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ガッコー「海風」

一章

1月6日・午前9時・海風学級

 仙田は、舌打ちをした。
「ち、やっぱり河鹿の野郎、来てねぇな」
 雑貨屋「げんべい」のビーチサンダルを引っかけて、教室に入る。無人の室内には、かすかにワックスの匂いが残る。
 お、もしかして、カゴちゃんが来たのかな。
 仙田は、職員室と書かれた札の扉を開ける。小さなスペースに3つのスチール机が並んでいる。その机は3つとも横並びで、同じ方向を向いている。正面の壁には、連絡事項と書かれた木製のボードがつるしてある。そこに画鋲でメモ用紙が留めてあった。
「あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。ワックスをかけておきました。冷蔵庫に高清水を冷やしてあります。カゴメ。1月5日」
 仙田は、メモ用紙をはがして紙ごみを集めているゴミ箱に入れた。迷わず冷蔵庫を開ける。そこには、一升瓶に入った高清水の純米がよく冷えていた。
「ありがてぇ。さすが、カゴちゃん」
 仙田は、職員室を出た。プレイスペースには何も置いていない。がらんとした空間だ。フローリングされているので広さを畳み感覚で表すのは難しい。だいたい20畳というところか。
 プレイスペースの奥に男女別のトイレがある。彼はその扉を開ける。男子トイレの奥にシャワールームがある。案の定、そこにはワックスをかけるのに使ったモップとバケツが乾かしてあった。
 ここは、海風小学校の特別支援学級だ。通称、海風学級と呼ぶ。
 特別支援学級は、通常の学校のなかに開設されている。脳の発達に特徴があり、特別に配慮が必要なこどもを対象とした学級だ。特別支援学級は、通常の学級と違い、学校予算が多く使われる。教室の基準も通常教室よりも恵まれている。
 海風学級の扉を開くと、正面に広いプレイスペースがある。右側に壁があり扉が2つ。それを開けるとこどもの机と椅子のある学習スペース。左側に間仕切り天井で区切られた空間があり、その扉には職員室と書かれている。
 職員室には、冷蔵庫、ガスレンジ、カウチ、電話、コピー機、パソコン、鍵のかかる金庫がある。
 プレイスペースには、男女別のトイレ、シャワー、洗濯機、乾燥機がある。
 学習スペースには、こどもとおとなの椅子と机、学習教材を入れたかご、布や色鉛筆などの教材が収納された固定式の棚がある。
 全室、冷暖房が完備されている。
 おそらく通常の教室と比較すると、二倍以上の広さがあるだろう。

1月6日・午前9時15分・校長室

 校長の鶴湯は、校長室で私立カルディア学園の学校要覧を読んでいた。
 3月で定年を迎える鶴湯は、退職後にカルディア学園小学部の学部長に再就職することが内定している。そのことは、まだだれも知らない。カルディア学園の現在の小学部長が3月で定年を迎える。その後任に内定しているのだ。
 カルディア学園は幼稚部から高等部まで有する総合学園だ。近い将来には大学部も創設すると言われている。小学部の学部長は、公立学校で言えば校長にあたる。60歳から65歳までの任期だ。公立学校の校長を定年退職した者の天下り先として、学園の理事会がポストを用意しているのだ。わずか5年間の任期にもかかわらず、退職金は公立学校の校長を定年で退職するときの退職金とあまり変わらない。
 鶴湯は、海風町教育研究会の会長を務めている。校長会のなかで、教育研究会の会長を務めた者は、代々、私立学校の学部長ポストが提供されてきた。今回は、そのなかでたまたまカルディア学園の学部長が定年を迎えるので、鶴湯と交替することになったのだ。
 私立学校の実際の運営は、教務主任と教頭が行っているケースが多い。学部長は名誉職の意味合いが強く、児童集め、生徒集めの広告塔として、目立つ存在を掲げているのだ。
 ピーピーピー。
 校長の執務机の内線が鳴る。
「はい」
 鶴湯は、学校要覧から目を離さないで、受話器をあげた。相手は教頭の井桁知耶子だった。
「さきほど、ご連絡した児童とその保護者が来校しました」
「わかった。お通ししてください」
 鶴湯は、学校要覧を引き出しのなかにしまった。
「失礼します」
 丹野幸は、背中を丸めながら、校長室に入る。その背中に隠れるように娘の雪が続く。
「どうぞ、おかけください」
 鶴湯は、応接机の向かいに手を差し出す。丹野は、娘とふたりでソファに腰をおろした。
 グレーのジャケットに濃紺のスカートをはいた丹野は、夫と離婚し、働きながら雪を育てている。丹野も雪も、海岸沿いの町の住民としては珍しいほど、色白だった。
 血管が透けて見えそうな手の甲を見ながら、鶴湯が口を開いた。
「もうすぐ3学期が始まります。冬休みは元気にしていたかな」
雪との距離を縮めようとした。しかし、雪はその発言で逆に表情から感情を消してしまった。
 ドアをノックして、井桁がお茶を運んできた。丹野、雪、校長の三つを置いて、お盆を抱えながら、鶴湯のとなりに腰掛けた。
「ご相談したいことがあるとか」
 鶴湯は、雪との距離を縮めるのをあきらめ、丹野に要件を聞く。
「はい、あの」
 丹野は、濃紺のスカートを軽く握りながら、小さな声でささやく。目は下を向いている。
「娘が、学校に行きたくないと言いまして」

