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橋爪大三郎氏
特別ゼミナール

湘南小学校教育理論研究会 2001年6月9日 湘南台文化センター

結果責任をめぐる議論


話題提供者 橋爪大三郎氏(東京工業大学:当時)
1948年生まれ 東京大学大学院社会学研究科 博士課程終了
「選択・責任・連帯の教育改革【完全版】」、「ヴォーゲル、日本とアジアを語る」、「幸福のつくりかた」など、著書多数。



【橋爪氏による話題提供】
アカウンタビリティは、結果責任と訳しているようだが、説明責任かな、と思う。
説明責任には、事前に説明することと事後に説明することがあり、事後が結果説明の責任。事後に説明し、納得してもらう。


説明について考えると、関係性のなかでは、説明というのは、したいときにして、したくないときにはしない。質問されても、答えなくてもいい。正確でなくてもいい。というのが一般的なとらえだ。


特別な場合にだけ、質問に対して必ず答えることと、正確さが求められる。
証拠を挙げて真実を述べる立証責任(例として、被告や疑惑の場合)は、権限の強い者たちをコントロールし、立場の弱い人たちを守るために必要なものだ。
チャータースクールに、説明責任が求められるのは、学校の権限をコントロールするため。
学校は便宜を図ってもらったり、資源を配置してもらって授業を行う。これは権力にほかならない。子どもはそこで影響を受ける。学校に対して弱い親は、子どもが満足のいく教育を受けられているか、を判断する。同時に、納税者に対して、学校がとんでもないことをしていないことを示す。市民に説明する。校長が保護者に説明するのと違う。


親は学校に、教育のパフォーマンスを期待している。わかりやすいのは、他の学校と比較したもの。既存の公立学校よりも劣っていない、やれなかったことをやっている、やっていたことをやっていたとしても特色がある、こういう学校があってもいいよね、と思わせる必要がある。既存の学校は、文部省や行政の官僚機構の一部であり、校長は決められたことを遵守する立場にあり、教育の内容について、親に対して説明する責任はない。


親が学校を選択する場合、事前にも事後にも説明が必要。相対的なパフォーマンス。データがほしい。他の学校と比較できない特色もいいが、比較可能なデータも出す必要がある。就職に差しつかえるような基礎教育に手を抜いていないか、など。納税者の理解を得るため。
事前に説明する場合、教育目標を説明する。ひとり一人に対してどんな教育を与えるか。達成度を評価する。親に説明する。親は、ひき続き学校を信任するか決める。
教育、学校の理念は、校長と教員のチームが共有しているテーマ。個人個人の教育者としての理念でなく、議論可能な理念。具体的なプランの提示。卒業までにこれができるようになる、など。それらは、親が判断できるくらい具体的である必要がある。さらに、学校から外へ持ち出せるくらい客観的で、他の学校と比較できるものがいい。ある程度共通のフォーマットがあったらとも思う。

理論会がまとめた評価の基準(やりたいことをやり続ける理由を説明できる子どもが卒業生の80%以上する)は、客観的かどうか疑わしい。具体性に乏しい。他の学校と比較しにくい。説明の練習をしてしまうかもしれない。子どものパフォーマンスを基準に掲げないと。
共通の基準をもっと開発していく必要がある。今は絶対評価とか相対評価とか、ちまちましたものはあるが、尺度がない。親にも学校にもわかりやすいもの。

さらに経理についての尺度も必要だろう。資金がどうもちいられたか。財務表のようなもの。見積もりの甘さ。人事など。
どのように教育が行われるか、というカリキュラム。どのような教育効果を収めたのか。


