5299.10/17/2005
特学レポート〜秋-24-〜
時間になりパソコン教室が始まりました。リーダーがプロジェクタを使って指示を出します。子どもたちは緊張している様子で身動きもせず、固まっていました。
いつも小学校の子どもたちと出会っているので、中学生がほとんどのパソコン教室は子どもたちの大きさに驚きます。体格だけで言えば、もうじゅうぶんにおとなに近いのではないでしょうか。あまり広くない部屋だったので、よけいに中学生の大きさを感じたのかもしれません。
パソコン教室は45分を単位として、前半と後半に分かれていました。前半は使用するアプリケーションの使い方に慣れるリテラシー学習が中心でした。スクイークというアプリケーションです。オブジェクト指向のアプリケーションで、ゲームや教材などが作れそうな気がしました。リーダーは、サンプル用に用意した自動車のファイルを提示します。円形のコース上を二台の自動車が走ります。一台は自動的に走り、もう一台はユーザーがハンドルを操作して走らせます。ややハンドルの使い方が難しかったので、リーダーの思いとは別に子どもたちは苦戦していました。コースをクリックすると、コース全体を選択したことになり、ドラッグでコースが動いてしまい、自動車があらぬ方向へと走ります。そのあたりから、自閉的な傾向が強いと思われる子どもは混乱を示し始めました。わたしは、子どもたちの評価を担当していましたが、混乱していく子どもを前にして放置するわけにはいきません。近くに行って、短い言葉で操作方法を教えました。おそらく何人かはパソコン操作が初めてだった気がしました。マウス操作に慣れていないことがわかったからです。その段階では、今回の導入は高度でした。
レースのサンプルを終え、オブジェクトの出し入れや、オブジェクトの編集についての学習になりました。しかし、レースサンプルの終わりを提示していなかったので、やっと少しハンドルの使い方がわかってきた子どもには、次のステップへの気持ちの切り替えがうまくいっていませんでした。臨床心理士の方が「もう耳ふさぎをしている子どもがいるよ」と耳打ちをしてくれました。リーダーの指示と、近くで自分に教えてくれるインストラクターの指示が異なり、両者がクロスオーバーするので、混乱が増幅してしまったようです。リテラシー学習は、学習障害の子どもにとっては活動の意味がわかりにくい欠点があります。なんのためにこんなことをしているのかが理解しにくいのです。できれば、本人のやる気やおもしろさを導く過程に、知らず知らずのうちにリテラシー要素がちりばめられているほうが効果的です。
前半は、子どもたちにとって、やや全体的に消化不良のうちに終了しました。
5298.10/16/2005
特学レポート〜秋-23-〜
知人が新しい市民活動を始めました。
学習障害や自閉症などの発達障害の子どもたちのためのパソコン教室です。いつも湘南に新しい公立学校を創り出す会が活動する藤沢の行政関連の施設で開催しました。そのパソコン教室の手伝いで、わたしもその施設に行きました。いつもお世話になっている窓口の方に、「あれ、きょうは予約入ってないよ」といわれ、「違うんです。別の活動の手伝いできました」と説明することから始まります。
発達障害、とりわけ学習障害の子どもたちは、学級集団のなかで行動的にはほかの子どもと同調しながらも、内面的には流れに乗れないケースが多くあります。そのため、教師やグループリーダーの指示がわかって行動するのではなく、みんなに合わせて行動するので、自分ひとりで考える場面になった場合、動きがとれなくなります。そんなとき、クラスの子どもや、ひどい場合には教師からも、罵声を浴びせられたり、排除を求められたりして、つらい思いをします。だんだん教室にいるのがつらくなり、学校を休むようになります。そんな子どもたちが、パソコンを学習道具として使うことによって、自分への自信を取り戻していけるようなサポートをしたいと知人が仲間と考えサークルを作り活動を始めたのです。
最初のパソコン教室の日に、わたしは子どもの評価と指導助言を頼まれました。指導にあたる方は、これまでもワークショップを通じて子どもたちへのパソコン指導に慣れた方です。しかし、発達障害の子どもたちを相手にするのは初めてなので、そのアドバイスをとのことでした。また、子どもたちの伸びをとらえる視点も、日常的に発達障害の子どもたちに接している利点を生かして子どもの様子を教えてほしいといわれました。同じように子どものことを担当する臨床心理士の方と事前に簡単な相談をしました。初対面の方でしたが、子どもへの気持ちが似ていたので、とても初対面とは思えません。ひとりひとりの名前をチェックし、評価表を手にしながら「うーん、これを全部やるのは大変だね」と、早くも開始前から現場あわせの確認をします。
集まった子どもたちは、小学校高学年から中学校年齢の子どもたち6人でした。多くが初対面の子どもたちだったと思います。保護者同伴が条件なのか、子どもの横には保護者の方が座ります。そのため、自閉的な傾向の強い子どもによく見られる同じことを何度も繰り返して聞いたり、集中する視点がほかのところにいったりという特徴は見えません。きっと、横に座った保護者の方が子どもをじょうずにナビゲートしていたのだろうと思いました。
5297.10/15/2005
特学レポート〜秋-22-〜
10月は春から続けてきた子どもたちへの指導の見直しの時期です。
特学の教員3人でひとりひとりの子どもへの指導方法についてケース会議を開き、成長点と今後の指導の重点を検討しています。そのために、ひとりひとりの指導計画が原案になっています。わたしも担当する3人の子どもについて、個別指導計画を作成しました。今回は、それに追加する点や変更する点を話し合い、これからの指導に生かしていきます。
わたしたちが作成する指導計画の大きな柱は、生活面・学習面・コミュニケーション・交流です。交流は、日常的な交流活動だけでなく、遠足などの行事も含まれます。コミュニケーションは、個々に表現手段が異なるので、それぞれにあった表現手段の獲得を目指しています。そのために教員どうしでコンセンサスをはかり、日常的に同じ接し方をこころがけます。言葉を発することが苦手な子どもには、マカトンという身振りと言葉をセットにした言葉を使います。耳からの情報よりも視覚的な情報のほうが安定しやすい子どもには、大事なことをメモにして書くようにします。それぞれの子どもにもっとも有効な手段を教員間で確認しておくと、担当の教員以外でももっとも有効的なコミュニケーションをとることができるので、全体として子どもは安心した環境で生活を送ることができます。特学の学習には、このような本人が安心を感じる環境がとても必要なことをこの半年間で感じました。突然かかる校内放送や、屋外の道路工事などは、子どもたちにとってびっくりする騒音です。それまで集中していた気持ちが途切れ、二度と同じ課題に気持ちが戻らなくなることがたくさんあったのです。
今回の指導の見直しでは、言語についての学習が検討されています。子どもが文字を身につけているように見えてしまうものは、本当にその子どもの将来に結びつくのだろうかということです。二語文や三語文をじゅうぶんに言うことができない子どもが、文字を学習しても使うチャンスがないのです。だったら、車が走る・犬が鳴くなどの二語文や道路を車が走る・遠くで犬が鳴くなどの三語文を言えるようにしていくことのほうが先にするべきことではないかというものです。これらの学習には絵カードや言葉カードを使います。車の絵やカードを示して、その続きを本人に言わせていくものです。このときに「車・赤い」のように単語を並べただけでは一語文なので、助詞をはさむことも教えていきます。その延長上に文字を書く学習があるのではないかと検討しています。しかし、この学習方法は子どもと教師が一対一でやらなければなりません。もともと子どもの数の半分以下しか教師がいないので、その学習を実施するための支援体制の確認も同時に進めています。
5296.10/14/2005
13日のニュースで文部科学省が早ければ2007年度から全国の小学校3年生以上に英語の授業を導入することを決めたと報じていました。
現在でも小学校から英語の学習塾へ行ったり通信教育を受けたりしている子どもはたくさんいるので、学校で英語を学習することはきっと子どもには目新しいことではないと思います。しかし、現在の小学校教員は英語の指導法を大学時代に取得していないので、免許法上は指導できないことになります。藤沢市でも外国人講師の方が来て、定期的に外国の文化を子どもたちに教える授業をしていますが、それらは異文化交流の意味合いが強く、外国語を学習することをねらってはいません。
なぜここにきて英語の指導が小学校に導入されてこようとしているのでしょうか。背景には、成人してもちっとも英語でのコミュニケーションがはかれないおとながたくさんいる現実があると思います。中学校からの英語教育ではじゅうぶんな語学力が身につかないと判断したのでしょう。
しかし、英語を学習する期間を4年間前倒ししただけでは、語学力がつくとは思えません。ましてや成績評価の対象になるとしたら、中学校に入る前にたくさんの英語嫌いを作ってしまう可能性も出てきます。もしもそうなったら本末転倒の事態が予想されます。現在のように英語が話せないのではなく、英語が嫌いな子どもを量産させることになるからです。
教育行政のトップにいるひとたちは、いつも子どもの能力を数量的にとらえる傾向があります。たくさんの時間をかければ、子どもはたくさんのことを知り、身につけるだろうという考え方です。いまの小学校では、毎日国語と算数の欠ける時間割はありません。反対に音楽や図工はどんどん減少傾向にあります。このような偏った教科指導は、子どもに学習離れ、学校嫌いを意識させていることに気づいてほしいと思います。
現在の若いひとたちからおとなのひとたちに英語に堪能な人が少ないのは、いまの子どもたちの責任ではありません。また、これまでは一部のひとたちが英語を使えればいい社会構造だったという見方もできます。なのに、一律に英語を使える人材を増やそうという考えは、子どもの能力差を否定したあまりにも短絡的な思考だとわたしは思います。現在の単語の記憶や文法の習熟を中心とする中学の英語教育は、高校受験を前提としています。高校受験で役立つ内容を英語の授業で扱っているのです。公教育の受験制度の根幹にメスを入れない限り、特定の学力向上を目指す取り組みはねらいの達成が困難なのではないでしょうか。
5295.10/13/2005
特学レポート〜秋-21-〜
養護学校と違い特学は小学校や中学校のなかにあるので、通常級との交流はひんぱんにあります。交流とは、通常級に行って、授業を受けたり、給食をいっしょに食べたりする活動です。通常級の子どもたちと集団のなかで流れにあわせていっしょに過ごすことができます。しかし、交流活動につきあって通常級に行くと、明らかに特学の対象のように見える子どもがたくさんいます。特学への入級は保護者の意思なので、わたしが口をはさむことではありません。だから、通常級のなかで、お客さんのようになって、ほかの子どもからもあまり声をかけてもらえていない子どもがいても、わたしには何もできません。支援するべき子どもが別にいるからです。
特学の対象のように思える子どもではなくても、人間関係や家庭環境などで心理的・情緒的に不安定なこどもがたくさんいます。クラス担任は、そのような子どもが起こすケンカや万引きなどのトラブルに追われます。わたしが教師になった20年ぐらい前には、ケンカも万引きもありましたが、それらを保護者とともに引き受けることができました。しかし、10年ぐらい前からでしょうか、明らかに「うちの子どもがそんなことをするわけがない」とこちらの話を聞いてくれない保護者が登場しました。将来的に、似たような傾向が増加するだろうと予想し、「もうこれからは学級担任がなんでも抱え込むやり方は通用しなくなる」と職員会議でうったえました。解決策として、複数担任制度や私立のような小学校からの教科担任制の導入を提案しました。
しかし、当時の同僚の多くは、まだ学校や教師を信用しない保護者の存在は一部のみと考え「担任と子どもの濃密な関係が小学校では必要だ」と言われ、提案はすべて却下されました。いま、当時そのように考え、発言した人たちが、放課後の職員室でクラスの子どもや保護者のことで日々悩んでいます。職員室での教師どうしの会話は部屋中に響きます。とくに学年ごとで話している内容に聞き耳を立てると、指導しても効果が現れない苦悩や、子どもの内面が見えてこない不安で満ちていることが少なくありません。
特学では、少ない子どもに複数の教師が担任として、個々の子どもの指導や支援にあたるので、かつてわたしが理想としたやり方にとても似ています。あのとき提案に対して反対した人たちに「いずれこのままではタイタニック。巨大な豪華客船は、すでに氷山に衝突していて、黙っていても沈んでいくんですよ」と告げました。いまわたしの周囲には沈むゆく豪華客船の最後の姿が見えてきたように思います。特学は将来的に豪華客船と行動をともにしてしまうのでしょうか、それとももともと同じ船ではなかったのでしょうか。その答えは近い将来に迫っているように感じます。
5294.10/12/2005
特学レポート〜秋-20-〜
子どもが変わっていく瞬間に立ち会えることが、教師を続ける魅力です。変わり方はひとそれぞれです。悪い方向に変わっていくときは、原因を探り、対処を試みます。よい方向に変わっていくときは、目頭が熱くなる喜びを感じます。できれば、よい方向に変わってほしいのですが、ひとの育ちは善しあしをバランスよく経験していくようです。
たとえば、言葉を発することに機能的な問題があって、うまく気持ちを表現できない子どもがいます。出会った頃のわたしは、その子どもと意思の疎通がうまくいきませんでした。だから、その子どもは自分の苦しみや悲しみ、そして怒りなどこころのつらさをわかってもらえないつらさから泣いたり、叫んだり、つねったりという行動に出ました。それは、身体を使った表現でした。わたしには、その子どもがなにかつらい気持ちを伝えたいと必死になっていることはわかりましたが、そのなかみがわからなかったので、ひたすらなだめるしかありませんでした。保護者やその子どもの成長にかかわってきたセラピストの方々と相談をしながら、コミュニケーションの方法を探ります。
自分の気持ちを伝えるときに、口から発する言葉でうまく伝えられないだけで、その子どもは相手の言葉や仕草をかなり理解していることがわかりました。わたしは、なにかを伝えるときに、仕草や絵、写真を使うようにしました。すると、それまでとは違って、子どもの混乱はとても減ったのです。そして、ふたりの間に通用する絵カードを数枚用意しました。スプーンとフォークの絵のついた「ごはん」カード、ほうきの絵の「そうじ」カード、便器の絵の「トイレ」カードなどです。最初は、わたしがポケットからそのカードを出して「トイレに行きますか」「これからご飯です」「そうじをしましょう」と声かけをしていました。それが習慣化してきたら、子どもは自分からわたしのポケットを探りカードを出すようになりました。トイレに行きたいときは「トイレ」カードを、おなかがすいたときには「ごはん」カードを。
学校での生活がこのようなかたちで安定してくると、家庭でも食事や睡眠のバランスがとれて、心身ともに落ち着いた日常生活に結びつくことを、家庭からの連絡帳情報で知りました。互いにわかりあいたいというのは、教育に限らず、ひととひとが生きていくうえでの基本的なスタンスです。そんな当たり前のことを、成長していく子どもに教えられています。
5293.10/11/2005
特学レポート〜秋-19-〜
怒ったり、泣いたり、笑ったりという情動に関する部分は脳の中枢部分が担当していると聞きます。
本能や感覚に近い部分なので、生命の維持や危険の回避と関係しているのでしょう。反対に、怒りを抑制したり、悲しみを忘れたりするのを担当しているのは、おでこあたりの前頭前野と呼ばれている部分が担当しています。これは脳の進化の過程では、人類の誕生とともに大きくなってきた部分です。理性をつかさどるとも言われています。
昨今、テレビゲームのやりすぎで、前頭前野がじゅぶんに育たない子どもたちが問題になってきています。ゲーム脳といいますが、これには異論もかなりあります。テレビゲームとゲーム脳の因果関係はわかりませんが、前頭前野が機能しにくいと、感情を抑制しにくいというのは事実のようです。
自閉的な傾向ではなく、特学には全般的な遅れと呼ばれる知的障害の子どもも入級しています。全般的な遅れは、脳のある部分だけの問題ではなく、定型発達に比べて成長がゆっくりだったり、成長しにくい部分があったりする状態です。当然ですが、前頭前野のように、脳の進化の過程で新しくできてきた部分はうまく分化できていません。結果として、我慢ができなかったり、暴力的に見える行動をとったり、混乱するとものにぶつかったり、ものを投げたり、物事に集中できなかったりします。これらは、幼児にはよく見られる傾向です。だから、全般的な遅れの発見は幼児期には難しくなります。単純に言葉の遅れとは一致しません。発語ができない子どもでも、全般的な遅れは見られないケースもあるからです。
全般的な遅れをもつ子どもは、怒りや悲しみを表現する手段を獲得します。その多くは親の影響です。とくに、家や自家用車のなかでの親の言葉や仕草を学習します。夫婦が言い合いをした言葉をそっくり日常生活で自分の怒りを表現するときに再現することは珍しくありません。このような子どもには、安定した環境が必要です。しかったり、注意をしても、理性でコントロールしにくいので、なぜしかられているのかとか、なにをちゅうししなければいけないのかが記憶されにくく、その場では従順になっても、また同じことを繰り返してしまうのです。なるべく混乱を招かないように配慮しながらも、混乱に陥ったときや、そこへ向かいそうなときは、よけいな挑発をしないことが大事です。板やカーテンなどで仕切られた空間を用意して、少しの時間をそこで過ごさせると、混乱がしずまり、安定した表情に戻ることがあるからです。
5292.10/09/2005
特学レポート〜秋-18-〜
金曜日にみかん狩りの下見に行きました。
来月、ほかの小学校の特学と合同で行きます。柑橘園は大磯から山北方面に向かう途中にありました。下校時刻を早め、2時頃に出発しましたが戻って来たら、勤務時間を過ぎていました。途中で休憩しないで往復しましたが平日とはいえ、湘南は道路が混んでいます。遠足や社会見学などの校外行事は実施前に所轄庁への届け出が必要です。小学校の所轄庁は市町村教育委員会です。校長の許認可事項ではありません。みかん狩りには来月の中旬に行くので、この時期に行かないと計画立案が作れません。
柑橘園へは引率する教員全員で行きます。遠方の場合は代表でだれかが行くのですが、日帰りの行事は関係者が全員で下見をするのが原則です。現場で打ちあわせをすることが多いので、だれかだけが行くと戻ってきてから状況の説明などでかえってよけいな時間がかかってしまいます。柑橘園ではみかん狩りをします。みかんはこれから早稲品種が結実するそうです。もういくつかは黄色い実をつけていました。その場で味見をさせてくれました。果肉がはじけんばかりでとてもおいしかったです。みかん狩りに行く11月中旬から下旬にかけては、ふじなかという品種が食べごろになるそうです。ふじなかの畑は2つあって、柑橘園の方が車で案内してくれました。いったいいくつの山をもっているんだろうと思うほど、広い農園でした。バスを降りてから、農園までの道のりや、近くで弁当を食べるところなど、子どもの姿を思い浮かべてどちらにするかを考えました。ほかの学校もいっしょなので、それぞれの学校の子どもの様子を情報交換しながら場所を決めます。めったやたらにみかんをもがないように、どんな段取りでみかん狩りをするのかも相談しました。
終わってから農園でとれた栗のしぶかわ煮とゆで落花生をいただきました。案内してくれた奥さんが、お料理が得意なようで、手作りのおやつをごちそうしてくれたのです。
5291.10/08/2005
特学レポート〜秋-17-〜
運動会が終わってからおもしろいことがありました。
特学の朝の運動で、校庭を歩いたり走ったりしていたら、数人の子どもがまだ徒競走のラインが残っている校庭で「よーい・どーん」をしていたのです。
運動会のときのことを思い出して、懐かしみ、遊んでいるのではなく、きっと「いま」徒競走のラインの意味が学習できて、自分にはできると自信をもち、走る気持ちになったのだと思います。わたしの勤務する学校には、通常級の子どもたちが500人前後もいますが、運動会が終わってから、校庭に残る徒競走のセパレートコースを使って自主的にかけっこをする子どもはおそらくいないでしょう。もうほとんどの子どもには、運動会は過去のものとなり、そこで自分がなにかをつかんだという自覚もないままに、次の活動に目線を向けているのです。
しかし、特学の子どものなかには、学んだことをとてもゆっくりですが、確実に自分のものにしていく子どもが少なくありません。音楽の時間にはちっとも歌わずに、数週間後に家で思い出したように歌い出し、保護者から教えられることはよくあります。だから、いま目の前ですぐにできていなくても、わたしには焦る気持ちはありません。しっかり見ているし、しっかり聞いているし、きっと楽しければこころに残るだろうと信じています。
おそらく徒競走のコースを見た瞬間に、「そーだ、ここで走ればいいんだ」という考えがピカーンとひらめいたのでしょう。たくさんのひとのなかでは、どこに集中していいかがわからずに足元のコースなど視野に入らなかったのかもしれません。その段階では、まだ徒競走自体が飲み込めていなかったのかもしれません。でも、1時間目の校庭には特学の子どもしかいない、とても広い校庭を独占でき、久しぶりの晴れ間に空気も気持ちいい、そんな環境のなかで、ふと足元を見たら線が引いてある。よしここを走ろう。そんな気持ちになったのでしょう。教育の世界では、指導したことを、子どもが自分の力で再現できたとき、学習効果があったと判断します。わたしは、偶然にできてしまうことがあるので、同じことを三度以上自分の力で再現できたときという基準を設け、そのようなとき学習が定着したと判断しています。多くの場合、学習効果は指導した時点からの経過時間とともに減少していきます。つまり忘れてしまいます。だから、テストなどで再現実験をするときは、指導した時点から経過時間が少ない段階で実施しないと効果がはかれません。しかし、すぐに再現できなくても、時間の経過とともに確実に学習を自分のものにしていく特学の子どもを見ていると、これまでの学習効果という考え方を根本から考え直さなければいけないと思えてきます。
5290.10/05/2005
特学レポート〜秋-16-〜
運動会には得点に関係のないダンスや組体操などの演技があります。
これに特学の子どもを乗せていくことは練習中から至難の業だと思っていました。
きっと参加している多くの子どもたちも、あまり積極的ではないと思います。特学担当として、子どもといっしょに練習してみて、多くの子どものつぶやきを耳にしました。「またかよー」「まだやるの?」何度も続く同じ練習に、そんな声をたくさん聞いたからです。でも、明らかに反発したら教師の怒りを買うことを知っているので、じっと我慢していました。思ったままを素直に表現できないことは生きにくいものです。ストレスになって、まったく別の場面で発散されます。どこにストレスの原因があったかにおとなが気づくのはずっと後になってからです。だから、練習中は「あーいまストレス誕生の瞬間に立ちあっている」と感じました。
特学の子どもは、いやなものや不快なものに直面したとき、我慢するという発想をあまりもっていません。逃げる・怒る・混乱するなどの反発行動を示します。そんなとき、その原因を探り、そこから子どもを解除し、安定した行動が取れるように支援します。ダンスの練習中、逃げたり怒ったりしても子どもを追い詰めなかったので、本番では音楽にあわせて自由に楽しそうに体を動かしていました。決められたとおりぴったりの動きはしませんが、表現活動の本質を考えたときは、体を自由に動かしていることのほうが楽しさに近づくのではないかと思いました。
やっかいなのが、隊形移動です。音楽の途中で踊る場所を大きく移動するのです。そんなとき、自分だけではうまく動けない子どもたちを、交流級の子どもたちが「こっち」「ここだよ」とサポートしていたのが印象に残っています。
5289.10/05/2005
特学レポート〜秋-15-〜
最初の種目は徒競走でした。
直線の長いセパレートコースを走ります。その学年には特学から3人の子どもが出場します。わたしは、スタート位置で3人が自分の順番とコースに並べるように支援します。コースの途中には、ほかの子どもに付き添いながら、もしも徒競走の途中で走るのをやめてしまったときのために別の教員が待機します。さらにゴール地点には走ってくる子どもを迎える教員が待機します。ひとつの種目に3人の教員がかかわります。その学年はスタートの合図が、火薬をパーンと慣らす雷管(いわゆるピストル)だったので、待機しているときに、ほかのレースの音が子どもの耳に入ります。突然の大きな音が苦手な子どもたちなので、わたしは耳当てを用意したり、直接わたしの手で耳をふさいだりして子どもの順番が来るのを待ちました。
運動会の前には練習があります。この子どもたちも練習に参加しました。しかし、練習のときと同じように本番を乗り切るかどうかはわかりません。練習のときは、コースに応援の方や大きなBGMが流れていたわけではないので、本番と練習の環境が違うからです。指導する教員にとっては本番につながる練習のつもりでも、3人の子どもたちにとっては本番とは違う練習なのです。その違いを練習のときに想像力で埋めることができるのは、きっと徒競走をする多くの子どものほんの少数なのではないかと思いました。
3人はそれぞれに走り方に違う特徴があります。
最初に走る子どもは、ゴールへの見通しがつけば自分の行動が理解でき、マイペースで完走できる子どもです。しかし、ゴールは視界のはるか彼方です。練習のときと違って、ゴールテープの向こうにはカメラを構えたおとなたちが山盛りになっていて、ゴールへの見通しがつかない状況になっていました。「このコースを走ります。途中にA先生がいます。最後にB先生がいます。B先生のいるところまで走ります」。スタートが近づく子どもに行動の道筋を教えます。「途中にA先生、最後にB先生」。子どもは何度か小さな声で復唱していました。途中、B先生を発見して少し止まりかけましたが、なんとかゴールまで完走しました。
次に走る子どもは、意欲の持続が短時間です。そのため走りきる前にやる気をなくしてしまわないかどうかが心配でした。やる気をなくすと、それ以上、どんなに声かけをしても動きません。去年はゴール手前でやる気をなくし、コースにひっくり返ってしまったそうです。ことしは練習のときから確実にゴールインしていたので少し安心はしていました。スタートしてから半分を過ぎても走力は落ちません。結局、ゴールインまで全力で駆け抜けました。ゴールした後に、自分の順位が最下位だったことを悔やみひっくり返っていましたが、そんな感情の表し方ができるのは大切なことなので、問題には感じませんでした。
最後に走る子どもは、パニックに陥ると前後関係の判断がしにくくなります。そのためあらぬ方向に突撃していく可能性がありました。運動性は高い子どもなので、走ることへの心配はありませんでしたが「大丈夫かい?」と聞いたら「パパ、いるかな?」と、早くも気持ちが不安定になっていました。「OK、パパはあそこのゴールのところにいるから」。本当にいるかどうかはわかりませんでしたが、きっと子どものゴールを間近で見たいだろうと判断しました。あやふやな答えを返したら、その子どもはもっと混乱してしまうのです。