1月6日・午前9時30分・海風学級

 仙田は、受話器を持ちながらメモを書いている。
「そう、ちゃんと飯を作っているんだね。朝も、夜も。まぁ、昼はしょうがないよな。母ちゃんは働いているんだから。拓郎は生きてんだね。そんなこと言ったって、いままで何度も児相のお世話になってんじゃん。説得力ないよ、そういう言い訳は」
 大学ノートは相手の話で埋まっていく。仙田が担当している雑賀拓郎のノートだ。
「風呂は入ってるの。本当かい。信じていいわけ。ちゃんと浴槽を洗ってるかな。拓郎の仕事なの。そりゃ、無謀だよ。うまくできるわけないじゃん。事故でも起こしたらどうすんだよ。今度、抜き打ちで家庭訪問して風呂場をチェックするぞ」
 その後も、冬休み中の拓郎の生活を確認して、仙田は受話器を置いた。
 雑賀拓郎の母、博美は育児放棄で児童相談所に通告されている。いままでに何度も、強制的に拓郎は児相に引き取られた。そのたびに、博美は「今度こそまじめにします」と宣言し、拓郎を奪還した。夫は2年前に蒸発した。拓郎が7歳のときだ。そのとき、仙田は半狂乱になった博美を取り押さえ、騒ぎを聞いて駆けつけた警察官に誤解されている。
 画用紙、工作用紙、板目紙など、各種の紙が棚に入っている。そのなかから厚くて硬い板目紙を取り出す。9歳になって少し文字に興味を持ち始めた拓郎のために、きょうはひらがなの教材を作ろうと思っていた。
 拓郎の障害は情緒障害に分類されている。医師の診断名は、自閉症。知的障害を伴うカナー症候群。つまり、社会生活上の能力不全が見られ、大脳の発達に特徴が見られる。ひとつひとつの学習を何日も何日も繰り返し、たんねんにできることを積み上げていくことが必要だ。入学してからの一年間、ひたすらボタンを留める、留めたら外す訓練をしたら、2年生になったときに、初めて自力でできるようになった。それまでは、クレーンと言って、仙田が拓郎の手をつかんでボタンを留める、留めたら外す動きを覚えさせていた。
 海風学級にはもう一人在籍している。11歳になる山尾小百合だ。知的障害だが、それ以上に家庭の経済状態が悪く、親に育てられるべきものを、ほとんど教わらないまま入学してきた。育児放棄かと思われたが、両親にも軽い知的障害があり、虐待を意図した行為ではないことがわかった。山尾は、仙田の同僚である河鹿が担当している。
 教材作りの手を休めて、山尾の教材入れを覗く。
「ち、相変わらず、1学期と同じものを使ってやがる」
 仙田は、山尾の教材を見て、河鹿の手抜きにため息をつく。新採用で特学の担任になった河鹿は、ことしで3年目だ。やる気があるのかないのかわからない。なぜ通常級の担任を希望しないで、特学の担任を希望したのかもわからない。仙田は、個人的なことは質問しない。
 それでも、特学の教員はチームで仕事をするので、足を引っ張るような存在がいると迷惑だ。だから、仙田は容赦なく河鹿に指導を入れている。あさってから仕事だ。これがあしたなら、遠慮なく河鹿のアパートに乗り込んで、働けと喝を入れるところだ。

