5399.3/5/2006
湘南憧学校、奔る(-20-)
十月二十五日から二十八日のカレンダーには、江ノ島で釣りをするための足跡が記されている。
大学で研究職にあるMさんが定期的にリーダーを担当している学習の一環だ。
二十五日、海や磯にいる危険な生き物についての予習。二十六日と二十七日、プリントをもとに釣りの餌を学習。そして本番の二十八日、江ノ島で釣りに挑戦。釣果がすごい。シロギス二十三尾、タイワンガゼミ、ヒイラギなどを含めて、全部で四十二尾も釣り上げた。シロギスはその場でから揚げにして食べる。
十一月二十五日は、秋の鎌倉を散策した足跡が記されている。湘南憧学校は藤沢から鎌倉に続く県道沿いにある。鎌倉駅と大仏への分岐点になる常盤に位置しているので、山にも海にも出やすい。このときは、海へと続く大仏コースを散策した。鎌倉文学館、鶴岡八幡宮、鎌倉駅周辺をすべて散策。ずっと歩いたせいか、カレンダーのすみには「歩きつかれたぁ」のコメントがある。
十二月十三日からは、鍋パーティーの準備が記されている。買い物班、部屋の準備班、包丁班にわかれ、どんなパーティーにするか計画を検討している。そして二十日のパーティー当日を迎える。ひとり二百三十円の予算でてんこ盛りの鍋ができた。
まなびのなかに、季節や文化を取り入れていくことは、こどもにとって、自分が生きる社会の日常性を感じる大切な要素だ。教室や家のなかでのみ学習を続けていたら、知識は増えるかもしれないが、それらが社会を生きるための力として発揮されにくい。身の丈にあった生活体験を繰り返し、少しずつ内容を複雑にしていくことで、こどもは経験を力にして、経験していないことへの想像力をふくらませていく。そのために、湘南憧学校ではこどもたちからの発案をスタッフがじょうずにコントロールして、一月のなかに社会と楽しみながら向き合うことのできるイベントをハーモニータイムを通じて築き上げている。春には春の、夏には夏の、秋には秋のというように、季節に応じたものを適切に配慮しながら。
5398.3/4/2006
湘南憧学校、奔る(-19-)
鎌倉で開校している湘南憧。秋の鎌倉を学習に取り入れないのはもったいない。ハーモニータイムで、鎌倉めぐりが企画された。週末の鎌倉は観光客でにぎわうが、平日の鎌倉は観光シーズンでも人影はまばらだ。静かな鎌倉の秋を満喫できるこどもたちがとてもうらやましい。
沖縄のシーサーをこどもたちに教えてくれる方がいた。保護者が知り合いを紹介してくれた。材料費がけ実費がかかったが、日ごろ、触ったことのない種類の粘土を使って、こどもたちはシーサーに挑戦した。
小学校を定年近くに退職し、その後も非常勤講師として勤務しながら、勤務のない日に指導しに来てくれる方がいた。紅葉した落ち葉を集めてきて、絵の具の三原色を使って、よく見て、混色しながら、落ち葉を描く指導をしてくれた。スタッフもいっしょに学習に参加し、おとなとこどもの作品が壁に掲示してあった。とてもあたたかく、自然に近い色を使った作品に、わたしは最初本当の葉が貼ってあるのかと思った。
ひとりひとりの興味の向き方は、こどもどうしの関係と密接な結びつきをもつようになっていた。落語に関係した内容を学習内容にしているふたりのこども。同じ興味の向き方が、互いを高める効果に結びつけばいいと願う。オリジナルキャラクターを中心にした学習内容を継続するこども。ぬいぐるみや漫画を作ることを継続するこども。それぞれが、ほかのひとと違うことをまなびの中心にすえていることを問題視しない環境を実現している。
こどもたちを見ていると、たくさんのこどもが、ひとつの部屋で、同じことをずっとやり続けることのほうが、むしろ無理があるのではないかと思えてくる。
5397.3/2/2006
湘南憧学校、奔る(-18-)
秋を迎えた湘南憧学校は、開校初年度もそうだったように、見学者が訪れる。
平日は少ない支援スタッフしかいないので、見学者への対応は不十分になる。だから、月に一度、最初の土曜日を一般向けの公開日にしている。公開日は年間を通じて用意してあり、インターネット上に日にちをアップしてある。
見学者は、こどもの入学を前提にしている親子、メディアの記者、サイトを通じた情報提供関係者、大学生に大別される。
こどもの入学を前提にしている親子は、まず最初の見学を公開日にして、それ以降は平日に体験入学へと発展させる。公開日には、日ごろ仕事をもっている運営スタッフが多数参加しているので、入学に関しての質問や不安に対して応じることができている。教育目標や指導内容、通学方法や授業料など、大きなものから小さなものまで様々な質問を抱いて見学に来られているひとは多いので、リーフレットを渡しながら、対応する。
メディアの方々は、チャータースクールやフリースクールをテーマにした記事や番組の取材のために訪れる。あらかじめ下調べをしている方が多く、質問内容はとても専門的なものが多い。わたしたちの活動資金は決して豊かなものではない。だから、メディアを通じた情報伝達は、とても有効な手段だ。
昨今、増えてきたタイプにインターネットを通じたフリースクール情報の発信関係者からの見学がある。フリースクールを求めているひとはオープンな情報が少なくて困っているケースが多い。そういうひとたちはインターネットでも情報を探している。全国のフリースクール情報を網羅したサイト制作が少しずつ始まろうとしている背景には、じわじわとニーズが高まってきていることがあるのだろう。
そして、卒業論文や卒業研究のために大学生が訪れる。新しい学校、チャータースクール、こども中心の教育論、フリースクールなどをテーマにした研究を続けている大学生が、見学と取材に来る。なかには、単位取得のために事務的に見学する大学生もいるが、多くは一日こどもたちとからだを動かして過ごし、やがては自分もオルタナティブな教育の道に関係した生き方をしたいと考えている。その意識の高さと、意欲の強さには、いつも驚かされる。
5396.3/1/2006
湘南憧学校、奔る(-17-)
公立学校では、同い年のこどもばかり40人を上限として、クラスを編成する。クラスは、こどもが学校で生活する母集団になる。朝から帰りまで、生活をともにする関係性の強い集団だ。指導する側の考えとしては、クラス集団がケンカや無関心でばらばらなよりも、ほどよく調和がとれていたほうが都合がいい。だから、ともだちを大切にし、協力や連帯を美徳にする。見知らぬおとなが犯罪を犯す時代に、たまたま同じクラスになったこどもが安全だとは言い切れないのに、同じクラスというだけで、仲良く過ごすことが正しい価値になる。そこに、いじめや仲間はずれが起こる遠因が生じることを、学校関係者は気づかない。
自分の考えよりも、集団の意志を優先する考え方をすんなり受け入れられるこどもはいい。しかし、わがままと言われようが、自分勝手と思われようが、ときとしてほかのひとたちの考えを受け入れられないこどもがいたっておかしくない。そういうこどもには、親からも教師からもクラスのこどもからも、考えを変更して、全体の考えにあわせるように求められる。同調圧力という。多くの場合、同調圧力に屈していたほうが、学校生活は送りやすい。しかし、自分の考えを押し殺す経験を積み重ねると、ストレスがたまっていく。それが、知らない間に身体症状となって現れることがある。朝になるとおなかが痛い、頭が痛い、学校の門が見えると吐き気がする、寝言を言う、教室に入るだけで息苦しくなる。
防衛行動として、教室に行かない、学校に行かないことを選ぶには時間がかかる。そのことで、また親や教師、クラスのこどもから同調圧力をかけられるリスクを負うからだ。
湘南憧学校は平日に開校しているとはいえ、法律で認可されていないフリースクールだ。だから、湘南憧学校の教育理念に賛同して入学するこどもよりも、学校に行かなくなったこどもたちが、まなびの場として選択してくるケースが多い。湘南憧学校の教育理念に賛同しても、法的に認められていない学校にこどもを通わせるのは、親にとって冒険だし、不安にもなるのだろう。
湘南憧学校には、公立学校のような集団への帰属を強制する同調圧力はない。ひとりとひとりが快適に、有意義な生活を過ごせるような、最低限のルールさえも、スタッフとこどもで話し合って決めていく。そんなこどもたちにとって、みんな仲良くとか、もっとたくさんのこどもがいたほうがいいとか、公立学校で正しいとされている考え方を導入したら、湘南憧学校でも息苦しさを感じるこどもが増えるだろう。ひとりでいることは寂しいことではない。無理にひとりをふたりやみんなに吸収させられてしまうことのほうが、よっぽどつらく、寂しい自分と対面しなければならなくなる。
5395.2/28/2006
大学を卒業した20年以上前にわたしは生家を離れた。
以来、両親の海外出張で3年間だけ生家に戻った以外はずっと生家を離れた暮らしをしている。
いまの住居に住んでからは、生家が近くなったので、行く機会が増えたが、昨年の冬に祖母が施設に入り、春に母が亡くなってからは足が遠のいた。父が広い家で、不得手な一人暮らしをしているのは知っていたが、あまり手取り足取り助けるとこれからの人生をずっと頼られてしまう気がして、必要なとき以外は行かないようにしていた。生家は戦後祖父母が満州から引き上げてきてからの借地持ち家だった。数度の借地権の更新を経て、現在に到っている。
近く、また借地権の更新があることにあわせ、父は更新をせず、わたしの家を増築して同居することにした。同居といっても、別棟の新築なので生活の面倒を見るつもりはない。今月、少しずつ荷物を処分したり運んだりして引越しの準備が整った。
あした、最後の荷物を運んで、引越しが完了する。
生家の地主は、すでに借地を不動産屋に販売し、不動産屋は跡地にマンションを建設することが決まっている。あらためてマンションが建つほどの面積を借りていたんだと気づく。
生まれてから22年間住み続けた生家には、思い出が山ほど積もっている。怒られたこと、嵐の日に飼い犬が逃げたこと、バーベキューをやったこと、野球の自主練習で素振りをしたこと、家族でマージャンをしたこと。脈絡のない思い出だが、ひとつひとつが確かな記憶となってわたしのからだに染み付いている。大学時代、ワンダーフォーゲル部に所属し、北海道から九州まで山歩きをしていた。遠隔地に赴いて、あらためて故郷を感じた。大きな荷物と疲れを背負って、大船駅に到着し、少しずつ見慣れた風景のなかに足を運び入れると、不思議なほど安心感に包まれ、あー帰ってきたんだと実感できた。
いま、生家の周囲には当時の面影は少なくなっている。次々とマンションが建設され、駐車場も増えた。近所に住んでいたひとたちも、鬼籍に入ったり、転居したりして、見慣れた顔は少なくなった。それでも、山際の袋小路に建つ生家を、車のとおりを曲がって視野に入れると、我が家を実感できる。そこに近々マンションが建つ。
きょうは、カメラをもって、消えていく生家を撮影してくる。
5394.2/25/2006
湘南憧学校、奔る(-16-)
学習の習慣は、時間の経過とともに確実なものになっていく。
自らのまなびを自らのものにすることを最大の目標にしている湘南憧学校では、ほかのひとと同じなかみを強制されてまなぶことはない。だから、各自の課題を学習するレインボータイムでは、それぞれに異なるまなびを展開している。九月のスタッフレポートにレインボータイムについて報告されている。
「今週の火曜日のレインボータイム。
ふと気がつくと、子ども達一人一人がもくもくと作業している。
マンガが好きなAさんは、マンガを描く専用の原稿用紙にペンを使って、マンガ描き。
さらにこの日は家から、トーンと呼ばれる専用の用紙を二十種類ほど持ってきて、描いたマンガに貼っていく。カッターやへらを使って、上手に貼っていく。傍で見ていたら、とても細かい作業だということがわかった。二時間くらいかけて、一枚の絵は見事に完成!
そしてFくん。この日は以前にやったスーパー折り紙に再び挑戦。スーパー折り紙とは、一枚の紙から、世界の地形や名所、橋などの立体アートが生まれるというもの。作り方は、本に描かれた設計図を紙に写して、カッターで切り、折り目をつけていくという細かい作業の連続。Fくんは一人でもくもくと取り組み、この日だけでも、四つの作品を完成させた。
二人がもくもくと取り組んでいるのを見て、触発されたSくん。「僕も何か作りたい!」と言い出し、まずは作りたいものを本など見て考える。しかし、材料が揃わないことから、本に載っているものはあきらめた様子。すると、学校にある材料で作れると、自分で考え出したものは、ビー玉迷路。画用紙とダンボールを使って、ビー玉を通すゲームの迷路を作っていた。次の日も作って完成したものを、今日嬉しそうに見せてくれた。三段重ねになっていて、なかなか難しい。
この日は、みんなあまりしゃべらず、本当に作業に集中。時間があっという間に感じたようです。ちなみにFくんは、翌日も翌々日もスーパー折り紙に取り組んでいる。熱心にやっている彼の姿を見ると、「これが熱中するということなんだなぁ」としみじみ思うのでありました」。
5393.2/24/2006
湘南憧学校、奔る(-15-)
文字や数・量の力は、多くの場合、自然には身につかない。
しかし、必ずしもすべてが教えられることによって身につくことでもない。
学校では、こどもはなにも知らないから一から十まで教える必要があるという考え方が基本にある。この考え方をもとにした指導方法を教授型という。教えて授ける指導方法だから、なにも知らないこどもは、教え方や授け方によって、多くの物事を知ったり、うまく学べなかったりする。指導者の力量と、学習者の意欲が、ともに高いとき、教授型の指導は大きな成果を発揮する。しかし、どちらか一方が高いだけでは教授型の指導法は成果をあげない。
こどもは多くの好奇心をもち、見えたり聞こえたりすることに興味や関心を持ち続けている。この考え方を基本にした指導方法を支援型という。支えて援ける指導方法だから、好奇心のかたまりのこどもは、支え方や援け方によって、興味の世界を広げたり、関心の芽をつぶしたりする。支援者の力量が高いとき、支援型の指導は大きな成果を発揮する。支援型の指導は、こどもの意欲が高いことを前提にしているので、体調や環境が原因で意欲が高まらないときは、しばらく休養を入れ、意欲が高まるのを待てばいい。
どちらのタイプの指導方法がこどもに向いているかは、こどもや保護者がよく考えて決めればいい。そこに保護者の願いをはさむことなく、こどものタイプをよく把握して選べばいい。保護者の願いは大切だが、保護者の願いとこどもの気持ちが反対のとき、つらい思いをするのはこどもなので、保護者の願いを優先することは危険なのだ。
湘南憧学校は、支援型の指導方法で日々教育実践を積み重ねている。支援型の指導方法には、教授型のような内容を細分化した指導計画は必要ない。こどもの状態によって柔軟に変化していくことが求められるので、大まかな指導内容は用意しておいても、それに縛られてはいけない。なぜなら、用意した内容に、こどもの活動をあわせようとすると、かえってこどもの興味や関心を減退させてしまう危険性があるからだ。
支援型の指導方法でも、こどものまなびを援けるためには、文字や数・量の学習は必要になる。その内容や指導方法は、個人によって異なったものになるが、湘南憧での実践を積み重ねることで、いずれ一般化されたものが見えてくるかもしれない。
5392.2/23/2006
湘南憧学校、奔る(-14-)
夏休みを終えて9月になって湘南憧が再開した。学期制を採用していないので、二学期の始まりというわけではないが、秋の始まりに学校も始まるので、季節の移り変わりとともに秋モードの開幕という感じがする。
9月最初のこどもたちの様子を支援スタッフがレポートしている。
「今週から秋の湘南憧がスタートしました。
7日(水)、オプションタイムに「ジェスチャー漢字」をやってみました。これは、夏休み中にふと思いついたもので、出題者のジェスチャーを見て、そこから連想したものを漢字で書くゲームです。「例えば、やってみるね」といって、私は一度外に出ました。次に、戸を開けて部屋に入るジェスチャーをしました。
「じゃあ、今のを見て思いついた言葉を漢字にして書いてみてね」
すると、すぐに「わかった!アケルでしょ?」とA。「わかった、でもアケルじゃなくてもいいの?」とB。もちろん、それぞれが浮かんだ言葉でOK。すぐに書き出す子もいれば、ゆっくり考える子もいます。ゆっくり考えている子に、繰り返しジェスチャーを見せます。
普段あたりまえにしている行動からたくさんの言葉が連想されることに気づいて欲しかったのです。
なぜ、このジェスチャー漢字をしたかというと、去年からベーシックタイムを始めて、子どもたちは言葉を漢字にすることへの抵抗感が減ったり、字を丁寧に書くようになったり、自分から辞書を引くことなどが習慣になったりしてきました。本を読んで、重要だと思ったところを紙に書いたり、年表にしたり、マンガを描く時、辞書で調べながら漢字でせりふを書いたり。ところが、1日のふりかえり用紙に、自分のコメントを書くことになると、ひらがなが多い。本を見て書き写すことやテキストにある漢字を何度も書くことも大切だけど、自分の普段の行動・その時の気持ちを言葉にして、漢字にすることが今はまだつながっていないのかもしれないと思ったからです。
言葉が浮かんだら、辞書で調べてみようとすすめます。辞書を引くことは嫌がりません。子どもたちは「開ける」「中に入る」「侵入」などとノートに書きました。
「さあ、次に誰か出題者になってくれるかな?私も考える側になってみたい」そう言うと、「2人でやってもいい?」と始めたAとB。
なかなか書き出さない子がいた時は「例えばね〜」と何個か言ってみます。もしかしたら、浮かびすぎて1つに絞れないかもしれない。こんな風にして、子どもたちも順番にジェスチャーをしていたら、予想していたよりも盛り上がり、結局1時間くらい経っていました。
今回、子どもたちが楽しんでくれたこと、それぞれ違う漢字が出てきたことは良い点でしたが、漢字の間違いを直したり、子どもに気づかせるということでは反省点もありました。思いついたことをやってみて、気づくことがあったので、次回に生かしたいと思います」。
5391.2/22/2006
湘南憧学校、奔る(-13-)
湘南憧学校は年間で200日開校しているので、公立学校のようにいわゆる夏休みがある。
その夏休み期間中に湘南憧学校を運営する湘南に新しい公立学校を創り出す会は「夢キャン2006」を開催した。場所は藤沢市少年の森。小田急線「長後駅」からバスに15分ぐらい乗り、さらにそこから15分ぐらい歩く森のなかにあるキャンプ施設だ。ちょうど2006年に新しい集団宿泊施設を開所していて、それを使うことにした。施設は大きなバンガローで、きれいなシャワーも完備していた。
夢キャンは、1999年から実施していたテストスクール「湘南小学校」のこどもたちと湘南憧学校のこどもたちを中心に声をかけた。参加者は18人。スタッフを入れると30人近いサマースクールになった。いつも少人数の生活に慣れていた湘南憧学校のこどもたちが、未知の会場で、慣れない集団と宿泊活動をする。いくつもの壁があったように感じたが、開校してみると、こどもどうしの垣根は想像以上に低く、2泊3日があっという間に過ぎてしまった。
3日間の内容は次のとおりだ。プログラムvol.1 オリエンテーリング(少年の森の広い敷地を使って、チェックポイントに隠されたクイズをときながらちょっとした冒険気分を楽しむ)。プログラムvol.2 きもだめし(本当の闇ってどんなものかが心の底から体感できるお化けなんか出なくてもじゅうぶんにこわーい肝試し)。プログラムvol.3 うどん作り(名人による指導のもと粉から練った手打ちうどんにチャレンジ。天ぷらも乗せておいしく食べよう)。プログラムvol.4 あそび道具作り(6つのオプションから各自が選んで参加。時間があればいくつでも参加することができる。「スライム」「プラトンボ」「フリスビー」「タオルぬいぐるみ」「シュート棒」「シャボン玉」)。プログラムvol.5 きらめく川の流れ(大きな白い布地にペットボトルに入れた色水を流し、大きな川の流れを再現しよう)。
最終日に台風が接近し、予定を早めて解散したほかはほぼ予定通りに実施することができた。湘南小学校にこどもを通わせていた保護者たちから、なんらかのかたちで湘南に新しい公立学校を創り出す会の活動とつながっていたいという要望に応じたかたちでの開催だった。わたしにとっては、湘南憧学校のこどもたちが見知らぬこどもたちと、親元を離れ宿泊活動を成功できた事実が大きな収穫になった。
5390.2/21/2006
滋賀県で発生した幼稚園児殺人事件。幼稚園に行く途中に、同級生の母親に車のなかで刺し殺された悲惨な事件だ。
逮捕された犯人は「自分のこどもがなじめないのは、周囲のこどもが悪いからだ。だから、殺した」と動機を話す。「何人でも殺そうと思った」とも。近所のこどもを数人まとめて交代で送迎するやり方は、わたしのクラス地方ではあまり聞いたことがないが、滋賀県では一般的なのだろうか。
動機として伝えられた「自分のこどもがなじめないのは、周囲のこどもが悪いからだ」という言葉に、メディアは自分勝手のレッテルを貼っているが、教員を20年以上をやってきて、そのような親の声はずっと耳にしてきた。だから、いまさら驚いているメディアの感覚に、わたしは驚く。
先日も夕方の学校に電話がかかってきて「黒板に宿題が書いてあるがこどもがノートに書き忘れた。いまから見てきて教えてほしい」というのがあった。知りたければ学校に来ればいいし、同じクラスのこどもに聞けばいいことを、当然のように学校に尋ねてくる。電話を受けた教頭は、こういう時代だから仕方がないという顔で廊下の電気が消えた校舎に宿題を確認しに行った。こどもの非を親が補い、それを他人を使って解決しようとする。他人の対応が悪いとこどもの非はどこかへ消え去り逆切れする。同じ失敗をしないように気をつけようとする力はこどもに育たず、親の傘下にいれば、物事はなんでも解決することばかりを学習する。この繰り返しが、わたしが教員になった1985年以降、家庭教育によく見られる傾向だ。
少しだけ、今回の動機がいままでと違うのは、以前は自分勝手な言い分であろうとも、こどもが集団になじめない事実は多かれ少なかれあったことは確かだ。そのため、仲間はずれにされている、いじめられていると思い込んだ保護者から、周囲のこどもをなんとかしろというクレームが寄せられた。因果関係があった。しかし、今回の事件同様、最近数年のわたしの経験でも、保護者からの心配や不安を引き起こしている出来事は学校では起こっていないのに、妄想や物語のようなことを理由に、周囲のこどもをなんとかしてほしいという要望が増えてきた。こどもが学校に行かない、部屋から出てこない、なにを聞いても理由を言わずに泣いている、自傷行為をする、親に暴力をふるう、財布のなかみを盗んだ、万引きをした……。こういう出来事に遭遇し、たじろぎ、戸惑い、どうしてと問い詰め、うまく理由が言えないこどもに「学校でいやなことがあるんでしょ」「ほかの友だちがいじわるするんでしょ」「仲間はずれにされて淋しかったんでしょ」と質問をして、イエスの返事を引き出す。親にとっては都合のいい、わかりやすい状況把握だが、こどもにすれば本当の理由がほかにあったとき、そこに戻ることのできない嘘をつかされることになる。いくらそのようなことは学校では見受けられないと説明をしても納得しない。「こどもが嘘をついているというのか」「もっと本気で調べてほしい」「相手の親に連絡をするぞ」「つらいこどもの気持ちをわかってほしい」と、話がどんどんほかの方向にずれていく。こういう保護者に共通するのは、悩みを共有するおとなが少ないか、いないことだ。学校や行政のような機関ではなく、友人や知人、家族など無償のつながりを保ってくれるおとなが少ないか、いないことだ。思い込みが殺人などの事件に発展するケースは、今後、増えるかもしれない。
5389.2/20/2006
湘南憧学校、奔る(-12-)
七月二十四日。湘南憧学校のこどもたちは、鎌倉市笛田のリサイクルセンターで開催されたこどもバザーに湘南憧学校として出店した。そのときの様子をスタッフレポートから紹介する。
「七月二十四日、湘南憧学校の子ども達はバザーに出店しました。
朝から荷物をみんなで運んで、いざお店の準備!
抽選で決まったお店の場所は、なんと入り口近くの角というとても恵まれた場所でした。事前に練習したように、それぞれ品物を並べていきます。
10時半、バザーが始まりました。予想以上にたくさんの人で会場は賑わっています。
湘南憧学校の売り場は、事前の子ども達の話し合いにより、三十分ごとに担当者がかわります。お客さんの呼びこみ、お金の計算など全て子どもたちが行いました。スタッフは、近くで様子を眺めたり、自分のお買物をしたりとバザーを満喫!
