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言語の扱い

この原稿は、WAYに連載しました。
「湘南小学校」において、言語の扱いをどうするべきかをまとめた私見です。決して湘南に新しい公立学校を創り出す会の統一見解ではないことをお知らせしておきます。


 子どもが学びのなかみを決める。
 そのためには、子どもがどんなことをやろうかと考える時間と場所が必要になる。ひとりひとりの子どもによって、その時間には違いがあるだろう。だから、個々人がいつどのように「このことをやろう」と決めるかはタイミングが違ってくる。また、学びのなかみを決めようとプログラム用紙を前に何かを記入するのも、スタートのタイミングが違うだろう。しばらく周囲の子どもの様子をうかがったり、情報収集のために図書館に行ったりする時間も必要になる。
 学びのなかみを決めるスタートラインも、決め終わるゴールラインも異なるので、スタッフが完全に個別に対応するのは物理的に困難になる。だから、学びのなかみを決められるような道筋を用意していかなければならない。
 そのためには、よく練られた問いかけの言葉を使ったわかりやすいプリントが必要になる。また、そのプリントを記入した後に、子どもがどのような行動をすればいいのかという動線を考えた室内環境も重要である。
 これらは、毎日開校になったとき真っ先に子どもが経験することなので、あらかじめ運営サイドで準備を進めなければならない。現在、試行的に行っている湘南小学校は週末の開校なので、どうしても「その日に」計画から実行までの動きをやらなければならない雰囲気が生まれてしまう。そのようなことはないのだが、計画だけで終わる子どもはいない。一週間に一度という条件が、子どもの気持ちのなかに、その日になにかをやりぬきたいという気持ちを生んでいるのかもしれない。
 だから、湘南小学校設立準備は、学びのなかみについて、毎日開校した場合の状況を想像しながら組み立てていく必要があると思う。それは文章の上で完成させ、検証は本番の毎日開校のなかで行うしかないのではないかと感じている。

 一口に学びのなかみを子どもが決めるといっても、その決め方はさまざまである。そのことは、1999年から実施しているテストスクールで、わたしたちに子どもたちが教えてくれている。
 あらかじめ考えてきた子どもは、計画書を前にすらすらと学びのなかみを記入する。そこには自分で考えてきた場合と、親のアドバイスがある場合とに分かれる。
 その場で何をしようか考え始める子どもは、ほかの子どもと相談しながら学びのなかみを決めてゆく。そこには、ほかの子どもとの人間関係が大きく影響する。自分がやりたい気持ちよりも、だれといっしょにやりたいのかが重要になる。その結果、うまくいく場合もあるし、ほかの子どもの気持ちに合わせたために途中でうまくいかなくなくる場合もある。
 また、その場で考え始める子どものなかには、ほかの子どもと相談しないで、じっと計画書を前に長い時間を過ごす子どももいる。心配するスタッフは、近づいて相談に乗らなければならないと思いがちだが、多くの場合、そのようなアプローチは効果を発揮しない。なぜなら、子どもはスタッフからのアドバイスを待っているわけではないからだ。その子どものこころのなかに流れる時間が、周囲には「長い時間」に感じられるだけで、本人にとってみれば学びのなかみを決めるのにかかる「自然な時間」に過ぎない。
 湘南小学校2002では、相談役を支援スタッフのなかに作った。相談テーブルを置き、アドバイスが必要な子どもが自分から相談をしにいくやり方だ。見ていると、年齢の低い子どもほど相談役をよく使う。年齢の高い子どもは、相談することへの気持ちの重さがあるのか、あまり相談役を使おうとしない。

 学びのなかみを決めるときに、自分が決めたことを紙に記入する方法で重要になってくるのは文字の問題である。
 現在の湘南小学校に通ってくる子どもは、既存の学校に通っていたり、途中で通うのをやめた子どもなので、一度は学校で文字を学習している。だから、はじめから文字を何も知らないで湘南小学校に通うようになった子どもはいない。
 やがて毎日の開校となったとき、文字の学習をどうするかという問題は湘南に新しい公立学校を創り出す会ではまだ検討されていない。そのようなことはしなくても、子どもは自分に必要な言葉を学習していくという自然発生的な能力を期待する声もあるが、わたしは何らかのテキストは必要なのではないかと感じている。そうしないと、入学期の子どもは親が家庭で教師代わりになって言葉の学習を担当しなければいけないと感じるようになってしまうかもしれない。
 それでは、どのように言葉の学習を行ったらいいのか。学びのなかみを子どもが決めるという中心的な考え方を大事にしながら、それでもまったく文字の読み方や書き方を知らない子どもに「教える」という学習は存在しえるのか。
 文字の表を掲示したり、キーをタッチすれば音声で読み方を教えてくれるソフトを完備したり、フレームワークを工夫することはできる。子どもの周囲にそれらがあるとき、スタッフが意図的な働きかけをしなくても、子どもは自分にとっての必然性でそれらを使うようになるのだろうか。
 子どもの話し言葉をスタッフが書き写すという方法も考えられる。この方法は、スタッフにとっては子どもの計画を判別しやすくなるが、話しているだけで文字を学習していない子どもにとっては計画書にスタッフによって書かれた文字は、ただの記号に過ぎなくなる気がする。

