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子どもに寄り添って 1999.3

 全国の赤ちゃんからお年寄りまでみんなを集めてそのうちの百二十人に一人が同じ種類の仕事をしています。
 世界的にも類を見ないほど、その割合は高いと思われます。
 その仕事とはいわゆる「先生」です。教員免許をもっていて、その資格を仕事として活用している人たちです。

 百二十人に一人といったら、決して特別な才能や技能をもった職業集団にはなりにくいでしょう。むしろ、いろいろな人たちがいて平均化するとたいして特色のないふつうの人たちです。
 しかし、社会的には「先生」という職業はわが子を預ける保護者からは一般的に期待されています。子どもの学習や生活行動など、未熟で未習熟なところを伸ばしてくれる存在として……。何しろ百二十人に一人が教員なのでそういった保護者の期待通りに子どもの未熟で未習熟なところを伸ばす人がいたっておかしくありません。と同時に、そのような期待を裏切る教員がいたっておかしくないのです。事実、毎年増加し続ける不登校や中退の理由の中には明らかに教員が原因となっているものも含まれています。

 ここで問題になってくるのは、多くの保護者の期待を裏切らないためにどうしたらいいかということです。
 教員自らにこれを解決させることはほとんど不可能です。なぜなら百二十人に一人が教員なので、みんなが集まってこれらについて反省したり討議をしたりする場所など確保できません。ならば代表者みたいな一部の人たちだけでこれらを論議させればいいのかというと必ずしもそれでは真相に迫る方向へは行かないとわたしは思います。
 ならば教育委員会や労働組合など、外部の機関にその判断を任せればいいのかというと、これも必ずしも保護者の期待と重なるとも言いきれない気がします。つまり、子どもから離れてしまえば離れてしまうほど、具体的なことから話が遠くなってしまう危険性があるのです。教育評論家が「今の子どもたちは……」と語るとき、全国に数千万人といる子どものうちだいたいどの程度の子どもたちを指して「今の子ども」と言っているのかをあらかじめ特定する人はほとんどいないでしょう。なのに聴衆はそういう専門家の口から出てくる抽象的な「今の子ども」と言う実態のとてもあいまいな表現を受け入れてしまいます。これが具体性から離れていく危険です。
 では、保護者の期待を教員が裏切らないようにする、あるいはそうさせない、もしくは自らに方向転換を余儀なくさせるにはどうしたらいいのでしょう。

 その答えを求めてわたしは同僚や保護者、友人らと一九九七年一〇月に「湘南に新しい公立学校を創り出す会」を発足しました。

 さまざまな教育家の思想を具体的な学校にという私立の実例をもとにせず、わたしたちはアメリカで実際に進んでいる公立学校教育の改革運動の一つ、チャータースクール運動を活動のもとにしています。

 チャータースクール運動とはかんたんに言うと「公立だけど特別なことをやる認可さえもらえれば開校できる学校づくり運動」です。
 そんな甘い話があっていいものかと思うかもしれませんが、その歯止めとして契約の考え方が導入されています。
 つまり特別なことをやるのはある願いを実現するためには従来の公立学校の方法では不可能なのでやるわけだから、その特別なことを実施したことによる成果を証明する必要があるわけです。その結果、なるほど従来の公立学校では行っていないけれども、特別な認可によって実施したこの学校ではそのことによって十分な成果が認められると判断された場合には契約が更新されるのです。

 アメリカでは州によって公立学校関係の教育法が異なっています。そのため日本のような全国的に統一された細かい規範はないので、
それぞれの州で法律を制定しなければなりません。
 一九九一年に全米ではじめてミネソタ州で「チャータースクール法」が可決成立しました。その後、各州でチャータースクールが可決成立しています。それぞれの州によってチャータースクール法の内容は微妙に異なっています。特別に認可する範囲についてのかなり異なっているのです。