1月6日・午前9時45分・職員室

 職員室には、おおむね6割の職員が出勤していた。
 8日から3学期が始まるので、それにあわせて準備をするのだ。さすがに7日も休む職員はあまりいない。担任の場合は、教室の空気の入れ替えや、初日の準備をする必要があるからだ。
 きっと、あしたはもっとにぎやかになるだろう。仙田は、そう思いながら職員室に入った。扉から、3年1組の担任をしている佐藤秋絵を探した。
 教員8年目の佐藤は、独身。学校近くのアパートに住んでいる。ややふっくらとした印象があるが、決してダイエットが必要なほどではない。化粧は素顔に近く、髪の毛は染めていない。肩よりも少し長い。こどもと親との関係がいい。教員採用試験の倍率が下がってきて、採用者の質の低下が叫ばれるなか、貴重な人材だ。
 仙田は、視線の先に佐藤をとらえた。
 佐藤は自分の席でクラス便りをパソコンで打っている。
「よ」
 仙田は、気軽に声をかける。
「あ、どうも」
 いつもなら目元も口元もほがらかな佐藤の表情に、多少の緊張が見られる。
 ことし最初の勤務日に、私的なことを聞くのも悪い。仙田は、直感を無視して、事務的な話を優先した。
「拓郎のことなんだけど、3学期もよろしくな」
「はい、こちらこそ」
 そのことか、それならかまわない。そんな壁の崩し方で佐藤は、仙田に返事をした。パソコンのキーパッドに置いていた両手を離している。
 雑賀拓郎は9歳だ。通常学級に在籍していたら、3年生に該当する。特別支援学級では学年制はないので、3年生という区別はしない。しかし、通常級の学習や行事に交流させるときは、学齢が必要になってくる。脳の発達に特徴のあるこどもを、学齢という区分でわけるのはおかしいといつも仙田は感じているが、同調してくれる同僚はいない。
 佐藤は、拓郎が体育と図工のときに交流を受け入れてくれている。学習に必要なものや、どんな学習を計画しているかを事前に聞いておくのも、仙田の仕事なのだ。通常級担任から、わざわざ特別支援学級の担任に情報を提供してくれることは、ほとんどない。
 また忘れられたと、これまで何度感じたことか。
 しかし、佐藤に限って言えば、春から2学期の終わりまで、情報交換が一方的になることはなかった。適度に互いに情報を交換し合ってきたのだ。そういう気配りと、仕事に関する専門性も、仙田が佐藤を高く評価する理由になっている。
「3学期からは、給食も1組で始めようと思うんだけど、どうかな」
「給食ですか。春にうかがっていましたよね」
 佐藤は、机上で両手をあわせ思案する。
「ま、無理にとは言わない。週に一日か二日程度で、可能かどうかを考えておいてほしいんだ」
「わかりました」
 要件を終えた仙田は、職員室から廊下に出た。出たところには、流しがある。そこで、校長の鶴湯が手を洗っていた。
「よ、校長。孫の世話は大変か」
 鶴湯の背中に仙田が声をかけた。
「孫は、いいもんだぜ」
 振り返って鶴湯は濡れた手をハンカチで拭く。
「そんなことより、ちょっと話があるから、校長室に来てくれ」
「やなこった。悪いことなんかしてないし」
「あほ、俺がお前を校長室に呼ぶときは説教するときばかりじゃないんだ」

