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第ニ章 湘南小学校での実践

三節 新しい学校イメージ


 「湘南に新しい公立学校を創り出す会」は日本国内に特別に認可された公立学校の設立を求めて活動を続けています。
 特別に認可されるとは現行の教育基本法・学校教育法により導かれている「学習指導要領」の内容からの拘束をはずすことを意味しています。
 現在の公立学校がどんなに特色を出そうとしても、漢字の学習や計算の学習、理科の実験や社会の暗記などを省略できないのはすべて学習指導要領によってこれらが規定されているからです。だから「特色ある試み」をやろうとする場合は、それらと別の時間を確保するか、それらを短時間で終了させあまった時間を使うかしかありませんでした。つまり特色を出すことによって、子どもにさらなる負担をかけるという構図になっているのです。
 これらを見直すために「総合的な学習の時間」が創設されようとしています。そこには内容を規定するものがなく、それぞれの学校で、それぞれの教師の力量とアイデアによって創意工夫ある学習が展開できるようになっています。その方向性は子どもたちに、他の学習との違いを明確にさせ、自分にとっての学びを対比経験できるという新しい展開が期待できます。しかし、週に二十五時間程度の時間枠の中で、わずかに三時間という扱いでこれらが本当に子どもにとっての自発性を発揮するのに十分な時間として機能するかどうかは今のところは不透明です。
 さらに学校教育法によって特別に学習指導要領によらない教育が認められている研究開発校による先行的な取り組みが各地で発表されています。その発表会に全国から多くの教師が参加し、マニュアルを購入していくありようは、類似した内容の全国頒布という事態を招かないかどうか心配にもなってしまいます。


 これらのことを踏まえた上で「特別認可学校制度」の実現を目指しているのです。本当に特色ある学校にしようと思ったら、根底から学校教育をとらえなおした大胆なビジョンと教育内容を実現する必要があると思うからです。
 ここで触れてきた新しいタイプの学校「湘南小学校」は、その特別認可が認められたと仮定しての話です。


 「湘南に新しい公立学校を創り出す会」には新しい学校を作りたいという人たちが集まってはいますが、必ずしもその新しい学校像が一致しているわけではありません。それらは一致するから良いものでも一致しないから悪いものでもないとわたしは考えています。
 学校設置を市民や保護者という立場から可能にする制度を立ち上げるためには、それぞれの考え方に相違はあってもかまわないからです。そして、いざ、開校のための申請が始まった段階でどうするかを考えればいいのです。


 どうするかを考えるとは、多少の相違を含みながら一体として学校設置を申請するか、別々の道に分かれて互いによきライバルとなるかなどを含んでいるということです。


 わたしが想像する「特別認可」の範囲は次の通りです。


@ 学級定数の解除
子どもの人数に対して教師が配属されるという方法の弾力化。
A 学年別指導の解除
同年齢である場合、同学年として同一内容を学ばなければならないという制度の弾力化。
B 教科学習内容の弾力化
国語・社会・算数・理科・音楽・家庭・図工・体育の各教科において学習指導要領において規定されている学習内容を必ずしもすべて扱わなくてもよいという認可。
C 学区域の弾力化
特別認可学校への入学と転学については従来の就学指定に従わなくてもよいという認可。


 ここに列挙した四点の理由は、特色ある学校教育を実現するには最低限これらの条件がそろわないと、実質的な効果を期待できないからです。
 学校教育法に学校においては「教科・道徳・特別活動を行う」ことが明記されています。教科学習内容は弾力化を保証しても、道徳と特別活動においては特別認可がおりない可能性は道徳と特別活動が過去の歴史においてきわめて政治的に学校現場に導入された経緯から想像できます。
 しかし少なくともこれらの四点の特別認可が実現すれば全国的に新しい教育に情熱を燃やす多くの人々が新しい学校づくりへ積極的になることができるのは確実だと思います。


 前記四点の内容について特別認可が制度として定着したとして、そこに開校する「湘南小学校」の具体的なイメージを構築します。


 湘南小学校の教職員は基本的には希望をもとに配置されるのがもっとも望ましいのですが、人事配置は市区町村と都道府県の担当なので決して願いどおりにはならないかもしれません。予算的裏づけがない限り、これらの自治体が申請し認可された学校に対して希望どおりの人事配置を有効にするほどのゆとりはないかもしれません。
 そんなとき学校作り運動を支えてきた市民の力が試されると思います。アメリカのチャータースクールの場合は申請者は開校時の勤務者でもあるわけですが、日本国内ではそのことが可能になる保証はありません。そのため、学校作りのために運動を推進してきた市民の力が開校後の「湘南小学校」にはとても必要になります。意に反して転勤してきた教職員だっているはずです。そんなときは開校までの道のりや、イメージとして築き上げた湘南小学校の意義について説明しなくてはならないでしょう。


