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5749.9/28/2007

小説「ショートストップ」3-9
 その日の戸崎の練習はさんざんだった。
 慣れないトップバッターとショート。このダブルパンチで、いつもの調子が出なかった。練習が終わって、汗を流すために入浴しながら、からだの疲れよりも気持ちの疲れが大きいことを痛感した。
 しかし、湯船につかっていたら江川の言葉を思い出した。
「だって、メンバーを見てみろよ。試合に出たくたって人数の関係から出られないひとが何人かいるだろ。そのひたちの身になってみろ。何番でもいいから、試合に出て、打順があるだけ、ラッキーってもんじゃないか」。
 その通りだ。さらにポジションにつくとき、いつものセンターではなくショートに入ったとき、ミッドフィルダーを守っている江川に釘を刺された。
「内心では、ショートもやだなぁって思ってるんだろ」
「だって、外野はたまに飛んでくるフライを追っかけてりゃいいんだけど、ショートってピッチャーが投げるたびに守備の姿勢をとって、いつも緊張していなけりゃならないじゃん。勘弁してほしいよ」
「ほらほらまたそんなこと。ベンチを見てみろ。守りにつかないで応援しているひとたちがいるじゃないか。わざわざ日曜の早朝から練習に来て、試合に出ないで応援しているひとたちの分まで頑張らなきゃ、罰が当たるぜ」

 そりゃそうだが。だったら、俺はベンチで応援する側になってもいい。そんなことを考えたら、練習に来ているのに、応援にまわっているひとたちに怒られてしまうのだろうか。練習に来るということは、何らかのプレーに関わっていたいという気持ちがあるからだろう。なのに、プレーをしているひとを応援するだけというのは、気持ちのなかにおさまりのつかないものが芽生えてしまうのだろうか。
 中学のときも、高校のときも、入部したときは同じ学年の部員はたくさんいた。でも学年が進むに連れて、試合に出るレギュラーと、試合に出ないイレギュラーに分かれて行ったら、試合に出る回数が少ない部員は野球部を辞めていった。俺はレギュラーでいることが多かったから、辞めていく連中の気持ちを考えたことがなかったなぁ。せっかく練習しても、試合に出ることができないのでは、練習をしている意味がないと感じてしまうのかな。
 でも、野球をしている限り、試合に出場できる人数は決まっている。それ以上の部員がいたら、補欠が生じるのは当たり前のことだ。だれもが試合に出たいと思って練習していても、ゲームに勝つためには、実力が上の選手を試合に出したほうがいい。スポーツは勝つためだけにやっているのではないというひとがいるかもしれない。そういうひとは、本当にレギュラースポーツをやったことがあるのかなぁと疑問に思う。負けるかもしれないメンバーで試合に臨むことは、相手に対して失礼なことだ。
 試合をして勝ったときの爽快感は、苦しい練習を忘れさせてくれる。試合をする限り、どちらかが勝ち、どちらかが負ける。仕方のないことだ。必ず勝負があるのなら、負けるよりも勝つほうがおもしろい。その試合に、自分自身が出場できればなお楽しい。残念ながら補欠になって応援していたら、自分に出番が回ってこないか期待する。そして、次の試合にはレギュラーになれるように、人一倍の練習をしようと思えばいい。
 最近は、少年少女のスポーツが盛んになっている。親の応援が過熱している。なかには補欠になっているわが子がかわいそうで監督やコーチに文句を言う親もいると聞く。
 親の力で無理やりグランドに立たされ、相手チームの勝利に貢献してしまうようなプレーをしたこどもを、チームメートはどんな思いで受け止めるのだろう。
 俺だったら、レギュラーつかむのも親がかりかって、影でバカにする。
 自信のない打順、慣れない守備位置でチームに迷惑をかけるのなら、もっとふさわしいひとを抜擢してほしいという俺の考えは間違っているとは思えないんだけど。

 お湯のなかで全身をマッサージしながら、戸崎は考えをめぐらせた。

5748.9/27/2007

小説「ショートストップ」3-8
 中野は、それまで大渕中学チームのショートを守ってきた小山が、自分の後継者として連れてきた。
 実際、ショートを守らせたら、どんな打球にも反応し、しかも肩が強く、何度もチームの危機を救ってきた。その中野が加倉市の大会に出られないという。
「だって、中野さんって、まだこどもが小学校にも上がってないんだよ」
「えっ」
戸崎は驚く。
「知らなかったなぁ」
「なんで知らないの。小山さんが中野さんを連れてきたときに言っていたじゃん。加倉市の大会には出られないけど、大渕カップのリーグ戦は黙って出ていれば、べつに公式戦でも何でもないんだから問題ないって」
「どおりで、彼の動きは俺たちとは違うはずだ。まだまだ若いってことね」
「いや、きみもかつては牛若丸みたいだったよ」
「ずいぶん、古風なたとえだなぁ」
「その、かつての牛若丸にショートを頼みたいのよ」
「ちょっと待ってよ。ずっと外野ばかりやってきた俺に内野手は無理でしょ。それに、中野さんが無理なら、最近はセカンドを守ることが増えた小山さんを元に戻せばいいじゃん」
 トップバッターにコンバートされただけで、気持ちが動揺しているのに、この先、ポジションまで変更になったら、打っても守っても落ちつけない。
「小山さんは確かにじょうずだよ。でも、この夏で60才の定年なんだよ。一塁までボールが届かなくなってきてるだろ」


 大口の言うことは本当だった。
 工場で勤めてきた小山は、毎日、昼の休憩時間に工場の若い者たちと敷地内でキャッチボールをしてきた。そのため60才とは思えないボールを投げる。しかし、速いボールを投げることと、遠くまでボールを投げることは、使う筋肉が違う。年齢とともに、ボールを遠くまで投げるのは難しくなる。
 ショートは、二塁ベースと三塁ベースの中間を守る。中間といっても、ランナーが走る線上を守るわけではない。実際にはもう少し下がって、外野手に近いところを守る。だから、ゴロが転がってきてボールをキャッチしたとき、一塁までの距離がとても長い。内野手の中で一塁まで一番長い距離のボールを投げなければいけないポジションだ。
 長年、外野手ばかりをやってきた戸崎は、ボールを遠くまで投げることは得意だった。しかし、ゴロには慣れていない。また、バッターとの距離が外野手に比べて内野手は近いので、速い打球にも慣れていない。そういう事情を大口に汲み取ってほしいのだが。
「じゃ、そういうことで、よろしく。次の回から、試しに守ってよ」
大口は、いつものにこにこ顔で戸崎の肩をたたいた。

5747.9/24/2007

小説「ショートストップ」3-7
 ベンチに戻った戸崎は申し訳ないというポーズでメンバーに頭を下げる。
 自分のバックからタオルを出し、額の汗をぬぐう。となりには、江川が座っている。
「だから、俺にはトップは無理なんだよ」
言い訳をする。
「そんなこと、大きな声で言っちゃいけない」
江川が、いつものヤジ将軍とは違う表情で、戸崎に鋭く小さな声で言う。
 えっ、なんで?という表情で戸崎が江川を見る。江川は、口元にグローブをあて、さらに声が外に漏れないように配慮して戸崎にささやく。
「だって、メンバーを見てみろよ。試合に出たくたって人数の関係から出られないひとが何人かいるだろ。そのひたちの身になってみろ。何番でもいいから、試合に出て、打順があるだけ、ラッキーってもんじゃないか」
「そりゃ、そうだな」


 戸崎は、いつもは勝手なことばかり言っている江川が、チームメートを思いやる発言をしたことに小さな感動を覚えた。同時に、自分の浅はかさを痛感する。
 江川とは反対側に、月田が座っている。月田、愛称「陳さん」は、自分のバットを握り締めて、グリップの感触を確かめている。
「陳さん、さっきの俺のバッティング、どこを修正したらいいかな」
「ごめん、自分のことで精一杯で見てなかった」
 今度は、いつもの大きな声で江川が笑う。
「陳さんにバッティングコーチを頼んだら、毎日素振り200回を課せられるぞ」
「うーん、戸崎さんの場合は素質があるから100回でもいいかな」
陳さんの目は笑っていない。指先を使うデザイナーという仕事で、一日に100回も素振りをしたら、満足にペンが握れなくなってしまう。このひとは、本気だ。戸崎はそう思って、その場を離れた。


 次のバッターが出塁してベンチは盛り上がっている。
 トップバッターの自分が、情けないバッティングをして、さらにショックを受ける。グローブを持って、この回の裏の守りに備える。
「戸崎さん、ちょっと」
監督の大口が手招きをする。
「やっぱり、中野さんは大会には出られないんだって」
「中野さんが出られないとすると、ショートはだれが守るの」

5746.9/22/2007

小説「ショートストップ」3-6
 戸崎は、バッターボックスに立つ。
 ベンチを振り返る。とくに監督からの指示があるわけではないが、高校時代から野球をやってきた癖で、投球の合間や打席に入るときに、ベンチの指示を確認してしまう。
 これが高校野球なら、監督からのブロックサインを読み取らなければならない。しかし、素人のソフトボールでは、それぞれにくつろいでいるメンバーたちの顔を眺めるだけだ。並んでいるメンバーの端で、いつもショートを守っている中野と大口が真顔で話しているのが気になった。


 「バッターラップ」
審判の声がかかる。
「戸崎、トップバッターデビュー」
相変わらず、江川はうるさい。
 ピッチャーが第一球目を投げる。
 加倉市の大会では、ファーストピッチ(速球)が禁止されている。ファーストピッチを認めると、ソフトボール経験者がピッチャーを務めるチームがとても有利になってしまうのだ。ソフトボールは、本格的な選手を相手にしたら、とてもバットにボールを当てることができるスポーツではない。それぐらい下投げでありながら、ピッチャーの投げる球には勢いと速度があるのだ。
 加倉市のルールに従うと、ピッチャーはゆっくりな球を投げなければならない。これは、バッターにとっては打ちやすい。しかし、ピッチャーも考える。ただゆっくりな球を投げるのではなく、わざと山なりのボールを投げて、バッターにとってボールを打ちにくくする。山なりのボールは、バッターにとって自分の目線の上からボールが降ってくる。それを横に振るバットの一点でとらえなければならない。それを外すともちろん空振りになる。


 初球は、ボールがホームベースよりも外側に外れる。審判が、ボールと判定する。
 戸崎は、こころを落ち着けて二球目を待つ。ねらいは、セカンドの頭の上を抜くあたりだ。
 しかし、二球目は内側に来た。見逃すとストライクになるだろう。自分のからだに近い球は、セカンド方向に打つのが難しい。戸崎は、引っ張ってレフト前に打とうと思った。
 バットを振る。しかし、球は、バットの芯を外れ、打球はサード正面のボテボテのゴロになった。これでは、内野ゴロで一塁アウトになってしまう。戸崎は、くそっと思いながら一塁に走る。サードがエラーをするかもしれない。うまく捕球できても一塁に暴投するかもしれない。また、一塁がエラーをするかもしれない。ゴロを打つと、一塁でセーフになる可能性が3つもある。
 しかし、戸崎のあわい願いはかなわなかった。サードはゴロを難なく処理し、一塁に好送球を投げ、一塁手もキャッチした。

5745.9/16/2007

小説「ショートストップ」3-5
 ベースボールでトップバッターの果たす役割は大きい。
 性格的には、プレッシャーに強いタイプか、プレッシャーを感じないタイプが向いている。状況を察して、必要な対応をするタイプには、トップバッターは向いていない。
 これまで、戸崎たちのチームでトップバッターだった大池は、もともとベースボールではなくバレーボールをやってきた経験があり、運動神経は高い。かつ、典型的な楽天家で、プレッシャーを楽しむタイプだった。だから、トップバッターには向いていた。
 大池の次の二番バッターが多かった戸崎は、大池の結果をもとに自分のバッティングを組み立ててきた。


 もしも大池が出塁すれば、自分はアウトになっても大池が次の塁に進めるようなバッティングをすることができた。
 目的がはっきりすると気持ちを集中できるタイプなのだ。
 それなのに、大池が加倉市の大会に都合で出られない代わりに、監督の大口は戸崎をトップバッターにしようとしている。


 いつもの練習では、トスバッティングの後、大渕中学と山田小学校チームに分かれて、紅白戦をする。
 ゲームがもっとも試合に強くなる練習だ。練習ばかりをしても、実際の試合では実力を発揮するのは難しい。
 それに、素人のおとなが集まった集団なので、クラブチームみたいに基本練習ばかりを反復する必要があまりない。
 試合形式の練習で、おのおのがバッターボックスに立ち、ベースボールを楽しむということが重要なのだ。
 バッティング練習を本格的にするなら、トスの次は、ハーフバッティング、そしてフリーバッティングへと発展する。ハーフバッティングは、文字通り五分の力でボールを遠くへ飛ばす。フリーバッティングは、本番を想定して全力でバットを振り切る。
 トスバッティングの後の紅白戦は、ハーフバッティングとフリーバッティングの意味合いを含んでいた。


 紅白戦が始まる。
 戸崎は、センターを守りながらも、トップバッターのことが頭から離れない。
 この回の相手の攻撃が終わると、自分からバッターが始まるのかと思うと、いままで感じたことのない緊張が走った。
 山田小学校チームの攻撃を防いで、大渕中学のメンバーがベンチに向かう。
 監督の大口を中心にして、メンバーが集まる。打順の発表だ。
「いつもは、大池さんが一番だけど、大会には出場できないということで、きょうは戸崎さんが本番を想定して一番ね」
「おっ、いよいよ大池を抜いて出世したな」
 江川の声が、戸崎の背中にのしかかる。

54.9/15/2007

小説「ショートストップ」3-4
 次々とメンバーがトスバッティングを終え、次の練習に進行しようとしていた。

 バッティング練習はだいたい4段階に分かれる。
 まず素振り。バットをもって、振る。ピッチャーが投げたことをイメージして振る。ボールが自分のからだに近いところに来たのか、遠いところに来たのか、それによってバットの振り方は異なる。また、自分のからだのあごのあたりに来たのか、へそのあたりに来たのか、膝のあたりに来たのか、高さの違いでも振り方は異なる。
 だから、素振りをするときは、振る前にイメージすることが必要だ。
 よし、内角(自分のからだに近いところ)の高めを10回。次は、内角のへそあたりを10回。今度は内角の膝あたりを10回。こんなふうにイメージをして振る。

 よく少年野球でこどもたちがグランドで声を掛け合って素振りをしていることがある。
「いーち、にぃ、さぁーん、よん」
 キャプテンらしきこどもが掛け声を発する。それにあわせて、ほかのこどもたちが振る。
 あれは、まったく練習になっていない。指導者の無知がこどもに無駄な負荷を与えている。野球を知っている指導者ならば、「内角高め3回、ど真ん中1回、外角(自分のからだから遠いところ)低め5回」のように、実際にボールが来たことをイメージさせて素振りを教えるだろう。ただバットを振るのが素振りではない。

 素振りの次の段階がトスバッティングだ。実際にボールを打つ。
 5メートルぐらいの距離から、軽く投げられたボールを、バットの芯に当てることを目的にして打つ。芯に当てないと、ボールは飛ばない。
 バットは、テニスやバドミントンのようにラケットではない。ラケットは、ボールやシャトルを面で打ち返す。たとえ、面の中心ではなくても、ボールやシャトルは跳ね返ってくれる。これに対して、バットは棒だ。面ではない。だから、ピッチャーが投げる球を、点で打ち返さなければいけない。
 バットには芯がある。ゴムのかたまりが、先端から15センチぐらいのところに入っている。この部分にボールが当たると、ゴムの弾力でボールが遠くへ跳ね返される。それ以外の場所に当たると、ピッチャーの投球のほうが威力があるときは、たいていまともにははじき返されない。ボテボテのゴロになったり、前に飛ばないでバットをボールがかすって後ろに飛んでいったりする。木製のバットの場合は、折れてしまうこともある。
 だから、自分の手からどれぐらいの距離にバットの芯があるのかというのを、トスバッティングで感覚的に確かめておく必要がある。
 バレーやバスケットのように、道具を使わないで直接ボールを打ったり、投げたりするスポーツでは、手とボールの距離は近い。しかし、野球やソフトボールのように、バットでボールを打つ場合は、自分のからだから離れたところでボールを打つので、ボールが当たる場所の感覚をつかんでおくことは不可欠なのだ。
 プロ野球の選手になると、メーカーに自分専用のバットを作らせる。選手によって、芯の位置が微妙に違うので、どのバットでも打つことなどできないのだ。
 しかし、戸崎たちのソフトボールでは、ピッチャーの球速はそんなに早くない。バットも金属製なので、あまり芯を意識しなくてもボールははじき返される。だから、トスバッティングでも、ついついバッティングセンターの感覚で、なにも考えないでボールを打つことができてしまう。
 「おぅおぅ、トスのときは、威勢がいいなぁ」と江川に言われた青田は
「えーやん、これでワイは調子を整えてんねん」
と生まれ故郷の博多弁丸出しで応じていた。

