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ひとと予算の削減を防げ

way6307.12/3/2009-6310.12/9/2009

 事業仕分けがブームだが、それによって必要な事業までつぶされていないだろうか。
 わたしは、税金の使い道に市民の目が光ることは必要だと思う。しかし、予算を立てる段階で、素人に近いひとたちが計画を仕分けてしまうのは無理がないかと心配になる。とかく、目の前の事業に重点が置かれ、長期的に必要な事業が後回しにならないか。後回しならまだいいが、計画がなくなったり、大幅な予算削減になったりしないか。
 わたしが勤務する湘南の地方都市では、まだ事業仕分けという制度は導入されていない。しかし、おととし当選した市長のもと、着々と新しい事業が始まっている。マニュフェスト大賞を受賞した市長だ。教育委員会の人選では、市議会始まって以来初めて市長の推薦した教育委員が議会で承認されなくなりそうだった。コスト削減の名の下に、教育行政の無駄を省く考え方のひとを選んでいたからだ。
 無駄を省く。
 聞こえのいい言葉だが、だれが無駄と感じるかによって、物事の見方が変わってくる。
 一部のひとたちには、とても必要な事業でも、多くのひとたちには無関係な事業が、無駄と判断される。教育はその領域だ。とくに、わたしが関係している特別支援教育は、少数のひとたちのための領域なのだ。
 特別支援教育。かつては障害児教育と呼ばれていた。大きく身体的障害と発達障害に分かれる。教育の場は、専門とする特別支援学校(養護学校)と通常学校のなかに併設している特別支援学級(特別指導学級)だ。障害の程度に応じて、どこで学ぶかが決まってくるが、最終判断は保護者がするので、必ずしも適切とは思えないところに在籍しているケースもある。
 特別支援学級の設置基準は、こども8人に対して教員が1人だ。だから、こどもが9人になったら5人と4人にわけて教員は2人になる。神奈川県は、条例で、国の設置基準に加えて、こどもが5人をこえたらさらに教員を1人配置している。これを加配という。
 通常級の設置基準は、いまはこども40人に対して教員が1人だ。
 だから、特別支援教育はとてもお金がかかる領域なのだ。しかも、多くのひとには接点の少ない領域でもある。
 新しい市長になってから、学校への市の配当予算全体が減らされている。当然ながら、特別支援教育の予算も減らされた。
 予算の減額は、確実に事業の質の低下をもたらす。教育の質は下降線をたどるだろう。現場の教育関係者に、超人的なはたらきが期待されるとしたら、ますます病気で入院するケースが増える。人材は流出し、若い世代にとって魅力のない職種として敬遠され、教育の質は地に落ちる。いったん、地に落ちた教育の質を回復させるのは容易ではない。マニュアルでマスターできるほど、教職は単純ではないからだ。

 神奈川県は、全体的な歳入不足を理由に、学校配当予算関係を大幅に減額している。
 新しい知事になってから、それは顕著だ。
 教育公務員の給与削減も断行された。労働組合はどうしてストライキで対抗しないのだろう。
 発達障害は、身体障害と違って目には見えない脳の障害だ。手や足が不自由でも脳が正常ならば、発達障害とは呼ばない。
 発達障害は、大きく知的障害と情緒障害(自閉症)に分かれる。特別支援学級も、知的障害児学級と自閉症および情緒障害児学級に分かれる。これは、脳の障害に根本的な質的違いがあるからだ。ただし、いずれも多くの支援者を必要とする。少しでも多くの専門的な支援があれば、社会的自立へ向けた計画的な態勢を組むことができる。
 それが、あやうくなっている。
 特別支援学級は、こどもが8人いると教員が1人配当される。さらに神奈川県は独自の予算で、5人をこえると1人の教員を加配する。つまり、1つのクラスに2人の教員がいる。学校現場では実際には、2人の教員が対等な立場で8人のこどもを支援する。この加配部分の教員を削減しようとしているのだ。
 たった8人しかいないのだから、そもそも教員は1人で十分ではないか。素人は思うだろう。発達障害の場合、1人のこどもにかかりっきりにならなければいけないケースが少なくない。そうするとほかの7人への配慮が足らなくなる。こどもどうしがトラブルを起こす。怪我をする。ときには大きな障害が残るような事故に発展する。
 これまで加配部分の教員は、正規採用の教員と同じ週40時間雇用だった。これを半分の週20時間雇用にしようとしている。というか、すでに多くの学校で実施されている。週40時間勤務を臨時任用教員、週20時間勤務を非常勤講師と分けている。週20時間では1日平均4時間だ。8時半の勤務開始から12時半で勤務が終了になってしまう。これでは給食を食べている途中で「はい、さようなら」だ。
 放課後に、支援計画を相談できない。教材の準備ができない。成績事務ができない。すべてが正規採用教員への負担になるのだ。
 通常級の学年が遠足に行くときに、なるべく通常級のこどもたちと交流するチャンスを大事にしたいと思っても、特別支援学級から付き添いの教員を出すことができない。加配教員が非常勤では、遠足の途中で勤務終了になる。正規教員が付き添うと、加配教員は学校に残り、こどもだけを残して昼過ぎに帰らなければならない。つまり、交流活動ができなくなる。
 せっかく通常学級のこどもたちと交流できる環境として、特別支援学級を選んだ保護者の願いをかなえられない。
 市は、独自の予算で、教員以外に介助員を雇い、特別支援教育の現場に派遣している。

