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バーベキューに行こう

 わたしは、1997年のある日曜日、妻に誘われて子どもの通う小学校に行く。
「いったい、なにがあるの」
なぜ、日曜日にわざわざ子どもの通う小学校に行くのか、その意味がわかっていなかった。
「なんか、バーベーキューがあって、お父さんやお母さんたちが、わいわい楽しむ会みたい」
学校までの道のりを歩きながら、よく理解できない説明を、自分なりに解釈していたのを、いまでも覚えている。
 妻の説明によると、息子の友人の親からの誘いだったらしい。
 学校に着くと、中庭から、バーベキューのかおりよりも、炭を焼く焦げ臭さが漂ってきた。焚き火をすると、洋服にいつまでも染み付く、あの焦げ臭さが鼻につんとくる。
 中庭に行くと、水色の工事現場でよく見かける大きなビニールシートが何枚も敷かれ、見知らぬおとなたちが、大声で酒盛りをしている。わたしは妻とビニールシートの端に腰を下ろし、居場所のなさをさびしく感じていた。
 自分が住んでいる場所を中心としたローカルな共同体に、それまでほとんどかかわってこなかったわたしは、そこにだれがいて、何をしているのかということに、まったく興味がなかった。仕事が忙しかったという理由もあるし、住んでいる場所という強制的な条件によってつながりを築かなければいけないという押し付けに、気持ちのなかで抵抗感があっという理由もある。
 妻は、さすがに子どもを通じて、何人かのお母さんたちと顔見知りらしく、楽しそうに会話を弾ませている。わたしは、仕方がなく、近くにあった、紙コップにビールを注ぎ、枯れたのどを潤すしかなかった。
 「はじめまして、○○です」
ビニールシートに座りながら、二杯目のビールを飲もうとしていたら、ある男性が声をかけてきた。
「はじめまして」
わたしは、形式的な挨拶を交わしながら、頭を下げる。その男性は手に紙皿と割り箸をもち、「どうぞ」とわたしに差し出した。どうやら、わたしの分を用意してくれたらしい。
「あっ、どうも」
ビールばかりでどうしようと思っていたところだったので、これで空腹を満たすことができると、内心ホッとしながら、わたしはそれを受け取る。
「Y君のお父さんですよね」
こりゃ、たまげた。どこのだれだか知らないこの男性は、わたしの息子の名前も、わたしがその父親だということもわかっている。
「はい、えー。失礼ですが、お名前は」
「HASIです」
 思い出したぞ。いつも朝息子と娘が登校するときに、いっしょに学校まで通っているHASI君の父親だ。

炭焼きの会

 バーベーキューの会は、20人くらいいただろうか。
「えーと、それでは、初めての方もいらっしゃるので、ここで自己紹介を」
ギョッ。わたしはこういうのが一番苦手だ。とくに見知らぬ人の中で自己紹介をするのは、恥ずかしさが先に立つ。知っている人同士は、ほんの少しの知らない人の名前だけを覚えればいいのだろうが、だれも知らないわたしのような場合、とても全員の名前など覚えられるはずがない。それでも、端から自己紹介は始まっていく。
「息子が○年○組でお世話になっています○○です」
それぞれ、自分の子どもたちの学年とクラスを知っている。お世話になっているという言い方をするということは、この中には学校関係者もいるということか。
 わたしは仕方がないので、「なぜ自分がここにいるのかわからないのですが」という、的外れな自己紹介をした。
 少しずつ、ビールや日本酒がまわるにつれて、わたしはアルコールの助けを得て、たまたま近くに座っていた人と会話を弾ませ、この集まりのなかみが見えるようになっていた。
 バーベキューの会は、もともと炭焼きの会というのがあって、そこで作成した木炭を使って行われていた。炭焼きの会は、おもにその小学校に子どもを通わせているお父さんたちによって構成されていたが、もう子どもが小学校を卒業している人もいたし、転居して学区ではないところに住んでいる人もいた。そういう意味では、学校の組織であるPTAとは異なるものだった。
 お父さんたちの中に、鉄鋼の仕事をしている人がいて、学校の敷地内に、手作りの炭焼き釜が作られ、そこで一昼夜をかけて作成した炭が、バーベキューで使われている。炭焼きをすることが目的なのか、作成した炭でバーベキューをすることが目的なのか、はたまた、炭を使うことによって、お父さんやお母さん、学校関係者がつながりをもつことが目的なのかは、参加したばかりのわたしにはよくわからなかった。
 JRの運転士だというHARIさんが立って言う。
「えー、次回の炭焼きは来年の二月に行いたいと思います。都合のつく方は、ぜひ参加してください」
参加者は、それぞれ飲んで、語っているので、その説明が聞き取れているのか、よくわからない。
「どうせ、近くなったら連絡網でまわすだろ」
どこからか、HARIさんに野次が飛ぶ。
「そりゃ、そうだけど。そうだ、きょう、初めて参加した人は、よろしかったら連絡先を教えてもらえると次回からの連絡をつけやすくなるんですが」
おー、このメンバーは、ひとつのグループとして機能している。バラバラのように見えながら、連絡網というネットを共有している。
 わたしは、帰りがけに自宅の電話番号を教え、フラフラになりながら妻と帰宅した。

