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5499.9/5/2006
 2学期の学校生活が始まっている。夏の間に行った研修会で教わったことをいくつか実践している。
 そのひとつが、登校してから朝の会が始まるまでの間の過ごし方を、こどもが自分の力で送ることができるように、行動の見通しを持たせるホワイトボードの使用だ。
 登校してから、かばんから荷物を出し、出した荷物をそれぞれの場所に置く。必要に応じてトイレに行ったり、席に座って本を読んだりする。そういう日常的なことは、登校するこどもたちがそれぞれに自立的にできるとは限らない。ほかに興味があることが目や耳に飛び込んできたら行動が止まる。一度興味がほかのことに向いてしまったのを、ふたたび「そうだ、朝の支度をしなきゃ」と判断してもとに戻れればいいが、往々にして、かばんや荷物はそのままになってしまう。
 そのたびに、教師が声をかけ、朝の準備を促してばかりいたら、こどもは声をかけられることを期待して、ほかの行動を選択してしまう。そこで、ホワイトボードに朝の支度を順番に書き、それぞれの支度ができたら、丸い磁石を「できた」と書いてある四角に貼り付けられるようにした。それによって、いまの行動が終わったら次は何かを確認し、興味が別の方向に向く前にするべきことをやっておけるようになればいいと思った。朝の支度はそんなにたくさんのプロセスがあるわけではない。だから、絵を描いたり、本を読んだりしたいのならば、早めに支度を終えてしまえばいい。それを学習する手助けにするつもりでホワイトボードをこどもに応じて用意した。
 果たして効果があるかどうか心配だったが、使ってみると、予想以上にこどもは順序正しく朝の準備をするようになった。それも、途中で行動を止めることなく。行動を止めないから、だれからも注意や指示がかからない。すべての準備を終えて、自分の時間がたくさんできて、ゆっくり朝の会までの時間を送る体験を知った。活動の道筋をこどもが理解し、その手助けをする方法を、構造化というそうだ。社会生活のすべてが構造化されているわけではない。いや多くの場合は、予想外の日常とどう折り合いをつけていくかとう柔軟性のほうが求められるかもしれない。しかし、そういった柔軟性を身につける前に、土台としての道筋作りを学習しておくことは必要だろうと思う。やるべきことと、その順序を知っているからこそ、ときに応じて省略したり、順序を変更したりできるようになるのだと感じた。

5498.9/4/2006
 夢キャンの内容は昨年と大きく変わっていない。
 一日目は少年の森を使ったオリエンテーションとナイトウォーク。二日目はうどん作りと工作、そして室内レクリェーション。最終日は片付け。ひとつひとつの内容に時間的な余裕をもたせているので、こどもたちはそのプログラムが終わった時間を部屋やアスレチックで自由に過ごすことができる。スタッフやこどもどうしで、カードゲームをしたり、鬼ごっこをしたり、相撲をしたりしていた。後半はマッサージがブームになり、スタッフをこどもたちがマッサージしていた。
 昨年と大きく違ったのは、地元の県立高校の生徒が6人も無償のボランティアとして協力してくれたことが挙げられる。藤沢市が推奨しているNPO法人の活動へのボランティア派遣制度の一貫を、わたしたちは使った。ボランティア活動をすると取得できる単位があるそうで、わたしたちは終了後に単位認定の証明書を高校に送った。いまどきの高校生が、本気になってこどもと三日間の生活を送ることができるのか不安があったが、どの生徒もまじめで一生懸命だったので、結果的には、スタッフの負担が去年よりもずっと軽くなった。
 こどもたちも、年齢の近い高校生たちに親近感を覚え、自由時間には気さくに声をかけ、いっしょの時間を楽しもうとしていた。テレビもラジオも漫画もない生活で、同じ時間と空間をともにしながら、年齢の異なるこども集団が、ダイナミックに夢キャンを動かし、支えていったと思う。
 わたしは、昨年に引き続き、食事係を担当した。会場の少年の森は、すべて自炊方式で、かまどを使わなければならない。薪を使って火をおこし、大きな鍋や釜で料理を作ったりご飯を炊く。家庭用のガスレンジがあるわけではない。スタッフが持参したカセット式のカートリッジを使うガスコンロを併用しながら、予算を押さえ、それでも口にしたらおいしい調理をこころがけた。一日目はカレーとサラダ。二日目は天婦羅うどんと中華丼だった。毎朝の食事は焼きおにぎりと味噌汁だ。カレーも野菜をじっくり煮込み、きざみ唐辛子やローリエで細かい味付けをした。天婦羅うどんはこどもたちが粉から作ったうどんに、かき揚げを乗せるようにした。中華丼は、リッチに海老とイカを使った。30食近いご飯を炊くのは、苦労した。大きな釜をコンロで炊くのだが、水加減、火加減、炊き方など、時間を見計らいながら、炊き上がるまでハラハラしながら作った。

5497.9/2/2006
 藤沢市少年の森で、湘南に新しい公立学校を創り出す会主催のサマーキャンプ「夢キャン2006」を開催した。
 8月21日から23日までの二泊三日の宿泊活動だった。1997年に活動を始めてから、様々なテストスクールやキャンプを実践してきた。そのなかで、宿泊活動は1999年のテストマッチ以来、三回目だ。ほかはすべて日帰り形態だった。宿泊活動は、学校としてのプログラム以外に用意しておかなければならないことが多い。入浴、洗面、ベッド、着替えなど、ひとりひとりの持ち物の確認が、日帰りよりも増える。また、親元を離れての活動なので、安全面に関する責任範囲がぐっと広がる。実務的な忙しさよりも、精神面での緊張感が大きく、終わったときにはどっと疲れがからだを包む。それでも活動を積み重ねるのは、こどもたちの育つ姿が見たいからだ。こどもは、放っておいては育たない。言葉の指導だけでも育たない。具体的な活動を通じて、できることをひとつずつ増やしていく。そのための意図的な働きかけのひとつがサマーキャンプだ。
 去年、久しぶりに夢キャンを宿泊形式で復活させたのは、それまでの土曜日帰り形式のテストスクール終了にともなって、通学していたこどもたちがふたたび顔をあわせる機会がほしいとの要望からだった。同時に決して財政面で豊かではない法人の財政的基盤を確保するねらいもあった。
 ことしは、募集をかけた段階から、予想以上に応募者が少なく、かつ、これまで参加していたこどもよりも新しい顔ぶれが多くなった。そのため、実施の有無について判断が分かれた。しかし、ギリギリの採算ラインは超えていたことと、新しい顔ぶれとのつながりが活動の裾野を広げていくことにつながることを願って実施を決めた。こどもたちにとっては夏休みとはいえ、それを支えるスタッフたちには仕事のある平日になる。それぞれに休暇をとったり、研修扱いにしたり、工夫しながらの参加になった。また、家庭の都合で自宅と少年の森を往復しながら、スタッフとして活躍したひともいた。
 夢キャンは、夢の湘南小学校サマーキャンパスの省略語として誕生した。

5496.8/31/2006
 早いもので8月が終わる。学校は夏休みが終わり、あしたからは2学期が始まる。
 一年を三つの学期に分ける三学期制から、年間を前期と後期のふたつに分ける二期制へと移行する流れが全国的には広がってきている。二期制の学校では、夏休みは前期の途中にある長期休業になる。これが終わって、前期末を迎えるのだ。三学期制の学校では、あしたから2学期の始まりで、二期制の学校では前期の終わり。学校に通うこどもたちのモチベーションはずいぶん違うのではないかと想像する。
 わたしは、夏休みの間、支援教育関係の研修会に複数回参加した。養護学校の教員が講師になって、実践を報告したり、教材作成のコツを伝授したりしていた。そのなかから、役に立ちそうなものをピックアップして、8月の中旬以降は教室にこもって教材作りに時間を費やした。特学の場合、通常級での教材作りと違い、大量生産は想定してない。広く多くのこどもに同じ教材を用意する必要はないので、どの教材もひとりのこどものためのものばかりだ。だから、すべてオーダーメイドになる。厚い工作用紙をカッターナイフで切り、マークや文字、数字を書いたり、貼ったりして、ラミネートシールでコーティングする。四角いカードの角に注意が向いてしまうこどもがいると教わったので、それぞれのカードの角をはさみでとる。マグネットをつけて、カードを置いたときに固定できるようにする。そのような教材を作るのに、ひとつあたり半日はかかった。作りながら、これではこどもが使いにくいと思い、全部壊して最初からやり直すことが珍しくなかったからだ。
 それでも、学習場面で、その教材を使っているこどもの姿を想像するのは楽しい。どんな表情でこの教材を使うだろう。こちらの意図している内容が、教材を見ただけでうまく伝わるだろうか。内容に発展的なものを含み、学習の深まりとともにレベルアップできそうか。そんな思いをめぐらせながら、陽光がふりそそぐ教室で汗だくになった。机には、カッター、はさみ、のり、両面テープ、マジック、マグネット、セロテープ、シール、定規など、文具が散らばり、あーでもない、こうでもないと試作品が並んだ。
 こうやって作る教材の多くは、こどもの成長と理解によって、お蔵行きになる。まれに、ほかのこどもにも使える汎用性の高いものもあるが、もとからそれを狙っているのではないので、個々人の使用目的が達成されるまでの運命なのだ。

5495.8/24/2006
 きょうの毎日新聞の夕刊社会面に掲載されていた3つの事件は、互いに関連性はないのだが、わたしのこころのなかではどこかで結びつくものがあるように感じた。
 愛媛県で中学校1年生男児が遺書を残して自殺していたことがわかった。男児は、今月17日に学校でいじめにあっていることをほのめかす遺書を残し、自宅近くの路上で電柱に首をつって自殺した。自宅の机には、「『貧乏』や『泥棒』などという言葉に傷つき、生きていることが嫌になった」という内容の遺書があった。
 この中学校は島しょ部にある小規模校で、全員が同じ小学校から進学している。今治市教育委員会は、「生徒は小学4年ごろから言葉によるいじめを受け、学校としては注意して見守っていた」としている。つまり、自殺に至る背景を把握していたにもかかわらず、やったことは注意して見守っただけだと認めている。また、中学校の校長は「小学校から言葉の暴力を受けて傷つく傾向があると聞いていたが、自殺するほど悩んでいることに気付かなかった。真摯(し)に反省している」としている。
 宮崎県で24日午前0時45分ごろ、川の堤防で談笑していた高校生の男女5人が近くに住む20歳の男に襲われ、1人が失血で死亡、1人が重傷を負った。男は、最初「お前たちうるせえが」と言っていったん立ち去った。1.2分後、再び現れ、5人を背後から襲った。宮崎県警が男の身柄を確保したが、大量の精神安定剤を飲み、意識不明で病院に運ばれた。その精神安定剤は、ふだんから男が常用しているものだったので、警察は自殺を図ったのではないかと見ている。夏休み中の事件に、学校関係者は「深夜外出は控えるように指導していたのに……」と悔やんだという。
 東京都新宿区の京王百貨店で、今月13日に女性販売員が女の客に日傘で目を突かれ、眼球破裂の重傷を負った。警視庁は23日に無職の31歳の女を傷害容疑で逮捕した。女は13日の午後3時ごろ、同店7階催事場で、健康器具販売会社の女性販売員に「この器具を使って具合が悪くなった。ちょっと調べたいからパンフレットをください」と言いながら、日傘の先端で販売員の右目を突き、眼球破裂の重傷を負わせた疑い。事件を報道で知った母親が23日、「娘が京王百貨店で店員を傘で殴ったかもしれないと言っていた」と同署に届け出た。署員が女から事情を聴いたところ、容疑を認めた。女は「傘で殴るまねをした。当たったかどうか分からないがすぐに逃げた」と供述している。女は逮捕されたが、精神が不安定な状態で釈放され、精神保健福祉法に基づき措置入院させられた。
 ある小説の中で、新聞は不幸を伝える役目をしていると、新聞配達人が話す場面があった。この三つの事件が同じ紙面に掲載されているのを見て、一日の疲れを癒すつもりの晩酌が、重く暗いものになった。
 三つの事件は、ともにひとがひとを傷つけ、あるいは殺している。それは、私怨や保険金殺害のような計画的なものではない。中学生の自殺、高校生の失血死、女性販売員の眼球破裂。そこに、加害者としてかかわっているひとたちのこころの闇の深さに、背筋が凍るものを感じたのだ。

5494.8/21/2006
 映画「ゲド戦記」を観た。
 スタジオジブリ作品。宮崎駿監督の長男、吾郎さんの処女作品だった。ストーリはすでにあるものを使っていた。
 これまでわたしが観たジブリ作品は、宮崎駿監督のものがほとんどだったので、どうしても駿監督の作品と比較してしまいがちだった。背景の描き方、人物の表現の変化など、吾郎監督独自のものなのだろうが、やや荒削りな感じがしてしまった。それだけ、いままで質の高いアニメーションに触れてきた証拠かもしれない。駿監督と同じ映像にする必要はないのだが、随所に駿監督の作品と似た設定やキャラクターデザインがあったので、どうしても比較してしまった。
 ゲド戦記(Earthsea)は、アーシュラ・K・ル=グウィンによって書かれ、1968年から2001年にかけて出版されたファンタジー小説。『指輪物語』・『ナルニア国ものがたり』と合わせ、世界三大ファンタジーの一つと言われる。全部で6巻が刊行されていて、映画化されたのはそのうちの3巻目「さいはての島へ」以降を独自の話としてまとめている。宮崎駿が以前この作品の映画化を申し入れたが断られた事があり、近年になって原作者側から申し出が出てようやく映画化となった作品である。監督は宮崎吾朗。製作はスタジオジブリ。脚本は宮崎吾朗と丹羽圭子。出演は、岡田准一(アレン)、菅原文太(ハイタカ)、手嶌葵(テルー)、田中裕子(クモ)、香川照之(ウサギ)、小林薫(国王)、夏川結衣(王妃)、風吹ジュン(テナー)、倍賞美津子(女主人)、内藤剛志(ハジア売り)だが、映画のなかで、もっともたくさん登場するのはだれかというのを決めるのは難しいほど、主人公がはっきりしない物語だった。
 もともとジブリ作品には、絶対的な正義と悪が登場しない。悪者と正義の味方が戦う構図は、物語としてはとてもわかりやすいのだが、宮崎駿のポリシーとして、そのような作品作りはしていない。だからこそ、登場人物の内面に掘り下げた映像化を試みないと、観るものには難解な部分が多くなってしまう。もののけ姫、千と千尋の神隠し、ハウルの動く城など、よのなかの光と闇、あるいはひとのこころの善なる部分と悪なる部分を、深く深く掘り下げ、それに映像美をミックスさせた作品だったからこそ、世界から高い評価を受けた。
 その意味では、ゲド戦記のもつ生と死、こころの闇と光というテーマは、ジブリ作品のコンセプトと重なる部分が多かったのだろう。それだけに、登場人物の掘りさげをもう少していねいにしてほしかった。なぜクモは均衡を破ることを承知で魔法を使おうとしていたのか、どんなきっかけがあったのか、ゲドそのものも以前は魔法をむやみに使う立場だったのに、逆に必要のない魔法を使わなくなったのはなぜか、アレンは冒頭でなぜ父を殺してしまったのか、テルーは竜の化身なのか。登場人物の会話のなかに、それらの答えを見つけることも可能なのかもしれないが、わかりやすくするには、過去の物語を挿入するなどの工夫がほしかった。

5493.8/19/2006
 若者のこころを支配する教えとは、どんなものなのだろうか。
 もっと冷静になれば、自分がどんなに正しいと思った教えに出会ったとしても、それをほかのひとに伝えようとするならば、そのやり方を工夫すべきだろう。相手の不安をあおり、理解も納得も無視して、こころのなかに土足で入り込むやり方は宗教とは言いがたい。
 そのひとの入っているサークルについて、インターネットで調べた。歴史的には古い仏教系の宗教団体だったが、カルト的なことでとても有名な団体だった。被害者も出ていて、かなり問題を多く抱えていた。終末思想で、不安をあおり、信じる者だけが救われるという小乗仏教的な思想をもち、入信を強制するやり方は、ほかの新興宗教と似ていた。
 わたしたちは、置かれた状況で、社会的な生活を営んでいる。それは、だれにもどうすることもできないものであり、置かれた状況から逃げ出すことは容易ではない。よのなかの悪や非道を耳にしながらも、精神的に揺さぶられることなく生きていくのは、並大抵のことではない。真剣に、自分の生きる道を考えれば考えるほど、どこかに救いを求めたくなる心情は理解できる。しかし、わたしは排他的な思想だけはもちたくない。自分たちだけがほかのひとたちの上に立ち、多くの犠牲の上に長生きしようとは思わない。価値のある生き方ができるならば、生きている時間の長短は気にしない。
 電話を切った後、わたしはそのひとのことが気になったが、それ以上に、同じような若者がたくさんいることを想像して切なくなった。それは若者とは限らないかもしれない。しかし、圧倒的に若者を中心とした勧誘活動が新興宗教のセオリーであることを思うと、若者たちのこころの不安定さを悲しく思う。抑圧された生き方を、いかに生き抜くかよりも、そこからどうやって抜け出すかを考えたら、宗教のような内面的な生き方はすんなりこころに平安をもたらすからだ。しかし、その走り方は、社会性を犠牲にすることを忘れてはならない。親や親しい友人、お世話になったひとたちとの縁を断ち切ることは、その後の長い人生に決してプラスにはならないだろう。自分のほかに、こころの安定を求め、信じるものが見つかったら、それを批判的にかつ相対的にとらえることをやめてしまうのは、とても危険なことだ。どんなことにも、裏があり、表があり、その調和のうえに、真実を形成していることを忘れてはならない。絶対的なものは、決してひとを傷つけたり、排除したり、脅したりはしないのだ。

5492.8/18/2006
 聞くと、なかなか本音を言わない。
「会ってどうするの?」と何度も聞いても
「久しぶりに声を聞きたい」「話をしたい」の一点張り。
「悪いけど、忙しいから、そんな時間はないんだ」。ガチャンと電話を切っても、すぐにかけ直して来る。
「あのね、本当はなにか別の用事があるんじゃないの」
 核心に迫る質問をすると、じつはそうだという。
「19歳のときに、ボクはすごいことを知ってしまったんです。そのことを先生だけに知らせたいので、会って話がしたいんです」
「どんなすごいことを知ったの。電話で話してよ」
「いえ、直接会って話がしたいんです」
「なんで、会わなきゃならないの。会うって、あなた以外にもだれかと会うの」
「あー、はい。ボクだけじゃ、うまく伝えられないので、ほかのひとも来ます」
「それって、なんか変じゃない」
そんなやりとりを1時間近くした。しまいには「先生は、新興宗教だからって、なにかあやしいと思っていませんか」「この話を聞かないと、先生は大変なことになりますよ」と脅しに近い調子で迫ってきた。
「このことをあなたの両親は知っているの」「あなたが所属しているグループっていうか、団体の代表者はだれなの」
 こちらも負けじと流れに乗らないように反論する。
 夜遅くに、いきなり電話をかけてきて、あなたに大事な話があるの一点張り。そのことだけで、じゅうぶんあやしいのに、挙句の果てに話しを聞こうとしない態度に腹を立てるやり方は、マンションや株の営業に似ている。最終的には「先生が決めることなので、どうしても会いたくないというのなら、仕方がないです」とそのひとは電話を切った。

5491.8/14/2006
 ひとは、いのちをかけることに意味を見つけると、ひとを殺すことにためらいや不安がなくなる。
 とくに、ひとを殺すことが自分の生きる意味とつながると、慈悲や哀れみのこころに蓋をして、虐殺や自爆を実行しやすくなる。
 天皇陛下のため、愛する家族のため、生まれ育った風土を守るため。戦前の教えは、ひとびとを個人として尊重するのではなく、社会の一員として役割を果たすことを尊重した。だから、戦争で想像の共同体である国家が危機にさらされたとき、自ら弾頭となって敵の艦船に体当たりすることは生きる意味とつながった。自分がいのちをかけることで、社会の一員としての役割を果たすことができた。
 同じ原理が貧しいアラブ人社会に広がっている。爆薬をからだにまいて、敵のど真ん中で起爆すれば、多くの犠牲者が出て、同時に自分のからだもこっぱ微塵になることはわかっている。もっと生きていれば、楽しいことや嬉しいことはいっぱいあったかのしれないのに、人生の終焉を社会的使命のために遂行する。その生き方を美しいと感じてしまうのは、とても危険なことだ。
 なぜなら、戦前の日本でも、いまのアラブ社会でも、最前線で社会的使命を果たそうとするピュアなひとたちをコントロールしている一部の特権階級がいるからだ。そのひとたちにとって、鉄砲玉になる最前線のひとたちは、生きている武器に過ぎない。血液が通い感情の起伏があるので、よほどこころをコントロールしないと、使命感がゆらいでしまうひとりの人間という意識はあまりないのだ。手や足がこっぱ微塵になっても、次から次へと志願者が現れる。それは、生きていても貧しくて苦しい生活から抜け出せない現実が大きな背景になっている。
 仕事がない。財産がない。することがない。食べるものがない。着る服がない。ないことだらけの毎日では、こころがすさむ。
 しかし、物理的な貧しさだけで、ひとはこころを失うとばかりも言い切れない。
 先日、10年ぐらい前にいた小学校で、当時「お世話になった」という卒業生から深夜に電話がかかってきた。わたしは担任していたわけではないので顔も名前も思い出せない。それでも、そのひとは「先生」と親しみをこめてわたしを呼び、「久しぶりに会いたい」といった。じつは、当時、そのひとを担任していたひとからわたしに連絡があり、かつての教え子が新興宗教の勧誘をしてくるから気をつけてほしいと事前に言われていた。その電話がそれだったのだ。

5490.8/12/2006
 原爆投下の鎮魂の日が過ぎた。まもなく終戦記念日になる。大日本帝国に植民地支配されていたひとたちにとっては解放記念日だ。 中国のかつての主席が歴史問題は永遠に追及しなければいけないと語った史料が発見された。昔から争いは勝ったものが裁き負けたものは隷属してきた。1945年までの争いには、その傾向が強かった。日本政府の首相は戦争遂行に携わったひとを祀る神社に今回も参拝するという。次期首相候補者は参拝への考えをいちいち質問されている。
 いまの世界は、もっと緊急かつ重大な崩壊局面であることをメディアは伝えない。
レバノンのイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラとイスラエル軍との戦闘は、人類滅亡へのスタートラインになるかもしれないのだ。イスラエル正規軍とテロ組織との争いではない。ヒズボラの組織力と装備はレバノン軍を上回っているのだ。現在の戦闘は国家レベルの軍隊どうしが対峙していることになる。
 イギリスではアメリカに向かう旅客機を爆破する計画を水際で阻止した。パキスタン政府からの情報をもとに、イギリスの公安当局が以前からマークしていたメンバーをいっせいに逮捕した。ペットボトルに入れた液体を機内で混ぜ合わせると爆発物になる方法で、旅客機の爆破を実行しようとしていたらしい。このような事件が発覚するたびに、先進各国の首脳は「テロには屈しない」とか「卑劣な殺人行為を許してはいけない」と真顔で話す。言葉を額面どおりに受け取れば、なるほどと思えるのだが、それでは国家規模での殺人行為は許容してもいいのだろうか。
 戦後の世界は資本主義と共産主義という、考え方の違いによる、二軸構造が対立しあった。しかし、共産主義では経済的な発展は望めないことがはっきりするとともに、この二軸構造は対立軸を失い、実質的に共存の道を選択した。そして、あらたに浮かび上がってきたのが、米英帝国主義とイスラム原理主義との対立だ。この対立軸はあらたに登場したように感じるが、実際には2000年以上の昔から存在していた。米英がそんな昔に存在していたわけではない。ヨーロッパを中心とするキリスト教民族と、アラブを中心とするイスラム教民族(実際はイスラム教の成立はキリスト教より遅いのでアラブ民族としたほうが適切かもしれない)との対立は遺伝子レベルまで組み込まれているのではないかと思うほど根強いものがある。エルサレムをめぐる攻防戦は長きに渡り、根本的には現在でも共存が成立しているとは言いがたい。
 これは単純な宗教対立のように思われがちだが、ひとは内面の信仰心だけでやたらに殺戮を繰り返さない。ときの権力者が宗教を対立の名目にしてきたといったほうが正しいのだ。そして、現在の対立はイスラム教の教えを忠実に守ろうとする原理主義勢力と世界中の商業を独占するユダヤ人社会との対立が名目になっているが、本質は世界的に広がり続ける貧富の差が一番の原因だと思う。
 ユダヤ人社会はイスラエル国家とは違う。もっと柔軟でもっと広範囲の勢力を示す。アラブ人社会は、ほんの一握りの王族を除いて、決して豊かではない生活をいまも余儀なくされている。政治的発展段階で多くの国家が議会制民主主義を導入しているのに、いまも石油を産出するアラブの国々は一部の王族が支配する封建的な支配体制を堅持しているのだ。そのなかでうまれる多くの困窮層が、不満や生きる意味の矛先を、アラブを占領、もしくは支配しようとする勢力へ向けるのは当然のことともいえるのだ。

5489.8/9/2006
 きょうは8月9日。長崎にアメリカ軍の原子爆弾が投下されてから61年目にあたる。当時1945年に生まれたひとは、日本人のなかで生まれたひとよりも亡くなったひとの方が多い特異な年齢層なのだそうだ。戦争終結時の困窮は、新生児のような弱い存在のいのちを簡単に奪ってしまうのだ。
 よく「世界で唯一の被爆国」という言い方をニュースでアナウンサーがいう。この言い方は、あれから61年が経過しているのに誤解を招く言い方だと思う。核爆弾が恐ろしいのは、核爆発によって多量の放射能が風に乗り拡散し、爆弾投下後も大きな被害を出し続けることだ。被爆という言い方で放射能を浴びたことは形容される。そう考えると、戦後の冷戦下、たくさんの核実験によって被爆したひとたちや、原子力発電所の事故によって被爆したひとたち、劣化ウラン弾によって被爆したひとたちも、被爆者であり、そのひとたちの国籍は日本だけではない。唯一の被爆国という言い方で、戦後世界では放射能の被害が出ていないかのような誤解を与える言い方には惑わされてはいけない。
 マーシャル諸島(ビキニ環礁を含む)は、2000年前に現地住民が住んでいた痕跡が残っている。早くからスペインやイギリスとの交易が盛んだった。19世紀の後半に、ドイツが保護国として植民地支配を開始する。20世紀初頭にドイツから支配を引き継いだのが大日本帝国(いまの日本)だ。戦後、アメリカの信託統治領になり、1986年にマーシャル共和国として独立した。100年以上、外国の植民地だった歴史のなかで、アメリカ合衆国はビキニ環礁を核実験場としてたびたび使用した。なにしろ、たびたび核実験をしたために、ビキニ環礁は全部吹き飛ばされてしまい、いまはただの海になってしまった。1946年8月の第1回核実験から始まった核実験で、日本のマグロ漁船は被爆し、1954年のマグロ相場は半値まで下落した。放射能が検出され埋められたマグロは19000匹(マグロは貫と数えるらしい)に及ぶ。同年5月の調査では日本各地で降った雨にビキニ環礁での核実験による放射能が検出された。
 日本政府はこれに対して調査はしたものの小型漁船やマグロ漁船に調査結果を伝えず、水しぶきを浴びることさえも危険とされたのに、操業中止などの指示はまったく与えなかった。それ以前に200万ドル(当時のレートで7億2千万円)の慰謝料をアメリカ政府から受け取っていた日本政府は、この問題に関して政治決着済みの姿勢を崩さず、漁船員が自ら被災者の会を発足させても十分な補償を得ることはできなかった。
 ことし、隣国が大陸間弾道弾の発射訓練を行った。核弾頭の装着が可能なミサイルの発射訓練だったとされている。着水したのは公海上だが、ひとつ間違えば日本の領空や領土にも被害が出た可能性がある。「すわっ戦争か!」とメディアは躍起だった。核弾頭が装着されていなかったとはいえ、国際間の緊張が高まった。このときの日本政府はすばやく抗議の声明を発し、国際連合を動かして非難の共同体を呼びかけた。しかし、1945年8月6日の広島、3日後の長崎、ビキニ環礁核実験など、実際の被爆による犠牲者や損害はアメリカ政府とアメリカ軍によるものばかりで、それに対しての抗議姿勢はあまり見られない。Aがやっている暴挙は許されて、Bがやった暴挙の準備ばかりが非難されるという図式は、こどもたちにも理解されにくい。
 相手がだれであれ、どんな関係にあろうとも、平和を脅かす脅威に対しては、確固たる姿勢を貫くことが政治家に求められているのであり、そのために多くの税金が使われると信じたい。平和は争いの結果ではない。強いもののみが享受できる特権でもない。「世界全体が幸福にならない限り、個人の幸福はありえない」。宮沢賢治の言葉がいまもなお輝く。

5488.8/8/2006
 5日から6日にかけて、わたしは千葉県の妙典、行徳というところにいた。
 全国で、チャータースクール設立を目指す活動をしている市民団体のナショナルセンターである「日本型チャータースクール推進センター」の会合があったからだ。5日の昼まで、レクリエーション研修に参加していたので、それが終わってからギターを抱え、妙典に行った。最初は妙典をなんて読むのかさえ知らなかった。妙典は地下鉄東西線の駅だということがわかり、レクリエーション研修をした東京スポーツ文化館にタクシーを呼び「ここから一番近い東西線の駅までお願いします」という、わたしゃ田舎から出てきました丸出しの行き先指定をした。
 5日の夜の交流会から参加し、6日は行徳(ぎょうとく)公民館で話し合いに参加した。大阪に新しい学校を創る会、みんなの市川教育フォーラム、湘南に新しい公立学校を創り出す会、個人で活動する方が集まり、日本型チャータースクール推進センター(略称:ちゃせん)の今後の活動について検討した。
 すでに、ちゃせんは今年度の冒頭で発展的な解散を決めている。団体設立の目的を達成しての解散ではなく、団体設立時といまとでは社会的な状況が変わり、活動の方向性が幅広くなってきたことを視野に入れての解散である。つまり、解散して、再生する。再生後の団体の目的や活動についての話し合いが中心だった。その話を聞いていて、わたしのなかに、なぜいまの日本ではチャータースクールのような考え方が浸透しなかったのだろうと疑問が残った。その答えは、だれかに聞いてわかるものではなく、自問自答のなかに見出さなければいけない。
 「まだチャータースクールやってんの」みたいな応対を、オルタナティブな活動をしているひとたちから聞くようになった。それは、ちゃせん代表の言葉だ。オルタナティブとは、代わりのという意味がある。現在の法律で決められた学校に代わる学校(教育機関)設立を目指す活動をしているひとたちは、多い。フリースクール、フリースペースのように不登校のこどもたちを対象にしたものから、シュタイナー学校やフレネ教育のように独自の理念をもって運営されるものまで幅広い。チャータースクールも、広義にはオルタナティブ教育の一翼に入る。しかし、運営にかかる費用を全額公費でまかなうという点で、ほかのオルタナティブ学校とは違いがある。お金の出所が公費なので、なんらかの行政や法律の制限を受ける。古くからオルタナティブ教育に携わってきたひとたちは、行政や法律の制限のないところで、自由なスタンスの学校を目指してきた。それに賛同した民間企業がスポンサーになっているところもある。また、昨今では教育改革特区を使って行政と協力しながら運営しているところもある。さらに、不登校のこどもたちをふたたび学校に適応させることを主眼にして、行政から公費補助を受けているフリースクールもある。それぞれのオルタナティブ教育は、互いの基本的な考えの部分で違いがある。
 チャータースクールは、学校を作りたいと願うひとたちが学校を創る権利をもち、公費によって運営できる制度であり、そのため定期的な評価を受け続けることを担保にする。すでにアメリカでは1991年に最初に法制化され、多くのチャータースクールが設立している。それから15年以上が経過しても、日本社会にはなじまないのはなぜだろう。会合に参加しながら、答え探しの旅にわたしの思考は浮遊していた。

