。
 だいたい6人のこどもが同時に作業できるぐらいの広さがあった。椅子は、教室の椅子とは違い、背もたれがない。
「じゃぁ、始めようか」
部長の佐藤が口を開いた。
「先月の部会で年間計画を立てたから、それにしたがって今月は各自が、いつごろ、どんな教材を使って授業をするのかを教えてください。まずは、飯野さんから」
飯野は、コピーをメンバーに配布する。
「ちょうど教育雑誌におもしろいのを見つけたの」
そのコピーには、木版画のようなトーンの作品が写っていた。
「コピーは白黒だからわかりにくいんだけど、本当はこれカラーなんだ。それも複数の色を使ってあって、一版多色っていうんだって」
「その冊子を見せてよ」
立木が興味を示し、飯野から冊子を受け取り、ページを開く。
「本当だ。版画なのに、たくさんの色を使ってある。でも、これって浮世絵みたいに、版をいくつも用意しなきゃならないんじゃないの」
「もしそうだとしたら、小学生には大変だなぁ。印刷するときにずれたらおしまいじゃん」
佐藤も口を挟む。
「それが違うのよ。一版っていうのは、版が一枚って意味なんだもん。それに使うインクも絵の具なの。だから、黒インクを使う木版画よりも逆に手間がかからないのよ」
「いいね。これ、おもしろそうだ。図工部のことしの主要教材にしようか」
部長の佐藤は乗り気だった。
 その後、佐藤も立木も考えてきたことを提案した。秀夫は、忘れていましたと謝った。しょうがねえなぁと、立木に頭をコツンとやられた。
 佐藤が提案された3つの教材を比較する。
「研究全体のテーマが、いきいきと表現できるこどもを目指してだから、こどもが思っていることや伝えたいことが、制作技術の差に反映されにくいほうがいいと思うんだよね。また、図工や美術って文字を使うわけじゃないから、思っても見ない意外性が発揮しやすいものがいいと思うんだ。その点、俺や立木さんのプランよりも、飯野さんの一版多色は、技術的にも容易で、それなのに作品に意外性が表せられるから、いいと思うな。みんなはどう?」

5817.12/25/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
4-3
 帰りの挨拶をして、こどもたちは帰って行った。
 教室に残った秀夫は、ずれている机や椅子を直す。落ちている体操服入れや消しゴムを拾う。名前の書いているものは、本人の机の上に置き、書いていないものは「落し物」と書いた箱に入れる。
 黒板の上の時計は3時前を指している。
 窓側には教師用のスチール机がある。教室で事務仕事をするときの机だ。そこに座って、引き出しから算数テストの答案を出す。いつもはすぐに返却するテストだが、このテストは違っていた。角度を求める問題だったので、実際に秀夫が分度器をあてないと、こどもが正確に角度をはかったかどうかがわからなかったのだ。連休前に実施した。アパートに持って帰るのを忘れ、返却が遅れていた。全部で5問あった。45枚の答案がある。225回も分度器をあててチェックをするのだ。職員室に行ってコーヒーでも入れてこようかと思った。しかし、職員室に行くと、雑務が押し寄せてくるかもしれないと思い、そのまま角度のチェックを始めた。
 全体の半分ぐらいが終わった頃、校内放送が響いた。
「これから、研究部会を開きます。それぞれの部会ごとに集まってください」
「やばーい。そうだった」
きょうは、校内研究会の日だった。分度器とテストをしまう。途中までしかチェックしていなかった。でも、続きはあしたにしよう。

 教師の指導技術の向上や教材研究の充実は、原則的には個人に任されている。
 だから、こどもたちが帰った後の時間を使って、それぞれに翌日の授業準備をしたり、来月の教材を作成したりする。しかし、個人の力量には限界がある。たえず、教師相互の技術や考え方を交換し合いながら、高めていくことも必要だ。そのために使われるのが、学年会だ。同じ学年の教師で集まり、こどものことや行事の分担などを検討し、学習内容の確認をし、指導技術や教材の工夫を教えあう。
 しかし、学年の担任どうしが、同じ得意分野とは限らない。秀夫が組んだ4年は、杉田が国語、田淵が体育、田辺が音楽、秀夫は大学で美術を専攻していた。学年会が立場を同じくするひとたちの集まりだとすれば、専門分野が同じひとたちの集まりが研究会だ。同じ学校のなかで同じ専門分野ごとに集まる研究会を、校内研究会と呼んでいた。それに対して、複数の学校を越えて同じ専門分野の教員が集まる研究会を、小学校研究会と呼んでいた。その研究会があるときは、学校ごとにこどもの下校時刻を統一し、放課後にどこかの会場校に多くの教師が集まって授業研究や教材研究を行う。
 秀夫は、校内でも小学校研究会でも、図工部に所属した。前回の4月のときは、年間計画を話し合った。今回はたしか計画に従って、各自の計画を提案することになっていた。秀夫は、事前準備をしていなかった。それに、経験のないことなので、各自の計画と言われても、どういう計画が図工指導の計画なのかわかっていなかった。
「まぁ、なんとか、なるだろ」
ぶつぶつ独り言を言いながら、図工部の集まる図工室に向かった。

5816.12/24/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
4-2
 漢字テストを持って教室に戻ったとき、昼休みが終わったチャイムが鳴った。
 日直が5時間目開始の挨拶をした。
 こどもたちは、朝のうちに漢字テストが5時間目に変更になったことを知っていたので大きな混乱はなかった。配り終わると、それぞれに開始した。
 秀夫は、漢字テストのときは、教科書や辞書を使っていいと教えてあった。何も見ないでテストをするのが普通だと思ってきたこどもたちは4月のうちは戸惑っていた。しかし、秀夫は杉田や田淵との学年会で、漢字を覚える力だけでなく、知らない漢字を調べる力も必要だと教えられた。そして、忘れたり、間違ったりした漢字は、放置するとずっと使えなくなると聞いた。しかし、教科書や辞書を使っていいとなると、漢字を覚える力はつかないのではないかと反論した。
「戸崎さん。考えてごらんよ。漢字もひらがなも使うことで覚えるんだから、テスト用紙に何も書かないほうが覚える力はつかないんだよ。まして、間違ったり、忘れたりした漢字を何度も反復練習させるようなことをしたら、こどもは漢字を嫌いになるでしょう。学習は、意欲が大事だから、嫌いにさせたら終わりなの」
杉田の言葉は、秀夫のこころにストンと落ちた。
「そやそや、でもな親のなかには何べん言うても、そのことがわからんひとがおるさかい、気いつけや」
田淵の助言もわかるような気がした。

 こどもたちは、覚えている漢字は何も見ないでスラスラ鉛筆を動かした。覚えていない漢字になると、そこを飛ばしていく。
 まずは、知っている漢字を書いてしまう。最後に、解答欄が空欄になっている漢字について教科書を開いて調べる。なかには、教科書を使わないで辞書を開くこどももいる。このやり方にしてから、こどもたちは教科書の漢字にルビをふるようになった。どういう読み方をするかを知っていないと、いくら教科書を見ていいと言っても調べようがないのだ。また、漢字には同音異語が多いから、文脈を判断して漢字を使い分けなければならない。漢字のテストなのに、文章を読み取る力も必要になる。
 日本の学校教育は暗記中心の詰め込み型と批判する声がある。それは、受験制度のことであって学校教育が暗記を奨励しているわけではない。受験では持ち込みはできないから、教師たちは必然的に知識を頭のなかに叩き込むために覚えることを中心にした指導をしてしまうのだろう。そのことがこどもの学習意欲を低下させていくことには気づかない。でも、教師のなかには、こどもたちに考える力をつけさせようと工夫をしているひとたちがいることを、杉田や田淵とともに仕事をしながら、秀夫は知った。

