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5649.4/26/2007

春の学校(14)

 こどもが町を歩くとき、信号機はたいがい三色だ。赤・青・黄なのだが、これには日本語の曖昧さがついてまわっている。
 わたしたちが目にする信号機の青は、場合によっては緑にも見える。また、水色やコバルトブルーのようにも見える。日本語の「青」という概念は、とても多くの色を示していることが多いのだ。なのに、ひとはそれを「青」という。生活のなかで、青っぽい色のことをみんなまとめて青と表現してしまう日本語は、白黒をはっきりしないとすまない性格のひとには受け入れにくいことだろう。
 また、信号機は、生活のなかで、ひとの安全を守る大きな役目をもっている。信号機のある交差点で、信号機を意識せずに、交差点に飛び込んでいったら自殺行為に等しい。こどもは、いつまでも社会生活をだれかとともに送るとは限らない。むしろ、成長とともに、親の手を離れていけるようにしていかないと、自立への道は遠のく。
 道路を歩いていて、向こう側に渡りたくなったとき、信号の意味することを理解していれば、どうしたら向こう側に安全に渡ることができるかがわかる。信号機が赤ならばストップし、青ならば渡る。だから、赤や青を知っておくことは必要になる。さらに車用の信号機には黄色も使われている。あの中間の色はなんだ?と困らないように、よのなかには黄色という色があることを知っておく必要がある。

 ものの特徴を言い表すとき、多くの場合は複数の条件を示すことが多い。
「そこの大きなカップを持ってきて」
「みどりの旗を振りましょう」
 さらに社会生活のなかで、仕事をするときは、もっと複雑な条件が加わる。
「あしたまでが締め切りの、こどもの合計人数を書いたプリントを、○○さんに提出する前に、わたしに内容を確認させて」
 そんなに複雑な条件がなくても、家庭では「あれ」とか「それ」で通用している指示が、学校や地域では具体的に示されるだろう。
「大きな赤い球を右に、小さな赤い球を左に、わけて10個ずつ入れましょう」
 もしも、こういう仕事が任されたとき、そのひとはいくつの条件を情報処理すればいいのだろう。
 まず、たくさんの色のなかから、赤という色を知っている必要がある。赤と言われて、青を選んだり、緑を選んだりしたら、仕事にならない。
 次に、同じ赤い球でも、大きさが異なることを認識していなければならない。大きさが異なる赤い球の大きい方を「大きな赤い球」と呼ぶことがわかっていないと、仕事にならない。
 そして、左右の概念も必要だ。せっかく、大きな赤い球を手にできても、左右のどちらに入れればいいのかがわからないと、仕事にならない。
 最後に、10個という量が理解できないと、この仕事は成し遂げられない。一個ずつわけて「おーわり」と荷物をまとめて帰ってしまったら、次の日から「もう来なくていい」と上司に怒られてしまうだろう。

 いつも具体物と対応させたカテゴリー化をしていると、やがて脳は許容量を越え、限界に達する。
 半具象や抽象物への移行は、脳に変数式をイメージさせて、必要に応じて具体的情報を代入する力へとつなげるために必要なプロセスだ。

5648.4/24/2007

春の学校(13)

 「なかまわけ」を、応用発展させた「なかまわけ2」も作ってある。
 こちらも缶の蓋にびっしりと磁石が貼ってある。その磁石は、100円均一ショップで買ってきた丸い色とりどりの磁石たちだ。大きさも小さいものと大きいものとがある。ジャンルわけのカードリングでとめたカードには「おおきいきいろ」「ちいさいピンク」「みどり」「あお」「おおきいみずいろ」などの情報が書いてある。
 おもに、青・緑・黄色・ピンク・赤の大小さまざまな磁石を用意した。磁石の色も、半透明で向こうが透けて見えるものと、不透明で透けて見えないものを用意した。一見、色とりどりの磁石だが、そこには雑然とした要素を含めてある。数も、わざと同一にはそろえていない。3個ものものあれば、10個ぐらいあるものもある。

 なかまわけ2は、三つのことをねらっている。
 一つ目は、具体的なかたちをしたなかまわけ学習からの発展として、抽象的なかたちと情報のカテゴリー化だ。
 二つ目は、日常生活で目にする信号機の色を意識させることだ。
 そして、三つ目は、大きい・黄色のように、大きさと色という異なる条件をあわせた情報の読み取りだ。

 こどもたちは、具体的なかたちから、抽象的なかたちへと視覚情報を変化させると、急に興味や関心を失くしてしまうことがある。きっと、イメージが喚起できないために、自分との接点を感じられないのだと思う。しかし、思考力の育成には、具象から半具象、そして半具象から抽象へという飛躍が必要になる。丸い赤い磁石を見て、飴玉と思う必要はない。それでは、抽象から具象へ思考を後戻りさせてしまう。丸くて赤いものを、丸くて赤いと認識することが必要なのだ。さらに、同じ丸くて赤くても、大きさが違った場合、大きくて丸くて赤いものと、小さくて丸くて赤いものとに区別できることが望ましい。大小の比較は、それだけで教材作成の要素にもなるのだが、相対的な関係で、大きさを区別する力を養うことにつながる。
 将来、スーパーでの買い物を頼まれたとき、買い物リストに「大きいキャベツ」と書いてあったら、キャベツが並んでいるなかから、大きいものを選べるようになってほしいのだ。そこには「大きいキャベツ」という名前のキャベツがあるわけでも、直径30センチ以上を一律に大きいキャベツという基準があるわけでもない。自分の頭で、このなかでどれが大きいキャベツなのかを判断する力が必要になる。

 いつも具体物と対応させたカテゴリー化をしていると、やがて脳は許容量を越え、限界に達する。
 半具象や抽象物への移行は、脳に変数式をイメージさせて、必要に応じて具体的情報を代入する力へとつなげるために必要なプロセスだ。

5647.4/23/2007

春の学校(12)

 「これは、おもしろい」
 いつもは、ほかの学校で介助員の仕事をしているAさんが来てくれたとき、個別指導を協力してもらい、この「なかまわけ」をお願いした。
 春の特学は、新入生や転入生が加わり、3月までの雰囲気と違った忙しさに追われる。新しくこどもたちの支援体制を組み直す。また、新入生の交流学級での生活を観察し、個別指導になにが必要かを計画する。そのため、通常よりも多い介助員を配置し、ふだんは教員1人にこどもが3人ぐらいの体制から、限りなくおとな1人にこども1人の体制を用意する。そうやって、進級したこどもたちや、新しく加わったこどもたちの気持ちの安定を導く。

 Aさんには、昨年度も、遠足や教員が出張で支援が手薄になるときに、介助員を不定期にお願いしていた。養護学校や中学校の特学での介助員経験が多く、小学校での介助員経験はあまりないとのことだったが、すぐにこどもたちに名前を覚えられ、センスある支援ができるひとだった。
 個別指導教材の多くは、それぞれの教員が工夫して用意する。だから、自分で指導するのには使いやすいのだが、ほかのひとにお願いするときは、教材の使い方を説明しなければならない。その教材でなにをねらっているのかが、指導者によってあいまいだと、こどもは混乱してしまう。
 そこがオリジナル教材のやっかいなところだが、だからといって、教科書や市販のテキストでこどもの力を引き出せるかというと、必ずしもそうはいかない。自分が担当するこどもを具体的にイメージした教材には、それぞれの教員の願いや思いが熱くこもっている。そういう生きた教材こそ、こどもの発達を段階的にとらえたものだと思う。

 だから、わたしはオリジナル教材を作りながら、それを見ただけで、こどもが自分で手に取り、学習を進めていけるように配慮している。
「たぶん、これを渡せば自分でやり始めると思うので、困っているときに、助けてあげてください」
それしか言わない。でも、途中で、わたしのところに
「これって、どうやるんですか」
と聞きに来ることがあった場合は、教材の作りに問題があると判断して、修正するようにしている。

 Aさんに「なかまわけ」をお願いしたときの最初のせりふが「これは、おもしろい」だったのだ。
 瞬間的にわかる。やっていて楽しい。見ていて飽きない。続けていて慣れる。この4つの要素がそろう教材を作ることは、なかなか難しい。でも、それを目指し続けていない限り、こどもに満足させることのできる教材を用意することはできないだろう。

5646.4/22/2007

春の学校(11)

 教室環境だけ、視覚的にも聴覚的にも整理され、構造化されたとしても、よのなかに一歩出れば、情報はそんなに整然とはしていない。
 町を歩けば、宣伝や広告が統一性なく配置され、道路を走る車もダンプやバス、タクシーや自家用車などが不規則に流れている。ホームに立てば、アナウンスや乗降客の話し声、鳥のさえずりなど、聴覚的情報がオーバーラップしている。あまりにも、教室環境と違う現実に、かえってこどもは戸惑い、立ち止まってしまうだろう。
 だから、教室にはある程度の雑然さと、複数の情報の配置は必要だと思う。混乱を招くほどの雑然さは無用だが、そこそこの整理ぐらいに留めておく程度でいい。そんな環境のなかでこそ、さらにカテゴリー化を目指す学習が意味をもつ。ある程度、雑然とした環境のなかで、求められている情報をグループ化していく作業は、駅の改札で知り合いを待つ行動につながっていく。

 ロフトに行ったら、様々な磁石が売っていた。
 ひとつのパッケージに5個から6個の磁石が同じジャンルで区分けされている。それぞれ、400円から500円ぐらいの値段だ。わたしは、それを少しずつ買い溜めている。野菜の磁石には、キャベツ・ピーマン・トマト・アスパラガス。くだものの磁石には、バナナ・りんご・いちご・パイナップル・ぶどう。どれも、かなり精巧に作られている。水着姿の少年たちがカラフルな浮輪を着けているものもある。働く車の磁石には、消防車・パトカー・ダンプ・救急車。虫の磁石には、カブトムシ・クワガタ・蝶・バッタ・トンボ。かわいい5匹の犬の磁石もある。
 以前は、パソコンで写真やイラストを印刷して、パウチフィルムで固定した平面的なカードを用意した。それでも十分にカテゴリー化の教材にはなったのだが、指導していて、どうもおもしろくない。平面的な情報は、どこか実感が伴わない。少しでも立体的なものはないものかと思っていたときに、その磁石を見つけた。
 これだと思った。
 一度に買わないで、少しずつ買い集めているのは、値段が高いからだ。いまでは、このほかに、スポーツカー、ボウリングのピン、握り寿司、靴、ケーキがある。ラインナップは、今後も増やしていこうと思っている。

 それらを、小さなチョコレートがたくさん入っていた缶に貼る。そのなかに、板目紙で作った「なかまわけ」というカードを入れておく。さらに、カードリングでとめたジャンルを書いた紙を入れておく。そこには「むし」「おすし」「くつ」などとジャンルが書いてある。
 こどもは、カードを開き、自分で「むし」と言って、缶のなかの磁石から、虫の磁石だけを缶の蓋に並べていく。たくさんの名前のついた磁石から、虫だけを分類する作業がカテゴリー化だ。さらに、この磁石はひとつひとつの大きさが指の先ぐらいなので、やや指先の細かい力も要求される。手指機能を刺激して、五本の指を別々に動かすトレーニングにつながる。すべての虫を缶の蓋に貼り終えたら、こどもはカードをめくる。そこに書いてあるジャンルのものを、同じようにたくさんの磁石から選び、缶の蓋に貼っていく。

5645.4/21/2007

春の学校(10)

 駅名もユニバーサルデザインも、こどもがこれから生きていく日常生活のなかで、役立つことを願って作った。
 教科書に載っていることを覚えて、日常生活のなかで必要な知識を覚えたなかから必要に応じて出し入れすることも大切だ。しかし、もっと日常生活に直結した教材を通して、学校での学習がこれからの生活に通用するようにしておくことも大切だ。どちらかというと、特学のこどもたちは、日常生活に直結する力を必要としているので、ユニバーサルデザインを覚えておくことは、学校を卒業した後に役立つのではないかと思っている。


 マッチングと同じぐらい重要視している教材作成の要素にカテゴリー化がある。
 カテゴリー化は、分類と訳してもいい。複数の異なる要素のなかから、共通する特徴を見出しグループ分けする力のことだ。
 これは、視覚的情報を読み取るときに、わたしたちは何気なく実行している。たとえば、駅の雑踏で知り合いと待ち合わせをしているとしよう。たくさんのひとのなかから、これから会うひとの姿を探す。視覚的情報のすべてを受け止めていたら、自分のほうに知り合いが近づいてきていても、なかなか気づけないかもしれない。わたしたちは、何気なく見えているもののなかから、不必要な情報を削除している。自動改札機、時刻表、券売機、およそ知り合いとは似ても似つかぬ風貌のひとたち。一瞬、視覚の引き出しに入れても、すぐになかみを空にして、必要な情報だけを残しているのだ。階段を上がってくる乗降客の群れ。知り合いの電車が到着するホームはどこかという情報と、その階段から改札口に向かうひとを追う。関係ない階段から上がってくるひとたちの情報は記憶に残さない。
 これらは、何気なくやっているようで、本当は脳の回路をいくつも駆使して情報を整理する高度な作業だ。脳の発達と、生活経験と、学習によって習得してきたと思う。つまり、見えているものと見るものを区別していく力をつけるのが、カテゴリー化のねらいといえる。


 小学校のこどもたちのなかには、教室環境が雑然としていて、視点をどこに向ければいいのかわからないこどもが多い。低学年のこどもほど、その傾向は強い。まだ、もののもつ意味や、共通する要素を知識として獲得していないので、全部を見てしまい、見えているものに、見えない区切りをつけることができないのだ。
 特別支援教育の流れのひとつに、構造化という考えを強く推奨する流れがある。その考えを極端に実行してしまうと、教室にはなにも置かない、壁も真っ白にして、なにも貼らない。こどもによけいな視覚情報を与えないというところにたどり着く。その結果、学習のなかで示された情報に集中することができる。そのように実践している教員もいるが、わたしは少し考え方が違う。


 やがて、こどもたちは学校を卒業した後に社会生活を営むようになる。いつまでも、家庭のなかで過ごす生活を続けていては、親の負担が大きく、こどもの自立が望めなくなる。こどもの状態にもよるが、少なくとも小学校や中学校の段階では、それぞれのこどもに応じた社会的自立へ向けた段階的な取り組みをするべきだと考えている。最初から「このこどもは、一生、親と対になった生活を送るだろう」と決めつけたら、教育的責任を放棄したことになる。

5644.4/20/2007

春の学校(9)

 わたしは、文字を読むための教材にマッチングを導入している。
 マッチングとは、文字通り、異なる要素を組み合わせる方法だ。たとえば、読みのカードと漢字のカードを用意する。それぞれのカードをセットで選ぶことができるように指導する。すると、こどもは漢字のかたちと、その漢字の読み方をセットに学習し、結果的に漢字とひらがなの読み方を覚える。ジッパー付のビニール袋に15セットぐらいずつ用意して入れておき、こどもが自分からカードを出して、読み方を漢字のカードをセットにして置くことができる台紙に、それぞれを並べる。ひとつひとつのカードの裏側にマグネットを両面テープで貼り、台紙にもマグネットをつけておくと、選んで置いたカードが固定されて、学習はさらにやりやすくなる。
 ひらがなの読みからスタートするときは、絵とひらがなのカードを用意して、マッチングさせる。「あ」というカードとありのカードを用意して、それをセットにできればクリアという流れだ。
 実際に、声に出して読めない限り、読む力がついたかどうかはわからないというひとがいるが、よのなかのすべてのひとが、言葉をうまく声に出して言えるとは限らない。なんらかの理由で、発語がうまくできないひとの存在を忘れてはならない。たとえ、声に出して読むのが苦手でも、文字の読み方を理解する方法があることを忘れてはならない。
 これまでの経験から、マッチングを取り入れた読みの教材を使うと、慣れてきたこどもは、カードをセットするとき、必ず自分から声に出して読むようになる。そうすることによって、自分で読み方を確認しているかのように。そういう行動が見られてきたら、わたしは教材のなかみを新しいものに交換する。もう、当初の目標は達成できたと判断するからだ。

 実際の教材は、そんなつまらないものは作らない。読みのカードと漢字のカードでは、英単語の記憶練習みたいで飽きてしまう。
 たとえば、電車が好きなこどもなら、駅の名前を書いた写真付の路線図を用意し、駅の部分に、漢字の駅名を書いておく。そこに、ひらがなの駅名カードをうまく並べることができたらクリアという流れにする。また、漢字にルビをふって、読み方を漢字とセットにしてわかるようにすることもある。駅名は、いくつも漢字を使って長いものもあり、視覚的に複数の文字をとらえることが苦手なこどもは、読めない漢字がいくつも並んでいるだけで、興味を失くしてしまうからだ。

 さらにユニバーサルデザインもマッチング教材として活用している。
 ユニバーサルデザインとは、公共施設や公共の場所で見かけるトイレや非常口、エレベーターや立ち入り禁止などのマークのことだ。国が認定しているデザインがインターネット上に公開されていて、それをダウンロードして印刷し板目紙に貼りカードにする。そのカードとセットになるように、ひらがなで書いた意味のカードも作る。これは、マークを見て意味とマッチングさせながら、ひらがなを読む力もつけることになるのだ。

