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5799.12/3/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
2-10
 そもそも、なんで前触れもなく俺のアパートに訪ねてきたんだ。そして、急に江ノ島に行こうってどういうことだ。さっきの綺麗ってアルバムはなんだ。わからないことだらけで、秀夫は何から聞けばいいのかもわからなくなっていた。
「あのさ」
「だめ、つぼ焼きは熱いうちに食べなきゃ。喋っている暇があったら、箸を動かしなさい」
仕方なく、秀夫はそれ以上聞けずにつぼ焼きを食べた。三重は、上手に肝も取り出し、一口で食べた。殻をコップのように唇にあてて出汁も飲んだ。最後にコップの下に2センチぐらい残っていた冷や酒をグイッと飲み干した。まだ、秀夫は酒が残っていた。しかし、隣りですっきりしている三重を見て、急いで燗を空けた。
「ごちそうさま」
酒田は勝手に立ち上がり、ポーチから財布を出し、二人分を払い、暖簾の向こうに出て行った。秀夫はあわてて、ベンチから追いかけようとする。
「おつり」。女将が声をかける。ふり返って受け取ろうとしたとき、無愛想に見えた女将の顔がくしゃくしゃな笑顔になった。
「あんた、いい彼女とつきあってるね。大事にしなよ。ありゃいいかみさんになるなぁ」。ひとりで納得している。
そういうんじゃないって。

 すでに3メートルぐらい先を歩いていた三重に追いついて、秀夫はおつりを渡す。
「ごちそうさま。これ、おつり。それと俺の分」
「おつりだけでいい」
「そんなぁ、悪いって。タオル代にはならないけど、受け取ってよ」
秀夫は思わず、酒田の手を握り、千円札を渡そうとした。三重は、こぶしを握ったまま開こうとしない。はっとした。手を握ってしまって、はっとした。
「ごめん」
謝っていた。乱暴なことをしたつもりはない。でも、恋人でもないのに、手を握ってしまったことに申し訳なさを感じていた。
 大橋の欄干に手をかけて、三重は西の海を見る。国道134号線がはるか小田原方面に延びている。自動車のテールライトが長い帯になっていた。寄せては返す波の音が、片瀬西浜にこだまする。防波堤よりも海風はやさしい。空には雲がないらしい。遠く、伊豆の山並みが暗がりの中で、さらに一段と暗く浮かび上がる。
「とりあえず、おつり」
秀夫は、女将がくれた硬化を渡した。三重は、手のひらを開いてそれを受け取った。
「わたし、来月、結婚する」
三重は、一言一言をかみしめるように、ゆっくりと告げる。目線の先には海がある。そのことを俺に言いに来たのか。でも、なぜ。
 だれと、結婚式はいつ、どこで、新居は、俺の知っているひとかな、いやそれよりおめでとうというべきかな。秀夫はこころの隅っこでおめでとうと言いたくない気持ちがくすぶるのを感じた。初恋のひとがだれかと結ばれる。それは、めでたいことなのか、口惜しいことなのか。でも、もう7年もこうして会ったことがなかった。酒田はおふくろから俺のことを聞いていたのかもしれないけど、俺は酒田のことは何も知らなかった。だいいち、その7年間に恋心を抱いたひとはほかにいた。
「おふくろも知ってるのか」
なんでこんなことを、こんな場面で聞くのか、自分でもわからなかった。俺はマザコンか。

5798.12/2/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
2-9
 つぼ焼きは、たださざえを炭火で焼いて出してもうまくはない。いったん焼いて身に火が通ったら、網から降ろす。肉汁がこぼれないように気をつけながら、串で殻から身を取り出す。角切りにして、ふたたび殻に戻す。そのときにかつおやこんぶでとった出汁を混ぜる。きのこや三つ葉を入れてもうまい。ここの屋台は、さざえ以外は入れてなかった。ふたたび火にかけて、肉汁と出汁が沸騰したらできあがりだ。出てくるまでに時間がかかる。
 それまでの間、日本酒の冷やと燗をふたりで飲む。
「わたし、ヒデが高校で野球をしていたことや、大学で山登りをしていたことを、知っていたよ」
酒が回るにつれ、三重は口が軽くなる。
「なんでよ」
「ときどき、電話をしてたもん。おばさんが教えてくれた」
「おふくろ、酒田から電話があったことなんて、教えてくれなかったぞ」
「だって、ヒデに電話をしたんじゃないもん。おばさんに電話をして、様子を聞いていただけだもん。それに口止めもしたしね」
「変なの」
「おばさんには、いろいろお世話になったんだ。うちのお母さんに話せないことも相談に乗ってもらった。高校時代に学校や勉強がつまんなくなって、成績が落ちたときも。就職してからのこともね」
 母は、何も告げなかった。女同士のかたい絆は親子の絆に勝るものなのか。
「新しい生活を始めるとき、おばさんから餞別にバスタオルをもらったでしょ」
「あー、テディベアの模様のやつね。いい年して恥ずかしいから、外では使えないけど。そんなことまで、知ってんの」
興信所なみだな。学校で使おうと思ったけど、こどもに馬鹿にされると思い、家で入浴後に使っている。
「きょう、部屋に行ったとき、風呂場の扉にかけてあったね」
わずかな時間しかいなかったのに、観察眼は鋭い。
「あれ、わたしからのプレゼントだったんだよ」
 プッ。口にした燗を軽く噴き出した。屋台のテーブルが汚れ、女将が怪訝そうな顔をする。秀夫はポケットからハンカチを出し、頭を下げながら拭き取った。
「使ってくれていて、嬉しかった。あのデザインなら、アパートで使うしかないと思ったんだ。ヒデのプライベートに忍び込ませたかったの。大成功」 盗聴器でも仕込んであるのか。三重は、そう言って冷やの入ったコップを目の高さまで上げて、一口飲んだ。
「おばさん、約束を守って黙って渡してくれたんだね。今度、ご馳走しなきゃ」
そういう仲なのか。

 「お待ちどう」。女将が湯気の出るさざえを二皿、テーブルに出した。
秀夫は、割り箸入れから、割り箸を二組取って、ひとつを三重に渡した。三重は、割り箸を割ると、角切りになったさざえをつかみ、フーフーとさまして食べた。
「忘れない、この味」
何かを決心したような言い方だった。秀夫には、何がなんだかさっぱりわからない。

5797.12/1/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
2-8
 「なんのこと」
「先生になったって、おばさんから聞いたよ」
「おふくろ、そんなことまで喋ったの」
「ううん、わたしが聞いたの。就職しましたかって」
 自分が学校の教員になろうと強く決心したのは、大学に入ってからだった。その頃から、年賀状には夢を目指しているということを書いていたかもしれない。でも、酒田への年賀状にそんなことを書いたかどうか、記憶は定かではない。
「酒田は、働いてんのか」
 少し間があった、ように思う。
「高校を卒業してから、横浜の会社にね」
「じゃぁ、俺よりもずっと社会人の先輩じゃん」
 かなり間があった、のは確かだ。
「でも、3月で辞めた」
 確か中学を卒業したとき、成績が上位だった酒田は、県立の進学校に入学したはずだ。そこから大学に進んだと思っていた。高卒で就職するタイプではない。高校時代になにかがあったのだろうか。そういえば、酒田から送られてくる年賀状は、いつもプリントごっこで干支が印刷されていて、隅っこに申し訳程度に手書きの挨拶が書いてあった。それも、夢がかないますようにとか、前を向いてとか、あきらめずにという一言メッセージばかりだった。
「行こうか」
 それ以上、何かを聞くのは悪い気がした。それに夜の海風をこれ以上浴びていると、あしたから体調を崩すのではなく、いますぐにでもくしゃみが出そうだった。
「うん」
意外にも、三重は素直にうなずいた。

 大橋の歩道は、多くの観光客が通れるように車一台が通れるほどの幅があった。そこには、昼間なら綿菓子やヨーヨーの屋台が出ていた。しかし、夜になると、もうさざえのつぼ焼き屋しかやっていなかった。炭火でしょうゆとたれの焼ける匂いが風に乗って、ふたりを包む。
「おなか、空いた」
屋台の前で、三重が立ち止まった。屋台には、ベンチがあってカップルが一組座っていた。席にはまだゆとりがある。
 暖簾をくぐる。
「いらっしゃい」。額に幾重もしわのある年配の女将が、さざえをバケツから出しながら迎えた。注文は聞かない。つぼ焼きしかないのだ。
「飲み物は」。少し乱暴に聞く。
「燗にして」
冷えた手のひらを秀夫はこする。
「そっちの彼女は」。女将はあごで三重を指す。
「わたしは冷や」
 さっきと話が違う。秀夫は小声で聞く。
「酒田、さっき、アルコールは飲まないって言ったじゃん」
「言ったよ」
「なのに、冷やを頼んで平気なのか」
「だれも、飲めないとは言ってないじゃん」

5796.11/30/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
2-7
 連休の夕方のモノレール。それも大船から江ノ島に向かう下り線は、乗客がほとんどいなかった。
 ボックス席に向かい合わせに座る。酒田はしばらく窓外を見ていたが、やがてなにかを思い出したかのようにプッと噴き出した。噴き出したときに、頬にえくぼができる。そのえくぼはあのときのままだ。
「なにがおかしいんだよ」
秀夫は、話のとっかかりを探していた。
「ヒデ、さっき、変なことを考えたでしょ」
胸にグサッと棘が刺さる。お見通しか。
「昔から、考えていることが顔に出るクセ、治んないね」
 そんなこたぁねぇ。昔のようにやけにならなくなったのは、治った性分かもしれない。

 モノレールの江ノ島駅と、江ノ電の江ノ島駅は隣接している。ともに、江ノ島という駅名だが、実際の江ノ島までは歩くとかなりの距離がある。
 江ノ島へ渡る大橋まで小さな商店街が続いている。観光客や宿泊客を目当てにした土産物屋、旅館、スマートボール屋、射的屋、サーフショップが並んでいる。すでに街灯に電気が灯り、空は暗くなりかけていた。秀夫と三重は、黙ったまま並んで歩く。
 商店街の外れまで来た。右に小田急の江ノ島駅、正面に江ノ島に渡る大橋が見える。その向こうに、わずかな家や民宿の明かりが点在する江ノ島が浮かんでいる。
 湿気を含んだ生暖かい海風が秀夫の頬をなでる。潮の香りが鼻につく。三重は、さっさと大橋の歩道へと向かう。波は大橋の橋脚にあたって、砕ける。そのたびに、ザブンと音を立てる。連休中とはいえ、日の暮れた江ノ島はどの店もシャッターを下ろし、不気味な城のように静かだ。宿泊客は、点在する民宿や旅館で夕飯を食べている時間だろう。
 三重は終始無言だった。モノレールに乗ったときに、秀夫の部屋でのことを思い出して、プッと噴き出したとき以来、喋らない。
 ヨットハーバーを抜け、相模湾に面した防波堤までたどり着いた。テトラポットがいくつも並び、そこから先は海しかない。ここまで来ると、海風は風呂上りの秀夫の体温を奪うほど冷たい。きっとワンピースの酒田もからだが冷えるんじゃないかと秀夫は思ったが、防波堤の上に立つ三重は寒そうな顔をしていない。
 暗がりに目が慣れてくると、防波堤にはからだを密着させたカップルが何組か座っていた。こんなところで愛を語るなんて、秀夫には信じられなかった。たちまち風邪を引くだろう。地元の人間はこんなところをデート場所には選ばない。でも、俺と酒田は知らないひとが見たら、この連中と同じジャンルに入るのかもしれない。
 急に、三重がポーチから小さな紙袋を出した。
「これ、あげる」
言われるままに、秀夫はそれを受け取った。触った感じでは、なにかのケースが入っているらしい。
「なに、これ」
「録音したんだ。サザン。ちょっと古いけど、綺麗ってアルバム」
 サザンオールスターズは、秀夫が高校時代に没頭したバンドだ。大学時代は、あまり聞かなかった。音作りや歌詞が、デビューの頃と変化して、秀夫の趣向と合わなくなっていたからだ。ありがとうと、言おうとした。
「夢がかなったんだね」
秀夫からの礼の言葉を待たずに、三重が続けた。

5795.11/29/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
2-6
 三重は立ったまま部屋のなかを見回す。
「案外、きれいにしてるじゃん」
「あー、それより、よくここがわかったな」
「家に電話をしたら、お母さんが出て、ここを教えてくれた」
 わざわざ実家に電話をして、俺に会おうとしたのか。一体、どういう風の吹き回しだろう。秀夫は冷蔵庫を開けた。あちゃー、ビールしかなかったんだ。母は、酒田のことを知っている。酒田の母と秀夫の母は懇意だった。成人して、ひとり立ちした息子のアパートに、同級生の酒田が行くことをどう思っているのだろう。保護者公認の引き合わせだ。今度、実家に行ったら、しつこく聞かれるに違いない。
「ビール、飲む」
語尾を上げて聞く。
「わたし、アルコール、飲まない」
昔から、こいつは最低限の言葉しか喋らなかったな。いまも変わらないや。
「これから飯にしようと思ったんだけど、外で食うか」。本当は金をけちって材料を買おうと思っていたとは言えない。作戦変更だ。
 三重は奥の和室の電灯を消した。夕方が近づいていた。電灯を消した和室にはサッシからオレンジ色の光が差し込んでいる。え、まさか、こんな時間から。それも突然。秀夫の頭のなかは、三重の行動が読めない。なのに、風呂に入っておいてよかったと、こころのどこかで安心の鐘が鳴る。でも、7年ぶりだぜ。いきなり、それはないだろう。別に付き合っていたわけでもないのに。こういうのには順番があるんじゃないか。
「江ノ島に、行く」
「はぁ」
秀夫は間抜けな声を出した。7年ぶりに突然訪ねてきて、江ノ島に行くという三重の言動を、秀夫はふくらんだ妄想を消しながら、まったく理解できないでいた。あっそう、勝手に行けばとは言えなかった。
「泳ぐわけ」
いやそんなはずはない。手には水着を持っていない。間抜けなことを聞いてしまった。それに海開きはまだ先の話だ。気が動転していて秀夫は、パニックになりそうだ。
「いっしょに、江ノ島に、行こう」
 三重は、断言するように言うと台所の電灯も消して、ふたたび靴を履いた。ドア口で振り返り「早く」と言った。
 こういうときは、いっしょに江ノ島に行ってほしいから来てくれるかなと聞くもんだろと、頭の中で整理できたのは、ふたりでモノレールの深沢駅ホームにたどり着いたときだった。それまで、ふたりとも無言だったのだ。

 ホームから見える富士山と丹沢の山並みに日が沈む。空一面のオレンジ色と、シルエットになった山並みが対照的だ。横を見ると、三重も同じ景色を眺めていた。香水かな、シャンプーかな。三重の横にいると、うっすらとラベンダーの香りが秀夫の鼻をついた。

5794.11/28/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
2-5
 まったく予期しない訪問だった。
 飛び石連休で間に仕事があったとはいえ、こどもも教師も気分は連休モードだった。連休後半のこどもの日。あしたは代休。社会人になって初めてのゴールデンウィークを経験し、ふたたび仕事の世界に戻っていく日が迫っていた。それでも、最後の二日間は、ごろごろして英気を養おうと思っていた。
 こどもの日は久しぶりに掃除機を使って、部屋の掃除をした。近くのスーパーで化学雑巾を買ってきて、流しの引き出しや、戸棚を拭いた。秀夫が住む以前からの汚れが束になって雑巾に吸い寄せられていた。サッシ窓に洗剤をつけて洗う。内側と外側でこんなにも汚れ方が違うのかと驚いた。
 朝から午後三時ごろまで部屋の掃除をしていたら、服もからだも汗ばんだ。洗濯機を回して、風呂を沸かし、まだ日のあるうちに入浴を済ませた。入浴をしているときに、玄関の扉を叩く音がしたので、通路に面している風呂場の窓を開けたら、若い女性が「ご印鑑を新しくしませんか」という。
 「あの、いま、こういう状態ですから」と、裸のまま言ったら、女性は初めて顔を上げ、状況を飲み込み、赤面して「失礼しました」と小走りに帰って行った。
 俺って変態か。秀夫は少し困惑したが、掃除の疲れを入浴しながらいやしていくうちに、そんなことはどうでもよくなった。連休をごろごろ過ごそうと思ったのに、きょうは働いたなぁ。あしたこそは、本当に寝て過ごすぞ。風呂桶の中で首を左右に振る。そのたびに、頚椎がコキコキと鳴った。