最低限の部分では、外部テストを用いたほうがいいのではないか。中学進学などのニーズもある。


学校の説明責任をどのように問うか。
教育の結果は社会の中であらわれるか、そのために学校がどんな役割をもっているか、ということ。家庭ではできないことを学校が用意できる。学校の卒業生が社会で活躍することによって往復運動が起き、社会からの要請も寄せられる。卒業時は潜在的。何十年も後、社会の中で作用をもっていく。親になって子どもを教育するときにも間接的に表れてくる。影響を残すがこれを測定することは、難しい。すぐ目に見えないが、一体どうやって評価するのか、子どもが表現する力が十分にないから、大人になってから表現するかもしれない。その当時つかみ取る方法がない。そこで、とりあえずの指標として、親の満足をと考えている。とくに小学校低学年。親も偏見にとらわれるが、信頼しなければいけない。


学校がそれを測定するわけにはいかない。誰か、広い範囲でいろいろな学校に子どもを通わせている親に共通の項目で質問する。客観的な評価。統一アンケート。自主性はついたか、文字の能力はどうか。学校に行く意欲は?いじめはどうか。など。そういう質問があったとしても、湘南小学校は評価されるようにしておかなければいけない。


同じ質問をすると同時に、ユニークな教育が行われるのは矛盾するのか。自由度を学校はもっていなければならない。公立学校でも行われることをやったうえで、さらに特色を持っている、というような高い目標をもってもいい。基礎学力についても親には、半分くらいは説明した方がいい。社会の一般的な期待を反映しており、それが社会の現実。それと向き合っていってほしい。


社会がひとり一人の子どもに期待することから目を背けてはいけない。その要素を十分織り込まなければ、湘南小学校の開校は、難しいのではないか。
基礎学力をどう考えるか。この会の動機はよくわかるが、親として考えると教師からの指示、知識伝達はあってもいい、と思う。なぜ計算などを用意するのか、社会からの要請があり、教員はそれを受けている。これは、社会の一員として生きていく人権を保障していくことである。
アメリカで問題となっているのは、貧しい地域の教育費不足による低学力のままの卒業。いい就職先にありつけなくて、町がスラム化し、それらが再生産される。
読み書きができて、社会習慣が身について、ということが学校で教えられないと人権問題になる。本人の基礎学力を伸ばしてやらないと、社会で生きる力をもたせられなくなる。日本でも、近年の高校の状況を見ると、そういう問題が出てきていると思う。


子どもがその時好むと好まないとに関わらず、家庭でしかる、しつける、と同様に、学校は子どもが好むことばかりを用意すべきではない。であるからこそ、わかりやすく無理のない形で自発性を待つ、進度別の授業などを用意する必要がある。学校も社会の基礎の上に成り立っている。社会の現実性の上に立つことが必要。
社会の要請を避けて、天国になっては困る。学校の中でも形を変えて通用している必要がある。社会的不適応になる心配がある。社会の中で要求されるモラルや規範が家庭でも要求されないと困るように。最小限であるがきちんと伝わらなくてはならない、と考える。

………………
これより、話題提供を受けての協議開始
………………
(質問)
アカウンタビリティの問題で、アメリカの閉校になった学校について、経理の問題が大きかったと思うが、日本では閉校についてどう考えるか。

(橋爪)
存続を認められなかった学校ということか。
アメリカでは10%に至っていない。こういうものは、失敗する可能性は必ずある。一般の学校と競合しているので、それ以上の資源も受けられていない。良い先生を集めるといっても、高い給料は払えない。チャータースクールは、閉校が契約の中で避けられない。納得が得られなかったら閉校するしかない。

(質問)
教員や校長の入れ替えを先にやるべきでは、というくだりが橋爪氏の著書にあったと思うが、閉校の前にそういうものが必要ということか。

(橋爪)
学校(チャータースクール)はどこまで中身を交代したら、どこまで以前の学校であるか、という問題がある。

(質問)
経営責任者として新規に人を招く(校長)という方法もあるようだが。監督の交代として。

(橋爪)
教会のシステムと似ている。カトリック系の教会は、人的スタッフの入れ替えがある。プロテスタント系は人事権が下の方にある。世話役のような人がいて、コミュニティを作っている。今度はこの牧師にしていこう、同じ人の説教をきいてもしょうがない、ということで、神様は一人。牧師は選んで変えていこう、と。教会のとなりの学校などだと、スタッフを取り替えていくことはある。その場合には、コミュニティの実態がある。