「いらっしゃいませ!」
「プラレールありますよ!」
「これ、おまけします!」
と声を出し、何とも商売上手なSくん。
ちらばった品物をきれいにすぐ整頓するAさん。
チラシを一生懸命渡そうとするTくん、Mさん。
値段表を調べて読み上げるAくん。
それぞれが、それぞれの力を発揮していて感心しました。
十二時半までの時間があっという間にすぎ、品物も半分ほど売れたでしょうか。
最後にみんなで稼いだお金を計算してみると、なんと七千六十円もありました。
このお金は、みんなで外出する計画が出た時に使う予定です。
声を出したSくんは、疲れた表情をしていましたが、九月に学校が始まった時、またバザーをしたいと一番に言い出した本人となりました。
またバザーをすることは、他の子ども達も賛成だったので、チャレンジしてみたいと思います。お金を手に入れることは大変ですが、大切な学びになるでしょう」。
5388.2/19/2006
湘南憧学校、奔る(-11-)
七月。ふたりの男の子が葉山の森戸海岸で落語ライブをやった。
もともとはKが落語が好きだった。落語テープを何度も聴いて、話を覚えてしまうほどだ。スタッフの前でも披露してくれたことがある。よほど、好きなのだろう。レインボータイムを使って、落語事典を作ったり、ベーシックタイムを使って落語の台本を書いたりする。
Oは、そんなに落語には興味がなかったように思う。でも、気のあうKが好きな落語を自分も好きになった。Oの両親は、夏の間、森戸海岸の海の家を使ってライブ活動をしている仲間に声をかけ、こども落語ライブを実現させた。
ひとくちに落語といっても、台詞を覚えるのは並の記憶力ではできない。かなりの練習と記憶力、そして落語が好きな気持ちが必要だ。加えて、表現力。聞く相手に伝わる話し方や仕草をしなければ、聞いているほうは退屈してしまう。頭のなかで完結することはできない。
湘南憧学校は夏は暑く、冬は寒い。とても季節感のある校舎だ。夏の間は、夕方の西日も強く、運営委員会のときわたしも室内にいて日焼けしそうになった。その教室で二年目の夏を過ごすこどもたちには、あの暑さは、慣れたものなのかもしれない。
当時、Aは自分がなにをしたらいいのか見つけることができず、ベーシックタイムを除いて「何か楽しいことない?」「何かすることありませんか?」と接点をスタッフに求めることが多かった。運営委員会でも、そんなAへの効果的なアプローチを時間をかけて検討する。毎日、Aといっしょにいる現場の支援者にしたら、いつまで経っても自分のやりたいことを見つけることのできないAの態度は、湘南憧学校では望ましくないのではないかと考えても当然のことだ。無理に、何かをやらなければいけないわけではないけれど、何もしないで、時間を過ごしているのは、無駄なように感じてしまう。しかし、もしかしたらこころの準備期間が、少しほかのこどもよりも長くかかっているだけかもしれない。もう少し見守ろう。バザーやスケートなどの企画ものには、積極的に参加し、協力する態度が見られるのだから、本人は湘南憧学校が気に入っている。その空間を大切にしてあげようということになった。
5387.2/18/2006
滋賀県で幼稚園児二人が送迎当番の母親に殺害された。
その幼稚園では、こどもを送迎するのに、近所のひとたちでグループを作り、交替で送迎をするやり方を行っていた。保護者どうしのつながりを促すねらいがあったという。公立幼稚園には、予算が少ない。送迎バスを用意する予算があれば、このようなことは起こらなかったのにとも思う。また、あえてグループを作らなくても送迎は保護者の責任で行えばよかったのかもしれないとも思う。すべて、事件が起こってしまってからのことなので、たらればの話だ。
ただ、今回のように車での送迎を、ほかの保護者に依頼するやり方を幼稚園じたいが奨励していたということに、疑問をもった。運転は保護者がするのだが、ほかのこどもを乗せて、万が一、交通事故に遭遇し、同乗していたこどもを負傷させてしまった場合、だれの責任になるのだろう。保護者は、プロの運転手ではない。こどもの安全をそんなにかんたんに他人にゆだねてしまってはいけないのではないかと感じる。
今回の事件の加害者は、中国籍をもつ母親だった。7年近くを日本で過ごし、ことばについては問題はないとのことだが、近所づきあいや育児については悩み事があったという。しかし、よのなかの多くのひとは、同じように近所づきあいや育児について悩みをもっている。それでも、他人のこどもを包丁で刺したりはしない。動機について警察の取調べに語っていないというが、登園時に自宅から凶器を持ち出していることから、なんらかの計画性をもって事件を起こしたと考えられる。しかし、アリバイ工作や証拠隠滅をはかっていないので、罪逃れを装う余裕や、事件によって利益を得ることを目的にしていたわけではないことがうかがわれる。
加害者は、自分のこどもと他人のふたりのこどもを車に乗せて登園したが、幼稚園を素通りして凶行に及ぶ。負傷させたこどもをそのまま車からおろし、わが子とともに運転を続け、緊急配備中の警官に発見された。幼いふたつのいのちは返らない。こんなことをしたら、地域社会で自分も家族も生きていけなくなることはわかっていただろう。それでも、悲惨な犯行は静止できなかった。わたしは、そこに加害者の孤独を感じる。そして、孤独ゆえの思い込み、思い詰め、緊張が、精神状態を不安定なものにさせていたのではないかと思う。たまたま刃を向けられたふたりのこどもとその家族の痛恨きわまりない気持ちは、察するに余りある。しかし、ひとのなかでひとりというおとなは、結婚していてもしていなくても、こどもがいてもいなくても、とても増えてきている実感がする。
5386.2/17/2006
湘南憧学校、奔る(-10-)
7月のバザーに向けての活動の様子を支援スタッフがレポートしている。
「7月24日に笛田リサイクルセンターで行われるバザーに、出店することが決まりました。そのため7月のハーモニータイムは、その準備に多くの時間を使いました。
まずは、話合い。
出店する為にはどんな準備が必要か?ということについてです。
子どもたちから出た意見は以下の通りでした。
@ 品物集め
A 品物チェック
B 値段つけ
C チラシ作り(学校の案内)
D 看板作り(お店が目立つように)
E 担当を決める
昨年の4月から、何かを実行するためには、どんな準備をすればよいかということを繰り返しやってきたからでしょうか。これらの意見はあっという間に出てきました。
品物は全部で70品くらい集まりました。少し汚れているものは拭いてきれいにして、あーだ、こーだといいながら、一品ずつ、値段を決めていきました。
さて、それからが問題。品物に値札をつけるかつけないかで、また話合いをしました。
去年、土曜日のテストスクールでバザーをやった時は、品物に値札をつけました。
今回は、全く知らない人たちに販売します。
「普通のバザーとかフリーマーケットは、大体値段がついてないよ。お客さんが聞いたり、値引きしたりするのが楽しいんだよ。」と、フリーマーケットに詳しいSくん。
「この間みたいに、品物に値段がついていると、何だか安っぽいよね。」とAくん。
「じゃあ、値段つけるのやめる?でも、そうすると、売る人は、値段を覚えなくちゃいけないね〜。大変そうだね〜。」とぼやくスタッフ。
「値段、全部覚えられないよ!」と子どもたち。
さてさて、どうしようか?としばし考える一同。
すると、Aちゃん、「値段は番号つきの表にしておいて、品物に番号をつけて、これ下さいって言われたら、その番号と表を見て答えるのは?」
なるほど〜!それなら、値段を覚えなくて済むし、お客さんとやりとりすることもできます。そういう訳で、今回はそれでやってみようということになりました。
一覧表はパソコンのエクセルを使って、SくんとAちゃんが作ってくれました。
次にとりかかったのは、チラシ作りでした。買い物をしてくれた子どもたちに渡すための学校の案内です。どんな内容を載せればいいのか、また話し合いをしました。それぞれ担当を決めて、まずは下書き。それからパソコンで文字を入力。イラストも加えて、レイアウト。そして印刷、二つ折り。完成まで一週間ほどかかったでしょうか。パソコンで作った地図も入って、とてもよいチラシができました。
そしてバザー1週間前、会場で説明会があり、参加しました。
話を聞くのは、子ども達だけに任せました。品物の上限値段が800円と決まってしまいましたが、それ以外はちゃんと話を聞いていたようです。
学校に戻ってから、最終準備!
区画がわかったので、実際に品物を並べてみます。はじめはどうやって並べたらいいのかわからなかったものの、実際にやってみると、「小さい物は前かな?大きい物は後ろだね。」とわかってきました。
いよいよ明日がバザー当日です。
一体どうなるのか、とても楽しみです!」
http://www.shonansho.com/shoschool
5385.2/16/2006
湘南憧学校、奔る(-09-)
夏が近づく。湘南憧では、近くのリサイクルセンターを使って行われるバザーに出店することを計画していた。そのバザーは、地域のひとたちを、おとなとこどもに分けて行われる規模の大きなものだ。そのため、参加するには抽選で当選しなければならないほど、競争率が高い。バザーへ向けて、教室にこどもの家庭から出品する品物がたまっていく。ひとつひとつにどんな値段をつけるかを相談し、値札をつけ、気持ちの高まりをかたちにしていく。
バザーは、いつも同じ人間関係で過ごしている湘南憧のこどもやスタッフにとっては、地域のひとたちや、同年代のひとたちと触れ合う貴重な機会だ。いつも接点を持ち続けることは難しくても、このような機会を通じて、チャンネルを用意しておくことは続けていきたい。
2006年の8月に、湘南憧を運営する湘南に新しい公立学校を創り出す会はキャンプを企画していた。公設のキャンプ場を使って二泊三日のこどもキャンプを開催する予定だった。新しい教育方法を模索していたわたしたちは、実験的なミニスクールを1999年から週末や夏休みを使って開校していた。そのミニスクールに継続的に参加していたこどもたちの多くは、平日開校の湘南憧には入学しなかった。やはり法的に認可されていない学校に、こどもを通わせることに対しては、まだ抵抗があったのだろうと思い知る。だから、湘南憧開校とともに、ミニスクールは終了した。しかし、ミニスクールにこどもを参加させていた保護者のなかには、こどもたちが再会するイベントを期待する声が少なくなく、その要望に応じるために夏のキャンプを企画したのだ。そのキャンプに、湘南憧のこどもたちも参加することになった。もちろん、参加を強制はしていない。情報を提供したら、どのこどもも参加したいと思ったのだ。いつもの小集団ではないキャンプに、だれかわからないこどもたちと宿泊活動をするのに、参加希望をもったというのは、勇気のいることだったと思う。それまで、学校に行かなかったり、教室に入らなかったりしたこどもたちが、見ず知らずのこどもたちとのキャンプに行こうと思っただけでも、とても成長したことを感じた。
5384.2/15/2006
湘南憧学校、奔る(-08-)
湘南憧学校には、支援スタッフや運営スタッフ以外にも、多くの優秀な人材が協力してくれている。
大学で海洋生物を研究している方は、いままでに何度もこどもたちを近くの山に連れて行き、草花についての説明をしてくれている。野の花は季節によって変化するので、山に行くたびに違う説明が用意されている。
現役の公立学校教員だった方は、退職後、非常勤講師として公立学校に勤務するかたわら休みの日に特別授業を実施してくれている。紅葉の季節に三原色を使った葉っぱの水彩画を指導してくれた。作品は、湘南憧の壁に掲示してある。冬が来てからは、折り紙を使って、数種類の雪の結晶を作る学習を組み立ててくれた。
物理についての専門的な研究をしていた方は、こどもたちに元素やリニアモーターについての説明をしてくれた。
沖縄のシーサー作りを実費で指導してくださった方もいる。
このような方々は、保護者やスタッフのつてをたどってアクセスした。一年間を通した平日開校が初年度だったので、二年目からは今回の協力者の方々や、指導してくださった内容が少しずつカリキュラムとして定着していく可能性がある。ひとつひとつの出来事が、確かな歴史になっていく。
わたしたちは、交通費や弁当代ぐらいしか感謝の気持ちを表すことができない。今後、幅広く協力してくださる方々をリストアップしていくには、財政的な裏づけが重要な課題になるだろう。いつまでも善意に頼ると、頼る・頼られるという関係から脱却できなくなるからだ。
それにしても、小さな小さなフリースクールのために、大切な時間を割いてくださる方々の存在は、湘南憧のこどもたちにとってはかけがえのない経験になるだろう。いまはそのことに気づかないかもしれないが、積み重ねていくことが大事だと思う。
5383.2/14/2006
湘南憧学校、奔る(-07-)
この頃のこどもたちの興味の向き方が記録されている。
「パソコンで生活と趣味内容の新聞を作る。読書をする。すごろく作り。人生ゲーム。出席回数が少なく興味の傾向がわからない。「なにかおもしろいこと、ないかなぁ」。欠席が多く、よくわからない。コカコーラの景品フィギアがマイブーム」。
こどもたちの興味がどこに向いているかを知ることは、まなびのなかみをこどもが決める湘南憧学校の教育方針では、とても大切なことだ。興味や関心を具体的なまなびへつなげていくノウハウを蓄積しながら、発展的に次の興味へと世界を広げていくことが、ひとりひとりの確かな成長を導くと考えているからだ。以前、勤務していた学校で、それまで教室では勉強が苦手で、遅刻が多かったこどもに、社会科で課題解決型の学習を導入したことがある。国語や算数は、ノートも教科書も出さないこどもだったが、その課題解決型の学習では、だれかとグループを作ることなく、自分で図書室に資料を探しに行き、積極的に学習を展開した。そのとき、そのこどもが言った。
「教えられることよりも、自分からやりたいと思ったことのほうが、やる気が出るよ」
まなびにかかわらず、こどもがやる気をもって、日常生活を組み立て、生きていくには、自分がやりたいという気持ちが大切なことを教えられた。そのこどもは、六年生の一年間だけしか、担任をしなかったが、中学に行って、残念ながら一斉画一の教授型授業によって、不登校になったという話を後日聞く。公立学校から排除されていってしまうこどもたちが現実には、行政の集計よりもたくさんいることを、もっと多くのひとたちに知ってほしいと思った。
五月から六月にかけて、湘南憧学校のこどもたちはハーモニータイムを使った活動をした。油壺マリンパーク、恐竜博、アイススケート、フィギアショップ。ハーモニータイムは、日常を非日常に変える大事な要素をもつ。公立学校に通うこどもたちでは、週末の休日を使って実現できることを、湘南憧学校では平日を使って実現している。学校の遠足のように、あらかじめ決まっている学校行事にこどもを無理に連れて行くのではない。こどもと教師が相談をして、企画からすべてを考える。社会生活を、こどもといっしょに作り、そこに参加していくことは、現実を机上ではなく、生活の中で体験できる貴重な時間になる。電車の切符を買う。昼食を考える。小遣いの値段を決める。細かいことのひとつひとつが、すべて自分のこととして降りかかってくる。おとなになれば当然のことを、こどものうちから始めていく。それは、おとなになって、いきなり自分で考えようとしてもどうしたらいいのかわからないだろうと思うからだ。
5382.2/13/2006
湘南憧学校、奔る(-06-)
五月。「四十分間のベーシックタイムが静かに集中できるようになってきた」。
運営委員会でスタッフから報告がありました。もともと、一斉指導型の指導が苦手なこどもたちにとって、当時のことを思い出させてしまう危険性のあったベーシックタイムは、開始から一ヶ月を経て、支援スタッフの努力と工夫により、こどもたちのなかに受け入れ始められる。一ヶ月間に、各自にあったなかみと方法を支援スタッフとこどもが、見つけられるようになってきたのだ。
「読書。分数のプリント。言語系をやることが多い。辞書の使い方に慣れてきた。やったことをメモして文章に残す。あかねこ漢字ドリル。分数はおもしろいね。変化はなし。やるときとやらないときの差が大きい」。五月のベーシックタイムの記録を振り返ると、こどものなかに、よちよち歩き始めた姿が見える。当時は、支援スタッフから、あまりベーシックな内容に興味を示さないこどもへの対応に苦慮していると報告がある。運営委員会では、ほかのこどもたちが動き始めたからといって、まだ歩き始めないこどもを無理に手を引く必要はないと考えた。なにもしないように見えることと、なにもしていないことは別問題であり、こどもはこどものなかで、自分のすべきことを発見していくことを信じて、焦らずに待つことを大事にした。
五月十六日。快晴。ベーシックタイム(漢字・日本の歴史)。大丸公園(野球)。レインボータイム。五月十七日。快晴。ベーシックタイム(漢字・日本の歴史)。油壺マリンパークへの計画書作り。大丸公園(野球)。レインボータイム。五月十八日。くもり。ベーシックタイム(ちょこっと漢字)。大丸公園(Sケン)。レインボータイム(ビデオ)。五月十九日。快晴。ベーシックタイム(計算)。サイコロトーク。大丸公園。レインボータイム(世界一周ゲーム)。五月二十日。くもりのち晴。ベーシックタイム(漢字・読書)。笛田公園。レインボータイム(人生ゲーム)。
うららかな五月中旬の一週間の活動の様子が、五月のカレンダーに書いてある。雨が降っていないときは、十一時ごろ近所の公園にからだを動かしに行く。途中、コンビニエンスストアがあり、そこで昼食を買うこどももいる。こどもたちの昼食は各自が用意することになっている。弁当をもってくるこどももいれば、お金をもってきて買うこどももいる。清涼飲料水を買うと、キャップに小さなフィギアがおまけについていた。それがほしくて、連日、同じ清涼飲料水ばかりを買っていたこどもがいる。そのうちに店員に顔を覚えられた。
5381.2/11/2006
湘南憧学校、奔る(-05-)
そのほかに、運営委員会で検討する大きな議題にこどもどうしの関係性がある。
関係性といっても、大所帯の学校ではないので、複雑に入り組んだ人間関係は成立しないのだが、それでも、大なり小なりの関係性は発生する。だれとだれがつながり、どこに分岐点があるのか。同じ学習内容を選び、選ばれているお互いに負担はないのか。関係性が、まなびのなかみを決めるときの要素になっていないか。自分の興味あることを最優先にしてほしいのに、関係性を重視して、ひととあわせたなかみを選択するようにならないでほしいと思う。しかし、同じなかみを選択することと、関係性に引きずられることは必ずしも一致しないので、その見極めを検討する。
こどもどうしの関係性は、学校生活を離れたところにまで影響する。帰りにいっしょに町を散策したり、お泊りをしたり、休みの日に遊びに行ったり。そんな関係性を作っていくきっかけが湘南憧学校での出会いだったのだから、自らの手で互いのつながりを強めていくことは大事な社会勉強だ。しかし、親や教師の目の届かないところでの行動には、どんなときでも注意を払っておかなければならない。どんなに成長しても、まだまだこどもだからだ。
公立学校で発生する関係性をめぐるトラブルは、湘南憧学校では発生しにくい。いじめ、仲間はずれ、無視、物隠しなど、弱い存在を追い詰めていく現実的な問題は、公立学校では深刻な状態になっている。なぜ、湘南憧学校ではこれらが発生しにくいのか。それは、集団への同調圧力が少ないからだ。公立学校では、同じ学年、同じ学級というだけで、行動や生活が型にはめられる。同じ時間を同じ場所で同じことをしながら過ごさなければいけない。そこからはみ出していくことは、異常とみなされ、教師からもこどもからも注意され、行動を抑制される。限度を越えると、こどもどうしの不満がいじめや仲間はずれというかたちで制裁に変わる。
湘南憧学校では、もともと学年制を使っていないので、学級が存在しない。湘南憧学校に通うこどもたち、みんながひとつの集団だ。同じ時間を同じ場所で過ごすことは公立学校と同じだが、同じことをしなければならないということはない。ハイキングや水族館見学など、みんなで行動することもあるが、それらはすべてこどものなかから提案され、行き方や持ち物など企画にかかわることを、すべてこどもと教師と相談しながら決めていくので、参加するこどもに強制する内容がない。ひとりひとりの考えが違うことを前提にしているので、折り合いのつけ方を学ぶようにしているのだ。
5380.2/9/2006
湘南憧学校、奔る(-04-)
湘南憧学校では、毎月、運営委員会を開催している。
従来の公立学校の職員会議と研究会が合体したような会議だ。見学者や取材の方も参加できる透明性の高い会議だ。日々、こどもの支援を担当しているスタッフと、学校運営に携わるメンバーが集まる。内容は、勤務記録、子どもの様子、保護者との対応、運営の見通しなどを話し合う。月に一度、土曜日に開校する日にあわせて運営委員会を開く。こどもたちが帰った三時半頃から開始し、五時近くまで話し合う。
四月のこどもたちのベーシックタイムは「覚えている浪曲を原稿用紙に書いている。自分のペースでプリント学習。公文の漢字ドリル。算数は苦手でやりたがらない。字を書くのに抵抗する。算数はやらない。声かけをしないと寝てしまう。ひらがなは書けるけど文章は困難」という記録が残っている。全員に一斉指導するのではなく、個別に必要ななかみを提供しようとしたので、最初はどんなことが各自に必要なのかを模索していた段階だ。支援担当スタッフの苦労が想像できる。本当にこれでいいのか、もっと教えてあげなくていいのか、この能力で発展性があるのか、目の前のこどもたちのちからを肌で感じて愕然としたと思う。
しかし、こども個人の傾向は、湘南憧学校でも公立学校でも大きな変化はない。どの学校、どのクラスのこどもたちも、学習場面での状況は湘南憧学校のこどもたちと似たようなものだ。それを公立学校では評価をつけるという教師特権でこどもを押さえつけることができる。やらないこども、できないこどもは、低い評価をつけておしまい。低い評価にはなりたくないから、こどもは与えられた課題をこなす。
湘南憧学校のこどもたちは、自らの興味や関心のあることに必要ななかみを学習するためのベーシックタイムなので、やらなくても、できなくても、低い評価はない。だから、モチベーションを維持することが難しい。年度始めは、興味あることを見つけながら、それに対応するベーシックな要素を学習として位置づける作業を同時にしなければならなかった。
ハーモニータイムで「遠足に行こう。鎌倉めぐり。アイススケート。子ども科学館。八重洲ブックセンター」というプランが出された。交通機関を利用することをヒントにして、掛け算や割り算の学習を意図的に導入した。同時に、かつて指導したことを、すっかり忘れているこどもが多く、自分のちからにするにはどうしたらいいかという質問が支援スタッフから運営委員会に出されている。
5379.2/8/2006
湘南憧学校、奔る(-03-)
湘南憧学校には模造紙で作った大きなカレンダーが掲示してある。
一枚で一か月分のカレンダーなので、一日の欄がとても大きい。そこに、スタッフがその日の活動を記録している。だれの目にもわかる日誌の役割を果たしている。開校日の次の登校日、四月四日の欄。
「ベーシックタイム(名前を書くなど)。四月の計画作り。ロッカーの場所決め。レインボータイム(人生ゲーム)」
湘南憧学校では学習活動を大きく三つに分けている。
自分のまなびを成立させるための言語や数の学習を中心に行うベーシックタイム。自分の興味関心を中心に学習を進めるレインボータイム。みんなでひとつのことを行うハーモニータイム。そして、不定期に行うオプションタイムだ。オプションタイムは、子どもの興味の幅を広げるために、おとなたちが用意する内容だ。
子どもの私物を格納し、保管する荷物を預かる場所がある。窓側の一角だが、そこに子どもたちはローっカー代わりの段ボール箱を並べ、自分の収納箱にする。どの場所を使っても同じように思うが、各自がだれと近いかとか、どこがいいとか、考えていることがあったので、相談が必要だった。学校では、教室の後ろに木製やスチール製のロッカーがもともとあって、教師が一方的に名前をつけているケースが少なくない。ほこりが入りやすい一番下の子どもと、三段目の子どもとでは、置かれた環境が異なる。それでも、子どもたちは文句をいう権利も気持ちもなく、言われたとおりにするしかない。生活の小さな場面まで、個々の考えや気持ちを尊重する姿勢が、湘南憧の特徴だ。
5378.2/6/2006
湘南憧学校、奔る(-02-)
だからこそ、わたしたち湘南に新しい公立学校を創り出す会は、代替措置としての新しい学校を創造し、いまの学校にあわないからといって、決して自らを卑下したり、自尊心を傷つけたりする必要のない教育の場を創造し、よのなかに証明していかなければならない。
こどもたちののびゆく姿。自信にみなぎっていく姿。たくましく笑う姿。深く考える姿。
公的な学校には、不向きだったこどもが、なぜ湘南憧学校では成長していくのかを考えてもらうために。
湘南憧学校の営みは、だからこそ、立ち止まることが許されない。つねに全力で走り続け、きのうと違うあしたを築き上げていく宿命をおう。
二〇〇五年の湘南憧学校を振り返ることにより、奔りのあとを伝えていきたい。
四月二日。鎌倉市常盤の湘南憧学校では2006年度が開校した。当時の様子を支援スタッフ(教師)がレポートしている。
「2006年度の湘南憧学校が始まってから今日で3週間が経ちました。
今年は去年の子ども達に加えて、新しく2名の入学者があり、合計6名の子ども達が通っています。4月2日の新年度には、子ども・スタッフ・保護者と合計27名が揃い、2006年度を一緒にはじめることができました。一年前、開校式で聖火リレーをしたときは、誰も火のついた試験管を持つことができませんでしたが、今年は全員が持って次の人へ渡すことができました。そんな子ども達の姿を見て、何だかとてもたくましく感じました。一年間経ったということ、そして新しいまた一年が始まるということ。身の引き締まる思いです!