 夕方になって、冷蔵庫の中を見たら、ビールと生卵しかないことに気づいた。流しのとなりの米びつを見たら、米も少なくなっている。
 外食するか。いや高くつく。買い物に行くか。財布を探した。入浴後のからだのほてりを取るために、Tシャツとジーンズという薄着だった。もう一枚羽織るかなと思ったとき、トントンと玄関の扉が鳴った。
「もう、印鑑はいらないですよ」。さっきのセールスが、入浴が終わった頃を見計らって来たのだ。そう思った。
 しかし、扉の向こうからは声がしない。代わりに、もう一度、トントンとドアが叩かれた。
「だから、印鑑はいらないって言ってるのに」、さっきよりも声が大きくなる。
 「印鑑じゃないよ」
 どこかで聞いた声だった。それも、かなり昔に聞いた声だった。秀夫はあわてて鍵を外して、ドアを開けた。通路に、同い年の女性が立っていた。
 髪はストレートのショートヘア。目はぱっちりとしていて唇は薄い。化粧っけはなく、淡いピンクのワンピースを着ていた。あごがとがった鼻筋の通った細面の顔。記憶が鮮明によみがえる。肩からポーチを提げている。
「酒田」じゃんは言葉につまった。
「なかに入れよ」
 酒田三重は、黙って部屋に入った。奥の和室に通した。小学校と中学校の同級生だった酒田とは、中学卒業後は会っていない。だから、かれこれ7年ぶりの再会だ。当時の秀夫にとって、酒田は初恋のひとだった。気になる存在だから、わざと好きな素振りができずに口調がつっけんどんになり、いつもケンカをしていた。それでも、気になるから、よく話をしたり、相談に乗ったりした。それが初恋だったと自分で認めたのは、高校に入って野球部の仲間で初恋体験の告白会をしたときだった。だから、自分の気持ちを酒田に伝えたことはない。それでも、年賀状のやりとりだけは続いた。

5793.11/27/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
2-4
「ひたすら、寝まくった連休でした」
「なんだ、どこにも行かなかったの」
「そんな元気、ないですよ」
「若いのに、いかんな。そんなんじゃ。彼女とデートとかしなかったわけ」
「だから、何度も言ってますけど、デートできる相手がいれば寝て過ごすことなんてしないでしょ」
 加山には4月の一ヶ月間で何度も彼女はいないのか、いないならいいひとを紹介する、となりの畑の長女でさぁ、港の料理屋の娘もいるよという話をしてきた。仕事を始めたばかりの秀夫に、結婚を考える余裕はなかった。でも、デートをする相手ぐらいはいてもいいかなと思わないでもなかった。ただし、加山の紹介したひとは避けようと決めていた。付き合いだしたら、きっと加山もついてくるに違いないからだ。

 新聞を読み終えた加山はこたつから出て、ふわーっとあくびをしながら、全身を伸ばした。
「もう、乾いていたから、取り込んでおいたよ」
「ありがとうございます」
ポットの湯を急須に入れ、加山と自分のお茶を用意していた秀夫は礼を言う。
 学校で着る服や体操着は、ここの洗濯機で洗濯して、用務員室の窓際に干していた。朝、出勤したときにそれを取り込み、ロッカーに運ぶ。でも、時々加山が取り込んでくれて、ロッカーに収納してくれていた。ロッカーには鍵がかかっていて、開けられないはずなのだが、用務員の加山はどんな鍵も開けるマスターキーを持っているので、他人のロッカーを開けることなど簡単にできた。簡単にできても、ロッカーのなかには私物が入っているので、やっていいこととやってはいけないことと言ったら、それはやってはいけないことだろう。でも、新卒の秀夫には、加山を説得できる立場ではなかった。厚意をありがたく受け止め、ロッカーに、加山に見られてまずいものは入れないように気をつけていた。
 秀夫はお茶を飲み、ロッカーに向かう。扉を開けると、ハンガーに長袖のTシャツが3枚と、作業ズボン、運動着がかかっていた。どれも完璧に乾いている。
 プライベートはないに等しい環境だけど、ここまで面倒を見てくれる加山に象徴される葉山のひとたちの人間の濃さは、じょうずに付き合えばありがたいことなのだろうと思うようにしていた。
 着替えながら、さっきはデートをする相手がいないと答えたけど、こどもの日の夜に酒田三重がアパートを訪ねてきたことを思い出した。あれは、デートと言えたのだろうか。いや、そんなはずはない。ショートカットの三重の寂しそうな横顔と、「わたし、来月、結婚する」と言われたときのこころの揺れを思い出したら、肋骨と肋骨の間がキュンと痛くなった。

5792.11/26/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
2-3
 秀夫は、校長の机に置いてある出勤簿を開いた。そのなかから、自分のページを探す。出勤すべき日にちが一ヶ月ごとに示されていて、出勤したら印鑑を押す。出勤時間は8時半と決まっていて、帰る時間も4時15分と決まっているので、タイムカードはない。出勤簿のとなりに、印鑑を入れた木箱がある。そのなかから、戸崎と書かれた印鑑を取り出して、朱肉をつけて押印した。
 よのなかでは、フレックスタイムという労働管理が民間企業で進んでいるとニュースでやっていた。
 自分で出勤時間を決められる便利な制度だそうだ。労働時間は決まっているので、遅く出勤したら、帰る時間が遅くなるのだろう。でも、秀夫みたいに早く出勤したら、帰ることも早くできるのであれば、学校にも導入してほしいと思った。
 8時半が出勤時間だから、7時半に出勤しても、給料は出ない。特別な手当てもない。だから、8時半ぎりぎりに出勤するひとが多い。しかし、電車を使っている秀夫は、ラッシュで他人とおしくら饅頭をしてまで、出勤したくはなかった。だから、ほかのひとよりも1時間程度早く出勤するようにしていた。

 荷物を机上に置いて、廊下の外れにある用務員室に向かう。
「おはようございます」
扉を開けて、なかにいる加山に挨拶をする。
 最初、加山という名前を聞いたとき、茅ヶ崎の加山雄三を思い浮かべたが、本人に聞いたらまったく縁がないとのことだった。苗字が同じだけで、みんな有名人と関係あるとは限らないんだなと思った。でも、きっと茅ヶ崎出身の桑田ですというひとに今後出会ったら、やはりサザンと関係ありますかって聞いてしまうかもしれない。

 用務員は、学校の営繕や修理をおもな仕事としているが、実際には業者との連絡調整や廃棄物の処理など、学校という建物と、そこで学び、そこで働くひとたちが円滑な日常を送れるように、すべてのことを担当している。だから、ひとつの学校に長く勤務することが多い。以前は、敷地内に家屋があり、家族で住んでいたほどだ。だから、3年から4年で異動していく校長や教頭よりも、ずっと学校のことに詳しかった。
 長田小学校の用務員室は、かつて宿直室として使われていた部屋だ。だから、生活するのに必要なものが各種そろっている。加山は、そこを根城にして仕事をしている。三浦に広大な農地をもち、野菜を育てながら、兼業で用務員をしていた。ふだん畑は、奥さんや兄弟が耕していたが、収穫や耕作の時期になると、平日でも学校を休んで畑仕事を優先すると言っていた。
 用務員室のなかに入る。手前は4畳半ぐらいの広さで、流しとガスレンジ、テーブルと椅子、冷蔵庫と洗濯機がある。奥は一段高くなっていて、靴を脱いで上がる和室になっていた。なぜか一年中こたつがあり、洋服ダンス、押入れ、テレビがあった。秀夫のアパートよりも、ずっと品物がそろっている。
「秀夫くん、元気だった」
奥のこたつに入って新聞を読んでいた加山は、老眼鏡を外して微笑んだ。おそらく50歳は越えているだろう加山は、身長が高く、痩せ型で、指や手の甲は農作業のせいか、皺がとても多かった。禿げるタイプではないらしく、薄くなってはいても白髪まじりの髪の毛には、毎朝くしを入れているようだ。

5791.11/25/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
2-2
 バス停から、しばらく歩くと、小高い山に続く上り道へと折れる。車用の道路もあるが、上っても行き止まりで、そこには長田小学校があるだけだ。
 この山の上には、町立長田小学校しかない。つまり、もともとは何もなかった小高い山のてっぺんを切り崩して平らにし、そこに小学校を建設したのだ。車用の上り道の脇に、もっと直線的に頂上を目指す階段がある。100段以上の階段だ。階段の中央には手すりがあって、頂上までに何ヶ所か踊り場もあった。登校するのに、とても体力が必要な学校だと思った。100段以上の階段は、校歌にも触れられていて、だから長田のこどもは足腰が強いという落ちへと続く。たしかに、毎日これだけの階段の上り下りをしていれば体力がつくだろう。4月当初は、どんな屈強なこどもたちなのだろうと秀夫は想像した。しかし、一ヶ月を過ごしてわかったことは、こどもたちはこの階段のせいで、2時間目ぐらいまでの体力をかなり消耗している。限りある体力を登校でかなり使ってしまうので、屈強とは程遠く、朝から机にうつ伏せになって、姿勢の保持さえもできないこどもが多かった。

 ワンダーフォーゲルで全国の山を歩いたとはいえ、引退してから、本格的なトレーニングをしていない秀夫は、ここに勤務するようになった4月は、階段を登り切るたびに息が切れそうになった。体力の衰えではなく、運動不足を痛感した。
 それでも一ヶ月間、毎朝、階段の昇り降りをしていたら、からだは慣れて、息が切れることはなくなった。
 きょうは、連休明けで、久しぶりに階段を登る。腿の筋肉が張ってきて、膝を上げるのが窮屈になった。階段の手すりにつかまりながら、最後の一段を登り、校門をくぐった。

 学校には職員用の駐車場があり、多くの車を駐車できるようになっている。
 軽トラックが一台、早い時間から駐車していた。用務員の加山さんの車だ。
 秀夫は、開錠している職員玄関から校舎内に入った。職員玄関の脇に事務室がある。まだ誰も来ていない。一階の第一校舎は管理棟になっている。職員玄関のとなりにこどもたちの昇降口がある。校舎の中央部分が玄関になっていて、一階の教室はそこから左右に配置されている。玄関に一番近いところに保健室があり、そこから右側に向かって、職員室、校長室、湯沸室、職員トイレ、職員ロッカー、用務員室。反対に左側に向かって、印刷室、PTA会議室、教材室があった。いわゆるこどもの教室がないので、管理棟と呼ばれていた。
 秀夫は、職員室に入る。だれもいなかったが、蛍光灯がついていた。きっと加山がつけたのだろう。
 職員室は、普通教室2つ分の広さで、長方形をしていた。長い辺の壁は廊下と接していて、反対側は窓がある。校庭の景色がよく見えた。短い辺の壁は教頭と校長が座る机と行事用の黒板がある。反対側にはレンジ台と流しと校長室に続く扉があった。
 4年を担任している秀夫の机は、一番校長の机に近いところにあった。小学校の職員室は、学年ごとに机が寄せられている。秀夫は4年の担任たちと机を接しながら、小さなシマを作っていた。机上には、連休前にやった算数テストが文鎮で押さえてあった。まだ採点していない。
 行事黒板の上にある時計は、7時半を指していた。

5790.11/23/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
2-1
 バスは、逗子と葉山の境の「桜トンネル」を抜けて、一気に葉山町に入る。
 そこは、海が目前に迫っているとは思えないほど、山深く、緑が濃い。道路は狭く、排気ガスがこもる谷あいの地形だ。
 逗子駅からバスで5分ぐらいのところに、長田交差点があり、そこのバス停で秀夫は降りた。わずか5分なのだが、歩くと20分ぐらいかかる。都会と違って、湘南でも田舎の平日は車の通りが少なくて、バスがアクセル一杯に5分も走ると、かなりの距離を進むのだ。

 3月の後半に、教育委員会のひとの指示で、赴任することになった町立長田小学校に行った。
 そのとき、委員会のひとは電話の向こうで
「なーに、逗子から歩いても10分ぐらいですよ。バスもいいけど、若いんだから歩いてみたらどうでしょう」
明るい声で教えてくれた。
 大学時代にワンダーフォーゲル部に所属し、歩くことには慣れていた秀夫は、10分という時間を聞いて乗り物に乗るまでもないと思った。
 逗子駅から指示された方角に向けてひたすら歩いた。すると、10分経っても小学校の気配はなかった。地元のひととおぼしき老人に聞くと、あそこのトンネルを抜けたらすぐだと教えてくれた。いまから思えば、そこはまだ逗子市内で、桜トンネルまでも到っていなかったのだ。いつの頃から、俺の足は象のようにのっそり歩くようになったのかと不安になりながらトンネルに入った。
 すると、そこは古いトンネル。排気設備はなく、しかも暗く狭い。通り抜ける車の排気ガスを絶え間なく全身で浴びる結果となった。電話の向こうで明るい声をしていた委員会の担当者をひっ捕まえて、首を絞めてやりたくなった。トンネルを出る頃には、排気ガス中毒にでもなった気分で、頭がくらくらしていた。
 結局、小学校までは30分近くかかってしまった。校長と約束していた時間に少し遅刻した。遅れたわびをして、頭を下げると、校長は笑顔で言った。
「逗子から歩けって言われたんでしょう」
「そんなに強く命令されたわけではありませんが、若いんだから歩いてみてはどうかと」
 校長は、さらに笑いを隠さない。
「こっちの時間の流れは、鎌倉や藤沢の流れよりもゆっくりだから、気をつけなさい。もしも、歩いて10分と言われたら、だいたい3倍して考えると常識と一致してくる。すぐと言われても、瞬時には動かない。よっこらしょが必要だから、5分ぐらいかかる。期限付きの提出物があるときは、2日前とか3日前に配ったら、まず当日には集まらない。そんな間近に配ったほうが悪いと怒られますよ」
 同じ湘南地域で、こんなところがあったのかと、秀夫は驚いた。

5789.11/21/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
1-11
 教員しかないと思って将来の展望を固めてしまうには、状況が厳しすぎた。だから、いくつもの人生の選択肢が必要だったのだ。
 朝の7時の逗子駅ロータリーには、京浜急行のバスとタクシーが客を待っていた。
 自分が目指した職業に就けたことは、実力よりも、運が強かったと思うようにしている。なにしろ2000人を超える受験生がいて、合格者数すら公表できないほど若干名しか採用されなかったのだ。自分にそんな実力があるとは思わない。あったとしても、全部で5次試験まであった採用試験で、全力を出せたとも思えない。俺の力で合格できたと豪語したら、その瞬間に天罰が下りそうだった。

 だからこそ、こうして職業人として、確実な一歩を踏み出している自分をあきらめないようにしようと思う。
 秀夫は、就職して一ヶ月が過ぎて、いつも朝の逗子駅改札口を出ると、気持ちが厳粛になる。緊張もする。
 よし、きょうもいっちょ、やったろか。
 野球をやっていた頃、試合前のベンチでボルテージを高め、気が散ってしまいそうな頭を、ただひとつ相手チームのピッチャーを叩きのめしてやろうという一点に集中して行く。もしもからだに近い球を投げてきたら「ふざけんじゃねぇ」とすぐさま睨みつけてやろう。気負いではなく、気持ちで負けない覚悟を持たなければ、130キロ近い速球なんて打てやしない。
 逗子駅の改札をくぐり、駅前のロータリーに足を踏み入れるとき、秀夫は、野球をやっていた頃のように、きょう一日を悔いなく前向きに乗り切ろうと気合を入れる。プレイボールと叫ぶ球審の声が、空の上で響くような気がする。

 ロータリーは三角形をしていて、そこから金沢八景方面と葉山・横須賀方面と鎌倉方面の三方向に道路が分かれている。バスもそれぞれの方向に出発する。
 正面の魚屋では、仕入れを終えたきょうの売り物を店頭に並べている。きっと秀夫が帰りに通るときには、もう店はシャッターを閉めているだろう。いつも開店前の準備の時間にしか店の様子がわからないのだが、干物をじょうずに鉄網に並べる親父がきっと店主だろう。逗子の干物はアジもサンマもとても肉厚だ。干しても干しても蒸発しない特殊な脂でももっているかのように、開かれた肉が盛り上がっている。さーっと焼いて、おろし大根で食べたらおいしいだろうなぁといつも思う。
 海の匂いというのは、よく潮の匂いだと言われている。しかし、潮の匂いってどんな匂いかと考えると、匂いが鼻の奥に記憶としてよみがえらない。秀夫は、ロータリー一面に広がる、この干物の匂いこそ、潮の匂いだと思った。乾いていても、生臭ささが残り、少ししょっぱいような甘いような、いいだしの香りだ。
 この匂いに包まれると、きょうもここに来ましたぜ、アジの兄貴と叫びたくなる。朝食を済ませてきたのに、腹の奥で、胃袋がおかわりと言っているようだ。
 秀夫は、山の手まわりの葉山循環バスに乗る。運転手は新聞を広げて、まだエンジンをかけていない。出発予定時刻まであと数分。どのバスも、始発駅ということだからか、エンジンを切っている。そして、この会社の運転手は、みんな暖気運転を教わってこなかったらしく、エンジンをかけたとたんにドアを閉め、もそもそもそもそとなにやらアナウンスをしてアクセルを踏む。
 連休明けの初夏の日差しは、まだ夏というには早すぎて、でも春というには暑すぎる。もうすぐ一年中でもっともこの地域がにぎわう季節がそこまで来ていることを、秀夫は肌で感じながら、運転手の後ろの席に座って、まだ干物を干している親父の後姿を眺めていた。

