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教員志望のあなたへ

2013年1月1日

 1985年。わたしは神奈川県教育委員会の教員採用候補者名簿搭載試験に合格した。
 受験したのは1984年7月だった。
 8月に一次試験の結果が発表され、合格者は二次試験に臨んだ。8月後半の二次試験から10月頃まで行われた実技試験は、五次試験ぐらいまであったと記憶している。
 採用予定枠が少なかったので、受験者を絞り込んで、落とさなければいけなかったのだ。
 そんな時代が、わたしが受験した頃から10年以上も神奈川県では続いた。
 だから、わたしから10才年下の世代は、学校ではほとんど見かけない。同期がほとんどいない空白採用期間を生じた。
 それは、戦後のベビーブームに乗って大量就職時代に、神奈川県は教員を大量に正規採用したことに起因している。周辺の自治体では生来を見越してこどもの数が激減し、正規採用した教員が余ることを避けるために、大量の教員採用のうち半数を正規にして、半数を1年限りの非常勤扱いにした。
 当時は労働組合を中心に「こどもがたくさんいるのに正規が半分とは何事か」と反対運動が多かった。だから、神奈川のように労働組合の強かった地域は、ほとんど正規採用にしてしまった。
 そのツケを、20年ぐらい経ってから、次の世代が払うことになったのだ。
 団塊の世代のツケを、わたしたち東京オリンピックべービーたちはずっと払い続けている。消費税、介護保険料、年金問題、全部、前の世代の負債を抱え込んでいる。
 いま、その世代は50才になりかけている。
 1985年当時の試験名は、やたらと長い。「教員採用候補者名簿搭載試験」。
 この試験に合格した者は、次年度の教員採用候補者として作成する名簿に名前を搭載するという意味だ。必ず、教員として採用すると確約されたものではない。
 そして、その名簿の効力は次年度の4月1日から翌年の3月31日までしかない。その1年間に「声がかからなかった」場合は、無効になってしまう。教員をやり続けたかったら、ふたたび試験を受けなければいけなかった。
 ふざけたルールだ。
 わたしの知り合いには、実際に1年間待ったけど、教育委員会から声がかからず、教職の夢を捨てた者もいる。
「まったく、ひとの一生をなんだと思ってやがる」
 その知人は憤慨しながら日本国に見切りをつけ外国に渡り、現地で教育者としていま成功している。
 1985年採用の受験者は小学校で2100人。名簿搭載者は約70人。平均で30倍の倍率だ。わたしのように国大でもなく、勉強一筋でもな人間が受かったのは、ひとえに運が良かったからとしかいいようがない。
 名簿搭載された70人のうち、何人が採用になったのかは知らない。わたしも「どうせ4月1日付け採用はないだろう」と2月の後半から旅に出ていたぐらいだ。
 また採用されたひとたちのうち、あれから30年近く経って、いまもなお現役を続けているひとは何人いるのだろうか。


 1985年3月上旬、旅先から自宅に電話した。
 携帯電話のない時代は、公衆電話が頼みの綱だった。
「あんた、教育委員会から電話があって、すぐに来いって」
 電話口の母が怒鳴っていた。
「すぐにって、いつよ」
「あしただって」
「無理無理」
 そのときわたしは北海道にいたのだ。
「そうよねぇ、じゃ、教育委員会の電話番号を教えるから自分で返事をしなさい」
 公衆電話がどんどん課金されていく。わたしは母から教えられた番号をメモ帳に記載すると、さよならも言わないで電話を切った。
 わたしが教育委員会に電話をすると、じゃぁ一週間後に来てくださいとのことだった。
 別にすぐじゃなくてもいいんじゃん。
 喉から出かかった文句を引っ込めて、わたしはあわただしく鈍行電車を乗り継いで、北海道から大船まで戻った。
 藤沢の南、市民会館の向かいに神奈川県合同庁舎がある。そのなかに湘南三浦教育事務所が入っている。業界では湘三事務所と呼ばれている。神奈川県教育委員会の地域出先事務所だ。
 予定の日にちに面接に行った。
 面接官は、現役の校長だった。
「いまかいまかと採用通知が来るのを待っているひとがいるのに、どうして気ままに旅をしていたのですか」
 いきなり嫌みな質問だ。
「教員を志すきっかけになった恩師が北海道にいて、その挨拶に行っていました」
 まぁすらすらと言い訳が流れる。相手は、それ以上突っ込まなかった。
「赴任地に関しての希望はありますか」
「大学時代に山登りをしていたので、学校の近くに自然環境として山や川があるところを希望します」
 都市部や市街地を希望すると赴任しにくいとい情報があったので、もともと好きな僻地を希望したのだ。
 ところが一週間後に届いた通知には「葉山町教育委員会に行ってください」と書いてあった。
 逗子まではこどもの頃に海水浴で行ったことがあった。しかし、その先の葉山には生涯で一回も行ったことがなかった。赴任地の希望と関係ないじゃんと思いながら、指定された日に町役場のドアをくぐった。
「えーと、希望は山のあるところだったんだね」
 担当者が書類を見ている。わたしは、はぁと生返事。
「まぁ、ここの地名に山がついているから、それで納得してください」
 漫才をしているのかと錯覚した。


