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ガッコー「海風」

二章


1月7日・午前7時・雑賀拓郎宅

 仙田は、背伸びをした。
 両手を伸ばし、かかとが浮いた。上半身を大きく後ろにそらす。顔が上を向く。アパートの壁に消えかかった黒いペンキで、日南荘という文字がかろうじて見えた。
「さぁて、拓郎は生きてっかな」
 冗談とも、本気とも取れる自分の言葉に身震いをした。
 木造の日南荘は、いつ倒壊してもおかしくないほど壁も屋根もくたびれている。錆びていないところを探すのが大変な階段。一応、二階建てだ。拓郎の部屋は一階の一番奥の102号室だ。通路には光が当たらない。暗い。それでも、部屋のなかにはトイレと風呂は設置してある。
 新聞の広告。裏が白い広告を長方形に切り取り、そこに水性ペンで「102」と書き、セロテープでドアに貼ってある。表札はない。右手を拳骨にして軽くドアをたたく。朝から名前を呼ぶと、近所に誤解されるかもしれない。ドアをたたいても、なかから反応はない。
 まさか。
 何度も育児放棄で児童相談所が介入している家庭だ。また、こどもを残して出て行ったのか。
 仙田は、反射的にドアノブを回す。鍵はかかっていない。どういうことだ。
 ドアを開ける。
「おはようございます」
 とりあえず、挨拶をしておこう。黙って入ると、後々、盗人扱いされかねない。小さなキッチンと4畳半一間。ドアを開けただけで、部屋のなかが一望できる。
 部屋の中央にこたつ。そのこたつに拓郎が寝そべっていた。仙田が挨拶をしても起きない。靴を脱いだ仙田が、拓郎のそばにしゃがむ。口のまわりについた飯粒が乾燥している。
 飯は食わせているな。
 仰向けに寝そべる拓郎の胸が上下する。
 よし、生きている。
 母親の博美がいない。冷蔵庫を開ける。見事に何も入っていない。空気を冷やしてどうするんだ。キッチンを観察する。レンジが使われた形跡がない。食事はコンビニか。風呂場を覗く。バスタブを右手の人差し指のはらで10センチほどこする。こすったはらを見る。うっすらとほこりがこびりついていた。一週間ぐらい風呂をわかしてないな。
 うーん。拓郎が寝返りを打った。仰向けの姿勢から、からだの右側を下にした横向きの姿勢になった。左腕が、だらんとこたつ布団から出た。仙田は、拓郎の腕が2学期よりもひとまわり細くなったような気がした。この家庭は、学校給食制度がなくなったら生きてゆけない。
 仙田は、靴を履き、静かにドアを閉めた。博美はどこにいるのか。たまたま買い物に出かけただけかもしれない。反対に、夕べから帰っていないのかもしれない。この事実を、だれかに告げるべきか。とくに犯罪が起こっているわけではない。だれかが困っているわけでもない。だれかに告げても、この事実に変化がないことはわかっている。

 道を歩きながら、仙田は背中を丸めた。
 海からの風が直接頬に吹きつける。雪はめったに降らない。しかし、冬の風は冷たい。むしろ、海水の方が気温よりも高くて、冷えた朝には海から凍った蒸気が霧のように立ち込めることがある。
 アウトドアでも使えるコートなので、防寒対策はばっちりだ。しかし、コートから出ている部分は無防備になる。手はポケットにしまえる。でも顔を隠すことはできない。
「結局……」
 何かの事件が起こらないと、よのなかは動かないようにできているのか。
 明らかに、こどもが放棄され、育てられていないことがわかっているのに。このままでは、確実に事件や事故に発展するとわかっているのに。細い腕を抱えながら、こたつのなかで眠っていた拓郎の顔が浮かぶ。
 仙田は、数年前に妻と別れた。
 そのときも、いまと同じように仙田はネグレクト家庭のこどもを担任していた。休日になると、その家庭を訪問し、生活全般の支援もした。
「あなたがそこまでする必要はないんじゃないの」
 家庭生活を犠牲にして、仕事に没頭する仙田に、妻は言い放った。
「俺が何とかしなきゃ、だれが面倒みるっていうんだよ」
 その家庭も、父親は蒸発し、若い母親が夜の仕事をしながらこどもを育てていた。
「こどもを面倒みるなんていって、本当の目的は別にあるんじゃないの」
 一度、歯車が狂い始めると、夫婦間の溝は広がるばかりだった。
 あの日は、妻の誕生日だった。たまたま週末と重なった。
 海風町にしてはめずらしい豪雪の晩だった。仙田は、まともな暖房器具のないその家庭を思い出していた。しかし、こんな夜ぐらい母親は仕事を休むだろうと考えた。それに、妻の誕生日だから、海の見えるレストランを予約していたのだ。
「乾杯」
 タイヤにチェーンをつけたタクシーで、夫婦そろってレストランに向かう。予約のときに頼んであった海が見えるテーブルにつく。積もった雪が桟橋に広がる。海面は闇に消え、レストランの明かりが寄せては返す波を映し出していた。
「週末も仕事で忙しかったのに、きょうはありがとう」
 妻が少しきれいに見えた。苦労をかけ続けていることは、わかっていた。今夜の誕生祝が、広がった溝を少し縮めるのに役立てばいいと思った。
 電気を止められ、暖房器具のない暗い部屋で、仙田が担当していた男の子は、その夜、寒さと飢えで息を引き取った。
 その事実を知ったのは、翌日、出勤してからだった。登校しないこどもを心配して、家庭訪問した。母親は仕事先から帰ることができず、朝になってもそのこども以外だれもいなかった。仙田は、遺体の第一発見者になった。
 俺が殺したんだ。母親への怒りよりも、自分への憎しみが大きかった。

1月7日・午前8時・山尾小百合宅

 海南市との境界まで歩いた。
 海風町に比べて、鉄道が通っているので、海南市は繁華街が大きい。この辺りに住んでいるひとたちの生活圏は、町よりも市だろう。
 コーポ・オーシャン。山尾小百合が住んでいる。
 山尾は河鹿が担任している。しかし、教員になって3年しか経過していない河鹿に、家庭訪問の発想はないだろう。仙田は、ひとの分を働いている。しかし、河鹿に借りを作ろうしているのではない。できることがあるのに、世俗のしがらみに惑わされて、それを遠ざけることは、二度としたくないと決めているのだ。こどもにかかわる仕事を選んだ以上、こどもに苦痛が与えられる状況を事前にキャッチし、対策を練りたいのだ。それほど、よのなかは病んでいるし、おとなは弱りきっている。
 教え子が死んだ。死んだ教え子を最初に発見した。腕のなかで何度も揺すった。閉じたまぶたは二度と開かなかった。
「あなたが悪いんじゃない」
 妻は何度も言った。
「お前のせいじゃない」
 同僚は何度も言った。
 自分を責める仙田は、酒に逃げた。自分をかばうひとたちの善意が偽善に思えた。
 妻の誕生日に、自分はレストランでおいしい料理を食べていた。そのときに、ひとりのこどもが静かに息を引き取った。そのことをまったく予想していなかったと言い切れなかった。
 母親は逮捕された。しかし、警察官に連行されていくとき、唇の端にふっと安堵の表情を見せたのを、仙田は知っている。彼女にしても、こどもとの生活は苦痛だったのだ。母親になるということを、だれからも何も教わらないままこどもを産んだ。夫は蒸発する。こどもの脳には発達上の特徴がある。そういうこどもを担任した自分が、学校にいる時間だけ支援をすることはできない。生活を含めて支援しないと、そのこどもの自立にはつながらない。だれもあてにできないのだから、自分がするしかない。
 わかっていたのに、あの日はそれができなかった。
「上の部屋で休みなよ」
 ゆうひのマスターが、酒におぼれる仙田をたしなめた。
「はい」
 なぜか、素直になれた。
 いまの仙田が、こどもたちの親に正面から切り込んでいけるのは、ずっと後悔を背負っているからだ。同じ後悔をしないために、躊躇を捨てたのだ。
 コーポ・オーシャンの階段を上がる。手前の日当たりのいい201号室。表札には漢字で「山尾」と記されている。拳骨を握り締め、ドアを叩いた。