.9/13/2007

小説「ショートストップ」3-3

 「でも、あの青田さんだよ。試合開始とともに最初に打席に入るひとには、どんなことをしても出塁する責任と義務があるのに、来た球をなにも考えないでポカンポカンと打ってしまう青田さんじゃ、相手チームに最初からアウトをひとつプレゼントしているようなもんじゃない」
大口は、にこやかな表情に似合わないかなりシビアなことを言う。
「俺は、2番があってるんだよなぁ。大池さんの後っていうのが気が楽なんだけど」
「その大池さんがいないんだから、順送りするしかないじゃない」
 ちょうど、トスバッティングを青田が始めようとしていた。

 トスバッティングは、バットの芯にボールをあてて、ワンバウンドぐらいでピッチャーに返す基本的なバッティング練習だ。
 バットを強く振りぬかないで、バットの芯にボールがあたる感覚をからだで覚える目的がある。
 強い打球が、グランドに転がるわけではないので、同時に三箇所ぐらいで行うのが一般的だ。

 青田は、ピッチャーが投げたゆるい球を、力いっぱいたたいて、グランドの後ろを守っているひとのところまでボールを飛ばしていた。
「おぅおぅ、トスのときは、威勢がいいなぁ」
江川から声がかかる。
 さすが、江川だ。こんなときでもネタ探しをしていやがる。戸崎は、ここでも感心する。
「ほらなぁ。青田さんのトスはあれだよ。何度もトスの意味を教えているのに、いつもそのときには前夜のアルコールがまわっていて、なんにも聞いちゃいないんだ。もしも、うちの一番バッターにしたとするよ。みんなの期待を背負ってバッターボックスに入っても、あの頭には、みんなからの期待も、トップバッターの役割も入っていないと思わないか」
 その通りだ。
 戸崎は、青田以外にトップバッターが可能な人材がいないかどうか、練習をしているメンバーを観察した。
 どのメンバーも、中学や高校で正式に野球やソフトボールを経験しているわけではない。むしろ、経験していないひとのほうが多い。こどものときに遊んだぐらいの経験しかない。それでも、このチームに入ってプレーできるのは、30歳から40歳の年齢のひとは、こどものときから友だちや家族とキャッチボールぐらいはした記憶があるからだろう。正式な経験の有無は、野球やソフトボールを素人がするときには大きな差はない。ただひとつ、決定的な差がある。それは、野球やソフトボールの理論を知っているか、知らないかという違いだ。運動部に所属していれば、部長や監督がいて、ひたすら練習ばかりするわけではない。練習の合間に、どんな素人でもバッティングの意味や、キャッチングの技術を言葉で教える。試合では、場面に応じた判断力が必要になるが、それらも実践をする前に、ミーティングで何度も場面を想定した説明をする。

5742.9/12/2007

小説「ショートストップ」3-2
 こどもの進学とともに、戸崎や大口たち、山田小学校の黄金時代を築いたメンバーは、大渕中学校のソフトボールチームのメンバーになった。
 それぞれ、こどもが小学生だったときよりも年齢を重ね、気持ちは同じでも体力の衰えは隠せなくなっている。それでも、山田小学校時代と同じように、毎週日曜日の早朝に山田小学校の練習に大渕中学校のメンバーとして合同参加させてもらっている。

 トスバッティングの練習をしていたとき、監督の大口が戸崎に言う。
「大池くんが、しばらくは練習や試合に来られないって」
「何かあったの?」
「娘さんが中学校のバスケットボール選手で、試合のたびに運転手とカメラマンをしているんだって」
「あいつらしいなぁ」
「だから、サードは青田さんにやってもらおうと思うんだけど、どうかな?」
「青田さんねぇ」

 戸崎は、朝起きたままのような服装で、ふらふらしながら転がってくるボールを追いかけている青田を観察する。
 いつも、日曜日の練習ではかなりアルコール臭い。土曜日に試合があるときは、3メートル以内に近づけないほどアルコール臭い。東京で飲んで、最終電車で大淵を乗り過ごし、平塚まで行ってしまい、深夜サウナで朝を迎える繰り返しをしている男だ。しかし、野球センスは抜群で、酔っ払っているのに、バットにボールは当たるし、グラブにボールは収まる。これまでも、大池が都合で参加できないときは、代わりにサードを守っていた。
「ほかにはいないよ。俺も、青田さんでいいと思う」
 戸崎は、大口の考えに賛成した。

 「ついては、トップバッターをきみにお願いしたいんだけど」
大口は、戸崎の肩をポンとたたく。
「えーっ、俺が」
 大池はいつも大淵中学校チームの一番バッターとして活躍してきた。高校時代に、バレーボールの全国大会に出場した経験をもつ。大舞台に強く、バッターボックスでピッチャーやキャッチャーに声をかけ、自分の打席をマイステージにしてしまう本能的な感性をもつ。その大池が不在ということは、サードだけでなく、トップバッターもだれかが代わりをしなければならないのだ。
「青田さんにサードをお願いするから、打順も一番を任せたらいいんじゃない」
戸崎は、自分がやりたくないから、人任せにしたい。

5741.9/11/2007

小説「ショートストップ」3-1
 加倉市PTA連絡協議会主催のソフトボール大会が近づいていた。
 毎年八月の最終土曜に、市立運動公園で開催する。運動公園にはスタンドと芝生のある野球場とサッカー場がある。大会では野球場とサッカー場を使う。サッカー場では同時に二試合を行う。ちょうど長方形のグランドの対角になるコーナーをホームベースにする。二つのチームが同時に守るから、外野はとなりで試合をしているチームの外野とポジションが重なる。
 試合中にとなりの試合のボールが飛び込んでくることはたびたびあった。まるでゴルフコースみたいだ。
 だから試合の対戦相手を決めるくじ引きでは、対戦相手よりも、どこでやるかが重要になる。勝ち抜き戦だから、負けたら終わりだ。同じ負けるでも、サッカー場で負けるのと、野球場で負けるのとでは、意味が違う。
 加倉市内の小学校と中学校にあるPTAが、ソフトボールチームを作り、学校対抗で年に一回優勝を競う。
 こどもが学校に在籍している間は選手になることができる。こどもが小学校から中学校に進学すると、自動的に自分が加入するチームも小学校から中学校のチームへと移動する。中学校は三年間しかないので、どうしても小学校チームよりも選手集めに苦労する。そこで、数年前から中学校チームに限り、こどもが中学校を卒業していても選手を継続できるようになっていた。

 戸崎は、かつて山田小学校のPTAチームのメンバーとして、大会に参加した。市内でも指折りの弱小チームだった山田小学校は、いつも大会の一回戦で敗退していた。高校まで野球の経験があった戸崎は、試合に勝つことよりも、同じ地域のひとたちとソフトボールを通じて汗を流したり、打上で酒を飲んだりすることが好きだったので、試合の勝ち負けはあまり気にしていなかった。
 しかし、たまたま山田小学校チームに入ったとき、あまりにも成績が振るわないので、PTAは、都市対抗野球で活躍したことのあるひとを監督に据え、チーム力の強化をはかろうとしていた。楽しめればいいと思っていたのに、そのときから毎週日曜日に小学校の校庭を使って、六時半から八時までの練習が始まった。すぐには、効果は現れなかったが、戸崎や大口、大池や小泉らが参加して、二年目ぐらいからチーム力がアップしていった。
 ボールをバットに当てることすら苦手だったひとたちが、監督の指示に従って、次々とヒットを打つようになった。
 そうして、山田小学校は、この大会で三年連続決勝進出という快挙を成し遂げ、三回目の決勝では初優勝の栄誉をつかんだ。市内の学校で山田小学校チームのことは有名になり、練習試合の申し込みも増えるようになった。
 近隣の学校と練習試合をするうちに、年に一度の勝ち抜き戦のためだけに、毎朝練習するのはもったいないという声が上がり、春から秋までの長期間を使ったリーグ戦を、自主的に行うようになった。それを大渕カップと名づけた。戸崎が試合中に鼻毛を抜いていた試合は、その大渕カップの試合だ。

5740.9/10/2007

小説「ショートストップ」2-7
「監督は選手の行動には気を配っているからね。でも江川ちゃんの方が、俺よりよく見えていると思うよ」
「きょう、この飲み会のことを、朝、会ったときに言ったんだ。そうしたら、爺と酒なんか飲んだら、老化が進むからやだって」
 今度は、大口が飲んでいたビールを噴出しそうになる。
「相変わらずだなぁ。でも、あいつ、去年の市の大会のとき、スタンドに私物を置いておいて、試合後に貴重品が盗まれたことがあっただろ。携帯とか、財布とか。だれだって、そんなことされたらショックだと思うけど、いつもあれだけ元気に見えて、ハッスルプレーも多いあいつのことだから、そんなことがあっても、落ち込まないかもとも思った」
「あったあった、そんなこと」
「大会の打上はもちろん、その後、何週間かショックで練習に参加しなかったもん。そういう弱さも本当はあるんだよ」

 黒い釉薬の四角い陶器の皿に、鱧の刺身を乗せて、女将が二人に差し出した。野菜と魚の店とうたっている。レタス、きゅうり、にんじん、わかめ、ひじきなどの野菜をベッドにして、その上に細かい骨を切り、湯通しした鱧が6切れも並んでいた。皿の脇には、すりおろしたわさびと、西洋わさびが盛ってある。小さな皿に、梅ドレッシングが入っていて、好みでつけて食べられるようになっている。
「江川さんって、みなさんとこちらをご利用いただいたことあるかしら」
女将が聞く。大口が首をかしげて思い出す。
「飲み会そのもに、あんまり、来ないけど、それでも、ここには二回か三回は来ていると思うなぁ」
「わかった。いつも最初は威勢がいいけど、すぐに座ったまま寝ちゃうひとでしょ」
「女将さん、さすが、そうだそうだ。あいつは、最初の30分ぐらい、ソフトのときみたいにひとの話に茶々ばかり入れるくせに、気づくと、たいていは寝ているよ」
女将は、少し得意になる。
「ああいうタイプのひとって、仕事でも家庭でも、たくさんのひとに気を使っていると思うわ。だから、みなさんといっしょのときに、言いたい放題みたいにしていることも、どこか発散でもあって、どこか気を使っている延長でもあるのかも」
「お店で、たくさんの客と接しているから、女将さんはひとを見る目があるなぁ」
戸崎は感心した。大口は、戸崎に聞く。
「戸崎さん、デザイナーっていうのも、クライアントからの注文を受けるときに、注文の中身だけじゃなくて、クライアント本人の考えていることや趣味なんかを見抜く力って、必要なんじゃないの」
戸崎は、手を大きく左右に振った。
「そんな力、必要ないよ。受けた注文を淡々とこなすだけ」
「そんなことを言ってるから、江川ちゃんに、ペンキ屋なんて言われるんだよ」
戸崎は、ビールをグイッと飲む。
「そんな、ひとを見る目なんか持っていたら、デザイナーなんかしてないよ。医者とか先生とか、やってたかもなぁ」
「じゃぁ、そういう力がなくて後悔しているわけ」
「ぜーんぜん、医者や先生なんか、絶対にやりたくない職業だもん。ひとを見る目を持っていなくて、神様、ありがとー」

5739.9/9/2007

小説「ショートストップ」2-6
 戸崎は、今朝のことを思い出した。
「そういえば、きょう出勤するとき、江川ちゃんに大船で会ったんだ」
「江川ちゃん。まともに出勤してたの」
電車を使わずにバイクで隣り町の製作所に勤務している大口は、大渕駅での出勤風景を知らない。
「してた、してた。いつものソフトのときのいかれた親父とは大違い。スーツをばしっと着こなして、立派な社会人だったよ」
「えーっ、あいつが。信じられない。いや、そうでもないか」
大口は、なにかに合点がいくかのようにうなずいた。
「本当は、江川ちゃんって、俺はかなりナイーブなんじゃないかと思ってるんだ」
戸崎は、飲んでいたビールを噴出しそうになる。
「ナイーブって、いつも罵詈雑言オンパレードの江川ちゃんが?」
「あれは、照れ隠しなんじゃないかな。ああやって、ひととの距離を作っていないと、寂しくなっちゃうんじゃないかと思うんだよ」
そう言われても戸崎にはよくわからない。
「どういうことよ」
「よく思い出してみて。江川ちゃんは、ソフトの練習のときも、試合のときも、いつも自分からだれかに声をかけているだろ。ピッチャー炎上とか、足元フラフラとか、味方なのにけなしたような言い方はするけど。でも、ほかのメンバーから逆に江川ちゃんに声をかけることって、あまりないだろ。別に、みんな江川ちゃんを嫌ってるとか、避けてるとかってわけじゃないんだよ。とくに用事もないのに声をかけないのと同じかな。だから、圧倒的に、声のかけ方だけを比べたら、江川ちゃんからのアプローチの方が多いんだよ。あれは、気を使うだろうなぁって。つまり、何でもないときに相手にされないことが寂しいタイプ。おとなになっても、そういうタイプっているんだよ」
「すみません、ビール、おかわり。大口さんも、じゃぁ二つ」
空になったジョッキを女将に渡して、戸崎には少し大口の言いたいことが見えてきた。
「たしかに、ソフトをしているときって、プレーのことに対しては、それぞれ声をかけるけど、それ以外のことは言わないよね。そんな余裕もないし」 すると、大口がポンと戸崎の肩をたたく。
「余裕はあるでしょ、きみ」
「はぁ」
「試合中に、鼻毛を抜くなんて、かなり余裕がないとできないよ」
「あら、知ってたの」
 店にはほかに客がいないので、二人の会話が響く。聞きたくなくても女将の耳にはさっきからの二人の会話が届いている。笑顔で「はい、ビール」と二人の前に新しいジョッキを置いてくれた。

5738.9/6/2007

小説「ショートストップ」2-5
「きょうは、福井の鱧が入っているけど、いかがかしら」
女将が、メニューを見せながら、二人に尋ねる。
「おー、鱧かぁ。いいなぁ。お任せするのでよろしく。まずは生ビールを二つね」
 虐待のニュースにため息をついていた大口は、鱧を注文して元気になった。
「俺が大口さんに声をかけられて、ソフトボールをやり始めてから、もうずいぶんになるね」
新聞をたたみ、老眼鏡を外して戸崎が思い出すように言う。それに答えて、大口が指を折って年数を数える。
「戸崎さんの息子がたしか小学校一年生のときだったろう。もう高校を卒業しているから、かれこれ13年ぐらいになるかも」
「13年かぁ。長いなぁ」
 女将がカウンターに座っている二人の前に生ビールを二つ差し出す。
「じゃぁ、出逢ってからの13年間に乾杯」
「はい、乾杯」
 昼間の暑さで流した汗を補うように、二人とも一気にジョッキの半分を飲み干した。ビールといっしょに出てきた肴に箸をつけながら、大口が言う。
「俺たちだって、こうやってソフトをやりながら、子育てや夫婦間の話をだいぶやってきただろ。それがなかったら、みんな悩みや不安を抱え込んで虐待まではいかなくても、けっこうストレスを溜め込んでいたかもしれないよ。よく新聞に載っている虐待事件って、きっと実際の虐待のほんの一部だと思うんだ。こどもが死んでしまうような悲惨な結果になって、初めて事件として報じられるけど、ほとんどの虐待って、それ以前の段階でもっと深刻に広がっているんじゃないかな」
うなずきながら、戸崎が答える。
「うん。ソフトのつながりがあったから、こども会の夏祭りで焼きそばを作ったり、裏山の竹を切って炭焼きをしたりしたんだもんね。そこで、互いのこどもの顔を知って、親が言えないようなことをばんばんほかのひとたちが言ってくれた。親子だけの生活って、きっと息詰まるだろうなぁ。なるほど、こういう虐待の背景には、本音を語ることができる仲間が近いところにいるかどうかが大きなポイントになっているってことね」
 大口と戸崎は家も近くて、互いのこどもが入っているこども会も同じだった。毎年、7月の土曜を使って行われるこども会の夏祭りで、いつも二人で焼きそばをたくさん作った。ほかにもジュースやフランクフルトなどの販売もあったが、二人の焼きそばはとても評判で、いつも客が列を作り、売り切れになった。おかげでこども会の財政をかなり潤し、役員のひとたちから感謝された。こどもたちが大きくなって、すでにこども会を卒業してから、しばらく経過する。

