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黒崎勲氏
特別ゼミナール

湘南小学校教育理論研究会 2001年5月13日 湘南台文化センター

学校選択をめぐる議論


話題提供者 黒崎勲氏(東京都立大学:当時)
1944年生まれ。東京大学大学院教育研究科 大学院から助手
東京都立大教育行政学 著作「学校選択と学校参加」、「教育行政学」など多数。



【黒崎氏による話題提供】
もともと学校選択に関心をもったのは、1980年代に臨時教育審議会が教育の自由化を話題にする少し前頃。教育バウチャー制度に関心をもっていた。


はじめは、否定的にとらえていた。
1960年代、アメリカに大規模な教員の労働ストライキがあった。保護者と教員の摩擦が起こるのではないか、と思っていた。住民が反発し、教員は職業的な利益を優先している、と訴えた。その地域の学校は、その地域の人が決めるべきだ。ニューヨークは800万の都市で、その後30くらいの小さなコミュニティに分かれた。地域的特色があって、その後行政区を作り、通常の教育委員会の他に、仕組みを作った。そういう実験は社会にとって意味がある。実験区で教育長を雇い、自前で教員を採用した。今までの学校で教えたことのない内容。もっと地域活動に教員が参加し、地域と密着してということで、夜の集まりにも強制的に参加させられた。労働協約に反するとしてストライキに。それで今までの教員を全員解雇し、自前で雇う。地域で教員になり損なった人や大学院生など、人件費の安い人が集まる。高いピークはたもったが、数年で収束する。
分権化の成果として、過激な部分を抜き取って収拾させた。


学校がどういうところか。長く教員をやってきた人が考える学校のあり方と住民の捉える学校像が異なる。
クリストファー・ジェンクスが、「選ばせればいい」と提唱する。そうしたら、狭い道でもハーバードまで行く子もいた。今までの学校でいいと思っている人もいるのだから、選ばせ、資金は出そうということになった。その後アメリカに行った。


ジェンクスは、保守派のボスかと思っていたら、むこうの実践家が仲間だと言っていて、驚いた。運動を進める側にも保守派にも、争うと一番被害を受けるのは生徒であり、保守派の反省がニューヨーク州の教育行政単位を小さいコミュニティ学区にし、責任を負うようにした。運動家側も自分たちの要求は明確でも、全部を説得したり腕ずくで何とかしようとするのではなく、いっこうに実現しないとき、要求を薄めず主張を通すには学校選択(やりたいのだから、他の人をじゃませずやらせてほしい)。影響は広がる。広がらなければ撤退する。これらは新しいタイプの戦略なのだな、と思った。


学校選択は歴史がうんと古い。1950年代にミルトン・フリードマンという保守派の人間が、両方が同じレベルの学校に通えばいい、黒人の学校と白人の学校が分離すればいい。みんなが行きたいところへ行って、結果として黒人と白人が分かれてしまうのは問題ないと提唱する。行政的に割り振るのは憲法違反だが、という考え方。みんなに自由を与えようという制度。バウチャーという金券で授業料を払う。年に2000ドルというのは平等。だが、学校の授業料がさまざまだった。最低2000ドルだった。お金持ちと貧乏人が分かれていく。憲法にふれることもなく、階層を分けられるようになった。


日本とアメリカでは私立学校に関する規定が違う。
日本では、私立と公立で適用される法規が違うということはない。宗教に関する規定が違う。休日の指定が違う。私立は休日を自校で決めて良い。授業時間数が私立の方が多くて生徒が集められるということもある。日本の私立学校はアメリカから見ると私立に見えない。
アメリカの私立学校には、憲法に違反しない範囲ならば、学校としての規定がほとんどない。公費は使われない。私立学校に対する援助がほとんど行われない。公的援助の抜け道として、バウチャーは学校に援助するのではなく、生徒に対して援助している。結果的に学校は潤う。全体の風景の中では区別がしにくい。