5643.4/19/2007

春の学校(8・閑話休題)

 17日のニュースでアメリカのバージニア工科大学で銃の乱射事件があり、32人の学生が射殺されたことを知った。容疑者は韓国人の大学4年生だったという。まだ、捜査の段階では、動機は不明だという。銃の所持が合法化されているアメリカでは、無差別大量殺人事件が後を絶たない。
 わたしは、翌日の18日に、こどもたちにそのことを話した。

 2時間目の音楽の授業が終わり、いつもならば休み時間のなかみを確認する時間だった。
「きょうは、大事な話をします」
 全員で集まっているときに、リーダーになる教員の話を黙って聞くという生活態度の指導は、年間を通じて行っている。こどもたちは、声を出さずに目と耳をこちらに向ける。
「きのう、アメリカという国のバージニア工科大学という学校で、あるひとが銃をバンバンと撃ちました。そして、32人ものひとが死んでしまいました。32人のひとたちは、もうご飯を食べることも、お母さんやお父さんに会うこともできません。教室に、銃を持ったひとがやってきて、いきなり銃を発射したそうです。本町小学校では、校門の近くに本町学級があります。だから、校門から怖いひとが入ってきたとき、真っ先に本町学級が目に入ります。もしも、怖いひとを見つけたら『お化けだ』とか『地震だ』とか言ってはいけません。そういうひとを見つけたら、すぐに近くにいる先生に言いに来てください。そして、そういうひとから、少しでも遠くに逃げてください」

 日本でも小学校に包丁を持った男が侵入し、多くのこどもたちを殺傷した事件は記憶に新しい。
 朝まで元気だったわが子が、学校で悲しい姿になってしまうことなど、親としては到底受け入れられない出来事だろう。わたしを含め、学校関係者はつねにこどもたちのいのちを守る意識を抱き続けていなければいけないと思う。だから、こどもたちに、危機管理の具体的な方法を教えておく必要がある。こういうことは、常日頃から言い聞かせると、よけいな不安を煽るか、逆に聞きなれてしまうかのどちらかに陥りやすい。具体的な事件があったときに、間髪を入れずに取り上げることが大事だ。
 事件について説明するときに、たとえ内容が難しくても、わたしは知っている事実をそのまま伝えるようにしている。用語や状況をこどもが理解できないかもしれないが、言葉のひとつひとつをおさえるよりも、ニュアンスが伝わればいいと思っている。そして、そのことを通じて、こどもたちがどんなことに気をつければいいかを覚えてくれることを願っている。
 特学のこどもだから、そういうことはわかりづらいとは思わない。どんなことも、ほかの状況と同じようにこどもたちに伝えていくことが大事なのだ。それが、こどもを大事にするということにつながると思っているからだ。

 その日の休み時間は、いつもなら活発に動き回るこどもたちが、なぜか窓からたびたび校門に目をやり「怖いひとが来なければいいね」と不安になっていた。
「ちょっと、言いすぎじゃない?」
同僚には、そう言われたが、わたしは、自分の身を守るために、短い説明を聞いて、こどもたちが連帯して、どんなことに注意を向ければいいかを考えたことを、高く評価し、このこどもたちと過ごす日々に誇りを感じた。

5642.4/18/2007

春の学校(7)

 新人は、個別学習のための教材として、言葉や計算のプリントをホッチキスでとめている。きっと、一回分の学習を、そうやってセットしているのだろう。新人なりに、一回の学習で、自分が担当しているこどもがどれぐらいのボリュームの学習をすることができるかをつかんできた証拠だ。
「ところでさ、Aの筆圧はどれぐらいあるの?」
筆圧とは、鉛筆をもって文字を書いたときの力の具合のことだ。
 筆圧が一定のこどもは、手指の使い方と力のバランスがとれている。五本の指を使い分ける分化が、脳のなかで進んでいると考えられる。
 こどものなかには、どこから始まって、どこで終わるのか、わからない文字を書くこどもがいる。ひょろっとしていて、力なく、文字の柱が一定していない。こういうこどもは、たとえ文字としては完成していても、文章はとても読みにくい。文字を書くという能力は、とても高度な能力で、紙というキャンパスに鉛筆で直線や曲線を駆使しながら、多くのひとに共有されている文字という記号を書く力だ。自分だけが書いたつもりの文字は、ひとに伝わらなければ、ただの線の羅列に過ぎない。ひとつひとつの文字が、文字を書く枠のなかで、上下左右にばらばらに散り、大きさもまちまちだとしたら、それは空間の認識能力が育っていないことを意味する。どこから書いて、どのあたりで書き終えるかの見当をつけないで文字を書いているので、書かれたものを、読むという感覚につながっていないのだ。

 「かなり弱いです」
「じゃぁ、鉛筆はやめたほうがいいな。鉛筆は、筆圧が弱いこどもには書きにくい道具だよ」
 わたしは、自分の文房具一式が入っているかごから、サインペンやマジックを渡す。
 文字を書く作業が、これからの生活のなかで、とてもたくさん登場し、そのつど、自由自在に文章を書くことが期待できるのならば、文字を覚え、的確に書く力は必要だろう。その力の多くは、ひととひととのコミュニケーションを豊かにすることだろう。しかし、文字は書けても、名前だけとか、ものの名前などの単語だけしか書かない生活を中心にするのであれば、わたしは、無理に文字を書く力を覚えさせる必要はないと思っている。その時間を、文字を読む力を育てる時間に費やしたほうが、ずっと学習が建設的になると思う。できないことを、無理に押し付けられたら、こどものストレスはたまる。教えるおとなの気持ちに余裕がなくなる。できることを、少しずつ広げてくれたら、こどもの意欲は高まる。教えるおとなの気持ちに愛情がわく。互いの関係をよくするためにも、文字については、どこまで書かせるかという見極めを、教員がもつ必要があると感じる。
 わたしには、新人が担当しているこどもには、いまのところ、文字を書く力よりも、文字を読む力を重点的にのばす必要があるのではないかと思っていた。そのことを新人に話すと「じゃぁ、本や文字のカードを読ませればいいんですか」と聞いてきた。
「そういう方法もあるけど、あんまり、それって楽しくないよ。声に出して読むことだけが、文字を読めることにつながるとは限らないぜ」

5641.4/17/2007

春の学校(6)

 第一段階でセンスを決定づける存在は親だ。こどもは親を真似る。親の言葉遣い、身振り、仕草、表情。親の好きな食べものや洋服を見て、自分のセンスとしてつかんでいく。もっとも身近な存在に、自分の行動の基準を求めるのは当然のことだ。
 だから、親が他人とどんな接し方をしているかによって、こどもが他人とどんな接し方をしていくかというセンスが決まる。これは人間関係作りの基本部分なので、とても重要な役割になる。また、親がこどもにどんな接し方をするかによって、こどもはおとなとの距離のとり方を学んでいく。厳しく接した親からは、厳しく接するこどもが育つとは限らない。なかには、こんなおとなにはなりたくないという気持ちの者も育つだろう。しかし、暴力や怠慢で育児を放棄した親からは、こどもが真似るものがないので、心理的に不健康な状態のこどもが育つ可能性がある。そこには、センスのかけらも見られない。
 夫婦喧嘩はときには必要かもしれないが、絶対にこどもの前で見せてはいけない。こどもは緊張するだけで、そこから学ぶものなどなにもない。信じている、頼っている父と母の考えがぶつかることは、どちらを信じたらいいのかわからなくなるだけで、そのうちに統合失調症まで発展していく可能性を秘めているのだ。
「うちの両親はいつもケンカばかりをしていた」
こどもの頃を振り返り、笑顔で語れるひとは、本当は隠し事がなく、正直な気持ちで、いつもつながりあった父母に育てられていたことを自覚したほうがいい。DVの環境で育ったひとは、こどもの頃の記憶ですら残っていないことが多い。また、そういうひとに限って、「仲がよかった」と嘘をついて、現実を自分の希望や願いに近づけようとしてしまうのだ。

 第二段階で、ひととの距離のとり方のセンスを決定づける存在は同年代のこどもた。そして、第三段階は、先輩や後輩、先生や流行など、多様な存在が、ひととの距離のとり方のセンスを決定づける。そして、最終的な段階は、いわゆる社会人(おとな)になってからだ。
 しかし、第二段階以降は、ひととの距離のとり方のセンスを決めることに、根本を揺るがすような大きな要素にはなりえない。
 もしも、親以外の存在が、とても大きな存在で、そのひとの影響を強く受け、ひととの距離のとり方まで決定づける基準になっていたとしたら、よほど親子関係がねじれていたか、希薄だったと思って間違いはない。

5640.4/14/2007

春の学校(5)

 センスと聞いて、新人は眉間にしわを寄せる。
「じゃぁ、いくら努力しても、無駄ってことですか」
なにかを勘違いしている。

 わたしは、センスとは、生まれながらにして備わっているものとは思っていない。そのひとの生き方の中で育まれ、培われていく、何気ない感覚がセンスだと思っている。
 とくに、対人関係の仕事では、ひととの距離のとり方に、センスが問われる。あまりにもマニュアル通りの対応しかできないひとは、想定外の対応に苦慮してしまう。相手のことを考えないで、自分の意見ばかりを主張するひとは、少しずつ自分のまわりからひとが離れていくことに気づくのが遅れるだろう。逆に、いつも根無し草で相手に合わせて右往左往するひとは、やがてひとと接することがつらくなってしまう。
 いずれも、ひととの距離のとり方にセンスがない。

 あのひとといると元気になる。気持ちがふんわりする。勇気がわく。こちらも笑顔になれる。なによりも楽しい。
 愛するひと、恋するひと、友人だけでなく、多くのひとに、このように思われるひとは、ひととの距離のとり方にセンスのあるひとだ。
 本当は、よのなかの親のすべてに、このセンスが備わっていれば、虐待など生じないのだろうが、実際にはそうはいかない。
 また、よのなかのすべての学校関係者に、このセンスが備わっていれば、いじめや不登校は生じないのだろうが、実際にはそうはいかない。
 そして、よのなかのすべてのひとに、このセンスが備わっていれば、犯罪や組織的な隠蔽は生じないのだろうが、実際にはそうはいかない。
 つまり、ひととの距離のとり方で、センスのいいひとは、限られているのだ。だから、親や学校関係者のすべてにセンスのいいひととの距離のとり方を求めるのは、できないことをやりなさいと言っていることに等しい。できないことはできないのだ。でも、努力して、真似をすることはできる。こういうセンスのないひとは、近くにセンスのいいひとを見つけ、真似をするだけで、大きくひととの距離のとり方が変わると思う。センスは、真似ることによって磨かれ、必ずとは言えないが、なかには自分のものとして獲得できることもある。

 わたしは、ひとのセンスを決定づける時期が4つあると思う。
 第一段階は生まれてから10歳まで。第二段階は15歳まで。第三段階は20歳から22歳まで。最終段階はそれ以上。

5639.4/12/2007

春の学校(4)

 特学で過ごしてきた2年間で、わたしは教材のストックがとても増えた。
 そのひとつひとつは、全部、手探りの状態で、こどもの実態にあったものを悩みながら作り直してきたものばかりだ。
 特学には、市販の教材もたくさんある。積木やペグなど自作するには難しい教材は、じょうずに活用すると、こどものできる力をさらにのばすことに役立つ。最初の一年は、そういう市販のものに頼った教材準備をしていた。なにをどうこどもに提示すればいいかもわからなかったので、自作することなど想像もできなかったのだ。
 しかし、2年目の夏休みに、養護学校の教員が講師になった、オリジナル教材の講義があったとき、これならば自分にも作ることができるかもしれないと自信をもった。その夏休みの残りの出勤日は、朝から帰りまで教室にこもって、カッターとのりを片手に、厚紙や色紙を切り刻んで、あれこれと試行錯誤の教材準備に専念した。そんななかから、実際に学習で使ってみて、現在まで残っているものは、そんなに多くない。頭のなかで考えていたようにはならないことがたくさんあったのだ。こどもは、当然のことだが、生身の人間だ。こちらの思う通りにはならない。
「先生も苦労してるんだな。少しは我慢してあげようか」
 そういう合わせ方を、してくれることはない。だから、いつも真剣勝負になる。授業でトライして、問題点を洗い出し、放課後に修正する。その繰り返しで一年が過ぎてゆく。こどもの机を作業台にして、カッターやコートテープ、マジックやマグネットを広げて教材を作る。これまでの教材で、こどもにヒットしたものは、少しずつ傷ついているから、メンテナンスもする。使いこなしてくれている証拠だから、メンテナンスしなければならない教材は、愛着がわく。


 出勤して、教室に行き、こどもたちが登校してから下校するまで、職員室に戻ることはない。
 学年始めのこの時期は、教材の準備で放課後も教室にいることが多いから、特学スタッフ以外の職員と話をすることもめったにない。どうしても、学校全体の流れが見えなくなり、職員全体との人間関係作りがおろそかになってしまう。しかし、そのリスクよりも、授業準備で手を抜いて、翌日の学習でこどもを困惑させることのほうがずっと罪深い。


 自宅からポットに入れて持ってきているオリジナルブレンドティーを飲みながら、椅子に座って、机の教材を眺める。腕を組みながら、その日の授業を思い出し、こどもがそれを使っていた様子を思い浮かべる。操作上の問題はなかったか、こどもの表情に困惑はなかったか、やり方がちゃんと伝わっていたか……。そんなことを考えていたら、近くで同じようにプリントやマジックを広げて試行錯誤している新人が聞いてくる。
「やっぱり、長年、この仕事をしていると、いい教材を作るコツみたいのがわかってくるんですか」
 毎日、遅くまで準備をして、翌日の授業でなかなか成果が出ない繰り返し。その弱音が聞こえてくる。
「違うよ」
「えっ、だったら、どういう理由で、教材作りにこんなに差が出るのですか」
「そりゃ、センスだよ」

5638.4/11/2007

春の学校(3)

 6日は、離任式と退任式があった。離任者は4人、退任者は2人。ともに、この春でいまの学校を去るという意味では同じ立場のひとだ。
 離任式と退任式は、離退任式として、一括して行う。9時から始まり、9時半頃までかかるから、授業時間の一単位をたっぷりと使う。校庭で、こどもたちは、離退任するひとたちの挨拶を聞く。ひとりひとりの存在は、かけがえのないものだが、別れの言葉を何人も聞いていると、さすがにこどもたちは飽きてくる。おしゃべりが聴こえてきたり、姿勢が維持できず集団がゆらゆらし始めたりする。

 わたしは、特学を離任する同僚が4人目に挨拶をすることを確認したので、特学のこどもたちを地面に座らせた。学校全体のこどもたちは立っていた。申し訳なかったが、それまでの3人の方の挨拶は、特学のこどもたちにとっては気持ちが集中できるものではないと判断した。名前さえも知らないひとたちの挨拶に、共感を覚えるのは難しい。
 そして、4人目の特学を離任する同僚の挨拶になったとき、特学のこどもたちを立たせた。それまで、砂いじりをしていたこどもたちが、顔を台上に向けた。
 とくに、その同僚が担当していた4人のこどもたちは、顔がいつもと違って緊張していた。もうきょうでお別れということが、なんとなくわかっているようだ。
 その4人のなかで、一番年下のこどもが、ふてくされたような態度を取っていた。わたしは聞く。
「このまま先生とのお別れをするか、教室に戻って本を読むか、どっちにする?」
もしも、セレモニーに退屈していたのなら、代替案が有効だ。しかし、そのこどもは首を横に振る。
「したくない。さよならしたくない。先生と、さよならしたくない」
はっきり教えてくれた。

 そうだろう。4月が来て、教員が、異動するのは、こどもにはどうしようもないおとなの都合だ。ずっといっしょにいたいと思っていても、教員のほうは、そんな気持ちを無視するかのように、さよならも言わずに異動していく。その不条理さを、言葉ではなく、感覚で受け止めている。
「わかった。もうすぐ、先生はみんなとのお別れをしに、ここに来る。そのときに、思いっきり、さよならしたくないって言ってやれ」
そのこどもは、大きくうなずいた。
 ひとは、こころのなかの不安や不満、悲しみや怒りを、どうしようもなく背負い込んだとき、根本的には問題が解決しなくても、そのことを言葉にすることで、案外、楽になることができる。こころのなかでもんもんとしていると、どんどんそれらは増長し、自分でも収拾がつかなくなってしまう。まして、こどもの場合はなおさらのことだ。悲しみを吐き出すこと。それは、やっていいことなんだと教えてあげた。

5637.4/10/2007

春の学校(2)

 今年度の特別指導学級は、人数が増えた。
 昨年度末は全員で9人だった。そこに新入生が3人加わり、転入生が2人加わった。全部で14人になった。法律上、特学は知的障害学級と情緒障害学級を編成しなければならない規定になっている。保護者が望んで入学してくるのだから、内部の規定などどうでのいいのだが、それによって教員の人数が決まるので、あながちどうでもいいとも言い切れない。学校教育法によると、特学は8人で教員がひとり配置される。つまり9人になったら5人と4人にクラスを分けて、教員を2人配置することができる。さらに神奈川県独自の規定で、情緒学級は5人を越えたら、さらにもうひとりの教員を配置することができる。やがてこの加配は、教育予算の削減を主張する勢力によって抹消されてしまうかもしれないが、とりあえず今年度も継続している。

