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トクガクの窓から

 トクガクとは、特学と書きます。
 特別支援学級の省略語です。
 数年前の法律改正前までは、神奈川県では、特別「指導」学級と呼んでいました。だから、省略語も同じトクガクです。
 ちなみに、この法律改正によって、それまで養護学校と呼んでいたものを、特別支援学校と呼ぶようになりました。これは、省略してトクガクとは言いません。
 ややこしい。

 ひとは、生まれる前は子宮にいます。
 母体から栄養を受け取り、排泄物を母体に戻します。この段階で何らかのトラブルがあり、脳に影響を受けると、出産後までその影響は持続します。
 また、出産時にへその緒が首に巻きついて脳に酸素がいかない状態を生じてしまうと、出産後に、低酸素脳症という症状が出ることがあります。
 さらに、生まれてからわずかなうちに高熱を発すると、未熟な脳は熱に耐えられずにダメージを受けることがあります。そのダメージは、その後も持続します。
 このように、ひとの脳は生まれる前から生まれた後も含めて、いつも危険と隣り合わせです。そして、何らかの損傷を受けると、肝臓と違い、回復することは困難です。
 そして、遺伝という要素も追加されます。通常の分娩で生まれても、言葉が遅かったり、歩行が遅かったりという事実に数年後に気づくケースです。これは、遺伝子のなかに、何らかの特徴があるとしか考えにくいものです。

 トクガクに通うこどもは、ほぼ全員、これらの特徴をもっています。
 衣服の着脱、トイレ、食事などの日常生活に支援を必要としています。支援を得ながら、少しずつ自分でできることを増やしていきます。
 近年、このような特徴のこどもに加えて、自閉的特徴のこどもも多く入級するようになりました。自閉的特徴のこどもはほぼ日常生活に必要な力はもっています。服のボタンを留めるのに支援が必要ということはありません。箸の上げ下ろしに手を添えるということもありません。
 自閉的特徴のあるこどもは、ひとがひとのなかで生きていくときに必要な「社会性」「関係性」「想像力」の習得に支援が必要です。
 どんな場面で「ありがとう」と言えばいいのか。
 ひとを傷つけたら「ごめんなさい」と謝らなければいけない。
 自分のルールでばかり物事を進めることはできない。
 目前の状況を整理する手がかりを習得する。
 こういった力をつけさせる指導と支援を繰り返します。

 トクガクは、公立小学校と公立中学校にあります。
 神奈川県では、こども8人に対して、教員が1人配置されます。
 これまでは、こどもが5人以上になったら、さらに加配教員(全額神奈川県の予算で雇う教員)を配置していました。しかし、この制度は残念ながら、財政逼迫(仕分け!仕分け!)のあおりをくって、縮小傾向にあります。
 医療・教育・福祉を真っ先にぶった切る政治は、長続きしません。

 わたしはいま4人のこどもの担当です。
 クラスには18人のこどもが在籍しています。種類は「知的」クラスと「情緒・自閉症」クラスです。藤沢市内には、このほかに「弱視」クラスのある特学もあります。しかし、ほとんどの特学は、「知的」クラスと「情緒・自閉症」クラスの2種類でしょう。
 18人のこどもに対して、3人の正規教員と1人の臨時任用教員と1人の非常勤教員の5人の教員で指導や支援を行っています。非常勤の方は、週に20時間の勤務なので、午後になると帰ります。だから、実質的には4人の教員がフル稼働で動いています。
 
 自分が担当しているこども。
 年間の指導計画を立案し、教員間で検討し、実行します。
 保護者との窓口になり、家庭訪問や個人面談のときには直接の対応をします。保護者も、困ったことや質問があるときは、担当に連絡をしてきます。
 また、特学では毎日、連絡帳にこどもの様子を書きます。それを書くのも担当の仕事です。あまりにも連絡帳にこどもの様子を書くことに夢中になりすぎて、目の前のこどもから目を離すことのないように気をつけなければいけません。連絡帳を書く時間が特設されているわけではないので、それぞれ時間を見つけています。

 わたしが担当している4人のこども。ABCD。Aは3年生で女子。BとCは4年生で男子。Dは5年生で男子。Aは入学から担当しているので、ことしで3年目です。Bは2年生から担当しているので、やはりことしで3年目です。Cは、ことしから担当しました。Dは、4年生から担当しているので、ことしで2年目です。
 年度末になると、翌年の担当を決めます。教員間で話し合って、組み合わせを決めます。こどもどうしの関係性や、能力差、保護者と教員との関係など、総合的に判断します。複数年担当するのは、できるだけ避けるべきですが、総合的な判断のもと、やむを得ず3年以上担当することもあります。
 Aは、入学から担当している女子です。3年生になりました。ずっといっしょに勉強したり、遊んだりしてきたので、成長ぶりがとても具体的にわかるこどもです。