5288.10/04/2005
特学レポート〜秋-14-〜
ほかの学年と特学の子どもたちの昇降口が同じなので、予定された時間よりも早めに動きます。上履きを脱いで外履きを履く一連の動きに手間取る子どももいるからです。ゆっくり自分のペースで靴の履き替えをしているところにほかの学年の子どもたちがたくさん同時に来たら、倒され、つぶされてしまうでしょう。とくにいつもと違い椅子を持って移動しているので、時差をつけた行動は必要でした。配慮のかいあって、全員無事に最初の関門を通過し、校庭で各応援席にわかれました。
子どもたちは、各学年の応援席にいすを置く子どもと、特学専用の応援席にいすを置く子どもとに分かれます。どちらがよいとか、すぐれているという基準で分けているのではありません。各自の特徴を考慮したとき、大勢のなかでも流れに乗ることができるか、大きな音や突然の予定変更に対処しにくく計画通りを大事にするかで座席を決めました。各学年の応援席に行った子どもにも、教員や介助員などのスタッフは付き添えるように分担をしています。
全校の子どもがいすを持って校庭に集まり、入場行進の隊形に移動したとき、最初のハプニングが起こります。ひとりの子どもが、それ以前から体調を崩していたことも起因して、運動会への参加をしぶり、保健室待機になったのです。担任が本人と相談し、最初から参加しなくていいこと・応援合戦になったら呼びに行くのでそのときにどうするかもう一度相談することを確認しました。その子どもは去年も運動会を経験し、急に運動会のつらかった記憶がよみがえったのでしょう。こんなとき、通常級だったらどうなったでしょうか。担任はそんな子どもの内なる声に耳を傾けてくれるのでしょうか。
入場行進も開会式も、特学の子どもにとってはなにをやっているのかつかみにくいことです。それは、ほかの多くの子どもにとっても同じことだと思います。セレモニーとして必要なプログラムだったとしたら、なるべく簡素化したらいいのになと思いました。開会式から応援合戦までわたしが担当したのは同じ学年の2人の子どもです。ひとりは全般的な遅れのある子どもで、もうひとりは自閉的傾向の強い子どもです。校庭の真ん中に長い時間立っていると、自分の居場所が確認できなくなって、ふらふらとさまよい始めます。わたしは地面に靴で円を描いて「おうち」にしました。「はい、このなかにいようね」。すると2人とも安心して、円の中で次の行動を待つことができました。この「おうち」作戦は練習のときからやっていて、よく見たらほかの子どもたちもまねをして、自分で円を描いて、そのなかにいる子どももいました。
5287.10/03/2005
特学レポート〜秋-13-〜
1日、好天のもと、運動会が行われました。
朝から夕方まで青空が校庭をつつみ、吹き抜ける風が万国旗をゆらす、典型的な運動会の風景です。
9月は体育の時間に、各学年の運動会の練習に子どもたちを送りながら、はたしてこの子どもたちにとって運動会ってなんだろうと考えました。なぜ、たくさん待たされてちょっとしか走らない徒競走があるのか、自分で選択したわけではない音楽にあわせて何度も怒られながらダンスをしなけらばならないのか、チームという概念が形成されにくいのにフレーフレーという応援の練習には意味はあるのか、などなど。数え上げたらきりがありません。
それでもきっと応援や見学に来られるひとたちの多くは、子どもたちの一生懸命な姿や一糸乱れぬ姿を期待し、運動会とはそういうもんだと想像しているだろうから、それに反するような行動はできないと自戒しながらの出勤でした。わたしの勤務する小学校の特学には、自閉的な傾向の強い子どもと、全般的な遅れの子どもがいます。両者の特徴は根本的には違いますが、似ているのは自然的な欲求に基づいて行動することがあげられます。つまり、心地いい状態ならば安定し、危険や恐怖を感じる状態ならば不安定になるのです。危険や恐怖に直面したときに回避する情報の整理が苦手なので、内面で気を紛らすとかほかのことを考えるとか物事の全体をとらえようとするということがしにくのです。だから、大きな物音に不安にならないように耳当てを用意したり、スタッフがたえずサポートできる体制を組んだりしました。学校全体にも雷管による出発を控えて、笛など衝撃音の少ない出発の工夫をお願いし、いくつかの種目では取り入れてもらえました。練習時にデジカメで写真撮影をし、並びの前後左右の子どもの写真を見せたり、ダンスの隊形を教えたりもしました。運動会の内容は、言葉での情報としては伝わりにくい内容だからです。
8時過ぎ、いつものように子どもたちが特学の教室に三々五々登校します。学区外から登校している家庭では兄弟姉妹が同じ日に運動会が重なってお父さんとお母さんで分担している家庭もありました。「じゃあ、すぐに体操服に着替えましょう」「えーなんでー」。いつもは朝の会をやって朝の運動の前に体操服に着替えるのですが、きょうは朝の会をしてからでは体操服に着替える時間が確保されないので、早めの行動にしました。そんないつもとちょっと違う変更が、不安な要素を増長させてしまうのです。
5286.09/29/2005
特学レポート〜秋-12-〜
春から半年が過ぎました。
わずかな時間が経過しただけですが、指導や支援をグイグイ受け止めて、半年前に比べてできるようになったことがたくさん増えた子どもがいます。
子どもの中には、教育活動の醍醐味を感じてしまう成長著しい子どもがいます。これは、特学に限った傾向ではありません。このような子どもの多くは、成長の過程で周囲から無理な押し付けをされてきていません。生活態度ではなく、文字や計算など知識・記憶に関する部分で、本人の能力を超えたやらされを経験していないのです。5歳とか6歳の就学年齢の子どもは、親への信頼感が強く、親の指示を絶対のものとして受け止める傾向があります。だから、小学校に入学する前や入学してすぐの時期に、過度の繰り返し学習や、条件付学習をすると、指示には従うのですが、数年後に学習への興味や意欲を示さなくなってしまいます。
繰り返し学習とは、同じ文字や数字を何回も繰り返し読んだり書いたりする学習です。ドリルテキストを活用します。過度にドリルをすると、子どもに学習の意味が伝わらず、知識を記憶し必要なときに使うという学習効果は低下します。条件付学習とは、これができたら褒美をあげる、あるいはこれができなきゃ許さないという条件を提示しながら学習を進める方法です。過度に条件付学習をすると、子どもは学習の目的が褒美をくれる存在との従属関係の維持になり、生きるための学習への興味をもたなくなります。これができたらなにをくれるの?という態度が目立つようになります。
このやり方が通用する時期はとても短いです。子どもの自我が成長し、いやなもの・不快なものを拒絶できるようになると、多くの場合、学習そのものを拒絶する態度を示します。こうなると、せっかくつけた学力も低下します。文字や計算のテキストを見ただけで、抑圧的な記憶がよみがえり、感覚的に拒絶してしまうのです。
逆に、学習よりも情緒的な安定を優先した親子関係を築いてきた場合、学習への気持ちが新鮮なので、できないことができるようになる驚きと喜びを感受しやすくなるのです。このケースでは、小さな積み重ねがある日大きな飛躍へとつながることが珍しくありません。
5285.09/28/2005
特学レポート〜秋-11-〜
その翌日もスウェーデン刺繍は続きます。
今度は意図的にマーキングをわたしがしないで様子を観察しました。鼻歌を歌いながら刺繍張りを布地に通していきます。きっと内面が安定してるのでしょう。幾針か縫った後でマークのないところにきました。いつものマーカーペンを持ちました。でも、布を見ながらキャップをとろうとはしません。
「もしも、マークをつけなくても縫えるのなら、マークをつけなくてもいいよ」
小さな声で話しかけました。耳への刺激を最大限に抑えることは、気持ちの安定を長引かせます。その子どもは、わたしの伝えようとしたことがわかったのか、小さくうなずき、ペンをテーブルに戻します。そして、針を持つと、マークのついていない布地にどんどん刺繍を始めました。いままで直線縫いのときを除いて、マークを頼りに刺繍をしていたので、わたしは成長ぶりに驚きました。
こういう成長は多くのひとに喜んでほしくなります。とくに保護者には喜んでほしいのですが、あえてそのことを保護者に伝えないこともあります。保護者のなかには、成長を喜ぶのではなく、やっとほかの子どもに追いついたと受け止めるひとがいるからです。これでは子どもはいつまで経っても満たされません。ひとつハードルをクリアすると、次のハードルが目前に迫って、ゆっくりの歩みが許されないのでは、ほめてもらいたい気持ちがなえてしまうでしょう。
新しいことが苦手で、見通しが立たない行動に対して慎重になる傾向が強い子どもにとって、同じパターンの繰り返しとはいえ、マークのない布を手にして針で糸を通していくのは至難の業です。春先からの半年で、その一線を乗り越えたのは時間的にはとても早い部類に入ります。同じことを一年以上繰り返し、二年目以降に去年と違う行動が見られたらいいと考えていたので、だいぶ計画が縮小しました。
5284.09/27/2005
特学レポート〜秋-10-〜
脳のはたらきが凝縮されている運動に、手指機能があります。
10本の指を複雑に動かす手指機能は、神経の伝達経路を確実にし、さらに強化する可能性があります。特学では午後の授業に手指機能の向上を目指した課題学習を取り入れています。さまざまな内容があると思いますが、わたしが勤務する特学ではおもに刺繍や刺し子を行っています。そのなかで、わたしの担当はスウェーデン刺繍という特殊な布地の表面を縫っていく方法の刺繍です。表面を縫うので、針も特殊な形状です。先端が少し曲がっていて、縫いやすいようになっています。
今年度からスウェーデン刺繍を始めた子どもがいます。初めてですが、最初からやり方をマスターし、課題の時間には自分から布地と針を持ってくるほど積極的な子どもです。最初のうちは、直線を中心に縫っていましたが、それらを一通り終えてからは、デザインを意識した作品に取り掛かっています。直線ではないので、縫い目をマークしてあげます。子どもはそれに従って、どこに針を通せばいいのかを確認します。10個ぐらいのマークをつけ、それにしたがって縫う→さらに10個ぐらいのマークをつけ、それにしたがって縫うという繰り返しです。基本的には同じパターンの繰り返しなので、慣れてしまうと、マークをつけなくても縫い目が見えてきます。しかし、細かい布地なので本当に縫い目があっているかどうかという不安はつきまといます。自閉的な傾向の強い子どもなので、自分からマークのない布地に針を通すことはありません。それはとても勇気の必要なことで、不安定要因を増大させます。パターンがわかっていても、ルーティンを終えると次のマーキングを求めます。
きょうは複数の子どもの課題学習を支援していたので、その子どもがルーティンを終え、次のマーキングを待っていることに気づきませんでした。すると、テーブルに置いてあったペンをとり、キャップを開けて、自分でマークをつけたのです。たまたまほかの子どもの支援をしながら、その瞬間を発見したので、偶然かもしれないと思いました。マークしてある場所が正しかったので、両手で大きな○を作り「まる」といいました。その子どもにとって「まる」は、OKという意味です。すると、次からはマークの数が2つになりました。ひとつひとつマークをつけて縫うよりも、複数まとめてつけるほうがやりやすいことに気づいたのです。いままでの歩みがゆっくりだったので、きょうの育ちはとても勢いを感じてびっくりしました。
5283.09/26/2005
特学レポート〜秋-9-〜
朝の天気予報で全国各地の予報をしています。わたしは東京や横浜の予報をチェックします。目にも耳にもほかの地域の予報が入ってきます。でもそれらはわたしの記憶には残りません。同じ情報を同時に得ても、取捨選別を無意識のうちにしているのでしょう。これは脳のはたらきです。東京や横浜の予報をチェックしたわたしは、その日の夕方までには、その記憶さえも忘れてしまいます。もう必要ない情報として、おもに前頭前野が記憶を消去します。
このように一時期だけ記憶することを一時記憶とか短期記憶といいます。長期に渡って情報を蓄積し忘れないようにするのは、海馬という部分が担当しますが、必要に応じて忘れたり、短期間だけ覚えたりするのは、前頭前野が担当しています。似たような機能ですが、担当している部分が違います。もしもきょうの東京や横浜の天気予報をわたしがあしたもあさってもずっと覚え続け、突然思い出していたら、いったいそれはいつの予報だったのかわからなくなり混乱します。短期記憶がうまく機能しないと、とても生きづらい日常に直面するのです。
特学で、わたしはそんな子どもたちのために行程(スケジュール)を項目ごとに示すようにしています。メモ用紙に「1:洋服を脱ぎます 2:体操服に着替えます 3:洋服をしまいます」と書き、子どもの視覚に行動の流れとゴールを入れます。行動の途中で、やっていることを忘れたり、ほかのことに気持ちが向いてしまったら「1」とか「2」といっていまの行動を促します。何をすべきかがわかり、どこまでいけばおしまいかがわかると、注意力が散漫になりにくいのです。また、この繰り返しは習慣化し、短期記憶が少しずつ形成されていくように感じています。給食の時間前になると、いますぐにでも食べたくなって混乱していた子どもがいます。その子どもに、12時30分になった時計の写真を撮影し、メモといっしょに見せることを繰り返したら、混乱が生じにくくなりました。いまなにをすべきで、いつになったら給食が始まるかがわかったのでしょう。それを「待ちましょう」「まだです」だけの指示にしてしまうと、いつまで待ったらいいのかがわからず見通しが立たずに内面が崩れてしまいます。こういった指導はだれにでも有効なことのように感じます。指導者が子どもの特性を理解するのは、もちろんのことですが、だれにでも通用する安心切符を発行することも大事なことだと思います。
5282.09/25/2005
特学レポート〜秋-8-〜
先日、湘南に新しい公立学校を創り出す会の定例会に見学者が来ました。
定例会は1997年の発足から毎月開催している会議で、もうすぐ100回を数えます。継続は力なりといいますが、いったいどんな力が蓄えられてきたのか本人にはわからないものなのかもしれません。理事や活動の中心を担うひとたちが集まり、経過を確認し活動の検討を行うのが定例会です。だから、わたしたちの活動を知りたいひとが参加すると活動の現状を知るのにはいい機会です。だれでも参加でき、参加者は自由に発言もできます。
今回の見学者は、赤羽にお住まいの方でした。湘南新宿ラインを使って藤沢まで来られたそうです。とはいっても、(仮に)Yさん(としましょう)は、湘南地区でNPO法人を主宰し、藤沢市内の公立中学校で選択教科の非常勤講師もしています。ずいぶん離れた距離での活動ですが、藤沢での活動が定着してきたら、引越しも考えているそうです。
Yさんが主宰しているNPO法人は「ことばのあとりえ」と言います。青少年の表現活動を支援することを目的に作られた組織です。しかし、最近、活動に参加する中学生や高校生の多くがリストカットやうつ病などで苦しむ子どもたちになり、表現活動以前に支援することが増えてきたので、事業の方向性を再検討しているそうです。そんななか、わたしたちの活動をネットを通じて知り、コンタクトをとってくださいました。いわゆる不登校になった子どもではなく、とりあえず登校はしているけど、ぎりぎりのところで登校しているので、いつ不登校になってもおかしくない子どもたちをなんとかしたいという思いが強いそうです。いままで不登校対策に取り組む方々とは出会ってきましたが、このようなところに着眼したひととは出会ってきませんでした。だから、考え方が新鮮で、興味をもちました。本来、教員が担当すべきことを、学校にも教員にもその機能が期待できない状況がYさんのような志をもった方を育んだのかもしれません。
いつ不登校になってもおかしくない子どもたち。そのなかには、自分を追い詰める子どもが少なくありません。試験の結果が悪い、みんなと同じ行動がとれない、教員の説明が理解できない、勉強に集中できない……。それらをすべて一身に受け止めて、自己否定への階段を上ってしまうのです。なぜ、自己否定するような要因をかかえこむのかという冷静な視点をもったおとながいないと、そういった子どもたちは増え続けるのでしょう。少なくとも、いまのわたしの仕事は、子どもができないのは、指導する者が子どもに無理をさせているからというのが、指導者どうしで共有しあえています。
5281.09/24/2005
特学レポート〜秋-7-〜
来週に運動会が迫ってきました。きょうは朝から雨です。台風17号が関東地方にも迫っています。この雨は秋雨前線の影響のようですが、週間予報だと運動会のある来週末にも傘マークがついていて心配です。
いま運動会当日に向け、特学スタッフ(教員と介助員)5人の行動表を作成しています。広い運動場で自分の位置関係が把握しにくい子どもたちなので、特学スタッフは完全付添を実行します。また、種目に出場している子どもだけでなく、見学している子どもや種目に出場するために待機する子どもにもスタッフの配置が必要です。現場あわせではできない理由があります。それは、子どもたちが各交流級の座席に分かれるからです。離れ離れに座るため、あらかじめスタッフはいつ・だれの担当なのかを知っておかなければなりません。特学専用の座席もあります。混在する大きな音や流れが見えにくい交流級での待機が混乱を助長すると思われる子どもは気持ちの安定を確保するために特学専用の座席に待機させます。
全部で10人の子どもが6学年に分かれているので、すでに物理的に5人のスタッフでは対応できないところがあります。そこは担任や交流級の子どもにお願いします。運動会の一日を5人のスタッフがプログラムにあわせて担当する仕事や子どもをバトンタッチしながら動き回る行動表を作成しているのです。介助員さんは、おもに応援席で待機する子どもの担当です。運動会の練習へは教員が参加していたので、待機場所や種目の動きがわかっていない介助員さんをまわすわけにはいきません。いま校庭で種目が行われている子どもにつく教員、次の種目の準備で待機している子どもにつく教員、その次の種目の準備で待機している子どもにつく教員、座席で待機している子どもにつく介助員というパターンです。また、徒競走のように自分のコースが決められていて、全体の流れに乗れない種目の場合は、スタート位置の担当とゴール位置の担当とにわかれます。送り出す仕事と、ゴールを示す仕事を同時に行うことはできないからです。
5280.09/23/2005
特学レポート〜秋-6-〜
仮に、ダンスなどの非得点種目に関して、特学だけで演技を練習して発表したとします。実際、音楽の時間に「ひょっこりひょうたん島」のダンスをみんなで踊っているのですが、どの子どもも各自のリズムと動きやすさにあわせて、楽しそうに踊っています。それを運動会という大舞台で発表してもいいと思うのですが、もしもそういうことをしたら、「特学の子どもはほかの子どもとはいっしょにできないから」「ほかの子どもたちのダンスに強制的に参加させていない」「分離させるのはおかしい」「見世物にしている」などの声が寄せられるそうです。
かたち(見栄え)ばかりを優先し、見た目に多くの子どものなかにいればいいという考え方に立てば、あえて特学の子どもたちを取り出して際立たせる必要は生じません。特学の子どもたちも、ほかの多くの子どもたちの動きにあわせて流れに乗っていればいいという結論に達します。しかし、ほかの子どもたちにあわせて流れに乗ることができれば、きっと保護者はわが子を通常級に入れるわけですから、相当の無理をわたしたち教員が子どもに強いなければなりません。
そもそも運動会は勝敗を競うわけですから、弱い立場の子どもへの配慮が少ない行事です。何十年も昔から、日本の学校では一大イベントになっているので、日本の地域社会は何十年も昔から、強い者をたたえる行事を肯定する風土をもっているのでしょう。弱い立場の声なき声は、強い立場の耳には届かないのです。自閉的な傾向の強い子どもは、大きな音や突然の音に敏感です。スタートの合図の雷管やマイクの大音量、背景のBGMなど、混乱を助長する要因にあふれる運動会当日は苦痛の一日になるだろうと想像できます。特学では、飛行場で作業員が防音用につける耳あてを買いました。混乱を助長させないように、無駄な音を排除します。ひとりひとりの支援体制をはっきりさせ、各自が困ったときにすぐ対応できるようにします。それでも、果たして子どもにとって運動会は楽しい行事になるのかという疑問は残り続けます。
幸い、練習のときに見ていると、列の隣りの子どもや同じチームの子どもが、特学の子どもに声をかけ、行動を促す場面が少なからず見られます。わたしから頼んだわけではないのに、自主的にサポートしてくれるのはとてもありがたいことです。
5279.09/22/2005
特学レポート〜秋-5-〜
もうすぐ9月が終わります。
今月は学校全体で運動会の練習が続いています。特学の子どもたちは、それぞれの学年の種目に出るので、毎時間、だれかが学年の練習に出なければなりません。そこには特学の教員も付き添うので、特学での学習支援体制は手薄になります。たとえば、わたしが運動会の練習に出るとしたら、本来その時間にわたしが指導している子どもの学習内容を、別のひとに引き継がなければなりません。通常級のように、自習というわけにはいかないからです。そのため、9月の学習予定を検討するミーティングは、ほかの月のミーティングよりもずっと時間がかかりました。わたしにとっては初めての経験なので、来年以降は、効率的にできるところは改善したいと思いました。
学年の練習に参加すると、教員の説明がマイクを通して行われるのですが、ほぼすべて声(音声)によるものオンリーなので、特学での指導スタイルと違います。耳からの情報を整理しにくい特徴の子どもたちなので、そのたびに写真を撮影したり、メモにしたりして、視覚的に子どもたちに情報を翻訳します。それは、きっとほかの多くの子どもにも伝わりやすいことだと思います。マイクを通した声は、聞き取りにくいのに、「いまの説明がわかったひと?」と教員が聞くと、明らかに聞いてなんかいなかった子どもまでもが「ハーイ」と手を挙げます。そうやって、聞いた振りをすることで子どもは担任との距離をうまくとっているのでしょうが、教育的効果はあまりないなぁと感じます。
また、練習の始まりと終わりがはっきりしていないことも多く、そうなると当然ですが練習の流れが説明されることは期待できません。自閉的な傾向の強い子どもにとっては、学習の流れがわからないことは不安定要素を増大させる決定打です。自閉的傾向はだれにもある傾向なので、きっと特学の子どもだけでなく、多くの子どもが不安な気持ちを抱えたまま、練習に参加しているのだろうと思います。でも、荒れたり、逃げたりしないのは、不安な気持ちがあっても、それを表出すると注意されることを知っているからです。注意されたくないから、我慢している姿は、教育というよりも、調教という言葉が似合います。
このようなかたちで、特学の子どもたちが学年の種目に参加していくことに、どんな意味があるのだろうと、練習のたびに感じます。個人の伸びを大事にしたら、特学の子どもは特学の子どもだけで参加するほうがいいとも思いました。でも、それは難しいことだと、障害児教育を長く担当している方から教えられました。
5278.09/21/2005
特学レポート〜秋-4-〜
カタカナのマッチング教材は、特学のすべての子どもに必要なわけではありません。
いまわたしが担任している子どもに必要な教材です。
1学期には、○と○、△と△のようなかたちのマッチングを学習してきました。左右に並べてあるかたちを見て、同じかたちどうしを線で結ぶ学習です。その学習は、やり方を子どもがマスターしていたので、かたちでなくても大丈夫だろうとは思っていました。しかし、文字のように線の連なりに興味をもつかどうかが不安だったのです。しかし、2学期が始まってすぐの段階で、わたしがやってみせていたら、自分からスケッチブックをもち、やり出そうとしたので、その場でやり方を教えたら、どんどん自分で学習するようになりました。
文字の学習には、目的に応じて多くの教材があります。言葉の書いてあるカードを専用の機械に通すと、文字の読み方を音声で表現する機械があります。これは、音と文字のマッチングを目的にしています。文字を見て音を耳からの情報として脳に送り、文字を見ただけで音を想像できるようにします。発展すると、音を聞きながら、自分でも発音してみる段階へとステップアップします。発音するには、口や顎の発達が重要な役割を果たしますが、まずは頭のなかで文字を音を一致させるところからスタートするのです。マーカーペンで何度も文字を書いたり消したりできるカードもあります。ひとつのカードで、ひとつの文字に対応しているのですが、小さなイラストがついていて、その文字がイラストと関係していることを認識させていきます。この学習は、文字と音がマッチングできていないと、ただ線をなぞっているだけなので意味がありません。
文字言語の獲得は、成長するのに必要な能力ですが、子どもたちひとりひとりにマッチした教材はなかなか用意されていません。本屋でもドリル教材はたくさん販売していますが、子どもにあう教材を探す親であふれているのが、それを証明しています。また、教材はいっしょに指導するリーダーの役目も重要になります。教材だけ与えて、子どもが自分だけで学習を進めていくには限界があるのです。テキストを与えて、自分はほかのことをしているひとは、子どもがどんなところでつまずき、その子ども固有のものの考え方を見逃してしまいます。
5277.09/19/2005
特学レポート〜秋-3-〜
夏休み中はわたしたちにとっては勤務日です。自身の休暇を使えば子どもと同じに休むことになりますが、夏休みをとっているわけではありません。
わたしは出勤した7月後半から8月上旬にかけて、2学期に使う教材を作りました。
大きなスケッチブック一冊を使います。7月に教育センターの心理療法士のUさんに教育相談に行ったとき、文字を読む学習で有効な手立てを教えてもらったので、それを教材化しようと思ったのです。言葉をしゃべるということと文字を読むというのは、まったく別の能力です。また文字を読むというのと文字を書くというのも、似ているところもありますが、使う能力は違います。しかし、いまの学習指導要領では、これらは一体のものとして扱われています。読むことはできても書くのが苦手な子どもはたくさんいます。そんな子どもに劣等感を持たせるだけなのに、なかなか改善されません。しかし、そこは特学。子どもに適した学習計画を作ることが認められているので、文字を読むことに特化した教材を堂々と作ることができました。
スケッチブックの一ページに画用紙でポケットを5つ作ります。それぞれにカタカナで「アイウエオ」と表示します。各ポケットには、小さなカードが入っています。そこにはやはりカタカナで「アイウエオ」と書いてあります。つまり「ア」のカードを「ア」のポケットに入れていく学習に使うのです。ページをめくると、「カキクケコ」「ガギグゲゴ」。同様に五十音全部と、「キャキュキョ」などあらゆる音を全部網羅したらスケッチブック一冊になってしまったのです。子どもは、それぞれのページをめくり、ポケットからカードを抜き取り、グチャグチャにして、また同じ文字の書いてあるポケットに入れなおす活動を繰り返します。これはマッチングといって、同じものどうしをセットにする学習です。これにより、文字のかたちを認識し、ア行・カ行などのカテゴリーも意識していくようになります。最初の段階では文字を言わせる(音とのマッチング)必要なないとアドバイスされました。文字と文字をマッチングさせる学習に、音とのマッチングまで入れると、子どもは混乱するそうです。
