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市民が創る公立学校

 チャータースクールは、学校作りの意欲がある人たちと、そのプランを認可する機関との間に合意が成立すれば、公立学校として開校できる仕組みだ。そのかわり、数年後に成果を審査され、成果があがっていれば学校が存続し、成果があがっていなければ閉校になる。
 Charter Schoolをあえて翻訳すると、特別認可公立学校。わたしは、意訳して「市民が創る公立学校」と呼ぶ。
 わたしは日本国内に、というより、わたしが暮らす湘南地域に、チャータースクールによって、理想とする小学校を開校したいと考えている。その名は「湘南小学校」。
 チャータースクールは、申請者と認可者の間の合意にのみ、学校運営が規定されるので、公立学校としてのさまざまな規定から除外されることが可能だ。そのひとつが、チャータースクールを希望する子どもたちが入学できるということが挙げられる。もしも、定員をオーバーするほどの入学希望者がいた場合には抽選をして入学者を決定する。つまり、従来の学校のように、教育委員会が指定する学校ではないので、チャータースクールそのものが学区をもつということはないのだ。

教育委員会の就学通知義務

 子どもが自分の通いたい学校に入学する。
 この一見、当然とも思えることが、公立学校、とりわけ小学校と中学校では学校教育法によって認められていない。学校教育法は、市町村の教育委員会に子どもが入学する学校を通知するように明記しているのだ。
 これは、公立学校がとても多い日本ならではのことだと思いがちだが、アメリカでもアジアのいくつかの国々でも、行政が子どもの入学する学校を決めている。1209年にケンブリッジ大学は創設された。そのような学校というものに、とても歴史と伝統のあるヨーロッパの国々では、必ずしも行政が一方的に子どもの入学する学校を決めることはないのだろうか。手元に資料が乏しく明言することはできない。

学校選択制度

 なぜ、子どもは自分が希望する学校に入学できないのだろうか。
 希望者であふれかえる学校ができたらどうするのかという質問がある。希望する子どもをすべて受け入れるべきだとわたしは言っていない。それぞれの学校には建物の都合上キャパシティがあるのは当然だ。もしも、定員を超えた場合は抽選をすればいい。
 抽選で漏れてしまった子どもはどうすればいいのか。
 ここではふたつの可能性が考えられる。
 ひとつは二次希望がある場合だ。もしもすべての学校に希望入学できる仕組みができていたら、必ず抽選から漏れる子どもと、定員に達しない学校ができる。定員に達しなかった学校は二次募集をかける。抽選に漏れた子どもは二次希望を考える。どうしても行きたい学校に入れなかったことを悔やむより、もともと入学したい学校を複数は用意しておくべきである。たったひとつの目標しかない場合は、挫折に弱いが、総合的な判断材料から複数の目標を用意しておくと、いくつもの切り替えポイントを使うことができる。
 しかし、このやり方の最大の欠点は、すべての子どもが、強制的に自分が入学するべき学校を選ばなければいけないということだ。つまり、ひとつの指示を受けるという意味では、必ず選ばなければいけないので、選びたくないから行き先を指定してくれという自由を認めていない。長年、学区が機能し、この地域の学校はここと決まってきた環境では、いきなり自分で選ばなければならないとなったら、混乱することが予想される。

希望入学制度

 そこで、わたしはもう1つの可能性を強調したい。
 それは、意欲ある教員が特別に認可された公立学校を、それぞれの市町村に少数だけ設立するやり方だ。設立するのは、なにも教員だけでなくていい。保護者や一般の市民が設立してもいい。
 この学校は、行政当局から、ほかの学校のやり方と内容的に異なった方法が認可されているので、学校の周辺に住んでいる子どもたちを強制的に通わせるのは、理念にあわない。そこで、情報を公開し、この学校への入学を望む子どもたちを集める。
 この方法ならば、べつに学校は家から近くて、いままで決まっていたところでいいという人たちに迷惑をかけることはない。そして、いままでの学校で息苦しさを感じていた子どもたちや、新しい学校の理念に賛同する人たちだけが、特別認可公立学校への入学を希望することになる。