日本だと先に教育スタッフができて、そこに保護者のサポーターが集められ、チームができる。先に保護者のチームがあってスタッフを呼んでいく形があるのか。とても難しいと思う。この指にとまったのにスタッフが力不足だから違う人に、ということにはなりにくいと思う。

(質問)
いざ開校し、いろいろなスタッフが入ってきたときに、創業者のものではなくなっていると思う。流動化できる組織の方が長くできるのではないか。早く誰かの恣意的なものではなく、企業のように交代できるようにしていった方がいいのではないか。

(橋爪)
チャーター(権限を与える)を基本としている。イギリスの法律の枠から発想していると思うが、国王が全ての権限をもともと独占していて、権利の委譲、分割が行われる。東インド会社が作られ、権利がうつされ、商売ができた。権限をもっている人がいないと、チャーターを発行する人がいなくなってしまう。州立大学が認可できたり、教育委員会だったり、州知事だったり、みんな初等教育を行いたいという者に、やらせる実態を持っている団体だと思う。
その辺がアメリカでも混乱していると思う。契約が達成されないと取り消されるのであるから、ずっとコントロールやチェックはかかっている。税金を投入している公立学校で、期限付きで目的が達成されなかったら、取り消される。
自治体は取り消されたりしない。学校の選択の自由があるので、閉校してしまったら親は別の学校、もっと良い学校に子どもを移した方がいい。閉校は悪いことではない。5〜8%がクローズするのは、企業と同様に考えたらそうおかしい数字ではない。

(質問)
閉校について、コミュニティスクール構想で、スピリットはチャータースクールだが、コミュニティは存続させたい、と金子氏は言っていた。コミュニティスクール構想とチャータースクールに違いがあると思っているが、橋爪氏も、閉校があった方がいい、とお考えなのですよね。

(橋爪)
わたしは、一般の公立学校とチャータースクールが並立するのでなく、学校がみんなチャータースクールでもいいと思っている。あまり一般とチャータースクールを分けて考える必要はない。
学区制は、視察した学校は完全学区制だったが、田舎の方はエリアは大きいが、地方税住民税と州の税金も入れて、高校を一つ、中学校を 校、小学校を十校ぐらいもっている。転入は認めない。学校を選ぶと人種とか階層で学校が分かれてしまう問題がある。完全学区制にすると、博物館に行くとタウンごとに、学校の比較資料がある。教員の平均年齢など。子どもの教育のために居住地を決める、ということになる。いろんな親が集まる人気のある地区は地価が上がり、低所得者がはじき出される。自治体としては、自己防衛の手段となる。これはアメリカの理念と反する部分がある。完全学区制を維持すると、地元と学校の結束は強くなるが、地域格差が広がる可能性がある。日本では好ましくないのではないか。スラムがあまり存在しないといういい面がある。
コミュニティは地理的でない、いくつかの学校を一つの地域でも選べて、通える方がいいと思う。

(質問)
今の公立学校が説明責任を負っていないのは当然だ、ということだったが、不登校が増え、校内暴力や校内の殺傷事件が続いたときに、教育行政が説明責任を果たしているのか。問題の減少プランをもっているのか。
特定の権限を持っているチャータースクールだけが、厳しく説明責任を求められるのか。

(橋爪)
チャータースクールは現場の教育スタッフが説明責任をもつ。周囲の学校も、チャーター化しなくても、親から「こっちでももうちょっとできるのではないか」と言われ、刺激を受けて変化していくことを期待している。教育のパフォーマンスをあげるというのは、報告書類の上だけであり、問題の件数を減らし存在しないことにすれば対策のとりようが無く、もみけしに走る。現在のシステムなら、そういうふうになってしまうと思う。もし、親に対して説明責任があり、親に選択権があれば、校長のところにどなりこみ、校長の責任問題になれば、校長も努力する可能性がある。