日常的にはひらがなのほうが多いのですが、カタカナのほうが直線的で、子どもの視覚には意識しやすいので、カタカナから始めるようにとも教えられました。たしかに曲線がうねるひらがなは、違いが見分けにくいものも少なくありません。あとめ、わとれとね、めとぬなど、微妙な違いを見分けるのは、視覚と記憶の能力をフル活用しなければなりません。
教材を作ってはみたものの、果たして2学期が始まってから、これを子どもが有効に使ってくれるのか、とても不安がありました。
5276.09/17/2005
特学レポート〜秋-2-〜
2学期が始まってすぐ藤沢市内の公立小学校・公立中学校には激震が走りました。
市内北部の公立中学校で、登校中の生徒たちに、車のなかから消火剤がまかれ、60人以上が一次病院に運ばれる事件が発生したのです。学校や子どもをターゲットにした事件が全国で後を絶たないので、またかとも思いましたが、当該自治体にいると、それどころではないことを知りました。まず、第一報が教育委員会から各学校にファクシミリで届きます。あくまでも第一報なので詳細はわかりません。職員室のテレビがつけられ、全国ニュースで事件が報じられていることを知ります。犯人の自動車のナンバーが控えられていたので、犯人の行動情報が逐次ファクシミリで教育委員会から送られてきました。「そんなことがわかっているのなら、早く逮捕すればいいのに」と感じました。そして、犯人の乗った車が現在わたしが勤務する学校の近くを通ったという情報まで入ってきました。
じつは、これらの情報は校内ではほとんどの教職員が知っていたのかもしれませんが、わたしは放課後に職員室に戻るまで知りませんでした。職員室に戻ってから、ただならぬ様子から情報収集し、きっとこんなことだったのだろうと断片的な情報をつなげて理解しました。携帯電話には、危険を知らせるメールが届いていたのですが、それを知ったのも夕方です。
特学・特別指導学級では、担任が子どものそばを離れることはありません。子どもたちだけではなにもできないから、離れることができないのではありません。子どもたちに危険が迫るのを防ぎ、安心した学校生活を送ってもらうために、可能な限り、行動をともにしています。だから、保護者からの連絡帳に目を通し、返事を書くのも、のんびりひとりで別室でというわけにはいかず、右手にボールペン、左手におはじきをもって子どもの相手をしながら、風でめくれるページをひじで押さえてという感じです。気づくと、トイレに一回も行かなかったという日も少なくありません。そんな子どもとの生活は、わたしにはとてもハードでした。しかし、まだからだのなかに若さが残っているのか、時間とともに慣れてしまいました。それは、子どもがこちらを求める瞳に魅力を感じるからです。砂場で遊んでいても、ボールで遊んでいても、ときどきふっと周囲を見渡し、こちらを探します。近くにわたしがいることを確認すると、ふたたびそれまでの遊びを継続します。きっと自分の位置を確かめて、安心したいのだと思います。
5275.09/16/2005
特学レポート〜秋-1-〜
春は青葉の茂っていた教室前の大きなくるみに、大きな実がいくつもついてきました。ことしの夏は暑さと台風が印象に残るめりはりのある夏でした。教職員のなかにも、子どもたちのなかにも、結実するくるみに興味を持っているひとたちがたくさんいます。
夏休みを終えた特別指導学級の子どもたちは、身長が伸びて、たくましくなった印象です。だいぶ日焼けもして、引き締まったようにも見えます。子どもの成長は、おとなよりも劇的です。
夏休みという長い家庭での生活リズムを、9月1日から劇的に変化させていくとき、学校と家庭が似たような状況だと、特学の子どもたちは変化を意識しづらくなります。学校に来ているのに、家庭との違いを意識できないと、自分がなにをしたらいいのかわからずに困ってしまうのです。そのため、特学の担任たちと2学期の始まり方を相談しました。始業式は学校全体のことなので参加しますが、その後、教室に戻ってきてからは通常通りの学習にしました。ことしの2学期は1日が木曜日、2日が金曜日でした。2日間登校すれば週末の連休です。この2日間でいかに子どもたちに学校モードを意識づけするかが重要でした。2日は朝からいつものとおりの朝の運動を開始します。学校生活の始まりを、からだとこころに意識づけするために、晴れの日は校庭で、雨の日は室内のコモンスペースで運動をします。子どもたちは朝の会が終わった後、体操服に着替え朝の運動へと流れていきます。久しぶりの学校が、自分の記憶のなかにあるいつもの学校であることの確認がされれば子どもたちは乱れません。
通常級では、席替えや係り決め・教科書配布などで学期始めの2日間をやり過ごすのでしょう。徐々に意識を学校モードにシフトさせていくことが可能だからです。しかし、今回、特学でいきなり学校モード全開にすることを経験したら、それはそれでこちらも気分がいつまでも休みを引きずらないことに気づきました。学校は始まり、夏休みは終わったのです。いつまでも夏休みの余韻から抜け出せないよりも、前向きなきょうを生きたほうが気分が安定することを知りました。
5274.09/14/2005
夢キャン2005
夢キャンで食事係としてかかわった視点からのレビューを終え、いま全体を振り返ります。
1999年に初めて子どもたちを集めたサマースクールを開始したときは、見ず知らずの子どもたちと関係が築けるのかとても不安でした。以来、6年が過ぎ、わたしも、創り出す会のメンバーもサマースクール・土曜スクール・平日学校の経験から、どんな子どもたちが集まってきても不安をもつということは少なくなってきたと思います。それは、わたしたちの活動への参加が強制ではないので、子どもや保護者に受動的な姿勢が見られないことが大きな理由です。やる気のある子どもには、やる気をかたちにする手伝いをするだけで、じゅうぶんだということを学んだのです。
修学旅行やキャンプなど、学校での宿泊行事では、消灯時間以降の指導や部屋の管理が指導者の大きな仕事になります。しかし、夢キャンでは消灯時間以降、ややスタッフがにぎやかな子どもたちに注意を促したことはありましたが、修学旅行やキャンプに比べたら負担の少ないものでした。最後の掃除と片付けに到っては、ほとんどおとなの手を借りずに子どもたちだけでやり通していたので驚きました。意欲が高いとき、子どもはなにをするべきかの道筋がわかっているので、関係のない行動をとりにくいことがわかります。
子どもたちの活動に関しては、事前の打合せや下見など準備に時間をかけました。しかし、どの活動(プログラム)も、子どもに参加を強制するものではなく、また午前や午後の時間を目一杯使うものではありませんでした。子ども自身が、時間の使い方をじょうずに考えられる余裕をもっていたのです。それは、自分で考えた行動にまさる学習内容などないということを、いままで湘南小学校に参加した子どもたちが教えてくれていたからです。自由な時間に、スタッフの活動を手伝ったり、肝試しの脅かし役に立候補して脅かし方を相談したり、アスレチックで思う存分からだを動かしたり、スタッフをつかまえてしゃべったり遊んだりする子どもたちの表情はとても穏やかでやさしいのです。きっとそんなときはこころも安定していて、ストレスなど無縁の状態なのだと思います。
5273.09/13/2005
衆議院議員選挙で自民党が圧勝したことを受け、各メディアは与党の暴走を警戒するような論調を強くしています。
わたしも個人的には、かつてドイツやイタリアで独裁者が誕生していった歴史といまの日本の状況が似ていると感じます。しかし、今回の選挙に限っていえば、与党の圧勝にメディアが影響を与えたと思っています。投票前に各党党首が放送された時間を合計したときに、小泉首相がダントツなのではないかと思うのです。刺客や造反、新党結成など、話題の多い選挙でしたが、それらはあくまでもひとつの政党の内部事情です。それらをいちいちメディアはことこまかに取り上げました。公共放送の役目は、ワイドショー的な部分だけではなく、政策の違いを浮き彫りにして、各党の主張を有権者に伝える役目もあると思うのですが、残念ながらそのような番組は少なかったように感じました。
司会者や評論家までもが、インタビューでは刺客や選挙戦術への質問に終始し、果ては不倫や恋愛などスキャンダルネタを面白おかしく取り上げていました。これでは、有権者は、政治とは遠く離れたところで投票行動をしてしまうでしょう。ナチス党を第一党にしたヒトラーは、選挙戦術の基本を「同じことを簡単に何度も繰り返す」ことにしていました。難しいことを訴えても聴衆は理解しないことをヒトラーは知っていたのです。その考えを最大限に引き出したのがメディアでした。ジャーナリズムは歴史に学び、権力者や権力奪取を狙うひとに加担するのではなく、有権者に冷静な判断を促す材料を提供する義務を負うべきです。それを自覚しないと、多くのひとびとはなにも知らないうちに、独裁者にがんじがらめの生活を余儀なくされるようになるでしょう。
今回の衆議院選挙の結果を受け、メディアは郵政民営化法案に反対した議員のうち、賛成に変節する議員をネタにしています。しかし、そういう数合わせのような記事をスクープするよりも、郵政民営化とは具体的にどういうことかを長所短所含めて伝えるべきです。そして、衆議院の三分の二以上の与党支配体制を冷静に監視し、治安維持法や国家総動員法、果ては憲法改正など、いつか来た道をふたたび歩き始める瞬間をキャッチし、堂々と報道する準備を進めてほしいと願います。
5272.09/12/2005
衆議院議員選挙が終わりました。
今回の選挙は、わたしの周囲でふだん政治のことには興味のないひとたちも、かなり関心をもっていたように思います。仕事帰りに立ち寄る居酒屋でも、野球や天気の話題以外に、選挙の話題が続きました。結果は、自民党の圧勝でした。与党の自民党と公明党を合計すると衆議院で三分の二以上の議席を確保しました。この議席数はとても意味があります。
国会には、衆議院と参議院の二院があります。法律案は二院で可決しなければ成立しません。政府の暴走を正すセーフティネットの役割を二院制が果たしているのです。しかし、憲法は衆議院で可決された法案が参議院で否決されたとき、ふたたび衆議院で三分の二以上の賛成が得られれば衆議院の議決を優先することを定めています。選挙前、郵政民営化法案は衆議院で可決しましたが、参議院で否決されました。当時の衆議院では与党が三分の二以下の議席だったので、ふたたび衆議院で採決をすると否決され廃案になる可能性がありました。そこで、首相は衆議院を解散し、国民の意見を聞くという手法を選択します。反対した参議院を解散させる権限は首相には与えられていません。
今回の選挙で衆議院が与党過半数どころか、三分の二以上の議席確保という空前の状態になったのは、国民の選択だったという見方もできます。また、政府がふたたび優勢民営化法案を上程するときに、これは国民の意思であると再提案理由を述べることも可能になるでしょう。そして、次の衆議院選挙までの数年間は、参議院の存在意義が低下するのは事実です。現在の衆議院の議席構成では、どんな結果を参議院が出しても、すべて与党提案は衆議院で可決され、それらは三分の二以上の賛成によるものとなり、憲法にしたがい法律として可決するからです。すでに、選挙後に召集される臨時国会では優勢民営化法案を参議院から先に提出する可能性も否定できないのです。
5271.09/11/2005
夢キャン2005 8月25日12
5時過ぎに目覚めたときに朝食のことを思い出しました。
味噌汁を作る予定だったから、大鍋に湯を沸かさなきゃいけません。もうだれか起きていて準備をしているかなと見渡したけど、スタッフのみなさんは昨夜遅かったのか熟睡状態です。仕方がないから起床しました。
室内では火気の使用が禁止されているので、玄関の外にテーブルを運び、カセットコンロをセットして仮設調理台にしました。湯を沸かし始めた頃、IさんとSさんが起きてきて、いっしょに朝食作りになりました。前日作ったお握りを冷蔵庫から出して、焼きお握りにします。味噌汁の具もたくさん入れて、あったかい味噌汁が完成しました。「もう子どもが起きてきていてホールで食事が出てくるのを待ってるよ」との報告を受け、作る速度を上げます。さすがに最終日は疲れたのか、手伝う子どもよりも食べる子どものほうが多くいました。
朝食の後は借りていた物品を全部まとめ、各部屋の掃除です。わたしは炊事場の最終点検をして、終わりの会へ行きました。記念写真をみんなで撮影して9時に出発しました。貸し出し物品を返す時間が10時なので数人のスタッフがその後も施設に残ります。わたしはHさんと電車で帰る子どもたちを連れて、キャンプ場を出発しました。バス停までは小雨だったけど、バスが長後に着いたときには本降りになっていました。当初11時半の終了時刻を10時に変更。その後、本降りの時間がもっと早そうということがわかり、9時に変更して成功でした。長後で最初の子どもを保護者に引渡し、藤沢でたくさんの子どもを保護者に引き渡します。逗子と横須賀からの参加者がいて、この子どもたちは自力で帰るので、わたしが大船まで引率しました。大船で子どもと別れた後、モノレールで帰ろうと思ったらどしゃぶりの雨。傘を持っていなかったから、タクシーで帰宅し、すぐに風呂に入ってくつろぎました。
5270.09/09/2005
夢キャン2005 8月24日11
午後のプログラムは5つのコースがあります。子どもたちが選択する方式です。時間のある限りどれを何回やってもいいルールになっています。シュット棒・スライム・タオル人形・シャボン玉・プラトンボの「遊び道具を作ろう」というタイトルです。それらが終わった子どもたちが三々五々カレーの香りに誘われて山を登ってきました。昼間がうどんだったから、子どもたちはおなかを空かしていて、カレーを何杯もおかわりしながら食べていました。心配していたご飯も計量がずばり的中しておいしく炊き上がっていました。翌日用に炊いたご飯を最後におにぎりにして炊事場を片付けます。おにぎりを握っている間、まるでこっちが両手を使えないのを知っているかのようにビッグモスキートが我が物顔でとても近くを飛びまわっていたのには閉口しました。
前日の反省から、食事の後にシャワーを浴びることにしました。汗をかいたまま夜のプログラムを始めるのは不潔だし、気持ちが悪いからです。みんなさっぱりした後で、つながり遊びがはじまります。今回はシャワーを浴びた後なので、汗をかかなくてすむ教室ゲームシリーズを用意しました。3人ずつのグループを作り、グループ対抗のクイズゲーム「ホームランゲーム」と「野生の証明」です。1時間ぐらいやって、盛り上がって終了。子どもの振り返りにも「ゲームが楽しかった」というのがたくさんありました。ホームランゲームはグループに分かれ、リーダーが考えた3桁の数字を当てるゲームです。野生の証明は決められた文字列から文字の順番を変えて食べ物になる言葉作りをするゲームです。
夜は、台風の接近にともない、とても強い雨が降り、何度か雨の音で目覚めました。反省会ではもう眠くてしょうがなくなり、先に布団を敷いて寝ましたが、途中目覚めたからあんまり睡眠は深くなかったかもしれません。
5269.09/08/2005
夢キャン2005 8月24日10
カレーの準備をしていたら、湘南憧学校の保護者のKさんが、青森のおいしいスイカを2個も差し入れしてくれました。ダンボールに入ったスイカをわざわざ炊事場まで運んでくれました。子どもたちが来る前に、試食をしたら、すごくみずみずしく、なおかつ甘くておいしかったです。その頃、Mさんが登場。平日の昼間は食堂の仕事があるのに、応援に来てくれました。来てくれてすぐMさんにスイカを切るのを手伝ってもらいます。Mさんはプロの調理人なので、肉を炒める・カレーのルーを細かく切るなどの仕事を頼み、わたしはいよいよご飯だきにとりかかりました。子どもの教育を新たに作っていくときに、わたしたちが大事にしているひとつに専門の方に活動に参加していただくというスタンスがあります。教員の能力や経験だけでは、子どもの興味や関心に応じきれないことのほうが多いのですが、そんなとき柔軟に対応できる体制を絶えず作っておくことを心がけています。そのためには、活動のすべてに渡って教員と教員以外の垣根をなくしていく努力が必要です。だれかに頼る体制を作ったら、組織は先細りの運命をたどると思うからです。
7合の米を入れた大きな鍋を強火で炊き、ふいたら25分間、火を弱めて炊き続けました。最初の鍋は、ここで火を弱めすぎてしまい、あとから5分間炊き足しました。25分間炊いた後、20分蒸らし。わたしの家の鍋は12分の10分だから、たくさん炊くのは難しいと感じました。
ルーだけを別に煮込んでおいて、ニンニク・生姜のみじん切りを加えます。釜戸の火も大きくなってきたところで肉・人参・タマネギを加え煮込み始めました。その後でジャガイモを角切りにして生のまま入れます。ルーを入れてからでは火が通らないとも言われましたが、家のレンジとは違う火力だし、食事までたっぷり煮込むからきっと型崩れしないイモになるんじゃないかと賭けに出ました。
5268.09/07/2005
夢キャン2005 8月24日9
あの頃、わたしたちのやり方を批判したひとたちに、この成果を突きつけてやりたくなりました。でも、湘南に新しい公立学校を創り出す会を発足したときからのスタッフであるKさんに「そんなことをしたら大人気ないよ」とたしなめられました。Yさんは、小学校を卒業後も、時間があるときにはずっと湘南小学校を手伝ってくれていました。Yさんの成長を見続けた者としての嬉しさもありました。あんまり嬉しくてふたりで記念写真をとってしまったほどです。
天ぷらうどんは子どもたちにとても好評で、かき揚げもナスもばりばり食べていました。
午後の最初のプログラムは、「きらめく川を作ろう」です。本当は最終日の雨用のプログラムでした。しかし、台風11号の接近で最終日の終了時刻を繰り上げたことに伴ってこの日に実施しました。担当は中学で美術を教えているIさんです。150センチ×300センチの大きな綿の白い布を二枚用意してベランダからひもを張って垂らしたところに、各自が絵の具で溶いた色水を流します。淡い色、濃い色、それぞれが布を伝いながらほかの色と交じり合う感じが子どもには楽しかったみたいです。最初は「なにこれ?」と言っていた子どももすっかりはまっていました。
わたしは、その活動を見届けてから、炊事場へ行きます。夕食のカレー作りの準備を始めます。事前の計画では、食事係はYさんとNさんでしたが、ふたりとも事前のミーティングでヘルプを要請していたので、わたしとSさんがサポートにまわりました。でも、実際はもっと多くのスタッフや子どもたちの力を得て、食事を作ることができました。
わたしは、だれもいない炊事場に行き、5キロの無洗米を前に考え込みます。軽量カップがないなかで、大きな鍋4つにどうやって米をはかり、水の分量を整えればいいんだろうと。携帯の電卓機能で5キロは約28合とはじき出し、同じ大きさの皿を28枚並べます。次にお玉を使って、5キロの米を均等に28枚の皿に小分けしました。これで1合の米に分別完了。鍋が4つあったので、それぞれに7皿ずつ入れます。次は水の分量。米に対して1.2の割合でいこうと決めたまではいいけど、その量を何を使ってはかればいいかがわかりません。そこでも朝食経験が役立ちました。前にお玉一杯が100gだったことを思い出しました。7合の重さを出し、その1.2倍の水を入れます。ひとつにつきだいたい1500gだったので15杯の水を入れて30分つけました。次にカレーの具にする人参とタマネギを切り、炒めました。
5267.09/06/2005
夢キャン2005 8月24日8
朝からかつて勤務していた小学校で算数の習熟度別学習をやったとき、わたしが担当したグループのYさんがスタッフとして参加してくれました。当時のYさんは、算数が苦手で、算数や数学のない人生を歩んだほうがいいと、当時のわたしは本気で思ったほどです。そのYさんがなんと4年制大学の工学部に入学したと教えてくれました。こころが踊るほど嬉しかったです。
当時、勤務していた小学校では、前年度に5年生に学級崩壊が起こり、年度の後半は学習が成立しない状態になりました。6年生に進級するときに担任は交替します。5年生のとき、学習が成立していないので、子どものなかにはたしかな知識が身についていない子どもたちが多くいました。そこで、もっとも学力差の大きい算数を少人数の習熟度別クラス編成にしたのです。学年全体を5つの小グループにわけました。そのなかで、もっとも算数が苦手な子どもたちをわたしが担当しました。もともと算数が苦手だったことに加え、小学校でもっとも算数の学習内容が多く、難しいといわれる5年生の授業をまともに受けていないので、わたしが担当したクラスに集まった子どもたちは、基礎に戻っての学習でした。そのなかに、Yさんがいました。Yさんは、結果的にはあまり算数が得意にはなりませんでしたが、基礎的な学習を確実にして中学校に進学していきました。その後も、創り出す会の湘南小学校スタッフとして不定期に協力してくれました。いまでも、わたしはあのときの一年間があったから、Yさんは学校や授業を嫌いにならず、その後、いやなことがあっても湘南小学校スタッフとして協力してくれたと思っています。わかる喜びや、自信をもつ楽しさを小学校最後の年に経験させてあげられて、本当によかったと思っています。器楽演奏が大好きなYさんは中学や高校では全国レベルの大会に出場するようなブラスバンドメンバーになりました。算数や数学から離れて、自分の興味あることに没頭できる環境があったのもよい条件だったことでしょう。
しかし、当時の習熟度別クラス編成には学校内外から多くの批判がありました。わたしたちは目の前の子どもに必要なことだと信じていました。しかし、一般化した議論には不慣れで、能力主義を助長するとか、教えあう子どもの姿を尊重しろとか、一回も見学にも参観にも来ていないひとたちから説明を求められたのです。そのYさんが数学が必要な工学部の受験に合格し、夢キャンのスタッフとしてリターンしてくれたのです。こんなに嬉しいことはありません。
5266.09/05/2005
夢キャン2005 8月24日7
子どもたちは7時に起床し食事だったのですが、それを準備する食事係の朝はもっと早く始まります。。ふだんから早朝に起きて朝食を作っていた経験がとても役立ちました。5時半ごろには起きて、朝食の準備をします。朝食はサンドイッチです。具になる材料を包丁で刻みます。前日のうちに山の炊事場から調理器具は宿泊棟に運んでおきました。サンドイッチにレタスやハムを間に挟む子どもが多く、ジャムが人気がなかったのが意外でした。
午前のプログラムは、手打ちうどん作りです。担当のNさんは車でたくさんの荷物を搬入していました。床が粉で汚れないように大きなブルーシートをベランダに敷きます。子どもたちにうどんの作り方を説明し始めた頃、わたしは炊事場に上がり、昼食の準備をします。昼食は子どもたちが作ったうどんにかき揚げをのせた天ぷらうどんです。かき揚げの具は人参とたまねぎ。具を切るところから作業を開始します。
こんなこともあるかと思ってスタッフでカセットコンロを用意していた方がいたので、かき揚げはそれを使いました。ツインのカセットコンロは、火力が強くてびっくりしました。家のコンロ並みの火力だったからです。昨年、教職を退職してすっかりファーマーになったHさんがたくさんの野菜を差し入れしてくれました。そのなかからナスを使って、かき揚げとは別にナスも揚げます。火お越し担当のYさんが火つけを始めた頃、最初のうどん完成者が到着します。大きな鍋3つにがんがんに熱湯を用意するはずが、火お越しが間に合わず悪戦苦闘。それを尻目にわたしはさくさくのかき揚げをつまみ食い。ずっと創り出す会にかかわり、いまは理事で湘南憧学校スタッフもやってくれているSさんが、アウトドアを家族でよく行くそうで、屋外での調理について的確なアドバイスをしてくれたのが助かりました。うどんは、やや水が多かったのか、打ち粉が少なかったのか、鍋に入れてもほぐれないものが多く、鍋のなかで箸を使ってほぐすという汗だくの作業に突入します。
5265.09/03/2005
1945年9月2日は日曜日でした。8月15日に、連合国首脳のポツダム宣言を大日本帝国が受諾してから半月が過ぎています。東京湾は波がない凪の状態で、雲がたれています。8時15分に戦艦ミズーリ号の甲板では、楽隊が演奏を始めました。連合国の将軍たちが甲板に現れ、大日本帝国の降伏調印式が行われました。遅れること35分、大日本帝国の全権団が到着しました。政府の代表・重光葵外務大臣、軍の代表・梅津美治郎参謀総長です。
一般的には8月15日を終戦の日としていますが、実際にはその後も各地で戦闘状態は続きました。いまのように情報が瞬間的に遠隔地に届く状態ではなかったので、ポツダム宣言の受諾そのものが知れ渡っていなかったのです。また、戦前の教育によって、たとえ最後のひとりになっても戦い抜くという教えが徹底していたので、多くのひとたちは生きたまま降伏するはずがないと思っていたことも推測できます。外交文書上の公式な大日本帝国の戦勝終結と降伏は9月2日です。
戦争は多くのひとたちの生活と文化を台無しにして、未来に多くの禍根を残しました。あれから60年が経過しても、日本と周辺のアジア諸国との間に太平洋戦争の禍根が消えていないのが、それを物語っています。ひとは、権力を手中におさめると、理由の如何にかかわらず、強くあり続けたいと考えるようになる生き物のようです。強くあり続けるためには、弱き者を犠牲にし、ライバルを駆逐し、味方をも欺くことを平気で実行します。
これらは、権力の座に着いた者のみの特徴ではないことを、アメリカのハリケーン「カトリーナ」での被害状況ニュースから感じます。先日観たスピルバーグ監督の「宇宙戦争」で、混乱のうちに互いに殺し合い、いがみあい、自分だけが生き残るためにはほかのひとを殺していく世界が、現実のものとなっています。ニューオーリンズの町では、水没地帯に不敗臭が漂い、商店や病院への襲撃と略奪が相次いでいるそうです。
5264.09/01/2005
夢キャン2005 8月23日6
夜のプログラムは肝試しです。
ホールでスタッフのHさんが怖い話をした後で、小雨の少年の森に子どもたちは2人1組になって出発しました。街灯もなにもないので、肝試し係のほうが怖いはずなのに、3人の係は脅かし方を考えて闇のなかに消えていきました。怖い話にびびっしまい、出発前に気持ちが悪くなった子どももいましたが、「大丈夫、お友だちがいるからね」と励まして出発していきました。ほかに使用している団体がなかったので、少年の森全体がわたしたちたちのフィールドになりました。
肝試しが終わったらやっとシャワーです。200円で5分間出るシャワーがありました。途中で止めるとタイマーが止まる仕組みになっていました。そんなに節約する必要はないのに、男の子たちは「あと3分残っているよ」とか「まだ2分使える」と次のひとのためにじょうずに体を洗っていました。わたしは小さな子どもたちを洗う役目で、多目的シャワーで背中やおしりを洗います。いっぺんにふたりずつ洗ったから、こちらもシャワー代金の節約になりました。シャワー代金は参加人は別に法人の予算でまかないます。