 というわけで、ことしは知的学級1組と情緒学級2組、情緒学級3組の3クラス編成になった。といっても、実際の運用は学校に任されているので、知的学級は知的学級だけで時間割を組み、担任が固定して一斉指導をするということはしない。14人のこどもを、加配を加えた4人の教員で、教科によっては全体指導と個別指導を振り分けて担当する。

 わたしは、いまの学校の特学に赴任して3年目になる。過去2年間、個別学習や障害児教育全般に関して、つねに専門的なアドバイスをしてくれた同僚が異動になった。異動は公務員である限り、避けることができない制度なので、仕方がない。しかし、この同僚の異動は、まだまだ教えてもらいたいことがたくさんあったわたしには、少なからずショックだった。新学期が始まり、こどもたちが登校してからは、これまでその同僚がやってくれていた様々なイニシアティブを自分が担当することになり、現実の重さをしみじみ感じている。
 新しくチームを組むことになった教員のうち、1人はこれまでも特学を経験してきたひとなので、仕事の流れを説明するだけで柔軟に対応してくれた。もうひとりは、学校を卒業して初めて教壇に立つひとなので、いちから手取り足取り教えていかなければならない。自分が新採用だったときも、先輩教員にたくさん迷惑をかけたことを思い出し、その若者に教材や指導法のアドバイスを与えている。自分の担当しているこどもの準備を後回しにして、その時間を確保しているので、かなり計画的に仕事をしないと、こちらの足元がぐらついてしまう。それでも、プリントの山に埋もれ、刺繍糸や布を広げ、思案にふけっている教員のたまごを見ていると、こちらの手を休めて、そばに行く。
「なに、お店を広げてるんだよ」
「なんだか、なにがなんだか、わかんなくなってしまって」
「いっぺんにやろうとするな。ひとつずつ、少しずつ用意するんだ」
 特学は、通常級の担任とは違って、複数の教員でチームを組む。通常級では、すべてを自分ひとりで背負わなければならないが、特学はチームの総合力が重要になる。教員になりたてのひとには、困ったときに、すぐにどうすればいいかを相談できる体制があるというのはラッキーなことだと思う。

5636.4/9/2007

春の学校(1)

 5日。学校の新年度が始まった。正確には1日から始まっている。わたしは2日の月曜日から勤務を続け、5日の始業の準備をした。
「学校の先生は、休みが多くていいですね」
皮肉まじりに言われた時代が懐かしい。わたしが採用された20年以上前には、教員の自宅研修権が認められていて、自宅を含む学校外で授業準備をすることが認められていた。当然、形式的には研修計画を提出するが、自宅にいて8時半になったからといって、「さぁ勤務開始」とか、昼が来たら「これから休憩時間だぁ」と仕事ロボットのような生活はしない。紅茶を飲んだり、昼寝をしてしまったりすることもある。でも、こどもたちの学習に役立つヒントは、どんなところにも転がっているから、それらを集めて、教材に仕上げ、授業計画のなかに組み込んで、休み明けの授業に使うことが一般的だった。

 しかし、バブル経済が破綻した頃から、保守系勢力を中心とする公務員攻撃の矛先に、教員の自宅研修権があげられた。給料をもらって遊んでいるだけではないか、どこからが勤務でどこからがプライベートか区別できないではないかと。また、攻撃を受けても仕方がない研修計画を立てる者もいた。月曜日は美術館や図書館が休みなのに、月曜日にそこへ行って美術鑑賞とか読書という計画を提出していたのだ。そういう虚偽行為は、ほんの一握りの者しかやっていないのだが、教員の自宅研修権を剥奪したい勢力には絶好の攻撃材料になった。
 研修先から図書館が消えた。教育委員会が企画する研修以外は、報告書の提出が必要になった。自主計画に基づく研修を認めない管理職が増えだした。仕方がないから出勤して、職員室でぶらぶら時間を過ごす者が現れた。そして、休み中に会議予定が組まれ、出勤しないと組織の中ではじかれる仕組みが機能し始めている。
 いまでは、自宅研修権は剥奪され、教育公務員特例法で認めている学校外での研修さえも、管理職が許可するもの以外は認められなくなってきている。
 元来、教員は世間知らずと陰口を叩かれてきたのに、これからはますます自宅と学校以外の生活の場がなくなっていくだろう。

 それでもまだ神奈川は、学校の仕事分担を職員会議で相談して決めることができる。
 学校の仕事は、外部から見えている学習指導や生活指導、保健安全指導だけではなく、教科書の発注や運動会の企画、掃除分担や備品購入など、外部からは見えにくい仕事も多い。というか、見えにくい仕事が全体の半分を占めているといっても過言ではない。だから、一年間の仕事分担を決めるときには、仕事内容の偏りがないように調整しなければならない。特定の個人に仕事が集中すると、そのひとのクラスでの仕事の時間が減ってしまうからだ。
 東京都は現在の知事になってから、教育委員会の管理が厳しくなり、それにともない校長の権限が強化され、学校の仕事分担を校長がひとりで全部決めて、教職員に「これでいきます」と押し付けるようになった。わたしの知り合いは、初めて6年生を担任して卒業までの一年間を大事にしたいと思っていたのに、筑波への宿泊研修を含む英語教育の研究主任を命じられて、悲鳴を上げていた。

5635.4/7/2007

マドンナ(4)

 だから、一から仕事を覚え、休日などない日常を当然と受け止め、解雇されないようにバブル崩壊のときも会社に貢献し、着実に出世の階段を上がってきた。
 ほとんどのほとが、自分の生き方を発想の基準にする。だから、芳雄のようなひとたちには、仕事はできるが、組織に貢献しないひとや、学歴や安定収入に固執しないで夢を実現しようとする若者に対して、許容できない感覚をもっている。
 しかし、頑固になりきれない。そこが弱いところでもあり、わたしは同世代の人間として、いいところでもあると思う。

 芳雄は、会社を旧態然の体育会系男社会と勘違いしている50歳代の部長の飯島から、浅野を社内運動会に出席させて、営業部の応援リーダーをさせろと命令される。飯島は、仕事はするが組織内の人間関係を重視しない浅野のようなタイプが根本から許せない。だから、その浅野を自分の営業部で応援リーダーにさせたら、ほかの部にも「飯島があの浅野を屈服させた」と認めさせることができる。その具体的な担当を芳雄に命じたのだ。
 浅野は、早々と五課の課員に「社内運動会へ出席する必要はない」と伝えている。その課長を引きずり出すのだから、芳雄には策がない。手を変え品を変え説得するが、そのたびに浅野に言い負かされてしまう。押し切れない。
「会社の行事なんてみんながいやがっている。休日を返上されて。だからひとりひとりが拒否をすればいい。俺はその先駆けだ」
頑固になりきれない芳雄には、浅野の生き方を真似できないが、考え方にはわからないでもないところを感じてしまう。

 しかし、浅野は最終的には上司からの強い要請で運動会に参加し、応援もする。調子に乗った飯島は、騎馬戦で自分が乗る騎馬の先頭を浅野にやらせた。見た目には、飯島が浅野を屈服させたような印象を内外に与える効果があった。さすがに芳雄は、その光景を見て、飯島の行き過ぎに憤りを感じる。結果的に、たとえ上司であろうと、また酔った席のことであろうと、あんたのやり方はやりすぎだと抗議をして、ケンカになってしまう。
 もともと、上司の飯島の命令を実行した芳雄にとって、浅野が思い通りになったのだから、本来ならばほっと胸をなでおろして喜ぶべきだろう。しかし、こころのどこかで浅野のような生き方に憧れを抱いていることに気づき、飯島の横暴に憤慨してしまう。わたしは、その矛盾に見える内面に共感した。ひとのこころの奥底の本音の部分を包み隠して、社会や体制の意思に合わせて生きていく日常を肯定しながら、ぎりぎりのところでそんな肯定に疑問を抱き続ける。でも、ひとりではなにも変えられない、抗ってみたところで失うものが大きすぎて勇気を奮い立たせることができないとあきらめている。なにかを失っても、自分のなかの大切なものを守り抜く……。そんなドラマのような生き方を本当は夢見ているような気がした。

5634.4/5/2007

マドンナ(3)

 二話目は46歳の田中芳雄が主人公だ。高校二年生の息子の俊輔が「大学には行かない。ダンサーになる」という夢をもつ「ダンス」という話だ。
 毎朝八時半に出社し、経済新聞に目を通しながらコーヒーを飲む芳雄は営業四課の課長だ。

 一作目のマドンナ同様、40歳代の民間人は、だいたい課長職になっているのか。新採用から、そういう役職とは無縁の教員世界で生きてきていると、よのなかでいう出世というステップがわからない。

 マドンナが会社での人間関係を中心にした話だとしたら、「ダンス」は関係性が希薄になりがちな父親と息子の関係を軸にしている。ダンサーになりたいという息子に対して「できれば四年生の国立大学が親としては助かる」などと、まったくかみ合わない会話で応じてしまう。そしてもうひとつ同じ営業五課の浅野という同期の課長との関係も物語りに起伏を持たせている。浅野はいまでこそ課長だが、ずっとわが道をまい進してきたので、課長になったのは動機で一番遅かった。仕事とプライベートは完全に分離し、およそ会社人間とは程遠い生き方を実践している。だから、課長になったら、自分の課員に「親睦旅行や社内運動会へは出なくていい」と実質的に休日を返上しての、半強制的な会社への貢献行事を抑止している。上司やほかの課長からはにらまれているが、五課の課員からは歓迎され、ほかの課の若手からはうらやましく思われている。
 主人公の芳雄は、上司の命ずるまま、若いときから接待や幹事を引きうけ、時間外労働もいとわずに、いまの地位まで出世し、それがサラリーマンの正しい生き方だと信じている。自分の都合ややりたいことを優先していたら、会社は立ち行かなくなり、結局、社員の生活に影響が出ると思っている。だから、浅野のような生き方は認められない。同時に、息子の俊輔のような将来の展望がまったく見えない夢に対しても最初から聞く耳を持たないで否定してしまう。

 わたしは芳雄に象徴される40歳代の社会人は、とても多いと思う。
 高校や大学を卒業した時代は、就職口がほとんどない氷河期だった。社会経済が停滞し、そのなかでなんとか企業や官公庁に就職できた人間は、とてもラッキーだった。仕事をやる気がなくて、無職になるのではなく、仕事がないから無職にならざるを得ない同年齢のひとたちがたくさんいたのだ。いまでこそ、フリーターやニートなどと働かない若者を政治家やメディアは否定的に論調するが、1980年代に就職先がなくて就職できなかった若者をたくさん生み出した当時の政治や経済のあり方を問題にするひとはほとんどいない。その年代が、いまや40歳代を迎えているのだ。だから、当時は自分の夢をかなえるために就職するなんて発想はなかった。ほんの一握りのひとたちだけが、やりたかった仕事にありついたかもしれないが、ほとんどのひとたちは夢や希望は学生時代への忘れ物とあきらめ、就職していったのだ。

5633.4/3/2007
マドンナ(2)

 結婚して15年目になる42歳の荻野春彦は営業三課の課長だ。「マドンナ」に掲載されている最初の短編、タイトルにもなっている「マドンナ」の主人公だ。
 結婚してから部下の女性に三回ほど、恋心を抱いた経験がある。しかし、告白をしたり、関係を持ったりしたことはない。いつも、その女性と自分がつきあう夢想ばかりで終わる。あるとき、その営業三課に定期人事異動で倉田知美という女性が配属された。年齢は25歳ぐらい。前の配属は海外事業部にいた。そこで翻訳を担当。完全に春彦の好みのタイプだった。四回目の夢想の旅が始める。
 自宅で風呂に入りながらも、知美との会話を想像し、胸をときめかせる。行動に移さないのは、自分には勇気がないからだと自覚している。しかし、今回の知美は、落ちついた雰囲気の中に、とんがる様子も見せず、それでいて相手を傷つけない程度に自分の考えも主張できる。春彦の理想があった。
 自らを三課のホープと称する28歳の山口は独身だった。お調子者だ。知美が配属されてきてから、彼も胸をときめかせている。しきりに趣味のゴルフに誘う。課長としてというよりも、山口のように行動に移す勇気のない春彦は、次第に山口への嫉妬と、知美への気持ちをつのらせていく。
 知美を歓迎するコンパの帰りに、帰る方角が同じ知美と山口を上司としてタクシーに乗せ、送り出す。ほかの部下もみんなタクシーで帰した後、ひとりになって春彦は焦りを感じる。あのままふたりは帰っただろうか。意気投合してふたりだけの二次会へと発展したのか。お調子者の山口の誘いに、知美がうっかり乗っていなければいいが。
 その後の展開まで触れてしまうと、著作権の侵害になるので、興味があったら本を買って読んでほしい。

5632.4/2/2007
マドンナ(1)

 奥田英朗(おくだひでお)さんの「マドンナ」(講談社)という文庫本を読んだ。
 マドンナは短編集だ。マドンナ、ダンス、総務は女房、ボス、パティオの5つの作品で構成されている。
 直木賞を受賞した「空中ブランコ」で、わたしは彼の作品を初めて読んだ。精神科医の伊良部が次々と破天荒な診療をしながら、それでいて患者のこころをつかみ、こころの病を治していく。文章は軽快、かつわかりやすい。登場人物の設定が明確で、よくもこんなにモチーフを思いつくと感心してしまう。
 マドンナには、伊良部は登場しない。こころの病のひとも登場しない。空中ブランコとは、違ったジャンルの短編集だった。
 1959年生まれの奥田さんは、わたしとほぼ同じ世代を生きている。マドンナに登場する人物は、ちょうど奥田さんからわたしの間の年齢設定ばかりだった。45歳前後の男性ばかりが主人公なのだ。読んでいて、自分のことが描かれているような錯覚に陥ることが多かった。主人公の設定は、企業の中間管理職で奮闘する男性ばかりだったので、公務員のわたしとは立場が違う。しかし、ものの発想や、現実への対応、家族構成や親子関係など、学生運動が終焉した後に誕生してきた三無主義(無関心・無気力・無感動)・しらけ世代と呼ばれ続けたわたしたちに共通するものを感じた。わたしは、地域社会でソフトボールチームに所属している。ちょうど、そこに集まる民間企業に勤務しているひとたちは、マドンナに登場する日常を間違いなく送っているのだろうと想像できた。

 就職した頃は、終身雇用制が主流で、偏差値の高い大学を出れば、有名企業への就職が保障されていた。しかし、就職してすぐにバブル経済が破綻して、リストラの嵐が吹き荒れる。もともとあまりイデオロギーのない世代だから、長いものに巻かれるのは抵抗なく、頑固とは程遠く、それでいて体育会系の縦型社会でもまれた。主任や係長などの肩書きのつくポストが回ってきた頃から、女性管理職の台頭が目立ち始め、企業の中には外国人社長を招聘するところも現れてきた。それまでの談合的な仕事のしやすさが否定され、合理的かつ効率的な仕事への対応に慣れず、課長になっても先行きが見えない。家庭生活のほとんどは、妻に任せ、いつのまにか自分は家族の人数に入っていないような疎外感を受ける。それでも、会社のため、家族のためと信じ続けてまい進し、そしていま、社会の変化に対応しづらく路頭に迷う。
 マドンナの5つの作品に登場する主人公は、おおむねこのようなひとたちだ。

5631.3/31/2007
家族葬(13)

 3月12日午後6時から通夜が始まる。祭壇には、仏式の通夜でよく見かける名前入りの札はない。一切の虚礼を排しているから、シンプルなものだ。考えてみれば、葬式は死者を弔うものだから、死者以外の世俗を生きるひとたちの名前が書かれた札が亡骸を取り囲むように並ぶのは、本来の姿ではないのかもしれない。あれでは、札の大きさでいくらの金額を花にかけたかを比べているようなものだ。世俗を生きるひとたちの序列を死者に知らせたところで意味がない。弔問に訪れるひとや、遺族に、それらは厚意として暗黙のうちに伝えられているのだろう。
 「わたしはとてもお世話になったんです」「わたしはこんなに大きな花を贈ることができるんです」「わたしは金持ちなんです」。

 それが家族葬には一切ない。同じことは告別式にも言えた。
 だから、どちらもわたしは、だれに気を使うこともなく、住職がお経を読む最中、祖父との思い出をじっと振り返ることができた。
 戦後、満州から引き上げ、長野や盛岡を転々として、最後に鎌倉に安住の地を見つけたとき、祖父母は円覚寺のお墓を購入した。そのお墓には、満州時代に幼くして亡くなった男子と女子の骨が入った。長い間、そこにはふたりの骨しかなかった。14年前に、祖母がやっと母親として入った。おととし、わたしの母が仲間入りをした。そして、今回、祖父が加わる。
 円覚寺は禅宗のお寺だ。禅宗には宗派があり、円覚寺は臨済宗という宗派の総本山を建長寺と互いにはり合っている。臨済宗のお葬式では、ほかの仏式のお葬式とほとんどにおいて同じだが、告別式のときに特徴的な違いがある。
 わたしは、その違いが好きだ。