具体的に日本でも臨教審が話題にしたときも、サッチャーが長期政権を構えたとき、最後に教育改革の目玉政策として学校選択を発表した。抜け道としてではなく、市場原理で学校を活性化させる。ミルトン・フリートマンは経済学者。福祉効果的に大きな制度を規制緩和する。そのなかの重要なものとして公立学校制度。教育行政機関の活性化。
それがそのまま日本にも使われ、規制緩和小委員会でも語られた。品川区の学校群になかからの選択制度は、文部省からのリードではなく、規制緩和小委員会からのもの。
1980年代の末。学校選択と言えばサッチャーから始まって全体の舞台設定ができてしまって、ぼくの学校選択は違うと言っても理解されない。一番理論的に、学校選択の二つの原理を書いても教育の行政学者には理解されない。教育社会学会で論争をしに行ったとき、品川と湘南に新しい公立学校を創り出す会を比較すればいいんだ、と思った。これこそ教育学研究の活性化。
学校選択は教育に市場原理を導入することになり反対であるという人たちは、論理を組み立てるとき、社会の仕組みはサッチャー風市場原理になると言う。サッチャー流と違うものの設計図と比べればいい。


学校選択の仕組みが違う、として湘南に新しい公立学校を創り出す会に注目をしていた。いつか藤沢に行って話をきいてデーターをもらおうと思っていた。


学校選択という言葉が一般的に通用しているときに、同じ言葉を使っていると共通性がありながら品川とここが違うという原理的なレベルのところが伝わるようにしなければ。品川の方法ではうまくいかないだろうというところと、制度設計を変えるとかなり公立学校改革の切り札になるのだというところがある。


実験学区でジェイクスが右派でないと気付いたとき「危機に立つ国家」の本があった。日本での可能性を問われたとき、日本では全くダメだと思う、と答えた。数年後のシンポジウムでは、前向きにコメントしようと思う。それくらい、今の状況の変化は激しい。

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これより、話題提供を受けての協議開始
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「たばこ部屋に黒崎さんのレポートがあった。今日の参加者は三分の一が教員だが、その他は一般の市民や学生。行政が教育関係の会を作るとみんな教員になってしまう」
「今の話を聴いてますますわからなくなったのが、市場原理と教育原理では、教育の分権をしたときに、分権した権利はどこへいくのか。単純な市場原理でもないようだが」
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(黒崎)教育における市場という考え方の捉え直しが必要だと思う。
そういう発想と学校選択のなかに違う部分がある。市場原理は売り買いの原理だから、買いたくないものは売れない。基本的にそのメカニズムで、人気のない学校へは、子どもたちは登校しなくなる、でも来なきゃいけない所よ、みたいな。でも、そういうのだけじゃない市場の考え方があるんじゃないか、と思う。
ブローデルという人は、市場主義とは全く違うものがあるという。学校選択に通常の市場原理を持ち込むのではない。もっと違う市場というものがある。市場原理型の学校選択とそれとは違う学校選択があるのではないか、と言うことだと思うのだが、僕のなかでは理論的にもとの所にまわって来ちゃう。別の学校選択というものをもっと理論的にやってみたい。これからはそのレベルでやっていこうと思う。もう少し社会構造的に。人間が市場のなかで生きていくということとは。


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「規制された市場というところか」
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(黒崎)行きたい学校のリサーチをして作っていくということで高校などを作っていくのだが。放っておくと私立学校と同じになる。
入学試験をやらない。公立学校と私立学校の大きな違いは、公立学校は来たいという人を可能な限り入学させる原理。私立学校は生徒を選ぶ。そういうタイプの学校のネットワークになってくると、あり方が変わってくると思う。そのメカニズムを全体の舞台装置のなかで動かすか、ちゃんと考えないと、強くて暴力的なものになってくる。ある抑制的なものを入れて活用していく。この場合の制約は、選抜しないということと、情報のアクセスとして情報の平等な公開性、授業料をバラバラにし、選抜してしまうようなこととしない。