5487.8/7/2006
 きょうは、21日から23日まで開催するサマーキャンプ「夢キャン2006」の実行委員会だった。
 現在のところの参加者は14人。去年が18人だったので、やや規模が縮小する。まだ申込者がいるかもしれないけど、それでも去年の規模を超えることはなさそうだ。
 今回は、スタッフとして参加するメンバーに高校生のボランティアが6人も参加する。これは、いままでのフリースクールやサマーキャンプにはなかったことだ。藤沢市が、市民団体に高校生のボランティア参加を呼びかけていて、わたしたちも一応要請団体として登録しておいたら、6人も協力してくれることになった。でも、よく話を聞いたら、それさえも授業の一環で、夏の間にそういうことをすると単位が取得できるそうだ。ということは、意欲がどれだけあるのかが見えにくい。こどもたちの宿泊活動では、働かないスタッフが一番やっかいなので、あまりにもお荷物になったら厳しいけれど遠慮してもらおうと思っている。こどもたちのことで手一杯なのに、高校生を育てる余裕はない。
 実行委員会では、スタッフの連絡体制や参加者への連絡体制、日程の細かい仕事分担が確認された。わたしは、食事係だったので、材料の一覧表を作っていった。それをだれが用意するのかを分担した。食べ物なので、その日に買出しをしたほうがいいものが多いが、塩やこしょうなどの調味料や、キッチンペーパーやラップなどの台所用品のように腐らないものは、事前に分担して、それぞれが用意しておいたほうが効率的だ。去年の経験から、終了後に材料や調味料が残り、結局費用を効率的に使い切ることにつながらなかった反省をいかして、今回は綿密なレシピを作り、それぞれに必要な食材や調味料の量を割り出した。塩9グラムのように。つまり、夢キャンのためにあらためて購入しなくても、家庭のものを少しだけ持参すればなんとかなるものは、みんな分担して節約するようにした。
 宿泊を伴う活動では、生活全般がプランの対象になる。とくにプログラムに含まれない間の時間や、部屋割りなどの環境の設定などを確認しておかないと、行動の見通しが立たなくなるので、分単位でスタッフの位置と役割を確認しあった。それに加えて、緊急時の対応や医療機関の確認、キャンプ場から借りる物品の確認をした。これまでも宿泊を伴う活動は何度もしてきたが、いつもそれらを綿密にしてきたから、いままで大きな事故がなかったと思っている。慣れてきたからといって、詰めを軽くすると、それは油断につながり、思わぬ事態や事故を招く。それらを起こしてから反省しても遅い。
 去年は最終日に台風が直撃して、予定を繰り上げて、ぎりぎり大雨の直前に終了させることができた。計画をじゅうぶんに練っていても、臨機応変に対応しなければならないこともある。それは、計画がしっかりしているからこそ柔軟に対応できるのであり、計画があいまいだと、逆に対応の幅が狭まり行動を制限してしまうことにつながる。参加したこどもたちすべてが「またきたい」「またやりたい」と思い、感じることができるようなキャンプにしたいと願っている。

5486.8/6/2006
 ふだんこどもたちが学校に通っているときは、教材研究や児童理解のための研修には参加しにくい。
 午後からの研修のときは、まだこどもがいる時間に学校を出なければならないので、自分が担当しているこどもの学習をほかの教員に任せることになる。こどもが帰った時間に急いで学校を出ることもある。いずれにしても、そういった研修では、あまり時間がないので、短時間で得られるものが少ない。
 だから、こどもが学校を休む夏休みはたくさんの研修に行きやすくなる。朝から夕方までじっくり研修に没頭できるので、わからなかったことや新しい教材との発見が多くなる。とくに宿泊を伴う研修の場合は、ほかの学校の教員とも知り合うことになり、互いのおかれた状況や、学校によって違うやり方などを知るいい機会になる。そうやって世間を広げていかないと、自分のやり方がとても狭いままになって、こどもや親の前に立っても、いつも同じことの繰り返しになってしまうのだ。
 3日から5日まで、わたしは東京都江東区の夢の島にある「東京スポーツ文化館」という複合型の施設に宿泊して、レクリエーション研修に行ってきた。レクリエーション研修のなかみは、ソング・ダンス・ゲーム・スタンツ・キャンドルセレモニー・工作だ。わたしは、その研修に教員になったときから連続して参加している。いまの学校で、こども祭りのとき、景品として参加者に渡しているフェルトで作ったケムンパスは、そのレクリエーション研修で教わってきたものだ。
 重たいギターを抱え、大学のときに山登りで使っていた40リットルのアタックザックに荷物を入れて、りんかい線の「新木場」というところに行った。夢の島というとごみの島というイメージが強かったのだが、いまは埋め立てられて夢の島公園という広大な緑の公園ができていた。せみの声が響き、ごみの焼却炉があり、そこから生み出される熱を使った温水プールを中心とした複合施設「スポーツ文化館」は、テニスコート・洋弓場・柔道場・剣道場・バスケットボールコート・フットサルコート・バレーボールコート・陸上競技場など、おそらくあらゆるスポーツができるようになっていた。そこにマルチスタジオや和室など文化施設が併設され、300人ぐらいが収容できる宿泊棟も完備されていた。わたしの住んでいるところには、ここまで多様なニーズに一度にこたえる施設はないのでとても驚いた。おまけに、東京都の建物だが、運営全般を民間が担当しているので、すべてにわたって「役所」臭のない快適な作りになっていた。レストランではいつもバイキングが用意されていて、食事のたびにどのメニューにしようかと迷うほどだった。

5485.8/2/2006
 湘南憧学校のパンフレットの最後のページに載っているこどもたちの紹介の続き。
「Mさん。12才の女。好きなことは絵を描くこと、パソコンいじり。アニメや漫画が好きです(少年漫画系)。パソコンでネットをする。物事をじっくり考える。絵が上手で自分のHPをもっている。料理や掃除がていねいで上手。絵が好き。面白いし楽しい。明るいしおもしろい。おとなの手伝いをする。早口言葉がうまそう。
Kさん。11歳の女。好きなことは絵を描くこと。優しい性格です。発想が面白い。Kさんがいるだけでほかの人が元気になる。笑顔がすてき。性格が明るい。個性的。素直でやさしく食べることが好き」。
 こどもたちの紹介のあとに、おそらくMさんが描いた女の子のキャラクターが湘南憧学校を宣伝している。「シーサー作りの先生を呼んでオリジナルシーサーを作りました。自分で計画を立てて出かけたりできます。たとえば水族館やアイススケートなど。絵を描いたり本を読んだり自分のやりたいことができる時間があります。近くにあるコンビニやスーパーに買い物に行けます」。
 いままでの湘南憧学校のパンフレットやリーフレットはおとなが作成したものだった。こうやってこどもが作成したものを見ると、こども目線の湘南憧学校が見えてくる。こどもたちが湘南憧学校のどこに着眼し、なにを求め、どんな生活を楽しんでいるのかが見えてくる。最後のこどもたちの紹介で共通していた「本を読むのが好き」という特徴は、今回の発見だった。公立学校ではひとつのクラスに多くのこどもがいるが、全員が本を読むのが好きとは思えない。読書の世界に没頭できるこどもは、チャイムで生活の時間が分断され、ほかのこどもとの同調行動が強制される生活の組み方は苦手と感じているのかもしれない。
 いま全国の多くの学校では、登校後の15分ぐらいを「朝読書」あるいは「朝読」という時間にあてて、それぞれの興味ある本を読む指導が行われている。登校から学習への気持ちの切り替えのクッションとして、読書の時間を設けているのだろう。しかし、本を読む気持ちを充足させるのには時間的に短すぎる。また、もともと読書は強制されてするものなのかという素朴な疑問も浮かんでくる。職員室で教職員が朝の打合せをしている時間帯に、教室が無法地帯にならないための手段として、読書が使われているとしたら、こどもの読書離れを加速させてしまうのではないか。
 ことしの秋、湘南憧学校には10歳の女の子が新しく入学する予定だ。

5484.8/1/2006
 学びのなかみをこどもが決めるとき、こどものタイプはいくつかに分類される。
 主体的で計画的なタイプ。主体的だが計画性のないタイプ。抑圧からの逃避タイプ。抑圧によって思考が止まったタイプ。ひとの目を気にするタイプ。ひとのやっていることに強く影響を受けるタイプ。これらのどのタイプにも属さないタイプ。
 どんなことをするかを考えるというのは、あれをしなさい・これをしなさいといわれることよりも、ずっと困難で大変なことだ。そんな時間があったら、のんびり寝ていたいとか、ぼーっとしていたいとか、漫画を呼んだりテレビゲームをやったりしていたいなど、ベクトルの向かう先に、創造的な建設的なものは浮かびにくい。だから、学びのなかみをこどもが決めるときは、そのこどものそれまでの生活や、いま置かれた家庭での状況や、ひととの関係性が大きく影響する。こころとからだが健康でないと、創造的で建設的なことをやろうとは、なかなか思いにくいのかもしれない。
 湘南憧学校のパンフレットの最後のページには、こどもの紹介が載っている。
「Aくん。13歳の男。好きなことは野球。おもしろいひと。背が高く足が長い。野球が好き。足が長い。おもしろいひらめきが浮かぶ。興味のあることを追求する。よいところはおもしろい。本を読んでいるので言葉をたくさん知っているところはすごい。パソコンに話を打ち込んで小説作りに挑戦中。
Fくん。11歳の男。好きなものは本と図形です。ドラえもんが好き。興味のあることを確実にコツコツやる。目に力がある。自分のやりたいことをじっくり取り組む。絵が上手。よくわからないけれどおもしろい。頭がいい。自分で思ったことを最後まで必ずやり通す。+−×÷が混じっていても暗算で解く。図形が好き。折り紙がうまい。性格無口。
Yさん。10歳の男。ネットでゲームをするのが好き。ひとなつっこい。明るく元気。本を読むときは集中して読む。活発。カードをよく作っている。声が大きくて元気があって「あっ!」て思うことを書いたり言ったりして楽しくなるひと」。
 つづく。

5483.7/31/2006
 湘南憧学校のパンフレットの五ページ目には「ビクリマンカードについてGO!?」というタイトルに続いてこどもの文章が書いてある。
 商品の「ビックリマン」ではなく「ビクリマン」が大切なのかはわからないが、原文のままに紹介したい。
「ぼくは、レインボータイムに、ビクリマンカードをやっています。これはオリジナルカードゲームです!?いまは約百五十枚以上あります。カードの作り方はキャラの名前と絵とパワーと種族と属性を書いて、説明と能力を書けば完成です。
 書の作り方は右にマナとHPを書いて左に属性を書いて真ん中に戦闘の書と書けば完成です。
 人数はふたりから四人で遊びます。カードを出して、書か相手のカードを攻撃して戦います。そして相手の書のパワーをゼロにすれば勝ちです。
 たのしーーーーーーーーーい!!ので是非、皆やってみてください!!!
 おしまい」。
 この説明がページの半分をしめ、残りの半分に実際のカードのコピーが貼ってある。全部、手書きなので、オリジナル感が伝わってくる。
 レインボータイムは、湘南憧の中心的な学習時間で、学びのなかみをこどもが決めて実行する。
 学びの主人公をこどもにしたい。その願いをもって開校したフリースクールで、最初は学習時間のほぼすべてをわたしたちは、こどもがなかみを決める時間にしていた。学ぶなかみがあらかじめ決まっているスタイルでは、こどものなかに学習への意欲をなくしていってしまうこどもがいることがわかっていたからだ。その考え方は、いまも変わっていないが、実際の教育活動では、学習内容のすべてをこどもだけで決めることはとても困難だった。とくに年齢が低いこどもは、経験の幅が狭いので、やりたいことのなかみに広がりをもたせにくかった。そこで、一日の学習時間を大きく3つに区切り、湘南憧はいまの日課に落ち着いてきた。
 レインボータイムは、そのひとつで、かつてからわたしたちが大事にしてきた、学びの主人公であるこどもが主体的に学習時間を作っていく時間なのだ。

5482.7/29/2006
 湘南憧学校の協会の道のり。四ページ目のタイトルだ。
 四ページ目を丸々使って、道のりについての説明が載っている。もちろん、全部、こどもの原稿だ。
「湘南憧学校には協会がありました。(ほとんどわたしが作り上げました)
二年間の間に、どんな協会を自分たちで作ったかをリストにしてみました。
 落語協会は、パソコンに落語の話を打ち込んだり、それを本にしたりしました。最後に落語の11話を全集として作りまして協会は二年間の幕を閉じました。
 小説協会は小説を書く協会でした。おもに脚本を書いていました。なぜか小説協会は無くなってしまったので新小説協会を作りました。
 映画協会もありました。これは、毎日30分間、映画を観る協会です。見ていた映画は「ロードオブザリング」「バックトゥザヒューチャー」などでした。ちなみに観たかった映画は「スターウォーズ」シリーズです。
 紙飛行機協会もありました。紙飛行機協会はいろんな折り方をためし約12種類作りました。そこで公園で飛ばしたら、そこそこ飛びました。風の影響はほとんど受けず安全に飛びました。
 新小説協会は、順調です。これからもいろんな協会を作ります。
 了」。
 正しい日本語の文章かというチェックを入れると、修正しなければならないところはいくつかある。二年間の間にという重複使用はおかしい。二年間の幕を閉じたのでは、意味が通じない。二年間の活動に幕を閉じたと言葉を補う必要がある。しかし、そういった細かい修正よりも、こどもが湘南憧学校で主体的な活動をしてきたことがじゅうぶん伝わるので、原文はとても輝いている。
 このこどもの作る協会には少ないときで2人、多くても3人ぐらいのメンバーしかいない。湘南憧学校じたいが小さな学校なので、大勢を集めた協会にはなりにくいのだが、自分が興味あることを、単純にいっしょにやるのではなく、協会という枠組みを作って、その関係性の上に共同作業をしようとすることが興味深い。きっと、そのほうが動きやすいのだろう。

5481.7/28/2006
 湘南憧学校のパンフレットの三ページ目にはハーモニータイムの説明が載っている。
「皆でテーマに沿って、学習する時間です。今年は八景島シーパラダイスに出かけようという目標を達成する為にバザーでお金を稼いでいます。また、お金を稼ぐという事から仕事をしている大人の人達から、話を聞いたりしています。五月に笛田リサイクルセンターでバザーに参加しました。その日の売り上げた金額は7560円でした。またバザーをするのでその時は来て下さい」。
 その横に「絵しりとりの事」というタイトルに続いて次の説明が載っている。
「絵しりとりは、絵を書いてしりとりをします。二人以上でします。絵を書いて最後の文字に続く絵を次の人が書きます。んがついた絵を書いた人が負けです。絵がどんどん繋がって面白いです」。
 その説明の下に、実際の絵しりとりのイラストが描いてある。リンゴ・ごま・まんじゅう・うし・しまうま。何でもかんでも、パソコンのワープロで漢字に変換してしまっているので、わたしのようにふだん使用する漢字を制限している者にとっては、違和感のある文章だけど、内容はこどもの気持ちが素直に伝わってくる。
 学びのなかみをこどもが決める湘南憧学校で、ハーモニータイムのようにこどもたちみんなでひとつのことに取り組む学習は首をかしげるひとがいてもおかしくない。わたしたちは、完全に個別の学習をしようとしているのではない。学びのなかみをこどもたちが相談して決めることも重要なことだと思っている。小学校や中学校でも話し合いの時間は重要であるが、湘南憧学校の場合は、話し合って決めたことが学習内容に直結するので、適当な話し合いをするわけにはいかない。それぞれの合意の上で、ハーモニータイムの大きなテーマが決まるので、話し合いの場で意見を言わないと、長い期間、他人の考えたプランに付き合わされることになる。コミュニケーションの基本をハーモニータイムのなかで、こどもたちが習得していってくれればうれしい。
 今回の「八景島」プランは、年度当初に支援スタッフが考えた社会の仕組みをこどもとともに学んでいきたいという強い気持ちがあったから生まれた。大きな柱をもとにそこから具体的なプランが大きく外れないように検討していった。当初のハーモニータイムは、それぞれのこどもが自分のしたいことを過ごすのに多くの時間を費やした。こどもたちは、なぜこどもどうしで連携しようとしないのだろう。長くにわたって、湘南憧学校の学びを検討してきたわたしたちは、ひとがひととつながりあっていく基本的な欲求はだれにでもあるものだと思ってきた。しかし、現実のこどもたちを見ていると、必ずしもそうではない。だれかとの関係性のなかで気を使って疲れてしまうよりも、自分の時間を大切にしていたほうがいいと感じるこどもが増えていたのだ。それは、こどもの世界だけのことではなく、もともとおとな社会が個別化され、差別化され、互いを信頼しにくい社会へと変貌していく過程のなかで、当然のようにこどもたちに反映された影響なのかもしれない。
 これからの時代、こどもが意見を寄せ合ってひとつのことを調和あるハーモニーのように作り上げていくには、はっきりと見通しをもった教育の力が必要だと感じている。

5480.7/24/2006
 こどもたちが作成した湘南憧学校のパンフレットの二ページ目には、湘南憧学校の一日の流れとベーシックタイムの説明が載っている。
 9:30朝の会・9:40ベーシックタイム・10:30おやつ・10:45オプションタイム・11:15買い物・11:30公園・12:00昼食・13:00ハーモニータイム・13:30レインボータイム・14:30掃除・14:45帰りの会・15:00下校。一日の流れは、最初からこのようなものではなかった。三年の歳月を経て、スタッフとこどもたちとで、自分たちが生活を築きやすいように、少しずつ修正しながら作り上げてきたものだ。なにもないところからは動きにくいので、最初はおとなが用意するものがあるが、こどもたちが動きのなかで自分たちがやりやすいように変更していく余裕を湘南憧学校では大事にしている。毎月、スタッフと日ごろは本業のあるメンバーが集まる運営委員会で、こどもたちの声や具体的な要求を検討し、日常のなかに取り入れていくようにしている。そのような柔軟さが、こどもにとって「自分たちの」生活を強く意識づけするだろうと予想しているからだ。
 ベーシックタイムの説明。「ベーシックタイムは自分で決めた言葉や数の勉強をする時間です。僕はベーシックタイムで図形・作図のテキストをやっています。このテキストをやろうと思った理由は図形に興味をもったからです。このテキストで直線を引くことや垂直・平行の勉強をしました。おもしろかったのは作図です。このテキストを全部やるのにかかった日にちは2ヶ月間です」。その下に半円のなかにさらに小さな半円が描かれた図形があり「僕からの問題 周りの長さを求めなさい」と出題が載っている。わたしのいままでの経験では、この問題を正答する6年生はおそらく50%もいないだろう。学習指導要領では、小学校で教えるなかみに含まれている知識を使えば答えられるレベルだが、教えられても学んでいないこどもたちが多い現状では力になっていないからだ。
 ベーシックタイムでこどもが使うテキストの多くは、こどもとスタッフが本屋に行って買う。どんなことに興味をもっているのかが決まってから、本屋に行き、候補をしぼる。そして、保護者とも相談しながら、お気に入りのテキストを決める。それぞれ、学校で勉強する内容の予習や復習に使われる補助教材なのだが、全部の問題を解くのには4ヶ月以上は想定していると思う。なかには半年、あるいは一年間用のものもある。しかし、毎日50分程度の時間だが集中して取り組むと、わずかな時間で問題を解くことができるようになっている。それは、自分で選んだテキストで、自分が興味ある内容に取り組んでいるからに他ならない。とてもシンプルなことなのだが、一般の学校ではそのようなやり方は許可されない。

5479.7/22/2006
 フリースクール「湘南憧学校(しょうなんしょうがっこう)」の新しいパンフレットができた。
 こどもたちが作成したパンフレットだ。
 フリースクールという言葉が耳慣れないひとは多い。見学に来られるひとでも、○○スクールという大きなカテゴリーのひとつだと思っているケースがある。あえて日本語になおせば、無認可学校とでも言い換えられるかもしれない。日本では、学校を法律で定めているので、法律の基準を満たさない教育機関は学校ではない。塾や家庭教師、家庭での学習、スポーツ教室などは学校ではない。不登校のこどもたちが通うサポート校やフリースペースも学校ではない。最近増えているインターナショナルスクールも、法律の基準を満たしていないので学校ではない。だから、法律の基準を満たさない教育機関は広い意味でみんなフリースクールといえる。フリーとは自由なという意味よりも、法律の拘束を受けないと訳したほうが実態に近い。
 わたしは1997年に同僚らと新しいタイプの学校を創るための活動を始めた。私塾や私立学校にしてしまうと、保護者に経済的な負担をかけるので、公費で運営できるようにしたいと思った。だから、日本的にいえば、新しいタイプの公費で運営されるフリースクールの開校を目指した。しかし、日本では公費が使われる学校は、国公立学校も私立学校もみんな学校教育法の基準を満たさなければならない。だから、フリースクールでありながら公費が使われることは、現在まで認められない。年々増加する不登校のこどもたちや、登校していても保健室など教室以外の場所で自習課題に向かうこどもたちにとって、自分の学びのスタイルにあった公立学校を創ったり選んだりする権利が認められていない。
 だから、湘南憧学校は運営するNPO法人の収入とこどもたちの授業料でまかなわれている。いつも財政は火の車で、スタッフには申し訳ないほどの薄給しか用意できないまま、なんとか開校3年目を迎えている。
 これまでも湘南憧学校のパンフレットは作成してきたが、どれもおとなの手によるものばかりだった。今回は、こどもの発案でスタッフとの共同作品になった。
 表紙にはうたい文句が踊る。「やりたいっ!」が出来る!湘南憧学校。いくつかの候補のなかから決めたキャッチコピーだ。同じページに地図が載っている。最寄りのバス停から湘南憧学校までのとてもミクロな地図だ。パソコンのペイントを使って作成した力作の地図だ。体験入学(費用三千円)見学を受け付けます。問合せ……。基本情報にはすべてルビがふってある。こどもながらの発想だ。

5478.7/20/2006
 Hの供述をもとに、どんなことを考えているのかを、犯罪心理学の専門家がテレビで解説していた。
 世間の注目を浴びたくて、こどもを殺した後、悲劇の母親を演じようとした。しかし、警察は事故死扱いにして、望みは達成されなかった。そのため、事件に巻き込まれたように装ったビラを作成し、メディアへの露出を実行した。メディアからの取材はあったが、自分が思ったよりも世間は自分に対して同情的ではなかった。そのため、わが子を殺された悲劇の母親として他人のこどもが生きているのがつらすぎるというシナリオを考え実行した。しかし、これさえも世間に同情されることはなかった。
 自分の生き方やそれまでの近隣とのつきあいを考えれば、多くのひとたちはそんなに簡単にはだまされない。もしかしたら、自作自演の可能性があるのではないかとの疑いは当初からあった。わが子に対して虐待を繰り返していた事実を近隣のひとたちは知っている。そのHがこどもがいなくなってからは、とてもこどもを愛してやまなかったような言動を繰り返し、世間の同情を集めようとしたものだから、近隣のひとたちがなにかおかしいと感じても不思議ではない。
 犯罪心理学の専門家の解説は、とてもわかりやすい心理分析だ。わたしは、そのわかりやすさに違和感を覚えた。自己のわかりやすい論理で、ひとはふたりのひとのいのちを奪えるだろうか。それもともにこどもで、ひとりは自分のこどもだ。多くのひとたちが注目を集めるなかで、もしも自分の罪がばれてしまったら、社会的な死は逃れられない。そのことに思いは向かなくても、そうとうまずい状況になるぐらいの直感ははたらいてもいいだろう。その直感が見えてこないことが、Hに対する不気味さとなって、わたしのこころを包む。33年間生きてきて、ひととして育てられた時間がどれぐらいあったのだろう。
 中学校時代や高校時代のことが新聞で報じられている。一様に目立たない存在で、運動部では先輩に従順で後輩には厳しい一面があったと伝えている。卒業文集の寄せ書きには、同級生から「もう(秋田に)帰ってくるな」などの辛らつな表現が載っていた。
 よくこれからは地方の時代とか、地域再生という言葉を聞く。そこには、都会では薄れてしまったひととひととの濃密で強い絆のある共同体社会があり、都会人が忘れてしまったひとのぬくもりを地方から学ぼうという意欲を感じる。しかし、凶悪犯罪の多くは、そんな地方で発生している。なぜ多くのひとが住む都会では、個人が独立しても総体としての社会が成立するのに、地方では個人が孤立してしまうのだろうか。それは、さまざまな息抜きチャンネルが都会には豊富にあるからだろうと思う。ひとつのことが否定されると、それだけで生きにくくなる関係性の強い社会では、排除の論理が人間関係が希薄と言われる都会よりも完璧に機能する。口をきかない、相手にしない、かかわりをもたないことで、存在を徐々に抹消していく。抹消されかかっていることに気づいたとき、社会を見返す手段として犯罪を思いつくのだとしたら、こどもや高齢者などの弱い存在は、どんどんどんどん地方を離れていくだろう。

5477.7/17/2006
 秋田県藤里町でことしの春にあった小学生殺人事件は、容疑者のHの証言が二転三転するなか、さらなる事件性の様相を呈してきた。
 事件の前に、Hは自分のこどもを事故でなくした。付近を流れる川での水死事故と警察は判断した。しかし、Hは警察の捜査に疑問をもち、こどもの死亡は事故ではなく事件ではなかったのかと考え、ビラを配布したり、メディアに考えを話したりしていた。そのこどもの死について、16日あるいは17日付けの各紙新聞では「自分が川に落とした」と供述したと報道している。もしも、報道が事実に近いとしたら、Hは自分のこどもを殺しながら、事故として扱った警察に事件性を示唆していたことになる。再捜査を進めれば、自分の関与が疑われるかもしれないリスクをおかして、ビラを作ったり、配ったりしていたことになる。
 捜査本部の調べに「(こども)に対して愛情はなかった」「疎ましく思った」という内容の供述をしているという。これは、殺人の動機とも思われる内容だ。以前から近隣の住民の間では、Hがこどもに対して虐待をしていることが知れ渡っていた。食事をとらせなかったり、男が訪ねてくると家の外に放置したりしていたのが知られている。なかには「母親失格」とまで言い切る住民もいた。
 しかし、Hは自分が殺したこどもの事件での動機について、ほかのこどもが元気にしているのを見て、事故で亡くなった自分のこどものことを思い出し、不憫になり、どうして自分のこどもだけが亡くなり、ほかのこどもが元気でいるのかと思ったら殺意を抱いたと供述している。本当に、わが子が不憫ならば、ほかのこどもが同じようなことになったら、その親の気持ちがわかるはずであり、同じように殺してしまおうとはノーマルな精神状態ならば思わない。さらに、本当は自分のこどもでさえも自分で殺していたとしたら、自分で殺しておいて、ほかのこどもが元気な姿を見て殺意がわいたというのは、まったく物事の考え方に一貫性が見られない。
 根っから、幼児やこどもに対する虐待性が見られたとしても、それを自分のこどもにとどまらず、他人のこどもにも及ぼす行動力とセットになってしまうというのは、精神的な問題というよりも、人格形成上の問題だろう。仕事に就いた時期もあったというが、勤務態度が悪く解雇され、その後は生活保護を受けながら生きていた。夫とは離婚し、こどもを育てながら家事を続けていたHにとって、こどもを育てることは自分が生きるために必要ないことだったのかもしれない。Hのこどもの死亡を事故と判断した警察は、再捜査のなかで、こどもには無数の皮下出血があったことを確認している。殺害のときにできた傷と、それ以前から暴力が日常化していたなかでの傷との両面から捜査が続いている。虐待をするおとなは、自分が虐待をしている実感がほとんどない。Hのようにこどもと自分だけの密着性の強い関係で、ほかのひとが関与する環境にない生活をしていた場合、家庭でどんなことが繰り返されていたのかを知るのはとても難しいだろう。
 わたしは、解離性同一障害(多重人格)がHにはあったのではないかと思った。しかし、多重人格の場合、もうひとりの自分がやったことを知ったとき、感情にゆれが起こり、いまの自分としてのノーマルな判断ができるという。この場合、自分のこどもを殺してしまった自分に気づいたら、取り乱したり、混乱したりするわけだ。まして、動機など説明できるはずがない。だから、多重人格のような精神的な問題ではなく、人格形成上の問題として、33才のHをとらえる必要があると思う。

5476.7/14/2006
 飯塚会計事務所が国税局のターゲットになったとき、面倒なことに巻き込まれたくない、いつも通りのふつうの生活を送りたい理由から、契約を解除した顧客や退職した従業員たちのその後はわからない。
 どうしてそのひとたちは、飯塚会計事務所では不正は行なわれておらず当局のでっちあげ、見せしめ、嫌がらせと思えなかったのだろうか。お上が睨んだ以上、なにか悪いことをしているに決まっていると感じたのかもしれない。またお上にあらがっても勝ち目はないと思ったのかもしれない。
 お上に対する疑いをもてない精神性は、太平洋戦争以前の学校教育と社会制度が生み出した。反官思想は許されず、絶対服従しか認められなかった。そんな日常を生きたひとたちにとっての喜びと楽しみは、生きるうえでさほど困らなかったきのうがきょうも繰り返されることだったのかもしれない。
 しかし、それは保身のためなら正義に目をつぶることを意味する。後ろめたさと引き替えに得るいつもと変わらない日常は、自分を責める気持ちとの闘いの始まりにならないだろうか。年月が流れて飯塚会計事務所は脱税指導をしていなかったことが証明されている。そのことが輪をかけてこの事件を悲劇にしている。
 わたしを含めて多くのひとたちが日常を大事にするのは、変化や見通しのもてないことへの抵抗感があるからだろう。最初から飯塚会計事務所に非がないことがわかっていたら、だれしも正義を信じただろう。しかし、先の見えない不透明感が保身を優先させたのは仕方がない。
 この事件は、国税局という大きな組織が地方のひとのつながりを壊したことを忘れてはいけない。公共の福祉と全体の奉仕を求められる公共機関は、多くの権限や特権をもっている。だから、民間企業や一般のひとたちは、公共機関の胸先八寸でどうにでもなってしまう法律の運用に気を使う。あるひとには違法になり、あるひとには合法になるような、行政指導が脈々と行われてきた歴史的背景を思うとき、昨今の公務員への社会の風当たりの強さは、安定した給料への嫉妬だけが原因ではない気がしてくる。

5475.7/13/2006
 飯塚博士は、別段賞与と旅費日当という違法性のない節税方法を顧客の中小企業に紹介する。それまでの会計事務所がやってなかった巡回監査で、これらの節税方法は広がった。節税ということは、国税局にとっては税金の納付が減ることになる。最初は、違法性を疑うのは自然な発想かもしれない。しかし、当初から、国税局には、飯塚博士のやり方をいつかつぶしてしまおうというねらいがあった。だから、なにがなんでも、脱税などの違法行為を発見しよう、発見できなければ捏造しようという考えが上層部にあったように、小説も映画も描いていた。
 後に、これらは飯塚事件と呼ばれるようになる。
 二度の税務調査によって、飯塚会計事務所は顧客先を大量に失うことになる。時間を惜しんで仕事をしている中小企業にとって、支払い時期の年末に業務を中断しなければならないような税務調査を強行されたら、多くの場合は、面倒のかからないほかの会計事務所に税務事務を任せようと判断しても、責められない。しかし、それは国権による一会計事務所への営業妨害であり、同時に弾圧といえるものでもあった。しかも、飯塚会計事務所の4人の従業員が脱税を指導した容疑で逮捕される。結果的に4人は無罪になるのだが、検察は国税局のシナリオに同調するかたちで4人から違法性のある証言を導くことに躍起になった。
 この事件は、国会でも議論された。日本社会党が党をあげて国税庁と対峙し、飯塚会計事務所の顧客にほかの会計事務所を斡旋する用紙を配布したり、脱税を見逃す代わりに契約を解除するように指導したりした事実が発覚してからは、自民党の渡辺美智雄代議士も追及の先鋒に立った。そのことで、渡辺代議士は自民党から叱責を受けることになるが、当時は渡辺代議士のように所属政党のためだけでなく、個人の信条を優先する代議士がいたのだ。
 事件の顛末や飯塚氏のその後は、小説や映画、関係するネット情報で詳しく伝えられているので、そちらをご覧いただきたい。
 わたしは、「不撓不屈」の映画のなかで、とてもこころに残った場面がある。
 栃木市鹿沼の飯塚会計事務所から4人の逮捕者が出て、顧客の解約が続き、従業員の離職も相次いでいた頃、新聞は飯塚氏の違法性を大きく報じていた。当時、事務員として勤務していた女性が、家族から事務所を辞めるように言われ悩んでいたシーンがあった。同僚の事務員に相談し、説得されるのだが、悩んでいた女性がしみじみという。
「わたしは、ふつうの生活ができればそれでいいの。ひとにとやかく言われたり、いつもと違うことが起こったりする毎日ではなく、ふつうの生活ができれば、それでいいの」
彼女にとって、飯塚氏の考えや国税局の弾圧は、どちらが正しいとか、どちらかに従うというレベルの問題でなく、自分の日常が大きく悲しくつらい方向へ変化していくことへの違和感のほうが大きな問題なのだ。それを無知と読んだり、勇気がないと言い切ったりするのは、無情な話だ。

