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第一章 自由とわがまま

一節 管理が必要な学校教育


 自由とわがままはどのように区別できるのでしょうか。
 この二つの言葉はときどき同じ意味で使われていることがあります。
「なんでもかんでも子どもの自由にしたらわがままな大人になる」
このような発言は、年齢を問わずに聞くことがあります。これは日本語の口語の中に、両者をはっきりと区別する意味の流れがないことから生じていると思われます。
 そこで文字の上で自由とわがままを区別します。
 

 大辞泉(小学館)によれば、自由とは「自分の意のままに振舞うことができること。勝手気ままなこと、わがまま。哲学で消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的・主体的に自己自身の本性に従うこと。」と書いてあります。これに対してわがままとは「自分の思い通りにふるまうこと。」とだけ書いてあります。
 どうも文字の世界でも、自由とわがままは重なり合う部分があるようです。そこで語源を調べてみると、古語辞典の中には「わがまま」は書いてあっても「自由」は載っていないことに気づきます。また「語源辞典」(堀井令以知・東京堂出版)には、両方とも載っていません。語源辞典は語源の確定していない言語の方が多く、それらは掲載していないと宣言しています。これらを総合して考えると、「わがまま」という言葉は狂言や浮世物の中に使われているので以前から、意味がイメージされた言葉だったのでしょう。しかし「自由」という言葉は明治時代以降に外国語を翻訳するときに造られた言葉だったのではないでしょうか。その後、本当はわがままな振る舞いに対して「これは自由の表現だ」などというように、言葉のすり替えが行なわれた結果、現在のように、両者に大きな区別が感じられない使われ方をしているのかもしれません。イメージとして悪いときは「わがまま」を用いて、良いときは「自由」を用いるという、とても曖昧な日本語表現の一つになっている気がします。


 このことは使い手の思いのままに言葉を操ることができてしまう危険性を意味しています。
 相手の行動を否定したいときは「わがまま」と決めつけ、肯定したいときは「自由」を使えばよいわけです。言われた相手はいつも、自分の行動がどちらに判断されるかを気にしながら行動しなくてはならなくなります。とくに子どものうちは親に認められたい傾向が強いので、わがままと言われないように行動を抑制し、自由が与えられるように工夫してしまうでしょう。


 なぜ、「自由」や「わがまま」について説明するかというと、これらは自発的な学びのエネルギーになっていくからです。
 たえず言いなりになることや指示に従うことばかりを求められ、それに慣らされてしまうと、このエネルギーはからっぽになってしまうのです。あるときになって急激に補給されることはめったにありません。なぜなら、言われるままに動いたり、やらされるままに追従したりする方が、退屈しないし、ラクだからです。そうやってラクな生き方を望むことの善悪を判断するには時間がかかることです。自分を見つめる力は、自由でありたいと心の底から欲するエネルギーによって蓄えられていくことを考えると、ラクな生き方ばかりを続けたら、自分を見つめることすらできなくなってしまうかもしれません。
 自分のやった行動の社会的な意味付けができない若者たちの悲惨な犯罪が連続していることは、その何よりもの証明になっています。


 これでは自由もわがままも違いが分からないまま使ってしまうので、英語の力を借りることにします。


 「Bookshelf」(Microsot)によると、わがままは「〔利己的な〕selfish, egotistical;〔強情な〕《米》willful」」と書いてあります。自由は「freedom 《from; of; to do》; liberty 《of do ing; to do》(_libertyは選択の,freedomは束縛からの自由の意が強い) 」と書いてあります。


 ここでようやく、自由とわがままを区別して考えることができそうになってきました。英語では明らかにわがままと自由には異なる言葉が使われているので、これらを混合して使っているのは日本語だけということになります。そして日本語では「わがまま」の方が歴史的に以前から使われていたことが明らかなので、わたしたちはまだ「自由」という言葉の意味を使いこなしていないという結論に達します。言葉を使いこなしていないということは、それが意味することが「カタチ」になっていないということです。
 つまり日本語世界では自由は個々のイメージとしてだけ使われていて、はっきりした定義がされていないのです。このことを知っていれば「自由とわがままを履き違えている」という発言には「申し訳ないが両者にははっきりとした線引きがないんだよ。だからヘンな日本語を使わないでもらえるかな。」と答えられるはずです。


 そこで本書の中でわたしの思いと重なる自由について説明します。
 これは英語で表されるところの「liberty」という自由です。
 それは、何かをするときに、複数の選択肢の中からどれかを選ぶ自由であり、あるいは選択外のところに自ら進んで歩み出る自由だからです。このことが子どもの伸びと育ちに重要な役割を果たすとわたしは感じているのです。


 現在の学校教育では教師が計画した学習内容を子どもたちが「教えてもらう」のが主流です。そこには「liverty」はありえません。
 まず学校に行くことじたいが本人の欲求でも親の希望でもないところからスタートしています。そこで上履きの色は何色がいいと問われても、だから自由があると胸を張られては困ります。授業までは現行では教師の力では変えられない性質のものだと妥協したとしましょう。ならば物語単元を計画した授業で子どもたちに「作文」「書写」「自分で計画する」などという選択肢が用意できるでしょうか。そんなことはありえません。教育計画を作成しているということじたいが、子どもたちに学びの選択肢を与えないことを前提としているからです。


