go to ...かさなりステーション
福岡男児殺害事件
way6027.10/22/2008-way6028.10/23/2008より
福岡で小学生一年生の男の子が母親に殺された。母親は持病があり、こどもには軽度発達障害があった。母親は、持病とこどもの障害に悩み、将来を悲観したと動機を述べている。
わたしは事件の発生時から、もしかしたら母親かもしれないと疑った。
軽度発達障害をもつこどもを残して、ひとりトイレに行った隙にこどもの行方がわからなくなったというのが信じられなかった。報道によれば男の子はGPS機能つきの携帯電話を首から下げていたという。つまり、それは多動的な傾向が見られるという証拠だ。たえずおとなの管理のもとに置かないと、ひとりでふらっとどこかに出かけてしまうので、行方がわからなくなったときにGPSで探すのだ。
それは、遊園地やデパートでこどもが迷子になるという状況とは違う。
迷子の場合は、親もこどももともに互いが離れ離れになったことを意識している。親がサービスセンターに駆け込んで、こどもを探すことを依頼するかもしれない。ひとりで泣き叫ぶこどもを施設の警備員が発見して、事情を聞いて、親を呼び出すかもしれない。
しかし、多動的な傾向のこどもは自らが親やおとなとはぐれてしまうことをあまり意識していない。そのときに興味のあったものを追いかけたり、置かれた状況から脱出したりして、ほかのところに移動してしまうので、追いかけるのはいつも親やいっしょにいたおとなの方なのだ。
わたしは特別指導学級のこどもたちと学校を離れた活動(おもに遠足)をしたとき、わたし自身がトイレに行きたくなったとき、必ずこどもを連れてトイレに行く。できれば多目的トイレにいっしょに入り、こどもを視野に置きながら用を足す。異性の場合は、問題になるので、学校を離れた活動に男女がいれば、引率する教員は男女か女性のみにする配慮をしている。女の子といっしょに男性教員がトイレに入るのは、問題になるが、男の子といっしょに女性教員がトイレにはいるのは、あまり問題にはならない。
すべての発達障害をもつこどもが、おとなの目の届かないところでひとりにしておけないわけではない。しかし、GPS機能つきの携帯電話を用意する必要があるこどもの場合は、それなりの理由があると考えるのが妥当だろう。
だから、母親がひとりでトイレに行った隙にこどもの行方がわからなくなったというのが信じられなかったのだ。
警察の事情聴取に対して母親は、こどもを殺した後で自らも死のうと思ったと供述している。それほどまでに思い詰めた動機があったとしたら、それは他人のわたしには詳しい背景は想像しようもない。
しかし、この供述を知って、さらに疑問がふくらんだ。
男の子の行方がわからなくなったことを、真っ先に公園にいたひとに知らせたのは、この母親なのだ。本当は自分が携帯電話をかけていたひもで男の子の首をしめて、トイレの陰に隠していた。にもかかわらず、最初の行動では、被害者の家族を装ったのだ。
こどもを殺した後で自らも死ぬ。心中の覚悟があったひとの行動とは思いがたい。
この母親が抱え込んでいた不安や悩み、苦しみや悲しみは、それを理解するひとたちが近くにいたかどうかという社会的な側面と関係してくる。
このケースとは無縁の一般的な例を想像する。
家族や親戚など身内の多くは、発達障害への理解が得にくい。専門的な仕事についていたり、いつも関心を持っていたりすれば別だが、そういうケースはとても少ない。母親だけが「あなたのしつけが悪いから」と身に覚えのない言われ方をして傷つく。
同年代の友人や近所のひとたちのなかに、おとなどうしではつきあいができるひとがいたとする。しかし、いっしょの場面にこどもを同行すると、こどもの奇異に見える行動が目立ち、相手との関係を悪くしてしまう心配をする。そのため、やがて疎遠になっていく。
学校や児童相談所、教育相談センターなどは、発達障害への理解は得やすい。とくに今回のように特別支援学級(これは法律上の言い方)に在籍している場合は、そこの教員はこどもへの接し方を専門的に日々研究しているひとたちだろう。しかし、こどもへの接し方を知っていることと、親の願いを受け止めることは違う。親の考えと、学校や児童相談所、教育相談センターのひとたちとの考えが異なるケースは珍しくない。そのため、これら専門機関を親は信用しなくなっていく。
Copyright©2005 Y.Sasaki All rights reserved