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5199.06.02/2005
 校庭で身体の活性化を目指して粗大運動の時間。
 フェンスを修理する車両が2台入ってきました。授業時間中に危ないなと思っていましたが、わたしが担当している子どものひとりは工事車両がとても好きで、そのことでとても調子がよくなりました。粗大運動が終わり、体育館に移っての体育になります。案の定、体育館に工事車両が大好きな子どもはいません。たぶん、あそこだろうと思って現場に駆けつけると、小さな体で体操服のまま、安全な距離で工事を眺めていました。
 以前のわたしなら「もう次の時間が始まっているから、見るのはおしまい」と、指導していたと思います。しかし、そんな学校の事情で子どもの興味を断ち切るのは決して子どもにとってプラスにならないことをたくさん経験してきました。だから、「もう工事は始まっているの」と聞きました。そうしたら「まだ、クレーンで吊り上げていないよ」と工事の進捗状況を教えてくれました。
 となりに座ってフェンスの高さを高くする工事を見守ります。10分ぐらい工事を見ていたら、子どもの集中が途切れ、石ころやアリを追いかけ始めたので「よーし、肩車をするから体育館に行こうか」と背中を押しました。「うん」。自分からわたしの肩に乗ってきました。
 自分の興味にしたがってここまできたけど、時間がたって、もしかしたらほかのみんなはいま別のことをやっているのかもと感じたのでしょうか。興味や好奇心が持続しているときにさえぎったら、パニックを起こす子どもですが、その気持ちを満足させると、気持ちの切り替えがすんなりできることを教えてくれました。

5198.06.01/2005
「異食症(いしょくしょう)。
定義:栄養のない物質を食べることで、その状態が少なくとも1カ月続きます。
原因と危険因子:異食症は、成人より幼い子供によく見られ、1〜6才の子供の10〜32%に発生します。また、精神遅滞の人にも起こります。
異食症は、妊娠中にも起こります。鉄欠乏性貧血など、特定の栄養素が欠乏しているのが見つかることもあります。重度の精神病の人に起こることもあります。その他の場合は、原因は分かっていません。
予防:特別な予防法はありません。適切な栄養を摂ることが役立つことがあります。
症状:異食症とは、食品でない物質を食べることです。粘土、泥、氷、糊、動物の糞、ペンキ、毛玉は、異食症の子供が口にしたもののほんの一例です。
徴候と検査:異食症を1回で確認できる検査はありません。しかし、異食症では、検査値の異常や、場合によっては栄養不良が見られますので、いくつかの検査が行われます。鉄と亜鉛の血清レベルを検査する必要があります。貧血症の検査のために、ヘモグロビンもチェックする必要があります。
治療:治療では、心理社会的、環境、家族によるアプローチ法に力点が置かれます。その他成功した治療法としては、軽い嫌悪療法を行い、その後、よくできたら報酬を与える方法が知られています」
http://www.town.kirishima.kagoshima.jp/HouseCall/encyc/123/65/135_0_0_0.html
 一概に栄養のないものという定義が難しいのですが、たとえば落ちている木の実や茂る葉をむしゃむしゃ食べてしまうのは、これに該当しないのでしょうか。
 そういうものは口にしてはいけないという言語による指導が伝わりにくく、同じ行動を何度も繰り返すとき、もしかしたら本人も何を口にしているのかを認識していないのかもしれません。

5197.05.31/2005
 文字を読むことができても書くことができない。漢字を読むことができない。
 かつては、このような子どもがいても、よのなかも本人も困らなかったので、問題にはならなかったのですが、受験や進学における内申書のウエイトが大きくなってきたので、一点でも点数が高いことを多くの子どもが求めるようになってからは、文字の読み書きができることとできないことは大きな問題になってきました。教員の中にも、文字の読み書きができない子どもを学力の低い子どもとして扱うようになり、差別的な発言でこころを傷つける「指導」が行われることも少なくないと聞きます。
 いわゆる学習障害の範疇に入る子どもは、だらしがないわけでも、怠け者なわけでもありません。他の子どもたちと同じ方法では、文字を書いたり、読んだりできない状態で生活しているのです。だから、その子どもに必要な指導を繰り返せば、少しずつですが文字の読み書きができるようになる可能性がないわけではありません。障害と呼ばれていますが、脳のある部分に機能的な問題があっても、ていねいで必要なトレーニングによって、脳のほかの部分が文字の読み書きを担当するようになるのかもしれません。しかし、家庭でも学校でもそのことに気づかず、子どもを精神的に追い詰めてばかりいたら、その子どもは学校に行く元気を失い、家庭でも居場所がなくなってしまうでしょう。なんとか登校しても、教室に行くことができず、保健室で過ごす子どもたちが増えています。保健室登校という言葉ができるほどです。その状態を、教員の中には子どもが怠けているのを保健の先生がかばってあまやかしていると見下すひとがいるのはとても残念なことです。
 子どもを理解することは、教員のもっとも重要な仕事です。その重要な仕事をしないで、自分の考えにあてはまらない子どものこころを傷つけるような対応しかできないひとは、教員としても資質を疑われても仕方がないでしょう。これは親にも言えることです。子どもを理解するのは、自分の思い描いた理想像に近づけることではありません。子どもの表情・発言・行動を日常的に観察しながら、変化と成長を切り分け、内面に迫る努力が、大切なのです。

5196.05.30/2005
 小学校や中学校を何らかの理由で休みがちになり、やがてまったく通わなくなる子どもたち。それぞれ理由が違うので、唯一の解決策は見つかりません。そのなかに、クラスの子どもや担任の理解が不十分なために登校できなくなる子どもがいます。そういった子どもは、本人の責任ではないので、わたしは不登校ではなく、登校を排除されてしまった子どもだと考えます。学校や教室への参加を拒まれ、子ども集団から排除されてしまうので、とてもこころが傷ついてしまいます。
 どうして理解が不十分になるのでしょう。
 たとえば、子どもどうしのいざこざや仲間はずれでとてもこころが傷ついたとき「だれだって、そういうのはいやなもんだけど、そんなに気にすることはない」と慰められたとします。この言葉で立ち直ることができる子どももいるでしょう。しかし、お風呂に入っても、布団に入っても、ずっとそのことが気になり、不眠になり、朝がつらくなる子どももいるのです。みんなそんなに大げさには考えないのにと思っても、確実に自分の行動が制約されるほど追い詰めることもあるのです。いざこざや仲間はずれに関係した、つまり直接的な理由の関係者に、自分からぶつかっていける子どもは大丈夫です。強い精神力で、傷ついたこころを乗り越えられるでしょう。しかし、悪口を言われるような自分なんだ、仲間はずれにされても仕方ない自分なんだ、みんな自分のことを嫌っているんだと、自分を責め続けてしまう子どもは、どんどん深みにはまってしまうのです。
 こういった子どもが自宅や自分の部屋に何年もこもり、外界との接点を絶った生活を送っています。
 親はとても心配しますが、どうしたらいいのかさえわからず怒ったり、叱ったり、泣いたり、落ち込んだり、悩みます。教育行政や福祉行政は、こういうケースに対して、とても冷たい反応です。相談ひとつとっても、自ら声を上げることを前提にしています。そんな元気があれば、親も子どももそこまでひどくならないのではないでしょうか。しかし、なかにはフリースクールやフリースペースに、勇気を出して通い始め、少しずつ自分への自身を取り戻す子どももいます。その速度はとてものんびりですが、学校と違った時間の流れの中で、ゆったりと自分自身のリストラクチャを成し遂げていくのです。自宅や自分の部屋にこもり続ける子どもは、学力についてとても悩んでいることが多いのです。このままでは知らないことが多すぎて、わからないことだらけになってしまう。でもどうしたらいいのかわからないと悩みます。そんな悩みをフリースクールやフリースペースでは解消します。
 学校だけが学びの場所ではない、ここにいるのは避難ではない、いまの自分は無理をしていない。全身でこのように感じられるようになるには何年もかかります。いまの日本では、そのような子どもが立ち直っていくために、医療の専門家や一部のこころある教員、まったく公的補助を受けられず財政は火の車の民間のフリースクール関係者らによって支えられています。市役所や県庁に行っても、不登校のための問題解決窓口や不登校期間の税金還付サービス、フリースペース・フリースクール開設者のための財政支援制度などはありません。

5195.05.28/2005
 たとえば、ADHDの傾向があるといわれている子どもがいたとき、その子どもの行動を教科書的に理解するだけでは、個別具体的な手立ては見えてきません。
 ふだん、机といすという環境を拒否しているだけで、机といすを除去してフロアでは落ち着いた繰り返し作業を持続できるかもしれないからです。すべての場合において有効な手立てなどありません。わたしの経験のなかに、確かにそのような事実があります。
 単純な繰り返し作業をすぐに拒否して、ほかのことに行動が移りやすい子どもがいました。その子どもといっしょにフロアに座りながら、作業を続けます。机を使った学習のときは5分も集中が持続すればいいのですが、フロアを使った学習では10分以上は集中が続きました。そして、集中が途切れそうになったとき「今度の夏休みはどこに行く予定なのかな」というふうに、本人の関心ごとをさりげなく向けると集中がさらに10分続くのです。
 よのなかの仕事の全部が机といすを使うわけではありません。
 本人の適正を正しく理解すると、その子どもに見合った将来への道筋が作れるかもしれません。
 このように考えるとき、果たして障害とはなんだろうとつくづく思います。障害があると決めつけて、それ以上の進歩も成長もあきらめてしまっては、可能性の芽を摘んでしまうことになります。
 学習障害や自閉症の子どもたちに、高い高いをすると、最初は体をかたくして少し怖がります。
 しかし、ほとんどの子どもが「またやって」と要求します。スキンシップと、上下感覚、高さのスリルを経験しながら、安心して体をあずける感覚を養うと、もしかしたら内分泌系を活性化して、いままでオフだったスイッチがオンになるかもしれません。そういうことは教科書には載っていないでしょうが、現場で子どもたちと食事も排便も運動も学習もいっしょに過ごしていると見えてくるものなのです。
 そんなとき、よのなかでいう「普通」とか「常識」という考えが、いったい何をさし、どんな内容なのかを問いたくなります。そして、その考え方にどんな根拠があるのかを追及したくなります。

5194.05.26/2005
 Attention-Deficit Hyperactivity Disorder。ADHD。
 日本語では、注意欠陥多動性障害と訳しています。「脳神経学的な障害と言われ、7歳未満に発症するもので、脳の神経学的な機能不全によって、情報をまとめたり注意を集中する能力がうまく働かないなどの症状が起こると考えられています。」(http://www.yoake.777ch.org/adhd/adhd1.htm)
 原因には「遺伝的要因や出生時の酸素不足、食物添加物、頭部外傷などを原因とする脳の機能障害といわれています。」(同上)  アメリカのDSM-Wによる判断基準を紹介します。
不注意
以下の症状のうち、少なくとも6つが6ヶ月以上続いている。
1)学業、仕事、その他の活動において、しばしば綿密に注意することが出来ない。また、不注意な過ちを犯す。
2)課題または遊びの活動で注意を持続することが、しばしば困難である。
3)直接話し掛けられた時、しばしば聞いていないように見える。
4)しばしば支持に従えず、学業、用事、または職場での義務をやりとげることが出来ない(反抗的な行動または指示を理解できないためではなく)
5)課題や活動を順序だてることが、しばしば困難である。
6)(学業や宿題のような)精神的努力の持続を要する課題に従事することをしばしば避ける、嫌う、またはいやいや行う。
7)(たとえば、おもちゃ、学校の宿題、鉛筆、本、道具など)課題や活動に必要なものをしばしばなくす。
8)しばしば外からの刺激によって、容易に注意をそらされる。
9)しばしば、毎日の活動を忘れてしまう。
多動性−衝動性
以下の症状のうち少なくとも6つが6ヶ月以上続いている。
1)しばしば手足をそわそわとうごかし、または椅子の上でもじもじする。
2)しばしば教室や、その他、座っていることを要求される状況で席を離れる。
3)しばしば、不適切な状況で、余計に走り回ったり高いところへ上がったりする。(青年または成人では落ち着かない感じの自覚のみに限られるかもしれない)
4)しばしば静かに遊んだり余暇活動につくことができない。
5)しばしば「じっとしていない」または、まるで「エンジンで動かされるように」行動する。
6)しばしばしゃべりすぎる。
7)しばしば質問が終わる前に出し抜けに答えてしまう。
8)しばしば、順番を待つことが困難である。
9)しばしば他人を妨害し干渉する。(例えば、会話やゲームに干渉する)
 こういった障害をもつ子どもの理解は、まだ日本ではあまり進んでいません。

5193.05.24/2005
 自分の気持ちを、うまく表に出せない子どもは、怖さや不安をいつまでも解消することができないのかもしれません。
 そのため、とても以前のことをずっと覚えていて、あるときふっと突然に怖さや不安を声や態度で現す気がします。当人にとっては、文脈のある事柄ですが、周囲にとっては、ひとつひとつのつながりが理解できずに困惑します。なんとか、不安を取り除こうと思っても、表出言語が限られていたり、なかったりすると、原因にたどりつけないのです。
 自分のなかにある不安や怖さを溜め込んでいるのに、周囲がわかってくれないとき、そのストレスは日々増大します。増大したストレスを説明することができないので、さらにストレスは拡大するばかりです。たとえ、発語があっても、言葉の使い方が正しくなければ、自己表現とはいえません。自分の気持ちを伝える方法を繰り返し、練習することは、すぐに効果が見えないのでとてもしんどい作業です。本当に、これでいいのか。いつか成果が出るというはっきりしたゴールがあるのか。本人にかえって苦痛を与えてしまっていないか。どれも当てはまるような気がしてしまうのです。
 日常生活を送っていれば、すべてがうまくいくわけはありません。発語を増やすとか、読める文字を増やすという学習によって、飛躍的に世界が広がるので、少しずつそれらには取り組みたいのですが、それ以前に本人のなかにいまたまっているストレスを解消し、これ以上精神的に傷つかない環境を整える必要を感じます。リラックスする状況がどんなときなのかは、ひとりひとりによって異なります。行動をつぶさに観察することによって、それらは見えてくると思うので、いまは観察眼を鋭くしている最中ですが、あんまりのんびり観察し続けていては、本人の苦しみは止まりません。
 そんなとき「本当に、この子にかかわるのはわたしでいいのか?」という自問が脳裏をよぎります。

5192.05.23/2005
 きょう学校で4年生を対象に「ごみ体験教室」がありました。
 市内の清掃センターの方が、収集車(パッカー車)を校庭に運転してきて、ごみの分別やリサイクルについて指導してくれました。
 特別指導学級の子どもたちは1年生から6年生までいますが、交流学級に行っている子どもを除いて、みんなで参加します。一度では記憶しにくい子どもたちなので、こうやって何度も参加することで、多少なりとも覚えることが増えたらと願うからです。
 前段の体験学習部分では、教室での様子に比べて、とても熱心に学習に集中していましたが、後段の解説部分になったら、動き回ったり、ほかのことをやりだしたりしました。おそらく解説の言葉が難しくて、意味がわからなかったのではないかと思います。そこで、当初から予定していたことですが、2時間目から教室に戻りました。しかし、ひとりの男児だけ、教室に戻るのをいやがり、その場にいることを主張しました。ふだんなかなか課題に乗り気にならない男児なので、その意欲を認め、そのまま体験学習を続けさせました。
 最後は、センターの方々からのクイズや学習のまとめだったのですが、それも集中してよく聴いていました。もともと機械や重機が好きな子どもなので、本物のパッカー車を前にして興味をもったのかもしれません。体験学習が終わり、4年生の子どもたちが教室に戻っても、その場を離れようとしません。4年の担任がセンターの方々にお礼をする間もそこにいて、結局、すべての片づけをして、3台の車が校庭から出て行くのを見送りました。そのときに「バイバイ」とさよならの挨拶をしたら、こころよく「さよなら」と応対してくれたのが嬉しかったようです。校庭から見えなくなるまで見送ると、気持ちの転換ができたのか、教室に自分から戻っていきました。

5191.05.22/2005
 21日、母の49日法要を北鎌倉の円覚寺で行いました。
 朝から日差しがまぶしい初夏を思わせる土曜日です。円覚寺は禅宗の宗派である臨済宗の総本山です。臨済宗の教えでは、ひとの魂は死後、7日おきに三途の川を渡っては戻りを繰り返し、7回目にあたる49日目に涅槃の岸にたどり着き、御仏のもとで極楽浄土の生活を送るとされています。つまり、49日を過ぎたら、もう魂は生前を離れ、天空での生活を始めるのです。そのため、お骨をお墓に納めるのも49日目が多いようです。
 父のカメラに、一ヶ月前の葬儀からのフィルムが残っていたので現像しました。するとそのフィルムにはその前に撮影した写真も残っていました。そこには、わたしたちといっしょにカメラに写る母の姿がありました。一本のフィルムに、生前の母と、死後の母の両方が写っていたのです。両方の写真を交互に見ながら、ひとが生きるということはどういうことだろうと考えました。アルバムの前半には、わたしの目前に母の生きた姿があります。後半には葬儀の様子なので、亡き母の姿があります。肉体はある日にちを境にして、滅してしまいましたが、わたしにとっての母の存在はアルバムの前半も後半も変わりはありません。そんな母の存在を感じ続けていくとき、本当に母は死んでしまったのかどうかわからなくなってしまいました。
 法要で住職が念仏を唱える間、これからも母の存在を抱き続けていくことが大事だと思っていた気持ちに変化がありました。
 窓外にゆれる緑と澄み渡る空。いま、まさに母のたましいは現世を離れ、未練や執着のない涅槃に旅立とうとしているのに、いつまでもわたしが存在を意識し続けていたら、安心して成仏できないのではないかと思ったのです。輪廻転生、ひとは何度でも生まれ変わることができるとしたら、わたしといういのちをこのよに授けた母のたましいは、今度は世界の別の場所で新しいいのちの灯火をともすことになります。その生まれ変わりを邪魔しないことが、わたしにとっての母への供養なのではないかと感じたのです。

5190.05.20/2005
 19日、文部科学省がフリースクールを学校として認める方向で検討を始めるニュースが新聞に掲載されました。
 詳しくは「不登校の児童・生徒がフリースクールなどで学んだ場合でも、一定の条件を満たせば、就学義務を履行したとみなす検討」です。就学義務を履行という、難しい表現になっています。つまり、小学校年齢の子どもなら小学校に通い学習をしたということ、中学校年齢の子どもなら中学校に通い学習をしたということ、高校年齢の子どもなら高校に通い学習をしたということです。これまでは、フリースクールへ通っても、学校教育法で規定している学校(小学校や中学校など)には通ったとはいえないとしてきた文部科学省の方針からは大転換したことを意味しています。
 近年、義務教育学齢の子どもの場合は、フリースクールに通学した日にちを学区の学校の出席とする自治体は増えています。実際に教育活動に出席していたので、学区の学校を欠席にするほうが問題は多かったのですが。しかし、高校年齢の場合、在籍母体になる高校がないために、フリースクールに通っても、履歴としての学歴で不利益が発生していました。
 フリースクールに通った期間を、フリースクールでのカリキュラムに照合して、小学校履修・中学履修・高校履修にするということは、事実上、フリースクールを卒業することが学校を卒業したことと同じ効力にするということです。ということは、スリースクールが卒業認定をするわけですから、フリースクール自体を学校として認めることにつながります。
 ここで、心配なのは「一定の条件を満たせば」という部分です。フリースクールの存在価値は、従来、レギュラーにとらわれないオルタナティブにあるので、一定の条件がレギュラーへのすり合わせにならないかということです。これまでの学校に近いかたちの設備や教育課程、教員の資格を一定の条件にしたら、全国にあるほとんどのフリースクールは、条件から外れます。そこに通う子どもや保護者は、二重の苦しみを味わうことになります。

5189.05.19/2005
 一口に自閉症と言っても、症状は様々です。
 また、自閉症というネーミングが症状を的確に表しているのか、疑問にも思います。
 日々、自閉的傾向のある子どもたちと接していると、それぞれの子どもたちの個性に気づき、やさしさやユニークな面にこころを動かされます。いわゆるいじわるや物隠しなどの迷惑行為とは無縁な世界なので、かえってピュアに感じることも少なくありません。
 考えがまとまらずに、混乱することは、だれにもあることですが、この子どもたちにはその傾向がやや強く見られます。自分で、混乱を収束させる手立てにとぼしいので、指導と支援によってゴールを示すことがとても必要になります。やがては、その経験の積み重ねによって、自立へと向かうことが大切な目標です。
 また、脳のなかで、小さな回路のショートが起こりやすい特徴のある場合は薬によってショートしないようにすることも必要です。ひとつひとつは小さなショートでも、放置すれば大きな発作につながり、正常な脳細胞を傷つけてしまうからです。脳細胞は、全身の機能を細かく分担しています。傷ついてしまうと、担当している機能がうまく動作しなくなる可能性があるのです。
 わりと共通する特徴として、場面転換が苦手というものがあります。ひとつのことに集中すると、時間になったからとか、周囲の事情でとか、本人の気持ち以外の要素で、違う場面に行動を移すことが苦手です。これは、興味を示さないものには、たとえ大切なものでも積極的になれないと言い換えることもできます。決して、わがままなのではなく、なんらかの原因で、異なる行動へのブレーキが強く働いているのかなと感じます。不安な状況に自分を追い込まないという、動物の本能的な部分が強いのです。
 そこで、学校では行動の道筋を互いに確認し、文字が読める子どもには箇条書きにして、文字が苦手な子どもには絵や写真で、行動の順番を確認させ、いつになったら終わりなのかを教えてから、学習に入ります。これは学校だけでなく、多くの場面で必要なことなので、保護者の協力も必要になります。

