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3.11そのとき学校では

 その週は月曜日から季節外れの大雪が湘南地方に降った。
 わたしは、その数日前から腹の調子を崩し寝込んでいた。月曜日も出勤できずに終日布団の中でうなっていた。
「お前が寝込むから雪が降った」
 火曜日に出勤したら、同僚に突っ込まれた。
 そう、雪だの、腹痛だの、いつもと違う何かが起こっていたのだ。それらが、何かの予兆だなどと気づくことはなかった。

 体調が少しずつ回復していき、週末の金曜日には「やっと週末だぁ」と思えるようになっていた。腹の影響で量を控えていた酒も、今夜あたりはレギュラーに戻せそうかなと考えながら、特学のこどもたちを下校させた。
 だれもいない教室の片づけをする。
 一日の仕事を終えて、ホッと一息つける瞬間だ。こどもたちのざわめきは消え、静寂が室内を包み込む。月曜日の準備を少しずつ開始する。
 14:45。2011年3月11日金曜日。
 準備に一息入れて、男子トイレに入ったときだ。小便器の前でチャックを下ろそうとしたら(下ろしていない)、足元が上下に揺れた。
 うわっ。
 何なんだ。
 とっさにはわからなかった。たらふく酒を飲んだとき、帰り道で味わうような酔っ払い感覚だ。でも、きょうはまだ一滴も飲んではいない。
 チャックにかけた手を元に戻し(だからチャックは下ろしていない)、わたしはトイレから廊下に出ようとした。そのとき、次の揺れが大きく襲ってきた。それは上下左右にゆっくりと何度も揺れるものだった。かつて、東京から大分までカーフェリーで旅行したとき、紀州沖の荒海で似たような揺れを経験したことを思い出した。船酔いをする揺れ方だったのだ。
 壁や柱につかまりながら、トイレから廊下に出る。
 わたしの勤務する小学校は去年から校舎改築のため、プレハブ校舎で生活している。この揺れ方はプレハブだから増幅しているのかもしれないと思った。ということは、天井が落ちてくる心配だあるではないか。わたしはあわてて、廊下の突き当たりの非常口を目指した。その間も廊下は大きなきし麺のように波打っていた。

 クレセント錠を外して非常口から屋外に出た。見上げると、二階と三階では窓からこどもたちの不安そうな声が漏れ出していた。しかし、それは悲鳴でパニックになっているというものではなかった。単純に揺れに対して驚いている。きっと担任たちが、机の下にもぐるように指示を出したのだろう。

 そのとき、わたしはこの地震の震源は東海沖か東京、あるいは相模湾だと思っていた。
 それほど、地震の揺れが大きく、被害が発生しそうな直感がしたのだ。
 学校に平行している小田急線。目の前で片瀬江ノ島行きの下り電車が停止していた。乗客が座席に座っているのが見えた。
 
 しかし、この地震の震源は、神奈川県からはるか遠くの宮城県三陸沖牡鹿半島の東南東130キロ、震源の深さは約10キロの地域だった(報道によれば地震発生は2011年3月11日午後2時46分頃とのこと)。わたしは、地震発生とほぼ同じ時間に何百キロも離れた藤沢で巨大な揺れを感じた。これでは、緊急地震速報では間に合わないではないか。

 地震が起こったとき、その当事者になると何も情報が入らないものだ。
 いまどこで何が起こっているのかという基本情報がまったくわからないというのはとても不安だった。だから、こころのどこかで、これは地震ではなく、メニエール氏病のようにわたしのからだに問題があるのではないかと思ったほどだ。
 しかし、小田急線が、学校脇の線路で停止している現実は、メニエール氏病ではなく、地震の発生を無言でわたしに押し付けた。

 いったん屋外に出たわたしは、自分だけ避難していてはいけないと思い、ふたたび非常口から建物の中に戻る。一瞬、家族の顔が浮かんだ。もしも、プレハブが倒壊したら、わたしのいのちはひとたまりもないだろう。

 あのとき、なぜあいつはふたたび室内に戻るという愚かな行為をしたのか。
 小田急線の車内からわたしの行動を見ていた乗客の何人かは、その後のメディアの質問に疑問を投げかけるかもしれない。

