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らしさの恐怖

 「男らしさ」とか「女らしさ」を強調するとセクシャルハラスメントの対象になるのに、学校では「らしさ」が存在しています。教員は子どもたちに「子どもらしさ」を求め、子どもや保護者は教員に「先生らしさ」を求めるのです。マスコミが学校を取り上げるとき「先生らしさ」も「子どもらしさ」もかなり強調されます。そこで理想とされる教員はすでに日本の原風景の中にしか存在しないような道徳人だったりするのです。また子どもについてもおよそ昼間の渋谷や池袋の駅周辺にうろついている「子ども」を想定しているとは思えないノスタルジーに彩られています。
 そのような「一般的な表現」で現代の複雑な教育問題を解決しようとしてきた姿勢が、かえって問題の本質を見えにくくしてしまっているようにわたしは思います。子どもの多くは教員が授業を脱線したときや子どもの頃の体験談を披露したときに目を輝かせます。それは「先生らしさ」よりも「人間らしさ」を求めている証拠のような気がします。
 子どもにも教員にも耐えがたい苦痛が学校の日常にあるとしたら、それを解除するにはともに学びを介して成長していけるような関係の構築が必要なのではないでしょうか。

担保が減少した認識を

 バブル経済の崩壊以降、若者の就職難の時代が続いています。このことは未就職時代を学生として過ごす若者に将来に対する不安を募らせています。
 子どもの興味や関心に関係なく用意されている学校での学習内容は「将来役に立つときのために」という担保があってこそ成立していたものです。だから子どもたちは意欲があろとうなかろうと自分のやりたいことを取り上げられても多くの時間を勉強や習い事に適応できたのです。しかし、単純に「これをやって何の役に立つのか分からない」という疑問に教員や保護者が明確に応じきれない現実はそんなに先のことよりも今を充実させることに精一杯になる発想をむしろ尊重するべきだと思います。その中から自分の将来につながるような学びを子どもたちが発見し、そのことを核にして学習が発展していったら漠然とした将来への不安は荒波への挑戦心へと変わるのではないでしょうか。
 多くの人たちが自分の物語で学校や教育の諸問題を語っていては「現役」の子どもたちからどんどん離れていってしまう気がするのです。もっと柔軟に、もっとていねいに、一人一人の子どもの今に寄り添うことが必要だと思います。

多様性と選択性

 わたしはこれからのというよりも今すぐにでも掲げるべき学校教育のキーワードは「多様性と選択性」だと思っています。
 生き方をせばめてしまうような単一のルートしか確保しないやり方は不登校や中退の問題をうみ今もって公的に解決する道筋を発見できていません。
 公立学校に多様性を保障し、子どもや保護者に選択肢を与えることが少なくとも学びの主体者である子どもたちの責任を促すことにつながると思っています。自分の生き方の出発点として学びの責任を負うことは将来につながる考え方・生き方の基本になります。また選択主体が子どもと保護者にあってこそ、教員をもっとも正直に試される場面へと奮い立たせるはずです。自分のやってきたことややろうとしていることを学びの主体者である子どもやその保護者がどれだけ支持してくれるのかという緊張感がより良い関係を生み出していくのではないでしょうか。
 その中から多様性は淘汰されいくつかの本質的なカテゴリーに分類されていくかもしれませんが、大事なのはそうやって学びがソフトランディングしていくプロセスに教員や子どもや保護者がともにかかわりあっていくことなのです。

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