 そのとき、勢いよくドアが仙田側に開いた。ちょうどドアを叩くのと同時だった。部屋のなかから、厚めの化粧をした山尾百合が出てきた。
「あら、先生。どうしたの」
 いつもは、だぼっとしたセーターとモンペのようなズボンをはいている百合が、きょうはめかしこんでいる。襟が立った白いシャツ、からだの線にぴったりのベスト、本物ではないだろう革のコート。ヒールの高いブーツまではいている。
「どうしたのは、こっちの台詞だよ」
 百合が、こういう服装をするのを初めて見た。仙田は、頭の先からブーツの先までしげしげと見つめてしまった。
「やだ、センセー、いやらしい目で見ないでよ。じゃぁね」
 おい。
 仙田に何かを言わせる隙を与えずに、百合は狭い通路から階段に消えた。ドアは開け放たれている。もう一度、ノックをするべきか迷う。
 しかし、仙田はノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開いた。
「こんにちは」
 低い声で、ゆっくりとしゃべった。返事や反応がない。
「海風学級の仙田です」
 もう一度、低い声で、ゆっくりとしゃべった。
 山尾の部屋は、ドアを開けると、いきなり小さなダイニングキッチンになっている。シンクには、汚れたままの食器と鍋が放り込んである。ダイニングキッチンの向こうにもう一部屋ある。ガラス戸が中途半端に開いている。その向こうにひとの気配がする。
「山尾さーん、仙田ですよ」
 今度は、通る声でターゲットに狙いを定めた。気配が動いた。
「どうぞー」
 山尾錦、41歳。小百合の父親だ。仙田は、靴を脱ぎ部屋に入る。ガラス戸を開ける。
 和室の中央にはこたつが一つ。こたつには、スルメイカ。マヨネーズのチューブ。醤油さし。一升瓶とガラスのコップ。
 錦は、こたつ布団を肩までずり上げて、首以外をこたつのなかに埋めていた。目を閉じている。仙田は、ほぼ真上から見下ろす。
「また、朝っから飲んでるんですか」
 非難しても、効き目がないことは承知しているが、黙ってやり過ごす気分ではない。
「正確には違うな」
 目を閉じたまま、錦は思案顔だ。
「大晦日、除夜の鐘を聞いた頃から、ずっと飲んでた」
「そんなこと、自慢にならないの」

 仙田は、部屋のなかを見回した。小百合の姿がない。
「父ちゃんよ、小百合はどこにいるの」
「俺にそんなこと、聞くかぁ」
 じゃぁ、だれに聞けばいいんだよという言葉を飲み込む。統合失調症を薬でコントロールしている錦は、精神が通常である瞬間があまりない。だから、まともな会話は成立しない。
 仙田は、玄関に戻る。靴箱はないが、靴がまとめて置いてある場所を見つけた。そのなかから、ふだん小百合が履いている靴を探す。ない。外出しているんだ。
 山尾小百合は11歳だ。しかし、脳の知的発達に特徴がある。現在、6歳程度の知的脳まで成長している。つまり、からだは思春期に入ろうとする少女でありながら、脳の発達は小学校1年生程度だ。何もしゃべらなければ、そこそこかわいい表情の小百合が、繁華街をひとりでうろつく。どういう手合いがからんでいくかが想像できる。
 とくに小百合の行く手にあてはない。しかし、仙田は海南市の繁華街へ向かって小走りしていた。走りながら状況を整理する。
 母親は、いつもと違うこぎれいな姿で家を出る。スーパーでパートをしているが、あの様子ではこれからパートに行くとは思えない。元旦から同窓会や新年会というのも聞かない。人目を忍んでだれかに会いに行くのか。朝っぱらから。ま、夫があの調子ではわからないでもないが。
 父親は、本人の話では徹夜で飲んでいる。スルメイカにマヨネーズと醤油をつけて、日本酒を飲んでいた。何本も空の一升瓶が転がっていた。そのうちのいくつかは、ついさっきまで中身が入っていたと思われる。きょうが七日。大晦日からずっとというのは大げさだとしても、連日酒が尽きなかったことは想像できる。
 ひとり娘の小百合はいない。これが最大の問題だ。知的発達に特徴のある11歳の女の子が、両親に保護されることなく、所在がわからない。もしも健常のこどもだったら、俺はここまで探すだろうか。小百合には善悪の判断や、損得の計算ができない。気持ちいいこと、嬉しいことがあれば、無条件でそれらを受け入れてしまうだろう。だから、探しに行くのか。
「いや、それは関係ない」
 行く手に、JRの駅が見えてきた。バスとタクシーのロータリーから道が放射状に伸びている。そのうちの一つ、ゲームセンターやコンビニ、ファミレスが並ぶ太いバス道路へ、仙田の足は向かった。

1月7日・午前8時30分・職員室

 職員室は縦長の構造だ。
 短い辺の壁に、大きな黒板が埋め込まれている。その黒板を背にして、校長と教頭の席がある。教職員は、長い辺の壁に平行に各自の机を並べている。だから、校長と教頭の机と教職員の机は垂直の関係になる。校長と教頭は、職員室の端から、教職員たちの横顔を見ながら執務しているのだ。
 教職員たちの机は、担当する学年ごとにかためられている。校長と教頭の机に近いところは6年担任のシマだ。
 ちょうど、教頭の井桁のまん前が6年1組の担任である浅葉の席だ。浅葉は出勤してからずっと研究紀要に目を通している。
 井桁は、前日に女性教員の佐藤から浅葉に飲み会でセクハラを受けたことを告白された。職員室の中ほどにある佐藤の席。井桁は、自分の仕事をするふりをして、佐藤に気を配る。佐藤は、着席してからずっと何度もため息をつき、何もしていない。寝不足なのか、目が腫れている。
「教頭先生、来月の上旬に研究発表会があるので、出張に入れておいてください」
 浅葉が、スチール製の回転椅子を動かして井桁にからだを向けた。
「そんな招請状が来ていたかしら」
 井桁は、佐藤の苦悶を想像し、浅葉への怒りを表情に出さないように苦労する。
「いや、ここの研究発表会だから、委員会からの招請状はないと思います」
 浅葉は、ここと言いながら、私立カルディア学園の研究発表会の紀要を指差す。
「私立学校の研究会は、校長の許可がないと出張扱いにはならないのよ」
 それぐらいのこと、あなたが知らないはずはないでしょ。ついつい井桁の言葉はきつくなってしまう。浅葉は、整髪剤で湿っている前髪を手のひらで軽く抑えながら、笑みをこぼす。
「もちろん、校長先生には許可をとってありますよ」
「わかったわ。時間と場所をメモしてくれるかしら」
「ここに書いてありますよ」
 浅葉は、カルディア学園の研究紀要を井桁の机上に乗せた。
 本来、教員の出張は、教育委員会が主管する研究会や連絡会に参加することを意味する。まず学校長宛に招請状が届く。それに校長が目を通す。出張の必要があると判断したとき、招請対象の教員に出張命令が出る。教員は、出張命令簿を作成して出張に行く。
 とても役所的で、面倒な手続きを踏む。出張には旅費が出るので、扱いは段階を踏む。しかし、私立学校や民間教育団体の主催する研究会や研修会への参加は、招請状が届かないので、自費で参加するのが一般的だ。にもかかわらず、校長は浅葉の研究会参加を出張扱いにしたという。それぐらいの権限は校長に認められてはいるので不思議なことではない。しかし、3月で定年を迎える校長の天下り先としてささやかれるカルディア学園の研究会に、浅葉が参加することは、何かのつながりを疑わざるをえない。
 井桁は、2月の出張予定のエクセルファイルに、浅葉の研究会参加を入力しながら、同じ内容を自分のメモ帳にもペン書きした。