一日目の夜は、小学校の修学旅行の夜のようにうるさくなるかなと心配しましたが、どの部屋も静かで意外でした。うるさかったのはミーティングをしながら、声高になるスタッフルームだったという噂がのぼるほどに。エアコンがあったのは嬉しかったのですが、夜はエアコンがいらないほど涼しかったです。とても狭い部屋に男性スタッフ5人が寝るのはきびしいので、わたしは布団をもって広いホールで贅沢に熟睡します。ホールにはエアコンがありませんでしたが、朝夕はとても涼しかったので寝るのも快適でした。
5263.08/31/2005
夢キャン2005 8月23日5
3ヵ所の窯を使い、お好み焼きを作りました。たくさんのお好み焼きを焼いている間、薪の火を絶やさないようにしているのは至難の業です。
一つ目の鉄板は、自分で焼いて食べたい子ども用です。できばえはともかく自分の焼くことへの好奇心を大事にしたいと思いました。二つ目の鉄板は、スタッフといっしょに焼いて食べたい子ども用です。自分で焼きたい気持ちはあっても、どうしたらいいか、煙で目が痛いなか、うまくいかなかったらどうしようと思っている子どもたちのための鉄板です。そして、最後はわたしが作ったのを食べたいひと(おもにスタッフの分)用。出来上がりに興味があって、作り方にはあまり興味がない子どもや、仕事で忙しくて自分のお好み焼きを作るどころではないスタッフ用です。
どの鉄板にも平均的に子どもは分かれました。でも、わたしはけっこうお好み焼きを作るのに自信があるので、当然一番見栄えはよくできました。子どもの頃、家でよくお好み焼きをやって、焼き方を担当した経験がおとなになっても役立っています。お好み焼きは、一度鉄板に種をたらしたら、表面がうっすら硬くなるまでがまんして、ひっくり返しても叩かない原則(関東の方法)があることをみんなはあまり知らなくて、ぺったんぺったん叩くもんだから、食べるときに硬くなってたみたいです。わたしのは叩かないからスポンジケーキみたいにフワフワでした。作っていたら、焼けた薪が割れて、火の粉がわたしの右足の中指と薬指の間に飛んで軽い火傷をしました。1センチぐらいの割り箸みたいな太さの火の粉が飛んできて、足を振ってもとれなくて、数秒間強いお灸をやった感じになりました。お好み焼きは夜のスタッフミーティングの夜食になるほどたくさんできました。全身汗びっしょりになったせいか、ビッグモスキートたちのえじきになったわたしの足首は、小さなこぶがたくさんできたみたいにでこぼこです。
食器の片付けは、各自で洗います。洗うところを見ていたら、ふだんの生活が見えてきます。マヨネーズやソースの汚れが手につくことを極端に嫌う子どもや、洗剤をつけすぎる子どもがいて、そんなところから指導もしました。薪を使った鍋は炭で底が黒くなりますが、事前に水溶きクレンザーを塗っておいたから洗うときにすっかりきれいに元通りになりました。クレンザーを使うことは施設側から要求されていました。
5262.08/29/2005
夢キャン2005 8月23日4
初日の夕食はお好み焼きです。それにポテトサラダがサイドメニューにつきます。
お好み焼きは2キロの小麦粉を使いました。いままでそんなにたくさんの粉を使ってお好み焼きを作ったことがなかったので、大きな鍋を3つ使いましたが、肉体労働でした。ともかく人手が必要なとき、参加者のひとりTくんが「なにかすることはありませんか?」「あるある山ほど!」と手伝ってもらいました。
Tくんは、湘南小学校を土曜日や夏休みにやっていたころの参加者で、いまはもう中学2年生になっていました。背が高くてバスケットボール部のレギュラー。とってもかっこいい男の子です。三浦半島の先の横須賀から参加しています。
湘南小学校の頃も横須賀からひとりで電車に乗って参加していた、とても自立心が強い子どもです。今回の野外炊事では火付け役のYさんの弟子としてかまどを担当し、手が開くとわたしのところに来て調理助手をしてくれました。お好み焼きの粉に水を混ぜたり、具を入れて両手でこねたり、ふだん経験したことのない調理方法でお好み焼きの具を作ってくれました。お好み焼きのサイドメニューはポテトサラダです。イモを湯がかなければいけなくて、大量の湯を沸かすのが大変でした。炊事場には、ふだんは見かけないとても大きなサイズの蚊がうようよしていて、虫ガードみたいな薬が全然役に立ちません。服の上からでもどんどん針を刺してきて、チクッとした痛みを感じるほどです。蚊取り線香を2日間で二箱も使い切ったことからも、連中のバイタリティが証明できます。キャベツ・小エビ・豚バラ・塩コショウ・ネギなどを大きな鍋3つで作ったお好み焼きのソースにからめます。とてもサーバーではからめることができず、両手を使ってTくんと力づくで混ぜました。
鉄板が熱をもっていい感じになってきたころ、子どもたちが山を上がってきます。
「おなかすいたぁ」の声に押されるようにお好み焼き作りが始まりました。
5261.08/28/2005
夢キャン2005 8月23日3
学校で企画するキャンプでは、子どもたちに係を担当させます。キャンプを作っていくのは子どもたちだという考え方に立っているからだと思います。しかし、キャンプに参加したい子どもも参加したくない子どももひっくるめて行うキャンプで、「このキャンプを作っていくのはあなたたちひとりひとりだ」と言われても、もともと乗り気ではなかった子どもにはその言葉は届きません。
夢キャンは、募集をかけて、応募してきた子どもたちのキャンプです。だから、参加したくないのに参加した子どもはいないのですが、そのなかで、主催者が勝手に役割を子どもたちに分担するのは、学びの主人公を子どもにとうたってきたわたしたちの方針に反します。意欲的な子どもたちの集まりだからこそ、自主性を重んじることが大切だと考えました。そこで、いわゆる係は二つしかありません。
ひとつは、食事係。もうひとつは、肝試し係。食事係は、材料の買出し・食器の準備・食材の下ごしらえ・火起こしなどの手伝いをします。肝試し係は、初日の夜の肝試しで脅かし役をやります。どちらも強制ではありません。定員もありません。いなかったら、みんなスタッフでやればいいことです。
始まりの会で「食事係と肝試し係を募集します」ってアナウンスしました。食事係も肝試し係も担当すると、自分たちのプログラムの途中で抜け出さなければなりません。そのリスクも説明しました。教育活動の細かい場面できちんと子どもにわかるように話していくことは、大事な説明責任の果たし方です。リスクがあるので、応募する子どもはいないかもねと事前のミーティングでは話していました。しかし、実際には、そんなことはなくてけっこうたくさんの子どもが率先して係をやってくれました。もともとプログラムのひとつひとつに時間的な余裕があったので、自分で何をするかを考えて行動する自由が多かったのがよかったのかもしれません。必ずやらなきゃいけない係は、積極的になれないもんだと痛感します。
5260.08/26/2005
夢キャン2005 8月23日2
屋外の木立ちのなかで始まりの会をしました。進行役のIさんが「みなさん、こんにちは」と挨拶をします。Iさんは、湘南小学校を土曜日に開校していた頃、支援スタッフのチーフとして活躍していたひとです。その後、公立中学校の教員に採用され、ふだんは仕事が忙しくなかなかわたしたちの活動に参加できなくなりました。しかし、今回は3日間も時間を割いて活動に協力してくれます。こういう縁の下の力持ちに支えられて夢キャンは運営されているのです。スタッフの紹介・子どもの紹介などを終え、荷物を宿泊棟に移しました。
そして、いよいよ最初のプログラム「オリエンテーリング」が始まります。
夢キャンでは、大まかに午前・午後・夜にそれぞれ一つずつのプログラムを配置しました。時間的にはたっぷりあります。それぞれのプログラムも時間を目一杯使うわけでなく、子どもたちがあまった時間を有効に使えるように工夫してあります。自分の時間を自分のものとして使うことは、とても高度な能力が要求されることです。しかし、それらは最初から備わっているものではありません。何度も経験しながら身につけていく能力です。やらされることに慣らされた子どもは、最初のうちは何をしたらいいかわからなくて「次はどうするの?」「たいくつー」「つまんなーい」と口を尖らせます。しかし、湘南小学校や湘南憧学校で長い時間を過ごしてきた子どもたちは、さすがにそんなことはしません。規定のプログラムも楽しみ、残りの時間も自分の考えで活動します。
わたしは、食事係のYさん・Nさんと食器を借りに行き、大きな炊事場で食事の打ち合わせをします。子どもたちは宿泊棟周辺を中心に活動し、食事のときだけ炊事場に来るので、やや離れて仕事をしていると子どもたちのことがよく見えません。でも、食事はとても大切な仕事だから、木立ちに囲まれた炊事場で食事の準備に取り掛かります。基本的に薪と炭を使った調理方法なので、お湯を沸かすにもレンジのようにはいきません。いつごろから火付けを始め、いつごろ子どもたちの口に料理が入るかを計算しながら、その合間に休憩をとる感じでした。
夕食はお好み焼き。2キロの小麦粉を大きな鍋に入れ、水や卵でときながら下ごしらえをしていると、オリエンテーリングの子どもたちがやってきます。宿泊棟は平地にあって、炊事場は山の中腹にあるので高低差がけっこうあり、子どもたちにはちょっとした冒険気分だったかもしれません。
5259.08/25/2005
夢キャン2005 8月23日1
湘南に新しい公立学校を創り出す会主催・藤沢の自然と遊ぶ会主管の「夢の湘南小学校サマーキャンパス2005:夢キャン2005」が8月23日から25日まで、藤沢市少年の森で二泊三日で行われました。最終日に台風11号の影響を受け、終了時間を繰り上げた以外は予定通りに無事終了することができました。
23日。夢キャン2005(少年の森)の初日。藤沢駅小田急改札口に10時半に集合だと思って、朝から準備をしていたら、しおりが出てきて、よく見ると10時集合。わたしは、あわてて荷物をザックに入れ自宅を出発しました。なんとか、5分前には着きましたが、ほとんどの子どもが保護者とともに来ていました。各自の意欲を強く感じます。子どもたちは、藤沢駅・長後駅・現地の3ヶ所に分かれての集合です。藤沢組が一番人数が多くて、わたしとHさんが担当です。小田急線で長後駅に行き、11時ごろ現地に到着しました。
このときには、セミがみんみん鳴いていて、日差しもあり、暑い風に汗が流れていました。宿泊棟は、今春から使用可能になった新しい施設です。木造のペンション風設計で、とても快適な建物でした。宿泊棟に入れるのは1時からだったので、日陰で各自に昼食をとるように指示します。6才から15才までの子どもたち17人と保護者1人の合計18人の参加者。大きなけやきの下で家から持ってきた弁当を食べました。スタッフはふだん創り出す会の活動を中心的に担うメンバーに、今回新しいスタッフも加えた10人。合計28人。これに通いの応援スタッフらが加わり30人前後で6年ぶりの宿泊イベント「夢キャン2005」がスタートしました。
子どもたちは、面識がある子どもどうしのほうが少ないのですが、なぜかどの子もすぐに自然に打ち解けて、弁当を食べ終わってからは広場で走り回っていました。湘南小学校に通っていた子どもと湘南憧学校の子どもたち。それにその友だちという構成です。「バッタをつかまえた」。虫取り網を持ってきた子どもが教えてくれます。
時間になって宿泊棟に入ります。一階にホールとやや広い二部屋。両方ともエアコン完備。男2人・女2人・多目的1つの5つのシャワーもついていてきれいな施設。ホールに大きな冷蔵庫があったのは助かりました。2階は二段ベッドで8人が宿泊できる部屋が3つあります。今回の夢キャンでは2階を子どもたちの部屋にして、1階をスタッフの部屋にしました。ホールはコモンスペースとして使いました。
5258.08/22/2005
あした23日からキャンプに行ってきます。
公共機関ですが、近隣にキャンプ施設があるのです。
湘南に新しい公立学校を創り出す会が主催する「夢キャン2005」です。夢キャンとは「夢の湘南小学校サマーキャンパス」の省略です。1999年に初めてわたしたちの理想の学校のかたちを求めて実験的なサマースクールを開校しました。そのときは、まだ「テストマッチ」という名前でした。4泊5日の完全宿泊制です。すべての食事を自分たちで作りました。翌2000年のサマースクールから「夢キャン」という名称になりました。宿泊スタイルを通いスタイルに変更しました。夢キャンは2001年にも開校しています。その後は、夏だけでなく、ふだんの週末を使った定期的な土曜学校「湘南小学校」へと発展します。
学びのなかみをおとなが強制しない新しい教育のかたちを求める湘南小学校の取り組みは、2004年4月の平日学校「湘南憧学校」の開校で役目を終えました。実際には2005年3月まで湘南小学校も開校していました。土曜学校に通う子どもたちと、平日学校に通う子どもたちが異なったからです。平日学校に通う子どもたちは、既存の学校を欠席して湘南憧学校に通っています。しかし、多くが既存の学校に通っていた湘南小学校の子どもたちと、役目を終えてからといってすっぱり関係をなくしてしまうのはしのびない思いから、2005年3月まで開校したのです。
2005年4月から平日学校「湘南憧学校」の開校日を月曜から金曜までの毎日にしました。それに伴い、完全に湘南小学校の終了を決めたのです。しかし、湘南小学校の子どもたちや保護者の間からなんらかのかたちで再会の機会を求める声が強く、宿泊形式のキャンプとして夢キャンを復活させたのです。わたしは今回のキャンプで、食事を作る係と、夜のつながり遊びを担当します。キャンプの相談をしながら、1999年に実施したときのメンバーのうちいまも同じテーブルで話し合っているひとが少なくなり、その後、わたしたちの活動に加わってきたひとたちが増えてきたのを感じました。台風が近づいてきていますが、安全に、そして楽しい時間を子どもたちと作り上げたいとわくわくしています。
5257.08/20/2005
きょうは料理のレシピを紹介します。
暑い夏にぴったりの冷やしつけ麺の作り方です。
具は、錦糸玉子・きゅうりの千切り・ハムの千切り・小ネギ・キムチです。それらをあらかじめ平たいお皿に盛り付けておきます。冷やし中華のように麺の上には乗せないので、お皿は食べるときに使うものです。
スープは一般の冷やし中華のスープです。ガラスの容器などに入れておくと涼しげに見えていいでしょう。食べる直前に、氷をひとつ入れると、適度に薄まって食べやすいかもしれません。
麺は、やや細めの生麺を使います。いわゆる冷やし中華用ではなく、ラーメン用の麺を使います。わたしは、中華街の「永楽製麺所」の「イーフー麺」がお気に入りですが、どんな麺を使うかは、食べるひとの好みでいいと思います。麺はやや固めにゆでます。ゆでている間に、大きめのボウルに氷水を用意しておきます。茹で上がった麺のさっと湯きりして、氷水のボウルに入れます。そこに流水を少しずつ加えて、両手で麺をこするようにして、洗います。きれいに洗ったら、水切りをして、親指・人差し指・中指でさっとつまめるだけをとり、麺を乗せる皿にへびがとぐろをまくように小さく盛り付けます。これを数回繰り返して、皿に小さな麺のとぐろをいくつも並べます。
食べるときは、麺を箸でつまみ、スープのなかに入れ、好みの具をその上に乗せて、一気に箸でつまんで口に入れます。ずるずる食べるのではなく、ご飯感覚で食べます。口の中に、しっかりスープの味と麺のしこしこ感、そして具の味が広がります。麺を選ぶときはカンスイを使っていないものを選ぶと、素朴な味のなかにこくのあるオリジナルつけ麺が出来上がると思います。残暑が続きます。よろしかったらお試しください。
5256.08/19/2005
人間ドックに行ってきました。
いままでは、行政機関の健康診断をしていたのですが、春に母が病気で亡くなったことを受け、きちんと検査をしておいたほうがいいと思ったからです。
前日までに便を採取したり、飲み物や食べ物を制限したり、当日を迎える前にしなければならないことがたくさんありましたが、検査には必要なことなのでしょう。でも、この暑い時期に夜間に飲み物を口にしてはいけないというのはつらかったです。ストレスをためないために、前日は早めに寝ようと思いましたが、空腹と喉の渇きで目が冴えてしまい、仕方がないので読書をしたら、たちまち睡魔に襲われました。からだって、現金なものですね。
人間ドックは、民間の人間ドック専門機関を利用しました。やはりというか、行政機関の検査とは、環境もひとの応対も、検査の流れも、ずっとスムーズでした。検査料金が高いせいもあると思いますが、もっと現実的なところで事務の方、看護師の方、機械を操作する方などのプロ意識が違いました。必ず、検査の前に自分の名前を名乗り、ひとつひとつの検査方法についてもとてもわかりやすく説明してくれました。最後にはアンケートがあり、とてもたくさんの項目について、チェックするようになっていました。
採尿から始まり、身長や体重を計測します。いままでの検査ではなかった握力も測定しました。右が48キロで左が33キロでした。ずいぶん左右で違うものだと感じます。血液検査では、通常の採血に加え、オプションで肺がんの腫瘍マーカーを申し込みました。血液内に肺がんの可能性のある物質があるかどうかを調べる検査です。ひとつひとつの検査の合間に少しの待ち時間があるのですが、完全に受付を済ませた順番で検査が進むので、待ち時間も苦になりません。自分の前のひとたちを覚えてしまい、あとどれぐらいで自分の順番がまわってくるかが予想できるからです。いつになったら、自分の順番がくるのかわからないと、不安ばかりが増幅し落ち着きません。ほかの検査機関ではそのような経験をしていたので、今回はとても安心しました。肺活量やエコーなど、初めて受ける検査項目は、興味があっておもしろく感じました。何回やっても好きになれないのがバリウムを飲む胃のレントゲンです。今回は事前に筋肉注射を打たれました。そのほうが、バリウムがよく写るそうですが、筋肉注射はとても痛いので、これまた苦手でした。以前、酔って自転車で転倒し、三針縫うけがをしたとき、破傷風予防の注射が筋肉注射でした。最後に内科医の聴診と触診がありました。そこには、もう肺と胃とエコーの写真が届いていて、それを見ながら診断をしてくれました。自分の検査結果を間近にすると、医師の説明もすんなり耳に入ります。心配していた肺や胃はとても丈夫でした。問題の肝臓は、血液検査の結果を待たないとわからないので、後日結果が郵送されるそうです。
5255.08/18/2005
8月15日はポツダム宣言を天皇が受諾した日です。
1945年8月15日にラジオや新聞を通じて発表されましたが、太平洋の遠隔地のひとたちや沖縄でアメリカ軍と戦っていたひとたちには情報が遅れました。現在はこの日をもって太平洋戦争は終わったとしています。しかし、正式には降伏に関する調印がなされた9月2日が戦争終結と唱えるひともいます。石炭や石油などの地下資源が乏しかった大日本帝国は、東アジアや東南アジアを植民地化して、自国に利益をもたらすように考えていました。朝鮮半島の併合・台湾の併合などを1900年以降画策し、1931年には現在の中国東北部に傀儡政権満州国を設立します。このときから日本と中国の戦争:日中戦争が始まります。
中国とアメリカは大陸からの日本軍の撤退を強く要求し、石油輸出禁止などの経済封鎖をしますが、帝国海軍は開戦をもって事態の打開をはかるべきとし、1941年12月8日に東南アジアマレー半島上陸・ハワイ島真珠湾奇襲を強行しました。このとき、事務的な問題で宣戦布告前に攻撃が行われたので、卑怯なだまし討ちという印象を全世界に与えてしまうことになります。その後の半年間は太平洋の各地域で帝国軍は支配地域を拡大しましたが、その勢いもそこまで。以降は、圧倒的な物量を誇るアメリカ軍を中心とした連合国の軍隊の前に敗北を重ねることになります。
とくにミッドウエイ島やサイパン島が陥落してからは、日本本土がアメリカ軍の爆撃機の攻撃範囲になりました。途中で給油することなしに攻撃し、帰還できるので、無差別都市爆撃が可能になったのです。その戦火のなかで、多くの市民が犠牲になりました。帝国海軍や帝国陸軍もアジアの各地で、多くの市民を無差別に殺します。戦争を決断し、開始する命令を発する一部の権力者たちの多くは1945年8月15日以降も生き延びました。その後、軍事裁判によって処刑されたひともいます。しかし、もっと以前に310万人もの「国民」が、一部のひとたちが決断した戦争によって亡くなっていました。日本人以外で亡くなったひとも含めればものすごい数のひとたちが犠牲になったのです。
では、当時の国際情勢を考えたとき、帝国政府のとるべき道はほかにはなかったのかという疑問があります。もっと平和的、友好的な選択肢はなかったのかということです。要人のなかには好戦的なひとがいたかもしれませんが、戦争がどんな結末を導くかを知る賢いひとはもっといたはずです。そのひとたちは、開戦から終戦までの間にどのような生き方をしたのでしょうか。
戦争は問題の解決に寄与しないことを、近代の歴史は証明しています。そのことをもっともっと現在の政府の要人や権力者は学ばねばなりません。
5254.08/15/2005
ことしの夏は春に亡くなった母の初めての盆:新盆です。
正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」というお盆のことは、我が家のお墓が北鎌倉の円覚寺にあったので、子どものときから何度も聞かされてきました。インドの昔の言葉「サンスクリット語」で、ウラバンナ(あるいはウラバーナ)に漢字をあてたのが盂蘭盆会と言われています。ウラバンナとは、逆さづりという意味です。お釈迦様の弟子が自分の亡き母が餓鬼道に落ち、逆さづりになって苦しんでいるのを知り、お釈迦様に相談します。すると、夏の修行が終わった頃に僧侶を招き供養するようにと諭され、実行すると、母は苦しみから解放され極楽往生がとげられました。この故事にならい、古代の日本では606年に初めて盂蘭盆会供養が営まれた記録が残っています。本来は、苦しむ魂を供養し極楽往生を導く行事でしたが、長い時間の経過と各地の風習が混合し、いまでは先祖に感謝し、魂が現世に一時期戻ってくる日と考えられています。一年の決まった時期に離れ離れの家族が集まる風習は世界のあちこちにありますが、8月の暑い時期に集まる風習があるのは珍しいのではないでしょうか。
父は納骨のあと「お盆は質素にやるから、用事があったら無理をしなくていい」と言っていました。自分だけで簡単にやりたかったのかもしれません。しかし、今月になって実家を訪ねた妹が「すごいよ、仏壇のまわりをなにやら飾っているよ」との報告を受けました。そして、迎え火の13日に急に電話。「シャンペンと花火を用意しているから夕飯の後にでも来ないか」。行ってみると、よく小さい子どもがいる家庭が買うような花火セットが3つも用意されていました。七輪に炭や薪をいれ、そこに花火を突っ込み着火するという大胆な方法で火花を散らしていました。
急にひとり暮らしの始まった父は春からの4ヶ月間で6キロも痩せたと言っていました。それまでやや恰幅がよかったので、適正体重に戻ったのかもしれませんが、食事が不規則になっているのだろうと思います。おかずはほぼ帰りがけに惣菜を買っているそうです。それでも、ご飯と味噌汁は作っているので安心しますが、生野菜が不足しがちなのが心配です。「野菜はちゃんと食ってるよ、ほら」と冷蔵庫をあけ、漬物を見せてくれたぐらいですから。
14日はお寺の住職が実家に来て供養がありました。近所のお菓子やさんからおはぎを買って、昼食に、夜は大船で家族で会食をしました。
5253.08/14/2005
1985年はわたしにとって忘れられない年です。
その年の3月に大学を卒業し、4月に葉山町の公立小学校に赴任した年です。以来、転職することなく、ずっと小学校で教員を続けてきました。初めての教員生活で、慣れないことも多く、1学期を乗り越えて、夏休みを自宅でのんびり過ごしていたとき、とてもショッキングな事故が発生しました。
8月12日の夕方のニュースで、羽田発の日本航空123便がレーダーから機影が消えたと報じていました。乗客乗員520人もの生命を奪った大事故の一報です。それまでも、あまり飛行機は好きではなかったのですが、この事故でできることなら飛行機に乗らない人生を送りたいという気持ちを強くしたのを覚えています。翌日、群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」に無残な墜落した飛行機の残骸が発見されます。テレビに食い入るように、わたしはニュースを見ていました。
その後の報道で、多くの遺品の中に、乗客たちの最後の言葉が発見されます。飛行機の操縦に重要な役割を果たす垂直尾翼がないまま、コントロール不能になったジャンボ機は機長らの努力で何度も体勢を立て直しながら飛行を続けました。しかし、乗客の中には生還の望みが薄いことを悟った方々が家族や友人らにあてて最後の言葉をメモ帳やノートに記していました。極限状況で、とても口惜しく、怖く、つらい時間だったことでしょう。そして、無念の思いがこころを覆い尽くす中での最後の言葉は、ぎりぎりまで勇気をふりしぼり、おのれの精神をしっかりと保とうとした証拠だと思います。
当時は墜落したときの怖さから、飛行機には乗りたくないと思いました。その後、山崎豊子さんの「沈まぬ太陽」を読んだり、テレビで放送されたドラマやドキュメンタリーを見たりして、安全よりも利便性と利益を求める会社体質と、それを後押しし、事故の責任を逃れようとする運輸行政の姿勢を知り、こんな危険な乗り物には乗りたくないという気持ちを強くしたのです。日本航空はことしのはじめに、相次いで事故を起こしました。あの事故から20年が過ぎたのに、安全性を最優先課題にしていない本質が露見しています。機体を製造したアメリカの会社の原因報告を、原則的にそのまま継承した日本の事故調査委員会。あれだけの事故の資料を教訓にしようとせず、すでに大量廃棄しています。圧力隔壁を修理したときのミスが原因とされましたが、実際にはそれ以外にも原因が考えられると原因究明を求める声はいまもあります。
ことしの春、兵庫県尼崎市で速度をあげすぎてカーブを曲がりきれずに通勤電車が脱線し、そのままマンションに突っ込み多くの犠牲者が出る事故がありました。安全な輸送は、まだ確立していないのです。
5252.08/13/2005
監督は作品の最後で、母への賛辞を映像を通してうったえます。
まさに映画でなければできない手法を使って、チョウオンと母の強い絆を描写します。
周囲の冷たい視線と、家族の分断、夫婦の軋轢などで身体的にも精神的にも苦しい状況に立たされた母親は胃に穴を開け、緊急入院します。そして、いままでの自分を思い出し、チョウオンへの接し方を反省します。しかし、その反省は周囲からの働きかけによるものに過ぎず、正しい育て方を見つけたというものではありませんでした。
チョウオンはあまり練習ができない環境だったにもかかわらず自分の意思でフルマラソンの大会に出場します。そして、コースの途中で力尽き、道路に倒れこみます。沿道では、サポーターが水とチョコパイを配っていました。後続のランナーが受け取ったチョコパイを道路に座り込んでいたチョウオンに渡します。チョコパイはチョウオンの大好物ですが、それを受け取ったからといって元気がよみがえるわけはありません。チョウオンはチョコパイを手にしながら、うつろな瞳で子どもの頃の記憶と向き合います。