 わたしが勤務する湘南の地方都市でも介助員を雇って学校に派遣している。
 実際には、介助員は各学校で探し、各学校が教育委員会に申請するので、市は給料を支払っているだけだ。この給料は、時間給だ。恐ろしいほど安い。労働基準法に抵触しそうなほど安い。
 この介助員時間数が新しい市長になってから激減している。ついに昨年度は3月は0円だった。
 特別支援教育の現場で、介助員の果たす役割はとても大きい。
 教員ではないので、指導計画立案や授業計画にはかかわらない。しかし、個々のこどもの支援補助や休み時間の安全管理など、教員だけでは補えない隙間部分をていねいに補完してくれている。
 介助員の多くは、とても長く同じ学校で仕事を続けている。わたしがお世話になっている介助員は、20年近くいまの学校で仕事をしている。だから、保護者たちのほとんどが知っているほどだ。
 また、ひとの役に立ちたい、とくに障害を負っているこどもたちの役に立ちたいという純粋な思いを強く抱いている。だから、すきあらば仕事をサボろうとするような輩はいない。信頼できるひとたちなのだ。
 だいたい介助員時間数は、年度当初と半年後、年度末の3回に分けて配当される。昨年度は3回目の年度末が0円だった。半年後は市議会で補正予算が成立するので、例年は年度当初と同額程度の配当になってきた。それが、今年度は、年度当初の配当時間の8分の一しか半年後に配当されなかった。
 通常級にも支援が必要なこどもがいる。
 介助員は通常級でも申請できる。
 通常級、特別支援学級、ともに困っているこどもを助ける役目の介助員を、教育行政は削減し続けている。
 こどもたちは、十分な指導や支援が受けられなくなる。
 特別支援教育を担う教員、介助員が減るかもしれない。
 にもかかわらず、新しい市長は、不透明な公金の支出で新聞に載った。
 市の土地開発公社を通じて、数億円の公金で山林を購入していたのだ。そもそもその土地に、それだけの価値があったのかを疑問視する声もある。
「緊急に購入し、公共的な使い方が必要だった」
そう釈明している。しかし、半年以上も前に購入した土地は11月になっても手つかずだ。
 土地を売った地元のひとたちと、市長との間にどんなつながりがあるのだろうかと訝りたくなる。数億円の売却金のうち、何割かが市長にお礼としてリターンしていないといいのだが。
 特別支援教育の現場から、ひとと予算を削減すると、確実にこどもどうしのトラブル発生へとつながる。未然に防ぐことが困難だからだ。発達障害のこどもは、悪意なく、想像もしない衝突へと発展する。一生に渡り後遺症が残る怪我が発生したら、管理責任を問う裁判が起こるだろう。いま、不必要とけちった予算が、数億円という賠償金にかわることを危惧している。

 同じ教育分野でも先端の科学技術研究の予算はこれまで金額の規模が違った。
 これも仕分け対象になった。その結果、国内のノーベル賞受賞者がそろって予算削減反対の声明を行った。
「最先端技術の研究をおろそかにすると、この国の教育のかたちが崩れていく。産業構造の質が維持できない」
ずいぶん、学者は難しいことをいう。
 著名な方々は、この国の教育のかたちが内実ともにすでに崩れていることをご存じないのだろう。先日発表になった昨年度の校内暴力件数は、過去最高になっている。こどもたちのストレスは、座学へ向かう余裕を奪っているのだ。そのストレスの原因がどこにあるのか。とても単純なことではないだろう。しかし、学校だけの問題ではないことは明白だ。学校教育に、こどもにこれほどまでにストレスを増大させる影響力はもうないのだ。
 バブル崩壊後の15年間。教育予算は、国家規模でも都道府県規模でも市町村規模でも削られてきた。教員の給与は、給料表が作り直され、基本給が実質的に削減された。民間企業でいうところのベースダウンだ。紙を買ったり、臨時職員を雇ったりする予算は、軒並み半減に近い削減を繰り返している。学校には、ものもなければ、ひともいない状況が、長年続いているのだ。
 きっと、全国の学校現場が疲弊していく一方で、最先端の科学技術を研究する現場には、潤沢な研究費が支給されていたのだろう。だから、今回の削減がショックだったのかもしれない。
 こどもがいて、学びのかたちがある学校。
 顕微鏡や試験管があって、テクノロジーの向上に貢献する研究所。
 目的も手段も異なる両者を、同じ教育という枠組みでくくるからおかしくなるのだ。
 それにしても、いつからこの国は、弱者や未熟な者へのいたわりを忘れてしまったのだろう。医療・教育・福祉への予算が大幅に削減され続けている。担い手も減少している。今年度の神奈川県教育委員会が採用した小学校教員の倍率は2倍強だったそうだ。受験生のおよそ2人に1人は合格できたのだ。それだけ、夢や希望を抱きにくい職種だと若者に気づかれ始めているのだ。

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