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第ニ章 湘南小学校での実践

ニ節 支援のあり方


 湘南小学校で教師が子どもにどのように関わっていくかを考えます。
 この場合の教師とは、必ずしも教員免許を有して湘南小学校に勤務する人だけを意味するのではなく、湘南小学校の教育に共鳴して子どもたちの学びを支援してくれる一般の人たちをも含めていると考えてください。なぜなら、「湘南に新しい公立学校を創り出す会」そのものが教師以外の多くの人たちによって支えられているからです。そしてサマースクールでスタッフとして子どもたちの支援に参加した人たちの多くはそういった人たちだったからです。この人たちの経験の蓄積は湘南小学校の実際の教育現場では重要な意味をもってくるだろうと思います。


 子ども自身が学びの中身を決定し、これを実行していくという「学び」を教育の中心とする湘南小学校では従来の学校のように教師が一方的に課題を子どもたちに与えるというスタイルの授業は行われません。
 だから従来の学校の教師たちが日々準備していることや実践していることの多くはあまり役立たないことになります。漢字を覚えさせるために作成するワークシートや、多くの子どもを安全に効率よく学ばせるための実験器具の準備などは、湘南小学校では、教師に求められる技術や能力ではなくなってくるのです。
 むしろ、ひとりの子どもの内面に迫り、成長とつまずきをともに分かち合うようなパートナーとしての素質が求められてくるでしょう。そして願わくば、子どもたちにとってそれぞれの教師が各領域の専門性を有していたら学びのよきアドバイザーとして信頼されるようになるかもしれません。


 基本的には子どもの立てた計画が中心になる湘南小学校ですが、週の中に「共有の時間」というプロジェクト学習的な時間も実施しようと思っています。子どもたちが自分の経験の世界に閉じることなく、いろいろな価値に出会うチャンスをそこで提供できればと考えています。「共有の時間」への参加は原則として希望制ですが、そのときに教師の中から「自分にはこれができる」ということを示していくことになります。「共有の時間」のあり方はまだまだ試行した具体例の蓄積が少ないのでどのようなやり方が湘南小学校にとってふさわしいのかは分かりません。これらは実際に開校した後に明らかになっていくことかもしれません。


 サマースクールの中でスタッフが子どもにかかわる行為をわたしたちは「支援」と呼びました。少なくとも「指導」ではないのは確かです。
 湘南小学校でも教師が子どもに関わるときは「支援」であるべきだとわたしは思います。
 そこで「支援」とはどのような行為を意味するのかを考えます。


 サマースクールのミーティングでもっとも疑問や質問が多かったのが「自分が子どもとどのように接すればいいのか悩んだ」というものでした。
 買い物先でお金を持っていない子どもに「お金を貸すべきか、あきらめさせるべきか」などはその一例です。交流のコンセントにじかにプラグを差し込んで簡易ホットケーキ器を作る子どもがいたとき、「安全を最優先して子どもの気づかない危険な部分に事前の声かけをしたことは良かったのかどうか」などもその一例でしょう。


 支援のあり方で多くの人たちが悩んでしまうのは自分の行為を「一般化」しようと試みてしまうからだとわたしは思っています。
 今、自分がお金を貸したら似たような場面ではたえずこれと同じ接し方をしなければならないのではないか。自分はお金を貸したけれど、別の人はあきらめさせていた、どちらが正しいのだろう。多少の危険を子どもが経験することの方が良いとは思っているけれど、その線引きはどこまでなのか。
 こういった一般化は、子どもと大人との間で瞬間的に成立しているもろもろの行為にすべてに通用する論理があると仮定しているところからスタートしているのではないでしょうか。
 従来の学校でも教育研究はさかんに行われていますが、そこで報告された内容に「一般性」があると仮定しているから、多くの教師たちはそれらを真似て自分の勤務先でも実践しようと思っているのでしょう。それらの中にはなるほど、真似てみたら通用したという事例もあるかもしれません。


 湘南小学校における支援のあり方に「一般化」は望ましくないと言ってしまうと、そこから導くことのできる教育理論はないように思われますが、そういう意味ではありません。
 教師の実際の行動を統一していくことが一般化ではないと思っているのです。


 だれもがあらゆる場面を想定して、そこで定められた共通の対処をしていたら、湘南小学校の教師は魅力がないと子どもたちにそっぽを向かれてしまうでしょう。


 大事なことは、子どもと教師が日々関係性を築いていく一瞬一瞬において、具体的に何をするのかというのではなく、そのことによって子どもたちのどんな力を導き出そうとしているのかということです。