5788.11/20/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
1-10
 1985年は、教員を志すひとたちにとっては、超がつくくらいの氷河期だった。
 その前後も含めて、全国の教育委員会は、ほとんど新採用を取らなかった。
 自分が就職することで手一杯で世の中の動きがどうなっているのかとか、権力者による不正が蔓延しているとか、国鉄が民営化されるとはどういうことかとか、考える余裕などなかったのだ。
 秀夫が大学4年のときに、学生課の就職窓口で神奈川県教育委員会の採用要項を手にしたとき、募集人員に「若干名」と書いてあった。
「これって、どういうことですか」
学生課の窓口の人に聞いた。
「運がよければ合格するということでしょう」
 つまり、試験は受けてもいいが、採用の見込みはないという報せでもあったのだ。

 教員は定数法という法律で、学校規模に応じてではなく、こどもの人数に応じて採用者が決まる。
 全体的にこどもの数が減ってきていたので、当然のこととして、教員の採用人数は減っていく。アメリカのように公立学校でも教員は一年契約の雇用ではない。日本では一度正採用になると、60才の定年まで辞職したり解雇されない限り働き続けることができる。
 一学年一学級45人で教員がひとり採用される。もしも46人になったら、二学級を作り教員は二人採用しなければならない。子どもの数ひとりによって、一クラスの人数が45人のときもあれば、半分の23人のときもある。この差はとても大きいのだが、その問題点を指摘する保護者や社会的勢力はない。教職員組合が定数是正の要求をしても、保守系政治家は教職員の組合員に対して敵対心をもっているので、要求の内容など、聞く耳をもたない。
 また、電子立国が叫ばれ、1980年代の若者たちは理工系の知識を携えて、多くは公務員ではなく民間企業へ就職した。公務員は採用がほとんどない時代だったが、パソコンやプログラミングの知識や技術のある若者は引く手あまたの売り手市場だったのだ。
 秀夫の初任給は大卒者平均給料よりも低く、工学部でろくに漢字を書けなかったワンダーフォーゲル部の仲間は倍近くの給料をもらった。秀夫たち難関を突破した教員組は大卒者平均給料を押し下げることに貢献し、キーボードを前にすれば漢字が書けなくても問題ない工学部の仲間たち理工系組は平均給料を押し上げることに貢献していたのだ。

 いざとなれば、教員の夢は捨てようと思っていた。
 実家の経済状況を考えると、とても就職浪人などできる状態ではなかった。アルバイトをしてでも自分の生活は自分の力で切り開いていかないと、親や妹に迷惑をかけることは必至だった。高校時代からエキストラのアルバイトをしていた大船松竹撮影所の門をたたくのもいい。もともと映画には興味があったので、その世界で生きていくのも魅力が会った。海に出て砂浜で夏場だけ死に物狂いで働いて一年間を遊んで暮らすのもいい。工場にアルバイトで入り、お金ができたら山に入る登山家を志してもいい。

5787.11/19/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
1-9
 その若宮大路には、由比ヶ浜に近いところから三つの大きな鳥居が設けられている。
 もっとも海に近い鳥居を一の鳥居、中間地点の鳥居を二の鳥居、八幡宮境内直前の鳥居を三の鳥居と呼ぶ。海から一直線につながる道はおよそ一キロぐらいだろうか。夏にはここに車とひとがあふれ、ラジオ局やテレビ局が季節スタジオを設けて、情報と流行を発信する。
 中間地点の二の鳥居近くに、国鉄の鎌倉駅がある。

 秀夫を乗せた横須賀線は、鎌倉駅に停車する。
 6時半過ぎのホームには、上り電車を待つ通勤通学客が並んでいる。下り電車に乗っていた客の大半もここで降りた。ほとんどひとのいない車両に、秀夫は残った。それでも座らずに立ったままドアの近くで外を眺める。
 まず、出勤したら、着替えて、漢字テストを印刷しなきゃな。
 少しずつ気持ちを職業人モードに切り替えていく。

 鎌倉を出発した横須賀線は、大町の町並みを抜け、名越切通しのトンネルをくぐり、逗子の町に入る。トンネルを抜けて惰性運転をしていた横須賀線は、徐々にブレーキを利かせて、逗子駅のホームに入り、停止線ちょうどに止まった。
 おっ、きょうの運ちゃんはじょうずだな。秀夫は電車の運転士に敬意を払う。乗客にブレーキの衝撃を感じさせず、ホームでは停止位置ちょうどに車両を止める。運転士になるために何年も鉄道乗車勤務をしなければいけない国鉄のならわしで、職人としての技をつけたひとたちならではのドライビングテクニックだ。
 これも分割民営化によって、もしかしたら消えていく財産かもしれない。何年もかけて運転士を育成するのには金と手間がかかる。入社してわずかの者に、どんどん通勤通学の近距離電車を運転させる時代が来るかもしれない。経験も技術も未熟の者に、多くの技と勘、専門知識が必要な電車の運転を任せたら、一番大切にしなければいけない乗客の生命が二の次にされ、大事故を招く日が来てしまうのは明らかなことだ。ひとのいのちと引き換えの民営化に、どれだけのひとが気づいているだろう。
 そんなこと、だれもわかっちゃいないな。
 駅員に定期を見せて、改札をくぐりながら、秀夫は思った。みんな、自分が生きているいまに必死で、ひとのことやよのなかのことなんて、考える余裕はないのだろう。

5786.11/18/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
1-8
 大船を出発した横須賀線は、すぐに東海道線と分かれ、三浦半島方面に向かう。
 富士見町、末広、台、小袋谷、山内と呼ばれる地区を抜けて、北鎌倉駅に到着する。円覚寺の境内を線路が横切っている。その敷地の中に、北鎌倉駅がある。もう桜の木に花はない。どの桜も青々とした葉で覆われている。
 アイボリーホワイトと紺の110系車両は、国鉄車両のなかで中距離輸送に適したシンボル的な存在だ。同じ型の車両がオレンジと緑に塗られて東海道線を走行している。同じ型の車両でも、北鎌倉の谷間と樹間を走る車両には、なぜか空と海をイメージしたと言うスカ色の110系が似合う。もしもここに東海道線を走行している110系車両が入線してきたら、環境と適合せず、歴史と自然と文化の町に、湘南のにぎわいが侵入してきたような感覚になるのではないだろうか。
 国鉄の車両には、100年金属と呼ばれるほど、不純物の少ない純粋な鉄(純鉄)が使われている。とくに錆びたり、破損したりしては困る床下の機器には多く使われている。それらは国鉄が所有している製鉄所で造られ、大井町や蒲田の職人のいる中小工場で製品に加工される。アルミ合金を使い、外国工場で安く仕上げた製品と違い、メンテナンスさえしっかりすれば100年は同じものが繰り返し使えるという。だから100年金属だ。
 もうすぐ国鉄は、分割民営化されるという。手間やお金がかかるこれまでの車両作りのコンセプトは、きっと根底から否定され、コスト優先の軽量車両が増産されるだろう。もしかしたら、車体前面にペンキは塗らずに、ステンレス合金車体にして最小限のライン程度しか塗らない銀色車体が登場するかもしれない。幾重にも重ねられた車体のペンキは、さびや腐食を防ぐことが目的だが、同時に景観とのマッチングや、路線を象徴するオリジナルカラーとして地域に溶け込んできた。それらが、経営の論理のもと破壊され否定されていく日が近いことを、こどものときから鉄道が好きだった秀夫は、閉まる扉の内側で寂しく思う。

 線路に平行して走る鎌倉街道には、北鎌倉の駅から左右にいくつもの寺が並ぶ。縁切り寺として有名な東慶寺、あじさい寺として有名な明月院。そのなかでも、禅寺として有名な臨済宗の建長寺と円覚寺は多くの観光客と檀家をかかえる大きな寺だ。ともに数百年とときを越えて、同じ臨済宗でありながら、建長寺派と円覚寺派にわかれ交わろうとしていない。
 鎌倉街道は、旧鎌倉市内へ通じる坂道にさしかかる。巨福呂坂(こぶくろざか・小袋谷と書いてこぶくろやともいう)切通しだ。横須賀線の線路は切通しの下にトンネルを貫いて旧鎌倉市内へと入っていく。
 源頼朝が征夷大将軍として幕府を開いた鎌倉は、南に相模湾、西・東・北に山並みをかかえ、天然の要塞としての地形を備えている。厳しく山野を切り崩すことを制限する条例があり、いまも基本的には大きな重機で山野が壊されることなく、当時の地形を残している。巨福呂坂切通しは、鎌倉の北面の山並みを切り開いて作られた。鶴岡八幡宮を懐に抱く、いくつもある切通しのなかでもとても意味のある切通しだ。
 鶴岡八幡宮は、源氏を祭る神社で、大晦日に除夜の鐘をついたり、元旦に初詣に訪れたりする観光客で毎年にぎわう。本殿に向かう幅の広い石段を上がると、相模湾に向かって一直線の道が見える。源頼朝が作らせた若宮大路は、遠近法を駆使して、海岸の由比ヶ浜に向かって少しずつ道幅が広くなっている。そのため、八幡宮の本殿から由比ヶ浜方面を見ると、道路幅が同じ広さで海に続いて見える。本来ならば、同じ道幅の道路は、遠近法の関係で遠くなるほど幅が狭くなり、はるか彼方では道幅がなくなってしまうように見える。先細りは縁起が悪いと考えた頼朝の発案と伝えられている。

5785.11/16/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
1-7
 一人暮らしを初めて一ヶ月が過ぎた。だれかに連絡をとるのに、もしも自分の部屋に電話があったらきっと便利だろうなと思い始めていた。
 大家に取次ぎを頼もうかとも思ったが、電話のたびに頭を下げに行くのは、気が引ける。逆にかかってきたときに、自分が風呂にいても便所にいても行かなくてはならないのも面倒くさい。
 自室に電話があれば、自分の都合で電話を使うことができる。
 きょう、出勤したら、小出に電話の申し込み方法について聞いてみようと思った。

 モノレールは湘南町屋を出発し、下り勾配に入る。
 窓外には山崎の町並みが広がる。そして、秀夫の実家のある台の山並みがそれを囲む。モノレールは速度を緩めて、富士見町駅に到着した。
 富士見町では、かなりの乗客が待っていた。そのため、深沢ではまばらだった乗客が、富士見町を過ぎたら、ほぼ満員になった。それでも、立っている客と客のからだが触れ合うことはない。これが一時間後だと、乗車率200パーセント状態になる。駅には、乗客を車内に押し込むための駅員が待機するのだ。
 モノレールは富士見町を出発し、横須賀線の線路をまたいで、大船の町に入っていく。小高い丘に上半身を起こした大きな大船観音が近づいてくる。
 その観音様の下を、オレンジと緑の車体の東海道線が藤沢方面から入線してくる。これから東京へ向かうひとたちを乗せて、大船を出発していくのだろう。
 モノレールもゆっくりと終着駅の大船に入っていく。

 列車を降りて改札口で駅員に定期を見せる。足早に木造の大船駅に向かい、同じように改札口の駅員に定期を見せて、下り横須賀線ホームに降りた。
 6時20分の横須賀行きが戸塚方面から入線する。アイボリーホワイトと紺の横須賀線は、重量感のある鉄の車体をきしませて停止する。最近は車両のトイレがタンク式になって、かつてのように糞尿をそのまま線路に垂れ流すことはなくなった。以前は、停車中の排便・排尿は暗黙の了解でだれもがしないのがマナーだった。そうしないと、ホームから見下ろす先に、だれのものとも知らぬ糞尿がばらまかれてしまうからだ。しかし、電車を利用するひとが増加するのに伴って、暗黙の了解は簡単に崩れ、ホームから線路にこびりついた糞尿が見え、そこから発する臭いで気分が悪くなることも珍しくなくなっていた。
 だから、タンク式のトイレへの改良は画期的なことだった。
 秀夫は、横須賀線に乗り、ドア近くの席に座る。多くの乗客が東京方面の上り電車に乗る。秀夫のように、下り電車の乗るのは通学で使う学生が多かった。だから、6時20分の電車に乗る学生は、運動部の早朝練習をする者ぐらいでそんなに多くはなかった。
 座席に座り、秀夫はザックから手帳を出す。5月のページをめくり、7日(火曜日)の欄を見る。

 漢字テスト。校内研究。算数採点・集計。理科教材研究。5月の歌。

 秀夫は、ボールペンを出し、そこに「電話の申し込み方法・小出」と追加した。それから、ふと思い出し「帰りに、米5キロ。床屋の予約」と書き加えた。

5784.11/15/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
1-6
 深沢駅に着き、秀夫はホームまでの階段を上る。道路の真上に線路があるので、駅も地上ではなく空中にある。
 6時過ぎのホームには通勤や通学のひとたちがまばらにいた。いつもはもう少し多いが、連休明けで出足が悪いらしい。
 鎌倉山のトンネルを抜けて、上り列車が深沢駅に到着した。モノレールは単線なので、いくつかの駅を複線化して、上り列車と下り列車が交差する仕組みになっていた。深沢駅もそんな拠点駅で、上り列車に続いて、大船方面から下り列車が到着した。

 上り列車に乗る。空席があるが、座らないでドア近くに立って窓外を眺める。
 高所を走るモノレールなので景色がいい。西側の風景を目で追う。深沢を出発したモノレールは、町屋の登り勾配にさしかかる。軌道にぶら下がって走行するので、どこかにつかまっていないと転んでしまうほど、湘南モノレールは揺れる。開通したばかりの頃は、モノレールを知らないで初乗りした客が、揺れの大きさに驚く光景が見られた。最近は、多くのひとたちの交通手段となり、揺れ方の大きさで驚く客はあまり見なくなった。
 町屋の坂道を登りきると、湘南町屋の駅に着く。深沢からわずかに1分ほどだ。モノレールの各駅は、どれも1分ほどで到着する距離だ。実際に線路したの道路をバスで走行すると、渋滞や信号があるので5分近くはかかってしまう。揺れがどんなに大きくても、時間がかからないというのは通勤や通学のひとたちには大きな支えになっている。大船と江ノ島を、わずか13分で結んでいるモノレールは、道路が空いていても車なら30分、混んでいたら1時間はかかるだろう道のりを、確実なときを刻んで走行している。
 町屋は高台にあり、背後に梶原の山並みを抱えている。三菱が大きな工場を構え、国鉄も深沢に大きな修理工場を展開していた。国鉄は2年後には完全民営化が計画されているが、労働組合の闘いで本当に民営化されるかどうかはわからない。
 しかし、先月の一日から、電信電話公社が完全民営化されNTTグループに生まれ変わったことを考えると、国の基幹事業が民営化されていくのは時代の流れなのかもしれない。
 秀夫は、三菱工場や国鉄深沢工場を眼下に眺めながら、その向こうに朝日を浴びる富士山を拝んだ。

 そういえば、事務の小出から「電話だけは入れてくれ」と頼まれていた。
 公社のときは、勝手な想像で電話料金が高いのではないかと考え、一人暮らしのアパートに電話を入れなかった。
 NTTになってから、大きくサービスが変わるかと思ったら、もう一ヶ月になるというのに、電話機や電話料金が大きく安くなるというニュースは聞かない。
「なぜ、電話が必要なんですか」
 これまでの生活で、電話が必要なときは公衆電話を使っていた秀夫は、自宅に電話を入れても、日常的に使わないので、毎月の基本料金の支払いが生活費を圧迫すると考えた。しかし、小出は秀夫が当然と考える内容に逆に驚いた。
「いまの時代、家に電話がないと不便でしょう。それに先生はこどもにいつ何時どんなことが起こるか分からないから、絶えず連絡が取れる状態にしておいてもらわないと。だいいち、電話連絡網を作ったときに困ったのではないですか」
「いえ、わたしの欄は、電話なしと明記しました。実家にも長い間、電話はなくて、必要なときはとなりの祖父母の家の電話を使っていました」
 秀夫がこどもの頃の電話連絡網には、電話のない家もあった。そういう家は、○○方という書き方をして、近所で電話のある家に取次ぎを頼んでいた。秀夫の家も、祖父母の家の電話番号を載せていた。

5783.11/14/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
1-5
 日ごろから腕時計を持つ習慣がない秀夫は、時間を気にすることがない。
 それは、のんびりした日常があったから可能だったことだが、就職してみると、時間を気にしないというのはとても不合理なことがわかった。だから、一人暮らしをしてから目覚まし時計を見る習慣だけは身につけた。でも、まだ腕時計をする気持ちにはならない。その気になれば、駅にも店にも時計はある。ひとがしている腕時計を覗き見ることだってできるからだ。

 アパートを出ると、隣りの大家が花に水をやっていた。
「おはようございます。連休が終わりましたね。張り切って行ってらっしゃい」
50歳ぐらいの婦人は、いつもこの時間に庭の花に水をやっている。連休中はしばらく会わなかったが、また出勤と同時に挨拶をする生活が始まる。
「行ってきます」
婦人に顔を向けずに、秀夫は歩道に出た。