 わたしはそのような現行の学校教育制度に自由がないと批判はしません。
 それはそのような制度がすでに戦後数十年も継続してきた実績をもっているからです。これは何よりも多くの人たちが支持していることの証拠だからです。
 不合理で、無駄な制度だったら、とっくに変更されているはずです。


 つまり現在の学校教育制度が子どもを「集団管理」という方法で教育していることを多くの人たちは支持しているのです。だからわたしは日本中のすべての学校教育制度に手をつけたいとは思いません。ここ十年ぐらいで明らかになってきた、そういった「集団管理」という教育方法に身も心も合わない子どもたちのことを考え「選択学習」という教育方法も取り入れるべきだと思っているのです。


 この場合の選択学習とは中学や高校の選択教科のような選択幅の狭いものではありません。どの学校に通うかという入り口段階から選択にしなければいけないということです。そして選択肢の設定は教師が一方的に行なうのではなく、子どもたちの興味や関心をもとに策定していく必要があります。


 そんなことをしたら学習指導要領が守れない、教科書が終わらないという教師の嘆きが聞こえてきそうです。当然です。わたしが提唱している学びのスタイルは現在の学校、とりわけ公立学校では実現させることは不可能でしょう。


 現在の学校には管理が必要だということを考えます。


 近畿地方に住んでいるわたしの知り合いが公立中学校に通うお子さんのことについて寄せてくれたメールの中に夏休みの宿題(二〇〇〇年)についての下りがあります。
……引用……
中学校の宿題
「習字」「写生」「デザイン画」「理科の自由研究」「調理実習、写真付き」「幼児の手作りおもちゃ、家庭科」「読書感想文」「税に関する作文」「英単語カード、絵入り」「社会、新聞づくり」その他、主要5教科たっぷりプリントです。
宿題を説明するための冊子つき。


まったくだれのための夏休みなのか、何のための宿題なのか、まるで遊ぶな!といっているような膨大な量です。特にクラブ活動でまいにちへとへとになって帰ってきて、いつ勉強するの?というような子ども達にとっては、夏休みなんかないほうがマシなくらいです。


おまけに担任から、「宿題進行状況アンケートつき往復暑中見舞いはがき」
というのがやってきて、腰がぬけました!


ここまでやるか!といいたい。
あんたらの子どもちがうやろ!
私の子や!
勉強するのもしないのも勝手や!
ほっといてくれ!
夏休みくらい自由にさしたってんか!


教育っていったい何なんでしょうか?
勉強ってやりたくなるから自分のためになるんでしょう?


つくづく、子ども達はどんな大人になっていくのか、不安であり、心配な世の中です
…………

 子どもたちの行動をここまで徹底して管理しようとする教師側のねらいはどこにあるのでしょう。往復はがきの暑中見舞いとは、社会常識を逸脱しているのは教師の方ではないかと疑いたくなります。
 でも、こういったやり方は、思春期に入って言うことを聞かなくなった子どもをもつ多くの親たちに感謝されているのかもしれません。自分の代わりに学校権力という方法で、放っておいたら何をやりだすか分からないわが子を縛りつけておけるのですから。
 さらに知り合いのメールは続きます。
……引用……

つけたしですが、前述の宿題提出状況はすべて2学期の成績に含まれる、という文章も冊子の最後にご丁寧についていました。


修学旅行の、一分間の停車時間に新幹線に乗る練習を学年集会でした、という事に始まって、何かへん・・・。と感じ始めていました。
こどもたちは、何の疑問ももたずたぶん全ての事柄に学校のいいなりになっているのではないでしょうか。


学校でなにがあるのか、保護者にはまったくわかりません。
年に何度かのとってつけたような授業参観は、ないほうがましだし、子ども達はたぶん、学校での生活はこれでも楽しいと思っているはずです。


でも、何かにつけ、子ども達の持って帰ってくるプリント類や、行事のプリント類
なんかを見てみると、どうも最初からレールに乗せられている感がするのです。
前にもいいましたが、修学旅行のしおりに十分間ごとの行動がバッチリ決められているのをみて、「こんなことをするために参加させてるんとちがうわ!
金かえせ!」と正直思いました。


保護者は何も言わないのか、と思っておられると思います。
入学して一年目、とりあえず何もかも初めてなので、そういうものか、と思いました。
ニ年目、ん?ちょっとオカシイんとちがう?と思い始めました。
三年目、やっぱりおかしいで!と確信。でも受験が・・・。
保護者が学校にたてついたら内申書が・・・。
という悲しい現実なのです。


そうなのです。おかしいと気づいてから行動を起こし始めても遅いのです。
もう卒業してしまうのです。
保護者が学校にたてついてゴチャゴチャやってるうちに子どもはその学校からいなくなってしまうのです。
たぶんずっと以前からこういう学校だったのではないかと思います。
次男も一年生、また、同じまちがいを繰り返していくのだと解っていても保護者も学校のいいなりになるしかないのです。


