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第三章 自発的な学びのために

三節 自発的な学びのために


 最後に、「自発的な学び」はその子どもの将来にどのように結びついていくかを考えたいと思います。


 子どもたちは大人になるまでの間、仕事もしないで家庭で衣食住を親任せにしながら過ごすことを許されています。このことは全世界的なことではありませんが、少なくとも現在の日本ではそのようになっています。
 その子どもたちが大人になるための「装置」として学校が社会的に認知されています。


 「装置」という表現は誤解を招くかもしれません。つまり、ある役割をある約束にのっとって実現しているという意味です。


 ある役割とは、「学力の修得」と「社会性の獲得」です。そしてある約束とは「同学年の子どもたちがいっしょに学ぶこと」と「全国一律の学習内容が用意されていること」です。この仕事を担当しているのが教師であると考えます。
 この「装置」には大きな欠点があって、子どもたちが学校という装置を経験することによって、具体的にどのように成長し、その後の人生において有意義なものを得たかどうかという検証がやりにくい構造になっているのです。
 つまり、比較できる対象がないために、子どもたちがその装置を使わなかったとしたらどうなっていたかという検証ができないわけです。このため、授業が成立しない状態や、教師に対する暴力や、子どもどうしのいじめや、学校に行かなくなる子どもたちの増加や、途中で辞めてしまう子どもたちの増加に対して、改造がほどこしにくくなっているのです。


 もしも、多様なかたちの「装置」が用意されていたとしたら、少なくとも「あちらの学校の子ども」と「こちらの学校の子ども」の比較検討ぐらいはできるようになります。このようなことは教育にはなじまないと考える人もいると思いますが、何年も前から社会は「塾」や「通信教育」「習い事」という形でそういった「比較検討」を受け入れてきているのではないでしょうか。また私立学校や受験競争の顕在化は、すべての学校に格差がないとは言い切れない現実をわたしたちに突きつけているように感じます。


 つまり、「学校は格差がなく、子どもたちに平等の教育を行ってほしい」と願いながら、「現実には塾も必要だし、他の子どもよりも多くのことをわが子に知っていてほしい」という、とても矛盾する二面性が今の状況だと思います。
 このことは、本音と建て前という分け方をすればうまく適合するのではないでしょうか。
 建前では学校を均質均等なものとして、本音では少しでも上位の学校を目指していくという図式です。


 こういった矛盾は増幅され、子どもたちの内面を確実に傷つけているのではないでしょうか。本人の努力や、現在の状況に関係なく、「在学している学校名」や「卒業した学校名」が将来を決定づけてしまう状況は時間がかかっても改善するべきだと思います。
 すでに先端企業ではそんな考え方はなくなっているという人もいます。しかし、大学卒業者が就職できないために、多くの人たちがさらに大学院へ進む現状は、現実はまだまだ冷ややかだという学生たちの叫びのような気がしてきます。


 湘南小学校での子どもたちの「自発的な学び」は湘南小学校だけで終了してしまうものではないと考えています。
 自分の頭で考え、自分の力で準備をし、自分の方法で学んだ経験は、その後の人生においてきっと成果となって現れてくるのではないかと考えます。
 実際、わずかな期間ですがわたしたちが実施しているサマースクールを終えると、参加した子どもの中には「少しずつですが」「明らかに」自分で物事を考え行動していこうとするようになったという報告が保護者から届いているのです。そして「退屈な学校生活がまた始まった」という子どもからの手紙が届いているのです。


 大人たちが良かれと信じている現在の学校で行われていることが、いやでいやでたまらない退屈な日常だと受け止め始めた子どもたちが確実に増えてきています。こういった子どもたちがわたしたちの考える湘南小学校にとって初期の在校生になるかもしれません。しかし時間の経過とともに、湘南小学校が掲げる教育理念と教育方法はより多くの子どもたちに支持されるのではないかと信じています。


 湘南小学校での実践をサマースクールというかたちで少しずつ具現化し始めてから、わたしたちのところに寄せられるようになった多くの要望の中に「中学や高校の開設」を願うものがあります。また質問というかたちで「中学に行ったらどうするのか」「高校に行ったらどうするのか」という具体的なものも増えてきました。


 これらは「湘南小学校における自発的な学び」が現在の中学や高校では行われていないのではないかという心配から発していると考えます。実際にその通りかもしれませんし、個人の努力によってはそういった心配は払拭できるだけの環境が整っているかもしれません。
 しかしいずれの場合にせよ、わたしたちは「自分で考え行動する」子どもたちが湘南小学校における一時期で「完成」するとは思っていません。むしろ、湘南小学校における一時期は単なる出発点かもしれないのです。


 自発的な学びは、段階ごとの区切りに、プレゼンテーションというかたちをとってステップアップしていきます。
 プレゼンテーションでは、表現する力が強く求められることでしょう。
 このとき、コンテンツ(なかみ)の少ないプレゼンテーションは当然のこととして、対象となる子どもや大人たちから指摘されることになります。しかしこの指摘は、子どもに「さらに能力を高めておくれ」というサインなのです。そのことによって、個人をおとしめることが目的ではありません。自分に何が不足していたのかをそのような機会を通じて、子ども自らが感じていってほしいのです。