 テストができたこどもから秀夫のところにテストを持ってくる。
 そして、自分の席に戻り、絵を描いたり本を読んだりする。秀夫は、提出されたテストはすぐに○つけを始める。ほとんどのこどもはすべての欄を埋めているので、同音異語の誤りや、線が一本足りないなどのケアレスミスだけをチェックすればいい。そして、なるべくその時間内にテストを返す。違っていたところを修正する必要はない。修正は、すべて秀夫が赤ペンでしているからだ。点数はつけない。返されたテストは、その日のうちに持って帰ることができる。
 こどもが漢字を使うことができるか、読むことができるかは、テストでは判断しない。日ごろのノートを定期的に回収し、その文字を見て評価をつける。また、作文のときも、漢字を使っているかどうか、使い方は適切かをチェックして評価に入れる。テストで漢字が使えても、ノートや作文で使えなければ意味がない。
 チャイムが鳴った。時間が終わっても、まだテストを全部終了できないこどももいる。
「やり残しのあるひとは、できたところまででいいので提出しよう」
 テストで評価をつける目的ではないので、全部できることよりも、解答した漢字が正確かどうかが重要になる。こどもには能力差があるので、同じ問題量でも、それが多いと感じるこどもがいてもいいのだ。

5815.12/23/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
4-1
 給食と掃除を終え、こどもたちは昼休みになった。
 秀夫は、印刷室に行って漢字テストを印刷した。本当は自分が1時間目に実施しようと思って印刷したのに、朝の時間に隣りのクラスの田淵に横取りされていしまったからだ。印刷室には、同時に何人も印刷に来たときに、順番を待たなくて済むように、3種類の印刷機が置いてあった。しかし、どれも同じ機種ではなく、昔からの印刷機を捨てないで新しい印刷機を買い足していたので、どうしても性能のいい印刷機が使われることが多かった。そして、使用頻度の高い印刷機はどうしても故障が多い。修理代金がかさむという理由で、事務の小出は3台のうち1台が故障したぐらいでは業者に発注はしなかった。
 新しい印刷機には、小出の字でメモが貼ってある。
 「印刷速度は3以下にすること」。あんまり速くすると、紙送りが印刷に追いつかずに紙づまりを起こすからという理由だったが、じゃぁ速度5などというモードをメーカーは作るなと言いたかった。
 「試し刷りは必要ない」。かつて謄写版を使って印刷していた名残から、原紙にインクが乗るまでの何枚かを試しに印刷する習慣が最新式の印刷機になっても年配の教員からは抜けなかった。そのために、毎回3枚ぐらい試し刷りの不要な印刷物ができる。それが無駄になると訴えていた。それは一理あるのだが、最新式とはいえ、やはり1枚目はインクの乗りが悪く字がかすれることが多かった。秀夫はわざとクラス人数分よりも多めの枚数をいつも印刷して、インクの乗りの悪い紙は、裁断機で小さく切ってメモ用紙に再利用した。
 印刷室には紙を置く棚があった。そこには学年の札がかけられていた。学年の人数に応じて印刷用の紙が割り振られていた。そのいたるところに「ちょろまかすな」と赤い油性マジックで書いたメモが貼ってある。ほかの学年の棚から紙を取るなという意味だ。教科書とノートだけの授業をして、業者の作ったテストを買って、学級通信を作らない教員は、ほとんど印刷物を使用しない。そういう教員が多く担任をする学年は、学年配当の紙があっても減ることがない。逆に、オリジナル教材を作って、テストも自作、学級通信を作成する教員は、毎日大量の印刷をする。そういう教員が多く担任をする学年は、学年配当の紙はたちまちなくなってしまう。だから、あまっている学年の紙を使ってしまうひとが出る。
 秀夫の担任している4年は、杉田も田淵もオリジナル教材をよく作った。2人とも学級通信を発行していた。だから、4年の棚はまだ5月だというのに1学期用に配当された紙がもう半分以上もなくなっていた。
 「えーのよ。たくさんあるところから少しずつがめればわからんやろ」。田淵がちょろまかし方法を教えてくれた。

5814.12/22/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
3-14
 秀夫の目には、田辺のうなじが飛び込む。そらさなければいけないと思いながらも、視線がつむじから後頭部、そしてうなじへとたどってしまう。
 自分の肩さえ、ふだんもんだことがないのに、ひとの肩をもむなんてできるのかな。力の入れ加減はこれでいいのかな。女性の肩って、想像以上に小さいな。でも、これはこのひとが小さいだけで、レスラーや巨漢は、男よりもいかつい肩かもしれない。
 首に近いところから、徐々に肩の関節に手のひらをスライドさせていく。
「じょうずねぇ、とっても気持ちいいわ」
田辺は、悦に入っている。
 おや。思わず手がTシャツの下のブラジャーの紐に触れてしまった。あわてて、そこから先には行かないで首筋に向かって手のひらを戻した。田辺は、よくこうやってひとに肩をもませるのだろうか。それも男性に。こういうことが抵抗なくできるってことは、付き合っている男性がいるってことかな。連休は、そのひとと楽しい時間を過ごしたんだろうな。なのに、ここで俺が肩をもんでいていいのかな。
 秀夫は勝手に妄想を広げる。
「あー、先生、アツアツ!」
「できてる、できてる」
 田辺の肩をもむ秀夫の姿を見て、それまで遊びまくっていたこどもたちが集まってきた。「できてる」とは、だれに教わった言葉だろう。俺が10歳のときには使わなかったぞ。
「どうも、ありがとう」
田辺は、立ち上がり大きく背伸びをした。そして、集まってきたこどもたちに振り返る。
「本当は、4時間目は音楽の授業だったの。でも、戸崎先生が忘れていたから、ここに呼びに来たのよ。そして、忘れた罰として肩をもませたんだから、誤解しないでね。ずいぶん集まってきたから、ここで歌を歌いましょう」
 さっきまで、田辺の肩をもんでいた感触が手に残っていた秀夫は、まだ教員3年目の田辺が頼もしく思えた。

 田辺は、こどもたちを座らせた。自分はこどもたちの目線になる位置に立った。
 4月の歌や、これから音楽で扱う歌を指揮をしながら歌った。ピアノ伴奏や音楽の教科書がなくても、こどもたちは田辺の歌にあわせて口を開く。ときどき、鳥の鳴き声が聴こえる。鳥たちもいっしょに歌っているようだった。

