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第三章 自発的な学びのために

一節 自分を見つめること


 湘南小学校では子どもたちに「何をしたいか」「どうやってやるのか」「実際にやってみよう」「どうやって人に伝えるか」というプロセスを要求します。このことは、これを要求する教師たちに子どもに一方的に要求ばかりを出して自分は何もしないのかという問題を突きつけるかもしれません。
 実際は湘南小学校の教師たちは子どもたちの学びを全面的に支援するために、計画立ての不可能な迷い道を日夜さまようことになるのですが、そういった人たちが「それでも自分は子どもたちに要求ばかりをやはり出しているのではないか」という責務を負う可能性はないとは言い切れません。


 そこで最終章では具体的な教育の場面ではなく、これを支えるものの考え方や周辺の環境づくりなどについて触れていきたいと思います。


 湘南小学校の教師たちは子どもたちに多くの場合、本人の考えを導き出すように接していきます。それはとりもなおさず、子どもに子ども自身と見つめ合うことを要求していることに他なりません。
 自分自身と見つめ合うというのは「自分で考える」という方法論的なことだけでなく、「今の自分の状態を知る」という内容論的なことまで含んでいます。だから、相手の状態を見抜くことができないと教師は簡単にそして一律に「自分で考えてみよう」などとは言えなくなるはずです。


 なるべく個人を特定しないようにわたしの経験してきたことを例として出します。
 あるクラスで帰りの時間に親の一人から電話がかかってきたことがありました。家のトイレが壊れたから、帰る前に用を済ませるように伝えてほしいとのことでした。それも明日までは修理できそうもないので、大便をさせてきてほしいとのことでした。わたしは「伝えることはできるけれども強制することはできない」とその親に伝えました。親はそこを何とか「やらせてくれ」と電話口で強調しました。
 わたしは教室に戻り、帰ろうとしていたその子どもを呼び止め、周囲に聞かれないところにつれていき、電話の内容を伝えました。その子はとてもイヤな表情をしました。学校での用足し、とくに大便は神経質な子どもにとってはなるべく避けたいことの一つです。その子はわたしが知る神経質な子どもの中でも飛び抜けて細かいことが気になるようなタイプの子どもだったので、かなり気が滅入っていたようです。
 その子は「困ったら近所の家のトイレを借りるよ」と、とても当然のことを言い残して帰っていきました。わたしは、それができるなら、親はわざわざ電話などかけてこないのではないかとも思いましたが。
 案の定、翌日になってその子の親から長い電話と授業中の抗議電話がかかってきました。自分は頼んだのにどうして伝えてもらえなかったのか、子どもは夜になってトイレをがまんしたために腹痛になり、近所の世話になったと結ばれています。そのことのいったいどこに問題があるのかわたしにはまったく分かりません。しかし、ことをあらげるよりも服従に徹した方がという思いから「自分の力が至らなくて」という詫び状を書いたところ、数日たって「分かればいい」という返事が来ました。


 わたしはこの子どもの親を個人的に攻撃するために例として引き合いに出したのではなく、こういった思考の大人によって現代の子どもは育てられているということをここで述べたかったのです。それは特殊な例で、決して一般的ではないと思われるかもしれませんが、たしかに過半数ではないにせよ、同学年の子どもたちの中に確実に二割から三割はこういったタイプの大人が出現してきたことを実感しています。


 こういった人たちに共通してるのは、自分の行いを他者の視点から見ようとしないという「狭さ」です。
 担任を通して自分の言ったことを耳にしているわが子どもの姿、あるいは自分が子どもになってそう言われたらどうするかという発想が感じられないのです。また、教師として日々多くの子どもたちに接する立場に立ったとき、もしもそのような要求を突きつけられたらどう思うかという想像ができていないのではないかと思うのです。
 これらは「自分を見つめることを抜きにして、自分を主張している」ように思えてなりません。人は相手との距離を意識しながら日常生活を送っているのであり、文字を書くのも、しゃべるのも、歌うのも、すべて相手との距離によって微妙に変化させているはずです。
 一方的に原稿が用意されていて、それを最初から最後まで読むのであれば、わざわざ声に出すのではなく、それを印刷して配った方がずっと相手を意識したていねいな対応になるでしょう。


 この「どこに向かって伝えているのか」という視点は、じつは絶え間ない意識化によってしか成立しないとわたしは考えます。
 つまり、たえず「相手はどう思っているのだろう」「誤解していないだろうか」「退屈していないだろうか」「傷つけていないだろうか」「共感してくれているのか」「反感をもたれたか」という距離の確認をしながら関係性を構築していくのです。インターネットの登場によって、相手との距離がニュートラルになってしまうことにより、距離の意識化が急速に失われているのは残念なことですが、インターネットの世界では「避けること」「逃げること」が保証されているので、イヤならば関係をストップさせてしまうことが容易です。


 しかし学びの場面には、子どもであれ教師であれ、そこには直接の人がいるわけで、相手のことを無視して逃げ出すことは距離を一方的に解除することになり、建設的とは言えないでしょう。
 だからこそ、絶え間なく自分自身に問い続けていくことが大事なのです。