まさにあきらめの教育、でしょうか・・・。
でもこれって三十年前、受けてきた私たちのものといっこうに変わってないなと
今ごろ気づきました。
でも子ども時代はそれなりに楽しかったですが・・・。
…………
 この知り合いの例は決して特別な例ではないと思います。事実、各地のこういった異常とも思える教師たちによる強い管理はメールによってわたしの手元に届いているのですから。
 それでも、残念ながら、学校の管理は、この先何十年もなくならないでしょう。
 それは管理が必要だからです。


 教師たちに人権を侵害するような管理を許しているのは制度的な事情と物語という特殊事情があります。


 制度的な事情とは、子どもたちを何百人も集めてその十パーセントにも満たない少数の大人たちが引き受けていることから始まります。これは「就学指定」と「学級定数」といわれる事情です。
 市町村の教育委員会は法律により学齢に達した子どもたちに入学先を通知しなければなりません。私学か国立大学の附属校を受験しない限り、日本中の子どもたちは教育委員会の指示に従わなければ入学する学校が分からない仕組みになっています。

 教育委員会は人口やそれに対する学校規模などを考慮してどこに住んでいる人たちをどの小学校に入学させるか、子どもたち個人の事情はほとんど無視して決定します。大規模校には周辺の子どもたちをたくさん入学させ、小規模校には学区の線引きを調整します。
 そしてそこに配属される教職員の数も法律で決まっています。教師に限って言えば、子ども四十人に対して一人の教師が配属される仕組みになっています。これを学級定数と言います。単純に計算すれば子どもの数のわずかニ・五パーセントしか教師はいないことになります。実際にはこれに校長や教頭などの管理職や専科や養護、事務や用務、栄養士や調理員などが加わりますが、それでも子どもの数の十パーセントは越えないでしょう。
 大人数の子どもたちを日々効率よく動かしたり、学ばせたり、遊ばせたりするには、個別な対応ではやってられません。わずかな指示で全体がロボットのように的確に行動する仕組みが必要になります。これが教師たちが長年かけて手をかえ品をかえ継続しているさまざまな管理となっているのです。


 管理のタガをもしも緩めたら、子どもたちは言うことを聞かなくなってしまうと思っているから管理するのであって、子どもたちには自分で考える能力がないと決めつけているわけではないと思います。むしろ自分で考える力を削ぐために、管理に慣れた方が身のためだよと毎日の繰り返しの中で刷り込んでいるような気がします。


 遠足に行くのにバスに乗ってからだれがどこに座るかを決めさせていたら、予定時刻に出発できないし、子どもの間に座席をめぐるトラブルが発生するかもしれない……、だから前日までに座席表まで印刷して名前を書き込ませるのです。
 保護者から行き先の希望も聞かず、金額の了承も得ないで、強制的に費用を集め、一日中学校から連れ出してしまう「遠足」という活動へは疑問が向かないのです。
 このような具体例は学校には山積していて、教師たちはどうやったら子どもたちの学習や生活を管理しやすくなるかを検討し続けています。そこには残念ながら、子どもたちひとりひとりの顔はなく、集まりである子どもたちしかイメージされていません。


 物語的な事情とは、すべての親や教師がこういった管理された学校教育制度の中で育ってきたので、気持ちの中で学校像を対象化することができないことを指します。
 自分の小学校時代は楽しかった、みんなでひとつのことを成し遂げた経験が大人になってからも役立っている、学校とは集団の良さを教えるところだ、すばらしい先生との出会いがあった……。
 思い出が輝いていることはすばらしいことですが、それは各人の心の中にしまっておいてもらわないと、今の子どもたちの内面には迫ることができないのです。なぜ、そういった物語に酔ってしまうかというと、それらが個々人の現在を心の中で大きく支えているからでしょう。だから、もしも学校が集団的価値よりも個別的価値に重点を置いたら、自分の生き方そのものと対比してしまうのでしょう。そして、自分が経験してきたことが誤りだったとしたら、現在の自分の価値が減少してしまうと不安になってしまうのです。信じていた人による裏切りに似た感情が交錯するのかもしれません。
 

 これらはすべて物語であるので事実ではないということをしっかり見極めなければなりません。
 個人の生き方にわずか数年の学校教育が多大な影響を及ぼし続けるとしたらそれは恐ろしいことです。実際は学校教育以外の部分でも多くのことを学び、多くの影響を受けながら人は成長しているはずです。だからあまり自分の経験した良い思い出を前面に出しすぎることは、学校時代に心底いやなことを経験した人たちを少数者として排除する危険な考えにもなるのです。


 思い出を語ればそれぞれに経験した出来事の数だけ、出会った人の数だけ、過去を作り替えることは容易です。しかし、そこにあった事実はそのようなものではなく、大量生産時代を支える都市型労働者の育成という産業社会の要請に基づいた装置だったのです。