4月は遠足と称し、出かける計画が4つも出ました。4つ全てを全員の子どもが行くのではなく、行きたい子どもたちが計画を立てて実行している最中です。
私は先日東京の本屋へ行くという計画を立てた子ども達と一緒に出かけました。初めて駅で待ち合わせをする子どももいたので不安に思っていたのですが、楽しみにしていた子ども達はちゃんと約束通り待ち合わせの場所にいました。電車に乗ること、道を人に尋ねること、予算内で買い物をすることなど、部屋の中では見られない子ども達の活動を目にする事ができました。
ひとつ失敗したのは、時計を持って出かけなかったことです。持ち物リストにみんなでいれるのを忘れていました。時間を見て行動するときは、やはり必ず必要でした。次は絶対に持ってこようねと言い合って帰りました。
年間200日の学びが、それぞれの子ども達にとって実りのあるものになるようにスタッフも努力を重ねたいと思います。昨年は不定期だったスタッフレポートも今後は定期的に更新したいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。 」(http://www.shonansho.com/shoschool/)
5377.2/5/2006
湘南憧学校、奔る(-01-)
全日制のフリースクール「湘南憧学校(しょうなんしょうがっこう:鎌倉市常盤)」がもうすぐ年度末を迎える。
開校したのは二年前の二〇〇四年春だった。開校一年目は、週に三日間(年間一二〇日間)の開校だった。そして、二年目の昨年の春から、開校日を週五日間(年間二〇〇日間)に拡大した。
有給の教師が三人いる。理想は毎日三人の勤務体制を組むことだが、企業や行政からの補助や助成が得られないフリースクールの現状では、連日三人にしたら、給与面で財政が破綻する。ぎりぎりの調整をして、なるべく三人を二人でまわせるように勤務シフトを組む。それでも、教師がひとりの日もある。給与のほとんどは、子どもからの授業料と、運営する法人の会費収入である。
いまの日本の法律や行政の方々の基本的な考え方は、公的に認められた機関(学校)を用意しているのだから、そこを使わないのならば、全部自己負担すべきであるというものだ。つまり、負担を軽減したければ、いやでもつらくても我慢して公的に認められた機関を利用しなければならない。強制である。その保護者は、自分の子どもには還元されない教育関係の税金を、毎月、毎年、ほかの子どもたちのために徴収され続ける。
この問題を考えるときに、わたしは大きな違和感を覚える。それは、まったく子どもの姿が見えてこないことだ。こどもにとって、学校であろうがフリースクールであろうが、まなぶなかみがあって、クラスメートがいて、指導者がいれば、どこであろうが、そこが教室であり、学校であるはずだ。おとなたちは、こどもが「どこで」まなび「どこに」所属するかばかりを気にするが、教育活動で大事なのは、こどもが「なにを」まなび「どこで」役立てるかなのだ。その大事な部分を見過ごした議論が、教育改革と呼ばれる課題には多い。
公的機関としての公立学校や私立学校に通わなくなるこども、いったん入学しても教室には行かずほかの場所で一日を過ごすこども、退学してしまうこども。全国的な数値データを文部科学省は集計していないので、これらのこどもの合計数はわからないが、公表されている不登校・中退者よりははるかに多いことは確実だ。そのこどもたちには、救済措置や代替措置が用意されていない。唯一あるのは「適応指導」の名のもとに、ふたたび学校に戻す訓練を課す教室ぐらいだ。残念ながら、その適応指導教室に行かなくなるこどもの理由や内面の苦しみに迫る教育関係者はいない。まだまだ、学校に行かない、教室に入らないこどもたちを、こころの病気扱いにする傾向が学校のみならず、地域社会にも強いのだ。
5376.2/3/2006
朝、冷蔵庫を開けたら強烈なニラの臭い。きのうみじん切りにしたニラはラップでくるみ、袋に入れたのに、この臭いはなんだろう。ニラ、恐るべし。それでも、時間が経ったら、わたしは臭いに慣れてしまう。あとから起きてきた息子が冷蔵庫をあけて「おぇー」っとのけぞっていた。わたしは、下味をつけ、ミンチにした豚バラ、臭いを発するニラ、半分の白菜をバッグに入れて出勤する。東海道線車内でわたしの近くに乗車してしまったひとは、朝から不幸だった。
1時間目は、手伝いの保護者の方々と学習の準備をする。子どもたちはほかの特学スタッフが別の学習を進める。この時間に、白菜を細かく切って塩もみをして水気を切る。肉に調味料を加え、ニラと白菜を加え、餡にする。それを3つのグループとおとな用の5単位に分ける。今回は粉から皮を作るので、200gずつボウルに粉をわけ、学習の用意をする。用意が終わって、ほっと一息の時間も手伝いの方々は、あれこれ動いていてくれた。
「子どもたちが来たら、のんびりしている時間がなくなるから、いまのうちにゆっくりしてください」
わたしの言葉の意味が、本当にわかるのはそれから2時間ぐらい経過してからだったかもしれない。
エプロンをつけた子どもたちが、3つのグループにわかれて、所定の席に座る。粉に少しずつ水を入れながらかきまぜる。子どもの力はとても弱く、なかなか混ざりきらなかったけど、何事も経験。最終的には各グループ担当のおとなたちが団子に仕上げた。寝かせることを「おやすみなさい」と伝えてあった。20分の寝かせ時間を経て、一気に餃子作りは加速する。
餡をこね、表面がツルツルになったら子どもの人数分に分割する。分割した餡を麺棒に見立てた巻紙の芯で平らにのばす。それを茶筒のふたやプリンカップを型にしてくりぬく。くりぬいた端から、餡を乗せて包む。順番を待っている子どもが、粉で遊んだり、のばした皮をつまんで粘土のようにして楽しむことはあった。それぐらいのことは予想していたので、そんなに大変だとは思わなかったが、手伝いに来てくれた方々には驚きだったかもしれない。
作った皮は、市販の皮と違い、水分が多く、やわらかいので、餡を包むときに水を使わない。いままでは水を使って包んでいたが、今回は作った皮だったので、子どもたちを見ていると包みやすかったようだ。全員が包み終わってから、ホットプレートに並べた。前回、前々回とも、お湯を足したときのジューっという音と水蒸気に驚く子どもが多かった。でも、今回は記憶している子どもが多く、混乱する子どもは少なかった。歩みは小さくても、確実に成長していることを感じた。
一番子どもが楽しみにしている「いただきます」の時間。子どもたちはもってきた入れ物にお土産をしまい、残りを満足そうに食べた。今回は、2時間目から4時間目までという長い時間設定の活動だった。にもかかわらず、子どもたちは全体を通して、集中を持続することができたのは、同じテーマで少しずつ内容に変化をつけながら、回数を重ねてきた成果なのかもしれない。
5375.2/2/2006
あしたは3回目になる餃子作りを予定している。
いままで2回ほど餃子作りを実施した。最初は、皮も餡も用意して、子どもの活動は餡を皮につつみ、焼いて、食べるというものだった。自分たちで作ったものを、口に入れる経験を通して、食べ物への関心をもつことを目標にしていたので、作っていくプロセスを重視した。2回目は皮は前回同様に用意したが、餡を自分たちで作る活動を入れた。豚ばら肉と白菜、ニラを切り、調味料を混ぜて、皮にくるむというものだった。材料がミックスされて、かたちを変えていくことを視覚的に感じ取ることを目標にした。ニラを出したとき「あー、餃子のにおいがする」と叫んだ子どもが多かったので、餃子にはニラという野菜が混ざっていることを少しは感じたのかもしれないと思った。
そして、最終回になる3回目は皮を自分たちで作る。餡はあらかじめ用意しておく。
かたちが変わって、食べ物になる。その違いが大きくわかるのが、粉を使った調理だ。小麦粉に水を混ぜ、こねて、ねかせて、平らにのばし、型で抜く。最初は白い粉だったのに、手を加えて餃子の丸い皮になることをつかんでくれたらと思う。すでにきょうまでに二度の事前学習をおこなった。作り方や持ち物、気をつけることを説明し、いっしょに作るグループを知らせてある。きょうは家庭科室からボウルや菜箸、ホットプレートなど、調理に必要なものを全員で手分けして教室まで運んだ。意識を高めて、予定外の学習への抵抗感を減らし、興味をもたせる。
10人の子どもたちは、程度の差はあるが、ほとんど予定外の行動を苦手にしている。毎日の決まった生活リズムを崩す特別な活動への対処がうまくいかない。だから、トピック的な学習は、何度かの事前学習と、意識をもたせるための準備経験が必要だ。金曜日は本来、図工学習が2時間続きである日だ。図工を楽しみにしている子どもが多いので、楽しみな図工がなくなり、別の学習として餃子を作ることを何度も何度も知らせ、意識づけをしてきた。きょう、家庭科室に行き、調理器具を教室に運び、帰りの子どもたちの表情を見ていると、あしたは餃子だぁという顔が浮かんでいたので、混乱は少ないように思う。それでも、突発的な事態として、お漏らし、ケンカ、パニックなどは予想されるので、万全を期してあしたを迎えようと思った。
5374.2/1/2006
朝から冷たい雨の湘南地方だった。夕方には雨脚は嵐並みに強くなり、加えて9時ごろには大きな地震があった。なんだか天変地異の前触れのようで気味が悪い。
きょうの午後は、地元の養護学校に行き、てんかんについての学習会に参加した。横浜で診療所を開局している小児精神科医の宍倉先生の話を聞く。てんかんは、脳内の神経細胞が突然的に異常な活動をする電気的あらしのことだ。脳波を測定することで、てんかんによる発作の有無を確認することができる。おもにけいれんを伴う発作をてんかんと呼ぶのかと思っていたが、実際にはけいれんを伴わずに意識不明になる欠神(けっしん)発作もてんかん症状であると聞いてびっくりした。また、けいれん以外にも、意識障害・ミオクローヌスと呼ばれるピクッピクと身体を一瞬収縮させるもの・自動症(もぞもぞ・ばたばた・うろうろ)・急に倒れる・自律神経症状もてんかんの症状と知り、驚いた。実際にそれらの症状を示す患者のビデオを見て、てんかんといわれなければわからないものが多かったので、特学で子どもにかかわるときに留意しなければならないことがわかった。
てんかんの症状はとても短く、すぐには見落としてしまうものも多い。しかし、てんかんによって神経細胞が影響を受けるので、放置すると、生命には問題はなくても脳障害を併発してしまう。自閉性疾患との合併確率は19.1%と高く、性差はなく、全身性のてんかんが平均13.3歳で発症するという臨床データが報告されている。最近は乳幼児期からてんかんを発見し、治療することが可能になっている。薬を使った治療によって、小児期のてんかんは50%治癒するともいわれている。また遺伝的要因の突発性てんかんと違い、脳障害が原因の症候性てんかんは、特学や養護学校のみならず教育現場では教師たちが知っておく必要があると思った。
5373.1/31/2006
アスベスト被害者を救済するための法律が可決した。
いままで直接アスベストを使った仕事をしていて被害に遭ったひとたちには、労務災害の認定という救済措置があったが、工場の近くに住んでいたとか、アスベストを使った建物に住んでいたとか、仕事とは関係ないひとたちへの救済はなかった。そのひとたちへ、迅速な法的整備がとられたことは価値のあることだが、なぜか法律によって救済される人たちからは法案反対の声が高い。
その大きな原因は、法律のなかみが実質的な救済とは程遠いなかみになっているからだ。労災で認められている救済の多くが、法律では認められていない。中皮腫によって亡くなったり、中皮腫になって治療したりしているひとたちは、アスベストを吸引したのが原因だといわれている。アスベストを使った仕事をしていたわけでも、近くにアスベスト工場があったわけでもないひとたちが中皮腫によって苦しんでいるのは、それだけ日常的にアスベストが環境の一部になっていた証拠ではないか。
諸外国では、何年も前にアスベストの製造や使用が禁止されていた。危険性が指摘されていたにもかかわらず、日本国内では抜本的な措置がとられず、現在のように被害者を増加させた。その背景に、アスベストを使う業界と、政権与党とのつながりがあるのは明らかだ。アメリカでは多くのアスベスト関連企業が倒産し、保険会社もパンクした。その事実は世界中に伝わっていたのだ。昨今、アメリカ産の牛肉を輸入再開したら、また危険な部位の輸入が確認され、事前に調査する約束を担当官庁がしていなかったことが明るみに出た。それでも、だれも罰せられることなく、食の安全は保たれるという。子どもだましのような政策で、ひとびとを苦しみの縁に追いやることが繰り返されている。
わたしの母は中皮腫ではなかったが、同じ肺の病気で他界した。近くで看病しながら、肺の病気の恐ろしさを痛感している。日に日にやせ衰え、動くことすらままならない息苦しさとたたかい、最期には水中で呼吸困難になるようなつらさを経験しながら心臓が停止するのを待つ。それが、本人の不摂生や生活習慣、あるいは運命によるものではなく、権力や権益の不作為や怠慢によって、誘発された病気だったとしたら、本人や家族のこうむる損害は、たんなる病気としては片づけられない意味をもつ。
わたしが子どもの頃は、多くの建物にアスベストが使われていた記憶がある。それらを吸引したひとたちは、これから後に次々と中皮腫を発病する可能性がある。どれだけのひとたちを救済しなければならないのかわからないから法律での救済を最低限に手控えているのだろうか。それでは、法律とは名ばかりで、結局多くのひとたちが苦しみ続ける現状に変化はない。夢も希望も感じない。
5372.1/28/2006
一月はなにかと疲れた。短いながらも年末年始の休みに、すっかり怠けたからだに、年明けの日常がきつかったのかもしれない。また、春先から準備してきた湘南地区障害者児作品展が開催され、無事に終了したので、気持ちの張りがふっとゆるんだのかもしれない。
きょうは湘南に新しい公立学校を創り出す会の定例会合が藤沢であった。お昼までかかるかと思ったけど、早めに終わったから、用事を済ませて、家に戻って、お風呂を沸かした。ゆっくり腰湯をしようと思ったのだ。
ミントカモミールティーを用意する。発汗で失われる水分を補給するためだ。歯間ブラシと歯ブラシセットを風呂場に持ち込む。クナイプという入浴剤のうち、乾燥肌に効果がある黄色のクナイプをお湯に溶く。新しく買ってきた泥炭石鹸でかんたんにからだを洗っている間に、湯船にお湯を張る。湯気にやられないように重松 清著「疾走(上)」(角川文庫)をビニール袋に入れる。
すべての準備が整ったので、ゆっくりへそから下をお湯につけた。肩から背中にバスタオルを羽織り、湯船のふたを半分占めてテーブルがわりにする。クナイプをふくらはぎやももの内側にこすりつけ、歯間ぶらしで歯を磨く。それから、ミントカモミールティーをカップに注ぎ、「疾走」のページを開いた。お風呂は心臓への負担が大きく、とくに冬場は気をつけないといけないが、足湯や腰湯は心臓から遠いところをあたため、水圧で胸部が圧迫されることもないので、血流をよくし、古い角質を除去するのに有効だ。温泉ならば効果は倍増するのかもしれないが、自宅の浴槽なので、それは我慢する。
時計で開始時刻を確認してからは、読書に夢中になってしまった。ときどきティーを飲みながら、ページをどんどんめくっていった。ふとおでこから汗が瞼に入り、本が読みにくくなる。気づくと、本をもつ両腕に小さな汗の粒が無数に並んでいた。首や胸には滝のように汗が流れ、羽織っていたバスタオルを外す。手ぬぐいでお湯に使っていない上半身の汗を拭き、ふたたび読書に戻る。一度、発汗すると、汗腺の不純物が取り除かれるのか、次々と汗が噴出した。背中をつつーっとつたう汗も感じた。時計を見ると、腰湯を始めてから50分が経過していた。
お湯から出て、石鹸を泡立て、汗の出やすいところを手のひらで洗う。古い角質がふやけていたみたいで、そんなにこすらなくても、すぐに肌がつるつるになった。まだ外が明るい時間帯に湯上りの一杯を飲みながら、来週の授業で計画している餃子作りの事前準備として、夕飯の餃子は小麦粉から皮をつくるところから始めた。
5371.1/27/2006
ニュースを見ていたら、株の売買に関わる個人投資家の損失について取り上げていた。
朝から晩までパソコンの前にいて、証券取引所の時間にあわせて、短時間に多くの取引をおこなって利ざやを稼ぎ出すひとたちだ。一日で億単位の買い物をして、同じぐらいの売り物をする。その感覚は、もはや常人を逸してしまったものと感じた。
ライブドア事件の影響で、ライブドア関連株をもっているひとたちの動向を伝えるのがニュースの主眼だったのかもしれないが、映像として伝えられたのは、ライブドア関連株で一喜一憂する姿ではなく、株式の取引を専門にする個人投資家の姿だった。それも、ことさらに大きな金額の取引を映像で取り上げたので、あたかも株の売買は苦労することなく多額の利益を得られるような錯覚を与えてしまったように思う。その部分だけを見ているひとたちも多くいる。そのなかには、ライブドア事件には興味なくても、儲け話には興味があるひとがたくさんいるはずだ。
実際には、株によって、大きな損失を受け、一家離散、もしくは自殺に追い込まれたひとたちもたくさんいる。そのひとたちが陥った危険性について触れないと、一般のひとたちが安易に株取引の世界に入り込むかもしれない。株取引は、投資ではなく、投機になると、もっている株券への信頼感や安心感、その会社の株をもっている誇りは存在せず、自分の利益を増減するツールやスキルに過ぎなくなる。損失を穴埋めするために、消費者金融に借金をして、さらに損失を増やせば、期限の迫った借金返済生活を送らなければならなくなる。その結果、自宅や通帳を担保に取られ、最後はすべてを失って路頭に迷う可能性についてメディアは触れるべきだと思う。
どんなことにも、安易に大きな利益をうむ原理は存在せず、急がば回れが大原則である。おいしくて安くて量が多い飲食店ばかりをテレビが取り上げるが、そのからくりやその結果として利益をあげているのかどうかという検証は明らかにされていない。よのなかには仕組みがあり、そのからくりや裏側、敗者や犯罪についても、事実を伝えなければ、公共放送の意義は低下し続けることだろう。
5370.1/25/2006
ライブドア事件のことで、通常国会の論戦があまりクローズアップされていない。
新聞もテレビも、国会よりも、ライブドア事件を前面に出しているのは、なにか裏があるのだろうか。
小泉首相は所信表明や代表質問にこたえるなかで、靖国神社参拝問題は中国と韓国だけが批判していて、そのほかの国は批判していないと発言した。この発言のニュアンスは、だから問題にするようなことではないだろうという本心が聴こえてきそうだ。
わたしには、この問題はライブドア事件よりもはるかに重要な問題に思える。国際社会において、紛争の解決を武力によって永久に解決しないと宣言している憲法をもつにもかかわらず、自衛隊を海外に派遣し、とても危険な任務につかせている政権与党の党首の発言だからだ。そして、その憲法じたいを変更しようとしている。
世界では貧困に苦しみ、毎日多くのひとたちが死んでいる。貧困は社会全体の問題だが、貧困で苦しむのはいつも一部のひとたちである。貧困をうんでいる背景には、利権と権力が大きく関係している。利権をもち、権力を行使したいひとたちは、国家の名の下に、あるいは宗教の名の下に、戦いやテロリズムを繰り返し、自らの、あるいは自らの一族の繁栄を維持してきた。資本主義社会や社会主義社会という経済スタイルの違いをこえて、この構図は古今東西大きな差はない。戦争やテロリズムによって利益をうむひとたちがいる。武器製造メーカー、エネルギーメーカー、その許認可に影響力をもつ権力者など、世界の人口から比べたら、ほんの一握りに過ぎないひとたちのために、国家意識、民族意識を大事にするひとたちが犠牲になっているのだ。
国家への忠誠や民族の団結という考え方は、産業革命以降、とりわけ大量殺人兵器の発明と量産とともに多くのひとたちに広がった。人類は長い間、血縁を重視したファミリーへの帰属を基準に戦いを繰り返してきたが、国家や民族というくくりは、血縁とは関係のない大きなつながりを意味している。そのつながりを、戦いに使える装置が国家や民族という考え方だ。地球上の人類というとらえをするならば、国家や民族、宗教という違いは対立構造の基準にならないはずなのに。
靖国神社は、国家間の対立で犠牲になったひとたちを強制的に祀っている。ほかの宗教のひとたちも祀っているので、遺族からは問題視する声もある。そのひとたちに哀悼の意を表すのは日本人として当然のことという考えが首相には強い。ならば、永田町から近い靖国神社へ出かけてわずかな時間をかけて哀悼の意を表すのではなく、激戦地を訪れ花束を捧げ、遺族を訪ね激励し、二度と世界中のひとたちが同じ過ちを繰り返さないようにするには、どうすればいいかを表明するべきだ。まるで靖国参拝が次期首相候補の踏み絵になっているような印象を諸外国に与えるのは、ふたたび戦争への道を歩んでいく布石をいまから周到に打っているように思えてならない。
5369.1/23/2006
けさの新聞にまた藤沢の中学の記事が出ていた。
昨秋は北部の中学校で、不登校の生徒が消火器を噴霧し、登校中の生徒多数が病院に運ばれる事件があった。今回は生徒の事件ではなく、教師の不祥事だった。
2年生の理科担当教師が、12月に試験をした後で保護者向けに渡す点数カードに試験結果ではなく、自分で想像した点数を記載してしまったというのだ。その後、採点をして答案を返却して、点数カードと返却された答案の点数が違うことに気づいた生徒からの申し出で不祥事が発覚した。これはあまりにもお粗末な不祥事だ。だれが考えても、後々点数が違うことが明らかになってしまうのに、なぜわざわざそんなことをしたのだろう。たまたま、その中学の教師に話を聞く機会があったので、そのことを尋ねたら同じ中学の教師たちも、なぜそんなことをやったのかまったくわからないのだという。
不祥事は12月末に発覚したので、学校は1月になってから生徒たちと保護者に事実を説明し謝罪した。そこで学校側としては事態は終息したと判断したのだろうが、この時期になってニュースや新聞で事実が報道された。起こってしまったことは隠すことができないことなので、時間が経過してからメディアで伝えられても仕方がないことだが、学校関係者しか知らない内部のことが、こうやって大々的に流れてしまったのは後味が悪い。生徒か、保護者か、学校職員のだれかが、このことを外部に漏らしてしまったからだ。では漏らしたことはいけないことなのかといえば、決してそんなことはない。むしろ事実を隠蔽し続けることのほうが罪は重い。だが、今回の場合、すでに関係者が事態を把握し、生徒や保護者に説明した後のことだったので、メディアに情報を提供した行為が悪意に見えてきてしまうのだ。
不祥事を起こした教師は「部活の仕事が忙しかった」から、採点をする時間がなく、想像で記載してしまったと、動機を話したそうだ。試験結果を確認することよりも、優先される部活動とはいったいなんなのだろう。わたしが入手した情報では、この教師は担当する部活動の世界では、神奈川県の役員までやっている実力者だった。とかく、中学では強い運動部の顧問は、授業指導や生徒指導の力量よりも、その運動部を強くする力量のほうが評価される傾向がある。職員会議での発言力にも、その力が左右するという。運動部が強いのは選手の力の結晶であって、指導者が前面に出てきて「わたしのおかげ」と胸を張るのは本末転倒だ。
不祥事がリークされた学校では今週、保護者説明会や全校集会が急遽開かれる。これから高校入試の季節だというのに、落ちつかない学校環境にしてしまった責任はどこにあるのだろう。
5368.1/22/2006
雪の鎌倉から一日あけた日曜日。もう雪雲は遠く、降雪もなかったけど、降り積もった雪が夜の間に凍って、かたいシャーベットみたいになっていた。チェーンをつけていない車が坂道でハンドルの自由がきかない運転をしていた。気をつけて歩かないと、すべって転びそうな路面になっていた。
日本海側の豪雪は、例年、もう少し遅い時期のものなのに、こんなに早く村落が孤立するほどの大雪になっている。思えば昨年は地震が続き、アメリカでは大きなハリケーンが町を襲った。秋は週末ごとに雨が続き、梅雨のような気候だった。いま、地球がいままでと違う局面を迎えようとしているのかもしれないと思ってしまうほど、自然災害が短期間に続く。
ドキュメンタリー専門のディスカバリーチャンネルで、地球の磁場が反転する可能性について取り上げていた。すでに、いままでの研究から、磁場は20万年に一度反転することがわかっている。磁場が反転すると、北極と南極が入れ替わってしまう。方位磁針が反対を向く。調査の結果、前回の反転からすでに70万年が経過して、いつ磁場が反転してもいい状態になっているという。
コンピュータを使ったシュミレーションでは、磁場が反転する直前、地球の磁力は極端に弱くなる時期があることがわかった。磁力が弱くなると、人体に影響のある物質をたくさん含む太陽風を宇宙空間で防ぐことができなくなる。地球のあちこちで、オーロラを観察することが可能になる。磁場はある日に突然反転するのではなく、少しずつ磁力が低下し、地球上のあちこちに小さな磁場が発生し、やがて完全にS極とN極が反転する。大航海時代の船乗りたちは、羅針盤を使った航海の経験から、磁場が動いていることを知っていた。そのため、羅針盤の指す北と、星を見ながら決める北とのずれを計算していたという。それが反転期になると、赤道にN極が出現したり、オーストラリア沖にS極が移動したりするようになる。方位磁針がまったく役立たなくなる危険な状態になるのだ。
わたしは登山をしていた。地図と方位磁針をもとに、自分の居場所と向かうべき方向を決めていたから、方位磁針が役に立たなくなると行き先がわからなくなる。火山の火口近くでは、方位磁針がきかないところがあることは知っていたが、地球規模でそのようなことが起こっているのは知らなかった。
5367.1/21/2006
雪だ。鎌倉は久しぶりの雪だ。
天気予報で昨夜のうちに雪の予報は出ていたけど、年に一回も積もらないことがある湘南地方なので、山間部だけだろうと思っていたら、本当に朝から雪が積もっていた。思わずカメラをもって日の出前の自宅周辺を撮影してまわる。
ことしの冬は日本海側を中心に豪雪に見舞われ、犠牲者の方も出ているのに不謹慎なことはわかっていたけど、本物の雪を間近に見る経験はほとんどないので、うきうきしてしまうのは仕方がない。でも、きょうは親戚の結婚式で、午後から品川まで行かなければならない。果たして、雪対策をしていない東海道線が正常ダイヤで動いているのかが心配になる。きょうは、地元の小学校でマラソン大会が予定されているらしいけど、これでは延期になったことだろう。
雨と違って、音を立てずにしんしんと降る雪は、ときおり風の影響でななめになったり、真横になったりしながら空から舞い降りる。地面や木々のこずえに舞い降りても、気温が低いからかすぐにはとけない。小さな雪の結晶がしばらくそのままのかたちをとどめる。
もしも、これが週末土曜日のことではなくて平日のことだったらと考えた。きっと小学校へ行くまでに、通勤の足は乱れ、道路は滑りやすく、へとへとになりながら職場に着くことだろう。学校に着いたら、子どもたちは降雪で盛り上がり、雪合戦や雪だるま作りで大賑わい。その後で、湿った服を乾かしたり、着替えを準備したりという仕事があることが予想できた。それを考えると、仕事のない週末に降雪してくれたのはせめてもの救いなのかもしれない。
わたしは鎌倉の風景は雪が似合っていると思う。
きっと寺社は雪景色のなかで静かな時間を漂わせている。もしも用事がなかったら、コートを着込み、長靴をはいてカメラ片手に散歩に出かけていただろう。
5366.1/20/2006
18日から大船の鎌倉芸術館で「第30回湘南地区障害者児作品写真展」(無料・23日まで)が開催されている。
茅ヶ崎市・寒川町・藤沢市・鎌倉市・逗子市・葉山町の公立小学校と公立中学校の特別指導学級と養護学校、4市2町の福祉作業所が出品しているので、芸術館のすべてのギャラリーを使う大きなイベントだ。教育と福祉の世界のひとたちが協同で開催する作品展は珍しい。湘南地区の障害児教育関係者と福祉事業関係者が企画段階から実行委員会を作り、ともに運営するので、子どもたち成長の流れを知るためにも有効になる。
わたしは、実行委員会が鎌倉で開催されると聞き、自宅から近いので担当することにした。そのときは、まさか自分が藤沢地区の取りまとめになるとは思ってもみなかった。実行委員会に行って初めてわたしが藤沢市代表になっていることに気づいたのだ。作品展のことも知らないし、市内の特学のことも知らないので、頭が真っ白になったが、前年に別の団体でやはり一年間取りまとめをやったことがあったので、何とかなるだろうと腹を決めるしかなかった。
作品展には絵画、工芸作品、手芸作品、書道、活動紹介などが出品されている。各団体がレイアウトや背景に工夫を凝らし、広いギャラリーに整然と並ぶ作品群は、出品者や支援者の気持ちが凝縮された強さを感じるものだ。同じ文字がいくつも並ぶような没個性的な書初め展示ではない。似たようなタッチで色合いだけが少し違う絵画が並ぶ美術展でもない。子どもたち、ひとりひとりの内面がストレートに表出しているものばかりだ。
17日の午後からわたしは各団体の搬入作業を助けた。藤沢地区は、湘南地区全体の出品数の半数を占めるので、使う機材数がとても多い。天井から作品を吊るすためのワイヤーも100本単位で必要になった。それらを脚立のお化けのような大きな脚立で、二回の屋根ぐらいある高い天井までのぼり、壁際のフックに引っ掛けるだけでも全身汗びっしょりになった。ワイヤーやレール、スポットライトなど必要な物品を借りるために倉庫に行くと、係りのひとも「いいですよ。どんどん使ってください」と細かいことにはこだわらない感じだった。どれもひとつふたつ必要なわけではないからだ。
