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おかね

 子どもたちの夏休みに合わせて、少しwayも夏休みモードに。仮説社「社会の科学入門シリーズ・おかねと社会」より、おかねにまつわるe授業をしようかな。
 日本で一番最初におかねが作られたのは708(和銅元)年、いわゆる奈良時代のちょっと前あたり。いまの埼玉県秩父地方で和銅(自然銅)が発見されたことを契機に、政府(というのが正しいかどうかはべつにして)は、最初の独自貨幣を銀と銅で作った。これを記念して、元号を「和銅」にしたぐらいだから、よほどうれしかったのだろう。
 最初は銀貨も作ったけれど、なぜだか三ヵ月後には廃止され、銅貨だけが作られ続けた。ちみなに、日本で金が産出されるようになるのは、749年とされているので、当時はまだ銅貨ばかりだった。
 このときのおかねは「和同開珎(正確にはこの珎の字はちょっと違うけれど、変換できないのでこれで勘弁を)・ワドウカイホウ」と呼ばれている。
 珎は、寶(たから・宝)の略字で、和銅を使った宝を作ったよという意味なのだろう。だから、正確には「和銅開寶」と表示すべきなのに、この銅貨には「和同開珎」と書かれている。さてさて、なんで違う字をわざわざ使ったのだろう。答えはそんなに難しくないので、ヒントはなーし。

 日本で最初のお金、正確には「和銅開寶」と表示すべきなのに、この銅貨には「和同開珎」と書かれているのはなぜか。それは、当時の鋳造技術が、小さな銅銭に細かい画数の字を鋳ぬくまで高まっていなかったからである。だから、略字を使った。
 700年代に、政府がはじめて銅銭を作ったとき、人々の反応はどうだっただろうか。それまでの流通は、物々交換が原則だった。自分に交換するほどのものがないときは、強制的に相手から奪うという方法しかなかったのだ。そこに、お金という便利な道具が登場した。だから、人々はきそって銅銭を使うようになったと思うか。それとも、お金の使い道がわからなかったので、使うのをいやがったと思うか。
 現在では、物々交換だけで流通が成立しない社会である。しかし、当時の社会状況をよく想像して考えてほしい。それまで、見たことも聞いたこともない「お金」というものの登場によって、自分のほしいものを手に入れるという行為が円滑に進むには、人々が銅銭を信じていないとうまくいかない。自分の大事なものを、相手がくれる銅銭と交換しても、その銅銭がふたたび自分が手に入れたいもののために使えなければ意味がない。
 さてさて、人々はこの日本最初のお金をちゃーんと使っただろうか。

 711(和銅4)年の詔。「それ銭の用たる、財を通じて有無を貿易するゆえんなり。当今の百姓はなお習俗に迷いてまだその理を解せず。わずかに売買すといえども、なお銭を蓄うるものなし」。ずいぶん、人々を馬鹿にした詔だ。人々は無知なためにお金のことを理解できず、なかなかお金を使って蓄えようとすることができていないというのだ。
 お金ができてから、4年も経って、この有様ということは、ほとんどの人々はお金を使っていなかったことが推測できる。政府は、銅貨1枚をもみ6升分と決めていた。当時のもみ6升は、米にすると約24食分。ひとりの人間が1日に3食、米を食べたとして(当時はそのような習慣がふつうの人々にはなかったが)、8日分にあたる。銅貨1枚に、かなりの価値をつけたといっていい。
 現在、8日分の食費を計算したらいくらぐらいになるだろう。1日に3000円ぐらいはかかっていると思うので、それだけで24000円。24000円も原価にかかるお金が「銅貨」だとしたら、人々は価値の等しさを理解してお金を使ったことだろう。
 しかし、もっと安い原価で銅貨を作ることができると気づいたら、わたしだったら、にせがね作りに励むかもしれない。そのほうが差益を手に入れることができるからだ。
 お金の意味が理解できていないと嘆かれた当時の人々は、それではにせがねなど作らなかったのだろうか。もしも、よーくお金のことがわかっていたら、正式な銅貨を入手するよりも、にせがね作りが横行していたはずである。