5188.05.18/2005
 2003年に教育職員免許法が改正されました。
 これにより、全国の公立小中高校の教員が、懲戒免職になった場合は、免許が失効するようになりました。免許が失効するので、ふたたび教員になるには、大学などに再入学して教職課程を履修しなければなりません。実際には、そのようなことをするひとはいないと思うので、二度とふたたび学校に勤務することはできなくなったととらえられます。
 法律の改正から、ことしの3月までに、懲戒免職になった者のうち、セクハラ・わいせつ行為で懲戒免職になった者は250人もいます。わずか2年3ヶ月、約800日間に250人もセクハラ・わいせつ行為で懲戒免職になり、教員免許を失効したのです。3日に一度のペースで、全国のどこかの教員が、資格を失っている計算になります。とくに、子どもへのセクハラ・わいせつ行為に対しては、原則として懲戒免職にするようにと、文部科学省は各教育委員会に通達を出していますが、実際には3分の一の教育委員会が「ケースバイケースで判断」にとどまった対応をしていることがわかりました。
 学校でのセクハラ行為は、対象が子どもなので、事実関係の把握に困難があります。こころもからだも傷ついた子どもに、精神的につらかったときのことを思い出させながら、事実関係を調べなければならないからです。わたしの知る限り、同様の事件では、保護者が消極的になります。また、子どもはたくさんいるので、セクハラなどの疑いのある教員に対しても「あの先生がそんなことをするはずがない」と支持する声をあげ、子どもどうし・親どうしに対立の溝を作ってしまうこともあります。それだけ、学校は密室空間であり、セクハラやわいせつ行為が起こりやすい条件が整っているのです。
 公表されているだけで、2002年度からの3年間で、教員から性的被害を受けた子どもは462人もいます。そのうち390人は、自分が在籍している学校の教員から被害を受けています。教育委員会のなかには、こういった情報を公開していないところや、こういった情報を調べてさえもいないところもあります。
 身内に甘い体質を、よのなかは許していないことに気づかないのでしょう。

5187.05.17/2005
 ひとの脳の成長は、同じ年齢でも、ひとさまざまです。
 脳はからだのあちこちに神経を使って命令を発しています。また、体のあちこちから、痛みや温度などの情報を受け取っています。
 脳の成長過程で、小さな小さなひとつの細胞に酸素が行き渡らなかったり、血液が流れなかったりすることによって、その細胞の機能が休止することは少なくありません。とくに年齢を重ねると、その頻度は多くなり、物忘れや運動能力の低下のような症状となって現れます。
 これらが若いうちに発生することも少なくありません。それは、予知しにくく、発生してからもすぐには発見しにくいものです。しかし、周囲の環境が、そういったひとたちの苦しみに真正面から向き合おうとしていれば、適切な対処を早期にとることが可能です。
 脳の細胞は、全身の機能を細かく分担しているので、脳細胞に休止しているところがあっても、ひとそれぞれ違うところで機能が休止していると考えるのが自然です。それを大雑把にまとめてしまう考えはやや乱暴で、現実への効果的な対応をあいまいにしてしまうでしょう。とくに、子どもの場合は、成長とともにできなかったことができていく要素ももっているので、機能が休止しているのか、機能が活動準備中なのかの見極めが難しくなります。
 マイペース、わがまま、手がかからないなど、子どもの特徴をカテゴリーに分類して、その場をやり過ごすことは簡単です。しかし、子どもの内面では、もっと切実な要求が高まっているかもしれないと想像してみるのも重要ではないでしょうか。伝えたいことがあるのに、うまく言えない。鉛筆をもつが、うまく指がコントロールできない。周囲の子どもと自分との違いがわかる。どうすればいい。どうしようもない。早く早くとせかされる。なにやってんのと怒られる。見えるもののなかから不必要なものを取り除くフィルタが機能していないから、すべての情報を取り込んで、パニックになる。
 普通とか、異常などという区別は意味がありません。個々人の特徴としての脳の成長を、理解し、把握し、道筋を作っていくことが大切なことだと思います。

5186.05.16/2005
 学校は、子どもが自立するのに必要なことを学ぶところです。
 それは、どの子どもにも言えることで、自立への手助けがなされない場合は、学校の存在意義は低下します。
 しかし、いまの学校は多くの子どもに単一の指導を決まった時間にしか行っていません。多様化する社会に比例するように、子どもも多様化しています。個々に応じた指導や支援が必要になっているのに、実際にはその体制が整っていない現実があります。同年代の子どもが多く在籍する学校では、そのなかで子どもが社会性も身につけていくと思われています。しかし、何の手立てもなく、子どもが自然に社会性を習得することは稀です。自然に社会性を習得する子どもは、逆に言えば学校に行かなくても社会性を習得する素質があるのかもしれません。
 社会性を習得するには、集団のなかで自分の置かれた状況を把握する能力が必要です。そして、自分の気持ちや考え、判断を、場をわきまえて表現しなければなりません。集団のなかで自分の置かれた状況を把握するには、子どもたち相互の関係性を教師がよくつかんでおく必要があります。そのことを怠ると、ひとりひとりの子どもたちは孤立した集合体にしかなりえないのです。
 多様な子どもたちには、当然ですが、多様なアプローチが必要であり、そのなかから個々の子どもにマッチした学習方法や、向かっていく方向性が確立されなければなりません。しかし、有能な教師が一律にすべての子どもに同じ学力をつけることがベストだと思っているひとは、教師にも保護者にも少なくありません。それでは、一律な指導についていけない子どもや、いつも違った方向に駆け出していく子どもは、悪い評価を下されてしまいます。
 ひとはひとりずつ違うんだという根本的な考えを、日々子どもにも保護者にも伝え続ける努力が、これからの教師には求められているのです。

5185.05.15/2005
 今週末は群馬県館林市にいました。
 館林市の公立私立の保育園の研修会に、つながりあそびの講師として招かれたからです。
 この研修会は、園長さんも保育士の方も、自主的に参加している研究会が主催しています。自主的な研究会のなので、準備や打ち合わせなどはすべて仕事が終わってからやっています。館林市には公私立の保育園が15園あって、その保育園に勤務しているほとんどのひとたちが加入しているようでした。研修会が行われているときも、保育園は開園しているので、残念ながら研修会に参加できないひともいたそうですが、それでも100人ぐらいの参加者があり、意欲のあるひとたちに囲まれて、とても充実した時間を送ることができました。
 今回の研修会では、15個ぐらいのつながりあそびと、2つの歌を企画しました。それらを、参加者の表情や動きを感じながら組み立てます。最初に、全体の流れを組んではありましたが、それらはあくまでも予定です。実際に、参加したひとたちの空気をもとに、修正をしなければレクリエーションのリードはつとまりません。こちらの提供する内容に、参加者を無理やり合わせるようでは、リーダーは失格です。
 また、用意した内容を次々とこなすだけでは、時間つぶしに過ぎません。保育園で実践するときにこころがけることや、歌が誕生した背景、日々わたしが感じていることなどを合間にはさみながら進行しました。こういった講習会の講師依頼を受け始めた10年以上前の頃は、メモを用意して、それらを見ながら伝えたいメッセージを語っていました。でも、慣れとは恐ろしいもので、最近はだいたいのことを頭に入れ、講習が始まったら、それらをいったんシャッフルして、そこから感じたことを伝えられるようになりました。「習うより、慣れろ」とはよく言ったものです。

5184.05.11/2005
 自分の気持ちを相手に伝えるとき、思っていることのなかから必要なことを選んで伝えるのは、とても高度な能力です。成長とともに身につけるものでもありますが、まったくのトレーニングなしには困難でしょう。
 そのためには、喋るとか書くなどの表現手段を持たなければなりませんが、喋ったり、書いたりすることが困難な場合には、自分の気持ちを伝えられないストレスばかりが蓄積します。だれもが喋ることができるわけでも、文字を書くことができるわけでもありません。なのに、学校教育では表現方法をかなり限定しています。それらが困難な子どもを、困らせるような状況を放置して、障害があると排除する考え方は、福祉社会の実現には程遠いものでしょう。
 多様な表現方法を多くのひとたちに用意することはとても大事なことです。
 わたしの知る限り、多くのひとは感受性を持ち合わせています。自分の周囲で起こる事象を、自分のなかに取り込んで、記憶したり、こころを動かしたりするのです。そのことをほかのひとたちに伝えたいという気持ちも、やはり多くのひとが持ち合わせています。ひとは、関係性の生き物なんだなとつくづく教えられます。
 コミュニケーションの基本は、双方向性です。情報が一方通行の場合はコミュニケーションが成立しているとは思えません。互いの気持ちを通じ合うには、とても努力が必要です。その努力を怠って、自分の気持ちを相手に押し付けて終わりという意思の伝達が、おとなの社会では絶対に行われていないと言い切れますか。おとな社会で実現できていないことを、子ども社会に強制しても、多くの子どもはおとなのずるさを簡単に見破ってしまうでしょう。

5183.05.10/2005
 JRは西日本だけでなく、全体として国鉄時代に分割民営化に賛成しない労働者を、現場から隔離し、人材活用センターに送りました。それまでとまったく違う仕事を、強制したのです。その段階で、多くの熟練した技術が失われました。
 その結果、管理者に抵抗しない労働者が残り、新入社員は労働者は抵抗してはいけないと教育され、会社にとって自分が使いやすい人材になることを叩き込まれました。そんなひとたちに、安全最優先の意識が育つはずがありません。危機に直面して、自分の判断で正しい行動をする考えが残っているわけがないのです。
 なにかというと、不祥事の会見で「企業の風土」を繰り返す経営責任者。その風土を是認し、推進し、肯定してきた自分たちの責任を棚に上げるのは、今回の事故で亡くなった方々や遺族、いまも負傷して傷つく方々の強い怒りと恨みを買うことに気づかなければなりません。  事故の後、ボーリングにゴルフ、海外旅行に愛・地球博と、JR西日本の社員の不適切な行動が表面化しました。それにしても、社外での活動がとても多いのに驚きます。そこまでして、親睦を図り続ける理由があるのでしょうか。人脈や派閥が強く形成されていて、その結束を図ろうと考えているのでしょうか。
 ひとつの事故から、たくさんの背景が表面化しました。たくさんの背景があるから、今回のような事故が導かれたと考えるのが妥当かもしれません。だとしたら、事故に結びつくような背景は、事故が発生する以前に知られていたことになります。管理職や経営サイドが、そういった事実を是認していたとしたら、その責任は免れないでしょう。また、ジャーナリストのなかに、そういった背景を知っていながら告発しない空気があったとしたら、ジャーナリズムの価値は低下してしまいます。これからの日本の安全な旅客輸送を真剣に考慮するなら、鉄道以外にも似たような状況が蔓延していないかをチェックする必要がありそうです。

5182.05.09/2005
 国鉄時代の中心的な労働組合である国労は、分割民営化の過程で縮小を余儀なくされました。
 反対に、分割民営化を受け入れる代替措置として、組織率を増加させたのが、かつての動労です。現在は、それぞれの会社の名称を冠にした名前に変わっています。今回の事故のJR西日本のなかで組織率の高い労働組合は、西日本旅客鉄道労働組合です。通常、西労組と呼びます。
 JRでは、社員に不祥事や過失があったとき、その社員がどの労組に加入しているかどうかによって処分や対応が違います。これは労働法で禁止されていることですが、そこは明確に文書に残さないなどの工夫によって、明らかな証拠はありません。
 しかし、今回の事故で、よのなかの鋭い視線を浴びて、不祥事や過失を隠しきれなくなったのでしょう。これまでに穏便に済ませてきた不祥事や過失を公表せざるを得なくなって、次から次へと社員には判断力がないのではないかと思ってしまう事実が伝えられてきています。
 事故車に乗り合わせた運転士は、事故現場を離れて業務に向かったと言われていますが、実際には自分が運転する電車はずっと遅い時間でした。それよりも、この運転士が優先したのは、その前にあったJR西日本大阪支社長の講演会です。若手の運転士にとって、支社長は王様のような存在だったといいます。事故で人命を救助する活動をして、講演会を欠席したら、自分に処分が下ると考えたのでしょう。そのように考えた運転士をわたしは責めません。そのように考えさせる労務管理を徹底させている会社と、会社と一体になって中央に権力が集中する構造を支えた西労組の責任が大きいと思うからです。

5181.05.07/2005
 事故を起こした電車には、乗客のなかに、同じJR西日本の運転士が2人いました。
 この2人は、事故の後、現場から徒歩で近くの駅まで行き、通常の業務についています。現場では、周辺のひとたちが自主的に負傷したひとたちの救助にあたっていたのに、肝心要の当事者の社員が救助のなかに入らずに、業務を優先したのです。この運転士は、事故のことを上司に報告しましたが、上司からは現場に残って救助にあたる指示を受けなかったので、業務を優先したのでしょう。会社側の指示に従順な社員を育成する教育の結果、自分でものを考えられなくなっていたのでしょう。この運転士への個人的な責任追及はかわいそうですが、それほどまでに個人を管理する体制がJR西日本という会社では出来上がっていることに驚きます。
 また、4日には事故電車の乗務員が所属する車掌区でボーリング大会が開催されていたことが発覚しました。4日の午後5時に始まった記者会見では、「命より仲間内の親睦なのか」という質問が。ボーリングのことが会見のなかで発覚したのは会見の開始から5時間後。さらに社長が会見場に姿を現したのは5日の午前0時過ぎのことでした。じつは、社長は3日のうちには、ボーリング大会の報告を受けていました。しかし、遺族への弔問ではそのことには触れなかったそうです。これだけの大惨事を起こした最高責任者として、まだ隠せるものは隠しておこうという体質が経営サイド全体にある気がします。マンションの住民で、その後ホテル住まいを余儀なくされた方は「大事故のさなか、事故の発生をしりながらボーリングをしていたなんて信じられない」と、あっけにとられます。
 起こってしまった事故を、それ以前の状態に戻すことは、残念ながらだれにもできません。しかし、二度と同じことを繰り返さない努力は、考え方次第によっては可能なはずです。救急や消防、警察やボランティア、病院や看護の方々の献身的な活動にくわえ、事故の当事者であるJR西日本サイドがもっと透明性のある解決へ向けた原因究明を加速するべきだと思います。

5180.05.06/2005
 「今回の事故では、現場のATS(自動列車停止装置)が「制限速度オーバー」に対応しない旧型だった一方で、私鉄との競合を背景にした高速化と過密ダイヤが大きな問題点として指摘されている。」:毎日新聞http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/amagasaki/news/20050502k0000m040129000c.html
 死亡した運転士は、運転台と壁にはさまれて圧死していました。その幅はわずか数センチだったそうです。遺体からは、アルコールや薬物は検出されず、突然意識を失った形跡もありませんでした。つまり、事故の直前まで意識があり、体調に悪いところもなく、マンションに突っ込んでいく車両の先頭で、恐怖と無念に襲われながら、若いいのちを落としていったのでしょう。
 一分、一秒単位の遅れも許さないという過密なダイヤが、若い運転士に制限速度オーバーを決断させています。
 ダイヤや乗務員の勤務表は、各支社の輸送課が作成、本社の鉄道本部が了承して決定します。わたしの知り合いで鉄道で働く方によると、それらのほとんどは助役にあたるひとが担当しているそうです。助役の多くは、現場経験がなく、入社時から幹部候補として人事管理教育だけをされてきた背景があったり、当局に有利な労働組合から出世したひとが多かったりするので、とても業務のプロとはいえないそうです。つまり、現場の苦労や意見を知らないひとたちが、とても重要なダイヤや勤務体系を一括管理し、それを遵守できないひとたちに懲罰研修を課す、ひとをひとと思わないような仕組みができあがっているのです。

5179.05.05/2005
 兵庫県尼崎市での電車脱線事故の調査結果が進むに連れて、驚きの事実が次々と明らかになってきています。安全だと信じている交通機関の裏側には、乗客が知らない落とし穴が潜んでいることがわかります。
 「国土交通省航空・鉄道事故調査委員会は、快速電車の速度超過が脱線の主因とほぼ断定しました。県警尼崎東署捜査本部も同様の見方を強め、事故調と合同で車両から回収したモニター制御装置などの解析などを進めるとともに、乗務員の勤務状況や運行ダイヤの作成に関し、JR西日本の担当者数人から事情聴取を始めました。業務上過失致死傷容疑の過失責任の有無を判断するには、同社の運行管理の実態解明が不可欠と判断しており、運行管理者らからも本格的に聴取する方針だそうです。」:毎日新聞http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/amagasaki/news/20050502k0000m040129000c.html
 電車が制限速度を大きく越えて走行するとき、その電車の乗客たちには速度を減速させる方法も権利もありません。また、実際に制限速度を越えた速度で走行しているという事実も知らされていません。安全に対する信頼があるから、乗客は速度に対する疑念をもつ必要がなかったからです。しかし、実際には運転士の気持ちを追い詰めるような定刻走行指導が会社側により強制され、時間の遅れを速度超過によって穴埋めしようとする運転がまかりとおっていたのです。今回の事故の背景には、利用者のニーズもあるという声もあります。乗り継ぎの電車に間に合うこと、予定した時間通りに運行すること。このような利用者の声に応じるには、運転士に必要以上のプレッシャーをかけざるを得なかったと。
 この考え方は、責任を利用者に押し付ける論点のすり替えです。利用者が定刻走行を求めるのは当然のことです。そのためにダイヤがあるのですから。しかし、事業者は鉄道の専門家として、定刻走行の前に安全が優先される考えを堂々と前面に出すべきです。「安全をおろそかにするわけにはいかない」と。それでも納得しない利用者が多くなったならば、残念ながら「当社は安全よりも、定刻走行を優先します」と方針を明確にしなければなりません。そうすれば「だから利用しよう」という乗客と「だったら利用しない」という乗客に分かれるかもしれません。でも、両立しにくい目標をあたかも両方とも目指しているポーズだけ示すよりも、真実味があると感じます。

5178.05.02/2005
 連休をどのように過ごしているでしょうか。
 ホームページへのアクセス数を記録しているのですが、連休中はアクセス数が減る傾向があるので、みなさん出かけているのだろうと想像します。
 わたしは、自宅のウッドデッキのペンキの塗り替えをしました。
 本当はもっと早くやりたかったのですが、一日中好天が続く休日がなかなかなくて、延び延びになっていたのです。
 その日は、朝から雲ひとつない青空。とても春とは思えない暑さのなかで、まずペンキをはがす仕事に取り掛かりました。以前は紙やすりで削っていたのですが、とても重労働なので、DIY店で購入した電動グラインダーを使いました。丸い砥石が高速で回転する電動グラインダーは、金属のさびも落とすパワーなので、木面のペンキ落としなどお手のものです。しかし、ウッドデッキの面積が広いので、滴り落ちる汗を感じながら、すべてのペンキ落としが終わったのはお昼を過ぎていました。
 ずっとしゃがみながらの作業だったので、ひざは曲がったまま元に戻りにくいは、腰は痛いは、しまいには汗が出なくなり頭がぼーっとするはの大変な仕事でした。当日は、問題なかったのですが、翌日にはももの内側が筋肉痛になり、歩くのにも不自由してしまいました。
 ペンキ塗りは、大学時代に4年間ペンキ屋でアルバイトをしていたのでものの30分ぐらいで終了しました。午後はゆっくり休息したかったのですが、自宅でしなければならない事務仕事があり、パソコンの前に座って、今度は頭を使います。夕方からは、前回紹介した退職された校長の宴会に参加。深夜に帰宅したら、なにもしないで布団に倒れこみました。連休は、日ごろの疲れをいやせるぞと思っていたのですが、こんな調子で過ごしていると、疲れをためるばっかりだと感じます。きょう2日出勤したら、連休中より、きょうのほうが肉体的に疲れませんでした。