5737.9/4/2007

小説「ショートストップ」2-4
 「いらっしゃい、あら、こんにちは」
30歳を少し過ぎた女将が、2人を迎えた。一般の客と勘違いして型どおりの挨拶をした後で、知っている顔だということに気づいたのだろう。
 戸崎と大口は、カウンターに座る。カウンターには椅子が5席。小さなフロアーにはテーブルが4つ。それぞれのテーブルは4人がけだ。2人が店に入ったときには、まだほかには客がいなかった。店の入り口近くにベビーカーが置いてある。そこには、もうすぐ1歳になる女将の長男が座っていた。大口は、椅子に斜めに腰掛けながら、ベビーカーを見る。
「これぐらいのときが、一番かわいいんだよなぁ」
「はい、お手拭きです。みなさん、そう言うんだけど、大きくなるとどうなるの」
お手拭きを大口に渡しながら、女将が聞く。
「うちは、こどもが2人とも女だから、男はどうかはわかんないけど、お父さんは仕事をしてお金だけ運んでくればいいなんて言われると、はっ倒したくなるよ」
受け取ったお手拭きで顔を拭きながら、大口は言う。
「年頃のお嬢さんなら、父親との距離って、案外、そんなものかもしれないわよ。そう言いながら、こころの底では、きっと頼りにしていると思うな」
 戸崎は、カウンターに置いてあった新聞を広げて言う。
「小さいときがかわいいっていうけど、ほら、きょうも虐待の記事が載ってるよ。言うことを聞かないからって、殴った末に殺しちゃったみたい」
戸崎は、新聞の社会面を開きながら、2人に記事が見えるように示した。大口は、顔を拭くために、カウンターに置いた眼鏡をかけ直す。
「親はいくつだよ」
「えーと、母親が23歳で、父親が25歳だって」
「殺されたこどもは」
「えーと、ちょっと待って、最近、小さな字が見えにくくてね」
「はい、そういうお客さんのために、用意してあるのよ」
女将は、老眼鏡を手渡す。戸崎は、少し照れくさそうに、老眼鏡を受け取り、記事に目を走らせる。
「こどもは、2歳だ」
 大口はため息をつく。
「まったく、わけのわかんない世の中になったもんだよなぁ」

5736.9/3/2007

小説「ショートストップ」2-3
 7月に入ってから、暑い日が続いていた。
 きょうも、朝から気温が上がり、昼間には30度を軽く越えた。湘南地方の夏は、気温だけでなく、湿度も高い。
 地方から湘南地方に仕事の関係で転居してきたひとは、夏の湿度の高さに驚く。北海道や東北地方、甲信越地方から転居してきたひとは、とくに「気温はがまんできるけど、じめじめ感は許せない」と間違いなく嘆く。
 生まれたときから地元で生活をしている戸崎でさえも、夏の湿度の高さには閉口している。チャンスがあれば、エアコンの効いた空間を求めてしまう。しかし、きょうは、郊外の道路わきに設置する大手レストランのロゴデザインの検討で、ほぼ一日中、海岸線の国道沿いで業者との打ち合わせだった。戸崎は仕事を知っていたので、出勤してから、すぐにタンクトップと短パンに着替え、帽子をかぶってサングラスをかけビーチサンダルを履いて、現場に行った。
 看板の設置業者や道路管理をしている役所の人間は、みんなワイシャツにネクタイ、革靴だった。背中にびっしょり汗をかき、緩めればいいネクタイをそのままにしていたものだから、夕方にはネクタイにも汗がしみていた。
 このひとたちは、長生きしないよなぁ。デザインの打合せをしながら、意識の真ん中で戸崎は思った。夏の湘南海岸線に、ネクタイとワイシャツ、革靴ほど向いていないスタイルはない。それは格好が悪いという次元のものではなく、肉体に悪影響を与えるという健康面での判断だ。タンクトップに短パンの戸崎でさえ、タオルで何度も汗をぬぐった。

 会社に戻ってシャワーを浴び、着替えをして、日の長くなった町を歩いて、電車に乗り、大渕駅に戻った。
 ソフトボールチームの監督兼選手の大口とは、6時に改札口で待ち合わせている。ちょっと早く着いたから、立ち飲みで先行ビールをしようかと思ったら、日焼けでどすぐろいいつもの大口が先に来ていて、戸崎に気づく。戸崎はあわてて改札に定期を通して挨拶をした。
「あれ、早いねぇ」
「うん、きょうは大した仕事もなかったし、もうみんな帰っていいよって切り上げてきた」
「さすが、課長は自由が利くなぁ」
「小さな課だし、会社からあてにされていないんだよ」
「またまた謙遜しちゃって」

 二人は大渕駅の南口に降り、チェーン店ではない、新鮮な魚と野菜のおいしい居酒屋に入った。各種地酒がそろっていて、ソフトボールのメンバーとの飲み会では、これまでも何度か使っていた。

5735.9/1/2007

小説「ショートストップ」2-2
 戸崎は40代半ば。江川は先日40の大台に乗ったと騒いでいた。年齢的には江川のほうが若いが、出勤時の姿は、戸崎のほうが学生に近いラフな印象を与えた。
「絵描きじゃないよ。デザイナーだよ」
「わりいわりい、注文の来ないペンキ屋かと思っていたぜ」
「こないだ、オタクの仕事だって請けた、れっきとしたデザイン会社でございます」
「あーあれな。社長の趣味の」
「趣味」
「そうよ、うちみたいな印刷系が、なんでドックショーを企画すると思うのよ。そんなのペット協会とか、フーズ系がやりゃいいはずでしょ」
「まぁな」
「どこも、幕張とかドームとか借り切る金がねぇんだな。だから、犬好きで通っている社長を頼ってスポンサーにとお願いに来るわけ」

 ふたりは、それぞれに定期券を出しながら、改札口へと向かっている。
「スポンサーなら、金だけ出せばいいわけじゃん。なんで、犬のロゴやマークを作るわけ」
「そこが趣味と仕事の境界だわな。結局、社長はうちの仕事よりも、そっちが好きなのよ。会社のほうは、俺たちみたいなぺーぺーにやらせておいて、自分は趣味に没頭する。そうすると、ますますイベント好きな犬屋は喜ぶわけ」
「おかげで、こっちは聞いたこともない犬種の、それも女性が喜ぶようにデフォルメしたマークという中途半端な要求を受けなきゃならないのか」
「そんなのいいほう。おととしは、怖くないブルドックってコンセプトで都内のデザイン会社に発注したら、二本足で立って、笑顔でバレーを踊っているマークになっちゃって、それをプリントした犬用のグッズが大量に売れ残ったんだから。責任問題になって、半分をその会社に買い取らせていたぜ。それでも、半分はあのマークがついたグッズが売れたっていうんだから、お犬様の世界は計り知れない深さがあるぜ」
「ひえーっ。でも買い取りになっても、経費だから、俺は痛くもかゆくもないけどね」
「戸崎ちゃん、会社への忠誠心ってやつないのかなぁ。そんなことになってら、申し訳ないとかって気持ち」
「ないない、ぜーんぜんない」

 戸崎を先にして改札口をくぐる。そこで、江川は上りホームへ、戸崎は下りホームへと分かれる。
「そうだ、きょう大口さんと帰りに大渕でやるんだけど、江川ちゃんも来る」
戸崎はジョッキを飲み干す仕草をした。
「やだやだ、爺と酒なんか飲んだら、老化が進むから」
 江川は、軽やかに、上りホームへ続く階段を降りていった。

5734.8/31/2007

小説「ショートストップ」2-1
 大渕駅は、東海道線と横須賀線と京浜東北線が交差する交通の要所だ。かつては、近くを流れる柏尾川が大雨のたびに氾濫し、駅構内を水浸しにした。昨今の駅前再開発と河川改良工事で、昭和のたたずまいを残していた駅周辺は、横浜や藤沢など近隣の都市化された町並みへと変容を遂げている。
 週末になると、東京方面から海洋レジャーを求める観光客が集まり、日本で最初に開通した懸垂式のモノレールを使って、江ノ島方面へと向かう。駅の北口は小高い丘になっていて、そこにすっぽり下半身を埋め込むかたちで巨大な観音像が町を見下ろしている。北口よりも開発が進んでいる南口は、駅中の飲食店が充実し、駅ビルもアパレルから飲食、宝飾までなんでもそろう店構えで発展してきた。それに伴って、古くからの商店街が次々とドラッグストアとパチンコ屋、大手チェーンの居酒屋とラーメン屋に変わっていった。それでも単位面積あたりでは、新宿の歌舞伎町よりも飲食店の数が多いという、ひとと店の活気は昔からのままだ。

 戸崎は、モノレールから降りて、JRの改札口へと向かっていた。
 通勤時間帯のモノレールは、これ以上ひともものも乗り切れないのではないかと思うほどの乗客を乗せ、江ノ島方面から大渕駅に到着する。通勤時間帯のみ、モノレールのそれぞれの駅には、乗客を押し込む駅員が配置されるほどだ。
 いつものことながら、タバコの臭いがしみついた背広や汗臭い学生服、慢性鼻炎でなければつけられないようなオーディコロンの不愉快な臭気に包まれて、戸崎はさっきモノレールから降りた。自宅から大渕駅まで歩いてもいいのだが、モノレールを使うとたった1分で駅まで到着する。朝の忙しい時間帯に、歩いたら20分はかかる道のりを19分も時間的にショートカットできるモノレールの存在は大きい。たった1分、世にも恐ろしい臭気を我慢すればいいだけのことだ。
 鉄道の改札口へと向かうコンソールは、モノレールの乗客が足早に進む。乗客の人数は変わらないのだが、狭いモノレールから広いコンソールに出るので、人口密度が薄くなる。もうあの臭気と闘わなくていい。
 戸崎は、ほっと一息つきながら、ぶらぶら歩いていた。鉄道の時間に余裕を持っているので、足早に改札口へ向かうほかの乗客のように小走りになる必要がない。
「あれ、朝から、やけに足取りが重いじゃん」
 ふいに、後ろから戸崎は声をかけられた。振り向くと、江川が近寄ってくる。
「月曜の朝は、世界中の労働者の足取りが重いって、ルールを知らないの」
戸崎は、口を尖らせる。
「きのうの試合でたまった疲れが抜けない年齢になっちゃったんだねぇ」
言いながら、江川は戸崎の肩をポンと叩く。
「うっせぇ。それにしても、いつもユニフォーム姿しか見てなかったけど、ちゃんとお勤めのときは社会人してるんだ」
戸崎は、江川の服装をチェックする。濃紺のスーツにアイロンのかかったワイシャツ、ネクタイは太めで鮮やかな黄色だった。ルイビトンかシャネルのようなしゃれたポーチを小脇に抱え、颯爽としている。
「貧乏絵描きといっしょにすんなよ。こちとら大手町まで行くんだぜ」
 小さなデザイン会社で、広告のデザイナーをしている戸崎は、昔から仕事中にネクタイをしたことがない。夏はTシャツで、冬はセーターが定番だった。会社も営業職や事務職以外は、服装に対して厳しいことは言わなかった。靴ぐらいましなものをと数年前にオーダーメードの革靴を作ったが、半年間履き続けたら、水虫になった。皮膚科に通って完治させるのに半年もかかった。それ以来、出勤時でも履物はサンダルか通気性のいいデッキシューズに替えている。

5733.8/27/2007

小説「ショートストップ」1-5
 ショートの中野は、学生時代に野球の経験があったので、少年野球の監督をしている石井に「ゲッツゥ」と言われるまでもなく、捕球したら、からだの向きをさっと二塁方向に変え、ベース上で待機している江川にサイドスローでボールを投げた。セカンド審判が右腕を上げて「アウト」と叫ぶ。江川は捕球したボールを利き腕の右手に持ち替えて、一塁の小田に投げた。間一髪、打者の足よりも小田が捕球するのが早くファースト審判も右腕を上げて「アウト」を宣告した。
 ダブルプレーの成立だ。さっき戸崎がフライを捕球してワンアウトだったので、ツーアウト目とスリーアウト目を同時にとって、攻守交替(チェンジ)になった。

 ベンチに戻る。
「ナイスショート」
だれかれとなく、中野に激励の声をかける。内気な中野は、あからさまに嬉しそうな表情は浮かべないが、口元が少し緩み、激励されるたびに軽く会釈をした。
 もともとこのチームのショートは、小山が守っていた。小山は、ことし定年を迎えるとは思えないほど、身体能力の高い男だ。工場で技術系の仕事を長くやってきたことが、彼の心身を強靭にした。昼の休憩時間には、若い社員を相手に毎日キャッチボールも欠かしていない。だから、60歳に近いとは思えないボールを投げる。キャッチボールの相手が、ボールを捕球するたびに手が痛くなるので悲鳴をあげた。
 その小山が近所に住む中野を連れてきた。自治会の会合で中野を知り、自分の後任としてこのチームに中野を連れてきたのだ。強靭な心身をもってしても、瞬間的な判断や速い打球の多いショートは、長く担当できるポジションではない。監督の大口も中野の加入に喜んでいた。
「このチームには、小山さん以外にショートを守れる人材がいないんだよ」
それが口癖だったのだ。だから、小山が見込んだひとならきっと間違いはないだろうと、すぐに試合に中野を使っていた。
 実際に、中野はこのリーグ戦で、何度もチームの危機を救うプレーを披露した。強い打球も、左右に大きく振られる打球も、早い一歩目の踏み出しで軽快にさばいた。
「おもしろくねぇなぁ。だれか俺のファーストへの軽快なスローイングを見てなかったの」
江川が口を尖らせている。確かに、ダブルプレーは連係プレーなので、中野の活躍だけでは成立しない。中野からボールを受けた江川が、二塁ベースを踏んで、一塁に送球しなければダブルプレーにはならなかった。しかし、多くのメンバーが、江川はそれぐらいのことは簡単にするだろうし、そんなことで褒めたら逆に「当然よ」みたいな顔をするのではないかと感じていた。
 そんななか、ファーストの小田が江川の肩をたたく。
「江川ちゃん、ボールが前より伸びなくなったね」
 悪気はないのだけれど、場の雰囲気を読むのが天才的に苦手な小田が、激励どころか、送球の衰えを指摘した。
「うるせぇ、小田さんの周辺は重力が強いんだよ」
やけになった江川は、自分から始まる打順を思い出し、バットをもってバッターボックスへ向かった。

5732.8/27/2007

小説「ショートストップ」1-4
 ワンストライク・ワンボール。バッターは石井の外角よりの三球目をたたいた。打球は、ぼてぼてのセカンドゴロ。しかし、メンバーの監視に余念のない江川は、一歩目のスタートが少しだけ遅れた。内野手は自分のところにゴロが転がってくるのが速いから、一瞬の躊躇が命取りになる。あろうことか、江川は小学生でも捕れるようなぼてぼてのゴロをはじいた。
 バックアップの大口が、江川を抜けて転がってきたゴロを捕球してピッチャーに返した。その場で大口は仁王立ちしている。
「きみねぇ」
「しょうがない。エラーはつきもの。切り替えて切り替えて」
江川は動じる気配がない。
「はい、ワンナウト一塁。内野ゲッツーね」
股間いじりの大池が、メンバーに声をかける。エラーをしてもゲームは続行している。エラーのたびに落ち込んでいては、次のプレーに集中できない。高校時代に、インターハイで全国大会に出場した経験のある大池は、こういうときにチーム全体の気持ちの動きをじょうずにコントロールする。ただし、彼の競技はバレーボールだったが。

 次のバッターは、ボールをバットの芯でとらえたが、ショート正面のゴロになった。
「ショート、ゲッツゥ」
 ピッチャーの石井が、ゴロを見ながら、ショートの中野に声をかける。中野は、腰を低くかまえて転がってくるボールの正面にからだを移動する。
 ゲッツゥ。きっとget two outsの略語なのだろう。いっぺんにアウトを二つもらおうぜという意味だ。ランナーが一塁にいるときは、内野ゴロのとき、一塁でアウトにする前に、二塁でアウトにしてから、次に一塁もアウトにすることができる。ひとつのプレーで二つのアウトをとることができる。守備側にとっては一石二鳥、攻撃側にとっては悪夢の結果だ。
 野球やソフトボールなどのベースボールは、局面でプレーの選択肢がいくつもある。バッターがどんな打球をどの方向に打つかによって、守備側はそれに応じたプレーをする必要がある。ボールが転がってきてから、さて捕った後はどこに投げようなどと考えていたら、攻撃側にどんどん進塁を許すことになる。
 たとえば、いまのようなワンアウト一塁の場面では、内野手はゴロの場合は、セカンドアウトのダブルプレーを念頭に置いている。もしもゴロではなくライナーだったら、一塁ランナーがうっかり飛び出すかもしれないから、捕球した後ですぐに一塁ランナーを確認する。外野手はポジションによって対応が異なる。ライト前ヒットの場合は、一塁ランナーが三塁まで進塁するかもしれないので、捕球したらすぐに三塁方向に返球する。センターは、飛んでくるボールの方向によって、捕球したら二塁か三塁に返球する。レフトは一塁ランナーが三塁に進塁することはないので、すぐに二塁に返球する。
 守備側の選手が、こういった想定を、あらかじめバッターが打つ前にできているかどうかで、チームの強さが決まる。判断は、すでにバッターが打つ前に確定しておく。しかし、戸崎たちのような素人の集まりのソフトボールでは、往々にして何も考えないでぼーっと守っているひとが多い。だから、江川のように高校時代まで硬式野球を経験してきたひとは、いちいち事前に教えておかなければならない。言われたほうに、そもそも覚えようという意思がないので、江川は試合のたびに何度も同じことを同じひとに教えているのだ。

