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輝く星にならんことを

 12月になったと思ったら、急に空気が寒くなった。  わたしは音楽の指導リーダーだ。  支援級では複数のおとなが授業を担当する。音楽のようにみんなで学習する授業では、ひとりのおとながリーダーになり、ほかのおとなはフォロー(支援者)になる。 「きょうは急に寒くなりました。こういう日は、からだが冷えてしまいます」  うんうんとうなずくこどもたち。


 特別支援学級。


 普通小学校のなかにあって、個別支援を中心とした学習プログラムが用意されている。  しかし、音楽、図工、体育は原則的に支援級のこどもたちみんなで学習する。1年生から6年生まですべての学年のこどもたちがそろっている。同じ年齢のこどもたちで学級を編成する通常級とは集団の年齢構成が異なる。   「さて、からだが冷えてしまうと、ひとはどうなってしまうでしょう」  健康教育のつもりで質問をした。ねらった解答は「風邪をひく」だ。  はーい、はい。あちこちで手が挙がる。  思ったことをすぐに口にしないで、手を挙げて、指名されてから応えるという指導はいつもしている。何も思っていないのに、指名されたいから手を挙げるのはご法度ということも指導しているが、なかなか理解してくれないこどももいる。 「からだが冷えると、冷たくなります」 「寒いです」  風邪という概念は難しかったか。 「そっか、わかった」  6年生の芳雄(仮名)が自信をもって手を挙げた。彼なら答えられるかもしれない。 「はい、芳雄くん」  芳雄は立った。そして、胸を張って言った。 「からだが冷えてしまうと、鍋がいいですね」


 きみたちの感性が、きみたちのピュアな気持ちが、そのまま受けいれられる社会の実現を目指したい。そんな社会で、きみたちは暗闇を照らし続ける輝く星であり続けるのだ。


 45分間隔で小学校ではチャイムが鳴る。  授業が45分で区切られているからだ。  そのチャイムが聞こえてくるスピーカーをさっきから、3年生の忠司が指差している。スピーカーは天井についているので指差しても届かない。一生懸命に爪先立ちをして、人差し指の先がスピーカーに届けとばかりに、背伸びをしている。 「これ、なに」  知っているのに、忠司は聞く。 「スピーカー」  わたしは応じる。もしも「スピーカーです」と応じると、忠司はそれをスピーカーですというものと認識してしまう。 「スピーカー、スピーカー」  小声で忠司はつぶやく。こういうときの忠司は、自分の脳にスピーカーという音を刻んでいる。 「スピーカーは、空気がでます」  忠司の表現は独特だ。    自閉症スペクトラム。  自分の気持ちを言葉にするときに、うまくコミュニケーションをはかるには十分ではない言葉になってしまう。だから、こどものときから、どんな言葉を使うかを学習していく。


「忠司くん、スピーカーからは空気はでません。空気が出るのは、あっち。エアコンです」  わたしはスピーカーのとなりにあるエアコンの排出口を指差す。  忠司は口元で笑う。彼が、この表情を見せるときは、自分がひととコミュニケーションを取れていることに満足しているときだ。 「空気が出るのは、エアコン。エアコン」 「スピーカーからは、音がでます。音は見えません」  見えないものが出てくるスピーカーが、忠司にはこのよのなかでとても不思議な代物なのだろう。オトという概念は、一般のひとにでさえ説明するのが難しい。しかし、忠司は音に興味をもったのだ。無駄にはできない。


「忠司くん。音は見えないけれど、耳に入ります。痛くはありません。スピーカーは、そんな音を出すものです」  こんな説明ではわかってくれないかもしれないが。


 わたしの苗字は「ササキ」だ。 「カダイセンセイ、おはよう」  しかし、3年生の郁夫はいつもこう言う。  母音上では合致する。「ササキ」の母音は「ああい」。「カダイ」の母音も「ああい」。言葉を発する力が十分でない場合、母音は共通しているのに、子音が異なるケースがある。  カダイではないということを強く指導しても意味がない。  発語(言語を発する)能力は、ひとによって異なる。成長とともに習得することもある。学習によって習得することもある。トレーニングによって明瞭になることもある。