5177.05.01/2005
 4月下旬の土曜日。地元の大船で大きな宴会がありました。
 もうわたしの子どもたちは小学校を卒業してしまいましたが、かつてお世話になっていた頃、親父の会というのがありました。いわゆるPTAではなく、会則も会費もない自由な集まりです。その親父の会が、学校に炭焼きの窯を作り、一年に二回ぐらい泊まりこんで炭を作っていました。
 学校に窯を作ることや、終夜保護者が学校に泊り込むことなど、町中の学校ではできないことです。幸い、その小学校は人里から離れた山中にあり、物理的な条件は整っています。しかし、そんな願いを受け止めてくれる学校関係者がいなければできないことです。その当時の校長をはじめ、多くの学校関係者の方々の了解を得て、親父の会は炭焼きを続けました。その突破口を開いてくださった校長さんが、ことしの3月で定年を迎え、退職された祝いの会でした。
 歴代の親父の会のメンバー。学校関係者の方々。PTAの役員の方々。いまは見かけることが少なくなった方々がたくさん集まり、まるで同窓会みたいです。炭焼きは熟練した技術が必要なので、最初の頃はうまくいかずに失敗したこともありました。宴会では、そんな懐かしい話も飛び出しました。また、親父の会に対するPTAからの風当たりが強かった時期に、中心的なメンバーがPTA役員会に出席して活動を説明したこともあります。いまは、両者とも協力関係を築いていますが、そこに至る苦労話も披露されました。
 現在、親父の会の炭焼きは行われていません。最後に実施したときに、臭いに対して住民が消防に通報し、学校に対して匿名の批判メールが寄せられたからです。
 地元のひとどうしの親睦をはかり、学校関係者と親たちとのフランクなつながりの機会を提供していきたかったので、結果として多くのひとたちに迷惑をかけてしまっては、実施する意義がなくなってしまうからです。当初、山中にあった小学校の周辺にも、多くの住宅が建設されました。新しい住民の方にとって、終夜鼻をつく炭焼きの臭いにさらされるのはつらいことでしょう。今後、この活動と集まりが、どうなっていくかは、まったくわかりません。

5176.04.27/2005
 今回の事故でマンションの駐車場に突っ込んだ先頭車両が28日、やっと姿を現し、なかに残っていたひとたちの救出が完了しました。
 JR史上最悪の107人の死者を出した事故は、まだ原因究明が始まったばかりです。右カーブの線路、カーブの内側にあたる部分には車輪の痕が残っていなかったことが判明しています。高速でカーブにさしかかった電車は、大きく車体を遠心力でカーブの外側に傾けてしまったのでしょう。そして、車体を左側に横転したままマンションの駐車場に突入し停止したと考えられます。
 多くの乗客を預かる運転士の精神を、秒単位の遅れと、事故防止のための研修が、通常とは違う状態に追い込んでいたとしたら、それは会社全体の事故責任が問われなければなりません。なぜなら、いまも多くの電車が走行し、その運転士たちが同じ精神状態に追い込まれている可能性があり、同じ事故が繰り返されるかもしれないからです。
 ペンキを塗らなければ錆びてしまう鉄でできた車体は、国鉄時代に製造されました。鉄の純度が100パーセントに近い車体は、ペンキ代も含め、とても製造コストがかかります。これに対して、錆びないステンレス車体はJRになってから大量に製造されるようになりました。アルミ合金を使ったステンレス車体は、製造コストが安かったので、いまは主流になっています。しかし、今回の事故を見ると、あまりにも衝撃に弱い車体だということがわかります。乗客のいのちを守る車体が、なかの乗客のいのちを奪う金属になってしまうことが判明しました。
 わたしは鉄道が好きなので、電車に乗るとついつい先頭車両に乗ってしまいます。そして運転席の前方に広がる景色を見たくなります。しかし、そこがもっとも危険な乗車位置であることがわかり、これから電車に乗るときの場所を考えてしまいます。亡くなった多くの方々の人生を運命と決めつけてはいけません。防ごうと思えば防ぐことができた人為的な過失部分を徹底的に究明し、再発防止策を早急に実現することこそが、悔やんでも悔やみきれない多くのたましいを昇天させることにつながります。
 ことしも大型連休が始まりました。交通機関を利用するひとはたくさんいます。このような悲しい報せが届かないことを願って止みません。

5175.04.26/2005
 山崎豊子さんの大著「沈まぬ太陽」。
 安全よりも経営を優先させた結果、悲劇の大惨事「御巣鷹尾根墜落事故」を起こした日本航空の内情を暴露した小説です。経営陣の方針に反発する個人や労働組合員を徹底的に差別し、その結果、安全への信頼を失わせる悲劇を招きました。ことしに入ってからの日航の事故を知る限り、当時の教訓はまったく生かされていないと思わざるを得ません。
 まったく同じ構造が、今回の福知山線の脱線事故からも見えてきています。おそらくJR発足後、最悪で最大の惨事になるだろう、今回の事故は、速度の出しすぎや故障といった、脱線に結びつく直接的な原因以外に、それらを誘発した背景を解明しないと、残念ながらふたたび繰り返されると思います。
 報道では福知山線を管轄するところでは、運転士がオーバーランなどの理由如何にかかわらず、電車に遅れを出すと、業務を外され、人権を無視した研修が行われていたそうです。日勤教育と呼ばれます。本社の助役などのいる部屋の中央机で、朝から夕方まで監視され、いびられ、反省文を書かされるそうです。過去には、安全点検のために遅れを出した運転士も対象になりました。この方は、不幸にもその後自殺します。しかし、このような対応を、いまのところ記者会見では会社側は認めていません。
 乗客のニーズに対応するためには、安全と定刻運行はとても大事な事項です。しかし、いかなる場合も安全に優先することはありません。定刻運行を運転士に強制したばっかりに、運転士の意識のなかに安全への配慮が欠けたとしたら、それは運転士個人の責任ではなく、そのような心理状態に追い込んだ会社の責任です。定刻運行は、会社に利益をもたらします。経営優先の考え方では、乗客のいのちは二の次になってしまうのです。
 またJRは、民営化後、徹底的に労働組合差別を断行しています。それは現在も続いています。同じ過失をしても、どの労働組合に入っていたかで、処分がまったく違ってくるのです。そのような狂った体質が、今回の事故の背景にあるように思えてなりません。くだらない日勤教育をしている暇な助役たちは、事故防止のためにいっしょに運転席に乗り、具体的な指導をするべきです。そのような指導のできない助役だから、ひとをいびる術に長けてしまうのかもしれません。

5174.04.25/2005
 JR西日本福知山線で大惨事が発生しました。
 2005年4月25日。きしくもこの日は地元のJR東日本横須賀線で朝から人身事故があり、通勤通学客に大きな影響が出た朝でした。
 兵庫県尼崎市の福知山線塚口駅と尼崎駅の間で宝塚発同志社前行きの上り快速列車7両編成が脱線し、1両目から3両目が横転する事故がありました。現場は、制限速度70キロの急な右カーブです。カーブの先にあるマンションの1階に1両目はめり込み、外からは確認できないほどでした。2両目はぺしゃんこにつぶれ、夕方のニュースでは50人近い死者と300人近い負傷者が報告されています。当時、快速列車には580人の乗客が乗っていました。
 事故を起こした電車は、直前の伊丹駅でメートルのオーバーランをしています。そのため、停車位置に戻るため、1分30秒のダイヤの遅れを発生させていました。停車位置に止まらないことは、運転士の評価を下げます。この電車の運転士はわずか運転経験11ヶ月だったそうです。以前にも別の路線で100メートルのオーバーランをして処分を受けていました。
 今回ふたたびオーバーランをした遅れを取り戻すために、かなりの速度で走行していたことが、乗客の証言で裏付けられています。もしも、速度の出しすぎで、カーブを曲がりきれずに脱線したとしたら、多くの犠牲者は定刻運行のために安全をおざなりにされたことになります。マンションに1階にめり込んだ先頭車両の救出は困難を極め、夜に入ってからの作業になりそうですが、これまでの被害状況を見ても、日本の鉄道史上悪夢の事故には変わりありません。
 これから警察や専門家による事故調査が始まります。その過程で事故の原因が明らかになってくると思います。わずかな情報で、事故の原因を想像することは危険なことです。しかし、事故を誘発した背景を考えることは重要です。わたしは、鉄道が大好きです。おかげで鉄道会社に勤務する知人もたくさんいます。そのひとたちが異口同音に「いつか取り返しのつかない事故が起こってもおかしくない」と言っていたことが脳裏をよぎりました。

5173.04.24/2005
 ゆとり教育の是非論がニュースになっています。
 以前のニュースでは、各国の子どもの学力に比べ、日本の子どもの学力が低下しているのは、かつてのゆとり教育の責任だと報じていました。しかし、きのうの毎日新聞では、文部科学省が行った初の全国調査によると、ゆとり教育を受けた世代は、前回よりも正答率が高いことが報じられています。初の全国調査なのに、比較材料があるのはどういうことなのかはわかりませんが。
 ゆとり教育という言葉は、あたかも学校で子どもがのんびり過ごしている印象を与えています。しかし、実際には子どもも教職員も、管理と評価のもとに、しめつけのきびしい学校生活を送っているのです。教科書を作成するときの基準になっている学習指導要領のうえでは、学習内容的に以前よりも内容が若干少なくなったのかもしれませんが、末端の学校現場ではそれぐらいの変化はあまり影響が及ばないのです。にもかかわらず、ゆとり教育によって学力が向上したの・下落したのと一喜一憂するのは、教育活動を政治的に扱おうとするマスメディアの戦略のように思えてなりません。
 現在、私立学校のなかには、土曜日も開校して、公立学校との差異を強調するところが増えています。親にとっては安心するのかもしれませんが、子どもの身になったとき、週に6日間も学校に拘束する生活をいまの時代に毎日繰り返すことは、自分のあたまでものを考えられる力を育む時間を削減していることにほかなりません。週末をどのように過ごすかは、だれかに教えられて決めるものではなく、自分や友だちと悩み・相談しながら決めなければいけないことなのです。その時間を学校で過ごすのは、大切な時間の浪費のようにわたしは感じます。5年後から10年後の間に、きっと子ども時代を公立学校で過ごしてきた場合と、土曜日も開校していた私立学校で過ごしてきた場合とで、自立心や独立心の面で大きな違いが生じるのではないかと思います。

5172.04.23/2005
 特別指導学級の担任になって3週間が過ぎました。
 最初の1週間は、忌引きで休んだので、実際には2週間の仕事をしました。毎日が新鮮な日々で、見るもの・聞くものが新しくて楽しみながらも、子どもたちのパワーにやや肉体がついていけない感じです。精神的にはとても健康ですが、肉体的にはばてばて。夜はもう10時ぐらいになると、まぶたが勝手に閉じてしまいます。
 朝8時ごろには教室に行きます。学校には7時半過ぎに着いて着替えています。家の人が子どもを送ってくるので、教室で待機しています。子どもたちが登校したら、3時ごろに帰るまで、片時も子どものそばを離れることはできません。トイレを促したり、食事の方法を教えたり、休み時間もともにいたりするので、職員室に戻ることがなくなりました。そのためか、まだ着任したばかりではありますが、教職員の名前を顔をほとんど覚えていません。
 子どもが帰ったら、チームで子どもを見ている2人の担任とミーティングをします。子どもたちひとりひとりのこと・その日の活動からの感想・翌日の流れと担当の確認。たっぷり1時間はかかるので、気づくと4時を過ぎています。ふーっと息を抜いたら最後机に体を倒して睡魔と疲れに襲われます。
 普通級で担任をしていた13年間。わたしは、クラスのなかに何人かいる学習の遅れがちな子どもや、集団になじめない子どもに、個別の指導をしたくてたまりませんでした。しかし、全体のなかでの活動が基本になっている普通級ではどうしても個別指導には限界がありました。まだ2週間しか経験していませんが、特別指導学級での仕事は、当時わたしが本当にやりたかったことを毎日おつりがくるほど実現できています。だから、精神的にはとても元気でやりがいに包まれた毎日を送っています。

5171.04.22/2005
 がんばったほうがいいとかがんばらないほうがいいとか、ひとの成長に関する励ましの姿勢が問われることがあります。
 がんばるって、いまの力よりももっと多くの力を発揮してごらんよという励ましです。だから、精一杯の力を発揮しているひとには、かえって圧力にしかなりません。もうがんばれないよという悲鳴をあげることもできずに、自分を責めてしまう可能性もあります。また「自分だったらもっとできるのに」という、相手のことを考えないで自分の尺度でがんばらせようとするのは、とても尊大な態度のように感じます。よく、底力を発揮するといいますが、底力は決して周囲からのがんばれコールがなくても発揮できるものです。また、励ましや応援があるから、自分でも不思議なくらいの力を発揮できるときもあるでしょう。ひとは相乗効果によって伸びてゆくからです。
 しかし、どんなときも、相手のことを考えないがんばれコールは、応援しているひとの自己満足にしかなっていません。励ましている・応援している・がんばれと叫んでいる自分に満足していて、その結果、相手がどんな気持ちになるのかというのは二の次なのです。この関係は、スポーツの世界ではあまり問題になりません。アスリートは、励ましをばねに能力を高めることを覚悟しているからです。しかし、親子関係では大きなトラブルの原因になりかねません。親は子どもを応援するつもりでがんばらせます。しかし、子どもはもう自分が限界に達していることを親に伝えられなくて苦しみます。親が脅威だからではなく、親に不安を与えたり、心配をかけたりしたくないからです。そのことに気づかないおとなは、いつか子どものこころが自分から遠いところに行ってしまうことを覚悟しなければなりません。

5170.04.20/2005
 カルタを使った言語とグループ学習は、少しずつレベルをアップしてきました。同じ内容を繰り返すことで、子どもたちに学習のリズムができるので、一日ごとにあまりやり方や内容に変化はつけないようにしています。しかし、習熟の度合いがはっきりと目に見えてきたので、同じ繰り返しへの飽きをもたせない工夫が必要になったのです。
 きょうは、読み札をひとりに一枚ずつ渡し、絵札のテーブルに行き、読み札に対応する絵札を探し、見つけたら、次の読み札をもらうという方法にしました。座って遊ぶカルタのイメージとは違う、とてもフィジカルなカルタです。カードを見つけたら、次の読み札を受け取ることができるので、最終的にたくさんのカードをゲットするには、何度も絵札と読み札のテーブルを往復しなければなりません。子どもたちは、はあはあ言いながらカルタに熱中しました。
 やっている途中で「ないよ」と言っている子どもがいたら、近くの子どもが「ここにあるよ」と教えます。かかわりあいを高めるなかで、互いの存在を知り、やさしさや助けを直接子どもどうしで経験することが、自分の存在を肯定的にとらえる第一歩のような気がしました。自分が見捨てられていない、はじかれていないという実感に包まれることは、こころを安定させるのです。よく教えあい・助け合いが学校教育で求められますが、注意深くなかみを見ると、教える側と教わる側が固定していることが多いのがわかります。それは教えあっていることにはならず、教える側にも教わる側にも精神的な負担が増加しているだけで、逆効果になりがちです。

5169.04.19/2005
 コミュニケーションスキルの向上を目指して国語学習にカルタを取り入れています。
 カルタに習熟することが目的ではなく、一定のルールのなかで、順番を守ったり、協力してカードを配ったりしながら、互いにかかわりあい、自分と他者との関係を築いていくことを目的にしています。だから、ルールも、一般的なカルタのやり方ではありません。それだと、順位をつけるだけで、子どものなかに不満を生じさせてしまうからです。
 いま、ふつうにやっている方法は、ひとりに3枚の読み札を渡して、その問題を読み、自分で絵札を探すという方法です。3枚とも見つけることができたら、次の3枚を渡します。早く見つけることができると、それだけ集めるカードの枚数も多くなります。最初、カードを見つけられなくて、イライラしていた子どもたちも、何度か繰り返すうちに、カードの問題や絵札の柄に親しみ、カードを見つけるスピードが早くなってきました。それでも、なかなか見つけられなくて困っている子どもがいると、ほかの子どもが「ここにあるよ」と教えていました。まさに、そのかかわりを求めているので、この教材と、そのやり方は間違っていなかったんだと、子どもに教えられています。

5168.04.18/2005
 近く鎌倉市議会選挙があります。
 統一地方選挙とは違った時期なので、過去に任期満了ではない解散があったのかもしれません。
 3月の終わりに、出勤途中の駅の階段や改札口近くで、ふだん見慣れないひとたちが拡声器を手に、なにやら声を上げていたことを思い出します。あのひとたちは、鎌倉市議会選挙に立候補を予定しているひとたちだったのですね。
 市議会だけでなく、県議会や国政選挙でも感じるのですが、どうして立候補を予定するひとたちは、選挙の前に多く有権者の前に立ち、ひとたび当選すると有権者の前から消えてしまうのでしょうか。まるで当選するために声をあげ、お願いをすれば、当選後は有権者との接点は必要ないと思っているようです。以前、議会におもむき、相談事項を議員にしに行ったことがあります。多くの議員、あるいは秘書の方は、ていねいにこちらの話に耳を傾けてくれましたが、なかには一部、相談の半分も聞かないうちに「忙しいから」と席を離れた方もいました。
 議員の仕事の多くは、予算の使い方を審議し、決定することです。その後、執行された予算が正しく使われているかどうかをチェックし、決算の段階で再検討する仕事があります。しかし、決算委員会がニュースや新聞の話題になることはあまりありません。最初に決めたことが最終的にどんな効果に結びついたのかということを検討しないと、その次の予算案の検討は連続性が見られないでしょう。
 今回の選挙で当選した方々は、ぜひ予算案の検討・決定・執行状況などを議会を離れて有権者に説明してほしいと思います。

5167.04.17/2005
 中国で反日デモがヒートアップしています。
 歴史問題は、近代国家という考え方が誕生したわずか100年から200年の間に急速に台頭してきたものです。それまでは、地球上の土地は、厳密にはだれのものでもなく、なんとなく領分が決まったり、変更したりしてきたのです。それを固有の領土という言い換えによって、ずっと昔から一方の持ち物のように主張しあっても、結論が出るとは思えません。
 どの社会にも、どの時代にも、論理を超えた美学意識はあって、ときにその美学が戦いを正当化してきました。家族のため、友人のため、愛する者のため、愛する国家のためという大義名分が、人殺しを正当化してきたのです。先日他界した法王は、歴代の法王のなかで初めて過去の十字軍や魔女狩りをキリスト教の過ちだったと認めました。美学の前に、行いを正当化することは許されないと高らかに宣言したのです。
 多くの場合、戦いには利害があります。天然資源を求めたり、奴隷としての労働力を求めたり、家来に分かつ領土を求めたり。そういった事情が戦いへと突入する理由なのですが、権力を握るひとたちは、その本音を美学にすり替えてしまうのです。愛する者が傷つけられるのを防ぎたいという感情はだれにもあります。しかし、銃口の先にいるひとたちにだって愛するひとたちがいるんだという想像力を捨ててしまうのです。
 わたしは、横浜の中華街が大好きです。時間のあるときは、よく中華街に行きます。そのため、中華街のお店のひととも、何人か顔見知りになりました。客とお店のひとという垣根を越えた話をしていると、中国と日本という二極構造は見えてきません。同じ時間を共有しあうおとなどうしなのです。

5166.04.16/2005
 大庭城址公園に15日に遠足に行きました。
 わたしが担当しているクラスの子どもが、4年生のクラスに交流活動で行っているので、こういう学年を単位とした行事にはいっしょに参加します。
 大庭城址公園は、桜が満開で、一部葉も見え始めていたものの、まだまだきれいな山並みでした。頂上の広場には、本当の桜吹雪が舞い、まるで演劇のステージのようでした。
 疲れ果てて、公園の頂上に着いたAは、クラスでの集合写真に並ぶ元気が残っていませんでした。そのクラスの担任が何度か誘いましたが、頑としてその場を動かず、自分で敷いたシートに座って気持ちとからだを休めます。そのうち、リュックを開けました。
 学年全体での約束では、しばらく遊んだ後、お弁当。おやつはその後です。しかし、疲れをいやし、次にすることは念願のお菓子になってしまったAには、全体の約束は違う次元の話です。我慢することができずレモンのグミの袋を取り出しました。わたしは両手でばつをして、食べてはいけないことを伝えますが、泣き出しそうな表情をして、いまにも叫びそうです。こうなったらAはもうてこでも動きません。
「じゃ、特別に一個だけだよ。ほかのみんなはがまんしているんだからね」
一個だけあげることで、その場を乗り切ります。
 グミを口に入れたAは、エネルギーがからだに充満したみたいで、さっきまでの疲れた表情から一変。靴を履いて、持ってきたボールを蹴りながら、ほかの子どもたちが遊ぶ広場に駆け出して行きました。やれやれと思っていたら、しばらくして、Aが戻ってきます。しばらくわたしの隣りで、殊勝に膝を抱えて座っていたと思ったら「飴をください」。「あれー、さっきあげたのに。ご飯の前はもうだめだよ」。みるみる表情が険しくなっていきます。しょうがないと思い、さらに「これが最後です」と本人に言わせあげました。
 しかし、結果的にAは弁当までにそれを何度か繰り返し、全部で6個ぐらいのグミを口にしたのです。