(質問)
学力について説明する責任についてだが、今までの学力についての説明は、演繹的の説明で、こうすればああなるだろう、という説明。チャータースクールは、結果を基にした帰納法的な説明。学校のベンチマークが必要になるだろう。学校をベンチマーキングするのは、誰もやっていないし、行政は抵抗があるだろうが、自分たちで作っていかなければいけない、という話だったが、社会的信憑性がなければ、自分たちに都合のいいものになり、相対的なものになっていかない。どうすれば、効果的に、うまく社会に対して説明ができるようなものになるのか。お考えをお持ちであればうかがいたい。

(橋爪)
親の満足、親の納得がとりあえずの目標になる。学齢前や後、よその学校に子どもを通わせている親も含めて。でも素人だし、通わせている学校のこと以外はよくわからない。もうちょっと具体的に効果のある方法で納得したい。よりよい教育を受けさせたいから。だから、第三者機関が共通基準を作って、信頼できる教育学者や誰でもいいが、プロフェッショナルな組織を作って、要所要所をよく見て、説明を書いて、裏付けをしたり、共通学力テストを受けさせたり。
受験成績は、外部基準ではあるが、適切な基準ではないと考えられる。チャータースクールがいくつもあれば自然と必要とされるもの。今はパフォーマンスが悪いのがわかってしまっては、困るので、そういった基準はあって欲しくないのではないか。そういうものが無いと困る人たちが現れれば、やがてできてくる。

(質問)
親は確かに納税者だが、教員の経験でこういう親と付き合いたくない、という親がいる。自分の子どもを良い進学先へ入れたい、というのが頭にばっちり入っていて、そういう育てられ方をした子どもは、また繰り返す。どう考えても再生産してしまう人は、もう来なくても良いから、と思うのだけれども。

(橋爪)
良い進学先というのは、一概に否定できない。日本の高等学校は学力証明がない。卒業したからこのくらいできる、というのがない。どうなるかというと、どこの高校を出たかで判断するしかなくなってしまう。卒業試験がない以上、学校差でしかみられなくなり、動機にせざるを得なくなる。次に起こることは、受験とか学校差がなくなっていく。学校の中で受験教育ができなければ、学校外で受験学力を付けていく。二月くらいに「今年の卒業生は学力を身につけている。みんな無事高校に進学していく」と安心している中学校がある。塾では進路指導もやり、学力もこっちでつけているのに、と怒っている。不登校も一、二人だ、と高校は安心している。
もしも、卒業時に学力証明をし、大学で出口管理にすれば、入学試験に過剰にエネルギーを傾けるのではなくなっていくと思う。

(質問)
卒業証書を無くして、単位認定だけにしていけばいいのに、そこの改革には手をつけない。お金がかかるわけでないのに。

(橋爪)
代替案を出す場合、十分実行性があるか検討しなければならない。わたしは、プランを作っている。中学、高校でできることは限られており、大学で変えていかなければならない。

(質問)
社会全体が教育過剰になっていると思う。アンチテーゼとして、教えない、という方法もあると思うのだが。

(橋爪)
そこまで投げてしまうとちょっと。
親は子育ては初めてであり、でも真剣だから、そこを十分つかんでいかないと。

(十分休憩)

(質問)
刑事事件ならば、というような例でお話ししていただいたが、説明責任の中に、どうしても学力の保証、社会の期待がある、という話もあった。学校の評価と人格の評価が一緒になっていたりすることもあるが、学校がどこまで社会の期待を受け入れて公教育をやるか、というところは、各学校が判断できることではないと思うのだが。

(橋爪)
何年生で何、というより、十八歳までにどこまでできているか、ということだと思う。それまではプロセス。それまでに社会の期待するものを身につけさせようというのが高校の方であれば、中学ではここまでやってきて欲しい、というものがあるし、中学は小学校にここまで、という提示をしてくると思う。学年別の進度は、目安がないと学校間のつながりが混乱してしまうので、多少あってもいいと思う。その他として、社会的な部分や芸術的な部分は学校の特徴が出てきてもいいと思う。