家庭科室を使って

 1998年2月。わたしは前回のバーベキューで連絡のあった炭焼きの会に参加する。
 都合があって、夕方からの参加だったが、メンバーは昼頃学校に集合し、もう炭となる木を釜にくべ、火入れも終わっていた。たった一回きりだったが、バーベキューの会に参加していたので、顔のつながりはできていた。名前など、ほとんど覚えていなかったが、それでもまったく知らない人たちの集まりではないのが、気持ちに落ち着きをもたらす。
 炭焼き釜は屋外にあり、その前に例の工事現場で使うような大きな水色のビニールシートが敷かれ、すでに酒盛りが始まっていた。「いやー、よく飲む人たちだな」そんな感想を抱いていたら
「こないだはどうも、さあさ、こちらへ」
わたしのことを覚えていた人が、手招きをする。もともと、酒が嫌いではないわたしは、相手が誰であろうと楽しく飲める場所ならばホイホイ出かけていく習性がある。
 乾杯が終わり、校長や教頭、学校の先生たちが挨拶をしたり、釜の具合を確かめたりしていると、近くの家庭科室からいい香りが漂ってきた。ややあって、家庭科室から、先生たちがなべを手に持ち、炭焼きの一団のところにやってきた。そこには、キムチで味付けをした焼肉が盛られ、二月の夕闇のなかに白い湯気を漂わせる。
 それまでにも数回、炭焼きは行われ、そのたびに都合のつく先生たちで手製の差し入れをするのが恒例になっていたという。店で買った乾き物ばかりがつまみでは、一昼夜の炭焼きは体力がもたない。どう見ても調理したように思える食事はこうやってできていたんだと教えられた。炭焼きは土曜の夜から日曜の昼過ぎまで行われる。土曜が休みではないわたしにとっては、どうしても炭焼きに参加するとき、火入れが終わりご苦労さんという段階からしか参加できない。でも、調理だったら、多少得意とするところがあり、こういう方法で自分は協力ができるのではないかと気がついた。
 その後、数度の炭焼きでは、わたしは、大船で買出しをし、家から刺身包丁や調味料をもって参加した。家庭科室のテーブルを調理台にして、ひたすら酒の肴を作り出した。北海道出身の人は、石狩鍋を、九州出身の人は本物のさつま揚げを、それぞれに参加者にふるまう。わたしはせっかくだからと、近海物のイサキやとびうお、マアジなどを下ろし、刺身にして提供した。
 このような人たちとのつながりは、その後、家の近くを歩いていたり、バスに乗ったりすると、顔を合わせたときに「やーやー」と会話が始まるきっかけになった。学校関係者は、どうしても異動があるために、勤務時期は親しくなることができるが、異動してしまうとそれっきりになる。それは仕方がないことだが、一般の参加者はかなり遠方に転居でもしない限り、日常的に顔を合わせる。きっと、いままでも同じバスに乗ったり、道路ですれ違っていたのだろうが、そのころはつながりがなかったために、「やーやー」ということはありえなかった。