 1985年4月1日。
 わたしは神奈川県三浦郡葉山町役場内の教育委員会へ向かった。
 この日のために母が用意してくれた帝人の一張羅を着ていった。上下オーダーメイドのシルバーシルクスーツだ。いまではどう考えても腕も腿も通らないほど、スリムな体型に合わせたスーツだった。
 いわゆるリクルートスーツではない。
 もっとも当時、リクルートが起業していたかは覚えていない。
「ずい分派手なスーツですね」
 その後、わたしの初任者研修の担当になる指導主事の第一声だった。
「築地生まれの母が、人生の晴れ舞台だからと用意してくれました」
 堂々と応じた。
「ネクタイは、それに対して地味だ」
 プロ野球が大好きだった母の父、つまり祖父がわたしに遺してくれたネクタイだ。戦前の人間にしてはおしゃれだった祖父のネクタイは幅が狭い。色も渋い色が多かった。
「高校時代に野球の試合をすると、わざわざ東京から観戦に来てくれた祖父の形見なんです」
 質問には誠意を持って応じた。
「あなたはユニークですばらしい家族に育てられたのですね」
 なんだかこのひととはうまくやっていけそうと、初日から感じたことを覚えている。

 いまは毎年多くの新採用者がいるので、辞令交付の日に、指導主事とゆっくり話をすることなどないかもしれない。もっと機械的に教育長が辞令を渡して終わりなのだろう。

 当時の葉山町では、まず新採用そのものが数年ぶりだったそうだ。
 だから、町内では新採用の情報が乱れ飛び、だれもが大学を卒業したぴちぴちの女性を連想していたと、後日耳打ちされた。
 よからぬことを想像していた、先輩たちは、さぞかしわたしの顔を見てがっくりしたことだろう。

 でも、そんなの関係ねぇ。こっちはやるしかない。
 たったひとりの新採用のために町役場では辞令交付式を行った。町長、教育長、指導主事がわたしの対面に座り、わたしは名前を呼ばれて教育長から辞令を受け取った。雑談も私語もなく、あっという間に終わり、指導主事に着任校へ連れて行かれた。
 その前に、役場近くの寿司屋で指導主事が特上の握り寿司をおごってくれたことを忘れはしない。


 葉山町教育委員会には、それまで指導主事はいなかった。
 かつてはいたのかもしれないが、新採用がいない期間が長かったので、教員を育てる役割が多い指導主事は不要だったのだ。
 指導主事は、一定期間教員を勤めた者や管理職経験者が教職を離れ、市町村の自治体に転職するかたちで着任する。だから、制度上、市町村職員という立場になる。
 数年ぶりに新採用が入ったので、急遽、特設されたのだ。だから、その指導主事も指導主事としては新米のはずだった。
 学校施設を管理する施設部門や給食や保健部門、人事や処分を担当する学務部門は、みんな町役場の職員が担当していた。だから、よく各学校を訪問し、教職員の声を吸い上げてくれた。
「自分たちは教育に関しては素人ですから、学校で働くひとたちの声がもっとも大事なんです」
 わたしのような若造にさえ、そうやって接してくださった。