5165.04.13/2005
 「すっごい楽しかった」。
 子どもの声は、授業への評価です。教員の人事評価を行政がトップダウンで実施していますが、たまにしか教員の指導を観察しない評価者よりも、つねに学習の中心にいる子どもからの反応がもっとも信用度が高いと思います。
 きょうは、パソコンの学習で3人の子どもとカレンダーと名刺を作りました。3人のなかできのうに続いてきょうもパソコンを使うのは1人nだけでした。それでも、そのnを中心にしてきょうはきのうよりももっとスムーズに学習が進みました。毎日、内容を変化させると、学習内容が力になりにくいので、きのうと同じカレンダーから始めます。最初にカレンダーを作ったnは、きのうに比べて、操作が格段に早くなっています。わずか1日の違いで、こんなに得意になっていることが驚きでした。ほかの2人にも教えるつもりでねと、アドバイスしてあったので、少し先生の気分になったのかもしれません。
「うわーすごいね。お花がきらきら光っているよ」
たくさんの写真のなかから、ひとつだけ選んだ写真が載ったカレンダーが印刷されます。パソコンのなかのカレンダーとプリントされたカレンダーが、そっくり同じものだったので驚いたyは、写真がきれいだったので感嘆の声があがります。
 その後で、3人とも初体験の名刺を作成しました。キーボードの入力ができるのか不安だったのですが、自分の名前や学校名、メッセージだったので、思ったよりスムーズに入力できました。さすがに現代の子どもたちだと思います。
 A4の大きさの紙に8枚の同じデザインの名刺が印刷されます。その紙をもってカッターのある部屋に行って、ひとりひとり8枚に切り分けました。まず、それを互いに交換しあい、家に帰ったらそのカードをどうやって使うかを考えました。終わりに、ほかの2人の担任にも「よろしく」の挨拶とともに渡しました。部屋に戻ったnが、開口一番に言ったのが「すっごい楽しかった」だったのです。

5164.04.12/2005
 新しい学校での仕事が2日目になりました。
 8時過ぎに保護者や家族の方々が子どもを連れて登校します。教室にいて子どもたちが来るのを待ちます。子どもの様子や、持ち物などについて、短い時間ですが、保護者から連絡があります。まだ、完全に保護者の顔と名前がわかっていないので、連絡を受けても、すぐにメモをしておかないと忘れてしまいそうです。
 きょうはわたしも含め、3人の教員と1人の介助員の4人体制で子どもの支援にあたります。
 きょうから新しい試みで、少人数を対象にしたグループ活動を始めました。子どもと教員の一対一の対応ではなく、子どもたち相互の社会性を高める目的がありました。わたしは3人の子どもとカルタをしました。7歳・10歳・12歳の子どもです。子どもとおとなとのやりとりでは、おとなの方がどうしても気持ちに余裕があるので、子どもはひととひととの間で必要な双方向性の経験が不足しがちです。子どもどうしは、おとなのようにゆとりをもって対応はしてくれません。わがままを言えば、反発となって返ってきます。がまんをすれば、願いがかなうこともあります。自分の発言や行いが相手を傷つけることもあります。そのひとつひとつが成長していくうえでは、必ず必要なことです。その感覚を磨くには子どもどうしで、一定のルールを守りながら、取り組める内容が求められます。
 文字の学習をしているので、カルタから導入しました。読み札を読んで、その最初の文字を覚えておいて、取り札のなかから該当する札を探すのは、いくつもの力を必要とします。その異なる力を順番に、かつ巧みに出し入れしながら使います。読み手の声を聞いていなければ、ゲームに参加できません。物事に集中する意識も育ちます。はたして子どもたちは、相互にルールを守りながらカルタを楽しむことができるか。それがトライした大きな課題でしたが、結果からいうと、子どもたちは楽しみながら30分近くもカルタにはまりました。「あしたもやろう」。その声に背中を押されたのです。

5163.04.11/2005
 仕事が始まりました。
 始まったというよりも、すでに動き始めている職場に途中乗車したのが本当のところです。先週は、母の葬儀関係のため、忌引きを5日間とりました。実母や実父の場合は、7日間の忌引き休暇がとれるのですが、7日もとると、職場の方々にとても迷惑をかけるのできょうから復帰したのです。
 4月から職場が変わり、1日に挨拶をして以来の出勤でした。すでに学校は先週一週間で、だいたい起動に乗り始め、わたしと同じ時期に異動してきたひとたちも、もうすっかり新しい職場の顔になっています。乗り遅れ感を全身に浴びながら、あせってもしょうがないと覚悟を決め、初日の仕事に入りました。
 8時15分、子どもが保護者や家族のひととともに登校します。そのときに教室にいて、ほかの担任の紹介で保護者や子どもと挨拶をしました。すでにわたしが着任していること、家庭の事情で休んでいることは伝わっているようで、どの保護者もわたしのことを気遣ってくださいました。
 8時半からの職員の打ち合わせのなかで、先週一週間忌引きのため休んだことをお詫びしました。8時40分、子どもとほかの担任のいる教室に向かいます。ちょうど朝の会をしているところでした。担任のほかに、子どもたちを支援する介助員さんが2人いらしたので挨拶をします。そこから一気に、右も左もわからない一日が始まりました。気づいたときには、午後4時でした。帰宅してから、夕飯と入浴が精一杯で、午後9時過ぎには布団に入ってしまいます。

5162.04.09/2005
 東京都で中学と高校の一貫校が開校しました。
 すでに何年か前から、学校教育法が改正され、公立でも中高の一貫校が開校できるようになっています。中等教育学校という名前です。高校受験のための勉強をすることなく、6年間をゆったり過ごせるメリットがうたい文句です。
 このような学校は、たとえば神奈川県ではすでに開校しています。なのに、新聞やニュースでは東京の学校をとりわけ大きく扱っています。それは中高一貫校がニュース的な価値があるのではなく、そこが採用した教科書にニュース的な価値があると判断しているからでしょう。
 この学校は歴史と公民の教科書に、周辺アジア各国から非難の多い教科書を普通校としては初めて採用しました。そのため、当初は入学希望者は減るのではないかと思われましたが、実際には10倍以上の倍率がありました。
 保護者の多くは、教科書よりも、中高一貫というスタイルに興味をもったのでしょう。私立の学校では一般的なのですが、公立では珍しく、さらに経済的な負担が少なくて済むのも志望者が多かった理由だと思います。
 しかし、現実として、韓国・北朝鮮・中国では、歴史認識に関して、いままでとは違う考え方を、学校で子どもたちに教えられることに強い抗議の声があがっています。その学校に入学する子どもたちは、本人の意思にかかわらず、そんな政治的な環境のなかで今後6年間を過ごすことになるのです。

5161.04.08/2005
 鎌倉は桜が満開になりました。
 拙宅の周辺にも大きな桜の木があって、それらもいっせいに花を咲かせています。昨年はもう少し早い時期に咲いたのですが、ことしは例年並という感じです。
 昨今はソメイヨシノが多くなりましたが、鎌倉の山にはヤマザクラやオオシマザクラなど、違う種類の桜も多くあります。一年のうち、ほんのわずかな期間だけ花をつける桜。まるで体内時計があるかのように。拙宅の近くのもっとも大きな桜も見事な花を咲かせています。しかし、その木は宅地化が決まった土地に生えているので、花が散る頃、切られてしまいます。
 昨今の鎌倉、とりわけ北鎌倉から大船にかけての地域はマンションや新興住宅建設が続いています。土地の使い方は、地主の決めることなので外部の者が口を挟むことはできませんが、大きくそれまでの景観を変えてしまう宅地の造成は、長く同じ土地に住む者にとって、少し残念な気持ちにさせられます。もともとひとが住みにくい、生活するのには少し不便な場所だったから、これまで宅地化されず、野山が残っていた地域でした。そんな場所まで、宅地化の波が押し寄せてきているということは、ひとが住む場所が交通の便のいいところや、生活しやすいところには、もう新しい宅地用の土地がなくなってきた証なのかもしれません。

5160.04.07/2005
 春陽黎光大姉。故人の新しい名前です。しゅんようれいこうだいし。
 母が実家の品川を出て、ここ鎌倉に移り住んだのは父と結婚した43年前でした。以来、父の仕事の都合で3年間を台北で過ごしたのを除いた40年間を、母はここで過ごしました。鎌倉といってもそこは北鎌倉と大船の間で、多くのひとがイメージする寺社仏閣と観光客であふれる場所ではありません。夜になると街灯がうすぼんやりとともる古い谷戸です。
 わたしの家は、通りから袋小路を入った一番奥にあります。背中にがけを背負っていて、土地の価値的にはとても低いところです。その袋小路は、奥に行くにしたがって、少しずつ上り勾配になっています。子どものころ、学校に行くとき、袋小路を下って通りに出て、角を曲がるまで、袋小路の奥の門から母が見送っていたのを思い出します。それは父にも妹にも、訪ねてきたお客さんにも同じようにしていました。角で振り返ると、いつも母は大きく手を振ります。高校や大学になってからは、そんな母にこちらが手を振り返すのが恥ずかしくて、角に来ても振り返らずに登校しました。
 6日。通夜の行われる午後に、棺が運び込まれ、母は旅支度をして、袋小路の奥から二度と戻らぬ黄泉の旅路へ出向いて行きました。いつもとは逆に、わたしが袋小路の奥から母の乗った車が角を曲がっていくのを見送りました。鎌倉は急にあたたかくなり、いっせいに桜の花が開きます。
 4月6日。翌7日。母は、とても多くの方々に見守られ、懐かしがられ、悼まれつつ、おかげさまで葬儀と告別式、初七日の法要をとどこおりなく相すましました。ご会葬、ご焼香いただいた方々には厚く厚くお礼申し上げます。「いつまでわたしのネタを続けるのよ」これ以上、ここで母のことを記すとそんな声が聞こえてきそうなので、ひとまずウエイでのご案内は一区切りにします。

5159.04.06/2005
 お寺の関係で、母の通夜はきょういとなまれます。
 病院で永久の眠りについた母が実家に戻り、丸々2日間、母はベッドに横になっています。近所の方や、母に世話になった方が、お見舞いというかたちで焼香をあげにきてくれました。それぞれに生前の母の思い出を語ってくれます。その多くは、わたしが知らない母の一面でした。
 でも、お見舞いが終わり、だれもいない時間に、ふと母の布団の胸のあたりが呼吸をしているように感じ、まだもしかしたら母は生き返るかもと思ってしまいます。
 きょうは、納棺の前に、棺に入れるものを整理していたら、2冊の日記を発見しました。一冊が5年分の日記が書ける冊子で、そこには過去10年分の出来事や雑感がボールペンや万年筆でびっちり書かれていました。手帳のように予定を書いているわけではないので、母の内面がとてもよくわかりました。そのなかに、夫や義父(わたしにとっては父や祖父)に関するくだりが多く見られます。ふだん、わたしや妹には、決して明かさなかった愚痴や不満が綴られていて、そこにもわたしの知らない母の姿がありました。幼いときに中耳炎をこじらせて、片耳の聴力を失い、もう片方の耳も補聴器が必要な生活を小さいときから続けていました。そのためかどうかはわかりませんが、耳から入る楽しみよりも、目から入る楽しみを大切にしていました。テレビ・映画・読書などです。
 読んだ本の感想も、その日記には書かれています。「だれもがあこがれ、でもだれもが二の足を踏む。でもちょっとうらやましい」。これは「失楽園」の感想です。えーっそんなことを感じたんだと驚きました。母に薦められた本は山ほどあります。そのなかに山崎豊子「沈まぬ太陽」(全5巻)がありました。お見舞いに来られた近所の方が「お母さんは太陽のようなひとでしたね」とおっしゃいました。今後、わたしにとっての母は、いつまでも沈まぬこころの太陽であり続けるだろうと思い、その少し古ぼけた5冊の本を棺におさめようと思っています。

5158.04.05/2005
 緩和医療は、病気をなおすことが目的ではなく、病気によって生じる痛みをなくすことが目的です。
 もちろん、痛みをとりながら、病気をなおす治療ができれないいのですが、母の場合は年齢が若かったので、病気が悪化するのがはやく、そのつどに増していく全身の痛みという病気とは違う新しい闘いへの対処が必要でした。父は何度も、わたしや妹に、母の治療方針について意見を求めます。そのときどきで最良の結論を出したつもりでも、いざその方針で治療が進むと、さらに別の方法へと気持ちが変化したこともありました。もっと生きていてほしいという気持ちが、母の痛みを緩和してあげようと決めたことをゆるがします。
 血管が細く、点滴針がささりにくかった母の腕や足には、いくつもの針穴があります。それをつらく感じた父は、いよいよ3月下旬、これ以上の栄養の補給中止を病院に伝えます。三度の食事ではおかゆに梅干をちぎって混ぜたものを小さなスプーンで三杯ぐらいしか食べられなくなっていました。病気が広がったので、胃からは出血があり、食べ物を受け付けなくなっていたのに、懸命におかゆを飲み込んでいました。ゼリーやプリンなど、あまいものが好きだったので、いつも枕元には帰りがけに「茶屋」「サンジェルマン」などで奮発して買ったそれらが並んでいました。しかし、いよいよそれらも「いらないよ。持って帰って食べて」と告げます。
 一回だけ輸血をした翌日、びっくりするほど顔に血色が戻り、饒舌になった時間がありました。このまま病気を克服するのではと期待がふくらみます。栄養補給をしていないのに、これだけ元気になったので、父は鎖骨下への高栄養剤の点滴補給を病院に頼みました。わたしたちとの話し合いでは、失敗する危険があるので、それはしないと決めていたのに。4日の月曜から始めるとの連絡を受けていた前日、3日の夕刻から母の血圧は下がりました。
 一瞬の回復は、病気を克服したわけではなかった現実が、わたしに迫りました。

5157.04.04/2005
 きのう母が亡くなりました。66歳でした。
 午後11時50分、心電図のモニターが一直線になりました。昼間のおだやかな天気が嘘のように、夜になってから、鎌倉は寒くなり強い雨になった日です。
 一年前に母は不調をうったえ、検査のために入院しました。それから一年間、自宅と病院を往復する日々でした。しかし、すでにそのときに病巣は末期の状態で、これ以上悪くならないようにする治療で、かろうじて日常生活を維持した一年でした。
 おいしいものを食べ、行きたいところにも行き、懐かしい友人が訪ねてきては無理をして鎌倉駅から八幡宮まで歩いていました。昨年の秋からは科学的な治療は万策が尽きたのでやめ、自然療法や痛みを緩和するマッサージなどを繰り返します。しかし、先月、再入院をとても嫌がっていたのに自分から救急車を頼み、結局そのまま病院で息を引き取りました。
 足をさすると「気持ちいいよ」と声にならない声で礼を言い、おかゆが出ると梅干をちぎって混ぜ口に運び「おいしいね」と喜んでいました。呼吸が苦しくなって、満足に話すこともやっとだったので「そんなに話さなくていいよ」と言っても。
 見舞いの帰りに、病室のカーテンをしめるとき、こちらに顔を向け、点滴の針がささった腕を小さくあげ、じっと悲しそうな、でも嬉しそうな瞳で見つめていた姿がまぶたに焼きついています。「水がほしい」「お茶をぬるくして」「かかとが痛い」「肩をさすって」。入院してからの母は、とてもよく話しました。それまで、多くのことを自分でなんとかやり遂げるひとだったので、いよいよ自力ではつらくなったのかと思いながらも、笑顔で応じることができたのが、せめてもの救いです。
 でも、まだ葬儀が済むまでは、ふっと目を開けるのではないかと思ってしまいます。

5156.04.01/2005
 きょうから教員になって4校目の学校に着任します。
 4月1日だからって嘘じゃありません。初任の葉山の小学校に5年、藤沢に来て最初の小学校に9年、いままでの小学校に6年いました。ちょうど20年が経過しました。うわー、いつの間にか教員20年選手です。
 今度の小学校は、藤沢駅に近い開校100年以上の伝統のある小学校です。教職員は移動が宿命なので100年も伝統を背負っているひとはいないと思いますが、地域は多くの卒業生に包まれていると思うので、いままでわたしが経験してきた小学校とは違った空気があるかもしれません。
 藤沢は、横浜と川崎を除けば、県内でもっとも公立学校の多い自治体なので、新しい小学校に異動するとほとんど知らない方々ばかりです。そういう方々と一から人間関係を作っていくのは、大変なことですが、そこは仕事の上での話、みなさんおとなだから何とかなるでしょう。きょうが辞令交付、週明けの月曜が前日準備、火曜が始業式・着任式・入学式、水曜が前任校での離任式。一週間ぐらい異動にともなう関連行事が続きます。土曜には、湘南に新しい公立学校を創り出す会の湘南憧学校が2005年度の開校です。体調を万全にして、張り詰めた気持ちの糸がからだに悪影響を及ぼさないようにリラックスして過ごしたいと思っています。

5155.03.31/2005
 きょうの朝刊に県内の公立学校の人事異動が掲載されています。
 わたしは6年間勤務した小学校を異動することになりました。早くもこれで4校目の経験になります。今度の学校は、いままでの学校に比べ自宅からの距離がだいぶ近くなるので助かります。異動は公務員の宿命とはいえ、気持ちが引き締まり、同時に不安も広がります。でも、どこの学校に行っても、目の前の子どもたちに対する思いはいっしょのはずなので、きっとこれまでの経験をいかせばなんとかなるんじゃないかと思っています。
 異動の内示があったのは3月の中旬でした。それから、少しずつ自分の荷物を整理し、不要なものは破棄しました。きのう、車で出勤し、持ち帰りの荷物を車に積み込んだら、洗濯物がたくさんあったのに驚きました。生活科をずっと担当してきたので、畑仕事が多く汗をかくので、下着の替えや作業着をいっぱいロッカーにおいてあったんです。
 きょうは、研修や休暇のひとを除き、数人の教職員が出勤していました。帰り際に職寝室でその方々に「それではみなさん、大変お世話になりました」と大声で別れの挨拶をしました。年度が代わったら、正式に離任のセレモニーがありますが、本当のお別れは3月31日だと決めていたので、お世話になった方々に挨拶ができてよかったと思います。もしも、みなさん休暇をとっていたら、だれもいない職員室で独り言のように別れをしなきゃならなかったからです。
 あした、新しい学校に着任します。

5154.03.30/2005
 いま学校は春休み中です。
 それは子どもにとってなので、わたしたち教職員は出勤しています。研修に行っている人もいますが、この時期は年度の終わりなので事務仕事をするために出勤している人が少なくありません。
 また、新しい学年学級が4月からスタートするので、新しく担任するクラスへ、いままでの荷物を移動する仕事も残っています。みんな個人的な教材や教具をダンボールに入れて階段を何往復もしています。業者の方々は新年度の教材の見本を配りに来ます。教科書の担当は、全校児童の教科書が書店から届いたのを学年別・クラス人数別に小分けします。教科書のように、国が買い上げて子どもたちに配布するものは、冊数や管理がとても厳しくできているので、担当の方は紛失や汚れなどに気を使います。
 そして、年度替りでほかの学校に異動する人たちは、4月1日の正式な辞令発令の前に、荷物の整理と片づけをします。数年を当該校で過ごしてきているので、たまった荷物の量は半端ではありません。そのなかから、引き続き使うと思われるものと、破棄するものを区別し、破棄するもののうち個人情報が含まれるものはシュレッダー処理をします。
 この時期の学校は、新旧交替の仕事がそこかしこで同時に展開されています。

5153.03.29/2005
 ひとの寿命はだれが決めるものでもありません。
 神のみぞ知るといいますが、過日、またスマトラ沖で大きな地震がありました。前回の地震で生き残った人のなかに、今回の地震で不幸にも犠牲になった方が大勢います。きのうまでと違うきょうが訪れることがわかっていたら、身の処し方や生き方を変えることができたのにと悔やんでも悔やみきれないことでしょう。毎日のように、殺人事件が発生し、やはり不幸にも犠牲になられる方々は後を絶ちません。かと思うと、自ら生命を絶ち、死を選択するひともいます。生きていること、いま生きていることとは、とても貴重なことであり、たくさんの偶然の成せる業なのでしょうか。
 身近に病で苦しむひとがいたとしたら、そのひとの苦しみを少しでもやわらげるために祈ります。まぶたを閉じると、そういうひとの元気だった姿ばかりが目に浮かんできて、現実を直視したくなくなります。必死に生きることに執着し、周囲も、それを望んでいるのに、運命がそれを許さないとき、この世には神も仏もいないのかと恨めしくなります。
 かくいうわたしだって、いつ人生の幕引きが訪れるかわかりません。それは突然なのか、徐々になのか。そんなことを考えていたら、いまを充実させる元気が失せてしまいそうです。まだまだ遣り残したことがたくさんあり、これからやりたいこともたくさんあります。そのひとつひとつに希望と期待をもってチャレンジしていきたいという気持ちを、ずっと持ち続けるための最低条件は、自分が健康であり続けるということだと最近つくづく思います。