ソフトボールチーム

 炭焼きの夜は長い。
 アルコールの手伝いもあって、会話も延々と続く。あちらでは、煙突の煙の色についての講釈が始まり、こちらでは次の肴の仕込みが始まる。寒い時期の炭焼きでは集めてあった落ち葉を使って焚き火も行われる。幸い、学校が街中に立地していなかったため、近隣に住む人たちからのクレームはあまりなかったようだ。
 その話のなかで、「今度のソフトボールはどうする」というのがあった。
 鎌倉市PTA連絡協議会が主催している市内の小中学校PTA対抗のソフトボール大会が、毎年九月の第一日曜に行われるという。PTA行事なので、炭焼きの会で検討することではないが、実際のソフトボールチームのメンバーは、炭焼きの会に参加している人たちが多かったからだ。どうするというのは、ほとんどの場合、大会当日だけのメンバー集合でゲームを行い、終われば解散というやり方についてだった。
「せっかくやるからには、きちんと練習をして、メンバーのつながりを作ってみてはどうだろう」
だれが提案したことか忘れたが、その考えは了承された。こりゃ、大変なことになった。
 1998年4月から、ソフトボールチームの練習が始まった。
 学生時代に野球を経験していた人はとても少なく、監督のINAさんはもどかしさを感じただろう。みんな、来た球をひたすら強引に叩くだけのバッティング。守っていても、自分のところ以外にボールが飛んだら見ているだけ。親睦を目的とする大会だから、そんなにベースボールの技術にこだわる必要はないのかもしれないが、わたしはむしろそれでは怪我をしてしまうと感じた。ベースボールに限らずスポーツの多くは、巧みに考えられた動きをすることによって、無駄な労力と危険を回避することができている。トスバッティングという指示なのに、フルスイングのバッティング練習をしたら、ピッチャーを傷つけてしまう。
 毎週末の土曜日と日曜日の早朝が練習日だった。しかも当時は午前六時に集合していた。メンバーの多くは金曜日に遅くまで飲んだくれていることが多く、汗からビールの臭いが漂ってきそうだった。

一回戦負け

 練習をしてチーム作りにのぞんだ最初の年、秋のソフトボール大会で、YAMASAKIチームは、見事に一回戦で敗退した。メンバーもぎりぎりだったし、実践の経験がほとんどないチームでは、本番の公式戦という緊張に勝てなかったのは仕方がないことだったと思う。慰労会では、「それでもよく練習を続けたよ」という励ましが多く聞かれたが、「やっぱりひとつぐらいは勝ちたかったよね」という本音も出た。
 すぐにその場で、次年度の監督とキャプテン人事が決定し、練習方針が決定した。
 市内の大会は、約20チームほどが参加するトーナメントである。つまり負けたらおしまい。もしも、たいして練習などしていないで、大会にのぞみ、一回戦で敗退していたら、その日だけのご苦労さんで終わっていただろうに、なまじ練習をして、もしかしたら勝つかもしれないという色気が生まれたのが、次年度への誓いにつながってしまう。同時に、わたしは監督のINAさんが練習を通じてメンバーに教えてきたベースボールの意味が、負けたことによって、なるほどとやっとメンバーに伝わったのかもしれないと感じた。

目指せ一勝

 OOIさんは、炭焼きや子ども会の夏祭りなどで顔見知りになった。
 創り出す会にも興味をもってくれて、初期の定例会などにも参加してくれた。「設立趣意書」のプロットやコンテンツづくりは、彼がいたことが大きく影響している。OOIさんは職場のソフトボールチームで本格的なソフトボールをやっていたので、自分のプレーだけでなく、いつもほかのメンバーや相手チームの情報をよくつかんでいた。
 1999年のソフトボール大会。春からの約四ヶ月間にわたる練習。前年度の反省から、かなり実施した近隣のソフトボールチームと練習試合。そして、なによりもノーマークチームからの脱出。さまざまな思いが交錯するなかでの開会だった。
 この大会では、OOIさんが相手チームの打者によって、守備位置を極端にシフトする指示を出しつづけた。わたしは高校からのホットコーナーであるレフトで、そんなOOIさんの指示に従いながら、前後左右に動き回っていた。その甲斐あって、この大会では「目指せ一勝」どころではなく、なんと四連勝して決勝まで進出する。
 ユニホームも、統一したTシャツもない無名のチームが、決勝まで進出したことは、ほかのチームにとって偶然の産物ととられたに違いない。しかし、わたしは前年とその年のメンバーの動きを見ていて、それだけの力量をつけていると感じていた。ただひとつ、足りなかったのは、勝つ経験だけだった。最後の打者を打ち取り、守り抜くという経験が、豊富にあるかどうかということは、肝心な場面で余裕を保つことができるかどうかということに直結する。