 しかし、校舎には多くのこどもたちが残っている。この現実を前にして、自分だけ安全な場所にいるのは、わたしの仕事というよりも、信念が許さない。目の前で崩れ落ちていくプレハブを前にして「あー、戻らなくてよかった」とは思えない。自分が犠牲になってもひとりでも多くのこどもを救いたいと思った。
 けっこう、俺ってぎりぎりのところでピュアじゃん。
 そんなことを思うこころの余裕があった。
 波打つ廊下を職員室に向かう。
 教育行政は、コスト削減の大義名分によって、教員の人件費を抑圧し続けている。そのため、授業時間帯の職員室は空に等しい。正規職員を減らして、時間給の非常勤職員を大量雇用した結果、午後はほとんど非常勤職員は退庁していて、学校にはわずかな正規職員しか残っていないのだ。ここ数日、職員のインフルエンザが蔓延していて、毎日数人の職員が休んでいた。管理職や専科もそういうクラスに入って代わりの授業をする。年度末のこの時期は、自習というわけにはいかない。担任に代わって授業を進めないと、当該学年の学習が終わらない可能性があるのだ。
 職員室のドアを開ける。
 案の定、教員たちの机にはだれもいない。
 閑散とした職員室の後ろの外れで、用務員さんや事務員さんがNHKのニュース映像に見入っていた。
「震源はどこ」
 わたしは室内に入るなり叫んだ。
「宮城だって」
 用務員さんが大声で教えてくれた。えー、そんなに遠く。ということは、震源に近い地方は大変なことになっているかもしれないと直感した。
 窓外を見ると、2時半に下校したはずの1年生の数人が昇降口の周辺でたむろしていた。それを同じ特学スタッフのメンバーが地面に座らせて避難を指導している。
 おそらく6時間目が終わるのを待って、2年生以上の兄や姉といっしょに帰ろうとしていたのだろう。

 職員室のテレビでは、津波が町を飲み込んでいく。
「これ、映画みたいだー。本当にこんなことが起こっているなんて信じられない」
 わたしは、血圧が下がるのを感じた。

 宮城県名取市上空のヘリコプターからの映像だ。
 名取川を逆流する津波が、ものすごい勢いで上流を目指す。ヘリコプターの速度でも追いついていない。名取川の両端は、広い水田地帯と思われる。あまり人家はない。そこにも、名取川のなかを逆流する津波と同じように、真っ黒な津波が広く襲っていた。

「あそこ、車が走っているぞ」
 テレビを見ていた用務員さんが叫ぶ。たぶんドライバーには襲ってくる津波が見えていないのだろう。そのまま道路を進むと、やがて津波と激突する。
 水田地帯を抜けた津波は、ビニルハウスや瓦屋根の民家を飲み込みながら、さらに内陸部へ襲いかかる。さっきの車が走っていた道路はもうすぐだ。ぼろぼろになった民家の木材が真っ黒な津波とともに大きな塊になって進んでいく。道路はやや盛り土をしてあるらしい。津波はいったん道路の盛り土にぶつかって、左右に分かれた。そのまま道路を乗り越えるには水量が足りないらしい。ドライバーは危険を察して逃げてくれただろうか。さっきの車は、道路の中ほどで停車していた。
 やがて盛り土部分を覆いつくした津波は、どんどん補給されるエネルギーとともに、二車線のアスファルト道路を乗り越え、反対側の民家が密集している地域へと刃を向けた。

 職員室に戻ってきた校長が、緊急放送のマイクを握る。このマイクは屋内外のすべてのマイクから音が出るようになっている。
「児童は、まだ机の下にもぐっていてください」
「各学年の担任は、クラスの状況を職員室まで報告」
「報告の際は、同じ棟に必ずひとを残して順次報告」
 厳密には、揺れがおさまってから報告させるのが望ましいのだが、実際の地震を経験してわかった。大地震では、大きな揺れがおさまっても、何度も何度も余震が続くのだ。だから、完全に揺れがおさまるのを待っていたら、何時間も先になってしまうかもしれない。
 電話が鳴り出す。
 こういうときに学校に電話をして安否を確認する保護者がいるのだ。
 学校にはたった2回線しかないのに、そういう問合せ電話でふさがったら、市役所や消防からの連絡が取れなくなる。
「俺、安全報告のとりまとめをします」
 校長に連絡をして、職員室正面の管理職の位置でチョークを持ち、報告を待つ。
「おぅ、頼む。○○さんは電話への応対。1515一斉下校。問合せ者。学年学級。よろしく」
 養護教諭の○○さんがメモを手に、電話の前でスタンバイする。

 次々とヘルメットをかぶった担任が職員室に報告に来る。
 その間に、校長や教頭と次の対応を検討している。
「○年○組。在籍35。欠席5。出席30。異常なし」
「了解。避難状態を継続です」
 報告のあったクラスを黒板に書いていく。
 担任たちは報告をして、教室に戻っていく。
 こういうときのために、学校には防災安全計画があり、避難訓練をしているのだから、パニックにならないのは当然だが、それぞれの意識の高さを感じた。
「全員の報告終了。あれ、5年だけいないよ」
 2年、3年、4年、6年のすべてのクラスで異常なし。5年からは一つも報告が来ない。
「いま体育で隣りの小学校に行っているから、教頭さんが向こうと連絡をしている」
 校舎改築のため、校庭にプレハブがある。だから、体育の授業は隣りの小学校の校庭を借りているのだ。
「この地震は大規模かなぁ、中規模かなぁ」
 校長が聞いてきた。
「震源域は大規模だけど、藤沢地域は中規模でしょう。校舎内の被害状況もないし」
 わたしの感想を聞いて、校長が判断した。
「よし、一斉下校だ」
 大規模地震のときは、保護者への引渡しが原則なのだ。