1月7日・午前9時30分・海南駅周辺

 海南駅周辺の繁華街を一周した。
 仙田は時計を見る。すでに勤務時間帯だ。家庭訪問をしてからの出勤は事前に井桁に伝えてある。やや遅れての出勤を井桁はどう読むだろうか。
 河鹿の野郎。きょう来てなかったら、ただじゃおかねぇ。
 仙田が探している山尾小百合は、そもそも河鹿が担当しているこどもなのだ。
 ふっと、視界の片隅にショートヘアの小百合が映った。どこだ、周辺を見渡す。昔からのゲームセンターだ。自動ドアが開いた瞬間に、なかにいた小百合の姿が見えたのだ。
 仙田は、小走りでゲームセンターの自動ドアを抜けた。店内には、コンピュータゲームの電子音が響き渡る。タバコの煙が充満している。小百合は、コインを使って遊ぶ競馬ゲームを見ていた。周囲に、私服を着ているが、明らかに中学生と思われる男が2人いた。ひょろりと背が高い長髪と、小太りで背が低い短髪だ。仙田は、迷うことなく小百合の後ろから近づき、左腕の二の腕をつかんだ。小百合は、びっくりした顔をしたが、声は出さなかった。ゆっくり振り返ると、仙田の顔を認めた。
 こんなところで、センセー、何をしているの。
 あどけない瞳がそう語っている。
「帰るぞ」
 あまり強い調子にならないように配慮して、仙田は小百合に告げた。「うん」こくりと小百合はうなずく。
「おっちゃん、待ちなよ」
 短髪が、いきがって仙田の前に立つ。タバコをくわえたままだ。仙田は、唇の端をちょっと上げて、いきなり短髪の口からタバコを引き抜き、右目一センチ手前に火種を近づけた。
 うぉ。短髪のまつげがちりちりとこげた。
 競馬ゲームに興じていた長髪が、椅子から降りた。
「俺のダチとスケに用があんのかよぉ」
 背の高さは、仙田よりも高い。右手の人差し指を突き出して、仙田の左肩を突こうとした。
「甘いな」
 仙田は、長髪の人差し指を左手で握り、そのまま体重を上から下にかけた。一瞬のことだった。ポキッ、人差し指の第二関節が外れる音がした。
 ぎゃぁ、長髪は床に転がった。
 目が見えねぇと叫び続ける短髪と、骨が折れたと泣きじゃくる長髪を背にして、仙田は小百合の腕をつかんでゲームセンターを出た。小百合は、何が起こっているのか、これから何が起こるのか、まったく興味がない表情のまま仙田に腕をとられていた。
 駅のロータリーに来た。仙田は腕を放した。やや後ろを小百合が歩く。
「ひとりで駅に来ちゃ、いけない」
「はい」
 背中で、小百合の明るい声が聞こえる。
「あしたから学校に来ます」
「はい、はい。そっかぁ、学校が始まるんだね」
 さっきよりも明るい声が聞こえた。

1月7日・午前10時・校長室

 佐藤は、扉の手前で深呼吸をした。
 朝のうちに相談したいことがあると校長の鶴湯には伝えてある。そのときに、10時に来いと言われたのだ。3学期を前にした授業の準備をしなければいけないのに、職員室にいても、仕事が手につかなかった。
 まして、自分の席からは離れているが、同じ職員室に浅葉が何食わぬ顔でいることが許せなかった。手首や唇が、知らないうちに、わなわなと震えている。恐れと怒りが、こころのなかで渦を巻いていく。
 やっと10時になったのだ。
「失礼します」
 校長室の扉を手の甲で軽くノックして、佐藤はドアを押した。
「どうぞ」
 校長の鶴湯の声がした。
 佐藤は校長室に入る。窓に近い大きな机で、鶴湯はパソコンに何かを打ち込んでいた。あしたから新学期が始まるので、学校便りの原稿でも打ち込んでいるのだろう。佐藤は、想像しながら、来客用の応接セットの脇に立っている。
「相談したいことって、どんなことですか」
 どうやら、ソファに座って話を聞くつもりはないらしい。
 仕方なく、佐藤は応接セットを横切って、校長と事務机をはさんで正対した。
「あの、相談というのは、浅葉先生のことです」
 意外だったのか、鶴湯の目が軽く見開かれたような気がした。パソコンのモニターを倒して、鶴湯は佐藤を見上げた。
「浅葉先生が、どうかしましたか」
 言いにくそうに、佐藤はうつむき、唇をかむ。異変に気づいた鶴湯が、沈黙を破った。
「そちらに座りましょう」
 応接セットを指差した。
「わたし、12月の忘年会で浅葉先生にいやなことをされたんです」
 ソファに浅く腰掛けて、佐藤は思い切って口を開いた。きのう、この一言で、教頭の井桁は、瞬時にすべてを察してくれた。
 浅葉は、教員の世界では有名なセクシャル・ハラスメント男なのだ。酔ったはずみでからだを触られた女性は数限りない。
 多少、驚きの表情を浮かべているものの、鶴湯はまだ佐藤の真意をつかめないでいるらしい。仕方なく、佐藤は思い出したくもない忘年会での出来事を、話さなければならなかった。
 執拗にからだを触る浅葉。はじめは冗談かと思っていたが、次第に指の力は強く、眼光は鋭くなった。酒に酔っているだけで、ここまではできないだろう。このひとは、酒に酔ったという言い訳を使って、セクハラを抑制できないこころのひとなのだ。
 そう気づいたときには遅かった。

 話し終えたとき、佐藤の頬にはいく筋もの涙のあとができていた。
 それをハンカチでぬぐう。
 鶴湯は、深くため息をついた。
「浅葉先生には、困ったものです」
 その言葉を聞いて、佐藤は、校長も力になってくれると思った。完全に涙をぬぐって、ハンカチをポケットにしまう。
「あしたから、3学期が始まりますが、何もやる気が出ないんです。正直なところ、あしたの朝、出勤しようと思えるかどうかもわかりません」
 これは、正直な気持ちだった。助けを求めようとしているのではない。本当に、何もやる気が出ないのだ。
 鶴湯は、腕を組んで、姿勢を正した。
「わたしから、浅葉先生には二度と同じことをしないようにきつく指導しておきます。だから、佐藤先生は、何も心配しないで、あしたからの仕事をお願いします」
 きのう、教頭の井桁は、気持ちが落ち着くまで休んでもいいと心配してくれた。しかし、あともう少しで今年度が終わるというのに、ここで仕事を休んだら、クラスのこどもにも親にも迷惑をかけるから、それはできないと佐藤は拒んだ。だから、校長の言い分はわかる。
「わたしは、浅葉先生にきちんと謝ってほしいんです。きっと先生は、わたしが苦しんでいることを何もわかってないんだと思います。だから、忘年会から何日も経つのに、一言も謝罪の言葉はありません」
「そうですか。ま、そこんとこも含めて、きちんと指導しましょう。だから、安心してください」
 佐藤は、立ち上がり、校長に頭を下げた。
 校長の鶴湯も、立ち上がる。
「一応、確認のためですが、佐藤先生は一方的にセクハラみたいなことをされたんですよね」
 少し、気持ちが明るくなっていた。その気持ちが一気にどよんと闇に包まれた。
「どういうことですか」
 口調が厳しくなってしまったことに、佐藤は気づいた。
「いえ、気にしないでください。ただ、浅葉先生にも言い分というものがあると思うので、聞いてみたら、微妙なところで佐藤先生のお話と食い違うところがあるかもしれないとね」
 拳をぎゅっと握り締めた。
「もしも、浅葉先生がそんなことをしていないと言ったら、それを信じるということですか」
「何もそんな極端なことは言ってないでしょ。ま、落ち着いて、大丈夫、大丈夫」
 何が大丈夫なのか、佐藤にはわからなくなった。
「失礼します」
 もう一度、頭を下げて、鶴湯に背中を向けた。

