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人の話を黙って聞く 1999.10.7

 9月25日に福岡ダイエーホークスが球団創設以来はじめてパ・リーグ優勝をしました。わたしはどこのファンってわけではないのだけれど、その放送を見ていてどうせなら優勝の瞬間を見たい気分になっている自分が不思議でした。
 人が悲しむ表情よりも喜んだり感動したりする表情の方がこちらも元気になれる気がするからです。最後の打者を三振に打ちとってホークスは見事に優勝しました。
 その後で優勝監督インタビューがありました。王監督がお立ち台に登っていました。すると球場に駆けつけた45000人がみんな黙って王監督の言葉を待っていたのです。そして言葉言葉の合間に拍手をしたり歓声をあげたり、とてもいい感じだったのです。
 それを見ていてスカーッとしたのは、練り上げた・精錬された・積み重ねられた言葉の前には何万人もの人々だって沈黙の礼を尽くすのだなと思ったからです。湘南小学校で子どもたちには礼儀として「話を黙って聞く」ことも教えなければという意見もありますが、わたしはあの場面を見ていて大事なのは「黙って聞く側の態度」ではなく「黙って聞かせるだけのものを伝える側の熱意」なのだと実感したからです。
 伝える側に大した努力も積み上げもないとき、それを我慢して黙って聞くことを良しとするのは空洞化した人づくりに手を貸すことになるのではないかと王監督の5年間が教えてくれた気がしました。

 この文章をインターネットの「創る会・会議室」に投稿したところ次のような返答がありました。

 同感です。
 子供も大人も、聞きたいときには、全身で「聞きたい」になる。このことを、私は、あるクラスの授業参観で、身をもって体験しました。
 その数ヶ月後、他の教室で、「私の話を聞こうとしないあの子たちは悪い子です。私はこんなに一生懸命やっているのに!」という、1人の先生に会いました。
 また、懇談会等で、「うちの子は、〇〇だから、家に帰ると何も話してくれない」と言うお母さんによく出会います。
〇〇だからには、男の子だからとか、女の子なのにとか、もう大きいからとか、学校でいやな思いをしているからとか、そんな言葉が入ります。
 この人の言葉を聞きたいと思う時、我先にしゃべる人がいるでしょうか?
 この人に聞いて欲しいと思う時、メッセージを発信しない人がいるでしょうか?
 自分の目の前にいる人が、自分の話を聞いてくれない、自分に話をしてくれない時、私は、聞きたいと思ってくれる話をしていないのだ、私は、話を聞いて欲しい相手として認めてもらっていないのだ、と、わが身を振り返る心を持っていたいと思います。
 親が、先生が話しているのだから聞こうね、(いい子だから)というのはやめてほしいです、ホント。

……インターネットには光と陰があると言われていますが良いところはこのように見ず知らずの人に自らの考えを発信して返事が戻ってくることです。そのことによって自分の考えが自分だけのものから世界を広げたものになっていくからです。(佐々木)

 わたしは「湘南に新しい公立学校を創り出す会」で1999年8月に子どもたち31人を集めて目指す湘南小学校の試行「テストマッチ」を行い
ました。子どもたち自身が自分のやるべきことを計画して実行する、大人はそのための支援者として介在するというやり方で5日間を通したのです。1日の始まりや終わりに子どもを集めて大人から説明するミーティングの時間を設けました。子どもたちは決して黙って聞いてはいませんでした。ざわざわした中でミーティングはいつも進行していました。とりあえず静かにさせてしまうことはいくらでもできたと思います。しかしそんなとき考えなくてはいけないのはそのミーティングがざわざわしている子どもにとって本当に必要だったのかという部分です。
 翌日の連絡や子ども同士の情報交換の場として大人たちはミーティングの時間を創設したのですがそれは大人側の都合であってすべての子どもにはその必要性は伝わっていなかったかもしれません。そう考えると人を集める必要があるときはあらかじめ「内容」を伝え「かかる時間の目安」を伝え「参加するしない」は本人に決めさせ「参加したからには」守るべき約束を明示しておくことが必要なのではと思うようになりました。そして参加しない自由と引き替えに「連絡事項を知らないこと」「他者の情報を得られないこと」というリスクを負うということも伝えるべきだと思いました。
 国会中継を見ていて思うのはヤジや怒号が公認されていることです。あれは「傍聴者」がやると叩き出されるそうですが会議に参加資格のある国会議員ならば許されているわけです。議案によっては欠席している議員もいます。国権の最高機関で認められていることがどうして多くの教育の場面では否定されてしまうのでしょう。アメリカ連邦議会ではヤジや怒号は品性を疑われるそうで国によって価値観に相違はあると思います。
 大学の講義で学生の私語が多くて困ると教授たちが悲鳴を上げているそうですがわたしの経験から言えば90分という長丁場を耐えられるほどのユーモアとウィットと感性のある講義でもしない限りあの時間は退屈きわまりないと思います。
 あなたの話を黙って聞いているのはあなたのやってきたことや語る内容に感動しているからではなくただ我慢しているだけだという思いが充満しているときはそれは「黙って」はいても決して「聞いている」わけではないことをしゃべっている人に自覚してほしい気がします。黙って聞いている振りをするよりも私語をして聞いていないことをアピールした方が語り手に自覚を促す効果があるかもしれないのです。
 協力指導をしていると担任の中にはともかく集中させることに必死になる人がいます。
「お話ししている人の顔を見なさい。下を向いていてはいけません。」
子どもたちがわたしの方を見ます。
「これから空っぽの鉢に黒土と腐葉土と鶏糞を入れます。」
実際に子どもたちが黒土を入れた後で2番目のこれは何だったかと聞くと半数近くの子どもたちが覚えてはいないなのです。
 人の話を黙って聞くことを子どもたちに要求する人はもしかすると「聞いていなくても」いいから「黙っていてほしい」という気持ちが強いのかもしれません。その方が見た目に美しいと思っているのかもしれません。だれかが多くの前で話をしているときに多数が黙っている風景はしつけが行き届いているという評価を担任にもたらすものなのかもしれません。そこには実質的なコミュニケーション空間は存在していないのです。

 人の話を黙って聞くとか他人を思いやるといった関係性をこれまで成立させてきたルールは、そこにある欺瞞が充満して飽和状態になってしまうと解体へ向かっても仕方がないことだと思います。
 そこにある欺瞞とは、人の話を黙って聞くことの正当性や他人を思いやることの正当性を意味します。中身のないつまらない話をただ黙って聞くことの無意味な時間の過ごし方よりも、自分が充実できることに没頭することのほうが有意義であるという考えを打破するだけの説明がなされない限り欺瞞は広がる一方です。せめてその場を去るとかはじめから参加しないという逃げ道を用意しない限り今後これらの欺瞞は家庭や学校で次々と飽和状態になるでしょう。

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