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この文章はway6015.9/30/2008-way6019.10/8/2008の再掲です

新しい公教育の創造に向けて整理すべき考察

 日本では公立学校も私立学校も学校教育法に規定され、一元的に管理されている。
 これに規定されていない教育機関は、法律上学校の扱いは受けないので、一切の公的補助の対象から排除されている。
 近年、NPO法人や株式会社が構造改革特区制度によって学校として認可された。しかし、これらは特区として認可されたので、財政負担は地元自治体が負う。地元自治体の財政状況や首長の考えいかんでは、存続があやぶまれる。
 アメリカは州ごとに議会があり、立法権がある。教育法は州ごとに制定され、連邦を統括する教育法は存在しない。だから、州ごとに変化のある公教育が実施されている。日本では国会にしか立法権がないので、都道府県ごとに教育法を制定することはできない。日本全国、どこでも同じひとつの法律によって公教育が規定されているのだ。
 しかし、学校に通わないこどもたちや、中途で辞めてしまうこどもたちは、毎年一定数いる。割合としては決して減少はしていない。人数は、100人や200人の規模ではなく、10万人を超える。
 文部科学省は不登校児童・生徒の実態調査をしていないので、学校に行かないこどもたちがどのような日常を送っているのか、正確なデータはない。学校から上がってくる数字だけを合計している。
 丸っきり、自宅にいるこどもも多いだろう。
 フリースクールと呼ばれる民間の教育機関に通うこどもも多いだろう。
 どちらも正確な数字がわからないので、推測するしかない。
 そのこどもたちは、学校教育法の外にいて、なんら公教育の恩恵を受けることができない。自ら学校を拒んだのだから、それぐらいのリスクは負えとでも言いたげに、行政の補助は皆無だ。
 それでは、制度上、いまの学校に通っているこどもたちは、自分の置かれている状況に満足しているのか。難しい勉強に悲鳴をあげ、内申点を気にしながら教師の顔色をうかがう。親はこどもが登校しているので問題意識を持たないだろうが、こどもにすればかんじんの学習への意欲を維持あるいは向上させ続けているのだろうか。
 どちらも同じこどもだ。
 しかし、公教育改革を考えるとき、両者は区別する必要がある。
 学習意欲なし、遅刻常習、成績不良でも、登校していれば学校はなんだかんだと面倒を見る。学習意欲あり、規則正しい生活、成績優秀でも、登校を拒めば学校も地域社会も行政も突き放す。法律が規定している枠組みに添えないと、とても冷たい仕打ちを受ける。
 わたしは、現在、登校しているこどもの問題にはかかわらない。それはそれぞれの学校や家庭の問題であり、第三者が介入する余地はないからだ。
 やる気や向上心はあっても、現在の学校に足を向けることができないこどもたちを、公教育がカバーするための改革が必要だと思っている。


 それでは不登校対策が、公教育改革の目玉かと勘違いされる。
 全然そんなつもりはない。
 フリースクールを特例ではなく、正々堂々と学校として認める。財政措置も私立学校と同様に行う。それだけで、フリースクールの高い授業料を減額され、経済的に救われる家庭は多い。財政面の危機から事業を停止するフリースクールを救う。法的な位置づけは、学習指導要領の適用を受けない学校とすればいい。学校設立の許認可は地方自治体がもつ。
 フリースクールでありながら、学習指導要領を大枠で適用する学校には公的な性格を与え、財政の援助ではなく、公立学校と同様に財政を丸ごと負担する。そのかわり、公立学校が定期的に受けている監査と同様の枠組みに取り入れる。
 そうすれば、現在の学校に通っているこどもは、フリースクールへ転校しやすくなる。自分は集団になじめない悪いやつだ、先生の言うとおりにできないはみ出し者だ、友だちとうまくやっていけない寂しいこどもだという、不登校のこどもが多く自責するなかみを払拭できる。
 集団になじみ、先生の指示に従い、だれとでもうまくやっていくことを求められてもうまくいかなかったけど、個人を尊重し、複数の指示から選び、大事な友だちをひとりでも作ればいいと求められれば、やっていけるかもしれない。そのための学校に替わっただけだと自分を納得させられるのだ。
「どこの学校に行っているの」
「何年生かな」
親戚や近所のひとに問われるたびに、学校に行っていない引け目から無口になり、ひとと会うことを避けるような気分になる。そういう心配は不要になる。
 戦後、すぐに制定された教育基本法や学校教育法の根底には、こどもは何も知らない、だからおとなが教える必要があるという考え方がある。
 文句を言うこどもがいても、ふてくされるこどもがいても
「黙ってこれをノートに書け。そして覚えろ。いつかきっとお前の役に立つ」
と教師が諭せば説得力があった。
 しかし、インターネットを通じて情報社会は急速に広がり、物価が高騰する不透明な近代成熟社会を迎えた昨今、そんな言葉を信じる気にはなれない。おとなよりも物知りなこどもはたくさんいる。塾で教科書のずっと先を学習しているこどももたくさんいる。就職しても安定した生活が続くとは思えない。いつかきっとを信じて傷つくことのほうが怖い。
 黙々といまの学校で流れに乗りながら、こころにこのままでいいのかという疑問を抱いたこどもたちが、そこからはみ出していくのは、自然な自己防衛反応だろう。