1月6日・午前10時・校長室

 校長室の応接セット。ソファに深く腰をおろした仙田は、天井に近い壁を見上げる。
「こういうお歴々たちに囲まれて、というか、見下ろされた毎日はストレスたまんでしょ」
 歴代の校長の顔写真が展示してある。鶴湯は仙田の向かいに腰をおろす。
「俺の写真が飾られたら、落書きをするなよ」
 仙田は、肩をすぼめた。
「説教じゃないっていったら、話ってなに」
「お前、なりすましって、知ってるか」
テーブルに上体を乗り出し、声をひそめて、鶴湯が言う。
「多少は知ってるけど、校長には関係ないでしょ」
 仙田は、海風小学校に赴任する前の小学校では情報教育分野の第一人者だった。学校にコンピュータが導入され、こどもたちにインターネットを使った学習を準備する担当者だったのだ。そのときに、インターネットの犯罪性や匿名性など、教育内容に盛り込む必要があるものを整理した。
「それが、どうかしたの」
「ここだけの話だぞ。他言はするな」
「そんなことは俺が決めるよ、内容によってだね」
 鶴湯は乗り出した上体をそり返し、ソファの背もたれに背中を預けた。
「どうやら、6年生の間で、そのなりすましが行われているらしい」
 鶴湯は、さきほどの丹野母子の来校と、そのなかみを手短に仙田に説明した。
 6年の女子の数人が、携帯電話や自宅のパソコンを使ってメール交換をしていた。そのうち、丹野の娘、雪に対して、他人になりすましたメールが送られるようになった。もちろん、雪はそのことに気づかない。
・雪ちゃん、本当のこと言うと、あの子のこと嫌いだよね
・いつか、みんなであの子のこと無視しよう
・雪ちゃんだけじゃなくて、みんなもあの子のことが嫌いだから安心して
 あの子というのは、女子数人のグループのなかのこどもだ。あたかも、グループのほかのこどもがメールを使って特定のこどもを仲間はずれにする計画を立てていると思わせた。雪は、まさかその「あの子」本人が別人になって自分にメールを送っているとは気づかなかった。しかし、あの子を含む女子グループは、みんなで集まって文面を考え、いっしょにいるところで雪にメールを送り、返信を確認していた。
 雪は当初は「あの子」を嫌いではなかった。しかし、ほかのみんなが仲間はずれの計画を立てているときに、自分だけ話に乗らないと、怖いと感じた。自分も仲間はずれにされてしまうと感じたのだ。
「うん、わたしもあの子のこと、あまり好きじゃない」
 いつの間にか、雪は罠にはまっていた。

 一連の話を聞いてから、仙田は真顔になった。
「このことを知っているのは」
「俺とお前と教頭の三人」
仙田は首を傾げた。
「おかしいじゃん、担任の浅葉はなぜ知らないんだ」
雪の担任は、浅葉だ。
 浅葉喜一。52歳。6年1組を担任している。3月で勧奨退職すると噂される。
「まぁ、さっき話を聞いたばかりだし、これから浅葉さんには伝えようと思っている」
 鶴湯の歯切れが悪い。
「いいか、校長。丹野の件は、親が警察に被害届を出したら、学校ではもう何もできなくなる。むしろ捜査に協力するために、あらゆる資料を提供する立場になるんだぜ。それぐらいやばい事例だってことを自覚したほうがいい。携帯電話やパソコンを使っているけど、連中のやっていることは昔ながらの、外しだよ。なぜ丹野がターゲットなのかは知らないけど、こういうことは、あまり事件性はないかもしれない。でも、ひとに騙されていたという証拠がはっきりしているから、これから先の丹野の精神状態が不安定になるかもしれないだろ。ひとを信じられなくなるとか、携帯のメールを信じられなくなるとか。そういうこころの傷については、犯罪性が高いんじゃないのかな。丹野の親がそのあたりを前面に出して裁判でも始めたら、加害者の親は菓子折り程度じゃ挽回できないと思うよ。まして、そのことで登校を渋っていると相談されたんなら、すぐにでも校長や担任が対応しないと、後々学校の対応を新聞や警察、教育委員会から批判されるんじゃないのか」
 仙田は、低い声で、感情を抑制して話した。胸の中では、こういう危機管理能力がまったくない鶴湯が管理職では、この難局を乗り越えるのは無理だろうと諦めの気持ちが広がる。それでも、自分にできるアドバイスぐらいはしておこう。
「まさか、そんな大げさにはならんだろう」
 カチリ。仙田の頭の片隅で音がした。
 やはりな。こいつが管理職じゃ、きっと何も解決しないだろう。
「とりあえず、すぐにでも浅葉に連絡をとって、対策を練るんだな。午後には名指しされている加害者側の保護者と当人を家庭訪問して事情を聞くぐらいの腹積もりはもちろんあるよな」
 同意を求めず、仙田は立ち上がった。ドア口で振り返り、小さく見える鶴湯を見下ろす。
「丹野に対して、どんな励ましをしたんだ」
 鶴湯は、目に力のない表情で仙田を見上げた。
「気にするなと。学校に来れば、ほかに友だちもいると言ったよ」
 がっくりして帰路に着く丹野と親の姿が想像できた。仙田は、何も言わないで校長室を出た。扉を閉めてから振り返り、音のない声でドアホとささやいた。