二年連続準優勝

 公式戦での勝ち経験が少ないYAMASAKIソフトボールチームは、二年連続で決勝戦に進出するも、両方とも準優勝に終わる。二年連続で四連勝し、決勝まで駒を進めたことは、仕事も違い、近所に住んでいるとはいえ、日常的にそんなにつながりのないメンバーにとって、とても大きな成果だったと思う。
 優勝するとトロフィーだが、準優勝はカップだったので、わたしたちは二年とも、打ち上げでは大船の飲み屋でカップにビールを注ぎ、美酒に酔う。
 日常的にそんなにつながりのないメンバーとはいえ、わたしは炭焼きの会とソフトボールチームへの参加によって、いままでにないほど、ローカルなイベントに関係者として参加するようになる。子ども会の夏祭りがあればヤキソバ作りに精を出し、炭焼きのための伐採に軍手をもって参加した。そのうち、季節の折々に、花見や忘年会などの恒例行事が自然発生的に開催されるようになり、ソフトボールシーズンが終わっても、炭焼きがないときでも、さまざまな機会で顔を合わせるようになった。

マラソン大会

 子どもの運動会を見学に行く。ほとんどの親たちは、活躍するわが子の姿に目線が向く。当然のことだが、それは同時に、周囲にいるたくさんのおとなたちを知らないことによる気持ちの向け方も作用しているのではないかと思う。自分の子どもが登場していないとき、小さなビーチマットで退屈にすごすよりも、見回せば、あっちにもこっちにも知った顔がウロウロしているというのは、とても心強い。そのうち、応援などそっちのけで「きょうの夕方、いつもの飲み屋で一杯どう」なんてことになる。そのときの気分は、おとなであるというよりも、親であるというよりも、みんな少年のときのひとみの輝きをしている。
 学校でマラソン大会が冬に開かれる。
 マラソン大会は土曜日の午前中を使って行われる。有志の親や教員も選手として参加してかまわない。このとき、マラソン大会終了後に、全校の子どもや応援に来た親たち、近隣の人たちに、炭焼きの会は、トン汁と焼き鳥をふるまうことになった。
 数百人分の食材を手配するのは大変なことだ。
 数日前から、直接、市場で購入してきた大根やたまねぎが協力者の家に配られる。それぞれの家庭では、それらを指定の大きさに裁断し、大きなビニール袋に入れて、当日に備える。わたしは大根を何本も輪切りにして、筋肉痛になった。ほかにもキャベツを延々と切りつづけて腱鞘炎になった人もいると聞いた。
 マラソン大会は雨天で中止か延期になってしまう。当日のために用意した食材は、実施されなかった場合、すべて関係者が買い取るという恐ろしい条件のもとに設定されている。もともと親たちが自発的に学校側にお願いして実現したものだから、それは仕方がないことだが、だからこそ数日前から天気予報が気になってくる。
 早朝、六時に小学校の家庭科室に集合する。
 わたしは、大きな鍋に湯を張り、冷凍の焼き鳥を解凍する。生肉は食中毒の危険があるので、完全に火を通そうということでの解凍方法だが、これはうまみや油が湯の中に溶け出してしまい、とてももったいない。その後、炭で焼くのでどのタイミングで湯からあげるかがポイントになる。
「あー、この汁、おいしそうだよね。いいだしが出てるって感じ。ラーメンを作ったら最高だと思うよ」そんなため息が次への重要なアイデアになる。
 トン汁組、焼き鳥組、火お越し組、誘導組に分かれ、子どもたちが登校する頃には、火入れが始まる。「おはようございます。ごくろうさま」先生たちが、順次、家庭科室に顔を出し挨拶をしていく。最初の頃は、学校施設をこのようなかたちで親たちに使わせるのに反対意見も教職員のなかにあったと聞くが、子どもや親たちからの好評は、そういった考えを修正させるだけの説得力があったのだろう。
 マラソン大会は、学年別に行われ、縦割りチームごとの長い駅伝のようなルールなので、支度をしているメンバーは、自分の子どもの学年順になったとき、交替で応援に行く。
 最後のランナーがゴールし、学級指導が終了したあたりから、お椀と箸をもった子どもたちが中庭のお店に列を作る。誘導したり、もぎりをしたり、焼き鳥を渡しているのはPTAの役員さんたちだ。炭焼きの会は、必ずしもPTAのメンバーとは限らない。だから、そこには、学校だけにとどまらないおとなたちのつながりがある。おまけに、お椀と箸を手にするおとなたちの中には、近隣に住む方々も含まれ、マラソン大会とは無関係な人たちをも、受け入れている。校長さんと教頭さんは、この日のためにちらしを作り、近隣の家のポストに回ったという。
 マラソン大会後のトン汁と焼き鳥の提供は、子どもたちにはすっかり定着し、両方ともかなりの量を作るにもかかわらず、いつも完食で終わる。