 郁夫はダウン症だ。  全身の筋肉の発達が、通常のこどもよりも遅くて弱い。言葉が不明瞭になるのは、あごを支えている頬や首の筋肉が弱いからだろうと言われている。  にもかかわらず郁夫は早口なので、わたしは郁夫の発言を聞き取ることが難しい。


「カダイ先生、おはよー。っから、とって、んちゃんちゃだよ。わははぁい」  何かをわたしに伝えて、納得し、目の前から離れていく郁夫。その背中を見ながら、一体彼は何を言いたかったのかと悩むことが多い。


 郁夫は強がりだ。 「ばか」「いやだ」「帰る」  すぐ口にする。  真に受ける必要はない。 「郁夫くん、こないだのお面ごっこしようか。おばけーってやったじゃん」  口を尖らせていた郁夫は、にっこり笑って「うん」と頷く。  ちょっとした不快な状態を「ばか」と言い、ちょっとした抵抗を「いやだ」と言う。語彙が少ないというのは不幸なことだ。  少しでも、表現の幅を増やすために、よのなかにはもっともっとすてきな言葉があるんだよいうことを教えてあげる必要がある。  早口言葉の郁夫の会話を、周囲のおとなが理解しすぎると、郁夫は新しい言葉を覚えない。正しい発音をしようとしない。すべてを矯正するのではない。かといって、すべてを受け止めるのでもない。ケースバイケースで、許容と指導を使い分けることが大切だ。


 郁夫の小さな胸には、幼いときの手術の痕が残っている。


 野山の生き物や海中の生物と人間が異なる点のひとつに排泄がある。  猫も指導によってトイレの場所を獲得する。  人間は、排泄のときにトイレを利用しなきゃいけない生き物なのだ。とくに現代社会では、ところかまわず排便排尿していたら、警察につかまってしまう。


 特別支援学級のこどものなかに、尿意や便意が来る前に下着のなかに「してしまう」こどもがいる。何らかの脳の伝達系に問題があると言われている。いわゆる「おもらし」ではない。やってしまった後で下着が汚れて気づくのだ。やったことを教えてくれる。  これに対して、尿意や便意があっても下着のなかに「してしまう」こどももいる。これは「おもらし」だ。排泄はトイレでするという習慣化がはかれていないことが原因になる。さらに、もらしたままにしているケースでは、下着が汚れていることに不快感を覚えない問題性もある。


 いずれも支援級のおとなは処理をする。  だから、教室には各自の着替えがたくさん用意してある。あまりにも大量の便にそなえて、シャワー室も完備されている。  また性差によって、トイレの使い方(排泄の仕方)が異なることもこどもにはわかりづらい。学校のトイレがすべて家庭のトイレのように洋式になれば問題はないのだろう。男性トイレの場合、排尿は小便器にすることになっている。


 トイレット指導(トイレの自立)は、完全にマンツーマンの指導だ。  また基本的には同性が担当する。ただし、そんなに支援者が人数豊富ではないので、男の子の支援を女性支援者が行うこともある。その逆はやりにくい。  小学校入学時に、紙パンツやパットが必要だったこどもの多くが、6年間の指導で布パンツにかわり、自分だけで処理できるように成長していく。全員とは言い切れないが、ほぼすべてのこどもたちがだ。そこには支援者たちのマンパワーが大きく機能している。


「トイレなんか、教えなくても、自然にやり方なんて身につける」  ときどき教員でもこんな暴言を吐くひとに会う。  どんな能力も「自然に」「身につける」わけではない。ひとは、小さいときから目と耳を駆使して、周囲の状況を情報として入手。それを大脳で整理して、必要なものを溜め込み、不必要なものを捨てる。必要なもののなかから、状況に応じてもっともふさわしい知識を呼び出す。こういうものすごい高次なプロセスを瞬間的にやりぬいているのだ。これは脳に「学習する」という機能があるからだ。  その学習する機能が、ゆっくりなタイプを、いまの社会は障がいがあると呼ぶ。