 フリースクールを学校教育法上の学校に規定し、いまの学校で、そこに転校したいこどもがいた場合、転校しやすくすること。財政援助や財政負担を必須にして。いまとは違う公教育の姿が想像できる。
 学習指導要領の適用を受けない教育機関を学校と認めるわけにはいかない。
 あまり法律を知らない行政担当者は口を尖らす。
 学校教育法には、ちゃんと適用除外の項目がある。二つある。
 ひとつは、国立大学(いまは独立行政法人)の附属小学校や附属中学校。これは文部科学省の先行的な取り組みが実験的に行われるので、現行の学習指導要領にはないことをしてもいい。研究的な意味をもつ適用除外だ。
 もうひとつは、わたしが勤務する特別支援教育(業界では特支と縮める)の世界だ。目や耳、手や足などの身体的な障害は、点字本や音声本など工夫した教材で学習指導要領に準じた内容が指導されている。わたしが勤務する世界は、脳の発達不全による知的障害や情緒障害なので、見た目には身体的な障害がない。ホームで奇声を発したり、場の空気が読めなかったりして、社会生活を送りにくいこどもたちが対象だ。このこどもたちには、個人に応じた指導計画が必要であり、それらをゆっくり繰り返しながら学習させていくことで、少しずつできることを増やしていく。必要不可欠な適用除外だ。
 わたしは、フリースクールを学校として認め、学習指導要領の適用除外にする場合、後者の必要不可欠な適用除外と考えればいいと思う。
 さらに公教育改革がカバーすべきフィールドがある。それが、発達障害のこどもたちを対象とした教育機関だ。わたしの地元では、発達障害のこどもたちには行政が手帳を発行している。大きく分けて二つのランクがあり、さらにそれぞれが二つに区分されているので、実際には四つのランク分けがされている。すなわち、それはA手帳とB手帳であり、具体的にはA1手帳、A2手帳、B1手帳、B2手帳の四種類だ。もっとも障害の程度が重いのがA1手帳であり、反対に軽いのがB2手帳である。これは相対的な基準ではなく、ある一定の基準に照らした絶対的な区分である。
 特支には、A手帳。特別指導学級(業界では特学と縮める)にはB手帳。そういう決まりはない。だから、わたしが勤務する普通公立小学校の特学にはA1からB2まで、さらに手帳のないこどももいる。手帳は保護者の申請によって得られるので、保護者がこどもの障害をどう受け止めるかで障害の程度に関係なく手帳の有無が決まってしまう。一般的には、通常学級に在籍しながら、発達障害のあるこどもは手帳を持っていない。わが子には顕著な障害は見られないと判断する保護者が、わざわざ手帳(正式には療育手帳という)の申請のために行政の窓口を訪れることはない。