三度目の決勝進出

 2001年のソフトボールシーズン。五月の連休明けあたりからPTAを通じてメンバーの募集があった。
 ほぼ毎年同じ顔だったのに、今年は準優勝二回という実績がものを言ったのか、新しいメンバーが続々と参加してきた。初めてのこととして、女性の参加もあった。
 キャプテンのHARAさんは、早朝練習のとき、道具の入っている倉庫のカギをもっていて、前日の夜に眠れないという悩みをかかえた。それは、もしも寝坊をしたらどうしようというプレッシャーだった。そのことを知ってから、交替でカギを回すことになったらしいのだが、毎回練習に参加していない、不真面目なわたしにはカギの順番は回ってこなかった。
 今年のシーズンは、山ほどの練習試合を行った。
 近隣の小学校や中学校のPTAチームが五チームぐらい集まって、八時ごろから昼頃まで連続試合を組む。七月は例年にない暑さでバテバテになったのを思い出す。
 名前が売れるというのは、ありがたい。
 三年前は無名のYAMASAKIが、二年間連続して準優勝したために、相手が最初から緊張してくれるのだ。最終回、一点取られればサヨナラ負けの場面や、先行されて追いつけないいらだちを何回も経験し、YAMASAKIのメンバーは、「負ける気がしない」余裕をもてるようになっていた。
 9月2日。大会当日。わたしは午前五時に目がさめてしまい、高校時代に夏の大会に出場したときのような心地よさを感じた。あの頃、監督やコーチに指導されたことを思い出していた。「外野はカバーリングを忘れるな」「失敗は忘れるように励ませ」「バッターボックスを楽しめ」「ボールは早く投手に戻せ」ひとつひとつのアドバイスを頭に叩き込み、あれから20年くらい経ってもよく覚えていたなーと、新たな感慨にひたる。過去の経験から、着替えは豊富にあったほうがいいことを知っていたので、わたしは三組の着替えをバックにつめた。一回戦で負けてしまえば、着替えは不要だが、決勝まで進出する強気をもって望みたい気分になっていた。
 約20チームが参加する、鎌倉市PTA対抗ソフトボール大会は、勝ち抜き戦で行われる。
 今年度は、くじ運がよく、一回戦が免除された二回戦からのゲームだった。初戦の相手は、玉縄中学校。もと、山崎小学校の親だったYOKOさんが引越し、PTAのない玉縄中学で、親や教員たちに声かけをして結成したチームだ。YOKOさんは炭焼きにも参加し、山崎小学校のPTAバレーボールチームではコーチも務めている。顔見知りが相手というのは、とてもやりにくい。おまけに、玉縄中学校は、打倒YAMASAKIを目標に相当の練習をしてきたと聞いた。それだけに、緊張のプレーボールだった。しかし、YAMASAKIは、これまでのゲーム経験から、負けない試合というのをメンバーが知っていたので、要所要所でそういったプレーが出て、勝つことができた。負けない試合というのは、単純にいって、守り勝つということだ。ランナーが三塁に行っても、ホームベースまでは行かせない。その経験は、多くの実践のなかから、メンバーのひとりひとりがいやというほど、こころと体に刻んでいたと思う。
 三回戦目は、山崎小学校の卒業生が入学する大船中学校。ここは、もともとYAMASAKIでプレーしていたメンバーが、子どもの進学とともにメンバーになっているので、玉縄中学校以上にやりにくかった。しかし、ここでもYAMASAKIは底力を発揮して勝つことができた。準決勝は腰越中学校。前年度、もっとも危ない勝ち方をしたのが腰越中学だった。おそらく野球経験者が多いのだろう、内野手の守備範囲がとても広い。間を抜くというのは至難の技で、ついつい外野まで飛ばそうと大ぶりになってしまう。そうなると、ピッチャーの思う壺で、内野フライを量産してしまう。ここでも、守り勝つゲームが実践され、YAMASAKIは、三年連続で決勝戦に進出した。三試合で、相手に与えた点が3点というのは、これまでのYAMASAKIチームにはなかった強さだ。
 決勝戦は、第一小学校。
 わたしたちは準決勝でサヨナラ勝ちをしていた。だれもそれが最終回だとは気づかずに、相手にリードを許した分に追いつこうとしていた攻撃回だった。逆転のランナーが得点した時点で、審判の手が上がりゲームセット。その勢いのままに、決勝戦では先攻がとれ、一回の表で10点をとる。
 いくら、得点が入りやすいソフトボールとはいえ、10点差が初回からつくと、逆転するのはたやすいことではない。しかし、監督のOOIさんは
「こっちが取れたということは、あっちにも取れるということだから、気を引き締めていきましょう」とメンバーに檄を飛ばしつづける。
 リードしたまま、最終回の守りにつく。第一小学校も反撃し、何点かを返す。それでもツーアウト、ランナー二塁三塁まで、こぎつけた。わたしはレフとのポジションで、二年間、決勝で破れたその場面を思い出していた。
 グランドも、時間も、日程も同じ条件のなか、三年目で、優勝の二文字がつかめるところまでやってきたのだ。
 メンバーの誰もが、自分のところに最後の打球が飛んで来いと思っていたのではないか。
 OOIさんの投球、バッターは振り切る。打球はピッチャーゴロ、その球をフォースアウトになる三塁へ。塁審の手が上がる。わたしは、それを確認して、グローブを空高く放った。もう、お前に用はない。
 「やっぱり準優勝の打ち上げとはくらべものにならないね」
恒例の大船での宴会は、優勝という冠にふさわしく、日曜日の夜だというのに、遅くまで盛り上がった。