5813.12/19/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
3-13
 同僚教師たちは、新採用の秀夫にとっては、全員が先輩でもある。
 ずっと体育系の運動部に属してきた秀夫は、学校も年功序列社会だと想像していた。しかし、葉山ではなのか、長田小学校ではなのか、教員経験に関係なく、言葉使いにしても、関係性のとり方にしても、序列や上下関係はほとんどなかった。逆に、そういう喋り方や行動をすると、周囲のおとなから「偉そうに」と批判された。まだ、ここでの生活が始まったばかりの秀夫には、頭ではわかっていても、からだに染み付いたものがなかなか消えない。まして、先輩の田辺に迷惑をかけてしまったわけだから、本気で悪いことをしたと反省した。
「学校に戻らなくていいんですか。もう4時間目が始まっていますけど」
「何言ってんの」
拳骨で軽く、胸板をパンチされる。
「あなたのクラスの授業をやるはずだったのよ。学校に戻っても、音楽室は空っぽ。ここで音楽をしたことにするから、週案は音楽にしておいてね」
「はい。ありがとうございます」
週案では、理科を2時間続きにしていたから、学校に戻ったら修正しよう。今度こそは忘れないようにしよう。
「その、ていねいな言葉、なんとかならないかな。ありがとうで、いいよ」
「え、でも」
「いいから、言ってみて、ありがとうって」
「あ、はい、えー」
「バカね。プロポーズをしているわけじゃないんだから、そんなに紅くならなくてもいいじゃん」
え、頬が紅いのか。それとも耳たぶか。
「はい。じゃ、言います。ありがとう」
「そう、それでよし。じゃぁ、授業をすっぽかした罰で、わたしの肩をもんでね」
そう言うと、田辺はカーディガンを脱いで、Tシャツだけになり、草がよく繁っている場所を見つけて座った。
「ここでですか」
「当然でしょ。それから、ここでですかじゃなくて、ここで、でしょ」
「ここで、もむわけですか。あ、違った。ここでもむの」
「肩をもむのよ。勘違いしないでね。ピアノばかりを弾いていると、すごく肩がこるんだ」
田辺は、肩をさすったり、叩いたりした。
 仕方なく、秀夫は田辺の背後に回り、両肩に手を置いた。
 田辺は斜面に足を投げ出して、少し上半身を後ろに傾けながら、両手を地面について頭を前に傾けた。視線の先には、逗子や葉山の海が映っているのか。それとも目を閉じているのか。

5812.12/18/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
3-12
 大型ヘリコプターが爆音をあげて頭上を通過する。
 横須賀基地方面から厚木基地方面に物資を運ぶ、輸送用の大きなヘリコプターだ。プロペラが前後に2つついていて、太い葉巻のような機体だ。パイロットの顔が見えるぐらいの低空を飛行していた。こどものなかには、暢気に手を振っている者もいた。神奈川県の空は、ほとんどがアメリカ軍の飛行空域で、日本の旅客機が飛行することは認められていないことを、こどもたちは知らない。県内には港はあるが、民間旅客機用の空港はない。たとえ建設しても、かんじんの飛行機が一機もない寂しい空港になるだろう。日米安全保障条約の具体的な姿だ。
 しっとりと詩の朗読をしているとき、バタバタとプロペラの回転音をとどろかせてヘリコプターが通過する。
 ハーモニーを調和させて歌唱しているとき、ゴーンとつんざくような超音速戦闘機が飛行する。
 入学式や卒業式などのおごそかな場面でも、それらの騒音が雰囲気を台無しにするのだろう。

 学校から裏山に続く道。その道を、音楽専科の田辺静香が登ってくる。
 田辺は、戸崎よりも20センチぐらい身長が低く、25歳の独身女性だ。顔はぽっちゃりしていて、こどもたちに「パンダ」と呼ばれていた。体型は標準だったが、胸だけはとてもグラマラスだった。音楽専科だったので、ピアノ演奏がとてもうまい。指が100本ぐらいあるのではないかと思うほど、一度にたくさんの鍵盤を弾くことができた。
 その田辺が、Tシャツの上に薄いカーディガンを羽織って、坂道を小走りに駆け上がってくる。カーディガンのボタンは外してあり、豊かな胸が走るのにあわせて上下に揺れていた。
 おっと、どこを見ているんだ。秀夫は、視線を田辺の顔に向けた。少し、険しい表情をしている。
「戸崎さーん」
「はい」
「きょうの4時間目は、音楽ねって言ったのに」
やばっ。忘れていた。連休前に授業変更を頼まれていたんだ。そのときは、別の用事をしていたから、週案にもノートにもメモをするのを忘れて、そのままになっていた。記憶のなかからも、きょうの音楽は消えていた。
「すみません。いま、こどもたちを集めますから」
みんな、楽しそうに遊んでいるが、ここはこころを鬼にして全員集合の命令を発しなければいけない。しかし、さっきまで険しい表情だった田辺は、こどもたちが木に登ったり、花を集めたりしている様子を見て、穏やかになった。
「しょうがないわねぇ。忘れていたんでしょ。いまから、こどもを集めても学校に戻っても、大してできやしないから、きょうはこのままでいいわ」
秀夫は、真剣に頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「そんなに、かしこまらなくてもいいから。あー」
田辺は、両手を上げて大きく伸びをした。
「ここ、気持ち、いいじゃん。景色もいいし。音楽室にばかりいると、こういうところで授業はできないもんね」

5811.12/17/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
3-11
 「わかるよ。お前の気持ち。俺も小学校のころ、クラスにやたらまじめな酒田ってやつがいてなぁ」
なんで酒田を思い出したのだろう。やっぱり江ノ島のことが気になっているのか。浩太はポカンという顔をしている。
「そいつが、事あるごとにふざけたり、遊んだりしている俺たちを目の敵にして注意ばかりしたんだ。あんまり頭にきて、あるとき帰りに待ち伏せをして木の影から栗のイガを投げつけてやったことがあるんだ。猛烈に怒るかと思ったら、イガのとげが痛かったのか、泣きそうな顔をして俺たちをにらんで走って帰って行った。なんだか、後味が悪くて。でも謝りにも行けず、しばらく教室で顔を合わせるのがつらかったなぁ」
「どうして、女たちは俺たちを放っておいてくれないんだろう」
浩太の表情が少し緩む。
「どうしてかなぁ。さっきの酒田な。次の日に先生にチクるかと思ったら、誰にも言わなかったんだ。それが、また俺のこころにはグッと来て、ガツンと先生に怒られれば気持ちの収まりにもなったのに、何も起こらないから宙ぶらりんな気持ちがしばらく続いたんだ。そうしたらな、どうなったと思う」
「知らねえよ。どうなったの」
こっちのペースに、浩太が乗ってきた。
「ある日、学校帰りに、俺たちが酒田を待ち伏せしたところで、逆襲にあったのよ。俺たちは栗のイガしか武器にしなかったのに、酒田は仲間を連れて、イガのほかにどんぐりや銀杏まで集めて攻撃してきたんだ。やられたと思ったね。俺のダチのなかには、べそかいてるやつまでいてな。酒田は仁王立ちして、なんか文句ある、だらしないって啖呵を切って帰って行ったよ」
「かっこいいな。そいつ」
浩太の目が輝く。そういえば、浩太はヒーロー物が大好きだった。
「たぶんな、俺にはまじめに見えた酒田も、同じことをしたかったんじゃないかと思った。俺たちみたいに、羽目を外したり、泥んこになったり。だって、その後は休み時間や放課後は、なぜか俺たちの輪に酒田が入ってくることが増えたんだから」
「じゃぁ、米子も本当は木登りがしたいってこと。自分にはできないから、登っている俺たちをうらやましく思ってるわけ」
「それは、わかんない。うらやましいのかもしれないし、妬んでいるのかもしれないし」
「ネタムってなんだよ、わかんないじゃん」
「うらやましいって気持ちよりももっと強いわがままな気持ちかな。本当は自分もやりたいのに、うまくできない。だから、うまくやっているひとを憎んでしまう気持ちかな」
「米子に、木登りの方法を教えてみるよ」
「それはいい考えだ。うまく行かないかもしれないけどいいのか」
「そんときは、そんとき」
 浩太は、用事が済んだというように、ふたたび繁みの中に消えて行った。