 学びのなかみを子どもが決めるという概念を、子どもたちが毎日生きていく具体的な姿として想像しなければならない。
 そこには、ひとの言語習得過程を考慮する必要がある。ひとが耳にする言語は、日本語の場合、そのまま文字と直結していない。文字が音を表す言語ではなく、意味を表す言語のため、このややこしい音と文字との結びつけを学習する必要がある。
 また、ワという発音に対して、文脈のなかで「わ」と「は」を使い分けなければならない例が、「へとえ」「おとを」のように登場する。文脈のなかでの使い分けは、文字を読むという能力とセットにならないとなかなか力にならない。
 くわえて、ショーという発音に「し」と「ょ」と「う」という三つの文字をあてる例は、数多くある。言語を獲得する以前の子どもには、「ショー」という言葉はあっても、「しょう」という文字はない。「ショー」という言葉は「しょう」と書くんだよということを、だれかが教えなければ子どもはいつまでも知らないことになる。子どもの興味や関心を最優先したとき、子どもたちはこんなに難しい音と文字との結び付けを、自分だけの力で行っていけるのだろうか。
 さらに、言語でややこしいのは、読み方の問題がある。日本語の場合、ひとつの文字にいくつもの読み方がある。それも、「歩く(アルク」と「歩む(アユム)」と「歩(ホ)」は、どれも違う言葉なのに、同じ漢字が使われている。そして、アルクとかアユムとか言われれば、文字にしなくてもなんとなく意味がわかるのだが、ホと言われてしまうと、いったいなんのことだかさっぱりわからなくなってしまうのである。
 わたしは、こういった言語習得過程を、いままでのやり方のように子どもたちに一方的に時間を区切り、同年齢の子どもだけを対象に、教授するだけの方法では、子どもたちに十分な言語能力はつかないと思っているが、おとながなにもしなくても自然にこれらの能力をつけていくとも思えない。そこには、いままでと異なる有効な方法を作り上げていく必要があると思っているのだ。

 多くの新しい教育法は、子どもが言語を習得していく過程を体験に基づいた理論で説明している。だが、それらの多くは外国の教授法である。日本語の特性に基づいた新しい言語学習については、なかなか体系としてまとまった教育法に出会ったことがない。その結果、現在の学校で行われている教授と反復を中心とする学習方法が、日本語の習得にはもっとも効果があるように思われている。
 はたしてそうなのだろうか。残念ながら、これに反論できる有力な実践は初等日本語教育にほとんどない。
 わたしは湘南小学校では、教授と反復を中心としない日本語学習の新しい学習方法を確立しなければいけないと思っている。
 子どもたちの成長を見ていると、とても早い段階で音としての言語を習得しているのがわかる。これらを言葉と呼ぶとしたら、筆記具を使って書かれる言語は文字として区別して考える必要がある。音としての言語、つまり言葉を習得している子どもは、他者との関係をコミュニケーションによって成立させることができる。言葉は耳から入って、脳で判断される。未知の言葉の場合は新しい情報として整理され、既知の言葉の場合はある程度の意味をともなって理解される。それらは自分がしゃべるときに有効な情報源となる。脳に整理され、あるいは理解された言葉を、自分の声を使って発するには、耳から入った音声を記憶していなければならない。たとえ、聴いた言葉でも、発音を忘れてしまったら再生することはできない。

 じつは、自分のやりたいことを決める思考作業でも「言葉」は重要な役割を果たしている。こころのなかで「ナニヲシヨウカナ」という言葉を自分に問いかけているからだ。
 そのため、言葉の習得は子どもが学びのなかみを何にするかというスタートラインに立つ以前に必要になってくる。そして、「コレニシヨウ」と決めた後、それらを声としてスタッフに伝えるのが最初なのか、文字にしてスタッフに伝えるのが最初になるのかによって、どの段階で文字の習得が必要かが決まってくる。
 まったく何もないところから自分のやりたいことを計画していくパターンでは、その子どもが考えたことを言葉として、あるいは文字としてスタッフに伝える力をどのようにつけておいてもらうかを考えなければならない。これに対して、いくつかの学びのなかみをポスターやビデオ、写真や紙芝居のような言葉を使わない、あるいは言葉に頼らないビジュアルヒントとしてたくさん用意しておき、そのなかから選ぶというパターンならば、「わたしこれにする」という意思表示だけできればいいので言葉の習得や文字の習得は、学びのなかみを決めた後でもかまわなくなると思う。
 このふたつのパターンは、どちらが有効かを選ぶ必要はないと思う。子ども自身が自分はどちらの方法を選ぶかを決めればいい。それらはある程度、年齢による傾向が見られることになると思うが、一概に「何歳だから」とは言い切れないことだろう。