1月6日・午前11時50分・ゆうひ

 窓からは、遠くに富士山が見える。相模湾の海岸線が手前に延びる。江ノ島や稲村ヶ崎が視界の隅で海に突き出す。
 食堂「ゆうひ」。
 店主の地久淳は48歳。妻の桜は47歳。ふたりの結婚は早かったが、こどもはいない。
 高校を卒業してから、鎌倉の和食店で板前修業をした淳は、30歳で独立し、ゆうひを始めた。自宅が近くて、幼馴染だった桜が二十歳になったときに、ふたりは結婚した。まるでふたりは、結婚するのが運命だったかのように、こどものときからずっと自然に近くにいた。
 海風町には古くからの魚料理屋や観光客目当ての高級レストランは数軒あったが、地元の人たちが立ち寄る和食店は少なかった。ダイビングやサーフィンが好きで、若いときから海風町で休日を過ごしたふたりは、町の外れの崖の上部に売り地が出たとき、迷わずに銀行から借金をして土地を購入した。
 淳が25歳で土地を購入してから、ふたりは大工の友人と休みのたびに現地を訪れ、少しずつ少しずつゆうひを建設した。基礎から作り、店舗と住居が完成したのは5年後だった。その後も、海岸に反りたった崖の上の店なので台風のたびに建物は破損した。つぎはぎを増やしながら、なんとか外見は強固になり、店内は小さいながらもレトロな味わいのある食堂に育った。
 二つしかないテーブル。その一つに女性が二人向かい合っていた。
「ここのマスターと奥さんの人生って、あなたもいつか聞いてみるといいわよ」
 桜が自作した茶碗に築地の粉茶が入っている。その茶碗から伝わるぬくもりを両手に感じながら、教頭の井桁が言う。
「はい」とは言ったものの、こころは別のところに漂っている佐藤。
 まだ学校では給食が始まっていない。昼食時には、職員はそれぞれに考えて食事をする。学校から歩いてすぐのゆうひは、海風小学校の職員には定番の店だった。
「ちょっと話があるんです、ランチをいっしょにいいですか」
 深刻な表情の佐藤に声をかけられてから、まだ1時間も経っていない。井桁は「じゃぁ少し早く出よう」と佐藤をゆうひに誘ったのだ。幸い、きょうはあまり職員の出勤がない。ゆうひが混むことはないだろうと想像したのだ。
 淳は厨房でピザ生地を伸ばしていた。ふたりの注文は、マルガリータときのこのピザだったのだ。生地は、曜日によって違うが、毎日、20個から30個は用意しておく。廃棄するのはもったいないので、売り切れる程度に用意する。粉は北海道産のはるゆたかとドルチェを必ず使う。それに水とドライイーストだけで作る。粉とイーストの香るピザだ。
「おーい、薪をもう一束頼むよ」
 窓から外にいる桜に声をかける。
「はーい」
 全席禁煙と開店の札を入口にかけていた桜は、薪を積んでいる物置に向かった。
 石釜では予熱が高まり、いつでも生地を焼く用意が整っている。