 こどもの世界の出来事には、なるべくおとなが絡まないほうがいい。
 こどもは、こどものなかで不完全ながらも自分を成長させていく。そこにおとなが絡むと、完全な存在への依存感を強めてしまい、自分の力で何とかしようという気持ちを大事にしなくなる。とくに教師は、学校ではこどもにとって絶対的な存在だから、日々、裁判官や独裁者にならないように心がけておかないと、裸の王様になってしまう。こどもとの距離感については、赴任してから一ヶ月間で、同僚たちに念仏のように叩き込まれてきた。最近、そのことの意味が少しわかってきたように思う。

5810.12/14/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
3-10
 じょうずに編みこんでいて、作りもしっかりしている。
「先生に、あげる」
 そう言いながら、輪飾りを秀夫の首にかけた。
「うわぁ、ありがとう。きれいに作ったね。お前もここに座れよ」
早葵は、素直に秀夫の隣りに座った。
「お前、さっき、お父さんに鉛筆をもらったって言ってただろ」
言っていいものかと迷いもあったが、いまなら聞けそうな気がした。早葵は、声にならない声で、うんと言ってうなずいた。
「よく、会うのか。お父さんに」
 隣りに座った早葵は、両手で膝を抱えた。
「日曜日か、土曜日の夜に会う。お母さんはいないよ」
「お母さんに内緒で会っているってことなの」
「違うよ。うちにお父さんが迎えに来てくれるから、お母さんだって知っているよ。なんだか、知らないけど、そういうふうに約束してるみたい」
「そうか」
それ以上は聞けなかった。
 学校の方角から、チャイムの音が聞こえた。3時間目が終わったのだろう。予定では、4時間目は学校に戻るつもりだった。でも、こどもたちの様子を見たら、いま区切りをつけられる雰囲気ではなかった。あせることはない。きょうはこのまま昼までここでのんびりしよう。
 いつの間にか、早葵は秀夫の隣りを離れ、ふたたびシロツメクサを摘みに走っていた。

 反対に、繁みのなかから、浩太が難しい顔をして、秀夫のところにやってきた。父親が旅客機の機長で、母親は元スチュワーデスという金持ちの長男だ。姉は、長田小学校ではなく、私立の小学校に通っている。金持ちの坊ちゃんには見えないほど、浩太は精神的にも肉体的にもたくましい。身長は、男子のなかで中間ぐらいだが、運動神経は抜群で、いやなことや苦手なことがあっても逃げようとはしないタフな気持ちも持っていた。機長とスチュワーデスの遺伝子を受け継ぐと、こどものころから輝きが違うのだろうかと思ってしまう。学力はさほどずば抜けるものはなく、両親も期待していなかった。将来は、サッカー選手になりたいと思っていた。きっと、この家庭の経済力なら、スポーツで有名な学校への進学も不可能ではないだろう。
「先生、米子がうるさいんだよ」
不平を、どう表現していいのかわからない感じだった。
「米子が何か言ったのか」
「俺たちが木登りをしていたら、危ないから降りろって下から何度も言うんだもん。無視していたら、石や枝を投げてきて、そっちの方がよっぽど危ないじゃん」
 木登りは、浩太だけでなくほかのこどもも数人がしていた。きっと、木登りをしているこどもを代表して、浩太が文句を言いに来たのだろう。ふだん、告げ口をするタイプではないので、よほど米子たちの行動が腹立たしかったと思える。

5809.12/13/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
3-9
「ここには、たくさんの種類の草や木が生えているだろ。きょうは、それらをよーく観察してほしい。草や木は、どういう部分からできているかを考えながら、あとで教えてね。それじゃ、ここから見える範囲なら林のはかに行ってもいいよ。笛を鳴らしたら、集合しよう。さぁ、レッツゴー」
 こどもたちは、各自、わーいと声を上げて、たちまち秀夫の前からいなくなった。
 裏山の頂上は整備されているわけではないので、ベンチや芝生はない。それでも、樹木は生えていなくて、黒く硬い土に草が低く生えていた。秀夫は、きっとこどもたちはまともに自分の指示など聞かずに、各自が勝手に遊びまわるだろうと予想していた。なかには、まじめな米子のように言われたとおりのことをするこどもがいるだろうから、授業はそういうこどもたちの発見や意見をもとに進めればいい。この時間は、連休から日常の学校生活にシフトしていくソフトな離陸だと思っていた。
 草が多く茂っているところに腰掛けて、こどもたちの様子を観察する。
 実際に、秀夫の指示に従って、クヌギやサクラの枝や葉を観察しているのは、10人に1人ぐらいだ。
 ほかのこどもたちは、明らかにフリータイムを堪能している。
 坂道でズボンやスカートを泥だらけにして滑り落ちるのを楽しんでいる者。食べられる木の実を探して、数人で探索している者。ジャンケンをして鬼を決め、鬼ごっこをしている者。
 信夫はスルスルと杉の木に登って、「見よ、東海の空明けて」となぜか軍歌を威勢良く歌っている。教材室で泣き続けていた早葵は、シロツメクサを摘んでいる。

 こどもたちに背を向けて、秀夫は海の方角を見た。
 逗子や葉山の港から、ヨットや漁船が出入りを繰り返している。あまり波はないのだろう、大きな白波は立っていない。
 もしも、三原山が噴火したら、ここからは大きな花火のように見えるのかな。大島にたくさんの住民がいることを忘れて、そんな暢気なことも考えた。
「先生、みんなちっとも木の観察なんてしてないよ」
口を尖らせて、米子がやってきた。その後ろに、米子の仲間が2人ついている。
「しょうがないなぁ。でも、とても楽しそうだから、お前たちも観察ができたら、遊んでいいぞ」
 その言葉を待っていたかのように、米子たち3人も、わーいと木の間に姿を消していった。

 こどもはいつの時代も変わらずにこどもだと思う。
 社会が変化するから、その変化に合わせて、こどもも変化するように錯覚してしまう。でも、どんなことでも遊びにしてしまう感性は、こどもならではのものだ。そんな感性を引き出せない環境にしてしまうおとなの責任は大きい。遊び場や遊び道具、遊び相手まで指定するおとなの管理が、こどもたちを息苦しくさせてしまうのだ。こどもたちが、学校帰りや下校後に遊ぶ空き地は、何年も何も建設されない。土地を寝かせて値上がりを待っているからなのだろう。でも、こどもにはそんなことは関係ない。そこに三角ベースやサッカー、鬼ごっこやかくれんぼができる空間があれば、それだけで時間を忘れて遊ぶことができるのだ。この裏山だって、きっと地権者がいて、いつかは宅地に変わってしまうのかもしれない。
「先生、これ」
早葵が、摘み取ったシロツメクサで作った輪飾りを持っている。

5808.12/12/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
3-8
「で、用事は何だ。俺も忙しいんだから、手短にな」
こっちが焦っているんだ。手長にしているのはあんただろう。今度、飲みに行ったら、そのネクタイで首をしめてやる。
 長田小学校の職員の飲み会は、いつも無礼講だった。個人的な飲み会も、親睦会が主催する歓送迎会などの公式宴会も、上下関係のないものだった。秀夫は、連休前に教頭を含む数人の男性教員に飲みに誘われたとき、どういう理由かは忘れたが、教頭の頭を何度もパンパンと叩いた。
「3時間目に、校庭の裏山に行ってきます」
「わかった。ちゃんと言えるようになって、少しは成長したな」
「それじゃ、伝えましたよ」
 秀夫は、トイレを出た。何をしに行くんだとか、教科は何だとかは聞かないところが、あの教頭のいいところだと思った。手順を踏めば、大方のことはやりたいようにさせてくれている。