 校長は緊急放送のマイクを握った。
「これから緊急防災会議を開きます。各学年からひとり、先生方がお集まりください」
 緊急防災会議は、自然災害のときに学校全体として斉一な行動が必要なとき開催される。議論をするものではなく、校長の方針が伝えられる。
 各学年から教員が職員室に集まった。これに事務員、用務員などほかの職員も加わる。養護教諭、特学スタッフも。
「15時15分をもって一斉下校にします。下校順番は放送で指示をします。下校後は、通学路の安全確保をしてください。以上」
 質問はない。
 各自が持ち場に戻っていく。
 わたしは、紙に「地震のため15時15分一斉下校」とマジックで大書した。それをコピーに取り、昇降口に用務員さんと手分けして貼った。こどもが帰った後で、職場から学校に迎えに来る保護者がいると想像したのだ。

 他校に行っていた5年生が戻ってきた。
 これで全在校生がそろい、下校の準備が整う。
 時間になり、校長が学年ごとに下校の指示を出す。わたしは、昇降口に行き、せまいドアにこどもたちが集中しないように交通整理をした。なぜか、狭いドアの場所で靴を履き替えて、後ろから来たこどもに背中を押されるこどもがいるのだ。状況が理解できていないのだろう。
 多くの教員が安全指導に行ったので、わたしは校舎内の安全確認を行う。
 授業中だった6年生の教室は、卒業式のときに体育館に飾る自画像を描いていた途中だった。机上に描きかけの自画像が並び、絵の具の道具もそのままになっていた。月曜日まで放置すると絵の具が乾いてしまうかもしれない。
 窓を閉め、照明を消し、エアコンを切る。鍵をかけ、職員室に戻る。
 多くの職員がテレビに釘付けになっていた。
 職員のなかには東北地方出身者が多い。
「さっきから実家に電話をしているけど、まったく通じません」
 回線が混戦しているのか、あえて緊急用優先になってしまったのか。
「鵠南、鵠洋、湘洋にこどもを通わせているひとは、いますぐ帰宅してください」
 校長が職員に指示を出す。どの学校も海岸沿いの学校だ。関係する職員たちは、幾分青ざめた表情で荷物をまとめて職員室を出て行く。
 いったん停止していた小田急線が、動き始めた。もうすぐ藤沢駅というところで停止していたので、とりあえず藤沢駅に入線させようというのだろう。
 16時、職員集合。
「児童の下校が終了しました。校舎内の安全確認が終了しました。ここでみなさんの勤務を解きます。早く家族のもとに帰り、安全確保に努めてください」
 退庁命令だ。

 わたしは荷物をまとめてすぐに学校の門を出た。
 わたしの職場では圧倒的に地元の藤沢市に住んでいる職員が多い。公共交通機関が使えなくなれば、歩いて帰ることができるひとたちだ。わたしのように隣りの鎌倉市から勤務している職員はとても少ない。だから、ほかのひとたちと同じように職場に留まっていたら、いつ自宅にたどり着けるかわからなくなる。
 学校から藤沢駅までの商店街はいつものように活気があった。
 救急車や消防車のサイレンがなければ、地震があったことを忘れてしまいそうだった。

 しかし、その甘い期待は藤沢駅が近づいてくるに従って打ち砕かれた。
 駅前のサンパール広場には、学生や職業人を始めとした多くのひとたちが集まっていた。みんな携帯電話を手にしているが、通じているのかどうかは定かではない。
 もしも電車が動いているのなら、一刻も早く大船にたどり着いていた方がいいので、改札に向かう。
 そこでわたしが見たのは、14:51で止まったままの湘南新宿ラインの運行表示板だった。つまり地震発生直後から、新しい電車が到着していないことを表していた。
 改札口周辺ではハンドマイクを持った係員が案内をしている。
「まったく復旧の目途がたっていません。ご迷惑をおかけします」
 それでも読書をしたり、携帯型のゲームをしたりして時間をつぶしているひとが多かった。
 わたしは、いつも健康のために大船までの帰りは歩いているので、何の躊躇もなく電車をあきらめた。