 アパートには8つの部屋があり、どの部屋にも住人がいた。一ヶ月の家賃が5万円だから、大家は黙っていても一ヶ月で40万円もの家賃を得ることができる。
 鎌倉は昔から借地の人が多い。借地に持ち家を建てているひともいたが、借地借家というひとが圧倒的に多い。それだけ古くからの地主が土地を手放さないのだ。土地を持って家を貸すことが、十分に機能するほど、鎌倉の土地には価値があるということだ。
 大学卒業のひとたちの初任給の平均が14万円だったので、その三分の一以上を家賃に持っていかれるのは、秀夫にはきつかったが、住み慣れた鎌倉を離れる気持ちはなかった。
 花に水をやる婦人の姿を思い浮かべる。
 その水道料金や花の苗を買うお金の一部を負担しているのは、俺なんだぜ。連休が終わりましたねなんて、生きる意欲を減退させることを言う前に、いつも家賃をありがとうと感謝してくれよと、言いたくなった。

 歩道から幹線道路を経て、5分ぐらい歩くと、湘南モノレールの深沢駅がある。
 湘南モノレールは、かつて日本で初めての自動車専用有料道路として開通した京浜急行の道路の上に線路を作っていた。このモノレールは、懸垂式といって、車両が線路の上を走るのではなく、軌道にぶら下がって走った。軌道の中は空洞になっていて、そこに線路が敷かれている。車両の天井から伸びたアームの先に車輪がついていて、起動のなかに伸び、その中の線路を車輪が走る。懸垂式モノレールは日本で初めて開業した。その後、千葉モノレールが開通するが、湘南モノレールは千葉モノレールの実験線として開業したと言われている。
 大船から江ノ島に向かう京急(京浜急行)道路沿いには、高度経済成長期に次々と住宅地ができた。そこに住む人たちの交通手段は、公共バスか自家用車しかなかった。そこに登場したモノレールは夢の乗り物だった。渋滞や信号がないので、なにしろ早い。京急道路沿いのひとたちは、東京方面で働く場合、藤沢には出ないで大船に向かう。その足として、モノレールは活用された。

5782.11/13/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
1-4
 時計は5時半を指している。
 あと30分ですべてを終えなきゃ。
 冷蔵庫から、昨夜の残りの味噌汁を鍋ごと取り出しレンジで温める。電子レンジは買っていない。初任給は家賃と親への仕送りで消えた。生活に必要なものは少しずつそろえればいいと思っている。
 ジャガイモとキャベツが味噌汁のなかで踊り始めたのを確認して、同じように昨夜の残りのご飯を入れる。鍋ごとの猫飯だ。
 ぐつぐつしてきてから、卵を割って入れた。
 それを丼にうつして、大きなスプーンをそえた。

 新聞受けから毎日新聞を取り出す。こどものときから実家では毎日新聞を読んでいたので、一人暮らしを始めてからも同じように毎日新聞にした。見慣れた紙面のほうがいいと思った。
 朝刊を座卓に置く。
 戸崎の借りていた部屋は、玄関を開けるとすぐに台所だった。そこにはトイレと洗面所、風呂場がセットになっている。台所に小さなテーブルを置くこともできたが、戸崎は隣りの和室を寝室にして、さらに玄関からもっとも遠い奥の和室に座卓を置いていた。そこまで、新聞と丼を運ぶ。
 まだ湯気の出ている卵かけ猫飯をスプーンですくって口に運びながら、朝刊を開く。
 こどものときから、テレビはほとんど見ない生活をしてきたので、テレビ欄には興味がない。一面に目を通し、テレビ欄の裏の社会面を開く。冷蔵庫に麦茶を作ってあったことを思い出し、戸棚からコップを出して、そこに注いで、ふたたび朝食を続ける。

 社会面の事件や事故の報道を斜め読みして、荷物を入れる小さなザックに座卓の周辺に散らかっている仕事道具を詰め込んでいく。飲みながら、食べながら、詰め込んでいく。筆記用具、ノート、こどもたちの成績管理ノート、印刷物の原稿、タオル、そしてポケットティッシュ。
 荷物を詰め込み終わるのと、朝食を食べ終わるのは同時だった。
 丼とコップを流しに運び、水を浸す。洗うのは帰ってきてからだ。それまでに水の中の水素が適当に消毒殺菌してくれるだろう。洗面所に行って、歯を磨き、ひげをそり、顔を洗う。タオルで顔を拭きながら、洗面台の鏡で髪の毛をチェックする。山登りに明け暮れていた大学時代は短髪にしていたが、就職してからは、そのまま床屋には行っていない。もともと天然のウェーブがかかっている秀夫の髪は、ある程度伸びると先端が跳ね始めてしまう。あちこちで数箇所跳ねていたが、軽く水をつけてくしを通した。
 貴重品を入れている棚から、定期入れと財布を取り出し、ズボンのポケットに入れた。
 部屋の電灯を消し、下駄箱のなかに隠してある部屋の鍵を取り出し、ザックを背負って部屋を出た。
 出掛けに目覚まし時計を見たときには、6時ちょうどになっていた。

5781.11/12/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
1-3
 敷布団の上にあぐらをかき、枕元に置いてある着替えのなかから靴下を取る。
 アパートの部屋は一階の東端だったので、雨戸を閉めていても虫食いだらけの雨戸から日差しが部屋のなかに注ぎ込んだ。その光でじゅうぶんに着替えの位置を確認することができた。
 パジャマを脱いで、下着を交換する。
 目覚めてすぐに靴下を履くのは、大学に入って山登りをしてからついた習慣だ。山登りでは三種類の靴下を履く。一番肌に近いところがくるぶしまでの木綿の靴下。その上に毛糸の長靴下。さいごに毛糸のくるぶしまでの靴下。たくさん履いて、かかとや指先を寒さやけがから守る。
 しかし、寝るときにこんなにたくさんの靴下を履いている必要はない。シュラフのなかは、体温に近い温度を保つことができるからだ。脱ぐのを忘れて寝ると、蒸れてしまい、間違いなく水虫になる。だから、寝る前に全部脱ぐか、木綿以外は脱ぐ。脱いだ靴下はそのままシュラフのなかに入れておき、目覚めたときにがさごそとシュラフのなかで木綿の靴下を履くのだ。
 年間に100日ぐらい旅をしていた秀夫は、起床と同時に靴下を履く生活を4年間も続けた。最後にはそれは意識の世界のことではなく、夢の延長上でからだがひとりでに勝手に動いてやっていた。
 それを旅が終わり、日常の生活に戻っても続けた。寝るときには、枕元に新しい靴下を置いておき、起床と同時にそれを履く。足元から気持ちがしゃきっとして、体内にエネルギーが充填されていく。

 秀夫はジーンズを履いて、Tシャツを着る。
 出勤するときは、それに薄いジャンパーを羽織る。
 スーツやネクタイは、学校のロッカーに入れてある。授業参観や研究授業のときに、いつでも着られるようにしている。運動用ウエアーもロッカーに入れてある。こどもと過ごす時間の多くは、この運動用ウエアーが作業着になる。
 新採用者は、通勤時にネクタイをスーツを着用するようにと採用の面接のとき教育委員会のひとに言われた。赴任先の学校に、顔を出した4月1日に、校長から
「そんな格好じゃ、仕事にならない。スーツとネクタイは学校に置いておきなさい。学校を出たら、自分が教員であることを忘れて、気持ちを楽に切り替えるためにも、なるべくカジュアルな格好を心がけなさい」とまるっきり反対のことを言われた。
 ほかの職員たちを見ると、なるほど入学式や始業式のときはフォーマルな格好をしていたが、儀式が終わり、各自の仕事に戻る頃には、みんなロッカーで運動着やジーンズに着替えていた。ワイシャツにネクタイでは力仕事はやりにくい。

 起き上がり、雨戸を開ける。
 近くの中学校に通う中学生が、制服に肩からの提げる白い丈夫な生地のバッグをかけて登校している。丸刈りの頭、バットケース、自分も数年前は同じ野球少年だったと思い出す。きっと朝練があるのだろう。連休明けの登校に、中学生の足取りは重い。
 そりゃ、そうだよね。教員だって、元気ないんだから。
 秀夫はサッシ戸を閉めて、布団をたたみ、台所で湯を沸かす。

5780.11/10/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
1-2
 秀夫は木綿の重い布団を捲り上げる。
 大学卒業と同時に一人暮らしの準備をしたときに、祖父母が「これ、いらないから」とくれた布団だ。
 ふつうは孫の一人暮らしに、新しい寝具でも贈ってくれるのかと思っていた。しかし、明治生まれの祖父と、大正生まれの祖母は、古いものを使えるのに捨てるという発想はもっていなかった。使えるうちは、何度でも、だれでも使うのが当然と思っていたのだ。

 秀夫は、中学のときから大学を卒業するまで、実家と同じ敷地内に住んでいた祖父母の家に預けられて育った。
 預けられてといっても、寝るだけで、食事は実家に行って食べていた。入浴も多くの場合は実家で済ませた。実家が、秀夫と両親、妹の4人で暮らすには手狭な平屋だったという理由からだろうと思ったが、父と祖父との間でどんな話があったのかは秀夫にはわからない。
 小学校6年生のある日、「中学に行ったら、向こうで寝起きをするんだぞ」と父から言われて、何も考えずに「うん」と答えた。そんなもんかと思っただけだ。
 祖父母の家は二階家で、二階の一室を荷物置きにしていた。荷物置きといっても、かつては父の弟、秀夫にとっては叔父が住んでいたので、六畳の広さがあった。押入れも床の間もある立派な和室だった。秀夫は、その部屋で中学から大学までの10年間を過ごした。
 窓を開けると、遠く金沢八景の山並み、手前には北鎌倉の六国剣山が茂る。視線をずらしていくと、大船の町並み、それを見下ろすように大船観音の上半身が大きくそびえていた。西側は通称「水道山」の崖にさえぎられていた。だから、午前中は日射病を起こしそうなほど日当たりはいいが、午後はどんなに晴れた日でも部屋の明かりが必要なほど暗くなった。
 実家と秀夫の部屋には、当時としては珍しく内線の通話機械がついていた。ボタンを押すと通話が可能になり、ボタンを放すと通話は終わる。大きなスピーカーから相手の声が聞こえてくる。もっぱら、その機械は母が「朝食よ、遅れるわよ」「夕食よ、冷めちゃうわよ」と言うのに使われた。「はーい」と応じるが、秀夫は、机で本を読みながら、あるいはこたつで寝転びながら、言っていたので、機械のある部屋の隅まで行ってボタンを押すことはなかったから、相手には返事は聞こえていなかった。いくら呼んでも応答がないと、そのうちに母の声のトーンや言葉遣いが荒くなった。「いつまで待たせるの」「片づけるわよ」「今夜は食事がないからね」。
 その部屋では、秀夫はベットを使っていた。しかし、自立を前にベットは解体し、布団は捨ててしまった。新しい生活では、新しい寝具にしようと思っていたのだ。
 給料が入るのだから、布団ぐらい自分で買おうと考えた。

 なのに、祖父母が押入れの奥から、自分たちでさえ使っていない古い布団を出してきたのだ。秀夫の家には車がなかったから、引越しの荷物を運ぶのは、一苦労だった。基本的には背中に背負える荷物だけをもって、何度も実家とアパートを往復した。片道30分ぐらいの距離にあったからできたことかもしれない。その荷物のなかで、木綿の布団はひときわ大きく重かった。長い時間、押入れの奥で湿気を吸いまくった布団は水につけた大きな座布団みたいな感じだった。
 それに祖母は押入れに何を入れていたのか、やたら布団が薬臭かった。使い始めた4月は、寝ようとすると、布団のなかからむっと湧いてくる防虫関係の薬の臭いと戦う必要があった。

5779.11/8/2007
湘南に抱かれて-1985年春-
1-1
 4月23日にまとまった雨が降ったきり、ことしの春は好天が続く。
 5月に入ってからも平均気温が15度から20度の間を往復する好天続きだ。
 鎌倉の由比ヶ浜から七里ガ浜を経て、江ノ島の片瀬海岸に続く湘南の砂浜には、南からの風と波を求めて、流行り始めたサーフボードを車の屋根に取り付け、ウエットスーツに身を固めた若者が集まっているかもしれない。しかし、風も波も穏やか過ぎるので、ビッグウエーブを期待することは難しいだろう。
 ことしの大型連休は、4月28日が日曜日、29日の天皇誕生日が月曜日、火曜日と水曜日が平日で3日の木曜日が憲法記念日だが、4日の土曜は平日だった。5日のこどもの日は日曜日なので6日の月曜日が代休になる。大企業は間の平日もまとめて連休にしているだろう。しかし、公立学校はカレンダーどおりなので、とても虫食いだらけの中途半端な大型連休だった。

 戸崎秀夫は寝床のなかで目覚まし時計を眺める。
 2ヶ月前まで、大学4年生の生活を送っていたとは思えないほど、4月は規則正しい生活だった。
 大学時代に、ワンダーフォーゲル部に所属して全国各地を年間100日の割合で旅していたので、早起きには慣れていたが、教員として学校に勤務する精神的な重圧は、肉体の疲れをはるかに上回っていた。
 だから、連休はどこにも行かないで、古いアパートの一室で睡眠をむさぼる毎日だった。
 それが昨日までで終わり、きょうからふたたび教員としての慣れない日々に戻っていく。五月病とはよく言ったもので、就職したひとたちが辞めていく気分になるのがわからないでもなかった。まだまだ寝ていたい気持ちで、時計の針を恨めしく見つめてしまう。カチカチと確実に一秒一秒を刻む秒針に、思わず「止まれ」と叫んでしまいたい。

 時計は午前5時を指していた。
 そろそろ起きなければならない。
 1985年5月7日の朝が始まろうとしている。
 実家にいたときは、母のうるさい声でしぶしぶ起きていた。大学4年の講義は、ほとんど昼からのものにしていたので、午前中は寝るための時間だった。よのなかに午前9時前はないのではないかと思うほど、太陽が高くなってから朝食をとる生活が身についていた。山歩きには終わりがある。午後6時に寝て午前3時に起きる生活をしていても、やがて山の旅が終われば、深夜まで起きていて昼近くまで寝ている生活に戻ることができた。
 しかし就職してからの毎日は、果てしなく続く早起きの連続で、日曜日しかのんびりできるときがなかった。とっくに地方公務員は週休二日制に移行していたのに、教員はまだ土曜日も学校が開校していたので、週に6日間の連続勤務が続いていたのだ。

5778.11/7/2007
 わたしが生きてきた時間をさかのぼることで、湘南の風景、ひと、ものが浮かび上がり、そのなかにいままでわたし自身が気づかなかったものがあるとしたら、かつての記憶が鮮明なうちに記録しておきたい。
 事実をあからさまに記録すると、多くのひとたちに了解を取らなければならないので、「ショートストップ」のように小説の形態をまたとろうと思う。
 あくまでも小説だから、作り物だ。
 思い出を辿りながらも、主人公の生き方は事実とは異なる作りをこころがけよう。

 最近のニュースや学校をめぐる政治的な情報は、どれも未来に明るい展望を感じないものばかりだ。
 生活に余力があって、この先だれにも迷惑をかけない生き方ができるなら、さっさと教員を辞めて世捨て人みたいな生き方をしたいと本気で思ってしまう。それは、現実からの逃避かもしれない。そんな甘い考えでは、どんな生き方を選んでも、まともな毎日は送れないかもしれない。
 でも、いま感じることにため息ばかりをついても、精神も肉体も元気にはなれない。
 だから、過ぎた時間のなかに、ここに至った自分自身を振り返り、これから先の自分の行く末を見つけることができたらいいと思う。

 なぜ、自分は、いまここにいて、仕事や生活をしているのだろう。
 それは、湘南という地域性だけの問題ではなく、出逢ったひとたちや多くの出来事が複雑にからまっているとも思う。

 いま同じ地域でソフトボールなどを通じて交流のあるひとたちの多くは、出身地が他県のひとが圧倒的に多い。わたしと同じように、こどものときからずっとここで暮らすひとはとても少ない。でも、とても少ないが、確実に存在することも、この地域の特性かもしれない。
 先日、久しぶりに小学校時代の同級生と横浜の中華街で会った。10人ぐらいのメンバーが集まった。みな同い年とは思えないほど、見た目は年齢を重ねていた。
 食事をした後で、帰りはみんな同じ方向だと思っていたら、見事に大船まで帰ったのはわたしひとりだった。10人中9人は生まれ育った土地を離れ、同じ県内とはいえ、異なる場所で生活を営んでいた。各自に事情があって、生まれ育った町を離れて行ったのだろうが、だからこそ、ずっと同じ町で生き続ける自分の特殊性を痛感した。

 いったいどんなストーリーになるのか、自分では予想できない。
 今回は、おおまかなプロットも考えないで、思考の趣くままに、当時をなるべく忠実に文章の世界で再現しながら、そのなかで生きるひとや、そのなかで起こったことを築き上げていきたい。
 なんだか、プロローグのようになってしまった。