 秀夫は教室に戻ると、黒板を背にして立ち、こどもたちに告げた。
「3時間目の理科は、裏山に行くぞ。遊びにいくんじゃないから勘違いすんなよ。理科の勉強だからね」
「教科書は持っていくんですか」。米子が聞く。
「教科書は荷物になるからいらないよ。みんな手ぶらでいいぞ」
「ボールを持って行ってもいいのかなぁ」。体育が得意な男子がつぶやく。
「遊びに行くんじゃないって言ってるだろ。ボールはなし。じゃ、靴を履き替えて校庭に集合」
 こどもたちは教室を出て行く。早葵も信夫も何事もなかったかのように教室を出て行った。
 初夏の日差しが長田小学校の校庭に届く。長田小学校は、葉山町に4校ある小学校うち、もっとも新しい学校だ。そのため、校舎のデザインも斬新で、体育館はヨットをイメージしたデザインになっていた。校舎全体も小学校というよりは、何かの研究施設を思わせる造りになっていた。校庭の周囲にはフェンスと桜の木があるので、その向こうの景色は見えない。山の上にある学校なのにもったいないと思ったが、それがなかったら海から吹き上げてくる風でひとも校舎も塩気にやられると教わった。
 秀夫は、クラスのこどもを連れて、校庭の端にあるフェンスの出入り口から裏山へと続く道に向かった。学校が建設される前にあった道で、獣道というひとも入れば、ハイキングコースというひともいる。整備されていない樹間の小道だ。アップダウンを繰り返し、見晴らしのいいところに出た。そこは、裏山の頂上だった。そこからは、校舎を見下ろすことができる。同時に、南を向けば葉山港、逗子海岸、そして相模湾が展望できる。相模湾の水平線に近いところにボヤっと灰色の大島が浮かんで見える。きょうは、かなり空気が済んでいるようだ。三原山のかたちまではっきり見ることができた。
 しばらく、秀夫もこどもたちも頂上の景色を堪能した。海からの風は、ここまで来ると塩気が薄く、肌にべとつかなかった。女子の髪の毛が風になびく。くりくり坊主の男子の頭に日差しが反射する。
「よーし、じゃぁみんなそこにしゃがんで」
こどもたちを頂上にしゃがませて、秀夫は少し下の位置に立つ。こどもたちと同じ目線になった。

5807.12/11/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
3-7
 秀夫は教卓に行き、週案を開く。
 3時間目と4時間目は2時間続きの理科だった。教科用のノートを開き指導内容をチェックする。光合成の学習が始まる。
 連休を挟んで同じ単元をすると、こどもたちは連休前の学習を忘れるから、それまでに終わらせて、連休後は新しい単元を始めたほうがいいと学年会で杉田に教わった。だから、理科もきょうから新しい光合成の単元を始めるようにしていた。そのために4月の終わりは、どの教科もかなり飛ばして終わらせてしまった。
 3時間目は裏山に行って、植生を観察し、4時間目は教室に戻って植物の主要な構成を指導する予定になっていた。
 しまったぁ。まだ外に出ることを教頭に言ってなかった。
 秀夫は、あわてて教室を出て職員室に向かう。4月に算数を階段下の公園で指導したとき、黙ってこどもたちを連れ出した。校内では4年2組が雲隠れにあったと大騒ぎになった。
「こどもたちに万が一のことがあったらどうするんだ」
教頭に怒鳴られた。公園で万が一のことなど怒るはずはないと反論したかったが、仕方がない、学校とはそういう組織なのだと自戒した。同じことを繰り返すわけにはいかない。許可を求めに行くのではない。行き場所を伝えに行くのだ。
 職員室には教頭はいなかった。職員トイレに行った。案の定、教頭は用を足しているところだった。5個ある小便器の一番奥で便器に正対している。50を過ぎ、背広を着て、ネクタイが汚れないように肩にかけている。背が低く、きっと150センチぐらいではないかと秀夫は思っていた。
「あ、教頭先生」
 教頭は、秀夫を見た。
「お、戸崎さん。何か用事か」
用事がなけりゃ、こんなところまで来ない。一瞬の間があった。秀夫の返事よりも先に、教頭が言う。
「俺がなんで、この入口から一番遠い便器で用を足しているのか、わかるか」
そんなことはどうでもいい。あんたの趣味なんだろう。黙っている秀夫にはおかまいなしに教頭が続ける。
「ひとは、いつも手近なところから行動する習性がある。トイレも、入ると一番手前が空いていたら、そこから使う。もしもそこが使用中だったら、二番目に入口に近いところを使いたがる。この学校のトイレは小便器が5個あるけど、5人も同時に連れションをすることはない。結果として、一番奥の便器が使われなくなる。だから、俺はいつもここを使っているんだ」
どういうことかわからない。
「ひとが使っていない便器がきれいだからということですか」
こんなやりとりをするために、ここまで来たんじゃないんだ。
「あほ。いいか、何度も同じ便器を使い続けると、その便器ばかり尿石という汚れがつく。分散して使えば尿石の量は一定だけど、偏りがあると尿石の量がばらばらになる。清掃のひとが困るだろう。どれも同じように洗えばいいものを、汚れにムラがあるといちいち洗い方を加減しなけりゃいけない。俺はそういうひとたちに苦労をかけたくないんだよ。わかるか。これは立派な初任者研修だ」
「はぁ」。気のない返事をするしかない。休み時間が終わるチャイムが校舎内に響いている。

5806.12/10/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
3-6
 教材室のドアにはガラスが入っている。そこから室内を見ると、早葵はさきほどとは違い1メートル四方のウレタンマットに横になり、眠っていた。起こさないように静かにドアを開けて、秀夫は中に入った。早葵はからだの右側を下にして寝ていた。小さくからだを丸めて、胎児の姿勢をとっていた。白いブラウスに赤いスカート。スカートは両肩にかける紐がついていた。ブラウスの襟口は、よく見るとやや茶色っぽい。垢やほこりがこびりついている。何日か同じ服を着たままなのだろう。
 連休明けなのに、上履きは洗った形跡がなく、スカートから出ている膝小僧は冬でもないのに皮膚が硬くこわばっていた。早葵は、母親と二人で暮らしていた。母親は、逗子のスナックで夜の仕事を続けている。いつも早葵が帰る頃に、濃い化粧をして家を出て行く。早葵が寝るときも帰ってこない。夕飯の準備ができているときもあれば、できていないときもある。もうすぐ10歳にやっとなるこどもに、自分のことは自分でやれとは言えない。