 政府がはじめてお金を作ってからわずか半年後の709(和銅2)年、政府文書(詔・みことのり)にこんなことが書いてある。
「このごろ奸盗が利を逐って、私にみだりに鋳ることをなして公銭を紛乱す」。悪い人が自分の利益のために、銅貨を勝手に作ってしまい、本物のお金に紛れてしまい、めちゃくちゃだと報告している。
 このことは何を意味しているかというと、銅貨1枚をもみ6升とした政府の基準に、多くの人たちが「うそだろー」と直感したことを意味している。もみ6升のほうがずっと価値が高かったのだ。だから、人々は進んでにせがね作りを行った。
 現在は、にせがねを作ると最高10年の刑に罰せられるが、当時は死刑だった。にもかかわらず、にせがねは全体の銅貨の流通量の半分まで達していた。政府がこれらを取り締まることができなかったのは「通貨のうち半分はにせがねであり、これを取り締まったら内乱になりかねない」と760(天平宝字4)年の政府文書に書かれていることから推測できる。つまり、政府の発行した銅貨じたいが、もみ6升分の価値がないと人々に思われたわけだから、にせではない、本物も「にせ」みたいなものだったことになる。
 このように、ほんものにせよ、にせにせよ、もみ6升と同じだけの価値がない銅貨を人々は蓄えようとはしなかった。手元にあるもみ6升を、だれかに銅貨1枚と交換しても、次に自分がその銅貨1枚でふたたびもみ6升が買えると信じられなかったのだ。
 それでは、当時の政府は、人々に信用も価値もないと判断されたおかねをどのようにして流通させたのだろうか。

 711年の「蓄銭叙位法・ちくぜにじょいほう」によると、銅銭を5000枚とか、10000枚ためたら、位をあげてあげると書いてある。そして、位をあげるときに、そのたくわえたお金を差し出させている。政府が堂々と「わいろ」を受け取っていたのだ。
 713年には「銅銭のたくわえが6000枚ないものは、ある一定以上の位につくことができない」と命令している。
 また714年には「これはにせがねらしいから」という理由で、銅銭を受け取らないことを禁止している。
 明らかに、多くの人たちが、政府が発行した銅貨を信頼せず、使おうとしなかったことがわかる。また、多くのにせがねが流通し、これを取り締まるどころか、本物だろうとにせものだろうと、ものの交換には銭を使えという強引な命令がたびたび出されている。
 760年、それまでの和同開珎に変わって、新しい銅貨「万年通宝・まんねんつうほう」が発行された。にせものが横行し、多くの人たちが使おうとしなかった「和同開珎」もあるわけだから、新しいお金「万年通宝」との関係はどうなったのだろうか。

 708年に日本で最初のお金「わどうかいほう」ができてから52年後、760年に新しいお金「万年通宝」ができた。和同開珎は1枚でもみ6升(12食分の米)と交換されたが、新しいお金「万年通宝」は1枚で和同開珎10枚分とされた。もちろんこれは政府が一方的に決めた。
 万年通宝は和同開珎10枚分の銅を使った大きなサイズのお金ではなかった。サイズも材質も和同開珎と同じだったため、横行したのはにせがね作りだった。それまでの和同開珎をつぶして万年通宝と鋳なおせば、価値が10倍になると聞けば、財力と技術のある者ならにせがね作りに励むのも無理はない。しかし、和同開珎のころから、どれが本物でどれがにせものかが見分けがつかないという状態が続いたため、万年通宝になっても同じことだった。にせがねが横行したことは十分に予測できるが、現段階ではそれを証明する証拠が見つかっていない。
 ただし、万年通宝ができた760年をさかいにして大きく変わったことがある。いったい、それは何だと思うか。