 学習成果の発表というのは現在の学校でも多く行われています。
 しかし、それらは多くの場合、教師によって最初の段階のテーマが指定されていることが多く、また「教科」の枠組みで評価されてしまうのではないでしょうか。
 たとえば「社会のテーマ学習」を経験した子どもは、言語能力や計算処理能力もフル活用したとしても、「社会科」という教科枠の中で評価されてしまいます。
 教科という区切りは大人たちが考え出したものであって、子どもの全体的な育ちをとらえるときには「伸びを断片化」してしまう危険性をもっています。


 湘南小学校では子どもの学びを少なくとも「教科」という枠組みでとらえることはしません。これらは「学習」を「遊び」から切り離してしまう考えと同様に、「これはいいけれど」「あれはだめ」という大人の条件を子どもたちに意識させてしまうからです。


 そのような学びを通して、湘南小学校の子どもたちは、生きることに積極的になってほしいとわたしは思います。
 自分を卑下することのない教育環境で十分に育ったことをエネルギーとしてその後の学校生活や社会生活において、他人にすべてをゆだねることは自分の影を薄くしていくことにしかならず、結局は無責任な自分しか自覚できないことだと気づいてくれればと思います。


 わたしはこれまでの教師生活でたくさんの子どもたちやたくさんの親と出会いました。
 その中には今でも出会えたことを感謝したくなるすばらしい親子が何組かいます。またその後の様子をたえず気にかけている親子も何組かいます。
 教師と子どもの出会いは、湘南小学校でも従来の学校と同様にあることでしょう。そんなとき、支援を基本とする湘南小学校の教師たちの存在は、これまでわたしが経験してきた「教師」よりも、はるかに影響力の強いものになるのではないかと思います。
 何かを一方的に教えるわけではないだけに、関係性の取り方が重要になってくるのです。


 子どもが自発的になるために、教師がその失敗や甘えをストレートに受け入れていく経験の積み重ねが子どもの心の中に確かな「つながり」となって結実していくように思います。


 最後に。
 わたしは最初に「自発的な学びは、子どもたちにその後の自主的な生き方を導くことになるのではないか」と推論をたてました。
 それぞれが自分で考えたことを実行するというイメージは「バラバラな子どもたち」と思われるかもしれません。ここにふたつの具体例をあげます。


 ひとつは聞いた話です。
 関西地方のあるフリースクールに見学に行ってきた人から聞いたことです。
 そこでは子どもたちがその日に自分がやることを決めてそれぞれに実行しているそうです。実際に見学していると、たしかに共同で何かをしている姿は見られません。しかし、そこには不思議に「落ち着くムード」があったとのことです。
 それぞれが自分のやっていることと、他の人がやっていることの違いを認め、だからこそよけいなちょっかいやからかいをせず、それでいて「おもしろそうなことには声をかける」ぐらいのつながりを意識しながら、時間が過ぎていたとのことでした。
 相手を大事にすることは、自分が大事にされていないと実現しないことだとわたしはその話から教えられました。
 反対に、教室でみんなが同じことをやっている今の学校のうるささが耳にこだましてくるようでした。