(質問)
小学校はプロセスであっても、中学、高校までを視野に入れて会が考える学校では、ステージを学校独自に想定してもいいのか。できるのか。

(橋爪)
親の理解があればできる。
画一的な学校はうちの子に合わないと思う親ほどチャータースクールに期待している。普通の公立学校で不適応、不登校の子どもたちを教育する学校は存在理由も明確。芸術面にしても、普通の学校では十分に教えてもらえないと考える家庭は、期待するだろう。学力全般を伸ばして欲しい、普通の子どものために、というニーズもあるだろう。チャータースクールはターゲットをはっきり絞った方がいい。
しかし、逆に危険な面がある。潜在的なお客さんを狭めてしまい、学区を拡大していかないと児童が集まらないことになってしまう。注意散漫児の学校など作れば片道一時間半でも親は通わせる可能性がある。でも、本当は通学時間は三十分くらいがいいだろう。
卒業後普通中学に通わせるなら、またいずれ大学など通常の教育システムとの接合性を考え、折り合いの問題がないように、しておく必要がある。まったくカスタムメイドの、自己評価・自己申告制の教育にする場合、学年進行での学習にはならない。そうしたら、手間が掛かるから、教師のニーズが増え、コストの問題が出てくるだろう。

(質問)
どれくらい投資して、投資に見合う評価がどのくらいあるのか、と評価・見直す場合、不登校などの学校を作ると、他の学校と同じような評価・見直し方は難しいと思う。能力に見合った効果を上げようとするならば、日本全体を見渡した不登校児童を減少させるコストと比べたら、そういうチャータースクールのコストが一般の学校より高くても見合うのではないか。

(橋爪)
公立ではない、月謝の掛かるフリースクールに通わせている家庭にとっては、多少コストが高くてもそういう公立学校に通わせた方がいいと考えられる。費用対効果で考えるならば、地方自治体、議会が納得し、有権者に説明できるプランであるならば、文部省もそのくらいの幅では認めてくれるだろうし、養護学校の一種と考えればカリキュラムの自由も広がるし、まあ養護学校と普通学校の二つしかないのは問題だから、作ってもいいと思うが。
誰に説明する責任があるか、というのが今のこの会でははっきり見えにくい。説明する相手は親たちではなく、藤沢市民全体であり、神奈川県民全体。
ここが最初の学校になるのか?だとすると、見学がいっぱいで教育ができないかもしれない。ここが基準になる。最初が肝心で、変な説明の方法にしてはいけないと思う。

(質問)
親の満足度と評価基準を折衷して、親が通わせたいと思う数が何割以上か、というのではだめか。リピーターが多い方の評価が高いと思うのだが。

(橋爪)
それなら、八割以上ではだめで、99%とか、在籍児に関して言えば。入学志願者ではまだ入学していないから、学校評価と言いにくい。他の学校と比べて、どうか、ということだから、既存の学校並ではなくて、ずっといい、ということでないと。

(質問)
学校設立者が説明責任を負う、ということだが、そこに行かせたいと親が思ったとき、責任のシェアが行われると思う。認可したものも責任を持つと思う。学校を開設するとはいえ、子どもが学力をつけて卒業していくということは、期待値をこめてお互い納得するわけで、必ずうまくいくわけではない。そういう責任のバランスは重要ではないかと考える。

(橋爪)
いろんな方に責任があってもキャンセルされるものではない。
学校を選んだ親の責任は子どもに対して生じている。教育を受けるのは子どもだから、被害を被るのも子ども。選んだ結果、自分の子どもが教育を受ける。その責任は残る。
プランを見てゴーサインを出した認可機関の責任は、納税者に対して負うもの。それぞれの責任は向きが違う。みんな責任があっても、突っつき順というか、それぞれが追究してコントロールしていく。
学校は閉校になり、親にわびて転校してもらう。選んだ親は悔いるが、仕方がない。
認可機関は認可した自分の落ち度にもなるが、悪い学校を残していては、納税者に申し訳ないので閉校させる。
ただ、チャータースクールは、親と学校の共同戦線という面があり、親が学校の良さをアピールしていくこともできる。逆に学校の問題を外に知らせて認可機関が問題を認めていなくても資金を拒否することがあるかもしれない。

