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第一章 自由とわがまま

ニ節 学びにおける自由とは


 多くの社会が子どもと大人とを分岐する期間を設けています。
 これは通過儀礼と呼ばれ、その期間を通過することができた者を共同体は大人してはじめて認めます。
 ところが近代社会はこの通過儀礼を学校制度の導入によって消滅させてしまいました。単純に二十歳になれば大人の仲間入りという、生物的な年齢を基準にしてしまったのです。その代わりに、大人になったときに困らないために、そして社会に役立つ人材になるために、学校という制度を作りました。
 日本の場合は義務教育期間が九年あります。これは先進諸国の中ではとても長いので有名です。九年もかけて大人になる準備をしろと言われても、子どもたちは飽きてしまうでしょう。しかも、そこには教師たちによって周到に準備されたレールがあるだけで、自分で切り開いていくような選択肢は用意されていないのです。


 現実として義務教育を終えた子どもたちが社会に通用する「大人」になっているかどうかも疑問です。最近ではむしろ、管理づけの弊害とも思える青少年による凶悪犯罪や、成人してからの幼稚としか思えない動機による犯罪が目立っているではありませんか。


 なぜ、それでも学校教育は変わらないのでしょう。


 それは管理を前提とした集団生活においては、個人の考えは集団の利益の前に我慢しなくてはならないという約束があるからです。そこでどんなに個人の権利を主張しても、それは勝手な行為、わがままと判断され、集団生活を危険にさらすものとして罰が与えられてしまいます。
 安全に公道を走行するのに、万人が納得するようなルールがあって、これを勝手に破る者がいたとき、安全管理という視点から違反者に罰則が与えられるのは当然のことです。そのことによって罪のない人たちを危険から救うことになるのですから。


 しかし、学校教育においては個人の判断が全体を危険にさらすようなことはめったにありません。集団生活を危険に導くこともあまりありません。集団行動をしている最中では例外ですが、少なくとも学びの場面で自らの興味や関心に基づいた行動をすることで、だれかが傷つくということはありえません。なのに、個人の行動は修正させられます。それは、共同体を崩されては集団が成り立たなくなるからです。
 どうしても仲良くなることができない子どもがいたとき、となりのクラスに変わることはシンプルな解決策です。少なくとも一日のほとんどを別々に過ごすことができるようになるのですから。しかし学校はそのようなことを認めないでしょう。それでも仲良くなるように指導するはずです。教師の見ている前で握手かなんかさせて、仲良くなったことを演じさせて終わりです。


 わたしは一九九八年に同僚らと六年生二クラスに対して学級枠を解除した取り組みをしたことがあります。
 国語・社会・理科・家庭は三つのグループ。学期ごとにグループ替えもしました。算数は内容別の五つのグループ。これも学期ごとにグループ替えをしました。図工・音楽・書写・言語も三つのグループ。これも同様に学期ごとにグループ替えをしました。体育は自分で課題を決め、同じ課題どうしでグループを作るようにしました。これは一ヶ月ごとにグループ替えをしました。子どもたちがクラス集団で顔を合わすのは学級指導と道徳の時間だけでした。
 集団であることの意味を問い直し、個人であることの意義を高めようとした取り組みでした。


 固定した集団では能力差が明白になり、子どもたちに序列が生まれます。系統的学習といって、今の学習内容は年齢が進むにつれて内容が難しくなるように配列されています。あるときに理解できないまま上級学年に進んでしまうと、取り返しがつかないまま学校生活を送らなければならないのです。
 それまで体育の授業は見学がちだった子どもが個人で砂場を整地してひたすら走り幅跳びに精を出す姿や、大人顔負けの課題にチャレンジする子どもの姿が見られました。また、分からないことが多かった子どもはだれも気にすることなく低学年の内容まで立ち戻ってそれらを一つずつ解決し「分かる喜び」を経験することもできました。