チョウオンが子どもの頃、母はふたりでチョウオンに体力をつけるために登山をしました。途中、ばててしまったチョウオンを立ち上がらせるために、チョコパイを見せ、手を伸ばして受け取ろうとするチョウオンを誘いながら登山トレーニングをしていたのです。
そのときのシーンが挿入され、チョウオンはゆっくり立ち上がります。わたしはチョコパイをその場で食べてしまうのかと思ったのですが、チョウオンは封を切らずにチョコパイの袋を持ったまま、ふたたび走り始めました。そして、自分のペースに戻ったとき、手のひらからするりとチョコパイは落ちたのです。そのシーンを見たとき、監督はチョウオンにとって、子どものときの母の育て方は間違っていなかったんだよというメッセージを観客に伝えようとしたのではないかと思いました。言葉やせりふで、メッセージを伝えるのではなく、映像を使ってそのことを伝えたことに感動しました。
5251.08/11/2005
この映画は、ここに紹介したほかの二作品「宇宙戦争」「スター・ウォーズ」と違う特別な意味がわたしにはあります。
それは、わたしの日常にぐっと迫る現実感の強い内容だったということです。自閉的傾向の強い子どもたちとともに、毎日を過ごし、その子どもたちの親たちと連絡を取り合い、子どものいまを見つめ、自分にできることはなにかを日々模索している自分にとって、マラソンは細部にわたって身にしみるものがたくさんありました。
学校の教員は、チョウオンのことをよく知っていますが、チョウオンの興味を伸ばすことはしません。それを内面から引き出す個別プログラムは作りません。障害の程度にあわせた作業学習を中心の学校生活なのです。チョウオンの小学校時代はわかりませんでしたが、日本でも養護学校の高等部や職業訓練校に進めば、同じことが行われていると思います。ネジを機械を使ってじょうずに留める技術を習得していくことは、そのまま就労につながる大事な技術です。しかし、チョウオンには、休憩時間のアイスよりも、勤務時間後の扇風機のほうが、ずっと生きる意欲を喚起させました。扇風機の風を全身に浴びながらマラソンをしていた頃を思い出す表情は、とても生き生きいしていました。
また、この作品で全体を通して貫かれたチョウオンの母の生き方への賛辞も忘れてはいけないと思います。自閉的な傾向の強いチョウオンは子どものときも成長してからも社会的に生きにくい場面を多く経験します。そのたびに、母は強くチョウオンの障害をうったえ、無理解なひとたちに理解を求めようとします。多くの場合、周囲のひとたちはチョウオンと母に非難や罵倒を浴びせます。それらは実話の一端に過ぎないと思いますが、映像が伝える社会の厳しさをよく現していました。この状況は韓国社会だけのことではなく、日本社会でも同じことが言えます。自閉的な傾向はだれにもあり、その傾向が強いひとが誕生する割合は1000人に1人ととても高いにもかかわらず、その理解が進んでいない現実です。
5250.08/10/2005
飲酒運転の懲罰的な活動でチョウオンの在籍する学校(職業訓練校?養護学校?)に200時間の体育指導にきたソン・コーチは、乱れた私生活のなか、チョウオンとの交流を通してかつて自分がボストンマラソンに出場していた当時の気持ちを取り戻していきます。フルマラソンに出場するチョウオンに、ソンはアドバイスをします。
「チョウオン、チーターは時速何キロで走る。とても速いけど長続きはしない。長く走るにはとても速く走ったら心臓がもたないんだ。マラソンはとても長い。だから、速く走ってはいけない。でも、雨が降ってきたら、全力で走れ。残っている力をふりしぼって、全力で走りぬけ」
ゴール間近まで意識が朦朧としながら走ってきたチョウオン。そのとき、コース沿いにランナーに霧のような水をかけるサービスがありました。それをからだに浴びたチョウオンはコーチの言葉を思い出し、シマウマといっしょに草原を走りぬけるように力をみなぎらせます。ソンは、長い時間をチョウオンと過ごすうちに、彼にもっとも届く言葉を会得したのです。それまでは「ゆっくりゆっくり」というアドバイスをしていました。しかし、場面が読みにくいチョウオンにとって、コーチといっしょのときだけはゆっくり走ることができても、自分だけになったレースでは、うまくいかなかったのです。それが、「雨が降ってきたら」という場面を教えるたら、チョウオンにとってマラソンの走り方が見えたのです。
このような言葉かけは、一般的な指導が通りにくいときにとても有効な手立てです。そして、一般的な指導は、障害の有無にかかわらず通りにくいものです。ひとりひとりにとって、もっとも有効な手立てはひとつひとつ違います。その違いに気づき、もっとも有効な言葉を使うことが大切だと思いました。
このラストのマラソン大会シーンは、実際に2004年のチュンチョン国際マラソン大会を5台の映画撮影用カメラとヘリコプターを使って撮影されました。特殊撮影はいっさい使っていないので、とてもリアルな映像が完成しています。とくに6万人の参加者がスタートするシーンは、エキストラを集めたロケでは再現できない迫力があります。ヘリコプターを使った空撮シーンは、それまでの韓国映画史上最大規模のものになりました。こういう細部をていねいに描くチョン・ユンチョル監督の映画作りにかける姿勢が、映画「マラソン」をとてもリアルな作品に仕上げています。観客のなかには、自閉的傾向の強い映画俳優を使った映画だと信じたひとも少なくないと思います。
5249.08/09/2005
インターネットを使った犯罪がまたありました。
インターネットの自殺志願のひとたちが集まる掲示板やチャットで、自分も自殺志願者を装い、アクセスしてきたひとを実際に殺害していた36歳の男性会社員が逮捕されました。窒息するときの表情に興奮したと供述しているそうですが、自殺志願者ならば殺してもかまわないという考えが根底にあったのではないかと思います。
自殺志願者というひとたちの集まりというサイトが確立していることが、昨今のインターネット社会の特殊性です。自殺したくなる気持ちを本人や本人の周囲の努力では軽減できない現実は、インターネット仮想社会を通じて見ず知らずのひとたちが連帯して集団自殺する事件と同一のものとして扱ってはいけないと考えます。自殺系サイトがあるから自殺志願者が減らないのではないのです。これは出会い系サイトによって、多くの犯罪が誘発されているかのように報道されていますが、それにも同じことが言えると思います。
インターネットの仮想社会は、ひとやものの情報の交差点です。情報の交差点は、以前からありました。駅の伝言板・スーパーの売ります買います情報・回覧板・手紙・コンパなど。それらの延長上にホームページを使ったサイトが乱立しているのですが、それまでの情報の交差点には、情報を発信するときも受信するときも面倒な手間がありました。それらを払拭したのがインターネットです。自分の時間に、自分の都合で、相手を意識することなく情報交換が成立するのです。しかし、この手段も、ファクシミリの登場によって確立したものであり、真新しいものではありません。これに瞬時の双方向性が加味されたのがインターネット仮想社会でした。名も知らないひとたちが大いに感情移入して恋の成就を応援する「電車男」物語は、その典型です。さらに、この交差点に流れ込む情報には基本的には内容の選別はありません。なんでもありです。だから、それまでと違う社会へのかかわり意識をもつ必要が生じます。情報を単純に信じてはいけないという必要です。ひとつの情報を多角的に検証しなければ、ひとつの真実は浮かび上がってこないのです。
今回の自殺志願者をターゲットにした殺人事件は、その弱さを巧みに計算した犯罪でした。おそらく情状酌量の余地はなく、判決は厳しいものになるでしょう。
5248.08/06/2005
60年前の8月。大日本帝国政府は、太平洋戦争末期の連合国によるポツダム宣言を受諾します。
ちょうど、60年前のきょう8月6日午前8時15分2秒。原子爆弾「リトルボーイ」を搭載したアメリカのB29爆撃機の爆撃手がリトルボーイを投下するスイッチを入れました。15秒後、爆弾倉から落下したリトルボーイは、広島県広島市相生橋の南東にある島病院付近の上空薬1900フィート(約579メートル)で爆発します。人類が初めて核爆弾を戦争で使用した瞬間です。重さ5トンのリトルボーイが投下された瞬間、投下した爆撃機「エノラ・ゲイ」は急に軽くなったため空中で数メートル飛び跳ねました。
当時の乗組員たちは、急反転して投下地点から遠ざかりましたが、それでも機内は猛烈な閃光を浴び、衝撃波が二度も押しよせ機体を揺らしたといいます。エノラ・ゲイは上空はるか3万1000フィート(約9400メートル)にいたにもかかわらず。地面が沸騰したかのような巨大なきのこ雲が湧き起こり、爆心地周辺は、一瞬にして完全に焼失、生き物も建物も何もかもが壊滅しました。
大本営は広島に特殊爆弾が投下され、大被害が出た事実を国民に隠します。戦局への世論の批判を回避しようとしたのでしょう。多くのひとたちが苦しみ始める原爆被害の開始時点から、被害者の救済は眼中になかったのです。原爆の研究・製造は「マンハッタン計画」と言われ、ロスアラモス研究所を中心に進められていました。実際に原爆がどれだけの威力を発揮し、どのような被害を与えるかという実証データが乏しいなか、ぎりぎりの実験成功情報をもとに使用が決定されました。それは、戦争を口実にした核実験だったのです。研究に携わったひとたちや軍人・軍属のなかには「原爆は多くの人命を救った」として、正当性を主張するひとたちが、いまも少なくありません。正当だったか、不当だったかという議論は、戦争状態においてはつねに勝者の論理に置き換えられるので、まったく意味がないでしょう。むしろ、原爆使用による具体的なひとびとの苦しみと悲しみの現実に直視することが、二度と同じ悲劇を繰り返さないことにつながると思います。
日本政府も、大日本帝国時代のアジアでの帝国軍人による非人道的な行為を否定することがあります。戦争そのものを直視せず、戦争に到る過程を正当化したような教科書まで採用される時代になりました。だから、原爆使用を正当化するアメリカ人を頭から否定することはできません。戦争が起これば、正義や民主主義、基本的人権など、個人を保護するよろいはとてもかんたんにはがされてしまうのですから。
5247.08/05/2005
チョウオンは幼いときからシマウマが走る国立公園のビデオ(テレビ番組?)が大好きで、決まった時間になると必ずそれを見てきました。その番組のナレーションを何回も聞くうちに、チョウオンは番組のナレーションをすべて覚え、再現できるようになってしまいます。ライオンやキリンの生態を専門的な言葉を使ってしゃべるのです。彼にとってその番組は、言語学習の大事な教材になっていたのです。学習テキストや教室での指導の何倍も効果のある教材です。そのなかに出てくるシマウマが、彼のお気に入りでした。マラソンの練習中や本番で、彼のイメージはアフリカの草原をシマウマといっしょに駆け抜けていく姿があったのかもしれません。
この映画のモデルになったペ・ヒョンジンさんは、2002年、19歳でチュンチョン国際マラソン大会に出場し、自閉症という障害があるにも関わらず健常者でも困難といわれるフルマラソンを2時間57分で見事、完走。その快挙はテレビや雑誌など、大いにマスコミを賑わせました。マラソンという長い距離を走るスポーツでは、ペース配分がとても重要です。しかし、最初から気持ちのおもむくままに飛ばしてしまう傾向があったチョウオンは、それ以前のハーフマラソンなどの大会で惨敗します。コーチやお母さんが、最初はゆっくり、周囲のペースにあわせるなと言っても、実際に走っていると自分を追い越していくランナーについていってしまったためです。映画のなかでも、コーチが母親に「マラソンは自分でペース配分ができないと、心臓が破裂してしまう過酷な競技だ。それができないチョウオンにマラソンをやらそうというのは、あんた、息子を殺そうということか」と厳しく迫る場面もありました。
ラストシーン。チョウオンを自分の思い通りにしようと思っていたことを反省し、二度とマラソンはさせないと誓った母親。いまの彼にはマラソンが必要だと迫るコーチ。かつては逆の立場だったのに。しかし、おとなのやりとりを越えて、チョウオンは自分ひとりでマラソン大会に出場します。映画なので、多少実話よりはドラマティックに仕上げているかもしれませんが、出発前に息子を見つけた母親の握る手をチョウオンは、今度は自分から振り解いて、スタートラインに立ちに行くのでした。いつまでも、わが子を見守り続けなければいけないと覚悟していた母親から、マラソンというフィールドでは自立していけることをチョウオンが示す感動的なシーンです。
5246.08/04/2005
冒頭、家族で動物園に行ったとき、母親はチョウオンを見失い、夫とともに園内を探します。
このシーンはずっと後のシーンの伏線になるのですが、自閉症の子どもをもつ親の精神的・肉体的な疲れを台詞のない行動だけを描写する撮影方法でとてもよくとらえていると思いました。ベンチで疲れを癒す母親。その手を握り締めながらベンチの前で地面にしゃがみ動物の真似に興じるチョウオン。カメラは母親の表情に迫らず、あえて遠くからふたりを追います。そして、ふたりのつないだ手のアップから、するりと手と手が離れるシーンへとつながれます。子育てに疲れ、一瞬、ベンチで居眠りをしている間にわが子の行方がわからなくなってしまったと思わせるシーンです。
後に成長したチョウオンと母が駅の待合室でふとしたことから別々になってしまったとき、「なんでひとりでどこかに行ってしまうの」と嘆いた母に「母さんは手を放した(だったか、もう手を放さないでくださいだったか)」とチョウオンが告げるのです。何年も前の動物園での記憶を、チョウオンはずっと抱き続け、あれは迷子ではなく、自分が子どもを捨ててしまったんだとショックを受けるシーンへとつながるのです。自閉的な傾向のひとは、考えていることや気持ちを相手に伝えるのが苦手です。考えていないわけでも、気持ちがないわけでもないけど、それをうまく伝えるのが苦手なので、ふるい記憶のなかに自分にとって終わっていないことがあるとずっと抱き続けてしまい、後々になってそれを言葉にする、特徴的なシーンでした。母親はずっとわが子がマラソンを好きだと走り続けてきたのは、あのときみたいに自分を捨てられたくないからだと思い、倒れてしまいます。この子は本当にマラソンが好きだと思ってきたけど、実際はマラソンが嫌いだと言えないように育ててしまったのではないかと自分を責めたのです。
途中、マラソンのコーチ(イ・ギヨン)が食べ物や飲み物を差し出すと、チョウオンは全部断るシーンがあります。自分を信頼していないのではないかと悩んだコーチは、チョウオンの支援者に相談します。すると、あれは知らないひとからのプレゼントを受け取ると誘拐されてしまうかもしれないからいけないという母親の指示を忠実に守っているからだと教えられます。幼いときの指示をまるでこころの成長が停止してしまったかのように、19歳になっても守り続けていたのです。
5245.08/03/2005
2005年1月29日に韓国で公開された映画「マラソン」。
韓国の映画の祭典「第41回百想芸術大賞」で、映画部門大賞・シナリオ大賞・最優秀男優賞を受賞しました。当時の韓国では「アビエイター」「コンスタンティン」というハリウッドの超大作が公開中でしたが、公開の翌週から5週間、これらの映画を押さえ、映画観客動員者数のトップに君臨しました。公開からわずかに52日目で500万人を超えるひとたちが映画を見たというのですから、ものすごいヒットです。実話を基にした映画ですが、実在する母子が大統領と面談することも実現しています。
「猟奇的な彼女」でブレークしたチョン・ジヒョンが演じた「僕の彼女を紹介します」を映画館で初めて見たとき、韓国映画の勢いと強さを実感しました。テレビで見た「シルミド」で、これでもかこれでもかと叩きつけるストーリー優先の手法に驚いたのですが、今回の「マラソン」でも、その手法は受け継がれ、ラストシーンまで目が話せないシーンの連続でした。
『春香伝』『ラブストーリー』のチョ・スンウ演じる19歳の青年チョウオン(実在のモデルはペ・ヒョンジンさん)は自閉症です。日本でも最近ドラマで取り上げられることが増えてきましたが、まだまだ専門家が不足していて、とくに臨床の専門家不足が大きな問題になっています。学問として取り上げても、目の前の自閉症児・者に有効な手立ては見つけにくいのに、成長から就労や結婚にいたる長期的な臨床アドバイザーが不足していて、社会的な偏見や誤解に苦しむ家族は少なくないと思います。
映画では自閉症のチョウオンの少年時代から19歳までの成長を縦軸に話が進みます。とくに彼に惜しみない愛情を注ぎ続け、ついには胃に穴が開くほどに自分を追い詰める母親(実在のモデルはパク・ミギョンさん)の物語が彼の物語を骨太に演出しています。母親役は「LOVEサラン」でチャン・ドンゴンの恋人役で大人の魅力を放ったキム・ミスク。なんと、この作品で映画への復帰は23年ぶりだったとか。韓国の母を骨太に演じ、撮影中も実際の親子のように接したチョ・スンウとは完璧な信頼関係と築いたといいます。
5244.08/02/2005
双子の子ども。ルークとレイアは、それぞれ別々の星に預けられます。出生の秘密を隠され、成人して再会したときも、互いを兄と妹とは意識しません。30年前に公開された最初の「スター・ウォーズ」のストーリーです。当時のストーリーでは、ルークを中心とするアンチ帝国メンバーによる宇宙の平和を求める物語がスター・ウォーズだと思いました。実際、その後のシリーズでも帝国が崩壊するまでが描かれたからです。しかし、ダース・ベーダーがルークの父親だったことが明かされて最終作品が完結したことから、ダース・ベーダー誕生の謎がシリーズ完結後の大きな謎として残ってしまったのです。その謎ときの物語が、エピソード1から始まった新しいシリーズ三作品でした。
つまりすべてのシリーズを通して物語を検証すると、この抒情詩は壮大なダース・ベーダーの物語だったことがわかります。アナキン・スカイウォーカーからダース・ベーダーになるまでに、役者は三人も代わり、全作品にこの人物が登場しているからです。
エピソード3では、これまでのシリーズをしのぐ映像技術が投入されました。そのなかでとくに大きな特徴は、フィルム撮影をしなかったことでしょう。全編をデジタル撮影にしたのです。おそらく映画用の巨大なハードディスクとCPUやメモリをもつコンピュータが用意され、撮影と同時に編集や保存、コピーが容易にできるシステムが構築されたのだと思います。だから、撮影は公開の直前まで行われていたと言います。フィルム映画は、撮影後の編集に膨大な時間を使いましたが、デジタル撮影ではその時間を短縮することに成功しました。映画館のフルスクリーンに拡大しても、画像ぼけが起こらない画素数を確保するカメラも特注されたものかもしれません。
デジタル撮影の威力を発揮した場面は随所に見られました。宇宙都市を場面の背景に投入するとき、画面の端をゆく乗り物の航行まで、とてもリアルに描きました。また、大仕掛けになりがちだった背景のセットも、おそらくデジタル合成によって安価で容易に作成できたのではないかと思います。
5243.08/01/2005
なめらかな動きをする宇宙船の映像に驚愕した当時、あれは宇宙船を動かさずに固定させ、カメラをコンピュータ制御で動かして撮影(モーション・カメラ)し、まるで宇宙船が動いているような錯覚をもたせたことを知り、ルーカスのアイデアに脱帽しました。さらに、当時に比べ、特殊撮影の技術は格段の進歩をとげ、今回の「エピソード」もので使われたアイデアや技術は、もう映像で作れないものはなにもないという領域にまで達したと思います。
前回の「エピソード2 クローンの攻撃」はそれまでの5作品のなかで内容も映像も最高のできばえとの評価を得ました。しかし、わたしは今回の「エピソード3 シスの復讐」はそれ以上のできばえだったと感じました。なによりも、アメリカ映画にありがちなハッピーエンドではないところがグッドです。ファンは、この映画に続く作品を知っているので、いかに宇宙共和国が崩壊し、ダース・ベーダーが誕生するかに関心をもっています。その謎解きとしてのストーリー展開なので、「あーなるほど」と「えっそんな」が同居した脚本作りは困難を極めたことでしょう。「やっぱりそうだったのか」と納得づくの脚本では、観客は満足しないでしょう。逆に「そんなことはありえない」という無理なこじつけも許されないでしょう。
若いジュダイであるアナキン・スカイウォーカーが、暗黒面のボスであるシス暗黒卿の配下に落ち、ダース・ベーダーに変身するストーリーが「シスの復讐」です。ジュダイの騎士は恋をしたり、結婚したり、子どもを作ったりしてはいけないという掟に背き、アナキンは前作エピソード2のラストでパドメと結婚します。今回の作品で、パドメが妊娠したことをアナキンは知り、子どもの誕生を喜びます。ジュダイの掟を破ったアナキンとの静かな生活を望んだパドメは、ジュダイや共和国の権限が及ばない偏狭の星で、ひっそりとした生活を望みます。しかし、ジュダイや共和国自体を滅ぼし、だれも自分たちを追い詰める者がいなくなる状況を作り上げたアナキンことダース・ベーダーには、パドメの気持ちは通じません。すっかり暗黒面に支配されたアナキンにショックを受けたパドメは、最終的にアナキンの怒りに触れ、双子を出産して息絶えます。パドメの命を救うという約束でシスの配下に落ちたアナキンは、「お前の怒りがパドメを殺した」とシスに告げられ悲嘆にくれます。
5242.07/29/2005
ジョージ・ルーカスが30年近く前に公開した「スター・ウォーズ」。
最初に映画を見たとき、映像のなせる特殊世界にこころの底から衝撃を受けました。それまでの特撮は、明らかに実写との違いがわかり、映画の限界を感じさせるものでした。ピアノ線で吊るされた戦闘機や円盤が作られた空中を舞う戦闘シーン。ときどき照明の関係でピアノ線が見えてしまうと興ざめしましたが、それでもプラモデルが動きをもつ映像にわくわくしたものです。それが、スター・ウォーズでは一気にどこまでが特殊映像で、どこからが実写なのか、その区別がわからないほど自然な近未来世界が映画になったのです。
宇宙空間には空気がないので、空気の振動による音の共鳴はありません。しかし、スター・ウォーズの宇宙戦闘シーンではとても多彩な音響が使われます。そのことをルーカスは了解済みで、あえて電子音を駆使したのです。実際、まったく無音にしたら、映画としてはスリルもサスペンスもないものになっていたでしょう。もともとドキュメンタリーを作ったわけではないので、ルーカスワールドとしての宇宙世界を作り出すことにまったく問題はないのです。
スター・ウォーズは、とても特別なシリーズ展開をたどりました。公開された三部作でシリーズは完結します。ダース・ベーダーと暗黒卿シスによる宇宙帝国によって、銀河は強権的な支配を受けます。その両者を倒すまでのストーリーが三部作でした。とくに最後の作品では、主人公ルーク・スカイウォーカーの父親がダース・ベーダーだったことが明かされ、親子の力をあわせて、暗黒卿シスを倒す勧善懲悪的な終幕へと向かい、シリーズ全体を通して謎だった部分が一気に解決します。世界中で多くのファンを誕生させたスター・ウォーズは、ファンに「安心」をプレゼントして完結したのです。
しかし、ルーカスはこの三部作に続く作品ではなく、この三部作に到る物語構想をもっていたのです。悪の指揮官「ダース・ベーダー」の誕生にまつわる物語です。それが近年公開された「エピソード1」から始まる一連のシリーズ三部作でした。その最終作「エピソード3」が2005年7月に公開されました。
5241.07/28/2005
スピルバーグの作品は、これまでに何本か見ました。
今回の宇宙戦争は、細部で疑問に感じる部分があったとはいえ、全体的には息つく暇を観客に与えない悲しく・怖い映画でした。このような映画を、なぜいま彼がわざわざ作ろうとしたのかを考えると、内外ともに多くの解決困難な問題を抱えるアメリカ社会が見えてくるような気がします。9月11日のニューヨーク貿易センタービル同時多発テロ以降、娯楽作品を作る気持ちが失せてしまったというスピルバーグ。多くの悲しみを怒りに変えながら、それでもアメリカ社会の問題ととらえ、なにを伝えるべきかを考えたとき、スピルバーグの頭のなかには、人類の駆除だったのかもしれません。インタビューに応じて、家族愛を訴えたかったというこたえがありましたが、主人公は娘と自分を守るために多くのひとを犠牲にします。そして、主人公の戻るべき家族自体が崩壊したままエンディングを迎えることを考えると、家族愛というこたえは、万人受けをねらったリップサービスのような気がします。
貧富の差が増し続ける現代社会。アメリカは世界の縮図のような側面ももっています。そのアメリカ社会に警鐘を鳴らそうとしたと、わたしは映画を見終って感じました。このままいまの社会を発展させたら、人類は宇宙人の手を借りなくても崩壊し、互いに殺し合い、やがて消滅すると。その悲惨な世界を映像を通して作り上げることにより、悲惨な未来へのイメージを喚起させようとしたのではないでしょうか。ひとの醜さや弱さを、各シーンにこれでもかこれでもかとつぎ込んだスピルバーグ。善なる者などこのよには存在しないとばかりに、強い恐怖をスクリーンいっぱいに展開させました。
かつて、宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」で「世界全体が幸福にならない限り、個人の幸福はありえない」と書きました。一部の者が幸福でも、多くの者が不幸では、本当の意味で世界は幸福に向かっていないというメッセージです。たとえ多くの者が幸福でも、一部の者が不幸であっても同じことが言えます。いまも世界ではアメリカ政府に象徴されるユダヤ資本と、イスラム原理主義に象徴されるアラブ資本との大きな対立軸が存在します。大英帝国が世界を植民地化していた時代から、根本では世界の資本構造は変化していないのです。富める者どうしの骨肉の争いに、宗教や貿易、エネルギーや人種がからみとられて、力なきひとびとが苦しい生活を余儀なくされる社会は、決して幸福な社会ではありません。
5240.07/27/2005
もう、これ以上逃げられないと思ったとき、巨大なアンドロイドのてっぺんにカラスがとまるのを主人公は見つけます。シールドが消えていることに気づき、近くにいた軍隊に、そのことを伝え、そこからは一転して人類が宇宙人をやっつける結末へと展開します。
しかし、なぜ宇宙人たち(の乗ったアンドロイド)が、不良になったのかは明かされません。映画の最後にナレーターがわずかに理由を告白しただけです。主人公が無事に子どもたちを元妻のいるボストンに届けたところで映画は終わります。しかし、この終わりは、これから始まる世界の再構築への序章に過ぎないと思いました。世界中で、なにもかも根こそぎ、破壊されてしまった状況から、わずかに生き残ったひとたちが、その後も生き続けることができるとは思えないからです。食料・通信・エネルギー・政治・治安など、すべての機能が停止してしまった世界。たくさんの遺体が放置され、腐臭を放ち、病院が崩壊した社会。宇宙人たちはやられてしまいましたが、やがてわずかな時間をおいて、人類も地球上から消滅する未来を予感させる終わり方でした。
宇宙人たちが自滅してしまった理由は、細菌による感染症でした。これは映画がすべて終わり、最後にナレーターによって明かされます。宇宙人たちは、100万年もの長い間、地球上の生物を長く観察してきたはずです。だから、微生物を観察の対象から外していたと考えることは自然ではありません。人類が登場してからも、コレラやチフス、インフルエンザなど、世界中でたくさんの死者を出した伝染病が猛威をふるいました。それらを観察し忘れたと考えるのも自然ではありません。