今回の作品展で、わたしが注目したのは、教材ネタだった。どこも工夫を凝らした作品だったので、自分の担当する子どもたちといっしょに作ってみたい教材がたくさんあった。それらをこころのメモに記録することができたのが、とても大きな収穫になった。
5365.1/18/2006
いま「シーラという子」(トリイ・L・ヘイデン著 入江真佐子訳 早川書房)という本を読んでいる。副題は「虐待されたある少女の物語」、原題は「ONE CHILD」。
アメリカの公立小学校にある特別指導学級の実話だ。日米の障害児教育のシステムの違いがとてもよくわかって興味深い。なにがなんでもアメリカがよいわけでも、日本がよいわけでもないので、違いに気づきながら、両者のよいところを参考にできたらいいと思っていたが、読み進むにつれて、どう考えても日本の障害児教育は取り組みもシステムも遅れていることに気づき始めている。
著者のヘイデン女史は、小学校の教員だ。現役の教員がクラスのことをとても細かくレポートしている。子どもの発言やしていることなどを、臨場感溢れる描写で見事に文章化している。内容もさることながら、このひとはどうやってその時々のクラスの様子を記録していたのだろうと不思議に思った。いまのわたしの勤務体系を思い出したとき、子どもから離れて、子どもの様子をメモする時間は一秒もない。にもかかわらず、ヘイデン女史の記録はビデオカメラでも設置して、それを見ながら文章にしているかのごとく正確で生々しいのだ。
その答えは勤務体系にあった。昼の時間に教員たちはランチタイムが一時間保障されているのだ。その時間に、子どもたちは昼食補助員という学校職員とともに昼食をとる。教員たちは、ランチを食べながらコーヒーを飲み、子どもの様子をタイプする。子どもが帰る午後三時以降は、仕事が終わる五時までたっぷり二時間がテストの採点や翌日の準備の時間として用意されている。うーん、これならば子どもの記録を帰宅してから睡魔と闘いながら、それも何日分もまとめて記録しているわたしとは比べ物にならないほど正確な記録が残るだろう。出張や研究会、会議などで子どもが帰った後の時間を自分の時間として過ごしにくい日本の公立学校の環境では、教員が子どものことを忘れないうちに記録する習慣は根づきようがない。
ヘイデン女史のクラスには8人の年齢の違う小学生がいる。タイトルになっているシーラが転入してきて9人になるのだが、担任はヘイデン女史ひとりだ。これは相当きつい。それに補助員がひとりと中学生のボランティアがひとりいる。補助員は、失業対策事業の一環で行政から派遣されるので、同じ人が継続せず、専門家でも経験者でもない。中学生のボランティアというのが、日本のことを考えると理解しづらいのだが、その中学生はいわゆる中学の授業のある時間帯にもヘイデン女史のクラスで支援サポートをしている。
5364.1/17/2006
1月17日。新聞記者やニュース番組関係者は、大きな記事が目白押しで大変な一日だっただろう。
ライブドアが検察の家宅捜索を受ける。会社の買収にともなう証券取引法違反容疑がかけられている。社長の責任を追及するための捜索と言われている。ベンチャーの旗手と言われ、数年で急成長を遂げた背景に、古典的な株を使った錬金術があったのかもしれない。「違法ではないかもしれないが、脱法だ」。関係者がコメントしていた。脱法、新しい言葉として普及するかもしれないと思った。
構造設計図の偽造事件に端を発した一連の事件は、マンションやホテルの建築主であるヒューザー社長の証人喚問にまで発展した。前回の参考人招致のとき、威勢のいい発言をしていた社長だったが、証人喚問では「刑事訴追のおそれがあるので、証言は控えさせていただく」とばかり応じる。偽造事件が発覚した後も、建築したマンションを販売していたことについては「違法性はない」と言い切り、監督官庁に代議士を伴って行ったことについても「(事件発覚について)圧力をかけに行ったわけではない」と証言する。住民への補償について、国の責任で請け負う趣旨の話を住民説明会で語気強く語っていた背景に、中央政界とのつながりを指摘されたがそれについても証言は拒否した。社長が証人喚問で証言を拒まざるをえない圧力をかけている存在が、背景にあるとしか思えない。このままでは、この社長個人の責任ですべてが終結させられてしまうかもしれない。
18年前に幼女を誘拐し殺害したM被告に対して、最高裁判所が「上告破棄」の判決を言い渡した。これによりM被告の死刑が確定した。M被告はわたしと同い年だ。25歳のときに犯行におよび、当時、「オタク」の代名詞として世間を騒がせた。公判を通じて、被害者やその家族に対する反省の言葉はなく、裁判や死刑そのものも他人事のような言動を繰り返した。自分が起こした罪に、あえて向き合わないようにする人格を形成し、あたかも第三者として日常を乗り切ってしまったような印象が残る。しかし「結局、Mのこころの闇を解明することができなかった」というコメントについては納得できない。このような凶悪事件・異常性愛事件は、当事者の思考を分析したり、思考内容を聞きだしたりしても、多くの一般的な思考のひとには通じない世界があるのだと思う。問題は、その不思議な世界を生み出してしまった社会的背景や、いまもなお続く不思議な世界を共有するひとたちの考え方が、解明されなかったことにある。
そしてあれから11年。阪神淡路大震災。6500人弱ものひとたちが犠牲になった。その日から11年が過ぎる。いまも早朝にニュースを見たら、神戸の町が怪獣映画を観ているかのように燃えていたことを思い出す。復興に向けた取り組みは、いまも続いている。しかし、鎮魂のための慰霊祭に対して行政からの支援が縮小傾向にあるそうだ。多くの悲劇をうんだ自然災害。悔やんでも悔やみきれないほどの魂が、天界に漂う。その慰霊祭への支出を縮小する発案は、どんな事情から出てきて、だれが決断してしまうのだろう。
5363.1/16/2006
一級建築士による構造設計図の偽造問題で、国内のマンションやホテルの耐震構造がとてもあやしいことが発覚して半年ぐらいになる。
わたしの知り合いの不動産屋によると、設計段階の偽造は知らなかったというが建築現場の水増しは日常茶飯事だそうだ。その話は事件よりも前から聞いていたが、今回の事件で、その水増しの一端が浮上した。それは、コンクリートに大量の水を混ぜてしまうことだ。
コンクリートは建物の基礎や壁に使われる。コンクリート自体は固まっても、割れてしまう特徴があるので、なかに鉄筋を入れて強度を保つ。その鉄筋が基準以下だったことが事件では明らかになった。しかし、その鉄筋を覆うコンクリート自体の強度も、不足していた。それは基礎部分にコンクリートを流し込むときに、同時にホースで大量の水を加える。するとコンクリートが膨張し、たちまち基礎部分は水が大量に混ざったコンクリートでいっぱいになる。そのまま凝固させてしまうというのだ。これによりコンクリートの量を減らすことができ、結果的に低コストが実現する。しかし、凝固したコンクリートの型枠を外すと、水分は蒸発してしまうので、コンクリートのあちこちにひびが現れる。水分が蒸発したところがひびになってしまうのだ。これを建築業者は表面だけパテのようなコンクリートで覆って、隠蔽する。
コンクリートの強度が不足しているから、基礎は基礎として機能しない。何年も経ち、コンクリート内の水分が完全に乾燥したとき、スカスカのコンクリートが残り、建物の重みで崩壊する可能性が残る。床面積が広く、その割りに値段が安いマンションのほとんどで、このような方法がとられているという。
賃貸ならともかく分譲を買ったひとたちは、多額の住宅ローンを組んでいる。何年も働いて銀行からの借金返済のために、いつ倒壊するかわからないマンションに住んでいる。引越しをしようにも、二重のローンを組むことができない。住むも地獄、住まぬも地獄の生活だけが残った。
流通、交通、住居。これらはひとびとの生活を支える大きな要素だ。その関係者がコストを削減し、利益をあげるために、安全に配慮しない仕事をしているのでは、よのなかの信頼感は薄れていってしまうだろう。政治の世界と、とても結びつきが強いと言われる建築業界のひとたちは、政治家との結びつきを背景に、このようなことを続けてこられたのかもしれない。
5362.1/15/2006
14日は午後から鎌倉は嵐になった。
フリースクール「湘南憧学校」の土曜開校に参加していたお昼過ぎ、部屋の中の声が聞こえにくいほどの大雨が建物の屋根をたたいた。いつもは子どもたちの声で、おとなの話し声が聴こえないことのほうが多いのに、そのときばかりは子どもたちもいっせいに窓の外を見る。窓の下を流れる川の勢いに驚き、窓に叩きつける雨の音にたじろぐ。
「きょう、帰りは大丈夫かなぁ」
午後3時の下校時刻の頃にはおさまるかもしれないというスタッフの励ましは、やがて無残にも砕け散った。時間を追うごとに風雨は強くなり、午後3時には雨だけでなく風の影響も出る。この冬は乾燥した日が続き、全国の豪雪被害が申し訳ないほどに、湘南地方は雨のない日が続いていた。それが亜熱帯地方のスコールのような嵐に見舞われたのだから、子どもならずともわたしも背筋が凍る感じだった。
なんとか鎌倉から藤沢に向かうバスに子どもたちを乗せ、スタッフは親にメールで連絡を入れる。親が迎えに来る子どもは不安そうに携帯電話を手に着信を待つ。子どもたちが帰った後、メンバーで残り、ミーティングが開かれた。いつもなら夕日が忍び寄る中華料理店の二階は、午後三時過ぎだというのに夕方のような暗さだった。エアコンと石油ストーブがメンバーの体温を保つ命綱になる。天気予報では気温が上昇するといっていた。でも、吐く息が白い3月下旬並みの気温なんてありえない。きのうの予報は大外れだった。午後五時ごろまでミーティングが続く間にも、窓外に稲妻が走り、雨が続く。
帰りはメンバーの車に同乗させてもらいモノレールの駅近くまで送ってもらう。車から降りる前に傘を準備しておけばよかったと後悔するほど、ドアを閉めた瞬間からシャワーのなかにいた。モノレールの駅まで風の影響であまり役に立たない傘をさしながら、ぶるぶる震えたどりつく。自宅近くの居酒屋に到着し、ストーブを抱えるようにぬれたズボンを乾かした。一杯のラーメンが冷え切ったからだの芯をゆっくりあたためてくれたのは、それから30分後のことになる。
5361.1/14/2006
きょうはNPO法人「湘南に新しい公立学校を創り出す会」が運営するフリースクール「湘南憧学校(しょうなんしょうがっこう)」の土曜開校日だった。
湘南憧学校は、ふだんは月曜から金曜まで開校している。しかし、運営メンバーがそれぞれ仕事しているので、月に一度土曜日を開校日にして、実践の場に協力している。また、そのときに子どもの支援にあたる教師たちと、運営メンバーとで、子どもの様子を情報交換し、いまの全体の様子や個々のおかれた状況について検討している。あわせて、土曜開校日は取材や見学を希望するひとたちへの公開日にもしている。子どもの日常を取材や見学のひとたちが不定期に訪れることで崩したくないからだ。
きょうは取材が1人、見学が2組来られた。わたしは、理事長の立場なので、取材の方や見学の方の窓口も担当している。午前中は取材に応じ、午後からは見学に来られた方の質問に応じた。きょうの鎌倉は、昼からものすごい嵐になり、子どもたちが帰る午後三時ごろには雷も鳴り出し、台風のようだった。にもかかわらず足を向けてくださった方々には敬服する。子どもにあった学校を求める気持ちを素直に受け止め、湘南憧学校について裏表なく語らせていただいた。
だいたい湘南憧学校に興味をもち、見学に来られる方は、子どもがそれまで通っている学校に行きたがらない、行っても教室には行かずに保健室などほかの場所で過ごす期間を経て、それでも学校には行くものだという気持ちを子どもに抱きつつも、もしかしたらもっとほかに子どもにあう教育機会があるのかもしれないと思い始めた方が多い。だから、まず湘南憧学校がどんな子どもにもあうユートピアではないことを伝えておく必要がある。また適応指導教室のように、それまで通っていた学校に戻すことを目的にしていないことも最初の段階で明確にしておかなければならない。そのうえで、湘南憧学校を理解してもらわないと、入学後に誤解を生じてしまう。
きょう、見学に来られた二組の保護者の方は、説明を受け、同行してきた子どもの様子を見て、来週からの体験入学を視野に入れて考えてくれそうだ。二組の保護者の方に共通していたのは、どちらも湘南憧学校を人づてに聞いていたということだ。インターネットや情報誌を通じて情報発信しているが、それよりも運営メンバーの日夜の努力で人づてに湘南憧学校の活動を宣伝してきた成果がかたちになってきたことを実感する。
5360.1/13/2006
まさか自分がひとつの仕事を20年以上も続けるとは思ってもいなかった。
なりたい職業が若い頃はたくさんあった。映画監督、歌手、クラフトデザイナー、電車の運転手、教師、詩人、プロモデラー。あまり共通点のないものだけど、わたしのなかではどれも興味が充満しているものばかりだった。一生は一回きりだから、やりたいことを同時に全部やるのは難しくても、人生の区切りにうまく転職できればいいと考えていた。しかし、人生はそんなに簡単に転職を認めてはくれなかった。どんな仕事も、自分にとって一人前になるにはとても時間がかかるということに、若い頃は気づけていなかった。
教師になってからの20年間で、仕事を辞める転機がなかったわけではない。自分のなかで、子どもと過ごす時間に限界を感じ、自分のような者が子どもの前に立っても、子どもにとってよいことはないかもしれないと思ったことが何度かある。みんな若い頃のことだ。そのたびに、先輩教師や友人に相談し、辞めることはいつでもできる、でも戻ることは容易ではないと諭された。いったん辞めてしまった後で、ふたたび教職に戻りたいと思うかもしれないと考えたということは、まだやり残していることがあると気づいたからだろう。もうこれ以上、自分にはなにもできないし、すべてのことをやりつくしたと納得がいくまでは、あきらめることなく、逃げることなく続けてみようと考えた。そう考えてからは、時間が矢のように過ぎ、あっという間の20年になってしまった。
いま教育界は、ほかの産業と同じように団塊の世代がこれから数年の間に大量に離職していく。子どもの数に応じて教員の数が決まるから、子どもの数が少なく、団塊の世代の教員が多かった時代には、新採用がまったくない期間があった。いまの30代から40代前半にかけて教員をしているひとたちは、その頃、教員として採用されたひとたちだ。しかし、近年は逆に団塊の世代の離職にともない、新採用が増加しつつある。年齢構成がとてもいびつな組織がいまの学校なのだ。
5359.1/12/2006
先日、43回目の誕生日を迎えました。
子どものときは、40歳のおとなはとても大きく思え、かついわゆる中年のおじさん、おばさんと感じていました。いまの子どもから見たら、まさにわたしはそうなのかもしれませんが、いざ自分がその年齢になってみると、そんなにおとなでも、そんなに大きくもないことに気づきます。同年齢のひとたちは、わたしよりもずっとおとななのでしょうか、まだ子どものときの気持ちが残るわが身には、まだおとなの実感、おじさんの実感がわきません。
しかし、長く生きてきたことだけは事実です。教職を20年も続けてきたのも事実です。そんな事実を見据え、いままでの体験をもとに、わたしなりに考えとしてまとまっていることを批判していきたいと思います。ここでいう批判とは、非難に近い響きのものではなく、学術的にいう「とらえなおし」と思ってください。それにあわせて、今後のウエイは文体を変更します。
いままでは語尾を敬体に統一してきました。これはウエイがもともと紙に印刷した媒体からスタートしていることと関係しています。敬体は「ですます調」とも呼ばれ、ていねいな言い方ですが、文字を多く使うため、要点をはっきり伝えるときには向いていません。しかし、媒体が紙だったこと、対象がクラスの保護者だったことを考えると、文章を敬体にしなければならない事情もありました。以前、湘南に新しい公立学校を創り出す会から本を執筆したときには、常体の文章を使いました。「である調」とも呼ばれる常体は、文語の中心です。新聞も雑誌も書籍も、ほとんどが常体です。書き言葉に二種類の書き方がある日本語は、外国の方から見たら、なんともやっかいな言語でしょうね。
43歳をさかいに、ウエイも文体を常体に変更します。内容は変わっていなくても、常体の文章だと、少し偉そうに見えてしまうかもしれませんが、言い切りが強い印象を与えてしまうだけで、内容も、書いているわたしも、以前と同じことをご理解ください。
5358.1/11/2006
自立心を育むために(9)
どんなことがあっても、気持ちの底にある強い信念が、大きくぶれない。
はじめに考えていたものが、途中で困難に直面したり、修正を求められたりしたときに、冷静に状況を分析し、はじめの考えに固執しない姿勢を保てる。
好奇心を大切にし続ける。
これら三点は、きっと湘南憧学校をやがて卒業していく子どもたちが身につけていくものだと思っています。これらを総称して「自立心」とあえて呼び、今後も検証を加えていこうと考えています。
湘南憧学校を多くのひとたちに知ってもらいたいと考え、売りになるなかみを宣伝することも必要でしょう。公開日や説明会を設け、ていねいに実践を報告することも必要でしょう。しかし、あえて、もう少しの時間を用意してもらえるとしたら、卒業していく子どもの姿を見てほしい気持ちが強くあります。
湘南憧学校の財産は、子どもたちです。その子どもたちが学校を離れ、進学したり、就職したりする時期、もっとも学校の特徴を身につけた子どもの姿が見られるのではないでしょうか。そこには、自分たちの卒業さえも、自分たちで演出しようとする子どもの姿があるのではないかと、いまから想像しています。(終わり)
5357.1/10/2006
自立心を育むために(8)
かつて、わたしたちは新しい教育、新しい学校のコンセプトを検討しました。
その結果、「センセイ、次なにやるの?」から「わたし、これ、やりたい!」へを考案しました。指示に従うばかりの子どもから、自分がやりたいことを前面に出せる子どもを育てようという意気込みがありました。
このコンセプトのもと、テストスクールを毎年開校しました。
いま、通年開校の湘南憧学校の実践を通じて、このコンセプトは次の段階に入ったのではないかと、わたしは感じます。なぜかというと、もはや「次なにやるの?」という子どもはいないからです。むしろ、いまでは教師のほうが「次はどんなことをする?」と語りかけています。
子どもが興味をもって取り組む課題。それを一定期間ごとに発表するプレゼンテーション。子どもどうしで協力して取り組みたいことを作り上げていくハーモニータイム。これらの実践の積み重ねが、全体としても、個別なものとしても、どこへ向かおうとしているのか、なにを目指そうとしているのかを、子どもも保護者も教師も共有する時期になってのではないかと思うのです。
そこで、わたしは、このレポートで仮説的に「自立心」を掲げました。
いまの湘南憧学校の子どものなかにも、まだ具体的な場面では、安きに流れる依存心が見られることがあります。それを、頭ごなしに否定するのではなく、あなた任せの姿勢では、なにも生まれないし、なにも育たないということを、手を変え品を変えたアプローチで子どもに気づかせています。s
5356.1/9/2006
自立心を育むために(7)
自立心を育む
湘南憧学校には現実的な課題が少なくありません。
子どもの数をもう少しふやしたい、保護者の授業料負担を軽減したい、財政的な補助を公的機関から受けたい、法的に認められた学校に近いかたちにしたい、教職員の雇用を安定させ給与をもっと上乗せしたい、地元のひとたちに認知されたい、子どもの学校のことで悩んでいる保護者に情報を届けたい……。
希望ばかりを羅列しても、だれかがなんとかしてくれる課題ではないので、ひとつずつ確実に取り組むしかありません。
このような現実的な課題とは逆に確実な成果も少なくありません。
そのひとつが、子どもの生き生きとした前向きな学習スタイルです。
落語に興味をもった子どもは、テープやCDで落語を聞きながら、話を覚え、夏には海の家でたくさんのひとを前にして高座にのぼりました。算数ドリルを自分のペースで学習していた子どもは、自分で問題集を作るようになりました。ほかの子どものようにすぐには取り組む課題が見つけられなかった子どもは、長い時間を経て、少しずつ持続可能な課題に取り組むようになりました。このほかにもたくさんの変化を子どもたちは示しています。
これらは、もしもみんなで同じ学習内容を、決まった時間に学習していたら達成できませんでした。そこには、保護者と教師の連携や、教師による指導法の工夫があり、その前提に立って、子どもが自らの手で興味ある課題を掘り下げていったのです。
子どもたちの10年後や20年後に思いをはせ、どんな状況にあろうとも、会社や上司の意思や命令に対して、無条件に従うのではなく、まずは自分の感性や知性のフィルターを通して物事を受け止め、創造的なプラスアルファを生み出していく素地が、成果となって見え始めてきています。
5355.1/7/2006
自立心を育むために(6)
学習場面で協力した子どもたちは、その後の生活場面でも、互いの家でお泊りをしたり、休みの日に遊んだりするようになっています。
ひととつながりをきずいていくのは、とても高度な力が要求されます。ことばの使い方に気をつけ、相手の表情を読み取る力、自分の気持ちをときにはおさえる力も必要でしょう。多くのエネルギーを使う作業です。単純に、たくさんの子どものなかにいれば、自然に子どもは友だちを作るというものではありません。
とくに、子どもの数が減り、放課後の時間が忙しくなった社会では、たとえ気の合った相手を見つけても、つながりをきずいていく時間的なゆとりがありません。そんななかで、子どもが関係性の力を高めていく機会として、学校の役割は高まっていくでしょう。しかし、同年齢集団で構成されたいまの学校では、はじめからつながりを作っていく相手が限定されています。そのなかに、自分の願う相手がいないとき、孤立を避けられなくなります。いつも同じ尺度で評価される集団なので、こころを通い合わせる相手を見つけることは、とても難しいことでもあります。
湘南憧学校の生活には、競争や集団の限定がありません。
無理に「みんななかよく」といわなくても、大きなケンカやいじめ、仲間はずれが生じにくい条件が整っています。これは、逆説的にいえば、ケンカやいじめがあるから「みんななかよく」が声高に叫ばれるのではないかとも思えてきます。
自分が好まない関係性の縛りほど、つらいものはありません。そんなつらさに耐えながら、本当の自分を隠し続ける学校生活を送るよりも、自分と向き合う学習スタイルを重視する学校で、ひとの視線を意識することなく、ゆったりと時間を送ったほうが、やさしい気持ちが育つのではないかと思います。
5354.1/6/2006
自立心を育むために(5)
関係性をきずく
どこの世界でも、わが子が孤立しないで多くの子どもと仲良くしてほしいと思う親はたくさんいます。友だちも数多くいてほしいと願う親心は、決して間違ってはいません。しかし、その気持ちを強くもちすぎると、子どもの友だちを親が決めてしまう危険性が出てきます。これは、ひととひととがつながりあっていく関係性の力を、子どもがつけられないことになりかねません。
いまの時代は、子どもの交友関係について、親がまったく干渉しないというのは、子どもどうしの悲しい事件が多いので、現実味がありません。だから、多少は関心を示しながらも、深く立ち入らないという微妙な距離のとり方が必要になってくるでしょう。
まなびのなかみを子どもが決める方法では、子どもどうしのつながりが生じないのではないかという疑問を、いままで多くの方からいただいてきました。しかし、1999年から2004年まで実施したテストスクール「湘南小学校」や、2004年から開校している「湘南憧学校」の実践で、必ずしもそうとは言い切れないと、わたしは思うようになりました。
もともと、関係性とは気のあう者どうしの間に強く生じます。では、どのように子どもどうしがお互いに気持ちが通じ合っているかどうかを確かめるかというと、それは似た傾向の内容にともに興味が持続する具体的事実が裏付けていました。まなびのなかみを決める子どもたちは、偶然、自分と似た内容の子どもを発見します。ひとりよりも複数のほうが、元気が出て、意欲がわくと考えたならば、お互いに協力し、助け合いながら、学習を展開します。たとえ、似たような内容の子どもを発見しても、それぞれに自分のペースを大切にしたいと考えたならば、無理につながりを作る必要はありません。
5353.1/5/2006
自立心を育むために(4)
湘南憧学校(しょうなんしょうがっこう)では、子どもの発案に基づいて学習計画が作られます。午前中の早い時間帯には、ことばや数の学習も実施しています。子どもは、教師と相談しながら、いまの自分に必要な学習内容を考え、実行します。
公立小学校では、一年かかるドリルを数ヶ月で終わらせる子どもがいます。ことばの学習をもとにして、辞書を作る子どももいます。学齢以上の内容まで発展させた数量や図形の学習に取り組む子どももいます。
わかる喜びやできる楽しさは、自分でまなびのなかみを決めているという自覚があるとき、大きく飛躍します。それは、だれかに与えられた内容ではないので、わからないまま放置したり、できないまま終わらせたりすることがないからです。
また、ことばや数のようなベーシックな学習が、自分が持続して取り組む課題に直結していることも大事です。いま学習していることが、持続して取り組んでいる課題学習に役立つ実感があるからこそ、漢字を覚えたり、計算方法をマスターしようとするのです。
このように、湘南憧学校では、子どもたちに学校生活のほとんどの場面で、自分で考えることを求めます。考えたことが正しいとか、間違っているとかの二分法ではなく、考えたことをもとにして、生活を築いていくのです。あきらかに子どもの発案が、いまは手に届かない大きなものであったとしても、まずはトライを基本にしています。つまずきをおとなが予想して、安全な道筋を示しても、その配慮は子どものこころに届きません。
悩む・トライする・つまずく・修正することを繰り返しながら、考える習慣をつけ、やがて子どもが自分の得意なことを発見し、それを生き方の中心にすえてほしいと願っています。
5352.1/4/2006
自立心を育むために(3)
考える習慣
公立小学校の職員室、たいがい朝の時間に低学年の子どもが担任を訪ねます。
「きょうの朝自習はなんですか」
教職員が職員室で打合せをしている時間帯に、教室で子どもが自習する内容を確認しに来るのです。担任は、ドリルのページを指示したり、印刷してあるプリントを渡したりします。
授業でも、「教科書の○○ページを開きましょう」「きょうは春の絵を描きます」のように、学習内容は教師によって提示されます。
このように与えられた課題をこなしていく毎日が続くと、子どもは自分から物事を考えることをしなくなります。教室に行けばやることが決まっていて、それがなんであろうと、やらなければならないからです。拒否したり、ほかのことをやったりしたら、周囲の子どもに注意され、教師によって成績が下げられます。
与えられた課題を、確実にこなしていくことによって、力をつけていくタイプの子どもは、このような学習スタイルが適しています。しかし、すべての子どもが同じ学習スタイルとは限りません。とくに年齢がすすみ、10歳をこえた子どもたちになると、与えられた課題への集中が途切れる子どもが増加します。なぜこのドリルをやらなければならないのか、いま教わっていることが何の役に立つのか、自分にはもっとほかにやりたいことがあるのにそれをあきらめなければならないのはなぜか……。これらの問いに対する、明確な答えがないからです。そのなかでは、コツコツと自分の興味あることを成し遂げていくタイプの子どもや、学習への意欲を失った子どもは置き去りにされてしまいます。
5351.1/3/2006
自立心を育むために(2)
社会はたえず変動しているので、いまの状況に求められる人材を学校で育成しても、10年後や20年後に成果が現れるかどうかの保障はありません。近年、変動のスピードは加速する一方です。
しかし、いまもなお、小学校や中学校では子どもに集団適応を求め、ひとよりも多くの知識があることが重要で、教師の指示を忠実に守ると高い評価が得られる仕組みが続いています。
だれも将来のことを正確に予知できません。しかし、もはや「言われたとおりにしてきたのに」という言い訳は通用しない社会の分岐点が迫ってきているのです。子どもが学齢に達したら、地元の学校に通わせる親がいる一方で、わが子の将来を考えたときにもっと異なる教育活動が必要だと感じた親に対して、選択肢を複数用意していかなければなりません。わたしたちが、湘南に新しい公立学校を創り出す会で研究し、実践している新しい教育のかたちは、そんな選択肢のひとつなのです。
だから、もちろん、それがベストとは思っていません。だれにでも通用する教育のかたちはありえないという前提に立ち、子どもに応じてベターな教育機会を創造しつづけていきたいと願っているのです。
5350.1/2/2006
自立心を育むために(1)
背景
まもなく1943年から1953年にかけて生まれた方々、いわゆる団塊の世代が60才の定年を迎えます。すでに定年を迎えた方々もいますが、1947年以降に生まれた団塊の世代の中核的な方々はこれから定年を迎えます。日本社会の経済成長期に、猛烈にはたらき、いま日本社会の基盤を作った方々が大量に社会の現場から去っていく時代です。
企業では定年を延長しているところも増えています。しかし、55歳以降は昇給も昇格も停止した条件がついているところが多くあります。官公庁でも定年前の勧奨退職をすすめ、学校現場からも優秀な先輩たちが近年続々と教壇を去っていきました。
経営者にとっては、高給の熟年者を減らすことが重要なのでしょう。低コストで生産性のある経営を実現するために、正社員を減らし、派遣社員への依存を高め、サービス残業という名の無賃労働を実施しています。はたらくひとたちにとっては、低賃金の過重労働という負担が日常的になっていくと予想できます。介護保険料、消費税、子どもの教育費はあがる一方で、給料は抑制され、就職も安定せず、年金の受給開始が遅くなる社会が実現しつつあるのです。