5474.7/11/2006
 飯塚博士は、ドイツ税法の「1円の不足も、1円の納めすぎもあるべきではない」という基本理念を1960年代の日本で実現しようとした。当時の日本社会はまだ戦前の強い役所主義が残っていた。だから、民間企業、とりわけ中小企業の経営者には「お上に逆らってはいけない」という意識も強く残っていた。
 そんな社会で栃木の地方都市に事務所を構えた市井の税理士が、国税局の矛盾をつき、一切の接待をせず、信念を貫く姿は、当局にとって煙たいものになっていく。たとえ法律に違反していなくても、正義を貫くことの難しさは古今東西変わらない。
 1960(昭和35)年、飯塚博士の関与先である米国資本の船会社の在日総支配人に対して、所得税80万円の更正処分(税額の修正)が下された。 課税処分は税務署長の権限事項なので、飯塚博士が所轄税務署に出頭して理由を尋ねたところ、「国税局に聞いてくれ」という。東京国税局を訪ねると、「国税庁に聞いてくれ」と言われ、国税庁を訪れると「主税局の税制一課に聞いてくれ」とたらい回しにされたすえ、その発令者が主税局税制一課のY課長補佐であることをつきとめた。
 Y課長補佐の更正処分発令の根拠は、日米租税条約3条「短期滞在者の課税要件」の日本文を踏まえて行われたことがわかったので、飯塚税理士は「条約の末尾に『ひとしく正文である日本語及び英語により本書2通を作成した』旨の明文がある以上、その適用は日英両文の意味の合致点において実施すべきであり、Y課長補佐の理論は誤りである」と主張した。約30分間にわたる押し問答の後、税制一課長が課長補佐全員を集合させて小会議を開いて検討した結果、飯塚税理士の主張が妥当であると認められ、Y課長補佐の主張は退けられた。Y課長補佐は、「今回だけはあなたの意見を認めて処分は取り消します」と言ったという。
 理は飯塚博士にあったが、恥をかかされたと感じた課長は、その後も私怨を持ち続け、後に飯塚博士を追い詰める急先鋒になっていく。わたしは、そこにキャリアと呼ばれるエリート官僚の精神的な未熟さを感じる。
 官公庁のたらいまわしは、わたしが仲間と日本型チャータースクール設立のために教育関係機関を訪ねたときも同じだった。はじめに地元の教育委員会に行く。「法律に関することなので、県に行ってくれ」。県の教育委員会に行くと「それは霞ヶ関(当時の文部省)でないとわからない」。文部省に行くと、「永田町(国会)の決めることだから」。そして、ついに衆議院議員会館まで行くことになった。しかし、そのことを後日知った地元の教育委員会の立場あるひとからは「自分たちの頭ごなしのことをするな」と批判された。日本社会は、市民社会としてはとても未熟だと痛感させられた。多くの許認可権限をもつ官公庁のひとたちに求められているのは、責任ある発言と、公共の福祉への敬虔な態度だと思うのに。
 不法・不当な課税処分へは、不服再審査請求をして、再審査を求め、ことごとく申請が認められていた。当時の慣習では、税理士による役人への飲食接待は慣行になっていたが、博士は一切やらなかった。
 1962(昭和37)年10月16日、博士は東京地方裁判所に税務訴訟を起こした。・別段賞与は架空賞与であるとして否認。・日当(期末近くに新たに旅費規定を制定し遡及支給した)が否認されたことを不服とするというものだった。(参考および引用:http://dr.takeshi-iizuka.jp/case/origin-01.html)

5473.7/10/2006
 久しぶりに邦画を観た。最近は韓国映画を含め外国映画を観ることが多かった。映画館に行きたくなって上映情報を調べたら、三本の映画が気になった。MI3やデスノートには興味がない。選んだ三本の映画がたまたま全部邦画だった。海猿も着信ありも観なかったのに。邦画の神が舞い降りたのだろうか。
 渡辺謙主演「明日の記憶」。松平健主演「バルトの楽園」。滝田栄と松坂慶子主演「不撓不屈」。ネットでストーリーを読み、ピックアップした。
 映画館に行った時間にちょうど放映していたのが「不撓不屈」だった。
 2002年に高杉良「不撓不屈」(新潮社)が出版された。今回の映画は、この小説を題材にしている。滝田栄が演じた飯塚毅博士は実在の税理士で、日本の会計事務史上、歴史に残る功績を数多く築かれた方だ。わたしは、この映画を観るまでは、恥ずかしながら博士のことは知らなかった。
 1918(大正7)年に栃木県鹿沼市に生まれた飯塚さんは、16歳のときに植木義雄老師と出逢い、やがて坐禅で心身を鍛え、福島高等商業学校をトップで卒業し、東北帝国大学に進学した。1943(昭和18)年に応召され終戦を九州で迎える。1946(昭和21)年に飯塚毅会計事務所を創業する。欧米の会計書籍を渉猟し研究した結果、企業に赴き会計記録等の適法性、正確性等を検証し指導する「巡回監査」を開発した。法律に準拠し不当な税務処分にはたびたび審査請求を行い当局の見解を覆す。そういった仕事振りが、国の威信を掲げる税務当局の反感を買い、1963(昭和38)年以降、7年にもわたって税務当局との激しい闘いを強いられた。後にいう「飯塚事件」である。
 1966(昭和41)年、「職業会計人の職域防衛と運命打開」を目的に栃木県計算センター(TKC)を創設。さらに1971(昭和46)年、会計人集団TKC全国会結成。1980(昭和55)年の税理士法改正では、その第1条に「独立性」の文言を入れることに尽力した。
 若くして見性を許された禅哲学の実践者であり、その真髄「自利トハ利他ヲイフ」の哲理を実践し、後進会計人など多くの人々を導いた。英・独語に堪能な比較税法研究家であり、日独比較税法の研究『正規の簿記の諸原則』で日本会計研究学会太田賞を受賞。1988(昭和63)年には中央大学から法学博士号を受ける。1990(平成2)年ニューヨーク大学に「飯塚毅-経済会計研究所」を設立。1997(平成9)年、TKC全国会会長職を松沢智博士に託し名誉会長に。2004(平成16)年11月23日自宅にて永眠。租税正義に捧げた86年の生涯をとじた。(参考および引用:http://dr.takeshi-iizuka.jp/profile/profile-01.html)
 映画「不撓不屈」は、その飯塚事件を縦線にして物語が展開した。

5472.7/8/2006
 一学期の終了が近づく。  特学ではテストや提出物をもとに優良可などの評定はつけない。そのかわり学校生活の様子と学習の様子をすべて文章で表記し、いわゆる通知表に添付する。文章は記録として長く残るので、作成にはとても気を使う。チェック機能として作成した文章はまず特学の教員で読み合せをする。その読み合せは内容面の検討に重きを置くので、こどもの伸びやつまずきに関して見解がぶつかると全部書きなおしがありえる。ひとりに対して一時間ぐらい検討するから全員のが終わるまで数日かかる。次に管理職のチェックが入る。こちらは助詞の使い方や誤字脱字がおもに指摘される。わたしは文体として過去形ばかりの文章にリアリティを感じないのでわざとときどき現在形を混ぜる。しかしそういう文学的なこころみを受容する管理職は少なく黄色のポストイットをよく貼られてしまう。
 特学の指導は通常級のように全体に教えるなかみが決まっていて指導の結果、こどもがどれだけ理解したかを評価の尺度にはしない。年令に関係なく、個別に実態を把握し、それぞれのニーズを予測した指導が行われる。年令が同じでもニーズが違えば指導内容は異なる。だから最初の見立てはとても重要になる。見立てを間違えると理解不能の教材を提供したり、逆に既知反復で成長を導けなかったりしてしまう。だから遠慮なく見解の相違をぶつけあう特学教員間の検討は重要なのだ。
 いまわたしが勤務する特学には10人在籍している。こういった検討を日夜続けてきているから10通りの指導内容をそれぞれの教員が把握している。出張や遠足などで担任外のこどもの支援をするときに、ケース会での検討がいきてくる。
 ちょうど来週がケース会の週として確保してあるので、この週末に文章の原案を作成しなければならない。毎日の記録を一週間ごとにまとめた指導記録を各人に対して作成してきた。それを4月から振り返り、一学期の生活と学習の様子、総合所見にわけて文章化していく。日々の課題は、そのつど連絡帳を使って家庭との間で解決していることが多いので、それらは省略し、今後の学校生活につながるなかみをピックアップしていく。もしも、なにも資料がなくて白紙の状態から一学期間を振り返るとしたら、とてもあいまいな記憶を頼りの無謀な評価になってしまうが、そのときどきの記録を残してあるので、そのようなことにはならない。

5471.7/7/2006
 給食はずっといっしょに食べてきた。白米、パン、麺は好き嫌いなく食べられるので助かった。パンを食べないこどもや牛乳を飲めないこどもへの食事支援と違って、エネルギー源は補給してくれるからおかずを残しても午後の時間に空腹ばてになる心配はない。しかしご飯は白米しか食べないから炒飯や散し寿司、チキンライスはご法度だ。栄養士に頼んで白米だけにしてもらっている。困るのはカレーライスだ。カレールーが好みではないらしく、カレーライスのときはひとつの皿に少しのカレーと多くの白米を別々にわけて盛らないと食べるものがない。最初は、そういう事情がわからずずいぶんAを怒らせてしまった。汁物もアルマイト食器が熱いのが許せないのか味噌汁以外は手をつけなかったが成長とともにからだが食物を要求するみたいで具のなかに好物を見つけると、セレクトして食べられるようになった。
 竹の子、こんにゃく、にんじん、もやし、コーン、のりが好きで、魚関係はじょうずな箸使いできれいに食べる。そういうメニューの日は、わたしのおかずもわけてあげた。
 午後の課題学習は、ほとんどを刺繍にした。課題学習は、ひとの手を借りないで自立しながら活動できるレパートリーを増やすねらいがある。だから、ビーズあり、工作ありなのだが、Aには刺繍が向いていた。
 Aはわたしと出会うまで刺繍をしたことはなかった。最初は、直線縫いをひたすら繰り返した。もともと手先が自由に使える力があり、模倣する力も強いこどもだったので、わたしの見本を見ながらどんどん縫い方をマスターしていく。斜め、曲線、複雑なスウェーデン刺繍もポイントを打つと、どんどん針を運んだ。半年ぐらい経ってからは、クロスステッチにも挑戦し、大きなクッションを完成させ、家族を驚かせた。刺繍をやりながら、針に糸を通すこと、最初の縫い方、縫い終わりなど、糸を結ばずに留める刺繍ならではの技術もマスターした。最近では、自分で糸の色を選び、はさみをもってお気に入りのデザインを縫っている。わたしは、それらに裏地をつけたり、ひもをつけたりして、生活に役立つ作品に仕上げた。クッション、タペストリー、ランチョンマット、ペンケース、コースター、ポシェットなど、一ヶ月にひとつのペースで作品を完成させた。
 Aにとっては、おそらく刺繍は絵を描くことと同じ感覚なのだと思う。描画と刺繍をそんなにはっきりと区別しているとは感じない。だから、刺繍のデザインは、スケッチブックに描いているカニやカエルと同じものを好む。成長の可能性を感じるのは、新しい縫い方を次々とマスターし、デザインも同じものばかりではなく、ひとつの作品に使ったら同じデザインは二度と使わないところだ。いつも、作品が仕上がるたびに、なにか新しい価値が加わっていった。先が少し曲がったスウェーデン刺繍用の特別な針を右手にもち、布の縫い目に器用に通し、次々と刺繍糸を交換していく姿は、町の仕立て屋という感じがした。

5470.7/6/2006
 もうすぐわたしはAと別れる。去年から担任しているAとは、1年3ヶ月間の付き合いだ。
 登校してきて、荷物を片付ける朝の支度から、一日が始まる。毎日、顔を見ていると、寝不足で腫れぼったい目をしていたり、登校途中に楽しいことがあったときの鼻歌を感じたり、多様な表情から気持ちの色を感じ取ることができるようになった。その日の色が暖色系のときは陽気に対応し、寒色系のときはていねいな対応をこころがけた。
 朝の運動では洋服から体操服に着替える。いわゆる身辺的自立活動のひとつである衣服の着脱は、完璧なこどもだ。脱いだ服を洋服売り場で売っているようにていねいにたたむ。体操服を着るときも、おとなの手を一切必要としないで、全部自分で着ることができる。これまでに、洋服の表裏や前後を間違えたことは一度もない。周囲でぽんぽんと脱いだ洋服を放り投げるこどもがいると、不満が増大して、そのこどもに向かって怒りをあらわにしていた。
 じつは、特学では衣服の着脱がじゅうぶんなこどもは半数以下だ。時間的に早い子どもでも、前後を間違えているこどもは少なくない。着替えそのものにおとなの手がかからなくても、着替えの途中でほかのことに気持ちが向くのか、自分だけで着替えさせたら45分以上かかってしまい、やっと着ることができたときには、学習が終わってしまうケースもある。そのため、着替えのときにおとなの手がかからないAのおかげで、わたしは担任しているほかのこどもの着衣支援をすることができた。
 午前中の真ん中にある休み時間には、自分の机で本を読んだり、絵を描いたりして過ごすことが多かった。そのとき、自分が興味あることが本や絵のモチーフになることが多い。いまは、カニやたこなどの海の生き物がスケッチブックを飾っている。
 個別学習では1年以上の指導によって、Aの成長をわたしは目の前で体感することができた。はじめは、ペンを持つことを拒んでいたが、マジックからスタートし、サインペン、色鉛筆を経て、いまでは鉛筆で線や絵を描くことができるようになった。鉛筆で字を書くには、五本の指にバランスを考えた力の入れ方が必要で、さらに全体としてやや強めの力を入れないと文字が薄くなってしまう。微妙な力加減の調節が苦手なこどもには、鉛筆はとても使いにくい道具なのだ。そこで、軽い力でも文字や線がはっきり見えるマジックから、導入したのだ。
 線を引くときに重要なことは、始点と終点が見えていることだ。ひとの視線は、右から左、上から下に流れる。最初は左右に点を打ち、その間を線でつながせる。点と点が線でつなげれば、課題を解決したことになる。まず、始点がとれないので、点とは関係ないところから何気なくペンが走り出す。そのたびに、赤ペンを使って、正しい線を引く。その繰り返しを2ヶ月ぐらいした記憶がある。そのうちに、赤ペンをイメージするのか、正しく始点をとれることが増えていった。終点は、多くのこどもがつかみにくい。何気なくペンを紙からあげて、線を終わりにしてしまうのだ。これは、線を引いているというイメージができていないからだ。空間に線を引き、目の前の景色を変更することを理解すると、始点と終点の取り方はじょうずになっていった。

5469.7/5/2006
 わたしたちのチームの試合は8時半からだったので、声を出してもいい条件になっていた。守りやアウトカウントの確認、ひとつひとつのプレーへの叱咤激励など、ゲーム中にコミュニケーションをはかっておくことはプレーが途切れない種類のスポーツではとても重要なことだ。メンバーが互いに黙っているチームは決して強くなれない。個々の技量があれば、弱いわけではないのだが、より強くなることができないのだ。失敗する人がいても「ドンマイ、気にするな。切り替えていこう」と声をかけあうことは、下がってしまうチームのモチベーションを高めるのに役立つ。過ぎたことをくよくよしていても、スポーツの世界ではいいことはない。前向き思考が大事なのだ。
 対戦相手はとなりの中学のPTAチームだった。ジャンケンに勝って先攻をとった。
 するとトップバッターから小刻みなヒットを連続して、結局初回だけで5点も取った。攻撃ではずみがつくと、守りのリズムもよくなる。平凡なゴロやフライを確実にアウトにし、ときどきヒット性のあたりをファインプレーでしのげるようになる。ベースボールスタイルのゲームは、ふたつのチームに公平に攻撃と守備の権利が与えられている。3つのアウトによって攻守が交代するまでは、それぞれの権利を行使できる。当然、攻撃の時間が長いほうが、メンバーのモチベーションは高まる。だから、大きなヒットが続く必要はない。内野安打でも、エラーでもいいから、次々とバッターをバッターボックスに送り出す時間が長ければ長いほど、休憩時間も増え、守備のときの疲労度も少ない。反対に、守っている時間が長いと、攻撃権を獲得しても疲れていてバランスの悪い打ち方になってしまう。すぐにチェンジになって悪循環に陥る。
 初回に5点も取ったので、その裏の守備は好捕の連続で得点を許さず、ふたたび攻撃権を得た。2回の攻撃では、初回に輪をかけてヒットが続き、7点も取った。こうなると相手チームの守りのリズムは大きく崩れ、平凡なゴロもエラーが目立つようになる。エラーの後にヒットが出ると、さらに攻撃のリズムがよくなる。
 結果的に3失点はしたものの、18点も取って、快勝することができた。早朝から、集まってくれた14人のメンバーに感謝するとともに、全員をゲームに出して勝ったということがキャプテンとしては嬉しかった。
 よく、少年野球や中学校の運動部の試合を見ていると、監督やコーチが選手を叱責ばかりしていることがある。そんなに怒って、選手を萎縮させてどうするんだと、見ていて思う。監督やコーチの役割は選手の力を引き出すことにあり、ミスを責めて本来の力が出せない状況を作ることではない。まるで、立場を利用したストレス解消のようだ。

5468.7/3/2006
 2006年度のソフトボール自主リーグ「大船カップ」が始まった。
 毎年、小学校と中学校のPTAチームが自主的に場所を確保して審判を出し、グランド整備やベースの準備をしてリーグ戦を展開している。早いもので、ことしで5年目を迎える。全部で8チームがエントリーしているので、総当たりをすると28試合もしなければならない。早朝から少年野球やサッカーの試合のない場所を確保するのはとても難しい。それでもなんとか毎年予定試合を消化してきている。
 昨年は、優勝候補の2校が互いに星をつぶしあって、わたしが所属する中学チームが棚からぼた餅の優勝をした。今回はディフェンディングチャンピオンの立場だが、毎週日曜の早朝に練習に集まるメンバーの顔には、そんな優越感はない。いつもと同じ地域の仲間の顔があふれる。勝っても負けても、みんなと楽しい酒を飲めればそれでいいというシンプルな発想のひとたちなのだ。
 ことしの開幕日は7月1日だった。地元の公立小学校の校庭が借りられた。8時までは近隣への迷惑を考えて声を出してはいけないことになっている。最初の試合は7時半から始まったが、お通夜のような試合だった。若者が大声を出してバカ騒ぎをするわけではないのだから、多少の騒音は勘弁してほしいと思うのは、やっている者の身勝手な考えだろうか。
 いままで、わたしが所属するチームは、登録メンバーはかなりいるのだが、試合当日に参加できる人が、それぞれの仕事の都合で限られていた。そのため、試合のないチームから毎回メンバーを借りてなんとか試合を成立させていた。自主リーグならではのアバウトさが、チームやゲームに固執しないアットホームな雰囲気を作り出している。だから、ことしもメンバーが集まることは期待していなかったのだが、なんと時間までに次々と知っている顔が集まり、なんと14人もの仲間が集まった。
「ことしは、初戦から単独チームでの試合ができます」
集まった顔を前に思わず言ってしまった。日曜日の7時半に運動ができる準備をして、ふだん仕事をしている人たちが集まるのは、本人や家族の表には見えない支えや苦労がきっとたくさんあるだろう。そのことを考えると、試合に出場しない控え選手を作ることはしたくなかった。守備につく人数には限度があるけれど、打者は何人でもいい規定なので、守備につかずに打者だけをする指名代打をたくさん使う。
「みんなを試合に出すので、すぐにアウトになると、最後の人まで打順がまわらないかもしれません。大きなあたりはいらないので、コツコツと次のバッターにつなぐバッティングをこころがけてください」
試合前のミーティングで確認をする。監督が会議で欠席したから、主将のわたしが監督の役割も兼務しなければならなかった。

5467.6/29/2006
 学校にはこどもの休み時間が二回ある。一回目は2時間目の学習の終わりだ。20分間あるので、こどもたちは「20分休み」と呼んでいる。二回目は、給食を食べ掃除をしたあとの昼休みだ。
 欧米の公立学校は、学習に特化している学校が多いので、日本のように休み時間を設けている学校は少ない。とくにアメリカでは、掃除は業者が行い、学校で体育をするところも少ない。体育は個人の領域として、各家庭で必要だと思うならジムやスイミングなどに通わせるべきという考え方が一般的だ。昼食は食堂に集まり、昼食指導のための職員がこどもを集団的に管理し、クラス担任が学習環境である教室で食事指導まですることはありえない。教師たちは1時間の昼休みが保障されていて、その時間は完全にこどもと離れたオフィスでランチをとり、記録をまとめたり、午後の指導の準備に専念できる。学習指導に特化するということは、こどもどうしの人間関係にまで教師が関与することも少ないことを意味する。日本のように、生活のすべてをクラス担任が面倒を見る体制とは大きく違うのだ。
 そんな日本の学校で、二回ある休み時間は、こどもたちが完全にクラス担任から解放される貴重な時間帯だ。教師の多くは職員室に戻ったり、教室で次の授業の準備をしたりするので、クラスのこどもを完全に把握することはしない。
「先生、○○ちゃんがけがをした」
こどもが職員室にニュースを持参して、初めて教師は事故の現場に足を向ける。
 特学ではこどもの休み時間も教師はこどもの行動を観察している。そこには授業中には見られない発見が潜んでいることがあり、また、こどもだけでは間が持てない事情もある。だから、出勤して退勤するまでに、職員室の自分の机で執務する時間はとても少ない。交流学級の担任と緊密な情報交換をしてほしいという声が保護者のなかにはあるが、物理的に情報交換をする時間があまりないのも事実なのだ。
 6月に入り水泳学習が始まった。特学は、1年生と2年生の水泳学習の時間にいっしょに参加している。それぞれ3時間目と4時間目を使用することになっている。こどもたちには、たとえ雨が降っていなくても、寒かったり、水が冷たかったりしたら、プールに入らないことがあるとは教えてあるが、どのこどもも水泳学習を楽しみにしているので、なかなかそのあたりの事情を受け入れがたいこどもが多い。2時間目が終わって、20分休みになる。
「きょうは、プールあるかな」「やりたいな」「どうなの」。
 いっしょに水泳学習をする学年の動向を見守りながら、特学の教師で判断するので、よほど条件がよいときを除いて、実施の判断はぎりぎりの20分休みにずれ込む。それでも、時間の概念や物事の順序があいまいなこどもでも、3時間目にプールがあることを認識し、高い意欲を言語で示す姿には成長を感じる。残念ながら、使用中止の判断を伝えなければならないこともあるが、ことしの場合はいまのところ、すべて実施の連絡が続いている。休み時間なのに、遊ばずにそわそわと教室のなかを歩き回るこどもは、実施と聞くと、ロッカーから水泳道具を取り出してきて、いまにも着替えそうになる。

5466.6/28/2006
 わたしはいつも6時半ごろ家を出て学校に7時半前に着く。小学校は中学校のように部活の早朝練習がないので、7時半前だと一番か二番ぐらいの出勤になる。いつも先着を競うのは用務員さんだ。わたしがアラームを解除することもあるし、用務員さんがアラームを解除することもある。
 出勤すると、更衣室で、作業着に着替える。職員室で自分の机周りを整理してゴミ箱のゴミを集積場に持っていく。ふたたび職員室に戻り、その日の学校の予定を確認する。8時半から職員の朝礼があるが、その時間にはこどもたちが来ているので、特学(特別指導学級)の職員は交代で朝礼に出て、残りはこどもたちと朝の会を始めている。いまの特学には3人の職員がいるので、朝礼に出るのは3週間に一度になる。毎月、職員会議はあるがそこで決まらない議題も多く、また日々の連絡事項は圧倒的に朝礼で行われることが多い。3週間に一度、朝礼に出ている程度では、学校の話題をほとんど知らないことのほうが多い。学校の予定で注意するのは、こどもたちの交流級の担任が出張でないかということだ。出張のときは、クラスが自習になっている可能性が高いので、交流に出しても意味がない。あらかじめわたしたちに出張があることを知らせてくれるひともいるが、わたしたちが職員室にふたたび顔を出すのが、こどもたちを放課後に保護者に引き渡した後の午後4時過ぎになるので、連絡がないことも少なくない。
 8時前には特学の教室に行く。昇降口の鍵があくのは8時だ。その前に、教室の電気をつける。いまの季節は窓を開け換気をする。日程の黒板に授業の予定と交流授業の予定を書く。下校時刻と給食のメニューもチェックする。そして、トイレの換気扇をつけ、その日の教材を確認する。8時を過ぎるといつこどもが登校してもおかしくない。通常級と違い、こどもたちだけで過ごすことが困難なこどもたちなので、必ずおとなが教室にいる状況を作り続ける。学校まで送ってきた保護者のうち、特別な連絡があるひとが、そのまま特学の教室にも来る。登校したこどもの朝の準備をしながら、そのひとたちの話をメモする。連絡帳のなかみを確認したり、転がっているランドセルを片付けたり、汗をたくさんかいたこどもを着替えさせたりしながら、保護者の話を聞くと、メモをしておかないと、忘れてしまう。
 きょうは8時過ぎに通常級の2年生のこどもが特学にやってきた。まだ特学のこどもはだれも来ていない。
「ここの教室はひろいねぇ」「そうかなぁ」「だって机やいすが少ないもん」。
 戸口に立って教室の中を覗き込み、興味関心のある瞳で観察を続ける。
「どうして、ソファがあるの?」「机にいるのが疲れちゃったひとが、ここでのんびりするんだよ」「えー、いいなぁ」。
「机の大きさが違うのはどうして?」「ここには1年生から5年生までのこどもがいるんだ。だから大きさが違うんだよ」「へー、ずいぶん違うなぁ」。
「ちょっと入ってもいいかなぁ」「どうぞどうぞ」。
 おとなが構える壁の大きさや高さをこどもはしなやかに乗り越えていく。その実感を体験のなかでたくさん学んでほしい。

5465.6/27/2006
 大船駅東海道線下り三番ホーム。向かいには上り二番線ホームがある。八時頃のラッシュ時とは違い、ホームがひとであふれていることはない。まだ七時前だからか。それでも入ってくる電車の座席は埋まり、大船から乗車して座れるひとはいない。ドア越しや窓越しに見える顔には朝から眠気と嫌気が表れている。きのうの疲れを引きずったまま睡眠をむさぼり、朝食をとらずに仕事に向かう。もしかしたら家族はまだ寝ているかもしれない。
 携帯式のオーディオを使うひとは若いひとに多い。さらにいえば男性より女性のほうが多い。一様に男性に覇気がないのとは対照的に女性の多くは化粧をして身なりもおしゃれだ。きのうと同じじゃないかと思うヨレヨレのワイシャツを着た男性がホームの乗車口に並んで立つと違いが際立つ。
 わたしもつい数年前までは携帯式のオーディオやラジオを聴きながら出勤していた。いまのイヤホンはとても精巧にできていて、ひとたび装着すると周囲の音をほぼ完全に遮断する。だからモチベーションの上がらない出勤時に聴覚だけリラックスさせるのには役立った。しかし視覚情報は逃げも隠れもできない現実を受け取るから、視覚と聴覚のギャップが気持ちのバランスを崩すような気がして使うのをやめた。そう考えると携帯式のオーディオを使っているひとは、意識の底に周囲を遮断し自分だけの世界に浸っていたい気持ちが充満しているのかもしれない。
 下り東海道線ホームでそんな人間観察をしていると、いつものひとたちがわたしの後ろに並び始める。どこのだれだか知らないひとたちだがなぜか乗車口はいくつもあるのに決まった場所に並ぶ。降車駅の階段を考えて並ぶひとが多いのだろうが、だとしたらもっと集中する乗車口があるはずだ。同じ駅で降りるスーツを着た男性は、なぜいつも降りたときに混雑しているところに並ぶのだろう。なにかのこだわりがあるのか、理由のない習慣なのかはわからない。
 春は朝から人身事故でダイヤが乱れることが多い。入線してくる電車に飛び込んだらひとたまりもないだろう。向かいのホームに、思い詰めた表情のひとがいないか探してしまう。
 アナウンスが電車の到着を予告する。わたしの一日がもうすぐ始まる。きょうの予定を思い出すと目前から注意が薄れて、つまずいたり、忘れ物をしたりするから、一日のことを考えるのは職場に着いてからにしよう。

5464.6/26/2006
 小学校1年生の男児が近くに住む女に首を絞められて殺された。
 高校生が自宅に放火して母と弟と妹を殺した。
 大学生のグループが対立するグループに暴行を加え殺した。
 よのなかは、サッカーワールドカップで一色のような気がするが、社会面から発信される事件はサッカーに浮かれてばかりいられないことを思い出させる。
 三件の事件にはもちろん共通する具体的事実はない。容疑者や被害者が個人的に相互に関係があるということもない。また、それぞれの事件の動機や背景にあるものも、個々に異なるだろう。だから、三件の事件を無理やり、ひとつの方向に持っていく評論や発言は細かい事実や容疑者の心理を隠してしまう可能性があるので気をつけて見聞きする必要がある。しかし、そういったことを十分に配慮しても、思わず感じてしまうのは、無機質な不気味さだ。
 そして、それぞれの容疑者は、ひとのいのちと人生を奪ったが、これから自分の人生もリセットしてしまったことを痛感するだろう。もう、元に戻る生活はないのだ。それだけの代償を払うべき動機があったのだろうか。たとえ、深く強い動機があったとしても、やってしまったことの罪深さを軽減することはできない。毎日新聞が国会議員にとったアンケートで、ひとびとが喪失してしまったものは何かという質問でもっとも多かったのが「きずな」だった。ひととひととのつながりが失われてしまったのは、急なことではない。徐々に段階を踏んで、いまの状態がある。国家財政を破綻させ、自衛隊の海外派遣を合法化し、憲法や教育基本法をリニューアルしようとしている国会議員でさえも、ひとびとのつながりが以前よりも希薄になってきたことを感じている。それを教育や家庭、地域の責任にするのは筋違いだと思う。時代や社会の移り変わりにもっと敏感な政治が遂行されていたら、救えたひとびとは多かったに違いない。
 自分の過ちを内省しないで、学校のせい、地域のせい、家族のせい、対立するグループのせいのように、外に理由を求め、そこに牙をむくこころのあり方を反社会的人格というそうだ。学校を悪者にしていれば、とりあえずあの家庭は安定するという言い方が教師間の話題として通説になったのは最近のことではない。少なくともバブル崩壊の10年以上前から、わたしの周辺では耳にした。担任が親の言い分を真摯に受け止め、不満要素をすべて解消したら、家庭が崩壊してしまったという事実をこれまでに何度か見聞きしてきた。問題があると信じていた矛先が問題ではなくなったとき、問題の本質が自分にあったことに気づき、こどもや夫婦の関係が崩壊していく。そのときはすでに手遅れで、家族がばらばらになっていくのをだれも止めることはできない。
 小学校1年生を殺した女は、当初、メディアを通じて無実を訴え、多重人格かと思うほどの演技で、自らの悲劇を演出した。そのバイタリティは、問題の矛先が周囲から自分に向けられてくる直感を、自ら破壊し、攻撃的になることで壊れゆく内面を支えていたかのようだ。壊れゆく内面を支えるために放火した高校生の動機も、周囲の期待に応じきれない自らの問題を、期待を寄せる父母への宣戦布告というかたちでバランスをとろうとした。落ちてゆくなれの果ての姿というよりも、重圧を払拭した姿という印象を受けてしまうのは、そのためかもしれない。