 アメリカではチャータースクール法に基づく学校が現在では千の単位で存在します。そのうち、契約違反によって廃校になったのは十の単位です。
 つまり自分たちの学校を創ろうという気持ちが具体的な形となったとき、教員も保護者もそして子どもたちも「学びへの責任」を自覚するようになる証明がそこにはあるのです。あえて私立にしないのは、入学を希望する子どもたちやその保護者に経済的な負担をかけたり、入学にあたっての選別を行わないのが「公教育」の基本的な考え方だからです。税金に頼らなくていい裕福な家庭の子どもたちが自ら選んで私立に行くのとは基本的な部分で考えが違います。
 税金を広く正しく活用する民主主義の考え方に照らし合わせて、公立学校があまりにも一元的なパターンでしか素材しないのは多様化するニーズにまったく疎いとしか言いようがないと思いませんか。
 子どもたちが学校や教員に合わせる従来の公立学校から、教員が子どもたちによりそい、その可能性や伸びの方向性にチャンネルを合わせる公立学校まで存在してもいいはずなのです。

 どれが良くてどれが悪いかなどという単純な二極対立はできません。それは時間の流れとともに淘汰の過程の中で明らかになることでしょう。

 わたしたちが国内に日本版チャータースクールを立ち上げようとしたときに地元の教員から「そういうことは私財を投げ打って私立でやるべきだ」と言われました。
 たしかに投げ打つだけの私財があればそれも可能かもしれません。が、このことは裏を返すと、日本では多様な公立学校教育など現場の教員の発想にふさわしくないと自重しているようにも思えました。子どもたちの生活や保護者の考え方が実際に多様化し日々学校現場ではその対応に追われているという現実を棚上げして、それでも公立学校教育は脈々と従来のパターンを繰り返すのだと信じているとしたら社会のニーズと少し異なるような気がするのです。

 アメリカでは数千ものチャータースクール法にもとづく学校があるので「これこそチャータースクール」という象徴を探すのは困難です。新しく地元の住民たちが教員と作り上げた学校もあります。既存の学校をそっくりチャータースクール法にもとづく学校に変えてしまったところもあります。演劇を目玉にするところ、基礎基本を目玉にするところ、情報教育に力を入れるところ、さまざまです。当然のこととして、これらの学校には学区は適用されません。たとえ家から遠くてもその公立学校を選んで通ってくる子どもだっています。じつはこの「選んで通う」という事実はとても重要なことだとワタシは持っています。私立学校の場合は受験しないと多くの場合は入学できるかどうかは分かりません。つまり入学する子どもの意思が試験という学校側の基準によって振り分けられているのです。 
つまり、子どもは選んでいても通えない可能性だってあるわけです。義務教育の公立学校の場合は通うべき学校が決定しているというとても固定的な制度になっています。

 わたしたち「湘南に新しい公立学校を創り出す会」が目指している新しい公立学校は小学校をイメージしています。やがては中学校も考えていくことになるでしょう。
 この新しい公立学校のモデルになっているのはアメリカのサドベリーバレーにあるサドベリーバレースクールです。
 詳細は一光社の「超学校」(ダニエル・グリーンバーグ著/大沼安史訳)をお読みください。

 新しい公立学校のコンセプトは「自分で決めたことを大事にして、そのことを探求してみよう」です。

 これまでの公立学校教育がお膳立ての教育だとしたら、新しい公立学校の教育はアウトドアーの教育です。
 計画を立てたり、材料をそろえたり、実際に組み立てたり切ったりつけたり、完成したものを成果として披露したりする一連の流れについて、子どもと保護者と教員で相談しながら作り上げていくことを目指しています。当然のこととして、子ども一人一人に応じた学びの計画が必要になってきます。その代わり、そうやって決定した学びの計画に対して子ども自身に責任を負わせます。少し厳しいようにも思えますが、「やっぱり別のにする」とか「やっぱりここは変える」といった修正や変更を認めた範囲で責任を自覚させたいと思っています。ここでいう「責任の自覚」とは、どうしてそのことをやっているのかという説明をやっている子ども本人ができるということを指しています。
 
