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5699.7/6/2007

 何かをされても「ありがとう」ができないのでは、支援者は遠ざかる。わざとではなくても、ひとを傷つけたり、いやな気持ちにさせたりしたときに、「ごめんなさい」ができないのでは、友人はできない。
 ありがとうやごめんなさいの気持ちはあっても、それをなんて言えばいいのかわからない。言葉の使い方がうまくできない。言語の発達が遅れている。あごや口腔がうまく機能しない。さまざまな理由で、声に出しての気持ちが伝えられないケースは少なくないだろう。そんなこどもには、小さいときから、無理に声に出して気持ちを伝えることを強制するよりも、声に出す以外の方法を学ばせることが必要だと思う。フリースクールで出会ったこどもは、スタッフの発案で、筆談を覚え、意思の疎通の多くを文字を介してできるようになった。

 それにしても、親はなぜわが子に過度の期待をかけるのだろう。自分がこどもだったときを思い出し、どんなことが好きだったかとか、なにがいやだったかを整理してみれば、わが子にもっと任せていいことがあることに気づくと思う。
 こどもは親の分身ではない。また親がかなえられなかった夢を実現するハクション大魔王でもない。
 未熟なうちは、親の日常生活を奪う手がかかる存在だ。それまでできたプライベートなことをしばらくやれなくなるやっかいな存在だ。そういう学習をしていない親は、パチンコ屋の駐車場にこどもを残し、自分は遊びまくる。

 野生動物を思う。ヒトみたいに親が長期間育児に手をかける動物はいない。
 そして、こどもの生活に介入しすぎる動物もいない。放っておけばいい場面で手を出しすぎると、こどもは楽を覚え、巣立ちを拒むようになる。いまの日本社会で20才になっても30才をこえても定職につかず、親の世話になっている若者が多いのは、何十年も前からの家庭生活を振り返ってみる必要がある。きっと、その若者だけの責任ではないなにかが隠されているだろう。

5698.7/5/2007

 本人の努力では、どうにもならないことを、教師が強制するとき、こどもはストレスをためて、様々な行動を起こし、内面の苦しさを表現する。
 それぞれに表す症状は違う。表し方によって精神医学の世界では行為名や病名をつけている。でも、そんなことを知識として覚えても、こどもの苦しみを和らげることにはつながらない。科学的な分析は研究室では必要かもしれない。でも学校というひととひととが相互作用で伸びていく生活の場では、強迫神経症とか自傷とか多動とかLDとか言っていても、なにもこどもの現実を変えていく力にはならないのだ。

 目の前のこどもが、なにをキャッチし、なにを伝えようとしているのかを教師をはじめとする学校関係者が一丸になってとらえていかなければならない。
 教師が一方的に伝えようとしていることを、こどもが受け止めないだけで、こどもに問題があるかのようなとらえ方をしていては、こどもの苦しみは増大していく。それは、学校だけの問題ではなく、家庭でも同じだ。最近の虐待事件では、しつけのために暴力を振るう親が増加している。自分がしつけようとしても、思い通りにならないとき、暴力という手段で従わせようとしてしまうのだろう。仮に、それで親の言うとおりの行動をしたとしても、それはしつけが成功したのではなく、暴力を振るう親への恐怖心から追従しているだけのことなのだ。

 暴力や放任、冷たい態度や育児放棄を幼年期に受けたこどもは、親を含むおとなの顔色をうかがって生きるようになってしまう。
 たえずおとなの顔色を見ながら、このひとならどこまで許すだろうかと判断しながら、自我を小出しにしてゆく。そうやって生き抜かないと、自分の置かれた状況が崩れてしまうのだ。そうやって育ったこどもは、学齢に達しても、おとなの顔色を見ながら行動する生活スタイルから脱することができなくなる。
 中学生や高校生になっても、パパ・ママの言いなりになり、学校での失敗が家庭に知られることを極端に避けようとする。

 わたしは、いまの学校に異動して、特学の現場で教員生活をするまでは、学校の目的は、社会でひとりで生きてゆく力をつけることだと思っていた。しかし、将来にわたってなんらかの社会的支援が必要なこどもたちに出逢ってからは、その思いは小さくなった。
 社会でひとりで生きてゆけるこどもは、実際にはそんなにはいない。多くのひとが、周囲の支えを受けながら生きているのだ。家族や友人、恩師や取引先のひと、近所や親戚との関係のなかで生きているのだ。だから、いまは学校の目的は、多くのひとに愛されるひとを育てることだと思うようになった。多くのひとに愛されるひとは、感謝や陳謝、挨拶や返事、整理や準備が、そのひとなりの力でできる必要がある。

5697.7/4/2007

 だいたい、おとなになったら、だれとでも仲良くしているとでもいうのか。だれに対しても、愛想良く振る舞い、だれからも、いいひとだと褒められる生き方は、よほど自分を律しているわずかなひとだけしかできないと思う。

 それよりも、やりたいことを主張し続けないで、ひとと折り合いをつけているでしょうか?とか、いやなことを「いや」と言えているでしょうか?とか、「やめて」とひとに言われたら、やめているでしょうか?など、ひととの関係性を崩さない生き方に注目したほうが、ずっとこどもの本質に近づくだろう。

 こどもの本質といえば、特学で仕事をしているせいか、通常級の教員から障害について質問されることが多い。
 どうして、そんなことを質問するのかと聞くと、多くの場合は、そのひとが担任しているクラスに、とても扱いが難しいこどもがいて、手を焼いていると教えてくれる。
 一般的に、発達障害と呼ばれるものは、生まれながらにしてもっている器質的なもので、保護者からその申し出がない限り、安易に障害と扱いの難しさを結び付けてはいけないことを説明する。そうしないと、自分の手に負えないこどもは、みんな障害児と考えるようになってしまうからだ。
 ただし、だいたいの説明で、自閉的な傾向が強いとか、多動性が顕著だとか、知的発達が定型外だとか、経験上見えるものがある。そんなときは、かんたんな特学のノウハウを教え、クラスで試してもらう。それでも変化はありませんでしたという場合と、とても効果がありましたという場合と、答えは様々だ。効果があった場合に限り、年齢相応の学力がついているかどうかを確認する。知的発達の遅れは、本人には責任がないことだ。なのに、難しいことを学ばなければならない環境に置かれれば、どうしていいかわからなくなり、集団からの逸脱行動で気持ちを表してもおかしくないからだ。

 最近の相談で、確実にいるのが、器質的な障害の特徴は見られないけど、言動やひととの関係性に異常を感じるというケースだ。こういうケースは、ほぼまちがいなく、ストレスなどの原因で、こころが疲れ、苦しんでいることが多い。つまり、こころの病気だ。病気は適切な治療によって回復する。しかし、こころの病気は、薬を飲んではい治るという類のものではないので、病気の原因が取り除かれたり、変化したりしないと、完全な回復へ向かうのは難しい。
 また、かつてのストレスや、衝撃的な経験が、何年も経過してから、よみがえってきて、こころを苦しめるということもある。いまは、病気の原因は取り除かれているのに、昔の記憶が、こころを苦しめるのだ。

5696.7/3/2007

 レゴやブロックなど、自分の気持ちを込めて、家や恐竜などを組み立てていたこどもは、それを壊すのがいやで、こっそり棚や机のなかに隠してしまう。おはじきやピンポン玉など、アイテムが気に入って、こっそりポケットにしまってしまう。そうやって、少しずつ、自分のものにしてしまう。気持ちはわかるが、そういうことは社会的には許されない。やがて、こどもが成長して、家以外の場所で社会に貢献する活動をしていくときに、社会的に許されない行動をしないように、小学生のうちから教えておく。

 こういう繰り返しは、こどものなかに確実に自他の区別を学ばせていく。
 毎年、同じことを繰り返す。学年が進むに連れて、年齢の上のこどもは確実にそのことを理解していく。新入生や転入生は、周囲の模範になるこどもの動きから、特学の遊び道具を自分のものにしてはいけないことを学んでいく。

 遊びのなかで、こどもたちが学ぶことは、ほかにもある。
 それは、関係性だ。いっしょに同じ遊びをするときに、どういうことに気をつければ、良好な関係で同じ遊びを維持できるかを具体的に教えなければならない。
「自分のやりたいように遊びたいひとは、ひとりで遊ぶことを考えてください。ひとりで遊んでいるときには、自分のやりたいことができます。だから、ひとりで遊ぶことは悪いことではありません。休み時間だから、楽しいひとり遊びをするのは、いいことです。また、だれかといっしょに遊びたいひとは、我慢することを覚えてください。だれかといっしょに遊ぶということは、自分のやりたいようにできないということです。だから、いっしょに遊ぶひとにあわせて、自分の気持ちを我慢することがたくさんあります。我慢できないと、けんかになります。けんかをしたら、休み時間がつまらないものになってしまいます」

 よく「友だちと仲良くしよう」と教師も親もこどもに言う。
 でも、この言葉は、どういうことをすればいいのかは伝えていない。だから、具体的なイメージがわきにくい。
 そもそも友だちってどういうひとのことで、そのひととどういうことをすれば、仲良くしたことになるのか。
 でも、多くのこどもは、わけがわかっても、わからなくても、「はい」とうなずく。「そんなのいやでーす。仲良くなんかしませーん」と答えたら、リスクが大きいことを、なんとなく知っているのだろう。その場しのぎの答えしかできないから、ケンカはなくならない。
 だから、「ひとといっしょに何かをするときは、我慢をしなさい」と教えたほうが、ずっと具体的だ。にもかかわらず、「うちのこは、友だちと仲良くしているでしょうか」と聞いてくる親は少なくない。わたしの考えでは、ひとといっしょにいて、我慢し続けているでしょうか?と聞いているように感じてしまう。我慢を強いられる日常は、きっとこころが苦しいものだろう。そんなことを願っているのでは、こどもの本質に迫ることはできない。

5695.7/2/2007

 「これから休み時間が始まります」
2時間目の音楽が終わり、20分間の休み時間が始まろうとしている。わたしは3つある特学の教室のひとつ、プレイルームにこどもを集める。

「なにをして遊ぶかを聞く前に大事な話をします」
特学ではこどもが登校してから下校するまで教員や介助員などのおとなが支援や指導にあたる。
 通常級では、授業と授業の間の休み時間は、こどもだけの時間になることが多い。その時間を使って、印刷物を印刷したり、保護者への電話連絡をしたりする。教室を離れる時間ができる。職員室に立ち寄って、お茶を一杯飲むと言うことも可能だ。しかし、特学では、そういうルーズな時間こそ、もっとも配慮が必要な時間になる。学習時間ならば、それぞれのこどもの担当が決まっていて、やるべきことがはっきりしている。ところが、休み時間は、こどもが自分のやりたいことをする時間なので、おとなの配置は特定していない。そのため、こどもどうしで、モノの貸し借りや、ぶった・ぶたないなどのトラブルが起こりやすい。それを回避するのではなく、トラブルが大きくなりすぎないようなアドバイスが有効になる。

 休み時間の前に、一人ずつなにをして遊ぶのかを聞く。
 こどもが、何をして遊べばいいのかがわからないからではない。それぞれがどんなことを考えているのかをはっきりとさせ、教員や介助員などのスタッフが、休み時間の配置を考えるためだ。また、こどもどうしの関係性もあるので、同じ遊びで競合しないように配慮する必要もある。

 特学のこどもに限らず、小学生の多くは、自他の区別がつかないこどもが多い。
 学校のものも、家のものも、どれが自分のもので、どれが自分のものではないかが区別できないケースが多い。また、自分のものではないとわかっていても、自分のものにしたくなってしまう気持ちが強い。
 特学には、ブロックや積木、スケッチブックやおはじきなど、こどもたちが休み時間に使えるアイテムがたくさん用意してある。休み時間が終わっても、それらのアイテムから気持ちが切り替えられないで、学習へ向かえないことがあるほどだ。だから、ものの所有についても、遊びの時間を通して指導する。
「これは、あなたのものではない。だから、使い終わったら、元に戻して、次のひとが使えるようにしなければならない」
 そこには、選択肢も猶予もない。自分のものではないものは、ほかの多くのひとと共有しているという社会の約束を経験から学ばせる必要があるのだ。

5694.6/30/2007

 ムラ社会には、内部告発を密告と呼び、どちらかというと否定的な行いとして嫌う傾向がある。悪いこととはわかっていても、目をつぶるしかないじゃないかという暗黙の了解がある。その暗黙の了解に立ち向かうひとたちの登場が、よのなかを変えていくのだ。

 民間企業で働く多くのひとたちが、談合について、仕方がないという。
 もしも、完全に談合のない入札が行われたら、質の低下を呼ぶほどの安価な値段を示した会社ばかりが仕事を独占するようになるからだという。入札をする役所の人間に専門的な知識はほとんどなく、企画書を見ても、完成イメージがわくことは少ない。そういうひとたちは、一円でも安い値段を示した会社を選んでしまうのだそうだ。
 だから、談合自体は仕方がないにせよ、談合をめぐって担当者に便宜を図ることは悪習として、やめた方がいいのではないかと多くのひとが言っていた。

 昨年はメディアで、こどものいじめや学力の低下を大きく取り上げていた。その責任は、すべて学校にあり、教員の力量不足が原因だと言う風潮が作られた。その結果、教育基本法や学校教育法が改正され、ことしになってからは全国学力調査が実施されている。ことしは、昨年ほど、メディアはいじめや学力低下を取り上げていない。たった一年で、いじめはなくなり、学力は向上したというのか。そんなことは考えにくい。メディアを使った政治的な作為が背景にあったのではないかと疑いたくなる。
 また、ことしは教育以上に、納税者を騙し続けていた年金の不正処理問題が発覚して、メディアはそっちのほうに目を向けているのかもしれない。

 金曜日の帰りに、近所の酒屋に寄った。
 そこでは、大きなプラスティックのコップいっぱいの生ビールを260円で提供してくれる。もちろん立飲みだ。わたしは、家までわずかな距離で、少しの気持ちの切り替えのために、酒屋に寄っているが、同じように260円のビールを飲んでいるほとんどのひとたちは、近所の工場のひとたちだ。家までは遠い。仕事を終えて、居酒屋に行かないで、景気付けをして帰る。
「いいなぁ、きょうは公務員は懐があったかいだろ」
その日はボーナスの支給日だった。
「振込だから、明細しかないよ。それにもう何年も据え置きだから、ちっとも増えやしないんだ」
冷やかされても嬉しくなれない。
「なに、言ってんだ。ボーナスがもらえるだけ、幸せっちゅうもんだよ」
 景気が上向いている実感は、そこにいるひとたちにはまったく感じられない。

5693.6/29/2007

 織田信長を悩ませた一向(一揆)衆や、徳川幕府に抵抗した島原(の乱)のひとたちなど、歴史的に自立した市民を目指したひとたちは、ことごとく権力の弾圧を受け、断罪されている。
 だから、ムラ社会は、権力に従順だ。社会を守る本能が働いて、そこから逸脱する危険を回避しようとする。おかみに逆らうことはできないという、固定観念を長年にわたって世代を超えて引き継いでいる。
「いやぁ、わたしの周囲では、そんな生活や、閉鎖的な社会は存在しない」
そう感じているひとは少なくないだろう。しかし、本当にそう感じているとしたら、そこにある社会は、ムラ社会よりも危険なシマ社会だと指摘する社会学者がいるぐらいだ。シマ社会は、瀬戸内海に点在する小島のように、狭い地域にいくつもの小さなシマをもち、互いに干渉し合わない、関係性の希薄な社会なのだ。

 このような社会では、自立した市民に不可欠な価値観の共有や意思の疎通は機能していない。
 ただ、たまたま狭い地域に住居を構えている偶然の集まりに過ぎない。
 互いの考えはそれぞれにありながらも、ムラ社会のように規範がないために、考え方を統一する動きも、考えの違いを浮き彫りにする働きももたない。表面上の関係を保ちながら、実質上の関係を結ばない。こういうばらばらな社会は、権力が介入しやすい。団結することが苦手か、もともとそんな気持ちのないひとたちの集まりなので、不平は言っても、束になることはないからだ。

 ムラ社会もシマ社会も、政治権力や企業権力が一方的な考えを押しつけてきても、闘う術を持たない。
 ひとがひととして扱われない異常な日常を、文句を言いながらも受け入れてしまうのだ。
 原子力行政の推進で、多くの不正が行われていたことをきっかけに、内部告発を正当化する法律ができた。関係者しか知らない情報を、専門機関がキャッチして、不正をただすことが制度上は可能になった。その過程で、多くの勇気あるひとたちが、世話になった組織を社会の断罪の的にする覚悟を決めて、告発している。そういうひとたちを、自立した市民と呼ぶ。自立した市民には、犠牲があるのだ。よのなかを嘆いてばかりいたり、斜に構えて文句ばかりを並べたりしているのは、自立とは程遠い。