バウチャーという金券はいらなくなる。授業料が違うからバウチャーが必要だった。学校選択は市場原理とは別のものとして実現するためには、選択と言うところが同じ。これに違う役割を果たさせる仕組み。規制された市場として、修正された資本主義という意味で受け取られる。そうじゃなくて、違ったものが生み出される仕組み。親が自由に選択するなかで、教育状況の結果が市場的なものと違った結果になる。
いくつかの中から選ぶのと、20そこに普通の学校があって、もうひとつ違った学校があって選ぶのと、その違い。品川の形だと必ず選ばなければならない。このメカニズムは全く違う。最初のタイプは学校間で競争させるが、もうひとつの形だと無理なことしないでじっとしてよう、と考えることもできる。
この学校では自分の腕を本当に発揮したいと思っている人が自分の新天地を求める意味で、そういう意識を学校の教師に生み出す。ある学校では、教師たちが理解しあって何かやろうとしている、それはいいのだが、それは不可能じゃないか。教師の腕が発揮されるならいいと言う教育学者もいる。しかし、仕組みが教師のチャンスを許さないなかで、教師が自分の腕を発揮したい、というそういう気持ちを生み出す仕組みを作ることが大事。


学校のなかにいろんな人がいて、校長のリーダーシップを高めて活性化しようというのは、うまく動いていくとは思えない。そういう無理なことはしないで、チャータースクールのような新しい学校を一つずつ作っていく方法は、本当に力のある人たちに意欲を与える。


このメカニズムの良さは、親が学校を見て、どうしてこっちではできないのか、と尋ねる。どうしてあそこでできてここでできないのか、と問われることが今まで無かった。理想的な学校の理論が固まってもそこの人たちが思っているだけではダメで、自信や使命感のあるのは大事だが、誰もやってこない学校ではだめで、選ばれて初めて正当化する。自分のなかの正しさだけで仕事をするのではだめで、正しいにも関わらず評価される、そして潔く改めたりしながら時代が変わっていったりして良くなっていく。こういう形の学校選択では選ばれたり選ばれなかったりしてそこを変えていくことができる。


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「延々夏休みが続くような学校は退屈に決まっている(湘南小学校のことか?)という声がある」
「品川区では校長の言う通りにやって責任をもたない教員が増えている」
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(黒崎)いい校長のいる学校に子どもを通わせるというのはいい方法だが、品川区の校長は新学期に代わったり、学校を卒業するまでに代わってしまったりする。学校の教員が一つのチームに、と言うが、今の人事ではそうはならない。


教育の理想は様々あり得る。校長のリーダーシップでも立てとかないとまとまらない。本当のところ、親が学校を選択する前に教師が学校を選択する。こういう学校でこういうふうに働きたいと言って集まる。それを親が選択するかどうか。選ばれたとき、学校ができあがる。今まで教師にそういうチャンスがなかったのではないか。本当に学校に求められていることは、教師が主体的にその教育の場を作り上げていく、構想力だと思う。その気持ちを育む制度。その地域の一番質のいい教師が学校を作り、他の教師が親に問われていく。


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「アメリカのチャータースクールを6校見てきた。ミネソタとサンフランシスコ。うらやましかったのは、何で今の学校がだめかと言うときに、学級担任制が嫌だなと。この学校はこういう学校ですよ、と説明できない。できてもクラスの中ぐらい。6校の校長は学校の理念をきちんと説明するのがうらやましかった。6校みんな違って、それぞれだった。日本の単線型でなく選択できる学校があったら良いな、と。今日お話をうかがって、批判に反論できそうな気がする。納税者として自分たちの行きたい学校を作って行きたいなと。公共性の崩壊が今の学校に生きているか。逆にチャータースクールは良いことばっかりみたいな気がするが、日本ではもう少し統一したものがあったほうがいいのか、どう疑問に答えていったらいいのか」
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(黒崎)学校間の序列化を招くという論のときに、学校改革はモデルがある。
現代版進歩主義教育のメッカの教育理念。選択をすれば序列が起こるという、高校や私学のようになるという議論があって、あたっているところもあって、実験的な学校を作るときに、そこは試験などやらない、抽選で、その学校を開いて誰かが行った。仕組みはなくても両親の学歴や社会水準を調べると水準が高いはずだ。なぜなら、学校を考える意識がすでに階層的。親の学歴だとか、経済的水準、文化意識を繁栄する。受験をしなくてもすでに階層はある。それは起こっちゃう。それだからダメだと言われちゃうとすべてを任せると社会の影響を受けるが、それの影響を受けないやり方は、行政が機械的にやること。住んでいる地域だって、地価とかあるから、学校毎の階層性がうまれる。だから、階層がうまれるからだめ、ということはない。アメリカと同じものが日本ではだめ、というのは、必ずしもはっきりしない。