5731.8/24/2007

小説「ショートストップ」1-3
 「おーい、センター、一歩目が遅いぞー」
 見上げると、飛球が戸崎と陳さんの中間に向かってくる。陳さんは、これはお前のボールあるよと、アイコンタクトを戸崎に送る。
 グローブの縁に鼻毛を並べて暇つぶしをしていた戸崎は、あせって飛球の方向に走り出した。一歩目が遅いと声をかけたセカンドの江川が、そんな戸崎のプレイを見て、ぷっと吹き出している。よろよろしながら、何とかボールの落下点まで行き、戸崎はグローブを差し出した。
 ポン。ボールを捕る音がした。その弾みで、グローブの縁に毛根の接着力でしがみついていた鼻毛は、いっせいにグランドに散る。戸崎は、ボールをさっきまで尻をかいていたミッドフィルダーの大口に投げ返す。
「そんな楽勝のフライを、なにふらふらしながら追っかけてんだぁ。さしずめ、鼻毛でも抜いていたんだろう」
大口の肩越しに、セカンドの江川が大声を出す。守っている野手ばかりでなく、相手チームのメンバーも、戸崎を見て笑う。なかには指差している者もいる。
「うっせぇ、捕ればいいの。何をしていたって。アウトはアウト。はい、みなさんワンナウトォ」
そう言って、戸崎は右手を高く掲げ、人差し指を一本突き出した。
 なんで、江川は俺の鼻毛抜きを知っていたんだろう。
 戸崎は不思議に思った。あいつは、セカンドを守りながら、メンバーの行動をチェックしているのか。やだやだ、やっと係長になってヒラを見下す中年男みたいじゃないか。えーっと江川って、係長だっけ。
「陳さん、さっきのは陳さんの範囲じゃないの」
ライトの陳さんに声をかける。そんなことはないという仕草で、陳さんは左手を横に何度も振る。尻かき大口が振り向いて言う。
「戸崎くん、きみのいたところから3歩しか動いていないのに、なに言ってんの」
 やはり俺の守備範囲だったのか。それにしても捕球しておいてよかった。これで落としてでもいたら、あとで何を言われるかわからない。江川など、鼻毛落球なんてタイトルをつけて、飲み会で10回分はネタとして使うだろう。
 ワンアウトを取って、ランナーはなし。戸崎は、セカンドの江川の動きを観察した。ピッチャーの石井が投球する。投げたときからボールとわかる。バッターは振らない。審判は「ボール」と判定する。
「おいおい、ピッチャー、もう火達磨かぁ」
見方を激励するどころか、批判している。あのえげつなさはだれにもまねできない。その後も、戸崎は江川を観察した。すると、江川は守りながら、投球と投球の合間に、きょろきょろととてもまめに周囲に注意を払っていた。
 あいつは、ああやってネタ探しをしているのか。
 サードを守っている大池に、江川の視線が釘付けになる。戸崎も大池を見る。すると、大池は自分の股間をユニフォームの外からさすっている。男なら経験するだろうが、女にはわからないことがある。それは、股間のブツが何かの弾みで、あらぬ方向を向いてしまってしっくりいかなくなることだ。大池はそれを微調整している。
 石井の二球目はストライクだった。どうだと言わんばかりに、石井は江川を見返した。でも、江川は石井の意思を無視して大池めがけて笑う。
「大池、収まりが悪いのか。それともこんなところで興奮かぁ」
 大池は、決まり悪そうに「あほたれ」とつぶやいた。
 なるほど、江川はああやって監視しているんだな。じゃぁ、俺の鼻毛抜きなんて大喜びのネタだったに違いない。戸崎は、納得した。

5730.8/23/2007

小説「ショートストップ」1-2
 左を見るとライトの陳さんが、ぺっぺっと右手につけたグローブにつばをはいている。グローブは牛革でできているから、乾いてしまう。専用のクリームがあるのだが、試合中に手入れをするわけにはいかない。陳さんのように、つばをはきつけ湿り気を保たせるひとは多い。陳さんは左利きだ。つばがある程度グローブの内側にたまった時点で、左手を拳骨にしてその上からぽんぽんと叩く。革のなかにつばをすりこむのだろう。
 あいつとは握手をしないぞ。
 戸崎は、試合に勝ったときに味方同士で握手するときのことを考えた。
 陳さんは、戸崎よりも10歳以上も年上だ。年齢の割には、日ごろからからだを鍛えているので、体力がある。根っからの練習好きで、自宅の畳の部屋はバットを素振りするときの影響で、何度も畳が擦り切れて、新しい畳と交換しているという。本当は月田という名前があるのだが、だれも月田とは呼ばない。陳さんで通る。
 月田は仕事の関係で、中国や台湾への出張が多い。また、背が低く、目が細く、やや小太りな体格が、マンガに出てくる昔の中国人の姿に似ている。そこでチーム内では、陳さんで通用している。

 坂井は腕の手入れ、陳さんはグローブの手入れ、俺は鼻の手入れ。みんな暇なんだなぁ。
 戸崎の目の前、ちょうどセカンドベースのやや後方に、ミッドフィルダーの大口が守っている。大口は監督をしながら、選手も兼ねている。プロでもアマでもない、働くおとなの趣味みたいなチームに、人数的な余裕はない。
 このソフトボールは、こどもが小学校や中学校に通う親たちの自主的なリーグ戦なので、公式のソフトボールのルールとは違う。本当みたいに9人で守ったら、へばってしまうので、守りの人数を10人にしている。10人目はどこを守ってもいい。そのポジションをミッドフィルダーと呼んでいる。
 大口も戸崎よりも10歳以上年上だが、職場のソフトボールチームや地域のソフトボールチームに入って、週末ごとに、どこかのチームで試合をしている。戸崎は、このチームに入って初めて知ったのだが、高校には男子ソフトボール部という部活があり、全国大会まで開いているという。大口は地方の高校で、その男子ソフトボール部に所属していた。だから、野球もソフトも経験のないメンバーが多いチームのなかでは、本格的なソフトボールを知っている唯一の存在なのだ。
 その大口が、守りながら、尻をかいている。その尻をかいている姿を目の前に見ながら、戸崎は鼻毛を抜いている。
 一週間の仕事で、心身ともに疲れている親父たちが、週末の休日をのんびりすることなく、汗を流して過ごす。
 こどもが学校に通う親たちの集まりだが、年齢層は20歳代から60歳代まで幅広い。小学校のチームは、必然的に若い親父たちが多い。逆に中学校のチームは小学校チームに比べて平均年齢が上がる。こどもが小学校から中学校に進学すると、それにあわせて親父たちも、チームを移籍する。中学校は3年間しかないので、親父たちが在籍できる期間が短い。試合のたびにひと集めに苦労する中学校チームのクレームが実って、中学校チームはこどもが中学校を卒業しても、親父たちはそのままチームに残ることが許された。その結果、中学校チームは、会社組織のような年齢別ヒエラルキーが確立してしまった。
 でも、所詮は親父たちの自主的な集まりだから、年功序列的な支配構造は生じていない。それぞれ、会社での役職に関係なく、また会社同士の利害関係に影響なく、ソフトボールを楽しんでいた。

5729.8/22/2007

小説「ショートストップ」1-1

 戸崎は鼻毛を抜いていた。抜いた鼻毛を左手のグローブの親指が入る外側の部分に並べている。抜いたばかりの鼻毛には、毛根がついていて、じょうずにグローブに置くと、毛根部分が接着剤の役目を果たして、くっついた。さっきから10本は抜いている。長い順に左から並べる。途中で、並びの交換があると、すでに接着してある鼻毛をいったん別の場所に移して、新しい仲間をそこに加えた。何度も並び替えをすると、もうグローブには接着しなくなってしまう。グランドを渡ってくる風が、接着能力のなくなった鼻毛を、外野の芝生に運んでしまう。
 センターには、あまり打球が飛んでこない。戸崎は暇なのだ。そして、思う。
 これが野球なら、もっと集中しなきゃいけないんだろうな。
 野球とソフトボールに、大きな違いがあるかどうかはわからないが、ソフトボールのセンターでは、守っている間の暇つぶしをしていないと、退屈になる。また、鼻毛の手入れをしておけば、仕事をしているときに、相手に悪い印象を与えなくて済む。接待相手との大事な席で、もうすぐ契約成立というときに、にっと微笑んだ鼻の穴から数本の鼻毛が飛び出しただけで、相手の印象が変わることがあるかもしれない。職場の若い女の子と幸運にも食堂で隣り合わせに座ったとき、女の子が浮かべた愛想笑いに呼応して、本気で返した笑顔の鼻の穴から数本の鼻毛が顔を出していたら、女の子は食事を残してでもその場を離れてしまうかもしれない。
 どんなときにもお手入れ、お手入れ。

 右を見るとレフトの坂井がぐるぐると利き腕の右腕を回している。
 打球が飛んできたら捕球した後ですぐに返球する準備をしているのだ。坂井は戸崎よりも5歳以上若い。まだ30歳代後半だ。

 俺もあの頃は、どんな球でも捕ってやると、ピッチャーの投げる一球一球に集中していたな。だから、打球に反応する一歩目の踏み出しが速かった。

 戸崎は、坂井の若さが少しうらやましかった。坂井が、このチームに入って来るまでは、戸崎がレフトを守っていた。戸崎は、高校までずっとレフトを守っていた。だから、レフトの守り方は熟知している。しかし、坂井が入団してきて、戸崎はそれまでセンターを守っていたひとが退団するのにあわせて、ポジションをレフトからセンターにコンバートされたのだ。
 監督の大口は
「レフトもセンターも似たようなもんだから、いいんじゃない」
と、気軽に変更を命令した。
 センターを守ったことのない戸崎は、自分よりも体力も技術も上で、年齢も若い坂井の登場で、レギュラーを失わなかっただけでもラッキーだと思った。いくつになっても、ベースボールでくくられる野球やソフトボールは好きなのだ。こどもたちに教えるひともいるが、自分は教えるよりも、選手でいたいと思った。ベンチから渋い顔をしてこどもに指示を出すよりも、グランドの中で思い切りからだを動かすことのほうが向いているのだ。

(この小説はまったくのフィクションです。特定できそうな情報があっても、作者は個別固有のイメージをもとにはしていません)

5728.8/21/2007

 どこに湘南憧を開校するのか。
 候補はありながら、予算面や受け入れ側の考えで、どこにも決まらなかった。

 わたしたちは、1999年のテストスクール以降、何度も実験的な学校(湘南小学校)を開校している。そのたびに、公共施設をお金を出して借りてきた。この方法ならば、会場に困ることはない。
 しかし、これから毎日開校しようとするフリースクールを、毎回公共施設を借り続けることは、予算的にも物理的にも困難だった。また、教材やこどもの荷物など、常時学校に保管しておきたいものがある。ほかの団体と共用する公共施設では、いつもそれらを持ち帰らなければならない。
 フリースクールをこれから開校しようと思うひとは、自前の土地と建物があれば、それだけで目的の半分以上は達成できたと思って間違いない。

 会場が見つからないで困っていたとき、法人のメンバーのひとり、Mさんが店舗の二階を安価な値段で提供すると英断してくれた。
 Mさんのご両親は、中華料理店を営んでいた。ここの餃子は、とてもジューシーでほかにひけをとらない。以前から何度か店を会合や飲み会に使っていたわたしたちは、店の二階が物置になっていたのを知っていた。その二階は、かつて店のご主人(Mさんの父)が珠算塾を開校していたときに使っていたものだという。いまでは、物置になってしまっていたが、片づければフリースクールとして使うには十分な広さが確保される。
 とてもありがたい申し出だった。断る理由などなかったのだが、問題が二つあった。
 一つ目は、場所が不便なところにあったことだ。電車の駅からはとても歩いて行くことは難しい。バスを使わなければならない。それまで、創り出す会が活動の中心にしていた町を離れ、となり町になってしまった。
 もう一つは、お店に迷惑がかかるのではないかということだ。一階は客席のある中華料理店だ。二階でこどもたちが活動すれば、騒音や震動が伝わってもおかしくない。

 場所の問題は、本当に通う気持ちのあるこどもと保護者ならば、バスを使って登校するだろうと判断した。また、となりの町に開校することで、これまで創り出す会のことを知らなかったひとたちにも情報が伝わり、地元のこどもが入学を希望するかもしれないと思った。
 お店への迷惑は、「ここは静かなところだから、こどもたちの声が響けばにぎやかになっていい」というMさんのご両親の寛大な励ましに、甘えさせていただくことにした。

 メンバーで手分けをして開校に必要な荷物を運び込んだり、部屋の掃除をしたりした。
 湘南憧の本格的な開校にあたっては、創り出す会発足時にかかわった4人の仲間のうち、2人が「自分たちの目指していたものは、不登校のこどもたちのためのフリースクールではない」という理由で活動の中心から離れていった。それまで苦楽をともにしてきた仲間だったので、離れていったことはとても残念だった。
 2004年4月。サクラの花が舞うなか、湘南憧学校は開校した。

5727.8/20/2007

 湘南憧の開校にあたって、こどもの指導や支援を担当する教員の選定は重要だった。
 公募してもよかったのだが、なにも法人のことを知らないひとに、新しい学校のやり方をゼロから説明するのは無駄が多かった。それまで活動にかかわりのあるひとのなかから、条件的に可能な3人の方が立候補してくれた。この3人は、その後、3年後に湘南憧を閉校するまで教員を担当してくれた。

 どこで開校するのかというのも大きな課題だった。こどもたちを集めた活動なので、アパートのような集合住宅だと近隣との関係を悪くしかねない。走り回ったり、騒いだりするかもしれないこどもたち。周囲で日常生活を送るひとには、騒音や震動は迷惑になる。
 藤沢市内の駅の近くに、病院を廃業した古い建物があった。木造二階建ての条件としては文句のない建物だった。小さな庭もあり、ここならこどもたちも教員も時間と空間をゆったり使って、新しい教育活動を展開できるだろうと感じた。しかし、わたしたちには提示された大家からの家賃は用意できなかった。一月分の家賃は用意できても、一年ごとに毎月高額の家賃を用意する目途は立っていなかった。
 自前の建物を持たないで、昼間の教会を使う方法も考えた。関係者の方に会って、事情を説明した。多くの方は、趣旨に賛同してくれたが、信者の同意が必要ということで即答は留保された。後日、信者の方々に説明したところ、どのようなひとたちが集まるのかわからないので、特定のひとのものである教会施設を貸すことはできないという返事だった。日本社会に、フリースクールという存在が、もう少し広く知れ渡っていればと残念に感じた。

 わたしたちは、創り出す会を発足して間もないとき、地元の教育委員会に行って、新しい学校構想を説明した。
 そのときに、
「学校といっても、普通教室が一つか二つあれば十分なので、いまそれぞれの学校に増えている空き教室を貸してもらえないか」
と、頼んだことがある。そのとき、教育委員会の担当者は、いかにも役人らしい口調で応えた。
「学校には、空き教室というものはないんですよ。あれは、余裕教室といって、それぞれの学校の用途に応じて使用しています。また、将来的に児童数が増えたときには、普通教室として使用するので、ほかへの貸し出しはまったく考えていません」と。
 学校の敷居が高いと言われている。学校施設を学校だけのものにしている発想は、こどもが実質的にいない場所にまで及んでいることを痛感した。休みの日の学校施設や長期休暇中の学校施設は、公共施設でありながら、まったく活用されていない。どこのだれだかわからないひとたちに無断で貸し出す制度を求めているのではない。責任ある法人や、所在の確かな個人に対して、使用後の原状復帰や破損事故などの補償などを明確にして、多少の賃料を設定して貸し出すことは、予算の少ない行政には大事な収益事業になると思うのだが。
 ほかへの貸し出しはまったく考えていないと豪語していた行政だが、その後、一部の学校では学童保育所を校内に併設するようになった。校舎の一部を完全に学童保育所にする工事までして、改築していた。きっと多くの予算が投入されたと思う。学童保育も重要なニーズだ。わたしたちの考える新しい学校も、同じぐらい重要な市民のニーズなのに。

5726.8/18/2007

 湘南憧学校の開校にあたって、いくらいまの公教育に問題意識を持っている保護者が増加したとはいえ、自宅近くの公立学校に通っている自分のこどもを転校させてまでフリースクールに入学させる保護者はいないのではないかという考えがあった。日本社会では、フリースクールといえば、不登校のこどもたちが通う学校という認識が強かったからだ。その認識は、いまもあまり変化していないと思う。
 法的な根拠のない湘南憧学校は、フリースクールの範疇に入るけど、創り出す会は不登校のこどものための学校を創ろうとしているわけではないということを、学校説明会を通じて何度も訴えた。しかし、現実的には、やはりすでに不登校になっていたこどもたちが入学することになった。ひとりだけとても意識の高い保護者がいて、公立学校と湘南憧学校と曜日ごとに通う日を分けて、小学校の卒業まで両方の学校に通わせたケースがあった。しかし、そういうケースはその一件だけだった。