 あるとき砂場を改修することになった。体育教材や施設の管理を担当していたわたしが設計プランを提出した。
 それまでの長方形の砂場は、縁の部分、とくに角の部分でこどもが怪我をすることがお多かった。だから、わたしは楕円形で、縁そのものもカマボコみたいに半円にするようなプランを提出した。
「これって、かなり高額になりますけど、予算担当と何とか調整してみましょう」
 教育委員会の施設担当者の尽力で、安全性の高い砂場が実現した。

 わたしの初任地は、葉山町立長柄(ながえ)小学校だった。
 逗子から山廻りのコースでバスに乗ると、桜山トンネルを抜ける。最初の交差点が長柄交差点だ。そこで降りて、逗葉新道方面に左折する。50メートルほど歩くと、右手に100段以上の階段が見えてくる。
 小高い丘の頂上をすっぽり切り取って学校だけを建設したので、階段の先には学校しかない。
 毎朝、山登りに匹敵する階段上りが日課になった。運転免許そのものを持っていなかったので、モノレールと電車とバスと徒歩で、ひとり暮らしをしていた鎌倉市手広のアパートと学校を往復する日々が始まった。


 1985年当時はもう学校は宿直制度がなくなっていた。
 しかし、それ以前の名残で宿直室は残っていた。
 長柄小学校では、その部屋が用務員さんの仕事部屋兼休憩室になっていた。
 わたしは、だれよりも早く出勤すると一目散に用務員さんの休憩室に向かった。だれよりも早いといっても用務員の嘉山さんよりは遅かった。嘉山さんはわたしがドアを開くと、こたつで新聞を読みながら、優雅に日本茶をすすっていた。

 とくに休憩室で何かの仕事があったわけではない。
 嘉山さんと朝の挨拶を交わして、ポットのお茶を使って自分でも日本茶を飲む。タバコを一服して、気合を入れる。
 ときには嘉山さんから仕事の苦労を聞かれる。
「いやぁ、まだどんなことがわからないのかとか、どんな問題に直面しているのかさえ、見えない状態なんです」
 そう答えるしかなかった。

 わたしは新任で4年2組を担任した。
 3年2組からの持ち上がりクラスだ。
 こども集団は同じで、担任だけ交代した。
 前任者の立石教諭は、わたしよりも5歳ぐらい年上の男性だった。
「手塩にかけて育てたクラスなんだよ。とってもいいこどもたちばかりで、てっきり4年でも担任できると思っていたのに」
 4月当初は、よく愚痴を言われた。
 しかし、立石教諭の言葉通り、40人近いこども集団は、元気一杯で友だち関係もよく、新米教師を逆に助けてくれる力があった。おそらく校長は、学校のなかでもっともクラス作りがうまい立石さんに目をつけて説得したのだろう。
 後に逗子市の教育長を務めることになる当時の小林校長は、物言いは穏やかでも、信念がはっきりとしていて、よくこどものなかに入っていくひとだった。
 長柄小学校があった葉山町は、教職員組合では三浦半島地区教職員組合が管轄していた。県内の7つの教職員組合で、もっとも先鋭的で行動も過激だった組合だ。地元では「サンキョウソ」と呼ばれていた。
 文部省や教育委員会の通達や指導を教職員に伝える義務を負う校長は、教職員と対立することもある。しかし、わたしは小林校長が在職中に教職員といがみ合ったり、激しい言葉の応酬をしたりする姿を見たことがなかった。
 毎年、正月三日に自宅を開放し、年賀の挨拶にうかがうと酒と料理で歓待してくださった。小林校長の教え子や、現在の学校職員、かつての同僚など、畳の広間に大勢が居座っていたことを思い出す。

 校長になるひととは、こういうでかいひとなんだと感心した。


 長柄小に勤務して3年目。
 わたしは1年生の担任になった。
 初年度は4年生。年度末に小林校長に呼ばれた。
「この学年希望には5年生担任と書いてあるね」
 年度末になると、翌年度の担任学年が希望できた。もちろん希望はほかのひととも重なるので、最終的には校長が判断することになる。新米のわたしなど、希望記入欄があったから、一応書いてみたようなものだ。
「はい、ことし担任したこどもたちを来年度も担任したいと思いました」
 小林校長は、腕を組んで、考えていた。そして、わたしを見て告げた。
「もう一回、4年生を担任しなさい。長い教員経験を考えれば、いずれ6学年のすべてを担任するだろうが、同じ学年を続けて担任することはめったにない。若いうちに連続して同じ学年を担任すれば、どの教科も前年度の反省をふまえて指導することができます。いかがですか」
 いかがですかと言われても、はいとしか言いようがない。
 わたしは即諾した。