1月7日・午前10時30分・女子更衣室

 その部屋は、扉がしまっている。
 それでも、廊下には、部屋のなかから嗚咽が漏れてきた。
 ドアノブに手をかけた比翼は、わざと音を立てて、ノブを回した。
「入るわよ」
 きょうは、出勤日ではない。だから、何時に学校に来ても問題はない。しかし、昨晩、教頭の井桁から佐藤の話を聞き、心配になっていた。
 特学「海風学級」の介助員として、教材の準備やおとなの茶菓子の補充をする名目を思いついた。
 女子更衣室は、縦長のスチール製のロッカーが壁に並んでいる。もっとも奥に窓があるが、擦りガラスで外からは見えない。ひとが着替える空間はあまり広くない。介助員の比翼のロッカーは、扉に近いところだ。
 窓の手前のベンチに、佐藤が座っていた。
 ハンカチで目頭を押さえ、上下する横隔膜を必死にこらえている。口を真一文字に結び、声や息を漏らすまいとしているのだ。
 比翼は、事情を察している。しかし、佐藤は自分のことを比翼が知っているとは思っていない。一般的な対応をするのが自然だ。
「佐藤さん、大丈夫かな」
 どうしたのとは、聞けなかった。
 佐藤は、顔を比翼には向けないで、二度頭を上下させた。
 比翼は、着替えをする。それ以上のことを尋ねるのは残酷だ。静かに更衣室を出た。向かうのは職員室。
 教頭の井桁を呼ぼう。呼ぶしかない。
 11時が近づいていた。職員室には限られた職員しかいない。多くの職員は、それぞれの持ち場で、あしたからの3学期開始に備えた準備をしているのだ。
 教頭の井桁は、職員室の端にある自分の机でパソコンに向かっている。
「あれ」
 職員室に入ってきた比翼を見て、井桁が小さく驚く。眉間に皺を寄せて、唇だけで「どうしたの?」と聞く。
 比翼は、いったん自分の執務机に座る。ピンクのポストイットを取り出してボールペンでメモを取る。それを手のひらに包み、井桁のパソコンのモニターに貼り付けた。
「すぐに更衣室へ。佐藤さん、あぶない」
 メモを読んだ。井桁はあわてて立ち上がった。急にスチール製の回転椅子を引いたので、背中側にある壁に椅子がぶつかった。その衝撃音が職員室に響く。
 反対側の壁際に魔法瓶が置かれている。小さな声で話していた校長と浅葉が、驚いて教頭を見た。しかし、大したことではないと気づき、再び内密の話を続けた。
「だから、それは誤解ですよ」
「そういうわけにはいかないだろ」
「謝ればいいんだよ」
「なんで、誤解なのに、謝る必要があるんですか」
「ここじゃ、埒が明かない。続きは、今夜、網元な」
 席に戻った比翼の耳に、声をひそめたはずのふたりの会話が届いていた。

1月7日・午前11時45分・ゆうひ

 仙田は、カウンターでノンアルコールビールを飲んでいた。
「仙ちゃん、ってことは、午後も仕事なの」
 ゆうひのマスター、地久淳がランチメニューを盛り付けている。きょうは、妻の桜が厨房に入っている。
「残念ながら、そういうこと」
 細長いグラスに注いだノンアルコールビールを一気に半分飲み干す。
「でも、見た目にはビールみたいじゃん。どう?酔える?」
「わけ、ないでしょ」
 仙田は、カウンターの端から折りたたまれた新聞を取る。社会面を開く。
「奈良県で、5歳の男児が、母親に暴行されて死亡」
「千葉県で、4歳の女児が、継父に暴行されて死亡」
 いきなり虐待事件のニュースが目に飛び込む。
 けさ、早い時間に海風学級に在籍しているふたりのこどもの家庭訪問をしてきた。結果的には、どちらも生きていた。しかし、両方とも明らかに親の育児放棄状態だった。
「ネグレクト」
 ぼそっとつぶやいた言葉を、淳が耳にした。
「ネックレス?だれかにやるわけ」
「あほ、そんなひとがいたら、とっくに紹介してるよ」
「そりゃ、そうだ」
 ドアが開いた鈴の音がした。
「あけましておめでとうございます」
 河鹿蛍。25歳。男性。仙田といっしょに特別支援学級「海風学級」の担任をする。大学を卒業してすぐに教員採用試験に合格。新採用から特別支援学級の担任という異例の赴任だった。
「仙さんもいたんですか」
「いたんですかじゃねえだろ。6日から出ろって、言ってあっただろうが」
「あれ、そうでしたっけ?」
「これだもんなぁ」
 河鹿は、悪びれる様子もなく紙袋を淳に差し出した。
「きのうまで、実家に帰っていました。これ、お土産です」
「ありがとう、お、山形の銘酒だね」
 河鹿の実家は山形の寒河江だ。
「仙さんこそ、昼間っからビールなんて飲んでて、余裕ですね」
 仙田は、河鹿の頭をはたく真似をする。
「余裕があったら、本物を飲んでるよ」

1月7日・午後1時30分・海風学級

 仙田は、ロッカーの中から洗濯物を入れるかごを取り出す。プラスティックでできたかごには、仙田が担当している雑賀拓郎の勉強道具が入っている。
「百均で、クリアケースが大量にあったから、まとめて買っといたぜ。棚にあるから、自由に使っていいよ」
「助かります。ありがとうございます」
 観音開きの棚から、河鹿がクリアケースを取り出す。
 特別支援学級では、教科書にそった学習をしなくてよい。脳の発達に特徴のあるこどもたちが在籍している学級なので、それぞれの成長にあった学習をすることが、法律で認められている。
 だから、逆に言えば、教科書のように使いまわしのできる教材がない。いつも、自分が担当するこどもに応じた学習を計画し、それに必要な教材を用意しなければいけない。これを怠ると、こどもは何をしていいかわからなくなり、一日を無駄に過ごすことになる。
 仙田は、かごのなかに拓郎の教材を6つ用意してある。文字、計算、ひも、磁石などのオリジナル教材が一つずつクリアケースに収納されている。
 だいたい同じ教材を三ヶ月継続し、習得が見られたら、内容を発展させる。反対に、三ヶ月経っても、変化がなかったら、ばっさり捨てる。こどもには不向きな教材だったということだ。無駄な三ヶ月を過ごさせてしまうので、教材作りは重要だ。
 それを、三年間も河鹿に指導しているのだが、なかなかしみこまない。すぐに「仙さん、なんかおもしろいネタありませんか」とひとを頼りにする。
 毎年、新採用の何割かがこころを病むという。
 教員全体の何割かも、こころを病んで休職するという。
 周囲の期待に応じようとする気持ちが強すぎる。主張の強い親や指導の入らないこどもを担当すると「こんなはずじゃない」と頑張りすぎて、疲れ果てる。
 だから、河鹿のように、適当に息を抜き、適当にやる気を持っている程度がちょうどいいのだろうと、仙田は思う。
「小百合に、5までの数量一致を始めようと思うんですけど、どんな教材がいいでしょうかね」
「少しは自分で考えろ」
「でも、俺があれこれ考え、ちまちま作り、仙さんに見せ、合格印をもらったのって、この三年間で片手もないんですよ。だったら、始めから聞いちゃったほうが時間の短縮になると思うんですよね」
「たしかに、お前はセンスがないからなぁ」
「あれ、そういう言い方は傷つくなぁ」
「こんな無駄話してないで、さっさと作ってみろ。少しはヒントをやるよ」

 河鹿は、画用紙や工作用紙が収納されている棚から、色の違う紙を数枚取り出した。鍵をかけ、ふだんこどもが開けられない棚から、はさみとのりを探す。
 自分用の指導に使う事務用品が入っているかごから、ボールペンと定規を抜いた。
「さてと、準備はできました」
「お前、数量一致って、そもそも小百合のレディネスはどうなってんだよ」
「とりあえず、1から5までは数えられます」
「下りは」
「5から1までも、間違えません」
「序数の唱えは5まで理解しているってことだな」
「おそらく」
「あほ、担当がおそらくじゃ、だれが評価するんだよ」
「たまーに、3と4が入れ替わります」
「不完全だな。同時平行するしかないな」
「了解」
「数唱(数を声に出して言うこと)するときに、数字とマッチングさせているか」
「春からやってきました」
「マッチングはできているのか」
「まぁ、ほぼ」
「なんだか、あやしいなぁ」
 マッチングとは、一致のことだ。声に出して「いち」と言いながら、1と書いてあるカードを手にする。これが間違いなくできると、脳は1という数字と「いち」という音を一致させる力をつけたことになる。「いち」と言いながら、5のカードを手にしたら、まだマッチングは成立していない。間違えても怒らずに、何度も正しいやり方を教えていく。間違いを放置すると、マッチングは成立しない。必ず正しいやり方を教えなければいけない。
 河鹿は、そのあたりの手を抜いていると、仙田は見破る。
「量の具体物は何を使うつもりだ」
「画用紙を丸く切り取ろうかと思います」
「そんなのつまんねぇよ」
「出たぁー、仙さんのつまんねぇー理論」
「お前、この道に入って三年も経っているんだから、そろそろこどもがワクワクするような具体物を考えろ」
「そんなことを言っても、思いつかないんです」
「おはじき、ビー球、ビーズ、マグネット、サイコロ、ピンポン玉。俺なんか、瞬間的に、こんだけ思い浮かぶぞ」
「恐れ入りました」
「感心してないで、考えろ」
「じゃぁ、麦チョコなんてどうですか」
「お、なかなかいいじゃん。あれはいいねぇ」
「当たりですか、買ってきますよ」
「でも、あれはダメだ」
「えー、どうしてですか」
「やったことがある。ほぼ、間違いなくこどもたちは喰っちまうんだよ。マッチングに持っていけないんだ」