 Aは、エンジェルマン症候群という遺伝性の障害があります。「知的」クラス所属です。
 遺伝性なので、同じ兄弟姉妹でも発生しないこともあります。Aの姉はノーマルです。遺伝性の障害は、染色体を調べることでわかります。同じように染色体異常の障害に、ダウン症があります。
 ただし、多くの夫婦は結婚前、あるいは家族計画を考えるときに、自分たちの染色体を調べるということはしません。

 エンジェルマン症候群のこどもは、世界中にいます。
 ある一定の割合で発生しています。
 わたしは、医師ではないので原因や共通する特徴を知る必要はありません。目の前のAの生きにくさを、少しでも緩和し、住みやすい生活へと導く力をつけさせることに集中します。
 Aは、とても親和性の強いこどもです。
 1年生のときから、こどものなかに進んで入っていくことが大好きでした。しかし、言葉が発せられないので、自分の気持ちを周囲のこどもに伝え切れません。笑ったり、一音の音(あー、うー)を出したりして、気持ちを伝えようとしますが、かなわぬ夢です。
 そのうち、「どうして、わかってくれないんだよ」とでも言いたいのか、腕を振り上げて、平手で相手をはたきます。かなり、勢いのある平手なので、まともにくらうと痛撃です。
 わたしも何度かいきなりおでこにくらい、目の前に銀色の小さな星がちらちらしたことがありました。
 何度も、言葉を教えようとしてきましたが、3年目になっても、まだはっきりとした単語になった言葉は発しません。それでも、言葉で気持ちを伝えようとする態度は育っています。
「ちっち」といえば(トイレに行きたいよ)。
「あちー」といえば(暑くなってきたね)か(寒くなってきたね)。ときどき(冷たいなぁ)でも使います。どうやら、温度に関係あることを言うときにまとめているみたいです。
「まんま」は(給食やご飯)、「まま」は(お母さん)を始めとする信頼できるひと。入学当初は、わたしも「まま」と呼ばれました。
「てんてぇー」は先生のこと。お母さんとわたしとを同じ単語で呼んでいたので、言葉の使い分けを一年間教えた結果、わたしを呼ぶときは「てんてぇー」と言うようになりました。
「ねんね」は眠いこと。幼児が使う言葉ですね。
「ぱぁ」はパズル。休み時間の遊び道具として、教えました。
「まぁ」は、大好きな特学のこどもの名前です。名前の最初が「マ音」なので、「まぁ」と呼んでいるのでしょう。

 このほかにも、特徴的な言語があります。
 入学当初、言葉らしいものを喋らなかったことを思うと、成長ぶりに驚くばかりです。もちろん、毎日、言葉を発生させていく地道な学習があったことは言うまでもありません。

 たとえばひとは経験から色の名前を覚えます。折り紙や信号機などを見て、よのなかには色があふれていることを知ります。そばにいるひとがその色に「赤」「青」などの名前を話します。それを聞いて、色には個々に異なる名前があることも知っていきます。
 これらは、大脳のはたらきです。
 経験を統合して、知識としてたくわえ、ものの色とその名前をセットで記憶していく仕組みです。セットにすることをマッチング(一致)と言います。
 