5463.6/25/2006
 こども祭りの本番当日。全員が出席した。こどもたちは、いつもと違う日課にもかかわらず、きょうがお祭りだということを理解しているようで、朝の会の後にいつものように体操服に着替えようとするこどもはいなかった。
 よく自閉的な傾向のこどもは、予定変更や急な変化に対応しにくいと専門書に書いてある。しかし、医師や心理士と話をすると、必ずしもそうではなく、いつもと違うことでも、本人が違うことのほうに興味があったり、わくわくする気持ちを持っていたりすれば、十分に対応できると聞く。だから、予定変更への混乱を予想して早めに変更を知らせることも大事だが、そのなかみが大しておもしろくないものならば、どんなに手を打ってもノリが悪い。考えてみれば、これは、だれにでもある傾向で、それだけに事前学習など、予定変更を指導する場面では、本人の興味を喚起するテクニックが重要になってくる。言葉だけではイメージしにくいこどもには視覚的にうったえるものを準備し、行動のパターンが入りにくいこどもには活動の手順をあらかじめ示しておく。いずれも、やってはいけないことや気をつけなければいけないことに重きを置くと、それだけでこどもは嫌気がさしてしまい、ワクワク感を減退させてしまうので配慮が必要だ。
 ボーリング場開店の時間になる。各自、持ち場にわかれ、最初のお客さんを待つ。学校中でお店を出しているので、特学まで足を運ぶこどもがどれだけいるかはわからない。でも、いつも多くのこどもがお客さんとして参加してくれる。はじめは、招待状を渡しておいた交流学級の教師がどんどんやってきてきれた。それぞれのクラスのことも気になるだろうに、足を向けてくれてとてもありがたい。そのうちに、低学年のこどもが数人ずつドアから入ってくる。
 受付のこどもは「20円です」という。「どのお金を出せばいいのかな」「えーっじゃあ全部出して」みたいなハプニングは想定の範囲内だ。受付を過ぎたこどもは、ボール係からボールをもらう。「2回できます」。ボール係のこどもが、やさしくお客さんにボールを渡せるように何度も練習をした。転がったボールはピンを倒す。そこでは計算係とピン係のこどもが仕事をする。計算係は倒れたピンを記録する。二度やるので、その場で瞬時に合計を出さなければならない。ピン係のこどもは一回目は倒れたピンをよけ、二回目は全部のピンを並べる。一回目と二回目で仕事が違うことを学習するのに時間と手間をかけた。ボール係は投げ終わったボールをお客さんに戻す。お客さんは、投げ終わると用紙係から記録用紙をもらい、計算係に倒した本数を記録してもらう。次にスタンプ係に「大変よくできました」のはんこを押してもらう。練習のとき、スタンプ係は何度も自分の手や顔にスタンプを押していた。最後に「どのケムンパスがいいですか」と景品係に聞かれ、ほしい景品を手にして部屋を出て行く。
 だいたい80人ぐらいのお客さんが来たので、こどもたちはこの流れを80回は繰り返した。いつもの学習では単一課題の持続時間を15分ぐらいに設定しているので、これだけ長い時間全員のこどもが同じことを繰り返し持続するのは、すごいことだ。それだけ、お店屋さんという活動はこどもにとって楽しいことなのだろう。

5462.6/24/2006
 23日はこども祭りがあった。小学校のこども祭りは中学校の文化祭のようなものだが、規模はずっと小さい。飲食物の提供はない。クラス単位でお店を作り、前半と後半で店員と客を交代するやり方だ。全体のコントロールがないので、どんなお店にするかは各クラスの自主性に任されている。そのため、なぜかお化け屋敷が多くなる。そんなにこどもって暗がりが好きなのかと疑問に思うが、ひとを驚かしたいという気持ちが強いのかもしれない。
 特学ではボーリング場を開店した。例年開店しているのだが、多くのこどもは去年のことを覚えていないので、事前学習に時間をかけて動機付けをはかっていく。そのときだけ、ボーリングをしても、こどもは係りの仕事を自立的にすることができず、おとなの介助と支援ばかりになってしまうからだ。ほかのクラスでもボーリングをやっているところはある。しかし、特学のボーリングは木製の本物のピン(教材として用意してあるもの)を使うので、例年お客さんが多い。景品もおとなの手を入れた手作りのものを用意するので人気が高い。ことしも二度三度と来店するこどもたちがいた。
 事前段階では、去年のビデオや写真を見せるところから始める。漫然と見せるのではなく、なにをやっているのか、だれがどんな仕事をしているのかを確認しながら見せる。特学のこどもたちの将来を考えるとき、社会的集団のなかで、自分の役割を理解し、その仕事を担当できるようにする力はとても重要で必要なことだ。こども祭りのボーリングは、そのための学習として位置づけられる。ボーリング場をオープンすることはわかっても、自分がお客さんをするイメージが先行し、ボーリングをしないで店員に徹することを受け入れるのに時間がかかるこどもは少なくない。だから事前学習でも実際にお客さんをする経験もたくさん積む。そのときは少ない支援者が店員役をすべて担当するので、こちらは汗まみれになった。係りを決める。受付2人。記録用紙1人。計算1人。スタンプ1人。景品1人。ピン2人。ボール2人。こどもの特徴や性格にあわせて係りを配分したいが、原則的には希望を聞きながら係りを決めた。景品は去年に続いて、フェルトを使った「ケムンパス」だった。フェルトを小さく切り、10個単位で糸を通し、白いフェルトを穴あけパンチで穴を開けた小さな丸い目玉をボンドでつけて出来上がり。それを100個以上、図工の時間を数回使って作成した。ひとりの集中時間が15分が限度と考えるのが妥当なので、長時間の集中が必要な景品作りは、かなり以前からとりかかってきた。
 リハーサルでは、事務、栄養士、管理職など、授業時間帯に動きのとれるひとたちにお願いして、お客さんをしてもらった。
 前日には、こどもが帰った後に部屋のディスプレイを教師で仕上げて、本番当日を迎えた。

5461.6/21/2006
 道徳と倫理は文学や学問の世界では区別される。
 道徳はその時代にその社会が暗黙に共有する価値観だ。だから時代や社会が変わると道徳のなかみも変化する。倫理はひとが生きていくうえで正しいと認識する価値観だ。だから時代や社会に関係なく共通する価値観が多い。しかし、道徳よりもバラエティーが多く、価値観を比較することはできない。
 学校で道徳が指導されるようになってから道徳と倫理があやふやになった。俗に言うひととしていかに生きるかというのは、本来は倫理の問題だが道徳の問題として扱う教師や親はとても多い。こどもがだれかを傷つけたとき、相手の身になって考えようと指導したりしつけたりするのは、倫理を押しつけていることにほかならない。倫理は個人の内面で形成されていく要素が大きいから押しつけられるとかえって反発を招き逆倫理を形成してしまいがちだ。そもそも相手の身になって考えられるこどもは、ひとを傷つけないのだ。それを言葉で教えれば考え方を変えるだろうと判断するのは無理がある。ひとは言葉でものの考え方を変えない。これはこどももおとなも同じだ。ひとがものの考え方を変えるのは、自分に問題がふりかかったとき、自分が不利益になりそうなとき、大きな衝撃を受ける出来事があったときなど、かなり限られた状況において、それまでの自分と違う自分を見つけ出そうとするのだ。だから、まだ内面が未分化なこどものときに、ものの考え方を変えることを期待してはいけない。
 こどもは、経験によってものの考え方や見方を培っていく。ひとに教えられて身につけていくのではない。この場合の経験は、家族以外のひととのかかわりのなかで起こる関係事象すべてがあてはまる。協力する経験、対立する経験、助け合う経験、傷つけ合う経験などが含まれる。それぞれの経験を通して、自分の存在に気づき、自分とはどんなひとかを考え築いていく。その速度には個人差がある。柔軟に対応していくこどももいれば、とても時間がかかるこどももいる。その速度差は遺伝ではなく、生育環境要因が大きく影響するとわたしは考えている。
 かつては、学校で教師に怒られたことを家庭で言うと、「そんな怒られるようなことをして」と家庭でもまた怒られた。そこには、学校でも家庭でも共通する道徳的価値観が存在していた。いまは、圧倒的に「わかった。ひどい先生だね。文句を言ってあげるからね」と家庭は応援団になってくれる。明らかに学校と家庭の道徳的価値観が異なってきているのだ。同じ時代、同じ社会であるにもかかわらず、道徳的価値観が食い違うということは、社会を構成する共同体の範囲が狭くなっていることを象徴する。それぞれの小さな共同体が社会的価値を形成し、互いに重なるところが少なくなり、島宇宙化してしまった。だから、そこそこぶつからないようにうまくつきあっていくことが重要になった。そんななかで、相手のことを考えることはどんどん困難になってきている。異なる道徳的価値観をもつひとを理解するのは、異文化交流みたいなもので、根本的にはつながりあうことは難しいのだ。

5460.6/19/2006
 入札制度は随意契約よりも透明性が高く、一般的には契約社会において望ましい受注制度といわれている。
 しかし、入札する会社が事前に相談し、入札額を調整する談合が社会問題化している。とくに公共機関が入札を行う場合は、もっとも安い金額を提示した会社に決めなければならないというルールがあることはあまり知られていない。公金が使われる以上、少しでも歳出の削減を願うのはわかるが、とかく安かろう悪かろうに陥りがちになる。
 最近、話題のエレベーターの受注も、多くは公共機関が契約しているのは、背景にもっとも値段の安い金額が提示されたからという理由があるかもしれない。メンテナンス会社にエレベーターの取り扱い説明書を渡さずに、メンテナンスを依頼するやり方ひとつをとっても、利用者の安全が担保されていないのがわかる。
 わたしの知っている市町村では、今春から学校のギョウチュウ卵検査の会社が昨年までと違う会社に変わった。会社が変わることそのものは、おかしいことではない。いままでの会社よりも提示した金額が安かったからだろう。しかし、そのことによって、学校現場は名簿の扱いや検査日の確認など、いままでと違った仕事のルーズさに混乱しているという。入札は三月に行われる。新年度の健康診断は四月から始まるので、多くの場合は二月中から新年度の健康診断の日程を計画する。学校行事とのかねあい、学校医との調整などには時間がかかるからだ。それなのに、三月に業者が決まっていては、すべての健康診断の日程がおおよそ決まった合間にギョウチュウ卵検査の日程を組みこまなければならなくなるのだ。年度当初の学校は健康診断ばかりをやっているわけではないから、遠足や家庭訪問など学校行事も動き始めている。それらのノウハウは新規参入の会社にはなかなかつかみにくい事情だろう。だからこそ、緊密な連携が学校と業者との間には必要になってくるのに、実際には対応が悪かったり、動きが遅かったりしているのだ。
 同様に、修学旅行業者や教材の扱い業者も、学校が選定することができなくなってきた。地元産業の育成の名の下に、実績のある近隣の教材業者に注文を出せなくなってしまった。教材は、それを扱う会社の規模よりも、学校にひんぱんに顔を出す営業のひとの能力が大きく左右する。こどもの人数は転居や転入でたえず変動する。発注数を変更することはたびたび行われる。それらの対応は、実績を積み上げた会社ほど柔軟なのだ。また、修学旅行のようにこどもの安全を最優先する行事では、現地と学校の橋渡しをする旅行業者の力はとても大きい。食物アレルギーのあるこどもの情報を現地の旅館に入れ、メニューの工夫をお願いすることをとっても、ノウハウのない旅行業者や、一般の旅行業で大きく利益をあげている業者などは、ていねいな動きをしてくれないことが多い。生命にかかわる食物アレルギーのあるこどもの献立を相談しているのに、メニューや素材を知らないと答える旅館がいて、それをそのまま放置し、学校側に伝えるだけの旅行業者では、業者の必要性がなくなってくる。
 入札によって経費削減に成功しても、その結果としてこどもたちの教育活動の質が落ち、学校の仕事が煩雑になるだけでは、削減した経費とともに、教育的価値もマイナスになってしまうだろう。

5459.6/17/2006
 わたしは4時半に目覚ましをかけている。寝るのが早いのでたいがいは目覚ましを使わなくても起きる。自分のも含め、家族の朝食を作り出勤する日課を繰り返している。早朝のテレビはケーブルテレビチャンネルのディスカバリーチャンネルを見ていることが多い。ドキュメンタリー専門チャンネルなので、雑学を仕入れるのにはちょうどいい。でも、今月はNHK衛星放送をつけるとサッカーのワールドカップがライブでやっているので、そちらを見ていることが多くなった。だいたい4時ごろから始まり6時には試合が終わるので、ちょうど一試合分を観戦できる。もともとあまりサッカーには興味がなかったので、一試合を全部観戦することはほとんどなかった。だから、90分もピッチ上で動き回る選手たちの持久力と集中力にいまさらだけど驚いている。
 とてもサッカーが好きな知人がいる。先日、話しをする機会があり、ワールドカップの見所について教えてもらった。その知人は自家用車でJリーグの試合を遠くまで観戦しに行くほどサッカーが好きだ。お子さんもサッカーを続けていて、いずれ選手を目指すのかと思ったら、いまは指導者を目指しているという。
 残念ながらオーストラリアとの試合に負けた日本について、残りの相手を考えると決勝進出は難しいのではないかと質問した。すると、いままでも日本チームはがけっぷちで立ち直る試合をほかの大会でもしてきているそうだ。監督のジーコは選手の自主性を尊重し、自分でゲームをコントロールしたり、選手の動きを指示したりはあまりしないらしい。だから、ピッチ上の選手に考えさせる経験を積ませ、臨機応変なプレーを尊重している。なのに、試合に負けるとメディアは監督の采配を非難する。評論家のなかにも監督の無策として言いたい放題のひともいる。ジーコのやり方を知っているはずなのに、いい気なものだ。
 バックスの人数が正解の主流では4人なのに、日本チームは3人のフォーメーションを組んできた。バックスを4人にして両サイドの選手は自陣から敵陣までを動き回り、どんどん攻撃参加をする。そのときバックスの人数は少なくなるから、攻撃から守備に反転したときは、すぐに自陣に戻ることがバックスの両サイドの選手には要求される。それに応じるには体力が必要になる。ジーコは日本人の体格や持久力を考え、4人のバックスよりも3人のバックスで攻撃参加はしないけど、守備を安定させるフォーメーションを選択していると知人は教えてくれた。しかし、今度のクロアチアとの試合では4人のバックスに挑戦するらしい。攻撃の厚みを増して、果敢に勝ちに行くサッカーを選択したのだ。それは手薄になる守備というリスクを抱えることにもなる。しかし、勝ち点を3点以上あげなければ決勝進出が難しい条件では、その選択しか残っていないのだろう。
 攻撃が最後にシュートまでもっていくチーム、シュートがきちっとゴールの枠のなかにおさまるチームは、素人のわたしの目からも強いことがわかる。また、ひとりの選手がボールをもっている時間が短く次々とボール回しができるチームも強い。それを知人に話したら、優秀な選手は、いつも視界が広く、ボールのないところで相手選手を翻弄する動きをし続けているそうだ。そういう選手が多いチームは、当然強いと教えてくれた。

5458.6/14/2006
 神奈川県の公立高校の入学制度は、ここ数年でころころ変わっている。去年から、学区がなくなり、全県一区になり、試験も二月上旬に前期試験、下旬に後期試験に一本化された。全県一区といっても、通学に何時間もかけるこどもはいない。近隣の高校から受験先を選ぶので、大きな意味で学区があった時期との大差はない。それよりも、面接や小論文を中心とした前期試験が大きな問題になっている。
 前期試験は、以前は推薦制度があったときの試験に似ている。内申書と面接、小論文が合否の基準になるので、いわゆる試験勉強はあまり必要がない。一見、中学校生活を滞りなく送り、平均以上に学習を理解しているこどもが、入学試験のときだけ実力を発揮できない場合を想定した救済試験のように感じる。しかし、じつは、それぞれの高校が特色を出すための青田刈り試験の意味合いが強い。スポーツに力を入れる学校、情報教育に力を入れる学校、プレゼンテーション能力を高める学校、外国語教育を前面に出す学校などが、入学者を選抜する段階で試験免除の優先枠を用意しているのだ。また、内申書をもとに、日常生活上、問題のないと思われるこどもを確保する意味もある。校内暴力、いじめ、怠慢、不良行為、違法行為などの前歴のあるこどもの入学を阻む装置として、前期試験は機能している。それだけ、内申書の内容に関する信頼度は高い。高校側からは信頼度の高い内申書だが、作成する中学校側からはこども本人の内面に迫る部分を反映していないケースが少なくない。高校に入学するための行動と、自主的な行動との境界を見極めることは難しく、高校に入学してから化けの皮がはがれて初めてすべてがわかるのだ。
 定数のうち、前期試験の合格者はとても少ない。ほとんどのこどもが不合格になるのに、卒業生のほぼすべてが前期試験を受験する。もしかしたら受かるかもしれないという可能性にかけるのか、試験の練習でもするつもりなのか。神奈川県教育委員会は、前期試験も後期試験も別々に受験料を徴収する。受かる可能性の少ない試験のために受験料を払う保護者のことなどなにも考えていない。受験料収入をあげる装置として、前期試験を使っているのかもしれない。
 2007年度から、いよいよ中学校卒業生よりも高校の入学定数のほうが多い、倍率1倍未満の時代が始まる。高校は生き残りをかけて、生活面で従順な学習面で理解力のあるこどもを入学させようと躍起になるだろう。前期試験合格者の比率はどんどん上昇すると予測できる。つまり、前期試験に落ちたこどもは、高校が必要としていない人材というレッテルを貼られることになるのだ。
 社会全体が規制緩和というキーワードで、成果主義や競争主義を肯定し、敗者の生き方を否定する環境を拡大しつつある。成果主義や競争主義の名の下に、仕事を追われたり、追い詰められた環境での仕事を与えられたりしているひとたちがこころの悲鳴をあげながら、自らのいのちを絶っていく件数が増加しているような気がする。通勤で使うJRが、月曜日になると人身事故でダイヤが混乱するのが日常化してきた。

5457.6/13/2006
 こどもの内面や生活態度、考え方や行動様式を内申書というかたちで数値化し、高校入学の資料として大きなウエイトを占めさせる神奈川方式は、中学校現場で大きな矛盾とこどもたちの内面や関係性にゆがみを生じさせている。
 運動部では、県大会に出場するだけで、ポイントがあがる。だから、保護者はクラブの顧問にチームを強くするために休日や早朝などの練習を要求する。保護者はチームが強くなることではなく、その結果としてわが子の内申書のポイントが上がることをねらっている。中学生や高校生のからだは、発育途上にあり、過度の練習や試合は逆に関節や筋肉を傷つけてしまうことなどおかまいなしだ。たくさん練習をして、こどもを鍛え上げ、県大会に出場するチームを養成する教員のポイントがあがる。教科指導は二の次でも、かまわない。中等教育とはそんなものなのか。
 また高校は実際に試合に出場しているか、参加メンバーに登録されているかでポイントに変化を求める。運動部に所属していても、試合に出場できなかったり、人数が限定されている登録メンバーに入っていないと、ポイントが低いか、ポイントすら与えられない。高校は、そんな部分に変化をつけて、どんな人材を求めているのか。運動のセンスがあっても、協調性に欠けたり、練習をあまりしないこどもでも、試合に出場して結果を残せばポイントが高いのだ。黙々と練習を続け、チームの一員として影の立役者に徹するこどもの評価が低いのでは、多くのこどもたちが運動を嫌いになるか、部活動をやめてしまうだろう。
 生徒会活動や委員会活動でも、所属しているだけでポイントが高かったり、部長になるだけでさらにポイントが上乗せされたりする。そこには、すべては高校入学のためのポイント稼ぎの構造が存在する。仕事などほとんどしなくても、肩書きが必要で、そのことに躍起になるこどもの姿は、いまのおとなの社会構造に共通するものを感じてしまう。能力も人間的な魅力もない人間が上司になっていくヒエラルキーは、発展性のない組織を作り、やがては自己崩壊へと向かう。
 こどもたち自身が、それぞれがどんな行動をして、どんな肩書きをもっているかという情報を知っていて、それだけでポイント換算し「あいつの行ける高校はない」とか「あそこだ」という競馬予想より確実な進路予想を立てている。
 中学三年生が、受験を前にして、試験勉強に励む時期に、もっともボランティア活動に参加する割合が高いのも同じだ。ボランティア活動への参加がポイントになるからだ。そんなボランティア活動に意味はない。しかも、そのボランティア活動そのものを学校が計画し、こどもたちにお膳立てしているところもあるという。まさに茶番である。
 高校は単純に入学の門戸を開き、入学後の学習の結果で単位を判断し、場合によっては落第や卒業延期という基準を明確にすればいいのに、入学前の段階で一定の基準をクリアしたものだけを集めようとする。

5456.6/12/2006
 わたしはいま10人いる特学のこどものなかで、3人のこどもを担任している。それぞれ学年の違うこどもたちだが、共通する特徴をもっている。
 きょうの4時間目は、その3人のこどもが机を並べて、その中心にわたしが座り、個人に応じた学習を指導した。共通する特徴とは、いわゆる自閉的な傾向である。
 専門書を読んだり、専門家の意見を聞いたり、こどもとの日常を過ごしたり、保護者の方と話したりすればするほど、だれが命名したのかわからないが「自閉」という呼び方は、不適切だと感じるようになった。その言葉から連想される状態が、誤解を導きかねない気がするからだ。自分のこころを閉ざしている、自分の気持ちを表に出さないなど、自閉という呼び方から連想される状態は、およそそういったこどもたちの現実から程遠い。
 もしも、自分のこころを閉ざしているのだとしたら、3人のこどもを前にして、わたしは学習指導などできるわけがない。閉ざしたこころを開かせるなんて、ひとりを相手にしても大変なのに、3人も同時に行うなんて無謀すぎる。国際保健機構の診断基準には、「自閉的」とか「こころを閉ざしている」という表現は見当たらない。
 これまで、3人を指導してきて、それぞれに程度の差はあるにしても、周囲の情報を受信する段階で混乱が発生しているのではないかと、わたしは感じる。事実、成人して小学生の頃を振り返った自閉的傾向の強かったひとによると「当時のわたしには、よのなかすべての音が騒音に聞こえ、不快極まりなかった」そうだ。多くの場合、鼓膜を通じて周囲の情報は音として脳に伝わる。もしも、聴こえているすべての音情報を正しくキャッチして、どれも重要度レベルが同じだったら、脳はキャッチすべきものが多すぎて情報整理がつかないままになる。結果として、顔から表情がなくなったり、立ち止まって動かなくなったりしてしまう。そんな状態を見て、こころを閉ざしているとか、気持ちを表さないなどと決めつけてしまうと、そういったこどもへの適切な支援が見えてこない。
 たくさんの情報のなかから、自分に関係する情報を選び、指示された内容を学習というかたちで再現していくのは、、あらためて大変の能力をつかうものだと思う。

5455.6/10/2006
 今年度の個別指導計画の作成をはじめた。
 個別指導計画は年間を通じて、個人個人の学習と生活の基本的な指導計画になるのでとても重要なものだ。通常級の担任をしていたときは、学級経営案という学級全体の計画を作ったことはあったが、クラスのこどもひとりひとりの指導計画を作ったことはなかった。特学や養護学校では、昨年から法律で義務化された。昨年は見よう見まねで指導計画を作ったが、さすがに二年目になり作りかたがわかってきたので、今回は担任している三人分の指導計画を三時間ぐらいで作ることができた。
 年間を通じた計画なので、本来は年度当初に作成しなければいけないものかと思っていたが、学習や生活態度を観察して計画を作成するので、二ヶ月ぐらいの下書き期間が必要になる。この計画を特学の三人の教員で、ひとりひとりこれから検討を始める。一日で検討は終わらない。十人のこども全員の検討が終わり、個別指導計画案が個別指導計画として動き出す。それから、保護者に指導計画を示し、共通理解を求める。
 わたしが担任しているこどもは三人だが、特学には十人のこどもがいるので、ほかのこどもの指導計画も知っておく必要がある。なぜなら、特学では担任がそれぞれのこどもを全部指導するのではなく、協力指導体制によって教科によって担当を決めているからだ。そのため、自分が担任していないこどもを指導することは珍しくない。そのときに、そのこどもの指導計画を知らないと、学習内容や指導上の留意点などがわからない。
 日常生活の指導でも、できることとできないことの違いを知っておかないと、やろうと思っているのに時間がかかったり、そもそも能力的に困難でつまづいていたりすることを、無理にせかしてやらせようとしてしまう危険性がある。年齢に関係ない、それぞれの特徴や特性に応じた学習と生活の指導をするには、共通理解がはかられた指導計画の存在が必要なのだ。
 学校公開のときに、ふらっと立ち寄ったひとには、わがままで落ち着きのない行動に見えることも、指導計画を知っている教職員からは、感情の表出をコントロールしているトレーニング中だと認識され、ストレスが高まるような対応はされない。反対に指導計画を共通理解しておかないと、ひとりのこどもに特学の教職員がそれぞれの考えで、異なる指導をしてしまう。これは、こどもにとってはなにを信じていいのかわからなくなり、混乱の種になる。
 個別指導計画は、秋になったら、前期の評価を行う。ふたたび全員のケース会を開き、検討するのだ。そして、計画の見直し点や応用・発展すべき点の追加などをして後期の計画に生まれかわる。

5454.6/9/2006
 先日、特学担任の研修で県立の養護学校に行った。
 午前中は、小学部のクラスの指導補助をした。その養護学校は肢体不自由児のための養護学校としてスタートした経緯があり、在籍児童生徒の半分以上は自力歩行が困難なケースで、そのため車椅子や歩行補助具がたくさん用意されていた。高等部まで含めて170人ぐらいの在籍者に対して140人ぐらいの教職員と、50人ぐらいの介助員が指導に従事している。完全にこども1人に1人以上のおとなが学習から生活全般までの指導や介助を担当していた。障害は単一で現れることは少なく、肢体不自由児のこどもの多くは、言語の遅れや知的障害など複数の障害をもっていた。
 わたしが入った学年には8人ぐらいの在籍者がいたが、わたしが行った日は欠席者がいて5人のこどもがいた。わたしは、邪魔にならないように教員や介助員の仕事を援助する動きをした。車椅子から畳に降りるとき、逆に畳から車椅子に乗るとき、こどもを抱きかかえた。絵の具を使った感覚遊びで、車椅子のテーブルに新聞紙をセロテープどめをした。新聞紙が気に入らないらしく、すぐに破ってしまうこどもがいて、それを補う。通常級なら叱られてしまう行動も「すごいね、セロテープで貼ってあるものを破る力のかけ方ができるんだ」と教員たちにほめられていた。
 こどもたちは、自力歩行が難しく、膝から下には補助具を装着している。腕や指も自由に動かすことは難しく、麻痺のある動きをする。鼻に細い透明のチューブを挿入しているこどももいる。痙攣があり、すぐに意識レベルが低下してしまうこどももいる。毎日が真剣勝負のこどもたちなのだ。
 横浜美術館で販売しているという、丈夫な透明の大きなビニール袋に40度のお湯を入れ、お湯が漏れないように口をしめた袋が三個用意してあった。それを並べて、その上にひとりずつ寝る。感覚遊びのひとつとして実施されていた。いわゆるウオーターベッドなのだが、ひとりずつ、足の補助具をはずし、車椅子から抱きかかえておろし、袋にそっと乗せて、体をゆらゆら動かしてあげる。どのこどもも、にこやかに笑い、気持ちよさそうにする。うつ伏せや仰向けを経験し、次のこどもと交替する。今度は抱きかかえ、車椅子に乗せ、補助具をつける。経験したこどもはとても楽しかったのだろう、ほかのこどもがやっているのを黙って見てられずに、ゆさゆさからだを動かしたり、声をあげたりして、もっとやりたいという欲求を示していた。
「袋の上にシーツをかぶせたら、もっと気持ちがいいかも」
本格的なベッドにしたらどうかなと思ってリクエストした。「それ、いいね」「探してみよう」。すぐに袋の上にシーツがかけられ、二回目の体験が始まる。今度は、どのこどももすぐに目をつぶっておやすみモードになっていた。
「これいいね。疲れたあとに、用意しておこう」
 広い部屋の片隅に、ウオーターベッドが用意されていると思うだけで、こどもたちは安心するだろうと思った。

5453.6/8/2006
 きょう8日は、5年生が近くの水田に田植えをした。特学の5年生3人を引率してわたしも参加した。先週の宿泊行事から一週間しか経っていないので、5年生のこどもたちも、まだわたしのことを覚えているこどもも多かった。行事が立て込むと、日常の生活リズムが崩れるので、特学ではできれば避けたいことなのだが、通常級の行事に参加できる場面で活動に乗っていくことは、同じ小学校の仲間としての意識をこどもたちが維持するためには必要だと思っている。同じ5年生だけど、それぞれの学びのスタイルにあった学習環境で学習しているんだという意識が育てば、異質平等の感覚がからだにしみていく。
 近くの水田といっても、片道30分以上はかかる。近隣の小学校や中学校とともに行う田植えだった。藤沢市が農家にお願いして使わせてもらっている水田のようだ。お願いしてといっても、とても広い水田だった。
 到着したら、農家の方が最初に到着した学校から田植えの説明をしていた。学校ごとに行うので、あぜ道で待つ時間がとても長かった。特学のこどもにとって、なにをしたらいいかわからない時間が長いというのは、とても苦痛なことだ。やがて間が持たなくなり、それぞれの興味や好奇心に基づいた行動へと分化していってしまう。一度分化すると軌道に戻すことはとても難しいので、その雰囲気を感じたわたしは、三人を連れて一足先にまだ田植えをしていない水田に足をつけさせてもらった。
 泥の感触が足の裏に伝わり、こどもたちは気持ちがいいのか、なにも指示はしていないのに、自分から手も泥のなかにずぶずぶと入れ始める。大地を相手の感覚遊びを楽しむ。弟が三年で特学に在席し姉が五年のママが手伝いに来ていて三人のうちのひとりを任せる。
「田植えってなに?」
「お米の苗を植えるんだよ」
「じゃぁきょうご飯が食べられるの?」
米からご飯を連想したことはすごいことだが、稲の成長を見落としているのは植物の成長を成し遂げた経験が少ないことの現れかもしれない。
 やっていることがわかるみたいで決められたところにたくさん苗をさすことができるこども。泥遊びに夢中で苗を渡しても消極的なこども。やがてこどもたちは、泥んこレスリング状態になって、その格好で抱きついてくるものだから、わたしも泥まみれになった。これ以上やったら目や耳にまで泥が入りそうだったからほかのこどもたちが田植えをしている途中で手足を洗いに行く。流しはなく、水田横の用水路で手足を洗う。草むらに連れていき全部脱がせて着替える。用水路では十分に洗えなかった。着替えても、すぐ汚れたけど泥まみれの服で歩いて帰るのは無理だった。
 学年よりも一足先に教頭と三人を連れて学校に戻る。汚れた服を洗濯機ですすぎ、ひとりずつ全身をシャワーで洗った。ちょうど先週のきょうの夜にした八ヶ岳での入浴介助に続き、二週続けて入浴介助をしたようなものだ。