 開校場所はおそらく新設は予算がかかりすぎるために考えにくいと思います。またもしも「特別認可学校制度」がアメリカのチャータースクールのように「契約」という考え方に基づくものであったとしたら「閉校・廃校」のリスクをたえず背負うことになるので、なおさらのこと新設はありえません。転用可能な施設や、余裕教室(空き教室)がこれにあてられることが予想できます。


 このようなイメージをもって、湘南小学校をイメージしてみます。
 子どもたちはまず定められた時間にフロア‐のような広い部屋に登校します。そこにはクラス担任はいません。複数の(教員免許をもって勤務する)教師や、その日の子どもの学習内容によって支援可能なボランティアの人たちがいます。さらに可能ならば大学で教員免許を取得するために実習にきている学生もいてほしいと思っています。
 子どもの中には親からの手紙や言付けをいいつかっている場合もあります。そんなときのために「関係性をコーディネートする役目」の教師がいて、子どもたちはその教師のもとにそれぞれの親からの連絡を届けます。
 「昨日、けがをして帰ってきたが事情を知りたい」「今日の持ち物が子どもの話ではよく分からなかったので電話してくれれば後から届ける」「知り合いに入学を希望する子どもがいるので個別の説明をしてくれないか」「年内に転居することになった」「明日から三日間欠席をする」「昨日の担当教師と折り合いが悪かったようなので今日は別の教師にしてほしい」「そろそろプレゼンテーションが近いがちゃんとやっているか」「近隣の学校に通う子どもたちから登下校でからかわれている」「体調が悪いので今日は欠席をする」…。
 これらは従来の学校でも担任がひとりで対応していることなので、湘南小学校だからといってことさらに新しさを背負い込むことにはならないと思います。ただし、子どもたち全体の関係性や子ども個人の学びの進展状況などを細かく把握していないと、十分な対応はできないことなので、その点だけ従来の学校の担任とは異質な部分が浮かび上がってくるかもしれません。


 湘南小学校は百人規模と考えているので、目に見える範囲に子どもたちが集まってくればだいたいの出欠席が分かります。
 学年制を解除する湘南小学校ですが、「出欠簿」や「健康診断の記録」「指導要録」などのいわゆる「公式記録簿」については従来の学校と同様にしなくてはならないと思うので、学籍事務管理は従来の学校と異なる方法を導入しなくてはならないでしょう。これらはすべて個人情報にあたるので、秘密を知る権利を有した者にしか記載や管理できない仕組みになるのではないかと思います。


 子どもたちは開校時間になると、その日のプランについて教師やボランティアと相談したり、すでに自分の計画がはっきりしている場合はそれぞれに学びを開始します。
 
 それぞれの学びは他者によって動機付けされる場合もあるでしょう。また、個人の興味や関心によって計画される場合もあるでしょう。子どもであれ、大人であれ、「ひとり」で生きているわけではないので、どんなにその個人の発案に思えるようなことでも、外部からの影響が皆無ということはありえません。ただし、外部からの影響を個人が自分の問題として受け止める「権利」が子どもに認められているかどうかは重要なことです。


 従来の学校ではおもに時間割に規定された内容を子どもたちが拒否することは許されていません。そして時間割に規定された内容を子どもたちが修正することも認められていません。これらは「やらなければならないこと」をやっているという図式になります。
 湘南小学校では、原則的にこの図式とは異なった学びが展開されます。
 
 何をしようか困っている子どもに対して教師がアドバイスをしたとしても、これを当然のように「拒否する権利」も子どもたちはもっているのです。拒否したからといって自分に別のプランがあるわけではなくても、単純にアドバイスされた内容が本人の意思にそぐわないものであれば拒否していいのです。