 「だから、なんだってんだ」と言いたい。


 美智は、言葉を話さない。  わたしは1年生のときから担当している。美智は、4年生になった。入学したときは「あー」「ちっち」ぐらいしか言わなかった。  いまでは、母親を「まま」と呼び、わたしを「てんてぇ」と呼ぶ。  もちろん、美智が自然に覚えた言葉ではない。日々の言語トレーニングが少しずつ実を結んだ成果だ。


 美智の脳波は、発作が起こる脳に似ている。しかし、これまで発作を起こしたことはない。母と相談して、これまでに病院で二度脳波検査をしたが、いずれも経過観察だった。 「いつでも、発作が起こってもおかしくない脳波なんですが、実際には起こっていないので治療をするのは早いです」  二度ともドクターは、そう診断した。  脳波の記録を見ると、不規則に棘(とげ)のようにとんがった波形が現れる。棘波(きょくは)という。この波形の持ち主には、発作を起こすひとが多い。発作は、脳細胞を傷つけるので、あらかじめ発作を起こしにくい薬を毎朝飲むのが治療になる。  ドクターの話を聞いて、発作が起こってからではないと、治療は開始できないと言っているようで、納得のいかないものを感じた。しかし、薬は飲まないにこしたことはないのかもしれない。


 きっと、美智は、わたしとは異なる脳の持ち主なのだ。  脳波の影響があるのか、美智は指先や肘から下を震えさせることが多かった。しびれが広がっているようにも見えるし、何かに集中しようとして筋肉が痙攣を起こしているようにも見えた。はさみを持ったときに、震えが出ると、危険なので、手先に神経を集中できる学習を入学じから継続している。  そのなかの一つに、ひもがある。  もともとは、蝶結びのひもを美智がほどく学習だった。クリスマスツリーのかたちをしたパッチワークの布に、10箇所ぐらいひもが縫い付けてある。そのひもをほどくのだ。  ひもの両端を持って、左右に引っ張る。同じ力で同時に引っ張らないと、うまくひもはほどけない。また、ひもの両端が見えていないと、それを指でつまむことができない。一口に「ひもをほどく」と言っても、そこにはいくつもの目と手の協応動作が求められている。その動作をズムーズに行わせるために、脳がはたらく。このように目から入った情報を脳に届け、脳がゆっくりはたらき、命令を手に送り届ける学習が、美智には有効だった。それにより、毎日、脳の同じ部分が活性化されていく。  美智がひもを全部ほどく。わたしは、翌日の準備のために、それを全部結び直す。 「はい、ひもの勉強は終わりです」  美智は、わたしがひもを結ぶ動作をずっと見続けていた。  2年間見続け、3年生になったとき、急に自分で結び始めたのだ。


 わたしは、目の前で起こっていることを信じ切れなかった。  指先を震わせながら、美智がひもの両端を持ち、クロスさせ、輪を作り、端を折り返して、引っ張っている。一重結びだ。  奇跡を目の当たりにした。  美智の目を見て、すごーいとほめる。 「てんてぇ」  美智は、ガッツポーズを作って得意げだ。


 美智の脳は、2年間、約400回ぐらい、ひもを結ぶわたしの手を見て、やり方を覚えたのだ。  それを、自分でもやってみようと思った。これを意欲と呼ぶ。意欲は、脳の別の部分が担当している。つまり、美智の脳は、目から入ったひもを結ぶ情報を記憶させながら、忘れないように固定させ、それを意欲ややる気を担当する部分に刺激を送ったのだ。 「ほら、自分でもやってごらんよ。きっとできるぜ」  わたしは、道が18歳になるまでにひも結びができるようになればいいと考えていた。だから、小学校時代はひもに慣れ、ほどくことが定着すればいいと。それなのに、わずか3年目で、美智の脳は「結ぶ」欲求を持ったのだ。


「何度も何度も同じことを言わせるな」  運動会の季節になると、練習をしているこどもたちに、台上の教員が怒りまくっている。  こどもたちは、やらされていることに辟易しながら、仕方なく教員の指示を聞く。  意欲というはたらきは、ひとの能力を高めるために、とても効果を発揮する。意欲があると、多少の失敗や挫折を乗り越えられる。意欲があると、工夫や努力をしたくなる。意欲があると、変わっていく自分を楽しむことができる。