5692.6/28/2007

 日本のムラ社会は基本的には、江戸時代あたりからなにも変わっていない。
 ここでいうカタカナのムラとは行政単位の村のことではない。ひとびとが日常的に生活を営む共同体を意味している。地域社会と言い換えることもできるが、それだと自治会や学区のような機械的な割り振りがされてしまう。ムラ社会は地図で線引きできるようなはっきりとした境界をもたない。どこからどこまでがムラなのかがわからないあいまいさがあるのに、同じムラびとには身内意識があるのだ。ムラ社会は冠婚葬祭はもとより、日常的な生活スタイルの共有まで支配している。
 どこの新聞にするかとか、ヤクルトをとるかとらないかとか、ごみ出しのルールとか、休日の過ごし方とか。個人という考え方が、成立しにくかった日本社会の歴史的背景を思えば、ムラの意思を、自らの生活にあてはめることは、大きな抵抗が必要なことではない。どうでもいいと感じることは、隣近所の関係を保つために、個人の考えを捨てて、あわせてしまう。
 普通選挙法が施行されても、ムラ社会には投票の制約がある。ムラの意思を束ねる存在がいて、投票行動まで斉一な動きを求めてくる。
 都市のドーナッツ化現象で、郊外の新しい共同体でも、それまでのムラとは違ったつながりは生じなかった。

 個人とは、歴史的に振り返ると、与えられるものではなく、つかみとってきたものだ。
 支配者からの独立や解放の過程で、各自の意思で生きる権利として、闘いの果てにつかみとってきたものだ。
 戊辰戦争で、徳川幕藩体制を倒した薩摩や長州の殿様は、家臣の報告を受け「それで、いつ自分は次の将軍になれるのだ」と聞いたと言う。江戸時代から明治時代へのバトンタッチは、武士と言う特権階級のひとたちが扇動し、実利をその階級のひとたちが獲得してしまった。だから、明治維新は、自立した市民による革命ではなく、クーデターだったという歴史的位置付けが欧米では一般的だ。
 自由民権運動を主導したのも、自立した市民ではない。新しい明治新政府内での政争の果てに、一部の特権階級のひとたちが音頭をとった。

5691.6/27/2007

 ある会社では社員があまりにも個人的なメールのやりとりばかりして、まともに仕事をしないことが問題になった。ちょうどファイル交換ソフトを使って名簿などが流出する事件が増加していた。


 その結果、会社が打ち出した対策は、すべてのメールの送受信を上司の許可を受けることというものだった。こんな馬鹿な対策はない。上司は四六時中パソコンの前から離れられない。一日中、メールチェックする仕事にはやる気はわかない。上司が社外に行くときは設定を変えて、すべてのメールが携帯に届くようにする。

 取引先からきたメールが担当者に行かないで上司に届く。受信許可をすると、そのメールは担当者に届く。担当者はメールを読んで手短に「わかりました」と返事をする。その一言の返事メールでさえも、上司の許可が必要だ。上司はパソコンか携帯に届く「わかりました」を読んで、なにがわかりましたなのかわかるはずもなく許可を出す。
 こんな無駄な送受信システムが、実際に稼動している。この会社は、とても大きな会社で、いわゆる元請の大会社だ。システムサーバーは、社内の無駄なメールの送受信のために日夜プログラムを動かし続ける。システムがダウンする可能性を日々増している負荷をかけ続けているのだ。

 また、大手の電機メーカーでは、社員が自宅で仕事をするのを推奨するため、時間外労働を禁止した。実際には、労働を禁止したのではなく、時間外労働手当てを出さないことにした。勤務時間外に仕事をしてもいいけど、手当ては出さないよという宣言だ。これでは、サービス残業と言う名の、無賃労働と同じになる。上司の命令で時間外まで仕事をするわけではないが、勤務時間内に仕事が終わらないときは、自分の善意で会社に残って仕事をしなければならなくなった。結果、多くのひとが、自宅に仕事を持ち帰ってするようになったという。そのときに、会社から仕事に必要な重要なファイルをメールで送るわけにはいかないから、みんなフロッピーなどのメディアに保存して持ち帰る。そのときに、紛失したり、内容を流出したりしたときは、全部、その個人の責任になるそうだ。
 みんな、自分の生活をかけて、自宅でのサービス仕事に精を出す。社会福祉が進んだ北欧やフランスでは、信じられない労働環境だろう。家族のだれかが、ウイルスに感染したパソコンを使っていると、自分の仕事に影響が出るので、わざわざ、自宅での仕事用にインターネットにつながない自分専用のパソコンを買う。もちろん、経費では落ちない個人もちだ。抑制された給料から、さらに仕事関係の大きな出費が強制されている。

 営業利益ばかりを追求してきた、日本の経済社会は、技術の伝承や、モノのなかにヒトを生かすものづくりの原点を忘れ、労働者を使い捨て可能な手段として扱うようになってしまった。客の注文を受けてから、部品を発注して、生産を行うトヨタ方式など、ふざけた話だ。そんな無駄の省き方では、作り手の生活や労働意欲が犠牲になることなど、どうでもいいのか。客のためという言い方は、嘘に聞こえる。ひたすら、コストを削減し、利益をあげ、その利益を一部の経営者たちで分配するためのシステムなのだ。

5690.6/26/2007

 地道な努力が報われない社会は、ひとびとの生きる意欲や元気を衰退させる。とくに多感な若者に、倦怠感や厭世感をもたせる。将来への希望も期待も感じられない社会では、いまがよければそれでいいじゃないかという、刹那的なものの考え方が広がってしまう。

 ソフトボールをいっしょにやっているメンバーには、民間企業で働くひとが多い。
 たとえば、個人情報の扱いや、企業内の情報について、当然のことだが、ネットを通じても、メディアを持ち歩いても、部外への持ち出しが禁止されているという。そのときに、万が一、情報が流出したときは、個人が責任を負いますという誓約書を取らされるのだそうだ。
 ある意味で、個人の意識を高めるようなやり方に思えてくる。しかし、実際の仕事を考えたときは、不可能な状態が多くある。すべての社員がいつも会社の建物の中で働いているとは限らない。営業職や技術職のなかには、たえず会社と外を往復しているひとも少なくないだろう。出張で、遠隔地に行くときなど、重要な情報を大量に紙に印刷して持ち歩くことはできない。デジタル形式にして持ち歩いたり、ネットを使って送信したりすることは常識だ。そのことでさえ、個人の責任と突き放されているのだ。
 携帯電話も、パソコンも持たずに、つねに手ぶらで社外の仕事をこなせるなら、それにこしたことはない。しかし、そんなことでは、重要な契約も、大事な会議も成立させることは難しい。情報の流出に関して、組織としてのセキュリティ対策をとらずに、すべてを個人の責任にするやり方は、いかにも日本的だ。日本的というのは、そういうやり方を強制しても、退職者や反乱者が出現しないことがわかっているということだ。  欧米に限らず、世界の多くの社会では、使用者がそんなことを強制したら、職場放棄や暴動が起こるところが少なくない。しかし、日本社会では、上司の命令を絶対として、社員が使い古され、そのなかから少数の者がやがて上司になっていく出世レースを、多くのひとたちが受け入れている。だから、反抗したり、さぼったりしたら、自分の将来に傷がつく。

 せこい個人なのだ。自分のために、自分の現在を、自分の考えで、せばめ、それでいて蓄積していくストレスを仕事帰りの居酒屋で「てやんでぇ」と解消する。
 とても不自然なこころで毎日を送り続ける。やがて、精神の病に陥るのも無理はない。
 もっと、自然なこころを大切にしなければ、毎日が無駄すぎる。

5689.6/25/2007

 いまの首相には、こどもがいないという。
 こどもがいるとか、いないとかは、公教育を考えるときには大きな違いはない。でも、親としてこどもの入学式や運動会に参加したり、成績表に一喜一憂したりした経験があるかないかという具体的な事実は、公教育を身近なものにとらえているか、新聞やニュースという遠い世界のものととらえているかという違いをうむ。首相という立場で、学校訪問をしても、とても自然な教育の現場が演出されるとは考えにくい。何日も前から、校舎内は掃き清められ、教職員の出張は外され、もしかしたら当日を想定した模擬授業さえ行われるかもしれない。公人ではなく、私人という立場で、学校にかかわっていれば、いまの学校もなかなか捨てたものじゃないという部分も見えてくるはずだ。

 学校には一般論はなじまない。
 教員の不祥事やこどもの問題がクローズアップされたからといって、日本全国の教員に問題があるわけでも、こどもにいじめが蔓延しているわけでもないのだ。
 そして、なによりも、学校は社会の映し鏡であり、学校で起こっていることは、社会全体で起こっているおとなの問題だという認識をもたなければならない。こどものいじめを問題にするなら、日本の雇用システム全体に広がる差別や低賃金労働の強制を問題にするべきなのだ。

 世界全体が幸福にならない限り、個人の幸福はありえない。
 宮沢賢治の言葉が、長い時間を越えて、胸を打つ。
 個人間のトラブルを解決しようと、その周辺の環境をいじくってみても、社会全体がなにも変わらなければ、問題が見えにくくなるだけで本質は変わらないのだ。

 北海道の精肉会社で不正が発覚した。
 牛のミンチに、豚や鶏肉を混ぜて販売していた。こういう偽装事件が、ことしは次々と発覚している。偽装と言えば、もう懐かしくなってしまったが、構造計算をごまかした建築士によってマンションが次々と壊された事件もあった。
 いまの日本社会の真相が、よく現れていると思う。表面上は、経済的に安定し、景気も上昇しているという。しかし、生活していて、そんな実感はない。実際には、給料は下がっている。表面上の安定とは裏腹に、その内実はごまかしながらのでたらめな社会ができあがっているのだ。
 なにが、美しい国だと言いたくなる。そういえば、不登校のこどもたちと格闘しながら、気持ちの糸をつなぎあった教師が、退職してヤンキー先生と呼ばれ、教育委員や教育再生会議のメンバーをしていたと思ったら、来月の参議院選挙に立候補するかもしれないそうだ。なんだ、そういうことだったのかとがっかりした。

5688.6/23/2007

 また、教育行政、お得意の手法で、夏休みに集中的に研修を連続するというのも考えられる。
 一日研修で、午前中3時間、午後3時間とすると、6時間の扱いだ。それだけで、5日間も、強制的な研修に行かなければならない。こどもの教材を作ったり、自ら研修内容を選択したりという、自主的な考えや意欲を奪うのには好都合なやり方だ。しかも、この研修は、あしたの授業に結びつく研修ではなく、自らの能力や資質を問われる研修だから、少しでも点数を上げることに力点が置かれる。点数を上げるためには、児童観や教育観など、教育の本質的なものに封印をして、当たり障りのない模範解答を連続することが必要になる。
 研修は、勤務地では行わないだろう。どこかの施設に行くわけだから、出張扱いになる。出張だと往復の交通費が支出される。教育予算が削られている現状で、また無駄な支出が増えていく。

 いつから、日本の政党政治は、多数決を唯一とし、議論が封じられるようになったのだろう。内閣(政府)が国会(立法府)に絶大な権限を誇示し、大統領制のような仕組みを確立してしまったのだろう。どこかの国の独裁政治を批判しているうちに、いつのまにか自分の足元も似たような構造になっていたことに、メディアは気づいているのだろうか。

 すでに学校現場には、やがては給与にまで反映されると言う人事評価システムが導入されている。
 毎年、春に年間の指導方針や指導内容の計画を提出させられ、校長や教頭の面談を受ける。それが、年度末にいくつかの項目に分けられて、S・A・B・C・Dの5段階評価をつけられている。民間企業の能力主義が教育現場にも入り込んできているのだ。
「あなたの目は、どこを見ているのか?こどもか、教員か、親か、はたまた教育委員会か?」
職員会議で、校長や教頭にこのような発言をするわたしは、つねに自分への評価が下がることを覚悟し続けなければならない。
 そして、多くの教員は、自分かわいさ、生活の保全が先行し、ものを言わなくなっていく。いや、すでにものを言わなくなっている。

 20年以上前、わたしが教員になった頃の、神奈川県湘南三浦地方の学校現場は、40歳代の教員がとても多く、新採用の教員に、日ごろから自分たちと同じ仕事を担当させた。うまく行かなくて当然だが、失敗すると「考えが甘い」と容赦なく叱責をした。
「じゃぁ、先輩たちが見本を示してください」
そんな泣き言を言うと、もうお前は学生じゃない、仕事はまねて覚えろと、頭をぽかんと叩かれた。
 こどもたちが帰って、職員室や教室で仕事をしていると、行くぞーと先輩教員が声をかける。勤務時間が終わったら、飲みに行くというのだ。そんな余裕があるはずがない。
「まだ、仕事が片付きません」
それも泣き言になってしまう。勤務時間内に仕事が終わらないのは、要領が悪いからなんだよと、また頭をぽかんだった。

5687.6/21/2007

 参議院でどこかの学校の学級会みたいな多数決採決が続いている。
 すでに数の力を頼りに衆議院で通過した教育関連法案が、参議院でも採決され、可決成立した。
 与党の考えている教育の中央集権化が一歩前進した。

 一般のひとたちには、あまりなじみがないかもしれない。だから、無関心なひとも多いだろう。しかし、今回の法案は、将来の日本の公教育が大きくこれまでと変わってしまうほどの怖いものだといつか気づくときが来るだろう。
 国家公務員のなり手が少なくなっているという。省庁の不祥事を受けて、若い世代が国家公務員になるのを敬遠し始めたそうだ。
 教員は、身分は地方公務員でありながら、待遇は教育公務員特例法という法律によって、地方公務員とは一線を画している。
 日本に先んじて、教育改革を推進したイギリスでは、大量の教員解雇が続く。また、力ある教員たちが離職し、若いなり手が減少した。そのため、多数の外国人を教員として雇用した。公用語であるブリティッシュイングリッシュを、やや発音が違うオーストラリア人やアメリカ人の教員が教えなければならない事態に直面している。
 わたしは、今回の教育関連法案で、確実に現役教員の中途退職が増加するだろうと予測している。また、若い世代で教員を目指すひとたちが減少するだろうとも予測している。文部科学省・教育委員会・校長・教頭・主管教員らの顔色を伺い、いじめや不登校が発生すれば、現場の教員が、とかげの尻尾きりみたいに責任を負わされ、処分される体系が確立したのだ。
 しかも、10年ごとに教員免許が更新される。更新されなければ、当然解雇される。

 教員免許法は、大学などの教育機関で、定められた教職関係の単位を履修し、認定されれば教員免許を取得できると定めている。それなのに、有効期限を設けるというのは、免許の質や価値を著しく低下させていくだろう。たった10年しか効力のない免許のために、とても多くの時間をかけなければならない教職課程の履修など、将来に不安定要素をかかえてしまい、一生の仕事として目指す職業としてとらえにくくなってしまう。
 教員免許をもってはいるけど、教員にはなっていないひとは、全国にたくさんいる。そのひとたちも、含めて、免許の更新を貫かなければ、意味がない。運転免許だって、ペーパードライバーでも、日常的に運転しているひとでも、一定期間ごとに更新しないと、免許は失効してしまう。
 すでに文部科学省は、更新にかかわる研修についての検討を始めたという。ずいぶんすばやい対応だ。あらかじめのシナリオができていないと、ここまで早い動きはできない。政治は、どんどん茶番化している。
 年間に30時間程度の研修を予定しているという。授業のある教員に、年間30時間の研修を受けさせるのだ。仮に、午後の時間を使って、どこかの施設で講義や講習を連続するとする。おそらく2時間程度だろう。それだけで、更新の年の教員は、年間に15日間も午後の授業を自習にしなければならない。免許を更新する年の教員が担任になった保護者は、不運だ。

5686.6/19/2007

(八ヶ岳レポートの続き)
 わたしは、10時過ぎまでこどもに添い寝をして、就寝するのを確認した。
 わずかな時間を休息にあてないと、夜中になにかがあったときに、体力が充電されない。打ち合わせ開始までの10分ぐらい、自分の布団に入って横になった。しかし、それがまずかった。あっという間に、わたしも睡魔に勝てず、深い眠りの世界に突入した。

 気づいたときには10時半を過ぎていた。あわてて、筆記用具を持って打ち合わせ場所に向かった。
「部屋に行ったんだけど、真っ暗で静かだったから、そのままにしてきた」
わざわざ声をかけに来てくれたのに、こちらが寝ていた不始末を陳謝する。
 宿泊活動の場合、職員の打ち合わせはこどもたちの就寝時間を過ぎてから行われる。こどもたちは、予定の就寝時間を過ぎてもすぐには寝ないのが通例なので、いつまでも打合せをしているわけにはいかない。その日の活動経過と、翌日の活動予定を確認し、けが人や病人の情報を交換する。特学のわたしともうひとりの教員は、こどもっちの入浴時間に支援を兼ねて、いっしょに入浴してしまったが、ほかの職員はまだ入浴をしていないから、打ち合わせが終わってから、順次交替で入浴をした。
 部屋に戻って、こどもたちの様子を観察すると、静かな寝息を立てて深い眠りに入っていた。山登りの疲れと、親元を離れての宿泊活動への不安を抱えながらも、ぐっすり眠っている様子だった。