 廊下を走るこどもたちの音や振動が伝わったのか、早葵は静かに目を覚ました。
 かなり寝ぼけた感じで上半身を起こした。
「おはよ」
秀夫は、声をかけた。
 早葵は、ギクッとした。そこに秀夫がいることに気づいていなかったのだ。整理がつかない頭をしながら、両手で目をこすった。
「大事な鉛筆だったんだ」
秀夫が言う。早葵は、少しずつ思い出すようにうなずいた。
「こどもの日に、お父さんが買ってくれた」
 秀夫は、早葵の父親の存在を知らない。うかつに話に乗っては危険だ。実の父親なのか、母親がだれかと内縁関係になるのか、事情がわからないからだ。早葵にとって、その鉛筆がほかの鉛筆とは違う大事なものだったということはわかった。
「もう、信夫から鉛筆は取り戻したから、教室に戻ろう」
 早葵の返事を待たずに、秀夫は早葵の手を取った。早葵は、素直に従った。こういうときに「戻ろうか」とか「どうする」と聞くと、早葵はどんどん混乱して、自分でも抜け出せない深みにはまってしまうことを、4月の一ヶ月間で秀夫は学んだ。このこどもには、判断を求めるのではなく、方向を示してあげることが必要なんだと思えてきたのだ。
 早葵の手を引き、教材室を出た。廊下を歩く。早葵はうつむきながら歩いていたが、秀夫の手をぎゅっと握り返していた。力強く握り返していた。
 教室に入る。黒板の上の時計が10時半を指している。
「あと、10分は遊べるから、遊んでおいで」
窓側の席でトランプをしている女子のグループに視線を送った。

5805.12/9/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
3-5
 4年生の廊下の端に、移動黒板や積木などの教材をまとめて収納している教材室がある。
 早葵が逃げ込む最有力候補の隠れ家はそこだ。秀夫は、廊下を足音を立てないように歩き、教材室のドアの窓から中を覗いた。予想通り、早葵は、ドアに背中を向けて床に座り込み、小さくなっていた。泣いているというよりも、いじけているという感じだった。こうなると、しばらくは周囲の働きかけを受け入れないことを4月のうちに学習したので、秀夫はそのままふたたび1組の杉田の授業に戻った。
 杉田は、こどもたちに課題を出して、席の間を歩きながら、ノートを見ていた。教室に戻ってきた秀夫を見て、目で「どうしたの」と尋ねる。秀夫はそばに行って、事情をかいつまんで伝えた。
「ここにいて、大丈夫なの」
「はい、授業が終わるまでは、早葵はあそこを動かないと思います」
 教材室は行き止まりの廊下の突き当たりにあったので、そこから先に逃げることはできない。仮に部屋を出て、別のところに行こうと思ったら、いま秀夫がいる1組の前を通らなければならない。廊下を通る人影に注意していれば、ここにいても大丈夫だと判断した。

 1時間目の参観が終わり、2時間目は算数だった。こどもたちは、連休モードを引きずっていて、とても算数をやる気にはなれない様子だったが、授業を進めないと学年末までに年間で予定している学習内容を終了させられないかもしれない。こどものやる気に関係なく、メニューはこなさなければいけないのだ。
 秀夫は、教師になる前は、教師の仕事はもっとゆとりのあるものだと勘違いしていた。その日のこどもの様子で、予定を柔軟に変更できるものだと思っていた。しかし、4月が終わったとき、自分が1組の杉田や、3組の田淵に比べて、どの教科も単元が一つ以上遅れていたことを知ったとき、愕然とした。このペースでは学年末に10個以上も単元が終わらないことになる。
 早葵は2時間目も教室に戻ってこなかった。それでも秀夫は気にせずに、授業をした。空席の早葵の机を学級委員の米子は気にしていたが、目で「大丈夫」とメッセージを送った。
 早葵は信夫とのトラブルで教室から脱走したが、それはきっかけに過ぎない。どんなことでも、いまの早葵にはきっかけになる。それぐらい、ぎりぎりの気持ちで登校しているのだろう。だから、脱走しても、気持ちはクラスに向いていると、秀夫は確信していた。詳しい事情を知らないで、4月は早葵が脱走するたびに後を追いかけ、事情を聞いた。そのたびにきっかけになった出来事を口にはしたが、何度も同じことを繰り返す早葵を見ていて、本当は自分をかまってほしい気持ちが大きいのではないかと感じるようになった。前の担任の立木に相談した。
「俺の口から言うよりも、家庭訪問で母親から詳しいことを聞いてほしいんだけど。ある程度はつかんでおいたほうがいいよな」
早葵の出生、家庭環境などについて教えてもらった。

 2時間目と3時間目の間に20分間の休み時間がある。
 算数の時間は、連休明けでやる気が出ないのかと思っていたが、休み時間になったら、クラスのこどもの大半は元気にボールを持って外に出て行った。
 秀夫は、早葵がこもっている教材室に向かった。

5804.12/8/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
3-4
 秀夫は、こどもたちに自習モードを三種類用意していた。プリント自習、お気楽自習、完全自習だ。
 プリント自習は、秀夫が用意した課題をやらなければいけない自習だ。学習内容をこどもたちが理解しているか確認しているときに使う。新採用研修などで、朝から一日中学校以外の場所に缶詰になるときに用意する。
 お気楽自習は、座席周辺でひとに迷惑をかけない範囲で自分で考えたことをする自習だ。折り紙や工作、本読みやおしゃべりなど、こどもたちが楽しい時間を過ごせればいい。多少の立ち歩きは認めているが、ひとに迷惑をかけているかいないかの判断がこどもたちにつかないことが多く、あとでもめる原因にもなっていた。しかし、こどもはプリント自習よりもこちらのほうが好きだった。
 完全自習は、外で遊んでもいいし、走り回ってもいい。多くの場合は、裏山に行ったときや、体育館を自由に使えるときなど、時間と場所限定で実施していた。

 4年1組の教室では、日直が1時間目の号令をかけているところだった。
 杉田は、にこやかな表情で授業を進めていく。
 秀夫は、指導案の余白に気がついたことをメモしていく。ときどき、こどもたちのノートを見て、杉田がどのようにノートを取らせているのかをチェックする。教員歴40年のベテランにはかなわないことだらけで、秀夫はどんなことでも盗めるものは盗もうと思っていた。自習のさせ方も、杉田から教わった。
 授業が半分ぐらい過ぎたころ、秀夫が担任している2組がざわめき始めた。壁をはさんでも聴こえてくるので、杉田に目で合図を送って、教室に戻る。
 教室の中央では、背の高い男子の信夫と学級委員の米子がにらみ合っている。ほかのこどもたちは、それぞれ応援団になって野次を飛ばしている。
「おいおい、どうしたんだ」
信夫と米子の間に入って、秀夫が聞く。
「だって、だ、だ、だって」
緊張すると吃音が出る信夫が口を尖らせて、米子を指差す。
「米子、何があったんだ」
努めてやさしく秀夫は米子に聞いた。
「信夫が、早葵の鉛筆を取って返さなかったから、早葵が怒って、そしたら信夫が、怒るなってぶったから、早葵が泣いたんです」
米子は正義感に燃えて目が潤んでいる。信夫には、ややひとづきあいが苦手なところがあり、緊張したり、追い詰められたりすると、冷静さを失ってしまう傾向があった。ふだんはおとなしい性格なのだが、スイッチが入ると目つきも声も変わってしまう。いまも、まさに変身しそうになっていた。
「早葵は、どうした」
見回すと、肝心の早葵の姿がない。米子がドアを指差す。
「泣いて教室を出て行きました」
「わかった。まずは、みんな座れ。信夫には後で事情を聞く。いまは信夫も落ち着いていいぞ。早葵のことは俺に任せろ」
 秀夫は、席を立っていたこどもたちに座るように指示を出した。早葵が泣いて、教室から脱走するのは初めてのことではない。去年、担任していた立木からも早葵の性格と複雑な家庭環境については引き継いでいた。そして、泣いて脱走したときの隠れ家も複数聞いていた。