5452.6/7/2006
 八ヶ岳までの交通手段は、観光バスだった。片道4時間ぐらいかかる。こどもの頃のわたしは、乗り物に弱かった。とくにバスは、排気ガスの臭いをかいだだけで、胃がむかむかした。いまはまったくそんなことはなくなったが、いまも乗り物に乗るとすぐに寝ようとするのは、当時の癖が残っているからかもしれない。
 特学から参加したこどものなかに、乗り物酔いがひどいこどもがいた。しかし、わたしは去年もそのこどもと乗り物に乗る行事に参加したが、大崩れになることはなかったので、実際には酔ってしまってどうしようもないという場面にはまだ遭遇していなかった。今回の宿泊行事では長野県まで片道4時間もバスに乗るので、さすがに大崩れを覚悟していた。
 家庭と連絡をとりながら、酔い止めの準備と当日の朝食を控えめにすることなどの対策を考えた。万が一、なみだ目になって危険が迫ったら、水なしで即効性のある薬も用意した。バスが出発してからは、たくさん用意してあったエチケット袋の封を切り、いつでも使えるようにしておいた。靴を脱がせ、ナップザックをフットレストにして、ややリクライニングにする。これでばっちりと本人の顔をのぞく。
「青いダンプ。黄色いダンプ」
反対車線をすれ違うダンプに夢中で、酔う気配は微塵もなかった。
 それでも油断大敵。天災は忘れた頃にやってくる。いつ、なにがあっても大丈夫なように、タオルやティッシュをすぐ手の届くところに配置する。40分から50分おきに、水筒のお茶を一口ずつ飲ませる。東名高速道路の足柄パーキングエリアと中央自動車道の釈迦堂パーキングエリアで休憩をとる。外の空気をたっぷり吸わせて、座席に戻るのは出発ぎりぎりにした。
 やがて窓外の景色が緑あふれる野辺山の風景に変わる。藤沢を出発して4時間が過ぎたが、本人はとっても元気で、
「お弁当、食べる」
と空腹を主張していた。

5451.6/5/2006
 八ヶ岳には雪が残り、体験教室から最高峰の赤岳を見上げることができる。大学時代にワンダーフォーゲル部で全国を駆け回っていたわたしは、なかでも八ヶ岳はとても好きな山だった。何度となく赤岳にのぼったことを思い出す。夜になったら、ふとんのなかで、当時の夢にひたれるかもなんて、甘い気持ちを現実が吹き飛ばす。
 体験教室には宿泊棟がたくさんあり、それぞれのクラスごとに宿泊できるようになっている。わたしが利用したときは、ふたつの学校の5年生が体験教室を利用していた。両方あわせて7クラスになったが、それでも宿泊棟はあまっていた。バブル経済がはなやかなりし頃に、藤沢市が大量の資金を投入したのだろう。特学のこどもたちだけで、ひとつの宿泊棟を利用するのはもったいないので、ひとつのクラスが使っている宿泊棟の空いている部屋を使うことにした。
 通常級のこどもたちは、宿泊や食事などの生活全般を班単位で行う。それぞれの班に特学のこどもたちを入れることも可能だった。しかし、3人のこどもが3つのクラスでそれぞれの行動をすると、2人しか引率の教員がついていけない以上、だれかひとりが常に目の届かない状況になる。安全面を考えた場合、支援の事実が必要なこどもを数分でも数十分でも計画段階からひとりにさせることは考えられないことだった。
 バスでの往復や、キャンプファイヤーなど、プログラムに応じて、通常級のこどもたちといっしょに過ごす時間を確保し、個別支援が強く求められる入浴や就寝などは、特学単位での支援にすることにした。
 キャンプファイヤーとナイトウォークを終えたこどもちたちは、それぞれ宿泊棟に戻り、ベッドメーキングをして洗面や歯磨きなどの寝る前の準備をする。そこまでは担任や付き添いの教員たちが宿泊棟にいて、クラスのこどもたちを個別に指導していた。就寝時間は10時。それを過ぎて、担任や付き添いの教員は、管理棟に移動し、本部で反省と翌日の検討をした。わたしは、宿泊棟に残り、特学のこどもたちの就寝介助を続ける。親と離れてひとりで寝ることが初めてのこどもや、ふだんの布団や枕と違うことで緊張して寝付けないこどもがいるので、パニックや不安が増大しないように配慮しながら、睡眠を誘導する。ひとりのこどもは、とても昼間の活動でエネルギーを使ったのか、9時前には深い眠りにつく。ほかのふたりのこどもは10時を過ぎてもなかなか寝付けなかった。
 担任や付き添いの教員がいなくなったことに気づいたこどもたちが、ドアの向こうで、部屋から部屋に移動したり、廊下で追いかけっこをしたり、ロビーで大声で話したりし始める。無法地帯の始まりだ。特学の部屋にも、そんなドアの向こうの音や振動が伝わってきた。「おばけ?」「地震だ」。にぎやかさが増していくことに比例して、寝つきどころか目が冴えていく。いちいち廊下に出て指導してもきっと少し時間が経てば同じことの繰り返しになることを、こういう行事を何度も経験してきてわたしは知っている。こどもたちにとっては、これはこれで楽しいのだ。だから、わたしは部屋のなかで、「牧場、楽しかったね。なにがいたか覚えている?」「牛のお乳をしぼったね」「川の水は冷たかった?」などとその日の出来事を照明を落としながら語りかけた。
 11時を過ぎた頃、教員たちのミーティングが終わり、担任が戻ってきた。きっと運動会になっているだろうと想像し、自分の風呂は後回しにしてチェックしに来てくれたのだ。おかげで、それ以降はドアの向こうが静かになり、起きていたふたりのうちのひとりは寝息をたてた。

5450.6/3/2005
 藤沢市の野外体験施設が八ヶ岳の山ろくにある。
 開設してから14年目になるという。わたしはその施設が開設したころ、高谷小学校というところに勤務していて高学年を連続して6年間担任していた。真新しい施設の利用を最初から企画し、二泊三日のプランを5年生で実施していた。6年生は一泊二日で日光に修学旅行に行くので、体験教室は5年生の行事だった。それまでは三浦にある県立の施設を利用していたが、市の施設は優先的に費用の援助を受けられるので、遠方だったが積極的に利用した。
 その後、高谷小学校を離れ、いまの小学校に勤務するまで高学年の担任をすることはなかったので、今回、久しぶりに5年生のこどもたちとともに、特学の担任として、その体験教室へ行った。いまの学校は一泊二日のプランなので、スケジュールはかなりタイトなものになっていた。出発前から、こどもたちが流れに乗れるかどうかが心配だったが、保護者との打合せや担任間の連絡会で、無理をさせないことを確認しあっていた。
 特学には5年生のこどもが3人いる。往復の乗り物で気をつけること。親元を離れての宿泊体験で配慮すべきこと。排泄、食事、入浴で必要な支援。それらを事前に確認しての出発だった。こどもたちにも、事前に三度ほど学習機会を設けた。前日には、大きな荷物を全部もってきてもらって、なかみの確認をした。そうしないと、向こうに行ってから、本人の自立的な行動を導けず、全部、こちらがお膳立てをしなければならないからだ。食前、食間、食後などに薬が必要なこどももいて、本人が飲めるように小分けしてもらう。法律的には専門家と本人と保護者以外が薬を飲んだり飲ませたりすることはできない。
 特学からはふたりの教員が引率した。そんななか、入浴介助はわたしにしかできない。もうひとりは女性だからだ。三人を連れて大浴場に行き、服を脱がせる。脱いだ服と、着る服が混ざってしまわないように、かごを分けているのに、ぐちゃぐちゃにする。それは違うと指導していると別のこどもはもうドボンと入浴している。海パンを用意していったので、わたしの動きはスムーズだった。いっしょに入浴できるかもと思っていたが、そんなことは夢だった。ひとりずつ流しの前に連れてきて、体から頭から全身を洗う。汗と汚れを洗い流さないと、直接支援の多い仕事はやりにくい。ひとが洗ってあげているのに、こちらの頭に湯をかけ、楽しむ。まぁ、それもいいだろう。やったなとわたしもシャワーの湯を顔面に浴びせる。振り返ると、風呂で潜水をしている。学年のこどもたちもいっしょに入っているので、そのこどもたちが「もぐっちゃいけないよ」「うわぁーおもしろそう」など、盛り上がる。三人をそんな調子で洗体し、わたしは、濡れタオルをしぼり、ひとりひとりの体を拭く。風呂から上がって、脱いだ下着を着ないように配慮し、ひとりずつ着脱の介助をする。これまた、気づくとほかのこどもの下着を着ようとしていたり、裸のまま廊下に出て行ってしまったり、自分の体や海パンが濡れたまま、三人を追いまわす。お風呂の外で待機しているもうひとりの教員にひとりずつ着替えの済んだこどもを渡す。最後のこどもを渡してから、さっと服を着替え、部屋に戻るこどもたちの後を追った。
 わたしがゆっくり入浴できたのは、深夜1時を過ぎてからだった。

5449.5/31/2005
 通いなれた居酒屋の灯が消える。
 大船駅からモノレールに乗り、駅を降りて、自宅までの途中。そのまま通り越していけば5分で家に着く。以前は5時から開店していたので、ちょっと一杯のつもりで連日立ち寄った。ことしに入ってから、店長が昼間に食堂のバイトを始めたので、開店時刻が6時以降になってしまい、立ち寄る回数が減った。それでも、たまに行けば、店長や常連客と楽しい時間を過ごすことができた。メニューを頼まず、テレビが見える椅子に座ると、いつも梅干入りの焼酎のお湯割が出てくる。かんたんな突き出しを作ってくれる。
 一杯目は割り箸で梅干をつぶし、梅肉をお湯に溶かしながら飲む。一杯目の間に梅干の種をとっておく。二杯目は梅肉をカップの底に残しておき、そこにお湯割を追加してもらう。二杯目の最後に梅肉の残りもいっしょに全部飲む。最後の三杯目は梅干のないきれいなお湯割を飲む。それに突き出しをくわえて、いつも1000円でOKだった。
 自宅周辺は山が迫り、決して繁華街ではない。ひとの少ない場所に居酒屋を構えて12年になるという。そんな場所で家賃を払いながら営業を続けるのは大変なことだったと思う。近くに総合病院と郵政官舎があり、病院関係者と郵便局職員がよく利用していた。わたしは、そのひとたちとはあまり知り合いにならなかった。それでも、行くとフリーの不動産業を営むひとと、元国鉄職員でいまはJR職員のひとと、日常的な会話を楽しんだ。わたしの行く時間は開店間もない時間ばかりだったので、ほかのひとたちが来る時間よりは早かった。だから、店長とわたしの二人きりのほうが多かったと思う。7時近くなり、少しずつ病院帰りのひとなどが立ち寄る頃に店を出る。店長は決まって、入口まで送りに来てくれて「ありがとうね、気をつけて帰って」と声をかけてくれた。
 息子や娘が小学生だった頃、わたしは小学校の親父の会やPTAのソフトボールチームに参加した。その打上に、居酒屋を使ったのが縁で仕事帰りに立ち寄るようになった。その後、店長のこどもも小学生になり、いっしょに親父の会やソフトボールをしたので、つながりは強くなった。
 店長はまず5時ごろ来て、店の電気をつけてから、近くのスーパーに買い物に行く。開店してすぐのわたしは、店長が買い物から戻ってくるまで、よく店番をした。お客さんが来ると、「もうすぐ、戻ってくるので、座ってお待ちください」と客を帰さないように配慮した。
 5月31日は、翌日から宿泊行事の引率があるので、定刻よりも早く帰っていい日だった。しかし、翌日の準備やそのほかの仕事でばたばたしていたら、あっという間に定刻近くになり、いつもと同じ時間に帰ることになった。最近は、店長の昼間のバイトが忙しく、店が閉まっていることが多かった。でも、31日は電気がついていたので、軽く一杯のつもりで立ち寄った。新聞の集金のひとが、ほどなくやってきたが、店のなかにいるのはわたしだけだった。きっと、店長はいつものように買出しに行っているのだろう。集金のひとに事情を説明しているところに店長が戻ってきた。
「久しぶりだね。ちょうどよかった。この店はきょうでおしまいなんだ」
「えーっ」

5448.5/30/2005
 先週の土曜日に右手の中指を捻挫した。
 娘の中学校でPTA主催の交流会があった。PTA役員、教職員、保護者による交流会だ。雨だったので体育館を使って参加者によるバレーボール大会になった。わたしは相手チームのアタックを防ぐためにブロックをした。すると、アタックをした人の手がブロックしたわたしの手にあたったのだ。右手の中指の第二関節に傷みが走る。すぐに左手で圧迫し、湿布をしたが、みるみる関節は腫れあがってしまった。たぶん、関節の腱をのばしてしまったのだろう。終了後、たいした治療もしないで飲み会に夜遅くまで参加していたのも傷みを長引かせた一因かもしれないが、今週に入っても傷みと腫れが続く。
 古いクレジットカードを細長く切り、添え木というかギブスがわりにしてテープでとめた。指は真っ直ぐ固定されたが、クレジットカードの端がちょっと指を曲げるたびに肌に食い込み、別の痛みに苦しんだ。
 それにしても、右手の中指は、こんなにも人差し指と連動して動くのかと思うほど、無意識のうちに動いてしまう。そのたびに痛みが走り、回復を遅らせる。さすがに月曜日は薬指にも強制的にテープを貼り、指が曲がらないように工夫した。すると、今度は日常生活がとても不便になった。歯磨きチューブのふたを開けられない。歯のブラッシングが思うようにできない。保護者の連絡帳への返事がまともな字にならない。ドアののぶをつかんでも、まわすだけの力が入らない。ポケットからハンカチを出そうとしてもポケットのなかでうまくハンカチを握ることができない。課題学習で取り組んでいる刺繍の糸を針に通すことができない。数え上げればきりがない。たった一本の指が動かないだけで、こんなに日常生活が不便になるとは思わなかった。なんらかの理由で機能的に指を動かしづらい人は、とても不便な生活をしていることを痛感する。
 もう少し若いときは、いわゆる突き指のけがはもっと回復が早かったように思うのだが、なかなか腫れや痛みが消えないので、自分の年齢を感じてしまう。こうやって、パソコンで文字を打つほうがペンで文字を書くよりもはるかに楽なのだが、それでも、指を伸ばしているので、中指は意識しているキーを押さずにもっと遠くのキーを押してしまう。携帯電話のメールへの返信もままならない。だれかからのメールへの返信が遅れてしまったり、極端に短い文章になってしまったりする。別にいじわるをしているつもりはないのだが、返信を待っている人や、受け取った人はどう思うのだろう。けがのない日常を送らなければいけないと、あらためて感じている。

5447.5/29/2005
 5年生の宿泊行事が近づいてきている。
 特学からは3人の5年生が参加する。八ヶ岳にある藤沢市の施設を利用する。往復の交通費と宿泊費が藤沢市の予算から援助されるので一泊二日の行事だが、費用は3000円前後に抑えられている。援助のない六年生の修学旅行と比べると大きな違いだ。
 牧場体験、キャンプファイヤー、山登りと一泊二日にしては内容が盛りだくさんなのが気にかかるが、例年、似たようなプランで実行しているので、こどもたちはおとなの心配を吹き飛ばすほど元気なのかもしれない。天気予報では好天が期待できそうなので、予報どおりの天候になることを祈るばかりだ。
 今回の行事にかかわって、また特学と通常級との関係を考えさせられている。特学には各学年のこどもが在籍している。今年度はたまたま6年生がいないが、各学年のこどもが在籍する可能性のほうがずっと高い。だからといって教員が各学年に対応するように6人いるわけではない。在籍しているこどもの人数に応じて法定の教員が配置されている。ということは法律上、特学は無学年の扱いだ。しかし、各学年の教科学習や学校行事には、こどもの実態に応じて参加する体制を組む。5年生の宿泊行事に特学から3人のこどもが参加するのも、その一環だ。こどもだけで参加させるわけにはいかないので、特学の教員ももちろん参加する。すると、残っているこどもたちの支援体制がどうしても手薄になる。これは、遠足の時期にも同じことがいえる。
 たとえば、体調を崩し、宿泊行事を欠席した場合も、在籍している特学は通常の学習が行われている。当該学年の5年生では行われていない。物理的に考えると、体調を崩して宿泊行事は欠席したけど、特学での学習は可能だと保護者が判断したら、登校させることができるのだ。社会見学のように教科学習の延長上に位置づけられている校外学習とは意味が違う。教科学習の延長上の場合、特学で扱っていないから、延長上にある社会見学に参加しても学習としての価値は低い。同じ学年のこどもたちと校外での時間をともに過ごす意味が強いので、それだったら特学で本人に必要な学習を希望するのも道理が通る。しかし、学校行事としての宿泊行事の場合は、その学校のこどもたち全体を対象にしているので、通常級も特学も区別はない。だから、特学でも行事へ向けての学習を計画し、保護者との話し合いの場も設けている。計画を作成する話し合いの段階から、特学の教員も参加する。
 ここで、わたしが考えてしまうのは、特学の担任システムでは、このような行事があるとき、行事に参加しないこども(今回の場合は5年生ではないこども)を、ほかの教員に任せるしか手立てがないのは、仕方がないことなのかということだ。今年度、わたしは1年、4年、5年のこどもを担任している。宿泊行事を引率する二日間、1年と4年のこどもをほかの教員に任せていく。それは仕方がないことなのだろうか。学校によっては、通常級の宿泊行事には参加せず、特学だけで宿泊行事を企画しているところもある。それは想像しただけで、周到な準備の必要な計画だと思うが、少なくとも、担任しているこどもたち全員を同じ活動のなかで指導することは可能になっている。

5446.5/27/2005
 2005年度に実施された藤沢市立中学校3年生(有効回答2816名分)を対象にした学習意識調査で、1965年の調査開始から継続している項目は7つある。
 帰宅後の勉強時間。学校外活動の種類。学校の勉強の理解度。学校の勉強についていく自信。勉強の意欲。勉強への集中度。勉強以外の自由時間に対する願望。これらの項目は40年間も変わらずに調査され続けている。その結果は、こどもの視点からの学習を長期的、かつ統計的にまとめたものとして、とても価値が高い。調査では、このほかにも調査項目は追加され、今回の調査で新しく設定された項目もある。
 帰宅後に勉強をしているかどうかについての質問に対しては、毎日していると答えたこどもは全体の約20%だった。1975年の72.5%がピークで、それ以降、毎日勉強しているこどもの割合は40%から50%を推移していたが、今回の調査では大きく減少しているのがわかった。これは、勉強をしていないこどもが増大していることを意味しているわけではない。帰宅後の勉強時間について、こどもは勉強する日としない日があることを明確にわけていることがわかった。そのため、帰宅後の生活スタイルが一週間単位で固定していることが読み取れる。かつては、帰宅後の学習は家庭学習が主流だったのに対して、現在では圧倒的に帰宅後の学習は塾などの教育産業が主流になっているのだ。そのため、親の教育力は当然減少し、経済的な状況がそのままこどもたちの帰宅後の学習時間と比例してしまう結果に結びつく。社会の二極分化がこのようなところに具体的なデータとなって現れている。それは、学校外活動の種類で80%のこどもが塾などの習い事をあげていることとつながる。いまは習い事をしていないこどものほうが少数派なのだ。これは、親たちの世代がこどもだったときには見られなかった現象だろう。
 家庭の経済状況がこどもの学習への自信や理解度と比例している状況は、調査開始以来変化していない。本来、学校での勉強には家庭の経済状況は無関係のはずなのに、塾や習い事で予習してきたこどもをターゲットにした授業が進められれば、よくわからないこどもにとっては勉強が嫌いになるのは当然ともいえる。
 勉強への意欲は、もっと勉強したいと思うこどもが減少し続け、もう勉強はしたくないと思うこどもが20%以上となった。世界の学習意識調査でも、日本のこどもに学習への意欲がほとんどないことが見えてきている。高い点数を取ることと、意欲をもって学習に取り組むことがつながっていないことを証明している。なんでもかんでも点数主義の公教育制度では、意欲という内面の育ちを導くことはできないのだ。

5445.5/25/2005
 2005年版藤沢市学習意識調査が刊行された。1965年から中学校3年を対象に同じ質問を続けている国内で唯一の調査だ。今回で9回目の調査になる。NHKは必ず全国ニュースで結果を取り上げる。それだけ統計学的に価値のある調査なのだろう。文部省や文部科学省がこういう調査をやっていないなか、こどもの立場から調査を続けている藤沢市教育文化センターの研究員には頭が下がる。この調査は、こころある学校関係者の世界では藤沢の良心と呼ばれている。近年、教育委員会や議会からの学校教育や教職員への介入や管理が厳しくなっている。ことしの四月からは県内の教員給与が減額された。給料表を改訂する根本的な施策だ。不景気の時代に官民格差をなくすという大義名分だが、好景気のときに教員給与が上がったことはない。下げるのは得意だけど上げるのは容易ではないことを多くのひとは知らない。さらに一般の地方公務員と違って教員には残業手当てがない。時間延長で働いても給料は出ない。定時で帰ろうとすると時計を見上げるふりをする教員がいても、堂々とわたしは帰る。
「労働者諸君、もっと効率よく働こう」
と檄を飛ばしながら。
 この仕事はこどもや親をどう育てるかが勝負だと思っているので、同僚や管理職からの評価は気にしていない。
 その学習意識調査。藤沢市教育委員会、神奈川県教育委員会、文部科学省、各議会からは、調査を中止しろとの圧力があると聞く。なぜか。調査結果が圧力をかけるひとたちにとって不愉快なものだからなのだ。そんなことでひるむ研究員ではないと信じるしかない。
 不愉快の理由。調査を続けるたびにこどもたちの学習意欲は低下し、学校や教員のステージは下がり続けているのだ。
 わたしはいまから10年以上前に、このままでは義務教育学校は崩壊すると職員会議で発言し袋叩きにあった。新しい公立学校を創ろうと決意したのは、袋叩きをしてくれた連中のおかげとも言える。それから10年近く経ち、予言通りの結果を学習意識調査はたたきだしている。新しい公立学校を創ろうと決意し、活動を始めてから生命の危険を覚悟するような妨害が山ほどあった。それでもめげず教員をやりながら法 人の社長として新しい学校を創造してきたのは、こどもを切れないという思いと死ぬまでつきあうだろう仲間の存在が大きい。学習意識調査について書こうと思ったのにかなり脱線した。本題については次号以降に。

5444.5/22/2005
 ストライキを中止したこどもは、よく動き回る。あちこちにいって、くるくる回るものを見て楽しむ。時計や換気扇に強い興味があり、時刻が違っていると直すように求め、換気扇が動いていないとスイッチを入れようとする。だから、ふだんの休み時間は、目を離すことができない。校舎内を縦横無尽に動き回られては、追いかけるこちらの身が持たない。
 なのに、きょうの休み時間はいつもと違った。わたしはたまたま目が離せないほかのこどものそばにいた。特学ではこどもに休み時間はあっても、教員に休み時間はない。すると、いつも動き回っているこどもが、小さなからだで大きなセパレーターを運んでいく。春休みにベニヤ板をちょう番でつないだ重みのあるものだ。引きずっても床に傷がつかないように、古いテニスボールで補強してある。どこかに運んでいったと思ったら、次は自分の机といすを運んでいる。(まだ休み時間なのに、どうしたんだろう)と考えたが、連絡帳への返事を書いたり、目が離せないこどもの支援をしたりして、そのこどもの行動を抑制しなかった。
 休み時間が終わり、わたしは少し学習指導場所へ行くのが遅れた。すると、さっきからあれこれ運んでいたこどもがやってきていう。
「センセー、お勉強の時間ですよ」
なんのことかなと思って、学習場所に行ったら、セパレーターで自分の机を囲み、洗濯バサミであれこれ学習プリントをセパレーターに取り付け、すっかりマイワールドを築いていたのだ。こりだすと、とことん自分の世界を作ろうとする傾向が強いと保護者が言っていたのを思い出す。なるほど、こういうことかと納得する。
「さぁ、お待たせ。じゃぁ、勉強をしようか」
そういったら、どうもマイワールドは未完成だったようで、その後も10分ぐらいは学習を開始しないで、筆箱の位置や完成したプリントを入れるかごの位置を調整していた。それらの微調整が終わり、学習が開始した。

5443.5/20/2005
 わたしは発達障害の専門家でも研究者でもドクターでもない。だから、こどものなかの生きづらさに直面したときは、ケースバイケースで乗り越える実践的スタイルを貫く。それらに共通するものを見つけ出し、一般化しようとするこころみは理論家に任せる。そんな調査研究をしている暇はないと割り切っている。
 ひとはこどもでもおとなでも納得できるかできないかで、こころ模様が変化する。納得できないことを強制されれば、こころは不安定になる。意欲は減少し、興味は消え、好奇心の芽は枯れる。それでも社会生活を営むうえでは、納得できないこともたくさん背負い込んでいかなければならない。そんなとき、意欲を維持し、興味の灯火を絶やさず、好奇心の花を咲かせるには、いやいや我慢して従う方法では解決策にはならない。ましてや薬の力を使って、納得できないものへの抵抗する気持ちを抑制しても根本的なこころの安定にはつながらない。そんなとき、わたしは代替措置を考える。このことを通して、自分に得られるものはなにか、本当にやりたいものは、これが終わったらやってみよう、納得できないけれどやってみたら得られるものもあるかもしれないなど、気持ちのチャンネルを複数用意する。どれも的外れでがっくりすることもあるが、そういう気持ちを持ち続けていると、多くの場合はどんなことでも前向きになることができる。
 反対に、いつも納得できないことばかりの生活に、口をとがらせて抵抗ばかりしていると、こころが不安定になるばかりでなく、あらゆる物事への集中力や意欲が減少してしまいがちだ。なにをしていても、つまらない。なにをしていても、満足できない。自分から、納得できる生き方をしようという気持ちが薄れていってしまうからだ。
 長靴での運動が納得できずにストライキをしていたこども。わたしはそのこどもがズボンを前後ろを反対にはいていることに気づいた。
「あれー、おしりにチャックがついているよ。おしりからおしっこをするの?やだー、はずかしい」
大げさに叫ぶ。そのこどもの自尊心をくすぐる。
「はずかしいから、なおす」
校庭の隅に行き、長靴を脱いで、ズボンをなおす。わたしはすかさず、長靴を取り、歩き出す。靴下のままで右往左往するこどもが叫ぶ。
「長靴を返して」「だって、これを履いていたんじゃ、運動はしないって言ったじゃん。靴下ならできるでしょ」「……。靴下は汚れるからやだ。長靴でやる」
やっと、ストライキ中止の岸辺にたどりつく。

5442.5/19/2005
 19日は朝から天気予報は雨だった。でも、実際には午後三時ごろまで雨は降らずに、曇り空が広がり、時折青空も雲の切れ間から見え隠れしていた。
 雨を想定して長靴を履いてきたこどもが多かった。そのひとりが、朝の運動の時間に
「長靴だから、お外には行かない。朝の運動はしない」
と言って、ストライキを宣言した。それでも、周囲が体操服に着替えていたので、本人も着替える。昇降口から校庭に出る段階になってストライキを思い出し、動かなくなる。わたしもこどもの頃、長靴を履いて登校はしたものの、雨がやみ体育があったときに、自分が長靴を履いているのがとてもいやだった記憶がある。運動しにくいというよりも、長靴に体操服というアンバランスなかっこうが気恥ずかしかったのだ。もちろん、運動しにくいから、その不便さも加わる。そんな経験から、よほどの悪天でない限り学校には長靴を履いていかないと自分に言い聞かせたものだ。だから、ストライキを起こしたこどもの気持ちはとてもよくわかった。
「じゃぁ、長靴でできることをしようよ」
そう言っても、そのこどもは気持ちのおさまりどころが悪いらしく、ほかの教員におんぶしてもらって校庭をランニングしていた。教員がランニングしている背中に乗っているので、ランニングをしているとは言いがたい。この仕事はこんなことの連続なので、腰を悪くする教員が多い。その教員が腰を痛める前に、わたしがそのこどもを引き取る。最初はだだをこねて動かなかったので、両脇を抱えながら、校庭を歩いた。
「教室に戻りたい」「いいよ」「いっしょにきて」「そういうわけにはいかない」「なんで」「ほかのこどもたちがいるからね。行きたいならひとりでいけばいいのに」「ひとりは怖いからいやだ」「じゃぁ、はじで座って見ていてよ」「いやだ」。
 あくまでも自我を通そうとするところに、そのこどもの生きにくさがある。代替措置を示しても、自分の用意した答え以外を受け取ろうとしない。幸い、思い切りからだを動かしているこどものなかに長靴のこどもがいた。
「ほら、あのこも、長靴だけど、あんなに朝の運動をしているよ」「あの長靴は黄色で、これは青だから、違うの」
 だんだん屁理屈になっていく。代替措置に乗りにくいと、社会性は育たない。生きていくときに、すべて自分の思い通りになるとは限らない。むしろ、逆のほうが多い。だから、思い通りにはならなくても、ほかの選択肢を引き受ける気持ちのゆとりが必要になってくる。

5441.5/18/2005
 17日は1年生と2年生が遠足だった。ともに最初の計画ではもっと早い時期に予定されていたが、天気が悪く17日に延期になった。
 特別指導学級のこどもたちは、それぞれの学年の行事には基本的に参加している。だから、遠足の季節は教員が引率するので、本体の特学のほうが手薄になりがちだ。そのため、介助員さんの時間や人数を増やすようにしている。でも、年々行政からの予算が削られ、なかなかお願いしたくてもお願いできなくなりつつある。
 ふつう、遠足のような行事は多くのこどもや教員が関係するので、実施日をずらすことが多い。もちろん延期になったときの日程もずらすことが多い。しかし、原則的に日程はそれぞれの学年事情と関係するので、結果的に複数学年が重なることがある。それらを調整するのが管理職の仕事だと思うのだが、そこまで気づかうひとは少ない。とくに今回のように延期日が重なっていたときは、延期が続くという可能性が薄いと判断されてしまう。
 しかし、結果的に17日のように延期が重なり、複数学年が同じ日に遠足に行くこともありえる。今年度の特学には1年生に2人、2年生に2人が在籍している。特学からは3人の教員のうち、それぞれの学年に1人ずつ、合計2人が引率した。もともと10人のこどもに対して、3人の教員と介助員さんで動いているので、教員が2人も不在になると、残った本体はとてもこころもとない。わたしは、2人の介助員さんとともに当日を迎えた。ふだんは1人の介助員さんが協力してくれている。この方は、こどもたちのことをよく知っているし、わたしよりも長くいまの学校に勤務しているのでとても頼りにしている。もう一人の方は、ふだんはほかの学年の通常級のこどもの介助員をしているひとで、17日はピンチヒッターで協力してくれた。特学の流れもこどものことも知らないので、あてにすることはできない。その場の判断で、支援内容や対象となるこどもを随時決めていかなければならなかった。幸い、初めての方もこどもの扱いはとても慣れていて、残ったこどもたちも自然に接していたので安心した。
 それでも、こどもたちに万が一のことがあったら、責任は担任として残っているわたしにかかる。万が一とは、こどもどうしのトラブルから、それぞれの抱えている生きづらさが大きくなることまで様々なケースが考えられた。朝から帰りまで、すべてのこどもたちに気を配り、休み時間も給食時間も掃除の時間も残ったこどもたちの所在や、やっていること、モチベーションの変化を確認し続けていた。おかげで、こどもが帰った後にその日初めてのトイレに行く有様だった。でも、こういうときには、逆に何にも起こらないのかもしれないと思うほど、17日は穏やかな一日になった。いつもと違う環境をとても苦手にするこどもたちだが、そのことを忘れるほど、どのこどもも落ちついた時間を過ごしてくれたのが、とてもありがたかった。