特別認可公立学校

 特別認可公立学校を創りすぎてしまうと、学校数が多すぎて子どもの数が足りないという状況になる。そのようなことを行政当局が行なうはずがないから、特別認可公立学校はそれぞれの自治体に適性規模で設置されるだろう。
 特別認可公立学校は、熱意はあってもいまの学校教育制度のなかでは、その熱意を具体的なかたちにできない立場の人たちに、夢と希望を与えることになる。どちらかというと、いままでそういう人たちは、あきらめの立場でいまの学校や教育制度を批判するしか方法がなかったのではないかと思う。しかし、特別認可公立学校制度は、そういう人たちに、手足を与えるとともに、これまでのように口先だけの批判ばかりを許さない、行動力を求めることになるだろう。
 そして、長期的に考えれば、それぞれの自治体に少数でも、特別認可公立学校ができることによって、多くの従来からの公立学校によい影響を与えることになると、わたしは考えている。それは、成果を求められる特別認可公立学校の取り組みを参考にして、従来の公立学校でも参考にできることを取り入れていく可能性が開けるからだ。

一般の公立学校との関係

 あくまでも<特別認可公立学校だからできることであって、従来の公立学校ではとてもできない>と言い張る人は、これまでのやり方を踏襲すればいい。逆に、従来の公立学校で許されるギリギリのところまで参考にできることを取り入れようという人たちは、そのことこそ、特別認可公立学校と従来の公立学校との重なり合う部分として前向きになってほしい。
 公教育には税金が投入されるので、全国どこの学校でも国の基準にマッチした同じ内容でなければいけないと主張する人たちがいる。そういう人たちは、まず、いまの公立学校が本当に全国的に一律な教育内容を実施しているかどうかという、実証的なデータを集めてほしい。わたしの知り合いはほぼ全国で教員をやっている。連絡を取り合うたびに思うのは、地域によって、あるいは自治体によって、かなり特色のある教育が行われ、どう考えても全国一律に同じ学校教育が行われているとは思えない。
 ひとつの自治体のなかに数ある公立学校は、学校教育法によって教育委員会が就学児を決定している。教育委員会が、就学年齢の子どもたちが、どこに居住しているかをもとにして策定している線引きを、わたしたちは学区と呼んでいる。
 学区は、自治体の地名表示や、子ども会範囲、自治会範囲とは必ずしも一致していない。あくまでも、教育委員会が子どもたちの就学先を指定する目的だけに策定しているものだ。だから、たとえ学区があっても、私立学校に通う子どもはこれに束縛されてはいない。また、放課後の子どもたちが通う塾や、習い事、スポーツチームなどでのグループは、学区を越えた人間関係を子どもたちは築いている。後者の人間関係は、ある目的に即したものだ。野球をやりたいからチームに入り、そこに集う子どもどうしが関係性を築く。これに対して、前者の学区によるグループは、無目的な集まりに過ぎない。にもかかわらず、そうやって集めた子どもたちに対して、学校では仲良くし、協力するように指導する。

集団管理の根拠

 ピアノの技術が向上するためにとか、ゲームで勝つようにという、目的のために集まった子どもたちには、だからこそ必要な関係づくりのルールが有効に機能する。それぞれが勝手に行動してはいけないとか、自分の順番が来るまではじっと待つとか。これに対して、強制的に集められたグループには、そこで守るべきルールに、子どもたち当事者の都合はほとんどない。そこで機能している、中学や高校の校則が象徴的なのだが、ルールは、管理者の都合が最優先している。
 趣味も志向性も異なる多くの子どもたちを、効果的に管理しやすくするために、廊下は走ってはいけないのであり、教員の話は黙って聞かなければならない。そのような集団性を好む子どもと保護者には、そういったグループはとても快適かもしれない。しかし、その無目的性に疑問や違和感をもつ人たちには、そのようにして守らなければならない日常生活上のルールは、自分への押しつけ以外のなにものでもない。