 自分の言葉に酔ってしまった場合、そこにいる相手のことはほとんどの場合、無視しています。言ってしまって、しまったと思い、補おうとして追い打ちをかけるというのはよくあることで、それだけに距離を意識化する言葉は慎重に選ぶ必要があるでしょう。


 シンプルな言い方をすれば、自分を見つめることを手助けするアドバイスを教師がするとしたら単純に「短い表現」であればあるほど、熟慮された発言であると言えると思います。
 相手に「なぜ」「どうやって」「なるほど」とたくさんの心の弾みを湧かせることが手助けになるからです。
 限られた時間があって、時計ではかりもせずに一方的に説明だけを全体の三分の一もやっていたとしたら、それは相手のことをあまりにも考えていないと思われても仕方がないと思います。


 湘南小学校の教師たちは、子どもたちが帰った後の時間を使って多くの情報交換をすることになるでしょう。
 そのとき、「子どもをどうしたいのか」という、従来の教育研究で使われてきた表現はなるべく避けることができたらと思っています。「子どもをどうしたい」というのは、従来の教育研究における「指導目標」的な考え方であり、ある到達点へ向けての授業案に対して、子どもたちがどのように学習したかを確かめるときに使われる表現だからです。
 湘南小学校では「子どもをどうしたいのか」ではなく、「その子の今はどんな様子で、未来へ向かってどのように歩もうとしているのか」という視点から、適切な支援のあり方が検討されればと願っています。
 これは子どもの数だけ内容のあることで、実際にはとても労力的に大変なことになるでしょう。必然的に、学習内容や活動場所などに応じて子どものグループ化をはかり、検討する段階ではそれぞれ別々に話し合うなどの工夫が必要になってくるかもしれません。


 これらはすべて、子どもの自発的な学びを大切にするために必要な周辺整備だと考えることができます。
 子どもが大人の恣意的なまなざしに影響されることなく、自分の内面からわき上がってくる興味や関心、疑問や意欲を大切にするためのプロセスなのです。


 ここまで「自分を見つめること」をわたしが強調するのは、一九九0年代後半から二000年にかけて連続した少年少女たちによる凶悪事件の発生が背景にあります。個々の事例は関連性のない個別な動機と地域別の事情が複雑にからみあっているのでしょうが、そのように割り切ってしまうことに疑問を感じるからです。
 なぜなら、報道でしか伝わってこないので真実とは異なるかもしれませんが、ほぼすべて「事後の状況」に対してあまりにも無神経な感覚しかもっていない供述をしていることから、自分のやろうとしていることの将来的な予測や周辺への影響という、関係の意識化が子ども時代にはかれていなかったのだろうと思われるのです。
 先述した、トイレを依頼する大人世代の子どもたちが、自分の思いを実現するのに、あまりにも直線的に、そして破壊的になってしまうのはある意味で仕方がないことかもしれません。
 しかし、今後もそのような事態が続くとしたら、これまでの学校や家庭や地域で行われてきた教育活動を見直して、新しいものを築き出そうという動きは必然的に誕生してきたと考えることはできないでしょうか。


 関係の意識化に対して、ある意味で鈍感でもかまわないという価値観が学校でも家庭でも広がっているのは、ひとつには「学歴信仰」が根強くあると思います。
 「学歴信仰」とは一般的な言葉ではないかもしれません。
 つまり、学校でよい成績をおさめていればほとんどのことが許され、認められる考え方です。その延長上に、偏差値の高い学校に進学することが求められ、そのような子育てをすることがよき親としての条件、そのような子どもを卒業させることがよき教師の条件かのように信じられている考えです。
 これは、具体的にそのような歩みを示した子どもが将来どのような生き方をしていても、もしもそうではなかった場合にどうなるかという比較材料がないにもかかわらず、「よきもの」「よきこと」と信じて疑わないという点で、わたしは「信仰」という宗教上の言葉をあてています。


 初期の学歴信仰は「塾通い」「通信教育」「家庭学習」というかたちで現れます。これらは親が子どもに提供するもので、ほとんどの場合子どもがこれを拒否することは許されていないのではないかと思います。
 このような学校外での「教育機会」が広く親たちに受け入れられているのはなぜでしょうか。単純に同学年の子どもたちがみんなそうしているからという理由だけではないでしょう。そこには、子どもに「先行投資」するという経済学のような考え方があるようにわたしは思います。もしも、字をきれいにさせたいのなら習字でもいいわけですし、計算に慣れさせたいのであればそろばんでもいいわけです。それなのに、学校の勉強と同じか、それよりもはるかにレベルの高い内容を学校外に求めるのは、子どもの遊び時間がなくなっていくというリスクよりも、もっと大きな「見返り」が期待されるからではないでしょうか。
 子どもたちを大人の所有物のように扱うようになってきたのは今世紀に入ってからのことですが、それについては詳しい書籍がすでに出版されているのでここでは詳しく触れません。ただ健康であればいい、ただ元気であればいいという親心はすでに幻想であり、多くの大人たちは同年齢の子どもたちよりもさまざまな分野で我が子が「ぬきんでる」ことをよしとしているように思われます。
 こういった教育という方法を使った競争は、比較しやすく、効果がわかりやすいという利点をもっています。
 つまり能力を点数に表すことで、変化や順位が自明のものとなるわけです。