 翌朝、わたしは習慣で4時ごろには起きた。まだほかの3人は寝息を立てている。
 静かに布団から抜け出し、早朝の体験教室周辺を散策する。寒暖計は14度をさしていた。すでに空は明るくなっていた。日の出が近いのか、見上げる八ヶ岳は赤く山肌が光っていた。快晴だ。
 大学時代にワンダーフォーゲル部に所属していたので、八ヶ岳には何度も足を運んだ。でも、こんなにきれいな八ヶ岳を見たことがあっただろうかと思うほど、空の青さと残雪の残る山肌とのマッチングが見事だった。2800メートルを越える最高峰・赤岳を見上げる。山頂までの厳しい登りが思い出された。20年以上も昔のことなのに、ついこないだのことのように感じる。同じパーティーを組んで、登頂したメンバーは今頃なにをしているのだろうか。まったく音信不通になってしまった。

5685.6/16/2007

 16日。快晴の土曜日。数日前の天気予報では、曇りと傘のマークがついていたのに、全国的に晴れが広がる真夏の陽気になった。
 朝から鎌倉は20度近かったと思う。4時半に起きて、朝食をとり、荷物をまとめて、近くの小学校に向かう。

 きょうからソフトボールの自主リーグ戦が始まる。実際には先週の土曜日から始まっている。わたしの所属するチームの試合が、今週から始まった。
 自主リーグは、大船カップという。このかさなりステーションでも情報を発信している。始めてからもう何年も経つ。
 こどもが通う小学校や中学校のPTAソフトボールチームが主体になって、大船地区を中心とする8つのチームが自主的に総当たり戦をしている。多くのひとが、こどもが小学校のときは、小学校チームで出場する。中学校に進学すると中学校チームで出場する。中学校も卒業すると、OBとして中学校チームで参加することが可能になる。こういう編成の性格上、どうしてもチームの平均年齢は小学校のほうが若くなる。若いということは、動きや判断力、パワーがあるということで、中学校チームの面々は体力でかなわない部分を、老獪な話術や戦術で対抗するしかない。
 わたしは、今春、下のこどもが中学校を卒業したので、名実ともにOBの端くれになった。
 大船カップは、学校の保護者というつながりで、地域のネットワークを広げていくことをねらっている。だから、これまで同じ地域に住んでいても、顔も名前も知らなかったひとたちが、大船カップを通して、顔見知りになり、仕事帰りの大船駅でばったり顔を合わせて「やぁやぁ」という関係を築くまでに育った。
 学校によってはメンバーが集まらずに、教員が参加しているチームもある。もう何年もやっているので、参加している教員は、仕事という感覚ではなく、本当にソフトボールが好きなんだろうと思う。また、試合の日に人数が集まらないチームには、たくさん集まっているチームからメンバーを提供する。勝敗も大事だけど、つながりを目的にしているので、ほかのチームでもソフトボールを楽しむことができる。公的なリーグ戦では、こういうことは許されないだろう。

 少年野球チームが8時ごろから校庭を使用する。その前に、大船カップが行われる。
 6時半頃から8時までに2試合を行っていく。金曜まで仕事をしてきたひとたちが、土曜の早朝にたくさん集まっている姿は、壮観だ。本当にこのひとたちは、ソフトボールとひととのつながりが好きなんだろうと思う。
 きょうの試合は、いつも日曜日にいっしょに練習をしている小学校チームとの対戦だった。こどもが小学生のときは、わたしもそのチームのメンバーだった。互いに相手を知り尽くしている。守備位置は極端になる。わたしは1番・センターで出場したが、残念ながら2打席凡退で3打席目はフォアボールだった。チップバッターの不振が響いたのか、ゲームは8対1の大差で負けた。
「トップバッターの責任だぁ、正座をして謝れー」
そんな叱責を受けながら、「いやぁ、(相手チームが)強くなったねぇ」とおどけておいた。

5684.6/15/2007

 登山道は、尾根筋に上がるまでがかなり急で岩や小石が多く歩きにくい。本隊と大きく差をつけられても、それに焦ることなく、自分たちのペースを守るように、もうひとりの特学の教員と確認をした。おとな2人、こども2人の小さな4人のパーティーのつもりになれば、気持ちが楽だ。  曇り空で雨がやんだので、気温は低めで、歩くにはちょうどいいコンディションだった。ナップザックと背中のシャツとの間に、じわっと汗をかく。去年は、登り始めから気温が高く、尾根筋までの登りで、ずいぶん体力を消耗した記憶がある。良好なコンディションのなか、特学パーティーは、本隊が見える範囲で登山を続け、尾根筋まで登ることができた。
 そのうち、どういうわけかリタイアして腰をおろしている5年生のこどもを追い抜き、山頂が見えるコルまでたどりついた。コルはほかの尾根筋との合流地点で、平らで広い場所だった。山頂が狭いので、そこでクラス集合写真を撮影していた。わたしは、特学のこどもの様子から、いったんそこで写真撮影のために歩くのをやめたら、もう動き出さないだろうと判断した。5年生の教員に事情を説明し、なんと本隊を追い越して、一番乗りで登頂を目指すことにした。コルから山頂まではわずかな距離だが、標高差が20メートルぐらいある。傾斜が厳しい。最後には、こどものお尻を押しながら登頂した。
 あとから登ってきたカメラマンの方に、特学パーティーだけでスナップ写真を撮影してもらう。

 八ヶ岳野外体験教室は、野辺山から美ヶ原に入り、赤岳を間近に見上げる別荘地の一画にある。標高は1500メートルぐらいだと思う。  そこは、6月中旬というのに、クーラーでも入れているのかと思うほど、涼しかった。寒暖計を見たら15度をさしていた。空気が乾燥しているので、気温以上に空気のさらさら感を味わう。見上げた赤岳には、残雪があり、山はまだ夏を迎えていないことに気づく。

 夕飯の後、キャンプファイヤーとナイトウォークをした。風がなく、見上げたら満天の星空。コンディションは、わたしがこれまで体験教室を利用してきて、もっともよかったのではないかと思うほどだった。ファイヤーの火柱がまっすぐ夜空にのぼる。風があると、火柱が傾き、火の粉が飛んで、こどもたちがキャーキャー言って、キャンプファイヤーの進行を妨げるが、今回はそんな心配はなかった。
 すべてのプログラムを終えて、入浴の準備をする。荷物のなかには「おふろのきがえ」と書いた袋に着替えが準備されている。わたしは、こどもといっしょに入浴した。今回は、学年のこどもたちが利用する大浴場ではなく、3人ぐらいが利用できる小浴場を借りた。学年のこどもたちと同時に使うことはできないので、すべてのこどもたちが利用した後で入ろうと思っていたのだが、施設のひとが気を使ってくれて、小浴場を開放してくれた。山登りやキャンプファイヤーで疲れがたまっていたこどもたちにとって、入浴までの時間を短縮できたことは、ありがたかった。最敬礼で御礼をして、小浴場を利用させていただいた。

 消灯の時間は10時だった。入浴をして、歯磨きをして、すっかり就寝の準備が整ったのは、9時40分ぐらいだった。布団に入って、しばしの時間を就寝のための準備にした。わたしは、10時10分から職員の打ち合わせがあった。もうひとりの特学教員には、このまま部屋にいて就寝支援をお願いした。初めての経験で、その教員も疲れているだろうと配慮した。案の定、10時の消灯よりも前に、夢のなかに突入していったのは、こどもよりもその方だった。

5683.6/14/2007

 でも、特学のこどもたちにとって、その分類は保護者と教員の仕事だ。
 甘やかしているのではなく、困難なことをあえてやらせても意味がなく、できることを確実にできるようにさせていくという特別支援教育の基本的な考え方があるからだ。
 どの荷物がナップザックで、どの荷物が大きなリュックやバックかを区別することに能力を発揮させることよりも、ナップザックに入っている敷物を必要なときに取り出して自分の力で広げたり、汗をかいたらナップザックからタオルを出して汗をふいたりすることを、自分でできることが大事なことなのだ。

 だから、わたしは出発前も出発してからも、何度もしおりに目を通し、なにがナップザックに必要で、なにが大きな入れ物に必要かを頭に入れておいた。バスが動き始めてからも、しばらくはこどものナップザックを開けて、必要なものがあるかどうかを確認し、それらがどのポケットに入っているのかを覚えた。

 途中、高速道路のサービスエリアとパーキングエリアで二度の休憩をして、最初の目的地である野辺山の獅子岩に到着した。
 藤沢を出てから4時間が経過していた。標高が1400メートルぐらいになっていた。小雨が舞う。昼食の後で、飯盛山という山に登る予定になっている。雨で中止のときは、宿泊体験教室に行って、周辺を散策する代替プランがあった。わたしは、特学のこどもたちを連れて、休憩所のひさしの下で弁当を広げた。雨に濡れながらの昼食では、体温が奪われ、体力を失う。体温調節が苦手な体質のこどもの場合は、衣服の着脱だけでは、一度下がった体温を上げるのは難しい。少しでも条件のいいところで、雨から身を守る必要がある。

 幸い、弁当を食べているときは小雨が舞っていたが、食べ終わった頃には雨がやんだ。
「最低限の荷物だけにして、登山をしようと思います。もしも、途中で雨がひどくなったら引き返そうと思いますが、特学はどうしますか」
5年生の担任から相談を受ける。
「集団の一番後ろを歩きます。もしも、体力的にも、天候的にも困難だと判断したら、本隊とは関係なく、下山します。そのときは携帯で連絡をします」
 飯盛山への登山は、登山口と山頂を往復するルートだったので、先に引き返していても、やがては本隊も戻って来る。去年の宿泊活動でも、飯盛山に登っていたので、わたしはだいたいのルートを覚えていた。
 駐車場には、ほかにも観光バスが駐車していた。地元のガイドさんと思える方が
「もう雨は降らないから大丈夫」
と、安心の言葉を投げかけてくれた。さすが、地元のひとは、経験からわかるのかと思った。そうしたら
「あなたたちは、行いがよさそうだから」
と言ったので、不安になった。そんな、無責任な励ましはこどもに混乱を招くだけだ。

5682.6/13/2007

 11日と12日の一泊二日で5年生の宿泊体験活動があった。交流学年の行事には特学からも基本的には参加するので、わたしはもうひとりの教員とふたりで特学の5先生2人を引率して、宿泊体験活動に行ってきた。

 場所は、八ヶ岳のふもとにある藤沢市の施設だ。一般利用もできるが、基本的には市内の小学校と中学校のために使われる。開設して15年になるが、施設は開設当初のように清潔に保たれている。学校利用を目的に建設した施設なので、往復の交通費や滞在費などの多くが藤沢市からの補助でまかなわれる。それまでは、県内にある県立の臨海施設や林間施設を利用していた。しかし、全県が利用するので、毎回、希望する日程の調整が大変だった。複数の学校が同時に利用することになり、他校への配慮もしなければならなかった。八ヶ岳の施設ができたときには、かなり遠方への活動になるが、他校を気にしなくていいことと、保護者の経済的な負担が軽減されることで画期的な施設と思われた。その後も、市内の学校は定期的に利用する学校が増えた。
 6年生は、日光へ修学旅行に行くので、同じ学年で二度も宿泊体験活動をするのは、さまざまな観点から負担が大きい。そこで、5年生での利用が一般的になった。

 11日の5時に家を出る。大学時代に山登りをしていたときに購入したアタックザックに荷物をつめた。築地への買出しでも活躍したザックだ。
 帰りは12日17時の予定だったから、連続36時間勤務の開始だ。
 大船も藤沢も小雨が降っていた。天気予報では回復するとのことだった。
 6時に学校に着いて、特学の教室を開ける。照明をつけて、トイレや荷物の確認をする。特学のこどもの荷物は事前学習を兼ねて、前日までに学校に用意してある。
 6時半過ぎに、ふたりの5年生が登校する。保護者に体調を確認する。バスでの旅行なのでトイレに行ける場所が限られている。ふたりをトイレに行かせる。予定では校庭に5年生が集合して出発だったが、傘が必要な雨になっていたので5年生の教員たちに集合・出発場所を確認する。体育館の前に通路用のひさしがあるところがあるので、そこに集合するという。こういう連絡も、本隊の5年生から来ることはない。いっしょに行く特学から確認しないと、忘れられてしまう。特学の存在を無視しているのではなく、それだけ5年生の教員たちも自分たちのことで手一杯なのだ。だから、気づいたことやわからないことは、どんどんこちらから聞きに行く。わたしといっしょに引率する教員は、ことし初めて教員になったひとなので、そういうことも教えておく。
「黙っていたり、待っていたりしても、なにもわからないからね」と。

 予定通り、大型観光バスに乗り、7時に藤沢を出発した。
 観光バスの客席の下には大きな荷物入れがある。そこにこどもたちは、宿泊で使う着替えなどの入った大きな荷物を入れる。途中の活動で使う弁当やおかし、水筒などは別のナップザックに入れて、車中に持ち込む。原則として、客席下に入れた荷物は出さない。
 5年生のこどもたちは、その荷物の分類を間違えると困る。弁当を食べようと思ったときに、ナップザックではなく、大きな荷物に入れていたら、かんじんなときに弁当がない。そういう間違いをすると担任から怒られる。
「事前学習で何を学習していたの?しおりを読んだの?」と。

5681.6/12/2007

 問題が発覚したら、責任がある会社や組織を解体して、問題が問われないようにする手口は、社会保険庁もコムスンも同じだ。
 いつから、こんな小汚いやり方がまかり通るようになってしまったのだろう。「美しい国」どころではなく、「小汚い国」ニッポンだ。

 権力者や経営者の都合で、一般のひとたちが被害を受ける。その責任を警察も検察も追及しない。法律にのっとった方法ならばかまわないという姿勢を貫かれると、法律への信頼が薄らいでいく。どうして、抜け道ばかりのザル法が多いのだろう。国会の品位がよほど低いのではないかと思う。市街地の道路は速度制限が40キロのところが多い。いまどき、すべての車が速度制限を守っていたら、交通渋滞が激しくなるだろう。あれは、取り締まることでポイントを挙げたい警察のわなに感じてしまう。同じ道路交通法には、全国の多くのひとが違反している条文が少なくない。原付自転車の最高時速を守って走行しているひとを見たことがない。乗用車を追い越していく原付だって、あるぐらいだ。いつから、原付は二人乗りが認められるようになったのだろうと思うほど、二人乗りの原付を見かける。守ることなどできない法律を作って、意味があるのか。強化月間だけ取り締まって、安全が確保できるのか。

 年金問題は、加入者の納入した年金を記録として残していない、あるいは残していた記録を紛失した、さらに記録を間違えたなど、お粗末な原因による。
 それでも、年金を受給するひとは、自分から窓口へ申請しなければならない。
 やっと、こどもが小さいときから毎月とボーナス月に多額の保険料をおさめてきた学資保険が満期を迎えた。払っているときは、働いても働いても貯金が残らず、こんな保険はやめてしまおうかと何度も思ったが、利子がついて、満期を迎えて、迷いはあったが、続けてきてよかったと思った。そのときは、郵便局から満期の報せが届いたし、局員が満額を現金で自宅まで持参した。そういう決まりになっているらしい。本来の金融機関の姿だろう。
 社会保険庁は、歴代の長官や幹部が多数関連会社に天下りしている。厚生施設が常識を逸するほどぜいたくなのも有名だ。年金を集めておいて、まさかその金で職員がぜいたくをしたとは思わないが、記録さえつけていないものがたくさんあるということは、毎年の収支計算表には「不明」という膨大な金額が収入として貯まっていたのだろうか。
 国家的詐欺で、黙っている市民は、忍耐強いと評価すべきなのか、あきらめが早いと憂うべきなのか。

 わたしは、学校に勤めているので、共済年金だ。毎月、給料から決まった金額が事前に天引きされてしまう。採用された1985年以降、ずっと年金を天引きされている。国民年金や厚生年金と違い、天引きの共済年金には、年金手帳がない。年金をおさめた記録が手元にない。まさか、毎月の給料明細を何十年も保管しているひとは少ないだろう。だから、将来、年金を受給する段階になったら、言われたままの金額を信じるしかないのだ。
 その頃までに、小汚い国が、少しは正直な国になっていることを願うしかない。

5680.6/9/2007

 わたしには、みんな根っこが同じに思えることがある。

 社会保険庁が加入者から集めた年金の記録を紛失したり、登録をミスしたりして、だれの記録だかわからないものが5000万件もあることが発覚した。5000万件といったら、加入者の過半数を占める割合ではないだろうか。年金を徴収するだけしておいて、だれのお金だかわからなくなりましたというのは、詐欺だろう。民間会社がこんなことをしたら、あっという間に客は解約して、倒産する。
 現在、受給しているひとのなかにも、本来の受給額よりも少ないひとが何千万件もあるという。責任のある社会保険庁が調査をしないで、心当たりのあるひとは、自分から名乗り出てほしいと訴えている。もしも仕事を休んで社会保険庁に行ったら、その分の補償をしてくれるというのか。