また、主人公が元妻のいるボストンの住宅街に子どもを連れて行くラストシーン。よのなかのすべてが破壊され尽くした状態のなか、なぜかその住宅街一帯だけは、ほとんど無傷で残っていました。たまたまアンドロイドからの攻撃を免れたのでしょうが、だとしたら通信が遮断された状況で、よのなかに何が起こっていたのかを知る手段のない元妻の家族にとって、疲れ果て、荒れ果てた主人公と子どもたちが到着したとき、まず「いったい、何があったの?」という問いかけから始まると思うのですが、すべてを理解したような設定になっていました。子どものうち、兄だけが途中から主人公と妹と離れ、軍隊とともに決死の攻撃に参加します。どう考えても生き残れる状況ではないなかに、兄は突撃していったのに、主人公たちよりも一足早く元妻(兄にとっては母)のもとにたどりついていました。その兄から状況を聞いていたとしたら、元妻の家族がすべてを理解していたのは納得できますが、それにしてもなんらかのリアクションがあってもいいのではないかと思いました。
5239.07/26/2005
主人公はわけがわからず、急いで自宅に戻り、子どもたちとの逃避行を始めます。
子どもを預けに来た元妻のいるボストンまで、子どもたちを連れて行くのがストーリーの縦線です。異常な物体の放つ強力な磁力の影響でしょうか、あらゆる電気がショートします。そのため、車は動かなくなります。修理を終えた車を、修理工場から盗み、主人公はボストンへの逃避行を決行します。途中、車が止まってしまったひとたちの群集のなかに入り込み、銃をもったひとに車を奪われ、フェリーに乗ったら、水中から出現した怪物にフェリーごと転覆させられます。軍隊が攻撃を試みますが、ことごとく撃滅させられ、怪物が出現した一帯は廃墟になります。地下部屋のある家に隠れた主人公は、元救急車の運転手だったという男と身を潜めますが、その男が異星人たちが探索にきたときに地下トンネルを掘ろうとして音を発したので、娘がいる前でその男を殺します。
スピルバーグは、これでもかこれでもかという迫力と深さで、ひとのこころの弱さや醜さを画面に展開します。
異星人たちは、100万年も前に、地中深くロボットを埋め込み、いまになって地球に乗り込んできたという設定なのですが、カメラが徹底的に主人公のトム・クルーズとともに動くため、彼が知りうる情報しか観客には伝わりません。だから、なにがどうなっているのか、周囲の状況はどうか、政府はなにをしているのか、世界的にはどうなっているのかなど、多くの情報から孤立した不安定で不気味なシーンを作り上げるのに成功しています。
テレビクルーと出会った主人公は、今回の仕業は、ヌルヌルしたからだをもつ、人間のように目のあるカニのような足をもつ宇宙人たちによるものだということを知ります。いなずまが走ったときに、高速で地中に宇宙人を乗せたカプセルが侵入し、地中深く埋めてあった巨大なアンドロイドに乗車(というか、一体化というか)して、運転(というか、操縦というか)している映像を見ます。そのアンドロイドは、次々と人間を抹消し、あるいは生け捕りにして体液を吸い取り、ときどき血液を霧状にして放出。
登場人物が「これは人類の駆除だ」というせりふがぴったりあてはまります。
かつて、ETでファンタジックな宇宙人のイメージを知らしめたスピルバーグの作品とは思えない凶悪さを、今回の宇宙人たちは発揮し続けました。
5238.07/25/2005
わたしは映画が好きです。
子どもの頃、大船にはオデヲン座という映画館がありました。正月と夏に、父に連れられて松竹映画「男はつらいよ」を見に行くのが何よりもの楽しみでした。仕事が忙しくふだん家にいないことが多かった父にとって、年に2回の家族孝行だったのかもしれません。わたしは、寅さんの映画も好きでしたが、それ以上にその映画を大船にある撮影所が作っていることに興味がありました。撮影所は一般のひとは立ち入り禁止です。門のところには衛視がいて、通行を監視しています。あの門の向こうで、どうやって映画が作られているのか、とても興味をもちました。
今月は時間を見つけて、3本の映画を見ました。スティーブン・スピルバーグ監督の「宇宙戦争」。ジョージ・ルーカス制作総指揮の「スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐」。実話を基にした韓国の「マラソン」。どの映画も見ごたえがあって、とても楽しめました。あらためて、映画のもつ魅力:フルスクリーン迫力とここちよい音楽:を堪能しました。3本とも内容は大きく異なります。あまりジャンルにこだわった見方はしませんが、ホラーやバイオレンスものには行きません。最近は戦争ものにも行かなくなりました。
「宇宙戦争」は邦題が喚起するイメージとは異なる内容でした。原題の「the war of world」の訳し方の問題ですが、「世界の終わり」「終末」の方が内容に近かったと思います。スピルバーグがメガホンをもち、トム・クルーズが主役を演じるという話題性が先行した感じもしますが、いままでのスピルバーグ作品のもつファンタジー的な部分は、まったくありません。その残虐性は「プライベート・ライアン」の冒頭シーン:気持ち悪くなるひとたちが量産された実写と見間違う残酷戦闘シーン:が最初から最後まで続くと考えればいいでしょうか。
港湾労働者の主人公は妻と別れ、裁判で週末に2人の子どもを預かる約束になっています。その日も2人の子どもを引き取り、退廃した週末を過ごすはずでした。しかし、みるみる空に暗雲が広がり、稲妻が走ったとたん、異常事態が発生します。地中から金属とも甲羅とも思える生き物のようなロボットのような鋭角の触覚や手足をもつ巨大な物体が出現します。その物体は、青白い光線を発して、建物を切り裂き、道路を寸断します。さらには触覚から赤い光線を発して、たちまちのうちに人間を白いパウダーに変えてしまいました。それは光線を浴びて、人間が一瞬にして蒸発してしまうかのようです。
5237.07/23/2005
けさは午前3時半に起きました。
猫を2匹飼っているのですが、その1匹が「餌をくれー、腹が減ったぁ」と枕元で鳴くので、そのまま起きてしまいました。昨夜、同僚らと藤沢で暑気払いをしたので、帰ってきてすぐに寝てしまいました。だから睡眠時間は十分です。起きてから、冷蔵庫を開け、パプリカを発見。これはマリネを作ろうと思い、中華なべに油をしき、パプリカ・きゅうり・ピーマン・人参・鶏肉を揚げました。そして、スライスしたトマトとキウイをのせ、オリジナルドレッシングをかけて完成です。ドレッシングはレモンと酢に塩と胡椒で味付けをして、最後に少しだけごま油をまぜました。それらをタッパーに移し、冷蔵庫に入れます。続いて自分の朝食作り。家族はグーグー寝ています。一人前のラーメンを作りました。生麺を使います。麺はお気に入りの中華街・永楽製麺所のイーフー麺。醤油スープで作りました。具は、マリネを作ったときにドレッシングと混ぜなかったものを少し分けておいたので、それを使います。そこに、刻みネギとキニラを乗せ完成。いつもより涼しい朝でしたが、それでも食べていたら汗がじっとり出てきました。
午前6時に家を出て、近くの小学校にソフトボールの試合に行きました。自主的なソフトボールリーグが今月から開幕していて、きょうは2試合目です。前回は負けてしまったので、きょうは勝ちたかったのですが、見事に11対0でシャットアウト。家に戻ってきて、汗を流すために入浴しました。9時半から湘南に新しい公立学校を創り出す会の会議が藤沢であるので、それに間に合うように家を出ました。昼まで会議をして、大船をぶらぶら。3時前に帰宅して、このウエイを書いています。
こうやって文章にするとなかなかハードな土曜日ですが、いつものことなので、わたし自身はとても元気です。ソフトも湘南に新しい公立学校を創り出す会も自分の意思で参加し、じぶんのやりたいことだからだと思います。そこに集うひとたちとの時間が、とても楽しいことも、元気をアップさせています。
週末をウィークデーの疲れを取るのに使い、月曜から張り切るという考え方もあります。でも、わたしは何十年もこのような日常を過ごしているので、逆にたまに用事のない週末を過ごすと、かえってからだから元気が抜けて、風邪を引いたり、けがをしたりするのです。いつもここちよい緊張感に包まれているのがいいのかもしれません。
5236.07/22/2005
夏休みに入りました。
子どもたちは9月1日に登校するまで長い家庭での生活が始まりました。
わたしが教員になった頃は、教員の自宅研修が認められていたので、夏休みなどの長期休暇のときは出勤しないで自宅で仕事をしました。自宅なので仕事といっても、厳密に勤務時間を遵守するというわけではありませんが、教材研究や資料集めなど、学校にいたらできないような事務仕事をする貴重な時間でした。美術館や博物館にも行きました。日常的に自宅と学校を往復していることが多いので、見聞を広めるだけでも常識を身につけるのには必要な研修権だったと思います。
しかし、教員は大勢います。研修申請をしておきながら、家族旅行に行ったり、パチンコに行ったり、申請と実態が違うケースが表面化しました。その後、自宅以外の研修については厳密な報告書の提出が義務付けられます。入場券やパンフレットなど、実際に申請した研修場所にいた証明を添付して提出するものでした。いまもこの制度は残っていますが、提出された報告書をだれがどのように管理しているのかはまったく知らされていません。また、最近では休館日の日に図書館に行った報告書が提出されているなど、虚偽報告が表面化し、自主的な研修もしばりが厳しくなっています。
どんな制度を導入しても、そこから抜けていく、悪いことを考えるひとはいるものです。そのような事態が発生したとき、当事者が責任追及されないで、組織全体が保守的なルールを強化する傾向が、ここ数年の教育界の現実です。その結果、自らの頭で物事を考えない教員が増えていくのは当然の帰結です。自分で考えるゆとりが認められなくなり、指示や指導が強化され、言われたままに行動することが求められてきたからです。
結果として、民間企業並みに5日間の夏季休暇だけが権利として残りました。それ以外は原則的に出勤です。自主研修も認められていますが、報告書が厳密になり、研修申請が内容によって認められないので、行政が企画する研修や研究会への参加が強制されています。わたしは、子どもたちが学校に来る期間に「あれをしよう」「これをしよう」と思っていた仕事を全部夏休み期間中にまわすようにしました。また、それ以外はふだんほとんど取得できない有給休暇を集中的に消化するようにしています。
5235.07/21/2005
夏休みを前にして、給食がなくなったり、午後の授業がカットされたりしたことを、何度も「どうして?」と質問されました。昼休みにみんなで遊ぶ時間がなくなってしまったことも「なんでぇ!」と不満をぶつけられました。一度や二度ではないので、事情を説明することが意味をもっていないことがわかります。給食がなくなったこと、午後授業がカットされたことと、それらが夏休みを前にした特別メニュー体制であることがつながっていないので、理由を説明しても意味をもたないのです。だから、そんなときは少しずつ夏休みに近づいていくと学校生活に変化が生じることを具体的に指導していくしかないのでしょう。
大掃除は、そんなことがからだをもってわかる区切りの活動でした。
机やいす、大きなテーブルやソファをみんなで協力して教室から廊下に出すだけで、いつもと違う日常を子どもは体感できます。耳で聞く情報ではなく、変化の渦中で、手足を使い、変わっていく様子を視覚的にとらえることで、夏休みが近づくことと結びつけていきます。長い休みの前には、大掃除をするんだということがこころに残れば、次の休みの前にも意識付けがスムーズに行くと思います。
ビニールの床にとても汚れがついていたので、クレンザーをまきながら、たわしでこすり落とします。その後を子どもたちが水のついた雑巾できれいにふき取ります。しかし、段取りや自分のやっている仕事事態が飲み込めない子どもは、ツルツルすべる床がおもしろいらしく寝転がってすべり感覚を楽しんでいました。また、クレンザーのビンを片手にあちこちに白い液体を撒き散らすのがおもしろくなってしまった子どもは、やがて自分がすべって転びました。わたしは全身が汗でびっしょりになりました。大掃除の途中で、シャワールームがあることに気づき、子どもたちが帰った後にのんびりシャワーを浴びました。シャワーが使えるようにするまでに、何分間かさび色の水を流し続ける必要がありましたが。
昨今、これまでの3学期制から前期と後期の2期制を導入する公立学校が増えてきます。多くの子どもにとっては問題がないのかもしれませんが、特学の子どもにとって、ある日突然長期休暇になってしまう2期制は、気持ちの切り替えが難しいまま休みに入るような気がしてしまいます。
5234.07/20/2005
本当の自分やにせものの自分という考え方は、自我が強くなってからでは通用しないと思います。全部、本当の自分であることがわかっているので、悪いイメージの自分を固定させてしまう危険性が生じるのです。しかし、自我が形成される前の段階では、自分とそれ以外の区別があいまいなので、自分自身についてもそんなに明確なイメージをもっていません。だから、魔法で生まれかわるようなイメージのほうが、それまでの自分を払拭して、いいイメージの自分を呼び戻しやすいと考えます。
特学には年齢の違う子どもたちが在籍しています。それぞれのあゆみも違います。だから、周囲の子どもたちの声や行動に気をとられると、自分のことに気持ちが向きにくいDのようなタイプの子どもには、落ち着けない条件がそろっているともいえます。しかし、40人近くのクラス集団にいたら、もっと自分が見えなくなるでしょう。それは、崩れていく・壊れていく印象とつながります。せめて、特学ならば指導者の人数が多いので、気持ちが自分に向きにくくなった子どもを見つけたとき、仕切り版の向こうに連れて行き、拡散した気持ちが安定するまで寄り添うことで、Dのようなタイプの子どもに過ごしやすい環境を用意しています。それでも指導者はほかにいるので、学習がストップすることはありません。個人を大事にするという具体的なかたちです。
特学の子どもたちのほぼすべてに共通している特徴に「場面の切り替えが苦手」というのがあります。
とくに突然の予定変更には対応できないことが多くありました。また、防災訓練や遠足などの日常の学習予定とは違うメニューに対しては、事前に連絡はしてあっても、行動が遅れたり、行動を停止したりすることは珍しくありませんでした。だれにも、予定外の行動に対する不安から、行動が遅れたり、行動を躊躇したりする傾向はあります。それは本能的な部分での防衛反応とも考えられますが、そればかりでもないかもしれません。事前の連絡そのものがわかっていなかったり、忘れてしまっていたりということも考えられます。
そんな子どもたちに、夏休みという、学期中とは大きく違う場面が近づいてきました。
5233.07/18/2005
Dはいまの時代だからかもしれませんが、おそらくAD/HDの傾向が強く見られるという言い方があてはまります。
まるで、ひとりのこころに何人かの人格がいるかのように、だれかをぶってしまう、やさしい声かけをする、仕事を積極的に担当したい、ひとりになるのを怖がる、おとなの会話を細かく覚えている、気づくとどこかに逃げているというつながりのない行動を連続します。ひとつひとつの行動に、それ以前の行動からの引継ぎがないので「どうしてぶったの」「どうして、じっとしていられないの」「どうして」「どうして」という注意の仕方は、本人にまったく効果がありません。おそらく、自分でも言葉でうまく整理がつくほどの理由があって行動を起こしているわけではないのでしょう。
いっしょに仕事をしている担任は「きっとDには、たくさんのトゲトゲが見えてしまうのかも」と考えます。バラの茎をもって、そこについているトゲをひとつひとつ取り除く作業が、ぶったり、逃げたり、奇声を発したりという行動になっているのかもしれません。もしも、Dが40人の子どものなかにいて、日常的に学校生活を送るとしたら、担任はとても気を使い、周囲の子どもはDのことをやがて避けるようになってしまうでしょう。しかし、特学ではそんな心配は無用です。Dにあった指導計画を立て、Dが過ごしやすい日常を作ることを優先するからです。
蹴ったり、ぶったりして、ほかの子どもたちがおびえてしまうような行動をとったとき、Dをほかの子どもから離し、胎児の姿勢にして抱きかかえます。全身が硬直して、気持ちがこわばっているのがわかります。やがて、自らを安心させる方法としてDは指しゃぶりを覚えました。わたしは「いま、にせもののDがやってきているよ」と小さな声をかけます。「にせものじゃないもん」と口を尖らせるDに「だって、本当のDはひとをぶったり、蹴ったり、泣かせたりしないことをしっているもん。本当のDに返ってきてもらおうよ。こころのなかで呼んでごらん」とつぶやきます。すると、Dは両手で頭をかかえ、目を閉じ、しばらく無言になります。そして、おだやかな表情で「本当になった」と告げます。そうしたら、また集団のなかに戻します。本当のDは10分ぐらいは持続しますが、またにせものが登場します。そのたびに同じことを繰り返します。
5232.07/16/2005
このように、注意力が欠けていて、そわそわしたり、動き回ったりする傾向が強い子どもを昨今ではAD/HDと診断するケースが増えてきました。
AD/HDについては、「理解と支援で障害を個性に」を目指している「えじそんくらぶ」のホームページで詳しく紹介されているので参考にしてください。http://www.e-club.jp/
日本語で、注意欠陥多動性障害と呼ばれる脳神経学的な疾患は、アメリカで研究がさかんに進められ、さまざまな問題はあるにせよ投薬によってコントロールが利くことがわかってきています。しかし、投薬がすべてではないという臨床レポートもあるので、安易な服用は危険でしょう。
先述のホームページにとても重要なメッセージが載っています。
……
「AD/HDの特徴を理解し、それによるハンディキャップ(日常生活での支障)を軽減することでAD/HD的症状は、ひとつの個性になることがあります。さらにAD/HDを単なる障害としてとらえず、才能として活用することも可能なのです。つまり見方を変えれば、「ひとつのことに集中できない」ことは「多くのことに興味を持てる、同時にいくつもの仕事をこなせる」ということであり、衝動的とは実行力と行動力があると言えるのです。大切なことは周囲の理解ある言葉かけによる本人の自信喪失の防止です。支援の第一歩は思いやりのある言葉がけ、そのためにはAD/HDの正しい情報が不可欠です」。
……
このことは、AD/HDにだけいえることではなく、ほかの多くの障害についてもいえることだと思います。
ものの見方を変えて、本人のよさを伸ばす努力を周囲が考え、環境を整えることができたら、生きるうえでの困難さは減少し、ほかのひととの違いを指摘されることもなくなるのです。かつてのわたしを思い浮かべながら、AD/HDの診断基準をあてはめてみると、わたしは完璧なAD/HDだったといえます。それはもう自信をもてるほど、質問項目にYesが並ぶのです。
5231.07/15/2005
わたしは子どもの頃、教師に「落ち着きがない」としょっちゅう言われて育ちました。
通知表にも、間違いなく「落ち着きがない」と書かれます。小学校時代は、ずっと同じことを書かれ続け、中学でも似たようなことを書かれ続けました。高校になってからは、なぜかそのように言われることは少なくなりました。高校は、受験して入学するので知的レベルが似たような子どもたちが集まり、落ち着くようになったのかもしれません。いや、小学校時代、そんな理由で落ち着いていなかったわけではないと、われながら思います。
落ち着きがないという表現は、具体的にどういう状態をさすのか、子どものわたしにはまったくわからず、親に聞いたことが何度もありました。でも、そのたびに「いいんじゃなの?」との返事。だから、落ち着きがない状態は、ネガティブなものではないと思っていた時期もあったほどです。
いま、学校に勤務するようになって、当時、同級生だった仲間は10人集まれば10人とも確実に「お前が先生なんて、信じられない」と驚きます。落ち着きがない結果、教室の後ろに立たされ、次に廊下に立たされ、しまいには「帰れ」と言われて本当に帰ってしまったこともありました。自分自身の問題として、教師が立腹していることがまったく理解できていなかったのです。
クラスを担任するようになって、当時のわたしが何人もクラスにいることに気づきました。教師が話をしているとき、子どもがみんなの前で発表をしているとき、つまり集中するポイントが暗黙の了解で決まっているときに、となりの子どもとおしゃべりをしたり、ノートを出してパラパラ漫画を描いたり、あんまり怒られるものだからやがてはこっそりするような知恵はつくのですが、基本的にはみんなが集中しているポイントに同調できない子どもたちがいたのです。わたしは、とても懐かしく、昔の自分を見るようでほほえましく思いました。あらためて、なぜそのような行動に出ていたのだろうと思い出すと、ふたつの大きな理由があることに気づきます。ひとつは、よほど集中するポイントがつまらなくて興味を引かない対象だからです。そんなものに集中を強制されても我慢は長続きしません。もうひとつは、集中しなければならない状態であることに気づいていないからです。「話を聞いていないからいけない」とよく怒られましたが、子どものこころに届かない指示しか出せない教師に親近感をもつ気持ちにはなれません。そうなると悪循環で、どんどん教師の指示がわからなくなり、仕方がないからほかのことをやり始める繰り返しにはまっていたのです。
5230.07.14/2005
ロンドンで同時多発テロが発生しました。
地下鉄とバスを狙った爆弾テロです。多くの方々が犠牲になりました。ちょうどG8がイギリスで開催されていたときを狙ったものと言われていますが、本当のところはまだわかりません。これから警察の捜査によって事実が究明されることを祈りますが、こういう種類の犯罪は権力が介在して、真実がひとびとに知らされないことが多いので、公式発表はあまり信用していません。
テロを主導したといわれるアラブ系のテロ組織は、インターネットを通じて犯行を正当化する声明を発表しています。アフガニスタンやイラクでの欧米の攻撃と侵入に対する報復の意味があるようですが、シンプルにいえば仕返しをしていることになります。
暴力の連鎖は、武力をだれが行使しても止まりません。また、個人が行使しても、違法集団が行使しても、国家が行使しても、武力に違いはありません。傷のつき方に違いがない以上、恨みや憎しみはだれもが共有し、こころのなかに想像の敵を作り出し、味方としての想像の共同体を作り出してしまうのです。このような繰り返しを人類は、何千年も昔から止むことなく行ってきました。科学の進歩は、軍事と密接に結びついてきたともいえるのです。
冷戦終了後の世界の対立軸は、貧富です。貧富の対立が世界各地の紛争の根本にあります。宗教的な意味づけや、歴史的な意味づけが行われていますが、それらの背景にあるのは貧富の対立です。そのことを無視して、暴力の連鎖を食い止めることはできません。貧富の差は、一部の富める者たちがつねに生き残る歴史を物語っています。その影で傷つき、倒れ、息絶える多くのひとたちの悲劇は闇に消え去ります。
爆弾も銃器も軍隊もゲリラも、とてもお金がかかります。これらを購入し、準備し、整備し、つねに使える状態に保つのにもお金がかかります。それを使えるひとたちを養成し、雇い、待機させるのにもお金がかかります。集中した富を、戦争やテロに使うひとたちがいる限り、世界に平和は訪れないのです。
5229.07.13/2005
自分の子どもが通っていた小学校や中学校のPTAソフトボールチームに所属するお父さんたちが中心になって、3年前から自主的なソフトボールリーグ「大船カップ」を始めています。
自主的な運営なので、組織だったものや規約などはとくにありませんが、情報連絡をこまめにとって、ゲームの進行はとても機能的に行われています。なんでも、まずは組織作りと考えがちのひとには信じられない機動性です。
去年までは、市内の公共の運動広場が使えたので、所属する8チームが集まって試合を行っていました。とても便利で、広いグラウンドなので、同時に2試合できていたのです。しかし、その広場から有害物質が土壌に含まれている事実が発覚し、ことしは使えなくなっています。ブルーシートが敷かれ、有害物質を含んだ土壌を撤去する気配は、まったく感じられません。少年サッカーや少年野球でも多用していたグラウンドなので、それぞれことしの場所取りで必死になっています。大船カップのように自主的なリーグには、小学校や中学校の校庭を優先的に使う権利がありません。3年目のことしは、ゲームをする場所がないという残念な理由で開催できないかもと心配していました。
6月に各チームの代表者が大船の焼肉屋に集まり、ことしの運営方法について検討しました。検討といっても、みんなすごい勢いで焼酎をビンごと頼むひとたちで、どこまで覚えているのか、わたしも含め不安でした。そのなかで、決まったことが、今月になって確実にかたちになってきました。
全部のチームが同時に集まるのは難しいので、半分の4チームずつ集まって、2つのカンファレンスとしてリーグ戦を行い、その上位チーム同士で決勝トーナメントを行うことになりました。問題は、会場ですが、それについての検討段階では、わたしはすでにただの酔っ払い状態だったのです。
その大船カップが、9日の土曜から開幕したのです。今月はあと2回の土曜を使って、ゲームがあります。4チーム総当りを2回ずつ行います。全部で12ゲームもあるので、天気の影響を考えながらも試合が消化できるかどうか心配ですが、アバウトなひとたちが多いので、なんとかなるでしょう。土曜の6時半ごろに小学校のグラウンドに集まって、7時過ぎからゲームを行うハードスケジュールの連続です。
5228.07.12/2005
きょうから学校にテレビ局の方が番組制作のために来校しています。
わたしはいつも7時半ごろ出勤するのですが、その頃にはもう関係者が車で来ていました。その番組では、かつてその学校を卒業した有名人にふたたび来校してもらい、子どもたちにそれぞれの特技をいかした授業をします。先日、放送されたものでは、アメリカ・メジャーリーグで活躍している松井選手が登場していました。
番組を放送するのは大きな放送局ですが、制作しているのはきっと番組制作会社の方々だと思います。そこに放送局から責任者が派遣されているという感じでしょうか。
それにしても、きょうから3日間も撮影に時間をかけるのにはびっくり。日曜日にほかの子どもたちに迷惑をかけないように撮影するのかと思っていたら、ふだんの授業日に連続で行うのです。6年生のあるクラスが撮影に使われます。きょうは1時間目から5時間目まで全部を「授業」のために撮影していました。
テレビの撮影のためなら、学校はなんでも許すのかと思うことがありました。まず、きょうは朝から帰りまでチャイムが切られました。いわゆるノーチャイムです。おそらくカメラがまわっているときに、チャイム音が入ると邪魔なのでしょう。チャイムの効用については、わたしも考えるところがありますが、このようなかたちで一方的にオフにしてしまうのはやり方が違うと感じました。特学の子どもたちは、場面の切り替えが苦手です。時計を見て行動を切り替えていくことができるのは少数です。だから、チャイム音を場面転換のきっかけにしている子どもは多いのです。それがいいことか、悪いことかは別にして、突然きょうだけチャイムがなくなったので、予想通り、子どもたちは行動の切り替えがうまくいかないことが多くありました。とくに休み時間から授業時間への切り替えができずに、いつまでもブロックや砂場で遊んでいた子どもたちは「なんで、もう遊んじゃいけないの」と何度も質問していました。