 しかしこの取り組みはその一年間だけで終了します。
 なぜならば、もともと管理を前提とした学校という場所にはこういった個別な学びのスタイルが認められる条件が整っていなかったからです。
 他学年では従来の方法で子どもたちの学習が展開している中で、個別な学びを実施することは比較材料としてしか論議されず、たった一年で成果を導けという不可能な条件を課せられたからです。
 保護者や教師の中にも、集団であることの良さを前面に出したい人たちはたくさんいて、目の前の子どもたちの成長は度外視されてしまいました。また子どもたちの中にも、自分から何かをやり出すことよりも、やれと言われたことをやった方が自分には向いているという子どももいました。これは小学校入学からずっと教師の指示通りに従うことを良しとされてきたことを思えば、急に態度の取り方を変えろと言われても適応できないのは当然のことです。


 集団の解除によって、ひとりひとりの子どもたちに突きつけられたのは「自分はどうするか」ということでした。わたしは同僚らと「何をするかについてはなるべく承認していこう」と話し合っていました。その段階で条件を加えてしまうと、子どもたちはこちらの顔色をうかがった課題選択しかできなくなるからです。そうしないと、本当の意味での失敗を子どもたちは経験できなくなってしまうと考えたからです。


 その一年は多くの質問や批判に、学校は変わらなければいけないということを説明しました。
 しかし、予想以上に従来からのムラ共同体的な学校像を堅持する声は強く、管理職でもないわたしの限界も感じました。
 
 今の学校体制では、残念ながら市民社会を創造するような学びは保証できない、独創的なアイデアを大事にあたためるような子どもたちを育てることは困難だと感じたのです。


 学習場面において子どもの状態が自由であるというのは、やっていることが子どもの発案になっているかどうかで判断できます。
 ここで誤解されがちなのが、「子どもは自分で考えることなどできない」と言われることです。そんなことはないのですが、確かに自分の力で考えることが困難な子どもはいます。時間がかかる子どももいます。また即座にやることが決められる子どもにしても、本当にそのことを本人が考えたことなのかどうかは分かりません。前日までに親や友だちからアドバイスを得たことかもしれません。書物が参考になっているかもしれません。それらは自分で考えることと区別する必要はまったくないのです。


 どこにきっかけがあろうとも、とりあえず自分でやろうと思い立った瞬間があるかどうかが問題なのです。
 わたしたちが一九九九年から実施しているサマースクールでは、こんな子どもがいました。
 火を起こして焼き芋をしたいという計画を立てた子どもがいました。そのためにスタッフは火を燃やすことができる場所を求めて、その子と一緒に相模川河川敷まで電車に乗って出かけました。ところが到着して本人の荷物を見てみると新聞紙とサツマイモしかありません。
「これで本当にできるの」
と問いかけると
「だって母ちゃんにやれって言われたんだもの」
と、その子は口をとがらせました。
 わたしはその場面でこの子の母親を責めようとは思いません。この母子はそういった関係性の中で生きてるのですから、それもOKであると認めることが必要なのです。その上で、乗り気ではない母親のアドバイスに従うことにした子ども本人に問題を向けていくわけです。
 ここでは乗り気ではないことはやらなくても済むこと、大した準備がされていないことを母親のせいにしても問題は解決しないこと、どんなきっかけがあるにせよ学びはあなた本人のためにならなければ意味がないこと……。


 相手に対して自分の考えていることを、実行させることを「使役」と言います。大辞泉(小学館)にもズバリ「人を使って何かをさせること」と書いてあります。○○させると表されるおこないは、すべて使役になります。


 遊ばせる、座らせる、書かせる、走らせる、話させる……。
 学校では、この使役表現がたくさん教師によって使われています。
 使役が成立するには条件が必要です。無関係の人どうしの間では、あまり使役関係は成立しないでしょう。むしろ、それはトラブルの原因になるかもしれません。使役を成立させるもっとも有効な条件は、相手の弱みを握ることです。これは脅しの構造そのものです。