その現実をふまえたとき、これから社会に出て生産力としてはたらく若者たちに、もっとも求められるものが見えなくなっています。若者の定職離れや、なにもしないで自宅に引きこもるニートの増加は、将来像が描きにくいこころの叫びがかたちになっている証拠かもしれません。
いま20歳から30歳のひとたちは、10年前から20年前の小学校や中学校時代に、「みんな仲間」「友だちを大切にしよう」「宿題は忘れずに」「言われたことをきちんとやる」「勉強すれば、いつか役立つ」と教えられてきたひとたちです。協調性、集団への適応能力、知識の量が絶対視され、そこに評価価値が設定されていました。独創性やひとつのことをやりきる気持ちは、伸ばされることなく、学校時代を過ごしました。
5349.1/1/2006
2006年の幕開けです。すずめサーバーと契約をして、インターネット上に情報を発信して、早くも6度目の正月を迎えました。
ちょうど2000年1月1日にホームページを開設したので、わかりやすいカウントです。ひとつのテーマを決めて、発信する情報を整理すればいいのですが、器用貧乏の性格ゆえ、あれもこれも盛り込みすぎのホームページのまま、6年目の「かさなりステーション」になりました。ことしは、少しホームページの内容を整理していこうと、いつも年の初めには思うのですが、あっという間に季節が過ぎて、気づくと年末を迎えます。仕事が忙しくなった関係で、以前のような更新がなかなかできなくなって、それでもアクセスカウンターやダウンロードカウンターが日々更新されているのを見ると、ネット上の見知らぬひとたちの存在を感じ、自分なりに発信作業を続けようと奮起できます。
思えば、ホームページを開設した頃は、接続がモデムを使ったダイヤルアップでした。接続時間に応じて課金されたので、最低限の情報を得ると、こまめに接続を切断していたことを思い出します。その後、接続はADSLから光ファイバーに変わりました。当時のパソコンのOSも、いまは骨董品のように感じます。ホームページの更新作業を、自宅のパソコンのなかで確かめ、それらをまとめて一気にすずめサーバーにアップしていた方法から、いまは更新と同時にアップし、ネット上で内容のチェックをする方法にシフトしました。ネットへの接続が常時になり、速度が高速になったので、この方法が可能になりました。わずかな期間で、ブロードバンドは発展し、個人ユーザーレベルでの操作性を大きく向上させました。
しかし、いくら技術や仕組みが発展しても、変わらないのものがあります。それは、情報の内容と質です。これは、インターネットやパソコンとは関係なく、自分の生き方やものの見方が重要になります。「かさなりステーション」が、多様な情報の交差点として、これからも発信する情報の内容と質を維持し続けるために、たえず社会との関係を相対化しながら、感じたことを整理し、伝える力を高めていこうと思います。ことしも、どうぞよろしく。
5348.12/31/2005
2006年が暮れていきます。ことしは春に母が他界したので静かな正月を迎えます。わたしは数年前から年賀状を出していませんが、父や家族は喪中のため今回は年賀状を書いていません。
「年賀状がないと余裕をもって、12月を過ごせるね」
父がしみじみと感想を言います。
ことしも全国的には大きな事件や事故がありました。日本社会という視点でとらえなおすと、信頼が大きく崩れた一年だったのではないでしょうか。尼崎で起きたJR西日本の通勤電車の脱線事故では、多くの犠牲者が出ました。事件の背景に、人権を無視しているとしかいいようのない会社による労務管理がありました。利用者による利便性の追求が、安全性よりも過密なダイヤと定刻運行を優先していました。12月になってからも、JR東日本の羽越線で特急電車が脱線し、犠牲者が出ました。この事故は風速を計測する機械の設置場所が問題になっています。乗り物をめぐっては、飛行機でも安全性よりも利潤が優先されている実態が明らかになりました。
また、構造設計という耳慣れない言葉もよのなかに衝撃を与えました。全国で多くのマンションやホテルが、法律の基準に適していない設計をもとに、鉄筋の量を減らし、コンクリートに水を混ぜた工法で建設されていました。多額のローンを組んだまま、別の住まいを探す住民にとって、住居への信頼が根底から崩れてしまった事件です。
交通と住居は、社会生活の根幹を支える要素です。それが、安全性よりも、利便性や利潤を優先した構造によって支えられていたことが明確になりました。これらは、ことしになって発生したことではなく、もっと以前から進行していたものが、たまたまことし明るみに出てしまったことです。だから、ほかの分野でも、ひとびとの信頼を揺るがす不正や不合理なことは横行しているのかもしれません。信頼が揺らぐ社会では、個々人がよほど気持ちをしっかりもって、親しいひとびととの関係を強く維持しておかないと、精神的にきつくなっていくひとが増えます。○○病という病名でカテゴリー化しても、それは自分の状態を知るだけで、心身ともに健全な生活を送ることにはつながりません。インド洋大津波、ニューオーリンズ浸水などの災害に見舞われたひとびとが、精神的に不安な状態が長く続いていることからも、人為的なものも自然的なものも含めて、多くのひとびとは平和で安全な生活を、本質的な部分では求めているのです。
あしたから2006年になります。思えばインターネット社会は、信頼がとても見えにくい特徴をもっています。ここにメッセージを載せても、そのメッセージを受けても、どこまで本当のことなのかを証明する手がかりがないのです。しかし、わたしも含め、ネット社会は、信頼よりも、利便性と速度を優先するものと自覚しつつ、つきあっていくしかないのでしょう。
5347.12/29/2005
特学レポート:冬11
子どもたちは冬休み中ですが、教職員は勤務が続きます。わたしが採用された20年前は、子どもたちの長期休みのときは教職員の自宅研修が認めれていました。学校に行かなくても、自宅でできる授業準備はたくさんあります。また、ふだん美術館や教材に必要なものを買い揃えることは難しいので、長期休みの自宅研修を使って、長い課業中への準備をしました。しかし、自宅研修はずいぶん前に教育委員会の指導によって認められなくなりました。研修を装って、旅行をしたり、遊びに行ったりしている不祥事が続き、本当に研修しているのかどうか信頼されなくなったからです。一部の者のために、多くのひとたちが迷惑をこうむってしまったのです。いまでは、自宅でなければできない内容に限り、申告し認可されれば自宅研修が認められますが、ほとんどは学校でもできるものなので、出勤が前提になっています。
そんなことが繰り返されてきたので、ものの考え方もずいぶん変わりました。課業中に「こんな教材があったらいいな」「あの資料をそろえたいな」と思っていたとき、以前ならば時間を惜しまず、夕方以降も学校に残り、教材作りや資料探しをしたのですが、いまは「今度の夏休みにまとめてやろう」「冬休みにゆっくり作ろう」と思うようになりました。子どもにとって、どちらがいいのかはわかりませんが、仕方がない選択です。
先日、出勤したとき、わたしは3学期早々の書初めの準備をしました。全校で書初めがあるのですが、特学の子どもたちの作品を印象に残るものにしたいと思いました。そのためには、用紙を見栄えのよいものにしようと考えました。文字がうまく書けない子どももいるので、筆を使って墨で文字を書く書初めは、文字の良し悪しを前面に出したり、評価したりしても、教育的効果はありません。作品全体に個人のよさがにじみ出るような工夫が必要です。そこで、半紙ではなく画用紙を使うことにしました。無地の画用紙では味わいがないので、白の画用紙に薄い絵の具で着色しました。まず、はけに水だけをつけて、全体に塗ります。そこに絵の具をつけた筆を薄くのばします。水が塗ってあるので、絵の具は塗ったところからじわじわと広がっていきます。またわざとポタポタと絵の具の水滴を画用紙に落とすと、小さな円を描くように色が広がっていきます。それを乾かしてから、金色のスプレーをその上に吹き付けました。正月らしい華やかな用紙が完成しました。
5346.12/28/2005
(5345号から続く)近年になって、都市部の子どもに見られた写真投影法の調査結果の特徴が、山村部の子どもにも見られるようになってきたそうです。
子どものときから、ものに恵まれても、ひとに恵まれていない生活が、急速に都市部や山村部を問わず広がってきています。ひとに恵まれていない生活とは、ひとが生活に介在しない生活ではなく、ひとの存在を子どもが感じられない生活ということです。そのような傾向が強くなってきたことと、携帯電話、携帯電話を使ったメールの広がりが時期的に重なっていると、講演された方は教えてくれました。その両者に因果関係があるかどうかの学術的な解明には、まだ時間がかかるとのことですが、仮説として分析できるのは、携帯電話が不信感を増幅させる道具になっているということです。
固定電話しかなかった時代には、電話は場所に依存していました。電話の向こうに相手がいたら、それはその電話のある場所に相手がいることを証明していたのです。そこには、電話は家庭や店先などの決まった場所にしかないという前提がありました。ひとが電話のある場所に行って、受話器をとらなければならなかったのです。しかし、持ち運び可能な携帯電話の普及によって、電話はひとに依存するようになりました。電話の相手がどこにいるかという情報は、電話の向こうに相手がいるだけではわからなくなってしまったのです。相手が「いま、うちにいるよ」「いま、出先なんだ」と言えば、それを信用するしかありません。恋人がどこにいるのか不安なとき、自宅にいるのか、アルバイト先にいるのか不安になり、携帯電話で確かめることができずに悩みを相談する学生がいたそうです。本人に聞いても、それが真実かどうかの確かめようがないので、電話をかけられないというのです。
それでも、電話の場合はまだ相手の声を頼りにコミュニケーションがとれ、怒っているのか、笑っているのか、微妙な間がなにを表しているのかなど、ひととひととの関係性をはかる基準がありました。メールの登場によって、その基準さえもなくなりました。自分が送ったメールを、相手だけが見ているのか、相手以外のひとも知っているのか、返信はだれが送ってくれたのか、送信者を信じていいのかなど、コミュニケーションの最低条件である自他が不確実になってしまったのです。そして、直接のやりとりではとても気を使わなければいけなかった関係性に重きを置く必要がなくなったので、一方的な情報発信が可能になりました。相手の状況を把握する力が不要になったのです。
携帯電話もメールも、それがなかった時代を経験したひとたちにとっては、とても便利な道具です。しかし、物心がついたときから、情報伝達の道具としてだれもが使う時代を生きる子どもたちにとっては、それらの便利さよりも、それらが生み出す怖さや危険性のほうが強く感じられるのではないでしょうか。
5345.12/24/2005
大学の助教授で障害児教育が専門の方の講演を聴きました。この方は、スクールカウンセラーをして、精神的な病の小学生や中学生の相談もしています。
地方都市と山村部の小学生から中学生にインスタントカメラを渡し、「ひとに見せたいもの」を撮影させる写真投影法という調査方法で、子どもたちの内面の変化を継続的に研究しています。講演では、その途中経過を紹介されました。子どもたちが撮影してくる写真は膨大な量になります。最初の仕事はそれを分類し、整理することだそうです。カメラを使った方法は、文章に書かせたり、言葉で言わせるよりも垣根が低く、子どもの自然な内面が投影されます。近年の調査で新しく項目わけしたのは、テレビ画面とゲーム画面だそうです。以前までは、どちらもテレビ画面として統一していましたが、明らかにテレビゲーム画面を撮影してくる子どもが増加したことと、ゲーム画面とテレビの番組画面では、伝えたい内面やその子どもの状態が違うであろうという判断に立ったからだそうです。
そんななか、わたしが興味をもったのは、食卓に関するカテゴリーです。食べ物を撮影する子どもはとても多くいます。子どもにとって、食べ物は興味や関心の的なのでしょう。しかし、都市部と山村部では、同じ食べ物を撮影するにしても大きく違う傾向がありました。都市部の子どもの写真は、まるでレストランの献立のようです。その日の朝食や夕食の出来上がった料理が整然と並べられ、なにを食べようとしているのかがわかります。それに比べ、山村部の子どもたちの写真は、家族がいる食卓を撮影したものが多かったのです。おじいさんやおばあさん、両親や兄弟姉妹、ペットも含め、食べ物だけではなく、生き物(多くはひと)がいっしょに写っているのです。わたしが見た限りでは、多くがカメラに向かってポーズをとっているので、「うつしまーす」「OK」「はい、チーズ」みたいなやりとりがあったことが予想できます。
このふたつの違う傾向は、大きな意味をもっています。献立のように食べ物を撮影する都市部の子どもたちにとっての食事は、だれがどのように作り、それをだれといっしょに食べているのかはどうでもいいことで、それよりも作られた結果としての料理が重要(見せたい・伝えたい)な情報なのです。親が作ろうが、テイクアウトだろうが、惣菜だろうが、おいしければいいのです。家族がポーズをとるあまり、なにを食べているのかがいまいちわかりにくい山村部の子どもたちにとっての食事は、自分がだれと生活をともにし、だれとどのように食事をしているのかが重要な情報であり、その日のメニューへは気持ちが向いていないのです。
つまり、都市部の子どもの食事概念には、ひとが存在しません。山村部の子どもたちの概念には、ひととひととの関係が存在します。朝早く出勤し、夜遅く帰宅する親が子どもに向かって「友だちを大切に」などと、ひととひととの関係性を重要視する説教をしても、子どもにはなにも響かない証拠が都市部では見られます。(つづく)
5344.12/22/2005
特学レポート:冬10
2学期が終わりました。
子どもたちは、大きな時間の単位としての2学期はわかりづらいかもしれません。あしたやあさって、どうして学校に行かないのかという疑問を持ちながら、家で過ごす子どもがいるかもしれません。冬休みは短期間ですが、それでも2週間はあるので、年明けに会ったら、身長や体重が増え、大きく見えるのでしょう。いつもいっしょにいると気づかないことが、少し時間間隔をあけると変化を感じやすくなるみたいです。
運動会と遠足があったので、子どもたちは交流学年と過ごすことがたくさんありました。大きな流れのなかで過ごす経験は、積み重ねによって習慣化していきます。しかし、習慣化によって、良い意味でも悪い意味でも大きな流れや大きな集団の具体的イメージがわくようになってしまいます。すると、それを負担を感じていた場合、その後の交流活動が消極的になります。
特学での生活は、小さな流れと小さな集団を基本にしています。その生活と、逆のイメージが対比されると、自分にとって過ごしやすいほうを選びたい欲求が生じます。自分にできることを増やしていくために適した環境は、個人によって異なって当然です。だれもが同じ環境に適応するほうが怖い現実を予想させます。ひとりひとりにもっとも適した生活環境や学習環境があるので、それを見つけ、提供し、安定した生活や落ち着いた学習を導くことがわたしの仕事です。
2学期は、1学期に比べ、子どものことがよく見えるようになりました。長い時間をともに過ごしながら、個人の特徴がわかってきたのかもしれません。まだ見えていない部分のほうが山ほどあるのでしょうが、少しでも多くのことがわかってくると、対処方法に余裕が生まれ、効果的な指導を選択することができました。子どものとらえは、複数のおとなが感じるものの共通項として受け止める考え方も学びました。特学には教員3人と介助員がいます。わたしのとらえと、ほかのひとのとらえが異なることは珍しくありません。そんなとき、コンセンサスを大事にし、とらえがずれたまま異なる指導をしないように心がけました。保護者とわたしのとらえが異なることもありました。毎日、連絡帳の往復をしながら、受け止め方を確かめ続けました。
ことしの冬休みは祝日の関係でいつもより長くなります。子どもが家にいる期間が長いのでため息をつく保護者がいました。そういえば、わたしも子どもが小さかった頃は似たようなことを感じたなぁと懐かしく思い出しました。
5343.12/21/2005
特学レポート:冬9
餃子作りの二回目を行いました。
前回は、餡を全部わたしが用意して、子どもたちはそれを皮に包むところから学習しました。今回は、用意した餡の具を混ぜる活動が加わりました。材料の野菜や肉が包丁で切ってかたちを変えていくことを視覚的に理解することを目標にしました。出来上がった料理から、具体的な材料を想像するのは、生活経験が左右します。そこで、子どもたちの前で、白菜・ニラ・豚のばら肉を包丁で試しに切るオープンキッチン方式にしました。
学習の前に、子どもたちが使う材料はみじん切りや細切れにしておきました。とくに白菜は塩もみをして水を切る必要があります。学習が始まってから水切りをしていては、給食までに餃子が完成しません。準備と手際が求められます。白菜・ニラ・豚肉は近所のスーパーで買いましたが、皮は少し凝ってみました。中華街の顔なじみの店で、業務用の大判の皮を買いました。80枚も買ったので、店長に「ずいぶんたくさん買ったね。お店でも開くの」と冷やかされました。
2時間目までに準備をします。となりの部屋では子どもたちが音楽の学習中です。三つの班に分けて作業をするので、今回は三つのボールや皿に白菜などの食材を学習前に小分けしておく必要があります。タッパーからみじん切りのニラを出したとたん、となりの部屋までニラのにおいが広がり、子どもたちは音楽に集中できなくなってしまいました。
三角巾・マスク・エプロンをして、学習の準備が整った子どもたちが着席して学習が始まります。三つの班にはそれぞれおとながひとりずつつきます。わたしが全体指導をして、各班のおとなが子どもに具体的な指導をします。白菜を布巾でしぼったり、調味料を肉に混ぜたり、子どもたちも調理に参加します。ひとつひとつの工程を細かくわけ、スモールステップで餃子作りを進めました。一気に説明をして、あとは任せる方法ではなく、全体でゆっくり同じ内容を確かめながら行いました。
5342.12/20/2005
ついにこういう授業をする教員が登場したと驚きました。
17日付の毎日新聞に掲載されていた記事です。福岡県志面町の町立中学校で、10月27日と31日に「第二次世界大戦とアジア」という授業をした48歳の社会科男性教諭がいました。この教諭は授業で、二年生全員に副教材に掲載されている「臨時召集令状」を複製し、戦争に行くか行かないかの意思を聞きました。行くと答えた子どもにも行かないと答えた子どもにも、その理由まで書かせました。そのなかで、「戦いたくないし死にたくないから。あと人を殺したくないから」という理由を書き、行かないと答えた女子生徒の召集令状に赤のボールペンで「非国民」と書き入れ、返しました。女子生徒はショックを受け、保護者に相談し、保護者から学校に事件が発覚しました。
しかし、その中学の校長は「戦争の悲惨さなどを教えるためで、問題はない」と対応します。教育委員会は「確認できずわからない」と答えながらも、召集令状のもつ意味を理解させる・生徒の歴史認識を把握するための授業であり、決して思想信条を調べるものではない」と対応しました。どちらも、教諭の行いを正当化するような対応です。
多感な中学生に、戦争についての学習をするのに、まるで踏み絵を踏ませるような指導計画を立案した時点で、この教諭は不適格だとわたしは思います。ここで取り上げた第二次世界大戦は、人類が経験した世界規模の初めての戦争です。一般市民を含めた多くのひとたちが、犠牲になりました。国家権力の対立構造のなかで、「家族のため・愛するひとのため・愛する国家のため」自己犠牲が賛美された戦争です。とくに日本の場合は、不利な状況のなかで多くの犠牲が想定されていながら、無謀な作戦が太平洋の島々で繰り返されました。
5341.12/16/2005
ひととおりの挨拶を終えると、その方が「ボク、触っても、乗ってもいいよ」と言ってくれました。
Aの瞳が輝きます。そーっと車体に触り、消防車の側面にのぼって、金属の板やバルブをなでたり握ったりしています。わたしは、Aが急にコックやバルブを開いたり外したりしないかどうかが気がかりでした。でも、そんなことはなく数分の「消防車タッチ」を楽しみ、Aは消防車から離れました。隊員の方にお礼を言い、消防車から離れようとすると「もう一回やってもいい?」とのリクエスト。さっきの感触が残っているのでしょう。今度は反対側に行って、少しだけ消防車タッチをしました。特学には消防車など、大型の車に興味のある子どもがほかにもたくさんいます。その子どもたちがいまの状況に気づいたら、我先にと突進してくることがわかっていたので、二度のタッチのあとも「もう一回」を繰り返すAの手を引き教室に戻りました。そのとき、授業が終わるチャイムがなりました。
Aの行動、そしてAの行動におとなが付き添うこと。これは、通常級ではまず実現しなかったことでしょう。40人近い子どもをかかえる通常級では、担任がひとりの子どものリクエストに応じていたら、計画していた学習は進みません。でも、通常級にもきっと乗り物に興味のある子どもはいると思います。だから、子どもの興味や関心を満たすという意味では、小回りのきく特学のほうが機動性が高いと思いました。また、子どもの指導について、ひとりひとり異なる計画を特学では立てているので、教師が用意している学習予定に縛られることなく、いまこの子どもに必要なことのオプションは、つねに複数準備されています。Aがイタリア国旗の刺繍よりも、窓外の消防車に興味を向けた気持ちを大事にしたのは、Aに対する指導計画のなかに、学習意欲を高めるために興味あることの幅を広げていくことが挙げられていたからです。やらねばならないことを増やしていくことよりも、やりたいことを増やしていく時期のAにとって、気持ちがわくわくする生きた教材として消防車がこころのなかに飛び込んできたのだから、それを無理に遮断したり、否定したりするのは、指導計画に即していないことになります。
逆に、同じ特学のなかでも、いまはひとつの課題への集中力を高めることが重要と位置づけている子どももいます。そのような子どもに対しては、学習環境を整え、カーテンや仕切り板で視覚的な情報が外部から入らないように工夫しています。このように、個人によって異なる対応をしているのは、差別ではなく、区別です。ひとりひとりのあゆみが違うから、それぞれに応じたまなびを計画し、実行することが個人の育ちを導く前提になっているのです。
5340.12/15/2005
特学レポート:冬7
Aは、小さい頃に国旗の本を見て、名前をすべて覚えてしまいました。その記憶はいまも残っていて、国旗を見ただけで、国名を言うことができます。なにしろ世界中の国旗を見て国名を言い当てられるので、なかにはそんな国があったのかいなという名前も含まれています。
この特技を学習の発展に使わない手はありません。国旗の本から、好きなデザインの国を絵に描いたり、刺繍の図案にしたりしています。先日、刺繍の図案にするために、旗の周囲だけを縫っていたときのことです。Aは、一刻も早く旗の周囲ではなく、旗のデザインを縫いたい様子でした。ひとつの布地に4つの国旗をデザインしようと思ったので、先に4つの同じ大きさの四角を縫っていました。ちょうどそのとき、窓外に消防車が見えました。(そういえばきょうの午後、学校周辺を消防車がパトロールすると職員室の黒板に書いてあったなぁ)と思い出しました。Aはすぐに消防車に気づきました。わたしも消防車のほうをみて、Aに振り返ったら、もう座席にはいません。さっきまで、
「イタリアはいつ作るの」
と、聞いていたのに、見渡すと窓の近くに行って消防車を指差しています。
「Aくん、イタリアと消防車とどっちが大事なの」
「消防車」
即座に明快な答えが返ってきました。こうなると、Aの気持ちを刺繍に戻すのは不可能です。よりによって、その消防車は学校の正門から敷地内に入っています。わたしはAを連れて、消防車の近くに行きました。屋根にあたる部分に小さなはしごがついています。
「これってはしご車?」「それともポンプ車?」
興奮しながらAは質問を連発します。はしご車もポンプ車もみんなまとめて消防車なのか、それぞれ名前が違うのか、わたしにはわかりません。うーんと悩んでいたら
「消防車に触っていい?」「乗ってもいいかな?」。
今度は違う視点の質問に変化しました。わたしとAのやりとりが耳に入ったのか、運転席のドアが開き、隊員の方が降りてきます。
「先生、お久しぶりです」
その方は、前任校の保護者でした。
5339.12/13/2005
特学レポート:冬6
新年度まではまだ数ヶ月あるのですが、学期末が近づいて、見学に訪れる方が増えてきました。過日は、ほぼ新年度の入学を決めた方が子どもを連れて来校し、しばらくの時間ほかの子どもたちといっしょに体験入級をしていきました。このようなことは通常級ではありません。一年生のクラスに、就学前の子どもが体験に来たら、ひとりしかいない担任には対応できないことでしょう。
わたしの勤務する特学には3人の教員と1人の介助員がいるので、見学者や体験者がいたときは、子どもへの指導の合間をぬって個別相談に応じることが可能です。でも、それは突発的なケースには対応できません。毎日の時間割がすべての子どもに対して、すべての指導者を配置しているからです。そのために、学校との窓口になっている教育委員会には、必ず事前に連絡をしてくれるように頼んでいます。教育委員会からも就学を考えている保護者には伝えてくれているようですが、相変わらず前日の夕方や当日の朝に連絡が来るケースが少なくありません。体験者がいるときは、支援者4人のうち1人を充当するので、ほかの子どもたちへの対応をかなり綿密に組んでおく必要があります。だから、急に子どもがひとり増えてしまっても、対応できないのです。
特学は公立小学校数校に一校の割合で設置されています。だから、厳密には特学にも学区があります。しかし、数校に一校の割合しか特学がないので、自宅のある場所によってはとなりの学区の特学のほうが自宅から近い場合もあります。また同じくらいの距離でも、交通の便や安全面を考えたとき、となりの学区の特学のほうがいいと思う場合もあります。なかには、特学のやり方によって学校を選んでいる場合もあるようです。そのような特例の多くは現在では認められています。そのため、自分の子どもの学習環境としてふさわしい学校を見学し、体験し、相談したいと願う保護者の方は少なくありません。
原則的には、わたしはそのような学校選択はとても自然な流れだと思っています。どんなところかわからない学校に自動的に入学させて、それから混乱が生じるよりも、入学前に下調べをして、保護者として納得したかたちで子どもを入学させたいと思うのは親心としては当然のことでしょう。しかし、気をつけなければいけないこととして、わずかな見学や体験で、その学校や特学のすべてがわかるわけではないことを忘れてはいけないことがあります。たまたま見学した日の子どもたちの状態がよかったとしても、年中同じ状態が続くとは限りません。その反対もいえます。体験も、たまたま流れに乗れたとしても、入学してからも大丈夫と安心しきってはいけません。一次が万事という考えもありますが、日々刻々と変化していく子どもたちの日常を考えれば、瞬間の切り取りはあまり象徴的な出来事として一般化しないほうがいいと思います。もっと長いスパンで子どもの様子をとらえないと実態は見えにくいのです。それが教育の営みです。
5338.12/12/2005
特学レポート:冬5
ホットプレートは思ったよりも早く熱が伝わりました。オイルをたらしたら、思いのほかプレートが熱くなっていることがわかりました。
別室で待機していた子どもたちが、作った餃子を皿に乗せてホットプレートのまわりに集まりました。最初のひとつをわたしが見本で置いてみます。二個目からは子どもに任せます。子どもの生活経験の違いによって、気をつけながらできる子どもと、やけどを恐れて餃子を放り投げる子どもと、餃子をもつ手が震えながら腰が引ける子どもに分かれます。どの子どもにも、それなりの行動の理由があると思いますが、食べ物を扱うので、乱暴で不潔な扱いには注意をしました。
やや焦げ目がついてきたところで、お湯を注ぎました。水蒸気がいっせいに上がり、大きな音がしました。「うわー」びっくしした子どもはホットプレートから3メートルぐらい遠くにいすを動かしてしまいました。すぐにふたをして、蒸らしに入ります。湯気のことをけむりと呼ぶ子どもや、湯気の臭いをかごうとする子どもがいます。わたしはガラスのふたを通して、蒸らしながら変化していく皮の様子を子どもに教えます。料理のおもしろさは変化するところです。変化に気づかないと、子どもにしたら、作りました・焼きました・できましたという場面転換で料理ができることになってしまいます。少しずつ変わっていく様子を視覚的に記憶することで、食べる活動への興味がふくらむのです。
自宅で餃子を作るときは、鍋にふたをしてしまうので、なかの様子はわかりませんが、ガラスのふたのついたホットプレートは実験のように餃子が変化していく様子がわかりました。水分が蒸発し、仕上げのごま油をたらします。風味が広がったら、皿をとりフライ返しで一人分の餃子を皿に盛りました。
教室に戻った子どもたちは、全員の餃子が出来上がるのを待っていました。先に食べてしまう子どもがいるのではないかと思いましたが、事前学習を複数回やっていたので、学習の流れが子どもたちにわかっていて、つまみ食いをしてしまう子どもはいませんでした。ひとり5個のうち、2個を食べます。給食が迫っていたので、それ以上食べると給食に影響を与えます。残りはタッパーに入れておみやげにしました。ふだん、決まったものしか食べようとしない子どもも、さすがに自分で作った餃子だからでしょうか、餡は残しつつも、ニラやにんにくの味がついた皮をしっかり食べていました。