5152.03.25/2005
 鎌倉市から市民税(法人税)の申告書類が届きました。
 法人税は自治体に本店をもつ法人がその自治体に納める税金です。年間の収益に応じて税額が決まっています。毎年申告し納税しなければなりません。各自治体の大きな歳入源になっています。だから、工場が移転したり、本店が移転したりすると、その自治体は大きく税収減になります。
 特定非営利活動法人、通称NPO法人も、民法上は法人なので法人税を納めなければなりません。ただし、法律の定めにより、税制面で優遇措置が認められています。収益活動を行っていない場合に限り、納税が免除されるのです。湘南に新しい公立学校を創り出す会は鎌倉市に本店(事務所)をもっているので、神奈川県と鎌倉市に法人税を納めなければなりません。しかし、創り出す会はただでさえも台所事情は火の車なので、とても収益をあげられる状況にはなっていません。だから、申告書は提出しますが免税措置を受けられます。
 神奈川県に対しては、最初の申告だけで、その後は免税措置が継続しますが、鎌倉市に対しては毎年申告し免税措置を受けることを繰り返しています。この申告書がとても面倒で、法人のなかで担当しているひとがとても事務作業が大変です。わたしも、必要書類として提出する定款・収支計算書・貸借対照表・役員名簿・事業報告書をそろえます。法人税を担当しているひとは、毎年各法人の定款を受け付けてロッカーが書類で埋まってしまうのではないかと思います。申告書類と必要書類を提出して、審査を受け、免税措置(正しくは減免措置)を受けることになります。
 NPO法人は税金がかからないと言われますが、正確には税金がかからないことを毎年証明する手続きを踏む義務があるというべきです。法人税の申告書の提出期限は、各法人の事業年度終了から2ヶ月以内と決まっています。

5151.03.23/2005
 今日は23日。去年の4月から開校した湘南憧の年間最終日です。4月からちょうど120日目になりました。
 それまでわたしたち湘南に新しい公立学校を創り出す会が運営するフリースクールは、週末や夏休みを使って開校していました。参加する子どもたちは、学校に通っていたり、通っていなかったりさまざまでした。支援スタッフは、各自仕事の休みの日をスリースクールのスタッフとして無給で協力していました。そのやり方から大きく変わったのが湘南憧です。まず開校日が平日になったということ。そのため入学する子どもは、公立学校や私立学校に通っていた場合、湘南憧に来る日は学校を休まなければなりません。実際にはほとんどの子どもが学校に行かない子どもたちでした。しかし、なかには湘南憧に通う以外の日は学校に通っていた子どももいます。そして、支援スタッフは年間120日も働くので有給になりました。とても社会的に満足のいく給料を払えませんでしたが、毎月3人の方に遅延することなく給料を払いました。
 湘南憧は、わたしたちが1997年の活動開始以来、夢の実現に向けて取り組んできた多くの活動のなかで、理想の学校にとても近い姿です。週末や夏休みのテストスクールはどうしてもイベント的な意味合いが強かったのですが、平日の通年開校はもはやイベントではなく通常の業務になったのです。前例のないこころみなので、子どもたちに直接かかわった支援スタッフの苦労は並大抵のものではなかったはずです。しかし、120日間の重みを経験できたことにぜひ誇りと自信をもってほしいと思っています。
 最終日。湘南憧ならではの「通知表」を渡すと昨夜スタッフから連絡がありました。きっと3人のスタッフで相談して、本当に子どもの励みになる「通知表」を考案したのでしょう。教育の原点を、湘南憧のスタッフたちが、ほかのだれよりも確実に実践していると感じるのは、この活動に現役の教員が多くかかわっているからこその強みだと思っています。新年度の湘南憧は開校日を週5日、月曜から金曜まで拡大して年間200日の規模になり、4月2日に開校します。規模の拡大にともない入学を希望される方の声がようやくわたしたちのところに届くようになりました。きょうも仕事の帰りに、そんな保護者と面談が予定されています。

5150.03.22/2005
 学期末が近づきます。
 学校の始まりは4月なので、この時期の学期末は年度の終わり、学年末になります。各学年の子どもたちが進級をひかえ、新年度の準備も平行していきます。カレンダーでいったら、学校の大晦日ということでしょうか。
 わたしは、生活科の準備室で仕事をすることが多いので、その片づけをしました。とても一日ではできないほど、ものがあふれ、散乱しているので、先週から少しずつ片づけを開始しています。カセットコンロ・ミキサー・鍋・紙・包丁・まな板など、年間を通じて、生活科で使ってきた道具を整理します。そのつど片付けていたら、こんなに大変な思いをしなくてすむのにと、毎年反省しながらも、同じことを繰り返しています。こんなことでは、とても子どもたちに整理整頓なんて指導できませんね。
 生活科の片づけが一段落して安心していたら、工作クラブ関係のものがたくさん出てきました。ことしは、サッカークラブの担当でしたが、昨年までは長く工作クラブを担当していました。のこぎり・彫刻刀・トンカチ・やすり・絵の具・筆などが次から次へと棚やケースから出てきます。これらは本当は去年のいまごろ片付けておくべきものでした。過日、足をけがしてしまい、自由がきかない体での片付けはしんどい作業です。多少自己嫌悪に陥りながら、でも今回はちゃんと整理しておこうと覚悟し、片付けました。
 学校全体では、各教室のいすや机を移動する作業を子どもたちがしていました。年度が替わると、教室配置が変わります。すると各教室の人数も変わるので、いすや机もいままでとは変わります。そうはいっても、まだ修了式まで子どもたちは現在の教室を使うので、完全に移動することはできません。問題のない範囲での移動をまずやっておきます。小学生は体格が違うので、学年ごとに机やいすの大きさも違います。それぞれにあった大きさのいすや机を用意しておく必要があるのです。

5149.03.21/2005
 恥ずかしい話です。
 先日、お酒を飲んで帰宅途中、あともう少しで自宅というところで、転倒しました。
 正確には、落下しました。わたしの住んでいる鎌倉は山坂がとても多く、坂道の途中に民家が並んでいます。坂道沿いに民家を建設した場合、坂道の勾配に対して、民家はいつも傾きをなくすために勾配を削って宅地を確保します。そのため、坂道から民家の玄関への入口や境界には階段をつけたり、スロープをつけなければなりません。たまたま、わたしが左右にふらふらしながら歩いていたところでは、坂道の一角から玄関までくだりの階段をつけ、その階段の下にコンクリートのたたきを作り、玄関へとつながる構造でした。だから、コンクリートのたたきの部分は、坂道から見下ろすと2メートルぐらいの深さがあります。
 わたしは、そこに落ちました。そのときは、なにがなんだかわかりません。ただ、何かを踏み外したというよりも、自分の歩く地面がなくなってしまった感じでした。きっと、それほど激しく体を左右に揺らしながら歩いていたんだと思います。坂道から足を踏み外したのなら、ふつう片足だけが空を切り、運がよければもう片足は坂道に残っているので踏ん張れたかもしれないからです。そんなことをまったく感じないほど、気づいたら、わたしの体は宙に浮き、落下していました。
 とっさに足元を見ましたが真っ暗です。時間は午前零時ぐらい。民家の方もすでに就寝したのか、玄関先のライトは消えています。怖かったのは、真っ暗なので、いつ自分が着地するのか予測ができなかったことです。ある程度見えていれば気持ちの構えもできたのですが、真っ暗な中落ちていたので、運にませるしかありません。最初に右足のかかとに強い衝撃を受け、とっさに受身の態勢で体を丸め、右のでん部を強打しました。背中にはリュックをしょっていたので背中や頭を打たなかったのが不幸中の幸いでした。お尻をおさえ、足を引きずりながら帰宅。翌日、病院に行きレントゲン撮影。幸いにも、骨には異常はありませんでしたが、歩いたり、立ったりするとかかとが痛く、座るとお尻が痛いという情けない状況になっています。

5148.03.20/2005
 きのうは湘南小学校の最後の開校日でした。
 朝から、雲ひとつない湘南の空。最後の日にふさわしい晴れ渡るなかでの開校でした。最後だからといって、とくに変わったイベントをやらないところが湘南小学校のいいところ。そんなことをしなくたって、参加する子どもたちの表情やつぶやきのなかに「きょうで終わりなのか」というため息が聞こえ、別れを惜しむ雰囲気を感じました。
 保護者の方々も同様に、最後だからということで水族館に子どもといっしょに参加したり、差し入れとしておいしいパンをプレゼントしてくださったり、もう少し早くこの会をしっていたかったと声をかけてくださったりしました。みなさんに惜しまれながら幕引きを迎えられたことは、とても幸運なことだと感じています。こちらに出てくる用事の合間に湘南小学校に顔を出してくださった大阪の小学校の教員もいました。この方は1999年の最初のテストスクール(テストマッチ)にも参加してくださいました。
 午後3時。解散の後、手作りのでんでん太鼓をプレゼントしてくれた子どもがいます。子どもどうしでメモ帳に連絡先を書きあう姿も見られました。「ここには子どもが4年間もお世話になりました」と感謝の言葉をかけてくださる方もいました。
 学びの主人公を子どもにという新しい教育スタイルの創造に、多くの方々が賛同してくださったことが、6年間のテストスクールの大きな財産です。定期的な開校は今回で終了しましたが、夏休みや冬休みなどに単発的にまたイベントを予定し、これからもつながりあっていきたいと思っています。
 ひとくちに115日間といっても、そこには語りきることのできない思い出がいっぱい詰まっています。夕方からの感謝祭には東京や千葉からも仲間が顔を出してくれました。ぬぐうことのできない一抹の寂しさを、いつまでも忘れないようにして、一日でも早く市民が創る公立学校のかたちを目に見えるものにしていきたいと強く強く思った一日です。

5147.03.19/2005
 きょうはいよいよ湘南小学校の最終開校日です。
 湘南小学校は湘南に新しい公立学校を創り出す会が運営している無認可の休日学校です。子どもが学びのなかみを決め、おとなが支援する新しい教育の創造を目指して、1999年から開校してきました。きょうの開校で115日目になります。  過去6年間に、子どもも支援者としてかかわったおとなもとてもたくさんになります。きょうの終了後、そういったひとたちを集めた感謝祭も予定しています。
 最終にしたのは、去年の春から開校しているもうひとつの学校「湘南憧学校」を、春からは月曜から金曜までの毎日に規模を拡大するためです。新しい教育スタイルの検証の意味があったテストスクール「湘南小学校」の積み上げがあったからこそ、昨年の春からわたしたちは週3回の平日学校「湘南憧学校」をスタートできました。その湘南憧学校を本格始動するということは、テストスクールとしての役割を湘南小学校が果たし終えたことを意味します。
 現在の法律ではたとえ子どもたちが毎日登校して、一定の教育成果が上がっていても、湘南憧学校は学校としては認められていません。だから、平日の昼間に開校する湘南憧学校に入学を希望する子どもは、いまの学校に通っていないか、通うのをやめたか、親の強い願いで湘南憧学校を選んだかのどれかになります。公立学校を開校したいと願っているので、入学する子どもたちに多くのバラエティがあればいいと思うのですが、残念ながら現在の状況では限られた範囲の子どもたちが集まります。そのこと自体はまったく問題がありません。しかし、活動を続けてきたメンバーのなかには、自分たちが目指してきたかたちがなかなか実現できないことへのいらだちや方向性のずれを感じるひとがいないとはいえません。
 その意味で休日開校の湘南小学校に集まる子どもたちは、多くのバラエティに富んだ子どもたちがいました。いま、湘南小学校に幕を引き、湘南憧学校を重点的に運営するかたちへフェーズを転換することは、いよいよわたしたちの活動が、市民が創る公立学校の母体を創造した意味をもちます。残る課題は、法的な条件整備と世論に喚起し理解者や賛同者を増やす活動になりました。

5146.03.18/2005
 昨夜までの強風と雨が嘘のように、きょうの湘南は快晴。風もなくおだやかな春の日差しを感じるほどでした。桜が咲いてしまうのではないかと思うほどのあたたかさ。6年生の子どもたちが卒業していきました。
 今回の卒業生が入学したとき、わたしはいまの小学校に赴任しました。だから、子どもたちの6年間と、わたしの6年間は時間的にぴったり重なっています。入学してすぐの1年生と2年生のときに、わたしは生活科を通して子どもたちとかかわりをもちます。畑でいっしょに野菜を育てたり、当時導入されたばかりのパソコンを使ってカレンダーを作ったりしたのを思い出します。
 小学校の6年間は、心身ともに大きく変化する6年間です。20代や30代の6年間とは比べ物にならない変化です。子どもたちが小さかったとき、生活科の授業だけ、わたしが登場するので、わたしを学校の教職員と思っていなかった子どもが「今度、運動会があるんだけど、見に来てね」と招待されたのを思い出します。自分のなかに染み付いた教師性を打ち消したくてもがいていた時期だったので、招待されたとき、とっても嬉しく感じました。
 学校にはいくつかの行事がありますが、卒業式や入学式などの式典は儀式的行事という枠組みで学習指導要領に規定されています。いま、その儀式のなかにさまざまなかたちで政治的な圧力が介入してきています。子どもには、おとなの政治的な問題は無関係なはずなのに。また教育基本法では、宗教教育と政治教育を学校で扱ってはいけないとうたっているはずなのに。まぁ、だから法律を変えようという動きもあるのでしょうが。
 小学校の卒業は、幼稚園や保育園の卒園とは違った感情が子どものなかにあります。もしかしたら、初めて味わう別れの感覚かもしれません。同じクラスの何人かとは違う中学に進学します。転居する子どもや私立に入学する子どもとは、これからほとんど会わない人生を送ることになるかもしれません。その実感は、これから子どもひとりひとりに湧いてきます。いつか別れがあるから、出会いを大切にしていこうという気持ちの出発が小学校の卒業だとしたら、最後の学習の価値をもっと高め、外見的な要素にとらわれるのは最小限にとどめるべきだと思います。

5145.03.17/2005
 旧来の日本の学校教育は、教えられたことを覚えることが学習の中心でした。だから記憶力の優れている子どもは高い評価を得られます。反対に思考力や発想の豊かな子どもはよい評価を得られませんでした。進学に関して困難な問題が多い日本の受験制度では、ひとよりひとつでも多くの知識を知っていることが点数に結びつくのです。
 この暗記中心の教育システム全体を見直さないと、昨今の学力低下論には意味がありません。情報通信時代では、多くの知識を個人の脳に蓄積しておく意味が低下します。知らないことがあっても、容易に検索することができるようになったからです。これからの時代にはものの調べ方や、興味の持ち方が重要な能力になってくるのに、教育行政関係者や教育学者は、そのことに触れようとはしません。自分たちが高い記憶力をもっていまの地位を築いてきた経験が、いまの子どもたちにも同じことが必要だと思わせてしまうのでしょうか。
 また授業時間を増やしたり、学習内容を高度にしたりすれば、子どもたちの学力が上がるという考え方もまったくものの本質をとらえていないと思います。
 これからの時代は、たとえ多くの知識をもっていても、それを結びつけたり、必要な場面で有効に使ったりできなければ、企業や個人の価値は高まらなくなるでしょう。過去の栄光に引きずられ、安穏と伝統や名声にしがみついていても、周囲から尊敬されなくなっていくのです。
 その具体的ないい例が、ライブドアとフジテレビによるニッポン放送の株取得争いだとわたしは感じています。先日の裁判所の判決のように、ライブドアは法律違反をしていません。市場の時間外取引も法律的にはまったく問題ではありません。なのに、大きな企業グループの維持を前提にしたフジテレビによるTOBやニッポン放送による新株予約権の発行は、あきらかに自分たち以外の企業に利益を渡さない苦肉の策に思えます。従来の価値を低下させるかいなかは、市場が判断することで、自ら価値を低下させるようなことを企業がしたら、株式会社としての経営責任は破綻します。この場合、法律や経済の知識をもっとも有効に使ったのがライブドアで、富や名声をもちながら、独占的な対抗策しかとれなかったのがフジ側です。
 個人的に、わたしはどちらかに加担する気持ちはまったくありません。事態の推移を見守りながら、視点を教育分野に置き換えても共通するものが多くあることに興味をもっているのです。

5144.03.16/2005
 アメリカ・中国・日本の高校生を対象にした意識調査の結果をテレビで報じていました。
 予想通り、学校以外で学習していない割合が最も多かったのは日本の高校生です。また、学習への意欲も同様に日本が最も低い結果が出ています。また、将来に対する希望をもてず、いまを充実させていればいいという気持ちの高校生も日本がトップでした。テレビの若いキャスターは、この結果にため息をついていました。わたしは、そのため息をつく姿を見て、報道に携わるならもっと高校生の現実を知っておくべきだと感じます。子どもたちの学習意欲の低下は、高校生だけでなく、小学生から始まっています。おそらく同様の調査を小学生や中学生に行っても似たような結果が出ると思います。
 こういう結果が出ると、多くのメディアや視聴者は「学校はなにをやっているんだ」と責任を学校教育になすりつけます。その発想こそが、すでに子どもたちの感覚と大きくずれていることに気づきません。学校がなんとかすれば、学習意欲の高い子どもが増えると短絡的に考え、問題の本質に視点を向けようとはしないのです。さらに困るのは、教育行政のなかにも、自身の問題として受け止め、トップダウン方式で、学校に指示や通達を連発する傾向があることです。
 学校現場の教職員は、日々学習指導要領に定められた内容を子どもたちに教えています。いや、それ以上のことをしています。安全教育・給食指導・しつけやいじめの解決など。やらなければいけないこと以上のことに日々奮闘しています。にもかかわらず、子どもたちの学習意欲が低下しているのを直感的に受け止めているのではないでしょうか。もう、よりよい教材や優れた指導力だけでは、子どもの興味や関心を喚起できなくなっているのです。その原因がどこにあるのかは、社会学や心理学の専門家に任せるとして、実践の身としていえることは、いまのままの学校教育制度だけではもはや時代のニーズに対応できていないので有効な代替策を実現する時期に達しているということです。そんな思いで、わたしは1997年から8年間も新しい公教育のかたちを叫んでいます。

5143.03.15/2005
 けさの新聞で東京の公立中学校の校長会が私立中学校からの転入生が多いので、私立中学側へ申し入れをしたとの記事が載っていました。東京のように、私立中学がとても多い特殊性が背景にあります。公立学校ばかりの多くの地域では、あまり問題にならないことです。
 申し入れの内容は、公立中学は、私立中学を何らかの理由で退学になった子どもたちの受け入れ機関ではないという主旨です。いじめや暴力行為、不登校などの問題行動や内面に問題を抱える子どもを簡単に退学にしないで、私立中学側でもっと面倒をみてほしいというのが本音でしょう。実際、ここ数年で中途の転入生は増加傾向にあります。
 しかし、わたしにはこの問題はおとな側の都合のような気がします。いくら義務教育とはいえ、私立中学には建学の精神が保障されており、それに合致しない、あるいはそれを破る子どもは学校の対外的な価値を低下させると判断しても仕方がないと思います。だからといって、簡単に退学処分にするのはあまりにも割り切りすぎている気もしますが、ほかの多くの子どもたちから高い授業料を集めている以上、問題が解決しないと判断したら退学(排除)も選択のひとつでしょう。反対に公立中学は、入学時も途中転入時も子どもを選べないはずです。まして少子化の昨今、子どもが増えることは公立学校にとってはありがたいことのはずです。にもかかわらず、転入を阻止するような意見を申し入れた理由は何でしょうか。自分たちが面倒を見切れないような子どもは、たとえ公立中学であっても受け入れたくないからでしょうか。
 そんなことをしていたら、問題を抱える子どもの行き場はなくなってしまいます。教育機関は、家庭や生育にどのような事情があっても、子どもに憲法や教育基本法でうたわれている教育を施さなければなりません。とくに小学校と中学校は義務教育なので、親に子どもを学校へ通わせる義務を課しています。教育に携わるひとたちは、もう一度、その原点に立ち戻ってほしいと思いました。

5142.03.14/2005
 いま1年生や2年生の生活科で、パソコンを使って、自分から自分に贈る賞状作りをしています。学年末になったので、過ぎた時間を振り返り、自己の成長に気づいてほしいと思うからです。だれかが自分にくれるものではありません。自己点検・自己評価の意味合いを込めて、賞状というかたちで作成しています。
 ジャストシステム社のいちたろうスマイルという複合ソフトで起動する「はっぴょう名人」というプレゼンテーションソフトがあります。このソフトは、ポスター・ニュース・アルバム・レポートなどが小さい子どもにでも簡単に作成できる優れもののソフトです。年間を通して、生活科の授業でパソコンを使うときはこのソフトを使っています。だから、この時期になると6歳や7歳の子どもでも、ソフトの使い方はほぼマスターしています。それを使って、最後の賞状も作ります。
 いちおう「がんばり賞」というタイトルをつけて、子どもたちにはどんなことをがんばったか思い出してみようよと動機づけをしました。年齢が低い子どもは、周囲のことには気が向きますが、自分のことにはまだ目が向かない時期です。だから、がんばったなかみは子どもとのやりとりのなかで気づけるように導きます。体育・給食・登校・健康・友だちなど、子どもたちはがんばったなかみを思い出して、題材にしています。なにを題材にするのかは、もっとも難しいことなので、たっぷりの時間を用意しています。つまり、パソコンを前にしながらも、手は動かさないで考えている時間が多くなるのです。そのうち、ひとりふたりと作業を始めます。なかにはとなりの子どものアイデアにヒントを得て、考えをふくらませる子どももいます。
 昨今の経済社会は、顧客が企業を、上司が部下をという評価が目立ちます。学校でも、管理職が教職員を評価する制度が始まっています。しかし、大事なのは、第三者にどう見られているかよりも、自分で自分のやってきたことやその結果をとらえなおす力なのではないかと思います。