5803.12/7/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
3-3
 打ち合わせが終わり、秀夫は荷物を抱えて、印刷室に向かった。お茶が残っている湯飲みを洗う余裕はない。
 原稿を複写機にかけ、製版する。それをドラムにつけて増刷した。秀夫が教育実習に行った去年の学校には、この便利な印刷機はまだ導入されていなかった。製版だけで20分ぐらいかかるのんびりした機械が置いてあり、印刷したいひとたちは前日までに製版を済ませておかないと印刷が間に合わなかった。葉山町は、財政的に豊かで、学校予算も多く計上しているので、最新式の印刷機が導入されていた。しかし、教員のなかには、まだ秀夫が小学生の頃に担任が使っていたガリ版を好むひともいて、印刷方法はひと様々だった。
 印刷室の時計を見ると、8時45分を過ぎている。さっきチャイムが鳴ったような気がする。1時間目は8時45分からだった。
 クラスのこどもの人数分の漢字テストを印刷し、急いで教室に向かう。4年2組の教室は、第一校舎から渡り廊下を渡って、タヌキが出没する裏山に近い第二校舎の二階だ。階段を上がるとき、後ろから田淵が声をかけた。
「あーおおきに。もうテスト印刷しはったの」
「あ、いえ」
「連休明けで授業の準備をしていなかったから、1時間目に使わしてもらうわ」
 言うのが早いか、取るのが早いか、漢字テストはもう田淵の腕の中。秀夫は置いてきぼりを食う。
 1時間目には、杉田の授業が始まってしまう。もう一度印刷しに戻っている余裕はない。しょうがない。なるようになれ。

 やけくその気持ちで、教室に向かう。幸い、杉田はまだ廊下にかけてある出席簿を外しているところだった。きっと、これから朝の挨拶や出席確認をするので、すぐに授業にはならないだろう。
「おはよう」
 秀夫は、ややざわついていた4年2組の教室に勢いよく飛び込んだ。その姿を見て、立ち歩いていた数人のこどもが急いで着席した。見渡したところ、空いている席はない。全員出席だ。
「日直さん、朝の挨拶をよろしく」
その日の日直になっているこどもが2人連れ立って前に出てくる。秀夫は、その間に新幹線並みの速度で全員の顔色を調べる。鼻水を垂らしているのはいないか。唇が青いのはいないか。咳き込んでいるのはいないか。新幹線が最後のこどもに達したとき「おはようございます」と全員が挨拶をした。
「1時間目に漢字テストをするって言ったけど、できなくなった」
やったーという声と、えーっという声に分かれる。「せっかく、きのう覚えたのに」と塾に通って私立受験を目指しているこどもが口を尖らす。お前の家は裕福なんだから、試験の成績が少々悪くてもなんとかなるだろ、とは言わない。
「そのかわり、5時間目に漢字テストをしまーす」
さっきよりも、えーっという声が大きく感じた。
「1時間目は、杉田先生の授業を見てきます。その間、みんなは自習。連休明けでぼーっとしてるだろ。自習モードは、お気楽自習」
 秀夫は、荷物を教卓に置き、さっき杉田が渡してくれた指導案とボールペンを持って隣りの1組に行った。

5802.12/6/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
3-2
 日直の教員が、定時の8時半になったことを知らせて、朝の打ち合わせが始まる。
 ほとんどの検討事項は、月に一度の職員会議でするが、時間内に終わらなかった議案は、持ち越しになり、緊急性の高いものは朝の打ち合わせが使われる。例年通りで済む行事なら、朝の打ち合わせでも十分だが、新しい行事なると検討に時間を要する。しかし、その日の打ち合わせの議題には、とくに検討事項はなく、連絡事項だけが報告された。
 裏山に狸が出没しているので、校庭で体育をするときは気をつけるように。教科書の受給者一覧表はきょうまでに提出を。来週の避難訓練では消火器を実際に噴射させます。福利厚生会から映画鑑賞のチケット割引が来ているので先着優先にする。連休中にクラスの子どもが自転車に乗っていて、自動車と接触事故を起こした。給食のとき牛乳パックのなかにストローを入れるケースがあるので担任はストローを別回収にする指導を徹底してほしい。新しい体育の教材が入ったので紹介します……。
 脈絡も、文脈も、つながりもない連絡事項が次々と報告される。
 4月は、聞き漏らしてはいけないと、秀夫は週案にメモをしていたが、結果的にどうでもいいことがかなりあることがわかり、5月になってからは自分に関連する内容だけを選んでメモするようにした。週案は、一週間後との指導内容と授業時間を記録していく帳簿で、原則的には来週の予定を今週中に作成しておくための帳簿だ。その欄外に、必要事項をメモする。4月の週案は、メモで欄外が埋まってしまった。
 とりあえず、きょうは「校庭タヌキ出没注意。教科書書類提出」とだけ記した。ほかは忘れよう。いちいち気にしている余裕はない。
 すると、隣の席の杉田がホッチキスで留めた3枚つづりの印刷紙を「これ、きょうやるから」と、秀夫に渡した。
 見ると「4年生国語科学習指導案」と書いてある。

 学習指導案は、各教科の単元に応じて作成される。単元の目標から始まり、指導計画、時間配分、こども実態、単元の意義、評価方法、それぞれの時間の指導案が網羅される。それらは10時間計画の単元なら、それぞれの時間の指導案だけで10枚になるから、合計すると冊子になるほどの量で、ふつうのホッチキスでは留まらない。杉田が渡した指導案は3枚つづりだったから、指導案そのものではなく、それぞれの時間の指導案、一般に本時案と呼ばれているものだ。本時案だけで3枚も作成するのは並大抵のことではない。
 見ると、実施はきょうの1時間目になっている。参観しなければならい。
 杉田は3月で長田小学校を定年退職した。そして4月からそのまま再任用されている。退職後の就職を保障する制度を使ってふたたび教壇に立っているのだが、杉田の場合は国語指導の専門性を評価され、新採用教員の教官も任されていた。つまり、秀夫の新採用教官だった。
 すでに県では、新採用者を対象にした研修が始まっていた。年間に100時間近く学校を離れ、研修センターに缶詰にされ、教育法規、教員の資質、児童心理、教科指導などを朝から夕方まで叩き込まれる。夏には、研修内容を公開しない目的で大型客船を使っての洋上研修まで計画されているという。しかし、幸いなのか、不幸なのか、秀夫が赴任した三浦半島地区は、労働組合の強い反対があって、新採用者を可能な限り、これまでのようにそれぞれの学校で指導する枠組みが残っていた。杉田は、その教官役だった。秀夫は、教室を離れて、こどもとの距離を作るよりも、片時もこどものそばを離れず、そこで教員としての研修を続けられるのなら、そのほうがいいと思っていたので、杉田の存在はありがたかった。
 4月は、放課後に、隣りの教室を訪ね、指導法やこどもの発言をどう受け止めればいいのかなど、その日の悩みをすぐにぶつけることができたのだ。
「はい、ありがとうございます」
指導案を受け取り、あわてて週案を見たら、きょうの欄外に、「杉田級参観」とメモしてあった。メモはしたが、そのことを忘れていたのだ。
 しょうがない。漢字テストを自習課題にして、授業を見に行こう。