自宅に持ち帰った餃子は、家族が食べたり、おやつとして本人は食べたり、様々だったようです。今回は餃子作りの一回目でした。今月中にもう一回、1月にもう一回の合計3回を予定しています。次回は、餡を子どもが作ったり、混ぜたりする工程が加わります。
5337.12/11/2005
また、小学生が殺されました。
京都の進学塾で、アルバイトの講師に小学6年生の女児が刃物で刺し殺されました。講師は現役の大学4年生です。在学中に窃盗事件を起こし、停学しているときに現在のアルバイトを始めたといいます。ことしの4月に復学した後も、塾講師のアルバイトを続けていたのでしょう。殺された女児は、講師との折り合いが悪かったらしく、講師の授業に出ないようになっていました。にもかかわらず、講師は女児とふたりきりの時間を作り、あらかじめ用意しておいた刃物で殺害しました。監視カメラの電源を切ることまでして。
今回の事件は、明らかに計画的な犯行です。犯人が特定され、動機もはっきりしているのでしょう。この秋に続く、下校途中の小学生が誘拐され、殺害される事件とは、異質のものかもしれません。
しかし、いくつかの共通項は浮かび上がります。まず、殺害されたのが小学生だったということ、いずれも女児だということ、逮捕された容疑者はみんな男性だということです。
一般的に、子どもは体力的には弱い存在です。とくに成人男性に力で押さえつけられたら、抵抗することは難しいでしょう。とくに男児よりも女児のほうが成人男性にしてみると、やりやすい印象があるのかもしれません。これらの事件のもっと大きな流れは、弱い立場の者が被害に遭っているということです。そういう事件は以前から繰り返されていますが、こんなに短期間に事件が集中して起こると、社会全体の病的傾向を考えずにはいられません。同年齢の若者が、縄張り争いの小競り合いをしているのではありません。徒党を組んで個人を追い詰めているのでもありません。落ちついて考えれば、明らかに異常で悲惨なことを、個人の力で実行しているのです。個人が尊重されるのと、個人が孤立していくのと、同じスピードで進むいまの日本社会では、尊重され孤立した個人に精神的・道徳的支えはいません。精神的・道徳的支えは、いやおうなく集団のなかにあらわれ、集団の規範を前提にしていくからです。親が子どもの精神的・道徳的支えにならないのは、血縁関係であるがゆえの困難さが背景にあります。子どもは親から自立していく存在なので、コンプレックスをかかえてしまうと自立が遅れたり、自立できなくなったりします。
限りなく進む子どもの個別化と、そんな子どもたちがおとなの目をかいくぐってつないでいこうとする子どもどうしのネットワーク。その両方が「いい加減」に成長していくとき、子どもは家族以外に頼れる存在を見つけ、少なくとも成人に達したとき、ひとりで幼い子どもを殺害するような気持ちを抱くことはなくなるでしょう。万が一、そんな精神状態に追い込まれたときにも、それを察し、危険な状態を回避する親しいひとが近くにいることでしょう。
5336.12/10/2005
特学レポート:冬4
学期末、家庭科の調理実習ならぬ「餃子作り」に特学で挑戦しました。
大きなステップは3つあって、12月上旬に最初のステップを実施しました。それ以前から、事前指導を通じて子どもたちは、餃子の作り方や、当日の持ち物を学習しています。保護者へも手紙を送り、持ち物の協力を仰ぎました。
最初のステップは、餡を皮で包んで焼き、みんなで食べ、一部をみやげとして家に持って帰るというものです。子どもたちが包みやすいように皮は大判を用意しました。前日にスーパーに行き、皮・白菜・ニラを購入しました。帰宅してから豚のばら肉を包丁で細かく切り、酒とにんにくと醤油で軽く下味をつけ冷蔵しました。ニラも細かく切ってタッパーに準備しておきました。当日、それに白菜をくわえ、ニラの臭いが漏れる紙袋を提げて出勤します。
子どもたちは三角巾・エプロン・マスクをしっかり用意していました。家庭の協力があってこその忘れ物なしです。時間配分は1・2時間目を通常で送っている間に、わたしが白菜をみじん切りにして餡を作ります。3時間目から給食の前までが餃子作りの時間でした。全体で学習の流れを確認した後、子どもたちを3班にわけました。わたしを含めて4人の指導者がいるので、ほかの3人が各班の責任者です。わたしは全体を把握しながら、必要なものを随時用意する遊撃手をします。ひき肉を使わなかったので、子どもたちはスプーンを使って餡から皮に乗せる一つ分を取るのに苦労します。細かく切って叩いたとはいえ、ばら肉はつながっています。そのため適量がうまくスプーンに乗せられなかったのです。しかし、中華にこだわるものとしては、餃子はひき肉よりもばら肉のほうが絶対においしいと思うので、子どもたちには不便な思いをさせながらも、そこは譲りませんでした。結果、各班とも担当の教師が分けてあげていました。
皮包みは、家庭での経験の違いが現れました。でも、自分の作った餃子は自分で食べるを基本にしたので、うまくできようが、餡が飛び出ようが、恨みっこなしです。ラビオリのような餃子から、売り物に近い餃子まで各種とりそろいました。
それらをホットプレートで焼きました。今回の学習で、一番自信がなかったのが焼きの行程です。わたしは自分ではホットプレートで餃子を作ったことがなかったので、どんな仕上がりになるのかが不安だったのです。予備実験をしておけばよかったのですが、さぼってしまいました。電源を入れても、中華なべのように熱気や煙も出ず、うんともすんとも言わないホットプレートを前に不安は増大しました。
5335.12/09/2005
特学レポート:冬3
わたしは個別に介助が必要な子どものために、特学に残り、個別に給食指導をしています。特学の多くの子どもは、給食の時間は交流学級に行き、同年齢の子どもたちといっしょに給食を食べます。ほかの特学の教員は、交流学級で給食を食べる子どもたちとともに、その学級に行って給食を食べます。物理的に、ひとりひとりに教員をつけることはできないので、食事が自立できる子どもには学級担任にお願いしています。しかし、なかには集団への適応が困難で、食事に時間がかかる子どもがいます。そういう子どもにとっては、通常級での給食は時間の流れが早すぎて対応できません。ストレスばかりがたまって、落ちついた食事にはならないのです。なので、静かな環境とたっぷりの時間が保障されている特学での給食を実施しています。
現在の勤務校では、特学で給食を食べるケースは去年はなかったそうです。しかし、今年度は転入生や新入生があり、メンバーがいままでとは変わったので、特学での個別給食指導を実施しています。食事の後は排便を指導します。尿意や便意があっても、家庭とは違う環境ではそのことを言葉で伝えきれないことがあるので、こちらから「トイレ、行く?」と聞きます。排便の後は食器を片付け、掃除になります。しかし、その日の給食のメニューによって、食べ終わる時間が早かったり遅かったり一定しません。食べ終わる時間が早すぎると、排便を終えても掃除までの時間があまります。自習が成立しない子どもが多いので、そんなちょっとしたつなぎの時間の間が持たなくなります。そんなときは、読書、パズル、刺繍など、個々人が迎えるデスクワークを用意します。
ある初冬の週末には、トイレで便器ではないところにお漏らしをする子どもがいたり、その翌日には食器を片付けに行ったら、そのまま学校の敷地から外に行ってしまい、あわてて追いかけたりすることがありました。こちらが喉を通した食事が消化される前に、次々とドラマチックな場面が展開します。給食の時間はほかの教員たちが出払っているので、このような事態が発生するとその場の機転がとても重要になり緊張します。
それでも、春先は白いものしか食べなかった子どもが、少し混ぜご飯に挑戦するようになったり、一生懸命に牛乳パックをつぶそうとして反対に残っていた牛乳を噴射させたりと、環境への慣れからできることややろうとすることを増やしていく姿を目の当たりにするのは嬉しいものです。伸びていく速度はゆっくりかもしれませんが、本人なりの速度で確実に成長の階段をあがろうとしていることを感じるとき、この仕事の醍醐味を感じます。
5334.12/07/2005
特学レポート:冬2
最近、統合教育という言葉を耳にします。インクルージョンという言い方もします。また、発達障害者支援法が成立し、特学を廃止する動きも自治体によっては始まっています。通常級に在籍する特別支援が必要な子どもを、学習機会に応じて抜き出して指導する体制を文部科学省が中心になって推進しようとしています。
障害をもった子どもが、どんな学習環境で生活を送るのがもっともいいかというのは、最終的には保護者の判断だと、わたしは思います。国や学校が唯一の学習機会を用意して、そこに子どもを適応させようとするのはどこかにひずみが生じた場合、違った選択肢がないので、最終的には排除の論理が働いてしまう気がするのです。だから、多様な学習機会が用意されていることが望ましいのではないでしょうか。
また、特学を廃止し、養護学校を統合する動きは、背景に財政負担の軽減が見え隠れするのが気にかかります。特学や養護学校は、普通学校の定数とは違い、少ない子どもの数に対して、教員が配置されることが法律で決められています。それだけ、きめ細かな指導や支援が必要なので当然のことですが、そのために人件費が膨大になります。そこで、なんとか財政負担を軽減するために、障害のある子どもを健常の子どもとともに生活する学習環境の実現という聞こえのいい表現でカモフラージュしている感じがするのです。
障害のある子どもが、同年齢の健常集団に所属したとき、どんなことになるかは、すでに実証されています。小学校段階では知的障害・発達障害を含め、なんらかの障害のある子どもが、保護者の意思で特学や養護学校には通わずに、普通学級に在籍しているケースがたくさんあります。しかし、そこではほかの子どもたちと同じように指導され、40人近い子どものひとりとしてとらえられるので、能力差や集団への適応不全が顕著になるだけで、決してじゅうぶんなフォローが行われているとは思えません。もちろん超人的な仕事量の教員は少なからずいるので、すべての子どもがそのような状態に置かれているとは言い切れません。でも、システムとしてフォローの仕組みは機能していないのは事実です。
だから、障害のある子どもは学習成績や行動特性において、たえず健常の子どもと比較された相対的な評価しか得られません。どんな子どもも「こころ」は育ちます。いつも自分がほかの子どもよりも劣っている現実を日々見せつけられたら、こころが傷つき、自傷や暴力などのこころの病に到ってしまい、先天的な障害以上に後天的な障害も負いがちです。そのことをじゅうぶんに認識しないと、障害者に対する差別と、障害者と健常者の区別の違いが見えてこないのです。
5333.12/06/2005
特学レポート:冬1
初めて特学の担任になってもう半年以上が過ぎました。最初の頃はなにもわからず子どもたちの後ろを追いかけてばかりいたのですが、少しずつ各人の特徴をつかみ、自分なりに学習もして、最近はやや後ろを追いかけるまで進歩したでしょうか。てんかんや精神安定のための薬の名前もずいぶん覚えました。自閉症や多動などの専門用語も知りました。「マラソン」や「光とともに」などのメディアも経験しました。知識として受け止めたことは、どれも一般的なことに過ぎないので、目の前の子どもの状態を探るときには先入観は持たないようにしています。でも、教員20年の経験だけでは計り知れない部分(指導法や教材開発)では、それらの知識も役に立ちます。また、教育センターや児童相談所へも足を運び、個々の子どもの育ちについて、わたしよりも長くかかわっているケースワーカーや心理療法士の方々のアドバイスも参考にすることができました。
そんななかで初めての冬を迎えています。特学で働いていると、学校のことがまったくわかりません。毎朝の職員の打合せに出ることができないので、確認事項や連絡事項を知らず、月に一度の職員会議でも、特学に関係ある提案はほとんどないので、ほとんどが別世界のような感じです。ひとつの学校の中にふたつの学校がある感じがします。同じ学校に勤務していても、ほとんどなにもわからなくても、それはそれで困ることがないことを知り、かえって気楽に思います。だから、特学の子どもが交流級に行き、そこでの様子を担任から聞いても、どこかよそよそしい会話になってしまいます。交流級で全体の流れに乗れなかったり、多少の迷惑をかけたりしても、そこで得られるものがあるのなら、交流活動は意味があると思っているので、今後とも関係する担任とは連絡を密にとっていきたいとは思っていますが、年齢が進むにつれて交流級の子どもたちとの成長の差が大きくなっていくと、それらは終息していってしまうのかもしれません。
特学の子どもにとって、とくに小学生のうちは、学校生活のリズムを会得し、言語力や社会性を高めておくことがとても必要です。これらは有効な手立てを計画的に施さなければ導けるものではありません。個々人にあった有効な手立ては、残念ながら交流級の担任が、在籍する子どもの分を用意するのは物理的に困難です。しかし、特学では1人の教員が、最大で3人ぐらいの子どもに対して、同時にそれぞれ異なる手立てを考え実践することが可能です。
特学レポート「冬編」は、運動会を経て、秋から冬にかけての子どもたちの様子を振り返りながら、それぞれの場面で、子どもが訴えかけたかったこころの声を考える機会にしたいと思います。
5332.12/05/2005
先日、地元のソフトボール大会がありました。六つの町内会と総合病院の合計七チームがトーナメントで優勝杯を争います。もう何年も前から続いている大会です。いつもは11月上旬に開催されるのですが、週末のたびに天候が悪かったあおりを受け、12月になってからの開催になりました。
とても寒い朝でした。わたしの所属するT町内会は、おととし優勝、去年は決勝で敗れ準優勝という地力のあるチームです。もともと、PTAのソフトボールチームのメンバーが横滑りで作っているチームなので、ほかの町内会に比べ練習量がはるかに違います。守備の連携や、攻撃のパターンなども言わずと知れた部分が多いのも、戦力が安定している証拠だと思います。PTAのソフトボールチームのメンバーは、ほかの町内会にも分散して所属しています。しかし、参加メンバーの多くが、一般のひとたちなのでどうしても遠慮しながらの試合運びになってしまいます。仕方がないことですが、そのあたりの違いはチームゲームをするときには、決定的な違いになってしまいがちです。
今回も一回戦も二回戦も9−0のコールドで勝ちました。ソフトボールは点の取り合いになりがちですが、シャットアウトするのは守備力が安定しているからだと思います。決勝戦のときに残念ながら雨が強くなり、試合は中止になりました。グラウンドがぬかるんで、あれ以上無理をしたら、足元が滑ってけがをするひとが出たかもしれません。運営サイドの判断で、決勝はジャンケンで決めることになり、T町内会は惜しくも負けました。通常ならば夕方まで続く大会なのですが、もともと天気予報で降雨が予想されたので、敗者戦もなく、決勝もジャンケンだったので、お昼過ぎには大会は終わりました。
いつものように打上が行われましたが、3時開会といういままでにない早い時間からの乾杯になりました。おかげで、たっぷり飲んで、語り、おいしい料理を食べても、帰宅したのは9時過ぎという異例の早さで、翌日の仕事に影響が出ることはありませんでした。
5331.12/04/2005
広島で小学校1年生が殺害され、今度は栃木県の小学校1年生が殺害されました。
どちらも学校から自宅までの帰宅途中に行方不明になり、遺体で発見されています。
バイクに乗った少年が、お年寄りのかばんを引ったくり、なかの現金を盗む事件の判決公判で、少年は有罪になりました。そのお年寄りは、引ったくられたはずみで転倒し、それが原因で亡くなりました。生涯を小学校教師で送られ定年退職していた方です。
子どもやお年寄りといった、社会的に弱い立場のひとたちが、もっとも悲しい事件のターゲットになり、いのちを落としていく。わたしは、これらはもっと大きな社会現象のひとつの象徴に過ぎないと考えています。企業が労働者を酷使するケースとして、超過勤務や過重労働、昇給差別などがありますが、最近の調査ではあらたに「いじめ・中傷」もあげられてきているそうです。おとなの集団いじめは、こどものそれとは大きく違い、ずっと巧妙で陰湿なものでしょう。精神を健康に維持するのはとても大変だと思います。
建築士の設計書偽造で発覚したマンションやホテル建設をめぐる大きな事件は、被害建造物が日々増加していく大事件の様相を呈し始めました。その事件解明のなかでも、卑怯で無責任なおとなの存在が明らかになってきています。ずるくて、知恵と財力がある者が、政治の世界でも、会社の世界でも、役所の世界でも、権力をもち、権勢をふるうよのなかであることを、子どもたちやこれから社会に出て行く若者たちがモニタリングしていきます。
社会的に弱い立場のひとたちが住みにくい、生きにくい社会で、栄華をほしいままにできるのは、ほんの一握りのひとたちのみです。そのほかの多くのひとたちは、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に群がって地獄に落ちていく運命であることに気づいていません。だれもが住みやすい、生きやすい社会の実現は選挙で確かなひとに投票することから始まります。しかし、投票率がとても低い日本の民度では、それさえも実現できていないのです。
5330.12/02/2005
先日、また仲間が集まり食事会をしました。いつも燻製を作ってきてくれるひとが、今回はベーコンを持参しました。このひとのベーコンを食べるのは初めてではないので、味のおいしさはお墨付きです。イタリアンが得意なご夫婦は、二種類のパスタとリゾットを作ってくれました。わたしはカルボナーラが苦手なのですが、この夫婦が作るカルボナーラならおいしいと感じて食べられます。会場を提供してくれた築地勤めのおかみさんは、旬のお魚で天婦羅と土瓶蒸しを作ります。お酒もワイン・日本酒・梅酒・紹興酒と各種がそろいまいした。
前日からお品書きを墨で書きました。わたしが作ったのは、鮪球・ショウロンポウ・梅蘭やきそばです。鮪球は以前にも作ったオリジナル料理で、鮪の中落ちを使います。これにバジルやねぎ、豆腐を混ぜて一口サイズのボールを作ればできあがりです。梅蘭やきそばは、中華街のお店「梅蘭」のオリジナルやきそばです。ほかの店にはない作り方をします。中華街に通い、その作り方の載っている本を買い、挑戦しました。やきそばですが、使った麺はラーメン用の生麺です。
そして、今回のわたしのなかでのメイン料理はショウロンポウでした。皮も餡も全部手作りです。レシピの本によると、とても難しい料理として紹介されていました。前日から準備が始まるやっかいな料理でした。前日のうちに鶏がらを使って、スープを作ります。あくをとった後で、鶏がらも鍋も一度洗ってからふたたびスープを作ります。6時間ぐらいかかりました。当日も餡を寝かせるのに2時間もかかりました。ショウロンポウは、餃子とは違います。大きな違いは、皮の発酵があります。餃子は発酵させません。反対に饅頭は完全に発酵させます。ショウロンポウは発酵の途中を使います。だから、のんびりしていると発酵がどんどん進み、小さな肉まんのようになってしまいます。専門店で注文を受けてから生地をのばし、餡を作るのはこのためだと気づきました。でも、もしかしたら、専門店では発酵させていないかもとも思いました。
5329.11/30/2005
携帯電話がよのなかに出回っても、わたしはしばらくは購入しませんでした。自分の居所をだれかにいちいち監視されるようでいやだったからです。必要なら公衆電話でこちらから連絡すれば用が足りていました。しかし、新しい学校作りの活動を始めてからは、連絡が取れなくて困るという声を周囲から受け、やむにやまれず購入しました。それでもサイレントにして、バイブも起動させないので、たまには電話に出てくれぇと言われています。
わたしは、携帯以前に電話が好きではありません。自分がなにかをやっているときに、電話がかかってくると、多くの場合はそれまでやっていたことを中断して、通話を優先しなければならないからです。「いま、お時間ありますか」って挨拶として聞かれたときに「あとにしてください」とは言いづらいものです。とくに、新しい学校作りに関する電話は質問や意見を問われるものが多く短時間ですむ内容ではないのです。緊急連絡や事務連絡に電話はとても便利な道具ですが、コミュニケーションツールとしては多くの時間を費やしてしまう道具のように感じます。
最初の携帯電話が壊れてから数年がたちます。最初の携帯電話は暑い夏の日に車のなかに放置したら、基盤が溶けてしまいました。ちょうど直射日光があたるところに放置しておいたので、電話店に行ってみたら「なかが溶けていますよ」と言われてしまいました。急遽、そのときにあったもっとも安いものを購入して現在に到ります。しかし、その携帯電話もいよいよ調子が悪くなってきました。思えば、酔ったはずみに何度紛失したり、落としたりして、雑に扱ったことでしょう。それでもいままでは通話もメールも不便なくできていたのですが、内臓電池に寿命がきたみたいで、すぐにバッテリーがなくなるようになりました。電池交換でもいいのですが、電話店に行ったら、電池交換よりも急交換のほうが値段が安いことに気づきました。へんな時代になったものです。電池を交換するよりも、もっと多機能の新機種に電話機ごと交換したほうが値段が安いのなら、新しいものを購入したほうがお得です。
5328.11/29/2005
とても珍しいケースですが、いまわたしの担任している子どものひとりは、4月に地元の養護学校から転校してきた子どもです。
自閉的な傾向が強く、意思の伝達に言葉を使うことが難しいという事前の連絡があったのですが、いざ本人を前にしてともに生活を送ってみたら、こちらの構えよりも本人はしなやかで、互いの意思の疎通はそんなに困難ではありませんでした。
最初の頃は、学校生活環境が変わったので、本人の気持ちのうえでの揺らぎが大きく、それがお漏らしやつねりなどの行動になって現れました。しかし、言葉を使うことが難しいといっても、発音がないわけではないので、小さな声や表情を聞き取るようにしたら、だいたいの言葉はこちらがつかみとることができるようになりました。問題は、私の意志をどうやって伝えるかでした。しかし、これも心配のしすぎだったようで、いっしょにいる時間を増やしていくと、かなり複雑なわたしの言葉を本人が理解していることがわかりました。
「奥の部屋の戸棚の一番下の引き出しからプリントをもってきて」。
こんな複雑な指示を理解していたのです。ほとんどの場合、聞き返すことはありません。一度の指示で、正確に内容を理解し、すぐに行動を取るのです。
次に、わたしがこの子どもと形成していったのは、「いい・わるい」「はい・いいえ」です。学習場面では、多くがやっていいこととやってはいけないこと、やってよかったこととやってだめだったことが繰り返されます。どんなときがいい場面で、どんなときがいけない場面なのかを教えていかなければ、子どもは同じことをいいとかいけないとかの認識を持たずにやってしまいます。これは、子どもが学校を離れ社会生活を送るようになったときに不便です。場合によっては、犯罪に巻き込まれるかもしれません。そこで、わたしは子どもがいいことをしたときに笑顔で「まる」と言いながら手で丸を作りました。逆のときは真剣な表情で「ばつ」と言いながら手で×を作りました。ほめられていることと、叱られていることを教えていくわけですから、こちらも子どももつらいものがあります。どんなときもほめてあげたい気持ちをおさえて、いけないことはいけないと教えるのです。ときには涙をためながら、こちらにくってかかってくることもありました。つねられて血がにじむことも。そんなときは、本人の苦しさを思い、傷口を見せながら「いたーい」と教えます。すると、悲しそうな顔をして「ぺったん」と絆創膏を貼る仕草をしてくれました。わざと、悪意でつねっているのではないのです。自分でもどうしていいかわからないことを伝えようがなくてつねってしまったのです。相手の痛みを感じながら、こんなんじゃいけない、じゃあどうやって「不機嫌さ」「不愉快さ」を伝えればいいのかと考えるようになっていくと思いました。
5327.11/28/2005
小学生が下校途中で殺され、ダンボールのなかで遺体となって発見される事件がありました。
とてもむごい事件に、多くの方々が悲しみ、悔しさをかみしめていることと思います。このような事件は、残念ながら毎年、必ず発生します。それは最近の傾向であるというよりも、以前から繰り返されてきています。警察の努力によって、容疑者が逮捕され、起訴されると、必ずといっていいほど加害者の精神状態が話題になります。正常な判断力をもっていたら、幼い子どもを苦しめるようなことはしません。精神鑑定の前に、異常ありということはだれにでもわかっているのではないでしょうか。
幼い子どもを連続して誘拐しては殺害した加害者への判決がもうすぐ下ります。事件からとても長い時間が経過しているのは、犯行の異常さが社会に与えた衝撃を物語っているのでしょう。そのため、加害者の精神状態が何度も鑑定されています。しかし、犯行当時の精神状態と、長期間拘留されて正常ではなくなった精神状態の境界を見極めるのは難しいことです。
小学生を殺害し、首を切断し、校門に放置した中学生(当時)は、すでに社会に復帰し保護観察のもと社会生活を営んでいます。とても異常な事件でも、加害者の年齢で贖罪に問われないケースもあるのです。
生まれたときから、あるいは出産時のハプニングで、脳に障害をもつことと、生育の過程で偏った人格形成が行われ、その結果、こころを病んでいくことは、まったく異なります。しかし、両者を見た目や行動様式だけで区別するのは一般には困難です。どちらも、多くのひととは異なる行動をすることが多いので、原因や背景よりも、行為を問題にされがちです。また、脳に障害をもった場合、生育の過程で、ふつうの育ちを願う家族のあせりによって、本人の力以上のものを要求され、結果としてこころを病んでいくケースも少なくありません。ハンディキャップは、環境によって乗り越えることができます。しかし、こころの病はどんなに環境を設定しても、本人の気持ちが病気を治そうという方向に向かわないと乗り越えることができません。
とてもとても残念なことですが、こころの病が進行していくにつれ、精神安定のための薬が増やされ、やがて物事を考える回路もストップし、なにもできない状態になり、施設で一生を送るパターンは決して少なくないのです。こころの病は、いわゆる障害ではありません。とても壊れやすく、傷つきやすい内面をもつ障害をもつひとたちを、過度のプレッシャーで崩れさせてはいけないと思います。いつもリズムのある安定した日常生活を周囲がこころがけ、意思表示や意思伝達の方法を成人までに習得させる努力が必要です。
5326.11/25/2005
過日、職員旅行に行きました。
もう職員旅行を廃止している学校が多いので、現在の勤務校はレアな存在です。金曜日の勤務が終わって全職員で同じ旅館に宿泊して休日の土曜を共有するというスタイルが過去のものになってきているのでしょう。また日常的に顔を合わせているひとたちがあえて同じ屋根の下で枕を並べる必要性を感じないひとたちが増えてきているのかもしれません。過日の職員旅行でも、宴会の始まりは午後7時でした。それまでに各自が旅館に集合し、宴会のときだけ顔を合わせます。宿泊をしないで帰るひともいるので、そこまでして毎月積み立てて旅行をする意味も薄れてきているようにも感じました。
宴会が終わり、わたしは部屋に戻って数人の足をマッサージしました。旅館のオプションにあるマッサージに行ったけど、あまり効果がなかったというひとがいたので、試しにやってあげたらほかのひともやってほしいということになったのです。わたしは、30歳になった頃から、それまでのハードワークがたたって頭痛がひどくなりました。背景には全身にこりが広がり血行が悪くなっていたことがあります。各地のマッサージに通いました。脳神経外科にも行き、CTやMRIも撮影しました。頭痛はつい最近まで続いていましたが、ここ1年から2年ぐらい起こっていません。もしかしたら、自分でマッサージをしたり、ひとにマッサージをしてもらったりする経験がかたちになってきたのではないかと判断しています。そんなわけで、全身のつぼをなんとなく意識しているので、フットマッサージをやろうと思ったのです。
足には全身のつぼが集中しています。だから、つぼを刺激することでひとの体調の多くを知ることができます。とても痛い表情をするひとは、かなり血行が悪く、そのために冷えや倦怠感、免疫力の低下を招いていることが想像できます。今回、同僚の足をもんでみたところ、多くのひとがほんの少しの力のつぼ押しで、悲鳴をあげていました。それだけ、血行の悪いところができている証拠です。足の裏は、ひとの全身にたとえられます。指先に近いところが頭で、かかとに近いところを足ととらえ、中間が胃腸などの腹部です。指を軽くつまんだだけで飛び跳ねていたひとが何人もいました。とくに若いひとたちに多かったので、まるでかつてのわたしを見ているようでした。
5325.11/24/2005
構造設計書を偽造して、多くの建造物が耐震構造に偽りがあったことが判明しました。
建築士が設計書を作る段階で偽造し、審査機関がそれを見抜けなかったというお粗末な事件です。審査機関の記者会見をテレビで観ましたが、開き直りとしか思えない会見に唖然としました。膨大な設計書のすべてを審査することは不可能と言い放っていたからです。ならば、審査機関に支払われるお金はなんのためなのでしょうか。