5141.03.12/2005
 いま湘南に新しい公立学校を創り出す会のホームページを全面的に作り変えています。まだ、サイト上にはアップしていません。ローカルな環境で完全に作り変えてから、一気にアップしようと思っています。
 現在のデザインになって、少しのリメイクはしましたが、大幅な改装は今回が初めてです。最近は、ホームページを見てアクセスしてくれるひとが増えてきました。そんなひとの身になったとき、少しでも知りたいことがすぐにわかるようなデザインにしたいと長く感じていたのです。しかし、創る会のホームページは追加追加でボリュームを増やしてきたので、部分的な変更では根本的な変更にはならないのです。そこで、今回デザインの変更を契機に、アクセスの少ないコーナーは削除し、アクセスの多いコーナーの拡充に努めています。
 情報を発信するとき、もっとも大事なのは発信する内容があるかどうかです。
 見た目の作りももちろん大事ですが、見た目だけではユーザーはすぐに飽きてしまいます。
 いままでの創る会のホームページは、幸いにも内容はてんこ盛りでした。だから、今回のリニューアルでは、一から作るのではなく、これまでの内容を取捨選択する方法にしました。そして、各コーナーのデザインに統一性をもたせています。最近、はまったフラッシュという新しい表現もさりげなくちりばめました。もうじき、アップの予定なので楽しみにしていてください。

5140.03.11/2005
 小学校の卒業式があと一週間に近づいてきました。
 小学校はいまの日本の学校制度のなかでもっとも長い6年間を子どもが過ごします。6歳から12歳までの子どもたちは心身ともに大きく違います。小学校のなかではとても頼もしく思える6年生も、中学に行けばかわいい1年生になってしまうのが不思議です。
 わたしは小学校に20年近く勤務しながら、もう少し6年間を細分化してもいいのではないかと感じるようになりました。全体的な傾向として、10歳を境に子どもたちは内面に大きな変化を見せるようになります。それまでは親や教師の指示に従っていた子どもも、10歳ぐらいを境に反抗を始めます。これは心身の成長とともに、自分と周囲との関係を意識できるようになり始めた証拠です。小さい頃は頼りになる存在に依存するように本能的な部分が大きくはたらくのでしょう。しかし、10歳ぐらいになると、そうやって言いなりになってきた自分を振り返ることができるようになり、周囲にそんな振る舞いを見つけると幼く感じるようになり、馬鹿にしたり、自分はそんなふうにはならないと思ったりするのです。
 最近では中学校と高校を合体させた学校が開校しています。実質的に思春期の6年間をひとくくりにするこころみが子どもにとってプラスなのかマイナスなのかわかりません。また特区を使って、小学校と中学校の9年間を細分化するこころみも始まっていると聞きます。
 ひとの成長は、周囲とのかかわりによって大きく左右されます。同じところに長くとどまることのよしあしは一概には言えませんが、全体が同じスタイルしかないのではなく、そこに合わない子どものための別の選択肢があってもいいと思います。

5139.03.10/2005
 わたしの周辺の公立中学校では多くがきょうが卒業式でした。
 3月は最初に高校の卒業式から始まり、中学と続き、最後が小学校の卒業となります。来週は、小学校の卒業式です。
 6年間もある小学校と違い、中学や高校は3年間なのであっという間に卒業を迎えた印象がわたしにはあります。でも、同じ3年間でも子どもによっては長く感じた3年間だったひともいるかもしれません。
 近隣の中学校では、きょう警察に警備を依頼したところがあります。卒業式の最中に暴れだす子どもを排除する目的でしょうか。それとも、最初から式典に参加させないつもりからでしょうか。たくさんの子どもがいれば、なかには反抗的な子どももいるでしょう。そういった子どもに対処できないと学校側が判断したのだとしたら、教育機関としての学校の存在価値は低くなるばかりです。
 たしかに、昨今は景気の低迷を反映して、家庭が経済的に困窮しているケースが多くなってきました。また、虐待報道で明らかなように、暴力で子どもを従わせる親も増えてきました。まちがいなくその影響は子どもの心身に暗い影を落とします。その暗さを、子どもがどのようなかたちで現すかは、個人差があります。
 内面に向かって、引きこもったり、自殺を考えたりする子どもには、いままで学校は組織としてなんの対応もしてこなかったといっていいでしょう。個人的には超人的な勤務で、そういった子どもたちと親に接している教員もいます。しかし、総体としての学校は個人の力を頼りにしかしていません。
 反対に、万引きや恐喝、飲酒や喫煙、暴行など外に向かって暗い影を払拭しようとしてきた子どもたちは、これまでは生徒指導主任の、やはり超人的な勤務で思春期を乗り越えてきたのだと思っていました。しかし、そこも警察を頼みにせざるをえないことを知ると、社会の悪い影響を全身で浴びている子どもたちの将来が気がかりでなりません。

5138.03.09/2005
 昨夜から花粉アレルギーが再発しました。
 去年まで自転車で通勤していた頃は、もっと早い時期にくしゃみや鼻水が始まっていました。ことしは通勤手段を電車とバスに変更。周囲がマスクに覆われるなか、大丈夫だったのですが、やっぱり体内の過敏な抗体反応は残っていました。午前3時ごろ、急に息苦しくなって目が覚めます。あー、この水っぽい鼻水はおなじみのアレルギーです。ティッシュでかんでも、すぐにまた鼻水が鼻の粘膜からしみでてきます。何度か、寝返りをうったり、鼻をかんだりしながら、うとうとと朝を迎えたら、寝不足のせいか、顔がむくんでいました。
 ことしの花粉の飛散量は全国的に例年をはるかに上回るとか。これから先が思いやられます。
 同様のアレルギー症状のある知人のなかには、秋のうちから注射を打ったり、薬を用意したり、周到な対策をしているケースもあります。今度はもうアレルギー症状は出ないのではないかというあまい考えで、わたしはそういう対策をいつもさぼってしまいます。とくに去年は花粉の飛散量が少なかったこともあり、この時期にほとんど症状は出ませんでした。それが過信になって、ことしはもう完治したかもと高をくくっていたのです。

5137.03.08/2005
 イラクで、武装勢力に人質になっていたイタリア人記者が解放されました。
 解放された記者と関係者を乗せた車が空港に向かう途中で、悲劇が起こりました。なんと、その車に向かって駐留中のアメリカ軍の戦車が攻撃を加え、記者は負傷、記者をかばおうとして解放の仲介役をしていた男性が死亡したのです。同様の事件がブルガリア人に対しても起こっていたことも報道されています。
 アメリカ軍なら、イラクで何をしてもいいのでしょうか?検問所で静止命令に従わなかったから発砲したとアメリカ政府は発表していますが、生き残った記者はあらかじめ自分たちが空港に向かうことはアメリカ側に伝えてあったといいます。また、検問所などで攻撃されたわけでもなさそうです。不確かな情報ですが、記者がアメリカにとって不利になる情報をつかんでいたという報道もあります。事実なら、不利な情報をもつ記者をアメリカ軍が抹殺しようとしたことになります。イタリアの首相は事件の徹底解明を求める声明を出しました。
 アフガニスタンでもイラクでも、アメリカ政府の政策は、かつてのベトナムでの失敗を想起させます。自国が外的から攻撃されたのが、過去に1941年の真珠湾と、近年の貿易センタービルしかないアメリカ政府にとって、外国の軍隊が駐留するという感覚は共有できないものなのでしょうか。いままでその土地に暮らすひとたちが築いてきた生活や文化、風習を武力にものを言わせたかたちで抑圧すれば、必ず地元のひとたちの根強い反発を招きます。武力による紛争の解決は、勝者の論理であり、敗者には解決どころか、新たな火種のスタートにしかならないのです。

5136.03.07/2005
 長い時間を子どもと過ごす仕事をしてきて、つくづく感じるのは、子どもと保護者との関係です。とくに、小学校では10歳前後を境に子どもに内面の成長が大きく変化するのですが、そのときに子どもと保護者の関係がうまく分離できないと、その後に大きく影響するケースがたくさんあります。
 最近は、両親とも働いているケースが珍しくなく、子どもが帰ったときに自宅の鍵を自分で開けることが多くなりました。それだけ、親子の接点が物理的に短くなっています。そのこと自体は、社会の発展とともに是非を問うことではないと思っています。しかし、その結果、ともに過ごすわずかな時間をどのように作っているかが問われてきています。
 何から何まで子どもの面倒を見てしまうタイプと、見ている方向が子どもではなく自分の仕事や趣味のタイプ。正反対に思える両者は、子どもの内面的な成長において、マイナスの効果をもたらしているという共通項があります。どちらも自分のことが自分でできず、社会性が乏しいまま思春期を迎えるのです。
 内面の成長には10年以上の時間がかかっています。いきなり、過去の不足分を反省して補おうと思っても、短時間では修復できません。自分の子どもを、保護者自身の希望や期待などに裏打ちされた思い込みでとらえようとするとき、子どもはそんな保護者の内面を垣間見て苦しみます。子どもにとって、身近なおとなは安心できる甘えの対象です。そんな甘え方をじょうずに、自立へと導いていく家庭教育が重要です。

5135.03.06/2005
 5日。藤沢市民会館で湘南に新しい公立学校を創り出す会の湘南小学校がありました。114日目の開校です。ひとくちに114日といっても、これまでの開校を振り返ると、参加していた子どもたちや協力してくれたスタッフたちの多さに感慨深くなります。
 当日は、やはり湘南に新しい公立学校を創り出す会の湘南憧学校の子どもたちも参加しました。湘南憧学校は、おもに土曜に開校している湘南小学校と違い、平日に開校しているフリースクールです。学びの主人公を子どもたちにという新しい教育スタイル確立のためのテストスクールとしての湘南小学校と違い、湘南憧学校は湘南小学校の実践をもとに、テストではない理念実現のための学校です。湘南小学校の歴史のうえに、湘南憧学校が誕生したのです。
 湘南憧学校の子どもたちは人数が少ないので、このように湘南小学校の子どもたちとの交流も兼ねて、合同の開校日を設定しました。今回が初めてではありません。
 現在の教育関連の法律では、このように実質的に教育機関としての機能は果たしていても湘南小学校や湘南憧学校は学校としては認められていません。だから、運営も財政も全部自前です。手作りの学校と言えば聞こえはいいのですが、実際には物理的にも財政的にも決して余裕のないなかでの学校になっています。しかし、理想の実現段階では、このような苦労は当然のこととわたしは感じています。
 114日目の開校を終えた湘南小学校は、19日に最後の開校日を迎えます。とくに修了イベントは予定していません。子どもたちの発案を大事に静かに幕を閉じていく予定です。

5134.03.05/2005
 3月に入りあたたかい日が増えるかと思ったら、まだ寒く冷たい日が続いています。下火になったかと思ったインフルエンザも、子どもたちの間ではまだ感染が広がっています。
 電車に乗って通勤すると、朝も帰りも肩をすぼめて歩くひとたちがたくさんいます。わたしは朝になると左手がとても冷たくなって、しばらく経たないと血液が循環しない感じです。年齢でしょうか。それとも若いときの運動の影響でしょうか。
 いつもこの時期は、一年間の子どもたちの成長に感無量になります。とくに小学校1年生や2年生を担当しているので、成長のスピードに目を見張る思いがします。身長や体重という目に見える成長だけでなく、ものの考え方などの内面的な成長もとても大きいのです。一年という時間のなかで、友だちを作り、学校での生活に慣れ、わからないことを克服していく学習の道筋を身につけていくことで、表情や言葉遣いがぐっとおとなに近づいていく気がします。
 以前にもまして、わたしはこの時期の子どもたちには、もっとしてやりたかったことがこころを埋めます。時間には限りがあって、何でもかんでも学習に導入するのは困難ですが、もっと取捨選択できなかったか、もっと応用発展できなかったかという思いが深くこころを埋めるのです。

5133.03.04/2005
 1日からパソコンがインターネットに接続できなくなり、復旧に時間がかかりました。
 パソコンの操作は慣れとトラブルの経験から、徐々にノウハウが理解できるようになっていますが、ネットワークの設定になると使われている用語や、その用語の意味がわからず専門家に援助を頼むしかないのが情けないと思いました。今回は、以前のウエイでも紹介した情報インストラクターの方に連絡をとり、修復していただきました。わたしがお茶を入れている間に原因を特定し、修復してくれました。わたしには、その背中に後光がさしているように見えます。
 結果的には、パソコンから光ファイバーモデムまでのLANが無効になっていたのを有効に戻しただけです。なぜ無効になってしまったのかは、その方もわからないといっていました。「ウイルスソフトの更新や、新しいソフトのインストールなんかで、勝手に設定が変更されちゃうことはよくあるんですよ」とのこと。ビル・ゲイツさん、ウインドウズってそんなもんなんでしょうか?たしかに、学校で授業用のパソコンが突然接続できなくなったり、ネットワークから離脱したりというエラーはよくあります。とかく教職員は原因を特定しがちですが、子どもたちが勝手にネットワークの設定を変更できないようになっているので、どうしておかしくなったのかという理由は多くの場合わからないことを思い出しました。
 3日の夜、おかげで久しぶりに接続が確立したら、メールが98通もたまっていてびっくり。自分の生活がすっかりインターネットと結びついていることを実感しました。こういうことがあると、これからの情報機器の活用ではネットワークの知識と技術も必要だと痛感しました。

5132.03.03/2005
 3学期に入って生活科の学習では、パソコンを使って思い出のページを作ってきました。
 先週までに1年生も2年生もページを完成させたので、今週からは印刷をしています。思い出のページは、春から撮影してきた思い出の写真に、各自がコメントを入力し、絵や飾りをつけるオリジナルアルバムです。低学年の子どもたちが、パソコンで画像の編集をしたり、文字を入力したりするのは、最初は大変ですが、年間を通して計画的に学習を配列するとこの時期にはもう教師の支援が必要ないくらいにまでパソコンの操作技術が高まります。どんなことでも、いきなりできるようになるわけではありません。少しの積み重ねが大切です。
 最近、インターネットを使った犯罪がクローズアップされ、情報機器を学習に導入することへの是非が問われています。情報機器はさまざまな用途がありますが、インターネットを使わなくても、今回のように各自の作品を継続的な学習によって完成させることができます。だから、わたしは使い方の問題だと思っています。たしかに、インターネット社会は、子どもたちに有害な情報を多く含み、子どもはその情報を簡単に入手できます。しかし、ローカルな環境で、外部からと外部へのアクセスをフィルターなどを使って制御すれば安全な学習環境が保てます。そういった工夫をこころみないで、情報機器の是非を問うのは、危険です。
 ひとりひとりの思い出のページを1年生は文集に綴じ込むそうです。いつか子どもたちが大きくなって、小学校時代を振り返ったときに、今回の作品が当時の自分を思い出させる貴重な役割を果たすことを願ってやみません。

5131.02.28/2005
 9月のなかばから先週まで、いっしょに仕事をしていた情報インストラクターの方が、契約期間の終了にともない今週からは勤務していません。
 毎朝出勤すると、情報機器のスイッチを入れて、パソコンの状態をチェックしていた姿を思い出します。子どもたちにもとても人気があったので、きょうはパソコン室の前に低学年の子どもが何人かいて「どうして、学校をやめちゃったの」とさびしそうに聞いてきました。
 情報インストラクターの方々は、日々の授業の支援と教職員の情報機器操作技術向上のために派遣されています。しかし、学校は単純な目的以上に、ひととひととの関係のうえに成り立っています。とくに、子どもとおとなの関係は、情報インストラクターの方々の本務をこえて、自然に結びつきが強くなっていきます。子どもにとっては、契約終了などというおとなの事情はわかりません。いつも仲良くしてくれた、困ったときに助けてくれたひとが、学期の途中に急にいなくなってしまったことのショックが大きいのは当然のことでしょう。
 教育行政に携わる方々は、こういうささやかだけど、確実な子どもとおとなとの関係をもう少しデリケートに考えてもらえたらなと思います。時間単位の契約なので、学期の途中に終了になってしまうのでしょうが、せめて年度替りの終了になるように開始時期を考慮するなどの工夫があってもいいのではないでしょうか。とても成果と効果があるのに、少なからず子どものこころを悲しませてしまっては元も子もない気がします。

5130.02.27/2005
 25日に湘南に新しい公立学校を創り出す会の定例会をしました。
 毎月一回ずつの話し合いも、もう90回を数えます。今回の話し合いの中心的な話題は、今春から開校規模を拡大する湘南憧学校についてでした。現在4人の子どもたちが通っています。週に3日ずつ開校しています。それを、10人の子どもたち、週5日に拡大します。
 昨年から今年にかけて4回の説明会を開催し、新聞や地域のミニコミ誌に情報を掲載しましたが、新しい応募はいまのところありません。どうやって目標人数を確保するかという話し合いでした。法的に認められていない学校なので、行政からの資金的な援助はまったくありません。もっともお金のかかる人件費が予算として計上できない難しい問題を抱えています。かねてから、湘南憧学校の対象年齢については何度か議論を重ねてきました。今回、思い切って中学校年齢まで入学対象を広げてみてはという提案がありました。
 湘南憧学校は平日に開校しているので、湘南憧学校を希望する子どもたちの多くは、おそらく既存の学校に通っていない子どもが多くなります。それぞれに何らかの理由があるでしょう。中学校年齢で、学校に行かない、時々登校する子どもたちの抱えている問題を、わたしたちが果たして受け止めることができるだろうかというのが、大きな論点でした。
 結果、様々なことは想定できますが、体験入学の期間を長くして、入学を希望してきた子どもが湘南憧学校になじめるかどうかを確かめることにしました。対象年齢の引き上げです。このウエイを読んでくださっているみなさんの周辺に、湘南憧学校に通ったら芽を出すかもしれない子どもがいましたら、ぜひご紹介していただけると助かります。

5129.02.26/2005
 わたしの勤務する小学校のある自治体では、3年前から国の事業にしたがい、公立学校に情報教育のインストラクターを派遣してきました。たまたま、校内の情報担当をしていた関係で、インストラクターの方々と学校との中継役をわたしは3年間担当しました。毎年、9月過ぎから2月ごろまで派遣され、教職員のパソコン研修や、情報機器を使った学習の指導補助を担当してくれました。
 公立学校に情報機器が導入されたのに、授業でそれらを使わない背景に、教職員の技術不足があったことはたしかです。その底上げのために、インストラクターの方々は、勤務時間を超過して労を惜しまず学校教育に協力してくれました。学校によっては、うまくいかないところもあったようですが、少なくともわたしの勤務する学校では、毎年子どもや教職員に親しまれる方々ばかりでした。
 今年度も、きょうがインストラクターの方の最後の勤務日を迎えました。子どもたちは朝から手紙やお別れの挨拶に待機部屋を訪れます。職員の打ち合わせでも、有志からのプレゼントが渡されました。別れを惜しまれるなか、ふたたび実社会に戻られていくインストラクターの方には、これからの人生で子どもたちと過ごした日々を大切な宝物にしてほしいと願っています。なかなか学校を内部から見聞きするというのは、一般の方には経験できないことです。しかも、教育活動に教職員とともに従事するというのは制度として完備されていません。いきなり管理職に民間人を据えるような「交流」ではなく、今回のように小さな、だけど効果の大きい「交流」こそが、いまの学校には求められているような気がします。

5128.02.24/2005
 きのうは、春一番が関東地方を吹き抜けました。
 ちょうど、6時間目はクラブ活動の最終日でした。わたしは、サッカー部を担当しています。校庭のクラブは、ほかにテニス部と陸上部があります。いつも、校庭を3つのクラブで分割して使用しているので、それぞれ十分な広さのないなかでの活動でした。
 きのうは、最終日だったので、ほかのクラブの顧問と相談して、時間をわけてそれぞれが十分な広さを使えるように工夫しました。だから、サッカー部も最後の20分間は、大きなゴールを使って全面のゲームが可能になりました。いつもは、小さなハンドボール用のゴールを使ってのゲームなのですが、広いグラウンドでのゲームは、やはり迫力がありました。
 ボールを追いかけて走り回っている子どもたちは、あまり春一番を気にしていない様子です。外から、ゲームを眺めていたわたしは、強い風に体が右に左に大きく揺れて、小さな砂粒が目や耳に入り、大変でした。終わってから、流しで顔や手を洗いましたが、もう春一番に負けてしまう年齢になったことをつくづく感じました。