 告別式の朝、般若心教から始まるお経を住職が読む。やがて、ひととおりのお経を終えると、住職は立ち上がる。そして、指と腕で空を切る。なにやら呪文のような空字のような。そして、おなかの底から、太い低い「あーっ」という喝を入れる。お経を聞きながらうつらうつらしていると、必ずそこで目が覚める。
 祖母のとき、母のとき、そして祖父のとき。いつも住職は同じように喝を入れた。
 最初の祖母のときに、わたしはあまりにも驚いたので住職に、あの喝はどういう意味かを聞いた。
「これから、からだは焼かれて骨になり、魂は閻魔様のもとに旅立って現世の裁きを受けます。いつまでも魂が肉体に執着しないように、喝を入れ、魂を肉体から切り離す意味があります」
 心臓は停止し、西洋医学的にひとのからだに死が訪れていても、魂という見えない存在はまだ自分のからだに残っているのだろう。その魂に「お前のからだは滅んだ。自由になって閻魔様のもとに向かうんだよ」と諭す喝なのだ。だから、わたしはその喝を聞くと、いつも斎場の天井や自分の周辺を見回す。死者のからだから離れた魂が、ゆらゆらと空間を浮遊する姿を想像するのだ。
 いま祖父は7日ごとに閻魔様の前で裁きを受けている。現世での行いを告白させられ、地獄行きか、観音世界行きかの判決を待つ。裁きは7日ごとに7回行われ、最後の裁きが終わった49日目に法要が行われる。きっと、明治から昭和の激動を生き抜き、自分の死に方まで決めていた祖父の生き方に、閻魔様は太鼓判を押す準備をしていることだろう。(合掌)

5630.3/30/2007
家族葬(12)

 父は、それが祖父の魂からの別れとは感じなかった。自分が乗る帰りの飛行機が、事故に巻き込まれるぞと、祖父が教えてくれたのかと思ったそうだ。だから、成田に着陸するまで気が気ではなかったそうだ。わざわざ祖父の魂が、日本列島を横断し、東シナ海を越えて、台湾まで挨拶に行ったというのに。


 そして、3月11日、日曜日。
 大崎で飲食の店をしている叔父は、土曜と日曜が定休日なので、夫婦で転院した祖父を見舞った。そのときは、穏やかな寝息を立てる祖父を見舞うことができた。父に挨拶をして、自宅のある下北沢に戻ったところで、父から電話を受ける。
「あぶない状態になった、すぐに来てくれ」
 叔父夫婦は、ふたたび第三京浜を飛ばして鎌倉までやってきた。
 午後一時三十五分。祖父は、永眠した。


 自宅からすぐの病院なので、遺体は専用車ではなく、かついで運ぶのかと思ったら、もう霊安室には葬儀会社の車が用意されていて、わずかな距離なのに、祖父は我が家に車で戻った。思えば、病院やグループホームで長い時間を過ごし、家族や家の香りがするところに戻ったのは、久しぶりだった。
 すぐに父と叔父は葬儀会社のひとと段取りを話し合っていた。
 祖母や母が亡くなったときの湿った雰囲気はなく、ふたりともやっと大きな仕事を終えることができたという達成感のようなものを発していた。互いの父を97歳まで面倒を見た満足な気持ちなのだろう。通夜と告別式の日程、やり方などを相談している。個人的には、学年末の忙しい時期に、なるべく学校を空けたくない。とくにいまの仕事は、複数の教員でチームを組みながらやっているので、ひとりが欠けると、ほかのメンバーへの心身への負担が大きい。早くからわかっていることならば、ひとの手配ができるが、忌引きのようなケースは突然だ。


 幸いにして、祖父は生前から、もしものときは最小限の葬儀にして、近所や知人に連絡は無用の家族葬を望んでいた。
 わたしは、初めての経験だった。月曜が通夜、火曜が告別式に決まる。受付を作り、遠方からの客人を迎える準備がいらないので、わたしは月曜は通常勤務を終えてから斎場に行くことにした。通夜は6時からだった。親族・家族でも、その時間に間に合えばいいとのことだったからだ。出勤して、上司や同僚に事情を説明し、こどもが帰った後は、忌引きをとる火曜の手配と準備をした。祖父が、自身の弔い方までイメージしておいてくれて助かった。

5629.3/29/2007
家族葬(11)

 骨折をして歩くことができない祖父は、グループホームには入所できない。もともと骨折をしたのは、グループホームだったので、責任の一端を感じて、何らかの善処を期待したのだが、よのなかは甘くはなかった。
 父は、終末医療専門の病院を探す。
 わたしの家のとなりに、古い病院がある。昔からの病院で、地元では多くの人が知っていた。古くは結核の療養施設も併設していた。その病院が、近年は近くの総合病院の傘下に入り、癌や認知症などの終末医療を専門にしていた。父は、そこに祖父を転院することを決める。自宅から、歩いて1分も経たないところに、祖父は2月下旬に転院した。
「面倒を最期まで見てくれるのはいいんだけど、費用がとても高いんだ」
 父がこぼした。それでも、祖父のたくわえで7年から8年はなんとかなると計算していた。

 しかし、祖父はその病院に転院して20日も経たないうちに、息を引き取った。
 その前日の3月10日、土曜日。わたしは、グループホームから自宅に持ち帰った祖父の荷物のうち、大量の紙おむつを知人の家に届けた。祖父の荷物はベッドとタンスと衣類だけだったので、わたしの車で運べばいいと思った。しかし、紙おむつがお店が開けるほど残っていたので、車のなかは紙おむつでいっぱいになってしまった。それも、どれも封を切ってはせいぜい一つかふたつしか使っていないものだった。グループホームでは、どういう紙おむつの使い方をしているのだろう。まったく開封していないものあった。毎月、ある程度の紙おむつをまとめて買っているのだろうか。知人の家でも排泄の介護が必要なひとがいて、紙おむつは必需品だった。転院先の病院では、費用の中から紙おむつを用意するので、わざわざ持ってくることはないと言われていたのだ。いまから思えば、息を引き取る前日に、届けておいてよかった。息を引き取ってからでは、なんだか遺品の整理をしているようで、気持ちが安らかではなかっただろう。
 
 父はその週の火曜日から、中学時代の同級生と台湾に旅行に行っていた。かつての仕事先を巡りながら、懐かしいひとたちに会うことを楽しみにしていた旅行だ。母が亡くなってから慣れない自炊生活を続ける父にとって、今回の旅行は気分転換にはいい機会だった。唯一、祖父のことが気がかりだったと思う。
「向こうに行っている間は、任せておいて。もしものことがあっても、旅行の途中で呼び出すようなことはしないよ」
出発前に伝えておいた。
 父が、日本に戻る前日の9日の金曜日の夜、祖父が夢に現れたそうだ。
「もう、婆さんのところに行ってもいいかなぁ」。

5628.3/28/2007
家族葬(10)

 やがて、息子の父や叔父の名前がわからなくなる。病院に行って、予防接種を受けて、待合室で料金を払うために待っていたら「いつになったら、注射をするんだ」と、さっきの記憶が消えていた。祖父の居間が臭くなる。トイレに行かないで、おもらしをしても、そのことにさえ気づかないで、ぼーっとしながらテレビを見ていた。朝までテレビを大音量で見ながら、パジャマから着替えなくなった。
 いまでいう認知症だ。でももうすぐ100歳の祖父には、認知症という新しい言葉よりも、ぼけたという表現のほうがぴったりだった。
 祖父の面倒を見ていた母の体調が悪くなり、日帰りのデーサービスや宿泊のデイケアを使うようになった。二泊三日で宿泊したときに、祖父を迎えに行ったら
「ごくろうさまです。どちらさまですか。斉藤さん、このひとがわしの荷物に手を触れているんだ」
と、孫のわたしを不審者と勘違いした。日常的な世話をしてくれている斉藤さんと呼ばれたひとのネームプレートには、ほかの名前が書いてあった。

 母が亡くなった。その日を境にして、祖父の面倒を見る人間がいなくなる。父と叔父は相談して、孫たちに手数をかけたくないという気持ちでは一致していた。
 そのとき、認知症のひとたちを常時あずかりで面倒を見るグループホームが近所に建設された。父たちは、すぐにそこに祖父を預けた。祖父が、グループホームに出発する朝、わたしは、庭で家をバックにして祖父の写真を撮影した。きっと、二度とここに戻ってくることはないだろうと感じた。
 グループホームでの祖父は、持ち前の穏やかな性格で、ヘルパーのひとたちにはとてもよくしていただいた。しかし、グループホームは、医療行為ができないので、元気な認知症状態でしかあずかってくれない。日本の福祉行政の立ち遅れを感じる。高齢の認知症で、健康なひとなどそんなにいない。みんな脳以外にもどこか弱っているところをかかえていて普通ではないか。そういうひとたちが行くべき場所が公的に用意されていない。特別養護老人ホームがあるではないかというひとがいるだろう。特養は、医療行為ができる認知症患者を長期間、あずかってくれる。しかし、絶対数が少なすぎて、予約しても空きができるまでに長い時間がかかり、それまでに寿命が終わってしまう。

 祖父は、グループホームに入りながらも、膀胱に癌が見つかったときは病院に入院した。夜間、徘徊してしまうので、わたしや父、叔父が交代で泊り込んだ。
 すでに、夜も昼もぼーっとしていたので、長時間深い睡眠状態に入ることがない。1時間おきぐらいに、目が覚めて、体を起こし、動こうとする。点滴の管を抜こうとしたり、ベッドから降りて歩こうとしたり。深夜二時とか三時に、そういう祖父を「管は抜いちゃいけないんだよ」「まだ夜だから寝ていようね」と布団に戻した。
 熱が出た、血便が出ているといっては、家族が呼び出され、病院に入院の手続きをした。
 そして、車椅子に乗り移ろうとして転び、大腿骨を骨折した。病院では、手術に耐えられる体力はないし、自然に痛みがなくなるのを待つしかない。その代わり、骨が完全にくっつくわけではないので、ふたたび歩けるようにはならないと言われた。徘徊に困っていたので、歩けないのは仕方がないと、父は手術をしないことを了承した。

5627.3/25/2007
家族葬(9)

 祖母が亡くなってから、家族や親族は祖父はきっと落胆してすぐに後を追うだろうとだれもが想像した。しかし、その予想は大きく外れた。
 それまで、祖母が作った料理は何でも食べていたのに、その後、食事の面倒を見ることになったわたしの母や妹が作った料理をメニューによっては、まったく箸をつけずに残すようになったのだ。妹は、祖母の味に近づけようと、納豆を入れた玉子焼きを作った。わたしは閉口していたが、かつて祖父はおいしそうに食べていたメニューだ。でも、それさえも、祖父は残した。
「どうして。爺さんは、これ、よく食べてたじゃん」
わたしが、祖父に聞く。
「本当は、わしはこれは嫌いだったんだ」
悪びれる様子もなく、祖父は告白した。

 祖父は祖母との長い時間で、祖母が用意したり、作ったりしたものに、文句を言ったり、抵抗したりすることはまったくなかった。それは、愛の深さか、満足していたのかわからなかったが、本当は我慢していたことが明らかになった。
 母や妹と「これはやばいかもしれない。爺さんは、案外長生きするかも」とひそひそ話をしたのを覚えている。
 その予想は少しずつ当たりとなっていく。
「たまねぎを炒めてソースをかけたのを作ってくれ」
「うどんはいらん。わしはそばじゃ」
 それまで、言ったことのないことを言い始めるようになった。たまねぎ炒めのソースかけなど、祖母が生きていたときは食卓に並んだことを見たことがない。どこで食べたのだろう。いつ食べたというのだろう。

 祖母がなくなってからの10年間は、頭もしっかりしていて、祖父はそれまでの祖父とは違う人格になってしまったような、わがまま勝手、気ままな生活を楽しんだ。
 その祖父の言動がおかしくなったのは、94歳が近づいた頃からだった。家族が集まり、祖父の誕生日の5月1日にお祝いをしようとしたら「わしは100歳になった」と言い始めた。95歳のときもそうだった。

5626.3/24/2007
家族葬(8)

 その日から、わたしや妹、叔父らによる交代交代の看護が始まった。祖母を看護する必要はない。寝たきりで動けない。
 ずっと病院に泊り込んで、祖母のかたわらで看病すると言い出した祖父の面倒を見るためだ。幸い、やや広めの個室が空いていたので、祖父が寝泊りをしても十分なスペースが病室にはあった。しかし、食事や着替えなど、身の回りのことがまったくできない祖父が、看病をするというやる気だけで泊り込むものだから、家族の年末は大幅な予定変更を余儀なくされた。

 鎌倉市内は、元日から三日間一般者の乗り入れが制限される。祖母の入院した病院は、鶴岡八幡宮に近い鎌倉の中心部にある。わたしは、万が一の時に車を使うことがあると考え、警察署で通行許可証を発行してもらった。クリスマスを過ぎ、仕事納めを過ぎても、祖母の意識が戻ることはなかった。
「心臓は、脳からの命令を受けているわけではないので、たとえ脳がやられても、呼吸によって新鮮な酸素が供給されている限り、動き続けます。それは、心臓自体の強さに関係しています。人工呼吸装置を使った場合は、どれぐらい心臓が動き続けるかは、個人差が大きくあります」
ドクターの説明通りに考えると、祖母の心臓はとても強かった。三日、四日、五日……。通常時と変わらない脈を打ち続けていた。

 12月29日に、わたしが病院に行ったとき、無精ひげで人相が変わった祖父が言った。
「婆さんが、若い頃に戻った」
全身の機能が低下して、点滴で注入している液体がきっと血管から漏れ出したのだろう。全身がむくみ始めたのだ。しわが目立った祖母がむくみ始めたから、しわがのび、ふっくらして、祖父のいう若い頃に戻ったように見えたのだ。
 そして、12月30日。あしたは大晦日というとき、祖母の心臓はやっと最期のときを迎えた。それでも、ドクターは心臓マッサージをしたり、電気ショックを与えたりして、一時停止した心臓を復活しようとこころみた。何度目かのトライのときに祖父ははっきりとした声でドクターに言った。
「先生、もういいです」
 それから、まもなく祖母の心臓は78年の時を刻み続けた歴史に終わりを告げた。

5625.3/22/2007
家族葬(7)

 救急車で祖母を運び、しばらくして、わたしと祖父は診察室に通された。脳の断面写真が何枚かドクターの机に貼ってある。蛍光灯の光を後ろから浴びて、それぞれの写真は白と黒の陰影がはっきりと浮かび上がっていた。
「残念ですが、大動脈瘤の破裂によるクモ膜下出血です」
祖父は、黙っている。わたしは、ドクターが示す写真に注目する。
「この血管が二股に分かれているところから、白い影が広がっているのがわかりますね。これが出血部位です。この広がり方からいって、出血は少しずつ起こったのではなく、一気に血管に大きな穴が開き、そこから大量の血液が脳内に広がったと考えられます」
素人のわたしにも、その写真の意味することは理解できた。しかし、祖父は説明に関係なく、質問をした。
「先生、助かる見込みはありますか」
「ほぼ出血と同時に、脳のほとんどは溶解していると思います。おそらく意識が戻ることは難しいかと」

 祖母は、若い頃から喫煙していた。すい臓がんを患ったり、高血圧で薬を飲んだりして、つねに医者からはタバコを戒められていたが、家ではこっそり吸っていた。祖父も晩年は吸わなくなったが、当時は喫煙していた。医者から吸わないように言われているのに、祖母がこっそり吸っているのを、祖父は気づいていたが、怒ることはなかった。
 ふたりにとって、タバコは、苦しい満州時代をともに過ごした思い出の品物だった。単なる嗜好品の価値を越え、生活の支えになった宝物でもあった。
 あの日も、台所のテーブルには灰皿があり、祖母が愛用していたマイルドセブンがぎゅっと火種をつぶされ、鎮火した状態で置いてあった。祖母は、朝食の支度をして、椅子に座り、つかの間のひと時を楽しむためにライターに火をつけて、マイルドセブンを吸ったのだろう。そして、人生最期の一服を終え、きちんと火を消した次の瞬間、後頭部に強い衝撃を感じ、目の前が真っ暗になり、声も上げられぬまま、椅子から崩れ落ちた。
 もともと高血圧で血管が詰まっていたか、かたくなっていたところに、喫煙の影響でさらに血管が凝縮し、血液の圧力に耐え切れず、大出血が起こったのだろう。

 祖父は、ドクターの言っている意味が頭ではわかっても、こころでわかりたくない感じだった。
「もうまもなく呼吸が止まるでしょう。そして、数分で心臓が止まります。もしも、延命措置をご希望ならば、人工呼吸装置を使って、呼吸が止まった後に、装置に切り替えることができます」
「ぜひ、そうしてください」
祖父は、祖母の延命を強く希望した。大脳のほとんどが溶解しているから、意識が戻ることは難しいが、仮に戻ったとしても多くのダメージを受けていることが考えられた。それでも祖父は奇跡を信じようとしたのだろうか。