 そんな社会保険庁を解体する法案が国会で審議されている。
 組織を改編して、業績をあげるられるようにするのは、好ましいことだが、この時期に急いで解体しなくてもいいだろう。年金の問題が解決するには膨大な時間がかかりそうだ。その途中で、事件を起こした主体である社会保険庁を「なきもの」にしようという法案に隠された意図は何か。明らかに、責任追及逃れだ。社会保険庁は、厚生労働省が管轄する。女性を「産む機械」と発言した大臣のいる厚生労働省が管轄している。だから、社会保険庁の問題は、厚生労働省の問題にも発展する。そして、厚生労働省は政府の機関だ。当然、内閣や内閣総理大臣の問題として責任が問われる。
 しかし、かんじんの社会保険庁を存在しないものにしてしまえば、法律上の追及や道義上の責任、国家公務員法上の責任問題は、全部棚上げされる。責任を負って、責務を果たすべき組織をなくしてしまおうとしている。
 与党案では社会保険庁に替わる組織を作るという。このからくりに有権者は騙される。単純に「もっといい組織ができるのなら、それでいいじゃないか」と感じているひとは、よほど恵まれた人生を歩んできたひとだろう。
 新しい組織のひとたちは、少なくとも社会保険庁時代の責任を問われる必要も義務もなくなるのだ。専門的な分野なので、社会保険庁時代の専門家が多く、新しい組織でも採用されるだろう。名前は変わるけど、実態は変わらない。そして、そのひとたちが責任を問われたとき、すまし顔で言うだろう。
「それは、かつての社会保険庁の問題で、当方とは関係がありません」

 全国的に幅広く介護サービスを展開してきた民間会社「コムスン」が、実態のない申請をして、違法行為を繰り返していた。これにともない、所轄の厚生労働省は、新規事業所の営業許可を与えない方針を決める。実質上、コムスンは介護サービスができなくなった。
 そこで、コムスンの親会社である「グッドウイル」は、同じグループ会社に、コムスンの事業を引き継ぐと発表した。
 名前を変えて、同じ事業を展開しようというのである。年金問題をめぐる社会保険庁と、新しい組織との関係と似ている。

5679.6/8/2007

 大きく育った葉に、一日で20匹ぐらいの青虫がいたのに、それらはどこに行ったのだろう。みんなさなぎになって成虫になってしまったのだろうか。
 ちょうど、その頃から、花芽がついて、ブロッコリーとして食べられるつぼみのかたまりが中心の頂上にでき始める。一日ごとにそのかたまりは大きくなり、最初の収穫を迎える。いきなりこどもたちに渡して、もしも味に問題があると大変なので、特学スタッフで毒見する。人数分を収穫して、それぞれ家に持ち帰って食べることにした。

 家で洗っていたら、つぼみのなかから、大小さまざまな青虫が登場した。
 葉からいなくなったと思ったら、ちゃっかり、こんなところで食事をしていたとは。昆虫たちはグルメだなぁ。
「あら、なにも気づかないでパクパク食べちゃったわ。青虫もたんぱく質だから平気よ」
というつわものもいた。

 インターネットでブロッコリーの育て方を調べたら、最初の収穫をしても、徐々に小さなわき目が大きくなり、しばらく収穫が続くことを知る。そのたびに、追肥をすることが明示されていた。しかし、わたしは、最初の収穫をしたら、もう追肥は終了した。
 もしも、ポットやプランターで育てていたら、収穫を終えたら、ごっそり土を交換することができる。しかし、露地の場合、収穫を終えて、ごっそり土を入れ替えるのは不可能に近い。生活科の担当をしていたときは、トラックで土を買ったこともあったが、いまはそんな予算の出所はない。
 農家に研修に行ったとき、露地は土を殺さないことが大事だと教えられた。
 野菜は、花をつけてから、結実するまでが、もっとも土の養分を吸う。子孫を残す段階に入るので、遺伝子が土のなかから必死になって栄養分を吸い取るのだろう。そこに、追肥をすると、さらに多くの栄養を吸い、収穫が持続するというわけだ。しかし、この方法は、土のなかの養分を完全に収穫と同時に失わせてしまう危険性がある。土のなかにほどほどにバクテリアを残し、土を生きた状態にしておくと、次の土作りのときに復活するのが早くなる。
 徹底的に養分を吸い取ってしまうと、またはじめから土を作らなければならない。前回の土の養分を残すようにしておくと、自然に近い状態の畑に戻っていく。

 土曜の買出し、月曜の収穫。
 どちらも、手間隙がかかる作業だった。近くのスーパーで買いそろえたのとはわけが違う。その手間隙が、食べ物を扱うときにはおいしさの違いとなる。

5678.6/7/2007

 わたしの勤務する小学校では週末に校庭が少年サッカーや少年野球に使われる。
 こどもたちの応援に親が来校する。そのときに、小さいこどもを連れてくるひとがいる。兄や姉の運動する姿を応援するわけもなく、遊具で時間をつぶす。なかには、敷地内をかけまわり、似たような境遇のこどもどうしで鬼ごっこをする。
 特学の砂場のシャベルやバケツが月曜に出勤すると散乱している。そんなときは、たいてい前の週末にサッカーや野球があったときだ。親の見知らぬところでこどもがなにをしているのかということに無関心なのだろう。
 4月中旬の月曜日。まつげぐらいに生えそろっていたブロッコリーが小さなこどもの靴あとで踏み潰されていた。小学生のこどもの足のサイズではない。やられたぁと思った。
 早速、看板を作る。文字を書いても読めない年齢のこどもたちだろうと想像し、発芽している絵を描いて、となりに靴の絵を描き、その上に×を添えた。この看板は効果がてきめんで、その後の月曜日には畑が荒らされることはなくなる。

 踏み潰された小さな芽は、数日かけて自分の力で起き上がり、ふたたび元気になった。植物の力には驚かされる。
 発芽してから一ヶ月ぐらいは、そんなに大きくならなかったが、5月下旬になった頃から、茎が太くなり、葉も掌よりも大きくなった。

 本葉が数枚になったとき、茎の節がひとつ伸びたとき、乾燥した日が続いたとき、間引きをしたとき、そんな成長の節目に100倍希釈の液体肥料を与えた。窒素・リン酸・カリの比重はどれも7にした。
 一般的に777の液体肥料は葉の生育を促す。ブロッコリーを育てるのは初めてだったから極端な比重にはしないようにした。ブロッコリーはほかの野菜と違って実を食べるわけではない。つぼみなかたまりを食べる。ということは葉の生育を促し光合成を盛んにすればつぼみがつきやすいのではないかと仮定した。
 農業は時間がかかる理科実験だ。大根で777にすると茎の育ちが悪い。比重を変えなければならない。わたしたちが食べている大根は、植物の部分としては茎にあたる。

 最高気温が20度を越える日が続くようになってから、ブロッコリーの葉は、30センチぐらいになった。そんな大きさの葉が一株に10枚ぐらいしげる。茎は太いアスパラガスみたいにがっしりする。モンシロチョウが乱舞して卵を産み付ける。あっという間に大きな葉は青虫の餌になる。小さな穴がたくさん空いた。わたしはカップを片手に青虫を取る。一日に20匹ぐらいとったこともあった。梢の雀にアイコンタクトをしてコンクリートに青虫を並べる。雀たちは飛んできて青虫をついばむ。

 ところがある日からバタッと青虫の姿が見えなくなる。

5677.6/6/2007

 特学の花壇は、イネ科の雑草がはびこり、それらを抜いて、土のなかから完全に根を絶やすことが必要だった。
 初年度は、雑草抜きと、根絶やしに終始し、とても土を作るところまではいかなかった。1年目の終わりにやや冒険気味にカボチャとオクラの種をまいた。うまく発芽したが、葉の病気が広がり、満足な収穫にはつながらなかった。
 去年の秋から、本格的に掃除の時間を使って、土作りにとりかかる。
 何度もスコップを入れて、土を耕し、硬くて酸欠だった土に空気を送り込み、ふわふわの状態を長持ちさせた。畝を作るやり方をやめて、花壇の真ん中を掘り下げ、不要な板をもらってきて、内側に囲いを作り、その周囲にコの字型に土を盛って、土のベッドを作る。こうすれば、コの字のなかに入って、草抜きや追肥などの作業がしやくすくなる。
 年を越えてから、寒い1月に石灰をまき、土を中和した。石灰をまいては土と混ぜ、一週間ぐらい放置して安定させる。それを三週間繰り返した。本当は苦土石灰がいいのだが、学校にはそんな高価なものはないので、ライン引きに使う消石灰で代替した。前任校でも消石灰でじゅうぶんに中和できたので応用する。掃除の時間に庭掃除の担当のこどもが、白い消石灰の粉をまくわたしの姿を見て不思議そうにしていた。
 2月になってから、いよいよ腐葉土をまく。これも一週間かけて、少しまいては土に混ぜ、翌日また少しまいては土に混ぜる方法を繰り返した。
 前任校で畑作りをしたときに、農家に実習に行って、農場の主に「土作りで楽をしようとしてはいけない」という教えを守る。
 2月の後半に、やっと元肥をまく。元肥には、鶏糞と化成肥料を使う。たっぷりまいて、散水し、肥料を土に溶かし込む。元肥は入れすぎると逆に肥料過多で根腐れの原因になるので、量のバランスが難しい。でも、わたしの見たところ、特学の花壇はまったく人工的な肥料が入れられた形跡がなかったので、今回は通常の量よりも多めにした。
 そして、約一ヶ月をかけて土を寝かせた。寝かせている間に、腐葉土のバクテリアが繁殖する。ときどきスコップで耕して、適度に酸素を送り込む。
 最低気温が安定的に5度を越える日が続くようになってから、ブロッコリーの種をじかにまいた。4度以下になると霜が降りてしまうのだ。野菜の種は、小さなポットにまいて、ある程度育ててから定植する方法が一般的だが、これまでの経験だと、じかまきで発芽した野菜のほうが病気に強く、育ちもいいのだ。小さいときから同じ土を種が覚えているのではないかと想像する。

 ブロッコリーは初めて育てた。枝豆、大根、小松菜、オクラなどをこの時期には育てていたけど、いっしょに種まきをしたこどものなかに「畑になったら、ブロッコリーを植えようよ」と言ったこどもがいたので、迷わずに決めた。失敗したら、またトライすればいい。農家ではないので、失敗も経験の糧になる。
 ブロッコリーは、種をまいてから、発芽までがとても日数のかかる野菜だった。冷たい雨が降ったので、種が死んでしまったのではないかと思ったほどだ。それでも、サクラが咲く頃から、かいわれ大根よりも細くて小さな双葉が畑のそこかしこから顔を出してきた。

5676.6/5/2007

 きょうは火曜日。嬉しい報せが二つ届く。
 一つ目は、先週の土曜に築地に行って買ってきた品物を届けたひとたちから、それを食べた感想だ。ちりめんと鰹節の注文を受け、買ってきた。さらに玉子焼きがほしいというひとに、テレビでもおなじみの松露(しょうろ)の高級玉子焼きも。
 ちりめんは、前回の買出しのときに賞味して、個人的にとてもおいしいと感じていた。キロ単位で売っていたのを前回はグラム単位で小売してもらった。今回は堂々のキロ単位(と言っても、1キロだが)での購入だった。帰ってから、はかりで200グラムずつに小分けして、3人の知り合いに月曜日に届けた。もうひとつは、父に届け、残りの200グラムを自宅用にした。築地を案内してくれたHさんが、前回購入していた鰹節を今回はわたしも購入した。小さな袋に小分けしたのを売っていたので、それを買い、ちりめんを届けたひとに追加した。ちりめんと鰹節があれば、たいがいのご飯はおいしく食べられるだろう。
 月曜に届けたので、翌日の火曜には「食べたよ。そうそうあの味がいいんだよね」との感想が寄せられた。

 生卵をといて、ちりめんと鰹節を混ぜ、ちょっと醤油をたらして、炊き立てのご飯に少しずつ乗せて食べる「卵かけご飯」で食べると、ついついご飯を食べすぎるほどおいしい。それを教えたひとは、早速試してみたそうだ。
 松露の高級玉子焼きは、こども時代を築地で過ごしたわたしの母が、亡くなる直前に「松露の玉子焼きが食べたい」と言った一品だ。試食した。わたしには、やや味付けが甘くて、玉子本来の味が薄いなと感じたのだが、よのなか的には、テレビで取り上げられるほど有名なものらしい。仕事でお疲れの知り合いが、「元気が出た」と言って喜んでくれた。
 次回は、いつも鮪のおいしいところを残しておいてくれる鮪専門店のMさんがお気に入りの玉子焼きを買ってみよう。

 もう一つは、特学の畑で育てていたブロッコリーを、収穫して、月曜に全員のこどもたちに持たせた感想だ。
「きのうの夜ご飯で食べたよ」
「きょうの朝ごはんのサラダにしたよ」
こどもの感想を聞くのはとても嬉しい。そして、連絡帳を通じて、各家庭からも多くの感想が寄せられた。
「塩湯でして、そのまま食べました」「甘くて、歯ごたえがしっかりあっておいしかったです」「(野菜が苦手なこどもは)そっぽを向いていましたが、家族でおいしくいただきました」など。完全無農薬なので、青虫やてんとう虫の幼虫がついていた。それについても報告してくれたものもある。  3月の後半に種まきをして二ヵ月半の時間をかけて少しずつ育てたブロッコリーが、こどもたちの家庭の食卓にのぼり、市販の食べ物と肩を並べて、家族をつなぐ役目を果たしたことが嬉しい。その報告を届けてくれたひとたちの気持ちのあたたかさがさらに嬉しかった。

 3年前にいまの学校に異動してきて、小さな特学の庭に雑草が生え放題の花壇を見つけた。前任校で生活科の担当を長くしていた経験から、いつかここに野菜の種をまいて、野菜を収穫して、こどもたちに届けたいと思った。そのときの思いが、やっと実ったのだ。

5675.6/4/2007

 2日の土曜日に、ふたたび築地市場へ買出しに行った。
 前回は、6時に出発し7時に到着した。築地本願寺から築地市場まではすぐの距離なのに、前回はそこから駐車場までのわずかな距離が大渋滞で30分もかかった。今回は反省して、5時半に出発した。ナビの予定通り6時半に築地本願寺周辺に到着する。わずか30分の違いだが、今回は駐車場までノンストップですんなり入ることができた。この30分の違いは大きい。

 前回と違い、少しだけ様子がわかってきたので、場外での買出しの後、いったん荷物を車に置きに戻る。そうしてから、場内に買出しに行った。沖縄料理の店で使ったことのある島とうがらしを見つけたので購入した。今回は、同僚や知人から注文を受けていたので、買出しに目的があり、大きなザックを背負いながらも、張り合いがあった。
 ちりめんの店では、基本的にキロ単位で販売しているのを前回は無理を言って500グラムにした。今回は、ちりめんの注文があったので、思い切って1キロ買った。おじさんが、嬉しそうな顔をして、奥から1キロ入りの箱を持ってきた。少しだけ、料亭の板前がお店で使う品物を買出しに来た気分になる。

 今回は、前回行かなかった青果部という野菜や果物を扱うエリアにも入った。通称「やっちゃば」と言うらしい。
 やっちゃばは、鮮魚エリアとは大違いで、静かだった。また、品物の多くがダンボールに入ったままで、照明も暗く、倉庫みたいな感じだった。前回に引き続き、案内役のHさんが、お世話になったひとに巨峰を買う。一房2800円もした。その値段に驚いていたら店主が「こんなのもあるよ」と夕張メロンの箱を開く。そこには、6個の夕張メロンが並んでいた。一個4000円だから、一箱24000円もする。これを八百屋が買っていって、小売するときにはいったいいくらになるのだろう。
「こんなんで驚いていたらいけないよ」
わたしの驚く様子がおもしろかったのか、店主は宮崎産の「太陽のたまご」というマンゴーを見せてくれた。新しい知事の影響で宮崎産の品物がよく売れるという。太陽のたまごは、一箱に2個入っていた。これで15000円。ひとつ7500円だ。完全に熟すまで収穫しないそうだ。箱のマンゴーの皮からは、密がほとばしっていた。

 最後に、鮮魚部に行き、魚を仕入れる。
 今回は、うなぎとイサキを買う。穴子や鮪はHさんが目利きをして、あとで分けてもらった。うなぎは、バケツのなかから生きたうなぎを職人が取り出し、その場でさばき、機械に乗せた。スイッチを入れると、4本の串が自動的に刺さった。たくさんのうなぎを用意するには、便利な道具があるものだと思った。
 近海魚のなかで、わたしはイサキが大好物だ。これからの季節のイサキが一番おいしい。そのなかでも、とても大きなイサキを見つけたので、思わず買ってしまった。

5674.6/2/2007

 学校再生分科会(第1分科会)。よけいなお世話というネーミングだ。
 主査は白石真澄氏。副主査は小野元之氏。メンバーは、池田守男、陰山英男、葛西敬之、門川大作、小宮山宏、中嶋峯雄、野依良治、義家弘介、渡邉美樹の各氏。
 第1回分科会は2006年11月8日に、虎ノ門パストラルホテルで、8:30-10:30に行われた。まだ一般客のチェックアウトが終わっていない時間に、メディアが集まりそうな会議をよくやるものだ。それともメンバーは前日からホテルに公費で宿泊して、朝一番で話し合ったのだろうか。最初の分科会で配布された資料は9種類もあった。教育再生会議委員の福岡県筑前町派遣について・高等学校における必履修科目の未履修問題・第1分科会・第2分科会における当面の検討課題(案)・教員免許更新制の導入について・全国学力・学習状況調査について・学習指導要領の改訂について・放課後子どもプランについて・子どもをめぐる状況・分科会有識者名簿。この分科会は最初の検討からいきなり学力テスト導入や教員免許更新制について議題に掲げていたのだ。11月に話し合いをした学テは半年後の2007年4月に全国一斉にベネッセが受注して実施(小学校)されることになる。また、子どもをめぐる状況という資料は、8種類にも及んだ。いったいこういうところに登場する「子ども」とは、どの地域のどんな年齢のこどもたちのことなのだろう。こんな大雑把な資料を作成した張本人はいったいだれなのだろう。