 わたしはかつて湘南小学校独自の教育基準を個人的に作成したことがある。卒業までに、これだけの力はつけているという細かいなかみを学習指導要領のように教科や領域別に網羅した。それらはメンバーの話し合いのなかで、湘南小学校のコンセプトと矛盾するということで否定された。
 たしかに、子どもたちが自分で学びのなかみを考える以上、ひとりひとり身につけていく知識や技術は異なるだろう。すべての子どもたちに一律につけることができる学習内容というのは考えにくい。
 しかし、どのような内容を子どもが考えようと、自分の考えを表現したり、それらを記録したりするときに、必ず身につけていく共通のスキルと能力があるように思うのだ。それらをたんねんに調べ上げて、社会で役に立つスキルや能力であるということを説明することは、とても必要なことだといまでも思っている。
 文字を書くことができない子どもに紙を渡して「ここに名前を書くんだよ」といっても、それはできないことをやらせようとしていることになる。数の概念がない子どもにお金を持たせても買い物はできないだろう。レジであたふたして、解決策の見つからないエラーを繰り返させてしまうことになる。
 いま、わたしたちが湘南小学校で出会う子どもたちは、家庭や既存の学校で、ある程度の文字や数の概念を「教えられて」きていることを忘れてはならない。一斉学習を批判しても、その成果によりかからないと、湘南小学校が成立しないのであれば、その批判はとても無責任なものになる。

 現在、わたしは勤務している小学校でパソコンを使って1年生と2年生にステッカー作りを指導している。
 もともと、ステッカー作り(子どもにはシール作りといっている)は、昨年末に子どもたちに「こんなことやりたいな」というのがあったら教えてアンケートでリクエストの多かったものだ。湘南小学校のように、希望した子どもだけに内容を提示できないのは、いまの学校では仕方がない。だから、ステッカー作りを導入して、1年生と2年生全員に対して指導している。
 1年生は、ステッカー作りのウイザードがあるのでこれを使って行っている。2年生は白紙のページに自由に、文字のステッカーや絵や写真のステッカーを作成している。
 1年生は小学校に入学してから文字を学習することになっているので、いまの段階でもまだ文字を認識することが困難な子どもが何割かいる。そういった子どもがいる以上、自由に文字を記入する方式は選ぶことができなかった。口では「マ」といえても、キーボードの「ま」というボタンが「マ」という言葉と一致していない子どものかたわらで、わたしは「それはこのボタンだよ」と教えている。子どもは、ボタンに書いてある文字を見て、はじめて「マ」という音には「ま」という文字が使われているという結びつきを経験する。一度の経験で記憶する子どもはほとんどいないので、同じことを何度も繰り返しながら音と文字を結び付けていく。
 たとえば、湘南小学校で文字を子どもが学習するとき、キーボードを利用した方法は導入段階では有効だと思う。まず音と文字を結びつける、つまり読むという経験がたくさん積まれることによって、子どもは言葉を文字に変換していくことが容易になる。学校では書く学習が先行するが、ボタンを押すという作業のほうが、読む力を育てるには確実なのではないかと思う。

 これからの時代を想像したとき、子どもたちは文字を書く社会経験と文字を読む社会経験のどちらのウエイトが大きくなるだろうか。社会学者の多くは、パソコンの普及により、圧倒的に文字を読む機会が増えるだろうと予測している。文字を書くという作業は、キーボードを押すことによって代替され、いままでのようにペンをもって紙に書くという作業は限りなく減っていくだろうというのだ。
 すべての人たちがそのような生活を送るとは思えないが、一定の割合で、ペンを使って文字を書くよりも、圧倒的にキーボードをたたいて文字を書く割合のほうが多い人たちが増えていくだろうと、わたしも感じる。
 インターネットの普及により、そこに表示されている情報を読み取る能力や、自分から発信したい情報をタイピングする能力は今後ますます求められることになる。モニターにペン型のマウスを使ってノートに文字を書くように入力すると日本語が入力できるパソコンが登場すると聞いた。それなりの活用法はあるのかもしれないが、一般的には書くという動作よりも、キーをたたくという動作のほうが便利ですばやい。
 そのような時代になると、人々に求められるのは、文字をきれいに書く技術ではなく、なにを発信するかという情報そのもののなかみになってくるだろう。これは付加価値に流れていった人たちの意識を、本物志向へとシフトすることにつながるかもしれない。
 わたしもこうやってホームページを更新しているのは、キーボードをたたいているからできるのである。一日のうちで、ペンを使ってメモ帳やノートに文字を書く時間よりも、ずっとずっとタイピングしている時間のほうが長い。また、そうやって書き残す文字の量もタイピングのほうが圧倒的に多いと思う。それだけに、ただずらずらとタイピングするのではなく、どんな情報を伝えるかというなかみが問われてくるのではないかと思う。

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