 おそらく、小林校長は教員という仕事のプロになれと言いたかったのだろう。
 こどもとの関係で仕事を決めるのではなく、学習指導という仕事のなかみで精通する職業人になれと伝えたかったのだろう。

 その後の数十年の教員経験で、多くの同僚教員や先輩教員が、その学年のこどもの質を担任希望の判断材料にしていることを知る。
 学年相応の教科指導のなかみで判断するのではなく、荒れていないか、素直か、明るいか、暗いか、保護者はうるさくないか、お金の支払いは遅延しないかなど、ひとに関する情報を重要視していた。
 自分の仕事のしやすさを尺度にしていたのだ。
 そして、きっとそういうやり方はいまも全国の小学校で横行していると思う。その結果、校内暴力や授業崩壊で荒れ狂う学年を、強制的に任された教員が精神的に傷つき入院し、臨時任用の教員がピンチヒッターになることを繰り返している。

 わたしは初年度と2年目、同じ4年生を担任した。その経験は、とても重要だった。同じ指導内容でも、さすがに2年続けてやるとコツがつかめて、ポイントを絞ったメリハリのある指導ができた。10時間かけた授業を7時間ぐらいで理解へつなげることが可能になった。こどもの質ではなく、指導技術力の向上で、こどもの力が上がっていくことを実感したのだ。


 そして、3年目。
 2年目が終わるときに、わたしは担任学年希望欄に「希望なし」と書いた。
 教職についた以上、どの学年がいいとか、この学年はいやだとか、そういうせこい気持ちは捨てようと決心したのだ。
 ふたたび小林校長に呼ばれた。
「この希望なしとは、どの学年でもいいということですね」
 わたしは、躊躇なく、はいと返事をした。
「わかりました、それでは来年度は1年生をお願いします」
 えーっ、さすがに新入生は考えていなかった。まさか教員3年目に新入生を担任させることはないだろうと高をくくっていたのだ。
「あのー、わたしに1年生を担任しろということですか」
「もちろんです」
 校長は、なにをいまさら初歩的な質問をするのかという顔でわたしを見た。
「わかりました」
 やるしかない。

 結果的にわたしは新入生を2年生まで担任した。
 それぐらい最初の低学年の経験は、わたしにとってかけがえのないものになった。校長のねらいがどこにあったかは不明だが、その2年間でわたしは自分の技術を磨くために給料の多くを使って全国各地の研修会へ出かけたのだ。
 6歳や7歳のこどもに、座席に座ったままの学習は退屈だ。
 15分ぐらいおきに、からだを動かしたり、立ったり、声をあげたりする活動で気持ちを切り替えないと、授業が飽きられてしまう。
「あんた、チビちゃんたち相手に手遊びの一つでも知ってんの」
 同じ学校に勤務していた先輩教師に誘われて、全日本レクリェーションリーダー会議が主催しているレク学校に通った。
 通称、全レクの研修会は、純粋な教員向け技術向上研修会ではなかった。教員以外にも保育士や看護師、学童指導員などこどもにかかわるひとが多かった。またまったくこどもと関係のない仕事のひとも少なかったが参加していた。
 それは、働く者のレクリェーションという全レクの旗印があったからだ。そこで何らかの学ぶものがあってもよし、そこでこころとからだを解放させて生き返るもよし。全レクのレク学校は、居心地のよい空間を与えてくれたのだ。
 参加費はとても高かったが。


 教員になると、きょうの授業をどう改善すればもっとこどもにわかる授業になったかという反省の時間が必要になる。
 幸い、わたしが採用されたバブル崩壊前の教員採用超氷河期では、新採用者がほとんどいなかったので、現在のような1年目100日研修みたいな異常な新採用研修はなかった。だから、放課後の時間をほとんど教室に残って、こどもたちのいない教室を見渡しながら、その日の授業を思い出し、反省点をノートに書き込むことができた。少しでも改善点が見つかれば、画用紙やセロテープ、マジックや模造紙を引っ張り出してきて、翌日の教材を作成した。
 そういう手作り教材は、教材業者から買った物ではないので、授業で使うときに戸惑うことがない。ひとが作った教材は「使い方」を間違えると、こちらの願いとは違う方向へ授業が流れるので始末に負えない。