 第2回分科会は2006年11月30日に、虎ノ門パストラルホテルで、8:30-10:30に行われた。この分科会のひとたちは、このホテルが気に入ったと思える。
 このときの資料には、良い教員への強力な支援と不適格教員の退出(議論のたたき台)・学校現場の再生と教育委員会の見直し(議論のたたき台)・子どもの学力の向上を(議論のたたき台)が含まれている。どんな基準で教員の良し悪しを分けるのか。その判断をだれがするのか。判断をする者が上司にあたるひとだったら、良い教員である前に、上司にどれだけ好まれるかという関係性の問題のほうが大きくなる。言いなり教員が、良い教員になることは目に見えている。
 第3回分科会は2006年12月8日に、場所を高輪プリンスホテルに変更している。時間は、15:00-17:45。チェックインを済ませて、ディナー前に会議を終える設定か。なるほどうまく考えたものだ。具体的に、教員の資質能力の向上・教育内容の改善と学習到達度の評価・学校、教育委員会のシステムの改革の3点について討議が行われている。
 年が明けて第4回分科会は2007年1月15日。三田共用会議所で14:00-16:00だった。さすがに毎回ホテルを使うわけにはいかなくなったのだろうか。このときは教育委員会の改革について重点的に議論が行われている。
 第5回は合同分科会という形式で1月24日に12:00-13:30に総理官邸小ホールで行われた。第一次報告についてのすり合わせをしたのだろう。このときの配布資料は、なぜか非公開になっている。そんなにやばい資料だったのか。

5673.6/1/2007

 ヤンキー先生、義家弘介(横浜市教育委員)氏。北海道の余市での実践が、全国に知れ渡り、有名になったら教職を離れたはずなのに、昔の経験を語ったり、文字にしたりして、じゅうぶんに生活している。不登校のこどもの内面や背景をもっとも実践のなかから見聞きしてきた過去があるはずなのに、再生会議の提言にある授業時間数の増加に加味しているのは、転向したとしか思えない。このひとの講演会にも、誘われても、頼まれても行かない。

 そして、渡辺美樹(ワタミ社長)氏。会社経営のノウハウを教育の再生に活用しようとでもいうのだろうか。飲食業の成功例と、教育の成功例を同じ基準で比較できるとは思えない。ワタミグループを調べたら、たくさんあった。この不買運動を全国の教職員が本気で展開したら、かなりの営業打撃につながると思う。調べただけでも、わたみ・和み亭・ゴハン・japago・然の家・焼肉炭団・TGI FRiDAY'Sが、ワタミグループだ。

 次に教育再生会議がどこでいつ開かれているかを検証する。
 第1回は2006年10月18日。総理官邸の大会議室で8:45-9:45の1時間行われている。ずいぶん早い時間、それも短時間に行っている。最初だから顔合わせみたいなものだったのだろうか。
 第2回は一週間後の10月25日。これも総理官邸の大会議室で8:45-10:00だった。前回よりも15分長くなったが、なにか会議をする時間としては短い。あらかじめの原稿があって、それを読み合わせしているのだろうか。
 第3回は一ヵ月後の11月29日。これも総理官邸の大会議室で8:45-9:50だった。会議とは名ばかりで、用意された資料を読み合わせているとしか思えない。
 第4回は一ヵ月後の12月21日。これも総理官邸の大会議室で8:45-11:00だった。いままででもっとも長い会議になっているが、もうこの会議で第一次報告の骨子を検討している。前回までの1時間前後の3回の会議で、答申できるような検討をしたとは思えない。やはり、会議とは名ばかりで、政府が主導したシナリオがあって、その資料をメンバーが読み合わせをしているのだろう。
 第5回は年が明けてことしの1月24日。これも総理官邸の大会議室で14:30-15:30のたった30分間行われている。このときには第一次報告案が示され、総理大臣が挨拶をしている。最初の二回は一月に二回開催していたが、その後は一ヶ月に一度のペースで、それもとても短時間しか確保されていないなかで、もう答申案が示された。
 なぜか第6回は二ヶ月あいて、3月29日。これも総理官邸だが、小ホールに場所を変えて、16:20-17:20の1時間行われている。それにしても短時間だ。この会議で100マス計算の陰山氏は「ゆとり教育見直し」と「学力向上プラン」を提案している。
 年度をこえて第7回は4月23日。前回から使用している総理官邸小ホールで8:30-9:50だった。3つの分科会からの報告があり、1時間半まではいかないがやや長くかかる。
 そしてまた2ヶ月あいてきょう6月1日が第8回目だった。総理官邸小ホールで17:40-18:20というスピード会議だ。すでに第二次報告案が示されている。

5672.5/31/2007

 かつては小学校教師で「100マス計算」を普及させ、学習テキストの著作で印税だけで1000万単位の副収入を得ていた陰山英男(立命館小副校長)氏。考え方は正しいし、実績も認めるが、自分のやり方がすべてのこどもに通用すると考えているところが信用できない。こどもの多様性を無視していないだろうか。また、わたしのように特別支援教育に携わっている関係者にとっては、教材や指導法そのものが蚊帳の外の世界のものなのに。立命館大学の附属小学校にはわが子を入学させない、と言いたいところだが、わが子はとっくに義務教育年齢を終了しているので、関係ない。
 一番困るのが、葛西敬之氏だ。このひとに問題があるのではなく、彼がJR東海の会長だということに問題がある。鉄道フリークのわたしにとって、東海道新幹線への乗車拒否は長年の趣味との決別を意味する。しかし、これも信念に従うべきとあきらめる。これからは東北新幹線や上越新幹線で、新幹線ライフを楽しむことにする。
 現職の教育長からは門川大作(京都市教育長)氏がいる。京都市の実績を、全国へ発信するのはいいが、教育再生会議の提言は、ただの発信ではなく、強制力をもった押しつけになることを肝に銘じてほしい。先斗町の床で串揚げを食べた思い出。京都への旅はOKとして、京都市の公立学校にわが子を入学させることはやめよう。あー、これももうこどもが大きくなっているから意味のないことだ。
 川勝平太(国際日本文化研究センター教授)氏。海洋国家日本を認識させた政治学者なのだそうだが、政治学と教育学に接点はあるのだろうか。
 小谷実可子(日本オリンピック委員会理事)氏。わたしは、シンクロナイズドスイミング競技に興味はないが、スポーツ界からの視点を教育の再生に使うというのであれば、決して競技人口が多いとは思えないシンクロの経験者よりも、野球やサッカーの経験者を招くべくではないだろうか。もともとあまり興味はなかったが、今回のメンバー採用で、いよいよオリンピックでのシンクロを見ない決心を固めた。

 現在の東京大学総長の小宮山宏氏。教育ジャーナリストで障害児教育分野で講演活動をしている品川裕香氏。テレビの情報番組で名を売った東洋大学教授の白石真澄氏。
 この3人は、教育界からの人選なのかもしれない。知り合いに東大(東京大学と東洋大学)の人間がいたら、知り合いの縁を切ろう。障害児教育関係の講演会で講師が品川氏だったら、行くのをやめよう。

 張富士夫(トヨタ自動車会長)氏。学校教育に生産性とコストを導入しようという発想は、このひとから発せられているのかもしれない。世界のトヨタを相手に、不買運動は門前払いかもしれないが、これから買い換えるときに、トヨタのディーラーには行かない。
 中嶋嶺雄(国際教養大学長)氏は、中国問題の専門家だ。しかし、秋田の国際教養大学の評判は、あまり聞いたことがない。
 座長のノーベル賞学者の野依良治(理化学研究所理事長)氏。もしもわたしがノーベル賞にノミネートされたら、受賞を辞退しよう。でも、いったいどんなノーベル賞にノミネートされるのかは自分でも関心がある。

5671.5/30/2007

 キョウイクサイセイカイギ。教育再生会議。わたしには、キョウイクサイアクカイギにしか思えない提言ばかりを発している。
 公立学校行政に関する中央の審議機関は、文部科学省が委嘱する中央教育審議会のはずだ。しかし、ここ数年、首相が諮問する教育関連機関が、中央教育審議会の頭ごしに多くの提言をしている。古くは、臨時教育審議会、最近では教育改革国民会議が記憶にある。そして、教育再生会議。いったい、中央教育審議会のメンバーはどう思っているのだろう。また、その役目はなくなってしまったのだろうか。

 大英帝国の植民地だったインドで、非暴力・不服従を唱え、その後の独立に大きな役割を果たしたガンジーの教えを思い出す。
 暴力には暴力をもって抗っても、価値ある結果は望めない。市民の力を結集するとき、多くのひとが行動しやすいやり方のほうが有効だということを歴史は証明している。
 教育再生会議の提言内容が、あまりにも暴挙なので、わたしは会議のメンバーに関する中傷ではなく、そのメンバーが所属する組織への不服従運動や不買運動を展開してはいかがと考える。きっと、全国の教職員の多くは、新聞やニュースで伝えられる教育再生会議の提言内容に大きな疑問と不満を持っているのではないかと想像する。時代の流れに逆行し、いまのこどもたちの置かれた状況を無視し、ひたすらおとなたちのノスタルジーと個人的な情感を前面に押し出した提言は、呆れるものが多い。

 ガンジー的非暴力・不服従運動を展開するとしたら、どんな運動ができるのかを考察する。

 演劇が好きなひとには申し訳ないが、もう劇団「四季」の作品は鑑賞しない。浅利慶太(劇団四季代表)氏がいる。わたし個人としては、四季の作品や役者は好きだが、これからは信念のために個人的な思いは捨て去ることにする。
 化粧品はあまり使わないが、女性は必需品だろう。座長代理をしているのは、池田守男(資生堂相談役)氏だ。いま使っている資生堂製品を使い切ったら、次回からはほかの会社の製品に買い替えよう。
 海老名香葉子(エッセイスト)氏。この名前ではピンとは来ないかもしれないが、知る人ぞ知る名門落語一家の女将さんだ。これも個人的には落語は大好きなのでつらいところだが、もう寄席に行ったり、行きたいという気持ちは持たないことにする。でも上方落語は例外にしよう。また、テレビの落語もいいことにする。

 ここまでの3人をピックアップしたとき、どなたも教育のプロではないことに気づく。必ずしも、教育の未来は教育関係者だけで議論すべきだとは思わないが、演劇・化粧品・落語という世界のひとたちが、学力論議をしても、真実味があるとは思えない。

 しかし、元文部科学省事務次官で現・日本学術振興会理事長の小野元之氏もいる。総合的な学習の時間を創設し、全国に普及させた。総合的な学習の時間は、考え方は正しいのだが、運用の段階で、あまりにもほかの教科や授業時間数との関係から、無理のある導入となり、結果として、うまく機能していない現実がある。こういうひとが「再生」会議にいるというのは、どういう意味があるのか不思議に思う。

5670.5/29/2007

 教育現場の仕事は学校関係者に任されている。
 しかし、学校関係者には、教育行政に対してモノをいう権限がない。
 だから、教育行政の指導・伝達は、学校関係者の意見を無視して、トップダウンで降りてくる。電話一本で伝えられたり、書面一枚で伝えられたり、伝えられ方は様々だが、教育行政の担当者が直接学校に来て、学校関係者に口頭で依頼するということはない。

 わたしは、日々、授業研究やこどもの指導計画の検討をしている。
 特学では、それらはひとりでできるものではない。複数のメンバーで多くのこどもを指導しているので、授業計画や指導計画は、ひとりだけが理解できていても空回りする。こまめにミーティングを開いて、情報の共有をしておく。
 2時半にこどもが帰る。3時ごろまで、教室をあしたの準備環境にする。黒板の日付を変更し、授業予定のカードを並べる。交流活動に参加するこどもの一覧表を作る。給食のメニューを確認し、アレルギーのこどもの食事に配慮する。3時を過ぎたら、教材室にこもって、教材の整理と準備をする。その日の学習でこどもが使ったプリントや教材をまとめる。採点が必要なものは赤ペンで採点する。採点したプリントは整理棚に収納する。磁石や刺繍など、こどもが使った教材は、ふたたびあした使いやすいように整理してクリアケースに収納する。新しい教材の導入を検討しているときには、少しの時間を使って、カッターと厚紙を用意して、教材を作る。そんな合間に30分ぐらいの時間をとって、教員4人がそろうときは、ミーティングをする。その日の反省、翌日の分担、配慮が必要なケースの確認など。これらは30分をこえて1時間ぐらいになることも多い。あっという間に5時のチャイムが鳴る。

 労働基本法で定めている休憩時間も休息時間も、その日の最終授業や、会議によって変更されるので、いったい何時からで何時までなのかも知らない。休憩・休息をとっていたら、勤務終了の5時15分以降も仕事をしなければならないだろう。学校の仕事は、残業手当がつかないので、遅くまで残って仕事をしても、一円にもならない。
 保守系議員は、学校現場の実情をほとんど知ろうとしていない。だから、これまで慣例だった休憩時間の後取りについて疑問に思った。一日の労働時間の最後に休憩時間を持ってこないと、まともに休憩することが困難な仕事が学校現場の仕事なのだ。給食時間に、学校のおとなが、一斉に「お昼でーす」と職員室で弁当を広げたり、町にランチに出かけたりすることができたら、休憩時間は昼食時間にすればいい。しかし、日本の教育体系では、給食も教育の一環で、指導の対象にしているので、こどもたちだけにすることを許さない。
 労働時間以外の労働が日常化している。無賃労働が美徳とされる。
 いつも教育行政の姿勢は同じだ。議会与党の保守系議員の声に沿う。あるいは意向を先取りしようとする。おとなたちのノスタルジーや一方的な考え方を、こどもにどんどん押しつけてくる。いじめのない友だち関係をなんて、よく言えたものだと思う。

 その危険な足音は、いまの政権になって全国規模で強く、執拗になりそうだ。

5669.5/28/2007

 28日。週明けの月曜日。きょうは電車が大変だった。
 大船駅に6時半過ぎに到着する。6時53分発の下り東海道に乗ろうとしたら、電光掲示板に、すでに出発しているはずの6時前半の電車名が表示されている。おかしいと思う。以前なら、なんだろうと思いながら、改札をくぐって、階段を降り、ホームに並んでいた。
 しかし、少しずつ電車通勤に慣れ、すでに出発しているはずの電車名が、まだ掲示板に表示されていたら、それは機械の故障ではなく、まだその電車が到着していないことを意味していることに気づくようになってきた。
 なぜ、電車が遅れているのかはわからない。考えられることは、電車のトラブルか人身事故だ。
 掲示板を注意深く見ると、文字ニュースが流れていく。
 横浜駅近くで貨物列車がトラブルを起こして、東海道線と横須賀線の上下線が、運転を見合わせていると表示さていた。月曜の朝から、迷惑なことだ。
 そのうちに運転が再開されるだろうと思ったが、仕事前の時間は一分一秒が貴重だ。出勤したら、すぐに用意したいファイルがあったし、ほかの教員に渡したいプリントもあった。そして、特学のこどもたちが登校したら、教室に教員がだれもいないということだけは避けたかった。無用なトラブルを避けるためだ。
 きっと多くのひとたちがまだ電車が遅れていることに気づいていないのだろう。モノレールやバスを下りた多くのひとたちが次々と改札をくぐっていく。わたしは、以前、帰りに藤沢駅のホームで、踏切事故で遅れていた電車を30分以上待った経験がある。そのときは、運転再開の目途が立たないほどの事故だった。しょうがないので、改札を出て、タクシー乗り場に向かう。すると、そこには長蛇の列ができ、ふだんはすぐに並んで乗ることができるバスやタクシーが乗客の急な増加で追いつかなくなるのだ。いつ運転が再開されるかどうかわからない電車に見切りをつけ、わたしはすぐにタクシー乗り場に向かった。
 タクシー乗り場は、だれも並んでいなかった。タクシーが、夜勤のひとたちと早朝のひとたちとの切り替え時間なのか、いない。それでも、数分の後にタクシーがやってきて、わたしは乗った。
 28日は、朝だけでなく、帰りも電車を見ることができなかった。夕刻に藤沢駅に行ったら、電光掲示板に「遅れています」の文字が見つかる。
 えーっ。帰りもかよぉ。
 そう思いながら、電光掲示板の情報を読む。すると、東海道線で人身事故があり、下り電車に遅れが出ているとのことだった。わたしは、藤沢から上りに乗るので、そのときの段階では問題がない様子だった。急いでホームに行って、定刻通りの上り電車を待つ。
 20分遅れの下り電車が、入線してきた。朝のラッシュか、最終電車かと思うほどの客を乗せていた。ホームで下り電車を待っていたひとが、扉からあふれそうになりながら、電車に乗ろうとしていた。上りはいまのところは影響が出ていないけど、こういうケースの多くは、やがて車両のやりくりがつかなくなって、上下線で遅れが出ることを知っていた。だから、これから入線してくる上り電車も、あの下り電車と同じくらい混雑しているかもしれないと覚悟を決めた。しかし、定刻通りに到着した上り電車は、いつもの人数ぐらいの客を乗せ、さっきの下り電車とは対照的だった。
 電車のなかで、扉の上の文字ニュースを読む。青梅線で人身事故があり、中央線の快速電車の乗り入れを中止していると伝えていた。
 朝も夕方も。あっちもこっちも。こんなに重なることがあるんだとびっくりした。