 自発的な学びをその根底から考えるとき、子どもの立てたプランは多かれ少なかれ外部からの影響なしには成立し得ないわけで、その意味でわたしは子どもはその内面において「何をするかを選択している」ととらえています。
 この考えはカントの言う「自由」に似ています。
 単純に束縛から解放されるための自由ではなく、自分との距離を確認しながら選択していく自由です。


 最初からどこかへ調べものをしようと思っている子どもは早い時刻から校舎を出ていくことでしょう。そのとき行き先にもよりますが、教師がついていった方がいいのか、保護者に同行してもらった方がいいのか、携帯電話をもたせて個人で行動してもらった方がいいのかは一概には言い切れません。こういった校外での活動は従来の学校では教育委員会に対して一週間以上前に届けを出さなければなりません。届けを出すと校外での活動も教育活動として認められ、履修に必要なことになり、万が一の事故の場合にも学校対象の保険が適用される仕組みになっています。
 しかし湘南小学校の子どもはそんなに計画的に「いついつどこへ行く」とはいえないかもしれません。子どもの学びを保証するという観点から言えば、そのような突発的に思える校外での活動も「教育活動の一環」だと認められる条件整備をしておく必要があるでしょう。


 校内で自分の学びを展開する子どももいます。継続的なことにチャレンジする子どもや、そろえた道具ではじめて具体的な活動を始める子どももいるでしょう。また、計画づくりの段階で何をしようかが決まらずに、学びの時期になっても考え続ける子どももいるかもしれません。


 教師たちはそれぞれの子どもの学びの進展具合や具体的な学びの足跡と思えるものをフォルダに管理しています。その積み重ねはやがてプレゼンテーションにつながり、かつ子ども自身が自らを振り返るときの大切なデータとなります。


 これらの説明だけでも、湘南小学校は従来の学校からは異なる印象を受けることでしょう。
 一斉の挨拶も、整然とした机の配列も、担任の存在もないからです。
 まぶたの奥に想像できる風景は学校というよりも、むしろコミュニティセンターとか公民館に近いものではないでしょうか。


 ここで考えなくてはいけないのは、そうはいっても子どもたちが複数集まる場である以上、「自治」の問題と「評価」の問題、さらに「学力」の問題は残ります。


 自治の問題とは、子どもどうしのトラブル解決や、プロジェクトチームの形成や、生活を共有するがために考えなくてはならない掃除や当番活動のような内容を指します。
 このうち、子どもどうしのトラブル解決は選挙によって選ばれた子どもたちによる審査委員会が懲罰を含めた権利を有する場になればと思っています。そこには議論の手助けとして教師がアドバイザーとして含まれることが望ましいと思います。
 プロジェクトチームの形成とは、自分の学びを複数のメンバーで行いたいと希望する子どもがいたときに、その意志を全体に伝える場を設定することと、実際にプロジェクトチームを結成すること、結成した後にその学びをサポートすること全般を指します。これらは全体で集まる機会を設けることによって成立すると思われるので、週の中に「全校集会」のような議論や発案の場を設けることが必要と思われます。
 その全校集会の中で、掃除などの生活を共有するが上の役割分担なども話し合う必要がでてくるでしょう。


 評価の問題とは、従来の学校で教師が行っている「成績評価」をどうするかということです。
 湘南小学校では子どもの自発的な学びを教師が支援するのですから、自発的な学びに対して、テストなどによる数値評価は成立しません。また子どもの学習活動を教師が一定の基準でもってランクづけすることもなじみません。
 それでは子どもの評価をしないということなのかというと、わたしはこれまでの学校教育における「評価」とは異なった価値観で評価をとらえるべきだと考えています。


 つまり湘南小学校における評価とはノルマをどれだけ達成したかという相対的なものではなく、子どもひとりひとりが自分の学びを検証し、何が不足していて、どんな成果が見られたかを確かめられる絶対的なものにしたいと思っているのです。
 絶対的とは言葉が強いので誤解を与えがちですが、教育評価の世界ではわりと使われている言葉です。ある課題に対してこれを達成したかしなかったかという観点でのみ判断し、ほかの子どもたちとの比較は行わない立場のことです。でも、それさえも「達成」したかどうかという基準は教師たちが設定しています。わたしはこの「基準」を子どもが自ら築き上げればよいのではないかと思っています。だから具体的には最終段階ですべての学びを振り返るような総合的な評価方法はあまり信頼性がなく、むしろ学びの過程において教師とのやりとりやメモとして記録したものなどを蓄積していったフォルダ全体の中から判断できればと思っています。