 しかし、教員経験の少ない未熟な頭で考えるのには限界がある。
 だから、わたしは放課後の時間を使って、教員どうしの学習会や民間教育団体が主催する研修会にどんどん参加した。
 当時はまだ土曜日も午前中だけ授業があった。こどもたちを帰した後に、葉山界隈のおしゃれなレストランでランチをとり、再び学校に戻る。午後はたっぷりの時間を使って教材を作ることができた。もちろん勤務時間は昼で終わっているので、午後は無給だ。しかし、修行中の若造はそうでもしないと保護者の不安を解消できないと焦っていた。また、土曜の午後には教員たちが自宅を開放して、独自の学習会を開催していた。教科別だったり、生活指導対象だったり、内容はさまざまだった。
 教育委員会主催の研修や教育委員会が認めた任意団体(ほぼ公的な性格を帯びた研究会)の研究会にしか参加したことのない現在の若い教員たちには信じられないことだろう。

 そうなのだ。
 当時は、勤務のない時間帯に、教員自らが意欲をもって研修に参加したり、研究会を主催したりしていたのだ。だから、なかみは充実していて、その後の実践に役立つものが多かった。なにせ、つまらない退屈ななかみでは、私費を費やして参加しようという教員は激減するからだ。
 その後、教育委員会が主催する強制的に参加しなければならない研修会が激増。丸1日寝ている参加者を前に、内容の乏しい研修会が増えたことは、確実に教員の質を低下させた。
 なぜ、あの頃の教員は私費を費やしても自分で探してきた研修や研究会に参加したのか。


 それは、研修や研究会であれば、主催者が教育委員会であれ、民間であれ、出張として認められていたからだ。だから、高い参加費は私費で払っても、往復の交通費が出張扱いで保証された。これは、助かった。県外で開催される研究会は多い。そこに宿泊つきで参加することが可能だったのだ。

 しかし、自民党や公明党の圧力で文部省は、教育委員会が主催する研修会や研究会のみを公費負担とし、それ以外はすべて研修や研究会とはみなさないという通達を全国の教育委員会に出した。
 バブル崩壊前後だったと記憶している。
 これにより、多くの民間教育団体は参加者を失う。もともと営利を目的とした団体などほとんどなかったので、あっという間に研修の機会はなくなってしまった。
 当時の教育委員会は、文部省の意思を学校現場に伝達する中間機関にすぎなかった。

 それでもわたしは教員になってからの10年間ぐらいをどっぷりと民間教育団体主催の研修会や研究会で過ごすことができた。そのなかで出会った全国の輝く教員たちの実践に触れ、いつか自分もあのようなひとたちに一歩でも近づきたいと思いを熱くした。

 いま教員になりたての若者のなかには、とても自尊心が高いひとが多い。
 教員としての技術は未熟なのに、こどもを上から目線で抑圧する態度が鼻につく。
 技術が未熟な者ほど、往々にして、自分の立場を振りかざして周囲を従えさせようとするのはよのつねかもしれない。しかし、学校ではそれではいけない。こどもたちがそんな教員を見ながら、いつかおとなになったときの手本にするかもしれないからだ。
 いくつになっても、教員を何年も経験しても、こどもから学ぶ姿勢を忘れないことが必要だ。残念ながら、保護者のなかには「あなたはまだこどものままだ」と言いたくなるひとが増えてきた。親であるという自覚よりも、自分の人生を全うしたいという欲求が優先される種族だ。そういう種族はこどもを産まないでほしい。産まれたこどもには親を選ぶ権利がないのだ。もう一つ、自己責任という概念をはき違えて理解し、こどもの失敗やつまづきを支えない種族だ。「全部、こどもに任せていますから」が常套句。こどもに代わって、過失を補う気持ちは爪の先ほどもない。

 これから教員を志望するあなた、こういうおとなたちと渡り合っていく覚悟をお持ちください。
(教員志望のあなたへ・第一部終了)


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