5668.5/26/2007

 ことしもまた特学の5年生を引率して、八ヶ岳にある藤沢市の野外体験教室に宿泊する季節が近づいてきた。
 現在の特学には、1年生から6年生までの全学年が在籍している。だから、各学年の遠足・社会見学・学区めぐり・地区めぐりなどの校外活動には次々とこどもたちが参加していく。そのたびに、特学スタッフの中でだれかが引率する。一年間分の引率計画を練るだけで検討にはたくさんの時間を必要とする。こどもたちが学校を離れる活動のときは、交流学級の担任だけに任せるケースはあまりない。こどものことをよく知っている特学の教員が、付き添う必要があるからだ。
 とくに5年生の野外体験教室と6年生の修学旅行は、一泊二日で宿泊が伴うので、引率した教員は、特学を2日日間にわたってあけなければならない。現在の特学の教員は、2人から4人のこどもをそれぞれが担当している。学年は複数にまたがっている。だから、5年生の活動に引率したら、その2日間は5年生以外のこどもは、ほかの教員に個別指導や、交流学級への介入支援などを頼む必要がある。

 わたしは、ことし1年・2年・5年・6年の4人のこどもを担当している。
 今回の5年生の体験教室に引率すると、その2日間、1年・2年・6年のこどものことを、ほかの教員に任せていく。これは秋にある6年生の修学旅行でも同じことがいえる。

 だから、ほかのこどもの学習内容や使っている教材、教え方などの情報は、特学スタッフでこまめに伝え合っておく必要がある。それぞれのこどもの学校生活と学習内容については、個別指導計画を作成し、スタッフで内容を検討するケース会を開いているので、おおよそのことはわかっている。しかし、現実の教材をもとに、やり方に関する情報交換は正式には行っていない。授業の合間や休み時間、こどもたちが帰った放課後に、特学の教室でそれぞれが教材準備をするなかで、互いに情報を共有する。
 教材の紹介や、使い方の共有は、教材というモノを介して、こどもとの関係のとり方の意見交流という側面も持つ。
「そこまで、ていねいにしなくてもいいんじゃない?」
「糊を使うことに抵抗があるこどもがいるよ。その教材では糊の使い方を覚えるわけじゃないだろ。手が汚れないで、紙を貼ることができるようにしたほうがいい」
「どこからどこまでがこどもの作業で、教師はそれに対してなにをするのかがわかりやすいね」
 互いに、意見をぶつけあいながら、ひとつの教材がかたちあるものに仕上がっていく。授業で使った後にはこどもの反応が気になる。
「どうだった?」
「やっぱりあの子がつまずいていたのは、糊で手が汚れることだった。両面テープにしたら、問題なくやっていたよ」

 本屋に行くとたくさんの教材が売られている。それらを生きたものにするかどうかは、使う人のちょっとした工夫がどれだけ加味されているかどうかにかかっている。

5667.5/22/2007

 初めて鍼に行った日。わたしは2時から4時まで治療して、その足で大船に出た。
 春に退職したお世話になった方の慰労会が開かれるためだった。仕事関係ではなく、こどもが世話になった地元の学校の先生たちだ。教員という立場ではなく、保護者という立場で参加するので、気持ちは楽だ。
 宴会は5時からで、鍼の後で大丈夫かなと心配した。
 でも、乾杯し、知り合いと飲んだり話したりするのに夢中になって、鍼の後の「だるさ」や「気分の悪さ」のことなど忘れていく。もしも、7時ごろになって気分が悪かったら、それは鍼の影響ではなく、飲みすぎの影響だっただろう。

 あれから、一週間が過ぎた。
 学校で朝の運動のときに校庭を走っても腰は痛くなかった。しびれも走らない。ついついからがが軽くなって気がして、いつもよりスピードをあげて走ることができた。
 個別指導のときに、いすに座っているこどもの目線よりも下に自分の姿勢をとって、こどもの表情を読み取り、ふたたび教材の準備で立ち上がる繰り返しをしても、腰には痛みが走らない。
 これらは、きっと鍼のおかげだと思った。
 どんな治療も、だれにでも効くというのではないだろう。鍼を打って、よけい体調が悪くなるひとがいると聞く。また、どの鍼灸院でも同じ効果があるわけではない。先生の腕と経験によって、治療結果に差も出るだろう。今回、わたしはたまたまひとの紹介で訪ねた鍼灸院が、わたしのからだにフィットしていたのだ。

 ホームで電車を待っているとき。
 いままで以上に回りのよくなった首を思わず、ストレッチのつもりでぐるぐる回す。可動域があきらかに増えているのが実感できる。からだの向きを変えなければ見えなかった範囲が、首を回すだけで視界にとらえることができる。おもしろくなって、何度も前後左右に首を動かしていたら、近くに並んでいたひとの奇妙な視線に気がついた。
「おっと」
小さく咳払いをして、正面に向き直る。
 向かいのホームのひとたち、同じホームで電車待ちで並んでいるひとたちを観察する。多くが、雑誌や新聞を読んだり、音楽を聴いたりして、間を持たせている。どのひとも、同じ姿勢を維持し続け、からだを動かしているひとはいない。これでは、みなさん、こりがたまるだろうなぁと、かつての自分を重ねながら思った。

5666.5/21/2007

 次に、鍼を抜き、同じように首を回したり、からだを前かがみにする。
 驚いたことに、さっき痛みが走ってそれ以上曲がらなくなったところを通過して、もっとからだが曲がるようになった。骨と骨をつないでいる筋肉が取れてしまったようだ。
「さっきと違うでしょ」
背中で先生の声がする。
「はい、なんだか、からだがばらばらになっちゃったみたいです」
笑う声がする。
 本当に、ばらばらになってしまったみたいに、首や腰がよく回るのだ。いまなら、関節の限界を超えて、体操選手みたいにからだをくるくる回せそうな気分になった。

 ひととおりの治療を終える。
 わたしは、洋服を着ながら質問する。
「鍼を打つと、どうしてこりがほぐれるんですか」
先生は、道具を片づける手を休めて、身振り手振りで教えてくれる。
「かたくなった筋肉に、鍼が刺さると、自然な作用として、筋肉はぎゅっと固まるんです。次に、その鍼を抜くと、反対に今度は固まる以前よりももっと緩んで、そのときに血管につまった老廃物を流していくから、こりがほぐれるって理屈だよ。だから、ひとによっては急に全身の血流がよくなって、だるく感じたり、気分が悪くなったりすることもあるのね。でも、3時間ぐらい経ったら、それもおさまるから、もしだるくなっても安静にしていれば大丈夫」

 なるほどと思った。
 同じ姿勢を繰り返したり、運動不足で、血管がつまり、筋肉が固くなった部分をほぐしたのに、健康だった状態をからだが忘れてしまうほどこっていると、血流のよさでさえ、からだは慣れていないから拒絶するのか。悲しいことだ。運動選手が試合の前だけでなく、後にも入念なマッサージをするのは、次に筋肉を使うときのために、こった筋肉をもとの状態に戻すことがねらいだったのかと考えた。負荷を与え、負荷を解き放ち、全身のバランスをもとに戻す。肝臓に影響を与える薬や、皮膚にかぶれを作る湿布などの力を借りなくても、こういう方法があったのか。

 「腎臓周辺は、だいぶ血流が悪いのか、鍼を受け付けないところがあったわ。時間をかけてほぐしていく必要があります。腰は、腰から腿の裏側の筋肉がこっていて、これがからだが曲がるのを抑えていたから、神経にあたっていたみたい。当面は痛みはないでしょう」

5665.5/19/2007

 すると急に先生は鍼を打つのをやめて、わたしの左腕をとって脈を取り始めた。しばらくして
「検査で腎臓や心臓でなにか、言われてないかなぁ」
と聞く。占い師かと思った。
「人間ドッグで心臓は不整脈、腎臓は結石があると言われています」
「不整脈は痩せれば治るよ。でも腎臓はなぁ」
 そう言って脅す。それよりも、どうして脈を診ただけで、ふたつの内臓疾患を当てることができたのか。そのことのほうが驚きだった。
「どうして、わかったんですか」
「脈に出ているんだなぁ。ふたつの弱さが」

 じつは人間ドックでは肝臓の値も高かったのだが、昨年から晩酌の量を減らす日常生活に少しずつ変化させた。その効果が現れて、肝臓は復活したのだと喜んでしまう。ことしの人間ドックでは、正常の範囲内にもどっているかもしれない。それにしても、脈を診ただけで、先生、なかなかやるのぉと感心した。
 感心し終わったら首から胸、おなかから腿、膝から足先にかけて、また先生の魔法の指がこっている場所を次々に探し当てては鍼を打つ。背中側で慣れたせいか、おなか側は多少の「うっ」はあっても、そんなにうなることはなかった。
 そのうちに、焦げ臭くなる。ライターで火をつける音が聞こえる。灸もやるのかぁと思っていたら、何ヶ所かからだがぽかぽかしてきた。全身がとてもリラックスして心地よくなる。ふたたびわたしはそのままの状態で、眠りに入る。先生は隣室の患者に鍼を打ちに行く。

 しばらくしたら、先生が戻ってきて、鍼を抜き、ベッドに腰掛けるように言う。
 ベッドの端に腰掛ける。今度は背中側をマッサージしながら、鍼を打つ。肩から首にかけて何ヶ所か鍼を打つ。
「はい、この状態で首を回してみて」
言われたように首を回そうとすると、ある角度になったら、首が回ろうとしない。痛みが走る。
「これが限界です」
 立たされて、腰に鍼を打たれる。
「はい、この状態でからだを前にゆっくり曲げて。痛くなるところまで曲げてみて」
言われたように、からだを前かがみにする。これも首のときみたいに、ある角度まで行ったら痛みが走りそれ以上は曲がらない。

5664.5/17/2007

 鍼が打たれる感触は想像していたものとまったく違い、ほぼなにも感じなかった。
 ただ、鍼を打った後で、先生が鍼先をごりごりとまわすときに、こりがひどいところだと、強い指圧をしているような痛みが走った。
「うっ」
 思わず、声を上げる。寝ていればいいのよというアドバイスが、遠くなって行く。これでは睡眠に入ることはできない。先生の指が、わたしの背中や肩をたどる。そのたびに、あーそこが効きそうなんだけど、どうか外してくれますようにと祈る。しかし、その願いは虚しく、「みーつけた」と言わんばかりに針が打たれる。そして、ごりごり。そのたびに「うっ」と声を上げる。
「痛いときは、がまんしないで、叫んでもいいのよ」
先生は言う。
「ただ、神経に触れたときは、打ち直すから、ちゃんと言ってね」
 恐ろしいことを言う。こちらとしては、神経に触れて痛いのか、こっているつぼにはまって痛いのか、違いがよくわからない。でも、あまり叫んでいると、打ち直されてしまうのなら、少しはがまんしようかという気持ちになる。

 右肩、腰、膝の裏などに、重点的に鍼が打たれた。
 その後、しばらくそのまま寝ていることになった。もうひとりの患者のために先生が別の診察室に行ったからだ。
 鍼を打たれたときは感じなかったのに、鍼を打たれたままにされると、その部分が強い指圧をされている感じがした。うつ伏せなので、自分の背中が見えない。ものは試しだと思い、鍼が打たれている様子を見たくなる。首を後ろに回そうとしたら、首の周囲にも鍼が打たれていて、強い指圧感があり、思うように首を回せない。でも、右肩から肘、手の甲にかけて、細長い鍼が何本も打たれているのを見て、それ以上は見たくなくなった。
 昔、昆虫採集をして、虫ピンで昆虫を刺した。そのときの標本みたいに、自分がなっているんだろうなぁと想像する。
 そのうちに、全身が熱くなってきた。下着だけなのに、ぽかぽかしてきて、いつの間にか夢の世界に突入してしまった。

 気づいたら、背中に感触がある。
 先生が戻ってきていて、打った鍼を抜いている。抜いたところを、軽くもんでいる。
「じゃぁ、仰向けになって」
 うつ伏せになって寝る前に、一瞬そのことを考えた。からだの後ろ半分で終わりということはないだろう。前半分もやるとなると、胸や腹にも鍼を打つのか。そのことを想像したら、恐ろしくなる。その想像が現実に。いや、もう結構とは言えず、正直に仰向けになる。もうどうにでもなれという気持ちで目を閉じる。
 真っ先に、先生の手がつぼを探したのは、肋骨と肋骨の間あたりだった。ひえーっ、心臓とか肺とかありまっせぇ。

5663.5/15/2007

 大型連休後半が始まったばかりの5月3日の朝。わたしは、起きたら右腕に違和感を感じた。布団から起き上がろうとして、右腕でからだを支えたら、肩から下に力が入らないのだ。
 仕方なく、利き腕ではない左腕で上半身を起こす。その状態で試しに右腕を動かす。肩の高さまでは上がるのだが、それ以上には自分の力では上がらない。ジーンとしびれた感覚が腕全体に広がる。寝違えたかな。それとも、いわゆる四十肩ってやつかな。寝床であれこれ考えた。左腕で右腕を支えないと肩から上に上がらないのだ。指は動く。肘も曲がる。でも万歳の姿勢がとれない。
 ソフトボールシーズンの開幕が近づいている。これではボールを投げることができない。黒板の高いところに字を書くことができない。
 知人に相談して、生まれて初めての鍼治療をすることにした。4日と5日に日帰り温泉でたっぷり肩をいやした。だいぶ回復し、自分の力で腕を上げたり、まわしたりすることができるようになった。でも、きっとそれは一時的な回復に過ぎないと思った。

 腕の変調は急なことだった。でも、それ以外にいまの学校に赴任して以来、腰から下にしびれが走ることがたびたびある。これは、明らかに立ったり、しゃがんだりを繰り返す仕事の影響だろうと思っていた。校庭をこどもたちと走るときに、ひどいときはどちらかの足がしびれてしまい、引きずるようにしないと、前へ進めないのだ。
 腕だけではなく、腰のしびれも鍼で診てもらおうと思った。

 12日の土曜日。生まれて初めて鍼に行く。
 紹介してくれた知人のお母さんは、わたしを築地に連れて行ってくれたHさんだ。鍼に行くとき
「何も心配しなくて大丈夫。からだをリラックスさせていれば、とっても気持ちがいいから。寝ていればいいのよ」
とアドバイスをしてくれた。

 かつて、頭痛がひどかったとき、整体にはだいぶ通った。鍼の治療院も、内部は似たような作りだった。室内に気持ちをリラックスさせる音楽が静かに流れている。ベッドがあって、下着だけになってうつ伏せになる。問診のときに、腕のことと腰のことを伝えた。
 うつ伏せになっているので、背中で先生がなにをしているのかはわからない。先生は60歳ぐらいの女性の方だ。どんな患者が来るのかわからないのに、ひとりで仕事を続けるのは勇気がいるだろうなと考えた。うつ伏せになったら、先生の机の隣りにある本棚が目に入る。鍼関係の書籍に並んで「はじめてのひとのパソコン入門」「困ったときのウインドウズ」という真新しいパソコン関連本があった。最近、パソコンを始めたのだろうか。
 そんなことを考えていたら、先生の指がいきなり右肩から肩甲骨にかけて、ボタンを押すように辿っていく感触があった。その指先は、なぜか、わたしがこりを感じるところで止まり、その場所を確かめるようにして、鍼を打つ。背中に「ここがこっています」という貼り紙でもあるかのように、狙いに狂いがない。

5662.5/14/2007

築地へ行く(11)

 それでも昼前には大船に戻る。
 いったんHさんの家に行き、買ってきた荷物を小分けする。買ったときは、キロ単位で売っているのに、グラムで買ってしまって、店のひとに申し訳ないと思っていた。でも、リュックから出した荷物を並べてみたら、こんなにたくさん冷蔵庫に入るだろうかと不安になってきた。ちりめんを500グラムも買って、どうするんだ。
「食べない分はラップにくるんで冷凍しておくといいよ」
Hさんに教えられる。

 自宅に戻ってから、教えられたように、食べる分だけを、小さなタッパーに入れた。あっという間にタッパーはちりめんで埋まる。それでも、紙袋のなかには山ほどのちりめんが残っている。ラップでげんこつぐらいの大きさでまとめていく。5個もかたまりができてしまった。それから連日、ご飯にはちりめんを乗せて食べている。酒の肴としても、キムチとあわせて食べると酒が進む。
 キムチもまな板に出したら、あふれてなかみがこぼれそうな量だった。白菜の半分がそのままキムチになっていて、葉と葉の間にからしやニラやにんにくが詰まっている。包丁で小分けにするけど、やや大きめのタッパーで3つにぎゅうぎゅう押し込んだ。
 鮪やホタルイカ、ホタテは、なるべく早いうちに食べたほうがおいしいと思い、実家の父にもお造りにして持って行った。
「ひとりだと、こういう生ものは買わないから、もっぱら店で注文するんだ。いやぁ、今夜は家にいて料亭気分になれて、こりゃごちそうだ」
 缶ビールを片手に喜ぶ。早朝から築地まで行って来た甲斐がある。

