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第ニ章 湘南小学校での実践

一節 自分で計画を立てる子どもたち


 湘南に新しい公立学校を創り出す会では一九九九年夏と二〇〇〇年夏に実際に子どもたちを集めてサマースクールを開校しました。どちらも募集定員に対して応募者がつねにこれを上回りました。このことはわたしたちの目指す湘南小学校に対して、一定の支持層がいたことを表していると思います。


 二〇〇〇年夏のサマースクールは「夢の湘南小学校サマーキャンパス2000」という名称でした。略して「夢キャン」とか「夢キャン2000」と呼んでいました。


 前年のサマースクールが宿泊施設の整った場所で開校したのと違い、「夢キャン」は藤沢市民会館という公共施設を利用しての通いスタイルのサマースクールでした。それは、なるべく湘南小学校の姿に近づけようという創る会のメンバーたちの総意でした。二つのサマースクールとも将来開校する湘南小学校の試行的な意味合いが強いものでしたが、実際には通年で開校する予定の湘南小学校と、あくまでも期間が限定されたサマースクールでは異なる部分もたくさんあったことは事実です。それでも可能な限り、接点を模索する試みは行われました。


 その一つに、応募を始める前に「説明会」を開催したことが挙げられます。その年の五月に「説明会」を開催しました。創る会のこと、湘南小学校のこと、サマースクールのことなどを参加者に説明し、疑問や意見を集約する形をとりました。湘南小学校は子どもと保護者による「選択」の学校である以上、選択基準となるような情報を提供するべきだと考えたからです。そんなにたくさんの方が出席したわけではありません。そこには「説明会開催の情報伝達不足」が大きく影響していたと思われます。今後、湘南小学校の説明会を企画立案するときには、なるべく早い段階からどうすれば多くの人たちに情報を提供することができるのかということを考えていくべきだとわたしは思いました。
 説明会に参加した人たちの子どもがすべて参加したわけではありません。また結果的にはサマースクールへの参加者のほとんどが説明会に参加してはいませんでした。だからといってこのことは説明会が必要ないのではないかということではないと思います。開校・入学へ向けて歩んでいく過程に学校の特色を公開していく試みは、その準備の仕方や当日の運営の仕方などに工夫の余地はあるにせよ、必要なことだと思います。


 さらに、より湘南小学校に近づける試みとして夏の連続日程以前に、六月と七月に土曜日を使って開校しました。台風の影響で中止にした日もありますが、この土曜半日開校は、子どもや保護者の中に「学校を意識化する」ことができたのではないかと思っています。一ヶ月に一度ぐらいのペースだったので、子どもたちはほとんどの時間をそれぞれの社会でそれぞれの過ごし方をするわけです。そのそれぞれの過ごし方の延長上にサマースクールが意識されることは、「今度は何をしよう」「今度はあれを買おう」「今度はどこへ行こう」などということを子どもたちが考えることを意味しているのです。
 また連続日程以前に、土曜半日日程を組んだ理由に、子どもと子ども、子どもとスタッフが顔を知り、声を知り、関係を築いていく必要性もありました。いきなり連続日程に突入していくと、はじめてそこから関係を築いていかなければならないので、考え方の調整などに貴重な時間を使ってしまうもったいなさもありました。このことはとくに保護者に対してわたしたちの考えを説明し、分かってもらうために必要なことでもありました。それぞれの家庭で何をしようかを考えてもらった一九九九年のサマースクールでは、子ども自身が自分の計画を知らないことがありました。こちらからの問いかけに保護者が応じてくれたのでしょう。もちろん子どもとの相談はあったでしょうが、本人にそのことが分かっていなければ「学習内容を子どもが決める」湘南小学校が目指す方向と食い違ってしまいます。だから「夢キャン」では土曜半日日程のときに、会場周辺には何があるのか、それらを使って何ができるのか、会場はどのようなところかという、学びの計画を立てるための諸情報をこちらから提供しようと思ったのです。そして、なるべく子どもとスタッフとの双方向のやりとりの中から「何をするか」という考えが生まれてくるようにしたかったのです。