5127.02.23/2005
 わたしたちが市民の力で新しい公立学校を作ろうと声を上げ、仲間を集め、活動を始めたのは1997年です。仕事が終わってからや、休日に公民館などに集まり会議を重ね、具体的な学校像を検討します。そして、おぼろげながら理想の学校像が見えてきたところで、子どもたちを集めたテストスクールを開校したのが1999年の夏でした。
 おとなの指示ばかりが横行する教育の世界に、学びの主人公は子どもだという考え方を提唱し、学びのなかみを子どもが決める学校創設を実践のなかから模索する試みがテストスクールでした。以来、テストスクールは名前を変えながら現在まで継続して来ました。開校日数も100日を越えています。そのテストスクールを、わたしたちは3月をもって終了します。最終日になる19日には、終了後、これまでテストスクールの開校に尽力してくれた方々を招いて感謝祭を予定しています。
 現在のテストスクール(湘南小学校2004)は、土曜日に開校しています。1999年当時は、まだ学校5日制が始まっていなかったので、夏休みや隔週にある休みの土曜日を使って開校していました。学校5日制の開始にともない、すべての土曜日を開校日にしたテストスクールもありました。
 わたしたちが理想とする学校は、もちろん平日に開校する学校です。夏休みや土曜日の開校は、平日に開校する学校への大事なステップでした。2004年の春に週に3日間ですが、平日開校の湘南憧小学校を開校しました。2004年度は、いままでのテストスクールと新しい平日開校スクール(湘南憧小学校)の両方を開校したのです。
 新たに2005年度からは、湘南憧小学校を週5日制に拡大します。それにともない、テストスクールとしての役割に、ここで一区切りをつけるときがきたと判断しました。新年度は年間で200日間もの長丁場になる湘南憧小学校の開校を予定しています。残念ながら、法的にはまだ学校として認可されていないので、無認可状態での開校です。無認可の場合は、各方面からの助成が受けられないので、費用はすべて法人の財政からの支出になります。財政的に、かなりきつい一年になるとは思いますが、夢の実現のためにはくぐらなければいけない挑戦だと思っています。

5126.02.22/2005
 最近はパソコンを買ったときから、セットでインターネットへの接続サービスを提供しているお店が増えてきました。
 自分でインターネットへの接続をしていた頃を思い出すと、とても便利な時代になったと思います。パソコンそのものの使い方がよくわからないのに、インターネットの設定と言われても、なんのことやら困った経験が懐かしいからです。
 しかし、インターネットにパソコンを接続する設定をお店にやってもらうと、インターネットにパソコンがつながらなくなったとき、自分で問題解決することができません。インターネットの設定で使われている専門用語や、接続設定の仕組みを知らないので、問題の原因さえもわからないのです。だからといって、自分で四苦八苦するほうがいいのかどうかはわかりません。
 それよりも、わたしが問題に感じるのは、パソコンを外部からの侵入者から守るための基本的な知識が、インターネットの接続を人任せにするとわからないままになってしまうということです。たとえ、面倒くさい接続設定は業者に任せても、パソコンを外部からの侵入者から守る安全策は自分でやったほうがいいと思うのです。コンピュータウイルスとはなにか、感染するとどういうことになるのか、対策はなにか。そういった基本的な知識をもっているか、もっていないかは、決定的な違いになります。また、コンピュータウイルスだけでなく、インターネット上にあるさまざまな罠とはなにか、それを見破るにはどうしたらいいかなど、利用するときの最低限のノウハウを知らないままにネットアクセスを続けるのは、とても危険です。インターネットに接続できなくなってしまった、メールの送受信ができなくなってしまったなど、安全策を知らないがゆえの被害を聞くと、その復旧のためにかかる費用と時間を想像して、ご愁傷様ですという気になります。とくに若年層が気軽にネットに接続するとき、なんらかの手段で最低限の防御策を講じないと、同様の被害は拡大するばかりです。

5125.02.21/2005
 二種類の包丁を買い、卒業した小学校に行き、教職員を殺傷する行為は、まず正常な精神ではやれないことです。
 そんなことをしたら、自分も含め、多くのひとたちが傷つくことが想像できるからです。しかし、その想像力が貧弱、もしくは皆無、あるいは感覚が麻痺していたなら、どうでしょうか。よく拳銃などの銃器による殺傷は、自分が汚れることがないので、包丁やナイフなど返り血を浴びる殺傷と区別されます。かなりの勇気と狂気の境目を往復しないと、直接相手の体に触れる殺傷はできません。
 しかし、現実には、昨年の小学生によるカッターナイフ殺人も含め、若年層のむごい殺傷事件が多発しています。おとなたちは、その原因究明に躍起になっていますが、最終的に個人の問題として整理するのでしょう。その繰り返しからは、同じ悲劇を繰り返さない保障は見えてきません。自分の周囲に似たような状況がないかどうかの確認、もしもあったならそれらを排除、あるいは自ら逃避するくらいのことしかできません。
 想像力は、とても高度な能力です。体の発達とともに自然に育つ能力ではありません。相手の身になるものの考え方は、子どもだけでなく、まずおとなが範を示さないと社会の価値になりえません。自分のことさえよければというおとなが増えてきた社会では、自分のことさえよければという子どもが増えるのが当然の帰結です。

5124.02.20/2005
 教育学を専攻するひとたちが見落としがちな教育現場を左右している要因のひとつに家庭環境があります。
 教育方法やカリキュラムを研究しているひとの文章や発言からは、子どもひとりひとりの家庭環境と、保護者のことが話題になることはほとんどありません。子どもたちが、完全に家庭から隔離された、たとえば全寮制の学校のような教育環境にいたら、専門家の研究は因果関係が成立するかもしれません。そのうえで、保護者が介在する可能性を完全に排除すれば、教育学は科学になるでしょう。
 しかし、実際の学校現場では教職員は勤務時間の多くを子どもとの授業だけでなく、保護者との面談・相談・トラブル解決に費やしています。問題をかかえた保護者の子どもは、多くの場合、内面的な成長に、どこか傷を負っているので、学校で教育の専門家たちが推奨するような研究プランを実行する状態ではありません。また、教職員から見て、自分のことしか見えていない保護者の多くは、隣近所・クラスの子どもたち・担任など、自分を取り巻く周囲に問題があって、自分は正常な感覚でいると信じています。本当はあなたも少し変わっていますよ、とアドバイスする人はだれもいません。そんな関わり方をしたら、人権問題と烈火のごとく吊るし上げをくうのが目に見えているからです。子どもはやがて学校を卒業していくので、それまでの間、言いたいことを言わせておいて、何を言われても我慢し、黙っていればいいという感覚になっています。
 学校は、家庭教育のうえに成立してきました。しかし、いまその家庭が崩壊の危機にあります。そして、家庭が担当していた子育ての部分を、親自身が放棄し、まるで学校や社会の役割だと勘違いし始めたひとや、どう子どもに接すればいいのかわからないのに誰にも相談せず・あるいはアドバイスを受けても自己流を通してしまうひとが増えてきました。
 教育研究会や教育関係の実践報告などを耳にするたびに、そのなかから欠落している子どもの家庭環境要因に、そんな研究をいくらすすめても成果の汎用性は低いだろうなと感じ、むなしさを増大させてしまいます。

5123.02.19/2005
 1999年の夏に、逗子で野外体験施設を使ってはじめてのテストスクールを開校しました。そのときは、4泊5日の宿泊学校でした。炊事も全部自分たちでやり、朝から夜まで新しい学校の創設に向けて、とことん具体的実践を積みました。それから6年が過ぎました。
 テストスクールは、テストマッチ・無認可湘南小学校・夢キャン・湘南小学校などと名前を変えつつ、ずっと開校してきました。そのテストスクールを、わたしたちは来月19日で終了します。今年度から開校している平日学校「湘南憧学校」が、新年度から毎日開校に規模を拡大するのにともない事業活動の中心をいよいよ平日学校にすえることにしたのです。
 市民による新しいタイプの公立学校の創設という、大きな夢を1997年に掲げて8年。まだ、その夢の実現には壁がいくつもありますが、具体的な教育実践の積み上げは着実に前進してきています。
 3月19日の湘南小学校の終了後、藤沢市内で、これまでテストスクールや創る会にかかわりのあった方々に呼びかけたパーティをしようという話もメンバーのなかから聞こえています。夢をかたちにするために、同じ気持ちのひとたちが長年活動をともにすることは大変なことです。でも、かかわってくれたひとりひとりがいたからこそ、わたしたちはいまこの地平に踏ん張ることができています。3月19日は、創る会の過去と未来のひとつの区切りになりそうです。

5122.02.18/2005
 自分でもこんなにフラッシュにはまるとは思ってもいませんでした。最近、トップページに機関車が走ったり、駅に江ノ電イメージの電車が入線したりというムービーをアップしました。あれは、ホームページの基本言語であるHTMLではなく、フラッシュによるアニメーションです。フラッシュで作ったアニメーションをインターネットエクスプローラなどのブラウザで見るには、フラッシュプレーヤーというソフトが必要です。ふつう購入したてのパソコンにはフラッシュプレーヤーはインストールされていないので、ユーザーがフラッシュを使ったホームページを見るには手間がかかりました。その意味で、わたしは長いことフラッシュを敬遠してきたのですが、WindowsXPの登場で標準で多くのプラグやドライバーが用意され、高速回線の普及も重なり、そろそろフラッシュに手を染めてもいいかなと判断したのです。
 実際、多くのオフィシャルサイトではフラッシュを使ったページがたくさんあります。それだけ、一般ユーザーがフラッシュを使ったホームページを見る負荷が少なくなってきた証拠だと思います。
 フラッシュは、フラッシュを専門に作成するソフトを使って作ります。そうやって作られたファイルを、ブラウザが読み込めるプログラムファイルに変換し、そのプログラムファイルをHTMLに読み込ませます。HTMLに何でもかんでも書き込んでいたときに比べてやや手間がかかる気がしますが、ひとつのプログラムファイルを作っておけば、複数のHTMLに読み込ませることができるので、汎用性が向上します。
 わたしが担当している「かさなりスーテーション」の各ページや、湘南に新しい公立学校を創り出す会のホームページに、フラッシュを使ったムービーやアクションスクリプトを導入していこうと、いまはアイデアばかりが先行しているところです。

5121.02.17/2005
 大阪の公立小学校で17歳の少年が教職員を殺傷した事件。報道で、事件を起こした少年の供述から、少年が小学校に在籍していた当時の教員のことが触れられています。
 しかし、こういった少年の供述のみを一方的に伝える報道姿勢は、とても危険だと思います。これでは、ニュースや報道に触れたひとは、亡くなった方や負傷した方は、その教員の代わりに犠牲になったという印象をもってしまうからです。事件の凶悪性と、衝動とも思われる思慮の浅さ、自分の犯した過ちに対する反省の低さ。それらは、どのような理由や動機があったにせよ、同情を買い、許されることではありません。
 また、インターネットでは、少年の実名や写真が流れているそうですが、それらは同時に根も葉もないコメントもセットのものでしょう。「少年の人権に配慮する必要」から、関係省庁の担当者はサイトの管理者に削除を求めているそうですが、その観点も疑問をもちます。
 まず、無関係なひとたちが自分の思い込みを正当化させるために、写真や名前という具体的情報を取得して、あたかも少年について知ったかのような錯覚をもとうとする心理が危険です。近くのひとも、遠くのひとも、少年の生育過程や現在の生活については、何も知らないのです。どんなに情報を得ても、所詮それらの情報は信憑性が疑わしいので、真実には近づきません。少年についての調査や指導、身柄の扱いは各専門機関が進めることで、うわさをもとにインターネットで「文字」にするのは真実をゆがめてしまう可能性をもっています。
 次に、そういった扱いを人権への配慮からやめたほうがいいという考え方は、不思議です。亡くなった方やその関係者、傷ついた方やその関係者、そして当該校の子どもたちにとってつらい思いを喚起させ、こころの傷を深める危険性があるからやめるべきだと、わたしは思います。犯罪は過失ではありません。殺意の有無が問題なのではありません。少年の行為は過失ではなく犯罪だったという事実を受け止めれば、犯罪の犠牲者になった方々の深いこころとからだの傷が想像できるのではないでしょうか。いまはそっとしてほしい、できれば時間をリセットしたい、なんで自分があのときに。頭とこころを埋め尽くすマイナスの感情を整理するには、かえって刺激を与えるような情報は控えるべきなのです。

5120.02.16/2005
 東京都渋谷区で、今春からすべての区立小学校と区立中学校に警備員を配置することを決めました。校門脇には警備員が常駐するための建物も作るそうです。全部で6700万円の予算がかかると新聞では報じていました。
 先日の大阪での事件を受けての措置のように思えますが、実際は違います。昨秋のうちに、すべての小学校の校長と、PTAが連盟で区に対して警備員を配置する要望書を提出していたことを受けての対策です。決定の最終判断に、先日の事件がきっかけになったのかもしれませんが、それはあくまでもきっかけに過ぎないでしょう。これだけの予算措置を、早急に準備なしで開始することは難しいと思うからです。
 わたしの身近なところでは、こういった予算措置はなかなか実現しません。学校現場の教職員は、事件が起こるたび、関連する会議のたびに、予算措置の必要な具体的、効果的な安全対策を要望しています。しかし、返答はいつも同じ。「そんなお金はない」。
 議会は、住民の税金を集め、公共の福祉のために分配する計画を決める大事な役割を担い、責任を負っています。その議会には、文教関係の専門委員会があります。そういった機関で、もっと子どものいまを見つめた計画案を作成できないのでしょうか。校長が集まる校長会や教頭が集まる教頭会が、教育委員会の意思伝達の中間機関になっていたら、自主独立の意見反映はできないでしょう。しかし、実際の学校現場を預かり、子どもや保護者に責任ある教育活動を提供する代表者としての自覚をもっていたら、言うべきことは言い、やるべきことはやるという強い姿勢も、ときには必要な気がします。とくに、ひとのいのちにかかわることには、政治や宗教、職務職階などの対立構造は入り込む余地がないはずなのに。

5119.02.15/2005
 大阪府寝屋川市の公立小学校で教職員が17歳の少年に殺傷される事件がありました。
 事件の背景は、少年法の関係から公表されることはないでしょうが、事件の犠牲になった方と負傷された方の痛みと無念さを思わずにはいられません。このような事件があると、評論家やマスコミは持論を展開し、数少ない情報から多くの想像をあたかも事実のように報じます。不登校で引きこもりがちだったテレビゲームが好きな少年が、学校や教師に恨みをもった凶行かもしれないという想像は、そういったひとたちにとって絶好の「ネタ」として扱われるのです。
 でも、本当に大切なことは、このようなことが繰り返されないようにすることと、事件関係者のこころのケアです。とくに亡くなった方はクラス担任とのことです。きのうまで元気だった先生が、突然の死を迎えたことを、クラスの子どもたちは大きなショックで受け止めていると思います。その子どもたちへのこころのケアを最優先にする必要があるでしょう。今回も、マスコミは子どもたちへのインタビューを無感覚で行っています。内面の衝撃は言葉では表せないものだと思うのに、あえてそれを引っ張り出そうとする商業主義的な感覚には憤りを感じます。
 昨今の学校現場は、給料が差し置かれ、労働時間がのび、休憩時間がとれず、働きにくくなっています。そのうえ、いのちがけの可能性も背負い込まなければならないのかと思うと、気が重くなります。

5118.02.14/2005
 2回のスーパーボウルチャンピオンになり、ともにMVPを受賞したペイトリオッツのQBブレイディは、どんなときも冷静沈着な名QBです。しかし、フットボールはQBひとりの力でできるものではありません。選手を育て、メンタルな部分も支えてきたコーチングスタッフの努力と能力が、とても高い証拠でしょう。
 試合前の現地の評価は、おおむねペイトリオッツ有利でした。レギュラーシーズンの戦いぶりでは、総合力という観点で、守備力が目立つイーグルスの上をいっていたのです。また、24年ぶりの出場というイーグルスのプレッシャーが、常連のペイトリオッツにはなかったのも有利な判断材料だったかもしれません。
 しかし、試合が始まったら、最初から守備陣の巧みなガードで攻撃陣が1回も10ヤード前進できずに攻守交替を繰り返す接戦になりました。1回も10ヤード前進できずに4回目のダウンでキックで攻撃権を相手に渡すことを「スリーアンドアウト」といいます。野球の三者凡退みたいなものです。

5117.02.13/2005
 スーパーボウルで優勝すると、翌年のドラフトでは新人との交渉権が最後になってしまいます。そのようにして、有望選手が特定チームに集まらないような仕組みが出来上がっています。その結果、毎年、スーパーボウルには各地のチームが出場してきました。チーム力を継続して維持するのが、とても難しいからです。強い時期もあれば、弱い時期もあるという考え方が、地元を大切にしたプロスポーツを育んでいるのでしょう。
 NFLのユニフォームやチーム名には、スポンサーの名前やマークは入っていません。そんなことをしたら、売名行為としてファンのそしりを受けるのです。ユニフォームには、シンプルにチーム名と選手名、背番号がプリントされているだけです。それでも、ファンはチームのスポンサーを知っています。オーナーには、スタジアムでもっとも高級のシートが用意され、選手やコーチたち、そしてファンから尊敬されているのです。売名行為よりも、ずっと宣伝効果があるわけですから、姑息な方法で有名になる必要がないのかもしれません。
 そんななか、ニューイングランド・ペイトリオッツは最近4年間で3度もスーパーボウルに出場しました。過去2回の出場では、ともに優勝しています。去年も勝ったので今回勝てば連覇です。2000年代はペイトリオッツの時代と言われるほど、選手層が厚いチームを、ほかのチームのファンがうらやみ、ねたむのは仕方がないことです。あえて、ペイトリオッツが敵役になることで、イーグルスの人気は上がり、結果としてスーパーボウルの魅力も高まりました。

5116.02.12/2005
 QBはサイドラインの攻撃コーチから攻撃パターンの指示を、ヘルメットの中に仕込んであるスピーカーに無線で受け取ります。攻撃コーチの指示は、ヘッドコーチの考えを具現化したものです。攻撃コーチの指示は、QBだけでなく、ヘッドコーチも聞いています。ヘッドコーチの考えが優先し、攻撃コーチと異なった場合は、QBはヘッドコーチの指示に従います。さらに、実際の攻撃開始時点で、攻撃側のプランが守備側に読まれていることに気づいたら、オーディブルといって、その場で臨機応変にプランを変更します。オーディブルはQBの特権事項ですが、ヘッドコーチや攻撃コーチの考えを無視するわけですから、失敗したら責任はすべて自分で背負い込まなければなりません。
 熟練したQBは、瞬間的にオーディブルコールを出すことができます。その能力をマグナブは持っているのです。
 スーパーボウルが行われたジャクソンビルにあるオールテル・スタジアムには、圧倒的にイーグルスを応援する観客で埋まりました。イーグルスにもペイトリオッツにも無縁のジャガーズの本拠地、フロリダのオールテルでイーグルスを応援するひとたちが多かったのは、イーグルスの歴史とQBマグナブへの敬意だったのではないかと思います。観客の多くは、選手と同じユニフォーム型のTシャツを着ていました。そのなかでも、マグナブと同じ背番号5のTシャツを着たひとたちが多かったのが、その証拠です。

5115.02.11/2005
 フィラデルフィア・イーグルスは、過去3年間、いつもスーパーボウルまであと一歩のところまで勝ち残りながら、破れ、悔しい思いをしていました。
 イーグルスのクオーターバックQB:ドノバン・マグナブは黒人です。39回の歴史をもつスーパーボウルでQBが黒人だったことは過去に3回しかありません。それだけ、QBには黒人をつけない差別があったからです。QBは、アメフトの攻撃チームの司令塔です。11人いるメンバー。そのなかで一つ一つのゲームプランを10人のメンバーに伝達する役目があります。メンバーのなかには当然、白人もいて、黒人に命令されたくないという悪しき伝統があったのでしょう。事実、マグナブがイーグルスに入団し、QBとして試合に出たとき、観客席からはブーイングがあったそうです。
 アメリカには、まだまだ人種による区別以上の差別が残っているのです。マグナブが大学でフットボールをやる意思をもったとき、QBとしての入学を認めたのはわずかに2校しかなかった事実も、そのことを物語っています。それでも、マグナブはQBというポジションにこだわりイーグルスでプレーを続けました。そして、やっと今年チャンピオンを決めるスーパーボウルに出場することができました。