5624.3/21/2007
家族葬(6)

 祖父は、息子たち(父と叔父)に、決して甘くは無かったが、頭から否定するような態度は昔から取らなかった。わたしも妹も自立して生活を別の場所で始めていたとき、父母が仕事で三年間、台湾で生活をすると提案したとき、祖母は強く反対したが、祖父は「よし、わかった」とだけ応じたという。東京で人形の卸業者の専務をしていた叔父が独立して、飲食業の店を持ちたいから出資に協力してほしいと提案したときも、「よし、わかった。いくらだ」と応じたという。
 その代わり、祖父は祖父で、息子たちにたくさんの頼みごとをしていた。
 宮ヶ瀬ダムの建設が発表されたときは「構造的に、建築の限界を超えている建造物だから、完成しても水圧でダムが決壊する」と危惧した。そこで、叔父に頼み、工事が始まったばかりの事務所に連れて行ってもらい、自ら取り寄せた資料や、自ら作成した構造計算書を現場の若い担当者に突きつけて質問をしたという。相手も、見知らぬ老人とはいえ、あまりにも質問が専門的で、持参した資料にも嘘が無いので、懇切丁寧に対応した。結局、工事の着工から、完成まで、父や叔父は何度も祖父を建設現場まで運ぶことになった。同じことを、横浜ベイブリッジ建設のときも繰り返していたのを覚えている。

 そんな祖父に転機が訪れたのは、祖母が倒れたときだった。
 祖父が84歳、祖母が78歳。わたしは、当時、父母が台湾で仕事をしながら生活していたので、父母の家に戻り、生活をしていた。12月23日の早朝だった。となりの家なのに、祖父からの電話で起こされた。
「婆さんが、台所で倒れているから、来てくれないか」
その声に緊張感は無く、とても冷静だったので、なにかの拍子で転んで痛がってでもいるのかと思って、わたしは寝巻きのまま祖父母の家の玄関を開けた。祖父は腕組みをしながら、布団で寝ている祖母を見下ろしている。表情にあせりはなかったが、どうしたらいいのか困っている様子だった。
 わたしは大学時代、山登りのクラブに所属していたときに救急法の資格を取っていた。就職しても、毎年、救急法の講習を受けていた。だから、布団で目を閉じている祖母を見て、もう手遅れだと直感した。
「さっき、台所って言っていたけど、婆さんはここまで自分で来たの?」
「いや、わしが運んだ」
その瞬間、手遅れは決定的になった。
 一応、型どおりの救命措置をする。肩を叩いて名前を呼ぶ。応答なし。呼吸を確認する。自発呼吸あり。脈をはかる。脈あり。口から舌を出したまま、いびきのような呼吸を繰り返す。脳の出血、まったく意識が無いので、梗塞よりひどいと感じた。脳の出血のときは、気道確保ですら、出血を拡大させるおそれがあるから危険なのに、祖父は祖母を台所から布団まで運んでしまった。意識がないと全身に力が入っていないから、ひとはものすごく重い。きっと、運ぶというよりも引きずったに違いない。その衝撃が出血箇所を広げているかもしれない。

5623.3/19/2007
家族葬(5)

 祖父は、港湾整備会社にいたときに、何度も国家試験を受けて、一級建築士の資格をとるように上司からすすめられた。それは、会社にとっても利益になるし、本人にとっても、いまよりももっと大きな建築にかかわれることを意味していた。何度か受験し、当時としては、とても高齢で一級建築士の試験に合格したので話題になったという。
 祖父は、酒を飲まず、ひとづきあいが苦手だったので、仕事が終わるとさっさと家に帰ってくる。祖母が弁当を作っていたので、日常経費は往復の交通費ぐらいだったと思う。とくに趣味があるひとではなかったから、かなり蓄財したのではないだろうか。しかし、自宅周辺の借家が引っ越すと、すぐに借地権を購入して、借地を少しずつ拡大していた。一番広いときで、100坪以上は借りていたと思う。そこに、持ち家を建て、ひとに貸したり、結婚したわたしの父母を住まわせたりした。わたしが小学生の時には、そのうちのいくつかは地主に返上していたが、それでも、ひとつの敷地に三軒の家があった。ひとつは祖父母、ひとつは父母、もうひとつはひとに貸していた。

 わたしは、中学生のときから祖父母の家で寝泊りをした。どうして父母と妹のいる家から、祖父母の家に寝泊りをするようになったのかは、正確には覚えていない。祖父母の用心棒役だったのか、父母の家が手狭だったからなのか、わからない。ただ、数学や物理のテスト前になると、よく祖父に問題を解いてもらったのを覚えている。中学や高校レベルの問題ならば、即座に答えを導くのには、いつも驚いた。しかし、やり方や考え方をひとに教えるというのは苦手らしく、いつも広告の裏に手計算した式を渡し、意味は自分で考えろという感じだった。その意味がさっぱりわからず、試験ではいい結果にはつながらなかったが。
 ふだんは、祖父母の家では寝泊りをするだけで、食事は自宅に行き食べていたが、父母が旅行に行ったり、母が外出したりするときは、祖父母とともに食事をした。長野生まれの祖母の料理は、どれも塩気が多かった。それが、わたしには苦痛だったが、祖父はいやな顔をまったく見せずに黙々と食べる。わたしは、基本的に納豆は納豆のまま食べたいのに、祖母はなぜかいつも納豆を卵と混ぜて、玉子焼きにしてしまう。しぶしぶ箸をつけるわたしの横で、たっぷりの醤油をかけ、祖父はおいしそうに食べていた。

 60歳で、横浜の港湾会社を定年退職した祖父は、再就職はせずに、退職金と、恩給と、年金を元手にした隠居生活を送り始めた。
 とくに行く宛てはないのに、毎朝、ワイシャツに着替え、ブレザーを着て、外出した。たいがいは、鎌倉市内を巡り、夕方には帰ってきた。昼食は、外食をするのだが、こだわりがあったらしく、日本蕎麦屋だけを狙い撃ちしていた。そして、気に入った店を見つけると、何日も同じ店に通い続けた。北鎌倉駅前の蕎麦屋や、鎌倉市役所の食堂など、行きつけがいくつか決まっていたようだ。
 ひとづきあいが苦手なのに、祖父は、地元の老人会に入会した。それは、もともとひとづきあいが好きだった祖母が入会したのがきっかけだった。ゲートボールや旅行などで楽しむ祖母を間近にして入会を決心した。しかし、入会しても、あいかわらず酒は飲まないし、寄り合いにも参加しない。そのかわり、会計の仕事を引き受け、やがては幹事までなり、老人会の事務的な仕事を居間のこたつで片づけるようになった。

5622.3/17/2007
家族葬(4)

 終戦後、大陸に残りながらタバコ屋で生活をつないでいた祖父一家は、1946年になって引き上げの朗報を聞く。タバコ屋の後始末が必要だった祖父は、そのまま残り、祖母と父だけが引き上げることになる。当時の引き上げについては、生前の祖母からも、父からもよく話を聞いた。何度聞いても、ひとには言えないような悲惨な場面が多く登場する。無蓋貨車、つまり貨物列車にぎゅう詰めにされた引揚者は、大半が婦女子だった。幼子を抱きかかえる若い母親もいた。列車は、途中何度か乗客の排泄のために平原の真ん中で停車する。ふたたび列車が走り出したときには、若い母親の腕に幼子はなかった。そのこどもをどうしたのか、だれも聞くひとはいない。母親の腕の中ですでに息絶えていたのかもしれない。この先の苦しい引き上げを考えたら、こどもを連れての道中は危険が多すぎて、現地のひとに託したり、平原の真ん中に置き去りにしたりしたのかもしれない。祖母をはじめ多くの女性は、墨で顔や手を真っ黒に塗った。自分を醜く見せないと、強姦目的のソビエト兵や匪賊に連れ去られてしまうからだ。現地のひとたちからの略奪はほとんどなかったらしい。終戦後もずっと祖母はソビエトという国家やロシア人という人種を毛嫌いしていた。引き上げの最中に、よほどひどいことを彼らがしていたのを見てきたのだろう。

 内地に引き上げた祖母と父は、一時祖母の実家の長野に身を寄せる。やがて祖父が引き上げ、家族は合流する。そして、祖父の実家がある盛岡に向かい、米問屋の屋根裏部屋を只同然で間借りする貧しい生活を始めた。その屋根裏部屋で、祖母は父と10歳はなれた弟を産んだ。いまのわたしの叔父だ。
 祖父は岩手県庁に技術職で働き口を見つけるが、すぐにかつての内務省の上司に請われて、当時の運輸省の技官として再就職をする。
 生活は苦しく、屋根裏部屋という肩身の狭い日常だったにもかかわらず、父は、当時の記憶を鮮明に覚えている。三陸海岸にもぐり、海の幸を腹いっぱいに食べたことなど、きのうのことのように覚えている。いつか、父も祖父のように認知症が始まったら、当時のウニや昆布をたくさんとって食べたことを何度も何度も話すようになるのだろう。

 運輸省の技官として再就職した祖父は、鎌倉の岡本というところにあった官舎に引っ越す。
 岡本は、現在の大船駅近くにある観音様周辺の地名だ。
 そこから、横浜港の港湾整備の仕事を担当することになる。建築士の資格がふたたび役立った。現在のそごうがある周辺の浚渫や埋め立て、堤防などを担当した。その仕事に目途が着いた頃、ふたたび転勤の話が持ち上がる。しかし、当時高校二年だった父や、何度も転勤や転居を繰り返した祖母は転勤に反対し、祖父は単身で遠隔地に赴任した。
 その仕事にも目途が着いた頃、まだ50歳を少し過ぎたあたりで、祖父は運輸省を退職した。これ以上の転勤生活を送ることは、家族離散になるという危惧からだった。そして、再就職したのは横浜の民間の港湾整備会社だった。岡本の官舎は退職とともに引き払わなければならない。
 台に少しばかりの借地があるのを聞いて、そこに家を建て、終の棲家にすることにした。わたしは、そこで産まれた。

5621.3/16/2007
家族葬(3)

 技術屋だった祖父が、いよいよ第二次世界大戦末期に徴兵された。
 ひとづきあいが苦手、酒を飲まない。そして、病弱だった祖父でさえも徴兵されるようになり、祖母も父も、日本の負け戦を覚悟したかもしれない。

 1945年8月15日。内地では敗戦がニュースで知らされたが、太平洋の島々や大陸のひとたちに戦争終結の報せが届くには時間がかかった。
 その数日前にソビエト軍が侵攻する。日本人の民家に土足で押し入り、銃剣を突きつけて、家財道具や金品をねこそぎ奪っていく。
「あいつらはやくざよりもひどかった。腕時計を5つぐらいはめているのに、まだほしがった」
 幼かった父も、当時の記憶は鮮明だ。そして、軍曹以上のひとたちを強制的にシベリア開発のための労働力として連行していった。いわゆるシベリア抑留だ。戦争が終わり、捕虜になったのではなく、ソビエト政権の労働力として酷使されたのだ。そして、多くのひとたちがシベリアの地で倒れた。

 軍隊に入っても昇級しなかった祖父は、上等兵のまま退役となり、無事に祖母と父のもとに戻った。軍隊では、ずっと士官が使う馬の世話係をしていたという。大陸では、機動的な移動手段として馬の役割は重要で、日ごろから蹄鉄を磨いたり、蹄を調節したりする仕事は地味だが大事だった。まさに、祖父にうってつけの仕事だったと思う。
 家族三人の生活に戻った。しかし、敗戦とともに、満州で通用していたお金は全部ただの紙切れになった。生命保険も無効になった。株も債権も、全部価値が無くなり、祖父母は一文無しになった。そのときの経験から、祖父は日本に戻ってから、亡くなるまで、一切生命保険には加入しなかった。貯金のたくわえが少しできると銀行で金に換えていた。紙幣も証券も信用できない時代を生き延びたひとの知恵だろう。

 一文無しの家族は、考えた。祖父と父は闇市場に行き、タバコの葉を仕入れた。それを家に持ち帰り、乾燥させて細かく刻んだ。英語の辞書を破いて、くるくるっと刻んだ葉を包み、糊でとめる。くわえタバコのできあがりだ。10本ずつぐらいセットにして、ふたたび闇市場に売りに行く。帰りには売れたお金の中から、またタバコの葉を仕入れてくる。この商売はとてもあたったそうだ。近隣でもタバコをわけてくれというひとが増え、作ったタバコを自宅で販売し始める。タバコ屋になった。

5620.3/15/2007
家族葬(2)

 長野での道路建設の工事に目途がついた頃だった。
 いまの中国東北部に、軍部が満州という傀儡政権を樹立させていた。満蒙開拓団という派遣事業があり、道路や橋、トンネルやダムの建設が必要だったので、祖父は祖母とともに、ふたりを引き合わせた上司の後押しを受けて新京(当時)に移り住んだ。そこで、多くのインフラ整備を行う。まだ、大陸は中央集権型の政権が、末端を実質支配するまで強い影響力がなかった時代だ。当時、建築した道路や橋は、現在でも使われているという。
「匪賊や赤軍、朝鮮人やロシア人がたくさんいて、みんな野蛮だった。でも満人は、みんないいひとたちだった」
後年、わたしが当時のことを祖父に聞いたとき、昔を懐かしむように、いつもそう言っていた。歴史の扉を開ければ、満人(は差別用語かもしれない)と呼ばれたひとたちにとっての日本人は、征服者であり、そのひとたちが祖父たちにいい顔をしても、それは本心ではなかったと想像できる。しかし、教科書と現実は違う。たとえ、支配者と非支配者の関係にあっても、人種や民族を超えたひととひととのつながりが、互いの関係を築いていく。

 それが顕著になるのは、もっと後になって敗戦後の引き上げのときだったらしい。
 威張ってばかりの不道徳な日本人に対して、現地のひとたちは容赦なく引き上げのときに妨害をした。それを承知していた軍部は、敗戦とソビエト軍の参戦情報をいち早く入手し、一般の日本人に知らせずに、自分たちとその家族だけ、早々に内地(日本)に引き上げていた。残されたひとたちは、だれの守りもなく、自分たちの力で、引き上げなければならなかった。しかし、現地に溶け込み、信頼関係を築いた日本人に対して、現地のひとたちは長旅の準備や食料を提供してくれたという。祖父は後者のタイプだった。

 どこまでも平らな地面が続く。日本ではなかなか見つけにくい地平線。そこから太陽が昇り、やがて反対側の地平線に太陽が沈む。その悠久な土地で、ふたりは最初のこどもを産んだ。1937年のことだ。長男誕生。それが、わたしの父だ。父のように当時の満州で生まれたひとは多い。そのひとたちの誕生のときの戸籍は、日本には存在しない。父は、生まれてからの約10年間を中国大陸で過ごす。三つ子の魂百までというが、幼い記憶に残る当時の印象が、その後の人生に与えた影響はいかほどか。
 その後、弟と妹が生まれるが、弟は5歳で、妹は1歳で病気のために亡くなった。生きていれば、今回の家族葬に参列していたかもしれない。ふたりとも祖母(とわたしの母)が眠る鎌倉の墓に、いっしょに眠っている。

5619.3/13/2007
家族葬(1)

 3月11日、午後1時35分、わたしの父の父、わたしの祖父が亡くなった。祖父の遺言で、葬儀は家族葬で行った。
 親戚にも、知人にも、町内会にも知らせずに、祖父のこどもたち(わたしの父とわたしの叔父にあたる弟)とその家族のみで見送った。弔問をしないので受付は必要なく、みんなに知らせていないので弔電も届かず、通夜の席では家族全員が祭壇に正対して、お経を聞きながら祖父をしのぶことができた。祖母は13年前に亡くなっていて、それ以来、祖父はわたしの父母とともに生活をしていた。生活にかかわることを何にもしないひとだったので、父母がいるとはいえ、そんなに長くもたないのではないかと家族では予想していた。しかし、意外にも、祖父は13年も生き延びた。

 ことしの5月1日で98歳になるはずだった。だから、享年は97歳。数え年では99歳になるそうだ。明治42年(1909年)、日露戦争から5年後の年に、岩手県盛岡市で、古くから続く米の卸問屋の7人兄弟姉妹の5番目として生まれる。早くに父を亡くし、長兄が小学校を卒業しただけで家業を継ぎ、弟や妹たちの学費を貯め、6人全員をいまでいう高校以上の学校まで行かせた。祖父は、生涯、長兄を尊敬していた。
 盛岡工業を卒業した祖父は、内務省の官吏になる。二級建築士としてトンネル、橋、ダムの建設に携わる。生涯を通じて、自分からひととかかわることが苦手だったので、営業職や接客業は向かないことを自分でも知っていたのだろう。体質的にアルコールを一滴も受け付けなかったことも、技術職を歩ませた遠因だったかもしれない。父にも叔父にもその体質はまったく受け継がれていないのだが。