次に感じたのが、いつも特学の子どもたちが朝の運動や昼の自立活動で使っているカーペットが敷いてあるコモンスペースが撮影のために使われるので一切使用不可になったことです。
5227.07.10/2005
Cは言葉を発することが苦手です。
言葉を聞いて、理解することはできますが、自分の気持ちを伝えるときに言葉が使いづらいのです。
喋るときは、あいうえおの母音が中心になり、トイレは「おいえ」、とれたが「おえあ」になっていまいます。言葉の発することが、ほかの子どもに比べて遅れているというよりも、なにか機能的なトラブルがあって、顎や舌がうまく使いこなせないのだと思います。しかし、わたしは3ヶ月以上、Cとともに学校生活を過ごしていますが、Cの気持ちを理解できないわけではありません。よくわからないこともありますが、いまでは日常生活上のほとんどのことを理解できます。それは、言葉だけでなく、ジェスチャーや絵や文字の書いたカードを意思疎通の媒介手段にしているからです。やがて、文字を覚え、文字を書いたり、ワープロで文字を打てたりするようになったら、いまよりももっとCの気持ちを理解できるようになると考えます。
Cが何を考え、何を伝えようとしているのかを知るために、保護者とのコミュニケーションがとても役立っています。給食の時間に、突然、泣き出して、すべてのメニューを拒否したことがありました。なぜ、嫌がるのか、どうしたいと思っているのかがわからず、保護者と相談し作戦を立てました。かばんに本人の好きなお菓子を入れて、気持ちを安定させた「おたから作戦」。いつも家で使っている食器持参の「アルマイト排除計画」。ひとつひとつの作戦や計画が効果をあげたのか、あげないのかは、よくわからないのですが、保護者とともに子どものために必要な個別具体的な手立てを実行し続けることが、大切なのだと思っています。結果として、Cが給食をすべて拒否することは少なくなりましたし、嫌なときは泣いたり、怒ったりするのではなく、この給食は食べたくないという気持ちを言葉とジェスチャーで表せるようになりました。
Cの得意なことは手指を使った作業です。刺繍はものすごい速度で縫い上げます。針に糸を通すのも、ほかのひとがやるのをよく見ていて、模倣しながら、自分でできるようになりました。
5226.07.08/2005
小学校の6年間は、学習内容が短期間にとても難しくなります。
これは、多くの子どもが勉強を嫌いになる大きな原因だと思っています。しかし、公教育のなかみを検討するひとたちには、そのことがわかりません。なぜなら、そういうひとたちは、小学校を含めた学校時代に、それらが苦ではなかったからだと思います。自分が苦しくなかった経験から、多くの子どもたちも同様に現在の学習内容で十分であると考えているのです。これは、学校の教師にも言えることです。勉強が苦手で、授業をよくエスケープしていたひとたちが、将来の職業に教師を選ぶことはめったにありません。必然的に、学校時代によい思い出があるひとたちの集まりやすい職業になってしまうのです。
しかし、たとえ自分が苦しくなかったからといって、実際に苦しんでいる子どもを想像する気持ちがわかないとしたら、教師としてはいいかもしれませんが、教育者としては失格でしょう。勉強が得意で、学校が楽しかったからといって、授業がつまらなくて、よくさぼる子どもの気持ちを考えようとしなかったら、自分と似たようなタイプの子どもばかりを引き立ててしまう再生産の連鎖が起こるでしょう。
幸い、特学の子どもたちは年齢に関係なく、個別に指導計画が作成されるので、同じ年齢だからといって同じことを機械的に学習するということはありません。ひとりひとりが違うという当たり前のことが、公教育のなかで堂々と保障されています。この子どもたちは、遅れているわけでも、何かが足らないわけでもないのです。自分のペースで学習をすることが認められているということなのです。通常級の子どもたちには、残念ながら各自のペースで学習することは許されていません。クラスや学年という大きな集団全体にターゲットを設定しているので、最初から学習についていけない子どもができてしまうことを前提にしています。そのことに多くのひとたちは気づいていません。
5225.07.07/2005
学校では医学的なアプローチはできませんが、手指の未発達が見られる子どもは、わたしが担当している子どもたちのなかに、決して少なくありません。
その子どもたちに、鉛筆を持たせるのは苦痛を与えることにつながります。鉛筆は、かなり手指が自由に使える・指によって力の入れ方に違いをつけられる・細いものをつかむ感覚を取得していることが必要になります。少しの力で字を書くと、とても薄い字になってしまい、読めなくなってしまいます。
そんなときは、サインペンやマジックなどが有効です。少しの力で、線や色がはっきり描けるペンを使うのです。最近はボールペンのなかにも、軽いタッチでインクの出がいい製品もあります。文字や絵は、子どもにとって、自分の力で周囲に向けて情報を発信する手段です。言葉のように道具のいらない手段と違って、道具を使うことで、記録され、目に見えるかたちになります。これは、発信した後で、自分が何を描いたかを振り返るのに役立ちます。
わたしは、ポスカを使っています。ポスカは、ポスターカラーなのでとても発色がはっきりしています。そして、ペン先に力を入れすぎると、自動的にペン先がへこむようになっています。手指がうまくコントロールできないとき、ペン先をギュウギュウ紙面に押しつけて、マジックやサインペンの先端をだめにしてしまうことがありますが、ポスカではどんなに押しつけても、ペン先にインクが供給されるだけなので、先端が壊れることはありません。
脳の成長過程で、手指機能だけがゆっくりということは考えにくく、手指がうまく使えないときは、短期記憶・字を読む・対応・カテゴリー化・洋服を着る・反対など、ほかの機能でものんびりな成長を示していると考えられます。だから、手指機能の向上は、ペンを使って文字や絵を描くことだけではなく、ほかの部分の回路がつながりやすくなる可能性も秘めています。逆に言えば、手指機能の向上につながりにくい取り組みは、ほかの部分へも悪い影響を与えがちなのです。無理に鉛筆をもたせて、なぞり字を書かせたり、急いでひらがなや数字の読み書きをドリルさせたりすると、うまく書けない劣等感が増幅し、やがて文字や数字、ペンへの拒否反応を示すようになります。
5224.07.04/2005
特学の子どもたち。
その子どもたちは、わたしにこれからの教育のあり方をいつも教えてくれます。だから、子どもたちの様子を個人情報保護ぎりぎりのところでオープンにしていくのは、障害者差別を払拭するためでも、障害者理解を広げるためでもなく、ほかの多くの子どもたちと同様に、わたしがいままで出会ってきた個別具体的な子どもたちと同様に、伸びていく、育っていく姿を、より多くのひとたちに伝えるためなのです。
「特学の子どもたちはバカばっか」と平気で口にする子どもは、きっと親の受け売りなのでしょう。そんなおとなを増やしてはいけないという気持ちから、実際の様子や変化の姿を伝えていきたいのです。
学校の学習が、ほかの多くの子どもに比べ理解しづらい子どもを、全体的な遅れ:知的障害として区別しています。また、計算や字を書くことや読むことなどの特定の力がつきにくい子どもを学習障害と呼びます。これは、ほかの多くの子どもが生きている社会では、暮らしづらい・生きにくいことが多いだろうということで、障害と区別しているのだと思いますが、本当にそんなことが言えるのかどうかわたしにはわかりません。
社会生活を送りにくくしている要因は、本人の問題ではないはずです。なのに、障害者という呼び方をして意識付けをしなければならないのはなぜでしょうか。政治や行政が音頭をとって、多くのひとたちが暮らしやすい社会を作ればいいのにと思うからです。しかし、そんな夢のようなことを叫んでも、いますぐになにも変わらないと思うので、あえてこの社会で、全体的な遅れがある子どもや学習障害がある子どもが、どうすればいまよりも少し生きやすくなるかを考えています。
遅れとして扱われるなかに、手指(しゅし)の未発達が挙げられます。5本の指をそれぞれ別々に動かすことは大変ですが、親指とそれ以外という使い方から、少しずつそれ以外が分化していくのが定型の発達と言われています。定型という表現も変な表現ですが。5本の指が別々に動くには、手のひらや指の機能的な成長とともに、脳から適切な命令が発せられる必要もあります。もしも、機能的な成長が見られても、指がうまく動かないときは、脳から命令が発せられていないか、命令が伝わる経路にトラブルがあるかを考えます。
5223.07.02/2005
子どもの年齢を聞くときについつい「何年生?」と学齢を聞きます。
家に帰った子どもにとりあえず「宿題はないの?」と尋ねます。
授業参観のために、仕事を休みます。
通知表をもって、いなかに帰り、成績をほめられお小遣いをもらいます。
日常生活に深く浸透している学校。これをわたしは日常生活の学校化と呼びます。かつて、職員会議で「学校神話」「学力信仰」の蔓延は、いまや宗教以上に強い影響力をもち、近所づきあい・友だち関係・親子関係までもが、学校の価値をもとに再構成されていると批判したことがあります。残念なことに、そのような状況をもっとも理解・把握していないのは学校関係者だと知りながら。それから10年以上になりますが、基本的に学校化には変化はありません。しかし、そんな浸透する学校を退避する子どもたちが増加してきたのは事実です。また、そんな学校化のなかで、「おとなしい・成績上位」のいままで学校化の恩恵をこうむってきたタイプの子どものなかに自我の崩壊ともとれる殺人や傷害事件が多発しているのも事実です。
6歳でひらがなの読み書きができないこと・7歳で掛け算九九が覚えられないこと・8才で分数の概念が理解できないこと・12歳で日本の歴史を知りたくないこと……。そういう子どもがいても、なにも不思議ではないのに、学校化した家庭や社会はそれを許しません。そして、遅れているという表現でひとくくりにしてしまうのです。
知的障害といわれる子どもたちは、学校化によって生み出された要素がとても強いとわたしは感じます。時間をかけて、本人のペースで学習にのぞめば、意欲もわき、知識もつくのに、障害と区別してしまうことはひとにやさしいとはいえないと思います。また、特定の学習能力、たとえば漢字が書けない、計算が苦手などの特徴を学習障害と区別してしまうのは、学校化の象徴ともいえるでしょう。150年前の日本社会では、文字の読み書きができるひとのほうが圧倒的に少なかったのです。それは、文字の読み書きが生活に必要なかったからです。そうやって考えると、いまの学校で扱っている内容を、くまなく子どもたちが習得しないと、おとなになって生きてゆくのが困難になるとは思えません。情緒障害には、知的な遅れや学習障害をともなうケースが多いと書いてある専門書がありますが、ものごとに深くかかわる特徴が強い子どもが、次々とメニューの変わる学校の授業に対応しにくいのは当然のことです。なのに、まるで併発症のように分析する考え方を、わたしには理解できません。
5222.07.01/2005
この絶対的なにかが日本の場合、学校的価値であることがとても多いのは不幸なことです。
学校的価値とは、年齢によって、備わっていく力に違いがあり、何歳になったらこれができ、あれができという基準が決まっている考え方です。
そもそも学校で教える内容は、国によって違うので、それがひとの成長にマッチしたものという考え方自体がつきつめれば論理矛盾を起こすのですが、多くのひとはそのことに気づいていません。日本では6歳になったらひらがなを教えます。しかし、それは6歳になればひらがなの読み書きができるようになるという意味ではありません。カタカナしかり、足し算しかり、引き算しかりです。なのに、かつてのわたしも含め、6歳の子どもをもつ親は、1年生の終わりになってもひらがなの読み書きができないわが子に直面すると、あせって無理やり教え込もうとします。
それは、その時期にマスターしておかないと、その後、ふたたび学習する機会がないからです。7歳になったら、6歳に教わったことが力になっているという前提で、レベルアップした学習内容が登場します。これを系統的学習といいます。系統的学習を全面的に否定するつもりはありません。簡単なことから難しいことへ学習内容を発展させていくことは自然な流れだからです。問題なのは、プレイバックのチャンスが学校にはまったく用意されていないことです。だから、あるときつまずくとそれ以上の学習がわからなくなってしまうのです。
これは、一部のエリートを養成する考え方が根底にあるとしか思えません。多数に同じことを教え、少しずつ内容をレベルアップして、より理解力のすぐれている者を育てていけばいいという考えです。その過程で多くの子どもは挫折感を味わい、学習への意欲を失い、同時に生きる元気も衰えさせてしまいます。しかし、ひとの能力はさまざまです。定型ではかれない質と量の違いをもっています。よく個性尊重という言い方をしますが、わたしは個性は尊重しません。それよりも個人を尊重する社会の実現が大事だと思っています。6歳でひらがなの読み書きができる子どもも、ひらがなの読み書きを10歳になってできるようになった子どもも、どちらも同じように個人として尊重されるべきです。個性のなかには、反社会的なものも多くあるからです。
5221.06.30/2005
個々人の特徴は様々です。おしゃべり、物静か、奔放、慎重、おおらか、のんびり、計画的、協力的、独創的。これらは、成長とともに身につく学習とは違い、学習しなくても、ある程度の傾向が最初からあるような気がします。
これに対して、甘えん坊、うそつき、暴力的、献身的、あきらめやすい、あきらめにくいなどの特徴は、成長とともに学習した特徴なのではないかと思います。親や友だちなど、どんなひととかかわってきたかによって作られるという意味です。暴力的な環境で育った子どもは、ほぼ確実に暴力性を学習します。スキンシップよりも、幼児期に言語で育った子どもは甘えん坊になる確率が高いと経験上感じます。
親が子どもをいじろうとすると、多くの場合は子どもの自立が遅れます。親が自分の生き方を充実させながら、ぎりぎりのところで子どもとつながっていると、多くの場合は子どもの自立がスムーズに進展します。わたしの考えは20年間の少ない実証データを根拠にしています。だから、異論があって当然です。しかし、このひとは自分のことで精一杯だなとか、子育てがかったるそうだなとか、自分の思い通りに子どもを育てようとしているなと感じる場合、子どもが思春期に入ってからの親子関係はあまりうまくいっていないことが多くありました。だれしも、自分のことで精一杯です。子育てはとても面倒です。できることなら、自分の思い通りに子どもがいうことを聞いてくれたら楽だと思っています。だから、そのように思ってしまうことは不思議なことではありません。
なのに、無理に余裕のあるふりを示したり、開き直って子育ては二の次と言い放ったりするのは、針が極端に振れすぎています。悩みながら、疲れながら、子どもとの時間を作っていくのが大事なのです。そんな愚痴をこぼしてくれる親からは、決して子育てがかったるそうでも、面倒でも、自分の思い通りに子どもを育てようとしているとも感じません。同じ悩みを共有しようとする、開かれた感覚がほとばしっているからです。
子どもとの時間は長い人生を考えたらわずかなものです。おそらく10歳を過ぎたら自我が成長し、思春期に入ったら反抗期を迎え、親から離れていくのですから、子どもと向き合う10年前後を、あーでもないこーでもないと、家族や知人、学校関係者などにこぼしながらくぐりぬけていけばいいのです。ひとりで悶々としたり、限られたひととのみ交流を終始したりでは、不安は増長され、絶対的ななにかを求めがちになってしまうでしょう。
5220.06.29/2005
Bは、いつもと違うことに対して抵抗が強くあります。
番号札が1から順番に8まで貼ってあったら、いつも8まで貼っていないと気がすまないのです。たとえば、学習の流れを順次示していくときに、あるときはステップが6や7で終わることもあります。それでも、8までないと許せないのです。黒板に1から7までの札が貼ってあると、内容はなくても8の札を探して7の下に貼る行動をとります。
だれにも、日常と違うことへの不安はあります。逆に言えば、きのうと同じきょうはとても安心するのです。しかし、変化への対応も、日常を乗り越えていくには必要な能力です。生きていくとき、いつもとちょっと違うことはたくさんあるからです。わたしは電車で通勤していますが、事故や故障でいつもの電車が来ないことがしばしばあります。そのたびに、ちゃんと定時に職場に着けるかな、いつになったら電車が来るのかな、なんでこんなことで悩まなくちゃいけないんだ……。とても不安になります。多くの場合、そんなこと言っても、なんとかなるさ、遅れて職場に着くのなら、事情を説明すればいいじゃないかと、不安をかき消す材料を考えるようにしています。不安いっぱいの胸中を、自分の力で気分転換しようとします。
その気分転換が、うまくはかれず、不安な気持ちを払拭できないとき、日常生活はとても生きづらいものになるでしょう。Bの人生を考えたとき、いつもと違うことに柔軟に対応できるようにしていくことは重要なことです。学習場面や日常生活のなかで、少しずつ変化していく課題をあえて本人に示し、新しいものへの不安な気持ちを、克服していく架け橋を作っていくのが、わたしの仕事です。
5219.06.28/2005
Aは、自分の行動を自分で抑制してしまう傾向が強くあります。
自分のやりたいことがあったとき、本当にそれをやってもいいのか、いけないのかの判断を周囲にゆだねるのです。そして、その結果を受けて行動するので、やってはいけないと指示されると、不満がたまり不安定になります。やってもいいことなのか、いけないことなのか迷ったときに、判断を周囲にゆだねることは、日常的にだれもが経験しています。ときには自分の責任を回避するために、判断を他者にさせることもあります。その傾向は子どもに強く見られます。「先生がいいっていった」「お母さんがいいっていった」は、子どもにとって自分の行動を正当化する正義の御旗なのです。
しかし、多くの場合は、自分のやりたいことのための行動なので、やりたくない判定がくだらないように工夫した物言いをしたり、期待と逆の結果になったら別の作戦を考えたりします。それは、知恵のなせる業です。その工夫ができずに、周囲の結果を必ず受け止めてしまう自分は、とても生きづらいでしょう。さらに、何度か判断をゆだねても、だれも応じてくれないとき、いつまでも同じ質問を繰り返し続けます。声の調子が次第に大きくなり、混乱が強くなり、最後は叫びます。
椅子から立ったとき「椅子を机にくっつける?」。部屋から廊下に出たとき「ドアをしめる?しめない?」。トイレで用便を足したとき「手を洗う?洗わない?」。欠席している子どもがいたとき「○○は、あした来る?来ない?」。Aの人生を考えたとき、いつもだれかがそばにいて、同じ質問を何度も繰り返す行動様式に付き添ってくれるとは限りません。いずれは、自分だけで生きる場面も予想しておく必要があります。だから、いまわたしは、自分で決めていいという許可権限をAに学んでもらうためのアプローチをこころがけています。言葉とジェスチャーで「困ったときは自分で決める」をキーワードにしています。今後は、これに文字のカードを加えていくつもりです。
5218.06.27/2005
特学の子どもたちに出会って3ヶ月が過ぎようとしています。
最初は、見えない障害と言われている自閉症や知的障害について、学術的なことをずいぶん調べていました。でも、専門書に記される内容は、わたしが日々接している子どもたちのなぜに迫るものでも、どうやってに迫るものでもなく、ただ特徴を連ねているものが多く、あまり参考になるものではありませんでした。もちろん、全部がそのようなものではなく、とても参考になるものもあったのは確かです。しかし、大事なのは、そのような専門的な知識ではなく、日々の子どもたちとの生活を通して、個別具体的な手立てを作っていくことだと感じました。
自閉症や自閉的傾向、アスペルガー症候群や注意欠陥多動性障害、高機能自閉症や自閉症スペクトラムなど言葉は数多くあります。それぞれに意味していることは違うのですが、子どもたちは区分された症例に個別にマッチするのではなく、少しずつそれぞれの特徴を持ち合わせているのです。
だから、同じような子どもたちと接しているひとたちとコミュニケーションを通して、日々のなぜやどうやってを意見交換し合い、互いに成果を共有していくことが重要なのです。考えてみれば、ひとそれぞれ生まれも歩みも違うので当然のことといえば当然のことです。なのに、最初の頃、こんな当然のことに気づかなかったのは、わたしの気持ちのなかに障害に対する誤解や偏見があったからだと思います。そんな誤解や偏見を、目の前の子どもたちが払拭してくれたのが、なによりも嬉しく、心強く思います。
5217.06.26/2005
まずは図工の時間を使った看板作り。うまくクレヨンを持てない子どもや、なぜかクレヨンを持つのを嫌がる子どもがいるなか、細かい作業が得意な子どもをほめながら大きな看板の絵を作成しました。その前に、ひとりひとりに絵本や図鑑を渡し、自分の好きなページを紙に写す学習をしていました。そのなかからメインキャラクターを決めました。全部で9枚の四つ切り画用紙を3×3につなげて、教室前の廊下につるして完成です。
次にお客さんに渡す特学カードとスコアカードをパソコンを使って作りました。名刺サイズにして、バックや文字を子どもに作ってもらい、わたしが印刷します。100人のお客さんが来ることを想定して、100枚を越えるカードをそれぞれ用意しました。
そして、プレゼントを作りました。これには課題の時間を充て、フェルトを使ったケムンパスを100匹以上作りました。色とりどりのフェルトを穴あけパンチでひたすらくりぬき、くりぬいた丸いフェルトを10個ずつ針で糸に通し目をつけて完成です。
こういった準備作業は、ひとつひとつが子どもたちにとっては大事な学習になります。10個ずつフェルトをまとめること・ボンドをつけて目的の場所に目をつけること・パソコンのキーを押して言葉を完成させることなど、学習の要素がたくさん散りばめられているのです。どれも、簡単にできることではありません。ひとつずつ見本を示し、興味がわくように声をかけ、集中が持続しなくなったら無理にそれ以上強制しないことを念頭に置きながら、本番に間に合うように準備を進めました。かつてわたしは普通級でも子ども祭りの準備を指導しました。そのときは、子どもたち個々の興味や集中を念頭に置くことはあまりありませんでした。むしろ興味がわかないときや集中が途切れたときには注意をしていたのです。しかし、よく考えれば興味がわかなければ能率は落ちます。集中が途切れたら効果は期待できません。それを注意という方法で無理やり乗り切っていたのです。特学の子どもたちには、そのような高圧的な方法は通用しません。子どもとともにのびてゆく、教育の原点を特学の子どもたちから日々教えられています。
5216.06.24/2005
24日は小学校で子ども祭りがありました。
わたしが担当している特殊学級でも、ボーリングを出店します。学校全体では、前半と後半にわけ、子どもたちがお店の店員になる時間帯と、各クラスをまわって楽しむお客さんになる時間帯を確保しています。特学では、前半にボーリング店をオープンし、後半はみんなでお客さんになりました。
9時から10時までボーリングを開店。特学担当として、はじめての子ども祭りだったので、本当に60分も子どもたちがひとつのこと(ボーリング店の運営)に集中できるのか、興味がありました。個別学習や課題学習では、よほどのことがない限り、30分以上集中することは困難です。ましてや、個人差があるのに、全体としての集中を維持しなければならないので、どんな表情や動きを示してくれるのか楽しみでした。
この子ども祭り関係の学習は、だいたい一ヶ月前から始まります。本番の直前にばたばたと準備をしても、子どもたちに子ども祭りがあるんだという気持ちが育ちにくいからです。特別活動・総合的な学習・国語・算数・図工の時間を使いました。特学には、社会や理科はないので、特学のほとんどの時間を使ったことになります。
去年の子ども祭りのビデオを見る。見ながら、ボーリングの流れを思い出し係りを決める。大きな看板を作る。お客さんにあげる景品を作る。本番を想定したリハーサルを繰り返す。文字にしてしまえば、これぐらいの準備になってしまうのですが、実際にやるとなると、それぞれにとても時間をかけました。
5215.06.23/2005
この事件で少年は、両親を殺した後、室内にガスを充満し、部屋もろとも爆発させようとしていました。
鉄アレイで父親を殺害した少年は、日頃からいつでも死にたいと漏らしていた母親も刺殺します。父親は土日や夏休みに、少年に休みなく手伝いをさせていて、それが反発を招いたと少年は供述しているそうです。いまの時代、15歳の息子に土日や夏休みにずっと手伝いをさせる父親がいるとは、にわかには信じられません。社員寮の管理とは、そんなに仕事があるのでしょうか。警察であることないこと喋っていなければいいと思います。本当に、父親がそれだけの要求を仮にしたとして、不満を抱えながらも従っていた15歳の自我って苦しすぎます。
また、少年は一部のひとたちには、とても礼儀正しく、節度ある子どもに思われていました。父親が厳しくしつけてきたのでしょうか。「お前は俺より頭が悪い」。殺害を決意した父親からの言葉です。子どもの内面を想像すると15歳に、そんな自尊心を傷つけることを言ってはいけません。親として、たしなめたいことや奮起を期待したいことがあって、そう発言したとしたら、残念ながら逆効果です。
もしかしたら、子育ての中心が、褒めることより、責めることだったのかもしれません。結果として、礼儀正しく、節度ある外面を獲得できた少年は、本当はそんな育てられ方を望んでいなかったと思います。それは残忍な殺し方と計画的と思われる準備から推測できます。
5214.06.22/2005
今月、東京都板橋区で社員寮の管理人夫婦が殺害される事件がありました。
警視庁は22日、長男の高校1年生を殺人容疑で逮捕しました。親が子どもを、子どもが親を殺害する事件が決して珍しくなくなっているいまの日本社会の異常さは、世界でも驚きの段階に入っています。
6月20日。 東京都板橋区にある社員寮の管理人夫婦が何者かに殺されているところを発見されました。夫の頭は重さ約8キロの鉄アレイで殴られ頭がい骨が陥没していたうえ、首などに数カ所の刺し傷がありました。妻は胸などに数十カ所もの刺し傷があり、頭にも切られた傷がありました。室内の布団は血まみれにだったそうです。犯人(15歳の長男)は、両親を殺害後に、ガスの元栓を開いたうえで、ガスコンロにつながるホースを切断。タイマーの付いた電熱器を時限発火装置にしたとみられています。ガス栓は一気に噴出すると栓が閉まる仕組みになっているため、栓を少し開いて室内に少しずつ多量のガスが充満するように細工をしました。証拠を隠滅し、逃亡のための時間を確保するため、数時間後に爆発が起きるようにした、と捜査員は考えています。21日には、長男が通う高校で三者面談が予定されていました。