 Aは、色のマッチングが苦手でした。
 赤と黄色のカードを用意します。
「赤」
 わたしが言った色のカードを選ぶ学習を入学当初にしました。しかし、Aは、口では「あーか」と言いながらも、その日の気分で黄色いカードを選んだり、赤のカードを選んだりしました。やがて、わたしの表情を読んで、正解を得ようとしました。
 つまり、アカという音と赤い色が一致できないのです。
 色認識は、わたしたちの日常生活でとても役立っています。
「青信号では、道路を渡りましょう。赤信号では、道路を渡ってはいけません」
「運動会の色は緑色です」
 もしも、色認識がなかったら、このような説明をしても、まったく話のなかみは伝わりません。
 経験を統合する方法ではなく、日々の学習という意図的なはならきかけで、習得させなければいけません。
 わたしは、「アカ」と言ったのに、Aが黄色いカードを選んだときは、「これは黄色。こっちが赤」と正解を教えます。そして、もう一度同じ問いかけをします。決して、間違えたことを責めたり、怒ったりしてはいけません。学習を成立させている信頼関係や意欲を低下させてしまうからです。かといって、「アカ」と言ったときに赤のカードを選んだときは、「これは赤ですね。では黄色いカードを選んでください」と淡々と次の問いかけをします。
「わぁ、すごーい。そうです、それが赤のカードです」
 このように大げさに褒めると、こどもは褒められたくて、正解を求めようとします。相手の喜ぶ表情を見たいとか、自分を褒める言葉を聞きたいとう動機で、学習に接します。これは、とても危険です。なぜかというと、こどもが相手との関係を優先して学習しようとしてしまうからです。
 わたしが、Aに色の名前を覚えてほしいのは、わたしとの関係を深めたいからではありません。Aの将来に、10個ぐらいの色を知っていたほうが生きやすくなるだろうと考えているからです。
 3年間かけて、現在は三色(赤・黄色・緑)の色マッチングの学習を行っています。

 Bは4年生の男子です。2年生から担当しています。ことしで3年目です。
 学習の成立が、同年齢のこどもたちにくらべてゆっくりなこどもです。
 そのかわり、ゆっくり時間をかければ、多くの学習が成立する力をもっています。もしも、通常級に在籍していたら、ほとんどの授業内容が理解できないままに終わってしまうでしょう。テストでも低い得点になるかもしれません。そういう結果に対して、自分を卑下したり、学習意欲をなくしたりすることが予想されます。

 10年ぐらい前までは、Bのようなこどもが特学の主流でした。
 いわゆる「知的障害」という行政的なくくりに所属します。
 しかし、わたしは知的障害というのは、本当に「障害」なのだろうかと疑問に思っています。学習の理解にかかる時間が、同年齢のこどもにくらべて長いだけです。当然ですが、きっとあまり多くの内容を理解することは難しいでしょう。
 ただし、学校で教わるほとんどのことは、大きくなったときに「あまり役に立たない」内容です。「とても役に立つ」内容は、だいたい小学校3年生ぐらいまでの学習内容で網羅されているからです。

 そう考えると、Bは学齢は4年生ですが、おそらく6年生までに3年生までの学習内容は習得すると想像できます。それだけの力は持っています。
 こういうタイプのこどもは、通常級で同年齢のこどもたちと同じように生活をしてはいけないのでしょうか。学習の方法や内容に「違い」を認めてくれれば、十分に特学のように隔離された環境ではなく、通常級のなかで友人関係を育み、ダイナミックな遊びを楽しむことが可能なのにと残念に感じます。
 運動能力は生活年齢(実際の年齢)以上のものを持っているので、ドッジボールや野球、サッカーなど、チームスポーツも楽しめます。ルールの理解に時間がかかるので、コーチや監督がゆっくり教えてあげれば問題はなくなります。
 
 Bは、やや書字に関して、落ち込みが見られます。
 これは、空間認識の問題と言います。日本語の文字は、とてもバランス感覚が必要な文字です。あるマス目のなかに文字を書き上げるには、マスという空間を認識して、左上に小さくとか、右側に大きくとか考えながら書かないと、マスをはみ出してしまいます。とくに画数の多い漢字を書くときは、一画目をマスのどこに書くかで、書き終えた文字の位置が決まるほどです。
 Bには、そういう空間認識が育っていませんでした。だから、文字の大きさが統一されていなかったり、マスを上下左右にはみ出してどんどん拡大したりしていました。
「あー、またはみ出しちゃったぁ」
 口惜しそうに、消しゴムで文字を消していた姿が、最初の出会いでした。

 昔から修行僧がお経を透かして写し取る「写経」という修行をします。
 写経は、文字を書く力(書字能力)を向上させるすばらしい方法です。昔のひとはちゃんと文字をきれいに書く方法を知っていたのですね。

 ノートの脇に手本を置いて、それを見ながら書くのは高度な能力が必要です。ましてや、黒板に書いてある文字をノートに写す作業は、かなり書字能力が高くないとできないことです。そういう能力がひとには、あるんだということを、親や教師が知っておかないと、文字を書くことを苦手にしているこどもは浮かばれません。
「また、マスをはみ出してる」
「どうして、真っ直ぐに書けないの」
「黒板に書いてあることを書くだけでいいのに」
 たくさんの否定的な言葉を投げかけられて、意気消沈してしまうでしょう。
 書字能力は、ひとそれぞれですが、自然に身につく能力ではありません。だれもが、なぞり学習や反復練習をしながら習得していく能力です。パソコンや携帯電話の普及で、これからは文字は「書く」のではなく、ボタンを「押す」時代へと移行するかもしれません。そうなると、鉛筆やペンはいらなくなるでしょう。書字能力の習得にひとよりも長い時間がかかって困っていたひとたちは、救われるかもしれません。
 しかし、とりあえず2010年の現在は、まだペンも鉛筆も現役バリバリです。