 仕事で全国を転々として、あるとき、かつての中仙道を国道(中央道)として整備する工事で、祖父は岡谷から先の長野市までの延伸部分の国道建築に携わる。道路建設には、橋梁やトンネル建築のプロが必要になる。工事が始まると、完成の目途が立つまで、現地に工事事務所が作られ、そこで生活を送る。
 13年前に亡くなったわたしの祖母は、長野市で老舗の紙問屋の長男の長女として誕生した。ふつう問屋の長男は家業を継ぐが、この長男は根っからの遊び人で、お店の金を遊興に当て、ひとを集めては全部店の金で支払うようなことを繰り返し、家を追い出される。問屋は次男が継ぎ、経営を立て直し、現在に至っているという。家を追い出された長男は、きょうを生きるのもやっとの貧乏生活に落ちる。すでにそのときに11人のこどもたちがいた。長女だった祖母は、父の遊び癖と酒癖が許せず、結婚相手は、ひとづきあいが苦手で酒を一滴も飲まないひとと決めていた。そこへ、道路建設のために祖父が現れた。自分からひとにかかわらない祖父が、祖母に接近するはずがなく、工事事務所の所長のはからいでふたりは出会い、所帯をもった。
 元号が明治から大正、そして昭和へと変わっていた。

5618.3/12/2007
歯が欠けた(4)

 10日、土曜日。くつろぎの休日に歯医者に行くのは気が重かったけど、平日の帰りよりかはからだが楽かと思って、予約を入れて二回目の診察を受ける。
 今回はドクター(院長)ではなく、若い女医が担当だった。いきなり、歯を見て言った。
「虫歯はないですね」
 ちゃんとカルテを見ているのだろうかと疑問に思った。前回のカルテを見ていれば、虫歯の治療で来ていないことがわかるはずだ。それとも、歯医者に来るのは、みんな虫歯だと決め込んでかかっているのか。若いのに、ずいぶん考えが凝り固まっているなぁなどと考えていたら
「だいぶ歯茎が腫れて膿が出てますね。ちょっと待ってください。院長を呼びますから」
と言われた。女医は、診察室を出て行き、別室で患者を見ているドクターを探し始めた。
 その後姿を見ながら、わたしは、院長を呼ばないと治療できない深刻な状態なのかと不安になった。院長の患者は重症らしく、しばらく待たされる。
 そのうち眠くなる。すると、「ちょっと見せてください」とそのたびに女医が暇つぶしのように口中を観察する。
「歯医者に来るのは久しぶりですね。歯石がだいぶたまっていますよ」とか「触ると痛いですか」とか、どう考えても場つなぎとしか思えないことを聞いてくる。すぐに院長が来れないなら、だまって寝ているから起こさないでほしかった。
 そのうちに院長が登場し、きょうも撮影したレントゲンの様子を観察する。
 そして、いくつかの治療をこころみて、話し始めた。
「歯のてっぺんから歯周まで12ミリぐらいあるから、ふつうは歯槽膿漏にはかかりにくいんだけど、ここが膿んでいるみたいだよね。こんなに立派な歯はあまりないんだよ。虫歯でも何でもないから、菌はどうやってここまで入ったんだろう?さっき、電気をあてて神経の状態を調べたけど、すぐに反応があったから神経も問題なし。とりあえず、きょうは麻酔をかけて膿を出しておきましょう。ただし、麻酔が切れると痛くなるから薬を出しておくね」
 痛みには慣れているから、了解する。歯の付け根を針で何箇所か指すような刺激と、その後でゴリゴリと歯周を削るような感触があったけど、まだ麻酔の準備をしていると思っていた。そうしたら、もう治療は終わっていて「今度いつ来れるかな?腫れの引き具合を観察したいんだ」とのこと。
 「もう膿を出してんですか?」と聞き返したら、笑っていた。鎮痛剤と抗生剤と塗り薬を処方された。
 自宅に戻り、麻酔の効いているうちにお風呂に入るのがいいという知人のアドバイスを受けて、帰ってすぐに風呂を洗い入浴した。
 しばらく麻酔の効いている歯茎とくちびるは、自分のものではないものがくっついているような重い、冷たい感覚がしていた。

5617.3/10/2007
歯が欠けた(3)

 「それだ、きっと歯が割れてるよ」
えーっ。
 ドクターは、そうだ、それしかないという感じで、自分を納得させ、痛みの集中している歯を調べた。ぱっと見ただけでは、割れている痕跡はないらしく、薬品を塗ったり、ルーペで見たり、歯を観察する。
「あった、ここに小さな線が入っているぞ、なぁ、おい」
同じ診察室で、口中の唾液を吸い取ったり、ドクターの指示で器具を用意したりしているアシスタントの女性に同意を求める。しばらく、その女性もわたしの歯を観察して「たしかにこれは線です」と応じた。
 わたしは、少なからずショックだった。
 冷蔵庫のチョコレートは、たしかに硬い。板チョコだったが、冷えてよく固まっていた。それを指で折って、一口サイズにして、口中でなめるように食べればよかった。しかし、そのときは調子に乗って、板チョコを片手にもったまま奥歯でポキッと折ったのだ。そのときは歯にひびが入った実感はなかったけど、その後から歯が痛み出した。ショックだったのは、いままでも冷蔵庫のチョコを食べたことがあるのに、歯が割れることなどなかった。明らかに老化の証明なのだろうか。それがショックだった。いつまでも気持ちは若いつもりでも、確実にからだは衰えているのを実感すると、がっくりする。
「大きなひびではないから、とりあえず、噛みあわせを調整しておこう」
ドクターはそういうと、痛みのある歯を削った。何度も上下を合わせながら、噛んだときに上の歯が下の歯に圧力を加えないように削ってくれた。
「全然、痛くないでしょ」
たくさん、削っているのに、不思議と痛みはない。声は出せないので、首でうなずく。
「だって、虫歯じゃないもんね。健康な歯を削るのは、罪悪感を感じるなぁ」
そんなことをつぶやきながら、噛みあわせを調整してくれたら、さっきまでの痛みが徐々に消えていった。
 治療が終わって、カルテに処置内容を書きながら、ドクターが聞く。
「次はどうする?基本的には、もうこれで治療はおしまいなんだ。この機会にほかの歯もチェックしたいんだよね」
待合室で問診表に主訴を記入したときに、欄外に、ほかの歯のチェックも要望しておいた。
「でも、ほかの歯も心配はいらないよ。一応、今回の痛みがちゃんと消えるのかどうかを確認したいから、来週、都合のいいときにおいでよ」
しばらくは歯医者通いをしなければならないと覚悟して行ったので、あっけに取られてしまった。
 歯の痛みは翌日にはすっかり消えていた。しかし、反対に二日ぐらい歯茎は腫れていた。治療でぐいぐい歯を削ったから、神経が刺激されてしまったのだろうか。

5616.3/9/2007
歯が欠けた(2)

 レントゲン室には専門の技師がいて、簡単な説明の後、すぐにあご全体のレントゲン写真を撮影した。カメラのほうが、わたしの顔の周囲をぐるっとまわって撮影していた。
「もういいですよ」
診察室に戻って、さっきの液晶画面を見たら、なんともうそこにはレントゲン写真の画像が表示されていた。
 ドクターはワイヤレスの光学マウスを使って、わたしが痛みを訴えている部分を拡大させる。そこには、わたしの顎の骨、歯、神経、鼻の骨が映し出されている。詰め物をしているところや、神経を抜いているところは、やけに鮮明に白く映っていた。ドクターは、写真を見ながらも、痛みの理由がつかみきれていない。
「だいぶ、親知らずが奥歯を圧迫しているけど、これが原因だとしたら、もっと歯茎やあごが腫れるはずなんだ」
「ときどき、歯茎が腫れますけど、こいつだったんですね」
「痛いでしょ、そういうとき」
「でも、一週間もすると腫れは引きますよ」
「そんなに痛くても大丈夫なの?」
「いやぁ、がまんしてます。でも、今回はこれじゃないんですよね」
「歯の下が二股に分かれているところがあるでしょ」
ドクターが示した別の奥歯に注目する。どの奥歯も歯の下は二股に分かれていて、歯茎に固定されている。
「左右とも、同じ位置の奥歯に、若干の膿漏が見られるね。骨がとけて、空洞になっているでしょ。これが原因だとしたら、痛いのが片方だけとは限らない。それに歯茎のつやがこんなにいいわけないしなぁ」
痛みは、言葉では伝わらない。わたしが歯医者オタクで、理由もなく、診察を受けたくて、痛い振りをして歯医者に来ていると思われたら悲しい。
「そうだ、なにか、硬いものを食べなかった?」
記憶の糸をたぐりよせる。
「はい、冷蔵庫にあった固いチョコレートを食べました。そういえば、痛くなったのはそのあとからです」
我が家には成長盛りのこどもがふたりもいて、お菓子やフルーツは、封を切っていないものや皮をむいていないものが、翌日には連中のおなかのなかにすべて納まっていることが多い。たまたま、冷蔵庫にチョコレートを見つけた。これも食べなかったら、消える運命だろうなぁと思って、ガリッと食べたのだ。

5615.3/8/2007
歯が欠けた(1)

 急に歯が痛くなった。もともと歯の質が弱いのか、こどもの頃からよく虫歯になった。病院の中で、歯医者は一番行きたくない。それは、こどもの頃の、たくさん待たされ、とても痛い思いをして、お金を払わなきゃいけないという経験に由来する。
 就職して独身生活を小さなアパートでしていた頃、やはり奥歯が痛くなって、そのまま放置しておいたら、少しずつ歯が欠け始め、やがて土台部分だけを残してしまったこともある。仕方なく歯医者に行って、根を抜いてもらった。
「こんなになるまで、よくがまんできたわね」
医者にあきれられた。
 でも、今回は、これまでわたしが経験してきた痛みとは違った。鏡を見ても、明らかな虫歯は見当たらない。そりゃそうだ、歯医者に行きたくない一心で、歯の手入れは気をつけている。肌の手入れはちっともしないけど、歯の手入れだけは入念だと思う。冷たい水や温水を口に含むけど、なにも沁みない。なのに、上下の歯をかみ合わせると、下あごに痛みが走った。市販の鎮痛剤で痛みを散らしていたが、三日目になって、いよいよ食事がつらくなった。鎮痛剤のおかげで、食べていないときは痛みがなかったけど、食べ物を口に入れて、もぐもぐすると痛みが走った。
 こどもたちを帰した後、休暇をとって歯医者に行った。この歯医者は二回目だ。
 齋藤歯科医院。大船からバスで横浜方面に向かう。笠間十字路というバス停で降りて、すぐのところだ。知人の紹介で初めて行ったとき、院内が清潔で、患者を待たせず(予約制)、たった一回の診療で終了したのが印象的だった。それまで通っていた歯医者は待合室が暗く、いつになったら順番が来るのかもわからず、短時間の診療で何回も通わなければならなかった。
 予約した時間よりも少し早く到着したが、5分も待たないうちに診察室に通された。診察室は完全な個室で、6つか7つぐらいあるのではないかと思う。診察台に座る。目の前にパソコンの液晶画面が見える。そこには、わたしの名前や、過去の診察の記録が表示されていた。
 ドクターに症状を伝える。口を開く。
「うーん、虫歯はないねぇ。全体を見たいからレントゲンを撮ろう」
やはり思ったとおり、虫歯ではなさそうだ。でも、だとすると、この痛みの原因は何だろう。

5614.3/6/2007
児童虐待を誘発する社会(13・最終回)

 統計的には、きょうも日本のどこかでこどもを虐待する親がいる。親に虐待されるこどもがいる。それを知っているのに、どうしたらいいか困っている近所のひとたちがいる。学校や幼稚園、保育園の先生がいる。
 わたしたちが生きる日本社会は、全国津々浦々で、異なる時間を過ごしている。都市部と過疎地では、同じ時間にはならない。都市郊外と観光地でも同じ時間にならない。同じ10分のなかに、生活する内容が違いすぎるのだ。都市部の10分は電車に乗っていたら、10キロも20キロも先に移動している。過疎地の10分は、電車が一日に数本しかないから、景色もひともなにも変化がないだろう。それを生活時間の速度という言い方で表すと、速度が速いほうがいいのか、遅いほうがいいのかはわからない。どちらがいいのかはわからないが、確実に速度差のある複数の社会が混在しているのが、いまの日本社会だ。
 そして、こどものいない世帯が半数を超している。
 にもかかわらず、こどもが親から虐待を受け続けている。

 3月2日毎日新聞の夕刊では、全国の養護施設と里親の状況を掲載していた。児童虐待の数が増加しているのに、親から話されたこどもを引き受ける養護施設や里親が不足していて、さらに都道府県によってかなりの格差があることもわかった。

 学校でのいじめ問題が昨年はクローズアップされた。しかし、こどものいじめよりももっと深刻で、もっと陰湿な会社でのいじめが進行していることがわかってきている。全労働者の9パーセント以上が、上司からのいじめ被害を受けているという。こども社会でいじめが蔓延するのは、おとな社会の映し鏡のような傾向があるのかもしれない。
 こどもが親から虐待を受けることも、これに似た傾向があるかもしれない。親とこどもという二世代家族が圧倒的に多くなり、こどもの育児が夫か妻のどちらか(ほとんどの場合は妻)に任されている。そんななかで、思い通りにこどもが育たない状況そのものが、育児をする親にとっては虐待的苦痛なのかもしれない。
 学校にも家庭のルールを適応するように求める保護者がいるが、基本的なことを履き違えている。その基本的なことを保護者に教えてきたひとつ上の世代が同居、もしくは近所に住んでいない。学校は、社会の入口であり、家庭とは違う。家庭ならば、思い通りに行くことのほうが多いかもしれないが、一歩家を出たら、思い通りにならないことのほうが多いのが社会だ。その社会を、無理やり家庭のルールに合わせる試みは、実現不可能で、徒労に終わる。にもかかわらず、そのことに気づくまで、徹底的に学校や地域、ひいてはよのなかそのものを悪者にしようと考える。保護者がこのような考えでは、こどもはいつまで経っても自立へは向かわない。自立へは向かわないということは、それだけ保護者のイライラはたまり、いつでも虐待の噴火直前状況を生み出す。こどもが自立へと向かうためには、保護者自身が、社会に自分を合わせていく生き方を続けていかなければならない。その過程で、こどもの長所や短所に気づき、自分の思い通りに育てようとする考え方から解放され、こどもに対して適度な距離を発見し、親として成長していくのだ。

 しつけのために食べ物を与えなかった。タバコの火を押しつけた。ぶん殴った。寒中に置き去りにした。蹴っ飛ばした。骨を折った。
 しつけのために、言うことを聞かないから……。そんな理由で、こどもを虐待するひとは、親とは呼べない。どうして、わが子は自分から見て社会に適応しにくい行動を示すのだろうという冷静な視点をもつひとこそ、親になりかけていく資格のあるひとだ。

5613.3/5/2007
児童虐待を誘発する社会(12)

 バブル経済の崩壊以降、こどもをもつ世帯は減った。しかし、児童虐待はなくならない。どころか、増加している。
 こどものいるわずかな世帯で、児童虐待が日常的に行われていると言ったら、言いすぎだが、殺人や衰弱にまでつながらない虐待は、統計に現れていないだけで、実際には相当数にのぼっていると覚悟したほうがいい。
 繰り返すが、虐待をしている保護者には、自分が虐待をしているという認識はほとんどない。近所のひとや学校から「虐待をしていませんか」と聞かれたら、逆切れされてしまので、気をつけたほうがいい。児童相談所の専門家にさえ、認めたがらない保護者はたくさんいる。
 こどもの数が減り、親の手がかかる人数は減っているのに、虐待はなくならない。逆に、こどもの数が多かった時代のほうが、親は手をかけることが物理的にできずに、こどもはのびのびと育ったのかもしれない。いまは、家庭で親とこどもと一対一で濃密かつ周囲から見えない密室性の高い関係が一般的なのだ。
 バブル経済の崩壊で、企業は大量の合理化を行った。当時、解雇されたひとたちの家庭では、ドメスティックバイオレンスや、こどもへの虐待が日常化した。先行きの不安や現実を受け入れられない焦燥感が、弱いところへと噴出した。それから、10年が経過して、いまはいわゆるリストラのはけ口としての家庭崩壊から、これまでの親子関係や家庭という概念じたいが音を立てて崩れているのはないかと思う。

 ことしの国会に、児童福祉法の改正案が上程される。
 そのなかで、児童相談所が、保護者の同意なしに、親権の停止を勧告できる条文が加わるという。
 親権の停止とは、親子関係の分断を意味する。それを、児童相談所という公的機関がやっていいことになる。仕事をしない、育児をしない親のもとにこどもを置いておいたら危険なので、親から隔離するための勧告だと思う。緊急避難的には必要性も感じる。しかし、親権を停止してもしなくても、こどもにとって自分の親は変わらないのだ。強制的に親子関係をなくしても、それをこどもが理解することはないだろう。
 社会が、児童虐待を誘発する要因を複合的に抱えていても、こどもが親を思う気持ちには変化がないのだ。
 ぶたれて、蹴られて、食事を抜かれて、水風呂に放りこまれて、床にたたきつけられても、誕生日にケーキを買ってもらい、頭をなでてもらえれば、こどもは嬉しくて元気になる。そんな親を信じるこどもの気持ちは、洋の東西や文化の違いを超えて、共通するのではないかと思う。