少年が通っていた高校の校長の話では、少年は部活動はしておらず、友人が少なかったそうです。事件があった日は、14日に次いで入学後2度目の無断欠席をします。担任は「連休で遊びに行ったのかな」と感じたそうですが、週末土日の休日は通常の休日で連休ではないのではないでしょうか。もしも、それを連休ととらえ、月曜日に欠席してもどこかに休みのときに遊びに行ったのかなで済まされてしまう現実って何でしょうか。
両親を殺害した少年は、周囲からはまじめすぎるぐらい・おとなしい・明るくておもしろい・親を憎んでいたなど、とてもひとりの人間とは思えない見られ方をされていたことがわかっています。
5213.06.21/2005
法務省がいじめの件数を公表しました。
文部科学省ではなく、法務省が実態調査をして公表しているのはなぜなのか、よくわかりませんね。
2005年度版青少年白書では2003年度の調査結果がまとめられています。2年前の実態なので、現在の実態とは時間差があります。
それによると、公立の小、中、高校や盲・ろう・養護学校で2003年度に把握されたいじめの件数は23351件でした。これは2002年度の22205件よりも1146件多く、率にして5.16%の増加になります。1994年からいじめの調査を始めて、減少傾向にあったのに、今回は増加に転じました。学校現場にいると、いじめの発生が減少してきたのが不思議なくらいで、今回の増加は当然のことと思います。これにともなう事件も2年連続で増加しました。恨みや憎しみしか残さないいじめ。そこに起因する傷害や殺人などの事件に発展しても全然不思議ではありません。
発生している学校種別では、中学校38%・高校27%・小学校12%・盲学校聾学校養護学校5%の順です。学年別では中学1年の7307件が最多でした。この結果から、中学になっていきなりいじめが発生しているわけではなく、小学校段階の人間関係・恨みつらみ・点数主義・偏差値を重視する傾向などが過度のプレッシャーとなっていることがわかります。
いじめの内容は、「冷やかし・からかい」が全体の31.5%ともっとも多く「言葉での脅し」(18%)「暴力を振るう」(15%)「仲間はずれ」(14%)が続きます。これによって起きた刑事事件は161件。検挙・補導された小学校から高校の子どもは316人でした。もうすぐ1日に1人の割合で、全国のどこかで小学校から高校の子どもがいじめを原因とする刑事事件で警察につかまる時代に突入します。この結果は2年前のものです。もしかしたら、すでに1日1人検挙・補導時代になっているかもしれません。
5212.06.20/2005
虐待による児童相談所への通告件数が3万件を越え、過去最高値を更新しています。
これは、虐待の疑いがある場合も通告を行えるようになったことが背景にあると思いますが、実質的に親や兄弟姉妹による虐待が日常的に繰り返されていることには変わりはありません。
そんななか、虐待事件への判決が出されました。
去年の8月に千葉県松戸市で、当時中学2年生の男児が、9日の夜から10日の未明にかけて、浴槽で全裸にさせられ、木刀で殴られたり、熱湯をかけられたりして、死亡しました。死因は熱傷性ショック。全身の皮膚がただれる見るに耐えない状況のなか、虐待という名の殺人が実行されたのです。実行したのは、男児の母、姉、姉
の友人でした。虐待の理由は、男児がもっていた試供品を万引きしたものと思い込んでのせっかんでした。姉の友人が指示をし、姉と母が実行します。
主導的な役割の姉の友人は、この家に同居していました。家出をして逃げ込んだのか、深いわけがあってほかに行くところがなかったのかはわかりません。しかし、男児が虐待を受けるまでもなく、この家庭は通常の生活を送っていなかったことがじゅうぶんに想像できます。
千葉地方裁判所松戸支部は、姉の友人に懲役3年以上6年以下、姉に懲役2年半以上5年以下の実刑判決を言い渡しました。母は、すでに懲役5年の実刑判決が確定しています。
ひとのこころがすさんでいます。
そこには貧富の差の拡大も影響を与えています。しかし、経済的に豊かだからといって、子どもがこころ豊かに育っているかどうかは定かではありません。子どもは、親の生きる鑑です。子どもがわがままなら、親のわがままな部分を修正すればいいのです。子どもの行儀が悪ければ、親が少しでも行儀をよくすればいいのです。
5211.06.17/2005
また現職の教員が学校で自殺をします。
15日午後9時過ぎに、長崎県佐々(さざ)町須崎免の町立口石小(友広幸穂校長)で、同校の男性教員(40)=同県佐世保市=が教室で首をつっているのを教頭が見つけました。病院に運ばれましたが、午前0時近くに死亡が確認されました。警察は、自殺とみて調べを進めているそうです。
5年生の担任だった教員の妻から、当日の午後8時半ごろ、学校に夫が帰宅していないという電話が学校にあり、学校に残っていた教職員らが捜したところ、教員が担任をしている5年生の教室で、縄跳び用の縄を使って首を吊っているのが発見されました。発見した方々の衝撃は想像を絶します。まさか、子どもの縄を使って自殺したとは思いたくもありませんが、もしもそうだとしたら、その縄の持ち主の精神面のケアはとても長い時間がかかるでしょう。
最近は、見ず知らずのひとたちがインターネット上で知り合い、自宅を遠く離れたところで集団で自殺することが珍しくなくなってきました。そのうちに、新聞やテレビでも扱わなくなるのではないかと思うほどです。自らの意思で生きることに終止符を打つには、大きな勇気と理由があると思います。そのときに、自分が亡くなった後のことを考える余裕はないのかもしれません。
しかし、教員が学校で、しかも自分が担任している教室で自殺するのは、衝動的とはわたしには考えにくいのです。そこには、自らの死になんらかの意味やメッセージを込めようとする意図を感じてしまいます。先生が死んだ、教室で自殺した……。そのふたつの事実だけでも、子どもたちのこころにはとても大きな傷が残ります。子どもはこれから多くのことを学びながら育っていきます。その成長の過程にマイナスの打撃を与えてまで、なぜ教室での死に方を選んだのでしょうか。子どもと教員が対立構造にあった?保護者の一部と教員が敵対状況になっていた?教職員間でのけ者になっていた?腹いせとして、教室を死に場所に選んだとしたら、とても悲しい選択としか言いようがありません。かつて、わたしは新しい公立学校制度を作るしかないと考えたとき、いまの公教育はこのままではだれかが手を貸さなくても自然に崩壊していくと感じました。そのときの予感が、このようなかたちで実際のものとなってきているのです。
5210.06.16/2005
言葉がうまく喋れない子どもがいます。
でも、わたしの言葉はほとんど理解します。だから知的には伸びる可能性をもっている子どもです。
いままでうまく自分の気持ちを伝えられなかったので、泣いたり、ものを投げたり、周囲のひとを叩いたりつねったりしました。そのたびにこちらも泣きたい気持ちになりました。なんとか距離を縮めたいのに、すれ違うのです。わたしの力量不足を突き付けられたからです。
その子どもは今春転入してきました。そこで以前の学校の時間割を調べました。そうしたら、いまの学校よりも、生活時間も学習内容もかなりゆったりしたものだったことが判明。学習のとき机といすを取り除き座卓を用意しました。学習の内容も生活に密着した写真を多用したものに変更しました。すると、効果がすぐ見えます。これまで持続時間がわずかだった課題に40分近くもつきあってくれたのです。その子どもの担当になって3ヵ月で、やっとわかりあえたような気がしました。
なぜ言葉が喋れないのかはわかりません。それに、その原因がわたしにわかったとしても、医療の専門家でもないわたしにはどうすることもできません。教育に携わるわたしにできることは、いまの子どもの置かれた状況を丸ごと受け止め、その状況を大前提にしてコミュニケーションをとり、学校での生活を築き上げていくことです。学校での生活は、学校だけで通用するものではなく、子どもが進学したり、就職したりしたときにも役立つものとして計画していかなければなりません。
おおむね自閉的な傾向のある子どもは、物事の順序を組み立てるのが苦手なので、見通しがない行動を苦手とします。いつが始まりで、いつが終わりなのかがわからないと、混乱しパニックを起こしたり、逆にぼーっとしてじっとそのままになったりします。そのような子どもを言葉でしかったり、注意したりしても、効果はありません。ましてやぶったり蹴ったりしたら、身体的のみならず、心理的にも傷つくでしょう。
だれもが、通じ合いたいという気持ちをもっていることを大切にする社会は、困っているひとにとって呼吸しやすい社会になるでしょう。
5209.06.15/2005
もうすぐ子ども祭りがあります。
小学校の子ども祭りは、中学や高校の文化祭のようなものです。各クラスで内容を決めて、お店の人とお客さんに分かれて楽しみます。お化け屋敷やゲームセンターなどが多いのですが、現在の学校ではじめての子ども祭りなのでいままでわたしが経験してきたものと同じかどうかはわかりません。
わたしが担任している特学でも、子ども祭りへ向けて準備を進めています。内容はボーリング。役割を決め、練習をし、景品を準備します。2週間ぐらい前から、総合や特別活動、図工の時間を使って準備を進めてきました。
自分がしていることの意味や、全体のなかで自分の果たす役割などが理解しにくい子どもたちなので、何度も繰り返し練習をし、準備も小分けにして積み上げる必要があります。ボーリングの練習をしたら、ボールを転がさないで、自分がピンのところまで走っていって手でみんな倒してしまったり、ピンを見ないでボールを転がすので全然違う方角にボールが転がっていったり、ユニークな場面がたくさんありました。
きょうは、景品として渡すプレゼントを完成させました。何人のお客さんが来るかはわからないのですが、一応100個用意しました。「ケムンパス」と名づけられた景品です。色の違うフェルトを穴あけパンチで穴を開け、たくさんの小さな円形のフェルトを作ります。それを糸に通して目をボンドでつけて完成です。小さなプレゼントですが、糸の先に安全ピンをつければそれなりのペンダントになります。ひとつのケムンパスに10個の円形のフェルトを使うのですが、見ていなかったら15個も20個もフェルトを通し、なかにはとても長い大柄のケムンパスも混ざりました。
5208.06.14/2005
当初の会見では「いじめはなかったと聞いている」と話していた校長は、13日になって「幅広い意味で、いじめに相当するものがあったと認識した」と述べて謝罪しました。
なんだか、まわりくどい言い方です。つまり、加害生徒に対するいじめがあったということです。
たとえば、まったくかかわりのない生徒にあいさつされたり、授業中に指名された生徒が答えずにいると、苦笑が起きたケースが挙げられています。あるときは、クラスで作業中に「何かしゃべろうよ」と言われた生徒が不機嫌そうに席を立ったことも。
いじめという表現でまとめていますが、むしろ馬鹿にされていたという表現のほうがぴったりあてはまります。
しかし、いくら馬鹿にされていたからといって、爆発物を製造し、ひとに向かって使うことは許されないことです。多くの場面で、不特定多数に、加害生徒はいやな気持ちになることを繰り返しやらされてきたのですが、だからといって自作の爆発物を校舎内で爆発させていいわけではありません。校長は「男子生徒にこのような事を起こさせてしまい、痛恨の極み。申し訳ない気持ちでいっぱいだ」と述べましたが、当初の説明との違いについては触れようともしていません。もしも、本当に校長の発言のような事実があったとしたら、なぜ特定のクラスだけがターゲットになったのでしょうか。もっと、学校全体に対して恨みを晴らす方法があったのではないかと疑問が生じます。
そして、偏差値の高い子どもたちが入学し、受験に即応した授業が優先される学校で、はたして子どもたちの精神の健康は保たれているのか不安になります。たくさんいる在校生のなかで、この生徒はとても特異なケースと言い切れるのかを、ジャーナリストの方々には究明してほしいと思います。
5207.06.13/2005
自分のことをうまく伝えきれない苦しみは、想像を絶します。
そのことをうまく理解していないひとに囲まれている日常は、針のむしろです。
山口県立光高校で、逮捕された3年生の男子生徒は、日ごろから極端に口数が少なく、友だちも多くはなかったことが伝えられています。なぜ、口数が少なかったのかはわかりません。なにかのきっかけでそうなってしまたのか、以前から表出が苦手だったのか、心理的な抑制行動をとっていたのか。反面、休み時間にカッターナイフを携行して、校舎内を歩き回っていた生徒に、周囲の生徒は不安を感じていたとも報じられています。
「おい、話せえや」と表出を強制する生徒がいたともいいます。教員の中には、接触をこころみた者もいたようですが、会話することすら困難だったと認めています。
おそらく、これから逮捕された生徒の精神鑑定が始まるでしょう。その結果、目には見えない障害が発見される可能性がありますが、怖いのはそれによって全国にたくさんいる同様の障害をもっているひとたちが、同じように思われ、差別されてしまうのではないかということです。たとえば自閉症の場合、1000人に2人ぐらいの割合でいるといわれています。割合としては、とても多いので、珍しくないように感じてしまいますが、実際には社会に自閉症の正しい理解や、障害者支援が整っていないので、誤解や偏見をもたれているのが事実です。保護者のなかにも、わが子の自閉的傾向は認めながらも、自閉症という障害があるとは考えていないひとも多いでしょう。
他人とうまくコミュニケーションがとれない・爆発物など一部の特殊な知識や技能に習熟している・物事の善悪の判断をつけにくい・ときに攻撃的な行動に出る……。自閉的傾向のうち、今回の生徒にはこんなに該当するものが含まれています。
おりしも、去年の6月は長崎県佐世保市で小学校6年生が同級生をナイフで刺殺する悲惨な事件がありました。
5206.06.12/2005
6月10日。山口県立光高校。
3年生の男子生徒は入学以来ホームルームに初めて2分遅刻して到着。1時限目の化学の授業に出た後、2時限目には姿を見せませんでした。英語を教えていた教員は姿が見えないのはわかっていましたが、クラスを自習にはできないので後で捜そうと判断し、そのまま授業を続けます。おそらく、この高校では登校した生徒がクラスにいなくても、教員はそのまま授業を続けるのが常態化していたのでしょう。これは、わたしの周囲の中学校でもよく聞く話です。
そして、2時限目の途中、10時10分ごろ、廊下に現れた男子生徒は、3年1組の廊下に面した窓から爆発物を教室内に投げ込み爆発させます。この爆発物は、清涼飲料水のガラス瓶に花火をほぐして得た火薬と、100本もの釘を入れ、導火線がつけられていました。火薬だけでなく釘をたくさん入れたのは、爆発の威力を高めるためだったのでしょう。教室内でこれが爆発。一時は58人もが病院に運ばれました。
爆発物を投げ入れた男子生徒は、現場を立ち去り、その後、養護教諭らに発見され、取り押さえられました。そして、駆けつけた山口県警の警察官によって、傷害容疑で逮捕されます。
メディアは、男子生徒について、多くの報道をしていますが、人物像を一部の証言で形成するのは危険なことです。このような非常識なことをする原因を、生徒の内面や家庭・学校での行動のなかから発見したい気持ちはわかりますが、見えてくるものは、すべて断片に過ぎません。断片と断片のすきまにある多くの不明な部分を、想像や解釈で意味づけしても、真実には到達しないでしょう。また、インターネットの掲示板やチャットでは、きっともうすでに男子生徒の個人情報が流出していることでしょう。加害の事実に同情する余地はありませんが、事件の背景にあるものを追究しない限り、結局個人の特殊な出来事で終わってしまい、同様の事件の再発は防げなくなるのです。
公立の進学高校で、授業時間中に爆発物を使った傷害事件が発生し、加害者は在校生だったという事実。そこから見えてくる受験制度によってゆがんだ日本の公教育の姿は、制度疲労・内部崩壊の現実を映してはいないでしょうか。
5205.06.10/2005
10日、山口県立光高校で爆発物が爆破し生徒が多数負傷する事件がありました。
爆発物を製造し爆破させたのは、同校3年男子。日ごろから恨みのあった3年1組の生徒を標的にした供述をしていますが、真相はまだわかりません。
事件後の校長の会見で加害者は「無遅刻・無早退・無欠席。おとなしい生徒で、いじめがあったという報せは聞いていない」と話しました。今回のように、学校が犯罪現場になり、加害者も被害者もその学校の子どもというケースが珍しくない時代になってきました。まがりなりにも、その学校の最高責任者である校長の会見は、今回も含め、いつもだれに向かって言っているのか、意味がわからないときがあります。
今回の事件の場合は、真っ先に事情を説明するのは、負傷した子どもとその保護者に対してでしょう。事実関係をわかる範囲で伝えながら、事件の背景を継続的に調査することを約束するのが初期対応です。しかし、「無遅刻・無早退・無欠席。おとなしい生徒で、いじめがあったという報せは聞いていない」という加害者についての説明は、次のように分析できます。
・無遅刻・無早退・無欠席。おとなしい生徒だったので、学校としては問題のある生徒との認識がもてなかった。
・いじめのような動機に結びつく情報が事前になかったので、事件を予見することは不可能だった。
大きくこの2つを強調したいのです。つまり、学校側には責任がありませんよという逃げです。そして、だれに向かっているのかといえば、学校を監視・指導する教育委員会や教育行政全般に対してと思えます。こんなことになってしまったけれど、校長としての管理責任を問わないでくださいというこころの声が聞こえてきそうです。
わたしが教員になった頃の20年前には、教育委員会や保護者の要求に対抗して、子どもたちにとってもっとも大切なことを優先し、教職員にも「なにかがあったら自分が責任をとるから、自由にやりなさい」という校長がいました。しかし、学校への政治の介入と、教育委員会による統制で、そういうひとたちは学校を去り、反対に上からの指示や命令を何も考えないで下に実行させるひとたちばかりが管理職に登用されています。だから、このような事件のときに、言い訳に聞こえる会見しかできないのだと思います。
5204.06.09/2005
きょうは4年生の社会見学に特学から3人の子どもが参加するので付き添ってきました。
蒸し暑かったけど風は気持ちよかったので助かります。学校から歩いて40分ぐらいのところに環境事業所があって、藤沢市内の燃えるごみを毎日処理しています。一日にだいたい390トンものごみを処理しているそうです。パッカー車が次々とごみを集めてきます。それを大きな穴に落とします。そのごみを大きなクレーンがつかんで焼却炉のなかに落とします。一回つかむだけで、自家用車2台分の重さのごみを持ち上げられるパワーがあります。クレーン室に入れてくれて作業の様子を観察しました。
特学の子どもたちに、ごみのことや環境のことの理解を求めるのは難しいですが、大きなクレーンをじーっと見つめている姿が印象的でした。作業をする人も見学に慣れているようで、「ごみを焼却炉にいれまーす」と実況しながら作業をしてくれました。3人のうち2人は、作業車や工作機械などが大好きなので、それらが目の前で実際に動いている姿にいつもと違う興奮を感じたのかもしれません。
工場内を移動するときに、子どもたちの歩くスピードに3人がついていけないとき、同じクラスの子どもが手をつないでくれたのが助かりました。担任もとても協力的です。一年生のときから、交流を続けているために、子どもたちが3人のことをよく知っているのが、こういうときに自然な関係を作ると感じました。
帰りも40分歩いて学校に戻ります。わたしは疲れて、給食までの少しの時間をごろんとしたかったのですが、帰ってきた3人は疲れなど知らない様子。折り紙を作ることをねだられ、横になったのはつかの間、2つの蛙を作ってプレゼントしました。
5203.06.08/2005
久しぶりにサッカーの試合を最初から最後までテレビで観戦しました。
といっても、多くの時間をうつらうつらと寝ながらだったので、集中していたわけではありませんが。
サッカーワールドカップ・アジア最終予選。日本と北朝鮮の試合です。タイのバンコクで行われた試合には観客がいませんでした。詳しい事情は知りませんが、こういうこともあるんだなぁと思いながら見ていました。観客がいないと、選手やベンチの声を集音マイクが拾って、いつもの歓声とは違うサッカー中継でした。以前、プロ野球の試合があまりにもうるさいのでミュートにしたときの感じに似ていました。
得点シーンでも、選手の喜びは伝わってきましたが、観客のどよめきがなくて、なんだかサッカーの練習試合のようでした。つくづく、サポーターは12番目の選手だと思います。マラソン選手がインタビューで「沿道の声援が大きな力になった」とよく言うのを思い出し、声援・応援がプレーヤーのやる気や力を引き出すのはきっとサッカーでも同じだろうと感じました。そう考えると、今回の試合は両チームとも選手個々人の力と力のぶつかりだったのかもしれません。
励ましがひとをささえ、のばすのは、スポーツだけではなく、教育の現場でも同じはずです。「すごいね」「やったね」「気にするな」「いいんだよ、それで」。多くの励ましが、子どもの可能性を引き出し、のばしていくと思います。だから、注意や指導だけでは、子どもは育たないのです。これは家庭でもいえることですね。しつけのために暴力を肯定するおとなは、その何十倍も子どもを励ましているかどうか自問しなければなりません。もし、いつも励ましているのなら、とても暴力で従わせるような方法はとれないはずです。
今回の結果で、世界中の予選で、日本チームが一番に本大会への出場を決めたそうです。でも、それはたまたまのことで、なんでもかんでも「一番ネタ」を見つけようとするメディアの発想には、お粗末なものを感じました。
5202.06.07/2005
7日の閣議で政府は2005年度版障害者白書を決定しました。
それによると、国民の5%が身体や精神になんらかの障害をもっていることが指摘されています。また、障害者本人やその家族が、外見ではわからない障害に対して、社会の理解不足を強く感じている実態も示しました。
2000年から2002年にかけて、身体・知的・精神障害をもつひとは約656万人でした。前回の調査(1995年から1999年)に比べて93万人増加しています。65歳以上の高齢者にしめる割合が増加しているのが特徴でした。
学習障害の子どもの保護者の意見を紹介しながら、「障害を正しく理解してもらう環境作りが課題」と結論付けています。
国民の5%ということは、20人に1人の割合です。決して少ない数ではありません。とくに、子どもの場合は本人だけでなく家族が近所や親戚・友人などとても近いひとたちにもなかなか理解してもらえない苦しみのなかにいることがとても多いように感じます。それは、まだ日本社会に小児精神治療専門のスタッフがとても少ないことが背景にあると思います。だから、保護者、とりわけ母親がひとりで背負い込んでつらい思いをしています。外見ではわからない障害の場合は、本人のわがまま・親のしつけなど、周囲から大きな誤解や非難のまなざしを浴びせられる傾向にあります。また、障害をもつ子どもの保護者どうしが、互いの子どもの成長を素直に感受しにくいという複雑な実態もあり、ひとりぼっちになっていく可能性はとても高いのです。
5201.06.04/2005
特別指導教室の担任になって2ヶ月が過ぎます。
子どもたちとの毎日、授業、支援、個々の成長など実務面では新鮮なことが多く、肉体はハードですが、気持ちはとてもリフレッシュした毎日です。反対に特学の事務面で「あれ?」と思うことが見えてきています。
いまの時期から、来年度子どもたちが使う教科書を選ぶ仕事もそのひとつです。まず5月中にひとりひとりの教科書としてふさわしいものをピックアップする研究会がありました。たくさんの出版社から、絵本やカード、系統的な教科書が展示され、それらに目を通し、担当している子どもたちに必要だと思う教科書を選びます。6月になって、実際にどの教科書を使うかの書類を個別に作成し、一覧表にまとめ、提出します。最終的な申請は3学期になってからだということですが、それにしても、なぜ1年も前のこの時期にこんなに先のことをしなければならないのでしょうか。
子どもの成長を見通すことは大切ですが、1年先の姿を予測することはとても難しいはずです。そのときにふさわしい教材を用意したいのに、いまの時点で選んだものが本当にふさわしいものになるかどうかは不確定要素が多すぎると感じました。
また、教科書を選ぶときに用意された出版社や書籍名の書かれた一覧に出版社の住所が記入されているのに、申請する書類を作成する段階で、ふたたび住所や連絡先を自筆で転記しなければならない事務の無駄もあります。
まるで、特学に通う子どもは成長をしない・ほとんどしないとでも考えているのでしょうか。また、検定教科書以外の教科書を使うことを申請手続きを煩雑にすることで申請しにくくしようという意図でもあるのでしょうか。
ひとりひとりの個別申請と一覧表との間に、同じことを書かなければならない箇所が多いのも無駄な事務作業です。一覧表は在籍する子ども全員の申請分を教科ごとにまとめて記入するのですが、このことだけでも個別申請書が全部そろわないと書き始めることができないなど、不便です。また、これだけオフィスオートメーションの進んだ時代に全部手書き書式というのも、不思議です。
5200.06.03/2005
福岡県にある知的障害者の更正施設で元職員が入所者に虐待をして傷害容疑で逮捕されました。
この事件を捜査している福岡県警によると、この元職員は自分が当直勤務のときに施設内に3匹の犬をひもをつけずに放し飼いします。このためことしの1月から3月にかけて、犬にかまれて負傷する入所者がいました。多くの入所者は、この元職員が当直勤務のときは、犬を恐れて部屋から出ようとはしなかったそうです。
また、犬が嫌いな者に故意に犬を近づけて怖がらせたり、食事の遅い者から食事を奪って犬のえさにしていました。
入所者の保護者らは、元職員の行いについて施設に処分を要求します。しかし、施設側は「解雇したら代替がいない」として、不問に付していたそうです。
自分の仕事が増えるのを面倒がって、恐怖と威嚇によって入所者を管理していた元職員と、それを容認していた施設の責任はこれから法廷で問われることでしょう。しかし、わかっているだけで3年も前から続いていた虐待によって、傷ついたこころに平安を取り戻すには結審しても、なおより長い時間がかかります。そのための十分なケアが行われるのかさえ疑問です。
日本社会が福祉社会として、世界のなかでとても立ち遅れている象徴的な事件です。このような状態を何年も野放しにしてきた関係行政機関は、まったく責任を問われません。
知的障害の多くは、機能的な障害なので、努力や訓練によって障害がなくなるということは、あまり考えられません。障害のあるひとたちが、日常生活のなかで、障害を意識しないで生きていける専門機関が、更正施設なのではないでしょうか。施設は職員に、そのような基本的な教育を怠っていたのでしょうか。知的な障害も情緒的な障害も、それを取り巻く社会やおとなが障害に対する偏見を持ち続ける限り、差別を助長してしまうのです。