 だから「夢キャン」では子どもたちは最初の数日を使って「何をするか」よりも、会場周辺には「何があるか」「そこでどんなことができるか」を探ることになりました。
 このことは「何をするか」を子どもたちが考えるときに、環境が与える影響がとても大きいことを意味しています。泳ぎたいと思っても海やプールが近くになければ実現しないことです。そういう意味で、「そこに何があるのか」というヒント探しは必要になってきます。それと同時にスタッフは「どこまで支援してくれるのか」という承認の度合いを子どもが確かめることにもなりました。スーパーマーケットに行って持参金がないときに「立て替えてくれるのか」「がまんしろと言うのか」「親への連絡を取ってくれるのか」「買いたいものへのクレームはあるのかないのか」など、子どもとスタッフとの関係の取り方をそういった事前の学習展開では確認しあうことにもなりました。だから必然的にスタッフの中からは「こういう場面ではどうすればいいのか」「共通に確認しあっておく必要があるのではないか」など、対応に苦慮したことを裏付ける意見が出されました。そういった個別の問題に対してスタッフが共通の認識を持ち続けることはよほど似たような考え方の人たちでスタッフを構成しない限り難しいのではないかとわたしは思います。
 実際には、個々のスタッフがそれぞれの場面で「自分はこういう人間だ」ということを子どもとの関係性の中から表し、それを子どもが感じ取りながら、もっとも自分にあったスタッフを選んでいったように思います。
 そのようなスタッフ側の対応の異なり方に対して統一するべきだという考えもあると思います。
 湘南小学校で築き上げたい新しい子ども像、新しい教師像ということを考えたとき、異なり方を認めていくことの方が、スタッフどうしの信頼関係をふくらませていくことになるのではないかとわたしは考えます。異なり方に度を超えたものや、明らかに方向性の違うものがあったときは、議論しあえる時間と場所を用意しておくことは必要だと思いますが、異なり方そのものをなくしてしまう必要はないような気がします。


 「夢キャン」では朝の時間を使って子どもたちがその日に何をするかという計画を立てました。
 あくまでも短期間のサマースクールであるという性格上、最終日へ向けて持続的に一つのことを行う子どもよりも、その日その日で完結する計画を立てる子どもの方が多く見られました。
 ○○を作るという計画はほとんどの場合、その日の夕方までには完成するものが多く、○○へ行くという計画も持続的に数日間をかけて行うという子どもはあまりいませんでした。
 それらは子どもたちの間にサマースクールのイメージがあまりわいていなかったことや、「湘南小学校」のことについて知識が伝えられていなかったことと関係があると思いました。
 「自分がやりたいと思ったことにとことん大人たちがつきあいます」というキャッチフレーズが子どもたちに強く行き渡っていたのでしょう。子どもたちが継続的な学びをあまり選択しなかったことは、湘南小学校の試行というサマースクールの成果につながらなかったのではないかと悲観する必要はないと思います。期間が短いこと、プレゼンテーションまでの流れをほとんどの子どもが経験していないことを前提とすれば、子どもたちがそのような計画を立てることは当然のことだったからです。そして、通年の湘南小学校では同じように子どもたちの計画がその日その日で完結しないように諸条件を整えたり、必要なアドバイスを与えたりしなければならないことが分かったのですから、プラス思考でとらえれば良いヒントが得られたということにもなるのです。


 そんな子どもたちの中に何人かの特徴ある子どもがいました。
 サマースクール以前からもともと乗り物に強い興味を示していた子どもがいました。その子どもはこれまで家族で実現できなかったこととして、可能な限りその乗り物に乗り続けるという計画を立てました。ちょうど夏休み期間だけそのバス会社は子ども料金を一律に五十円にしていたこともあり、費用的にはそんなに過度の負担になる計画ではありませんでした。
 この子どもの希望は実際のところ、今の学校や家庭ではなかなか実現できないことです。小学校で言えば低学年にあたるその子どもの欲求を個人で実現させるには親としても勇気がいることでしょうし、ならばその行動に親としてつきあうことができるかというと忙しさや親子ならではの近すぎる関係がじゃまをしてしまうことだってあり得ます。
 サマースクールはその子どもの長年の希望をかなえました。
 ひとりのスタッフが子どものすべての行動につきあったのです。
 報告によれば、その子どもは乗り物に乗ったら運転士のすぐ近くを陣取り、「右よし左よし」などの指さし称呼をやっていたそうです。まだ漢字で書かれている途中駅の名前を読むことや細かいお金の計算などはできないそうでしたが、それでもこの子どもの場合、大好きな乗り物に乗るという行動を通じて「字や計算」を覚え、乗客の中で社会性を磨いていく要素はいくらでもあるように思いました。