 平野邦雄・ひらのくにお「古代の商品流通」によると、万年通宝ができた760年前後の物価変動を知ることができる。それによると、760年をさかいにして、米や布の値段が高くなり770年にはほぼ10倍になっていることがわかる。
 それまでの和同開珎に加えて、新しい万年通宝ができたことが物価の上昇と関係があるのは明瞭である。和同開珎10枚で、万年通宝1枚と政府によって決められたため、人々は銅貨を10枚もつよりも、新しい銅貨1枚を選択したことになる。さらに、万年通宝が和同開珎の10倍の銅を使っていたわけではないので、銅としての価値は低いのに、お金としての価値が高い万年通宝を手に入れようとしたことが値段の上昇につながったのだろう。
 いわゆる奈良時代と呼ばれる期間に、古代の天皇政府は全部で12種類のお金を発行した。新しいお金が発行されるたびに「以前のお金の10倍として通用させる」とした。765年、万年通宝ができてわずか5年後に作られた3番目の銅貨「神功開宝・じんこうかいほう」は、万年通宝の10枚分、和同開珎の100枚分の価値をもたせた。こんなことを繰り返せば、最初のおかねである和同開珎の価値は十分の一、百分の一とどんどん低くなってしまう。
 958年に発行された12番目の銅貨「乾元大宝・けんげんたいほう」は和同開珎の1兆倍の価値がありながら、大きさは和同開珎よりも小さく、銅の含有量も和同開珎よりも少なくなっていた。
 じつは、この乾元大宝以降、古代政府は新しい銅貨づくりをやめてしまう。にせがねがあふれ、12種類もの似ているにもかかわらず、価値が10倍ずつ違うお金が出回っていては人々はとても苦労したことだろう。
 それではふたたび、政府が新しいお金を作るようになるのはいつごろのことだと思うだろうか。

 時代の区切り方というのは後世の人たちが決めたものだから、当時の人たちにとってはあまり実感がないものだとわかっていながら、あえて時代区分をする。そのほうが長い時間をわかりやすくすることができるからだ。
 奈良時代に、12種類もの銅貨(おかね)が作られた後、日本ではしばらく新しいお金が作られることはなかった。お金が作られなくても、お金は市場に流通しているので不便はなかったのかもしれない。また、人々がものの交換に、実質的にお金を使い始めるようになったのかもしれない。そのあたりの詳しいことには、ここでは触れない。
 958年に最後の銅銭が作られてから、次に人々が使うお金が本格的に作られるようになったのは、なんと1636年以降になる。約700年間も、新しいお金が作られることがなかった。正確には、豊臣秀吉はお金を作ったが、人々に流通するまでにはいたらなかった。江戸時代に入ってからも、いくつかのお金が作られたが、これらも量が少なく人々が手にするほどのことはなかった。いまの2000円札みたいなものだ。発行してても、見たことがないお金は、お金としての価値は低い。
 700年間も新しいお金が作られなかった背景には、奈良時代の政府が何度も「お金を使え」「にせでもいいから本物と比べるな」と命令を出しても、人々がお金をなかなか信用しなかったので、お金の生産が無駄に終わったことが考えられる。そうやって、市場に出回ったお金が人々の意思で自由に使われるようになったのは、皮肉にも政府が新しいお金づくりをやめた後になってからである。いわゆる室町時代には、田畑の売買にも銅貨が使われた記録が残っている。
 そうはいっても、何百年も前の銅貨をずっと使っていたらすりへってなんて字が書いてあるのかさえわからなくなる。新しいお金が作られなかった700年間、人々は「だれの作った」お金を使っていたのだろう。