 2012年に現在の築地市場は、豊洲に移転する計画を東京都知事は明言している。
 移転先の候補地から有害物質を含んだ土砂が出て問題になっているが、強引な政策実行の多い東京都が、そんなことで計画を変更することはないだろう。跡地にはオリンピック施設を建設するという。まだ東京がオリンピック開催地になったわけではないのに、先を読みすぎた計画だ。もしも誘致に失敗したら、公営ギャンブル場(カジノ)にするという声もある。
 築地本願寺の仏様も、波よけ地蔵のお地蔵様も、そんなことになったら、悲鳴をあげるのだろうか。
 銀座からすぐ、隅田川の河口という立地条件を、観光や商業利用に使い、大きな利益をあげたいひとたちはたくさんいるだろう。そういうひとたちが、権力の座にあるひとたちに政治献金をして市場移転を画策するのだとしたら、大義名分の裏にある私利私欲を見逃してはいけない。

 初めて行った築地は、まだまだ知らないことがたくさんありそうな興味ある市場だった。ぜひ、またといわず、何度も足を運びたい。(連載・終わり)

5661.5/12/2007

築地へ行く(10)

 わたしは、そこでも「グラムでもいいですか」とおじさんに聞く。
「いいよいいよ」
愛想良くはかりにちりめんを乗せながら、計量してくれた。100グラムってのも悪くなる。キロ3800円のを500グラム買った。こんなにたくさんのちりめんを一度に買った最高新記録だ。紙袋にちりめんを詰めながらおじさんは語る。
「昔は箱で買っていくお客さんが多かった。ん、箱って5キロよ。最近はそういうお客さんはめったにいなくなったなぁ。もっと前はこれより大きな箱で買うお客さんもいたよ。えーと、あれは25キロだな」
 グラムでもいいと言いながら、内心では「せこい客」と思っているのか。ごめんね、500グラムしか買わなくて。

 食事会用やお土産の品物をたくさん買って、わたしは、大学時代に夏の二十日間山行ぶりの重さを肩に感じながら、リュックを背負った。  車まで荷物を運んで帰ることになった。
 にぎわう場内を出て、茶屋と呼ばれる場所に行く。
 茶屋は行き先別に買出しの客が買った荷物が届けられているところだ。そこから、買出しに来たひとたちがまとめて荷物を車に積み込む。一般のひとたちではない。みんな購入した商品を店や料亭に持って帰って、小売するひとたちだ。だから、購入している量が発泡スチロール単位でダイナミックだ。

 Hさんは、ある茶屋でなじみの魚屋を見つけた。挨拶をしていたら、その魚屋さんが自分が購入した商品の包みをばりばりと破り始めた。なにをするのかと思ったら、そのなかから、ホタルイカ・アジの干物・ホタテの剥き身をパックごと取り出して、プレゼントしていた。かつて、その魚屋さんはHさんのことをとても気にかけてくれていたひとだと聞いた。体調を崩して入院したときは、わざわざ大船まで見舞いに来てくれたとのことだ。互いの家庭の事情など詳しいところまで入り込まない伝統がある築地で、そこまでしてくれるひとは珍しい。もしも、事前に買出しに行くことを伝えていたら、きっともっとたくさんのお土産を用意していたのだろう。だから、Hさんは今回の買出しをあえて連絡していなかった。そういうひとたちの厚意を無駄にするためではなく、お世話になったひとたちに気遣いをさせまいとするHさんの心遣いだ。

 車に戻ったら、わたしは靴と靴下を脱いだ。場内を歩き回っていたら、靴の中に水が入り込み、すっかり足が濡れてしまったからだ。
 こないだやっと撃退した足のかびが再燃しないように、はだしで運転しながら大船まで帰る。行くときはとても順調に行ったのに、なぜか帰りは二度も方角を間違えた。いきなり、お台場方面に向かい「おーフジテレビ」などと言っていたときはよかった。横浜まで戻ってきたら、空いている車線をすいすい選んだ。いつのまにか、車は第三京浜に入り、ふたたび東京を目指していた。

5660.5/11/2007

築地へ行く(9)

 生鮭を扱っている店で、「あとで寄るから、切り身を用意しておいて」とその場予約を入れる。「ありがとうございます」も「まいどー」も返事はない。わかっているのかなぁと心配になる。

 おでんの具になる練り物ばかりを扱っている店で「端から適当に見繕って、1キロお願い」。試食をしたら、どれもこれまで食べたことのない甘さと弾力があった。
「洋ちゃん(とHさんはわたしを呼ぶ)も、頼みなさいよ」
 練り物を1キロも買ったら、食べるのが大変だ。小さな声で「グラムでもいいですか?」と聞く。了解されて「じゃあ、焼いたらおいしいのを500グラムお願いします」。それだけで、女将さんは紙袋にさっさと詰め込んでくれた。
「ここの女将さんは、ゴルフがとても上手なの」
最近、ゴルフにはまっているHさんが教えてくれる。そんなこたぁないわよと手を振りながら
「こないだ、42、41でまわったよ」
女将さんが、ちょっと得意げに胸を張る。パーでまわると72だそうだから、合計で83というのは、素人としてはすごい上手な域に入るらしい。なにしろ、やったことのないわたしには、そのすごさがいまいち理解できない。それよりも、焼いたらおいしいものと言われて、10秒ぐらいで、さっさと500グラムもの練り物を紙袋に詰め込んだ早業のほうがすごかった。

 ちりめんばかりを扱っている店に行く。
 同じように見えるちりめんなのに、キロ単位の値段がずいぶん違う。キロ3800円とキロ2400円。1200円もの差はどこから来るのだろう。どのちりめんも、紙の箱に山盛りになっている。ハエや猫がいたらどうするんだろうと思う。
「どこが違うの?」
「食べてみればいいのよ」
いとも簡単に言う。
 小売のひとが買いに来ることを考えれば、味を確かめるのは当然のことだ。味を確かめて、値段を納得して、大量に買っていくのだろう。
 試しにそれぞれを少しずつ手のひらにとり味を確かめる。すぐに違いがわかった。いいちりめんは、よく干されていて、食べた後もしっかりジャコと海の香が口に残るのだ。わたしは試しに、その店に置いてあったもう少し安いちりめんも味見をする。安くなればなるほど、生乾きで水分を感じた。鎌倉の腰越で釜ゆでシラスを売っているけど、あれに近くなっていく。なるほど、手のかかるものほど価値が高いことを知った。

5659.5/9/2007

築地へ行く(8)

 Hさんは、今回の築地買出しの前に仲卸店にいい鮪が入ったら保管しておいてほしいと頼んでいた。
 さすが鮪専門の仲卸店で長く働いていただけあって、市場のことを知っている。その日の鮪がみんないいとは限らないし、たとえいい鮪が入っても、買出しに行ったときにはもう小売業者が買っているかもしれない。先に話を通しておけば、売らずにいい鮪を保管しておいてくれるなんて、初心者には思いつかない。でも、Hさんも頼むだけでは気が引けたのだろう。早朝から炊き込みご飯を作り、世話になったひとたちに渡し歩いていた。もちろん、鮪は買うのだが、それ以上に頼みごとを聞いてくれたひとたちへの感謝の気持ちが炊き込みご飯になった。笑顔で「ありがとう」と言うだけでなく、ふだんより高い値段で買うわけでなく、仕事が終わったらこれで元気をつけての挨拶代わりの炊き込みご飯は、頼まれたひとたちにとって、なによりものお礼になったのではないかと思った。なのに、事情のわからないわたしは、早朝から行くわたしたち自身が食べるために、用意してきたのかなと思っていたのだ。

 Hさんが鮪を頼んでいたのは、ご自身が2月まで働いていた「富八」という魚屋だった。
 すでにそこで買った鮪のかま・なかおち・とろだけで、リュックは荷物でいっぱいになっていた。でも、まだ仲卸店をまわる予定がある。
「ちょっと、ここに荷物を置かせてもらっていい?」
 すでに鮪は売れてなにも置いていないのか、もともとなにも置いていないのかわからない、店頭のわきにあった大きなまな板のようなところに、わたしたちは荷物を置かせていただいた。
 そして、わたしはHさんの早足を追いかけることになる。
 仲卸店が並ぶ通路はひとがすれ違うのもやっとなほどの狭さだ。そこを、Hさんは颯爽と歩いていく。慣れないわたしは、Hさんの後姿を追いかけるだけで精一杯になる。目的の店がどこにあるかを知っているHさんと、どこに行くのかも、なにを買うのかもわからないわたし。その間をもうひとりの買出し参加者Kさんも追いかける。わたしとYさんは、たびたびHさんを見失う。そのたびに、どこからともなくHさんが現れて、手招きをする。

 行き先々で「お姉さん、お姉さん」と声をかけられるHさんは、場内では人気者だったのだろう。
「ゆっくり歩いていると、あちこちから声がかかって、いちいち相手をしていると時間がかかるから、どんどん行くわよ」
恐れ入る。
 通路にはみ出さんばかりに、発泡スチロールに入った魚貝類が並ぶ。どの魚も貝も、生き生きとしていた。きっと、ここに集まってくる魚貝類は、各地からとびきりのものが送られてくるのだろう。町の魚屋みたいに切り身で売っている近海魚はいない。サワラでさえ、丸ごと、どーんと水に浸っている。

5658.5/8/2007

築地へ行く(7)

 築地市場は隅田川の河口にある。
 西に浜離宮を拝み、東に築地本願寺が鎮座する。北には朝日新聞東京本社と国立がんセンターの大きな建物がそびえる。歌舞伎座まで歩いて行くことができる。
 1935年(昭和10年)に開設された。それ以前、魚河岸(うおがし)と呼ばれていたのは、中央区の日本橋室町一帯をさしていたらしい。江戸に幕府を開いた徳川家康は、大阪の佃村から漁師を集め、江戸湾内での漁業特権を与えた。漁師たちはとった魚を幕府に納め、残りを日本橋あたりで売りさばいた。それが魚河岸の始まりと言われている。

 江戸時代中期以降になると、専門の問屋が市場を開いて魚河岸で魚を仲買人に売っていた。
 問屋は荷主から魚を買うと、買った魚をそのまま仲買人に渡していた。買った魚を渡してしまうので、この段階では問屋には利益はない。仲買人は渡された魚を小売商に売り、市が終わってから売上を問屋に持ち寄った。そこで、問屋の取り分と仲買人の取り分を相談し、品物の値段を決めた。品物を小売してから、卸売りの値段を決めるという不思議な取引が行われていた。

 明治になって都市人口が増え、問屋や仲買人も増えた。取り扱い流通量も増えたが、同時に取引が乱れ、不衛生な環境が問題にもなる。そこで大正12年3月に「中央卸売り市場法」ができ、東京都(当時は東京市)が魚河岸を指導、運営するようになった。しかし、同年12月の関東大震災で、日本橋魚河岸は壊滅的な打撃を受けてしまう。すぐに東京都は、芝浦に仮設魚河岸を整備するが、交通の便が悪かったので、海軍省から築地用地を借り、中央卸売り市場復活のときまでの暫定市場として、築地市場を開設した。
 1935年、現在の場所に広さ23万平方メートルの中央卸売市場としての築地市場が開設した。まだ自動車が物流の主流ではなかった時代、国鉄の汐留駅から線路を敷いて、全国から貨車が市場に水産加工品や水産物を運んだ。隅田川岸壁桟橋からも船舶輸送されてきた水産物が届けられた。
 その後は第二次世界大戦を経て、戦後の東京の繁栄とともに築地市場も取扱量を増やし、規模を拡大する。2005年度の統計では、一日平均3305トンの魚や野菜が入荷し、およそ21億円が取引されるまでに成長した。

5657.5/7/2007

築地へ行く(6)

 ここで築地について少し基本知識をまとめよう。
 日本には大きな市場が築地のほかにもたくさんある。大東京綜合卸売りセンター、豊明花き地方卸売り市場、大阪市中央卸売り市場本場などは有名だ。ちなみに、中央卸売り市場とは、都道府県や人口20万人以上の市が農林水産大臣の許可を受けて開設している市場のことだ。中央卸売り市場だけで、56都市に84の市場が開設されている。
 築地市場の場内には、定温倉庫・冷蔵庫棟・製氷棟など、食品の安全を保つための倉庫が建っている。おもに水産物部と青果部の卸売り業者売り場と仲卸業者売り場がそれぞれ用意されている。今回の築地買出しで、わたしがHさんの後を追いかけたのは、水産物部の仲卸業者売り場にあたる。水産物部の仲卸業者売り場は、築地市場場内の中央にL字型に広がり、敷地面積がもっとも広い。築地市場の心臓部ともいえる。

 毎日夕方の5時ごろから夜中にかけて、全国から水産物を積んだトラックが市場に集まる。到着した水産物は、卸売業者が受け取り、それぞれの売り場に並べる。
 午前3時に、卸売り業者からセリで水産物を買う仲卸業者や売買参加人が売り場に集まり、水産物の下見をして値段を検討する。
 午前5時にセリが始まり、卸は仲卸や参加人のなかでもっとも高い値段をつけたひとに商品を売る。取引の開始だ。卸売り業者はこのときの手数料を利益にして、代金を出荷者に渡す。法律では翌日までに渡さなければいけないことになっているらしいが、毎日毎日実際にはどうやっているのか興味がわく。
 午前7時に仲卸業者が場内の売り場にセリ落とした商品を並べ、魚屋や料亭の買い付け人などに販売する準備を始める。
 午前8時から、仲卸での販売が始まり、場内がもっともにぎわう時間になる。魚屋や料亭の買い付け人は買った水産物を茶屋と呼ばれるところに運んだり、ターレーを使って自分のトラックに運んだりする。魚屋のなかには、自分で店をもたずに、いくつもの魚屋から頼まれて買い付けに来て、帰りにそれぞれの魚屋に頼まれた魚を届けるひともいるのだそうだ。魚を見る確かな目が、プロの小売り人から信用されているのだろう。
 午前11時になると、仲卸は片づけを始めて、店を閉める。午後1時には、ほとんどの仲卸の店が閉まり、場内は静かになる。その一方で卸のひとたちは出荷者と連絡を取り合い、翌日の準備を始めている。タンクローリーが場内に水をまき、清掃が始まる。

 卸売り業者は、全部で7社ある。大都魚類株式会社、中央魚類株式会社、東都水産株式会社、築地魚市場株式会社、第一水産株式会社、千代田水産株式会社、総合食品株式会社だ。農林水産大臣の許可を受けて卸売り業を行っている。

5656.5/6/2007

築地へ行く(5)

 築地市場の場外と場内をはっきりと区切る遮蔽物はない。あえて、言うなら、場外は一般車両の通行が認められていて、場内は許可された車両しか通行できないという違いだろうか。それさえも、コンクリートブロックやガードレールがあるわけでなく、場内の入口で交通整理をしているひとがいるから、わかる程度のことだ。
 両者を区切る遮蔽物はないのだが、建物自体はまったく違っていた。
 場内は、ひとつ屋根の大きなバラックのようだった。どれぐらいの大きさがあるのかはわからないが、そのなかに互いに壁のない小さな店がいくつも並んでいた。自治会や子ども会が主催する夏祭りに、焼きそばやフランクフルトのコーナーができるが、ちょうどあんな感じで、ありとあらゆる店が並んでいた。
 それぞれの店は、どこからどこまでが範囲なのかがわかりにくい。大きな看板が、天井にぶら下がっていて、その看板の幅が店の範囲だと思われた。店と店は互いにくっついていて、4軒から5軒でひとつの区画を形成している。その区画どうしが、幅が1メートルぐらいの小さな通路で仕切られている。きっとその区画は長方形か正方形をしているのだろう。ときどき、荷物を運ぶターレーが通行できる幅が2メートルぐらいの大通りが走っていた。あのターレーは電動のものもあるそうだが、まだガソリンで走っているものが多いという。場内はターレーの排気ガスが充満しているから、あまり空気はきれいではないかもしれない。

 築地市場の場内には、魚屋や料亭関係者が自分の店で扱う素材を買いに来る。だから、販売の単位はキロになる。発泡スチロールの箱ごと買って行くひとも少なくないだろう。
 今回の目的は食事会の素材購入だったから、わたしたちは魚介類を扱っている店を訪ねた。近海ものから遠洋ものまで、多くの魚介類が種類ごとに発泡スチロールにまとめられている。たえずホースの水が注がれ、あふれた水がコンクリートの床を濡らす。メッシュの入ったデッキシューズを履いてきたわたしは、たちまち靴下まで濡れてしまう。ここのひとたちが長靴をマイシューズにしているのがわかった。
 どこも同じ魚屋に見えるのだが、よく観察すると小ぶりの魚専門店、鮪専門店、貝類専門店、練り物専門店、イカ・タコ専門店など、それぞれの店には特徴があった。また、どれも少しずつ扱っている店は「あそこは、高級素材だけを置いているの。残り物も安くしないし、あげたりしない。「値段は高いけど、品物に自信があるんだ」とHさんが教えてくれた。わたしは、そこで高級寿司店に流れていくであろうシロイカを見つけ、それを買おうとHさんに提案した。
 かつての食事会で、握り寿司をしたときに、「イカはシロイカよ」とHさんが買ってきた。一口食べて、口のなかに広がる甘さと歯ごたえの確かさが気に入ってしまった。それまでのイカはなんだったのだろうとがっくりした。寿司屋のイカと家のイカは、職人が扱うと味まで変わるのかと思っていたけど、イカそのものが違うんだと納得したのを覚えている。
 そのシロイカが、発泡スチロールに束になってうなっていた。

