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基礎学力議論

はじめに

 これまで、わたしたちは「世間で言われているような基礎学力という考え方は本当は幻に過ぎず、存在しないのではないか。だから、湘南小学校では、子どものいまの状態を、その子どもの基礎と呼ぶ新しい考え方を提示する」と言いきってきたのだ。
 この考えは、子どもの能力差を肯定し、他者との比較ではない、自分自身の伸びゆく姿を学びの基本にすえてほしいという願いから発したものだ。だから、基礎学力を主張する人たちが排除している障害をもった子どもたちの教育をも、湘南小学校は、これまでの考え方があったからこそ、すべて受け入れている。

説明できる考え方

 公立学校として、湘南小学校に税金が投入されるには、地域社会や地域行政の理解と納得が不可欠だと思う。そのためには、世間で言われるところの、基礎学力についても、一定の指針を出しておいたほうがいいのではないかとわたしは、考察で述べた。まずは、認可を受けなければ、湘南小学校は開校すらしないのだ。
 しかし、この考え方はとても政治的過ぎると、湘南に新しい公立学校を創り出す会の議論では批判を浴びる。
 目的のために、根幹にかかわる部分を曲げる必要があるのか。それがぎりぎりの選択として迫ってきたら、考えるにふさわしいことかもしれないが、理念を打ちたてる段階で、大事にしてきたものを見失う必要はないのではないかというのだ。この意見はもっともなことで、だからわたしは反論の余地はない。そして、異なる見地から、湘南小学校の基礎学力に関する考え方を明示しておく必要を感じる。
 それは、湘南小学校の開校という目標のために、基礎学力を考えるのではなく、湘南小学校に子どもを通わせる人たちのために、基礎学力についての明確な指針を打ちたてておく必要があるのではないかということだ。これまでは、湘南小学校では子どもの知っていること、もっている技術のすべてを基礎と呼ぶ。そして、自発的な学びによって、なにか新しいことを知ったり、新しいことができるようになったとき、その子どもの基礎が向上したと考えると、内外に伝えてきた。
 しかし、この説明では、もっと具体的な文字の読み書きや四則計算などの扱いについて、まったく触れていない。自らが、受動的な学びのなかで学校を過ごしてきた親たちが、不安になるのは当然のことだ。わが子が、自分の興味や関心に根ざした学びを展開しながら、文字の読み書きや四則演算ができるようになったら、それにこしたことはない。しかし、それはどうやって達成できることなのか。湘南小学校では、具体的に、そういった指導をしないとしたら、それらは家庭教育が担わなければならないことなのか。
 これらの疑問に、わたしたちは明確に応じる責任がある。

学びのプロセスにおいて

 たとえば、湘南小学校では子どもたちはまず学習計画を作成する。
 このとき、配られた計画表に、鉛筆で、子どもは自分のやりたいことを記さなければならない。それだけで、子どもには筆記能力が要求されている。
 いまの無認可湘南小学校に通ってくる子どもたちは、計画表に文字を書くことができる。その能力は、湘南小学校で習得したものではない。子どもが通っている学区の公立学校で習った力だ。無認可湘南小学校は、子どもが通っている学区の公立小学校の教育によって支えられている構図が見えてくる。
 しかし、特別認可公立小学校として、湘南小学校が開校したときには、このような構図は成立しない。
 まったく文字を書く経験も、知識も、鉛筆をもつ技術もない子どもたちが入学してくる。その子どもたちを前にして、「さぁ、この紙に自分のやりたいことを書いてごらん」と指示を出すことは無理がある。

 かりに、そう指示を出して、湘南小学校ではなにも字を教えていないにもかかわらず、子どもがスラスラと計画を書き始めたとしたら、その子どもがどうやってその力を習得したのかに思いをはせる必要がある。自然な発達能力として字を書く力がついていたのだとしたら、いままでの授業中心の日本語教育は根底からその存在理由が問われることになるだろう。
 もしも、家庭で親が教えた結果だったとしたら、湘南小学校は、子どもが字を書く力を家庭に求めている構図が成立してしまう。
 だから、どのような方法で、最初の段階の初歩的な力をとらえるのかということは、湘南小学校として明確な立場を示しておかなければならない。
 いま目の前にいる子どもの状態を基礎と呼ぶ。
 目の前にいる子どもが、ほとんど字を知らず、ゆえに書くことは不可能に近い場合、その子どもが「自分は文字が書けるようになりたい」と思うとはかぎらない。しかし、どのような希望をもったにしても、まずは「字を書く」経験をしなければならないとしたら、その力は本人の望むこととはべつに、教授か学習のスタイルを考えざるを得ないのではないだろうか。