5612.3/3/2007
児童虐待を誘発する社会(11)

 生産性のない三人は、遊んで暮らしても衣食住に困ることはない。実際には家事や学業があるので、なにもしないわけではないが、それでも、家族の生活をささえる役目を担当しない。
 元来、日本社会には欧米のような「こどもは社会の所有物」という発想がなく、「こどもは親の所有物」という発想が一般的だった。しかし、一つ屋根の下に親以外のおとながいたり、こどもが3人以上いたりすれば、たとえ親の所有物という発想があっても、どこかにブレーキが働き、どこかにガス抜き用の穴があった。こどもは親の所有物という発想が変わらないまま、核家族が主流になっていったことにより、子育てに関する親の暴走やこどもの爆発を抑制する装置がなくなってしまった。

 しかし、4人世帯は1980年の26.6パーセントを最高に減少を始め、2000年には17.4パーセントまで下がる。これに対して、3人世帯は1965年から2000年まで18パーセントから20パーセントをキープしている。4人世帯は減り、3人世帯は変わらない。
 どこが増えたか。
 なんと、2000年の調査では全世帯の50パーセントが一人暮らし(25.6パーセント)か二人暮らし(25.8パーセント)になっていた。二人暮らしは夫婦とは限らない。父子家庭や母子家庭も含まれる。
 しかし、全世帯の半数以上に、こどもがいない可能性があるという事実は、少子化問題よりもクローズアップされるべき事実だと思う。こどもがいない世帯では、児童虐待は起こりえない。
 2000年段階で、こどものいる世帯の中心は4人世帯から3人世帯になった。この時点の調査からすでに7年が経過しているので、現在は3人世帯の割合はもっと増えていると思われる。つまり、全世帯のなかで、児童虐待が起こりえる可能性の高い3人世帯や4人世帯の割合は、約3世帯に一軒ぐらいしかないのに、児童虐待の絶対数は増加し続けているのだ。

 わたしが教員になった頃は、45人学級の時代だった。一クラスの基準人数が45人だったのだ。年度途中で転入生が来て45人を越えてもクラスを解体することはないので、わたしは教員になって5年目に3学期の終わりに50人学級を担任したこともある。机と椅子で教室は埋まり、1人や2人欠席していても、帰りまでわからないこともあった。当時もいじめや仲間外れはあったのだろうが、いまのように社会問題化することはなかった。当時は、少しでもクラスの人数を減らすことが、よりきめ細かい指導を可能にすると言われていた。その後、法律が改正されて40人学級が開始された。クラスの人数は減った。しかし、いじめや仲間外れなどの社会問題が、新しくクローズアップされるようになった。授業が成立しない学級崩壊や校内暴力も、40人学級以降に発生している。
 決して、40人学級になったから、いじめや仲間外れが起こっていると結び付けているわけではない。人数を減らしたからといって、学校や学級をめぐる問題が、解決していない現実を直視するべきだと言いたいのだ。

5611.3/2/2007
児童虐待を誘発する社会(10)

 1920年(大正9年)。いまからおよそ90年前の日本社会では、いわゆる世帯数は約1100万だった。それから、80年が過ぎた最新の国政調査結果が公表されている2000年では、世帯数は約4500万世帯に増加している。
 1920年の1人暮らしは約64万世帯(人)だった。これは、全世帯の5.8パーセントだ。
 2000年の1人暮らしは約1100万世帯(人)だった。これは、全世帯の25.6パーセントだ。
 80年間で、日本社会は4つに1つの世帯が、ひとり暮らしをしていることがわかる。

 この数字は、現実味をもって考察する必要がある。
 80年間で一人暮らしが約1000万人増えた。人口増加にともなう世帯数の増加は、80年間で約4倍だ。正比例していたとしたら、80年後の一人暮らしはせいぜい250万人程度のはずだが、実際には約1100万人が一人暮らしをしている。当然だが、一人暮らしでは児童虐待は起こりえない。虐待する対象がいないからだ。
 町を歩く。商店街ではなく住宅地を歩く。1920年だったら、20軒歩くとそのうち一軒が一人暮らしだった。残りの19軒は、最低でも二人以上の住民がいた。夫婦かもしれない。親子かもしれない。兄弟姉妹かもしれない。それが2000年には、4軒歩くと一軒が一人暮らしになった。残りの3軒が、最低でも二人以上の住民がいる。二人以上といっても必ずしもこどもがいる世帯ばかりとは限らない。親がこどもを虐待するためには、親とこどもが同居する世帯が必要だ。その世帯の割合は、全世帯のなかでは、減少している。
 にもかかわらず、日本社会は児童虐待を誘発し続けている。

 1960年までは、ひとつの世帯に2人から6人の家族がいる割合が、どれも全世帯の10パーセント台だった。しかし、1955年の14.1パーセントを最高にして、6人家族の割合は減少を始める。1960年の17.1パーセントを最高にして、5人家族の割合は減少を始める。
 5人とか6人というと、考えられる家族構成は夫婦とこども3人とか、祖父母・父母・こどもの三世代などが思いつく。
 都市型労働者の誕生が顕著になる1965年の国勢調査で、初めて4人家族の割合が22.2パーセントとなり、全世帯でもっとも多くなった。多摩ニュータウンの入居が始まるのが1971年。あふれ出す4人家族の住宅難が、人工的な郊外住宅地を誕生させていく。
 4人家族で考えられる家族構成は、夫婦とこども二人が一般的だろう。いわゆる核家族の誕生だ。核家族では、家族の経済を支える労働者は、父親か母親のどちらか一人しかいない。家族内で労働を分業することはなく、一人で生産性のない三人の面倒を見なければならない非効率的な家族スタイルが日本社会の主流になっていく。

5610.3/1/2007
児童虐待を誘発する社会(9)

 配偶者がいないひとが、すなわち独身というわけではない。離婚してこどもがいるケースがある。離婚してこどもがいて、内縁関係のパートナーがいるケースがある。児童虐待は、こどもがいなければ起こらない。配偶者がいるひとの人数が頭打ちになっている。配偶者がいないひとの人数が3000万人を越えた。1975年から2000年までの25年間で配偶者がいるひとの割合は1.1倍しか伸びていないのに対して、配偶者がいないひとの割合は1.5倍にも達している。
 戦後の経済復興、経済成長を支えてきた都市型労働者が形成した新しい家族のかたちが急速に変化しようとしている。専業主婦層が減少し始めている。大家族の時代、家族総出で生産的な仕事をしていたひとたちは、忙しく、重労働だったかもしれないが、世代間の交流や多くの家族との精神的なつながりが、個々人の日々の精神的な安定をもたらしたと思う。
 しかし、昨今のパパは仕事、ママは家事という生活から、パパもママも仕事という生活への変化は、当時の家族総出の生産的な就労とは形態が大きく違う。夫婦で同じ仕事をするケースは少ない。こどもが親の生産的な仕事を手伝うことは、ほとんどない。世代間の交流ができるほどのメンバーが同居していない。にもかかわらず、両親の仕事が忙しく、重労働だったとしたら、個々人の精神的な安定を保つ機能が家族にはない。各自がばらばらの価値観で、とりあえず一つ屋根の下で寝食をともにするだけになる。とくに、こどもが世話が必要な幼児のときも両親が働いていると、こどもは保育園など、親とは別の時間を小さい頃から過ごすことになる。大家族時代、田んぼのあぜにかごに入れられていた時代とはわけが違う。おじいちゃんやおばあちゃんが、孫をあやしながら、若夫婦の仕事を手伝っていた時代とも違う。家族のつながりのないところで、幼児が多くの時間を過ごす時代は、親と子どもの関係をいままでとは異なる結びつきへと変化させていくのではないかと思う。それまでの血縁ゆえの結びつきから、お金を媒介として親がひとにわが子の世話を頼む契約による結びつきへと。

 これは親子関係の新しい局面への突入を意味している。
 親子の間には、契約関係はない。親だからこどもの面倒を見る。こどもだから、親のいうことを聞く。しかし、保育園や託児所の場合は、仕事だからこどもの面倒を見る。こどもは、金銭に見合った時間単位のサービスの提供を受ける。つまり、取替え可能な存在が、こどもの面倒を見る割合が増えているのだ。これは、社会がこどもの面倒を見るというのとは少し違う。親が自分に代わって、こどもの世話や面倒を見てくれるサービスに対価を支払って、子育てを頼んでいるのだ。社会全体として、大きなうねりのなかでこどもを育てていくのではなく、あくまでも個々の親のニーズにあった多種多様なサービスが商売として成立しているととらえたほうがわかりやすい。

5609.2/28/2007
児童虐待を誘発する社会(8)

 多摩ニュータウンができた当時、わたしは鎌倉で小学生だった。自宅周辺には朝になると「ケーンケーン」と雉の鳴き声が響く。庭で飼っていたうずらが産む玉子と新聞受けから朝刊を取ってくるのが、わたしの仕事だった。春には裏山の桜がいっせいに花開き、夏にはカブトムシやクワガタを虫かごいっぱいにとった。秋には落ち葉を焚いて焼き芋を作り、冬には霜柱を踏んで登校した。まだ、アスファルトは幹線道路以外には整備されていなくて、雨が降ると泥水をはねるトラックを避けながら、道を歩く。
 当時の我が家は、わたしと妹、父母と、祖父母の6人家族だった。近所もほとんど同じ三世代家族だった。こどもの数も、2人は少ないほうで3人が一般的だった。こどもが1人という家庭はほとんどなかった。在日朝鮮人の家族や在日中国人の家族、的屋の家族や専業農家もいた。築地に生まれ、銀座で青春時代を過ごし、5人兄姉の末っ子として育った母は、鎌倉の田舎ぶりによくため息をついていたのを覚えている。学校帰りに畑の収穫物を盗もうとして、わたしがあやまって肥溜めに落ちたときなど、「こんなところはもういや」と叫んでいた。
 全国的には、都市型労働者の生活が始まろうとしていた時代だが、まだまだ地方には地方の生活が残っていた。それが大きく変わっていったのは、1990年代のバブル経済の頃だろう。

 1955年、15歳以上で配偶者がいるひとは約3400万人だった。いないひとは約1800万人だった。
 1960年、15歳以上で配偶者がいるひとは約3800万人だった。いないひとは約2000万人だった。
 1965年、15歳以上で配偶者がいるひとは約4200万人だった。いないひとは約2200万人だった。
 1970年、15歳以上で配偶者がいるひとは約4800万人だった。いないひとは約2200万人だった。
 1975年、15歳以上で配偶者がいるひとは約5400万人だった。いないひとは約2000万人だった。
 1980年、15歳以上で配偶者がいるひとは約5800万人だった。いないひとは約2200万人だった。
 1985年、15歳以上で配偶者がいるひとは約6000万人だった。いないひとは約2300万人だった。
 1990年、15歳以上で配偶者がいるひとは約6200万人だった。いないひとは約2700万人だった。
 1995年、15歳以上で配偶者がいるひとは約6400万人だった。いないひとは約2900万人だった。
 2000年、15歳以上で配偶者がいるひとは約6400万人だった。いないひとは約3000万人だった。
……国勢調査より。

 人口増加にともなって、配偶者の有無が自然増加するのは当然だが、そのバランスが大きく変化するのは、バブル経済が崩壊する1990年以降、顕著になる。

5608.2/27/2007
児童虐待を誘発する社会(7)

 日本社会は、江戸の昔から、こどもの口減らしや人身売買を認めていた。そういう起源と伝統がある社会では、こどもは餓鬼だったし、人権など認められてはいなかった。
 スウェーデンの社会思想家でありフェミニストだったエレン・ケイは1849年に生まれている。日本で言えば、江戸時代後期だ。そして、彼女が死んだのは1926年。1925年が昭和元年だから、彼女の生きた時代は、日本が近世から近代へと社会変革していくときと重なっている。彼女は一貫して、母性と児童の尊重を基軸にして社会問題を論じた。なかでも、1916年に邦訳された「児童の世紀」は、大正デモクラシーに大きな影響を与えた。1900年に書かれたこの本のなかで、彼女は「教育の最大の秘訣は教育しないことである」と説いている。なんと、わかりやすい言葉だろう。「教えすぎなさんな」。彼女は、20世紀はこどもが自由に創造的に生きる時代になると予言した。
 それまでのこどもの社会的地位と比べれば、エレン・ケイから100年が過ぎて、たしかに世界中の多くの国々では、こどもの社会的地位は向上した。しかし、いまの日本社会に目を落としたとき、はたして彼女が予言したような生き方をこどもたちがしているのか、疑問に感じる。わたしの周囲のこどもたちは、自由で創造的だろうか。週末金曜日の飲み会の後に、ほろ酔い気分で家路をたどる。繁華街を進学塾のバックをたすきにかけて、ハンバーガーを片手にすれ違うこどもを見ると、末恐ろしい未来を感じてしまう。このこどものストレスは、これから先にどこへ向かうのだろうか。

 戦後の経済復興の支えとなった多くの労働者は、それまでの日本社会のひとびとの暮らし方を大きく変化させた。
 それまでは、自分の住む町で働くひとが圧倒的に多かった。自宅から職場までの距離が近かった。しかし、経済の発展によって、工場や会社が都市部に集中し、多くのひとびとを都市に住まわせた。農村部の過疎化の始まりだ。都市部では、地価が高騰し、アパートのような集合住宅が乱立する。やがて、流入するひとびとを居住させるスペースが不足し、計画的な居住区が行政の力によって開発された。都市型労働者の誕生だ。

 そのなかでも有名なものに多摩ニュータウンがある。1971年の入居が始まる以前の多摩市(当時は多摩町)は、人口3万人あまりの静かな田園地帯だった。首都圏への人口集中と住宅難の解決策として、鉄道が戦前から結ばれていた条件を生かし、居住することを目的とした新しい町として、多摩ニュータウンが形成された。
……多摩市のホームページより。

 その後、多摩ニュータウンのような労働者にとって居住するだけの新しい町が都市部の郊外に次々と誕生する。それまでの暮らしは、家族総出の生活だった。夫や妻で役割を分業する余裕はなく、生産性のある仕事を家族で分担していた。しかし、都市型労働者の増加は、夫が働き、妻は家事をするという新しい家族形態を生み出す。この家族形態は、アメリカからの輸入のように思われるが、実際にはアメリカでも、日本のような専業主婦層が夫婦間に占める割合は多くはない。専業主婦層の誕生は、家事のみならず、育児も妻の役割として定着していく。PTA活動に参加するのは、もっぱら母親ばかりというのは、その象徴だ。

5607.2/26/2007
児童虐待を誘発する社会(6)

 アメリカでは、ショッピングセンターの駐車場にとめた車のなかに、こどもを残したまま親が買い物をしたら、間違いなく児童虐待として通報される。
「この車はあなたのですね」
ショッピングから戻ってきた親は、警察官かこども保護機関の調査官に詰問される。
「はい、それがどうかしましたか」
「まずいですね。このなかにいるこどもは、あなたのお子さんですか」
「はい、まだ小さいので、ちょっと買い物をしているときだけ車で留守番をと」
「それは、親としてするべきことではないですね。誘拐されたらどうしますか。この季節の車中はとても温度が上がるから、脱水症状になったらどうしますか」
「そんなことまで考えませんでした」
「あなたは、いろいろ理由をつけていますが、本当はいっしょに買い物をするのが面倒だっただけじゃないですか。それだったら、ベビーシッターなどを雇って、買い物に連れてくるべきではないのです」
「そんなひとを頼む余裕は、ないですよ」
「ここでは、長くなりそうですから、わたしたちのところに来てください」
「えっ、任意ですか」
「いえ、あなたの行為は、すでに法律違反なので、同行を拒否するのなら、身柄を確保しますよ」

 日本では、毎年、必ずパチンコ店の駐車場で脱水症状から病院に運ばれるこどもの事件が伝えられる。病院で回復すればいいのだが、そのまま意識が戻らなかったり、最悪の場合は死んでしまったりする。これらは事件になったから、騒がれる。実際には、パチンコ店に限らず、大きな駐車場のあるところで、炎天下にもかかわらず、車中にこどもが残されているケースは少なくない。それらは、すべて、アメリカならば児童虐待の現行犯だ。

5606.2/24/2007
児童虐待を誘発する社会(5)

