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阿部進氏講演会 2017年1月8日up
2017年1月7日(土) 湘南学園小学校にて
阿部進氏 講演「今、激動の昭和の教育から何を学ぶか?」
主催:教育考古学会(木幡寛世話人)
戦前と戦後の境目に子ども時代を過ごした。
戦後、最初の新制高校(神奈川県立工業高等学校)を経て、横浜国立大学学芸学部特殊教員養成課程を卒業した。
1950年。
着任したのは川崎市立住吉小学校。
1年生68人の担任だった。しかしいきなり子どもたちと出会ったとき、床が抜けて学級が解散になってしまった。
当時は仮免許しかなかたので、正式な免許を取るために、午前の授業が終わると午後は大学に3年間通った。
1951年11月。日光で開かれた日教組の第一回教育研究全国集会に川崎から自転車で参加した。
組合運動をしているだけで、周囲から監視された・注目された時代だったので、だれもが教研に行けたわけではなかった。軍人上がりの同僚と金曜の授業をさぼってこっそり自転車で日光へ向かった。ところが日光はとても遠かった。途中で汽車に乗り、何とか参加できた。月曜の朝に戻ってきてそのまま学校で授業をしたが、ばれてしまい3日間の謹慎をくらった。
1952年の第一回日本作文の会全国集会に参加した。
岐阜県中津川市の研究会では、中津川小学校の子どもたちの作文レベルの高さに驚いた。
そこに参加していた神奈川県の中学校や小学校の教員たちと、神奈川作文の会を発足した。
教育内容を国が一方的に決めていた時代に、現場の教員たちが自分たちの手で学習内容を研究したというのは、とんでもないことだった。
1952年から、特殊学級の担任になった。
当時、神奈川県には特殊学級はなかったので、初めてだった。
その間に川崎市特殊教育研究会を立ち上げた。これはその後の神奈川県特殊教育研究会へとつながった。
(現在は、特別支援教育と呼ぶ)
1960年に普通学級の担任の戻った。
長い特学の経験から、普通学級の子どもたちはこんなに賢く、こんなにたくさんの言葉を知っているのかと驚いた。
そして、ありのままの子どもの姿を知りたくて、放課後に学校を飛び出して町にいる子どもの生態を記録し続けた。
「先生が来た」と構えられないように、ありのままの状態で子どもたちが喋るようになるまでに2年間ぐらい努力した。そして、教室での声と、家庭での声と、町での声が異なることを知った。
それを「現代子ども気質(かたぎ)」として出版(1961年)。
翌年「現代っ子採点法」を出版した。
1964年に退職した。
1965年にちびっこのど自慢で審査員をしていた時に「カバゴン」という愛称をもらう。
カバゴンになって全国を回る。外国の授業も見た。
これによって、自分の子どもを見る目が広がった。
とくに、子どもたちがお金をどう使うか、お金についてどう考えているかを知ることができた。
休憩をはさんだ質問コーナーでは
かつて悪書追放運動(1955年ごろ)があった頃、マンガに推薦文を寄せて悪書と呼ばれたマンガを擁護したのはなぜか?に答えられた。
ハレンチ学園。
ここでは子どもが先生に言いたいことを言う。
先生もへんてこな服を着て教壇に立ち、子どもと本気でやりあう。
こういう当時としては、まったく当たり前ではなかったことに、多くの子どもたちが共感し、親にも先生にも見つからないようにこっそり回し読みをした。
そういう「当たり前ではないこと」を求める子どもたちの気運に惹かれた。
かなりの高齢になり、公式に人前で話をするのか最後の機会かもしれないとのことだった。
そんな貴重な瞬間に立ち会えたことを幸福に思う。
しかし、川崎時代に実施した、子どもの生態観察のなかで「貧困」はどう阿部さんの眼に映り、子どもたちは置かれた状況をどう乗り越えようとしていたのかについてうかがえなかったのが悔やまれる。