また、校長がはっきり自分の学校を語っても親は選べない。教育のあり方って、文章で語ってもどこまで理解しうるか疑問がある。嘘を言えると言うことも含めて。学校のあり方って、じゃあわからないのか、というと1日か2日行けばわかっちゃうと思う。語っている限りでは伝わらない。でも学校が始まれば、何かの形でふれることができれば伝わるよ。学校ってもっと力が有るんだ、とか、ことばで伝えられるかというと伝わらないのに、教育の区別はできる。公立学校の仕組みはそういうことを許さない。教職員の研究っていろいろあるけど、研究授業でやってみることは可能でも、日常的に親の前に存在し続けるためには特別な仕組みが必要。


みんなが本当にそれを信じて献身的にやっていても、来た人がだめだと思ったらそれは正しい。教育が選ばれるとか、自分のやっていることが理解されるとか言うことはそういうこと。


僕の考え方は徹底していて、学校の結果責任とか評価はいらない。選択されたということが評価。学校評価にも様々なやり方があるけれど、そういうやり方ではできない。100年立たないと学校は評価できない、と言って済ませられた時代は終わった。学校の現状としての評価は低いから。学校は評価できる。でも、本当に適切な形で評価されないと学校は崩れてしまうから、選択というのはそのなかに学校を評価する仕組みを含んでいると思う。選択というのは、そこで教育の評価があって、それが最も適切な評価だという観点が必要だと思う。


もうひとつ、現実的な問題としてそこにやってきている人が納税者として、という考え方は言いと思う。教育を受けたいという人と教育を与える人が良いと思っていればそれでいいのかと言う問題がある。あの仕組みを通して最終的にその地域の学校がみんな良くなる、ということが力点。ある一つの学校の成功がその学校の生徒が良い思いをするということだけでなく、藤沢市や神奈川県全体がよくなる、ということが全国的に広がるためになる。それがどういう風に近隣の学校を変えていくのかということを考えてほしい。
ここが学校選択の仕組みを変えていく一番のポイントになると思う。そうでないと私立学校を公的に支援することにとどまると思う。私立学校に対する援助、私立学校を親が作っていくときの援助として公設民営としてできあがるのも一理あるが、公立学校として存在するには、公立学校全体に影響を与えることを考えた方がいい。


セントラルパーク・イースト・スクールは、作ったとき、予定の半分くらいしか集まらなかった。小学校なので、幼稚園などに若干のチラシを作った。三ヶ月以内に行列ができて入れなくなった。セカンドという学校、リバーサイド(サード)という学校ができた。創設者のデビー・マイヤーは「統一学力テストは受けるように言われたが、そういうやり方でこの学校をはかってほしくない」と言い、いつなんどき教育委員会が学校を見に来てくることを拒まないと主張した。テストは学校評価につなげないけど受けてくれと言うことになった。
ところが実際にはテストの結果、ニューヨーク第4学区全体が、数年で30のコミュニティの最下位から12位〜18位のランクになった。この数字は外部の人に自分たちの成果を説明するには便利だった。それが重要だった。数字の力は大きい。レーガン政権に表彰された。評価は難しいが、その学校が選ばれる、志願者が絶えない、ということでいいのではないか。本当の意味で評価というのはそれでいいのではないか。


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「さっき品川と創り出す会を分けたときに、たとえばチャータースクールを認めるときに、コミュニティスクールは教育委員会を必ずしも上の機構と考えていないようだが」
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(黒崎)コミュニティスクールはイギリスの学校制度を、少し勘違いして受けとめているように思う。
学校を認可する機関としてとらえるならば、アメリカでは認可できる機関を増やした。イーストハーレムの場合は、教育委員会が非常に進歩的で、自分が管理している学校を動かすためにこの仕組みを作ったが、セントラルパークイーストとベーカースクールともうひとつと3つの学校が早かった。ベーカースクールは東京シューレのような不登校のこどもたちが多かった。もうひとつの所は自由主義的、もうひとつはダンスが特色だったので、あまりに普通の学校と違い、従来の学校の教師は脅威に思わなかった。反対されないような学校から始めた。始めたら何が起こったか。そっちの学校の方がいいと思う子どもが増えたから、ちょっとカラフルな学校な学校に刺激を受けてもうちょっと従来の学校も見栄え良くしていこうという方向に変わっていった。
神奈川県教育委員会や横浜国立大学や横浜市立大学などに認可権をもってもらったらどうか。