 結局、河鹿はポポンSの空瓶を5つ用意し、ふたに1から5までの数字を書いた。
 次に、大きさの同じビー玉を15個用意し、小さな巾着に入れた。
 このセットは、クリアケースには入らないので、金属の缶を用意して、そのなかに入れた。ふたにはマジックで「かぞえていれます」と書いた。
「わーい、できたできた」
 河鹿は、新しい数量マッチング教材を小百合のかごに入れた。
「実際にやってみて、うまくいかないときは、わかってんだろうな」
「はいはい。悪いのはこどもではなくて、指導方法か教材そのものだから、改良を重ねるんですよね」
「合格」
 海風学級の職員室には、流しやガスコンロがある。さっきから掃除をしていた比翼が、沸騰したやかんのお湯を大きな急須に注いでいた。
「少し休んでお茶にしましょう」
 仙田は、こどもの机を3つ合わせて、即席休憩所を作った。
 河鹿は、米どころ庄内平野の濃い口醤油せんべいの封を切る。
 教室内に、緑茶とせんべいの香りが広がった。
「いただきます」
 仙田は、比翼に礼を言う。
「きょうって、カゴちゃんは休みじゃないのかな」
 比翼の名前はカタカナのカゴメだ。
「そうそう、きょうはボランティアよ」
「申し訳ないなぁ」
 仙田と比翼におかまいなしに、ばりばり音を立てて、河鹿がせんべいを食べている。
「拓郎くんと小百合ちゃんは、どうしているかしら」
 湯飲みを両手で包み、比翼がふーっと湯気に息を吹きかける。
「けさ、家庭訪問してきました」
「仙さん、はふがでふね」
 せんべいが口の中にある河鹿の日本語はあやしい。
「拓郎は、ひとり、こたつで寝てました。小百合がやばくて、町で保護しました」
 え、ゴホゴホ。せんべいで誤嚥するのは、かなり苦しい。河鹿の目が充血する。
「保護って」
 比翼が、心配そうに眉間を寄せる。

 仙田は、けさ、山尾小百合の家庭訪問をしたときの様子を話した。
「仙さん、ゲーセンで中学生に暴力を振るってきたんですか」
 河鹿には、自分の担当しているこどもの身の危険よりも、仙田が中学生にしたことのほうが気にかかるらしい。
「暴力なんて大げさだよ。ちょいと指の関節を外してあげただけ。すぐに元通りにすれば、一ヶ月ぐらいですぐに治るって」
「そんなことして、警察や教育委員会に親が文句を言ったらどうするんですか」
「どうするもこうするも、あんなやつらの親が文句を言えた義理かって、逆襲してやるよ」
 比翼が、空になった仙田の湯飲みに急須を傾ける。
「家に連れて帰った後は、どうしましたか」
 さすが、カゴちゃんは、大事なところを押さえてくれる。河鹿を横目で睨む。
「相変わらず父親が口の端からよだれをたらして寝ていたよ。一応、頬を張ってたたき起こし、小百合を届けてきた」
「頬を張ってって、仙さんはお父さんをビンタしたんですか」
 河鹿は、目を丸くしている。
「どうして、お前はそうやって、自分に理解しやすいように、言葉を置き換えるんだ。ビンタじゃねえよ。寝ている父親を起こすために、頬を手のひらではたいたの」
「そ、そ、それをビンタっていうんじゃないんですか」
「ま、どうだっていいや。それより、準備が終わったら、お前、当然、午後は小百合んとこ、見てこいよ。あの様子じゃ、母親は遅くならねえと帰ってこない。きっと小百合はまたふらっと家を出てしまう」
「もちろん、行きますよ。でも、またいなかったら、どうすればいいでしょう」
「あほ、探すに決まってんだろ、ここで考えろ」
 仙田は、人差し指をこめかみにあてる。
 休憩を終えようとした。比翼が、お盆に三つの湯飲みを乗せている。
「わたし、ちょっと気になることがあるんだけど」
 比翼が、仙田にからだを向ける。
「ん」
「仙ちゃん、きょう、職員室で佐藤先生に会ったかしら」
「あー、3学期も拓郎の交流をよろしくって、挨拶ぐらいはしたよ」
「そのとき、佐藤先生に何か変わった様子はなかった。というか、何かを仙ちゃんに相談しようとしていなかったかな」
 仙田は、思い出そうとした。
「きのうだったかなぁ、ゆうひで飯を食っているときに、教頭といっしょにいたのが佐藤さんだった気がする。あのときは、なんか深刻そうだったけど、さっき会ったときは、普通だったような」

1月7日・午後2時・廊下

 多谷宗平は、朝から佐藤の様子が気になっていた。
 職員室で初めて顔を合わせたときから、佐藤の表情に血の気がないことを感じていた。
 多谷は、23歳。教員になって2年目だった。ことしは5年生を担任している。去年、新採用で右も左もわからないとき、何度も先輩教師の佐藤が助けてくれた。
 ふたりきりで、ゆうひで夕飯を食べたこともある。
 30歳の佐藤にしれみれば、多谷は弟よりも若い存在だった。だから、きっと男性として意識するよりも、大きな男の子のような距離だったのだろう。しかし、多谷にとっての佐藤は、単純に同じ職場の先輩教師とは思えなくなっていた。7歳という年齢差は、佐藤をとてもおとなにしていた。どんなことでも頼りになり、女性としての魅力も十分な存在だったのだ。
 だから、2学期の終わりに冬休みに入るとき、何度も年末年始のプライベートな時間をいっしょに過ごしたいと願った。もしかしたら、佐藤から誘いがないかと期待した。
 しかし、そんな期待ははかなく消えた。どんなに待てど暮らせど、佐藤から多谷に連絡はなかった。年賀状さえなかった。
 失恋にもならない。一方的な思い。それが好意なのか、恋なのか。コーイなのか、コイなのか。一本、棒があるかないか。悶々としながら、きょう出勤して佐藤に会えることを意識していた。
 だから、佐藤のほんの少しの変化にも敏感だったのだ。
 いったいどうしたのだろう。午前中、職員室で事務仕事をしていても、多谷は何度も佐藤を盗み見てばかりいた。とくに10時ごろに校長室に入っていったときは、注視した。しばらくして泣きそうな顔で校長室から佐藤が戻ってきたときには、抱きかかえて「何があったんですか。話してください」と行動しようかと思った。
 しかし、多谷にはそれができない。周囲の目が気になる。教頭や校長に悪く思われたくない。探偵のように、佐藤の行動を追跡した。女子更衣室にこもったので、男子更衣室に入った。男女の更衣室は、もともと同じ部屋の真ん中についたてを壁にしただけの構造だ。声は筒抜けになる。
 息を殺して、女子更衣室の様子をうかがう。やがて、多谷の耳にはっきりと、佐藤のすすり泣く声が聞こえてきた。ときどき嗚咽も混ざった。理由がわからない多谷は混乱した。自分がどうすればいいのか、判断できず、ただひたすら佐藤の悲しみを感じていた。そのうちに、だれかが女子更衣室に入った。
「佐藤さん、どうしたのかな」
 聞いたことがある声だった。たしか、海風学級の比翼さんの声だ。
 しばらくすると、比翼が出て行く。次に、明らかに更衣室に飛び込んできたひとの音。
「何があったの」
 大きな声。教頭の声だ。
「こんなところで泣いていたらだめ。行きましょう」
 ドアが閉まる音。となりの部屋からひとの気配が消えた。多谷は一部始終を聞いていた。全身を耳にして聞いていた。しかし、何もできなかった。しなかった。
 だから、比翼に尋ねてみようと思って、海風学級に足を運んだ。開け放たれたドア。なかから、仙田や河鹿、比翼の話し声が聞こえた。
 ここでも、多谷は廊下で聞き耳を立てていた。