 わたしは、2年生でBに出会ったとき、国語のノートに一年間、赤いペンで短い文章を書きました。
「きょうから、にねんせいに なりました」
「きゅうしょくは、だいすきな あげぱんでした」
「もうすぐ えんそくで たのしみです」
 Bの学習は、その赤いペンで書かれた文字を一つずつ、はみ出さないように気をつけながらなぞることです。もしも、はみ出したら、消しゴムで消してやり直します。
 これを一年間続け、3年生になってからは、赤いペンで文字を書くときに、実線ではなく「点線」にしました。点と点の間の空白を自分で埋めていくのです。3年生の後半では、文字の書き始めに●を打ち、文字の書き終わりに■を書き、そのなかの空白を自分で書かせました。
 約二年間をかけ、Bの文字に関する空間認識はとても向上しました。4年生のいまは、画数の多い漢字を書くときだけ、マスに赤ペンで区切りの線を引くだけで、何とかバランスのいい文字が書けています。
 毎日、毎日、同じことを繰り返すので、こどもの成長は「わずか」です。しかし、毎日、続けないと一年後にわずかな成長が積み重なった成果へはつながりません。
 特学の指導は、次から次へと新しいことを指導する通常級のやり方と違って、同じように見えることを少しずつ進化させながら、意図的に繰り返す学習が中心です。

 4年生から担当したCは男子です。
 去年までは別の教員が担当していました。
 Cは、発語に困難さがあります。入学したときは、本人はたくさん話していても、周囲がほとんど理解できないほどでした。
 発語の問題は、原因や症状がたくさんに分類されます。
 Cの場合は、おそらくあごの発育と言葉の認識力に原因があるのではないかと想像します。というのは、保護者が専門機関で受診しても、専門医でさえ、言語の不明瞭さの原因が特定できていないからです。
 幼児の頃にやや摂食で偏りがあり、やわらかいものを中心とした食生活を送りました。いまでも、かたいものや野菜類は口にしようとしません。その結果、あごの骨や筋肉が十分に発育していないのではないかと想像しています。

 症状としては、音に置換が見られます。
 本来の音と異なる音で発音するのです。
 たとえばハ行とア行の置換です。本来「はい」というべきところを「アイ」と言います。また「あめ」というべきところを「ハメ」と言います。
 また、子音の母音化もあります。
 幼児に見られる現象です。音の認識が低いので、子音で発音すべきところを母音で補ってしまう現象です。
 たとえば「きんぎょ」が「インギョ」。「にんじん」が「インイン」のように。
 加えて、誤学習があります。
 野菜の「なす」を「ハツ」を言って「はつ」と書きます。茄子のことを「はつ」という名前の野菜だと学習しているのです。「だいこん」は「アイコ」。「ぶどう」は「ウドン」。「とんぼ」は「ドモモ」。
 これらは、3年生までに確認できたはずであり、それまでの指導に問題があったことを示します。誤った学習を修正するのは、学習が成立するよりも時間がかかります。

 発語の問題と、誤った認識の修正について、4月から重点的に教材を複数作成し、繰り返し指導しています。保護者には、専門機関で耳の検査と、言語療法士によるトレーニングを依頼しました。夏休みに診察してくれました。聴力に異状はなし。簡単な言語トレーニングをしてくれたようです。それだけでも、2学期からはかなり発音が明瞭になりました。そのため、音の置換はほとんどなくなり、誤学習の修正だけを重点的に扱っています。

 たくさんの野菜や食べ物のイラストが一枚ずつ描かれたカードがあります。そのなかから、20枚を選び、ケースに入れます。ケースのなかには、20個のマスが書かれた用紙が数枚入っています。
 Cは、個別指導の時間になると、そこから用紙を出し、鉛筆を用意します。
 20枚のカードを重ねて机上に置きます。
 一番上のカードに描かれている絵を見て、名前を思い出します。思い出したら、それを文字にして用紙に書きます。カードの裏には答えが書いてありますが、20枚全部が終わるまでは答えは見ません。
 20枚全部の名前を用紙に書きます。今度は、カードを裏返して答え合わせを始めます。一文字ずつ赤鉛筆で○をつけます。間違っていたら、正しい文字を赤鉛筆で書きます。
 これを毎日繰り返します。だいたい15分ぐらいかかります。そのうち、少しずつ食べ物の名前と文字をCは覚えていきます。間違えが1つか2つになったら、カードを入れ替えます。そのときに、何度も間違えていたカードはそのまま残します。