5777.11/6/2007
 わたしは鎌倉で生まれ育った。結婚してから一時期だけ、となりの藤沢市に住んだことがある。しかし、それはわずかな期間で、すぐに鎌倉の実家に戻った。
 いまは、借地だった実家は地主に返却し更地になっている。近くに土地を買い、家を建てて、いまに至る。
 小学校と中学校は、鎌倉市内の公立学校だった。高校は茅ヶ崎の県立高校だった。大船から東海道線に乗って毎日茅ヶ崎に通った。
 大学は町田だったが、大船から藤沢に出て、小田急線に乗って町田に行った。大学の近くで飲みすぎたときは、小田急線で寝てしまい、気づくと藤沢を通り越して江ノ島で車掌に起こされたことがある。
 最初の就職は葉山町だった。異動で藤沢市に移り、いまも働いている。

 ちまたで言う湘南地域で、わたしは人生のすべてを送っている。
 そのことにあらためて気づいたのではなく、最近になって初めて自覚した。
 それは、ある本との出会いがきっかけだが、ここではそれは関係ない。

 湘南というと、聞こえがいい。スローライフとか、サーファーとか、都会のアスファルトから離れ、かといって農村部の自然がいっぱいという感じとも違う。
 流行に敏感で、だけど時代に流されない。都会に近いけど、海や山に囲まれている。
 週末の海岸道路は、地元以外のナンバーの車が渋滞を作る。ひとが集まるところなのだ。
 別のところに住んでいるひとたちが、電車や車で、わざわざ湘南に集まるのには理由があるだろう。ここに何かを求め、それを得て元気になって帰っていく。土曜日や日曜日の混み方といったら半端なものではないのだが、行きかうひとたちの表情は明るい。疲れきった顔をして、しょぼくれているひとは目立たない。当然だが、産業は観光が主力になる。旅行雑誌や観光雑誌、ファッション雑誌などを片手に湘南を訪れるひとたちは、そこで紹介されているお店でランチやディナー、午後のお茶を楽しむことを目的にしているのだろう。そういう店は、多くの場合、同じ考えのひとたちで店に入るだけで何十分か待たなければならないが、それは覚悟しているらしい。
 その憧れに抱かれて、満足しているひとたちの期待する湘南とは、何なのだろう。
 住んでいるとわからない、生きているとわからない、暮らしてきたからわからない、見えすぎているからわからないものがあるかもしれない。
 それは一体なんだろう。
 それを想像するのではなく、自分が生きてきた湘南での時間をさかのぼることで探してみたい。

5776.11/5/2007
 久しぶりに長い小説を書き下ろした。
 かれこれ13年になるソフトボールチームとのつながりを題材にした「ショートストップ」だ。
 地域のおとなたちとのつながりが話の底辺に流れているけど、わたしにとっては、このひとたちとのつながりがなければ日常生活がとても無味なものになっていただろうと思う。
 職場と自宅の往復の日々、休日は疲れを取るために昼近くまで寝て、大したこともしないで夕方を迎え、やる気の出ない月曜日を待つ。そんな日々の積み重ねでは、きっと精神的にも肉体的にも追い詰められていたと感じる。
 長男が小学校に入学したときから、このソフトボールチームのメンバーとのつきあいが始まっている。たくさんの試合をした。それを上回る練習をした。季節のたびに飲みに出かけた。試合では、喜びも口惜しさも共有してきた。引越しで去っていった仲間とは、つらい別れを経験した。子育ての悩みを互いに持ち、それを共有しながら、答えを探した。

 先日、今シーズン最後になるソフトボールの大会があった。
 今回の大会は、それぞれが所属する学校別の大会ではなく、居住する町内会対抗の大会だった。だから、いつも同じチームで試合をしているメンバーが互いに敵同士になり対戦した。同じチームで協力しながらゲームをしているメンバーなので、敵になってしまうのは、やっていて違和感があるのだが、所属する町内会で分けられてしまうので仕方がない。
 8つの町内会が集まり、トーナメント方式の大会をする。
 いつも日曜の朝に集まり練習しているメンバーが、それぞれの町内会に分かれて戦うとはいえ、そのメンバーだけでは人数がそろわない。だから、ふだん顔を合わせないひととも同じチームのメンバーとしてゲームをする。そのなかで、ソフトボールをふだんからやっているメンバーは、技術的にも精神的にも、それぞれのチームの中心的な存在になってチームを牽引する。しかし、そこにはそれぞれの町内会の事情があり、応援だけで参加している長老たちに頭が上がらないところ、知らないひとが多すぎてよそよそしくなっているところなど、特徴と特色が異なって見えた。
 わたしの所属している町内会は、たまたまソフトボールのメンバーが多数住んでいるので、町内会対抗のチームを編成しても、全員がソフトボールチームのメンバーだった。異なった見方をすれば、地元のひとたちとのつながりをはかっていないということもできるのだが。でも、試合をするうえでは、気心の知れたメンバーとゲームができるのでとても便利だった。
 アウトカウントやランナーの所在など、試合中にかける声の大きさが、慣れていないほかのチームに比べると格段の差だった。

 今回は、初戦から完封勝ちをして、順当に勝ち進み、決勝ではコールド勝ちまでおさめて、4年ぶりの優勝を果たした。
 町内会のなかにある焼き鳥屋に集まって6時から始まった宴会は10時半ぐらいまで続いた。
 小説のモデルになっている戸崎も、江川も、陳さんも、大口も、考えてみれば、みんな同じ町内会のメンバーだ。

5775.11/2/2007
小説「ショートストップ」5-11
 「おせえなぁ。早くしろよ。酔いがさめちゃうじゃないか」
階下から江川の声が聞こえる。
「じゃぁ、お世話になりました」
片づけをしている女将に礼を言う。
「こちらこそ。またよろしくお願いします。みなさん、気のいい人たちですね。仕事上のつながりがないから、本音でわいわい付き合えているって感じで」

 戸崎と月田は、最後に階段を降りて、メンバーの輪に加わる。監督の大口が二次会に行くメンバーを確認している。
 あしたは日曜日だから、今夜は遅くまで大丈夫というメンバーと、あしたは日曜日だからこそ、今夜は早く帰るというメンバーに分かれる。
「じゃぁ、どうも。来年もよろしく。まだリーグ戦は続くから、来週も練習があります」
大口の言葉で解散になった。
 大渕仲通商店街を、二次会に向かう5人から6人のメンバーが歩く。
 そのなかに、江川と月田がいる。戸崎は集団の一番後ろを歩きながら、月田がこっそり江川に忘れ物のポーチを渡す場面をチェックした。
 月田からポーチを示された江川は、一瞬からだをのけぞり、両手を合わせて月田を拝んでいた。

 先頭を歩く大口とほかのメンバーは、さっきまで島倉千代子の「人生いろいろ」を歌っていたと思ったら、今度は「あーあー栄冠は、きみに輝く。ジャンジャジャン」と高校野球で歌われている歌を口伴奏つきで歌っていた。
 どこまでもこどもの頃の気持ちを捨てないで、いつまでも気軽に付き合える仲間がいること。
 出身も年齢も違うのに、同じ地域に住んでいるという共通項だけでつながりあえる仲間がいること。
 なにものにも変えがたい財産が、自分にはたしかにいることを、戸崎はふらつく足取りで感じていた。
(ショートストップ 完)

5774.11/1/2007
小説「ショートストップ」5-10
 すでに会計は済ませている。時計は10時を過ぎようとしていた。
 酒がまわると.急に世話好きになる月田と幹事の戸崎がテーブル上を片付ける。
「酔った手つきでお皿を割ったらいやでしょう。あとは任せて忘れ物のチェックをお願いします」
女将が出てきて戸崎たちから布巾を受け取る。
 メンバーは各自テーブルを離れ、トイレに寄る者、お店から出て行く者に分かれていく。店は小さなビルの二階にあり、店を出ると細い階段を降りて、幅の狭い通りがある。先に店を出てメンバーは、階段を降りたところですぐには帰らずに集まって余韻に浸る。


 テーブルの片づけから忘れ物のチェックに仕事を移した戸崎と月田は、テーブルの下や椅子の上を確認する。
「あれ」
月田が、カウンターの下に白いポーチを見つける。
「これって、たしか江川さんのじゃなかったっけ」
月田が、戸崎にポーチを渡す。
「本当だ。さっきまでここに座っていたから、床に落としたんだね」
月田がにやっと笑う。
「江川さんって、去年の大会のときも、このポーチをグランドのスタンドに忘れて大騒ぎになったんですよね」
「そうそう。あのときは財布から免許証から携帯まで入っていて、かなりしょげてたんだよ。結局、ポーチは出てこなくて、かなりあのあとへこんだ期間が長かったじゃん」
「性懲りもなく、また忘れてんの」
 戸崎と月田は、ふたりで江川のポーチをボールに見立ててキャッチボールをした。ポーチをキャッチするたびに、カシャカシャとなにかの音がした。
 月田が、不思議そうな顔で言う。
「いつも、ひとのことをあれだけ観察している江川さんなのに、自分のことになったら、これなんですね」
「ちょっと、様子を見てみよう」
戸崎は、窓際に顔を寄せて、通りで小さな円を作っているメンバーを見下ろす。
 その輪のなかに、江川もいる。近くの大口にからみながら談笑している。どうやら、ポーチを忘れたことに気づいていないらしい。
「いい気なもんだ」
月田が笑う。
「まぁ、自分がいつも中心にいるような気持ちでいられるから、江川さんはここに集まってくるのかもしれないね。自分では、みんなの面倒を見ていると思っているけど、こうやってちゃっかり忘れ物しちゃって。でも、そのことに俺たちが気づいたから、こっそり俺たちが支えているってことになるのかも」
戸崎がポーチを月田に渡し「陳さんから、何気なく渡してあげて」と頼んだ。

5773.10/31/2007
小説「ショートストップ」5-9
 江川は、両手をポンと叩く。
「いいことを聞いてくれました。ママ、この日本酒、おいしいねぇ。おかわり」
ふだんは焼酎を飲む江川が、珍しく日本酒を追加する。
「少年野球や、中学校の部活の野球なんか、興味あるから、時々見に行くと、えばりくさってる監督やコーチがいる。てめぇガキに偉そうなことを言うなら、見本を見せてみろっていいたくなるタイプね。ああいうのは俺が言っている絶対的な存在でもなんでもなくて、ただのお山の大将、裸の王様よ。あれじゃ、ガキたちは気持ちが萎縮して、満足なプレーなんかできやしねぇ。俺が言っているのは、もっと専門的でもっと人間味のある絶対的な存在が必要ってこと。だから、選手が言いたい放題して、のびのびプレーできてなきゃ意味がない。戸崎さんみたいに、ショートを頼まれたら、やだー、トップバッターを頼まれたら、やだーって言えるヤツがいないとだめなのよ」
 女将がグラスをわざわざ交換して新しい日本酒を注ぐ。戸崎にもどうって顔を向けたが、戸崎はまだ残っているので結構と軽く手を振る。
「なんか、俺、ほめられてるわけ」
「いいねぇ、その能天気が」
「言ったな」
戸崎が、江川のわき腹をパンチする真似をする。
 かなり足取りがあやしくなった大口がカウンターに戻ってきた。
「なにをきみたちはコソコソ楽しそうにやってるの」
江川が、大口の肩に手を置く。
「いやぁ、うちのチームの監督は最高だって褒めていたところ」
江川は戸崎にウインクをして同意を求める。戸崎は、笑顔でうなずく。
「そんなこと、いま、気づいたの。遅いなぁ。あそこのテーブルでさんざん同じことを言われてきたんだから、もっと新鮮なことで喜ばせてほしいね」
大口の肩に置いた手で、江川は大口の頬を叩く真似をする。
「じじい、いい気になるなよ」
その言葉を聞いて、大口が江川にヘッドロックをかませる。
 陳さんこと月田がやってきて、レスリングのレフリー兼アナウンサーみたいに笑いながら言う。
「はい、江川ちゃん、いつものミスで監督の攻撃を受けてます。見事にヘッドロックが決まったぁ。ギブ?ギブ?ネバーギブアップなーんちゃって」
戸崎が口に含んだ酒をプッと吹き出す。
「なーんちゃってって、ちっともおちになってないよ。ネバーギブアップじゃ終わらない」
「そっか、ギブアップね。ちょうど時間もいいことだし、ここらでうちらもギブアップ。これなら、落ちてる」
 月田の場に合っているのか滑っているのかわからないいつもからみ方に、ほかのメンバーもそろそろお開きかと感じる。

5772.10/30/2007
小説「ショートストップ」5-8
 戸崎は中トロにわさびを乗せて、しょうゆをつけずに口に運ぶ。
「公立学校のグランドなんて、周囲にネットを張ってないから、バッターの打球がファウルのときはすぐに道路に飛び出しちゃうんだよ。ほら、硬式球って江川さんもやっていたから、わかると思うけど、素人にはただの石みたいな球じゃん。あんなのまともに食らったら大怪我をしちゃうから、試合のときは下級生でおよそ試合の出番がない連中に球拾いをさせているわけ。その一員になれってんだよ。さっきまで、レギュラーで試合に出ていた俺に」
「まぁ、しゃあねえわな」
「そう思えるようになるには時間がかかったね。少なくともそのときは、渋々外に行き、下級生の列に加わったよ。そうしたら『先輩、試合はどうしたんですか』ってデリカシーのないことを聞くヤツがいて、頭をコツって殴ってやったけど」

 江川は、箸をおいて、グラスの酒を口に運ぶ。
「チームで何かをするときに、一番悪影響を及ぼすのは、敵の存在じゃないんだ。味方の問題が一番大きい。自滅ってヤツ。とくに高校生なんて、そういう自分をコントロールできなかったヤツができるようになっていく過渡期だから、いじけたり、口惜しがったりしたときに、ふざけんじゃねぇってぶちのめしてくれる絶対的な存在が重要なんだ。たまたま俺たちは、その経験を野球を通して学んだだけで、サッカーのヤツもいるし、大池のようにバレーのヤツもいる。それに、チームでやるのは運動だけじゃないから、それはほかのどんなことにも通用すると思うんだ」
「でも、必ずしも、みんながみんなチームで何かをしながらこども時代を過ごすわけじゃないんじゃないかな。読書好きな中学時代、映画好きな高校時代、鉄道オタクの大学時代みたいな青春だってあると思うよ。そういうひとたちは、気持ちの切り替えができないままおとなになるっていうこと」
「戸崎さんよ、中学時代にひとりで読書ばかりしているヤツって本当にいるか。高校時代に授業にも出ねぇで映画三昧の日々を送るヤツって本当にいるか。そんなヤツはいねぇよ。みんな家族とか、同じ趣味の仲間とか、幼友達とか、だれかと結びついているはずなんだ。だから、極端な話をすれば、だれもが気持ちの切り替えをうまくやっていく機会は経験しているはずなんだよ。でも、腐っているときに、バシッと釘を刺してくれる絶対的な存在に出逢っているかどうかはわからないだろ。ただ、ヒステリックにこどもを怒鳴りまくるスーパーでよく見かける親とか、ちょっとしたボタンのかけ違いで無視したり半端にしたりする同級生とか、ろくでもねぇヤツに囲まれていたら、気持ちを切り替える力なんて育たないで、こころのバランスを保てないあぶねぇ状態にしか向かわないだろ。つまり、気持ちを切り替える機会はあっても、その機会を使って育てようとしてくれる存在がいないわけよ」
「だから、江川さんは、いま相手を怒らせてしまうようなことでも平気でぶちかましているの」
「そう、俺は、このチームの頑固親父になろうとうしているっちゅうこと」
「なんか、そういうのって、ソフトボールのプレーに気持ちを向けるんじゃなくて、いつも江川さんの視線や言動を気にしながらプレーをするひとたちを増やしてしまわないかな」

5771.10/29/2007
小説「ショートストップ」5-7
 江川は箸を手にして肴をつまむ。
「だって、いつでもどんなときでもプレッシャーがなさそうだし、プレッシャーがかかりそうなときには、いやだいやだって正直すぎること言えるし。試合に負けそうなときも、だれかがミスをしたときも、ドンマイとか、集中とか前向きな言い方でみんなを励ますじゃん」
「俺だって一応プレッシャーはあるんだよ。でも、じっとがまんしているとプレッシャーに押しつぶされてしまうでしょ。だから、自然体を意識しているだけ」
「その自然体が難しいんだよ。ふつうのひとには。だから、俺は萎縮しているひとに、ちくしょーとか何をって思わせるヤジを考えているわけ。そうすると、自分の中に敵を作らなくて済むからね。江川のヤローって燃えてくれたら、萎縮していたことも忘れられるかもと思って」
「おー、深いなぁ。そんなことまで考えてんの。俺は、陳さんみたいにいつも受けを狙っているのかと思ったよ」
 江川は、右手の人差し指を一本立てて、左右に振った。
「わかって、ねえなぁ」
「でも、江川さんのやり方って、反感を買ってしまうこともあるんじゃないの。本気で、コノヤローって、試合が終わっても気持ちのなかで引きずるみたいな」
「いるんだよな、そういう女々しいのが。たいてい、運動をやってこなかったヤツに多い。チームスポーツをしてきたヤツは、経験から、気持ちの切り替えが上手になってるんだけど、やってこなかったヤツって、だれからも気持ちの切り替えを教わってないわけじゃん。だから、いつまでも自分のなかで引きずって、相手はとっくに言ったことさえも忘れているのに、勝手に増幅しちゃう」
「俺もあったなぁ」
戸崎は、高校時代を思い出す。