 「湘南小学校」の大きな柱の一つ「責任ある生き方ができる力の育成」を例に取ります。
 ここで言う「責任」とは、やったことややった結果を残したものに対する個人の最終責任を意味するものではありません。自分のやろうとしていることややっていること、そしてやったことを、自分の中で納得していることからスタートします。そして、だれかにやっていることについて問われたとき、そのことについて自分なりの説明ができる段階を経て、成果の発表まで引き受けるゴールへとつながっていきます。英語では前者を「リスポンシビリティ」、後者を「アカウンタビリティ」と区別していると思うのですが、そういう分け方をするとしたら、ここでいう「責任」とは「アカウンタビリティ」だと思ってください。辞書を引くと「結果責任」とか「説明責任」という日本語に訳されています。


 サマースクールで、六歳前後の子どもたちを担当した若いスタッフが、その日の計画を立てる段階で困っていました。
 子どもたちは「何をするのか」を考える前に「どうしていいのか」が分からずに立ち往生していました。態度決定には、周囲の具体例とそれまでの経験が大きくかかわってくることなので、何かをつくるとかどこかへ行くなどという具体的な中身よりも、スタッフの質問に対して「どう答えるべきなのか」が分からなかったのだろうと思います。
 そのとき「近くに図書館があるからとりあえず行ってみようか」とそのスタッフは声をかけました。子どもにしてみたら、自分の行動に方向性を示してくれるアドバイスだったので、「そうしよう」ということになりました。


 その日の反省会でそのスタッフが「自分のかけた言葉が子どもの行動を決定してしまったという畏れを感じた」「教育とはなんと暴力的な営みだ」と感想をもらしていました。
 図書館に行った子どもたちは、そこで何をするという明確な目的があるわけではないので、しまいにはかくれんぼになってしまったそうです。


 この一連の流れだけを切り取ってとらえてしまうと、そのスタッフのとった行動は従来の学校の教師たちと似たような行動に思われがちです。しかし、まず最初の段階で「子どもが考える権利をもっていたという事実」と「スタッフがその場の状況で学びの方向性を提示したという事実」は、従来の学校と決定的に異なるものだとわたしは思います。
 だからこそ、子どもたちはその日の朝はぎくしゃくしていたスタッフとの関係を、夕方にはとても親密に見える関係へと深化させたのではないでしょうか。
 そして、「悩んでいるときには助けてくれるという事実」の繰り返しが、やがてその子が「自分から方向性を築き上げていく」未来像へと結びつくのではないかと考えます。


 「責任ある生き方ができる力の育成」とは早期段階から最終段階まで一律な方法で子どもたちに接していくことを示してはいません。子どもたちが、やがて、そして少しずつ、自分の行動への説明責任をもてるようになっていけばいいわけで、そのための過程では必要に応じて教師が方向性を示すことだって重要な支援のあり方になってくるのです。


 このとき教師たちの個性が良くも悪くも支援のとらえ方を邪魔することがあります。「自分だったら別の方法をとる」「あなたのやり方はまちがっている」という検証によって、規格統一される危険性です。もちろん、互いの欠点を補う高まりあいは必要なことですが、各自の個性や価値観は必ずしも相互に共有し合えるものとは限りません。
 「自分は○○のように子育てをしてきた。そのことによって○○な子どもになった。だからそのノウハウはここでも通用するはずだ。」「これまで出会った人との関係で自分は困ったときには自分で解決するようにしてきた。だから〜」という問題の立て方はあまり建設的な議論にはならないようにわたしは思います。それぞれの人たちがそれぞれの生き方をしてきたのは確かなことですし、その結果としてそれぞれの現在にプラスになっていることもマイナスになっていることもあるでしょう。しかしそれらはあくまでも、それぞれの置かれた立場や環境、出会った人や起こった出来事などのさまざまな要因が複合的にからみあって導かれたことです。だから、目前の子どもたちの現在から未来に同じような対処の方法やアイデアが必ずしも通用するとは限りません。


 学びの場で起こったことをその場の条件の中から検証していくことと、「その子ども」の周囲からとらえていくことを前提にしないと、支援のあり方はそれぞれの教師たちの「物語」になってしまうのではないでしょうか。
 「物語」とは、だれかに向かって表現しているようで、実際は自分に向かって表現している完結した言葉や文章など全般を指します。
 