 特別支援学級は、通常学級のある普通学校のなかに併設されている。  同じ教員をやりながら、通常学級の教員たちのやり方に「?」が浮かぶことが多い。


 教育の力とは、眠っている意欲に火をつけ、本人も驚くほどの能力を導き出すことではないのか。  日本の学校のように、国が教えるなかみを細かく規定し、それ以外は認めないやり方では、教員はひとりひとりのこどもに応じた指導などできない。40人をまとめて、効率的な方法で、指導しないと、教科書が終わらないのだ。こどもたちが、学んだか、意欲を持ったかを問う必要がない。  そういう星は輝かない。


 大阪で、行政が教育に強く介入する条例を制定する動きがある。  知事や首長が推進して、学校教育目標を設定したり、校長を任命したりできるようにするという。  ご本人たちは、きっと偏差値教育世界で高水準をキープしながら、学校時代を過ごしたひとたちなのだろう。頭のなかには点数ばかり。テストで点数が多く取れることが、学力が高いと信じている世代だ。また、学力が高い人間は、トータルにこころも生活態度も優れていると結び付けている世代だ。  こういう世代が、権力の中枢にいると、庶民はたまったものではない。    やってもやっても、点数が伸びないひとたち。  そういうひとたちが置き去りにされる。  教育的敗者だ。


 本来、教育とは生きる術や技術のみならず、ひととしての価値や文化をも学ぶ要素を含んでいた。少なくとも、日本社会では明治維新の前までは、親からこどもへ、地域社会がこどもへ、寺小屋がこどもへ、そういう「教え」を大事にしていた。そして、こどもたちは幼少から労働力として、社会に組み込まれていた。  はたちに近い若者が、社会のなかで労働もしないことが許されるようになったのは、おそらく東京オリンピック前後の頃からだろう。  学生運動が終息し、地方と都市との経済格差が広がっていく時代に、都市部を中心に大学生が増加した。  いつの間にか、大学に入るための学習が高等教育のなかみになった。塾産業が乱立し、中産階級のおとなたちは、こどもの教育産業にお金を費やすようになった。こどもたちの序列を表すのには、数値化がわかりやすい。数値で記録できるなかみばかりが、学校で教えられるようになってしまった。  現在の公立小学校では、音楽・図工など評価を数値化しにくい教科は、ものすごく授業時間が削られている。反対に記録力の差が明らかになる国語や算数の授業時間数は、ものすごく増えている。一日のなかで国語が2時間あるなんて曜日が当たり前になっているのだ。


 それを勝ち抜いてきた者たちが大阪から、いよいよ「学校は教員に任せておいてはだめだ。政治家が舵取りをする」と吼え始めた。


 ますます支援教育と通常教育の溝が広がっていく。


 わたしは100円ショップでおもちゃのダーツを買った。  三色の矢が用意されていたからだ。矢と言っても、マグネットが先についていて、薄い鉄板が的になっているので、マグネットの矢が刺さるのではなく、くっつくようにできている。  色は、赤・緑・黄。 「幸助くん、この的に赤の矢を当ててください」  ことし入学した1年生の幸助が、三色の矢のなかから、赤い矢を選ぶ。悩む。わたしの顔色を見て、伸ばした指が正しいかどうかを判断しようとする。


 ハロー効果。  ひととひととのやり取りで、相手の表情を見て判断を決めてしまうことがある。相手が自分の思い通りにしようとしたときや、反対にまったく逆のことをしようとしているときに、ひとは気持ちが顔に出てしまうのだ。  かなり意識しないとポーカーフェイスは維持できない。  しかし、教育の世界では、ハロー効果は諸刃の刃だ。  こどもが物事を理解して教員の指示に従っているのか、教員の表情を読んで行動しているのかによって、学習の成立が問われてしまうからだ。