 数人で「恐竜」をテーマにした子どもたちがいました。
 どうして恐竜をテーマにしたのかよりも、そのことがその子ども発であることが大切です。
 その子どもたちの学びはその日その日で完結していく学びが多かったサマースクールの中では珍しく継続的なものでした。
 最初の日に近くの図書館で「恐竜」に関する書籍を探しました。ところが児童書としてルビがふってあるわけではないので、せっかく探し当てても読みこなすことができませんでした。
 そこで子どもたちは希望する書籍を探して本屋に行きました。近くにたくさんの書籍をあつかった本屋があったのでそこに行けば何とかなると思ったのでしょう。ところがそこにも目当ての本はありませんでした。ただし書籍紹介の中に求めるものに近い本を発見し、注文することになりました。その子どもにとっては本屋で店員を相手に本を注文する経験は初めてでした。名前を伝えたり住所を伝えたりしてどきどきしながら到着予定日を聞いて会場に戻ってきたのでした。ところが戻ってから到着予定日には家族で出かけることを思い出し、「そのことを伝えに行く」と言い出したのです。別にそんなことを言いに行かなくても本屋は電話で連絡が取れなければ後日かけなおしてくれるかもしれないし、予定日から数日して取りに行ってもかまわないのですが、「あの店員」にちゃんと自分の事情を伝えなければ気が済まなくなっていたのでしょう。


 ここまで具体例を挙げると分かると思うのですが、「恐竜」をテーマにした子どもたちが図書館に行ったり、本屋に行ったり、本を注文したりした背景にはそこにつきあったスタッフの力がとても強くはたらいています。
 子どもがやりたいことの道筋を整理して、ときとして方向を示してあげることは「やりたいこと」が「つまずいたとき」に有効に作用します。声を挙げるタイミングはとても難しいのですが、つまずく以前から方向を指し示すと子どもが「どうすればいいか」を考えなくなってしまうのは確かなようです。このスタッフは本屋の注文日に子どもが出かけていることに気づいたとき、そのことは心配しなくてもいいと声をかけるのではなく、その子どもが自分でかかえた「心配」をどう乗り越えていけばいいのかを見守り、寄り添ってくれたのです。


 このスタッフは図書館にも本屋にも恐竜に関する重要な資料がないことで、子どもたちの興味が持続しなくなるのではないかと考え、なんとパソコンを購入してインターネット検索で「恐竜」を調べられるようにしてくれました。
 子どもとスタッフとの距離の取り方については二節で触れますが、「恐竜」をテーマにした子どもとそこにかかわったスタッフとの関係からも分かるように、どちらかが一方的に教え、どちらかが一方的に学ぶという関係では、子どもの自発性は導きにくく、ともに悩みともに道を切り開いていく関係を築くことの連続が、子どもの中に自発性を育てることになるのではないかとわたしは思いました。
 
 「恐竜」をテーマにした子どもたちは仕上げの段階で「博物館見学」を発案しました。会場の藤沢からは遠いところに県立の「生命の星・地球博物館」というのがありました。そこには目当てのものがあるらしいということで、朝から出かけていきました。


 会場近くに池や田んぼがある大きな自然公園がありました。
 そこで虫を捕まえたり、動植物を観察したいと計画した子どもたちがいました。この子どもたちがそのような計画を立てたきっかけには土曜の半日日程のときに、その公園を紹介していたことが影響していたことは言うまでもありません。
 「あそこにカメがいたよ」「水がよどみすぎているからきれいにしたんだ」洋服や手先を汚しながら、得意になってそれを希望した子どもたちは教えてくれました。
 スタッフからの報告によれば、その子どもたちは林の特定の場所にリスがやってくることに気づき、どれも似たように見えるリスたちにそれぞれ名前をつけていたそうです。えづけは禁止されていたのですが、こっそりとえさもあげていたそうです。見るだけでなく、手の先からえさをもっていくリスとかかわることが自然な欲求として現れてきたのでしょう。
 やがて自然公園の子どもたちは小川をせき止め、そこに田んぼからつかまえてきたカエルを放すという活動に熱中しました。暑い日の連続だったこともあり、流水は手に心地よく、その場所はちょうど日陰だったこともあってこの活動は長続きしました。