 図書館に子どもを連れて行った若いスタッフのもらした「畏れ」を湘南小学校の教師たちはたえず心の中に持ちつづけていくことになるのだろうと考えます。「自分の支援は正しかったのだろうか」「子どもの心に前向きなエネルギーを溜め込むことにつながっているのか」と自問しつづけるのです。
 当然のこととして、失敗するときや判断ミスもあるでしょう。しかしそのことを恐れる必要はありません。教師自らも「説明責任」を背負い込んで、何をどうすれば良かったのかなどという検証を子どものプレゼンテーションのときに、披露すればいいのです。そのことを通じて、子どもたちが「教師は絶対的な存在ではなく、失敗もするし、まちがえるときもある。自分たちと同じ、ただちょっとだけ世の中のことをいろいろ知っていて、だけどいっしょに育とうとしている人たちなんだ。」と思ってくれたらいいのではないかと思います。


 支援スタイルが中心になる「湘南小学校」では、子どもたちと接する最初の段階が教師にとってとても重要になってきます。
 自分の思いこみで、子どもの第一印象から得られた感覚を絶対のものとしてしまうのはとても危険なことです。なるべくひとりの子どもの情報は二人以上の教師によって、時間をずらして、個別に対応するなどして得られた「事実」をもとにするべきだと思います。
 見え方が異なる部分で、どうしても教師の考え方に歩み寄りが見られない場合は、さらに別の教師を交えるか、その「ふたりとも」その子どもの学びは担当しないかのどちらかがいいでしょう。
 別の教師を交えるのは、さらに違った視点の情報を得るためです。
 担当したふたりの教師が担当を外れるのは、「その」子どものためです。教師の意地と自信で行なう教育を「湘南小学校」は必要としません。教師の見方に見解の相違があって、共通項が見られないとき、従来の学校では「担任優先主義」がまかり通っています。どちらの考えが正しいかを論じないで、担任の考えはどうかが大事なのです。これでは、専科や級外など担任外の教師たちはばかばかしくてまじめに担任にものを言うことなどしなくなってしまうでしょう。湘南小学校では「担任」という存在はいませんが、教師は存在します。その教師の間によけいな力関係が生じてしまうと、子どものことが忘れ去れらてしまう危険を感じます。だから、ひとりの子どもの見方に対して見解に違いが生じて、どうしても共有できるものが得られない場合は、両者が担当を引くべきなのです。


 わたしは「支援」を中心とする学びで教師が行なう作業の流れを次のように考えます。
・ 第一段階……観察
見る・聞く・感じる・調べる・記録・保管
・ 第二段階……承認
見られる・聞かれる・頼まれる・心の潤い
・ 第三段階……協力
話す・出かける・手伝う・たたずむ・遊ぶ・確かめる・寄り添う
・ 第四段階……委任
道具の提供・場所の確保・生命の危険を回避
・ 第五段階……分析


 「観察」は「見る」「聞く」「感じる」「調べる」ことによって得られた子どもの「興味」「関心」「意欲の向きそうなもの」などの情報を「記録」「保管」することによって成立します。
 子どもがどんなことをしたいかをいきなり尋ねる方法はサマースクールでは多く用いられていました。これは「短期間」という条件付きだったので、仕方がなかったことですが、「湘南小学校」では何をしたいかを尋ねる前に「遊んだり」「出かけたり」「話したり」しながら、教師と子どもが関係を築いていく時間を通して、たっぷりと子どもの様子を「観察」することが必要だと思います。
 その際、生育歴や家庭での様子は二次的な情報としては活用できますが、あくまでも一次的な情報は目前の事実の積み上げを優先するべきだとわたしは思います。このことは「偏見」や「先入観」をなくす効果があり、子どもが「変わる」可能性を自ずと認めることにつながるはずです。
 従来の学校では前年度の担任から新年度の担任に指導上の留意点として子どもの情報を伝達しています。また中学校へ進学するときに六年生の担任に中学校の教師たちが個票を持参して成績から生活行動まで情報を収集しにやってきます。これらは子どもにとって必要なことではなく、教師が指導するときに必要なことだと一般的には思われています。しかし目前の子どもの様子を事前に収集した情報で判断してしまうことはきわめて危険だとわたしは考えます。