 こういった考えは一般に「自己評価」と言われていますが、自己評価はどうしても自分に対するあまさが前提にたってしまうと焦点がぼやけがちです。また従来の学校で行われている自己評価は単純に「自分で与えられた評価項目をチェックする」だけのものに終わっていることが多いのではないでしょうか。
 湘南小学校の自己評価は方法としての自己評価ではなく、評価主体が子どもであるいう価値観としての自己評価を意味します。
 教育理論の形成に造語はなじまないかもしれませんが、あえて言えば「絶対的自己評価を基調にした相互評価」という言い方が適当かもしれません。相互とは子どもと教師、子どもと子ども、本人と学びの間に適用されるものです。


 これらは数値化されないために、私学受験や指導要録記入の際には不便なものになるかもしれません。しかし、そのために湘南小学校の評価を変更することは本末転倒なことであり、何のための「湘南小学校」なのか分からなくなってしまうでしょう。今のところ、そういった現実に子どもが直面したときは入学に際してはリスを背負ってもらうしかないのですが、湘南小学校の評価方法のために、卒業生が不利にならないように上級学校にはたらきかけるのは湘南小学校を支えるすべての人たちの当然の行いだと思います。


 湘南小学校の評価は方法としては「ポートフォリオ」と呼ばれているものに限りなく近いものです。
 しかし「ポートフォリオ」も従来の学校では誤解して解釈されている場合が少なくありません。子どもの作品をともかくフォルダにためこんで学期末に返却することを「ポートフォリオ」だと勘違いしている教師も中にはいます。それは単なる「保管」であり、子どもと教師にとって相互に確認しあう「学びの記録」ではありません。
 ポートフォリオについては詳細な情報が公開されているのでそちらをご覧ください。


 最後に学力の問題です。
 これはきわめて曖昧な概念であり、学力とは何であるかと規定することはかなり困難です。にもかかわらず「基礎学力」なる言葉は平気で使われています。
 学力の定義がなかなか成立しにくいのは、子どもの多様性と時代の不可逆性を考えれば当然のことであり、だから「教育学」がきわめて非科学的になっているともいえます。
 学びとは科学で解明できない諸条件によって異なる結果を導き出します。また「育て」が必ずしも「伸び」につながらないことも多々あります。これらを強引に一般化することによって「教育学」は成立しているといったら言い過ぎかもしれませんが、それだけ個人の考えによって支えられている派閥の多い学問領域なのだと思います。


 だからあえて「湘南小学校の学力観」という言い方をしてしまった方が問題が明確になってくるとわたしは思っています。外の言葉を借りた「学力」に無理に照合しようとすると、結果としてそれらに合わせなくならなければなりません。しかし、「学力を新しくとらえる」ならば何ものにも影響を受けなくてすむからです。


 さて子どもたちの学びを具体的な学校現場で直面した経験から概念化すると「知識の記憶」「記憶の蓄積」「不必要なことの忘却」「必要なことの整理・統合」「条件下での知識の利用と応用」「さらなる知識の記憶」という段階を踏んでいることに気づきます。多くの場合、人は目的性のベクトルが弱い場合、必要な知識まで忘れてしまう傾向があるため、反復という方法で忘れないように努力します。子どもたちが教師がいった世間話をよく覚えていて、公式などを忘れてしまうのはベクトルの向き方に子どもと教師の間で反比例するほどのずれがあるからではないでしょうか。
 またここでいう「知識」とはかっこづけにします。これらは単なる「文字」としての言語だけではなく、体験を通して得られる「技術」や「感性」も含めて考えています。
 知識詰め込み教育という言葉で批判的に使われる「知識」はどちらかというと言語化されたものを指しています。しかし体験を通して得られたさざまなことも、実際にそのことを生かしていく場面においては言語化されている場合が少なくありません。また体験して得られたことは個人の内面においてまったく言語化されないということは考えられず、実際に「ことば」としては音声化されなくても、思考の段階で言語化されていると思われます。
 ただし、この考え方は人それぞれの発達を極端に一般化した立場において論じているので、すべての人々に適用できるなどという立場ではないことを明らかにしておきます。


 教育という営みはほとんどの場合、個人に対して「外からの影響」を及ぼすものです。まったく何の影響も受けずに学びが成立するとは考えにくく、そういった意味でここではあえて広義の意味として「知識」という言葉を使います。


