go to ...ライブラリー,自発的な学びのために

はじめに

 2000年夏も、文部省から前年度の全国学校基本調査の結果が発表されました。不登校や中退、いじめなどは解消されていませんでした。今回は校内暴力が過去最高になったと新聞では報じていました。これらの結果は何を表しているのでしょうか。そして、このような結果を導いた責任はだれが負うべきなのでしょうか。
 わたしはおそらく来年も同様の結果が発表されると思っています。
 なぜなら、教育行政も学校関係者もこのことについては何ら決定的な解決策を発見できずにいるのではないかと思うからです。


 日本の若者が未来に不安を感じ、今を謳歌しようとする傾向にあるのは、何もひとりひとりの問題だけではないと思います。
 倒産して当然の民間企業である銀行に大量の税金が人々の信託も受けずに使われてしまったり、食品を扱う大企業が製作工程で致命的なミスを犯していたり、こういった権力者やガリバーと呼ばれる大資本たちのおごりをマスコミは本気になって追及しようとしません。お笑い、ドラマ、バラエティも結構ですが、ジャーナリズムの根幹にかかわるような報道には最近ではめっきり出会わなくなりました。
 若者たちはこういったことに敏感です。


 そんな若者たちに対して学校教育は、社会がかかえる問題性をほとんど提示していません。「自己破産」「IT」「戦後補償」「ゼロ金利」「児童虐待」……。長期にわたってじっくり腰をすえればそこから多くの学びの要素が導けるようなキーワードはたくさんあるのに、一年生では「ひらがなカタカナ」、二年生では「かけざん九九」、三年生では……というお約束のような学習をここ数十年繰り返しています。


 親がわが子に幸せになってほしいと願う心は美しい心です。
 
 美しいからこそ、そこにはだれもがうなずけるような同じ答えが用意されていないというやっかいさがあります。
 親が願う幸せと、子どもが願う幸せに、ズレや距離がないでしょうか。
 親がわが子の幸せを願って準備したレール、そうやって準備されたレールを強制的に歩かされる子どもたちは本当にそのことの意味を理解し満足しているのでしょうか。
 親子がともに生活する時間はせいぜい二十年ぐらいです。それぞれの人生を考えれば決してすべての時間をともに過ごすわけではありません。
 やがては独立していく子どものために、親にできることと言ったら限られているはずです。そのときもっとも重要になってくることはどんなことなのでしょう。本書はその答えを教育実践の中から発見しようという試みです。


 歴史的に「子ども」という考え方が確定したのはそんなに古いものではありません。詳しくは「子ども一〇〇年のエポック」(本田和子・フレーベル館)や「子ども観の戦後史」(野本三吉・現代書館)をご覧ください。だから「教育」という営みも決して古いものではありません。また世界共通の内容でもありません。


 親が子どもにできるもっとも重要なことは、親の代わりにその任をゆだねられている教師が子どもにできるもっとも重要なこととも重なります。その意味で本書の中で明らかにしていきたい教育実践とは家庭教育とか学校教育とか社会教育というジャンルの枠をこえて共通するものだとわたしは考えています。
 もしも、親が子どもに願う幸せの中に学校での成績が優秀であってほしいとか、何事にも精一杯に取り組んでほしいという思い入れがあったとしたら、本書はその答えを用意しないでしょう。なぜなら、「成績は優秀だった」「部活動も生徒会活動も熱心だった」小学校や中学校時代を過ごしてきた若者がバスジャックや強盗殺人などを犯しているからです。
 いじめなどで残念にも自死を選んだ子どもの通う学校で校長がいくら言葉で在校生に生命の尊さを説明してもあまり効果が上がっていないことも、多くの人たちが知っておくべきです。全校生徒を体育館に集めて涙ながらに生命の尊さを説く姿は美しい物語ではあるけれど、子どもたちの心に届いていないという点をとらえると、厳しい言い方ですが教育にはなっていないのです。


 美しさは、人の伸びや育ちを考えるときにもしかすると邪魔になる感覚かもしれません。そのことを出されると、目前の子どもの姿が消え去って反論の余地がなくなってしまう危険性をもっているからです。
 もっと実践の積み重ねによって未来を創造していかなくてはなりません。


 本書のタイトルをつけるにあたり、少し悩みました。
 なぜかというと、わたしが実践の中から少しずつ見えつつある理想の学びには、これまで適当な言葉がつけられてこなかったからです。だからといって造語にしてしまう勇気はありませんでした。
 そこでもっとも概念として共通項の多い「自発的」という言葉を採用しました。


 「大辞泉」(小学館)によれば自発的とは「物事を自分から進んで行なうさま」と書いてあります。また自発については「外からの働きかけを受けてするのではなく、自然に行なわれること」と書いてあります。似たような言葉に自主的があります。これは「他からの指図や干渉によらずに、なすべきことを自分の意志に基づいて行なうさま」と書いてあります。
 似たような意味づけですが、わたしは次のように整理して解釈します。
 
 まず人は自発的な育ちをするべきで、その結果として自主的な生き方が可能になる。


 自発的な育ちをしたからといって、必ずしも自主的な生き方ができるというわけではないという意味も含んでいることを心に留め置いてください。そして自発的な育ちをしなければ自主的な生き方はできないという断定的な意味も含んでいることも覚えておいてください。


二〇〇〇年八月一五日