内外の意見を結集して

 基礎学力については、東京工業大学の橋爪大三郎氏をわたしたちの研究会に教授としてお招きしてから、具体的な議論がスタートしたといっていい。いままで、内輪のメンバーで、語ってきたこと、考えてきたことを、外部の有識者の目には、どう映っているのかということに、気づく必要があると思ったからだ。
 自画自賛の教育理論は、必ず破綻する。
 これに異を唱える人たちを排除してしまう。
 自分たちの正しいと思うことに、正面切って、刃を向けてくれる存在を恐れてはいけない。そして、そこに耳を傾け、正すべきは正し、曲げぬべきはそれ相応の論理性をもって、守る言葉を構築しなければいけない。「社会の要求としての基礎学力期待に応じないことは、公立学校としての責務を放棄することになる」という、橋爪氏の提案は、説得力があった。湘南小学校が、それでも型どおりの教科書内容程度の教授を行わず、子どもの発案を教育課程の基本とするならば、それだけの説得力のある説明責任をもたねばならない。

 ここでありがたいのは、やはり創り出す会のメンバーの存在だ。
 これまでの数年間で、さまざまな場面で、さんざん議論してきた経験が、だれもしゃべらない無駄な時間を作らないほど、アイデアを飛ばし続けてくれる。
 自分のやりたいことを計画書に記入するために、本人の意欲に関係なく、まずは字を書く能力が求められる子どもに対してどうするか。この問いかけに、メンバーは発言する。
「最初の段階では、スタッフが聞きとってメモをとればいい」
「そういう聞き取りのスタイルを通して、文字を子どもが見るなかで、自分も書いてみたいという段階になったら、教えてあげる必要が生じてくる」
「もしも、いつまでも字を知りたいと思わない子どもに対しては」
「なにかしら、興味をもってやろうとする場合、いずれ越えなくてはならない壁として、文字や計算の能力というのは出てくるはずだと思う。それを克服しないと、そこから先へは進めないんだと子どもが気づくようになるのではないか」
 やや、こころもとない推測だが、子どもをまなびの主人公にと考える人たちは、あくまでも、子ども自身が必要と感じない知識の教授には消極的になる。

当事者に伝わる考えを

 もうすぐ、子どもが小学生になるメンバーがいる。当事者として、その子どもを湘南小学校に入学させようと思うだろうか。
「難しい。夫婦で、考え方がかなり統一されていないと」
 湘南小学校の教育について、わたしたちは説明する責任を自覚している。湘南小学校を作ろうと集まるメンバーのなかにも、わがこととして考えたとき、二の足を踏むメンバーがいる。これは、公立学校に勤務しながら、わが子を私立学校に通わせている教員の心境に似ているかもしれない。
 教えられないと学ぶことはできないのではないか。この質問に、説得力をもって説明できる言葉をわたしたちは用意しなければならない。数年後には、実績を手土産に「ほら、見てごらん」と言えるのだが、スタートラインでは言葉で説明するしか方法がない。
 二の足を踏むメンバーが言う。
「湘南小学校は、いまの学校では解決できないことがあるから、設立しようと思うんだよね。だから、湘南小学校だからこそできることを前面に押し出すことのほうが大事だと思う」
「つまり、いまの学校で、ほとんど具体的な尺度のない学力の成果について、わざわざ湘南小学校が明確に表明する必要はないんじゃないかな」

 この実感を大切にしたい。
 わたしには公立中学校に通う息子がいる。全員がなんらかの部活動をしなくてはならないため、練習日が少ないという理由で、陸上部に入部している。それでも、この炎天下、朝から走りに行く。わたしが、その中学校の教育方針に賛成したわけでも、陸上部の指導方針に共感したわけでもなく、息子は、その中学に通い、陸上部で走っている。もしも、熱中症や日射病で倒れたら、それは本人の責任になるのだろうか。ほとんど強制的に活動させられている息子に、なにかがあったとき、いまの学校は損害賠償まで含めて責任をとる覚悟ができているとは思えない。
 わたしが勤務している小学校では、体育の水泳学習の前に、保護者から水泳学習にこどもが参加する同意書を提出してもらっている。市内の小学校すべてでこれを実施している。水泳のように、生命の危険と背中合わせの授業では、残念ながら、何年かに一度、大きな事故が起こっている。だから、親の監視を外れた場所での、つまり教員にこどもの生命をあずけたかたちでの入水に、保護者としての自覚を同意書というかたちで確認している。これは、形式上、学校が責任を放棄し、保護者にあずけているわけだが、保護者としては、水泳学習にこどもを参加させない正当な権利が授与されていることにもなる。だから、とても少数だが、同意しない保護者もいる。
 この場合、同意しない保護者のこどもに対して、別メニューの体育学習が用意されていれば、同意しないという権利の行使は有効に機能する。しかし、ほとんどの学校では、そういうこどもは水泳学習の間、プールサイドで見学させられている。