5440.5/15/2005
 13日の土曜日は湘南憧の開校日だった。いつもは月曜から金曜まで開校しているが月に一度だけ土曜開校にしている。湘南憧学校は特定非営利活動法人湘南に新しい公立学校を創り出す会が運営している。法律上は学校として認められていないため、無認可学校、いわゆるフリースクールだ。
 運営するメンバーは昼間それぞれに別の仕事をしている。そのため湘南憧学校は3人の専属スタッフが有給でこどもたちの指導と支援にあたっている。定員に達していないため財政事情は苦しく、スタッフは交替で勤務にあたっている。こどもたちの様子が運営メンバーにわからないので、運営メンバーの仕事が休みになる土曜日にも開校して、スタッフの仕事を援助する。また、見学や体験入学を希望するひとたちへの対応も、おもに土曜開校のときにしている。平日だと対応するメンバーがいないので、担当スタッフの負担になるからだ。
 13日は、2組の見学と1組の体験入学があった。見学のうち中学生のこどものところは都合が悪く当日は来なかった。もう一組の見学は、幼稚園の年長のこどもをもつ夫婦とその友人だった。ともに、現在こどもが在籍している幼稚園にこどもがなじまず、湘南憧学校への入学を視野に入れながら、今年度は見学や体験入学ができたらという希望をもっていた。数ヶ月前にも就学前のこどもをもつ夫婦が見学に来た。湘南憧学校の情報が、小学校にこどもを入学させる前のひとたちに伝わり始めている。小学校入学段階で、実際に湘南憧学校を選択するかどうかは未知数だが、アクセスしてくれるひとたちが登場し始めたことは、従来の教育方法とは違ったスタイルの学びに興味を持ち始めた親世代が、この湘南地域にも確実に存在していることを裏付ける。
 体験入学に来たのは、今回が始めての5年生のこどもだった。わたしが知っているこどもで、夫婦とともに来校した。体験入学は見学と違い、体験料をいただき、湘南憧学校の日課を実際に経験するので、親や付き添いの方は基本的には送迎をするだけでいい。そのこどもは、この日からボランティアとして支援スタッフの補佐を始めた現役の大学生に具体的な支援をお願いした。
 在籍しているこどもたちは、土曜学校の日はいつものスタッフに加え、わたしたち運営メンバーが参加するので、人数が多いプログラムを楽しみにしている。なかに、野球にはまっているこどもがいて、新しいバットを用意していた。しかし、あいにくの雨で、念願のバットでわたしたちと対決することはできなかった。

5439.5/13/2005
 先日、知人とファミレスで食事をしていた。臨席では老夫婦と、その娘と思われる女性、そのこどもたち3人の合計6人が食事をしていた。
 3人のこどものうち、末っ子と思われるまだ歩き始めたばかりのようなこどもを、立ち上がったお母さんが抱きかかえたら、急に嘔吐をした。とても勢いよく吐いた。体調が悪かったというよりも、明らかに食べ過ぎの印象を受けた。しっかりこどもセットみたいな食事をとり、その後も飲み物やパンを食べていたからだ。それが母親に抱きかかえられたとき、胃袋を圧迫されてしまった感じがした。
 こどもを抱いた母親は自分の肩口や洋服が汚れてしまう。こどもを抱いたままトイレに行った。
 ほかの2人のこどもは恐縮している。テーブルや床には汚物がついたままだ。老夫婦は、汚物を拭く姿勢を見せず、「どうしたんだろうね」「コーラを飲んだからかな」とのんきなことを言っている。そのうち近くを通りがかった従業員に「すみません、ここを汚したのできれいにしてください」と頼んだ。
 何回か、従業員は雑巾や布巾を交換しながら、汚物を拭き取り、テーブルをきれいにした。その間、老夫婦は自分から掃除を手伝う態度は一度も見せなかった。おばあさんなど、途中でドリンクバーに行き、飲み物をとってきて汚物の横で平然と飲んでいた。それを見ていた残された2人のこどもたちは、なにを考えるだろうと思った。
 お店に来たときは、お客さんが第一で、従業員は顎で使っていいんだという偏った常識を身につけはしないか心配になった。客の言うことをきけないのかよぉという乱暴な考え方のおとなが増えてきているのは、こういう具体的な場面でこどものときに学んでしまってきたからかもしれない。公務員の場合は、納税者の税金が給料だろぉと怒鳴り散らすおとなのストレス発散のターゲットになりやすい。そんなとき、へんに低姿勢になって対応するよりも「お前は滞納してないか?俺だって納税者だぜ」と開き直ってみたくなる。問題の本質から論点を外し、互いの立場を盾にして上下関係を強要しようとするハラスメントは、社会の各層、各場面でとても増加している。

5438.5/11/2005
 この時期、学校は遠足に行く学年が多い。
 梅雨を前にして天候が安定している時期に集中して遠足を予定するのだろう。遠足は学校行事のなかの遠足的行事という範疇に入る。学校行事は法律で決められているので、学校ごとに勝手に省略したり、決められた時間以上に実施することができない。法律上、だいたい年に二回程度の遠足が必要になるので、多くの場合は春と秋に実施する。
 しかし、ことしの春は連休が明けたら、梅雨になってしまったのかと思うほど、天候が安定しない。台風のように朝から大雨が降れば保護者も判断しやすいのだろうが、霧雨のような調子では遠足が実施されるのかされないのかがわかりづらいのだろう。朝から実施の可否を問う電話が鳴り響く。わたしは7時半前には出勤しているので、そういう電話を受けることが多い。ほかの職員は8時過ぎに出勤するひとが多いからだ。
 わたしが早く出勤するのは、特学ではこどもだけで登校後教室において置けない事情があるからだ。8時に昇降口がオープンする以上、その時間に保護者に送られてくるこどもを想定し、それ以前に教室の準備をしておかなければならない。しかし、わたしたちの勤務時間は8時半からなので、それ以前の勤務は無給になる。時間外手当が教員にはないので、勤務時間以外の労働はすべて無給扱いだ。それでも、こどものことを考えたら、8時半ぎりぎりに出勤するわけにはいかない。だから、ほかの職員よりも早く、ときには一番早く出勤する。
 そんな事情があるので、早く出勤しているからといって、電話番をしているわけにはいかない。なのに、この時期は職員室など電話のある部屋にいるとひっきりなしに遠足実施の可否を問う電話がかかってくる。先日は、朝から小雨が降っていた。天気予報では昼までには回復するという。電話に出ると案の定「きょうは遠足がありますか」という。わたしは当該学年とは関係がないので、遠足実施の判断をする立場にはいない。当該学年の教員はまだ出勤していない。もう少し後で電話をかけなおしてもらうように頼むと「そんなことをいっても、わたしは仕事にいま出てしまうんです」という。向こうにも向こうの事情があるらしい。「学年からはきょうのような場合はどう伝えられていますか」「しおりにはどちらかわからない場合は、遠足と勉強の両方の用意をって書いてあります」「じゃぁそうしてください」と受話器を置く。受話器を置いた後、あわてて特学の教室に行き鍵を開け、通常の仕事に戻る。
 多くの場合、遠足実施の可否は出発時間ぎりぎりの判断が優先される。あまり早く判断してしまうと、結果的に逆の判断のほうがよかったということになりかねない。だから、遠足のような水物は難しい。とりあえずこどもには荷物になるが、両方の用意をしてきてもらえると、どちらに転んでも可能な状態になる。そういう事情を学校からしっかり伝えないと、しおりの情報を読み取れない保護者からの電話は、これからも鳴り止まない。

5437.5/10/2005
 びんのふたを開けたら、指定された数のビーズをそれぞれのびんに入れる。数の名前と実際の量を一致させるのを数量マッチングという。たとえば「5」という数字を見て、「ご」と読むことができ、おはじきやビーズやブロックなどを5個並べることができたとき、数と量がマッチングしていると判断する。数量マッチングは、だれでも自然とついていく力だと思われがちだが、実際にはそんなことはなく学習によって習得している力だ。それが学校で行われるのか、家庭で行われるのか、それ以外の場所で行われるのかという違いしかない。数量マッチングは同じことを繰り返すことで力になっていく。鉛筆で同じ数だけ○を書くのでも確かめられるが、そんな学習方法ではつまらないし、こどもがすぐに飽きてしまうだろう。
 びんのなかに「2個ずつ」のビーズを入れるとしたら、たくさんのビーズのかたまりから、2個のビーズを拾い出し、複数のびんにそれぞれ2個のビーズを入れる。これは、「2」という数字と2個という量のマッチングを学習していることになる。さらに、同じ操作を繰り返すことで、乗法(かけざん)の概念を自然と学んでいることにもつながる。「ずつ」という考えは、このような実際の操作を通じたほうがイメージしやすい。
 たくさんのビーズから、2個選ぶとき、こどもの個性を見ることができる。机の上に、すべてのビーズを転がして、そこから2個のビーズを取り出すこども。たくさんのビーズが入っている入れ物をもち、もう片方の手のひらに上手に2個のビーズを落とすこども。たくさんのビーズの入れ物のなかに手を突っ込んで、2個のビーズを拾い出すこども。それぞれのやり方に間違いはない。自分にとって、もっとも自然なやり方で指定された数のビーズを取り出し、びんのなかに入れることが大切なのだ。
 いまの段階では、びんのなかにビーズが入った場合は、目印の意味も込めて、びんのふたを閉めるように指導している。しかし、最終的にふたたびびんのなかからビーズを取り出すので、途中でびんにふたをするのは、非効率的な行動だ。わたしは、そのことにこどもが気づいてくれるのを待っている。

5436.5/9/2005
特学レポート「初夏1」

 調味料のびん、薬のびん、インスタントコーヒーのびん、カテキンのびんなど複数のびんを集めて「びんとビーズ」という教材を作った。
 こどもの作業は、まずびんのふたを開ける。次にその日の指定した数だけビーズをびんに入れてふたを閉める。それが終わったら大きなカップに小分けしたビーズを全部入れる。ここでびんの役目は終わるのでふたをしてケースに収納する。ビーズを通す細いナイロン糸を用意して、それに一個ずつビーズを通す。全部のビーズを通したら、びんとビーズの学習は終わる。
 この教材を作ったねらいは、生活体験と学びの融合を通して、手や指の機能を向上させることだ。さらに発展的な目標として、数量のマッチングと集中力の向上がある。しかし、それらはあくまでも発展的な目標なので中心ではない。手や指の動きは脳に直結し、繰り返しのトレーニングがシナプスの連携を強固にすると思うからだ。さまざまな役割を担う脳細胞が未分化だったり連携していなかったりすると、思ったことをうまく身体表現として機能させづらい。神経的な命令が、からだのすみずみに届く経路を築き、強固にしていくひとつの方法ととらえている。そのことにより、はみ出さないで色を塗るとか、イメージの通りに線を引くなどの手や指の操作が自由にできるようになればいいと願う。特学のこどもたちの色塗りにわりと共通していることとして、同じ力で塗り続けることを発見した。同じ色に強弱をつけた塗り方ができるようになると、立体的な表現が可能になる。表現の世界を広げていくことを具体的に感じ取る経験をしてほしいと願う。
 びんのふたを開ける。だれにでもできそうなことだが、びんの形状が違うのでふたの種類も開け方も違う。ねじのようにくるくる回すのもあれば、ボタンのようにカチッとはめるものもある。力の加減を工夫しながら、開けたり閉めたりしなければならない。均一な力ではなく、状況に応じて、力の入れ方を変化させることが必要になる。自然と手や指は強く力を入れたり、逆に力を抜いたりするコツを学習していく。それが、何度も繰り返されると、目で見た情報(視覚的な情報)をもとに、このびんのふたにはどれぐらいの力が必要だったかという記憶がよみがえり、そのために必要な力を手や指が覚え、ふたの開閉ができるようになる。異なる情報がセットになってひとつの操作が完了する。異なる情報の処理は、脳の異なる部分の細胞と細胞を結びつける。

5435.5/7/2005
 ことしの大型連休が終わろうとしている。
 毎年のことだけど、学校の4月はトイレに行くこともままならないほど疲れる一ヶ月だ。ゴールデンウィークはそんな疲れをとるのには、必要不可欠な連休になっている。知り合いの教員のなかには、疲れがどっと出て寝込んで過ごすひともいる。海外旅行のひとたちをニュースで見ると、よくそんな元気が残っていると感動してしまう。
 今回の連休中、わたしは近所の日帰り温泉に二度も行き、家でもゆっくり半身浴を楽しんだ。仲間と食事会をして、最近こっている粉料理も披露した。もちろんおいしいお酒もたらふく飲んだ。ギターを片手に歌も歌った。やらなければならない仕事がたまっていたけど、それを最初に片づける気持ちになれず、結局それらに手をつけたのは、連休最終日になってからだった。
 以前はやらなければならいことがあったときは、真っ先にそれらを優先して、自分のやりたいことを最後にしていたのだが、いつもやらなけらばならないことに追われているうちに、体調を崩し、日常生活に支障をきたすようになってからは、少しずつものの考え方を変えるようになった。自分としては、やらなければならないと思っていることも、それらを後回しにしてもよのなかは動き続けているし、そんなに大きな問題にもならないことが見えてきたからだ。ようするに、やらなきゃやらなきゃと思っていたのは自分だけだったことに気づいたのだ。
 連休最終日、つまりきょうはたくさんの仕事を朝からずっとやり続けたが、それでも途中で昼寝をしたり、たっぷり半身浴をしたりして、時間配分を考えるようにした。
 車を洗うと雨が降る。きょうの鎌倉は朝から風雨が強く、駐車スペースの車は洗車の甲斐もなく雨に打たれていた。特学の庭に種から育てたかぼちゃがやっと本葉を何枚かつけてきていることを思い出す。まだ小さなかぼちゃだから、きょうの風雨で倒れていないか心配になる。あしたから、エンジン全開の家庭訪問週間が始まる。

5434.5/5/2005
 厚生労働省が選挙のポイント稼ぎのような制度を先月から開始した。
 こどもを保育園にあずける家庭では、こどもが急病になったとき、親が必ずしも看病できないことが多い。保育園では、ほかのこどもへの影響も考慮して病気のこどもをあずかってはくれないことが多い。いままでは、そんなとき、親が仕事を休んでこどもを医療機関に連れて行ったり、自宅で看病したりしていた。それを、親に代わって、民間業者が代行する制度がスタートした。病児サポート保育事業という。
 これだけ聞けば、事業そのものはいまの時代に必要な有効性のある事業に思える。厚生労働省は、今年度分として6億5千万円の委託金を支出して、1000万円から3000万円の委託金を各団体に支払う。
 しかし、現在までにこの事業が実際に開始されているのは、全国47都道府県のうち、わずか24都道府県にとどまっている。16の府と県では事業開始の目途すらたっていないという。事業そのものは有効性があるのに、実際の事業展開が不可能に近い条件になっているのは、国がやろうとする制度に共通している。地方自治体に実行する力がないのがいけないとでも言いたげな制度の創設と運用は、厚生労働大臣のポイントをあげるのには貢献するだろうが、本当にそれを求めているひとたちには吉報を届けない。
 まず、この制度によると、病児保育サポート事業を行う民間業者は、都道府県に一つしか認められない。それも、厚生労働省が認めた業者だ。とてもニーズの大きな事業を始めようとしているのに、都道府県内をすべてカバーするサービスを提供できる民間業者、この場合は社会福祉法人は、そんなに存在しない。6月から事業を開始する埼玉県の業者は今年度は一部地域からのスタートになる。
 また、業者は医療機関ではないので、あずかったこどもの状態が急変したときに小児科医や救急医療機関と連携して、こどもの安全に配慮する体制を作っておく必要がある。地元の医師会や病院との連携に手間取り、事業開始が遅れたり、自治体内全体をカバーするネットワークの構築自体が白紙の自治体もあるという。
 日本社会は、不景気のときも、景気がいいときも、教育と福祉の予算は据え置きか削減を前提に推移してきた。高齢者介護用の福祉予算は増大しているが、若年者関係の福祉や教育関連予算は、どんどん減少している。それらは選挙のときに集票につながらないから、議会の議員たちにとってはあまり関心のないことなのかもしれない。ペーパーレスの時代に、学校ではパソコンの貸与もなく、みな輪転機を使った印刷資料をファイルする。さらに不用になった印刷物の裏が白紙の場合は、裏に印刷することが求められ、会議の資料として配られると、どっちが表なのかわからないこともある。こどもができたら、病気のときは仕事を休まなくてはならない社会では、こどもを産まないひとたちが増えるのは当然のことだ。

5433.5/4/2005
 5月3日。同じ神奈川県の平塚市で猟奇的な事件が発覚した。
 敷金・礼金・保証人など不要の気軽な賃貸アパートの一室から男女5人の遺体が発見された。35歳の男性は自殺、19歳の女性は絞殺、小学校低学年ぐらいと見られるおそらく男子と性別も年齢も不詳の2人の新生児が発見された。
 35歳の男性と19歳の女性は異母兄妹の関係になる。このアパートは男性が5年前に契約をして借りていた。男性と女性の父親はすでに他界している。神奈川県警は、女性を殺したとして、母親の54歳の女性を殺人容疑で逮捕した。殺害したのは、昨年の10月12日。容疑を認めている。
 男性は亡くなった父親のこどもにあたる。今回殺人容疑で逮捕された母親は父親と内縁関係にあり、わかっているだけで2人のこどもを産んでいる。そのうちのひとりが今回殺された女性だ。もうひとりのこどもは5歳のときに行方不明になり、まだ発見されていない。アパートから発見された小学校低学年ぐらいのこどもの遺体との関連性を警察は調べるだろう。
 5年前にアパートを借りた男性のもとに、19歳の異母妹にあたる女性が後に同居を始める。ふたりの父親は1997年に死亡しているので、このときにはすでに父親はいない。ひとりの父親から産まれた母親がそれぞれ違う兄と妹の共同生活。16歳の年齢差は兄妹というよりも、叔父と姪のような関係に見えたかもしれない。妹が住み始めたころ、女性の母親も同居し始めた。そして、今回、事件を発見したのは、男性の母親だった。
 とても人間関係が複雑で、おそらくノーマルな精神状態からは逸脱したひとたちの不安定な日常が営まれていたことが予想される。部屋には乳幼児の腐った遺体が何日も何ヶ月も何年も置かれいた。女性が殺されたのは昨年の10月だが、近所のひとの話では3月頃までは男性は生きていたことがわかっている。半年以上も異母妹の遺体と同居していたことになる。
 この事件を知ったとき、わたしはとても異常な出来事だと感じたが、きっとこのような状態に置かれているこどもやおとなは少なくないとも感じた。その意味では、事件に発展したのは異常だったとしても、状況としては多くの家庭(といえるだろうか疑問だが)で、一線をこえたら同じような事件に発展する予備的段階に達していると思う。ひとがひととして生きるよりも、国家や会社や組織の一員として帰属することを強制される日本社会では、そこからはみ出ていくひとたちを救う手立ては用意されていない。社会の片隅で人知れず道徳を捨て、法律を犯し、破滅的な最期を迎えるのだ。そんなひとたちが、とても潜在的に多くなってきた実感がある。

5432.5/3/2005
 5月2日は連休の真っ最中。でもカレンダー通りの学校では、通常の勤務が続く。特学に送ってくる親のなかに父親がいた。きっと1日も2日も連休なのだろう。
「よろしくお願いしまーす」
軽やかに手を振って帰っていく後姿がとてもうらやましかった。
 前日が初夏を思わせる陽気だったのに、2日は朝から低い雲がどんより立ちこめ、湘南地方は季節が夏から秋になったのかと思うほどだった。朝からぱらついていた雨は、次第に強くなる。10時から11時の間には、夜のような暗さになる。「どうして、夜になっちゃったの」。何人も、こどもたちが窓の外の暗さを不思議がっていた。そして、稲光とともに響く雷鳴。光ってから鳴るまでがとても早かったので、きっと藤沢のどこかでは落雷があったのではないかと思う。雷が鳴るたびに、驚いて、部屋を駆け回り、そのまま壁に激突するこどもや、「わーぉ、わーぉ」と叫び出すこども。顔色が悪くなって、動きが緩慢になるこどもや、目をおおうこども。なにがなんだかわからない恐怖は、おとなの想像をはるかに超えて、息をしているのもつらそうだった。
 おまけにこの日は夕方になって震度4の地震もあった。ふだんから机をゆらして「わっ地震だ」と驚いているこどもたちが多い。大きく長く揺れた今回の地震では、それぞれの家庭でもこどもたちは恐怖におびえたかもしれない。
 天変地異。大自然の織り成す息遣いは、わたしたち地上の生き物にはどうにもできないほど、規模の大きなものだ。なのに、ひとは争い、格差社会を広げていく。そんなことをしていても、していなくても、自然の猛威は生き物を、とくに自然の猛威に対して無防備な人類を、容赦なく襲う。ならば、争いのなかで互いに傷つく未来を受け入れるより、自然との共存のなかで、降る日もあれば照る日もある日常を受け入れたほうが、ずっとずっとこころが安定すると思うのだが。

5431.5/1/2005
 4月30日。全日本レクリエーションリーダー会議の発足30周年記念イベントが東京であった。
 わたしは、教員になってすぐの頃から、全レクのレク学校に参加し、その後は講師も務めさせてもらっている。かれこれ20年ぐらいのつながりになる。
 記念イベントには、発足の頃に中心的な役割をした方々や、いま運営の中心にいる方々など、各世代のメンバーが勢ぞろいした。20年ぐらい前に参加したとき、リーダーとして、あるいは運営メンバーとして、教員になりたてのわたしがお世話になったひとたちは「あのかわいかった洋平ちゃんがねぇ」と孫でも見るような目でわたしを見て懐かしがっていた。乾杯の音頭とオリジナルの歌を二曲お祝いに披露してきた。
 全レクが発足した1976年は、高度経済成長のど真ん中の頃だった。業績をのばし続ける民間企業は、余暇の時間も会社中心の娯楽施設や福利厚生を用意して、労働者を管理し始めた時期だった。生活のすべてを会社が支配する構造ができつつあった時期だ。その頃、働くもののレクリエーションを唱え、こころとからだの解放を目指し、生きる力を仲間のなかで築きあおうと結成されたのが全レクだ。だから、全レクのゲームには罰ゲームはない。ひとりひとりが主人公というコンセプトが貫かれているので、だれかを笑い者にしてみんなが楽しむという発想はない。また、あまりを作らないノウハウがあって、人数集合などのゲームでも、きちっと割り切れない場合でも対応できるように工夫されている。
 わたしのようにこどもの仕事に関係するひとたちも多く参加していた。そのひとたちの多くは、働く者のレクとともに、あしたの授業に使えるネタ探しという目的もあった。歌やダンス、ゲームなど全レクの提供するプログラムは、参加者の楽しみとして終わらせることに留まらず、参加者が生活場面に戻ってからも広めることができる可能性を秘めていたのだ。当時は、保育や教育関係者は全体の半分もいなかったが、いまの全レクのレク学校はほとんどが保育や教育関係者になっている。もともとそういった領域のひとたちが受け入れやすい要素をもっていたのだろう。

5430.4/26/2005
 被害にあった女子が通う中学校では、休日にもかかわらず、土曜日に保護者を集めた説明会を開催した。保護者たちに事件の経緯を説明するためのものだったという。
 最近の傾向として、こどもの事件で学校が説明会を開くことはめずらしくなくなった。しかし、学校の管理下で発生した事件ならともかく、放課後の事件まで学校が経緯を説明する必要があるのだろうか。そこで説明される経緯とは、かなり被害にあった女子のプライベートな生活内容なのではないだろうか。放課後に、年上の交際相手と、立ち入りが規制されている場所にふたりで入り込んだことについて、その背景を含めた説明がなされるとしたら、事件と直接関係のないことまで、本人と関係ないひとたちが知ることになる。遺族が味わうこころの傷は、事件だけでなく、学校からの説明でさらに広がってしまうのではないだろうか。
 そうやって知りえた情報は、説明会に集まったひとたちの今後の生活に安全上役立つものになるのか疑問になる。むしろ、ワイドショー的感覚で、事件の渦中にいる者として情報を知り、さらに知人に広める役割を果たしてしまうのではないか。
 だれが売ったのか、女子の動画や写真が新聞やテレビで使われている。女子や遺族はもっとも事件で傷ついたひとたちなのに、学校やメディアから、二重三重の苦しみを与えられてしまった。
 女子を殺した男子の通う高校で緊急の保護者向け説明会は、開かれたのだろうか?自分のこどもが男子と同じ高校に通っていたら、不安になる。事実を知りながら、なにも保護者に伝えないことがわかったら、高校は人権保護の名目で責任逃れをしていると感じるだろう。
 少年犯罪事件をめぐっては、すぐにメディアは学校の映像や関係者のことばを取り上げる。それらが真相究明につながるとは思えないケースのほうが多いのではないか。むしろ、少年犯罪事件多発の原因に学校の責任があるかのような印象を広めてしまうだけのような気がする。
 真相究明のために学校からの情報が必要ならば別だがもっと事件の核心に迫る地道な取材を期待する。

5429.4/24/2005
 岐阜県中津川市中津川のパチンコ店空き店舗で、近くの同市立第二中2年女子が殺害されているのが見つかった。
 女子は、19日午後5時半ごろ、同市内で友人と別れ、直後の同6時半ごろに殺害されていた。事件の容疑者として、県警特別捜査本部は、同市内の高校1年の少年を殺人容疑で逮捕した。少年は容疑を認め、「現場に(女子の)携帯電話を隠した」と供述したため少年を立ち会わせて現場検証した結果、供述通り見つかった。少年は事件当日、清水さんを現場近くに呼び出したことも認めており、通話履歴などから自分に疑いがかからないよう工作した可能性があるとみて調べている。
 犯行が行われた場所は、一階がパチンコ店で三階まである建物だが、現在は空き店舗になっていた。戦国時代の城郭を想起させるようなユニークな建物だが、若者たちの溜まり場になっていたという。なぜ、空き店舗に若者たちが自由に出入りできたのかはわからない。
 少年や少女の犯罪が珍しくなくなってきた。だから、今回のニュースの一報が入っても、大きな驚きを感じなくなっている自分に、むしろ驚いた。またかという感じだ。
 殺害の動機は、交際関係をめぐるものと報じられているが、それが事実なら、昔から多くの刑事事件の動機になっているものなので、決して目新しいものではない。交際年齢もいまどきの若者なら、中学生や高校生でも当然だろう。別れ話のもつれが事件に発展するケースはよくあることだ。
 今回の事件に象徴される社会性をわたしはふたつ感じる。
 ひとつは、若いというか、こどもといってもいい年齢の少年が、交際関係のもつれから、付き合っていた相手を殺そうと思った異常さだ。まだ、ひととひととの付き合い方だって未熟な段階で、恋をしても、それは長続きはしないだろう。口惜しい思い、悲しい思いを繰り返して、また次の出会いに気持ちを切り替えていきながら、ひととして成長していく段階で、感情の交流があった相手を殺してしまう心理は、いまのこどもたちの内面のかげりを照らしている。肥大化した自我。小さいときから、たとえば学校の成績とか、親のいうとおりに振舞うとか、反対に放任されて育つなど、家庭からも地域社会からも愛情の相互交流を遮断されて育ってきたこどもたちは、自分の欲望をコントロールできないまま思春期を迎え、少しのつまずきで大きく傷つく。とくに、恋愛のような感情の交流を経験すると、よけいに恋愛の終局を自我の否定と受け止めてしまうのかもしれない。肥大化した自我には、相手を思いやる感情はもともと含まれていない。恋愛ごっこをしているときは影を潜めていた本性としての肥大化した自我は、恋愛の終局という危機的状況によってコントロール不能状態で顔を出す。人生にはまだ時間もチャンスもあるという気持ちの余裕がない若者に、衝動的な事件の結末は、時間もチャンスもあるはずの人生の大切な時間を奪う結果になる。
 もうひとつ、この事件から感じる社会性は、学校の対応だ。

5428.4/22/2005
 できないことをできるようにしていく。教育という仕事の醍醐味がそこにある。
 だから、日頃からこどもたちを前にして、できて当たり前という気持ちはあまり浮かんでこない。これぐらい知ってるでしょとか、やっとみんなに追いついたなどと言われたら、精一杯がんばったこどもは立つ瀬がない。
 教員のなかにも、このように、できて当たり前と言ってしまうひとがいないわけではないが、圧倒的に親のほうがそういうひとが多い。長い時間をこどもと過ごし、わが子の力は知っていると思うのに、できないことを認めず、できたことを褒めない親はとても多い。ドラマや映画、小説などで家族を題材にした物語はとても多い。そんな家族を見ながら、読みながら、理想の家族像を作り上げるのは仕方がないが、その理想像に自分の家族を当てはめようとすることは、とても危険なことだ。あくまでも物語は、どこかでだれかが作ったものであり、本当の姿を追ったものではない。
 こんな家族がもっとも理想的ですという姿が仮にあったとしたら、だれもがそれを真似して、世界中が争いのない平和な社会になっているだろう。現実には、よのなかには、争いがあり、別れがあり、醜いもめごとも多い。理想的な家族の姿を追い求めながらも、そのような姿は理想に過ぎず、だれもこたえを知らないまま、どうすれば家族のきずなを保ち、継続できるのか、暗中模索のなかにいるのだ。自分のやっていることが正しいと信じ込んでいるひとには、忠告してくれるひとが少ない。仮に忠告などしようものなら、百倍の反対意見がふりかかる。そんなリスクを負ってまで、ひとのためになにかをしようというひとはいない。反対に、自分のやっていることが不安で不安でしょうがないというひとは、だまされやすい。アドバイスをそのまま受け入れて、片っ端から試してみようとする。アドバイスがあったとしても、それは他人の意見であり、もっとも的確かどうかはわからない。なるほどと納得しないで、わらをもすがる勢いで不安を解消しようとするもは危険なことだ。
 ひとはバランスのなかに生き続ける。気持ちが不安なときもあるだろう、とても自信に満ちるときもあるだろう、その間を往復しながら、少しずつ、こころを成長させていく。その原動力は、信頼できるひととのつながりだ。家族に限らず、どれだけ自分が困っているときに支援してくれるひとがいるかにかかっている。もちろん、ひとは相互作用のなかで生きつづけるから、相手が困っているときにはこちらから手を差し伸べることも必要だ。自分ばかりが支えられる関係など、ありえない。うまくつきあってくれているひとがいるとしたら、それは業務上の関係なのではないかと疑ってみる必要がある。悩むこと、落ち込むことはだれにでもある。でも、そこから立ち直る手助けをしてくれるひとがいるひとは、そんなに多くはいない。

5427.4/19/2005
 気温が20度をこえる陽気になってきた。幸い湿気があまりないからさわやかな感じがする。出勤の往復の洋服も、きょうは上着をやめて、半袖にベストにした。朝の鎌倉は少し寒く感じたけど、帰りの藤沢はちょうどいい感じがした。しばらくはまだ気温が下がる日もあるから着ていく服を考えないと体調を崩しそうだ。
 電車で制服姿の高校生を見かける。この子たちには、着ていく服で悩む必要性はない。晴れの日も雨の日も変わらぬ制服をなにも考えずに着ていけばいいからだ。思春期からおとなへの大事な時期に、自分の身なりに関する意識を高めないまま多くの若者が育っていく。これは、知識理解の学習以上に、日常生活のイロハとして大事なことが置き去りにされているように感じる。
 勉強さえできれば、ほかのことは何もできなくても、多少は目をつぶりましょうという、学習に対する高い価値観が、こどもにも親にも強い支持を得ている。しかし、学習は、ひとの生き方につながらない限り、方便として身につけようとしても、意欲も興味もわくものではない。結果として、いやいやながら学習をするこどもが増えていくのだ。
 自分のことが自分でできる。最初からすべてができるこどもなんていない。自分でできることを、成長にあわせて増やしていくことが大きな意味での教育だと思う。知識理解に象徴される学校での学習は、そんな自分でできることを増やしていくためのひとつのツールに過ぎない。それ以上に、ひととひととのつながりを強める関係性の力や、季節にあわせて衣服を考える力など、自分でできることを増やしていくためのツールはたくさんある。ひとりの人間の調和のとれた成長を、全人教育と呼ぶ。あまりにもいまの時代は、全人教育からは遠い子育てが増えているかもしれない。できないことに不安を抱き、手取り足取りこどもとともに悩むより、できないことこそ成長のスタートラインだと見極めて、そこから始まる成長の道のりを楽しむ余裕がおとなにほしい。そして、なんでもかんでもひとはやればできるという夢のような考えをもつよりも、それぞれのこどもにあった成長の過程を築いていく手助けが、本当の子育てだと思うほうが、ずっと気持ちが楽になるのにと感じる。