 民法822条では「親権を行う者は、必要な範囲内で自らその子を懲戒し、又は家庭裁判所の許可を得て、これを懲戒場に入れることができる」と定めている。前時代的な条文だが、いまも通用している。これは、必要な範囲内で、親がこどもに体罰をしていいと認めているようなものだ。そのため、しつけと虐待の境界が見えにくい。
 また、長い間、日本の学校では、教師がこどもに暴力を振るうことは許されていて、教育的効果があると信じられていた。わたしが小学生や中学生だった頃の1970年代は、まさに体罰全盛の時代だった。当時、ビンタや竹刀で尻たたきをしていた教師は、その後管理職になり、「体罰はいけません」と教師を指導しているのだが、どうしていけないのかがわかっていない。ただ、教育委員会からの指導を、そのまま教師たちに伝えているだけなのだ。あの当時は許されたけど、いまはうるさいよのなかになったから。そんな認識しかもってないだろう。 「先生、うちのこどもは、少々、ひっぱたいてもいいですよ」
そんなことを言う親が時々いる。しつけと体罰と拷問を混同している。
 こどもは社会が育てるものという考え方が強い欧米では、社会通念が親個々人の育児観よりも優先される。だから、児童虐待を社会全体の問題として防ごうとしているときに、「うちのこどもは」みたいな親がいたら、すぐに虐待を誘発しているとして、通告され、専門のカウンセリングを何日も受けることになるだろう。
「こどもは、あなたの所有物ではありません。社会全体の貴重な財産です。ひっぱたく許可を出す権限はあなたにはありません」
きっと、暗記するまで覚えさせられるだろう。
……http://www.nurs.or.jp/~miyazaki/news/2002-4/2002nisizawa.htmより。


 しつけのために振るう暴力も、悪意をもって振るう暴力も、ストレスの発散のために振るう暴力も、邪魔者として振るう暴力も、いたずらのために振るう暴力も、こどもにしたら、全部同じ痛みを受ける。精神的な傷は、それぞれの理由によって違いが生じるというよりも、親とこどもの関係によって違いが生じてくるのではないか。
 児童虐待にあたる暴力は、これらのうちどれかという考え方は間違っている。これは虐待で、これは虐待ではないという区別は、暴力についてはありえない。
「それじゃ、ちょっとこどもの頭をこずいた程度で、児童相談所に通報されてしまうのか」
日ごろから、こどもの頭をこずいている親は、口を尖らせて、納得いかないと怒る。

5605.2/23/2007
児童虐待を誘発する社会(4)

 アメリカでは虐待の事実を知ったときや、疑いを感じたときに、教員が関係機関に通告しないと、義務違反に問われる。
 日本では、ここ数年、慙愧に耐えない事件がクローズアップされてきたとはいえ、学校から虐待を児童相談所に通告する件数は実態よりもはるかに少ないと思う。わたしは、虐待の可能性を感じたこどもを担任していたとき、実際に電話をしたことがある。それは、通告するためというよりも、児童相談所が情報を持っているかどうかを確認するためだった。そのとき、対応に出たひとは電話口でこう言った。
「たしかに、おっしゃられることが事実なら、紛れもない虐待にあたります。なので、丸通にしますか?」
「丸通ってなんですか?」
「あ、失礼。正式な通告ということにしますか?」
「それって、どういうことですか?」
「通告にするには、学校長からの正式な文書が必要になります。つまり、学校として虐待の事実を認識していることが必要なのです。その上で、手続きになります」
 その後も、通告をしたら、児童相談所に専門チームを組織するとか、親子を強制的に分離することもありえますなど、説明が続いた。
 わたしは、その説明を聞いていたら、なんだかとても面倒になってきて、
「今回は、こんなことがありましたって個人的な連絡ということにしてください」
といって、電話を切った。

 虐待のように緊急性の高いものを、いくつもの事務手続きを経ないと公的機関が動かないのでは、通告しづらい。また、通告した者が、その後のケアについてもかかわりを持ち続けるのでは、自ら仕事を増やすようなもので、積極的にはなりにくい。アメリカの「こども保護機関」のようなものがあれば、便利だ。日本では、虐待関連の法律ができても専門機関を設けずに、児童相談所の仕事として扱っている。児童相談所は、ほかにも多くの仕事があり、そんな多くの仕事のひとつとして虐待を扱えるほど余裕があるとは思えない。

 また、日本社会では近代以前には、こどもは親の所有物という考え方が広くあり、折檻は一般的だった。明治天皇とともに殉職した乃木大将の親は、折檻で有名だったという。
 そのため、人身売買や口減らしのために殺されるなどの行為が、犯罪としてではなく、社会通念として許されていたのだ。人身売買や口減らしはなくなったが、この考え方は、現代になっても思想的に根強く残っている。

5604.2/22/2007
児童虐待を誘発する社会(3)

 2001年10月5日に、東京都福祉保健局が全国で初めて児童相談所の事例を分析して、「児童虐待の実態」(白書)を作成している。  その冒頭に、『これまで言われてきた「虐待の世代間連鎖」「望まれずに出生した子は虐待を受けやすい」「女性の社会進出が児童虐待に結びつく」などは、必ずしも妥当しないなど新たな実態が分かりました』と書いてある。
……http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/press_reles/2001/pr1005.htmより。

 厚生労働省は、4月から全国の児童相談所でケースワークをしている児童福祉司の人数を、約130人増やすと発表した。これは、現在の人口170万人に児童福祉司25人という定員を、28人に増やすというものだ。しかし47都道府県で130人増やすということは、平均すれば1つの都道府県で3人しか増えただけだ。130人ではなく1300人ならまだしも、これでは問題を解決することにつながるとは考えにくい。
 わたしも仕事柄、児童福祉司の方とは面識があり、ともに仕事をすることがある。しかし、虐待や非行を専門に扱う児童福祉司の方々に、電話で連絡を取るのは至難の業だ。いつも忙しくしていて、ひとの不幸やわがままに付き合う日常を送りながら、疲労感のかたまりになっている。不在のときは、伝言を頼むが、話が通じないこともしばしばだ。
 よく虐待事件で、児童相談所が虐待の事実を知っていたのに、緊急避難などの措置を取らなかったことが批判される。メディアは勝手なものだと思う。緊急避難のように、親権のある者から、こどもを強制的に引き離した場合、その妥当性をめぐって裁判になることは珍しくない。また、同意をもらって施設へこどもを入所させた場合、それですべてが終わったのではなく、そこから新しいこどもの生活を面倒見ていかなけらばならない。学校はどうするのか、進学先はどうするのか、親へのケアはだれに任せるのかなど、一件でさえやらなければならないことは山ほどある。その上、人数が少ないので、ひとりで何件もの事案を担当している。わたしは、会うといつも、激務に耐えうる精神的・肉体的な強さに感服している。そして、いつか倒れてしまうんじゃないかと心配している。

 虐待先進国と言われるアメリカ。そんな先進国にはなりたくないのだが、先進国だけあって、ケアについてはいまの日本社会よりもはるかに進んでいる。
 アメリカで虐待(abuse)が社会問題化されたのは、1800年代からだ。200年の歴史がある。
 当初は、貧困層において、親が子育てどころではない生活状況のなかで、養育を放棄してしまう状態が多かった。
 とくに暴力によってこどもが被害を受けていることがクローズアップされたのが1960年代。これをきっかけに多くの法律が制定された。とくに「虐待報告義務法」では、保育士・教員・ケースワーカーが虐待を知ったとき、あるいは疑わしいときには、通告の義務が課せられている。つまり、知っていたのに通告しないと、義務違反に問われるのだ。通告を受けて、虐待の事実を調査する機関「こども保護機関CPS」は全米に設置されている。
 日本では、児童相談所が、虐待のデータを収集するようになったのが1990年からなので、それだけ見ても、アメリカから30年は対応が遅れていることがわかる。

5603.2/20/2007
児童虐待を誘発する社会(2)

 法律で規定されている児童虐待の4つの行為。すなわち、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト、心理的虐待は、わたしが教員になった1985年以降、クラスでこどもの話を聞いたなかに、具体的に登場するものが多い。また、こどもと日記の交換をしていた時期に、そこに書かれていた内容にも、同じことが触れられていた。しかし、当時は、まだ親のしつけと虐待との境界を定義するものがなく、家庭内で起こっていることに第三者が介入するのは困難だった。
 身体的虐待の具体例など、わたしはこどもから山ほど聞いている。それらが全部、児童虐待に充当するというのか。性的虐待は、数は少ないがこどもから相談を受けたことがある。その親はすぐに警察の世話になった。ネグレクトと心理的虐待は、かつても、そしていまも日本全国的に蔓延しているのではないかと思う。電車に乗っていても、レストランで食事をしていても、こどものことにかまわない若い親たちを目にする機会がとても増えた。あれは、虐待予備軍だろう。
 警察庁は、2006年の児童虐待事件の検挙件数を公表した。前年比33.8パーセント増の297件。なんと、1日に1件の割合に確実に近づいている。
 被害児童は316人(前年比38パーセントも増加)で過去最多になった。死亡した児童は59人。これは前年比なんと55.3パーセント増だ。
 316人の内訳は、身体的虐待が215人、性的虐待が77人、ネグレクトが24人だった。統計的に表れていない心理的虐待の実態は不明だ。記憶に新しいものとしては、2006年10月に京都府長岡京市で3歳の男児が両親から食事を与えられずに餓死した事件がある。このようなネグレクトの被害児童は前年の11人から2倍以上に増加している。また、死亡した児童59人のうち、殺された(殺人)児童は36人もいる。秋田県で2006年4月、畠山鈴香被告(34)が長女(9)を川に突き落として殺害した事件や、同県で10月、4歳の男児が母親の進藤美香被告(31)と交際中の男(43)に殺害された事件が思い出される。
……
 現在、良く知られている要因としては、1)望まない出産や望まれない子供への苛立ち 2)配偶者の出産や子育てへの不協力や無理解に対する怒り 3)育児に対するストレス 4)再婚者の連れ子に対する嫉妬・憎悪などが挙げられる。
 また、虐待を行う親の多くが、自らも虐待を受けた経験がある事が知られている。しかし再婚者や被虐待者だった保護者の多くは虐待を行っている訳ではないにも関わらず、ある種の社会差別を被ったり、本人のコンプレックスになる等の、付随的問題も発生している。
……http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%AB%A5%E8%99%90%E5%BE%85より。


 こどもが、同じ家で生活をともにする親から虐待を受ける。なかには殺されてしまうケースもある。虐待を受け続けることで、肉体的には生きていても、精神的に殺されていくこどもは少なくない。生きながらにして、こころの平安を奪われ、ひととしてのあたたかいこころを失わされていくのだ。

5602.2/19/2007
児童虐待を誘発する社会(1)

 児童とは、法律用語で小学校に通う年齢のこどもを指している。つまり6歳から12歳だ。それ以前は、乳児・幼児、それ以降は生徒という言い方で区別している。
 児童虐待は、「児童虐待の防止等に関する法律」(平成12年法律第82号)で規定されている。平成12年ということは、2000年にできた法律だから、児童虐待という概念は、比較的新しいものだ。
 そのなかで規定されている児童虐待とは……。


「保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するものをいう)がその監護する児童(18歳に満たない者)に対し、次に掲げる行為をすること」と定義されている(第2条)。そして、同条各号において列記されている行為は、次のとおりである。
●身体的虐待
児童の身体に外傷が生じ、又は生じるおそれのある暴行を加えること。例えば、殴る、食事を与えない。冬戸外に締め出す、部屋に閉じ込める。
●性的虐待
児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をさせたり、見せること。例えば、子供への性的暴力。自らの性器を見せたり、性交を見せ付けたり、強要する。
●ネグレクト(教育放棄)
児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食、又は長時間の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること。例えば、病気になっても病院に受診させない、乳幼児の暑い日差しの当たる車内への放置、食事を与えない、下着など不潔なまま放置するなど。
●心理的虐待
児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと。心理的外傷は、児童の健全な発育を阻害し、場合によっては心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの症状を生ぜしめるため禁止される。例えば、言葉による暴力、恫喝、無視や拒否、自尊心を踏みにじる。
……http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%AB%A5%E8%99%90%E5%BE%85より。


 この法律では、児童とうい年齢の範囲は教育関係の法律とは別に、18歳に満たないものとされている。

5601.2/18/2007
皮膚科通い(7)

 2月になった。薬を変えて、二ヶ月になる。今回の診察で、また菌が見つかったら、やっぱり薬があっていないことになり、新しい薬に変えなきゃならない。いつまで経っても、掌蹠膿疱症の治療は始まらない。少しドキドキしながら、わたしの足の裏の組織を顕微鏡で観察するドクターの後姿を拝んだ。
「もう、どこを探してもいないよ。薬が効いてるね」
「よかったぁ」
「でも、まだ安心しちゃいけない」
わかってる。あと一ヶ月は続けるのね。
「ただ、おかしいなぁ」
また、患者を不安にさせる。
 もう一度、足に顔を近づけてよく観察する。
「この、あせもの寄りみたいのは、何だろう?」
おいおい、半年前にそのぶつぶつを見せに来て、あなたは「掌蹠膿疱症」って教えてくれたはずじゃないか。ずっと、水虫の治療をしてきたから、そもそもの掌蹠膿疱症のことを忘れてしまったのだろうか。でも、いまはそのことを質問するのはやめた。どうせ、あと一ヶ月はいまの薬で治療を続けなきゃいけない。来月の診察で、またとぼけたことを言っていたら、掌蹠膿疱症について聞いてみよう。
 それにしても、水虫の完治には時間がかかった。同じ薬を三ヶ月も塗り続ける。治療の95パーセントは医者がするのではなく、患者が自分自身でする。
 今回の皮膚科初体験は、長い時間を経過した。来月、行って、「やったね。もうどこを探してもなんにもいません」となれば、水虫治療は終了する。いまだって、もういないはずなのにまだ念のために薬を塗り続ける。念には念を入れた薬の使い方は、わたしがこどもの頃に祖父がごきぶりを相手に、スプレー式の殺虫剤を「これでもか、これでもか」と噴霧していたのに似ている。
 耳鼻科の待合室は、風邪やアレルギーのひとが多い。たいていはマスクをしている。ここで長い時間を過ごしたら、逆に菌をもらってきてしまうのではないかと不安になる。歯科の待合室は、いつになったら自分の順番になるのかわからないほど長く待たされることが多い。脳神経外科の待合室は、額に縦じわを入れて、目を充血させる患者の横で、いまにも頭痛の痛みがこちらにうつってきそうな危険と隣り合わせになる。
 それに比べて、皮膚科の待合室は明るかった。こどもから年配の方まで年齢層も幅広い。こどもの多くはアトピーなどの皮膚炎だろう。診察は、ひとによって違うが、早いひとは診察室に入って数秒で出てくる。わたしだって、ドクターの薀蓄(うんちく)を聞かなければ、数分で終わると思う。そんな待合室で、水虫かなぁと不安になっている初診患者は、明らかにわかるようになってきた。たいていのひとは、ぎりぎりになって来るらしく、深刻そうな表情をしながらも、靴で足と足をかいている。いったい、その靴下の中は湿度と温度はどれぐらいに上昇しているのと聞きたくなる。

5600.2/17/2007
皮膚科通い(6)

 2007年になった1月の初旬に、初皮膚科に行った。薬を変えて、最初の通院だった。いつものように、靴下を脱いで、足の裏を見せる。ドクターは、これまたいつものように顔先を足の裏に近づけて、ピンセットで組織をとって顕微鏡で観察した。
「薬を変えたんだよね。おー、いい感じだよ」
このひとの、いい感じとは、皮膚科のドクターとして、なじみある白癬菌に会えたときがいい感じなのか、治療の効果があって白癬菌が死滅しているときがいい感じなのかがわからない。考えてみれば、医者は病気がなければ仕事にならない。よのなかが、健康なひとばかりだったら、お金を稼げない因果な商売だ。皮膚科のドクターにとって、皮膚炎を引き起こす病原は、飯の種とも言える。
「いい感じって、どんな?」
「うんうん、ほとんど見当たらない。薬が効いてきていると思うよ」
「わぁ、よかったぁ」
「もう安心と思ってはいけないよ。ほとんど見当たらなくなってから、まだ生き続けるのが、連中のしぶといところ。根絶するには、たゆまぬ日々の努力が必要なの。今回で一ヶ月目だろ」
ドクターは、指を折りながら数える。
「あと、二月、三月。そう、三月まではいまの薬を使ってね」
 まるで、もうわたしがこれで通院しないと企んでいるのではないかと疑っているようだ。実際には、そういう患者もいるのだろう。顕微鏡で観察して、菌がいないと言われれば、治療は終わったと思いたくなる。でも、わたしは、なにも焦っていないし、ここに来て水虫を治そうと思っているわけではないからだ。
 掌蹠膿疱症という原因不明・無菌性の皮膚炎の治療をしたいのだ。その前に水虫を退治しなきゃいけなくなって、通い続けている。
「ちょっと、手を見せて。そういえば、掌蹠膿疱症の気配はおさまっているね」
おっ、やっと本筋の話が登場した。
「いつも、手で薬を塗っているからですかね」
「それじゃ、手が水虫だったことになるじゃないの。ただ、シャドーというのがある」
「何ですか、それ?」
「シャドーだよ。影。水虫があるひとに見られるんだ。手に水虫に似た症状が出るの。でも、それは白癬菌が感染しているわけじゃない。足の状態が手に現れてくることをシャドーっていうんだよ」
「そんなことってあるんですか」
「うん。だからシャドーの場合は、どんなに手のひらだけを治療しても治らない」
そりゃそうだろう。