 フリースクールの運営は、多くの場合、どこからも援助を受けられない。各種の助成金や補助金は、一回限りのイベントを目的に知っているものが多い。だから、日常的にかかる経費を必要とするフリースクールに対しては、助成金や補助金を受けることができない。湘南憧も、結局、どこからも援助を受けられないなかでの開校だった。援助を受けられない以上、経費の全額を自前で用意しなければならない。わたしたちは、法人の会費と積立金、そしてこどもの授業料を学校経費に充てた。

 湘南に新しい公立学校を創り出す会は、2000年に特定非営利活動法人として、神奈川県から認証されていた。
 それまでの任意団体から、社会的に認められた法人になった。いわゆるNPO法人は、法人税を免除されている。市民活動をするときに、一般のひとたちが法人を作りやすいように考えられている。しかし、本来は支払うべき法人税を免除されているので、毎年法人税の減免申請をしなければならない。そういう事務的なことはあまり知られていない。また、法務局に法人としての登記をしなければならないので、理事の任期が切れるたびに登記のやり直しが必要になる。法的な書類の作成は、素人には難しい。大きな法人は、行政書士を雇って専門に作成しているのだろうが、小さな市民団体にはそんな予算はない。何度も法務局を訪ねて、書き方を教えてもらいながら、書類を作成した。法務局は平日の昼間しか開いていないので、仕事を持ちながら登記事務をするのは、とても大変だ。仕事を休まないとできないのである。そういうことも、法人設立の段階では、詳しく説明はされない。

 法人の設立にともない、それまで4人の教員を中心にして運営していた創り出す会の体制を組織的なものにする必要があった。
 定款を作成し、理事会組織を作った。代表・常任理事・理事による運営体制だ。毎年、前年の活動報告・収支報告・新年度の活動予定・予算計画を作成し、総会を開催した。
 湘南憧は、新しい法人の主たる事業になった。予算のほとんどをひとつの事業に注ぎ込む。法人運営としては特殊な形態だった。でも、ほかの事業に収益が見込めないので、現実的な選択として、そうせざるを得なかった。

5725.8/17/2007

 湘南に新しい公立学校を創り出す会を発足したとき、運営メンバーは同じ小学校に勤務する4人の教員だった。
 1997年10月に最初の会合を開き、以降、毎月一回ずつの定例会を現在まで続けている。ことしの10月で、10周年になる。
 1997年から98年にかけての定例会は、4人の運営メンバーが、参加者に問題提起をして、教育に関する問題や、わたしたちが目指す方向についてともに検討した。いつも、運営メンバーが話題を提供して、参加者が呼応するというスタイルだった。そのうちに、シンポジウムの計画や小冊子作成のアイデアが生まれた。活動の拡大にともなって、4人の運営メンバーでは仕事量をこなすことが大変になった。
 創り出す会は、任意団体だったが、会員制度をとるようにした。年会費を払ったメンバーには、運営に参加してもらい、定例会の運営やシンポジウムの開催などをともに企画し、準備し、実行してもらうようにした。それまでは、受身だったひとのなかには、自分が運営サイドになることで、主体的に動き始めるひとが多くなった。

 1999年の夏、創り出す会は、初めてのサマーキャンプを宿泊スタイルで開校した。
 逗子市にある野外公共施設を使って、30人近くのこどもを集めた。
 その頃までには、創り出す会の活動は、口コミやメディアの力で、教員以外のひとたちにも知られるようになっていた。会員にも、教員以外のひとたちが多く集まり、サマーキャンプは、教員以外のひとたちも含めた運営体制で開校することができた。
 一斉画一の公教育に対して、学校の内外を問わず、多くのひとたちが問題意識を持っていることを自覚した。同時に、創り出す会の活動は、決して公教育に対する批判勢力ではないことも、説明する責任を感じた。自分のこどもが通う学校に不満があったり、こどもの担任に不満があったりして、それを創り出す会の力を使って解決してもらおうとする保護者が参加するようになったからだ。創り出す会の目指すところは、いまの公教育のなかに、少数でいいから、ほかのやり方とは違ったタイプの学校を認可してもらおうというオルタナティブな夢だ。なのに、公教育全体の問題を根本から扱うような期待を寄せられてしまう傾向があったのだ。

 1999年の夏に開校したサマーキャンプ以降、わたしたちは実験的な学校を不定期に開校した。
 週末の土曜日を使ったスタイル。春から夏の休日を使ったスタイル。それらの実験的な学校の経験を経て、2004年4月に月曜から金曜の昼間に開校する本格的な学校をスタートさせた。
 それを、わたしたちの夢を実現する願いをこめて「湘南憧学校」と呼んだ。
 湘南憧学校は、もはや実験的な学校ではなく、創り出す会の目指す新しい学校の姿そのものだった。教師を雇い、雇用関係を結び、毎月、給料を払った。こどもからは授業料を徴収し、日々、教育活動を実践した。学校法人格を取得していなかったので、湘南憧学校は無認可の学校だった。いわゆるフリースクールだ。

5724.8/15/2007

 不登校になったきっかけは「病気以外の本人にかかわる問題(31.2%)」「いじめを除く友人関係(15.6%)」「親子関係(9.3%)」がトップ3だ。
 学業不振や家庭内の不和をきっかけにするケースが増加している。また、いじめが直接的なきっかけというのは、3.2%だった。
 学校基本調査は、こどもや保護者が答える調査ではない。教員が自己申告し、教育委員会が集計する調査だ。身内の問題を、身内自身で正直に報告する前提で成り立っている。だから、調査の開始時点から信憑性は疑問視されている。実数は調査結果よりもはるかに多いことが想像できる。

 不登校が継続するケースが増えている。中学生の不登校者の半数が前年から不登校を継続している。
 不登校を継続する理由は「情緒的混乱(31.7%)」「無気力(24.8%)」「いじめを除く友人関係(11.2%)」の順に続く。いずれも、学習どころではないこころの状態なのだ。

「医師や弁護士、教員などを親にもつ生徒に不登校が多く、親の圧力がつまずきの一因。教師も生徒に向き合う余裕がなく、不登校が増えるのは当然」(サポート校・東京国際学園長)
「通信制高校やサポート校は、対人関係を築くのが苦手な不登校のこどもに目線をあわせて、きめ細かい対応をしている。文部科学省や教育委員会は、なぜこどもが学校に通えなくなったかを考えるべきだ。学校を改革せずに復学だけを求めても根本的な解決にはならない」(NPO法人・不登校情報センター理事長)
……いずれも毎日新聞朝刊2007.8.10より

 いまの公立学校で一般的な授業形態は、一斉画一指導だ。40人のこどもに決められた内容を決められた時間内に教授するには、この方法しかできない。教科によっては、個別課題を複数用意して、個人に応じた学習を工夫することも可能だが、すべての教科をひとりの担任が指導する日本方式では、ほとんどの時間を一斉画一にしないと、年度末までに教授すべき内容をすべて扱うことは困難だ。
 一斉画一指導で伸びるこどもは、集団のなかで教師の言葉を理解し、自分の気持ちよりも集団の意思を感じて、それを尊重するタイプだ。教師が話しているときは、わかっていてもわかっていなくても、手遊びをせずに、黙って聞く。突拍子もない行動はせずに、いつも集団の動きに自分を合わせられる。そんなこどもでないと、伸びようがない。教師は、そういうタイプのこどもを日ごろから高く評価する。自分が高く評価されれば、そのこどもはさらに集団への適応を増していく。終わりなき循環だ。残念ながら、このタイプのこどもは、順応性は高いが、自立心や好奇心が乏しくなってしまう。
 反対に、自立心や好奇心が旺盛なタイプのこどもは、チャイムで区切られる学校的時間のなかで、興味や集中力をぶつ切りにされてしまう。
 わたしは、そういうタイプのこどもが、クラス内で居場所がなくなっていくのをたくさん見てきた。新しい公立学校で、自立心や好奇心が旺盛なこどもたちとともに個性的で躍動的な学習を組み立てて行きたいと思った。

5723.8/13/2007

 文部科学省が昨年度の学校基本調査の速報を発表した。
 それによると、全国の不登校者数(年間に30日以上欠席)は、12万6764人だった。小学生は、2万3842人で、中学生は、10万2940人だった。
 小学校は6年間あり、中学校は半分の3年間なのに、両者には人数で5倍の開きがある。
 その前年度との比較では、4477人増加した。

 学力問題が騒がれ、授業時間数が増加された。ゆとり教育への見直しから、ことしの春には全国一斉の学力テストも実施されている。
 きめ細かい指導という名目のもと、国語や算数ばかりの授業が日々繰り返された結果、学びの主人公のはずのこどもが悲鳴を上げ続けているのだ。国民のためと言いながら、自分たちの考えを強行し続ける政治の世界と、トップダウン方式の教育行政は、どこか似ている。

 割合にすると、小学生の不登校は4.9パーセント、中学生の不登校が3.4パーセント増加した。小学生は、302人に1人が不登校で、中学生は、35人に1人が不登校だ。全体では、85人に1人が不登校という結果が出ている。
 文部科学省は昨年のいじめ問題をからめて「いじめられるぐらいなら不登校になったほうがいいと考える保護者が増えている」と分析しているが、そんな単純なものではないだろう。
 いまのやり方で調査を始めた1991年以降、中学生の不登校の割合が2.86パーセントになったのは過去最高だ。
 35人に1人という数字は、各クラスに1人は不登校のこどもがいるという計算になる。わたしが、新しい公立学校を創る活動を始めたとき、中学生の不登校者数は9万人以下だった。
 全国各地の教育委員会が不登校のこどもたちのために取り組んでいる適応指導教室は、大きな成果を上げていないのではないかと疑いたくなる。もともと、こどもが学校に通わなくなった背景を問題視しないで、こどもが復学することだけをねらったやり方だったので、わたしはあまり期待していなかったが、事態がここまで明らかになったいまも同じやり方しかできないのでは、あまりにも不作為だ。

 文部科学省は「人間関係作りが不得手なこどもが増えているほか、家庭の教育力が低下した」とも公言している。人間関係作りが不得手だと不登校になるのか。家庭の教育力が低下していると不登校になるのか。そういった科学的な裏づけなしに、主観的な判断をしても問題の真相は見えてこない。どちらにせよ、公教育体制にはまったく問題がないのに、こども本人や家族に問題が増加しているから、不登校者が減らないと考えているのだ。
 あくまでも、不登校を病気にしたいらしい。

5722.8/12/2007

 6歳や7歳のこどもが、朝から覇気がなくぼーっとしている。
 週明けの月曜は、クラス全体が週末のストレスでいらいらしている。
 テストを返却すると、保護者から正答に関するクレームが来る。1点や2点の上積みに必死になる。
 修学旅行から帰ってきて、駅の改札口で旅行の荷物を保護者に渡す。反対に塾のかばんを受け取り、その足で塾に向かう。

 かつて、中国大陸に君臨した王朝には、科挙(かきょ)という官吏を登用する制度があった。
 生まれや出自に関係なく、だれもが同じ試験を受けて、官吏になることができる制度だ。一族や知人で権力をかためるのではなく、多くの優秀な人材を活用しようという制度だ。官吏になると、宮廷に仕え、恵まれた待遇と報奨を受けることができた。多くのひとが科挙を受け、少しのひとが合格して官吏になった。
 科挙によって、王朝は未来永劫栄えたか。優秀な官吏を得て、皇帝は世界支配を実現したか。
 歴代の王朝で、もっとも支配区域を広げた「元」には、科挙制度はなかったのだ。

 科挙は、官僚主義を招く。多くの権限が集中した官吏は、皇帝に代わって、社会制度を構築し、維持し、そして腐らせた。

 わたしは、戦後の日本社会の国家試験は、基本的には科挙と同じだと思っている。
 そして、多くの親が偏差値の高い学校に自分のこどもを入学させるために、塾や通信教育に給料の多くを注ぎ込み、小学校や中学校のような初等教育には期待をかけない。高校や大学は受験制度によって存在している。優秀といわれる人材が多く輩出される学校に、多くの受験生が集中する。競争率は上がり、ほんの少しの合格者と多くの浪人を出す。塾や通信教育は、多くの浪人の受け皿になり、そこでも収益をあげる。

 社会生活は、官僚だけで成り立っているわけではい。
 多くのひとが、それぞれのかたちで社会に貢献して成り立っている。その貢献の仕方に序列はない。でも、許認可権限が官僚を頂点とする公務員世界に集中しているので、なにかをしようと思ったら、「お願いします」と頭を下げなければならない。だれかに頭を下げる生き方よりも、だれかに頭を下げさせる生き方をしたい。自分には無理ならば、せめて自分のこどもはそうなってほしい。
 経済的に恵まれた親のなかには、本心ではそう思っているひとが多いのではないかと思う。しかし、いくら金をかけても、かんじんのこどもにやる気が芽生えなければ、受験勉強は力にならない。何度も受験して失敗し、挙句の果てに、姉を殺して切断した歯科医の息子の事件は記憶に新しい。

5721.8/11/2007

 ひとつのクラスに40人のこどもがいれば、同じ学習をしても、理解に差が出るのは当然だ。
 40人が同じように理解を深め、同じように能力を高めていくとしたら、ひとは能力差がなくなってしまう。わたしは、ひとはそれぞれに能力差があるからこそ、互いを大事にすることができると思っている。得意なことは、それぞれに違っていいのだ。能力差は、ひととしての価値の差ではない。そのひとを特徴付けるひとつの要因だ。

 計算が速い。字がきれい。絵がうまい。歌が好き。けんかをしない。笑顔がはじける。工作が得意。読書量が多い。役になりきることができる。花の名前を知っている。動物が好き。

 ひとそれぞれに得意なことや好きなことがある。
 それらは、比べられるものではない。
 しかし、学校的な価値は、それぞれの得意なことを限定し、序列化してしまう。
 小学校では、国語や算数の授業時間数が、20年前に比べてとても増えた。1年生や2年生は、社会と理科がなくなって、多くの時間が国語と算数に振り返られた。反対に、音楽や図工の時間は減らされている。絵がうまいだけでは、だめなのだ。歌が好きなだけでは、高い評価を得られないのだ。

 国語も算数も、とても論理的な思考が必要な教科だ。美術や音楽のような感性や感受性が重要な教科は、学習時間自体が減らされ、こどもにぎゅうぎゅう論理的な思考ばかりが求められている。
 論理的な思考は、少しずつ知っていることを積み上げていき、それぞれの関係性を理解しながら、必要に応じて類推したり、想像したり、実証したりするものの考え方だ。大学の研究室では必要な考え方かもしれないが、情操面での成長が必要な小学生や中学生に強要する必要があるかどうかは科学的に検証しなければいけないと思う。ただし、学校現場にいる者としては、これらの強要は明らかにこどものなかに、学習への意欲を失くしてしまう作用があると感じている。

 1年生の学習に理科があった頃、「氷がとけるとどうなりますか」という問題に、「水になる」と答える多くのこども。しかし、「春になる」と答えるわずかなこどもは、間違っていると言い切れるのか迷った。論理的には氷が解けると水になるが、感性の世界で季節を認識する手立てとして、氷が解けて春になると感じたこどもは、水になると答えたこどもよりも、豊かな内面があるのではないかと思った。
 最近、諸外国のこどもに比べて日本のこどもの学力が低下していると強調するひとがいる。歴史も文化も違う世界各地のこどもたちを、同じ尺度で比べることなどできないと思うのだが。日本のこどもの学力が低下してしまったから、ゆとり教育への反動として、読み書き計算などの基本的な内容を充実させろと叫ぶひとがいる。

 わたしは、20年以上、教職にあって、極端にこどもが新しい学習内容を理解していく力が低下しているとは感じていない。どの時代も、こどもはこどもだと感じている。
 明らかに違うのは、やる気の減退だ。

5720.8/10/2007

 いまの公立学校、とりわけ義務教育諸学校といわれる小学校や中学校に、それまでとは違う新しいタイプの学校を創ろうという市民活動を始めて、ことしでちょうど10年になる。
 1997年10月。小田急線沿線にある小さな公民館で、最初の会合を開いた。
 なぜ、いままでの学校と違う学校を創ろうとしたのか。それは、いまの学校では不可能なことなのか。どうすれば新しい学校を創ることができるのか。
 大きく分けて、その3点について、わたしやいっしょに活動を始めた仲間は、参加者に考えを説明した。最初の参加者は学校の先生が多かった。100人ぐらいに招待状を出し、そのうち30人ぐらいが集まった。