 もう一つはわたしの体験です。
 数年前に、やがて休日になってしまう土曜日を学校裁量で考えるようにとのことから、この日をどのようにするかと考えたことがありました。当時はまだ「総合学習」という言葉は聞こえていない頃でした。
 わたしは同僚らと「子どもたちが自分で考えたことを実行する日にしてみよう」と提案文書を作成しました。その名は「ラッキーサタデー」。新しい学校を作ろうという活動を開始する以前のわたしは今の学校の再生と改革をなんとかやっていたのです。
 このプランは教職員の話し合いの段階から議論になりました。
 「それでは遊びになってしまう」「てんでばらばらで学校中がパニックにならないか」「何をしたらいいのか分からない子どもはどうしたらいいのか」など疑問とも意見ともとれる声が教職員の間から多く聞かれました。
 そこでわたしは全校児童に「もしも土曜日に自分がやってみたいことができるとしたらあなたはどんなことをしてみたいですか」というアンケートをとりました。音頭をとった都合上、それらのアンケートの集約は全部わたしがやりました。クラスごとの第一次集約、それらを内容別に分けた第二次集約、集約した結果を表とグラフに書き分けるなどの作業は睡眠時間を削ってやるしかありませんでした。
 そのアンケートに子どもたちはとても多様な答えを寄せました。同一内容や類似内容は統一したとしても約四百種類ぐらいのプランが出てきたことを今でも覚えています。
 わたしはその結果をふたたび教職員に示し「子どもたちの気持ちは大人の考えよりもはるかにしなやかで、かつ個人的である」ということを説明し、教師がひとつひとつの活動に「指導者」としてかかわらなくても大丈夫なものがたくさんあったことを説明しました。
 そしてラッキーサタデーは実現するのですが、予想された騒然とした雰囲気はまったくありませんでした。調理実習を希望した子どもが多くて家庭科室での人数調整が大変だったという課題以外は、子どもたちはそれぞれに自分のやりたいことをもっとも都合のよい場所を探してやっていたのです。当日はチャイムを切って、時計の針で進行していたのですが、ふだんは「長く感じる学校の日常」を終了の放送を入れたときに「もう終わるの」と嘆く声が年齢を問わず聞かれました。
 この実践を教師の学習サークルで報告したことがありました。そうしたら「わたしだったらそんな日は学校に行かない」と、ある教師が感想を言いました。その選択肢はもちろん「よきこと」なのですが、実際に欠席した子どもは体調不良以外はいなかったのです。教師の感覚と子どもの感覚の違いを教えられたような気がします。
 ラッキーサタデーは子どもたちの強い要望により、その年度内にもう一度行われることになります。しかし、残念ながらその翌年度に続くものにはなりませんでした。
 それは教職員の中に「あれは勉強ではない」「学校の役割はもっと違うところにある」「子どもの様子が分からない」「準備が大変だ」という反省が出されたためです。たしかに準備はとても大変でした。そして教科という枠組みから考えれば、どの枠組みにも入らないものもたくさんあったと思います。
 しかし、ラッキーサタデーを迎える子どもたちの生き生きとした表情や、自分のやりたいことが実現できた子どもの満足げな表情は、これをやっていけば今の学校も変わることができるのではないかと思えるものであっただけに、継続的な取り組みにならなかったことがとても残念でした。


 これらふたつの具体例は「自発的な学び」を考えるときにとても象徴的なことを示唆してくれています。


■個人が尊重されることは関係を円滑にする前提条件である。


 自分で考えることが許される状況を「自由」と呼ぶとしたら、自由であるとき、子どもははじめて周囲の人やものに対して、自然な関係を気づこうとするのです。反対に、考えることが制限されていたり、考える範囲が限定されていたりすると、子どもは狭い範囲でしか物事をとらえられなくなり、ささいな違いをめぐって対決してしまうのです。
 はじめに「なかよく」が先行しているのでは、自分が主張できず、見栄えの良い関係を築くことしかできず、実際には「集団の中の孤独」が蔓延してしまうのではないでしょうか。


■バラバラに見える状況は子どもにとって安心できる雰囲気をつくる。


 周囲が自分と異なることをしていることが安心感となるのです。なぜなら、似たようなことをしている人と比較されなくてすむし、自分でも気にしなくてすむからです。それぞれに「あの人はあのことが好きなんだな」という肯定感が広がっていくことにより、相手を認めていくやわらかい心が育っていくのではないでしょうか。
 
■ 自己実現は内容が問題なのではなく、これを可能にする諸条件にかかっている。


 子どもが「何をするか」という内容的なことを絞り込んでいくと、子どもは自分で考えなくなってしまいます。それは大人の都合にあわせて内容が変更されるなら、最初から大人の都合にあわせたものをやればいいという「あきらめ」へとつながっていくように思います。
 だから内容的に制限を設けるときは、子どもたちが提出してきた発案に対して行うのではなく、考える以前の段階で「できること」と「できないこと」を明らかにしておいてあげるのが、親切だとわたしは思います。
 だからといって子どものプランはすべてが実現可能なものばかりではないでしょう。「時間」「場所」「ひと」などの諸条件がクリアーされない限り、これらは実現困難だからです。この問題は子どもの力でなんとかなるものではないので、大人たちが事前段階で十分に調査したり調整したりしておく必要があるでしょう。


■自発的な学びの方向性に誤りはない。


 先述した具体的な例はあくまでもわたしの経験の中から浮かび上がる象徴的なものに過ぎません。実際には、もっともっとたくさんの「自発的な学び」の確かさを表すような具体例はたくさんあることと思います。
 いずれにせよ、わたしは子どもたちが「学校で」「学びというかたちで」「自発的になること」は、その子どもの現在もそして将来も含めて誤りになるとは思っていません。
 文中で何度も繰り返してきているように、この学びがすべての子どもにとって有効なものかどうかは分かりません。「教授中心」の学びの方が適合している子どもがいたって当然なのですから。
 しかし、わたしは子どもが中心になる学びはやがて、全世界的に新しい教育の可能性として広がっていくのではないかと思っています。そのことはすでに少しずつ世界の各地で始まってはいると思います。
 自発的な学びを子ども時代に経験してきた人たちが、人生を自分のものとして受け止めることにより、周囲の人たちと自分との距離を自然にはかり、宗教や人種や民族などといった違いをしなやかにこえていく、そんな時代が到来することを、湘南小学校の教育は示唆しているのです。


 子どもの心にストンと落ちる「学びの方法」が示され、実現していく社会になることを強く望んでいます。(完)