 3月11日。地震発生から2時間を過ぎた頃、わたしはJR東海道線藤沢駅から大船方面に向かって歩いていた。駅の南口からほぼ線路に沿った道路を歩く。
 いまはAZBILという名前になった山武ハネウェル工場の従業員が大量に藤沢駅方面に向かって歩く。わたしとすれ違う。まだ5時前なので、ふだんなら仕事が終わっていない時間なのに。きっと従業員に帰宅命令が出たのだろう。藤沢駅では電車が動いていないことをわたしは知っていた。駅に向かうひとたちのなかに電車で帰ろうとするひとがどれぐらいいるのだろうとぼんやり考えた。
 小塚の交差点。東海道線の線路をくぐる小塚地下道の最下部から水があふれていた。市役所の車が到着していて、被害状況を確認していた。
 宮前地区から、柏尾川方面に向かう。藤沢駅を出た東海道線の線路が大きく大船方面に左カーブを切る。そこにE231系の東海道線二編成が停車していた。一つは小田原行き。もう一つは東京行き。上下線がちょうどすれ違うタイミングで地震が発生したのだろう。
 車内にはまだ乗客が残っていた。しかし、線路に下りて歩くひとたちもいた。電車のドアはなぜか閉まっている。すべての乗客が運転席のドアから線路に降りていた。車内に列を作り、運転席へ向かっている。日本の電車は駅のホームで乗客が乗降するようにできている。線路に乗降するようにはできていない。だから、もしも車輌のドアを開けたら飛び降りなければいけない。その危険を避けるために、ステップのある運転席のドアを使っているのかもしれない。フェンス越しに避難の様子を見ながら、ずいぶんのんびりしているなと感じた。こういうときのために車輌のドアに非常用のステップを用意すればいいのに。

 柏尾川はいつも通りの水の流れだった。
 しかし、柏尾川沿いの道路はいつもと異なっていた。
 明らかにひとの通りが多い。おそらく三菱が従業員に帰宅命令を出したのだろう。歩道からあふれるほど多くのひとたちが大船方面から手広方面に向かって歩く。道路は手広方面から大船方面に向かって渋滞の列が続く。
 信号機が止まっていた。
 家族の安全確認をするメールで、自宅が停電になっているという情報があったことを思い出した。鎌倉市全域が停電だったのか。

 わたしが自宅近くの山崎に戻ったのは5時頃だった。
 地震発生から約2時間が過ぎていた。
 「一休さん」という八百屋では買い物客が列を作る。しかし、停電で店内は真っ暗。
 近くの関所。わたしはいつも帰りに立ち寄る酒屋だ。ぐいっと立ち飲みをして景気をつける。しかし、店内は清涼飲料水などを買い求める客が列を作っていた。ここも停電で真っ暗。若女将や大女将が眉間に皺を寄せながら、買い物客をさばいていた。
 店の外に、久里浜へ帰る立ち飲み仲間がいた。
「きょうは、こんな調子だから、立ち飲みは×」
 人差し指を×の形にして教えてくれた。

 自宅に戻ると、リビングのテーブルに家中から探してきたと思われる懐中電灯がずらりと並んでいた。さらに「安いときに買いためた」という電池がたっぷり並ぶ。
 妻と娘が非常時生活をしていた。蒲田に行った息子は帰れないので友人宅に泊まる連絡があった。横浜に仕事に行った父の消息が不明。携帯電話を持っていないので安否確認の方法がない。しかし、きっと職場に泊まるのだろうと思った。
 もしかしたら、伊豆の妹経由で情報が入るかもね。
 家族で話していたら、その妹からメールが届く。
「大丈夫ですか。父から電話あり。うちに電話をしているんだけど通じないとのこと」
 停電しているんだもの。電話は通じません。家族の無事を返信し、父の様子を質問した。
 とりあえず、家族の様子がわかったので、夕飯の支度にかかる。幸い、水道とガスが供給されていたので炊事ができる。
 大学時代に山登りをしていた経験を思い出す。大量に作って日持ちするもの。
 トン汁作りにかかる。ご飯もたくさん炊いた。冷蔵庫の復旧が不明だったので、冷凍食品のうち揚げ物をどんどん揚げた。
「もっと大きな地震が来て、水もガスも止まるかもしれないから、今夜は飲めるだけ飲んじゃおう」
 娘に「ヘンな理屈」と指摘されながら、わたしは日本酒と焼酎を飲んだ。やや飲みすぎて、たぶん停電のなか、午後7時頃には寝てしまった。
 トイレに行きたくて、午後11時頃起きたら、室内に照明が光っていた。おー、電気が復旧したんだ。そう喜んだ次の瞬間、ふたたび寝てしまい、トイレに行き損ねた。

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