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不要な学校

 毎年、教職員の犯罪が報告される。
 なかには、性犯罪のように人間相手の仕事をしているとは思えない犯罪も含まれている。
 また、生徒や保護者に性的な関係を迫るという人格を疑いたくなる犯罪も増加している。
 ほとんどが男性だ。


 このままいくと、そのうちに「学校なんていらねぇ」革命が起こるかもしれない。
 学校や教職員の費用は、全額税金が使われている。
 憲法が義務教育を規定しているので、日本では公立学校も私立学校も多くの税金を使っている。欧米では、私立には公的な補助がほとんどないことを、日本のひとはあまり知らない。日本の私立学校が助成金を絶たれたら、大金持ちしか行けない学校になるだろう。


 税金の無駄をなくします
 そんな公約を掲げた政治家が権力を握ったら、真っ先に学校にメスを入れるときの理由として、教職員のモラルの低下と犯罪率の増加が挙げられるかもしれない。
 もちろん、日々、まじめに仕事をしている教職員の方が圧倒的に多い。そのことも多くの日本のひとは知らない。


 大阪では、校長が教職員を集められる条例案が可決されようとしている。高校では、校長を公募するかもしれない。その代わり、成果が出なかった場合には、責任を取らされるという。
 これはすっきりした制度に聞こえるが、いままでがあまりにもとんでもなかった裏返しではないかとも思える。
 校長が教職員を集めても、どこかには「不要な教員」や「声がかからなかった教員」たちのふきだまりのような学校ができてしまう。また、成果の判断はだれがどのようにするのかが決まっていない。進学率や学力テストの結果のように数値化できるものが基準になると、学校と塾の違いがなくなり、広大な敷地と無駄な行事の多い学校は歩留まりが多すぎて教育産業に負けてしまうだろう。不登校だけど塾に行けば出席日数にカウントするという制度ができれば、学校の存在価値はなくなるだろう。


 すでに全国的、あるいは多くの都市化された地域では、保護者の学校に対する期待度は低い。
 学校よりも、塾や通信教育の情報の方が進学に関してはずっと信憑性が高い。教育産業は、受験に特化した方法で、進学の手助けをする。運動会や遠足などをやっている暇はないのだ。
 放課後の遅い時間に、小学生が夕飯代わりの弁当を片手に塾に通う姿は決して健全な社会と思えない。
 思春期の多感な中学生が、塾の席次によって人物評価を内面化していく考え方を育てる社会は健康とは思えない。
 このように感じているのは、わたしだけではないだろう。なのに、だれも止められない。歯止めが壊れるほど、回転が速すぎるのだ。
 こうなれば、昼間の時間の多くを牛耳っている学校に退場してもらうしかないだろう。
 あの昼間の時間に、こどもが塾に通い、夕方には自宅に戻る。夜はしっかり寝て体力を温存する。ひとよりも多く起きていることが努力することと勘違いしているひとに、しっかり寝ているひとの方が脳が活性化されることを見せつけてやる。


 学校が存在意義を発揮するために、塾のような成績向上を目指しても勝ち目はないのだ。
 近未来の大阪ならば、成果なしと判断されて、閉校に向かうだろう。


 学校の存在意義は、社会の要求とともに変わるものと、時代が変わっても変わらないものに分かれる。塾と重ならない存在意義は、進学にも受験にも無関係な人格形成や夢の実現、譲り合い・助け合い・厳しいことも言い合える仲間作りが醸し出せるかどうかにある。
 勉強ばかりがすべてではないと感じている「おとな」は少なくない。
 しかし、勉強以外にこどもの将来に役立つものが見えないから、親はこどもを勉強漬けにしてしまう。
 不要な学校と必要な学校。明らかに目指すものも、なかみも異なる学校ができれば、おとながもう少し賢くなるだろう。


この考察は書下ろしです。2012年1月1日

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