5426.4/18/2005
 きょうは特学の計測があった。
 体重・身長・座高をはかり、視力と聴力を調べた。体重や身長など、からだの成長が目に見えるものは、感覚として前年より大きくなったと思っていたが、どのこどもも数値として確実に成長しているのがわかった。こどもの成長はつくづくとても早いと感じる。おとながこの勢いで大きくなったら、みんなガリバーになってしまうだろう。
 視力や聴力は、通常級のこどもたちとは違った方法で調べる。検査の方法を理解する力が難しいことを考慮しているのだろう。
 視力は、動物や乗り物のシルエットが描かれたカードを見て、それがなんの絵かをあてることができるかどうかで調べる。ボキャブラリーが少ないこどものために、同じデザインを拡大したカードを手元に置き、検査で使っているカードと同じ図柄のカードを手元でさすこともできる。ふつう、円の一画が切れていて、どこが切れているかを示す方法だ。しかし、この方法はとても抽象的なので、具体物のほうがわかりやすい。かつて一年生を担任したときに、クラスに上下左右がわからないこどもがいて、めちゃくちゃに示すものだから、見えているんだかいないんだかがわからないことがあった。そのときに、このカードを使えば正しい結果がわかったかもしれない。
 聴力は、通常級のこどもたちと同じ方法で行う。耳当てをして、高周波と低周波の小さな音が聞こえたらボタンを押す方法だ。ボタンを押すのは高度な力が必要なので、わたしは養護教諭とともに、こどもの表情の変化から「いま聴こえている」「聴こえていない」を区別した。また、日常生活のなかで耳の聞こえについて助言し、結果に反映させた。
 去年の健康診断は、保健室でなにかを調べるというだけで、ぶるぶるふるえていたこどもが多かった。しかし、ことしはこちらもそういう行動に慣れたのか、そういう行動への対処に慣れたのか、どのこどもも予想外にすんなり検査を終えることができた。からだの成長や健康状態を調べる健康診断だが、内面の成長も同時に感じることができた。

5425.4/17/2005
 玉縄ざくら、みやびざくら、そめいよしの、やまざくら、おおしまざくら。三月から出勤の往復を楽しませてくれたさくらたちは、散ってしまった花びらが茶色に変色し、いよいよやえざくらで千秋楽になりそうだ。一年のほとんどを葉で過ごすさくらたちは、いつもこの時期になると、春や夏という活動的な季節の訪れを小さな花びらをたくさんつけて教えてくれる。すっかり葉ざくらになる頃には、四月は終わり、紫外線の強い初夏が始まる。さくらに限らず野山の植物は、大きく外れることなくわたしの生活に季節と風情を教えてくれる。これから秋まで週末を使ったソフトボールリーグが始まる。昨年は棚ぼたの優勝だった。奇跡に近い結果だったから、ことしは苦戦を強いられるだろう。二泊三日のサマーキャンプの会場予約もしなければならない。六月の宿泊行事も現実味を帯びてくる。
 カレンダーや手帳だけを頼りに日付を確認していたら、季節の到来は深まりをもたない。毎日を過ごす生活場面のなかに少しずつかわっていく季節を感じさせてくれるものがあるから、からだとこころのリズムが変化に順応していく。日付や時間という数字の変化には、色も音も香りもないからだ。
 急に宅地化が進んだわたしの家の周囲では、毎年、見事なさくらの景色を楽しむことができた。しかし、今回の開花を最後に多くのさくらが根から切り落とされた。宅地にするためには、さくらに限らず大木は邪魔な存在なのだろう。工事を担当するひとは、仕事なのだから、一日中チェーンソーの音をとどろかせて、懸命にさくらと格闘していた。大げさではなく樹齢が50年以上はあるだろうさくらの巨木は、そんなに簡単には切り落とせなかった。しかし、日ごとに枝を落とされ、幹を切られ、根が処分された。ことしのさくらが見納めとわかっていたら、もっとカメラに収めておくんだった。地面は更地にしてもさくらは残すと勝手に思い込んでいたのだ。
 季節が感じられる風景を、確実に、短期間に変えていくのは、自然の力ではなく、人間のなせる業だ。そこに、ひとの利害関係が入り込んだとき、さくらなどの樹木は、いとも簡単に処分されてしまう。かわりに、そこには無機質な地肌が露呈した平坦な土地が広がった。

5424.4/15/2005
 4月14日の毎日新聞に東京都教育委員会の通知が一面に載っていた。一面、それもトップの扱いなので、毎日新聞とすれば、ニュースとしての価値が高いと判断したのだろう。わたしのように業界の人間には、驚愕のニュースだったけど、一般のひとたちにはどう受け止められたのだろうと思う。
 通知のなかみは、職員会議で教員が挙手や採決をしてはならないというものだった。さらに進行役を議長と呼ばずに司会者とすることとか、学校運営のおもな内容は職員会議ではなく、企画調整会議で決めることというものだ。企画調整会議には、校長・教頭・主管(東京の場合は)など一部の者しか参加できない。神奈川では、今春から、総括教諭という役職が誕生し、各学校二名ずつ辞令を受けている。神奈川では東京の主管にかわって総括教諭が企画調整会議に参加する。
 東京都教育委員会のねらいは、明らかに学校運営の権限を校長に与え、教員たちの発言力を抑制することだ。
 学校運営に関することはつねに内容を吟味しなければならない。多くの仕事を毎年入れ代わりのある職員で分担するのだから前年度と担当者がかわることも確認しなければならない。こどもにかかわる活動だから、ひとつの行事をしたら、さらによりよいプランを検討するのは必要なことだ。互いにこどものためを思っていても賛否が分かれることはある。そんなとき話し合いに参加している個々人から最終的な決定権を奪うのは民主主義の基本を無視した暴挙だ。
 一年間に検討すべき内容は山ほどある。それらすべてを校長ひとりの力で考え、立案し、実行するのは並大抵のことではない。結果的に校長の言いなりになる教員が厚遇され、学校運営の実務を強権的に独占するのだろう。教員どうしに人間関係の軋轢が生じ、不信感が充満する教職員たちが、公教育を担う。東京のように私立学校がたくさんあれば保護者は学校を選ぶことができる。しかしほかに選択肢のない地域では確実に学校から覇気や情熱が失せていくだろう。教員としてひとの言いなりになりながら、こどもに「自分で考えよう」なんておまぬけなことを指導する人間にだけはなりたくない。

5423.4/13/2005
 特学には複数の学年のこどもが在籍している。
 もともと個々人に応じた学習をするので、学年はあまり関係ないのだが、学年ごとに年間の授業時間数が決まっている関係で、日々の下校時刻が異なる。とくに水曜日は気をつけないと、帰りの支度を忘れてしまいそうになる。1年生は3時間で下校。2年生と3年生は給食・掃除で下校。4年生は5時間で下校。5年生は6時間で下校。そのたびに帰りの支度をして、昇降口まで付き添い、迎えにきたひとにこどもを引き渡す。教室と昇降口を一日の間に何度も往復する。自分でさっさと帰りの支度をするこどもたちではないので、そのたびに荷物をかばんに入れるのを手伝い、雨の日は乾かしてあるレインコートをしまう仕事が繰り返される。
 学校全体で、少しずつ時間割が固定し始めてきている。共通で使う体育館や運動場などは、一週間の割り当てが決まらないと動き出せない。それぞれがやりたいように動くわけにはいかないからだ。その動きにあわせて、特学ではこどもたちを交流授業に参加させるタイミングを見計らう。予定を事前に伝えておかないと、特学の時間割で動いてしまうので、急な変更はきかない。そんななか、わたしの担当しているこどものひとりは、先日、音楽と家庭科の交流授業に参加し、6時間目には初めての委員会活動にも加わった。全部で6コマあるうちの3コマが予定外の授業だったから、きっと精神的に疲れたのではないかと思う。それぞれの動きに、特学からおとなが支援につくので、わたしは教室と昇降口を往復しながら、そのこどもの動きにあわせて校舎内を駆け回った。その間、ほかに担当しているこどもには、ひとりでできる課題を用意して、特学の教室をあける。しかし、ひとりでできる課題が多ければ、そもそも特学にはいないわけなので、交流級から教室に戻ると大騒ぎということも少なくなかった。
 きょうは、ほかの担当しているこどもがおそらく小学校に入ってから初めての交流授業に参加した。昨年から担当していたこどもだが、満を持しての交流活動への船出だった。教科は体育。事前に交流級の担任から学習内容を聞き、その内容ならば参加が可能と判断した。いまは、特学での時間が多いこどもだが、少しずつ交流級での時間を増やし、同じ学年のこどもたちに少しずつ存在をアピールしていきたいと思っている。交流級の担任は、授業中もとても気を使ってくれたが、わたしはあえて「ほかのこどもたちと同じように考えてください」と伝えた。交流活動に参加する以上、特別扱いされては意味がない。流れに乗れないのならば、最初から参加の判断はしない。ほかのこどもたちに、このこどもは特別なこどもなんだという意識を持たせることは、逆に異質平等のつながりあいを阻害する可能性がある。チームにわかれてのゲームのときには、あきらかにほかのチームに比べてハンディがあった。作戦タイムで、わたしもいっしょにグループのこどもたちとどうやったら勝つことができるかを考えた。結果、ゲームのなかでは6チーム中2位になることができた。それぞれの特徴を生かしながら、互いに認め合う気持ちを育てることが、特学から通常級にこどもを送り出す大きな意義なのではないかと思う。

5422.4/11/2005
 ちょうどきょうで新年度が始まって週末の休みも含めて特学の一週間が終わった。
 先週は、給食がなく、午前日課の日が続いたので、イレギュラーなスケジュールだった。通常級の担任をしていたときは、少しずつこどもたちが学校に慣れていくのには、必要な準備期間だと思った。でも、特学で担任をしたら、なるべくスタートのときから全開の通常日課のほうが、むしろこどもたちには安定を導くのは早いのではないかと思う。学校の生活リズムを頭よりも全身で覚えているこどもたちが多いので、学校に通ったら、そこでの日課は同じ繰り返しのほうが落ちつくのだ。本当なら、給食があるはずなのに、なぜかそれよりも早く帰る日が続いた先週は、こどもにとってはいつもと違うリズムに戸惑うことが多かっただろう。
 今週は月曜から給食が始まり、いつもの学校日課が戻る。そのため、きのうもきょうもこどもたちの動きや反応は先週よりも落ちついた。先が読める、次になにがあるかがわかる生活というのは、おとなもこどもも気持ちが落ちつくものだと教えられる。毎日が同じ繰り返しだったら、きっと退屈してしまうと思うひとがいるかもしれない。いつも次になにが起こるかわからないハラハラドキドキのほうが、わくわくして楽しいと考えるのだ。しかし、そのような考えは、どんな局面でも自分を崩すことがない自信の持ち主には通用するかもしれないが、多くのひとたちにはむしろ不安を増大させてしまうだろう。
 わたしはことしも去年と同じ3人のこどもを担任している。メンバーの入れ替えが若干あるが担任する人数は去年と同じだ。そのなかに入学生がいる。新1年生。通常級でも1年生のこの時期は、学校に慣れないこどもが多く、担任はデリケートにならざるを得ない。こどもにとって、環境が変わるのは不安を増大させる最大要因だ。きっと毎日が大きな冒険の連続だと思う。保護者も心配がたくさんあるのが連絡帳へのコメントのボリュームでわかる。
 進級したこどもたちは、去年までの積み上げがあるので、特学の生活タイムに早くから乗ることができ、さすがだなと感じた。それでも、机の位置や昇降口の靴入れの場所など、若干の変化に戸惑うことはあった。先週のうちに交流級へ挨拶に行き、クラスのこどもたちに顔と名前を伝えている。来週あたりから、交流級での学習への参加が始められるかもしれない。まだ交流級の時間割が確定しないので、特学の個人個人の時間割が作成できないのだ。特学全体の時間割はできても、個人によって交流級への参加が入るため、微妙にそれぞれの時間割が異なってくるのだ。
 ひとりひとりの時間割が確定してから、特学教員たちの正式な支援体制作りが始まる。いまはこどもたちはみんな特学にいるので、むしろ教員の体制は組みやすい。しかし、交流級での学習が始まると、特学教員は特学と交流級を1時間の間に往復しなければならないので、ひとりで課題に迎えるこどもと、必ず支援者が必要なこどもとで、ひとのつき方が変わってくるのだ。まさに分刻みのスケジュールを組まなければならなくなる。とてもチームワークが必要な仕事だと痛感する。

5421.4/9/2005
 きのう大船の「かまどか」という居酒屋で飲んだ。金曜にも職場の飲み会があり、春は肝臓を鍛える月間になりそうだ。
 きのうのメンバーは、仕事も年齢も違う14人の親父ばかり。共通項は、ソフトボール。ことしで5年目になる大船を中心にした小学校と中学校のPTAソフトボール8チームの代表者が集まり、リーグ戦の開幕へ向けての検討会だった。検討会といっても、飲み屋でやるので、堅苦しいものではないのだが、決めなければいけないこともいくつかあり、飲みながら、食べながら、脱線していく話題を元に戻しながらの、とてもにぎやかなミーティングになった。
 このリーグ戦は、大きな組織が運営するものではなく、まったくの自主リーグだ。鎌倉市が年に一度開催するPTAソフトボール大会がある。そこに参加しているチームどうしで、もっと日常的に懇親をはかる意味で、試合をしたり、飲んだりできないものかと考えた、接骨院のボスが始めた。大会は一日で終わってしまうが、リーグ戦は週末を使って春から秋まで行うので、懇親とともに、各チームの実力も年々上昇している。去年の大会では、決勝に残った2チームは、ともにこのリーグ戦に参加しているチームだった。
 リーグ戦にすると、最低一回ずつ各チームが試合をしても、28試合を消化しなければならない。ことしは、二回ずつの総当たりという案も出ていたので、そうすると56試合を消化することになる。いつも小学校や中学校の校庭を使って、少年スポーツが練習を行う前の時間に試合をしてきた。だから、6時頃から集合して8時ごろまでに2試合ぐらいを終わらせる。ソフトボールというスポーツの特徴上、どうしても音が出る。校庭周辺に住んでいるひとたちから学校に苦情が届く。たしかに疲れて寝ているひとたちにとっては、休日の朝ぐらいのんびりさせてほしい気持ちはわかる。年々、学校を使いづらくなっている。かといって、公共のグラウンドは数が限られているので、応募が殺到している。やる気があって、ひともいて、道具もあるのに、場所がない。親父たちの知恵と人脈をフル活用するしかない。
 ひとは困ったときに、だれかを頼ることはしない。困ったときは、こころが弱くなっている。そんなときに、日ごろからつきあいのないひとたちに、相談できるほどの強い気持ちはわいてこない。その結果、どんどん自分のなかで問題を解決しようと思って深みにはまる。やがて、それらは身体症状に出たり、こころの病になったり、なんらかの苦痛を伴う。だから、ひととひととのつながりは、日常的に作っておく必要がある。それも、学校での教員と保護者とか、会社での顧客と社員という形式的なものではなく、ひととひととしての肩書きのないつながりを作っておかなければならない。もちろん近所づきあいもそうありたい。旧友とのつながりもそうありたい。そして、いまの自分が楽しめることを通したつながりが、わたしにとってのこのソフトボールリーグだ。楽しんでつながれば、苦しんでつまずいても、気持ちが還るところがある。気持ちを吹っ切る場所になる。あしたに元気を信じることができる。
 いつまで白球を追うことができるのかはわからないけど、メンバーの中にはわたしよりも一回り以上も先輩がいるので、まだまだ汗をかくことを億劫がらずにいきたい。

5420.4/8/2005
 虐待で施設に避難しているこどもの多くが、なんらかの障害をもっていることが明らかになった。虐待によって障害をもった場合は、犯罪に近い。もしも暴力の対象が自分のこどもではなく、他人のこどもだったら傷害容疑で逮捕されるだろう。生まれつき、あるいは生まれたときから、障害があって、虐待された場合は、基本的人権の侵害に近い。脳の育ちに関係する発達障害は、本人の意志に関係ないものだ。障害によるもろもろの言動にたまりかねられても、本人の力ではどうにもならないのだから。
 全国には、肢体不自由児施設、重症心身障害児施設、肢体不自由児療護施設が174ヶ所あり、そこに家庭などで虐待を受けたこどもが270人生活している。そのうち、104人が虐待によって障害が生じたり、障害が重くなったりしていることが社会福祉法人「日本肢体不自由児協会」の調べでわかった。同時に、虐待にエスカレートするのを未然に防ぐ保護目的の入院も149人いた。心身障害児総合医療療育センターのドクターが2004年度の入所者について調査し、81施設が回答した。
 270人の虐待を受けたこどものうち、6歳以下が92人、18歳以上が51人いた。養育の放棄が157人、身体的虐待が144人、心理的虐待が16人、性的虐待が2人だった。出生時は健常だったのに、虐待によって身体的障害が生じたひとが77人いた。頭の傷による全身や手足のまひ、視覚障害が多く、首をしめられ低酸素脳症から植物状態に近い全身のまひが生じた例もある。77人のうち、60人に知的障害が伴われた。虐待を招く背景や要因で「こどもの病気や障害」をあげたものが132人ともっとも多かった。
 だれもが結婚しこどもが生まれるまでは、自分が障害児の親になるとは思っていない。その確率はあっても、自分に限ってそのようなことはないだろうと信じている。しかし、統計学的にも、ある確率で障害をもったこどもが生まれるのは確かだし、実際に自分がそのカテゴリーに入ることもありえる。また健常のこどもが生まれても、子育ての苦労が想像よりも大変なことがわからず、親としてどうこどもに接していけばいいのかわからなくなってしまうとき、思い通りにならないイライラをこどもにぶつけてしまう可能性は、だれにでもある。長年、通常級の担任をしてきて、健常なこどもが家庭での育ちによって、チック、強迫神経症、拒食症、過食症、粗暴などの神経的な病に苦しむケースは山ほど体験してきた。
 障害があろうとなかろうと、こどもは親の思うようには育たない。無理に親の願いに近づけようとすると、10歳ぐらいになって大きく反抗を始める。精神的な自立が伴わない場合は、心理的な病と対峙することになる。知的障害の場合は、同年齢のほかのこどもとの育ちの比較を、ついついしてしまい、なぜ自分だけがこんな苦しみを背負わなければならないのかと思い悩む。相談機関はたくさんあるが、なかなか継続的にひとりのこどもと親をケアするシステムは構築されていない。だからこそ、情報の共有と、親がひとりで問題を抱え込まないようにする社会の環境整備が必要になる。「暴力によって育てられたこどもは、やがて言葉によるしつけ指導がきかなくなります」というメッセージを公的機関が新聞やテレビを使って発信してほしい。

5419.4/5/2005
 4月1日は、フリースクール「湘南憧学校」の3年目の開校日だった。
 「学びの主人公をこどもに!」「センセイ、次、なにやるの?から、わたし、これ、やりたい!へ」。湘南憧学校を運営する特定非営利活動法人「湘南に新しい公立学校を創り出す会」の掲げる理想を具現化しているのが湘南憧学校だ。
 1年目は週に三日ずつ開校した。2年目の去年は週に五日ずつ開校し年間で200日の授業日数を数えた。3年目のことしも月曜から金曜までの週五日開校を継続する。
 湘南憧学校のある鎌倉の常盤は、桜で有名な鎌倉山の下りたところで、1日はほぼ満開の桜がとてもきれいだった。花見渋滞もできるほど、車で混雑している鎌倉山の坂道を、スタッフとこどもと親とで作ったおにぎりを持って上っていく。坂道の途中にある市営の運動公園で、花見をしながらランチを食べ、開校を祝うことになっていたのだ。一足先に「場所取り」と称して出発したスタッフと親の男組は、ブルーシートを広げ、すでにビールを飲んでいたのか、気持ちよさそうに本隊の到着を待っていた。上空をとんびが舞い、花見客の弁当を狙っていたので、シートの上におかずのから揚げを置くのは危険だった。おかずを各自に回しながら、とんび被害を避ける。兄弟姉妹で参加するこどもに親戚のこどもも加わり、親やスタッフとともに、とても大所帯の花見ランチになった。
 湘南憧学校は6才から15才までのこどもを対象にしている。ことし、初めて中学校年齢のこどもが在籍している。スタッフは、そのこどもの学区の中学校に行き、湘南憧学校への登校を報告し、中学校での出席扱いを打診し、了承を得た。神奈川県では、小学校や中学校に行かないこどものうち、約1割が行政が用意する適応指導教室に通っているそうだ。それ以外のこどもたちは、湘南憧学校のようにフリースクールに通うか、自宅に留まっている。その割合は、圧倒的に自宅の方が多い。学校に行かないこどもを親としてどうしたらいいのか迷い、困るひとが多いのに、結果として学校と自宅以外の選択肢へ踏み出せないのは、なぜだろう。学校にこどもが行かなくなるのは、多くの理由や背景がある。そのなかには、学校や家庭の環境や状況が変われば、ふたたび学校に通うようになるこどももいるだろう。しかし、教育は学校でしか身につけられないものと考え、こどもの成長や特徴をよく理解しないままに状況をネガティブにとらえすぎている親が決して少なくないのではないかとも思う。湘南憧学校には、学校に対していわゆる不登校だったこどもが、風邪などの病気以外はずっと通うこどもが少なくない。学校での集団への帰属や適応を強制する体質を排除し、個人の成長をもとにひとや社会とのつながりを築いていく湘南憧学校のやり方が、そういったこどもの学びのスタイルにぴったりだったのではないかと考える。こどもが社会生活を営む基礎的な力を身につけていく大事な時期に、ずっと家庭で過ごすのは社会性が育つ可能性を遮断してしまう。一歩、家から外に出たら不安や危険も多いだろう。疲れることや悲しいこともあるかもしれない。そのなかで、自分に自信をつけていく学びや学びのスタイルを確立していく生き方のリズムを日々繰り返していくことは、不安や危険などのリスクを上回る成果となって個人のものになっていく。そして、家庭がもっとも気持ちをリラックスさせる空間になれば、翌日、ふたたびボクの学校、わたしの学校にこどもは足を向けるのではないだろうか。

5418.4/4/2005
 あしたから特学担任二年目がスタートする。
 教室のワックスがけ、教材の整理、新しい支援体制、交流学級の所属、校務の分担など、新年度を始めるにあたって必要な準備を修了式からの一週間あまりで一気に行う。あわただしい毎日のなかで、あしたを迎える。
 こどもが外部からの刺激を受けないようにするための仕切り板を三枚新調した。といっても、予算がないので手作りの代物だ。いつまでもつかはわからないが、こどもの役に立てばと思う。趣味の園芸と称して、かぼちゃとオクラの種をポットにまいた。それも先日から発芽して、うねに定植されるのを待っている。植物の育ちや野菜の収穫を学習のなかに組み入れることができればいいと思う。定植まではもう少し育たないといけないので、それらが引っこ抜かれないかが心配だ。
 通常級と違い、特学には多くの学年のこどもが在籍し、個人に応じた学習指導が行われる。それらも、去年の学習の上に積み重ねられるものと、ふたたび同じことを繰り返しながら定着を目指すものと内容的にわかれる。個人をよく知らないと学習計画は立案できない。また、こどもの状態を日々家庭と連絡をとりあうことで把握しながら、予定を微調整しながらの毎日になるだろう。あらかじめ決めたプログラムを、日々着々と進めるわけにはいかない即時的な対応も、特学の大きな特徴だろう。
 こどもたちが使う机や靴箱、ロッカーやタオルかけなどに名前のシールを新調した。古いものをはがし、新しいシールを貼る。今回は学年と名前の記されたシールを用意した。各自に自分の学年を意識してほしいと願っているからだ。月ごとに歌う歌を帰る朝の会の歌も拡大コピー機を使って歌詞をコピーした。大きな変化を苦手とするこどもがいるので、4月の歌は去年と同じ歌を用意している。今年度は、特学スタッフが全員去年と同じメンバーだ。去年、着任してすぐに担当するこどもの情報を長時間かけて引き継いだことを思うと、その手間がことしはいらない。
 学校が始まったら、交流学級からあがってくる各クラスの時間割をもとに、特学の時間割を精査する。交流の時間は、特学スタッフがなんらかのかたちで特学を離れ交流学級に行って支援するので、特学の体制が手薄になりがちだ。それを補う支援体制を再構築する。
 新年度のスタートにあたって、こどもたちの表情や仕草にどんな成長が見られるのか、いまから楽しみになる。

5417.4/3/2005
 きょうは母の祥月命日だ。
 ちょうど去年のきょう、母は肺がんで亡くなった。あれから一年が経過するが、あのときのことはいまも記憶から消えることはない。
 深夜、もうすぐ日付が4日に変わるとき、それまで浅い呼吸を苦しそうに繰り返していた母は、一瞬、ゆっくりな呼吸を繰り返した。それは、心臓の最後の仕事だった。心電図モニターが一直線になり、病院の個室で母は息を引き取った。
 勤務していた学校が変わり、年度始めの忙しいときに、わたしは一週間の忌引きをとった。学校の職員、こどもたち、保護者にはとても迷惑をかけた。でも、当時のわたしには、母を失った悲しみのほうが大きく、その迷惑を思いやるゆとりはなかった。ことし、あれから一年が経過して、特学での仕事にも少し慣れ、年度始めの準備をしながら、この時期に学校を空けることの大きさをあらためて感じている。
 亡くなってからの一年は、ことあるごとに「去年の今頃はどうしていただろう」と、生前の母とわたしとの関係を思い出した。レストランに行ったこと、足をマッサージしたこと、背中をさすったこと、新しいベッドを買ったこと、疲れた顔で仕事帰りに見舞いに行くと「大変なんだから、早く帰っていいよ」と母に言われたこと……。あしたからは、もう去年の今頃に生前の母はいない。
 帰宅して、父の家を訪ね、仏壇に線香をあげた。手を合わせ、無事にこの日を迎えられたことを報告する。老後は夫婦で長期旅行をすることを楽しみにしていた父は、ひとりで夕飯を食べていた。テーブルには仕事の書類や調味料が雑然と並ぶ。下は寝巻きで上はワイシャツの父の姿には、母が健在だった頃の余裕はない。炊事、洗濯という慣れない家事を必死でこなしてきた一年間の疲れなのか。この日が近づいて、母との思い出を強く意識しているのか。合掌を終え、そんな父と二言三言会話をして、わたしは帰った。
 去年のきょうも桜がきれいだった。ことしは桜の開花が早かったので、もうすっかり散ってしまうかと思っていた。しかし、花吹雪は舞うけれど、まだ枝にはつぼみのある桜も残る。

5416.4/1/2005
 拙宅の北側には広い空き地があった。かつて駐車場だった土地を不動産屋が買い取り、宅地用に造成したまま長い時間そのままになっていた。毎年、空き地の中央にある大きな桜がきれいな花をつけていた。その桜が去年の秋に切られ、宅地建設が始まった。いまは一棟が完成している。さらに次の基礎工事も始まった。最終的には15棟ぐらいの一戸建てが完成するという。庭のほとんどない建物だけで敷地を埋める設計のようだ。不動産屋の看板があり「トスカーナの丘」と名づけられている。これから、広告にはその名前で登場するのだろう。近隣のひとたちは「トスカーナってなんだ?」と首をかしげる。イタリアの風光明媚な場所のことのようだけど、トスカーナの丘のとなりに住む者として、いままでイタリアをイメージしたことは一度もない。
 さらに拙宅の南側の斜面地には古い病院があった。もう開業していないふるい病院だ。雑草が茂り、つたがからまり、廃墟と化した建物は、地元ではお化け屋敷と言われていた。なにしろもとが病院なので、そこには成仏しきれない魂がいてもおかしくないだろうとは思う。インターネットのきわもの情報にも載っているみたいで、夏になると若者の車が深夜やってきては肝試しをしてキャーキャー悲鳴でうるさかった。すべて木造の建物だから、きっとシロアリの巣窟だった。そんななか、深夜に忍び込んだkら、さぞやシロアリの餌食になっただろうと思う。その建物も先月解体された。話によると、建物の持ち主が地主とうまく行かず、長年放置状態だったのが、近年になり和解し、今回、持ち主が解体し、土地を地主に返すことになったらしい。連日、解体業者が作業を行い、お化け屋敷はただの広大な空き地になった。途中、古いカルテがたくさん出てきて、風の強かった日に近隣に飛散した。
 そんなわけで、ことしの春、拙宅の南北はとても見晴らしがよくなり、光がさし込んでいる。それもきっとわずかな期間かもしれないが、数年で景色や土地の形状を大きく変えていく土木や建設の仕事は、ひとの生活を大きく変える力があることを痛感している。

5415.3/30/2005
 春休みに入ってから、学校の敷地内にある桜が満開になる。こどもたちがいないときに満開になってしまい、残念だ。
 特学では3学期の歌として森山直太郎の「さくら」を歌ってきた。こどものなかには歌詞をすっかり覚えてしまったこどももいる。「さくら、さくら、いま咲き誇る」。歌詞の一部が現実のものになっているのに、「このことだよ」と教えたかった。
 各種教育相談機関に行き、担当しているこどもの一年間の成長や新年度の配慮事項を心理療法士の方々と相談する。特学のこどもは教育相談機関を使っているケースが多く、そういった機関と学校との連携は欠かせない。教育相談機関を利用するのは保護者の意思なので、必ず使わなければいけないことはない。しかし、子育ての悩みや成長へのアドバイスなどを保護者が打ち明けたり、参考にしたりするのに、わたしは相談機関は有効だと思う。とくに、わたしにとっては心理療法士や言語療法士、精神科のドクターなど、専門的な方々からのアドバイスは大きな支えになる。ときにはわたしの考えと違うこともあるが、多くの場合は専門的な見地からのアドバイスのほうが、その後の指導や教材作りには有効だった。この休み中も、そんなアドバイスのひとつを参考にあるこどもの教材をひとつ作った。
 新年度にはふたりの一年生が特学に入級する。新年度は一年生から五年生まで10人のこどもたちでスタートする。ひとりひとりのこどもがほかのこどもの行動やことば、やっていることに気持ちが向き、自分の学習に集中できないことがある。そうならないように、セパレーターと呼ばれる仕切り板がある。それがやや足りない気がしながら一年間を過ごした。カタログを見たら、ひとつ2万円近くするので、とても特学の予算では購入できない。校内に代用できるものを探したが、それもない。仕方なく、用務員さんから道具を借りて、自前で作った。
 ベニヤ板を半分に切る。周囲にやすりをかけ、近くのスーパーで買ってきた蝶番をつける。床に接する部分が床を傷つけるので、そこに硬式テニスボールのボールを半分に切って、ドリルでネジ止めした。さらに板の周囲をガムテープで補強する。ベニヤ板なので、持ち運びのときにとげがささるので、周囲を安全にしておくことが必要だった。作業は単純だが、厚さ12ミリのベニヤはとても重く、蝶番のネジがなかなか入らないなど、実際の作業は手間がかかった。そんな作業を三回繰り返し、三つのセパレーターを作った。
 学校全体では8人の方が現場を去る。退職が1人で異動が7人だ。あしたの新聞で一斉に発表される。職員室や教室の荷物を整理される方々としんみりした時間を送る余裕もなく、わたしは自分の仕事に追われる春休みを送る。