 自分で問題を解いて、自分で答えをチェックする。
 この学習方法は、自分の間違えに気づく効果的な方法です。多くの教員は、こどもに問題だけを解かせて、正誤のチェックは教員がします。しかし、この方法では「あっているか、間違っているか」が基準になり、正しい答えは何かという大事な要素が抜け落ちがちなのです。
 もともとわたしはこどもの学力を定量化(点数などの数値で表す)する考え方には、疑問を抱いています。一つの漢字を覚えたことを10点とか5点という点数に置き換えると、覚えた漢字は何ですかと問われたときに、思い出せなくなるのです。方程式の問題を解いて100点だったとしても、一つ一つの問題を再現しようとすると忘れてしまうのです。
 学習では「何を学んだか」が重要なはずなのに、学んだ証を定量化するために、学んだなかみの影が薄くなるという矛盾が生じてしまいます。
 だから、特学ではほとんど点数による評価はしません。保護者には「いまどんなことを学習しているか」「その成果はどうか」という具体的なことを日々伝えるようにしています。

 Cを4月に担当したときに、会話のなかで違和感を覚えました。
 AとBとDは、すでに2年以上、わたしが担当しているので、学習以上に「返事の指導」を繰り返してきました。何かを言われたら「はい」と返事をするという学習です。ところが、Cはわたしが注意や指示を与えても、返事をしなかったり、あいまいに「うん」と応じたりするばかりでした。
 そこで、机に画用紙に赤ペンで「はい」と大きく書いて貼りました。返事がおかしいときは、その紙を指差して思い出させました。これも前年までの担当者が指導してこなかった結果です。

 Dは、5年生の男子です。
 実母と継父に身体的虐待を受け、児童養護施設に幼いときから預けられて生活しています。
 いわゆる「発達障害」はほとんど見られません。しかし、こころの傷が大きく、集団への適応を苦手にしています。暴力的な家庭環境が記憶にあるので、態度や発言も暴力的で破壊的です。養護施設の方々の献身的な支援のおかげで、4年生から5年生にかけて気持ちの余裕が生じてきました。
 とはいっても、まだ11歳のこどもです。
 気持ちが不安定になることも少なくありません。

 とても学校だけで育てられるこどもではないので、Dは入学したときから、専門機関と連携した支援をしてきました。
 専門機関とは、学校、施設、児童相談所です。だいたい3ヶ月に一度ぐらいずつ関係者が集まり、現在の課題と今後の対応を検討します。次の集まりで、前回からの対応の問題点を洗い出し、その後の対応を検討します。児童相談所は、おもに親や家族との対応を行っています。
 その集まりを「ケース会」と呼びます。
 アメリカでは、ケース会を招集するスクールソーシャルワーカーという職業が定着しています。日本では、法律でスクールソーシャルワーカーの必要性がうたわれましたが、実際に学校に配属されたという話は聞きません。
 学校だけで指導しきれないこども。
 いまも、これからも、どんどん増加していくことでしょう。家庭の協力が得られないケースが増えているからです。教師は、指導に限界を感じ、こどもの問題を抱えたまま悩みます。しかし、悩んでばかりでは問題は解決しません。
 教育と福祉の垣根を越えて、こどもの生活や自立にかかわるひとたちの連携は、今後はとても重要度を増すでしょう。
 特学では、以前からシステムとして「ケース会」が存在します。だから、こどもの状態に応じて、定期的・臨時的にケース会を開催します。多くは、学校から連携機関に声かけをして行われます。しかし、通常級の担任は、ケース会のやり方も、連携機関への連絡方法も知りません。だから、こどもの指導に悩みを抱えても、具体的な解決方法へとつながらないのです。

 Dのケース会には、学校から特学教員・校長・教頭、施設から担当保育士・カウンセラー・施設長、児童相談所から社会福祉司・臨床心理司が参加します。ひとりのこどもについて、これだけの専門家が集まり、学習と生活についての検討を行うのです。
 考えてみれば、Dはとても多くのひとたちによって支えられているのです。

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