 鎌倉時代から江戸時代の前半までの約500年間、日本でもっとも使われたお金は外国のお金である。
 もっとも多く使われたのは中国から輸入されたものだ。当時の中国は唐とう・宋そう・明みんという王朝があった。当時の中国の王朝も多くのお金を作っていたが、輸入された銅貨は、そこにどんな文字が書いてあったとしても、みんな1枚1文もんとして扱っていた。難しい言葉で、それまで国内にあったお金と区別して輸入されたお金のことを「渡来銭とらいせん」とも呼んでいた。
 物と物が直接に交換されていた当時は、物の価値は原則的に変わらなかった。大根と塩を交換したとしても、大根は大根のままだったし、塩は塩のままだった。しかし、物のかわりにお金を使うようになると、物の価値は変動する。きょうは大根一本1文だったのに、あしたは2文になってしまうこともある。同じ大根1本でも、きょうとあしたで倍の価値になってしまうのだ。物の価値が上がることを物価が上がるという。物価が上がると、反比例してお金の価値は下がってしまう。お金の価値が下がってしまうと、同じものを買うのにたくさんのお金が必要になる。
 なぜ、物価が上がるかというと、多くの人々が物をお金で買うようになった事実が背景にある。お金さえあれば、自分の手元に交換するものがなくても必要なものが手に入る。だから、人々はきそってお金を集め、お金によって物を手に入れようとする。これを繰り返していくと、物価はどんどん上昇する。反比例してお金の価値は下がる。またまたお金が必要になるという繰り返しが始まる。
 実際、政府は1189年、1192年、1193年に「お金を使ってはいけない」という命令を出しているほどだ。とくに渡来銭は、外国のお金なので政府にまったく利益が生まれないという欠点があった。
 鎌倉時代以降、国内でかつて生産された銅貨よりも、中国から輸入された銅貨のほうがはるかに流通するようになる。どうして、人々は政府が作ったものではない外国のお金を信用するようになったのだろうか。

 鎌倉時代以降、国内で新しい銅貨が作られなくなったため、流通する銅貨のなかで古い国産銅貨はどんどん磨耗していった。にせがねも磨耗する。こうなると、どれが本物かの区別がつかなくなったしまった。
 そのため、人々は輸入された中国からの新しい銅貨に信用をもつようになったと考えられる。中国から輸入されたといっても、当時の中国は銅貨を日本に輸出することを禁止していた。おそらく、銅貨1枚を作るのに、1文よりも高い費用がかかっていたのだろう。せっかく輸出しても、その価値よりも低く使われてしまうのでは、中国にとってなんの利益も生まない。室町幕府は、それでも頼み込んで少しは「わけてもらっていた」そうだ。しかし、実際にはその何倍もの中国の銅貨が国内で流通する。それは、政府が禁止しても貿易船に乗って渡航する人たちがこっそり持ち帰る「密貿易みつぼうえき」がとても盛んだったからだ。日本の製品を売るときに銅貨と交換して、その銅貨を国内に持ち込んだのだ。たとえば、日本では布が10文という価値だったとき、中国で中国の銅貨100枚と交換できたのであれば、密貿易をする人たちは積極的に中国のお金を日本に持ち帰り、差額の90文でもっとたくさんの商品を買い求め、ふたたび中国に売りに行くことを繰り返していたわけだ。
 当時の航海技術はいまほどではなく、荒海を渡るのは生死をかけた賭けに近いものがあった。それでも莫大な利益が得られたのだ。しかし、そんないのちがけのことをするよりも、渡来銭のにせがねを作ったほうが危険は少ない。実際、渡来銭のにせがねもたくさん作られた。
 人々は、にせがねと本物をどのように区別していたのだろうか。

 たとえにせがねでも品質がよければ本物と同じように使われていた。
 しかし、銅の含有量を減らし、少しでも安く作ろうとしたにせがねには鉛が混ぜられた。鉛が多く混ぜられた銅貨は、表面の漢字がすりへってしまったり、端がかけてしまったりするものもあった。
 人々は運悪く、にせがねのなかでも品質の悪い銅貨を手にしてしまうと、早く手放してしまいたいので、それらを真っ先に使うようになったという。このような品質の悪い銅貨を「鐚銭びたぜに」と呼んだ。よく「びた一文受け取らない」などと使うときの「びた」とはこの鐚銭のことだろう。
 しかし、自分が早く鐚銭を使おうと思っても、受け取る側はすぐにわかってしまうので、鐚銭の受け取りを拒否する場合もあった。室町時代の記録には、そういったお金の取引上の争いが絶えなかったという。政府は、そのような争いをなくすために「えりぜに禁止令」というのを出して、この金はいいけど、この金はだめだということをしてはならないと命令している。

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