5114.02.09/2005
 アメリカンフットボールはポジションによってプレー内容が大きく違うので、各ポジションのスペシャリストがいます。多くの場合、自分のポジション以外を担当することはありません。
 ルールが難しいと敬遠する人が多いのですが、実際にはとても単純な方法でゲームは進みます。野球を思い浮かべてください。野球は3つのアウトで攻守が交替します。アメフトは4つのアウトで攻守が交替します。アメフトではアウトのことをダウンといいます。ボールを持った選手のひざがつく・パスの受け取りをミスするとダウンが更新されます。最初のダウンから4つのダウンまでに10ヤード進むと、攻撃権が更新され、また最初のダウンになります。つまり1stダウンで10ヤード以上ボールが進んだら、次もまた1stダウンの扱いになるのです。ふつう2ndダウン・3rdダウンと進み、4thダウンで10ヤードの更新まで残りがある場合は、大きくキックしてわざと攻撃権を相手に渡します。4thダウンで10ヤード更新できなかったら、その場で攻守が交替になり、相手にいいポジションで攻撃を開始させてしまうからです。アメフトのグランドは長さが100ヤードあるので、ちびちび10ヤードを更新しながら端から端まで攻撃をしたら、1stダウンを10回更新することになります。そして、エンドゾーンにボールが入るとタッチダウンとなり6点が加算され、その後キックでゴールポストをボールが通過するとさらに1点加算されます。また、タッチダウンの後でなくてもキックでゴールポストの間をボールが通過すると3点入ります。エンドゾーン近くまで攻撃しながら4thダウンのとき、そのまま攻撃を継続するか、タッチダウンの6点を捨てて、キックの3点を選択するかはヘッドコーチの判断です。

5113.02.08/2005
 昨夜はNHK-BS1でスーパーボウルの録画中継を観戦しました。午後11時から日にちをまたいで午前2時までの中継でした。もっと早い時間に放送してくれたらと思うのは、きょう寝不足でぼーっとしていたからでしょうか。
 アメリカンフットボールのプロリーグのことをNFLと言います。NFLには二つのカンファレンスがあって、それぞれに16チームずつ、合計32チームが所属しています。二つのカンファレンス(AFC,NFC)は東西南北の4チームに分かれ、毎年9月から12月までのレギュラーシーズンに同地区の試合を含め17試合を戦います。最終節終了時点で、各地区の勝率一位と、カンファレンス内のそれに次ぐ勝率の2チームが1月にプレイオフを行います。プレイオフはトーナメントなので負けたら終わりです。そして、カンファレンスチャンピオンを決め、二つのチャンピオンチームが年間チャンピオンを決めるためにスーパーボウルでぶつかります。
 ことしは、フィラデルフィアにフランチャイズを置くイーグルスと、ニューイングランドにフランチャイズを置くペイトリオッツが対戦しました。NFLは年間順位の低いチームから、ドラフトで選手を指名する権利をもっているので、継続してチーム力を維持するのが難しいのですが、ペイトリオッツは最近4年間で3度もスーパーボウルに進出しています。また、今回は昨年に引き続きの連覇もかかっていました。39年の歴史を誇るスーパーボウルの歴史のなかで連覇を達成したチームは7チームしかありません。対してイーグルスは24年ぶりのスーパーボウル。観客席を埋めた7万人の聴衆のほとんどがイーグルスを応援していました。

5112.02.07/2005
 きょうはアメリカンフットボールの年間チャンピオンを決めるスーパーボウルが行われます。厳密には、日本とアメリカでは時差が一日あるので、このサイトをアップしているときには、すでに試合は終わっています。毎年、2月の最初の日曜に開催されることが決まっていて、会場はリーグ加盟チームのスタジアムが平等に使われます。だから、プロ野球のように優勝戦をするチームのグランドではやりません。偶然、スーパーボウルが行われる会場のチームが最後まで勝ち残れば別ですが、わたしが知っている限りではそのようなことはめったにありません。それほど、スーパーボウルまで勝ち残ることは困難なのです。
 今年の第39回スーパーボウルは、ジャガーズのホームスタジアムがあるジャクソンビルで行われます。ジャクソンビルには、優勝戦を戦うイーグルスとペイトリオッツのファンが何日も前から観戦のために集まります。放映するテレビは、2億人の人口のうち約1億人が見る人気です。海外での放送も含めれば、どれだけのひとたちが観戦するのかわかりません。
 日本での放送は、いつも2月最初の月曜の昼間です。仕事を休むわけにはいかないので、夕刻の再放送を楽しみにします。それまでにラジオやテレビのニュース、夕刊を見たリ聞いたりしないようにします。去年まではNKH衛星放送がゴールデンタイムに放送していましたが、今年は22時からになっていました。国内ではアメリカンフットボールを観戦する人が少ないのでしょうが、ほとんどテレビを見ないわたしにはそんなに遅くの放送は、体力勝負です。どう考えても途中で寝てしまいそうだからです。

5111.02.06/2005
 愛知県のイトーヨーカドーで乳児が通り魔的な犯行の前に命を落としました。神奈川県の三浦市ではレンタカーで複数の男女が自殺をはかりました。かたや、悔やんでも悔やみきれない凶刃の前に命を落とし、かたや生きることにつらさを感じて自ら命を落としたのです。
 ふたつの事件に共通性はありません。しかし、同じ時期にきのうまで生きていたひとたちが亡くなったことだけ共通しています。そして、両者とも防ごうと思えば防げたかもしれないと思うと、とてもやるせない気持ちになります。
 いまの日本社会は、それだけ危険と隣りあわせで、生きていくことが困難な社会なのでしょうか。わたしは、ほとんどテレビを見ませんが、たまに見るとそこに登場するひとたちの閉じ方に憤慨することがあります。テレビのなかで発言していることと、現実のよのなかで起こっていることの違いが大きすぎるのに、発言の多くはテレビのなかで完結してしまっているのです。
 行列ができるお店も、外国の流行ドラマも、情報としては重要なのかもしれませんが、もっと時代を鋭く切り取ったものの見方で番組が構成できないものかと思うのです。そんななか、仕事帰りの行きつけの居酒屋で午後6時前後に放送しているニュース番組は、毎日の放送なのに社会の底辺で必死に生きているひとたちを取り上げ続けていて、ついつい画面に見入ってしまいます。丹念な取材と筋の通った番組のコンセプトが、こちら側に伝わってくるからです。社会を悲観し、自らの前途を悩み、あるいは社会に恨みを抱くことからは、決して前向きな解決策を創造できません。

5110.02.05/2005
 学校を卒業し、社会人として就職した若者が、それぞれの就職先で、先輩たちにどのように受け入れられていくかは、ひとそれぞれです。たまたま、偏差値は高かったのに、自立心の低下した若者を採用してしまった会社では、何万人にひとりかふたりの事例なのに、まるで若者全体が同じような傾向になっていると短絡的に受け止めていないでしょうか。
 学校でも、新採用教員を見ていると「どうして教育委員会は、このひとを採用したんだろう」と首を傾げたくなるほど、自立心に乏しく、何よりも教員に向いていない若者を目にすることがあります。でも、最初からその仕事に向いている若者のほうが、本当は少なくて、だれであれ未熟なところがいっぱいなんだと思います。その未熟さを、本人が自覚し、謙虚に成長していこうとする姿勢が見られれば、周囲は若者の失敗や苦労を励まし、克服の方法を伝授するでしょう。しかし、偏差値が高く、成績のよかった学力優秀者の多くは、自分の未熟さを認めようとしません。どんなに背伸びしても、経験豊富なひとたちにはかなわないのに、我流を押し通そうとし、やがて孤立します。
 なぜ、極端に学力優秀者は自我が肥大化したのでしょう。そして、決して成績のよくなかった若者のほうが、人間的に幅のある感性を育んでいるのでしょう。いま、子どもたちに基礎基本を強要しようとする学者や政治家のひとたちは、いまよりももっと自我が肥大化した学力優秀者を量産する危険性に早く気づくべきです。感性やこころの成長は、道徳の時間を増やせば導けると考えるひとたちには、絶対に理解できない複雑な教育の営みが必要なのです。

5109.02.04/2005
 かれこれ開始から10年以上が経過する小学校の生活科。それまで低学年にあった社会と理科がなくなり、新しく創設されたのが生活科でした。  創設のときから、社会と理科がなくなることには大きな反対の声がありました。実際には、週あたり、社会3時間・理科3時間の合計6時間の授業時間を削減することがねらいで、生活科3時間にすることで残りの3時間を国語と算数に充当したのです。それにより、低学年の時間割はほとんど算数と国語になってしまったのです。  いま、中央教育審議会がふたたび生活科を廃止して社会と理科を復活させる議論を始めようとしています。昨今の学力低下論議を受けて話題にのぼってきたのでしょうか。わたしは、教育現場にいて子どもたちの学力が最近10年、あるいは20年で極端に低下しているという実感はありません。それよりも学習意欲が極端に低下している実感が大きいのです。知的好奇心の喪失を食い止めるには、教科の統合や再編では無理です。

5108.02.03/2005
 先日知人のお宅で手作りベーコンパーティーに参加しました。
 とても閑静な住宅地の山奥にある古くからのお宅で、庭に大きな山桜があり、その枝の下にアウトドア用というより、自然公園に設置してあるような大きな木製のベンチテーブルがあります。その脇にはスチール製のロッカーを改良した燻製釜があり、できたてのベーコンをいただきました。わたしは七輪で、ホタテ・まぐろのほほ肉などを調理。寒く、小雨もちらつきましたが、寒さを忘れるほどのおいしさにお酒がすすみます。手作りなので、とても時間と手間をかけたベーコンで、わたしがこれまで食べていたスーパーのベーコンは、これからベーコンと呼んではいけないと思いました。何しろそれらは燻製液という液体に浸しただけで、実際に燻製はしていないそうなのです。教えてもらわないと知らないことってあるんですね。
 化学調味料を使わない食卓は、味も控えめで、最近薄味に慣れてきたわたしにはとても贅沢な時間でした。山桜をよく見たら、小さな花芽がついていて、桜のころ、ここでパーティーをしたら最高だろうなと思いました。
 たくさんのお金をかけて旅行したり、買い物をしたり、ひとそれぞれに幸せの感じ方は違います。わたしは、きれいでも快適でもなくても、仲間や知人と自然のなかで風や空気を感じながらのんびりとおいしい料理とお酒があれば十分な年齢になっています。

5107.02.02/2005
 年末を迎え、湘南憧小学校の初年度が終わりに近づきます。
 教育の営みは、決して一年という短い期間で大きな成果の出るものではありません。しかし、一年かけてはたらきかけてきた成果と課題をまとめることは重要です。前半は子どもたちが湘南憧小学校を自分の居場所として受け入れたか、後半はこどもがほかのひととの関係性を高めたかがアウトプットの柱でした。そして、最後は年度のはじめに掲げた「自分ひとりで一週間程度の学びの計画が立てられる」かどうかを確認することになります。
 学びの計画は、質と量に分けられますが、個人によって変化します。ほかの子どもと比較した評価方法では、学びの主人公を子どもにしたい湘南憧小学校の教育理念とはかけ離れたものになるでしょう。おとなの目には、大きな変化が感じられないとしても、見落としている子どもの変化を読み取っていく作業と能力が支援者には求められます。
 これまでの歩みを振り返り、自分の感じ方だけでなく、ほかの支援者の感じ方、保護者の受け止め方、子ども本人の残したものからのサインなどを総合して、学びの計画を立てようとする力の抽出をするのです。また、そこに当初の目標通りの成果が期待できない場合は、子ども個人にとって、湘南憧小学校の教育活動のどこに問題があったのかを課題として整理すると、次年度へのヒントになるでしょう。
 そして、なによりも子ども本人が湘南憧小学校を楽しいと感じ、生き生きと登校している姿がある限り、「センセイ、次なにやるの?から、わたし、これをやりたいへ」という湘南憧小学校のコンセプトは方向性として間違っていないという自信を持ち続けることが大事です。(教育活動のアウトプット考察はこれで終わります)

5106.02.01/2005
 夏を過ぎた湘南憧小学校では、夏前に欠席しがちだった子どもが登校するようになりました。その事実も、湘南憧小学校が子どもにとって居場所としての認識をもった証拠になります。
 また、体験入学というかたちで一ヶ月以上通った子どももいました。湘南憧小学校が、すべての子どもにとってではないにせよ、確実にある子どもたちには必要な学びの場所になっている事例です。
 夏以降の湘南憧小学校では、レインボータイムという時間を設けました。これは、自分の学びをほかの子どもに呼びかけて、ひとりからふたりへ学びのメンバーを増やしていくものです。何をするかを考えるとき、いつもひとりでできるものばかりとは限りません。ひとりでできることだけではなく、多くで共有することも楽しいことを子どもは本質的に知っているのです。しかし、ひとりでやっているときと違い、自分以外の者との時間をもつと、やりたくてもやれない、いやなことを我慢しなければならないという状況に出会います。わたしは、その出会いは、子どもにとってとても大切な社会化の過程だと思っています。ひとと関係をもつということは、それだけで自分の自由にならないものを背負い込んでいくこととセットなのです。その乗り越え方を工夫していくことが、親を離れ自立していく第一歩だと思うのですが、最近では成人を過ぎても親が子どもを手放さないケースもあるようです。湘南憧小学校では、子どもが小さいときから自立への道を選択させます。夏から秋にかけてのアウトプットは、子どもが自立へ向けてほかのひととの関係性を高めた事実を伝えて行くことが必要です。

5105.01.31/2005
 最初の段階でのアウトプットは、湘南憧小学校を子どもが自分の居場所として受け入れるようになったことを実証することが必要です。そのために、入学から夏まで多くの時間をかけ、さまざまな取り組みをしてきたからです。数字でわかるものとしては、出席率が挙げられるでしょう。それまで、既存の学校に通っていた出席率と、湘南憧小学校への出席率を比較することで明示できます。
 次に大事なのは数字でわからないものです。これは支援者が日々記録する子どもの様子に加え、子どもたちの発言や記録として残したもののなかから、子どもたちが湘南憧小学校を自分の居場所として認識し始めたことがわかる記録を抽出します。それは「ここに自分の居場所を見つけた」というものでは、やらせになってしまいます。子どもの発言や記録のなかに、次につながる要素のあるものをピックアップしていくことで明示できます。いまの自分をとらえ、あしたの自分を想像することができれば、あしたもここで自分の願いを子どもはかなえようと考えていることが実証できるからです。そのため、具体的になにをしたかという事実の羅列では整理がつきません。アウトプットしていく段階では、具体的な事実の記録のなかから、次につながるような記述や出来事だけをピックアップすればいいのです。もちろん、その段階では「こんなところ、もうやだ」というネガティブなものも包み隠さず公開する必要があります。でも、それはもしもそういうことがあればというものでかまいません。無理にこじつけるとかえっておかしくなります。

5104.01.28/2005
 自分の頭とこころで考えられるようになるためには、適切な指導が必要です。
 周囲からのはたらきかけがまったくなければ、とても自分からものを考えるようにはなりません。わたしたちが1999年から開校してきたテストスクールが、それを実証しています。放任状態や過干渉は、子どもに自分が愛されているという実感が育ちません。愛されているという実感は、相手が自分の身になってものを考え、言葉をかけ、はたらきかけをしてくれる繰り返しによって培われます。自分が愛されている実感に満ちたとき、子どもは初めて周囲を気にしないで自分の世界を作り始めようとするのです。
 ここで気をつけなければいけないのは「子どものため」という言葉に支配されて、本当は親としての自分のためにわが子に多くを期待している場合です。また、家族の役割として親の考えを一方的に押し付けている場合も留意が必要です。いずれも、子どもには反論する言葉がありません。ただ、感覚的に受け入れがたいもやもやが増幅していくのです。これは親だけでなく教師にも同じことが言えます。
 湘南憧小学校では教師と保護者がコミュニケーションをひんぱんにとり、子どもとおとなの関係についての意思疎通をはかっています。そのうえで、自分の頭とこころでものを考えられるような教育活動が行われているのです。

5103.01.27/2005
 湘南憧小学校では、学びの主人公を子どもにという考えから、何を学ぶかを子どもたちが決められるようにしています。そして、責任ある生き方ができる子どもを教育目標に掲げ、日々具体的な教育実践を積み上げています。
 責任ある生き方とは、自分の生き方を他者に自分の言葉で自分のこととして説明できる生き方です。つねに、親や教師に管理された生き方をしてきた子どもは、何をするにしても自分がやっていることの意味や目的を説明する言葉を持ちません。指示されたり指導されたりしながら、学んでいるので、どうして「それ」をやっているのかという答えが自分のなかに育たないのです。
 10歳ぐらいまでは、おとなの言いなりに育ったとしても、多くの場合、自我が育ち始める時期になると子どもはおとなへ反発心を抱くようになります。その段階でじょうずに親と子どもが分離していけばいいのですが、昨今の状況では、あくまでもおとなに従順な姿勢を貫くか、極端に攻撃的になるか、まったく感情を持たないようになるか、親や家庭から離れていくかのいずれかの選択しか残されていません。「うちの子は大丈夫」という親や教師の考えは、自己満足に過ぎず、あるとき子どもからの反発を境にそれまでの関係が大きく変化してしまうのです。
 それは、すでに日本社会が生きるためには自分の頭で考え、自分の言葉で発言していく人材を求めているのに、おとなたちがいつまでも言われたとおりの子どもを良い子どもと評価していることへの子どもたちの感覚的な嫌悪感が根底にあると思います。だから、湘南憧小学校では子どものときから、自分の頭とこころで考える学びを身につけさせたいと考えているのです。

5102.01.26/2005
 とかく教師のビジョンは、目の前の子どもを離れ、教師個人の夢や願いによって支配されがちです。それでは、目の前の子どもたちがかわいそうです。
 教師の所属する学校では、どんな子どもを育てようとしているのかを認識し、そのためにいまの自分には何ができ、どんな計画が必要なのかを検討するところからビジョン作りは始まります。なんといっても、子どもにもっとも近いところで教育活動に携わるのは、教師そのひとです。だれかの指示や、指導書の目標通りの授業や指導では、ビジョンのない教育活動になってしまいます。
 ビジョンが明確になったら、おぼろげなイメージを具体的な言葉に置き換えていく作業に入ります。この一年を通して、子どもたちにつけさせたい力は何か、その結果最終的に子どものどんな姿を理想とするのか、理想実現のために年間にどんな学習内容を配置すればいいかを考え、文字や言葉にするのです。教育課程を専門的に研究する教育学領域がありますが、わたしは長く実践の現場にいたので、子どもの見えない教育課程の創造には疑問を感じています。
 子どもたちの成長に責任を負う教師の仕事は、行き当たりばったりではいけないと思っています。現実に即応する柔軟さを秘めながらも、柱としての教育活動計画はつねに構築し続けていくことが大切です。
 たとえば、湘南に新しい公立学校を創り出す会が運営している湘南憧小学校の教育活動を、どのようにアウトプットしていけばいいのかを、これから考察していきます。

5101.01.25/2005
 教師が自らの教育活動をまとめ、アウトプットする目的は何でしょうか。
 わたしは、教育活動の成果を確認し、新しい教育活動への指針を探ることだと考えます。だから、アウトプットのなかみは成功事例ばかりでは、同じ繰り返しを是認する結果になり、そんなことをまとめるのに多くの時間を費やすのは無駄に思えます。そこで、アウトプットには最低限でも、成功事例としての成果と反省事例としての課題の両方が必要になります。とくに重要なのは課題です。課題こそ、新しい教育活動の創造の源になるからです。
 教育活動は、どんななかみであれ、教師が意図的に子どもにはたらきかける要素をもっています。たとえ、子どもの発案を大事にするなかみだったとしても、子どもの発案を導くという側面では教師の意図がはたらきます。意図的なはたらきかけは目標と内容に整理することができます。この教育活動において、結果的に子どもたちのどんな姿を想定しているのかという理想像が明確でない限り、それは教育活動とは呼べません。
 ひとつひとつの教育活動は、長く時間のかかるものや短期間のもの、深まりのあるものや表面的なものなど、さまざまな形態をもちます。しかし、どの活動にも、そのことを通して、教師がビジョンをもっていることが必要です。

5100.01.24/2005
 教育活動をどのようにアウトプットしていくかは、とても難しいものです。子どもと教師の営みは、簡単に数値化されるものではないため、成果の多くが教師の主観に偏りがちだからです。
 外部評価の重要性が高まっていますが、評価者が子どもの学習活動を常時観察記録しない限り、成長の様子を完全にとらえることは難しいのです。成果として公表されたものが、ほかの教育機関で同じように扱っても、同様の結果が出されるという保証もありません。
 しかし、だからといって、教育の営みを内部関係者のみの閉ざされたものにしてしまうと、指導や運営の発展性が期待されず、自画自賛傾向を強めてしまいます。だからこそ、教師自らによるアウトプットと、それを検討する機関の確かなものの見方が重要になります。
 ここでは、少し、教師自らによるアウトプットの考え方や方法について考察していきたいと思います。それは、わたしたち自らがやがてチャータースクールとして、運営する学校の成果を出力していくときに必要なノウハウになると思うからです。