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大きな溝

 中学校へこどもが進学した保護者から相談の電話を受けることがある。
 小学校時代は特別支援学級に在籍して、中学も特別支援学級に入学した保護者たちだ。
 大きな環境の変化にこどもが戸惑い、入学して1ヶ月ぐらいで、登校を渋るようになるという。
 最近は、小学校と中学校の教員交流が始まっている。
 中学校の教員が小学校の授業時間帯にこどもの様子を観察に来る。当然、観察するのはこどもの様子ばかりではなく、こどもが過ごしている教室環境や、わたしたち教員の接し方も観察していく。
 中学校に進学した保護者からの相談の多くは、中学校では全体での動きが多すぎて、そこから外れたり、そのなかでわめいたりすると、強制的に隔離されてしまうというものだ。
「廊下に立っていなさい」
 古典的な指導が行われているらしい。
 特学のこどもが廊下に立っていても、じっとしているとは思えない。そのうちに、ふらふらとどこかに行ってしまう。すると、そのことがまた教員を怒らせてしまう。
「立っていろと命令したのに、どうして他のところに行ったんだ」
 叱る内容が増えてしまうのだ。
 わたしの経験では、特学に在籍するこどもに、何らかの罰を与えるときは、本人に理解できない罰を与えてもまったく効果がない。
 全体での動きについていけない理由がこどもにはある。
 その理由をとらえ、少しずつ小さな集団から適応できる指導を積み重ねるしかないのだ。そのプロセスでは、反抗的な態度や批判的な言動には厳しく対処する。
「いまの言い方では、相手をいやな気持ちにさせるだけだ」
「その態度は、わかってくれるひとの人数を減らすだけだ」
 あなたは、ひとりぽっちになりたいのかい?
 一般的に自閉症のこどもは、ひとりでいることが多いと誤解されている。
 これも、多くの自閉的傾向のこどもと接してきた経験からわかることだが、決してひとりが好きなわけではない。
 彼らは自分の気持ちをうまく言葉にできない。相手の気持ちをうまく理解できない。だから、ひとりでいた方が「ラク」だと感じてしまうだけなのだ。
 ひとりでいた方がラクだが、だれかと遊ぶ方が楽しいに決まっている。ひとと会話する方が楽しいに決まっている。
 怒った顔に睨まれるよりも、笑顔に包まれた方が嬉しいに決まっているのだ。


 わたしたちは教科指導のプロだが、心理的なアプローチのプロではない。
 だから、小学校の特別支援学級では、しばしば臨床心理士やスクールカウンセラーたちのアドバイスを重用する。
 プロの見立てを、授業や学校生活の具体的な日常に実践として生かしていくのだ。
 ひとりのこどもを複数の主眼で支えていく。
 ところが、中学校のなかにはそれを受け入れないところがあるらしい。
 あまりにも管理的な中学校の特別支援学級の教員がいるというので、
「臨床心理士の方に授業参観をしてもらって、有効なアドバイスをしてもらったらいかがでしょう」と返事をする。
 すると、保護者から応答は、次のようなことが多い。
「もう何度も心理士の先生が学校宛に参観を申し込んでいるのに、まず返事すら寄越してくれないそうなんです」
 つまり、中学校側は門前払いをしているのだ。
 これでは、学校が閉鎖的と批判されても仕方がない。
 なかには、養護学校へどうして行かなかったのかと詰問されるケースもあるという。公式な記録の残る発言ではないので、保護者が問題視しても、学校側は発言を否定するだろうが。
 もちろん、わたしが知っている中学校の特別支援学級の教員には、尊敬するすばらしい教員も少なくない。
 だから、わたしが相談を受けるようなケースが、すべての中学校で行われているとは信じたくない。
 だが、保護者が以前の小学校の教員にまで、悩みの矛先を向けざるを得ないというのは事実なのだ。もしかして、わたしがその相談を中学の教員に連絡して、逆恨みされてしまう危険性を冒してまで。
「こどもの社会性は家庭のしつけの問題です。集団へなじめないとか、特定の個人にいやがらせをするというのは、親の育て方が悪いからです。家ではどんな育て方をしているのですか」
 まるで、先ごろ、大阪市議団が撤回した家庭教育に関する劣悪条例を推奨するような発言をする教員もいるという。
 自閉症スペクトラムのこどもの多くは、集団への適応不全を特徴にしている。だから、こんなことを言われたら、保護者は自分の責任でこどもが生きにくさを背負っているとショックを受ける。
 集団への適応不全は、あくまでも結果としての症状に過ぎない。
 起因している脳の状態を理解する必要がある。複数のひとがいる場所では、ひとが多くの考えをもっている。それをそれぞれに喋っている。自分はどの発言を聞けばいいのか、あるいはどの発言を無視すればいいのか。情報処理の力が弱いと言われている自閉脳では、仕方がないのですべての情報を記憶しようと努力する。
 そんなことには限界があるので、やがて思考がパニックを起こし、わめいたり、逃げたりせざるを得なくなる。

 晴れた日に、こどもたちを連れて近くの公園に行く。
 公道を歩く学習や、交差点を渡る学習を、実際に行っているのだ。
 直接的な体験は、どんな座学よりも有効だ。
 公園に着くと、午前9時過ぎにもかかわらず、近くの公立中学校の制服を着た男子や女子がベンチで携帯電話をいじっていることがある。なかには、タバコを吸っている者もいる。
 その公園は、となりの小学校の学区内にあるので、わたしが勤務する小学校の卒業生ではない。見知らぬ顔なので気楽に声をかける。
「きょうは学校に行かないんだ」
 まさか、声をかけられるとは思っていなかったらしく、多くの中学生は返事まで時間がかかる。うなずくだけのこどももいる。
 しかし、少しずつ話を聞いてみると、内面の複雑さを表してくれる。
「校門までは行ったけど、生徒指導のヤツ(教員)が、服装が乱れているから帰れって言った」
「茶髪を黒に戻してから登校しろって言われた」
「遅刻していったら、校門に鍵がかかっていて入れなかった」
「どうせ勉強なんてなにもわからないし」
「あいつら(教員たち)だって、俺たちがいない方が清々していいんだよ」
 どうやら、中学校は校則や学校の流れに従うこどもには門戸を開くが、その流れに乗れないこどもを排除し始めているらしい。
 小学校ではありえない。と、思いたい。
 こどもが生活状態を悪化させていく。その理由は学力低下と家庭環境の劣化。大きく、この2つに集約される。
 勉強がわからないこどもをていねいに指導する学校では、非行やいじめは起こりにくい。もともと能力はひとによって異なるのに、全員を同じ基準まで引き上げようとするから無理が生じる。それぞれが自身を持てる分野とか教科を見つければ、ほかがややわからなくてもやけになることは少ない。
 家庭環境は経済的なものと比例していない。貧しいとか裕福とか、そういう基準は環境の善悪とは無関係だ。父や母、兄弟姉妹などの家族のなかで、本人がどんな位置づけにあり、家族が総体として、どのように機能しているのかが問題になる。互いの存在を無視し、あるいは服従と支配の関係で結び付けている場合が、劣化環境へと発展する。劣化した家庭は、玄関のドアを開けただけで、すさんだ空気がどよんと漂っている。こどもの居場所が感じられないのだ。
 校則は学校の流れに従うこどものなかには、そのことがいやでいやでたまらないこどもも少なくない。
 だから、平日の昼間に公園で日向ぼっこをしている中学生と、我慢の限界に日々挑戦し続ける中学生と、どちらが幸せかはわからない。


この原稿は、way vol.6764-vol.6766で紹介しました。

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