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国策としての教育(2014.3.23)

 国家権力は、古今東西を問わず、教育機関を権力の手中に収めてきた。

 自分たちの意思を国民に徹底するとき、熟年層を相手にするよりも、若年層をターゲットにした方が効果が大きいことを、人類の本能として感じているのだ。

 カンボジアで多くの自国民を虐殺したポルポト。ポルポト自身が虐殺の張本人だったわけではない。彼の手足となって、崇高な理念のもと、何の疑いもなく、多くの人々に銃弾を浴びせたのは、少年少女たちだった。こどもの頃から共産主義教育を叩き込まれ、資本的なものは絶対悪だと教えられ、それらをこのよのなかから排除することによって平和な世界が実現すると信じて疑わなかったのだ。

 日本でも戦前は、神国ニッポンを叩き込まれたこどもたちは、世界を相手に戦う日本人こそ、神が使わした選ばれし民であり、天皇は生きながらにして神そのものだと信じて疑わなかったのだ。その結果、アジアの繁栄と解放を信じて、多くの他国民を殲滅した。

 いまでも中央アジアでは、宗教の対立や対米感情を利用した暴力の連鎖が続いている。そこでは、恨みや憎しみをこどもたちに教え込むことで、爆弾を抱えたまま相手に突っ込み自滅する方法が正当化されている。
 権力者にとって、困るのは、教育の現場でこどもたちにものを教える教員が、権力の意思を無視したり、権力の考えを批判したりすることだ。これでは、権力者の手足が完成しない。
 戦後、多くのこどもたちを戦場に送った反省から、教員の多くは二度と同じ過ちはしないと誓った。その誓いが日本教職員労働組合(日教組)の基本理念になっている。
 二度と同じ過ちはしないということは、再び権力者から同じような命令があっても、学校ではこどもに軍国教育はしないと宣言していることになる。果たして、それは可能かどうか。
 公務員としての教員が、税金の使い道を決定できる権力者からの命令を無視したら、公務員としての立場を奪われるだろう。それを守る憲法や法律の条文があるのだろうか。

 平成になり、公教育現場は少しずつ、いつか来た道に戻り始めている。
 明治から大正の自由主義教育運動が、一気に思想統制され、国民学校創設へ転換された、暗い道だ。
 しかし、そのことをいまの有権者や若者は知らされていない。メディアもあまり報道しない。学校現場ではひしひしと感じていても、教員の多くも発信しない。そんなことをしたら、自分の首を絞めることが分かっているからだ。
 そうこうしているうちに、学校はふたたびこどもたちに武器を持てと教えるようになるだろう。

 2013年度は、文部科学省が久しぶりに全国で全学校を対象にした学力テストを復活させる。
 ものすごい税金が投入される。民間教育企業にテストの作成や印刷、結果の集計を依頼している。国家予算が文部科学省を通じて、民間企業の利益になる構造だ。
 学力テストの結果は集約され、教育効果の濃淡として公表される。
 テスト結果が悪い地域や、悪い学校では、教員の入れ替えに大義名分ができる。地元住民も、それなら仕方がないという雰囲気を作り、権力者の意を汲んだ教員たちが大量に投入されていく。

 10年以上前から、団塊の世代に勧奨退職をすすめた行政は、その結果として、職人的な教員を現場から放逐し、多くの新卒を雇うことになった。製造現場では考えられない人事政策が横行していった。
 新卒とは、教員とは名ばかりでまだまだ未熟な素人たちだ。この素人たちに運動会や卒業式などの大きなイベントを任せていく。どうすればいいのかがわからないから、管理職に相談したり、教育委員会が作成している雛形を参考にしたりする。それらの意見は、ほとんどが権力者の意図を具現化したものなので、その地域やその学校の特徴とは無縁な透明化された計画になる。実行段階で無理や無駄が見え、結果として、破綻していく。