 やらされ型の学習から脱出した方が、ずっと伸びると思われる子どもは今の学校にたくさんいると思います。不登校になってしまう子どもの中にも、自分だけの力でやっていこうとしている子どもが実際にいるのだから、みんながみんな、やらされ型の教育しか許されない公立学校教育制度はそろそろ見なおしてもいいのではないかと思うのです。

 わたしたちが開校を目指す新しい公立学校は年齢によって区切った学年や定数によって分けた学級を原則的につくりません。
 子どもたちがそれぞれの意思で学ぶことを決定してほしいので、まわりの子どもたちと歩調を合わせる必要が無いのです。「そんなことでは仲間と協力したり励ましあったりできないではないか」という批判が聞こえてきそうです。
 子どもたちが学びたいことを選ぶとき、偶然にして同じ内容を考える場合だってあるはずです。また、やろうとする内容によっては自分一人の力ではできないことだってあるはずです。そんなとき、協力を仰ぐことそれ自体もその子にとっては学びのうちなのです。  
 つまり、もともと強制的につくられた集団に頭ごなしに課題を与える中で必要とされる協力や励ましではなく、学ぶ内容(行動を主体とした)を決定していく過程で気持ちの通い合う仲間を集めながら協力そのものを築き上げていくことを目指しているのです。

 このような学校では教員の役割が煩雑になって人数もたくさん必要になると思われるでしょう。たしかに、従来の公立学校の教員のように、自分が用意した授業内容にこどもを従わせるやり方をしていたら、子どもの数だけ教員が必要になってしまいます。しかし、わたしたちは教員のかかわり方・あり方を従来のものとは異なった立場で考えていこうと思っています。

 本当に子どもが学びを欲したときにそこにぴったりのアドバイスを与えたり、自分で計画した学びにつまずいたときにいくつかの修正方法を提示したり、あらゆる学びの欲求に応じられるような資料の収集と整理をしたりするのが、わたしたちの目指す新しい公立学校での教員の役割です。
 
 そこには教員の都合が入る余地はありません。つねに学びの主人公としての子どもの意欲や関心が最優先され、可能な限り教員はその意欲や関心がさらに発展していくような役回りを演じるのです。子どもたちの応援団です。

 こういった学びの立ち上げを子どもたちに任せてみようという考えは実際に長年公立小学校や公立中学校で子どもたちと接してきた教員たち自身から湧き起こりました。子どもたちや保護者の中にはとっくの昔にそういった思いの人たちがたくさんいたことを活動を始めてから知ることになります。
 図工で粘土細工をしているときにとても集中してきた子どもにチャイムが鳴って時間になったからと片づけを命ずる教員、ともかく早く終わらせて残りの時間を遊ぶことに使いたいために絵も習字も適当だってかまわない子ども、ダラダラと列を乱して並びながら朝会の話などまったく耳に入らずひたすら早く終わってほしいと願う気持ち……。
 学校での行動に自覚的意識をもつとしたらやらされることに自分なりの意味を見つけなければならないのです。こういうのを受身の態度、受動的な態度といいます。なのに、教員の中には「自分たちで考えることができない」と不満をもらす人がいます。従順であることを良かれと教え込まれてきた子どもたちが自分で考えて行動するようになどなるはずがないのです。子どもが自分で考えることは、最初のうちはだいぶ失敗したり大人の都合からははみ出たりという覚悟を教員が肝に銘じない限り導くことなどできないことです。たくさんの時間がかかって学校での一年ぐらいでは芽が出ない可能性だってあります。年度の終わりには進級してもしかしたら別の教員に担任をバトンタッチする今の制度の中ではそんなことをやると子どもも教員もたちまち浮いてしまいます。