 あれから10年が経過した。
 当時は、いじめや学級崩壊が社会問題化し始めた頃だ。学校は、土曜日が休みになり、総合的な学習の時間が導入された。兵庫県では中学生が小学生の首を切断するという猟奇的な事件が起こった。
 登校拒否と言われていたこどもたちが、不登校という呼び方に変わった。学校になじまないこどもたちの受け皿が、いまほどなかった。
 教科書会社の中には、太平洋戦争を新しい視点でとらえるものを出版するところが出た。東京都を始め、いくつかの自治体では、その教科書を採択した。
 家庭での保護者や同居人による児童虐待が少しずつ増加していた。
 そんなひとつひとつが、大きな問題として新聞やニュースで伝えられていた。

 しかし、10年という時間は、それらを決して珍しいものとして認識させるのではなく、どこでもありうる日常のひとつに変化させてしまっている。
 こどもや法理上「少年」と呼ばれる年齢のひとたちが、猟奇的な殺人事件を起こす事件は連続している。九州では、授業時間中に小学生が同じクラスのこどもをカッターナイフで首を切り殺してしまう事件もあった。
 いじめは日常化し、その結果としての自殺が昨年は連続し、社会問題化した。全国の学校を対象にした一斉の調査も行われたが、根本的な解決策は実施されていない。いじめを誘発する条件が整った学校制度にメスを入れないで、「いじめはいけない」「悩み事は相談して」とお題目のように唱えても、それは「おとなはいじめを放置していない」というメッセージを発信しているだけで、苦しい状態に置かれたこどもたちの日常はなにも変わっていないのだ。
 不登校は、こどもの数が減少しているにもかかわらず、割合としては増加し続けている。中学校でも小学校でも、全国の学校に最低ひとり以上はいる。
 歴史認識の見直しは、政治の世界が右傾化していくことにあわせて、極端に露呈してきた。同盟国のアメリカでさえ、従軍慰安婦問題に関する意見書を採択した。
 児童虐待は、新聞の社会面に載らない日はないのではないかと思うほどだ。病院のなかには、育てられないこどもを引き受ける「赤ちゃんポスト」を設置したところもある。倫理的に問題があると叫ぶ有識者もいるが、現実として虐待環境のなかにこどもを置いてもいいことなどなにもないことをもっとリサーチするべきだ。皮肉にも最初に預けられたこどもは、赤ちゃんではなくもっと大きな幼児だった。

5719.8/9/2007

 足立区では、前年まで最下位だった学校が、一位になった。その年のテストでは、校長の命令で、間違った解答をしているこどもを見つけたときは、監視役の教員が机をコンコンとたたいて、間違えていることを教えていた。また、発達障害などの理由で平均点を大きく下げてしまう可能性のあるこどもたちは、テストを受けさせない措置も実施した。人権侵害も甚だしい。
 新聞でこのことが報じられるまで、ほかの学校の校長たちは、教員たちに「あの学校のようになれ」と躍起になっていたという。だから、ほかの学校でも新聞で取り上げられないだけで、実際には似たようなことが行われていると教えてくれた。

 こどもたちが、学習指導要領に載っているなかみを自分の力としているかどうかは、これだけ学校以外の教育機関が充実した現在では、学校だけの力として数量化するのは無理がある。また、教科書のなかみを理解していることが、学力と直結すると考えるのは短絡的だ。社会生活を営んで行くとき、それぞれの生き方に応じて、必要な知識や技術は異なるはずだ。それを平板化して点数で表し、さらに平均点を出すことは、なんにも意味がない。少なくとも、まったく科学的だとは言いがたい。学校以外の要素が多すぎるテストを実施することによって、その結果を学校での指導とリンクさせているのだ。

 レク学校に参加していた教員の中に、ことしの春に異動になったひとがいた。
 年齢的に、今回の異動が最後の異動になるという。東京のみならず、全国的に団塊の世代に採用した教員は多い。そのひとたちが一斉に退職を迎える前から、行政は退職金を水増しした勧奨退職制度を実施している。もちろん定年まで勤務した方が給料と退職金の合計は多いのだが、定年前に退職するときに受け取る退職金よりはかなり多い金額を上乗せした制度だ。教員のリストラ策だ。
 そのひとは、それに従わないで、定年まで勤務しようと思っている。そうしたら、異動先の学校が、自宅から片道1時間半以上もかかる学校になった。往復3時間だ。もしもいまのわたしが電車やバスを乗りついで1時間半もかなたの学校に異動になるとしたら、三浦半島の先端か、小田原か湯河原、あるいは山北の丹沢山ろくの学校になるだろう。交通費だけでもかなりの金額になる。幸い、わたしが働く県では、基本的に教員の住居地と勤務地は同じか隣接している場所という原則がある。それは、地域社会とのつながりが重要な学校教育で、あまりにも地域の文化や歴史を知らないひとでは、こどもや保護者と考えが合わないだろうという配慮がある。また、教育予算が削減され続けている昨今、毎日の交通費を多額に支出するのは大きな痛手なのだ。
 なぜ、退職までわずかのひとを、そんな遠くの学校に異動させるかというと、通勤の不便さに音をあげさせて退職を考えさせるためだ。若いひとたちならば、遠隔地に勤務が決まったら、学校に近い場所にアパートを借りるかもしれない。しかし、自宅を構えた世代のひとにはそれはできない。長い通勤時間を日々経験させて、勤労意欲を減退させていく作戦なのだ。ちなみに、東京では最長2時間までを通勤圏としているそうだ。もしも、学校に9時まで残ってい仕事をしていたら、帰るのは11時だ。

5718.8/8/2007

 これまでのレク学校では、東京の教員が多く参加していた。東京は、人口が多い。当然、学校も多い。だから、教員も多い。ほかの県のひとたちと同じ割合で、レク学校に参加しても、圧倒的に東京の教員が多くなるのは当然だ。
 その東京の教員たちが、夏休み期間に学校を離れて、レク学校だけでなく民間の研修に参加しにくくなっているという。
 今回、参加しているひとたちや、スタッフとして運営していたひとたちのなかに、東京の教員がいた。そのひとたちに、東京の学校事情を聞いた。

 いまの知事になってから、東京の公立小学校や公立中学校は、教育委員会と校長などの管理職の権限が強化され、教職員が学校運営に意見を言うことなどできなくなったそうだ。数年前からは、校長と教頭が教職員を評価し、その結果が毎月の給料に影響しているという。職員会議では、管理職の意見に反対する者は少なく、4月の始めに学校組織を決めるときも、校長が一方的に考えた組織図が提示され、好むと好まざるとに関係なく、教職員の配置が決定されるのだそうだ。
 だから、夏休みの予定も、一方的に示され、それに反対することができない。
 学校のプールを開放し、集まってくるこどもたちに水泳の指導をするのが教員の仕事になっている。夏休み中、プールは開放されるので、教員たちはローテーションを組んで出勤しなければならない。多くの県でも、夏休みのプールは開放している。しかし、それは学校の仕事ではなく、教育委員会の社会教育を担当するところが実施する。当然、受付や監視などの仕事は教育委員会が担当する。教員が駆り出されることはない。
 個人面談が夏休み中に予定され、各学年、各学級ごとに教室で実施される。担任は休むわけにはいかない。
 また、東京では小学校も前期後期の二期制になっているところが多い。8月27日から授業が始まると言っていた。

 参加者を確保するために、民間教育団体が週末に研修会を企画しても、東京の教員たちはせめて週末ぐらいは心身の休養にあてたいと願うので、研修会には参加しない。よほど意欲と体力があるひとでないと、平日の学校勤務以外にまで家を開けることはしないのだそうだ。

 これだけ、教員たちを学校に勤務させ、こどもたちを学校に登校させる背景には、昨今の学力論議があるという。
 社会問題になった足立区の教員が参加していた。足立区では、全国一斉の学力テスト以前から、足立区単独の学力テストを実施していた。その平均点の上位から優先的に予算を配分する。ふつうは、学力困難なこどもたちが多く通う学校から優先的に予算を配分して、教材や教具を充実させるべきだろう。優勝劣敗式では、格差は是正されず、拡大するばかりだ。

5717.8/6/2007

 全レクは、一年間を通じてレク学校を実施しているが、わたしがかかわれるのは勤務の都合から5月の連休と夏休み期間だけだった。
 5月のレク学校を「春のレク学校」と呼んだ。夏休みのレク学校を「太陽のレク学校」と呼ぶ。どちらも、教員や保育士が多く参加した。あまりにも参加者が増えて、夏休みのレク学校は、日帰りパターンの「サマーレクスクール」、関西を中心にした「関西レク学校」など、開校数を増やした。
 しかし、その太陽のレク学校に、最近異変が起こっている。参加者が集まらないのだ。
 宣伝は5月頃からしているのに、申し込みが伸びない。それでも、いままでは当日までにはなんとか定員ぎりぎりぐらいまでには達していた。最後は、関係者が個人的に連絡をして参加者を募るという人海戦術をした。
 そして、ついに昨年は定員そのものを大幅に絞り込んで開催した。スタッフを含めて定員30人。信じられないぐらい小規模になった。
 ことしも、同じ会場で、同じ定員で企画された。しかし、実際にはスタッフやこどもを含めて25人ぐらいの人数だった。3日間あるうちの2日目や最終日の早朝に帰るひともいて、最後の集いにはとても少ない人数になっていた。

 どうして、10年ぐらい前までは100人規模で推移していたレク学校が急激に参加者を減らしてしまったのか。
 その答えは単純なものではないと思う。
 でも、その答えのひとつとして確実なのが、これまでたくさん参加していた教員や保育士が、夏休みの平日に企画されるレク学校に、参加しにくくなってしまったことがある。学校や保育園によっては、レク学校に参加することを研修として認めてくれるところもある。そこで学んだことが現場で役立つわけだから、業務の一貫として認められるのだ。しかし、ここ数年の流れで、民間教育団体が主催する研修会は、なかなか研修として認められなくなってきている。もしも参加するなら、有給休暇をとって参加しなければならないのだ。
 保育園は夏場も開園しているので、だれかが休暇をとれば、勤務しているひとたちに負担がかかる。研修として参加していた時代は、それを残ったひとたちがバックアップした。しかし、休暇扱いでは迷惑をかけるだけになってしまう。
 学校は夏場はこどもがいないので、休暇をとっても、同僚に迷惑をかけることは少ない。しかし、こどものいない夏場に、個人面談や水泳指導、移動教室などの業務を計画するところが増え、休暇そのものを取れない状況が増えてきているのだ。

 わたしは、レク学校に参加して、遠方の学校事情を聞いたり、すぐれた教育実践をもつ教員に会ったりすることが、レク学校の内容と同じぐらい貴重な経験だった。また、保育士、看護師、学童クラブの先生など、ほかの仕事のひとたちと触れ合ったり、語り合ったりすることも、わたしの気持ちの幅を広げていくために必要なことだった。

5716.8/5/2007

 全レク(全日本レクリエーションリーダー会議)は、31年前に働く人のレクリエーションを目的に掲げて設立された。
 レクリエーションといっても、クルーザーで航海するとか、釣りに行くとか、そういう個人的でお金がかかるものではない。キャンプをしたり、歌を歌ったり、ダンスをしたりする。キャンプのなかでは、つながり遊びをする。日ごろ、忙しいひとたちが集まって、2泊3日の宿泊体験をしながら、互いのつながりを確かめ合い、ひとのなかで生きていく心地よさを再認識する。
 設立当初は、様々な仕事のひとたちが集まっていたそうだ。レク学校で学んだことを、それぞれの生活で役立てることよりも、「生きる力を仲間のなかで」「生きることは手をつなぐこと」「こころとからだの解放」という具体的な目標を体験して、参加者それぞれが気力や体力を充実させることが重要だった。

 参加していたひとたちのなかに、学校や保育園で働くひとたちもいた。
 そのひとたちは、レク学校で扱われるゲームやソング、ダンスが自分たちの仕事でも役立つことを知った。学校や保育園に戻ってから、こどもたちを相手に実践し、同僚たちにも紹介した。その結果、レク学校には、少しずつ学校や保育園で働くひとたちが多く集まるようになった。
 わたしは、小学校に勤務するようになってから、すぐに同僚に誘われてレク学校に参加した。同僚が呼びかけてくれたとき「罰ゲームなし」「あまりを作らない」という考え方に共鳴したからだ。
 とかく、集団遊びやつながり遊びは、対抗して負けると罰ゲームが待っていた。ゲームそのものを楽しみたいのに、負けることはいけないことだとでも教えるかのように、罰ゲームをやらされる。だったら、最初から、そんなゲームには参加しないと思ってしまっていた。

 レクリエーション研修を企画する団体は、全国にほかにもあるが、多くの場合は、罰ゲームが存在している。なかには、罰ゲームばかりを集めたテキストを用意しているところもある。また、2人1組や3人1組の遊びのなかで、ぴったりの人数にならずに、あまってしまうひとがいるときに、そういうひとはゲームに参加しないで待っていてもらうことも多かった。みんなは楽しんでいるのに、自分だけが輪の外で見ているだけというのは、悲しい気持ちになる。
 だから、罰ゲームもあまりも作らないという考え方に、わたしはとても共感を覚えた。

 何回か、レク学校に参加した。そして、いつの頃からか、参加者から講師になっていた。きっと、何度も参加するので、主催者側の目にとまったのだろう。
 最初にレク学校に参加してから、もう20年ぐらいになる。
 200人近い参加者を数えるときもあった。ホテルを借り切って、レク学校を実施したこともある。あまりにも人数が多いので、マイクを使わないと、リーダーの声が参加者に聞こえないこともあった。

5715.8/4/2007

 夏休みに入った。
 もう、昔と違って、教員たちはこどものように自宅研修が認められなくなったので、基本的には出勤しなければならない。
 でも、ふだん有給休暇をとりにくい性質の仕事なので、この時期にまとめて休暇を消化してしまうひとも多い。わたしもそんなひとりだ。
 また、日ごろ、こどもたちと接していく上で、参考になる研修や実践に、午前中や午後、あるいは終日というまとまった時間を使って集中的に参加することも可能になる。教育委員会が企画する研修に参加すると、出張扱いになり、とくに参加した研修の事後報告は必要ない。これに対して、自費で民間教育団体や出版社が企画する研修に参加すると、参加費は自分で払うは、事後にレポートを提出しなければならないはで、けっこう面倒くさい。この区別は、教員が信用されていないことに起因している。教育委員会が企画する研修は、必ず受付があって、だれが参加したかがチェックできる。しかし、民間の研修は人数が数百人規模のものもあり、いちいち参加者全員を把握しないものもある。また、主催者にしても参加費さえ払ってくれれば、途中で抜けても最後までいなくても問題はない。つまり、行政が企画する研修では、参加する教員の管理が可能だが、民間の研修では本当に教員が参加したかどうかの管理が不完全になってしまう。研修計画を提出して、実際にはその場所に行かなかったり、行ってもすぐに帰ってしまったりしても、だれもとがめない。だから、本当に行った証拠として事後報告を提出させる。でも、それだってレジュメをもらえば、適当に作文することは可能なのだが。

 わたしは、教育委員会が企画する研修は、そのまま事前に報告している。しかし、民間教育団体が企画する研修は、報告せずに、休暇をとって参加している。休暇をとって参加しているので、研修に参加した後の報告を提出する義務はない。また、参加者にゲームや歌をリードする講師として招聘されたときは、主催者に校長宛に招請状を送ってもらい、旅費や日当の出ない出張にしてもらっている。つまり、主催者の依頼に基づき、研修会の趣旨を校長が教育上必要と判断し、学校業務に支障をきたさないと認めたら、勤務として、職場を離れることを認めるということだ。
 しかし、校長の命令によって行く出張ではないので、旅費や日当は出ない。わたしは、そもそもそんなものは期待していないので、休暇を減らさないですむだけでもありがたいと思っている。でも、就職したばかりの20年以上前は、研修会の参加者として民間教育団体の研修会に行くときも、参加費や交通費が認められていた。そのことを思うと、教育予算の切捨ては、ここ20年の間でものすごいペースで行われてきたのだ。
 行政改革の名の下に。
 無駄な支出は控えましょう。どこが無駄な支出だというのだ。
 日々の学校内部に、とても公にはできないような無駄な支出は山ほどあるぞと叫びたくなる。

 講師として招請された研修会のひとつ、全日本レクリエーションリーダー会議が主催した「第26回太陽のレクリエーション学校」が、夢の島東京スポーツ文化館で2泊3日で実施された。