5801.12/5/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
3-1
 職員室の時計は8時を指していた。
 校長や教頭をはじめ、多くの教職員が出勤して、机上の整理と雑談を交わしていた。
 秀夫は、湯沸かし器のある流しから、自分の湯飲みを出して、日本茶を入れる。急須がいくつかあって、蓋を開けて、新しい葉を入れたばかりのものを探す。すでに何度も湯が足されて、茶が出尽くしている葉は開ききって変色していた。比較的緑が濃く残り、まだ葉が開ききっていない急須にポットから湯を足して、湯飲みに入れた。こぼさないように気をつけて湯飲みを持ちながら、自分の席に向かった。
 職員室は長方形の部屋だ。その端に、行事用の黒板があり、毎日の予定がチョークで記入されている。月末になると、翌月の予定を教頭が書き入れていた。行事黒板の端に、さらにその日の予定を書くスペースがあった。そこに、出張や休暇の情報が記入され、その日の会議や行事が書かれていた。
「五月七日(火) 三年生身体測定」。きょうは、そう書いてあった。
 秀夫たち4年生は、すでに連休前に身体測定を終わらせていた。こどもたち全員の身長、体重、座高などを調べた。放課後に、養護教諭からクラスごとの一覧表を配られて、そこに転記するように教えられた。そこにはほかにも視力や聴力、歯科健診の結果を記入する場所があり、空欄の場所をこれからの検査によって埋めていくのだろう。すべてが終わり、一覧表への転記ができたら、それをこどもひとりひとりへの健康手帳に写すようにも教えられた。すべてが手作業で、これではいったいいつになったら授業の準備ができるのだろうと、最初は戸惑った。そうでなくても、教科書受給者一覧表、給食費徴収簿、指導要録名簿、学級連絡網など、春は事務作業の山だった。
 先輩たちの仕事振りを参考にしようと思っても、なかなか各自が仕事をしている時間に職員室に戻って来れないので、どうやっているのかを知ることはできなかった。それでも、何回か多くの書類にこどものゴム印を押している先輩の作業場面を見ることができた。種類の違う書類を机上に並べ、スタンプ台でインクをつけたゴム印を一気にポンポンとすべての書類に連続して押していた。
 これはすごいと思って、真似してみたら、押す場所を間違えた。うまくできたときは、最後の書類になったらインクが薄れてしまった。何気なくやっているようで、ゴム印の連続押しでさえ、技が必要なことがわかった。

 小学校では、職員室の座席の配置は年齢順でも、着任順でもなく、担当している学年ごとになっていた。
 秀夫は、4年の教員たちと机を合わせていた。秀夫を含めて、4人の教員がいたので、4つの机を四角に合わせて、2人ずつ向かい合わせになっていた。
 秀夫の隣りは、1組担任の杉田ナツ。向かいは3組担任の田淵恵子。田淵の隣り、つまり杉田の向かいは、音楽専科の田辺静香だった。音楽や図工、家庭科など、専門性の高い教科は、中学校のように教科担任が教える。教科担任は複数の学年にまたがって教えるが、一応所属学年が決まっていて、音楽の田辺は、4年生付になっていた。
 秀夫は、リュックのなかから、漢字テストの原稿を出した。4月に国語で扱った単元に使われていた漢字の書き取り問題だ。朝の打ち合わせの後、印刷室に寄って、こどもの数だけ印刷して教室に持って行こうと思っていた。
「あら、いいもん作ってるね。うちのクラスのもよろしく」
向かいの席の田淵が、漢字テストを見つけて、挨拶代わりに仕事を増やした。
 大阪出身の田淵は、関西弁のイントネーションを残す独身の35才だ。まともに、関西出身者と接したことのない秀夫は、初めて田淵に会ったとき、とても怖い印象をもった。あけすけなくものを頼む。それも「申し訳ないけど」という低姿勢はなく、「よろしく」で済ます。大阪のひとは、みんなこうなのかと勘違いしてしまいそうだった。
 うちのもよろしくって、やりたきゃ自分で作れよなと言いたかったが、「はい、いいですよ」と明るく答えてしまった。朝は忙しいから、放課後に印刷しようと思った。

5800.12/4/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
2-11
 三重は海を向いていたからだを180度回転させて、道路側に向きなおした。欄干に背中を押し当てた。
「もちろん、いろいろ相談に乗ってもらったもん」
女同士のことだから、互いがそれでいいのなら、息子であろうと深くかかわるつもりはない。きっとおふくろにとって、酒田は息子の同級生ではなく、近所の気になる娘だったのだろう。こどもの頃からずっと成長を見守ってきて、思春期の悩みや就職の不安で揺れ動く酒田を人生の先輩として応援してきたのだろう。わざわざ、そのことを息子であろうと、ふたり以外の人間にばらすほうが信頼関係を壊してしまう。詳しいことはおふくろに聞けばわかるのか。でも教えてはくれないな。いや、聞くつもりもなかった。
「もしかして、結婚することを言いに来たのか」
秀夫は静かに聞いた。
 三重は、こくりとうなずいた。
「電話や手紙じゃなくて、直接話そうと思って言いに来たのか」
さっきよりも、強い感じでうなずいたように見えた。
「さっき渡したアルバムのカセットのなかに、旅姿六人衆っていう歌が入っているんだ。それ、聴いてね」
 せっかくアルバムをダビングしてくれたのだから、全部聴くつもりだった。なかでも、その歌が酒田のお気に入りなのだろう。自分の気持ちに真っ直ぐで、それを相手かまわず押し付けるところは昔とちっとも変わっていない。
 秀夫は、あーっと旅姿六人衆を聞くことを約束する。

 帰り道は、中学時代の仲間の近況を三重が一方的に喋った。秀夫は同窓会や同級会というものに、まったく参加しないで大学を卒業した。それまでも誘いはあったが、運動部をずっと続けていたので、都合がつかず、顔を出すチャンスが訪れなかった。それに昔の知人に会っても、何を話せばいいのかわからなかった。思い出話に花を咲かせるのは、後ろ向きな生き方のように感じていたのだ。三重の話では、同窓会を通じて、その後も何人かと個人的に会ってきたようだ。だから、結婚話や就職話、なかには海外に行ってしまった友人のことまで知っていた。
 表面上はその話し相手をしながらも、秀夫のこころには、なぜわざわざ今夜自分が結婚することを三重が自分に告げに来たのかが謎として渦巻いた。
 親の紹介なのか、お見合いなのか、いずれにしても、あまり好きではない相手との結婚なのか。
 そいつのこと、好きなのか。
 なんど、酒田の話が途切れたときに聞こうとしたことか。
 でも、言い出すことはできなかった。もしも、うんと返事をされたら、なぜか自分がつらくなる気がしたのだ。どんなかたちの結婚であれ、それは互いが決めたことであり、何も知らない自分がどうこう口を挟むことではないと思った。
 まさか、本当は酒田は俺のことが気になっていて、不本意な結婚が現実のものになり、ダスティン・ホフマンの「卒業」みたいに結婚式をしている教会に飛び込んできて、無理やり連れ去ってほしいと思ったのだろうか。
 バカな。そんなうぬぼれを口にできるはずがない。それに愛だの、恋だのという感情は、瞬間湯沸かし器みたいに、いまここから噴火するとも思えない。

 秀夫は、こどもの日の出来事を思い出しながら着替えた。更衣室を出たとき、両手で頬をパンパンと叩き、頭のなかからその思い出を追い出した。
 一日が始まる。元気な4年2組のこどもたちが登校してくる。