ていねいな選択の権利

 そのような少数かもしれない、目的をもった学びを志向したい人たちに、ていねいな学びの場として用意されるのが、特別認可公立学校である。
 特別認可公立学校への入学は、教育委員会からの指定ではなく、入学を希望する人たちの意志によって決定する。公立学校なので、試験などで選抜しないところが、私立学校とは大きく違う。特別認可公立学校では、さまざまな教育内容が展開され、子どもに十分な学力が保証されないのではないかと心配する声もある。特別認可公立学校の先進国、アメリカではすでに10年以上の経験から、卒業生のなかにはジュリアード音楽院やプリンストン大学へ進学している者もいるという。要は、特別認可公立学校のもつ性質によって、子どもたちが変わってしまうと考えるのではなく、従来のものであれ、特別認可公立学校であれ、そこに集う子どもの意欲と行動力の問題なのだ。
 どのような学びの場であれ、子どもの意欲と関心がもっとも導かれる教育が展開されれば、学校としての価値は十分であるとわたしは思う。
 子どもにも、親にもいろいろな考え方の人たちがいる。
 だから、すべての人たちに強制的に学校を選択しなければいけない状況を作り出しても、そのような必要性を感じていない人たちにとっては、そのことは負担になるだろう。いままでのままでいいという人たちは、どんなことにも過半数はいる。だから、すべての人たちが学校を選択しなければいけない状況を作り出すことは、不満をかかえる人たちを誕生させることになる。
 その点、特別認可公立学校の考え方は、多くの従来の公立学校のなかに、わずかに学区という制限のない、希望する子どもたちによる入学が可能な学校を用意するというものだ。
 この考え方に立てば、特別認可公立学校を選ぶわずかな子どもたちと、いままでどおり教育委員会の就学指定先学校に通うたくさんの子どもたちとは、割合としてぶつかりあうことはなくなる。チャータースクールは、全米の公立学校のわずか2%に過ぎないという。2%ということは、50校に1校がチャータースクールということだ。
 仮に、35校の小学校がある自治体では、チャータースクールはないかもしれない。35校とはいまの藤沢市のことである。これに対して、300校も小学校がある横浜市では、6校の特別認可公立学校が認可される可能性がある。
 わずかな確率でしか、認可されないとはいえ、個人や法人に、新しいタイプの公立学校を設立する可能性を広げる特別認可公立学校は、学校教育に不平や不満をいだく人たちに、手足を与える可能性がある。同時に、口先ばかりの人たちは、説得性に欠けることを認めなくてはならなくなる。「批判ばかりするよりも、それならば理想の学校を作ってみたら」と言われることになる。

学力論議と希望入学

 最近、大学生の集まりに呼ばれることが多くなった。
 教育学を志向している人たちばかりではない。あるべき日本の未来像を模索する集まりで、たまたまテーマが教育というときに呼ばれる。
 「最近の学生は、学力が低下していると言われる。なのに、来年からは、もっと授業時間が減ることになる。そのことについて、どう思うか」みたいな質問をよく受ける。わたしは、まず、新聞や雑誌の受け売りみたいな質問原稿を考え直すように応じることにしている。
 学力低下論議については、数年前のデータと最近のデータを比較して、学力が低下しているというのであれば、議論に応じよう。しかし、そのような科学的な比較材料なしに、感覚的なものを頼りに教育を語ることはもっとも危険である。なぜならば、自分の思い通りの方向に子どもたちを導こうという人たちが、これまでに同様の方法で学校を装置として使い、子どもたちを戦場に送ってきたではないか。
 つぎに、授業時間の削減について、正確な時間数を例示して質問を構築してほしい。
 総合的な学習の時間の創設にともない、そのほかの教科の時間が減少すると思われている。事実、国語や算数はいままでより減少する。しかし、わたしは、いままでの国語や算数の時間が多すぎると思ってきたので、来年以降の時間数は少しずつ妥当な時間になってきたという感想しかもっていない。国語や算数の時間が多すぎると感じるのは、わたし個人の感覚ではない。子どもたちのなかの、同一時間で強制的に周囲と同じように理解し、記憶しなければならないことに、不慣れな子どもたちを見ていると、そう思うのだ。
 そして、いままで授業時間数に含められていたクラブ活動・委員会活動・学校行事(遠足・運動会・子ども祭り・キャンプなど)を、来年度からは授業時間数には含めないことになる。学習指導要領で扱うことは明記しておきながら、授業時間としてはカウントしないことにするというのである。これでは、公式な記録としては全体の時間数は減少したとしても、実際に子どもたちが学校に拘束されている時間は大して変わらないことが目に見えている。
 こういったことを、事前知識として予習してから、質問してほしいと、わたしは応じている。

現実を知る努力を

 多くの人たちが、年齢や立場をこえて、学校教育にかつてよりも興味や関心をいだくことは大切なことだ。そのことによって、いままで教員の独壇場だった聖域としての学校が、周囲との良好な関係を築いていけるとしたら、それは必ず子どもにとってプラスになることだろう。
 しかし、学校づくり運動をはじめてつくづく感じることがある。
 それは、教育には自分なりの思いのある人でも、意外にも実際の学校のことを知らない人が多いことだ。新聞やニュース、雑誌や、ひどい場合にはテレビドラマになどを参考にして、いまの学校像を語られても、こちらとしては答えようがない。問題性のある関心事があったならば、現場に踏み込むことがもっとも必要なことだ。とくに学校は、生身の人間が日々活動している場なので、そこに息づくものを肌で感じるなかから、自分なりの問題性に気づいていってほしい。わたしは、このようにしていまの学校を弁護しているわけではない。弁護しているわけではないが、ともに問題性を指摘しあうには、あまりにも感性でものを言っている人が多いので、同調するには気が引けるのだ。