さきの勘違いの続きだが、サッチャー型の学校改革は、学校というものを地域の住民が設置できる仕組み。イギリスでは、議会と教育団体が結びついていて、そこが労働党の大きな勢力で、そこをつぶそうと思っていた。だから、独立して学校を作って良いという仕組み。政府から直接お金をもらう学校になろうと思っていた。学校で親がそういう手続きをとろうと思ったら、できる。
コミュニティスクール構想では、設置者を増やす。親が望んだら別の学校を作ろうとすることができる。何人かの親が集まったら作れる、という仕組みが良い。1980年代にカリフォルニアでやろうとした人がいて、50人くらいの子をもつ親が請求し、住民投票で通らなかった。請求を制度化しようというものだから。


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「2年間創り出す会のフリースクールに通っていても、わだかまりがあったが、今日の話ですっとした。市場原理の話を聴いて、区別がつけられるように思う。高校入試があるから、結局全員入学させてくれないので、結果的に高校入試をなくしちゃったら小中学校も本当の教育ができるのではないか。本当に独善的な教師で親が苦しめられていることを教師にはわかって欲しいと思う」
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(黒崎)高校入試には違う考えを持っていて、端的に言って生徒の学力差があるのとないのと。今の高校入試が良いとは思わないが、公立高校が高校入試を禁止されたら、特に都市部では公立と私立の役割が変わり、大学進学をしたい人は公立高校に行かなくなるのではないか。結局公立学校だけを制約し、公立学校が市場原理で動いている私立学校に対して太刀打ちできなくなる。内申書は問題で、あれは何とかならないのか。


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「学校選択というテーマで、行政に反論しにくいことがあった。選択できる公立学校は、一部の者に使われるので対応できない、と言われる。チャータースクール法のないなかで、どういう風に話をもっていったらいいのか」
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(黒崎)新しいところにわざわざお金を使い、よけいにかかるかもしれない、という。あるやり方にしてしまうときに、統廃合では学校が減るかもしれないがこの仕組みでは増える。でも、子どもは両方の学校でお金を使うわけではない。二重にお金を要求するわけではない。でも、効率は悪くなる。でも、20が21になるくらい、あまりかわらない。


特別なお金を要求するのではない。基本は効率性と正当性。効率的ではないが、そういう意味での効率を追求することはなりたたない。自分の教育、義務教育を受けるのに正しいのはどちらか、ということ。正しいにしても法律があってどうかということ。公立学校全体を良くするためにやっているのだ、ということ。藤沢市を良くするためにやるということをはっきりいうこと。ここで、もしそういうことが始まったら、それに打ち込めばいい。いっぺんにいろんな学校を良くしようとしなくてもいい。


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「品川のことを文部省は快く思わなかった、と言う話をきいて、同じようにこの創り出す会も目障りに思われているのか」
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(黒崎)現代の教育の行き詰まりを指摘することは、文部省批判になる。文部省は学校の運営の細かいところまで指示を出している。プロセスの管理。結果責任は、やり方は自由で結果を問う。プロセスの管理をしていると結果責任を問えない(結果まで指示を出した者が問われる)。ので、よくならない。


この会が文部省から良く思われないのはしょうがない。
日本の国力の展望が明るかった時代の答申で、学校選択制度について書いてある。先導的試行という計画を打ち出した(中央教育審議会46答申)。幼稚園の年長と1年生を結びつけるなど、学校の区切り方に意見があった。急にそういう改革はできない。やってみたいが実験だから、嫌な学区域の子どもはよその学校に行っても良い。学校のような安定性が必要。今まで失敗しなかったのか?安定した制度である必要はある。あえて、失敗してでもやってみようという。それで初めて学校が変わる。あのときは教育改革を表に立てて、学術的なデータを集めるためにやろうとしたが、今ある公立学校の制度を全部変えることは難しいが、一歩はどこから始めたらいいのか。日本型チャータースクールはそれでいいのではないか。