 全国的に児童や生徒の数は減少している。
 しかし、特支や特学を希望する保護者の数は増加している。そのため、特支は定員を超えるこどもを受け入れざるを得ない状況になっている。まだまだ日本社会は、障害者に対して冷酷で、まともな社会生活を共有するやさしさも制度的な保障も少ない。にもかかわらず、わが子の教育機関として特支や特学を選択する保護者が増加している。自閉症や身体障害を取り上げたテレビ番組や小説、漫画などが共感を呼び、少しずつ認知が進んできていることが影響しているかもしれない。
 わたしの地元では、特支がこれ以上、入学を希望するこどもを受け入れることは不可能になってきたので、高等部に関してはA手帳を持っているこどもに限定し始めた。この措置は全国的には遅い。ほかの自治体ではとっくに始めている。その結果、B手帳のこどもや障害の程度は重いのに保護者の判断で手帳を持っていないこどもたちが、中学を卒業したときに進学先がないという現実が浮き彫りになった。
 自閉症の特徴をもつこどものなかで、心理検査の結果がIQ70以上を認められるアスペルガー症候群のこどもたちは特学も通常級も含めて相当数いる(発現データでは100人に1人)。このこどもたちは、会話もまともだし、小学校レベルの学力は習得するので、手帳はB2止まりがせいぜいだ。申請をしても手帳を交付されないケースもあるだろう。また、多動性を有し、不注意行動の多いADHD(注意欠陥多動性症候群)のこどもたちは小学校では25人に1人という発現データが一般的で、このこどもたちは保護者が障害の有無自体に気づかないことも多い。
 近年、若年層の犯罪が報告される。残念ながら、そのなかにはアスペルガー症候群のこどもも含まれている。判例では障害は認めながらも、有罪になっている。
 アスペルガー症候群に限らず、自閉的傾向をもつこどもは中枢神経になんらかのトラブルがあると考えられている。中枢神経は、知的脳と言われる大脳とは異なる領域なので、いくらIQが高くても、どんなにテストの点数がよくても、中枢神経のトラブルがなくなるということはない。
 この特支には入学できない、かといって普通高校では対人関係でストレスを抱え、集団行動に適応しづらいアスペルガーやADHDの傾向が強いこどもたちの高等教育機関が、公教育には存在していないのだ。社会性の発達不全・コミュニケーションの発達不全・イマジネーションの発達不全という3つの特徴をもつ自閉的傾向のこどもたち。その70パーセントを占めるアスペルガー症候群のこどもたちが、中学を卒業したら行き場がないのだ。このこどもたちには小学校段階から、対人関係や社会的スキル、相手の表情から内面を読み取る、感謝や陳謝の感情をもつことなど、ひとがひとのなかで生きていく関係性の能力を専門的かつ計画的に指導する必要がある。
 わたしはオルタナティブ学校のなかに、これら特支には入学できない発達障害を専門に受け入れる学校の設立が急務だと感じている。


 最後に。
 現在の公教育を根底から変えようとする考え方では、改革にはならないと明言する。
 現在の公教育学校で恩恵を受けている多くのひとたちを否定しては、改革の賛同者は得られない。
 これがだめだから、あれにしようという代物ではないのだ。これでいいというひとたちを尊重しながら、あれも認め合おうよというスタンスが必要だ。
 あれとはすなわち先述したフリースクールの法制化と軽度発達障害のこどものための学校設立だ。
 さらに社会福祉の観点から極端な貧困家庭のこどもたちが進学する無償の高等教育機関の設立も急務だと思うが、それは公教育本体が担うべき課題であり、オルタナティブやスペシャルのひとたちが背負いきれるほど甘くはないだろう。ただし増加する特支や特学を希望するこどもの家庭のなかに、極端な貧困家庭が増加している事実は見逃してはいけない。だから、軽度発達障害のこどものための高等教育機関の設立は、同時に社会福祉の観点からも有効だというアピールはできるだろう。
 わたしは地元で仲間と過去に数年間にわたり、公教育の問題・現状・改革プランをシンポジウムや講演会、学習会というかたちで実施した。参加者はいつも多かった。公教育に関心を抱くひとたちが地元にとても多いことを実感した。社会学者、行政学者、現役教員、教育長など、専門家を招いてパネルディスカッションも実施した。現役の校長や教頭が、こっそり会場の片隅で偵察していたこともある。
 しかし、どんなに賛同者を得ても、公教育制度を根底から変革する力には到らなかった。それはわたしたち有権者には、代議士を選ぶ権利はあっても、法律を改正したり、作ったりする権限はなかったからだ。賛同する代議士に投票しても当選するとは限らない。仮に当選しても、所属会派の考え方と共通するとは限らない。衆議院議員会館のすべての部屋を訪ねて、新しい学校改革に関する法律プランを配り歩いたこともある。議員立法で国会上程寸前までいったにもかかわらず、政党同士の駆け引きで、ほかの重要案件が優先され、葬られてしまった。
 過去の失敗に学ぶ。それが、繰り返しになるが、フリースクールの法制化と軽度発達障害のこどものための学校設立だ。
 これらが実現すれば、いまの公立学校から一定の割合のこどもが転校するだろう。就学段階から、教育委員会が指定する公立学校ではなく、これらの学校を希望する保護者が登場するだろう。それまでの公立学校は定員割れを起こし、教員削減を余儀なくされる。そうなって初めて、教育委員会や公立学校が、こどもの流出を食い止めるために、問題点を洗い出し、質の向上に励むようになるのではないだろうか。
 内なる改革なくして、改革の効果は期待できない。
 圧力による変革は、持続も浸透もしない。
 いまの公教育に携わるひとたちが、変わらざるを得ない自覚を抱くような変化を、想像し、創造し、かたちにしていくことが、オルタナティブ教育に熱意をもつひとたちが整理すべきなかみになるだろう。

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