1月7日・午後4時・山尾小百合のアパート

 河鹿は、ドアのノブに手をかけた。
 鍵はかかっていない。ノブはかんたんに回り、ドアは開いた。
「山尾さーん。海風学級の河鹿でーす」
 近隣に、自分が不審者ではないことを知らせるために、わざと大きな声を出す。家庭訪問の基本原則だ。
 部屋のなかには、ひとの気配はなかった。タバコと酒と、醤油のにおいが残っている。河鹿の鼻がもっとよければ、それにカビの臭いも追加されているはずだ。
「やっべー」
 親がいないことは、この際、どうでもいい。
 こどもがいないことが問題なのだ。
 家族全員がいない。一般的には、家族で食事や買い物に行ったと想像できる。しかし、山尾の家に限ってそれは考えられない。
 母親は、化粧と装飾品で着飾って朝から、夫以外の男の元へ。
 父親は、統合失調症と戦いながらも、薬や酒におぼれる生活。
 一人娘の小百合には、脳の知的発達に特徴がある。
 日本社会には、この家庭を救う手立てがない。生活保護は、子育てに使われているとは思えない。療育保護ですら、酒や化粧品に消えているのだ。
 しかし、事件にならない限り、警察も児童相談所も、こどもを親から隔離しない。憲法や法律が、親権を厳しく保護しているからだ。勝手に親権を損ねるようなことをすると、裁判になったときに面倒だ。
 児童虐待で、幼児やこどもが親に殺される。メディアは「どうしてもっと早く学校や児童相談所が対応できなかったのか」「日常的な虐待を知っていたのに、学校や児童相談所は問題を放置した」と騒ぎ立てる。
 ふん。
 河鹿は、小百合を探すために、コーポ・オーシャンの階段を降りた。降りながら、そういうメディアの偽の正義に鼻を鳴らす。家族のことに、行政権力が介入することを、法律でカバーするよのなかを作ってから、文句を言えと。
 学校では、仙田から佐藤の一件について探りを入れるように指示された。
「そもそも、あれは仙さんが比翼さんに質問されたことなのに」
 佐藤の様子がおかしくないかと仙田が聞かれたのだ。
「そういうことには、俺は興味がないから、こいつを使ってください」
 比翼は、河鹿に同じ質問をすることになった。
「きょうきたばかりのボクには、どういうことかわからないけど、やってみるだけやってみます」
 言ってしまったのだ。ちょっと探ればわかるだろうと思っていた。しかし、職員室に行ったら、佐藤はおろか、教頭もいない。午後になっているというのに、ふたりとも戻ってこない。待っていてもしょうがないから、小百合の家庭訪問を先に片づけることにした。
 そうしたら、小百合もいなかった。
「あー、あしたから学校が始まるというのに、みんなどこに消えやがった」
 大きな独り言になった。

1月7日・午後6時・丹野邸

 海辺の町、海風町には日没のぎりぎりまで太陽の光が注ぐ。それでも、この時期の午後6時には、あたりはすっかり暗くなる。民家もレストランも照明をつける。
 丹野雪は、自分の部屋にいた。二階の部屋の窓には、相模湾が見える。シャッター式の雨戸はまだ閉めていない。レースのカーテンも開いたままだ。その大きな窓にぴったり寄せたベッドの上で、雪は波を見ていた。照明のスイッチは入っていない。わずかな外の光が、雪の顔を照らしている。
「入るわよ」
 有無を言わさず、母親の幸が入室した。雪は微動だにしない。
 窓の外にからだを向けている雪。その後ろに幸が立つ。
「きのう、校長先生に相談して、少し気持ちが落ち着いたかしら」
 雪は、母親の言葉を無視した。頭のなかには、校長の鶴湯の声がよみがえる。
「気にすることはないよ。ともかく学校に来れば、ほかに友だちもいるから。あとは、先生たちが何とかするからね」
 こいつじゃだめだと、確信した。
「ねぇ、雪ちゃん。校長先生もああ言ってくださったし、まだ心配なことでもあるの」
 こいつもだめだと、雪は背中の母親を見下し始めている。
「なんなら、あした学校に行くときに、お母さんもいっしょに行って、浅葉先生に相談してもいいのよ。担任の先生なら、クラスのこともわかっているし、問題の解決も早いんじゃないかしら」
 雪は、ゆっくりからだを幸に向けた。少し、幸があごを引いた。
「わたしは、いま、ものすごく、すっきりしているの」
 幸はまばたきをした。雪の言っている意味がわからない。
「ど、どういうこと」
「あの子たちに仲間はずれにされて、陰で笑われて、馬鹿にされて、苦しかった。悲しかった。死んでしまいたいと思った。どうして、わたしだけが、こんなひどいことをされなきゃいけないのって」
 雪は涙を流していない。幸の目頭が熱くなる。
「だから、もうあんなところに行かなくてすむって思うだけで、嬉しいのよ」
「そんなぁ」
「きっと、お母さんはわたしが学校に行かなかったら、ずっとこの部屋にいて、勉強しないで、バカになって、運動しないから太って、わがままになって、そんなの困るから、学校に行ってほしいんでしょう」
「そんなこと言うわけ、ないじゃないの」
「じゃぁ、なんで学校に行けって言うのよ」
 雪の言葉に力がこもった。幸の眉間に皺が寄る。
「言っておくけど、お父さんがいないこととは関係ないからね。すぐにお母さんは、そのことを持ち出すけど、わたしには関係ないことなんだから、わたしに努力させようとしないでほしい。この家に住めるのは、別れても、お父さんがローンを半分支払っているからでしょう。残りをお母さんが働いて払うのは当然じゃないの。自分だけが不幸者みたいな言い方は、もう聞きたくない」

 幸は、娘の雪が、考えていたことを知らなかった。夫婦が離婚し、妻が一人娘を引き取った。生活の支えについては、離婚の際に協議して決めた。
 雪がまだ小学校に入る前だった。
 だから、12歳になった雪が、友人関係で悩み、ひとりでもがき苦しんでいたことを知ったとき、いじめ問題を解決すれば、雪の苦しみは消えると思った。これまで、誕生日やお正月、大晦日や進級の折に、幸は雪に「いつもお母さんは働いているから、雪の面倒を見れなくてごめんね。でも一生懸命働いて、雪を幸せにするからね。だから、雪も寂しいことがあるかもしれないけど、がんばって」と告げてきた。そんな励ましが、雪には押しつけになっていたとは気づかなかった。
「雪ちゃんが、つらかったとき、気づけなくて、ごめんなさい」
 幸の頬を一筋の涙が伝った。雪は顔を上げた。
「わたしは、もう学校に行かないって決めた自分をえらいと思っているんだ」
「どうして、学校に行かないのがえらいの」
「学校に行かないのがえらいんじゃなくて、死にたくなるほどつらいことがあったのに、死んじゃうことを選ばないで、生きることを選んだ自分がえらいと思っているのよ」
「学校に行くのって、そんなに死ぬほどつらいことなの」
「学校に行くのがつらいんじゃないんだよ。海風小学校の6年1組で起こっていることが、わたしにとっては死ぬほどつらいことなの。それなのに、お母さんはわたしが決めたことを間違いだと思っているみたい」
「だって、勉強とか、お友だちとか、お別れ遠足とか、どうするつもりなの」
 ふっと、雪が口の端を上げる。
「やっぱりね、本音はそこでしょう。死にたくなるほどつらいことがある教室で勉強なんかしても、身につかないと思わないの。そんな教室で友だちなんかできないよ。遠足なんか行ってもひとりぼっちに決まってるじゃん」
 それでも、幸は雪が心配でならない。
「じゃぁ、お母さんはどうすればいいのかしら」
「きのうだって、わたしがお母さんに校長先生に相談してって頼んだわけじゃないのに、勝手に行ったでしょ。どうすればいいのって言いながら、自分ではしたいことは決まっている。勝手にしていいわ。でも、わたしはいっしょに行かないからね」
「雪ちゃんは、この先、どうするつもりなの」
 雪は、初めてやわらかな瞳をした。
「そんなのすぐにはわからない。でも、時間をかけて、考える。考えたら、行動する。困ったら、だれかに相談する。自分のことを嫌いにならないうちに、あんないやなひとたちの集団から離れることを決めた自分が、いまは誇らしいんだ」
 幸は、手の甲で頬の涙のあとを拭った。
 雪は、母親がどんなに心配しても、これからは自分で決めたことを優先しようと決めていた。ただ、きょうみたいにこれからは、自分の気持ちをしっかり話してから、行動しようとも思った。大事なことを、きちんと話すのは、気持ちがいいと感じたからだ。