建築士は、マンションやホテルの建造ではギリギリの予算と短い納期を守るには偽造しかなかったという言い分を展開していますが、そんなことがまかり通ったら、高額のローンを組んですでに入居した住民は怒りの持っていき場がなくなってしまいます。まるで、そんなマンションに住んだひとたちの責任のように聞こえてくるからです。
震度5といえば、最近の地震では珍しくない大きさです。その程度の地震で建物が倒壊してしまう危険性が、最初から指摘されていたら、高額のローンを組んで住宅を買うことなどしなかったはずです。ある意味で、今回の事件は詐欺の要素もあるのではないでしょうか。
だれが建築士の偽造を知っていて、だれが知らなかったのかをはっきりさせないと、責任の所在が見えてきません。今回の事件は、あまりにも被害者が多く、補償額も桁違いの高さだと思います。それでも、ローンの支払いは続き、今後も毎月支払いが続くわけですから、いったいなんのためのローンなのかわからなくなります。行政も建築主も売主も、互いに責任をなすりあっている場合ではありません。こういうときに、行政は迅速で適切な対応を期待されているのですが、日本のお役所仕事は決済手続きが複雑であまり期待通りにできるとは限りません。せめて、一時的にもローン返済の停止を金融機関が補償し、転居なり、改築なりの方策が決まるまでは、行政が立て替えるような緊急避難措置を政治の力で断行することができないでしょうか。
今回の事件は対岸の火事だとは思えません。日本社会の急速な近代化の影で、不正が継続的に行われてきたわけですから、氷山の一角と考えてもおかしくないからです。実際、偽造した建築士は建設業界の暗黙の了解だったととらえているようですから、自分以外にも偽造しているケースを知っているのではないかと思います。安全よりも利便性を、公共性よりも利益を追求する資本主義的な発想は、偏りすぎると今回のような不正の温床になります。それを防止するシステムをこれまで作ってこなかった政治の責任は、きっとだれも追及しないし、だれも問題にはしないのでしょうが。
5324.11/22/2005
特学だけの行事がありました。いままで交流学年の行事に参加していた子どもたちが、同じバスに乗ってミカン狩りに行ったのです。交流学年の遠足や社会見学では、大勢のなかのひとりで、特学にいるときに比べ緊張した表情を見せることが多かったのですが、きょうはいつもと同じ表情のままでした。それだけで、こころの安定とミカン狩りを楽しみにしていることが伝わってきます。おまけにきょうのミカン狩りは近くの小学校の特学と合同で行きます。子どもどうしで、知っているケースもありました。交流学年との遠足では雨で延期もありました。しかしミカン狩りはこれ以上ないと思うほどの秋晴れでした。柑橘園は山頂にあり、寒さを心配しましたが、無風の好天だったので、むしろ暑いぐらいでした。わたしはトレーナーを脱いで長袖シャツ一枚でも大丈夫なほどでした。
到着してすぐにミカン狩りを始めます。
「手を出してください。これからミカン狩りを始めます。1、ミカンをはさみで切ります。2、切ったミカンを食べます。3、終わります」
行動の流れを確認して、子どもたちはミカン畑に消えていきました。一ヶ月前に下見に来たときは、まだ皮が緑色だったのですが、本番ではすっかりどのミカンもオレンジ色になっていました。ミカンの木は高いところから花をつけていくから、高いミカンほど甘くておいしいと、バスの運転手さんに教わっていたので、手が届くぎりぎりの高いミカンをためしに口に入れました。それは、薄皮がはじけんばかりの果汁をたくわえたおいしいミカンでした。思わず、15分ぐらいの間に4個も食べてしまいました。おかげで、せっかくの早朝手作りおにぎり弁当を、少し残してしまうほど、おなかがいっぱいになりました。
帰りには、自宅に持って帰るおみやげ用のミカンもとりました。おみやげ用なのに、自分で食べてしまっている子どももいましたが、多くは指示が伝わって、1キロ用のビニール袋いっぱいにこれでもかこれでもかと切り取ったミカンを詰めています。おみやげでリュックが重くなるので、大きめのリュックを保護者にお願いしいたのですが、それがパンパンになるほど、たくさんのおみやげができました。
5323.11/21/2005
湘南に新しい公立学校を創り出す会を発足してから8年も過ぎました。
去年からは平日開校のフリースクール「湘南憧学校」を開校し、残すは学校の公立化のみになりました。ここまでもたくさんの苦労がありましたが、公立化の壁はとても高くてなかなかクリアできそうにもありません。その間にも、湘南憧への入学に関する相談を保護者の方から受け続けています。わたしのところに来る相談は、現在の入学者の保護者からではなく、インターネットやパンフレットなどの情報で湘南憧を知った一般の方からがほとんどです。だから、相談に乗っても、そのまま入学を決めるという性格のものではなく、教育相談、子育て相談のような意味合いが強くなってしまいます。
とくに湘南憧は平日に開校しているフリースクールなので、相談のほとんどは子どもが不登校のケースです。そのため最初の段階でボタンのかけ違いがないように、湘南憧はいわゆる適応指導を目的にしていないことをはっきり伝えるようにしています。そうしないと、学校に戻すためのプログラムを要求されてしまうからです。わたしたち自身が公立学校を創ろうとしているのに、既存の公立学校にいかない選択をした子どもをその学校に戻すのはおかしな話です。それを聞いて安心する方と、それを聞いてがっくりする方とに二分されますが、だからこそ早い段階での説明が必要だと思っています。授業料を受け取り、子どもが通うようになってから、考え方の違いを調整するのはとても難しくなります。
ひとくちに不登校といっても、理由はさまざまです。本人に原因がない場合と、本人の特徴(生まれながらのものや環境的なもの)による場合とではアドバイスが変わってきます。クラスでの仲間はずれやいじめが原因の不登校の場合は、湘南憧よりも転校やほかの教育機関を紹介しているようにしています。いまいる環境が子どもに適していないだけなので、環境さえ変えればうまくいくケースが多いのです。簡単なようですが、多くの保護者は転校をとても難しいことと思っています。いまは校長の裁量で学区以外の学校への転校がかなり認められていることを知らされていないからです。
対人関係は、子どもにとって大きな関心があります。気楽に話せる相手がいるのといないのとでは、毎日の空気の色が違います。だれからも相手にされないと寂しくて悲しくなります。無視されているのかとか、仲間外れかもとか、悪いほうに考えがちです。また仲良しだと思っていたひとが急に遠ざかると、自分がいけないことをしてしまったのではないかと悩みます。そういう気持ちの揺れはこころが育つプロセスなのですが、適切なアプローチがないと、集団への適応を怖がり、他人との接点を自らなくしていくように動いてしまいます。
5322.11/20/2005
バルサの木片をボンドで接着してオブジェクトを作る学習をしました。あらかじめバルサの角材をたくさん購入しました。子どものときから、バルサを使った工作をしてきましたが、角材は使ったことがなかったので扱いに苦慮しました。電動のこぎりで簡単に切断できると思っていたのですが、さすがに角材ともなるとけっこう硬くて、細かい断片にするのに二日もかかりました。子どもにはデモンストレーションしながら、ボンドの使い方を教えます。いままでボンドを使わせると、生クリームのように出す子どもが多かったからです。
両手でボンドをもつとギュウギュウ押し出すので、片手に木片、片手にボンドにしたら、いままでに比べれば多少は節約した使い方になりました。木片をいくつも接着していきます。とくになにかを作ろうというわけではありません。作りながら、なにかのかたちが見えてくればいいし、具体的なイメージなどない自由な発想も大事です。オブジェは平面作品と違って三次元のおもしろさがあります。垂直方向に積み上げていく子どもは、高さを感じています。基本ブロックの周囲を埋めていく子どもは空白を感じています。具象をイメージしている子どもは、かたちを感じています。
それぞれの感じ方が違っても、三次元という共通項で作品はグループ化されます。おそらくひとの認識は混沌から生じて調和や安定へと向かうのでしょう。だから、物事の認識が不確定なうちは意味や脈絡のない思いつきが脳の活性化には必要だと思います。物事を知らない子どもは、見たこともない具体的イメージを抱くことができません。これは、見聞きしてもすぐに忘れてしまう場合も同じです。ものの考え方を柔軟にしておくためには、あえて混沌とした内面を表現してみるとグッドです。幾何学的ではない不規則な木片の山のなかから、自分の好みの木片を選び、ボンドをつけて、ひとつのオブジェとして作り上げていく。その途中で、オブジェはクレーンになり、ロボットになり、タワーになり、恐竜になり、最終的にもうこれで満足というところで作品は完成します。作りながら、頭のなかをかけめぐったイメージのすべてが混沌のなかから生まれ、統合されていきます。いま、子どもたちの作品は、乾燥を兼ねて、窓辺に並んでいます。
5321.11/17/2005
風邪が流行っています。わたしの周囲では、子どももおとなもかなり風邪をひいています。咳がひどい、喉痛い、声が出ない症状が特徴です。わたしも一週間ぐらい前から、からだの節々が痛く、感染を自覚しました。それから、睡眠時間を長くして、寝るときに喉にタオルを巻きました。また食事に生姜やニンニクを混ぜ、からだを冷やさないようにしました。まだ、少し鼻水が出ますが、節々の痛みは消えました。いまは予防のためにマスクをしています。免疫の力を落とさないように努力して、ノックダウンは避けたいと思っています。
風邪とは違いますが、ウイルスの一種であるインフルエンザに対する予防も重要です。毎年国内では年明けから流行しています。三学期に全国の小学校や中学校でインフルエンザの流行による学級閉鎖は、いまや年中行事になってしまっています。ウイルスは細菌よりもずっと小さな生き物です。そのため、とても弱いのですが、免疫力が低下しているとひとには大きな影響を与えます。とくにH5N1型と呼ばれる鳥インフルエンザの流行は、すでに予測の範囲内になってきました。すでに東南アジアでは死者も出ています。
そのなかで、特効薬として期待されているタミフル(ロシュ)は、各国が備蓄の確保に躍起になっています。服用した患者が異常行動から事故死したケースが伝えられていますが、それでも「タミフルが十分あれば、新型インフルエンザの入院患者や死者を3分の1に減らせるはず」(けいゆう病院・菅谷憲夫・小児科部長)と話す医師もいて、現在のところ、世界で流通しているタミフルの70%から80%を国内で消費しています。また予防グッズとしてのマスクを一部の業者がすでに買い溜めし、必要なときに品薄感を前面に出して値段を吊り上げる商法まで考えられている可能性もあります。
けがをしたときや病気になったとき、ひとは初めて元気なときの自分がいかにありがたかったかを知ります。発熱して、意識がもうろうとし、喉が痛くて食事もできない生活では、仕事や学業のみならず、日常生活までもがやりづらくなるでしょう。湘南地方は急に朝晩が冷え込んできました。それに比例するかのように、車の量が増えてきたように思います。いつもは公共交通機関や徒歩を利用するひとたちがついつい車を利用するようになっているのだとしたら、便利さや快適さを優先するあまり、新陳代謝や運動をおろそかにして、からだをわざわざ弱くしているような気がしてなりません。
5320.11/16/2005
親は、わが子が多くの子どものなかにいてくれれば安心します。ひとりで本を読んでいたり、たくさんの子どもがいるなかでだれからも声をかけられなかったりすると、友だち作りを子どもに代わってやろうとうします。その気持ちはとてもよくわかりますが、人間関係を築いていくトレーニングが子ども時代の友だちなので、それを本人以外が代行してしまうと、おとなになっても自分から人間関係を築いていくことができなくなってしまいます。
ひとりでいることを寂しいと感じない限り、子どもはわずらわしい対人関係を築こうとはしません。子どもの関係性は、小学校では男子よりも女子のほうが先んじて形成されていきます。そこで形成される関係性は、同質同等を求める厳しいものです。みんなが同じことが友だちの条件になり、違う考えや行動は排除の理由になりがちです。同意を得られる存在が大切で、対立を生じる存在は不要なのです。それが発展すると、友だちといることが苦痛になり、表の自分と裏の自分という二面性をもつようになってしまいます。実際、わたしは、高学年の女子グループが対立と融和を繰り返しながら、日々を過ごす場面を何度も目にしてきました。
ひとは、ひとりでは生きてはいけませんが、ただただ集団のなかにいればなにかが育つということはあまりありません。とくに、本人にとって心地いい集団でなければ、むしろ逆効果になりがちです。その意味では強制的に作られた集団は、必ずしも子どもにとって心地いい集団とは言い切れません。偶然、気のあう子どもがいることもあるし、反対に犬猿の仲になりそうな子どもがいることもあるのです。だから、強制的に作られた集団に子どもがいるときは、周囲とのうまい折り合いのつけ方を学ぶ場であると割り切ったほうが親としてはわが子に接しやすくなるのではないでしょうか。みんなと仲良くなることなど、よほどの宗教人でもない限り、不可能なことです。
高度経済成長期の日本社会には、地価の高騰を期待した空き地がたくさんありました。鉄条網で区切ることなどなかったので、そこは放課後の子どもたちの遊び場でした。野球やサッカーなどに戯れる子どもたちは、やりたいことが共通する子どもたちなので必然性の高い集団です。多くの場合、そこに集う子どもたちは心地いい集団という認識をもっていたことでしょう。バブルが崩壊し、空き地は駐車場やマンションに変身しました。放課後の子どもたちは、暇な時間を塾や習い事に費やすようになり、電話で都合を確認しなければ遊ぶことができなくなっています。やりたいことが共通する必然性の高い集団や、その集団が活動する場所や時間が消滅した現在、子どもの人間関係作りはとても困難になってきていると思います。
5319.11/15/2005
子どもは、とても保守的な傾向が強い特徴をもっています。きっと精神的にも肉体的にも未熟な我が身を本能的に守ろうとするからでしょう。冒険的でこわいもの知らずの印象が強くありますが、それは一面的な見方に過ぎないと思います。初めての場面、未知の環境、とっさの対応、目立つ行為、周囲と違う自分など、どうしていいかわからずに大樹を探して身を隠すのをしばしば目にします。みんなと同じ自分はいい自分で、仲間に入れない自分はいやな自分なのです。
そんな子どもの保守的な傾向を理解して子育てをすると、10才あたりからグンとチャレンジ精神が伸びていきます。それまでに不安定な要素がたくさんの育ちをしていると、いつまでも変化を嫌い、自分の考えよりも周囲の期待を優先した生き方を選択するようになりがちです。あとでそのことに気付いても、なかなか修正はしづらいことを、多くの子どもと接してきて感じます。
これらは、子どもの人格形成に大きく影響を与えます。つまり、ひとの生き方そのものにまで影響を与える重要なことです。だから、親の役割はとても大きいのです。就学前の幼稚園や保育園、就学後の学校の役割よりも、ずっと大きな影響を、子どもに残します。わたしは、いままで学校で食事マナーや排便指導をしてくれと依頼されたことがありますが、家庭でできないことが学校でできるようにした経験がほとんどありません。親の役割を放棄して、学校に子育ての重要な部分を預けようとするおとなの態度をきっと子どもは敏感に受け止めて、教師の指導に耳を貸さないのではないかと思います。
こう考えると、一口に子どもといっても、年齢によって、向かう方向が大きく異なるのがわかります。また、同年齢の子どもでも、それまでの育ちによってものの考え方自体が大きく違うのもわかります。だから、わたしは評論家やコメンテーターが「いまの子どもは」と発言するのを疑っています。いったい、そこでいう子どもってだれのことなのかがイメージできないからです。いまの子どもはということにより、自分の考えを代弁させているに過ぎないと感じてしまうのです。
5318.11/14/2005
以前、教育評論家の尾木直樹さんと対談をさせていただいたとき「新しい学校を作るために、いまの学校の仕事を辞めないでやろうとするのはなぜですか」と質問されたことがあります。尾木さんご自身も元教員です。教育評論活動と教職を平行させることも可能だったけど、現場にいると風当たりが強く、学校を離れないと自由な表現ができないとおっしゃっていました。
わたしを含め、新しい学校作りの仲間には現役の教員がたくさんいます。同じように日本国内にチャータースクールを設立しようと考えているグループのなかでは、教員が多くを占めるグループはあまり多くありません。教員を続けているから見えてくるものを大切にしたいという気持ちがあります。そして、現実的な問題として、仕事を辞めたら、家族を路頭に迷わせることになるのも理由のひとつです。
しかし、もっとも大きな理由はほかにあります。それは、新しい公立学校を作ろうという運動は、いまの公立学校と対極にある運動ではなく、いまの公立学校も含め、日本の公教育を大きな意味で改革していく試金石だと思うからです。公教育の改革を草の根から担うとき、学校での仕事を辞める理由が見当たりません。まったくほかの違うことをやろうとしているわけではないからです。そして、わたしたちは、新しいタイプの学校を設立するための道筋を作ることも視野に入れているので、多くの教員が自分のビジョンをもち、いま勤務している学校から通常の異動の範囲内で学校設立に携わることができるようにしたいとも思っています。そのためには、辞職しないと、新しい学校を設立したり、赴任したりできない道筋では、だれも真似しようとは思わないだろうし、気持ちはあっても事情が許さないひとも出てくるでしょう。ほんの一握りのひとにしか、ある決まった条件に合致したひとにしかできない道筋では、普及はしません。
いま平日に開校しているフリースクールは、不登校の子どものためのフリースクールという意味合いが実質的に強くなっています。認可されていない教育機関に集まる子どもたちは、必然的に学校に通っていない子どもが多くなってしまうのは仕方がないことです。だから、いっそのこと不登校支援を活動の中心にすえてみてはどうかという意見も、メンバーのなかからは聞こえることもあります。いまのわたしたちの活動が、発足当初からの活動の延長上にあるのか、ここいらで軌道修正のタイミング途上にあるのかを見極める必要はあると思いますが、教育内容の自由が特別に認可された新しいタイプの公立学校(チャータースクール)を作りたいという気持ちを手放すとしたら、それはわたしの個人的な問題として、学校の仕事を続けるか、辞めるかの分岐点になるのかもしれません。
5317.11/13/2005
静岡県伊豆の国市で高校1年の女子生徒が母親に劇物のタリウムを摂取させた殺人未遂事件がありました。10日は東京都町田市で都立町田工業高校1年の女子生徒が小学校からの同級生である男子生徒に包丁で刺し殺されました。先般、藤沢市内で発生した消火剤の噴霧による傷害事件で逮捕された中学2年の女子生徒は薬物中毒の後遺症が見られるとのことで治療が必要との裁判所の判断が示されました。
いずれの事件も個別具体的な理由があると思いますが、それらに共通する子どもたちのこころの問題と、それを放置し続ける学校や家庭、教育行政や福祉行政の問題は改善される道筋が見えません。
町田市の事件では、被害者も加害者も同じ高校の生徒でした。今年に入ってから似たような事件はほかの地域でもありました。町田工業高校の校長は、加害生徒についてまじめな生徒だったことを強調しています。それは、まじめだったから学校側としては事件の予見ができなかったという責任転嫁(言い訳)と聴こえてきます。またこのサイトではこれまでも何度かエッセイで子どもの事件を検証してきていますが、いまや「まじめでおとなしく、成績上位の子ども」ほど危ないという認識を、まだ学校現場は感じていない無作為の現れとも受け取れます。
強制的に作られた同年代の子ども集団で、日々学力や生活態度を競わされ、放課後も塾や習い事に追いまくられる生活が続けば、人格がゆがんでいってもおかしくないと思います。もっと、それぞれの子どもにマッチした学びの機会が用意され、子どもにふさわしいスピードと指導者との出会いが保障されていれば、学校神話や学力信仰は過去のものとなり、呪縛から解放されていく子どもたちは多いはずです。
このような事件が起こるとメディアは、すぐに学校関係者をマイクの前に立たせます。しかし、学校関係者は心理の専門家ではありません。子どもの崩壊していく内面を知っていても、有効な手立てを考えつかないひとも多いのです。カウンセラーを配置している自治体もありますが、とてもじゅうぶんな体制とは思えません。非常勤で薄給待遇のカウンセラーに対して、過度の責任と負担を押し付ける現在のやり方では、当然のことですが辞職者が増え、若いひとたちの一生の仕事にはなりにくい実態があります。子どもを取り巻く環境が悪化している実感を多くのおとなが共有しながら、その環境を改善していく具体的な行動を「だれかが」やってくれるのを待っているばかりでは、これからも似たような事件が増え、事件にはならないけれど水面下で進行するこころの崩壊は深刻化の一途をたどるでしょう。
5316.11/12/2005
わたしは1997年10月に仲間とともに新しい学校を作る運動を始めました。今月で9年目に入ります。その運動はまだ終わっていません。しかし、もう新しい学校は開校しています。新しい学校を作ることが目的だったので、もう運動を終了してもいいはずです。でも、まだ終了できない事情があるのです。わたしは、新しい学校をフリースクールや私立、私塾ではなく、公立学校として開校したいのです。それは、一般のひとたちが公費で学校を作る権利を勝ち取ることを意味しています。ヨーロッパでは、学校を選ぶ、作る権利は古くから市民のものです。
アメリカでも1960年代から公教育をめぐる改革が各州で始まりました。そんなひとつに1991年にミネソタ州でできたチャータースクール法があります。チャータースクール法は、その後全米各州で可決成立しました。わたしは、このチャータースクールの考えを使って、新しい学校を作りたいと思っています。チャータースクールは、期限つきで既存の学校とは違う学習のスタイルや内容が認められます。期限つきなので、終了時に認可が延長されたり、取り消されたりします。認可されていり期間は、すべて公費で運営されます。
運営に関わる経費がすべて公費でまかなわれるので、チャータースクールは位置付けとしては公立学校になります。日本の教育関連法規は、箸の上げ下ろしまで規定しているので、公立学校についても厳格な規定があります。だから、チャータースクールのような公立学校のスタイルは認められていません。そこで、1997年の活動開始から現在まで、法的にチャータースクールを実現させる可能性について検討し、必要だと思われることはすべて取り組んできました。永田町や霞ヶ関にも足を運びました。取材の申し入れがあれば可能な限り応じています。地元の教育委員会にも資料を渡しました。チャータースクールを知らないひとたちのために、シンポジウムを開催したり資料集を作成したりもしました。
それでもまだチャータースクールの実現には目途が立っていません。現在の公立学校設置にかかわる基準の範囲内では、とてもチャータースクールは開校できません。長野県や八王子市など、行政と民間が協力する改革特区によって新しい学校が開校していますが、それらは行政のなかに理解者がいなければ実現しない条件つきです。チャータースクールは、だれにも認められるべき公立学校を選ぶ権利、作る権利を大前提にしています。その願いが実現しにくい社会風土に失望して、活動の幕を閉じるのは簡単なことです。8年の活動で、とても有能な仲間が活動から遠ざかっていった背景には、先の目途が立たないことへの焦りがありました。しかし、できないからやめるのではなく、できないことをかたちに変えていくことこそ、地に足をつけた教育改革運動の姿だと思います。
5315.11/10/2005
きょうの毎日新聞に12才のパレスチナ人の少年の記事が載っています。
少年の名前はアハマドくんといいます。アハマドくんは、11月3日、自宅近くの塀の内側で友だちと遊んでいました。塀の外ではパレスチナ人の武装勢力とイスラエル兵士が銃撃戦をしています。兵を挟んで同時に進行する銃撃と子どもの遊び。これがパレスチナの現実です。銃声がやみ、アハマドくんが塀の外に出たとき、銃弾がアハマドくんの頭を貫き、助けようとした住民も銃撃され、さらにアハマドくんの足にもう一発が命中します。
アハマドくんは、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ジェニンに住んでいます。ここはパレスチナ武装勢力の拠点として、絶えずイスラエル軍の攻撃に遭い、2002年4月には50人以上の住民が殺され、数百件の家屋が破壊されています。アハマドくん一家は、その難民キャンプで暮らしていました。銃撃されたアハマドくんはすぐに病院に運ばれましたが、11月5日に死亡しました。塀の外に出たときの様子を母親は語ります。
「父親からもらった小遣いを握りしめて家を出た。絵を描くのが好きな、やさしい子だった」。
イスラエル軍は「部隊が銃撃され、約130メートル先の武装した男に発砲した。その場で見つかった銃は、プラスチック製の(おもちゃの)銃だった」と発表し、兵士の行動を正当化しました。塀の内側で遊んでいたアハマドくんに外に出ないように注意したひとはアハマドくんが銃をもっていなかったことを証言しています。たしかに銃撃戦が行われ、おもちゃの銃があったのかもしれませんが、アハマドくんをターゲットにした銃撃は武器をもたない子どもを一方的に射殺したとしか考えられません。
パレスチナではイスラエルによって殺害されたひとのポスターを殉教者として街に張り出します。殉教者なので子どもでも銃を構えた姿が一般的だそうです。イスラエルとの戦いの果てにいのちを落としたというメッセージを込めるのでしょう。しかし、子どもの死をそのように政治的に利用するのは、死の尊厳を踏みにじる側面もあります。アハマドくんの父親が作ったポスターのなかで、アハマドくんは銃をもっていません。「パレスチナの子どもたちはなぜ殺されるのか」というメッセージと大きな「?」が描かれます。
アハマドくんの父親は、アハマドくんが脳死になったとき、臓器提供を申し出ました。アハマドくんの心臓や肝臓は6人のイスラエル人に提供されました。父親は「アラブ人でもユダヤ人でも、息子の体の一部が役立てばいい」と。このニュースはイスラエルでも報道されています。子どもを殺された家族がイスラエル人に子どもの臓器を提供するのは考えにくいことだからでしょう。臓器の提供について、父親は「平和の実現を望む我々のシグナルだと思ってほしい」といいます。
極東アジアでも軍備を拡張して臨戦態勢をとろうとする政治的な動きがつねにあります。一度、火をつけた憎悪は連鎖を繰り返し、もっとも社会的に弱い立場の人たちを真っ先に、そして永遠に苦しめることになるでしょう。
5314.11/09/2005
教師のやっていることを何度も見ているうちに、子どもが真似してやり始めることがあります。特学では、個別学習が多いので、子どもが自分で学習活動を進めるようになると、その時間をほかの子どもへのケアにあてられるようになります。そうして、だれもが自分だけでできる課題を増やして、個人の学習予定に教師との一対一と自立課題とをずらして配置すると、多くの子どもに少ない教師が対応することが可能になります。10人の子どもがいて、3人の教師では、一対一学習をしたら7人の子どもはすることがなくなります。だから、自主課題を増やしていくことは必要なことなのです。
模倣する子どもを見ていると、真似することが楽しい・自分もやってみたいという気持ちが根底にあるように感じます。つまらないことは、興味がわかないので真似しないのです。この気持ちを好奇心と呼ぶとしたら、好奇心の大小が自主課題の増減に大きく影響を与えます。だから、個々人の好奇心の向き方をつかんでおかなければなりません。
好奇心の大小は、学びの主人公を子どもにというコンセプトの湘南憧学校では重要なポイントです。もちろん公教育でも大切にしたいところですが、はじめからやることが決まっている通常級の学習では、子どもの好奇心を高める内容を個別に用意することは困難でしょう。個別支援が認められている特学でも、必ずしもすべての好奇心に対応する学習内容を提供できるとは限りません。それでも、通常級の縛りに比べたら、ずっと柔軟に学習内容を組み立てられます。
しかし、子どもの好奇心は、やらされることに慣れれば慣れるほど減少していきます。自分の思い通りにならないはがゆさは、やることが決まっている日常の繰り返しによって、自分で考えるという好奇心の源泉を枯渇させてしまうのです。また、好奇心をもってチャレンジしたからといって、成功が約束されているわけではありません。真似をしてみたいのに思い通りにいかないことのほうがたくさんあるのです。そんなとき、大事なのは周囲の励ましや支援です。子どもの生きやすさを演出するのが教育であると、最近のわたしはつくづく思っていますが、その演出の大きな柱が励ましと支援だと感じます。
5313.11/08/2005
藤沢本町駅に着きます。
朝からずっと電車に乗り、こどもの国では動き続けた子どもたち。さすがに疲れただろうと、わたしの前を歩く特学の子どもに聞きました。
「ねぇBちゃん、きょうは疲れたかなぁ」
「疲れたって、わからないよ」
Bは、全般的な遅れがあるとされています。遅れという考え方そのものがおかしいと思うのですが、学校的価値を物差しにしているので、一年生ではとか二年生ではとか決まっている学習内容を習熟できないと遅れがあると言われてしまうのです。Bは、とても活発な子どもでからだを動かすのが大好きです。休み時間は外でボール遊びを欠かすことがありません。だから、きょうの遠足ではこどもの国のなかで、全身を使って思い切り走り回っていました。特学からは3人の4年生が参加しました。その3人のなかでも、とりわけ運動量は多かったので、疲れたかどうかを聞きました。