 教師であるという「権威」が子どもにとって「従わなければヤバイことになる」という弱みをふくらませるのに役立っています。従わなければヤバイかどうかを知らない入学間もない子どもたちが、教師による使役を当然のように拒否するとき
「最近の一年生は宇宙人のようだ」と教師は憤慨します。
 自らと子どもとの使役関係不成立を認めず、使役を拒否する子どもたちに正常ではないというレッテルを貼ろうと懸命になるのです。
 残念ながら、すでに「みんないっしょ」教育に疑問を持ち始めた人たちが増え、その人たちの中から学齢児をもつ親が誕生してきているという現実認識は、ほとんどありません。


 入学以前から、教師の権威性を子どもたちに吹きこんでくれていたムラ共同体はすでになく、子どもたちは自分の親よりもはるかにステージの低い存在として教師に出会うのです。わたしは、そのことはとても良い傾向だと思っています。しかし多くの教師には我慢ができないことらしく、学校時代の数年間をかけて、子どもと自らの間に使役関係が成立するようにさまざまな権威を示していくのです。


 偉大と呼ばれた過去の教師たちは自らのことを「先生は」などと言ったのでしょうか。幼児が自分のことを「かなちゃんはね」とか「たぁちゃんは……」というように、教師が一人称で「わたし」と言うべきところを「先生」と呼ぶのは、あまりにも稚拙でわたしには真似できません。


 しかしそうやって、自分で自分のことを「先生」と連呼することによって、子どもたちに「ここに先生がいるのです」「はむかうと怒る先生がいるのです」「わたしという個人がいるのではなくて、先生という権威がいるのです」「先生は命令や指示を出すことを許されているのです」「いつも正しいことを言っている先生がいるのです」と、言外に伝えようと努力します。
 一回では伝わらなくても、千日以上もそんなことが繰り返されたら、小学校卒業のときには子どもの心の中に立派な「教師権威」が定着していても不思議ではないでしょう。


 わたしは、子どもであれ、大人であれ、自分にとって必要な学びを実行しようとするとき、そこに命令や指図が介入すると、意欲が半減すると思っています。


 だから、興味や関心をもとにして、子どもがそこから学びを発展させていくとしたら、その学校では無限に「使役関係」を排除しなくてはなりません。
 おそらく、教師と子どもが使役関係によって成立している従来の公立学校ではこういった新しい学校教育の実現は不可能でしょう。「改革」を実行しようと思っても、改革しきれないはずです。なぜなら、使役関係を排除することは、教師の権威も見直すことになるからです。
 お山の大将は、そうそう簡単に「威張っている優越感」「強者の感覚」「見下す喜び」「人を口先だけで動かす快感」を手放すとは思えないからです。
 今までの学校を、その内部から改革することは制度的には可能かもしれません。しかしそれを担当する人材の意識改革までは不可能なことでしょう。
 だから、単一な教育制度に並行する形で新しいタイプの学校を創設し、教育制度の複線化を目指す必要があるのです。


 学びにおける「自由」を成立させる条件は次のものではないかと考えます。


@ 集団であることよりも、個別であることが重要視される学校の開校。
A 子どもどうしの能力差を比較したり、そのことを評価の基準にしない価値観。
B 学校生活以外では親がじゅうぶんに子どもを承認する関係。
C 権威性を捨てた教師たちによる支援型の学習。
D 時間と場所と道具のスタイルを個々の子どもに対応させることができる学習記録制度。
E 失敗やつまずきを恐れず、それらをも含めて、子どもの学びの一部分ととらえられる大きな教育観。
F 子どもの学びを、その過程を通して子どもと教師が双方向に確認しあいながら記録・保管し、そうやって蓄積したファイルを見れば子どもの歩みが具体的に分かるような評価方法の確立。