1月7日・午後7時・料亭「網元」

 海南駅は、駅前にタクシーとバスのロータリーがある。
 昔からあまり広くない場所に駅ができたので、一般車両がロータリーに入ると、たちまち混雑してしまう。ロータリーには、何本かの乗り入れ道路がある。そのなかでもっとも幅が広いバス道路は、海南市役所に通じる。市役所通り商店街は、その道路に面して広がる。ちょうど、市役所の正面に道路をはさんで、料亭「網元」がある。
 紺色の布に、白い文字で網元と染め抜かれたのれんが風に揺れる。
 重厚な引き戸を、校長の鶴湯が開ける。後ろから、硬い表情の浅葉が続く。
「いらっしゃい」
 屋久杉を使った一枚板。その向こうで主人が客を迎える。一枚板に面した特等席は、10席ほど。ほかの客は、座敷かテーブルになる。
「エビスビール、あります」
 壁に貼られたポスター。その下に雑誌の切抜きが貼ってある。鶴湯は目を凝らした。そこには、「湘南の幸を豊富にそろえた鮮魚専門店特集」と書かれた記事があった。いくつかの料亭や居酒屋が写真つきで紹介されている。はてな印のマジックインキで、乱暴に囲みのついた部分に、網元の紹介があった。
 まだ松の内だというのに、網元は混んでいる。
 鶴湯は、主人に指を二本出して、二席を依頼する。
 主人は、軽くうなずいて、仲居の女性に席の用意を指示した。
「お二人様。こちらへどうぞ。いつもお世話になっています」
 割烹着を着た年配の仲居が鶴湯に頭を下げる。地元で長い期間教職を続けていると、すっかり飲食店の従業員や経営者には顔を覚えられてしまう。先日、学校の忘年会でも、網元を利用させてもらったばかりだった。その忘年会で部下の浅葉が、羽目を外した。
「できれば、あまり人の声の届かない席がいいんだが」
 鶴湯は、小声で仲居に言った。
「いつも先生にはごひいきになっているので、大丈夫ですよ。ご心配なく」
 案内された席は、テーブル席だったが、ほかの席とは衝立で仕切られていた。しかも、店のなかでは隅に位置していたので、テーブル近くをほかの客が通り過ぎることはなかった。
 4人がけのテーブルに向かい合って、鶴湯と浅葉は座った。熱いタオルを仲居が渡してくれた。鶴湯はそれで顔を拭う。浅葉もそれにならう。タオルの蒸気が、乾燥気味の鶴湯の皮膚にうるおいを与える。
「お飲み物は何から始めましょうか」
「瓶ビールを二本、料理は焼き物をお任せで頼むよ」
「かしこまりました」
 仲居は、注文を反芻することも、ポータブルな機械に打ち込むこともせずに、その場を離れた。
 まだテーブルには、温度の下がった濡れタオルしかない。
 浅葉は、内面の揺れをカモフラージュさせるために、背広の胸ポケットからセブンスターを取り出した。楊枝入れのとなりにあった網元と印字されたマッチで火をつける。一服目を深く吸い込み、天井向けて煙を吐き出した。拡散された煙の粒子が、少しずつ渦を作り、重力で落下し始め、向かいに座っている鶴湯を取り巻いた。そこには、腕を組んで目を閉じた不愉快ではじけそうな表情の管理職がいた。

 仲居が瓶ビールを二本運んできた。お通しは、ブリ大根。刻んだ生姜が三本乗っている。
 浅葉は、手近なビールを取り、鶴湯のグラスに注ごうとした。
「バカ、手酌だ」
 グラスに傾きかけていたビールの先端から、いまにも黄金の液体がこぼれそうだった。どうしたものかと悩んでいる浅葉の向かいで、鶴湯は手酌ビールをすでに飲み干そうとしていた。
 どういうことだ。俺とは縁を切るってことか。
 浅葉はいぶかった。仕方がないから、自分のグラスに注ぐ。なぜか、瓶の先端がグラスに小刻みにあたり、コンコンコンと音を立てた。
「昼間のエスの件、どういうことだ」
 エスとはアルファベットのS。佐藤の頭文字だ。教員はこどもやその家族の個人情報を知る立場にあるので、学校外に出たときは、符丁をつけることが多い。同僚に関しても同じだ。
「だから、あれは完全な誤解です」
 浅葉は、一息でグラスのビールを半分は飲んでから、炭酸ガスを吐き出すのと同時に言い放つ。
「セクハラってのはなぁ、やられた側がそう思っている限り、セクハラなんだよ。やった側がどんなに誤解だ、違うって言っても通用しない。それぐらいのこと、何度も俺が社員全体に強調してきただろ」
 社員とは教職員のこと。
「だって、あのときエスは嫌がらなかったんですよ。俺のやることから逃げなかった」
 勢いよく手酌したものだから、浅葉のビールは泡だらけになった。鶴湯は、空になったグラスを見つめた。
「ということは、お前はエスに何かをしたことは認めるんだな」
 しまった、誘導か。そう気づいたときには遅かった。
 セクハラのような処分につながる行為は、やったかやらなかったかのどちらしか存在しない。やっていればアウト、やっていなければセーフ。どういうふうにやったかは問題ではない。
「エスは、お前に謝ってほしいと言っている。それさえすれば、上に訴えるとか警察沙汰にするとかは思っていないらしい」
「考えさせてください」
 鶴湯は、鼻からため息を出した。
「勘違いするな。お前は何も考えてはいけないんだ。ひたすらエスの納得がいくように謝るしかないんだぞ。偉そうに答えを留保する立場じゃないんだ」
 浅葉は若いときから、鶴湯とともに働いてきた。鶴湯がヒラのときには同じ研究部に所属して、気に入ってもらうために、お茶汲みから印刷物の用意まで何でもした。教頭になったときには、違う学校だったが、盆と正月の届け物は欠かしていない。鶴湯が主宰した個人的な教育セミナーにも自腹を切って参加した。セミナーのなかみは理解できなかったが、鶴湯の愛弟子のひとりになった。

 あの頃のことを思う。
 鶴湯は、国立大学を卒業し、親も伯父や叔母も教員というサラブレットだった。鶴湯についていけば、必ず自分も出世街道を走ることができると信じていた。だから、必死に鶴湯に近づいたのだ。
 浅葉は、高校を卒業して、民間企業に勤めた。ひとに頭を下げるのが苦手で、働きながら教員免許を取った。採用試験を受けて教員になった。コネも地盤も何もない。実力だけでのし上がれるほど、教員の世界は透明ではなかった。周囲を見渡したら、だれしもが派閥に所属し、だれしもがご主人様を奉っていた。
 鶴湯が校長になって、浅葉は海風小学校に転勤した。鶴湯の一本釣りと噂された。その噂は決して嘘ではなかった。
「俺の元で思い切りやりたいようにやれ」
 自分に反発する教員をほかの学校に追い出し、自分の息のかかった教員だけで固めていく。鶴湯の人事は、わかりやすいものだった。いつしか、海風小学校は、鶴湯王国になるはずだった。
 しかし、人事を担当する教育委員会は、そこまで露骨な人事を了承しない。微妙なパワーバランスを考慮する。どの派閥にも属さず、だれも崇めないで、わが道だけを突っ走ってきた仙田が配属されているのは、そのためだ。
「社長は、俺を切るんですか」
 派閥はもろい。膿がたまれば、全部が腐る。傷が化膿する前に、切り捨てれば、膿は出ない。
「きょう、お前んとこのマルホが来た」
 担当クラスの保護者がマルホだ。
「すみませーん、瓶をもう二本」
 やけ気味に浅葉が注文した。仲居が空の瓶を回収しに来た。鶴湯は、眉尻を下げた。
「ご主人のブリ大根はさすがだねぇ。俺は燗をひとつ」
 仲居は頭を下げて退席した。浅葉は、ひとりで瓶ビールを二本飲まなければならない。セブンスターに火をつける。一服目の吸い込みは浅くなっていた。
「だれですか」
「タン」
 あー、丹野か。一体、何を相談しに来たんだ。
「娘が登校をしないと言っているそうだ」
 浅葉は、せわしなくタバコを吸い終えると灰皿に吸殻を押しつけた。
「なんで担任の俺に相談しないで、いきなり社長なんですかね」
「お前じゃ埒が明かないからだろ。それより、こっちはどうするんだ」
「謝りますよ、セクハラについては」
「エスのことじゃない。タンについてだ」
 一瞬、浅葉は躊躇した。鶴湯は丹野とセクハラを切り離している。