 そこには、一貫して「自発的であることの無意味さ」と「主体的になってはいけない約束」があります。
 与えられたことを制限時間内に合理的に解決する能力の育成には、ノウハウがあり、その用意されたレールを子どもがはずれることなく歩き続けることができるように応援するのが大人の役目だからです。
 これでは、残念ながら思春期になって子どもに心の変化が現れた頃に、自分と周囲(世界)との距離を意識することなど難しいと言わざるを得ません。


 湘南小学校で子どもたちが「自分を見つめる」経験は、どんなことをやろうかという学びに結びつくものですが、「自分を見つめる」ことはそういった経験を通して、その後の人生においてはもっと大きな意味での「自分とは何だろう」という命題へと発展していくものであると考えています。
 この命題には簡単には答えは見つからないことでしょう。しかし、その視点を持ち続ける子どもたちが育っていくことこそが湘南小学校の「新しさ」なのです。これからの時代に「自由と責任」をたえず考え続ける生き方ができる人が湘南小学校のような学びから次々と誕生していくのではないかとわたしたちは考えているのです。


 すべての卒業生をひとりの浪人を出さずに高校に進学させる中学校教師たちの並々ならぬ努力は過去のある時期には称賛されたことでしょう。不登校になりがちな生徒を何とか登校させて卒業資格を与えるために奮闘する高校教師たちの熱意も過去には感謝されたことでしょう。
 しかし、当事者である子どもたちからそういった教師たちの努力や熱意に対して、別の感覚が生まれ始めているのです。
 その矛先は「子どものため」と言いながら結局は浪人を出した中学と呼ばれたくないとか、不登校をかかえる担任でありたくないという、「大人側の論理」へと向けられているのです。


 学校現場を介在して、ここ数年で多くの命が奪われました。
 そのようなことは昔からあったことだと統計的に説明する人もいますが、わたしは実際に学校現場にいて、たとえ似たようなことは昔からあったにせよ、周囲を傷つけて、後先のことを考えられないほど追いつめられた子どもたちの登場は、本当にここ数年のことだと感じているのです。「感じていること」なので論理的な説得力はありませんが。


 わたしは同僚を含む多くの現役教師たちとEメールの交換をしています。
 インターネットの登場で相手との距離がニュートラルになってしまうことにより、距離の意識化が急速に失われていると先述しましたが、これは一般的なことで、同僚らとのメールのやりとりはまったく違った側面を教えてくれます。


 相手との距離がニュートラルになるのは、相手を直接的に知らない場合に限定されます。限定といってもほとんどの場合はインターネットの世界では相手のことを直接的には知らないことが多いのですが。
 インターネット以前から直接的な関係のあった同僚らとのメールのやりとりは、じかに接する現実の方が「仮想」なのではないかと思えるようなこともあるのです。
 メールにつづられる「同学年担当教師との人間的な軋轢」や「教師であることの無力さ」「子どもに向けられるまなざしの違いからくるストレスの増幅」などの文字は、あふれる思いに満ち満ちているのです。そんなことをメールでは発信しながら、現実の学校では「仲良く見える」大人の関係を無理して維持しているのです。そんなに無理して笑顔をつくる必要はないのにと同情するほど、ストレスを増幅させながら「あわない教師」や「あわない親」とぎりぎりの綱渡りをしているのです。


 このような二面性は、インターネットの登場によって正と負のバランスの取り方が可能になったという意味で肯定するべきでしょう。以前から、精神的に落ち込んでしまう割合のとても多い職種である教職は、そのようなツールを入手した人にとっては救いになっていることでしょう。


 「深夜、パソコンに向かってメールを書いているときが、唯一、本当の自分と向かい合うときです」と真剣に書いている教師を想像してください。
 「本音で話せる知り合いはいないのか」とか「家族には相談しないのか」とか「勇気をもって問題を解決するべきだ」とか、投げかける言葉はたくさんありますが、それこそわたしには相手を知っているだけに距離を意識した関係の取り方をするしかないのです。「そうやって、ガス抜きをするゆとりを大切にしてください」と。


 自発的な学びを始めるときに、まず子どもがどんなことをしたいかを、周囲との比較や得手不得手などで判断せずに、自分の問題として自然に考えられる条件を湘南小学校の教師たちが日々築き上げていくことが、結果的に子どもの心に「自分を見つめる」という経験を蓄積させていくのだと思います。こういった経験は小さいうちから積み重ねることが大事です。そうしないと、現実の世界では本当の自分を見失いそうになり、匿名性の高い世界でバランスをとるという大人たちが増えていくことでしょう。