 高校時代に公式野球部に所属していた戸崎は、三番でレフトを守っていた。
「ある公式戦でさ、たしか試合の終盤だった。ツーアウトで俺が左中間を抜けるヒットを打ったのよ。だから、ツーアウト二塁。次の四番がヒットを打てば、俺は必ずホームまで帰るぞって意気込んでいたわけ。そうしたら、そいつ打ちごろの球は見逃して、わざわざ打ちにくい球を打ちに行って、平凡な内野ゴロだったんだ。アウトになってチェンジ。俺は、ちぇって感じでスパイクでグランドを蹴飛ばしてベンチに戻った。グローブを持ってレフトの守りにつこうとしたら、監督が『行かんでえー』っていうわけ。なんのことか、わかんなかったら、レフトを別のヤツに交替させられたのよ」
 江川はおもしろそうに、うなずく。
「いー監督だね」
「いや、そのときは最低なヤツだと思ったよ。チャンスでヒットを打てなかったヤツを交替させるんじゃないんだから。ちょっと口惜しがって、グランドにけちつけた俺のどこが悪いのよって。憮然として、ベンチに座っていたら『戸崎、グランドの外で球拾いをして来い』だって」
 江川は、さらにおもしろそうに、うなずく。
「そりゃ、最高」

5770.10/27/2007
小説「ショートストップ」5-6
 戸崎は、最初からカウンターに座っていた。
 隣りに座っていた大口は、テーブルのなかに入ってメンバーと話をあわせている。
 トイレに行っていた江川が、大口が座っていた席にやってきた。
「ここいいかな」
「どうぞどうぞ」
江川はカウンターにポーチを置き、そこからタバコとライターを取り出す。銘柄はキャスターだ。火をつけて深く吸い込み、紫煙を吐く。吐いた紫煙が自分のほうに漂ってくるのを、戸崎はメニューを団扇がわりにして拡散させる。
「いつから止めたんだっけ」
戸崎の態度にお構いなしに江川が二口目を吸う。
「もう、三年ぐらいになるかな。でももともと酒の席では吸わなかったよ」
「どうしてよ。ふだんあまり吸わないひとでも酒の席ではたくさん吸うのに」
「そうなの。知らなかったなぁ。だって、料理や酒の味がわからなくなるじゃん」
「けっこう、細かいことに気を使うんだなぁ」
「江川さんほどじゃないよ」

 一瞬、江川の表情に間があった。
「わかる」
「そりゃ、わかるよ。いつも試合のときに敵よりも味方ばかりを観察しているでしょ。それでもって、だれかがプレーにからむと、すかさず声をかけてるじゃん。あれは、気持ちのなかであらかじめ用意しておかないとできないことだよ」
「なーんだ、バレバレか」
 戸崎は、江川があまり日本酒を飲まないことを知っていた。だから、無理に進めようとはしなかったが、自分のグラスが空になったので注ぎながら「やってみる」と聞いてみた。
「戸崎さんのお勧めじゃ、断れないな」
「そんなぁ、大学の体育会じゃないんだから」
「いや、ごちになります」
 新しいグラスを女将にもらい、あらためてふたりで乾杯をする。
 一気にグラスの半分を飲み干した江川は、目を閉じて「うーきくー」と吐息を出す。
「ちびちびやんなきゃ」
「俺は戸崎さんがうらやましいんだよ」
「どういう意味」

5769.10/25/2007
小説「ショートストップ」5-5
 「みなさん、それでは今シーズンの優秀選手を発表します」
大口がカウンターから降りて、テーブル席の方に向き直る。その後ろで、戸崎は小泉からもらった袋の中からおもちゃの金メダルを一つずつ取り出し、最初の一個を大口に渡す。
 メンバーは、おなかにだいぶ食べ物がたまり、アルコールも行き渡ったと見えて、大口の発声に違和感なく目をとろんとさせながら聞き入る。
「まず、この金メダルを渡すのは、小山さんです。小山さんは、今月無事に定年を迎えられました。にもかかわらず、小山さんの動きと送球の鋭さは、目を見張るものがあります。それは小山さんとキャッチボールをしたひとなら、だれしも感じていることでしょう」
「そうなんだよ。とても六十歳になったとは思えない球を投げるんだよ、小山さんは」
キャッチャーの田辺が相槌を入れる。
「その小山さんに、今シーズンだけでなくこれまでの感謝を込めて、最初の金メダルを贈ります」
 小山は照れくさそうに頭をかきながらテーブルの間から大口の前に進み、首からメダルをかけてもらった。
「いやぁ、まさかこんなもんをもらうとは思ってもいませんでした。これも、みなさんのおかげです。俺は、いつも昼の休憩時間に工場の若いもんたちと雨の日も風の日もキャッチボールだけは続けて来ました。目のほうはすっかりしょぼしょぼしてバッティングは役に立たないかもしれませんが、まだまだ肩のほうだけは若いもんには負けない自信があります。このメダルを支えにして、これからもからだ作りに励んでいきたいと思います。ありがとうございました」
長年、工場で光ファイバーの接続という職人技術を使ってきた小山は、いつもと違い珍しく自分をほめた。
「それって、もうご苦労さんっていう引導か」
江川が茶々を入れる。
「なに、言ってんだよ。小山さんはショートからファーストまでノーバウンドで矢のような速球を今でも投げるんだぜ。それに引き換え、二十歳以上も若いきみは、だいたい球がファーストまで届かないじゃないか」
大口が対抗する。それを言われては江川も黙るしかない。すっと立ち上がって、小山に敬礼をした。他のメンバーから笑いが起こった。

 二人目と三人目の優秀選手も、大口から発表された。
 残りの二人も小山同様、試合で活躍したひとというよりも、これまでチームを支えてきてくれたひとたちだった。

 宴会は、ひとしきり飲み食いが済むと、各自が勝手に席を移動し、場が崩れていく。
 崩れていくといっても、壊れていくのではなく、固定的だったものが流動的になっていくという感じだ。
 焼酎が好きなひとたちは、ボトルで入れた焼酎の周りに集まって、ロックや水割りで「芋がいい」とか「やっぱり麦だ」とソフトと関係ない話題で盛り上がる。
 小山のように日常からキャッチボールをしたり、陳さんのように昼休みも帰宅後も素振りをかかさなかったりする、根っからの野球少年たちは、プロ野球から高校野球まで、野球談義で盛り上がる。

5768.10/24/2007
小説「ショートストップ」5-4
 戸崎は、大口と東北の地酒を女将が作ったグラスに注いで乾杯をする。
「日本酒はふだんは飲まないのに珍しいね」
戸崎が大口に聞く。
「いつもは安い焼酎ばかりだから、こういうときこそ、しっかりした酒がほしくてね。それに、日本酒は知っている人と飲まないと、次の日に胸焼けがひどくて」
「どう、この酒は」
少しだけ口に含んで大口は目を閉じて喉に送る。
「まろやかで、からだに染み渡るなぁ」
「本当はね、まず料理を食べて、それを食べ終わった口の中に、ほんの少しだけ酒を含むのが、一番おいしい酒の飲み方なんだよ。そうすると、食べた料理の味が引き立つから」
「よし、やってみよう」
 大口は、小皿の鱧を箸でつまんで口に含む。もぐもぐと咀嚼して飲み込む。その後で、グラスを傾けて、ほんの少しの酒を口の中に入れた。
「うお」
「でしょ」
「鱧が輝くというか、酒が鱧の残りの味とまざって別物になるというか、うまいねぇ」

 そこに投手の小泉がレジ袋を持ってやって来た。
「ちょっといいですか」
ふたりがカウンターから振り返って小泉を見る。
「こんなものを用意しました」
そう言って見せてくれた袋の中には、おもちゃの金メダルが三つと、「ホンマにすんまへん」と書かれたたすきが入っていた。
「いつも小泉さんはアイデアがすごいね」
 宴会のときに、いつも小泉は小道具を実費で用意してくれる。前回は賞状をパソコンで作ってきてくれた。その前は鉢巻を買ってきて「フレーフレー」と応援団をした。
「監督の一存で三つの金メダルを受け取るひとを決めてください。このたすきは、これから一人一言をするときにしゃれで肩から下げさせましょう」
 大口は、了解のしるしに親指を立てて見せる。

5767.10/23/2007
小説「ショートストップ」5-3
 戸崎が立ち上がって、江川に対してではなく、全体に説明する。
「きょうは、女将に無理を言って、最初にご飯ものを用意してもらいました。これまでの俺たちの打上を振り返ると、ゲームで疲れて宴会をして、最初からがんがん飲むものだから、酔いがまわるのが早くて、ろくろく料理に箸をつけないひとが多かったでしょ。この悪しき習慣をなくそうと思って、しっかり胃袋をご飯で満たし、ゆっくりおいしいお酒と料理を味わってもらおうという魂胆です。だから、二次会は用意していません。貸切なので、ゆっくり食べて、ゆっくり飲んでください。きょうの魚は北陸から、鱧が届いています。ほかにも北陸から直送された魚がこれから随所に登場するので楽しみにしてください。飲み物は飲み放題です。焼酎や日本酒も逸品をそろえているので、各種楽しみましょう。というわけで、乾杯で喉ごしすっきりになったひとは、まずはしばらくチラシ寿司を頬張りましょう」

 せっかく説明しているのに、大食漢のメンバーはもうチラシ寿司を頬張っている。お椀のチラシ寿司を食べ終えて、どんぶりに盛ってあるチラシ寿司をお椀に移している者もいる。
「堅苦しい説明はいいから、どんどん食べましょうってことでしょ」
陳さんこと、月田がチラシ寿司をおいしそうに口に運びながら言う。
 席に座った戸崎に、となりの大口がささやく。
「このひとたちに、よけいな説明はいらないみたい」
 戸崎もそんなことだとはわかったいた。だから、細かい説明は質問した江川やメンバーにしたつもりはない。この打上のために準備をしてくれた店の女将に誠意を表したつもりだ。女将を見ると、笑顔でうなずいていた。戸崎にとっては、それで十分だった。

 しばらく食事をしながら大会のプレーをそれぞれが語りながら時間が過ぎた。
 戸崎と大口は、カウンターでビールを飲んだ後、すでに日本酒に変更していた。
「焼酎あるの」
テーブルから声がかかる。
「はい、なにがよろしいですか」
女将がメニューを持ちながら、テーブルに行く。焼酎だけで飲み物のメニューができるほど、たくさんの種類の焼酎が置いてある。それらがみんな飲み放題というのだから、ふだん銘柄を考えないで焼酎を飲んでいるメンバーには慣れないことかも知れない。女将にメニューを渡されても、銘柄から味が予想できないのか、「じゃぁ上からお願いします」と頼んでいた。

5766.10/20/2007
小説「ショートストップ」5-2
 駅前のロータリーを抜けて、打上が始まる六時より少し早く、戸崎は宴会をする和食の店に入った。
 以前、大口と飲んだ店だ。今回の宴会の予約を、そのときにしてあったので、店は貸切にしてもらった。
「こんばんは。お世話になります」
店に入ると、女将は、テーブルやカウンターに小鉢を並べて宴会の準備をしていた。
 いつもはいない手伝いのひとが二人も応援に来ていた。
「こないだの予約のときに、最初からご飯ものって言っていたから、チラシ寿司を作ったわよ」
丼にたっぷりのチラシ寿司が各テーブルに乗っている。さらに、各自のお椀にチラシ寿司が盛ってあった。
「いやー、助かります。よく飲む連中なので、先に食べさせておかないと、ほら、すきっ腹にアルコール流し込むと酔いが早いでしょ」

 板場には大学生のアルバイトのしんちゃんが日本手ぬぐいを頭に巻いて魚をさばいている。
 カウンターに腰をおろした戸崎は、しんちゃんに「きょうはよろしく」と会釈をした。しんちゃんは大学四年生で、就職活動の真っ最中だ。あまりにも料理の腕がいいので、戸崎は最初、プロの板前だと思っていた。ことしに入ってから、店にいないことが多かったので女将に聞いたら、少し寂しそうに「就活してるからね」と教えてくれたのだ。しんちゃんほどのアルバイトを来年も雇える保障はないから、先々のことを考えて不安がよぎるのかもしれない。

 開始予定時刻の六時近くになって、ソフトボールチームのメンバーが次々と来店した。
「とくに座席指定はないから、奥からどんどん座っていって」
幹事の戸崎はテーブル席が見渡せるカウンターに陣取って、会費を徴収する関所を開きながら、メンバーを座らせていった。
 ほぼ全員が集まったところで、乾杯用のビールを用意してもらった。
 自分でガラス工芸をする女将は、オリジナルのグラスをたくさん用意している。それらに生ビールが注がれ、大口が挨拶に立つ。
「みなさん、ご苦労様でした。一試合目の勝利、おめでとう。二試合目は残念ながら負けましたが、一対〇という接戦でした。うちの今シーズンのゲームのなかではベストゲームだったのではないかと思います。来年もまたよろしくお願いします。では、乾杯」
 各テーブルでグラスとグラスを合わせる音が響く。なかには、少し遠い席のひとにまでグラスを合わせるひともいる。みんなかなり喉が渇いているのだろう。一杯目のビールはあっという間になくなった。
「でさぁ、なんでいきなり飯ものなの」
早速、江川が茶々を入れる。

5765.10/19/2007
小説「ショートストップ」5-1
 八月最終土曜。昼間の暑さが大淵の町に夕方になっても残っている。海からの風は、道行く人に心地よさではなく、塩っぽさと湿り気を届ける。歩いているだけで汗がじとっと背中を流れる。額にもうっすらと光るものがある。ハンカチで汗を軽く叩きながら落とす買い物帰りの女性がいる。シャツの袖でぐいっとふき取る若者がいる。
 シャワーではなく風呂を沸かして、全身をゆっくり洗ってきた戸崎は、風呂上りということもあり、頬まで汗がつーっと流れてきたのを感じた。ポケットからハンドタオルを取り出し、ポンポンと叩く。以前、ごしごし汗をタオルで拭き取っていたら、「それは、汗を拭いているんじゃなくて、汗を広げているだけだ」とだれかに言われた。
 西の空にはきれいな夕焼けが広がる。
 決勝まで見ないでチームは解散になった。その後、大会の終わりまで球場にいたメンバーもいたかもしれない。

 でも、戸崎は試合が終わったら、次は夕方からの打ち上げに気持ちを切り替えた。
 打ち上げを気持ちよく迎えるには、まず全身の汗と土埃を落として、さらっとした肌で乾杯をしたい。じとじと、べとべとした状態で酒を飲んだら、自分がどんどん汚れていくような気がした。
 疲れたからだを早くメンテナンスすることも必要だった。入浴して、腿やふくらはぎを両手でつまんで、ぱっと放した。かたくなっている筋肉をやや乱暴な方法で少しでもほぐすことが必要だった。肩は専用の道具を使ってツボ押しをした。頭皮もマッサージをした。風呂桶でマッサージをしていたら、それだけで、上半身に大粒の汗が噴き出した。からだの内側から、きょうの汚れが汗といっしょに出てきたような気がした。石鹸など使わなくても大丈夫なのだ。
 ポットに氷と麦茶を入れて風呂桶の脇に置いてある。喉が渇いたら、それを口に含む。
 同い年の男たちが、本当に同い年かと思うほど、肌の荒れ方や髪の少なさが目立つのは、きっとこういう日常のメンテナンスを怠っているからだろうと思う。そういうことにかける時間がないほどの日常を送っているのだろう。だから、年齢以上に見た目が老いて行く責任は、すべて当人たちにあるとは思わない。でも、なにかのせいにしても、そのなにかは最終的に責任などとってはくれないのだ。自分でなんとかするしかない。
 たぶん、きょう参加するメンバーの何人かは、早めに大淵の町に出て、パチンコで時間を潰すのだろう。時間を潰すというよりも、パチンコをするために、打ち上げの時間よりも早く町に出るのだ。タバコくさい店内にいれば、たちまち髪の毛も洋服もタバコの臭いで染まってしまう。そんなからだで、打ち上げに参加したら、長い目で見れば、からだにもこころにもいいことは何もないことぐらい、きっとわかるだろうに。
 ふだんから運動をしているわけではないので、きょうの大会で肉体はあちこちでかなり悲鳴を上げているだろう。筋肉だけでなく、循環器系や関節も疲労をためているはずだ。そんなからだに、アルコールを注入するのだから、少しでもその前にからだをいやしておかなければ。
 試合が続く球場をあとにすることに、なんのためらいも戸崎にはなかった。

5764.10/18/2007
小説「ショートストップ」4-15
 大口は、戸崎からの返球がうなりをあげて自分に向かってくるので、カットをしなくても、二塁ベースの江川までノーバウンドで届くと判断した。
 もしも、一塁ランナーが二塁に向かっていたら、この送球ならばタイミングとしてアウトにできると考えたのだ。だから、大口は捕球用意をしていたグローブを引っ込めた。当然、戸崎からの送球は、大口を素通りしてセカンドに向かう。