(質問)
基礎学力については、ずっと問題になっていて、以前公募型研究開発制度の応募を検討したときには、一日何時間かの基礎の時間割を設定することを考えたこともあったが、それは妥協であり、あまりみんなの意見の一致したものではなかった。現実的に学校で勤めていて、いくら時間をかけても習熟度別のグループを組んでも、短期間でその学年の内容が理解しにくい子もいるし、もっと発展的なことをやりたい、という子どもも、どうしてもいるという実感をもっている。外部テストも、そこで実力が発揮しやすい子と発揮しにくい子が出てしまうという心配がどうしてもある。

(橋爪)
学校のパフォーマンスとしてのテストと、学習成果の評価として答案を返すテストとは違うものだと考える。スタート時100人のうち、何人かが難しく、何人かはある程度できた、とする。その後またやった時に変化を見て、他の学校と比較もすると、差異が見られる。それは、校長がやるのではなく、外部から入ってくる方がいい。

(質問)
湘南小学校は、その方法だったら、他の学校を上回ると思う。しかし、学校の存続がかかっているということを子どもが理解した場合、予習をしてしまうかもしれない。予告の方法は?

(橋爪)
予告の方法は、他の周辺の学校と同様にする。児童の記名は、信頼性として、確かに一人一枚書いたことの証明として、必要かもしれない。そんなとき、過去に、成績の悪い子を休ませてしまう学校があった。

(質問)
担任しているクラスで、無記名による教員評価のアンケートをやった。子どもでは、成績が上がりにくい子は、教え方にクレームを付けた。親は子どもの教員評価に即して答える人もいた。悪い評価をあげる親もいた。懇談会で出席してコメントを寄せる人もあった。期待とまるっきり違う教員には悪い評価を下すであろうが、湘南小学校での学校満足度は高いだろうと考えられる。

(橋爪)
反作用として、悪い評価を書くと教員から丁寧に扱われないと考え、素直に書けないことがある。担任を選べない今の状況では、配布なども担任自体が行わない方がいい。校長が担任評価をするのに、授業の教室にどんどん入っていき、見聞きし、来年以降の学校運営の参考にすべきだ。
わたしの娘が通っていたインターナショナルスクールの校長室は、生徒全員が見えるように、ガラス張りで、生徒のプロフィールをみんな覚え、生徒が校長室に出入りし、気軽に話せるような雰囲気だった。スクールカウンセラーに近い。
学校のマネージメントもするが、校長の上に理事長がいて、校長を監督する。30才代の校長だったが、すばらしいと思った。経験、適性、努力により、その校長はその方法を身につけていたのだと思う。

(質問)
校長公募型、地域密着のコミュニティスクールでは、親を信じなければいけないが、そんなことが現代の日本で可能なのか。

(橋爪)
日本では、校長が職業と思われていない。若いうちに見習いで副校長などをやり、マネージメントの経験をしてこないとだめだ。全く経験せず、出世として突然管理職になってもできない。

(司会)
ケーキ屋さんは、お客さんが満足するよう努力するのだが、教員はそういう努力しない。それを発言すると、現職の努力している教員と言われている人たちが「子どもにおもねるのか」という罵声を浴びせてきた。沈み行く泥舟だなー…と。橋爪さんはもっと過激なことを考えていて、まず既存の学校を解体する、とまで言っておられた。

(橋爪)
チャータースクールはテレビでも紹介され、考え方は少しずつ広まっていっているが、具体的に国内で開校・見学され、検討される時期に来ていると思う。
今日、この会でそういう息吹を感じることができた。