 「知識」は「観ること」「確かめること」「知ること」「覚えること」「使うこと」によって個人の内面に蓄積されていきます。
 湘南小学校では方向性をそろえた「知識」の伝授は行わないので、子どもたちがどんな知識を得たかということよりも、それぞれがこれらのステップをどのように経たかということが教師の支援のポイントになってくるでしょう。
 さらにそのようにして得た「知識」を子どもが自分の学びにどのように生かしていくかが重要な教師の視点になります。


 なぜなら、得られたことから出発することが、自発的な学びの最低必要条件だからです。
 そして、今の段階で得られていると思われるすべての力を「湘南小学校での基礎学力」と呼ぶからです。


 一般に「基礎学力」はそれぞれのイメージは多少異なるとしても小学校低学年段階で教授される「計算」と「言語力」を指しています。
 簡単な四則演算と、簡単な読み書きの能力のことです。
 しかしこれらは大人にしてみれば初歩的なことかもしれませんが、小学校低学年の担任たちに聞いてみれば、とてもすべての子どもたちがわずか一・二年の間に習得するような内容ではないことが分かります。小学校初期の段階で「動機付け」として導入された「簡単な計算と簡単な読み書き」をその後の何年もかけて子どもたちは自分のものにしていくのです。
 わたしは、そういったたとえば「ひらがな全部」「カタカナ全部」「音声言語をすべてひらがなカタカナで表記すること」「画数が五画以下の漢字の読み書きすべて」などを限定して「基礎学力」と呼ぶことには抵抗感があります。
 それは、これらが人として身につける「最低条件」のように扱われてしまうからです。実際、教師の中には「これぐらいのことが分からないのか」という迫り方で、なかなか覚えられない子どもに注意する場合もあるのではないでしょうか。


 一般に使われている「基礎学力」という言葉は、これを使う人の心の中に「それさえもできない場合は、人として生きていく能力に欠けるのでは」という差別意識を芽生えさせはしないでしょうか。


 湘南小学校では、まずそこにいる子どもはいるだけでOKです。承認によって「居場所」を確保することによって、失敗の海へ乗り出していけばいいのです。オールをこいだり、荒波をこえるには、無力ではいられません。そんなとき役立ってくるのが「知識」です。
 湘南小学校はこれまでにない新しいタイプの小学校です。
 だから、従来の学校に期待されている「基礎学力」を求められても、その通りにはできないことを分かってもらうしかありません。誤解を覚悟であえて言えば、湘南小学校に通う子どもたちには一律に教え込まれる計算や読み書きの能力は求められないと言うことができます。そんなことでは、中学校や高校に進学したときに子どもが困るではないかという反論が予想されますが、各分野、各領域のエキスパートと呼ばれる人たちは、それぞれの専門を徹底的に探求することによって、すべてを教えこまれた人たちよりもずっと人間的に深みのある、奥行きの広いものの考え方や生き方が実践できているのではないでしょうか。数年前から大学では「一芸に秀でた子ども」の入学を認めるようになってきたのはこのような考え方が具体的なかたちになってきたといったら言い過ぎでしょうか。


 新しいものを創るという立場に立っているので、どうしても従来のものとの比較あるいは検証という作業を抜きには語れないのですが、わたしたちは決して従来の学校教育を全面的に否定し、すべてを変革するべきだとは考えていません。従来のままではなく、そこに新しいタイプの学びも含めて考えられる時代になったのではないかと思っているのです。
 湘南小学校が開校したとき、そこにすべての「教育の理想の姿」が求められることは子どもにも教師にもよけいなストレスを与えることになりかねません。また周囲との意味のない軋轢を生じさせることにもなりかねません。そのようなことは、わたしたちが望むことではなく、わたしたちは新しいタイプの学校教育が、子どもと保護者に従来の学校教育と同等に「選択肢のひとつ」になることによって、多様な学びが全国的に発芽することを願っているのです。それは従来の学校で何とか改革を行いたいと願っている教師たちの心に意欲のエネルギーを灯すことになるでしょう。また行き場がなくなって自己否定感にさいなまれていた子どもに自分探しの場所を提供することにもなるでしょう。そして何よりも、否定や批判だけでは何も生じないということを、何かはしたいけれどこれまで腕組みばかりをして躊躇してきた人たちに新しい方向性を指し示すことになるでしょう。