新しい公立学校の役割

 学びの場を選ぶこと。
 学びの原点である興味や関心が、学校選びからスタートすることは、そんなにずれた発想ではない。そのように考える子どもに、自分が通いたい学校を選ぶ自由をプレゼントすることは、公立学校としての公益性を損なう問題には思えない。すべての子どもたちが、強制的に学校を選ぶべきだと言っているのではない。いままでどおりでいい子どもは、そのままでいいのだ。何割かの子どもに、希望して入学できる公立学校を設立するべきだと、わたしはくり返し述べる。
 そして、いままでどおりでいい子どもと、選んで学校に入学した子どもとを、比較したり、差異を指摘しようとする試みは無意味だと付け加える。どちらが、有意義かということは、その後の子どもの長い時間のなかでわかってくることであり、選択した瞬間に決定するようなものではないからだ。そして、長い時間の後、結果的にどうだったかなどと検証することも、ほとんど意味がない。人は多様な出会いと感受性を秘めている。置かれた状況が同じでも、違った人生を歩くことは、だれもが知っている。
 教育において大事なのは、そのときに、もっとも大切だと思う行動をとる自由が、子どもにプレゼントされているかどうかということだ。
 残念ながら、2001年度開始時点では、日本中のどこを見渡しても、わたしが考える希望入学制度を実施している自治体はない。公立小学校や公立中学校でも、学校選択をスタートしている自治体はある。しかし、それらはすべての子どもが通うべき学校を選ばなければいけない立場にある。そして、選ぶべき学校には、学校教育法の規定がのしかかり、これに違反する特色が出せないブレーキがかかっている。
 また、なによりも選ばれる対象である学校側が、もしも成果が上がらなかったり、子どもが集まらなかったら、廃校や閉校になるというリスクがない。この言い方は誤解を招くかもしれない。子どもの数が減って、廃校の危機に立たされている現状の学校で、日々熱意ある教育活動を展開している人たちをわたしは知っている。そういう人たちから、廃校と同時に遠方の学校に通わなければならなくなる子どもたちのことも聞いている。この場合、廃校の理由が、その学校に成果が見られないからではなく、子どもが少数で非効率だからだという、きわめて官僚的な行政の判断がある。
 わたしが考える希望入学制度は、まさにそのような理由で、行政から廃校のおどしを受けているような学校が、存続をかけて起死回生をはかるチャンスにもなるのだ。つまり、学校独自の特色を最大限に発揮することによって、子どもが何人であろうが、たしかな成果が見られれば、より子どもが集まるようになり、廃校のおどしから脱出することができる。
 希望入学制度によって、学校が独自のビジョンと教育方法を開発し、一定の成果を社会に対して示していくことが可能になれば、いつまでも不登校が増え続けるような学校は存在する価値がなくなるだろう。それでも存続し続けるという意味で、「選ばれる学校に廃校や閉校のリスクがない」とわたしは先述した。
 学校間格差を声高に危惧する人がいる。しかし、高校や大学で、すでに存在している学校間格差は肯定しておいて、よりクオリティの高いものを志向しようとする希望入学制度による小学校や中学校の誕生は否定するというのは、わたしには理解できない。いまの受験制度を全面的に是正する試みを、そういう人には具体的に行動で示してから、アドバイスをしてほしいと思う。
 わたしが、たくさんの学校のすべてを選択制にするのではなく、一握りの学校から希望入学制度を導入してはというのは、結果的には段階的な試みになるかもしれない。つまり、長期的には、ほぼすべての学校を子どもが選べる時代が到来するかもしれないということだ。それは、教育権が親に手渡されるということであり、学校教育のプロセスまでも管理していた文部行政から、もっとも重要な権利を市民が手にすることを意味している。
 未成年の凶悪事件が続発する2001年。
 まったなしの公教育改革をはじめないと、いまの小学生が成人になる2010年までは、現状に希望の光は見られないだろう。教育の成果は、とても長い時間を必要とする。とくに義務教育段階の改革は、いまの問題を解決するためにはじめたとしても、成果が出るまでに10年以上を待たなくてはならない。そのことがわかっていて、手を施さなければ、まさにおとなたちの不作為と、将来の子どもたちが非難することになるだろう。

 わたしは、毎月、フリースクールを実施しながら、希望入学制度によって開校する学校への入学を心待ちにしている子どもと親と、出会いつづけている。(完)

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