5714.8/1/2007

 参議院普通選挙が終わった。民主党が躍進し、自民党が大敗した。衆議院で過半数を占める自民党と公明党の与党は、参議院では過半数を占めることができず、野党が過半数を占める結果になった。
 参議院選挙が近づく前に、与党には逆風になる要素が多かった。「消えた年金」に象徴される社会保険庁の年金記録問題、閣僚の相次ぐ問題発言、政治資金の不透明な流れなどだ。自民党の選挙参謀は、それらの逆風が今回の大敗に結びついたと考えているようだ。しかし、わたしは、そんな単純な問題だとは思わない。
 衆参両院で過半数を占めていた与党による委員会強行採決に見られる数の暴挙は、このひとたちに任せておいていいのかという不安を有権者に抱かせたのではないかと思うのだ。いまの総理大臣になってから、急激に教育関連分野だけを見ても、教育基本法・学校教育法などの改正が行われた。十分な議論を尽くしたというが、最終的には、与野党で歩み寄ることなく、数の暴挙で強行採決した。また、憲法を改正する試みも具体的な段階に突入した。秋の国会では、憲法改正に向けた発議をすると内閣は明言していた。
 政治が確実に、これまでとは違う方向に、変化していくことを、改革と呼ぶのなら、問題になるのは、改革のなかみと、改革を進めていく方法を、有権者が理解し、納得していたかということだ。それらについて、「説明が不足していた」と敗因を語る与党関係者もいた。わたしは、説明そのものは十分にされていたと思うし、改革を強行する方法もメディアを通じて知らされていたと思う。だから、有権者は、いまの改革のなかみと、その方法に対して、支持しなかったと考えている。

 これだけの大敗を喫しても、現在の政権は継続すると言う。それを支持したのは、経営者団体だ。つまり、先の内閣でもそうだったが、競争原理の導入により、広がる格差によって、恵まれた地位と利益を得たのは、一部のひとたちしかいないかったのだ。自民党の中には、いまの総裁に代わる力量をもった人材がいないから、困難な政局をいまの総裁に乗り切ってもらうしかないというひともいる。それは、自分たちが政権与党にいる限り、自分たちの政党の力学で総裁を決め、総理を選出するという論理にほかならない。これでは、有権者や国民が豊かな生活を求める声が届く日は来ない。
 民主党以外の野党は、決して議席を伸ばさなかった。「自民党への逆風が、みんなまとめて民主党に流れた」と分析しているひとがいた。それは違うだろうと思う。民主党以外の野党には、残念ながら具体的な政策や、与党に対抗できる人材が期待されなかったのだ。「確かな野党」と自らを呼んだ政党もあった。与党になる気はないということを鮮明にされては、大事な一票を投じる気にはなれないだろう。

5713.7/31/2007

 山内杜氏の故郷は、秋田県横手市山内地区。人口5千人未満の山村ながら、多くの杜氏を輩出。東北の杜氏集団の中で屈指の技量を誇る。酒造技術が全国的に発展した大正時代中期に「山内杜氏養成組合」を結成。いち早く時代に対応した人材の育成と技術向上に取り組んだ。現在は「山内杜氏組合」に改称し、組合員215名、うち杜氏は36名(2006年度)毎年8月に酒造講習会を開催。組合員の技術向上に励んでいる。

  1944年に、24の酒造家によって発足した秋田酒造は、戦後12の構成員によって新しい銘柄を公募した。5037点の応募の中から、秋田市寺内大小路(通称「桜小路」)に今もこんこんと湧く霊泉「高清水」にちなんだものを選んだ。
 羽州街道を古四王神社から左に大小路を入り、旭日長者の名残の槻木を過ぎると、亀甲山四天王寺東門院の跡が右にあったそうだ。その向かいに「高清水」の泉があり、安置されている観音様に三回合掌するのが決まりとされていた。
 寺内地区は秋田での文化発祥の地だ。「続日本記」の天平5年(733年)の記録に「出羽柵を秋田村高清水岡に遷し置く」とあり、この出羽柵が国指定史跡「秋田城」だ。以来平安末期まで約300年にわたり、当時の日本の最北端の城郭として勢威を示した。最盛期には兵五千、馬千五百の兵力を持ち、出羽の国府も置かれて、多賀城鎮守府(宮城県)と並ぶ東北二大拠点の一つだった。昔阿部比羅夫が秋田の浦に来て古四王神社をこの地に勧請した時、にわかに霊泉が湧いたので「高清水の岡」と称されたとも伝えられている。
 古四王神社からやや西に下った旧羽洲街道沿いに、「高清水」と刻まれた石碑があり、小さなあずまやに守られて、高清水は今なおひそやかに、清らかに湧き出ている。

 硬度35.7。高清水の仕込み水を口にすると、「おいしい、でもフワッとたよりない。」そう言われそうだ。これは、超軟水だ。
 自然の水のおいしさは、飲むときの温度、そして自然に含まれるカルシウム、マグネシウムの分量に左右されると言われる。大まかですが、その一つの目安が「硬度」だ。硬度100を境に、それ以下のものを軟水、それ以上のものが硬水。日本のおいしいといわれる水には、軟水が多い。高清水は、硬度35.7。これが、酒の仕込みにこそふさわしい、やわらかさや、出来上がった酒のやわらかな口あたり、サラリとしたキレをうむ。長期低温発酵といった高清水の造りに添った、やわらかさがある。

5712.7/21/2007

 わたしが大学時代からこよなく愛し、日々の晩酌に欠かせなかった酒は、高清水(たかしみず)という。秋田の酒だ。
 なぜ高清水を好んだのかはわからない。大学時代は、そもそも日本酒を飲む金などなかった。きっと先輩のおごりでつきあううちに、その味に慣れたのだと思う。でも、当時は、ビールにしろ、日本酒にしろ、味わいながら飲むというよりも、喉でごくごくと胃に押し込むような飲み方をしていた。ビールはあまり飲むとトイレに行きたくなるので、もっぱら日本酒をコップでぐいぐいという感じだった。焼酎で、これをやると、アルコール度数が高いので、たちまち酔っ払ってしまう。

 近所の酒屋には高清水が置いてなかった。店主に「高清水を置いてよ」と頼み込み、わざわざ取り寄せてもらった。
「味が淡白だから、この辺のひとにはあわねえんだよなぁ」
最初、半信半疑だった店主は、取り寄せた数本がたちまち売れたので、その後は定期的に補充している。

 羽越本線「秋田駅」の西口に出て、有楽町通りと南有楽町通りを抜け、国道13号線から蓮入院へ向かうと、高清水の蔵元「秋田酒造製造」がある。住所は、秋田県秋田市川元むつみ町4-12、郵便番号は〒010-0934。秋田酒造は、高清水だけで、10種類も販売している。さらに、ワンランク上の「しみずの舞」も製造している。使用している米は、美山錦かキヨニシキ。しみずの舞の酵母はAK-1、高清水は協会6号が主流だ(Ak-1やM-310を使用したものもある)。

 創業は1944年。第二次世界大戦末期に、よくそんなことができたものだと思う。従業員は100人を越える大会社だ。もともと24酒造業者で始めるが、12酒造業者が残り現在に至っている。
 明治の末、農閑期の仕事を求めて農家の男たちが出稼ぎで酒造りをするようになった。彼らは生きるために研鑽に研鑽を重ね、やがて高い技術を誇る山内杜氏として全国に知られるようになる。その人々に受け継がれる伝統の製法が秋田流寒造り。「秋田の酒造りの父」花岡正庸氏が昭和初期に普及させた、長期低温発酵法と呼ばれる製法だ。モロミの最高温度を低く抑え、ゆっくりと発酵させることで「濃醇なめらかで馥郁(ふくいく)たる香気」をもつ秋田ならではの酒を生み出す。寒冷降雪の風土から生まれた製法があり、その独自の技法を今に伝える山内杜氏がいる。高清水は風土と先人の心に学び、秋田の伝統の酒造りを「本社蔵」「御所野蔵」の二つの蔵において守り続けている。

5711.7/19/2007

 山形自動車道の寒河江(さがえ)インターチェンジを降りて、寒河江バイパス(国道112号線)を北上する。羽前高松から国道287号線を山形空港方向に東行し、河北病院で左折し、国道347号線を最上川沿いに北上する。村山市に入り、富波小学校近くに高木酒造(〒995-0208山形県村山市大字富並1826)がある。

 代表者は、高木辰五郎さん。創業は古く、元和元年(1615年)。この蔵には珍しく杜氏がいない。昔からの杜氏さんが急にこの蔵に来れなくなった時に、東京農大で醸造学を 学び、そのまま東京で流通の仕事に携わっていた蔵元の息子さんの高木顕統さんがその後を継ぎ醸造することになった。
 もとは、「天泉朝日鷹」という銘柄を作っていた。そのなかで、とくに古酒にのみ「十四代」という銘柄名をつけていた。この酒を東京に紹介したのは、四谷の酒販店「鈴伝」。その後、地酒専門の居酒屋に口コミで伝わり、現在ではどの店でもひっぱりだこで、入手困難な状況である。

 十四代は、中取りで無濾過の酒。赤磐雄町45%や八反錦50%による純米吟醸酒、播州山田錦35%の大吟醸、美山錦55%の純米など、すべて素晴らしい酒質にもかかわらず低価格である。流通業界で売れる酒の価格帯をよく知っている若き十五代目の挑戦的な価格設定である。

 7月16日の新潟中越沖地震で倒壊した「越の誉」が銘柄の原酒造株式会社。文化11年(1814年)創業の蔵には、昨秋に仕込んだ新酒が熟成されて眠っていた。半年の眠りから覚め、いままさに売り出しというときに、地震が遅い、1万本を越える一升瓶が割れてしまった。損害は1億から2億と言われている。でも、きっと伝統があり、規模の大きな蔵元なので、今回の被害を乗り越え、きっと再建してくれると信じている。
 反対に、高木酒造や小林酒造のように、決して規模が大きくない蔵元が、今回のような被害を受けた場合は、自力での再建はほとんど無理だろう。日々、湿度と温度を管理しながら、時間と手間隙をかけて熟成させた酒が、あっという間に瓶や樽からこぼれ、雑菌の多い空気と混ざり、地面にしみこんでしまったら、また最初からやり直すしかない。

5710.7/18/2007

 最近は、どの酒も純米・純米吟醸・純米大吟醸などランクをわけて、酒の種類を増やす傾向がある。鳳凰美田も同様にいくつかのランクに分かれている。一升瓶で3000円から5000円の幅の価格帯なので、市販の純米酒に比べると高い。
 先日、久しぶりに一石屋に行ったら、鳳凰美田で作った梅酒やゆず酒が置いてあった。
「去年の冬にゆず酒がブレークして、6月にもう一度作った。これが最後の一本だよ」
冬にブレークしたことなど知らなかった。ゆず酒も梅酒も、分類上はリキュールにあたる。日本酒が好きで買いに行ったのに、リキュールをすすめるようになった店主に、いままでとの違いを感じた。
「おいしいかもしれないけど、なんか鳳凰美田がかわいそうだなぁ」
わたしが、そう言ったら、いつもは言葉数の多い店主がうつむいて寡黙になっていた。きっと、本人が一番つらいのだろう。売るためには、酒への信念やこだわりを横において、客のリクエストに応じることも必要だ。

 小林酒造では、発酵すると桃色になる発泡生酒を出して話題を呼ぶなど、酒蔵の古い伝統を守りながらも、新しい酒造りに取り組んでいる。
 しかし、亀ノ尾の収穫では、有志が鎌を手に次々と稲を刈り取る。収穫後の乾燥は、機械を使わずに天日で自然乾燥させる。こうして酒米が出来上がる。手間をかけ、機械に頼らずに、少しの酒を造る。

 新酒の絞り出しも、機械を使わずに手作業で行う。酒米を発酵させてできた「もろみ」を木綿のさらし布に包み、棒を渡したタンクにつるして落ちる雫を集める。時間も手間もかかるが、酒米本来の香りと味が引き出され、口当たりの良い酒ができあがる。

5709.7/17/2007

 わたしは、一石屋(いっこくや)の店主の熱い思いに惹かれて、初めて鳳凰美田を買った。
 仲間に紹介したら、一口含んだだけで、日本酒大好きなひとたちが「うまい」と絶賛した。
 たとえば、鮪の刺身を食べる。しょうゆもわさびもつけないで、鮪だけで食べる。よくかんで、飲んでしまった後に、鳳凰美田を一口含む。口の中に残っていたさっきまでの鮪の味が酒と混ざる。上等な調味料が出来上がったイメージだ。鮪本隊は、すでに胃袋の入口に差し掛かっているかもしれない。それを追いかけるように、上等な調味料を食道に流し込む。舌で味わう料理ではなく、口・喉・食道全体で食べ物と飲み物のよさを感じることができるのだ。

 日本酒の中には、口の中を殺菌しているのかと思うほど、味が強い、自分を主張するものがある。そういう酒は、あまり肴を用意しないで、酒だけを楽しむのに向いている。また、あまりにも飲み心地がよくて「これ、水?」と思うほどさらさらしているものもある。そういう酒は、気をつけないと、量が進んで、酔いがまわる。
 実際は、なかなか肴とあう酒には出逢えない。
 わたしが、日本酒をうまいと感じる基準は、料理との相性だ。料理と酒が出逢って、口の中で合体して、それぞれ別のものだったのが、ひとつになって新しいうまみを生み出したとき、「あーおいしい」と感じるのだ。
 鳳凰美田は、まさにこのタイプの酒だ。

5708.7/16/2007

 鳳凰美田の味は、コクと透明感がとてもマッチしたバランスのよさに凝縮される。
 日本酒を口に含むと、とても水からできているとは思えない米の香りとアルコールの刺激を感じる。ワインのように、原料のぶどうの味は残っていない。かといって、焼酎のようにアルコールの強さが前面に出て来るわけでもない。
「日本酒は、あまり飲まないし、なにがおいしいかもわからない」
ふだん、日本酒を飲まないひとがよく言う。飲まなければ、うまさはわからない。わたしは、ほとんどワインを飲まない。ウイスキーやバーボンにいたっては、まったく飲まない。だから、それらの良し悪しを聞かれても、答えようがない。日本酒に次いでビールや発泡酒はよく飲むが、それらは炭酸の効果で、喉ごしはいいけど、味の違いは、よほど特徴のあるビールでない限り、わからない。
 でも、日本酒は好んで飲むので、多少の味違いは感じることができる。

 日本酒を飲むと悪酔いをすると業務妨害になるようなことをいうひとがいる。
 決してそんなことはない。どんなアルコールも飲む過ぎれば二日酔いにもなるし、悪酔いもする。日本酒に限って、少しの量で酔い方がひどいということは考えにくい。ただし、体質的にあわないひともいると思うので、無理に飲む必要などない。わたしは、日本酒は好きだが、純米酒以外を飲むと、翌日になって頭の隅で鐘がなるようにアルコールが残ることがある。だから、純米酒を選んで飲むようにしている。
 純米酒は、アルコール添加物を入れていない。米と水と麹だけで造った酒だ。実際には乳酸を混入したり、米作りの過程で農薬を使ったりしているかもしれない。だから、純米酒だからといって、自然派思考の上品酒というわけではないだろう。日本酒にまろやかさやコクをつけるために、化学調味料や焼酎を加えると、原材料にアルコール添加物の表示をつけなければいけない。たとえ、焼酎を小さじ一杯入れただけでも、純米酒ではなくなるのだ。
 だから、日本酒の良し悪しや好みを語るときに、純米酒がいいか、それ以外がいいかという区別のつけ方は意味がない。ともに、おいしい酒を目指した杜氏や蔵元のひとたちの結晶であり、実際に飲んでみて、味わいを感じることが大事だと思う。

 また、日本酒を甘口と辛口という言い方で区別するひともいる。甘口には砂糖を、辛口には塩を入れているはずがない。これにも、わたしは意味がないと思う。比較的、口の中に広がる芳醇さが強いと、ひとは甘いと感じる。逆に、喉にすーっとしみこんでいくと、甘くはないので、対照的に辛口と呼んでいるだけなのではないか。

5707.7/15/2007

 台風4号が関東地方に近づいている。せっかくの7月の週末だというのに、身動きが取れない。観光産業は大きな痛手だろう。相手が台風では不満をどこに向ければいいのだろうか。

 そんななか、きのうの土曜日、わたしは知人の結婚式に出席した。
 湘南に新しい公立学校を創り出す会がことしの3月まで3年間運営していたフリースクール「湘南憧学校」で、ずっと教師として活躍してくれたAさんの結婚式だった。大学3年のときから、創り出す会の活動に参加し、卒業と同時に湘南憧学校に赴任した。
 創り出す会は設立した1997年当時は圧倒的に、現職の教師が多かった。新聞やテレビで活動が伝えられると、一般のひとたちも参加するようになった。そのなかには、たくさんの大学生も含まれる。多くは、自分の研究論文の参考として参加する。無事に論文が完成し、卒業すれば、就職で忙しくなる。だから、一時的な接点しか持てない。でもAさんは、大学を卒業後も、創り出す会の活動を継続した。それどころか、フリースクールを開校するにあたって探していた教師に、応募までしてくれた。

 そのAさんが、創り出す会の若いメンバーたちがそれぞれの友人を誘って作ったスポーツサークルに入り、そこで、新郎になる男性と出逢った。創り出す会にAさんが参加していなければ、ふたりの出逢いはなかったかもしれない。創り出す会の活動が大なり小なり出逢いのきっかけになって、結婚したのは、Aさんで3組目になる。新しい公立学校設立は、活動開始から10年も経過するのに、道は険しい。でも、ひととひととの出逢いの場として、結婚するカップルだけは、3組も誕生させてしまった。