ローカル・コミュニティ

 地域の崩壊が叫ばれている。
 近隣に住んでいても、顔も名前も知らない人たちが多くなった。
 自治会が強制的に機能していた頃は、地域の集まりから外れることは、そこでの人と人とのつながりを拒否することに等しかった。鎌倉では、まだまだ地域のつながりは強く、そのため新しく引っ越してきた人たちは、アパートの場合、間違いなく数年後には転居してしまう。固定した人間関係のなかに、入っていく困難さと、わざらわしさが、こころわ覆うのは納得できる。たまたま、近隣に住んでいるだけで、それぞれの価値観や宗教観、家族観などまったく違うのに、ある共通の尺度に合わせなければならないとしたら、息苦しくなるのは当然のことだ。
 だから、これからの時代はテーマ・コミュニティの時代だと、わたしは思う。
 考え方を同じにする人たちが、離れていても、手を取り合って、共同体を形成していく時代の到来である。
 しかし、せっかく、近隣に住みながら、電車にたまたま乗り合わせた客のように、無視を決め込むのはさびしい。もしも、なんらかの機会を通じて、接点がもてるのなら、それに越したことはないのではないか。わたしにとって、炭焼きやバーベーキュー、ソフトボールは、そんな意味で、大事な地元との接点となっている。そこで、得られる情報や、つながる人間関係は、何気ない日常生活にプラスに結びつく。スーパーに行ったとき、知っている顔が増えたのはそのためだと思う。
 知らない人ばかりより、知っている人が多いというのは、気持ちが安定する。
 ローカル・コミュニティの創造と維持は、このように、それぞれの地元で、たまたまそこに住む人たちの条件が重なったとき、とても有効に機能すると思う。行政や学校が音頭をとって、「さぁ、みなさんのふるさとです」みたいな切り口で、つながりを築こうとしても一過性で終わってしまう。炭焼きもソフトボールも幹事になった人の苦労は並大抵のものではない。連絡網を作成し、各戸に配布し、必要な情報を回す。準備にあたっても、市場や学校を往復し、仕事もだいぶ休んでいると聞く。
 ローカルであれ、テーマであれ、コミュニティを創造し、維持し、発展させるのは、大変なことだ。大変なことだが、その結果、住みやすい環境や、働きやすい職場、展望のもてる社会が創造されていく。なんにせよ、自分たちにできることというレベルで活動を始めることが大切だ。
 自分たちにできることとして始めるのだから、どうすればいいだろうとか、なにが悪かったのかというアイデアを、だれかのせいにすることなく、自分たちの問題として考えることができる。行政に豊かさを求める時代は終わった。求めていても、失業者も不登校も減りはしないことを、多くの人たちが感じ始めている。
 身近な生活を豊かにしていくこと。そのプロセスで、人と人とのつながりをキーワードにしていくとき、だれの手にもよらない、市民が誕生し、新しい未来社会が産声をあげるのではないかと、わたしは思う。(完 2001.11.3)

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