学校の主人公はだれか

 あくまでも、いまの学校は、こどもや保護者の願うようにはいかない仕組みになっている。
 これを拒否する権利を行使したとき、こどもは部外者としてクラス集団から排除され、教育活動の蚊帳の外で、なにもしない時間を過ごさなければならない。
 それは、前提として、こどもが学ぶべき内容は社会が決めているという考え方があるからだ。だから、個々人の都合によって、それを拒否することは許されていない。この前提が機能していた時代はよかったかもしれない。しかし、毎年増加する不登校者数や、中途退学者数を考えるとき、すでにこの前提はこどもたちに合致しないものになりつつあるという認識をもつべきだと思う。

 ことしも、サマースクールを開校している。
 そこで、生まれてはじめて自分だけで買い物をしてきたこどもがいる。
 同行したスタッフによると、ほしかった「万華鏡セット」を求めて、こどもは何軒もお店をはしごしたそうだ。自分のお財布からお金を出してレジで買う。その行為を、いままでは親が代行していたのだろう。サマースクールでは、だれもそのこどもの前には立っていない。困ったときにだけ、ちょっとのヒントを出してくれるスタッフが、後ろをついてくるだけだ。
 陳列棚にほしかった万華鏡セットを発見したときの感動を想像してみよう。分数や小数、書き取りや歴史などの知識は必要ないかもしれない。でも、そのこどもは、自分にとってもっとも必要な知識と技術と情報を、こころをフル回転していたと思われる。万華鏡セットを手にしても、それがいくらかわからない。数字は書いてあるが、どれが値段なのか検討がつかない。本当にお財布にあるお金で買えるのだろうか。ドキドキをつのらせながら、レジに向かう。
 「630円です」
 お店の人に言われても、今度はお金を数えて630円を支払うことに戸惑う。10円玉や100円玉や500円玉をあわせて、630円にしなければならない。後ろに並んでいる人や、お店の人に、自分だけのんびりしていて迷惑をかけてしまうハラハラと、こどもは真正面から向かい合う。
 社会で生きていくということは、このハラハラと、どう向き合っていくかという連続かもしれない。それを文化への参加と表現する人もいる。
 そのこどものプランは、万華鏡セットを使って、万華鏡を作ることだ。しかし、そのためにお店で自分で購入してくるプロセスを、湘南小学校では大切にする。親やスタッフがこどものプランにあわせて、必要なものを事前に準備することはしない。お店で購入してくるプロセスから、すでにまなびは始まっているからだ。そして、そこには、そのこどもの総合力としての基礎的な力を高めるチャンスが山盛りに用意されているのだ。

 ほしいものに値段があった。その値段にあわせて、お財布のなかの紙幣や硬貨を支払わなければならない。ノートも鉛筆もない。頭のなかで計算し、求められた合計金額を支払うことが求められる。漂う緊張感。迫り来る焦燥感。そして、みごとに購入を終えたときの達成感。
 もしも、うまくいかなかったなら、ネクストトライにかければいい。そこにはスタッフがいて、すべての事情を呑みこんでいる。トライアンドエラー、エラー、エラー。このエラーのひとつひとつが、そのこどもの総合力としての基礎的な力を高めることに直結している。

現段階の考え方

 約2ヶ月の議論を経て、わたしたちは湘南小学校の基礎学力について、いままで以上に概念を共有する。
・こどもの興味や関心に根ざした学力を湘南小学校では保証する。
・教えっぱなしの教育よりも、なにを学んだかに視点をあてた教育を創造する。
・こどもの発案に根ざさないかぎり、いかなる学力もこどもにとっては必要ないものになるだろう。
・一般的な基礎学力という考え方は、従来の学校でまず実例を示すべきであって、湘南小学校には、なじまない考え方である。
・スタッフの力量を高める研究を進め、湘南小学校のこどもが中学や高校に進学したり、社会人になるのに、不利益をこうむらない工夫をする。
・親の意識を変革するために、スタッフと親との綿密な関係を築き、こどもにとってもっとも有効な学習機会を考案する。

 これらの概念は、いまの時代にはまだまだ広く受け入れられないと、自覚している。
 多くの人たちにとって、学校は社会に出て困らないための学力をこどもたちにつけるところという考えが一般的だろうと予測するからだ。その一般的な考えに、確かな裏づけがあるのならいいが、現実の学校現場では、残念ながらこどもたちの学習意欲は低下するばかりである。
 東京都知事によって任命されている都教育委員会のメンバーが、内外から批判の多い教科書の使用を一方的に決定する昨今、公教育をふたたび、権力者の装置にしてはいけない。そのことに多くの人が気づくのには、とても時間がかかるだろう。
 わたしたちは、湘南というローカルエリアで、小さな公立学校を開校したい。
 こどもの数もスタッフの人数も学校予算も、従来の公立学校に比べたら、とても小さい公立学校である。しかし、この学校がもつ意味は、自立した市民社会の創造につながる、大きな大きな意味をもっているとわたしは考える。理解者の少ない段階では、生まれてきた時代が早すぎたと後悔するしかないのだろうか。否、2001年8月5日で、開校25日目になった湘南小学校には、のべ750人ものこどもたちが、いい顔をして、主人公を演じきっていることを忘れてはならない。(完)

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