5414.3/27/2005
 こどもたちは春休みに入った。
 わたしたちは勤務が続く。通常級の担任のときは、3月になると教室の片づけをした。新年度はほかのクラスで担任をするので、各自自分が使っていた教室をからにしなければならない。こどもたちがいるうちに片づけると、教室が殺風景になるので、修了式を終えてから本格的に片づけをした。
 担任していたクラスが新年度にクラス替えをするときは、学年の教員たちとクラス替えの検討もした。いままでのクラスを解体して、新しいクラスを作る。かつてはクラスがたくさんあったから、クラス替えは一定の意味があったと思う。しかしひと学年2クラスや3クラスが主流になってくると、クラス替えをしても、こどもどうしの関係性が大きく変わることはない。昨今は、保護者からクラス替えに際しての要望が増えた。「○○と同じクラスにしてほしい」「○○と違うクラスにしてほしい」。この種の要望は、クラス集団がこどもの人間関係を規定していることの証明になる。ともだちはクラスや学年が違ってもともだちなのに、クラスや学年が変わるとそれまでのともだちがともだちではなくなってしまう。置かれた状況によって新しいともだちを作らなければならないなんて、とっても苦痛だろう。それを期待されているこどもたちがかわいそうになる。
 保護者からの要望は当然すべてを満足させられるものではない。ある保護者からは「いっしょにしてほしい」と声のあがったこどもがいても、そのこどもの保護者からは「違うクラスにしてほしい」と逆の声が届くこともあるのだ。また、保護者からの要望をクラス替え基準の最優先にしていたら、学力や体力など偏ったクラス編成になってしまう。なかよしだけでかたまらせたい、なかが悪い相手は排除したい。その親心は、本当にこどもを健やかに育てるのに正しいものなのか、疑問を感じる。しかし、要望通りにしなかったら、新年度開始の段階から担任と保護者がぎくしゃくする。4月最初の懇談会で「本当はとなりのクラスにしてほしいと思っていたんです」と多くの保護者の前で言い切るひともいるのだ。仮にこどもが登校をしぶったり、いじめを受けたりしたら、要望を無視した結果だと因果関係をつきつけてくる。実際は、そこに科学的なつながりはまったくないのだが、ものは言いようだなぁと、そういう論理に感動することもある。

5413.3/25/2005
 三月が終わりに近づく。
 学校は、年度の終わりを迎え、毎度のことながら、ひとの動きが職員室内の話題になる。
 校内では、新年度の学級担任がだれになるかが語られる。最終的には、校長が決めることだから、本人の希望だけを聞いても、そのとおりになるとは限らない。また、学年の希望が複数重なると、希望が少ない学年への調整も行われる。校内の人事は、わりと噂話が現実になることが多いが、異動になると、まったくわからない。情報通のひとたちにはとっくに多くの情報が集まるのかもしれないが、ほとんど職員室に行かないわたしには、だれが異動対象の勤続年数に達しているのかさえもわからない。いつも、月末の新聞発表を見て現実を知るというのが正直なところだ。
 でも、新年度になってからすべてを始めるのには時間が足りない中学校では、すでに三月の段階から異動者が異動先の学校に行き、同じ学年を組むひとたちと顔合わせをして実務に入るところもあるという。公的機関の慣例では、辞令が発令される前の情報公開はしてはいけないことになっている。ぎりぎりまでなにがあるかわからないからだが、じゅうぶんな準備期間のない年度替りに、一気になにもかもあわただしく動き始めるのはかえって非効率な気もする。
 去年のいまごろ、わたしは自分の異動のことで忙しかった。異動願いは出したが、どこに異動になるのかがわからなかった。それによってなにかが変わるわけではないが、気持ちが落ち着かない。異動願いを出すと、仮に希望通りではなくても異動そのものを取り消すことはできない。もう現任校に籍はなくなることだけは確かなのだ。荷物整理をしながら、春から自分がどこで働くかがわからない不安が広がった。
 同時にあの頃は、母の容態が悪くなっていた。二月から痛みを緩和するための治療に変更したので、いつ最期のときが近づいてもおかしくない状況になっていた。ちょうど、いまごろ、母は自分で救急車を呼び、ふたたび生きて自宅に戻ることはなかった。異動の忙しさと母の病気が重なって、心身ともに疲れがたまった三月だった。
 そんな一年前を思うと、ことしの三月はとてもおだやかな気持ちで過ごすことができている。初めての特学での一年を終えようとしているが、その疲れよりも、充実感のほうが大きく、ここちよい。1999年から開始したフリースクール。ことしは初めて月曜から金曜まで毎日開校した。出席日数は200日。3人のスタッフにこどもたちを指導してもらいながら運営サイドとして学校をささえた。これも精神的な疲れが大きいが、やはり達成感が上回る。
 雨の日もあれば晴れの日もある。言い古されたことだが、人生にはそれぞれ季節があるのかもしれない。

5412.3/23/2005
 ワールドベースボールクラシックが終わった。
 決勝のあった21日の春分の日は、好天だったのに、鎌倉は車が少なく、小町通もそんなにひとであふれていなかった。午前中からお昼にかけて決勝戦がテレビ放送されたから、きっと多くのひとたちは家でテレビ観戦をしていたのかもしれない。
 オリンピックの正式種目から格下げされた野球。その危機感と、ことし開催されるサッカーワールドカップへの対抗感がアメリカプロ野球リーグにはあったという話を聞いたことがある。だから、シーズン前の大事な時期に大会を実施したというのだ。当初のシナリオでは、野球発祥の地のアメリカが予選から他チームを圧倒し、余裕で優勝するはずだった。しかし、実際は苦戦の連続で、しかも結果的には二次リーグ敗退。スポーツ新聞では、次回のWBCは中止するといきまいているオーナーもいるとか。自分中心主義は、政治の世界だけではなさそうなのが、アメリカらしい。
 アメリカのプロ野球リーグでは、シーズンチャンピオンを決めるゲームをワールドシリーズと呼ぶ。文字通りなら世界チャンピオンを決めるゲームということになる。しかし、今回の世界大会では、四強には日本、韓国、キューバ、プエルトリコが入った。アジアと中南米から二カ国ずつだ。こうなると、真のワールドシリーズはアジアチャンピオンと中南米チャンピオンのゲームになる。サッカーのトヨタカップのように、真の世界チャンピオンを決めるのなら、国や地域を代表したチームどうしの対戦よりも、プロ野球チームどうしの対戦のほうが現実味があるかもしれない。
 「久しぶりに日本人がひとつになった」「国をあげて応援した甲斐があった」。
 決勝から一夜明けた永田町からは、予想通りのコメントがあがる。スポーツを国民統合の道具に使うのは、必死に戦った選手たちや、それを支えたスタッフに対して、失礼なのではないかと思う。日本人がひとつになるとか、国をあげて応援するという言い方は、なんとなくそうかもしれないと思わせる。しかし、実際にはそんなことはないし、そもそも国費からなんらかの援助が事前にあったという話は聞いていない。
 イチロー選手や大塚選手は、日本に帰る選手たちを空港で見送り、自身が所属するアメリカのプロ野球チームの練習にこれから合流する。こないだまで敵だったメンバーの所属するチームで、これからは味方としてチームの勝利のために貢献する。そこには国境はない。肌の色、言葉の違いは関係なく、同じチームメイトという帰属意識だけで野球のプロとしての結果を求める。プロスポーツとは、本来そういうものだ。

5411.3/21/2005
 小学校5年生のときの通知表がある。1973年のときのものだ。
 5年生のクラスは4年生のときからメンバーも担任も変わった。そのままのメンバーで6年生もいっしょだった。担任も同じだった。
 わたしはこのときに、初めて男性の教員が担任になった。まだ大学をでて間もない北海道出身の元気で船が大好きな先生だった。当時は、子どもの数が多く、神奈川県教育委員会の教員採用試験では倍率が1倍を下回っていた。そのため、全国で試験を行い、各地から神奈川に教員を志望する若者が集まってきた。小学校の免許を持っていないひとも含まれ、教員になってから、大学に通い免許をとっていた。いまからは想像できないほどアバウトな時代だ。
 わたしの家の近所の古いアパートに住んでいた先生は、よく遅刻した。その先生が学校に寝泊りする宿泊のときには夕飯のおかずを親に言われて届けた。わたしが高校を卒業するときに、教員を目指そうと思った大きな理由のひとつに、その先生の存在がある。いつかあの先生と同じ仕事をしたいと思ったのだ。わたしは、よく怒られ、よくびんたをされた。それでも、その先生が嫌いではなかった。通知表の通信欄には、率直な文章が綴ってある。
「注意されてもまた注意された。仕事はまじめにきちんとできるようになってきた。人に対する接し方は思いやりのあるやさしい態度がでてきた。いつも人のことを心配しかばってやるやさしい子である。学習態度は座り方をはじめ私語などでよく注意された。算数には正確さが足りないので小さなミスをよくした。たしかめるよううるさく指導した。いつもしかられたがこどもらしい元気のよいところは認めている」
 先生と同じ仕事に就くという念願がかなって、同じ立場で当時の通信欄の文章を読むと、よくもまぁ、これだけ正直に書くことができたと感動する。当時のわたしはたしかにこのとおりだったと思う。しかし、通知表にそのままを書くと、いまならすぐに校長や教頭から書き直しを命じられるだろう。それを無視してそのまま保護者に渡したら、こどもの悪いところばかりを羅列していると教育委員会に抗議されてしまうだろう。わたしがなぜこの先生と同じ仕事に就きたいと思ったか。それを一言で言い表すのは難しいが、わたしのことをほかのだれよりも、もちろん親よりもわかってくれていると思ったからなのかもしれない。いいところはほめ、悪いところは正す。そんな当たり前のことが通用した時代だったからこそ、ぶんなぐられても、廊下に出されても、自殺したり、学校を欠席したりする発想にはならなかったのだと思う。

5410.3/18/2005
(5409号からのつづき……)
 おなかは、給食の時間に6年生の交流級ではなく、特学で食べた。
 特学の多くの子どもたちは、給食を交流級で食べる。交流級は、同じ年齢の子どもたちがいる通常級だ。
 特学の子どもは、それぞれに年齢も特徴も違うので、完全に教師が一対一で向き合って指導が必要な子どもから、学習場面では通常級でも可能な子どもまで多様にいる。それぞれの子どもにとって、自立と自律へ向かうプロセスとして、環境が交流級の方が望ましい場面と特学が望ましい場面と分かれる。あるときは交流級を使い、あるときは特学を使う。おなかのように、給食時間のほぼすべてを特学で食べた子どもは珍しい。そのこどもの場合は、自らの意思が交流級ではなく特学を選んでいたので、できないことをできるようにするのとは方向性が違う。おそらく5年生までの通常級での生活が、精神的にも心理的にも負担が大きく、交流級での給食にいやな記憶が強かったのだろう。
 わたしは、給食の時間に特学で食べる子どもの支援を担当した。だから、おなかとはいっしょにずっと給食を食べた。直接の担任ではないが、その時間を担当する協力指導体制なので、ほかの担任の子どもでも、自分が担任している子どもと同じように支援する。そのとき、おなかは以前の学校のこと、家庭のこと、友だちのこと、ペットのこと、公文のことなど、たくさんたくさんの話を聞かせてくれた。おなかにとって、給食の時間はそんな自分の思いを聞いてくれる存在を求める時間だったのかもしれない。卒業式前日にくれたカードに「いっしょに給食を食べられて楽しかったです」と書いてあった。大きな集団のなかでは、緊張し、自分から周囲の子どもやおとなにはたらきかけることが少ない子どもなので、通常級での給食は緊張の連続で苦痛だったのだろう。そんな苦しみを言葉にできれば、きっと生きやすいだろうが、そこまで論理的な思考が育っていない段階では、おなかが痛くなることで、学校を休んだり、早退したりして、苦しい場面から離れる選択をしてきたのだ。
 交流級で給食を食べている子どものなかには、一時的に特学での給食を選んだ子どももいる。そんな臨時メンバーが参加したときも、おなかは特学メンバーのレギュラーとして、食器の片付け方やごみの捨て方を自信をもって説明していた。自分にできることを確実に増やしていくと、不安や苦痛は少なくなり、行動の見通しがもてることを一年間で学習したのではないかと思う。
「一年って、すっごく早かった」
卒業式が終わった後、まだつぼみのふくらむ桜の木の下で、おなかは背伸びをしながら教えてくれた。

5409.3/17/2005
 きょうは小学校の卒業式だった。
 きのうの湘南地方は、夕方から台風を思い起こさせるような嵐になった。どす黒い雲が冷たい風とともに広がり、あっという間にシャワーのような雨が路面をたたいた。風も強く、折りたたみ傘など役に立たなかった。夜に入って、さらに警報が出るほど風雨は強くなり、このままでは卒業式がどしゃぶりのなかになるのかなと心配した。
 しかし、明け方にはすっかり雨が上がり、日の出の頃には青空も広がった。4年生以下が卒業生とさよならをするお別れ式が校庭で行われた。
 特学では、2人の卒業生がいた。在校生は8人。8人のこどもたちは登校してお別れ式の後、すぐに下校なので、送ってきた保護者の多くは、そのままこどもとともにお別れ式に参加した。
 お別れ式が終わった後、8人の子どもたちの帰りを確認して、卒業式の準備に入る。2人の卒業生が、安心した気持ちで長い時間の卒業式を終えることができるかどうか不安だった。2人とも、お別れ式の段階ですでにとても緊張していたのがわかったからだ。
 2人の卒業生の担任は、子どもの近くに座る。わたしは教職員の席にいた。でも、すぐに席を離れてもいいように端の席をキープした。卒業証書をもらう前に、全員が将来の夢や中学への期待を言葉にした。特学の2人も同じプログラムのなかで動く。自分の言葉を言うことができるかどうか不安になる。突然、ポケモンの歌を歌いだしても不思議ではない子どもと、おなかが痛くなっても不思議ではない子どもだ。でも、ふたりとも、自分の順番になったら用意していた言葉を最後まで言い切ることができた。きょうは練習ではなく、本番だという気持ちが育ったのかもしれない。
 すぐにおなかが痛くなる子どもは、昨春、ほかの小学校から転校してきた。その小学校では通常級にいたが、徐々に学校を欠席しがちになり、5年生の時には完全に不登校だったという。保護者は教育委員会に相談し、いまの小学校への転校と、特学への転籍を決断した。この一年間、その子どもはおもに月曜と金曜は欠席した。しかし、火曜から木曜まではほとんど登校した。住所を変更していないので、もとの学校からは電車やバスを乗り継いで一年間登校し続けた。登下校はかなりきつくなったはずなのに、その子どもが通常級時代はずっと欠席したのに、特学では6割近く出席した意味を考えなければならない。
 運動会、体育大会、修学旅行など、学年や全校での動きをともに送れるように、行動パターンを事前にわかるまで学習した。それでも、直前に欠席することもあった。甘えているわけでも、だらしがないわけでもない。学校の日常が、精神的にいっぱいいっぱいなのだ。その子どもの成長と、ほかの多くの12歳の子どもの成長にやや違いがあり、そのことを周囲が認め、無理や強制をせず、その子どもにあった参加体制を考えれば、必死に流れに乗ろうとしたのだ。

5408.3/16/2005
 3年生とクラスも担任も同じだった4年生の通知表。担任からの言葉が書いてある。
「とても意欲的に学習にスポーツにとりくんでいました。理解力もあるようですから、物事をまとめて話したりとか、書いたりできるような力がほしいと思います。とても明るくなったと思います。まじめに努力してきたようです。発表も的確な問題をつかみ、言えると思います。今後ともがんばってほしいと思います」。
 主体性に欠け、作業に時間がかかり、話の筋道が立てられず、同じ姿勢を維持できなかった3年生のわたしが、たった1年を経て、ずいぶん成長したものだと思う。当時のわたしは土曜日の午後に少年サッカーチームに所属していた。2年生からはじめ、4年生のときにはすっかりサッカー小僧になっていたのかもしれない。いまは、サッカーチームは地域にいくつもあり、こどもたちが多く所属している。しかし、あの頃は男子のスポーツといえば野球の時代だ。ほとんどの男子が野球をやっていたのに、なぜ自分だけサッカーを選んだのかはわからない。もともとそのような習い事を勧める親ではなかったので、きっとわたし自身が「やりたい」と希望したのだと思う。サッカーに興味をもったのではなく、友だちが入っていて楽しそうだったから入りたくなったのだろう。
 4年生のとき、サッカーを通じて仲良くなった友だちのなかには、いまも親交のあるひともいる。いっしょに楽しいことも悪いことも経験した友だちとは、5年生になるときにクラス替えでばらばらになった。きっと同じクラスであまりにもギャング化し、担任たちが意図的に離れさせたのだろう。当時はひとつの学年が5クラスあったから、ばらばらにすることは可能だった。中学校でも同じクラスになることはなかった。高校は別々の高校に進学した。それでも、いまも親交があるということは、同じクラスや同じ学校という枠組みは、わたしにとっては友だちとのつながりを維持する条件ではなかったようだ。

5407.3/15/2005
 通知表一枚から当時の自分を思い出すのは危険なことだ。
 しかし、通知表によって、当時の教員が自分をどんなふうに見ていたかは少しだけだがわかる。9歳の自分なんて、とうの昔に記憶から消えてなくなっていた。主体性に欠け、作業に時間がかかる。話の筋道が立てられず、同じ姿勢を維持できない。こんなこどもがクラスにいたら、担任はさぞや迷惑だっただろうと思う。
 わたしが入学した小学校は鎌倉市でも歴史の長い古い学校だった。1年生のときは、担任がとても若くてやさしい女性だったので、それだけで楽しく登校していた。通学路に横須賀線を横切る大きな踏切があり、毎日、そこを渡るとき、なぜかどきどきしながら、息を止めていたのを思い出す。わたしが2年生になるとき、自宅に近いところに新しい小学校が開校した。それに伴い、多くの小学生が新しい小学校に編入した。引っ越したわけではないので、転校とはいわない。編入という言葉を、小さいながらも記憶した。
 ほかの小学校からも編入してきたこどもたちと、新しく2年生の生活が始まる。このときの担任は、年配で、しつけに厳しい女性だった。担任がいるとき、教室のなかはしーんと静まり返って、こどもたちの声がしなかった。実際にはそんなことはなかったと思うが、印象に残る風景に笑顔はない。そのときに、1年生とのギャップから、小学校はつまらない、いやなところだと思うようになる。もともと行動的ではなかったから、寄り道や空き地で遊ぶことは少なかった。学校にいても、少しでも早く家に帰りたい。そんな気持ちでいっぱいだった。
 だから、3年生に進級しても、学校生活を楽しもうとは思わなかった。しかし、3年生の担任は新採用の女性で、2年生の担任とは大違い。クラスには笑顔や話し声がいつも広がり、登校するのが楽しみになった。教師の存在ひとつで、気持ちがこんなにかわるものかとも思うが、威圧的な空間は年齢に関係なく逃げたいのは、だれしも同じではないか。4年生には、そのままのクラス構成で、担任も持ち上がる。

5406.3/14/2005
 過去の自分に出会うのに、アルバムや日記とは違った感覚になるのが通知表だ。完全に自分自身によるものではないので、客観性が担保されているように思うが、当事者が首を傾げたくなる評価が含まれていると、ひとは自分の違う面を見ているものだと感じてしまう。
 いまから35年前の小学校3年生のときの通知表。通信欄には担任の言葉が書いてある。当時の担任は若い女性だった。たしか新任教師だったと記憶している。
「おだやかでいいと思います。もう少し自主性がほしいと思います。強い面があるという反面、何か姿勢にしても神経を集中させられないところがあります。友だちとは楽しくやっているようです。図工はのびのびと豊に表現しています。ていねいですけれど、物事をはやくできるようにしましょう。はっきり話ができるようになってほしいと思います。算数は大分がんばりました」。
 わたしが教員になった20年前、通知表を作成したら、必ず校長に提出し、内容のチェックを受けた。付箋がいくつも貼られた通知表を返され、自分の日本語能力の低さを反省しながら文章を何度も書き直した。そのやり方は、20年間に学校をいくつもかわったが、どこの学校でも同じだった。当時の通知表は、同じ扱いだったのだろうか?こどもがとても多い時代だったから、いちいち校長は内容チェックまでしなかったのだろうか。
 この担任の文章を、いま読み返してみて、もしいまこのような書き方をしたら、冒頭の「おだやかでいいと思います」からいきなり「なにがいいのか?」という付箋がつくことは間違いない。また、当時の担任は、わたしを内向的な性格の持ち主だと思っていたようだ。過去の自分を相対化するのは難しい。だから、ほかならぬわたし自身がはっきりしない過去のことを断定できないが、いまのわたしとは対極にあるような目立たない慎重なこどもだったということか。

5405.3/12/2005
 父が実家を引き払いわたしの家と同じ敷地に転居してきて2週間になる。
 50年以上、祖父の代から住んだ家だったから、昔の荷物がたくさん出てきた。そのなかに、わたしの小学校と中学校の通知表があった。
 先日、引越し荷物をあけていて気づいた父がもってきてくれた。正確には、小学校3年生から6年生までの通知表、中学校全学年の通知表、中学校全学年のテストカードの合計10冊の資料だ。いまから30年ぐらい以前のものだが、インクは消えることなく残っている。台紙も厚紙で印刷は業者がしているのだろう、やや黄ばんではいたが30年も昔の紙とは思えない。いまのように経費節約の通達のもと、通知表に再生紙を使っている学校ではわずか数年で紙はぼろぼろになってしまうだろう。残っていたほうがいいのか、きれいさっぱり無くなってしまったほうがいいのかは、本人次第だ。
 あらためて振り返ったら、意外なことに気づいた。記憶のなかに、小学校時代は楽しくて、中学校時代は二度と戻りたくない印象がある。成績もそれを裏付けているだろうと思った。しかし、各教科の成績は小学校時代よりも中学校時代のほうがよかった。当時は、完全に相対評価が実施されていた時代だ。クラスや学年のなかで、テストの結果をもとに1番から最下位まで順位をつけ、上から高い評価を割り振るやり方だ。だから、小学校時代の低い評価は、そのままクラスのなかでテスト結果が悪かったことを意味する。いまのようにやれ観点別だ、やれ興味や関心だなどと教師が目を皿のようにしてこどもを観察する時代ではないので、中学時代の成績が上がったのは、テストの結果がよかったのだろう。
 テスト結果がよいということは、いやいやながらも予習や復習をしていたのだろう。大学受験のために高校3年生の秋に塾に行くまで、学校以外では勉強をすることはなかったので、教室や家で勉強をしていたのかもしれない。いまのようにひとりで遊べる道具があるわけではない。野球部に所属していたので、放課後が自由に使えたわけでもない。限られた時間を効率的に使っていたのだろうか。
 それでもなお中学時代の印象が悪いのはなぜか。いや、成績が悪くてもOKだった小学校時代だからこそ、楽しくてしょうがなかったのかもしれない。中学では、周囲の期待や自らの義務感で、意欲の有無に関係なく勉強をこなしていたから、ほかにやりたいことがあっても我慢をし、学年順位の上下で一喜一憂する自分や友人を嫌悪し、体罰全盛の時代に暴力教師のふるまいに追従していた。そんな時代に戻りたいとは、いまも思えない。

5404.3/11/2005
 東京都世田谷区で中学二年生が自宅に放火をした。
 学校に遅刻したことを父親に注意されたことに腹を立てたことが動機だという。この火事で、幼い妹が焼死した。両親も重症だという。もともと両親が別居状態だったが、そのときに長男が不登校になったので、父親のもとに家族が同居をしていた矢先の放火事件になった。
 同居をしてからは、遅刻することはあってもさぼることはなかったのに、「学校へ行け」と強く父親に叱責されていたという。遅刻をたしなめたり、学校に行くように指導したりすることが、長男にとって精神的な苦痛を増大させた。結果的に、自宅への放火に結びつくことなど、家族のだれも予想してはいなかっただろう。それがわかっていたら、違うアプローチが可能だったかもしれないが、不登校気味の息子に登校を促す親の考えと行動は、もう少し熟慮が必要だったのではないかと思う。
 精神的に追い込まれていたとはいえ、それを解消するために放火という手段を実行してしまう息子に、だれがしたのだろう。不登校になったきっかけは学校での出来事だったかもしれない。しかし、それまでつらかったものが背景にあって、学校でのきっかけが引き金になってしまったのだとしたら、つらさを生み出した背景に迫らないと、少年のこころの問題はなにも解決しない。放火は大罪だ。マンションで火事を出したので、両親はこれから同じマンションの住人に対する社会的補償と向き合わなければならなくなる。少年はしばらく社会と隔絶した環境で罪と向き合い、長い時間をかけて社会復帰を目指すことになる。多くのひとに迷惑をかけ、多くの時間とお金を必要とするこれからの償いの大きさは、計り知れない。
 親子の間に、良好な感情の交流が見出せない家族が増えている。あるときはこどもが、あるときは親が、ちょっとのきっかけで暴発し、犯罪事件としてよのなかを騒がす。近年、このような事件がとても増えてきた。親が親になりきれず、こどもが親のテリトリーから巣立ちできず、互いに家族を演じている。リストラや給料カットなど、おとなが生きにくいよのなかだ。おとなの抱えるストレスが、家庭でわが子にゆとりをもって接する時間もやさしさも奪っているような気がする。

5403.3/9/2005
 東京都は、精神的な理由で入院や加療が必要となり、長期療養休暇を取得している教員が全国で最も多い。
 東京都教育委員会の方針は、ほかの自治体と比べてとても中央集権的な内容が多く、都知事・教育長・議会の考えがヒエラルキーの頂点となり、末端の学校現場に浸透している。とくに卒業式や入学式での日の丸掲揚や君が代斉唱では毎年処分者が出るほど、教育行政の方針に、学校現場が従順にならざるを得ない状況になっている。
 学校内の教職員の役割を決めるのも、校長がすべて決めてしまう学校も少なくないと聞く。校務分掌は、学校運営の大きな要であり、分掌のひとつひとつを教職員が話し合いで決めないと、校長の考えに近いひとたちばかりが主任を含めた重要なポストを独占し、教職員のなかに階級格差を生じる結果になる。校長としては、ものを言わない従順な部下ばかりを手元に置き、こどもの日常からかけ離れた教育内容でも、平然と断行してしまうことが可能になる。その都合のよさは、公教育の現場では、とても危険なことのように思う。
 法律や省令で決まることは、いつの時代もベストとは限らないことを歴史が証明している。とくに戦争に発展していくような社会背景では、学校はこどもたちのこころをひとつの方向にもっていく大規模な装置として機能してしまう。異論や反論のできる学校環境を築いていくことが、こどもたちに平和な民主社会のあるべき姿を示すことになるのに、中央集権的なやり方ばかりを示したら、こどもは話し合いよりもパワーのほうが必要だと感じてしまうだろう。
 三月。中旬になる。中学や小学校では卒業の季節だ。ことしも、こどもの成長した姿よりも、教員のなかのだれが校長や教育委員会の指示に従わないのかをチェックすることに神経を集中する校長や教頭が、全国にたくさんいるのだろうと思うと、ため息ばかりがこぼれてしまう。

5402.3/8/2005
湘南憧学校、奔る(-23-)

 わたしたちは、いまの学校でできないことを、いまの学校の枠組みの外で実現したいと思っているのではない。
 いずれ湘南憧が、法律で認められた学校になり、そこに通うこどもたちに学籍のある学校と通う学校が違う状態を解消したいと願っている。
 少しずつだが、全国的にフリースクールが増え始めている。多くの場合、そこに通うこどもたちは、最初から入学していたわけではない。一般の学校に通いつつ、そこになじめなくなって、フリースクールを選択する。法律で認められていないので、保護者が負うリスクは目に見えるものから、目に見えないものまで含めて、かなり大きい。財政的な支援がなく、自主自立が求められるフリースクールでは、授業料を保護者から徴収しなければならない。経済的な負担を保護者に負わすことは、私立学校を選択しているわけではないので、法律で認められていなくても軽減できるようになればいいと思う。
 そんななか、多くの見学者が湘南憧に足を運んでくれている。
 そのなかに、まだ五歳のこどものいる家族がことしの三月に見学に来られた。五歳なので就学にはまだ一年以上ある。それでも、わが子がまなぶ学校を就学一年前から考える若い夫婦が現れてきたことは、いままでと違う流れが生じてきた実感を受けた。面談をして、いまの学校への強い違和感からフリースクールを選んでいるのではなく、こどもが通う学校を親として考えることが当然のことという自然体がすがすがしいと思った。実際には、就学前の一年間に体験入学をしながら、最終的にどうするかを決めてもらうことにした。ほかのフリースクールを選ぶかもしれない。学区の公立学校に就学するかもしれない。晴れて湘南憧の仲間になるかもしれない。結果はどうであれ、六歳になったら自動的に学区の公立学校へという考え方が、若い親世代のなかで、決して当然のことではなくなってきた事実を歓迎したい。
 湘南憧は二〇〇六年四月、開校から三度目の春を迎える。毎日が新しいことの連続で、まだ歴史が作られていないので、現場の支援スタッフは日々工夫と苦悩の連続だ。それでも、前を向いて走り続けるなかで、少しずつあしたのこと、来週のことへの見通しがもてるようになることを信じている。(終わり)

5401.3/7/2005
湘南憧学校、奔る(-22-)

 三月四日。春を感じさせる鎌倉。
 二〇〇五年度の湘南憧学校、最後のプレゼンテーションだった。
 今回のプレゼンテーションでは、ベーシックタイムでこどもたちが取り組んだことも、内容に含めた。一年を通じて取り組んできたものを、あらためて振り返ると、大きな蓄積になっていることを、多くのこどもたちが感じたことだろう。スタッフの挨拶で始まる。こどもたち、ひとりひとりがプレゼンテーションで伝えるなかみや、これまでの学びについてメッセージを発表する。何回も原稿を書き直して当日を迎えたこどもがいる。声を発するのが苦手な子どもは、大きな画用紙に自分の伝えたいことを文字で書き、それをスタッフが代読して伝える。表現方法は、各自にもっそもふさわしい方法を選べばいい。どんな表現方法が望ましいのかという序列評価は湘南憧学校にはない。
 この日は五歳の子どもがいる夫婦が見学に来られた。来年度の入学を視野に入れて、一年前に見学に来た。ちょうど、プレゼンテーションの日だったので、湘南憧学校の一年間がわかるのではないかと期待していた。スタッフや保護者、見学者の前で伝えたメッセージのひとつがある。
「私は四月からレインボータイムで毎日、絵をかいていました。アニメのキャラをかいたり、オリジナルのキャラをたくさん書いています。一日だいたい五枚ぐらい書いていて、多い日には十枚以上かきます。そのなかから一月二月にかいたこたちをまとめて本にしました」。
 折り紙を使った雪の結晶。エジソンの伝記をもとに書いた小説「江戸損」。各自の残したあゆみのかたちは違っていても、一年前のおどおどした表情からは比べ物にならないほど、それぞれの表情や態度には自信がみなぎっていた。

5400.3/6/2005
湘南憧学校、奔る(-21-)

 年が明けてからの湘南憧は、各自が一年間繰り返してきた歩みのうえに、意欲や興味を広げた。同時に、湘南憧のなかで、日々の生活に没頭してきたこどもが、これから先のことをおぼろげに考えるようにもなった。
 三月四日に、年度末のプレゼンテーションが企画されている。今回のプレゼンテーションでは、各自のベーシックタイムでの学習内容も披露することになっていた。披露するほどの蓄積ができたことの証である。
 プレゼンテーションは、明らかに自分以外のひとを意識して、学習の成果を伝える。だから、各自が湘南憧で学習してきたことが、保護者や見学に来られた方々にわかる。しかし、プレゼンテーションで表現されるなかみは、あくまでもこどもたちが学習してきたことの一端である。見られること、評価されることを意識しながらまとめたものなので、必ずしもこどもの学校生活全体を網羅したものではない。こどもたちは、見せるために、評価を受けるために、興味あることを見つけ、学習に発展させてきたわけではない。見せることや、評価を受けることのウエイトを高めてしまうと、こどもたちは自分の興味よりも、親やスタッフ、見学者に受けのよいなかみを選んでしまいがちになる。そのような危険性は、教師サイドが注意深く配慮しなければならない。
 プレゼンテーションは、本番までに発表する内容を選んだり、部屋のなかで各自が場所取りをしたり、参加者へのメッセージを考えたりして、本番よりも準備に時間がかかる。その準備段階でこどもたちが気づくなかみを大切にしている。かつて学習したことを、こどもは忘れていることが多い。自分で決めたことでも、過ぎてしまうと、思い出せなくなっている。そこで、発表のためにという見通しをもたせることによって、これまでの学習を思い出す動機付けを与えるのが湘南憧のプレゼンテーションだ。
 参加者の前で、ひとりのこどもが順番に発表するのではなく、部屋のあちこちに机があって、それぞれが店主のようになり、見学者を迎えるやり方になっている。