 送球した戸崎には、ランナーが二塁に向かっているのが見えていたから、大口がカットをしないことを願っていた。
 願いどおり、大口はグローブを引っ込めた。
 よし、これなら、セカンドはタイミングアウトだ。

 次の瞬間、さっきまで二塁ベースで捕球体勢に入っていた江川が、なぜか散歩にでも行くように二塁ベースを離れ三塁方向にスタスタと歩いて行ってしまった。ボールを見ていない。二塁から三塁に進塁したランナーを見ていた。江川は江川で、大口が戸崎からの送球をカットして三塁に投げると判断していたのだ。
 そのため、戸崎の送球はバッターランナーが一塁から二塁に到達するよりも先にセカンドベース上に達していたにもかかわらず、捕球してくれるセカンドがいなくなったので、そのまま一塁方向に逸れていった。
 それを見た三塁ランナーは、三塁で止まらずにホームに突っ込み、得点した。
 一対〇。
「えーっ、セカンド、どこ見てんだよ」
戸崎も、大口も、試合を見ていたひとたちも、同じことを考え、異口同音にセカンドの江川に野次を送った。
 さすがに、江川は自分のミスを感じたのか、グローブをはめていない右手をあげて、360度回転しながら頭を下げていた。
「わりぃわりぃ、魔がさした。さぁ、追加点を取られないように、切り替えていこう」
 よくも、ミスをした張本人がそこまで言えるものだ。戸崎は呆気にとられながら、悔しさをこころに閉じ込めた。
 こんなところで、くよくよしても始まらない。だいいち、試合は続いているのだ。それもピンチの状態で。

 ピッチャーの小泉のふんばりで、後続を打ち取り、その回はなんとか一点だけで終わらせることができた。
 しかし、試合は、その後、大淵中に大きなチャンスが訪れることなく、そのまま終了した。

5763.10/17/2007
小説「ショートストップ」4-14
 戸崎は捕球したグローブをすくいあげ、一連の動作でボールを右手に持ち替える。
 その間も足は動いていて、捕球後は走るのではなく投球のための動作に変化している。
 つまり、捕球したときには、自分がどこにボールを返球するかを決めているのだ。いや、正確に言うと、返球する選択肢を用意しているのだ。
 ボールを右手に持ち替えて、投球のために、ふりかぶる。
 その瞬間、捕球するために地面を見ていた視線を内野方向に返す。

 ランナーが一塁でこの当たりなら、そのランナーはゆっくり二塁に達しているだろう。俊足ランナーならば、三塁に向かっているかもしれない。
 だから、三塁に返球すべきか。
 このヒットを打ったバッターは、当然だが一塁は悠々セーフのはずだ。俺がランナーの進む方角に返球することを予測して、一塁から二塁を目指しているかもしれない。
 ならば、二塁に返球するべきか。

 顔を上げたときに、内野手から返球の指示が聞こえる。その指示を聞きながら、実際に視覚で確認して、戸崎は返球する方角を判断する。
 予想通り、ランナーは二塁から三塁に向かっていた。すでに半分以上進塁していたので、いまから三塁に返球してもアウトにはならないだろう。もしも悪送球になって、サードの青田がエラーをしたら得点を与えることになる。
 バッターは、いま一塁をまわったところで、果敢にも二塁を目指そうとしていた。

 俺の肩をなめやがって。

 左中間でボールを捕球している戸崎。二塁ベース上にはセカンドの江川。戸崎と江川を結ぶ線上には、大口がカットの位置にいた。
 カットは、戸崎がセカンドにボールを投げたのを見て、三塁を目指していたランナーがホームへ進塁したときに、そのことに気づいたサードからの指示で、戸崎の二塁への返球を横取りして、急遽、ホームへ転送する役目だ。
 戸崎は全身が腕になるイメージで自分の肩と同じ高さで地面に落ちない低い弾道の送球を大口めがけて投げた。
 こういう送球は、腕だけで投げたり、手首だけで投げたりすると、わずか数メートルで重力に耐え切れず、バウンド送球になってしまう。反重力で低い高度を維持する送球を投げるには、全身を使って体重を乗せた投げ方が必要だ。高校野球を経験した戸崎は、毎日の外野ノックでホームへの返球をいつもこの投げ方でやり、技術を会得していた。

5762.10/16/2007
小説「ショートストップ」4-13
 家庭でも仕事でも、やるべきことをシェアしすぎて、互いの役割ははっきりしていても、それぞれのやっていることに無関心でいると、小さなミスコミュニケーションが、大きな誤解や不信を生み、やがては関係性の崩壊へとつながってしまう。
 そのときになって、なんでこんなことで修復不可能な状態に陥ったのかと反省しても、日ごろの気づかいやカバー・フォローの習慣がないと、生活を持ちこたえていくことは難しい。


 個人で自分の目標を定め、その目標に向かって努力する競技と違い、チームスポーツは始めから自分だけがどんなに頑張ってもチームの総合力が高まらないジレンマを抱え持つ。だからこそ、全体力の向上のために練習があり、日ごろのつながりがある。
 すぐに感情的になって、相手を攻撃してしまったり、自分の怒りをぶちまけてしまったりするタイプのひとは、どんなにそのスポーツがうまくても、チームになじむことはできない。優秀な監督ならば、そういうタイプのひとにメンタルな指導をするだろうが、多くの場合は、そんな指導も受け入れない。いつも自分が正しくて、周囲が間違っていると思い込んで生きている以上、試合中にミスをするチームメイトは排除の対象になってしまうのだ。
 戸崎は、小学校の頃からなんらかのチームスポーツを何十年も続けてきたので、スポーツを通して、たくさんの人間のタイプを見てきた。
 そして、どんなタイプの人間がチームスポーツには向いているかを学習してきた。
 もうそういうタイプの人間に、自分も少しは近づいているのではないかと感じている。

 だから、ショートの大口がずっこけてボールを左中間に後逸することになっても、そんなことでいちいち感情の波を高ぶらせたりはしていない。
 置かれた状況で、これ以上、傷口を広げないように、いまの自分にできることを、走りながら考える。

 大口の後ろにライナーで飛んだ打球は、やがて高度を下げ、ほぼ一直線に地面に平行な飛び方をしながら、バウンドしようとしていた。
 湖面に石を投げ、表面張力でふたたび石が湖面をはねていく状態を予測する。
 こういう打球は、高く上がったフライが垂直に落下して、地面でポンポンと高く跳ねるのと違い、バウンドしても低い弾道を維持する。まれに、バウンドした後の方が速度が増すケースもある。そうなるとやっかいだ。
 戸崎は、ワンバウンド後、ツーバウンド前に捕球できるようにグローブを差し出した。腰を低くして走りながら、左手のグローブを地面すれすれに差し出す。
 ワンバウンドした打球は、低い弾道を維持したまま、さらにツーバウンド目に向かおうとしていた。その前に、網にかかるように、戸崎のグローブにボールが納まった。

5761.10/15/2007
小説「ショートストップ」4-12
 打球はショートを守る大口の頭上にライナーで飛ぶ。
 だれもが、タイミングを合わせてジャンプをして捕ってくれと願う。しかし、やや腰砕けになった大口は、ジャンプというより、後ろに下がりながら転ぶように倒れた。
 打球は、グランドでのびている大口をあざ笑うかのようにその上を通過して行く。
 ショートを抜けた打球は、レフトとセンターの間に飛ぶ。レフトとセンターの間を左中間と呼ぶ。
 左中間の打球は、レフトとセンターのどちらが捕球してもいい。ふたりで捕球に行くと衝突してしまうので、事前に確認しておく。センターの戸崎は、レフトの坂井と相談して、もしも左中間に打球が来たら、自分が前に入るから、坂井には後ろのカバーを頼んであった。
 事前の約束通り、戸崎は大口の頭上を越えてきた打球に向かって一直線に突っ込んでいく。右目の端には、自分のカバーに向かう坂井の姿を確認した。

 よし、これなら、思い切ってボールに突っ込んでいける。

 走りながら戸崎は判断した。もしも、ボールが自分のグローブに当たらないで通過してしまっても、後ろには坂井がカバーしているのだ。
 どんなスポーツでも同じことがいえるのではないか。
 目立つプレーをしている影で、もしもミスしたときのためにカバーやフォローしている選手がいるのだ。自分の後ろを頼めるからこそ、前面の選手はミスを覚悟の思い切ったプレーができる。
 しかし、素人が集まっただけのチームには気持ちの連携も、技術的なつながりもないので、カバーやフォローは皆無だ。だから、小さなミスが大きな命取りにつながることがとても多い。
 たとえば、内野ゴロでショートが股の間を通過するようなミスをする。
 レフトもセンターも、ショートがトンネルをすることを考えてもいないので、互いのポジションから一歩も動かないで、ショートのプレーを見ている。打球が、ショートの股の間を抜けてから、初めて自分たちの方角にボールが転がっていることに気づく。
 そこから、動き出しの一歩を踏み出す。
 しかし、打球はレフトとセンターの間に向かって転々とスピードをゆるめないでいく。レフトもセンターも左中間方向へ走る。互いにカバーの約束をしていないので、同じ方向に走る。やがて、ふたりの距離はとても縮まり、手を伸ばせばボールに届くほどになる。そのときになって、初めてレフトとセンターは互いにひとつのボールに向かって捕球姿勢に入っていることに気づく。
 どちらが捕球してもいい距離をボールが転がっているので、互いに「どうぞ」「どうぞ」と遠慮しあう。
 その結果、ふたりともボールに触ることができず、ボールは左中間の奥深くまで到達してしまう。
 ただのショートゴロエラーなのに、バッターランナーは楽々と三塁まで達するだろう。
 これは、日常生活でも同じだ。

5760.10/13/2007
小説「ショートストップ」4-11
 ノーアウト、ランナー一塁。得点はお互いに〇。試合は終盤。このランナーがホームを踏んだら、もしかしたら、そのまま決勝点になってしまうかもしれない。
 戸崎は、自分の足場を固めて守っているメンバーを見渡す。

 ファーストの小田は、腰を軽く傾けて膝に手を置く。さっきの試合で三塁からホームに決勝のタッチアップをして、膝の具合は決してよいわけではないだろう。
 セカンドの江川は、さすがにここが試合の分岐点とわかっているのか、いつものようにきょろきょろせずにグローブをたたきながら、守備の構えに入る。
 サードの青田は、昨夜の深酒がやっと抜けてきたのか、きびきびと内野手に声をかけている。
 ショートの大口は、両膝に手をあてて、肩で息をしている。だいぶへばっているのだろう。体重を膝にかけてしまっているので、あれでは打球が転がってきたときに適切な一歩が出せない。でも、戸崎は大口の疲労を考えたら、これ以上の要求は出せないと思った。
 ミッドフィルダーの陳さんこと月田は、左腕をぐるぐるまわして、グローブをパンパンとたたく。
 レフトの坂井は、長い腕を大きく振って打球に備えている。外野にボールが来るとしたら、願わくば坂井の方角に来てほしい。彼なら、どんな打球でも追いついて、どんなに遠くへでもいい送球ができるだろう。
 ライトの石井は、眼鏡を外して額からしたたる汗をシャツのそででぬぐう。小泉と交代でピッチャーを務める石井は、この試合ではライトを守っている。ふだんは少年野球の監督をしていて、自分が選手としてプレーすることはめったにない。

 どのメンバーも大きく緊張しながら、いまの状況を感じ取ろうとしている。
 ピッチャーの小泉がバッターに投球する。初球は外角に外れるボール。守っているメンバーの緊張が一瞬ゆるむ。
「ランナー一塁。内野は近いベースをアウトにしよう」
キャッチャーの田辺が大きな声をあげる。
「集中、集中」
江川が内野手に声をかける。
「しまっていこー」
戸崎がセンターからメンバー全体に届くように叫ぶ。

 小泉は二球目を投げた。ボールはど真ん中、やや内角よりに入る。
「カキーン」
金属バットがボールに当たる音がグランドに響く。バッターはバットを思い切り振りぬいた。

5759.10/11/2007
小説「ショートストップ」4-10
 試合の終盤に、相手チームにチャンスが訪れた。
 強い打球がショートを守る大口に転がった。大口は、打球に反応して、からだを動かして、打球の正面にまわろうとした。打球の正面にからだをもっていけば、たとえボールをはじいても、からだに当たって、ボールが後ろに行くことはない。しかし、打球のほうが大口の動きよりも早く、ゴロはレフトを守る坂井のところまで転がった。
「へいへい、ショート!そのへっぴり腰はなんだい」
セカンドの江川が大口に野次を飛ばす。
「そんなことを言ってもさぁ」
大口は、とても打球の正面にまわりこむのは無理だったという表情で、グローブを左右に振った。
 センターを守る戸崎は、転がってきた打球を捕球しに行く坂井の後方にまわりこんだ。
 外野手は、後ろに守っているひとがいない。転がってきた打球をそらしたら、自分でグランドの端っこまで追いかけなければならない。坂井は無難に打球をさばき、セカンドの江川に返球した。
「切り替えていこう。ランナー一塁」
ピッチャーの小泉がメンバーに声をかける。ミスのたびにへこんでいては、ゲームにならない。ある意味で明るい野次はへこみそうな気分を切り替える役割をもつ。江川にそこまでの気遣いがあるかどうかはわからない。
 置かれた状況をメンバーがみんなしっかりと把握することが大事だ。
 ランナーが一塁にいるということは、もしも次のバッターが内野ゴロを打ったら、二塁にボールを送ってアウトを取ることができる。外野にヒットを打ったら、一塁のランナーが三塁まで進むことを意識しておかなければならない。

 戸崎は、江川に野次を飛ばされた大口に同情した。
 いやぁ、ショートは大変だ。バッターのほとんどは右打ちだ。右打ちのバッターがバットを思い切り振りぬくと、だいたいサードかショート方向に打球が飛ぶ。ボールが外野手にまで飛ぶことは、内野手にゴロが転がるよりもはるかに少ない。
 極端な話、ピッチャーがボールを投げるたびに、サードとショートはいつ自分のところに打球が飛んできてもいいように気持ちとからだの準備をしておかなければならないのだ。ちゃんと準備をしていて、転がってきた打球に、精一杯反応しようと思ってもボールに追いつけないこともある。追いつけなかったことを周囲から「ドンマイ」と励まされれば別だが「確保してくれよ」と思われてはやる気が無くなってしまうだろう。
 それでも腐らずに次のプレーの準備をしている大口の背中を外野のセンターから眺める戸崎は、実際の大口の背中よりも、もっと大きなものを感じた。

5758.10/10/2007
小説「ショートストップ」4-9
 木陰で弁当を食べる。
 戸崎は、弁当を食べながら、トップバッターとしてじゅうぶんに活躍していないことを気にしていた。
 となりでは江川が弁当のから揚げを頬張っている。
「やっぱり、俺にはトップは向いてないんだよなぁ」
ため息をつきながら、戸崎は箸を進める。
 しっ。江川が人差し指を一本、自分の口の前に立てて、にらむ。
「きょう、試合に出ていないひとのことを考えろよ」
 その声は小さいけれど、早口で鋭い。
「いつもは、大口さんは全員を試合に出すけど、きょうは試合に参加することではなく、勝つことを狙ってるみたいだから、さっきの試合でも出場機会がなかったひとが2人はいたぜ」
「そうなの?気づかなかった。みんな出たのかと思った」
「あんたは能天気でいいね。もしも自分が出なくても、帰るときには出場した気持ちになれるひとかもよ」

 二試合目は、互いに守りあい、なかなか得点の入らない試合展開だった。
 中盤を過ぎて〇対〇。
 センターを守る戸崎は、何度も強い当たりがショートを守る大口に飛ぶので、そのカバーをした。
 しかし、大口は腰を低くして強いゴロやライナーをさばき、確実にアウトにしていた。だから、カバーをする戸崎に、ボールが漏れてくることはなかった。
 五十歳を越えて、あの動きは俺には無理だろうなぁ。大口のプレーを見ながら、戸崎は感じた。つくづく、本来センターを守るはずだった宮城が参加できなくなり、ショートをいきなり任された自分がセンターにカムバックしたことをラッキーだと思った。

5757.10/9/2007
小説「ショートストップ」4-8
 ノシノシと行進しながら本塁に近づく小田の背中方向から、キャッチャーへの送球が飛んでくる。
 小田よりも先にボールがキャッチャーに届き、走ってくる小田にタッチをしたら、アウトになる。
 タイミングとしては、ボールのほうが先に届いてしまいそうだ。
 しかし、レフトの送球はわずかにホームベースを一塁方向にそれていた。
 キャッチャーは、捕球するために一塁方向に二歩ぐらいからだを動かした。
 一瞬、ホームベースががら空きになる。小田は、走る速度をゆるめずに、そのままがら空きのホームベースを駆け抜けた。
 得点が入った。三対三の同点から四対三に勝ち越した。