 「承認」は「見られる」「聞かれる」「頼まれる」ことによって生じる子どもからの発信を反社会的でない限り無条件に受け入れることによって成立します。このことは試行錯誤したときに子どもが失敗に出会っても乗り越えていくことができる心の潤いを与えることになるのです。
 ただしこの段階は教師に相当の忍耐力が要求されます。
 教師側が子どもの家庭環境や友人関係などを、その子どもの支援にあたってなるべく無関係に取り扱おうとしても、子どもたちにとってこれらが強く影響を及ぼしているのは否めません。たとえば習い事で自分の時間がほとんどない子どもと、そうでない子どもとでは一般的に「攻撃性」や「公共性」に差が出てくるのはやむを得ないことです。
 だから「湘南小学校の教師」は、子どもの周辺状況を知らないわけにはいきません。それでいて、子どもの支援にそれによって得られる情報で自己イメージをふくらませないようにする技術が求められるのです。「この子は昨日、こういうことをした。だからまた今日もやった。」という人の見方も、その子どもの変わっていくチャンスを見えざるリードで阻んでしまうかもしれません。
 子どもの要求の中に、あきらかに自己中心的、非建設的、無計画的なものがあったとき、それが野球で言えば打球がインフィールドにあるのか、ファールゾーンにあるのかという見極めを瞬間で行っていく積み重ねによって「承認」は子どもの心に伝わっていくでしょう。子どもを承認するとは「試行錯誤によって失敗を恐れない心のありよう」を形成するときの前提条件になります。
 ホームベースに子どもがいて、アウト覚悟で一塁ベースに駆け込んでいく。うまくいったら二塁ベースへ。そしてやがてふたたびホームベースに戻ってこれる子どもたちにとって、教師による承認は無理のない「後押し」になるはずです。
 本来、その仕事は家庭で親が担っていた、とくに母親が担っていたという考えもあるでしょう。しかし母親にそれだけの時間があって、父親が子育てを回避しても許された近代過渡期においては、それらは通用した考え方であったとしても、男であれ、女であれ子育ては夫婦生活の一時期のものとなった今、妻だけが家庭で子どもと夫のために家事労働に専念する必要は今後ますますなくなっていくことでしょう。そうなると、子どもたちに「承認」を与えることが可能になってくるのは「学校」しかなくなってしまうのです。学校は良くも悪くも「装置」としての機能をもっています。何かを多くの人たちに伝えたいとき、担任を通して子どもたちに印刷物を配布する方法はとても効果的です。たとえ内容が子どもには分からないものでも、それらが親の手に渡ることにより確実に情報は広がっていくからです。この装置としての機能を有効に活用して、学校が子どもに承認を与える場所になればと思っているのです。


 「協力」は「話す」「出かける」「手伝う」「たたずむ」「遊ぶ」「確かめる」「寄り添う」ことによって子どもの活動が円滑になった場合のみ成立します。そうならなかった場合は残念ながら子どもにとって「邪魔」な存在ということになります。
 多少なりとも自分から学びに結びつく行動を発した子どもたちは、周囲に対して何かを発するようになります。言葉にはならなくても、表情や仕草、そして行動などによって、自分の存在をアピールします。そこには「見てほしい」「分かってほしい」「いっしょになって考えてほしい」「いっしょになってやってほしい」「ただそこにいてほしい」などという、要求が強く現れることでしょう。
 子どもたちは「おもしろいものに引っ張られていく」傾向があるので、教師が率先して「おもしろいこと」を掲げてしまうと、ここでいう要求は見られなくなります。
 逆に、教師が、その子どもの要求を自然に感じ、多くを語らないで空気のように手をさしのべることができたなら、子どもの心には灯がともることでしょう。このスタイルを自分のものにするには時間がかかります。頭で分かっていても、言葉でやりとりしてしまった方が大人にとってはずっと楽だからです。
とくに子どもと大人のやりとりで気をつけなければいけないのは、大人はたくさんしゃべって質問していても、子どもは「うん」か「ちがう」のどちらかしか答えていないようなことです。これは「子どものために」親身になっているという物語が先行し、いつのまにか自分でそのことを忘れ、目前の子どもの内面を置き去りにしているのです。湘南小学校における「協力」のプロは、ただそこにいるだけで、子どもに多くを語らせる魅力ある存在であるべきです。
このことは最初から何もしないことを意味しているのではありません。
段階を踏んで「協力」できるようになっていくのであって、出会った最初の場面からそのような関係が成立しているわけではありません。ただし、「承認」を卒業したらしなやかに「協力」にシフトしていける教師でないと、子どもから邪魔者扱いにされてしまう危険性はたえずあります。
切れたり、授業を妨害する子どもたちの中に「あの先生はマジメだけど、本気ではない」という感情があります。言葉遣いや態度や服装は「マジメ」でも、それだけでは子どもにとっては親近感をもたれないのです。中にはそのことによって近寄りがたいと感じる子どももいるようです。見た目の「マジメ」よりも、目前の子どもと本気になってつきあう気持ちが自然と行動となって現れてくる教師の登場を期待します。