 幸助は、緑の矢を取って投げる。的に当たる。命中だ。しかし、わたしは矢を取って、幸助に返す。 「これは、緑です。赤の矢を当ててください」  緑の矢を取ったときに、わたしの表情に変化が出てはいけないのだ。  幸助は、消去法で残りの二つのなかから、どちらかを選ぶ。そして、投じる。 「そうです。これが赤の矢です」 「それでは、次に緑の矢を当ててください」  さっき失敗したのが緑の矢だったのに、幸助は黄色の矢を取った。ここで「!」の表情はいけない。  わたしは、黄色の矢を取って幸助に返す。 「これは、黄色です。緑の矢を当ててください」  さっき失敗したのが緑だったのに、どうして覚えてないんだ、と聞いてはいけない。  短期記憶は、脳の重要な能力なので、そこに弱さが見られる幸助の自尊心を傷つけてはいけないのだ。


 わたしは入学したばかりの幸助に4ヶ月間、ほぼ毎日、三色のダーツを指導した。  夏休みが近づいたときには、10回中9回は正確に指示された色を選ぶことができるようになった。  しかし9月に会ったとき、すっかり幸助は三色を忘れていた。だから、また同じ学習を繰り返した。今度は4ヶ月かかった学習が、1ヶ月で正確な色を選べるようになった。この3ヶ月の違いが、幸助の短期記憶脳の成長と言えるのだ。  学習期間中に、もしも「何度やったらわかるんだ」とか「いい加減に覚えてよ」と非難したら、幸助は意欲をなくし、もっと長い時間がかかるようになっただろう。


 わたしたちは日常的に言葉を使っている。  言葉とは、物事を表す音だ。  叫んだり、わめいたりするのは、言葉とは言わない。  だから、どんな言葉も、何かを表すことになる。つまり、言葉が表している物や物事をたくさん知っていると、ひとは円滑に会話できるようになる。反対に、言葉が何を表しているのかを知らないと、あるいは忘れてしまうと、ひとは会話が成立しにくくなる。


 特別支援教育のなかで、通常学校のなかにある特別支援学級では、おもに知的障がい学級と自閉症・情緒障がい学級に分かれる。  わたしの認識では、両者の決定的な違いは、言葉の獲得の仕方にあると考えている。  知的障がいのこどもの脳は、ゆっくり成長していく。  だから、言葉と物との一致に時間がかかる。しかし、ゆっくり時間をかければ確実に言葉が何を表すのかを覚えていく。  自閉症・情緒障がいのこどものうち、知的障がいと重複していない脳は、比較的多くの言葉を記憶することができている。とくに自分が興味ある領域では、専門家並に覚えていることがある。しかし、言葉を使う段階になって、覚えている物や物事のなかから、どれを引っ張り出してくればいいのか悩んでしまう。ときには、その場にはまったくそぐわない言葉を引っ張り出して、周囲から顰蹙(ひんしゅく)を買う。使い方に弱さがあるのだ。


 誤解されがちなのが、言葉の獲得と文字の獲得だ。  文字は、線の集まりであり、言葉ではない。世界中の文字をもつ民族は、にょろにょろした線の集まりに「音」を与えている。  文字は、言葉を知らないと学習する意味がない。  たとえば、ご飯という言葉をしらない限り「ご・は・ん」という三つのひらがなを覚えて書けるようになっても、それがどんな意味を持つかを知らなければ、「ごはん」という文字を使うことができないだろう。  いまの日本の初等教育は、小学校一年から文字の学習が開始される。これは、言葉を知っているという前提に立って行われる。だから、個人差がある言葉の獲得を無視して行われ、文字の獲得に能力差が反映されてしまう。  個別支援学習では、各自がどれだけの言葉を知っているかを確認しながら、文字の学習を開始する。だから、使える言葉と無関係の文字を書かせるということはしない。  日本語は、言葉と文字が一致しない珍しい言語だ。  文字が必ずしも音を表さないのだ。  体育という教科がある。ひとは「タイク」と発音するが、文字にすると「たいいく」と書く。学校には校庭がある。「コーテイ」あるいは「コーテェ」と発音するが、文字にすると「こうてい」と書く。  このややこしさが、文字の獲得能力に差をつけているのだ。


この原稿は、way vol.6689-vol.6697で紹介しました。

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