 学びのなかみを子どもたちに任せるということは、自分がやろうとしていることに対して責任をとらせることにつながります。他のだれが命じたわけでもない、子ども自身が決定したことだからです。
 ここで問題になってくるのが学びのなかみを子どもが決めることなどできるのかということです。
 そこでわたしたちは新しい公立学校へ向けて現在たくさんの教材・教具を集めています。それは子どもたちが学ぶなかみを決めるときにヒントにしてもらうためです。また、いくつかの中から「選ぶ」というアドバイスの方が子どもによってはしっくりいく場合もあるかもしれません。さらに、なにをどうしてどうやって、という学びのなかみ決定過程の中には当然のこととして保護者や教員が相談員として登場します。

 もしも、ひたすらゲームボーイをしたいとか、ただ寝ていたいとか、保護者の気持ちと異なるなかみを子どもが考えたとしたらどうするべきか……。そこにはその子どもがそう考えざるを得ない事情や必然性があると判断して、学び・行動・成果・発展の可能性があるのかどうかを十分にその子ども自身が気づく方法を提示することが大事です。言葉で理解する子どももいるでしょう。実際に本人の言う通りにやらせて、「成果披露」段階で社会的評価をシビアに受けさせて気づく子どももいるでしょう。何があっても変わらない子どももいるかもしれません。

 でも、子どもたちから自由の翼をはじめから奪ってしまう方法よりは、一人一人が自分の時間と空間を意識すること、つまり自分の生きている今を見つめる方法のほうがはるかに建設的な生き方につながると思いませんか。

 駅の周辺で昼間から制服のままたむろしている子どもたちは特別な子どもたちですか。
 夕方遅くにホームで大声で携帯電話をかけている女子高生は特別な事情のある子ですか。
 午後九時過ぎに塾のバックを肩にドリンク剤をバス停で飲んでいる小学生は特別な子どもですか。
 朝ご飯を食べないでドロンとした目つきであくびを連発する小学生は特別な家庭の子どもですか。
 「進んで学ぶ子ども」という学校目標のある小学校でいつも宿題を忘れる男の子は特別な子どもですか。
 毎年、毎年、増え続けている学校に行かなくなる子どもたちは、すべて特別な子どもたちですか。
 さらに増加し続けている高校を辞めてしまう子どもたちは特別な子どもたちですか。
 
 すべてに言えることはどの保護者も自分の子どもがこういった状況になってはじめてこういったことはどの子どもにも起こりうるんだと気づく心の準備ができることです。
 わたしにはどの子どもたちにももっと良い生き方を築き上げるチャンスがあったら良いのになと思えて仕方がありません。

 大人たちが見て見ぬふりをしてきた子どもたちの様子はすでに単純に解決できる段階を超えていってしまいました。あとはダラリと社会の流れに身を任せて生きる気楽さをせいぜい求めるしか残っていない気がします。

 いろいろな事情で義務教育の公立学校は自由にできないのでしょう。
 それはそれで仕方の無いことですが、その仕方無さをずっとこれからも維持し続けるのならばやがて今の子どもたちが築き上げる社会に文句を言うのだけはやめましょう。
 数年前からわたしは保護者の中に怖れを感じることがあります。
 自分の子どもをペットとしか思っていないのではないか。
 自分の子どもにまったくと言っていいほど興味がないのではないか。
 子どもの気持ちがまったくわかっていないのではないか。
 その人自身の言動が異常としか思えない。
 
 実際に親に捨てられた子どもを児童相談所の人と施設に預けた経験もあります。昨日までクラスの子どもたちといっしょに過ごしていた子どもが今日には荷物をまとめ出て行く……孤児になって。

 一部のエリートはいつの時代にもいるのです。問題なのは多くの人たちです。
 
 今を生きる子どもたちが築く社会は二〇二〇年ごろになるでしょう。
 その頃を見越して子どもの学びや伸びをとらえていかない限り、教育はいつまでたっても学校の門を出ず、教員はどこまでも百二十分の一のままでしょう。

 湘南に新しい公立学校を創り出す会には保護者、学校関係者、報道関係者、出版関係者、国会関係者、小学生から大学生まで、自営業者、学術関係者など、さまざまな人たちが集まっています。現在は法律関係者と建築関係者に触手をのばしています。

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