 「委任」は「道具の提供に応じる」「場所の確保に協力する」「生命の危険を回避する」以外は教師が口出ししないようになったとき成立します。
 委任とは「ゆだねて」「まかせる」ことであり、子どもの行動に関してかなりの信頼を寄せた段階でないとなかなか実現できないことではあると思います。
 それでも、自発的な学びの実践には必要な要素です。
 子どもたちは「湘南小学校」での支援型の学びを卒業した後に、それぞれの生き方をしていくことになります。
 ほとんどの子どもたちは従来型の中学校に進学することでしょう。新しいタイプの中学校が開校していたとしても、そこに入学できる保証はまったくないのです。教師の指示が学校生活の中心になる従来型の中学校で、それまでの湘南小学校での学びとのギャップに多くの子どもは戸惑ってしまうかもしれません。事実、わたしたちの活動に対して「小学校だけ特別な学校にしても結局子どもは従来の中学校に行って悩むことになるのではないか」という意見も寄せられているのです。
 そんなとき、湘南小学校で学びの主人公として学習活動に全般について「委任」された経験を子どもがどのように受け止め、困難な状況の中でその経験をどのように生かしていくかは未知数です。
 未知数ではありますが、少なくとも指示や指導が中心となる教育と、支援や自発性が中心となる学びを内面で比較することはできるようになっているはずです。そのときに「自分にはどちらが向いているのか」「自分だったらこうするのに」という、自分への問いかけができるようになっていることは大事なことです。今の中学校に通う子どもたちのうち、どれだけの子どもが学習の意味を自分なりに考えているでしょうか。たとえ考えていたとしても、それは観念であり、具体的に比較検討する経験に裏打ちされたものではありません。その点、湘南小学校で自発的な学びを経験してきた子どもたちは具体的な経験が目前の現実とどのように異なるのかということを、感じることができるようになっていると思います。
 教師に対する暴力や子ども同士の暴力事件が増加しています。窓ガラスが一晩にして何十枚も割られるという、常識をこえた反発が影に渦巻いている怖さを感じます。そこにあるのは、現実に対する怒りや逃避、自己主張かもしれませんが、いずれにしても「行き先の見えない」「やり場のない」ものに思えてならないのは、「ではどうしたらいいか」を経験していないからだとわたしは考えています。
 「委任」の段階に入ったら教師は子どもの学びの進展具合を確かめたり、行動範囲を察知していたりという裏方的な役目が要求されるようになるでしょう。行動意欲も増加することが予想されるので、安全面への配慮もそれまでよりも増しておくことが必要になります。「放任」のように見えながら、学びの主体を子どもにゆだねるわけですから、子どもの行動責任については教師がきちんと自覚しておく必要があるのです。


 「分析」はプレゼンテーションの時期に前後して、教師が「自分のとってきた行動」を振りかえり、子どもとの対話の中から自分に何が求められていたのかを再確認することによって開始され、他の教師や子どもたちからの評価によって形成され、文章などに記録し口頭で発表することによって終了します。
 子どもたちは学びの成果を発表という形で積み上げていくわけですが、教師はその発表の中から自分の果たした役割を検証していかなくてはならないのです。言葉遣いや文字の乱れなど個人的なことは能力差があるとして、大事なのは子どもがどんなことに興味をもち、そのことを核にしてどのように学びの内容を広げ、あるいは深め、自分なりの「新しさ」を発見したかということです。そしてその「新しさ」はさらなる興味や関心の火種になるようなものを含んでいるかということです。そこに自分を含む「湘南小学校の教師たち」がどのようにかかわったかという対象化が「学びを支援する」という新しい教育観を築き上げていくのではないかと思います。