 2011年度に滋賀県の皇子山中学校でいじめの末にこどもが自殺した事件があった。皇子山中学校は、なんと文部科学省の道徳の研究推進指定校だったのだ。学校研究は自主的に行う校内研究、市町村からの指定を受ける指定研究、文部科学省の指定を受ける指定研究に分かれる。文部科学省からの指定研究は、今後の学習指導要領改訂へ向けての新しい試みをする猶予が与えられている。反対に新しく改定した学習指導要領の成果を検証する意味が含まれている。いずれにしても、学校全体が一つの方向に向けて取り組まねばならない大きな研究だ。それも「道徳」について研究していた学校で、いじめが横行していたのだ。
 権力者の言うままに、何でもかんでも受け入れ、自分の頭で考えることをやめてしまった教員たちが、増えている。
 その方がラクなのだ。大きな矛盾やリスクを背負う必要がない。
 こどもがどんなに苦しい状況に追い込まれても
「だって、これやんないとウエに怒られるから」
という、理由で押し切ることができるのだ。

 自民党と公明党政権は、昔から、日教組を呪詛し、教員を骨抜きにすることを大目標にしてきた。そして、長年の努力により、現在はそれがほぼ達成している。全国の教員のうち、日教組に加入している教員は3割台だ。7割は日教組に加入していない。わたしは、日教組を辞めた人間だが、7割の未加入者の多くといると、自分までも何も考えない人間に染まっていきそうな錯覚に陥りそうになる。

 どんな業種も選考試験をする場合は10倍程度の競争率を維持しないと優秀な人材は集まらない。かつて、こどもの数が足りなかった時代は教員の採用人数が少なかった。だから、競走倍率が30倍近くまで跳ね上がっていた。
 しかし、ここ数年、こどもの数がやや上向き、段階の世代が大量に退職したので、採用人数が飛躍的に伸びている。
 これにしたがって、採用試験の競走倍率が下がっている。神奈川県では小学校の採用試験倍率が2倍程度になったという。

 教員を夢見るひとが教員になりやすい時代が到来した。
 しかし、こどもの数が激増したわけではないので、そもそも教員を目指そうとしているひとが激減したことを意味している。本当は教員のセンスがあって、ぜひとも教壇に立ってほしい人材が、日本の学校教育に見切りをつけて他業種や外国へ離れていく。

 こどもに渡す通知表を書き間違えるミスが学期末が来るたびに報じられる。
 多くが、別のこどもの成績を転記し間違えているものだ。また所見欄に他人のことを書くという信じがたいミスもある。
 これは、自分がいまだれの成績を管理し、保護者への知らせに転記しているのかという自覚がないことから起こるミスだ。機械的に多くの通知表を流れ作業で処理しているのだろう。だから、名前の確認という初歩的なことを忘れている。
 また、すべての通知表が作成し終わったら、センスある教員ならば、もう一度、すべてを読み直し、親の気持ちになって成績や所見を受け止める作業を必ずする。言葉一つで、教員と保護者の関係は大きく変わる。表現の工夫は、いつまでも続けなければいけない。この初歩的な確認作業さえしておけば、他人の成績をつけていることや、所見の内容がおかしいことに気づくはずだ。

 繰り返すが、現在の安倍政権が以前の総理大臣だったときに、教員免許の更新制度を導入した。あの当時、わたしの知る限り、優秀な若者が「そんなこと聞いてねぇ」と突然の法律の改悪に憤り、教員志望を捨てた。
 その後も、自民党と公明党の公教育政策は、保守的な内容を強くした。土曜授業の復活や給料の削減、退職金の削減、道徳の教科化など。
 こんなに政治が教育に介入したら、夢のある仕事とは思えなくなって当然だ。

 わたしの周囲の若者たち、素直で元気がいい。しかし、決して管理職に刃向かわない。何でもかんでも反抗することはいいことではない。しかし、理不尽な要求にも、何の疑いもなく従っている姿を見ると、このひとたちのこころは育っているのだろうかと不安になる。
 学校教育はこどもの学力だけでなく、こころの成長とも向き合う。こどものこころが揺れたとき、いくつかの指標を示して、そのこどもにあった方角へ背中を押す必要がある。そういう内面の豊かさは、自分にも同様の豊かな内面がないととても指導できるものではない。

(この文章はway6912.3/23/2013-way6914.3/29/2013で紹介しました)

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