 ベンチでは戸崎たちが両手を挙げて喜ぶ。浅いフライだったにもかかわらず、果敢にタッチアップした小田をみんなが囲んでハイタッチをする。
 戸崎とタッチをするときに、小田はアイコンタクトを送った。戸崎は親指を立てる。
「ほらね、やっぱり運が落ちるんじゃなくて、運がついたでしょ」

 レフトフライを打って、ベンチに戻ってきた江川が不服そうだ。
「みんな、何かを忘れていない」
はぁ、メンバーが振り返る。
「小田さんがタッチアップできたのは、この俺様の犠牲フライのおかげでしょ」
 監督の大口が江川の肩をたたく。
「きみねぇ、ふつうあのフライではタッチアップは無謀よ。でも、ツーアウトになったら、タッチアップはできないから小田さんは一か八かの勝負に出たんだと思うよ。どっちかというと、あんなしょぼフライで、走らせてしまって、申し訳ないと謝るべきじゃないの」
「あほたれ、打ってなんぼよ。プロセスじゃなくて、結果が大事なの」

 試合は、そのまま大渕中学が一点差で勝った。
 トーナメント戦のベスト8になった。くじの関係で、大渕中学は、二回戦から登場したからだ。
「じゃぁ、次の試合は一時間後です。相手は去年の優勝チームだけど、この調子でいけば勝機はじゅうぶんにあると思うので、弁当を食べて休息してください」
 大口がメンバーに告げて、しばし休憩になった。

5756.10/6/2007

小説「ショートストップ」4-7
 それでも相手チームは必死でねばり、最終回までに三点を入れて、同点になっていた。
 初回こそ、ラッキーなショートのエラーで出塁した戸崎だったが、その後の打席では凡退が続いた。ベンチに戻るとなにを言われるかわからないから、アウトになるとそのまま一塁ベースコーチを交替して、そのままコーチをした。

 大渕中学は、最終回に粘りと集中打を見せ、ノーアウト三塁の絶好の勝ち越しのチャンスを得ていた。
 三塁ランナーは膝を痛めている小田だった。初回にホームインした戸崎とハイタッチをしたら「しまったぁ、運が落ちる」と、戸崎とタッチした手をタオルで拭こうとしたのに、その後の打席では好打が続き、最終回でもクリーンヒットを放って勝ち越しのランナーとして三塁ベース上にいた。  バッターは、陳さんこと、月田。左うちの陳さんは、日ごろから自宅や職場で素振りを欠かさない。その成果を見せるには絶好のチャンスだ。  投球を見極めて、ワンストライク・ツーボールのバッティングカウントになる。次の球を陳さんは思い切りたたく。
 打球は、セカンドベース後方のセンターフライだ。センターがボールを捕ってから、ランナーが次の塁へ進むタッチアップをするには、浅すぎる。三塁ランナーの小田は一応、ベースまで戻りスタートの姿勢を保つが、センターが捕球したのを見て、タッチアップをあきらめた。膝を痛めているので、ホームベースまでは全力疾走できない。

 しかし、陳さんはひとり一塁ベースを駆け抜けてガッツポーズをしていた。そして、タッチアップしないことを知ると、「あれっ」という顔をしてうつむいた。
「あのしょぼフライで、小田さんに走れってか」
次のバッターの江川が、ベンチに戻る陳さんに声をかける。
 ワンアウト、ランナー三塁。江川は、ピッチャーの初球をレフト方向にたたいた。これも、陳さんのセンターフライなみの浅いレフトフライになりそうだ。
「どうして、みんなポンポン、打ち上げるのよ」
まだ、レフトが捕球していないのに、大口はため息をもらす。
 しかし、今度の小田は、同じように三塁ベースに戻ってスタートの姿勢を保ったが、陳さんのときとは違いやや姿勢を低くしていた。
 戸崎は、その姿勢を見て、これは走るなと感じた。
 レフトが捕球する。ランナーはフライを捕球する前に走ると反則なので、確実に捕球するのを確認して小田は走った。
 ラグビーでもやtっていたかのようながっちりと背の高い小田が、三塁から本塁に突入する。膝が痛いのだろう、疾走するというよりも、ノシノシ行進するようだ。
 フライを捕球したレフトは、ホームベースを守るキャッチャーに送球した。

5755.10/5/2007

小説「ショートストップ」4-6
 戸崎は、小泉にハイタッチをする。
「なんで、あんな当たりをエラーするのかな」
「打った瞬間に腰がふらついていたから、びっくりしちゃったのかもよ。当たりとは裏腹に、バットスイングは、ホームランのような勢いがあったからね」
「つまり、俺のバットの振りに圧倒されて、捕球前にこけたってことね」

 戸崎は、ベース上でベンチを見てガッツポーズをした。
 監督の大口が呆れる。
「そこはガッツポーズをする場面じゃないよ」
「いいのいいの、トップバッターの役目は、何でもいいから出塁することなんだから」

 後続のバッターの活躍で、戸崎は三塁まで進んだ。次のベースはホームだ。あそこを踏めば得点が入る。初回に先制点をとることは、メンタル面で相手に与える影響が大きい。
 幸い、その次のバッターも左中間を破るヒットを放ち、戸崎は悠々ホームベースに走りこんだ。先制点だ。
 その足でベンチに戻り、メンバーたちとハイタッチをした。腕を上げて、手と手をパチンと合わせる。主軸を任されている小田ともハイタッチをした。
「しまったぁ、運が落ちる」
小田は戸崎をタッチをした手をタオルで拭く仕草をする。
「なんでよ」
気分良くホームインした戸崎は、むっとして小田に振り向く。
「だって、戸崎さんはショートゴロエラーじゃん。相手に助けられて出塁して、味方のヒットでホームインしたんだから、ラッキーなだけでしょ」
「そのラッキーさが運でしょ」
「俺はそんなラッキーではなく、自分で大きな当たりを放つラッキーがいいわけ。あー、しまった。みんなの流れに乗ってついついたなぼたラッキーのおすそわけを受けてしまった」
心底、小田は後悔している様子だった。

 大渕中学は一回の攻撃で三点を先制した。
 どんな得点競技も、先制点をあげることの意味は大きい。そのチームのモチベーションは当然のことながら向上する。反対に追う立場になった相手チームは、気持ちがどうしても窮屈になってしまう。このままでは負けてしまう。相手よりも一点でも多く点数をとらなければならないというプレッシャーがかかる。とくに野球やソフトボールのように、攻守がはっきりと分かれているスポーツは、守っている間に得点を追加することができない。だから、攻撃のチャンスを生かすことが重要だ。守っているときに焦ると、再び追加点を相手に与え、点差がどんどん離れていく。リードされたチームのモチベーションを高めるのは苦労が多いのだ。

5754.10/4/2007

小説「ショートストップ」4-5
 戸崎はバッターボックスに立っていた。
 いつもは大池がトップバッターなのに、きょうは都合で参加できない。
 試合開始の最初のバッターが戸崎だった。試合を応援しているひとたちの視線を感じる。
「問題は、このトップバッターなんだよな」
ベンチで、バッターボックスの戸崎にまで聞こえる声で江川が野次を飛ばす。

 戸崎は緊張しながら、ピッチャーの投球を待っている。
「プレイボール」
審判の声が響く。
 初球は、ホームベースの手前で落ちるボール。明らかにボールだったので緊張していた戸崎でも手は出さない。
 二球目は打ちごろの内角の球が来た。戸崎はボールをよく見て、バットを振りぬく。打球はバットの芯にあたり、三塁ベースのはるか上方をレフト方面に飛んでいく。ファウルとフェアを分ける三塁線上を飛んでいく。バッターボックスから打球を見ていた戸崎は、なんとかボールがフェアに入らないかと願う。レフトが必死に追いかけているが、落下するまでに捕球できそうもない。フェアに落ちれば、確実に二塁打はかせげるだろう。
 しかし、ボールはわずか数センチの差でファウルグランドに落ちた。三塁審判が両手をあげ、ファウルのジェスチャーをする。

 気を取り直して三球目を待つ。
 また二球目と同じところにボールが来た。戸崎は「しめた」と思って、やや力みながらバットを振りぬいた。
 その力みが、バットの芯にボールがあたるのを避けることにつながった。バットを持つ手に近いところにボールが当たり、打球はボテボテのショートゴロになった。
「あちゃー」
 戸崎は小さな声で言いながら、一塁ベースに向かって走り出した。ボールを見ながら走らない。一塁手の動きで、ショートからの送球が一塁に送られてくるのを想像する。走りながら、戸崎は一塁手がいつまで経っても、ショートからの送球をとる体勢にならないことを知っていた。「これはもしかして、俺の足のほうが速いかも。でも、まさか、ふつうのショートゴロだから、ショートは軽くさばくはず」。そんな思いが錯綜しながら一塁ベースを駆け抜ける。

 「セーフ」
一塁審判の声がする。なにがあったのか、戸崎には状況がつかめなかった。
「エラー、エラー」
一塁ベースの近くでコーチをしていた小泉が教えてくれた。
 小泉は、大渕中学のサウスポーエースだ。

5753.10/3/2007

小説「ショートストップ」4-4
 よく観察すると、ひとりだけ、胸に「大渕中」の文字がない。そこには、アルファベットで「Ofuchi」と表示されていた。
 幼いこどもが洋服の前後がわからずに、反対に着ることがある。それと同じだ。

 監督の大口だけは、そのことに気づかずに、メンバーのオーダーを書いたメモ用紙に目を落としている。
「じゃぁ、トップバッターは」
 そう言いかけたとき、江川がたまらずにぷっと吹き出した。
「おいおい、いいおとながシャツの前と後ろを間違えているぜ」
メモ用紙に目を落としていた大口が顔を上げ、周囲を見渡す。
「いないじゃん、そんなひと。だれよ」
チームの全員が指をさす。
「あなたです」
 シャツの前後を間違えていたのは、監督の大口だった。
「いやぁ、失礼しました」
 照れ隠しをしながら、大口はその場でシャツを脱ぐ。脱ぎながらも言い訳を欠かさない。
「監督は大変なのよ。あの手この手で、チームをリラックスさせようといつも心がけているんだから」
「じゃぁ、それってわざとやったっていうの」
江川が突っ込む。
「当たり前でしょ」
「ねらってやったにしては、手がこんでるなぁ。監督の肩章まで、しっかり逆につけちゃって」

 緊張で力が発揮できないのはもったいない。
 ねらってやったのか、本気で間違えたのか、どちらでもいいことだが、大口のパフォーマンスで、チームはとてもリラックスした。

5752.10/1/2007

小説「ショートストップ」4-3
 キャッチボール、トスバッティングの練習をしていると、開会式に出席していたはずの監督の大口がバイクでやってきた。
「ちょっと、打球を捕る練習をさせて」
 例年は、早く会場にいて、相手チームの戦力分析をする。メンバーが集合すると、分析結果を伝え「非力なチームはここで勝たなきゃ」といって、自分の頭を指すのが常だった。しかし、ことしは練習に参加している。

 戸崎は、近くを守っていた江川に聞く。
「大口さんは、どうして、ことしは練習に戻ってきたのかな」
江川は、にやにやしながら声を落として言った。
「必死なのよ。監督は。慣れないショートを守るから、チーム全体のことよりも、自分のことで精一杯」

 いつもは象よりも遅いスピードでボールへ反応している大口が、目の前で左右の打球に素早く反応している。
 いまから、そんなに張り切ったら試合のときには体力が残っていないのではないかと、戸崎は心配した。

 10時半。戸崎たち大渕中チームのメンバーは、大会の会場である市営球場に到着した。
 すでに試合が行われていて、観客席からはどよめきや拍手が聞こえてくる。

 あー、この雰囲気。ぴりっとした緊張感や、それが緩んだときの開放感、そのめりはりのよさが心地いいんだよなぁ。
 戸崎は、バックを開けてグローブを取り出し、手にはめた。まだ試合開始までは時間があるので、グローブを使うことはない。それでもグローブをはめた手を見て「きょうも、よろしく頼むよ」と願をかける。
 チームごとに球場周辺の芝地に待機所が用意されている。
 戸崎たちは、そこに行き、PTAの役員をしているひとたちからそろいのTシャツを受け取る。
 白地。左胸には小さく漢字で「大渕中」と印字されている。背中にはアルファベットで大きく「Ofuchi」の文字。何年も同じシャツを使いまわしているが、役員の管理がいいのか、いつも新品のようにきれいだ。
 各自、シャツに腕を通し、試合前の緊張感を高める。
「じゃぁ、オーダーを発表するので集まってください」
 大口がメンバーに声をかける。大口を中心にして、メンバーが円形になる。同じシャツ、胸には小さく大渕中の文字。ユニフォームを着ることで、みんな同じチームなんだという意識がいつもより強くなる。

 はずだったのに、ひとりだけ、どこか違う。

5751.9/30/2007

小説「ショートストップ」4-2
 受話器を持ちながら、戸崎は紅茶をすする。
「そんでさ、相談なんだけど」
 監督の大口の声はまだ眠たそうだ。
「こないだ、戸崎さんにはショートをお願いしたけど、やっぱりセンターをやってもらえないかな」
「もちろん」
戸崎に断る理由はない。外野なら、慣れ親しんだポジションだ。鼻毛を抜く余裕もある。
「でも、ショートはどうすんの?」
「しょうがないから、俺がやることにしたよ」
大口は、50歳を越えているが、大学まで本格的にソフトボールをやっていたし、いまも地域のチームで試合に参加しているので、プレーそのものは心配ない。ただ体力の衰えとともにボールへの反応や、遠くまでボールを投げることに不安を抱いていた。
「いやぁ、俺としては、ショートではなくなって、とってもラッキー」
「きのう、一晩、そのことを考えていたら、やっぱり俺しかいないかなって思ったんだ」
「きのう一晩って、大口さんは宮城さんがきょう欠席することをきのうのうちに知っていたの?」
「きのうの夕方に電話がかかってきて、『いま、福井にいます。叔父が危篤なんです』っていうんだもん。あしたまでに帰って来いとは言えないでしょ」

 きのうのうちに知っていたのなら、もっと早く知らせてくれてもいいではないか。

「どうして、きのうのうちに教えてくれなかったのよ」
「だって、あなたはいつも寝るのが早いでしょ」
「それが理由?」
「それが理由だよ」

 大口の思いやりが、戸崎には少し不満だった。しかし、心配がひとつだけ減って安心した。

 戸崎は予定の時間に小学校のグランドに行った。
 続々とチームメートが集まる。
「宮城さん、きょうアウトなんだって。だから、俺がセンターになって、ショートは大口さんがやるって」
集まったメンバーにポジションの変更を知らせた。

5750.9/29/2007

小説「ショートストップ」4-1
 8月最終の土曜日。
 戸崎は目覚ましの4時半よりも早く起きていた。
 まだ、空は紫がかっていた。しかし、雲はない。いくつかの星が夜の終わりを告げるように小さな光を発している。朝刊がまだ来ていないことを確認して、戸崎は家の前の路上でバットを数回振った。

 いよいよ大会当日だ。

 加倉市PTA連絡協議会主催ソフトボール大会。
 加倉市内のPTAがある小学校と中学校の保護者やOBによるトーナメント形式のソフトボール大会だ。
 ソフトボールや野球の経験がないひとでも楽しめるように、通常のソフトボールとはルールが違う。ピッチャーは速球を投げてはいけない。守るときは、通常の9人に加えて、さらに1人追加していい。そのポジションをミッドフィルダーと呼ぶ。チームによってミッドフィルダーの守る位置は違う。大渕中チームでは、だいたい二塁ベースの後方を守る。打者は最大13人まで打っていい。守りのない打者は指名代打と呼ぶ。
 大会に参加するチームは、全部で25チーム。トーナメント戦だが、一回戦で敗退すると負けたチームどうしの懇親ゲームが用意されている。だから、一試合で終わりということはない。ことしの抽選では、大渕中は一回戦で勝ったチームと戦う二回戦からの登場になった。ほかのチームよりも試合数が少ないので、もしも決勝まで進めば、体力的に余裕がある。しかし、試合をしてきたチームとの初戦なので、試合慣れという点では、相手チームのほうが有利だ。
 大会は8時から始まり、決勝は午後3時頃になる。大渕中は二回戦から登場なので11時半からの試合だった。早く会場に行って、たくさんの時間を待つよりも、少しでもからだを動かしておいたほうがいいという監督の大口の考えで、いつも日曜の早朝に練習している小学校のグランドに8時半に集合することになっていた。

 路上でバットを振った戸崎は、家に入り、朝食をとる。テレビのスイッチを入れる。NHKの5時のニュースをやっていた。
 そのとき、電話が鳴った。家族はまだ寝ているので、あわてて受話器をとる。
「もしもし、大口ですが」
「おはようございます。早いね。起きるの」
「じつは、センターをお願いしていた宮城さんが、きょう出れないと連絡があったんだ」
「えーっ、じゃぁセンターはどうするの?」

 戸崎は、ふだんは外野のセンターを守っている。しかし、戸崎よりも若くて、日ごろからからだを動かしている宮城が参加できるときは、センターを宮城に任せ、戸崎はミッドフィルダーを守ることが多い。今回の大会には宮城は参加できるはずだった。