 すると、丹野は鶴湯に何の相談に来たのだ。
「登校しない理由を言っていましたか」
 カマをかけた。
「それすらも知らないのか。お前のクラスのこどものことだよ。なりすましとか言ってたな」
 あっさり釣れた。
 浅葉は、こころから冷や汗が引いていくのを感じた。佐藤の件は酔っていたので、勢いだった。しかし、丹野母子については素面のときだったので、明確な意思があった。しかし、鶴湯はそのことを問題にしているわけではないらしい。
「学校が始まったらこどもたちに聞いてみますよ」
 丹野が不登校になる理由が、こども間のトラブルなら、自分は第三者の岸辺に立てる。当事者ではないのだから、着実に職務をこなせばいい。
 急に晴れ晴れしい表情になった浅葉を、鶴湯は気味の悪いものでも見るような目で眺めた。
「カルディアの件、覚えているな」
「はい」
「俺は定年と同時に再就職、お前は定年前だが勧奨退職に応じて引き抜き。そういう段取りだったな」
「そうです」
「セクハラの話や不登校の話が、先方に聞こえては困る。そうなったら、お前の件は俺は手を引く。そういうやつを向こうが採用するかどうかは、俺の判断じゃない。俺は、先方からお前の素行について訊かれたら、よけいなことは言わない。しかし、質問のなかにセクハラや不登校のことが含まれていたら、嘘はつかない。よけいなことは言わないが、質問には正しく答える」
 浅葉は、愕然とした。
「つまり、俺を売るってことですか」
 自分でも声にすごみが利いてしまったと感じた。しかし、そんなすごみにたじろぐ鶴湯ではない。
「売るとは言っていない。客が商品に関する質問をしたときには、正しく答えると言っているだけだ」
 もう勧奨退職の申請は去年の秋に済ませている。いまさら取り消すことはできない。最悪の場合は、カルディアへの引き抜きは清算されるということか。
 鶴湯は燗をあおる。
「社員がセクハラをすれば、俺だって管理能力を指摘される。そのダメージは拭えない。しかし、セクハラをした社員をかばったのがばれたら、管理能力どころか人間性が疑われる。俺の再就職までぶっ飛ぶ」
 浅葉は、悟った。鶴湯はすでに自分を切っているのだと。ならば、道連れにするまでだ。
 ちょうど、仲居が太刀魚の塩焼きを運んできた。

1月7日・午後11時57分・四畳半

 多谷は、自宅アパートで寝ていた。
 さっきから、何度も寝返りを打つ。
 綿布団を首までかけて、天井を見上げる。古い木造アパートの天井には、角材が走り、天井板を支えている。二階なので雨戸は閉めない。カーテンの向こうには、夜の闇が広がる。
「ふーっ」
 何分も前から目が冴えた。瞼を閉じると、佐藤の姿がはっきりと浮かぶ。
 昼間の光景が目に浮かぶ。詳しいつながりはわからないが、佐藤が大きなトラブルに巻き込まれていることは感じていた。何か、自分にしてあげられることはないだろうか。彼女の苦しみを自分の力で救いたい。
「でも」
 寝つけない。
 断片的な情報をつなぐと、それは校長を頂点とする浅葉などの主流派を敵にまわすことにつながるかもしれない。そんな勇気はない。これまでの多谷は、上からの指示や指導に必ず従ってきた。躊躇も疑問もなく、従順だった。それが組織で働く教員には、最低必要条件だと信じている。だから、一匹狼のような仙田のような生き方は理解できない。だから、戦争のとき、学校は生徒を戦場に送れたのではないか。政府や軍部の命令に従う以外選択肢はないのだから、よけいなことを考える必要はない。
 これまで、先輩の佐藤に世話になったことが頭のなかに浮かんでは消えていく。なのに、自分が佐藤のためにしてあげたことは思い浮かばない。ひとのために何ができるのかを秤にかけて、自分はいつも何かをされてばかりだったことに気づく。
 佐藤は、校長や教頭に命令されて自分の面倒を見てくれたのだろうか。新採用の指導教官は佐藤ではなかった。なのに、細かいところでつまづいているといつもそこには佐藤のアドバイスが届いた。たまたま職員室の机が近かったからだろうか。それとも、もっと違った感情のこもったやさしさだったのだろうか。
 教員二年目のことし、多谷は昨年度ほど佐藤から助けられることはなくなっていた。少し成長したのかもしれない。だから、もう自分の助けはいらなくなったと考えたのか。職員室の机が遠く離れたから、多谷の仕事が見えなくなったからなのか。
「だめだぁ」
 寝つけない。
 多谷は起き上がり、布団を跳ね除け、キッチンの冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の扉に並んでいるグレープフルーツ味の缶チューハイを手にした。プルトップを引く。
 豆電球の弱い光がデジタル時計を照らしている。
「あー、もう日付が変わっている」
 げっぷ。酔えば、眠れる。あしたからこどもたちが3学期の登校を始める。仕事に追われる日々が始まる。佐藤のことは心配だが、目の前の仕事を放り出すわけにはいかない。
 自分はなんて魅力のない生き方をしているのか。空になったチューハイの缶を握り締める。

1月8日・午前1時・海岸道路

 赤色灯が光っていた。
 前をゆく数台の車が、制服を着た警察官の指示に従い海岸道路の駐車場に誘導されていく。
 谷口は、ハンドルを握る手のひらに急に汗が浮かび上がるのを感じた。車は、赤色灯をつけたコーンの間を減速しながら、一つの方向に追いたてられる。まさか、深夜に検問をしているとは思っていなかった。
 谷口は、大学時代の同級生と夕方から居酒屋で飲み、10時ごろに同級生のアパートに引き上げた。そこでもウイスキーの水割りを飲んだ。新採用の忙しい一年間がもう少しで終わろうとしている。公開授業と研修出張の繰り返しで、こどもの話をまともに聞くことなどほとんどできなかった。それもあと3ヶ月で終わる。あしたから、ふたたび仕事が始まる前日に、同級生と会うことになった。
 もちろん飲酒運転がいけないことは知っている。しかし、自分はアルコールと車の運転には自信があった。そして、深夜に運転すれば問題はないだろうと考えていた。事実、ここまで眠くなることも、速度を上げすぎることもなく、安全運転してきたのだ。
 前の車のブレーキランプが光る。
 谷口も、ブレーキを踏んだ。
 前の車のドライバー側の席に懐中電灯を手にした警察官が近寄る。谷口は、その様子を瞬きをしないで見つめた。
 コンコン。
 ふと自分の窓ガラスを叩く音。そこに別の警察官がいた。複数の警察官で検問を実施していたのだ。
 たぶん、ばれる。
 谷口は、パワーウインドウを下げる。
「こんばんは。遅い時間にすいませんね。年末年始の交通安全運動を展開中なので、ちょっとご協力をお願いします」
 慇懃な挨拶だ。白いヘルメットから見える表情は穏やかだ。しかし、パワーウインドウを下げたときに車内の空気を体感した警察官の目は鋭かった。
「失礼ですが、はーっと息をはいてください。みなさんにやっていただいているんですよ。はーっと吐くだけでかまいません」
 もうすぐ、ばれる。
 かつては、公立学校の教員は採用から半年間が条件付採用期間だった。それが過ぎると正規採用になる。正規採用になると、公務員としての特権が与えられ、様々な壁に守られた。しかし、いまでは条件付採用期間は一年間に延長されている。つまり、一年目の教員は触法行為や反社会的行為、信用失墜行為などをすると、採用が取り消されてしまうのだ。
 九州で市役所職員が飲酒運転で交通事故を起こし、相手の家族が死んだ。その事故以降、公務員の飲酒運転は、全国的に制裁が厳しくなった。
 たとえ、事故を起こしていなくても、飲酒運転で検挙されれば、懲戒免職もありえるようになった。まして、谷口のように採用一年目の教員は、まだ法律上正規採用の教員ではない。
 自分に対する過信が、どんな代償になるのかを、若い谷口には想像できなかった。


二章・了

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