 自分で計画を立てるというと、大人はついつい「はじめ」「途中」「おわり」という過程を気にしてしまいがちです。しかし、それらは経験して初めて頭の中に構造化されるものであり、「次に何が起こるかわからない」子どもたちにはもっと大枠での計画立てが有効なのかもしれません。
 公園に行った子どもたちは、はじめから「カエルの池」を作ろうとしていたわけではありません。でも、結果的にそういうところへたどり着きました。もしもそれらを通年の湘南小学校で持続的な学びへと発展させるとしたら、活動の様子を写真として記録しておいたり、リスにえさをあげたときの様子や気持ちを簡単にメモしておいてファイルしておいたりする必要があるかもしれません。そのことによって、「次に何をしようか」と考えるときのヒントが見つかるかもしれないし、「今まで何をしたっけ」と振り返ることが可能になるからです。


 またこのことはとても当然なことなのですが、建物を出た自然環境の中には学びの素材があふれています。だから「昆虫観察」という課題で林や森に入るだけで、それ以外の多くの興味をそそられる事実に向き合うことが可能になります。ただ、そのことがあらかじめ分かっている大人が、そのことをあまり知らない子どもたちを強引に連れていくことはあまり意味がないとわたしは考えます。大人であれ子どもであれ、虫や動物や植物に対する興味や関心はそれぞれであり、手を汚すことを極端に嫌う子どもだっています。そういった個人の問題を無視して、一律に自然環境の中に子どもたちを導くことまでする必要はないでしょう。
 むしろ、「リスがいたんだよ」「けっこう、爪がするどかったよ」「写真を撮影したから見て」と、子どもたちが他の子どもたちにやってきたことや感じたことを伝えていくことによって、そのことを知らなかった子どもの心が揺さぶられることの方が、本当の意味で個人と個人をつないでいくことになる気がします。


 子どもたちの計画立てを強力に後押しした要因に「対象物への興味」があったと思います。ビーズやぬいぐるみ、折り紙やペーパークラフトなどの創作を計画した子どもたちは、もともとそれらに強い興味があり、家庭でも何らかの経験をしてきた子どもたちでした。
 どうしてそのように特定の対象物に強い興味があったのかということはそれぞれの問題なので探る必要はないと思います。ただし自発的な学びを開始するときに「もともとの興味」がベースとなることは明らかでした。そして、それらをさらに改良した次の創作へと発展していく姿も見ることができました。


 短期間のサマースクールでは、なかなか自分のやりたいことが見つからず、他の子どもたちの活動を眺める子どももいました。あるいはそんな子どもたちどうしが一緒になって、鬼ごっこやかくれんぼをする姿も見られました。知らない子どもどうしがそうやって、自分からかかわりをもち、トラブルも経験しながら、それでも飛んだり跳ねたりすることに年齢差は関係ありませんでした。そういった子どもたちは一回目のサマースクールでも少なからずいたわけで、「そこ」が「学校ではない」という気持ちがそうさせたのかもしれません。
 しかしわたしはそれはそれで湘南小学校でもあり得ることだと予想しています。湘南小学校ではそういった子どもたちをどうやって、つながりの輪から個別な学びへと支援していくかは今のところは分かりません。基本的には「待つ」ことが重要でしょう。また他の子どもたちの活動を眺める行動そのものが、その子どもにとっての「学び」になっていくのかもしれません。


 子どもが自分で計画を立てるときに、支援者が留意することとして「準備性」という観点があります。
 チョコバナナを作りたいという子どもがいました。その子どもが持参したのはバナナと板チョコとボウル二個でした。板チョコを湯煎する「熱エネルギー」は用意されておらず、さらにバナナにつけたチョコを固まらせる氷やクーラーボックスもありませんでした。結局、それらは子どもとスタッフとで考えながら対処していったわけですが、やろうとしたことをその日にやりきろうとしたから無理があったのかもしれません。
 やりたいことには「何が必要」で「どんな順番」でそれらをそろえ、「どうやって」実現させるのかということだけを話し合う日があり、それとは別の日に実行しても良かったのかもしれません。


 この準備性というのは、現実の学校現場にいて強く感じることですが、かなり高度な能力のようです。全体をおぼろげにでも見渡すことができないと、何がどのように必要なのかは見えてこないのです。
 だから、湘南小学校では子どもの「計画」とそれに必要な「準備」をセットにして、多くの子どもたちが必要に応じて引き出せるような資料の蓄積をしていくのも大事なことになるでしょう。