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学校教育の多様化へ

 いまの日本の公教育は、税金が投入されているという意味では公立学校も私立学校も同じくくりだ。私立学校は補助金がカットされたら経営が成り立たなくなる。
 国立大学は、一応、独立行政法人として法人格を授けられたが、運営費はほとんどが税金だ。
 日本のように私立学校でありながら、国から補助金をもらっている国は少ない。
 金をもらうということは、国の政策に従うことを意味している。だから、私立学校を建学した精神が脅かされることを恐れて、多くの国の私立学校は補助金をもらわない。
 そのかわり、アメリカのように企業や個人資産家からの多額の寄付を受けつけている学校は多い。
 自分の富をよのなかに再分配することで、社会に尽くし、神に感謝するという強い宗教心が背景にあるという見方もある。その一面を否定はしない。しかし、アメリカのように寄付行為が会社の必要経費として認められる税制が大きく影響しているのも確かだ。
 つまり、ある会社が年間の収支決算で1000億円の収入を得て、800億円の支出があったとしよう。200億円が利益になる。国はその利益に対して税金をかけてくる。日本の場合は60パーセントぐらいの課税率だと思った。アメリカでは、その200億円のうち100億円を慈善事業として各団体や学校に寄付したとする。するとそれが必要経費として認められるので、残りの100億円が課税対象になる。仮に100億円の課税率が10パーセントだったら、日本の会社よりも利益が多く残ることになる。社会に貢献できて、かつ利益も多く確保できるわけだ。
 日本では寄付行為が必要経費として認められていないので、多くの資産家や大企業は寄付という利益を捨てるような行為はやろうともしない。
 けちに見えてしまうのだ。

 一枚の写真がある。
 2012年秋に、わたしが担当している小学校特別支援学級のこどもたちとみかん狩りに行ったときの集合写真だ。15人のこどもがカメラを見てそれぞれの表情をしている。
 ピースポーズのこども。キャップのひさしを後頭部に回して笑顔のこども。首をかしげたこども。舌を出しているこども。あらぬ方角を見つめているこども。うつむいているこども。両手をだらりと出してお化けポーズのこども。
 みんな表情やポーズは異なるが一枚の写真のなかで、ともにみかん狩りを共有している。
 それぞれ脳の成長に何らかの特徴をもつ。話し言葉が出ないケースもある。
 ひとりひとりの違いを認め合い、それぞれにあった学習計画を作成し、学校が保護者と相談しながらできることをふやしていく。特別支援教育の基本にある考え方は、公教育全体に対してもあてはめていい時期にさしかかっている。

 2012年冬の衆議院選挙で大勝した安倍自民党政権は、公教育に関して中央の統制を強める計画がある。これまで知事や市長にとって邪魔な存在だった教育委員会を無力化しようという計画だ。
 一般のひとは、教育委員会の役割をあまり知らない。
 これは戦後に導入されたアメリカの教育制度の一部だ。
 アメリカでは州ごとに教育法が異なる。公立学校に関する予算の使い方や、学習内容が州によって異なるのだ。それを憲法が認めている。
 アメリカ建国の歴史を振り返ると、南北に分かれて殺し合いをしたほどの国家なので、中央政府による統制には強く反発する気質があるだろう。だから、公教育については、住民による投票によって選ばれた教育長が、委員を集めて、教育委員会を組織して、自主独立の教育を実施する。結果について責任を負うので、次の選挙で落選することもある。
 日本でも戦後に教育委員会制度が導入されたばかりの時期は、教育長や教育委員の公選制が実施された。しかし、自民党などの保守政権にとって、教育委員会が住民の代表ではやりにくい。なんだかんだと条例を作って、公選制度は消失した。
 いまの教育委員会は、教育基本法・学校教育法などに規定された公教育制度を全国津々浦々まで行き渡らせるための事務的な職務が中心になっている。その教育委員会を支えるために役所の中には教育委員会事務局が存在する。学務課、指導課、保健課、給食課、施設課などに分かれている。
 だから、いまの教育委員会は住民の願いを実現する組織ではなく、法律どおりの学校教育を遂行する役所的機構の一部なのだ。 戦前の日本では学校教育が多くのこどもたちを戦争へ駆り立てた。こどもたちは天皇のこどもと教えられ、赤子と呼ばれた。赤子は天皇のために戦い、天皇のために死ぬことをもっともすばらしい生き方と教えられた。その教えを信じ、多くのこどもたちが少年や少女のまま戦地に赴き「天皇陛下、バンザイ」と叫んで死んでいった。
 これは、軍部の方針が政府を動かし、政府の方針が文部省から各学校に命令され、実現した。
 戦後の日本国憲法では、学校教育への政治の介入を禁止している。
 戦前の苦い経験から、同じことを繰り返してはいけないという誓いの証だ。
 現在、大阪の橋下氏や安倍氏のようなひとたちが、教育委員会を邪魔者扱いするのは、教育長や教育委員に気概のあるひとがいるからではない。
 教育委員会という制度が、忠実な法の執行機関になりすぎて、市長や知事など権力者の思いのままにならないことが多いからなのだ。
 公然と公職選挙法に違反して、告示期間後のインターネット情報を更新した橋下氏は「あんな馬鹿げた法律に従う必要はない」と、弁護士とは思えぬ発言をして、自己正当化している。

 憲法では、6歳から15歳までの9年間を義務教育期間にしている。
 ほとんどこの期間をカバーするのが、小学校と中学校だ。
 義務教育期間は、保護者がこどもに教育の機会を与える義務を負う。
 そのために、行政は、必要な学校を用意している。
 しかし、義務教育期間の小学校と中学校は、あまりにも画一すぎて、選択肢がほかにない。中学校と高校を一つにした中高一貫校ができたが、小学校にはほかの選択肢がない。

 多様化は、内容を異なる別の教育機会を用意し、保護者やこどもがそれを選択できる権利を持たなければ実現化しない。
「そんなもの必要ない」
「どうして、そんなものが必要なのか」
 いまさら、そんなことを言うひとがいたとしたら、あまりにも能天気な生き方をしすぎている。理由は自分で調べてほしい。

 ゆとり教育の弊害としてこどもの学力が低下したという非科学的な論理で、かつての詰め込み型授業が復活した。
 一斉指導、知識の詰め込み型指導によって、多くのこどもが学習への意欲をなくして、学校に行くことがいやになった時代を忘れたかのようだ。
 ふたたび不登校のこどもは増加へ向かうだろう。
 きっと教育行政の責任者たちは、いまの学校に不満なら自分で勝手に勉強しろとでも思っているんだろう。家庭にそれだけの経済的な余裕があるならばかまわない。しかし、経済的に恵まれていないこどもは、どうすればいいのか。
 学校に行ってわけのわからない勉強を一日中叩き込まれる。叩き込まれても、何も理解できない。テストをすれば0点ばかり。勉強ができない、家が貧しいと、周囲から差別され、隔離され、無視されていく。学校へ行くことがつらくなって、家庭に引きこもる。親はあわてる。力ずくで学校へ行かそうとする。親子の関係が冷めていく。
 一部のエリートを育てる教育を安倍政権は目指していくだろう。
 大多数の落ちこぼれたちは、徴兵制度によって最前線の危険な場所に送り込めばいいと考えているのだろう。

 学校教育を多様化しなければ、こういう時代はすぐそこに迫っている。



この原稿は、way vol.6871-vol.6873で紹介しました。

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