5655.5/4/2007

築地へ行く(4)

 「井上」のラーメンは、麺が多くて、女性やこどもは残しているひとがいた。一度に10個ぐらいゆでるから、麺の固さもややゆですぎという感じがした。細麺なので、もっとゆでる時間は短くてもいい。麺だけを比べると、横浜の中華街の永楽製麺所のイーフー麺(伊府麺)のほうがおいしいと思った。
 チャーシューは、薄切りだけど、5切れぐらい乗っていたと思う。これは、よく脂が落ちていて食べやすかった。
 びっくりしたのは、スープだ。鶏がらをベースにして、なにか魚介類のだしを使っているのではないかと思った。一口すすったときから、「これはいける」と脳に衝撃が走った。
 いわゆる醤油味のスープだが、コクがあって、でも口の中にべとつかず、あっさりと喉を通り、また飲みたくなる。あたりを見ると、最後の一滴までスープを飲んでいる客が多かった。道路に大きなポリバケツがあり、ごみや残りを捨てるようになっていた。麺が食べきれなくて捨てていくひとはいたけど、スープを捨てるひとはいなかった。しょっぱくないから、全部飲んでしまっても、喉が渇かず、水を飲む必要はなかった。

 ふーふー言いながら、一気にラーメンを食べ終え、洟をかむ。
 「井上」の隣りにはコーヒーショップがあった。さらにその隣りには同じラーメン屋があった。でも、ふたつとも客はだれも立ち寄らず、「井上」だけがにぎわっていた。厳しい世界だと思った。少し歩道を歩くと、牛モツ丼屋と蕎麦屋にも、同じようにひとだかりができていた。
「今度、来たときは、ここね」
Hさんは言う。どれにしようか迷ったけど、きょうは最初だから一番のお勧めにしたとのことだった。

 腹ごしらえをして、いよいよ本丸の場内へ突入かと思ったら、一行は甘いもの屋へ直行。「茂助」という和菓子屋で、ドラ焼きや団子を買う。わたしも、みやげ用にみたらし団子を買った。茂助のドラ焼きは、白餡と黒餡の二種類がある。砂糖の味よりも、ちゃんと小豆の味がする餡子だ。皮に弾力があって、ふだんよく食べるドラ焼きとは違う特徴がある。帰りの車のなかでのおやつになった。
 場外の店の並びが、とてもごちゃごちゃしていて「大船の仲通商店街をコンパクトにしたような感じだね」とHさんに言ったら、「場内はこんなもんじゃない」と不吉な予告をされた。今度こそ、場内かと思ったら、辛い物専門店で香辛料やキムチを買う。そして、いよいよわたしたちは、本丸の場内へと向かった。

5654.5/3/2007

築地へ行く(3)

 場外をぶらぶらしていたらHさんが言う。
「おなかが空いたわね。朝食にしましょう」
そうなのだ。築地に着く時間は、日常生活的には朝食の時間帯だ。連休の初日だから、いまごろは全国的には、まだ寝ているひとも多いかもしれない。そんな時間に、ここだけは、にぎわいと熱気を帯びていた。そのギャップが、おもしろい。

 せっかく、築地に来たのだから、朝食は鮪などの魚介類の店だとふつうなら思う。トロ専門回転寿司なんていう店の前を通ると、思わず中を覗いてしまった。
「魚でもいいよ」
Hさんは、そういったけど、前から市場の食事は、Hさんおすすめの店を紹介してもらおうと思っていた。長年、市場で働いていたひとが、ここはうまいと思う店こそ、本当にいいものを出している店だろう。
「いや、鮪は食事会の握りが一番おいしいから、おすすめの店を教えてよ」
 そう答えて、Hさんの後を追う。そこは、場外から外に出た感じの大通りに面したところだった。よく見かける道路沿いの商店街。歩道に屋根があり、小さな店が何軒も並ぶ。Hさんが連れて行ってくれたのは「井上」というラーメン屋だった。

 「井上」だけでなく、ここの店には店内というものがない。みんな屋台を並べたような小さな作りで、カウンターの向こうに店主がいて、カウンターのこちら側が歩道なのだ。さらにカウンターのこちらには客の注文を聞き、代金を受け取る店員がいる。一杯600円のラーメンしかない。チャーシュー麺もネギラーメンもない。店主が大きな鍋で麺をほぐし、スープを10個ぐらいの丼に目分量で等分する。そこにゆでたてのラーメンを手際よく入れていく。ネギとチャーシューをトッピングして、店員が客のもとに運ぶ。
 注文を済ました客は、歩道で立って食べるか、道路との境界の段差に腰掛けて食べるか、小さなテーブルに丼を置き立ち食いするか、なぜか道路に置いてあるバケツを裏返してベニヤを乗せたいすと思しきものに座って食べるかのどれかを選択する。場所を確保しないと、熱い丼を持ったまま立って食べなければならない。職人技だと思ったのは、代金を受け取る店員が、ひとであふれる歩道で、注文したひとの順番と顔を覚えていて、ちゃんと客のところにラーメンを運んでいたことだ。生半可な記憶では、やりとおせない。メモを取っていたら仕事が遅れる。きっと、なにか客の特徴を覚えるコツがあるのだろう。

5653.5/1/2007

築地へ行く(2)

 Hさんは、何年も、築地市場の場内で、鮪専門の魚屋で働いてきた。
 いつも、食事会をするときは、Hさんがあらかじめ、仕事帰りに魚を買って来てくれていた。そのHさんが、2月に退職した。だから、今回はHさんをリーダーにして、自分たちで築地に行く必要があったのだ。Hさんに、築地での買い物の仕方を教わり、今後は自分たちだけでも買い出しに行けるようにするのが目的だ。一度や二度では、築地での買い物の仕方はわからない。これからも、何度かはリーダーをお願いすることになりそうだ。

 それまで、わたしの知っている市場といえば、三浦の三崎市場ぐらいだった。三崎は漁港があるので、市場は海のものばかりだ。
 しかし、築地は全国から、魚だけでなく、あらゆるものがそろっている感じがした。ほとんどが、それぞれの産地では自慢の一品なのだろう。そうでなければ、長年、築地で卸売りをしている専門業者が、取引をするとは思わない。似たようなものを売る店が軒を連ねている。日々、競争にさらされている。そんなところで、お客さんが好まないような品物を売ることはできない。

 食事会では、炭火で鶏肉を焼こうと思っていた。
 鶏肉は、大船に戻ったら、仲通の専門店「鳥恵」で買おうと考えていた。「鳥恵」は地元の専門店だが、置いてある商品はどれも間違いがない。付随して、飲食店も経営しているが、そこで串焼きを食べるよりも、肉を買って帰り、自分で調理したほうが数倍もおいしい。肉汁の豊富さや、味のジューシーさが、全然違うのだ。酔客は味がわからないから、安い肉を使っているのではないかと疑いたくなる。
 しかし、築地の場外で鶏肉の専門店の前を通って、考えが変わる。そこには、国産地鶏がオンパレードだった。串焼き専門店で頼んだら、一本が何百円もしそうな鳥の肉がどーんと塊で売っていた。町の肉屋と違うのは、単位がグラムではなくキロだったことだ。それでも、計算すると、近所の肉屋で買うよりも安い。もっとも、そこに並んでいた鶏肉に、近所のスーパーで対面できるチャンスは多くはない。たいていは、料理屋に売られていくのだろうと思った。
 急遽、予定を変更し、築地の鶏肉屋で肉を買うことにした。Hさんたちは、砂肝とレバーを買っていた。わたしは、比内地鶏、川俣軍鶏、合鴨を買った。どれも、胸肉と腿肉のセットだった。
 比内地鶏は、鎌倉の小町通りから、一本外れた路地にある小さなきりたんぽ鍋専門店で鍋に入っていたので覚えている。肉のやわらかさと、味の上品さが舌の記憶に残っていた。軍鶏は、やはり小町通りの、二本ずつ注文しないと怖い顔をする女将のいる軍鶏の串焼き専門店で、何回か食べた。ぷりぷりした食感がたまらない。レバーの苦手な知人が、軍鶏のレバーはこれまでのレバーとは違うと感激していた。合鴨は、いつも鴨南蛮で、少ししか乗っていないので、きちんと塊で食べたいと思っていたのだ。
 どれも、食事会用と土産用との両方を買った。

5652.4/30/2007

築地へ行く(1)

 築地中央市場に行った。初めて行った。亡くなったわたしの母は、築地の生まれで、よく本願寺で遊んだと言っていた。その本願寺も見た。およそ、日本の寺社とは違う西洋風の建物でびっくりした。
 連休中に、いつもの食事会をすることになり、今回はその前日に食材を仕入れに、築地に行こうということになったのだ。大学のときに使っていた40リットル入りのアタックザックを出し、記録用のカメラの電池を充電し、前夜のうちに準備は万全だった。


 28日、午前6時に大船を出発した。荷物が多いから、電車ではなく、車を使った。やはり前夜のうちに、市場周辺の駐車場もチェックしておいた。4つの駐車場があり、そのどれかに駐車できるだろうと判断した。
 いまは、地図を見なくても、ナビゲーションシステムが勝手に行き先を示してくれる。便利な時代になったものだ。でも、ナビゲーションシステムを有効にしているGPSは、もともとアメリカ軍が開発したもので、戦場で使われていたものだと知ると、複雑な心境になる。

 国道一号線から横浜新道に入る。有料道路を使う。首都高に入り、箱崎から築地市場に向かった。連休中だからか、都内は比較的空いていて、ナビが予想した7時10分に、市場入口に着いていた。しかし、市場だけは、ひとも車もひしめきあっていて、駐車場に車を入れたのは8時近くになっていた。場内のお店で客が買った品物を、客の車や茶屋と呼ばれる荷物の一時置き場まで運ぶ、ターレーと呼ばれる不思議な乗り物が、市場のなかを我が物顔で走る。かなりの速度が出るのではないかと思う。わたしは何回か、近くを通り過ぎるターレーに接触しそうになった。電動のターレーもあるそうだが、まだガソリンを使っているものが多いらしい。ということは、あの市場内は、ものすごい排気ガスが充満していることになる。

 到着してすぐ場外の店をまわる。すぐに気がついたのは、値段が安いことだ。わたしは、思わず、青のタバスコを買ってしまった。ピザには、赤のタバスコよりも、わたしは青のタバスコが好きだ。味わいがあって、ただ辛いのとは違う風味をもっている。しかし、近隣のスーパーには青のタバスコはいつもは置いていない。ちょっと高めの紀伊国屋とか、ユニオンとか行かないと入手できない。その青のタバスコが一本140円で売っていたのだ。「これは買い!」と瞬間的に判断して、ビンを手にしていた。
 後で、調味料専門の店を見たら、やはり青のタバスコがあって、それは210円だった。同じ築地でも、こんなに値段が違うのかと、勉強になる。
「さっきの店では、こんなに高くなかったわ、あっちで買って正解ね」
大きな声で、教えてくれたHさんが、今回の築地ツアーのイニシアティブをとっている。

5651.4/29/2007

春の学校(16)

 4月27日。こどもたちが帰り、わたしは職員室に戻って一息入れる。
 月末は、出席簿の集計や介助員さんたちの翌月の時間数申請など、ふだんよりもやらなければならないことが多い。
 教室でやってきた月末の事務を思い出す。仕事に抜け落ちていることがなかったかを確認する。
 ふたつあるカレンダーは5月のものにした。そういう時間の流れを気にするこどもにとって、5月になったのに4月のままのカレンダーがぶら下がっていると、朝からそれが気になって、わぁわぁ騒ぎ出す。
 ことしは全体指導で音楽を担当しているので、月ごとに変更する曲目の準備をした。朝の会で歌う「今月の歌」。音楽のときに歌うテーマソング、遊び歌。それらは歌詞を印刷して、拡大コピー機にかけこどもたちに見やすいぶら下がりにする。かつては模造紙にマジックで書いていたが、拡大コピー機の登場で便利になった。

 いま担当しているこどもで日付の概念を教えたいこどもがいて、そのこどもに「きょうは何日?何曜日?」という教材を作った。毎日、カレンダーに磁石をつけて、日にちと曜日を確認する。できたら、「あしたは何日?何曜日?」というカードを示し、あしたを確認する。きょうの次にあしたがくるということを、磁石の操作で感じ取ってほしいと願った。その教材の入ったケースには、4月のカレンダーを入れてあったので、5月のカレンダーを作り入れ替えた。市販のカレンダーでは、ケースに入らないので、画用紙などを使ってケースに入る大きさのカレンダーを作る。

 特学の教員たちも三々五々職員室に戻ってくる。分担した仕事をそれぞれに担当する。
 わたしは、来週と再来週の支援分担表の原案を練る。毎時間、14人のこどもたちを、だれが担当するかを計画する。ほかのひとたちは、連休明けから始まる家庭訪問の計画、就学奨励費の事務、来年の教科書申請の準備などをしている。
 それぞれに仕事をしながら、きょうのこどもの情報を交換する。交流学級での学習については、自分の担当するこどもについて、必ずしもその場について支援できるとは限らない。そのときに支援したメンバーからの報告をメモする。反対に、わたしが支援したこどもの情報を全体の前で伝える。情報交換をしながら、支援方針や支援方法の確認と練り直しをたえず繰り返す。
 勤務時間終了の時間が過ぎてゆく。いよいよあしたから連休の前半が始まる。新年度が始まって一ヶ月。大きな事故がなく、月末を迎えられたことをスタッフで喜び、わずかな休息を互いに有意義に過ごせるように声をかけた。荷物をもって、
「それじゃ、一足先に連休に入りまーす」
と、声高らかに学校を出る。

 週明けはもう5月。5月になれば、もう春とは呼ばないだろう。少し動くと汗ばむ初夏の訪れだ。だから、特集「春の学校」はこれにておしまい。

5650.4/28/2007

春の学校(15)

 このように、単純に思えるものの特徴や指示でも、そのなかにはいくつもの条件が含まれている。
 だから、それらの条件に気づき、分類したり、指示された場所に並べたりする学習は、必要になる。べつに、職業教育をしようと思っているのではない。特学のこどもたちのわずか数年後に、少しでも親からの支援を必要としない自立した生活を送ってほしいと願う気持ちから、必要な学習だと思うのだ。
 ひとは、それぞれに異なる能力をもち、異なる性格を形成する。その違いを互いに認め合う社会では、それぞれが自分にできることで社会とつながっていくことが大切だと思う。なにもできないなどとあきらめてしまったら、おしまいだ。また、いるだけでいいみたいなポエムに走るのは危険だ。ひとは、苦労して、悩んで、後悔して、汗を流して、楽しんで、とてもわずかなことでも、自分でやったという達成感を味わうと生きることに主体的になれると思う。
 親は、わが子を育てるなかで、時間をかけて、少しでもこどもがひとりで生きてゆけるように導く責務がある。できないことを無理に押し付けるのは、やり過ぎだが、できることまで先回りして面倒をみるのは、自立を阻む。そのバランスをうまく取りながら子育てをするのが難しい。子育てに万能辞典はない。もしもそんなものがあったら、とっくにみんなが頼っているだろう。こどもの数だけ、子育ての方法があると考えるぐらいが気持ちが楽になる。

 わたしは、学校でこどもたちの自立につながる手助けを数年間というわずかな時間でかかわることができたらいいと日々思っている。
 だから、その場だけ、そのときだけ、こどもといい関係を作って、楽しんで盛り上がるということはしない。若いときは、そんな毎日がベストと勘違いした学級経営もしていたけど、さすがに20年以上もこの仕事をやってくると、そういう関係はうわべだけのもので、結局、なにもこどものなかに育つものを伝えていないことに気がついた。
 だから、ときには厳しく見える場面も用意する。また、反対に、こどもの成長を感じたときはこころの底から感動して見せる。そのめりはりが、こどもには直線的に伝わるのだ。
 親の多くは、たくさんのこどもの成長とかかわってはいない。自分のこどもを通して、よのなかのこどもを意識する。こどもの友だちを通して、よのなかのこどもの総体を感じる。しかし、それらは、とても限られた世界のことだ。そのことに気づかないのは仕方がないことだと思う。学校で働いていると、日々、成長していくたくさんのこどもたちと接している。その経験は、定数化できない経験値となって、センスを磨くことに寄与する。同じ場面に直面しても、異なる対応を複数のこどもが示したら、それぞれのこどもの内面や思考がある程度見えてくるのだ。