しかし、Bの答えはわたしの予想を超えて、疲れたっていう言葉を知らないから、そんなことを聞かれてもなんて言ったらいいのかわからないよというものでした。また、子どもに教えられます。ためしに「じゃ、元気?」って聞くと、やはり「元気もわからないよ」と答えます。
疲れとか元気という言葉は、具体性がないので、意味がつかみにくい言葉なんだと教えられました。疲れた?と聞いて鸚鵡返しに「疲れた」と答えられてしまっていたら気づかなかったことです。足が痛いかな?眠くなっちゃったかな?汗をいっぱいかいたかな?早く家に帰りたいかな?そんな具体的な質問をしないと、本人の疲れを感じることはできないのです。具体性に欠ける表現を抽象的というとしたら、抽象的な表現は気をつけて使わないと、相手に伝わらない価値のない表現になってしまいがちです。具体的な状態の総称も、抽象的に聞こえてしまう危険性を感じました。たとえば、ほうきでごみを集める・雑巾がけをするという具体的な行動の総称を「掃除」と呼んでいますが、掃除と聞いただけで、それら具体的な行動がイメージできない子どもの場合には、「掃除をしましょう」という投げかけはまったく意味をもたないわけです。
5312.11/07/2005
子どもの国を出て駅まで歩きます。わたしは集団の最後尾をAと手をつないで歩いていました。自動車を見てマークからメーカーを言い当てるのが得意な子どもです。しばらく傍らからは世界中の自動車メーカーが聞こえていたのですが、ふと無音になったことに気付きました。振り向くと、わたしたちの学校の後ろに続く別の学校の先頭の女の先生と手をつなぎにこやかに談笑しているではありませんか。その方はべつに驚く様子もなく対応してくれていたので、わたしは会釈をして流れに任せました。その後、駅に着き、ふたりのランデブーは終了。
電車に乗り、長津田駅で乗り換えます。階段にたくさんの子どもが集まったので、転んだ子どもがいました。わたしは近くにいたので、ステップで腰を抜かしていた子どもを抱きかかえ、安全な場所に移動しました。幸い、その子どもには怪我はありませんでした。ほっとして血の気が引きます。Aが見当たりません。さっきまでつないでいた手を放して、転んだ子どもを助けに行ったからです。階段は、ほかの学校の子どもや一般客であふれています。やばーいと思ったわたしの視界にさっきの女の先生とご機嫌に手をつなぐAが飛び込んできました。
ちょうど、階段をのぼるのも、わたしたちの学校の後だったみたいで、わたしが人ごみのなかでほかの子どもを助けに行くのを見ていたとのことです。そのとき、わたしと手を放し、ひとりになったAに気づき、今度は彼女のほうから手を差し伸べてくれました。ありがたいことです。さっきの出会いがなくても、きっとその先生は同じことをしてくれたと思います。でも、Aにしたら、さっきのランデブーがあったから、二回目のコンタクトもすんなりといったのは確かです。ひとのつながりは、どこでどう作用するかわからないものだと思いました。
5311.11/06/2005
昼食をとってからおやつをひとしきり口にした子どもたちを、空いてきたミニSL乗り場に連れて行きました。さっきの幼稚園の一団はまとまってお弁当の真っ最中です。ミニSLのコースに小さなトンネルがありました。数メートルのトンネルですが、一瞬暗くなったせいか、3人ともとても怖がっていたのが印象的です。
午後は、アスレチックに行きました。たくさんの遊具があって、わたしはその場所を見下ろせる丘の上で3人の荷物番をしながら、遊んでいる様子を眺めていました。ときどき、水筒を使いに来るだけで、子どもたちは帰りまでそこで汗を流しながら遊んでいました。すると、ほかの学校の子どもや幼稚園の子ども、いっしょにいった4年生の子どもたちと、なにかを話したり、順番を待ったり、それぞれに集団の流れにそって遊んでいます。学校では、どうしても子どもたちそれぞれにやるべきことが決まっていて、なかみが共通ではないので、のんびりした時間のなかで、子どもどうしが折り合いをつける機会が多くはありません。しかし、こういうところでチャイムや学年などを気にしないでいると、関係性の壁は自然と低くなり、相互に違和感のないつながりが生じるように感じました。
すこしだけ困ったことがありました。それは、3人の子どもたちがそれぞれ遊んでいると、近くにいてそのことに気づいた学年の子どもたちがその子どもの手を引いて、いちいち丘の上のわたしのところまで連れてきたことです。「○○くんが困っていたよ」と。べつに困っているわけじゃないのですが、きっと気を利かせてひとりでいたのを見て心配してくれたんだと思います。ひとりでいることは、決していけないことではありません。でも、学校的価値がしっかりしみこむと、ひとりの存在は寂しく・悲しく・困っている存在として認識されてしまうようです。あーここにも「みんないっしょ」の弊害が発生と驚きました。連れて来られた子どもに「なにか困っていたの?」と聞くと首を横に振ります。「じゃあ、今度はひとりで大丈夫っていってごらん」と教えました。
5310.11/05/2005
4日は秋晴れの湘南でした。先週、雨で延期になっていた4年生の遠足が予定されていました。出勤途中に空を見上げ、これは文句なしと確信しました。特学には各学年の子どもがいます。遠足のたびに該当学年の子どもが抜けていきます。4年生以外はすべて予定通り実施できていました。延期の延期はないので、きょう雨だと中止の危機でした。
8時過ぎに教室にやってきた3人の4年生は、どの表情も嬉しそうです。天気がいいことと遠足が実施されることが、ちゃんとつながっている証拠です。「電車で行きます。トイレがありません。いまおしっこをします」っていったら、3人ともトイレに駆けていきました。もうすぐ出発という状況が飲み込めています。行き先のこどもの国までは、二度電車を乗り換えます。
一般客でにぎわうなかを二度の乗換えで無事に目的地まで到着するか心配でした。わたしは、ほかの大勢の子どもたちが乗らない車両に、特学の子どもを連れて行き、静かな車内に乗車しました。先週の3年生のときと同じです。小田急線・田園都市線・こどもの国線を乗り継ぎます。幸いなことにどの電車でも座ることができ、体調も崩れることなく目的地に到着しました。
こどもの国では、子どもたちはグループ別行動だったので、わたしは特学の3人の子どもたちと活動します。3人用に作った特製のしおりを出して行動の順序を確認します。まずはソフトクリームです。牧場に行き、とてもこくのあるおいしいソフトクリームを食べました。気温が上昇し、遠足にはもってこいの日和だったので、冷たいソフトクリームがからだに元気を与えてくれました。次にミニSL乗り場に向かいます。そこには、幼稚園の子どもたちがたくさん並んでいました。待っていたら、いつになるのかわからなかったので予定を変更します。またしおりを出して、さきにお弁当にすることにしました。通常、急な予定変更は苦手な子どもたちですが、食欲はなにものにも勝るようで、すぐに納得します。シートを広げ、各自の昼食を食べました。
5309.11/03/2005
月曜の次は火曜で、その次は水曜日。多くのひとは曜日の感覚がわかっていて、時間の流れを気持ちのなかでコントロールできます。しかし、知的な遅れのあるひとは、時間の流れを認識することが難しいことがあります。きっと、時間の流れは目に見えない要素が大きいからだと思います。
先週の木曜日に遠足に行く予定だった子どもが、雨のために今週の金曜日に延期になりました。とても遠足を楽しみにしていたので、次の遠足がいつになるのかがとても気になります。今週に入ってからは、毎日「きょうは金曜日?」「あしたは金曜日?」と聞いてきます。「ちがうよ、きょうは月曜日。あしたは火曜日」と教えてあげても、「なんで金曜日じゃないの?」と悲しい表情を浮かべるだけです。太陰暦だった時代には曜日ってあったのでしょうか?いまのように日曜日が安息日になったのは、宗教的な背景があると聞いたことがあります。
いつになったら、金曜日になるのか、とても不安な子ども。その子どもには全般的な遅れがあります。しかし、その遅れ部分は時間とともに周囲との関係性のなかで、必ずしも生きることが困難な状況を生み出すとは言い切れません。でも、きちんと本人の目線に合う対応と指導をしないと、曜日や日にちの認識は育ちません。自分が楽しみにしている遠足が、いったいいつになったら実行されるのか、それがわからないまま日々を送るのはとてもつらいことでしょう。まるで、周囲が自分をいじめているように感じてしまうかもしれません。知的な遅れのあるひとに多く見られる抑制のきかない衝動的な行動は、そのようなときに顕著になります。暴力的な言動が多くなったり、周囲との同調を拒否したり、他人の迷惑を顧みなくなったり、役割を放棄したりするようになるのです。このような行動には、そこにいたる背景があるのですが、なかなか一般社会では、そこまで配慮してくれません。そして、みんなとは異質な存在としての烙印が押されてしまうのです。
時間の流れに名前をつけ、それを7日ごとに曜日にわけ、30日前後で月にまとめ、12ヶ月で繰り返していくことが、ひとの生活や産業活動には必要なことなのでしょう。でも、時間を言葉や数字に置き換えて使っているのは、人類だけです。地球上のあらゆる生命を考えたときには、そんなに重要なことではないのかもしれないと、金曜日がいつなのかで不安になっている子どもを見守りながら感じます。
5308.10/31/2005
郵政民営化を国民に問うという触れ込みの9月11日の衆議院選挙が終わってまだ2ヶ月も経っていません。
この時期に、政府からは税制改革のアイデアが発表されました。いままで定率減税されていた所得税などの減税措置の撤廃のほか、消費税の増税も提案されています。納税者にとっては増税になる政策が、新しい国会が始まってすぐにオープンになるのは、有権者をだましたと思われても仕方がない気がします。
また、在日米軍の再編プランが地元になんの事前協議がないやり方で公表されています。沖縄に続き、米軍や自衛隊関連施設の多い神奈川でも、関連施設の縮小よりも、軍事関連施設の強化が目立つプランです。横渚港には、初めて原子力空母が配備されそうです。核をもたない・つくらない・もちこませないという日本の非核三原則は、いよいよ骨抜きになる日が近づいています。
増税も米軍の再配備も、選挙以前から準備が進んでいたはずです。それらは与党の政策のひとつだったはずです。有権者が投票をするときに、判断の基準にしたのは、郵政民営化だったので、それらが意識されていたとは思えません。これでは、国会で多数を占めるために、有権者に受けのいい政策だけを前面に押し出し、受けの悪い政策を隠し通したのかと思えてきます。
なぜ、国も地方公共団体も多くの債務をかかえているのかを本質的に掘り下げないで、歳出ばかりを抑制し、歳入を増やすために増税が実施されれば、債務を増やす体質が変わっていないので、同じ繰り返しになるのはだれにでもわかります。在日米軍の再編や、自衛隊との一体化が、極東アジアの平和実現に役立つとは考えにくく、むしろ中東から東南アジアにかけてのテロが続く一帯を監視する機能を強化するために日本列島が使われると考えるが一般的ではないでしょうか。それをいままで阻んできたのが憲法です。だから、憲法を改正する動きと連動させているとは思いませんが、はからずもいまの情勢は両者がとてもリンクするようになってきました。
太平洋戦争が起こる前の日本社会も、きっといまのような方法で政権が翼賛化し、有権者の意向を反映しない法律が多数の論理で可決していったのでしょう。きなくさくなってきました。
5307.10/30/2005
29日、ソフトボールの試合をしました。
大船地区の公立小学校・公立中学校8チームの保護者が自主的にチームを作り、毎年春から秋にかけて総当たりのリーグ戦をしています。名前を「大船カップ」といいます。このサイトでも、試合予定や成績をお知らせしています。
わたしの所属する大船中チームは、29日の試合が7試合目にあたる最後の試合でした。本当はもっと早くやる予定でしたが、10月は週末のたびに天気が崩れ、予定が大きく変わりました。大船中は、6試合を終えて、4勝2敗です。すでにすべての試合を終えているチームが多かったので、29日の試合で最終順位が確定することになっていました。試合前の段階では5勝2敗のチームが2つありました。勝率が同じ場合は、得失点差で順位を決めます。もしも、大船中が29日の試合に勝つと、5勝2敗になり、同率チームが3チームになります。大船中とトップのチームとの得失点差は7点ありました。大船中は、試合に勝って、8点以上の得失点差をつけると優勝ということがわかっていました。
対戦相手の大船小は、大船中との試合の前に、山崎小と試合をし、5対5の同点でした。手ごわいチームなのでとても8点差以上をつけるのは難しいと思っていました。試合が始まってから、その予感は的中します。なんと、最終回の前までに大船中は5対6で負けていたのです。試合に勝つことが優勝の前提なので、最終回の攻撃はとても重要でした。しかし、心配を吹き飛ばすように最終回はヒットが続き、打者17人、そのうちホームラン2本、三塁打1本、二塁打1本、ヒット8本で14点も取りました。その結果、19対7で大船小を破り、大船中は優勝を決めました。最終回は先頭打者から13人連続でヒットやエラーで出塁しました。
小学校のチームと違い、中学校のチームは年齢層が高く、子どもの在籍期間が小学校の半分なので、いつも人集めが課題です。去年の大船中は試合の日に3人しかいないこともありました。でも、ことしはどこのチームにも助っ人を頼むことがない単独チームでの参加もあり、少しずつですがひとつながりがかたちになってきたのを感じました。
5306.10/28/2005
きょうは秋晴れのもと、大和の引地台公園に遠足に行ってきました。3年生が小田急線を使って行く遠足です。特学には2人の3年生がいるので、その子どもたちの担任として参加しました。藤沢本町駅で乗車するとき、わざと学年全体とは別の車輌に乗りました。閉所・雑音・行き先への不安が重なったらきっと2人は混乱すると思ったからです。朝のラッシュが終わった時間だったので、小田急線は空いていて、閉所だけど静穏でした。行き先を書いたしおりを出して降りる駅を確認しました。混乱する状況に子どもを追い込んで、我慢を強制するのは教育ではなく調教です。でも、子どもには我慢や耐える力が必要だというひとがいます。もちろん生きていくうえでは、いつも自分の思い通りにはならないことがたくさんあります。そんなとき、調教を強いられてきた子どもには、我慢や耐える力がついていなくて、なにも考えずに従う力が育っているので、アンバランスな自我は暴走します。頼るべき存在からの巣立ちが自立なのに、自立を抑制されて育った結末です。
公園に着いて1時間ほどアスレチックの時間になりました。でも2人には難しすぎて、数分で飽きてしまいます。わたしは学年の教員に「悪いけど、先に行って昼食にしているね」とことわり、子どもたちを連れて昼食場所の芝生の広場に行きました。まだお昼には早かったせいか、広場はひともまばらで少し色づいた落葉樹がきれいな秋を感じさせてくれました。雑音にも、予想不能の行動にも邪魔されることなく、2人はお弁当とお菓子をのんびりとたいらげました。
少し離れたところに滑り台や砂場のある区画があったので、2人とともにそこでのんびり遊びました。近所の小さな子ども連れの方々が遊びに来ていましたが、たった2人の小学生が来ただけなので、決して迷惑な感じではありませんでした。ひとしきり遊んだところで、学年の子どもたちが難しいアスレチックから昼食場所に到着します。2人の3年生は汗を流しています。わたしは、学校でやっているように、木陰に2人を連れて行き、シートを敷いてゴロンの時間にしました。ゴロンの時間とは、クールダウンタイムのことです。体温調節がうまくいかなかったり、気持ちの高揚を抑制できなかったりしたときに、ゴロンの時間はとても有効です。木漏れ日が頬に気持ちのよさそうな場所を探し、周囲の騒音から遠い場所でしばらくのクールダウンにしました。
5305.10/27/2005
兵庫県尼崎市の電車脱線事故から25日で半年が過ぎました。600人を超える死傷者を出した大惨事にもかかわらず、まだ当事者であるJR西日本からは、遺族や被害者に対して、事故の背景に迫る説明がなされていない異常事態が続いています。直接の事故原因を誘発した背景を分析しないかぎり、悲しい惨事は繰り返されるでしょう。JR西日本の上層部に、危機意識が本当にあるのか、事故と無関係のわたしにも疑問に思えてきます。
わたしの知り合いがJRに勤務しています。西日本ではありませんが、会社の体質は全国どこも似ていると教えてくれました。ミスをした職員に、一日中反省文を書かせる日勤教育は西日本ではなくても実施されています。小さな部屋で、トイレ以外、机から離れることを許されない人権無視の日勤教育では、職員をいびるかのように上司が入れ代わり立ち代わり訪れ小言を言っていくそうです。そんな反省で、本当にミスがなくなるとは思えません。運転に携わるひとたちは、狭い運転室で精神的に追い詰められた日々を送っています。一分二分の遅れや数センチのずれに気を使い、多くの人命を預かっている意識が最優先になりにくい環境なのかもしれません。
JRでは所属している労働組合によって、差別が、日常化しているのは、裁判でも明らかです。不慣れな職種や自宅を遠く離れた職場に配置転換するやり方が横行しているのです。わたしの知り合いは、電車の電気系統を担当していました。とても長かったので、仕事ぶりは職人の域に達していました。そのひとが分割民営化で配属されたのは、駅の清涼飲料水の自動販売機のなかみを補充する職場でした。その仕事も長く担当し、そのまま退職かと思った矢先、また配置転換がありました。退職まであとわずかの彼は、今度は自宅からかなり遠方の駅に配置転換されました。仕事は車椅子利用者の補助です。車椅子利用者の乗降を手助けする仕事です。決して若くはない彼にとても体力の必要な仕事をまわすやり方は、適材適所が眼中にない人事方針としか考えられません。尼崎市の事故の背景に、いまもこのような差別的な労務管理があることを、なぜかメディアは報じようとはしないのです。
5304.10/25/2005
生きていれば、つらいことや苦しいことは、たくさんあります。危険なことも悲しいことも、まったくないとは言い切れません。それらを避けて生きていく方法など、ありません。だから、それらに直面したときこそ、自分が伸びるチャンスだと考える習慣をつけると、だいぶ生きやすくなるのではないでしょうか。
どうすれば、困難を克服できるのか。次回からは、困難と感じないようにするにはどうすればいいのか。実際に傷つくことがあっても、そのような気持ちをもつかもたないかで、立ち直りのタイミングが早くなると思います。でも、残念ながら、気持ちのなかに余裕がなくて、一度の傷つきやつまずきで、もう周囲とのコンタクトをまったく閉ざして自分の世界に入り込んでしまう若者や子どもたちがいます。苦しさや悲しみは、自分ひとりの力では乗り越えることは困難です。友人や家族の力があってこそ、それらはハードルの低いものになっていくのです。なのに、問題の対象を徹底的にたたくことが解決策だと考える風潮が強くなっているのが気がかりです。とくに、親がそのような気持ちをもっていると、子どもは自分を守る存在として親を認識し、無理をして親に認めてもらい続ける行動を取ろうとしてしまいます。いつか親離れをしていくのが自然な成長なのに、いつまでも親の支配のもとを脱しようとしない親子密着関係を親も子どももとても長い期間続けてしまいます。そのような子どもは、おとなになりきれないまま肉体だけがおとなになってしまい、精神とのアンバランスが生じ、自立心の少ない社会人になってしまうでしょう。
ひとの精神は、とても微妙で、ほかのひとがなんとも思わないことでも本人には大きな気がかりになります。それぞれが生きてきた歩みが違うので、それは当然のことです。だから、自分の気持ちとほかのひとの気持ちがいつも同じではないことを前提にしていないと、つらさや苦しさをほかのひとに与えてしまいます。自立心を抑制するような育て方はしないほうがいいのですが、自尊心を傷つけてしまうような接し方は、だれに対しても留意していくことが必要でしょう。
5303.10/22/2005
大阪府枚方市で、中学1年生の男子生徒が母親を殴り殺しました。
1年前から母親に暴力をふるい始めた生徒は、ことしの夏に2回も母親に包丁を突きつける騒ぎを起こし、警察が児童相談所に通告しています。その時点で、今回の事件は予測できなかったのでしょうか。学校では成績が上位だったといいますが、性格がゆがみ、危険な親子関係にあったことを周囲のおとなが気づかなかったとは思えません。犯行の動機は、19日未明に母親に「勉強しろ」と注意されたことでカッとなったことです。倒れた母親を放置し、明け方になって動かなくなった母親に驚き、事件が発覚します。母親の死因は、外傷性くも膜下出血です。そうとう強い暴力が繰り返されたのでしょうか。
児童相談所は21日にこの生徒を大阪家裁に送致しました。そして、家裁は生徒を大阪少年鑑別所に収容し2週間の観護措置にすることを決めました。警察は児童自立支援施設への入所が相当という意見をつかましたが、児童相談所では、もっと事態を深刻にとらえ、犯罪の背景や生徒の内面の調査を必要と判断しています。
この子どもがなぜ家庭で暴力をふるわなければならなかったのでしょうか。学校では類似した行動をしていないことを考えると、親子間の関係性の問題が浮かび上がります。また、暴力が繰り返されてしまったということは、ひとつひとつの事案に対して、そのときに有効な解決策が、なぜ示されなかったのでしょうか。「勉強しろ」という母親の発言内容は、たんなる引き金に過ぎず、放置したら、いずれはこのような最悪の結末を迎えることを予期できなかったのは、なぜでしょうか。精神状態が正常ならば、おそらくこのような事件は起こらないので、生徒の精神状態がかなり追い詰められていたことはじゅうぶんに予想できます。思春期という多感な時期に、その多感さを考慮しない圧力が周囲から生徒に加わっていたとしたら、母親だけでなく、この生徒も被害者のひとりでしょう。わたしは、そこに何十年も続く、学力主義や成績主義などの学校を日常生活の最大課題にするおとなの考え方があるのではないかと考えます。高校受験のための内申書に、よい点数をもらいたくて、生徒会やクラブの部長を引き受ける子どもが少なくないと聞きます。学校でも生活が、すべて点数に置き換えられて、そこから逸脱することが許されない日本の中学校や高校の受験社会は、子どもたちのこころを確実に狭い方向に追いやり、ピュアな気持ちを打算的な考えに変化させてしまっているように思えてなりません。
5302.10/20/2005
特学レポート〜秋-27-〜
通常級で特に配慮を必要とする子どものすべてが障害児ではありません。性格が悪い、ストレスがたまっている、心理的な病にかかっているなど、環境や気質的な問題を抱えた子どもは少なくないのです。担任は家庭と連携して粘り強く子どもの生活が改善するように努めます。そんなひとたちでさえ、発達障害の子どもに対しては、誤解や偏見をもっていることもあります。教育相談センターや児童相談所を使っているケースはとても少ないと思います。発達障害の子どもたちの特徴であるひとの指示を受け入れにくい部分は、話し言葉が指示の主流の通常級では、本人の注意力不足と指摘され、多くの子どもの前で叱られてしまいがちなのです。家庭でも、だらしないとか、反抗期などと思われて、叱責されてしまうケースもあります。
わたしが、勤務する学校だけでなく、市民活動を通じて、発達障害の子どもたちとかかわっていきたいと思うのは、そんな困難な状況を打破する手助けがしたいと思うからです。そのような子どもたちが、自信を取り戻し、自分を肯定的に受け入れていく受け皿が必要だと思うからです。だれかに頼んでも、行政にお願いばかりしていても、実現は先かもしれないので、自分の力でできるところから始めています。
特学レポートの秋編は、勤務する学校のことばかりでなく、それ以外の内容も含め、話題が広がりました。途中、運動会が入り、多くのことを考えるいい機会にもなりました。気持ちを言葉に置き換えていく作業は苦痛ですが、自分の考えを整理するのには大切なプロセスです。発達障害の子どもたちのためのパソコン教室は、ふだん特学で自分がトライしていることが正しかったことを証明してくれました。演繹的でも帰納的でもない、実践のなかから感じた子どものとらえを今後とも大事にしていきたいと思います。特学の窓から見える景色は、すっかり秋めいてきました。たくさんのトンボが木の葉の間を器用に飛んでいきます。木々の葉が色づき、これから本格的な紅葉の季節になります。吐く息が白くなる頃、バージョンの新しい特学レポートをまとめようと思い、今回のレポートはここで筆を置きます。
5301.10/19/2005
特学レポート〜秋-26-〜
後半のパソコン教室が始まりました。
休憩明けに教室に戻ったら、子どもたちが自分でパソコンをいじって、前半の復習をしていたのには驚きました。ほかにすることがなかったから、保護者に指示されたから、前半の記憶が強く残っていたから、自分だけでなんとかやってみたくなったから…。理由を考えましたが、しっくりいくものがありません。でも、子どもたちが自分の力でマウスを動かしていた事実は変わりません。発達障害の子どもたちにとって、パソコンが有効な学習道具という考え方が正しかった証拠だと感じました。
リーダーが後半の開始を子どもたちに告げます。その間、インストラクターは子どもに同伴しません。子どもたちの視線はリーダーに向きます。最初の課題を出して、取り組みの終了時刻を教えます。基本的なオブジェクトの操作を子どもに経験してほしいという願いの内容でした。前半では、リーダーがすべての指示を出していたので、一斉指導になり、学習の進度が異なってしまいました。後半は、個別指導はインストラクターに任せ、大きな柱をリーダーがするようにしたので、子どもは行動のなかみがよく理解できたようでした。
全員で同じオブジェクトを選択しています。星型のオブジェクトに、いくつかの命令を出すと、星が動いたり、色が変わったり、音が出たりします。その命令がいくつもあるので、各自がどんな命令になるかを楽しみます。全員が同じ星型のオブジェクトを選択するのも、休憩時間にアドバイスしました。発達障害の子どもたちは、これまで学校でなかなかクラスの子どもたちと同じことができずに苦しい経験をしてきています。全体の流れに乗れない苦しさは、経験したひとでないと共感しにくいものがあります。だから、ほかの子どもと自分が同じことをやれているという実感を得ることはとても貴重な経験です。自分にもやれるんだという気持ちが生まれ、自信につながります。流れに乗っている実感は、ほかのひとと同じオブジェクトがパソコンのモニターに映っていることから確認できます。小さなことでも、みんなと同じにできる事実の積み重ねが気持ちを安定させ、学習意欲を向上させるのです。
終了後の感想でも星を動かすのが楽しかったと答えた子どもが3人いました。ほかの子どもは楽しかったとしか答えていないので、具体的なことはわかりません。星を動かすのがどうして楽しかったのかを分析すると、自分の思い通りに学習をコントロールできたからだと思います。いま何をすべきかがわかり、自分がその流れに乗れ、さらに活動が興味深ければ、強く印象に残るのです。
5300.10/18/2005
特学レポート〜秋-25-〜
わたしは臨床心理士の方と部屋を出て子どもの様子を確認します。お互いの評価表を照らし合わせながら、個別に感じたことを意見交換します。共通したのは、内容が高度で、ステップアップの時間が早く、子どもがついていけていないということでした。なかには、アップアップの子どももいて、次回は来なくなるかもしれないという危機感をもちました。
学習のなかみについては、指導者の考えがあるので、わたしたちにはどうこうできないのですが、子どもたちの現実を指導者や運営の方に伝え、後半の指導に役立ててもらおうということになりました。休憩時間は15分しかありません。綿密な打ち合わせをするほどの余裕はありません。リーダには後半の指導プランがあるはずです。それを直前になってどうこう言われても、予定変更に対応できないことが考えられます。しかし、リーダーはわたしたちの話を聞いて、柔軟に後半の内容や具体的な指導方法を変更しようと提案してくれました。20年以上、学校にいますが、教員のなかにはなかなかこのような柔軟な方はいません。自分のプランを信じ、周囲の声が思いつきのように聞こえてしまうのでしょう。
後半に向けて、わたしと臨床心理士の方が提案したことは三点ありました。
まず、「いろいろ」とか「自分の好きな」という提示の仕方はしないこと。選択肢がたくさんあって、そのなかからどれを選べばいいのか迷ってしまう子どもたちです。どれでもいいというのは、不安を増幅させてしまいます。次に、ひとつの指示は短く、内容は簡単にというものです。基本的な指示をリーダーが出し、応用や工夫は個人に任し、やり方はインストラクターが個別に対応すればいいからです。それに関連して、リーダーが説明しているときに、インストラクターが子どもの近くで異なる説明をしないことです。全体の流れから遅れている子どもにインストラクターが補助するのはいいのですが、補助している間に全体が次のフェーズに移っていくと、子どもはパニックに陥ります。
これらを受けて運営の方や指導者サイドで後半のメニューの練り直しが行われました。本当は前半の内容をもう一度繰り返してもらえたらとも思ったのですが、かなり後半のメニューを簡略化することになったので、落としどころだと思いました。子どもの様子を説明し、それに対応した内容をお願いしたので、リーダーにはとてもわかりやすいアドバイスだったのかもしれません。