 結婚式への招待を受けたとき、主賓としての挨拶を頼まれた。Aさんにしてみれば、わたしは彼女が勤務する学校を経営する法人の社長にあたる。市民活動なので、上司と部下という関係はないのだが、社会的に互いの立場をあえて示すとしたら、社長と教師ということになるのだろう。だから、挨拶を頼まれた。でも、わたしは固辞した。大学時代の研究室の先生が出席すると聞いていたので、お世話になった先生を立ててほしいと断った。結婚式では、なるべく挨拶は少ないほうがいいと思っている。それに、Aさんがわたしたちに世話になったと感じているとしたら、わたしたちはもっと大きな気持ちでAさんには世話になった。とても、祝辞を述べる立場ではないと感じていた。

 土曜日は、少しずつ台風の影響で昼あたりから湘南地方は風が強くなってきた。もしかしたら、延期ということがあるのかなと思うほどだった。茅ヶ崎のイベントホールでの結婚式だった。大船から東海道線で茅ヶ崎に向かうのに、電車が止まってしまったら、行きたくても行けない。出席したくても、出席できないひとがいるかもしれない。だから、日を改めてということがあるのかもしれないと思った。
 でも、時間が迫ってきても連絡はなかった。わたしは、スーツにコートを着て、ブーツを履き、革靴をリュックに入れて家を出た。

5706.7/14/2007

 もうひとつは、酒屋ではない。鎌倉の小町通りにあるやきとり屋「鉄砲串」。ここの鶏は、軍鶏ばかりだ。
 鶏と違い、軍鶏肉は、ぷりぷりしていて、口に含んだときの食感がいい。酒の肴としては、あまりにもぜいたくな食材だ。だから、メニューに「酒」とか「日本酒」としか書いていない銘柄不明の清酒で飲んでしまうのはもったいない。その期待に応じるかのように、鉄砲串には、全国の地酒のうち厳選された銘酒が並んでいる。よくこれだけ、贅を尽くした品揃えが可能になると驚くほどだ。
 そのなかに鳳凰美田がある。

 わたしは、たくさん頼んで冷たくなったものを食べるのは嫌いなので、居酒屋でも、なにかを食べ終わってから次を頼むようにしている。鉄砲串では、そういう追加型の注文をすると、なぜか女将がいやな顔をする。また、いろいろな部分を食べたいので、焼き鳥屋で一般的な二本ずつという頼み方はしない。値段は一串単位なのに、頼むときには二本以上からなんていう暗黙のルールは無視する。すると「一本ですか。うちでは二本からにしてもらっているんですけど」と明らかにいやな顔をされる。
 店内のどこを見ても、注文は二本からなんて札は書かれていない。それに、ふつうの鶏肉よりも値段が高い軍鶏を、どんどん二本ずつ頼んで、帰りに財布が空っぽになっていた若いカップルを見たことがある。

 一石屋も鉄砲串も、鳳凰美田に出会えるから顔を出すが、鳳凰美田がなかったら、積極的には行かないかもしれない。
 地酒はほかにもおいている酒屋が増えた。軍鶏は、築地で川俣軍鶏を直接買ったほうが、ずっと安いしおいしいのだ。

 鳳凰美田という名前は珍しい。酒蔵のある地域は、昔、美田(みた)と呼ばれていたことから、地元の名前と、創業当初から使っていた「鳳凰金賞」の鳳凰を取って、鳳凰美田(ほうおうびでん)となったそうだ。
 創業当時は、新潟県の越後杜氏だったが、その後、岩手南部杜氏に変わり、現在では、関東で唯一の秋田山内杜氏である。
 酒米には、幻と言われている「亀ノ尾」を使用している。栃木県の食品工業指導所が開発した酵母を使い、オリジナルの純米酒を造るなど、原料にも独自のこだわりを持っている。

5705.7/13/2007

 東北自動車道の佐野藤岡インターチェンジを降りて、佐野バイパス(国道50号線)を北東方向に進む。途中から、岩舟小山バイパスと名前が変わる頃、道の駅「思川」の手前に小林酒造株式会社がある。郵便番号は323-0061、住所は栃木県小山市大字卆島743-1。

 この会社は、亀ノ尾という日本酒用の米を使っている。現在は、ほとんど使われなくなった幻の米だ。その米を、地元の酒小売店や全国の地酒製造業者、愛飲家達が地元の契約農家の協力を得て、田植えから稲刈りまで自分たちで取組んでいる。春の田植えには、全国から300人以上が集まり盛大に行われる。

 小林酒造の創業は明治5年。栃木県小山市にあり、130年の歴史を持つ酒蔵である。戦時中から戦後にかけての10年間は、政府による酒造り強制廃止のため休業に追い込まれたが、昭和29年に復活し、再スタートした。現在の小林甚一郎社長は4代目当主にあたる。
 この蔵元を有名にした銘酒は「鳳凰美田(ほうおうびでん)」という。

 わたしが知っている店の中で、鳳凰美田を置いている店は2つしかない。
 ひとつは、中華街の山下公園側にある酒屋「一石屋」。店主がこだわりのひとで、酒にかかわる話が始まると、なかなか終わらない。とくに、鳳凰美田の話になると、ご自身が田植えをしているので、その体験話を何度も聞かなければならなくなる。
「最近では、集まったひとたちに、お茶を出したり、おにぎりを作ったりしてるんだけどね」
 体験話の最後に、追伸がつく。この追伸は、店主の自慢だ。自分は、全国から集まるひとたちと違い、集まったひとたちを世話する立場の人間なんだという思い入れなのだ。でも、蔵元の人間ではないから、それだけ、何度も亀ノ尾作りを経験してきたと胸を張りたいのだろう。また、ほかの酒屋と違い、米から知っていることをわかってほしいのかもしれない。

5704.7/12/2007

 麹の持つ様々な酵素と純粋に育てられた清酒酵母が活躍するのが、酒造りの中心になる醪(もろみ)の工程だ。

 醪の中では、酵素の力で蒸米のデンプンがブドウ糖に分解されるだけでなく、各種アミノ酸、ペプチド、有機酸などが生成される。そして清酒酵母はアルコール発酵を中心に様々な香味成分を造り出していく。
 また麹の役割は米の糖化、分解だけにとどまらず、清酒の香気生成に微妙に関わり、さらに清酒に「まるみ」をつけることもある。生もとにおける発酵過程で生成された種々の成分とあいまって、ゴク味のある調和のとれた味が造り出される。

 清酒の醪仕込は三段仕込といって、酒母に麹、蒸米、宮水を「添(そえ)」「仲(なか)」「留(とめ)」の3回に分けて仕込む。仕込に用いる麹、蒸米、宮水の分量は、前の仕込時の約2倍量となるよう加えていく。この操作は、雑菌による汚染を防ぎ、また、4-5%のアルコール濃度で酵母を繁殖させることにより、酵母にアルコールに対する耐性(強さ)を付与する。

 15℃前後に保たれた醪は、表面の泡の状態を様々に変化させながら、14-20日間で熟成醪となり上槽(じょうそう:圧搾)される。熟成醪のアルコールは19%近くにもなっている。熟成醪は圧搾機に入れて液体部分(新酒)と固形部分(酒粕)に分離する。その後不溶性のタンパク質、デンプン等を沈殿させて滓引き(おりびき)を行う。
 滓を取り去って清澄した酒は濾過(ろか)した後、殺菌と残存酵素を破壊するため、約65℃で火入れされ、熟成のためタンク内で約半年間の眠りにつく。

 毎年、6月ごろ新酒が出回る。なかには、夏を越してから出荷されるものもある。それぞれの酒に応じて、酒の質がもっともいい状態になる時期があるのだ。

5703.7/11/2007

 酒造りにおいて、健全かつ順調にアルコール発酵を行わせるためには、無数の純粋な清酒酵母と、酒造りの初期に雑菌の繁殖を抑えることのできる多量の乳酸が必要になる。その目的のために酒母(しゅぼ:もとともいう)が造らる。
 酒母は乳酸を得る方法によって生もと系酒母と速醸系酒母に分かれる。

 既製の乳酸を添加し7〜10日間で造る速醸系酒母に比べ、生もと系酒母は操作が煩雑で難しく、日数も倍以上かかる。

 生もとは乳酸菌など様々な微生物のバランスのとれた働きにより、自然に乳酸が蓄積し、雑菌が淘汰され、多量の清酒酵母が純粋培養される。また、アミノ酸やペプチド(アミノ酸が連なった状態)の多い、コクのあるお酒を造るのに適した酒母だといえる。
 さらに、生もとで育った酵母を用いてもろみを仕込んだ場合、発酵はもろみ末期になっても衰えにくく、このような発酵の経過は、辛口のお酒造りに適している。また、もろみ末期の、アルコールが非常に多い環境下でも酵母が死滅しにくく、雑味成分の少ないスッキリしたお酒になる。

 最近は、わざわざ製品の宣伝に「生もと作り」をうたっているものが多い。わざわざ宣伝にしているということは、そうではない日本酒は、既成の乳酸を添加しているということだ。どんなモノ作りも、自然界のものを使うには、それなりの時間と手間が必要だ。
 わたしは、ピザ生地を国産の添加物なしの小麦粉で作るが、発酵に使うイースト菌はドライイーストだ。生きている生のイーストを使ったり、自然酵母を使ったりするには、製品の管理や手間隙がかかりすぎてしまう。

 あまり日本酒を飲まないひとは、ぜひ「生もと作り」とそうでない酒があったら、飲み比べてほしい。明らかな違いがわかったら、その後の人生に日本酒が加わること間違いない。

5702.7/10/2007

  「一麹、二もと、三造り」といわれるように、酒造りで最も大切なものの一つが麹(こうじ)だ。

 麹はカビの一種である黄麹菌(きこうじきん)を蒸米の表面から中心部分へと繁殖させたもので、デンプン分解酵素、タンパク質分解酵素、脂肪分解酵素など、様々な酵素の供給源として用いるが、特に重要なのはデンプン分解酵素であるアミラーゼで、米のデンプンを分解しブドウ糖に変える働きを持つ。そのブドウ糖を清酒酵母が利用してアルコール発酵を行う。
 また、麹菌が生育する過程で様々な成分を麹内に蓄える。これらの成分は醪(もろみ)中に溶け出して、清酒酵母の栄養源となるだけでなく、お酒の旨味成分として酒質に大きな影響を与える。

 麹はまず、約30℃に冷却された蒸米に「もやし」と呼ばれる麹菌の胞子を均一に振りかけ、温度、湿度を最適に調整した麹室(こうじむろ:単に「むろ」ともいう)に取り込む。麹菌が繁殖しだすと、自らの発する熱のため、次第に麹の周囲の温度は上昇していく。そのままにしておくと、過発酵によって、麹の繁殖が止まってしまうので、「切返し(きりかえし:麹の繁殖した蒸米の堆積を、手でほぐす)」という操作により温度コントロールを行う。現在では機械により温度コントロールする自動製麹(じどうせいきく)も行われている。

 できあがった麹は酒質に大きな影響を与えるため、純白で香りが良く、乾燥していてさばけの良い、ふんわりとした総破精(そうはぜ)、もしくは突き破精(つきはぜ)のもので、使用目的に合致した良い品質のものでなければならない。
 破精(はぜ)とは、麹菌が蒸米に繁殖した状態、広がりを破精まわり、米粒の中心へ菌糸が入り込むのを破精込みという。
 総破精(そうはぜ)とは、米粒全体に破精が回り、かつ破精込みの深いものをいう。
 突き破精(つきはぜ)とは、米粒表面に斑点状にはぜていて、中心に向かってよく破精込んでいるものをいう。

5701.7/7/2007

 ここで、もっとも標準的な日本酒の作り方を説明する。

 精米→洗米・浸漬・水切り・蒸きょう・放冷→麹→酒母→醪→上槽・滓引き・火入れ。

 まずは、精米。
 玄米の外側には、タンパク質、脂肪、無機質などが多く含まれている。これらが必要以上に多いと清酒の味、香り、色に悪い影響を与え、酒の質を劣化させてしまう。ご飯として食べるには玄米は栄養価が高くていいのだが、日本酒にするには不要な部分は削ってしまう。
 酒造りでは、玄米の外側を25〜50%削り取って(精米(せいまい))磨き上げた白米を用いる。
 精米作業は、精米機の金剛ロールの回転数、抵抗等を調節して胚芽や溝が残らないように、しかも玄米と同じ原形に近い形に仕上がるように6時間以上もかけて注意深く行う。これを原形精米というそうだ。

 買っても、店で頼んでも高い、いわゆる大吟醸クラスの酒に用いる白米は、50%以上精米されているため、精米作業も2-3昼夜以上かかる場合がある。なお、削り取られた部分は赤糠(あかぬか)、中糠(なかぬか)、白糠(しろぬか)、そして胚芽に分けられ、これらは他の食品工業の原料や飼料として利用される。無駄にはしないのだ。

 玄米を精米することによって得られた白米は、蒸してから酒造りに使う。その前に水洗いして、表面の糠(ぬか)やゴミなどを取り除く。この工程を洗米(せんまい)と呼ぶ。
 洗米後は白米をただちに浸漬(しんせき)タンクに移して新しい水を加え、水に漬けて吸水させる(これを浸漬という)。浸漬時間は米の種類、性質、使用目的によって異なる。そして、一定時間浸漬した後、浸漬タンクから水を排出し、水切りをする。

 水分を含んだ白米を蒸気で蒸す操作が蒸きょう(じょうきょう)だ。このシーンは、よく酒造りの番組で放映に使われる。蒸すことで米粒内のデンプン組織が壊れて麹菌の繁殖が容易になり、また酵素の作用を受けやすく、溶けやすくなる。同時に白米の殺菌も兼ねている。なにしろ、糖質のかたまりになっている白米だから、油断すると腐ってしまう。これによってできた蒸された米、すなわち蒸米(むしまい)の良否は以後の工程、ひいては酒質に大きな影響を与えるため、さばけの良い(粘り気や糊気のないさらっとした)、外硬内軟の良い蒸米に仕上げることが大切だ。
 蒸し上げられた米は、麹用、酒母用、掛米(かけまい:直接もろみに使われる米)用と、それぞれの使用目的に応じた温度にまで冷まされる(放冷(ほうれい))。昔はむしろ等に広げ外気で自然冷却したが、現在ではベルトコンベア式の蒸米放冷機が広く用いられている。

5700.7/7/2007

 日本酒に興味がある。
 もともと、秋田の高清水という日本酒ばかりを飲んでいた。近所の酒屋で一升瓶を買い、だいたい一週間から十日ぐらいで飲み干した。晩酌は、ビールや焼酎ではなく、日本酒だ。冷酒にすると、多くの酒がうまく感じるので、わたしはあまり冷蔵庫では冷さない。でも、買うときは、サーバーのある酒屋を選ぶ。火入れをして酵母の発酵を抑制しているとはいえ、蔵元を出荷した状態を保つ酒の並べ方をしている店だと、店主のこだわりが伝わってきて嬉しくなるのだ。一度、封切した酒は、酸素が入るので、冷蔵しても酸化は進む。なるべく早めに飲み干すのが、酒を作った人たちへの礼儀と、自分に言い訳をして飲んでしまう。

 しかし、そんな生活を何十年も続けていたら、沈黙の臓器である肝臓が悲鳴を上げた。人間ドックで肝臓の数値に異常が出たのだ。
 それ以来、あまり一升瓶で酒を買うことはなくなった。また、無理に飲み干さないで、ビールや梅酒に変えることも覚えた。ただ、酒を飲まない日は少ないので、肝臓の数値はあまり変化はないのだが。
 居酒屋や料亭でも「とりあえずビール」はしない。ビールが飲みたいときは、夏場に多い。そんなときは、一杯だけ、本当にビールが飲みたくて飲むようにしている。その後で一合から二合の日本酒に切り替えるのだが。

 日本酒は、きれいな水とうまい米がなければ作れない。日本の風土が生んだ世界に自慢できる酒だ。
 どんな酒も製造するのは難しい。日本酒も複雑な工程を経る。

 日本酒(清酒)は酒税法では「米、米麹と水とを原料として発酵させて、こしたもの」と定義されているこの定義から言うと、アルコール添加物を加えている純米酒以外の酒は、厳密には日本酒とは呼べなくなるのだろうか。わたしは、好んで純米酒を飲むので、法律に即した日本酒を飲んでいることになる。
 この定義をもう少し具体的に言うと「米と水を原料として、米が麹で糖化され、ブドウ糖ができる。ブドウ糖は、清酒酵母による発酵でアルコールになる。これら糖化と発酵という二つの作用が一つのタンク内でバランス良く進行していき、世界に類の無い高濃度のアルコールを生成させ得る醸造方法によって造られるお酒」が日本酒だ。