 佐藤は、緑茶を一口飲んだ。瞳を上げる。
「わたし、12月の忘年会で浅葉先生にいやなことをされたんです」
 井桁は、瞬時にすべてを察した。
 浅葉は、教員の世界では有名なセクシャル・ハラスメント男なのだ。酔ったはずみでからだを触られた女性は数限りない。そのなかには被害を申し出る者もいたが、ほかに目撃者や証人がいないためもみ消されてきた。
 いまにも、佐藤の瞳から大粒の涙が零れ落ちそうだ。
「秋絵さん」
 井桁は、思わず、苗字ではなく名前で彼女を呼んだ。
 いやな出来事を思い出していた世界からふっと我に帰った佐藤は「すいません」と言いながら、ハンカチで瞳を押さえた。
「ううん、謝ることなんてないの。わたし、必ずあなたの話を聞くから、その前にここのとっておきのピザを食べさせて。お願い」
 井桁のへそのあたりで、ググーっと胃袋が鳴った。
「はい、もちろん」
 さっきよりも、佐藤の瞳に生気が戻る。
「ありがとう。午後は年休を取りましょう。ふたりでここの二階をちょっと借りようっか」
 いたずらっぽく井桁が人差し指を天井に向けた。
「でも、教頭先生は午後はまだ仕事をあるんじゃないですか」
「いいのいいの、その気になれば学校に泊ってでも片づけるわ」
 桜が、二組のナイフとフォークを運ぶ。
「桜さん、申し訳ないけど、年明け早々、VRを借りたいんだけど」
 VRとは、ビップルームの略だ。ゆうひは、一階だけの店だ。4人がけのテーブルが二組、カウンター席が5つ。しかし、古くからの馴染みには、プライベート空間として二階を用意している。ビップルームと言っても、四畳半の畳み部屋なのだ。座卓と座椅子のみ。もともとは、地久たちのプライベートな部屋だった。いずれこどもができたときのために造った。しかし、すでにこどもを諦めた二人には無用な部屋になっていた。それをあるとき、泥酔した常連客が帰れなくなり宿泊させたことから、伝説の部屋になったのだ。
 客間として掃除などの用意をしていないので、数人の馴染み客しか知らない。
 桜は、ちらっと佐藤の瞳に光るものを見つけた。
「井桁さんたちなら、かまいませんよ。でも約束どおり、他言無用でお願いします」
「助かる」
 井桁は両手を合わせて、桜を拝んだ。その仕草がおかしくて、佐藤の口元に笑みが浮かんだ。

 淳は、伸ばしたピザ生地を調理台に置いてトッピングをしていた。
 石釜の温度計はすでに250度を示している。
 桜が作り置きしたトマトソースを取り出し、淳が生地に塗る。大きく切ったトマトを並べる。小さく刻んだアンチョビを散らす。水気を切ったモッツァレラチーズをスライスして乗せる。バジルは、手でちぎって皿の上で待機させる。焼きあがる直前に乗せるのだ。オリーブオイルをくるっと生地の上で一ひねり。岩塩と粒コショウをつぶしてかける。
 となりでは、桜がトマトソースのタッパーをしまい、きのこピザのトッピング。こちらはトマトソースは塗らない。やや厚めの生地に、エノキ、エリンギ、シメジ、マイタケを乗せていく。天城のわさびを軽くおろして、きのこの下にちりばめる。カチョカバロチーズをスライスして並べる。オイルはマルガリータよりも少なく。反対に岩塩はやや多めに。
「じゃぁ、サラダを頼むよ」
 焼きあがるまでおよそ6分。前菜のサラダを桜が用意する。サラダのような調理はカウンターの内側でできるようにしてある。桜は厨房を出て、水切りをしてある野菜を皿に並べた。
 淳は、生地を石釜に入れて火が満遍なく伝わるように位置を調整する。ときどき、大きめの自作した陶器のジョッキに入れてある酸化防止剤無添加の信州アルプスワインを口に含む。仕事中の飲酒は、桜から禁止されているが、常識の範囲内で飲んでいる。
 井桁の携帯電話が着信した。着信相手を確認する。佐藤にごめんと片手を切って受話器を耳に当てる。
「はい、大丈夫です。うん、予想通り。あしたですね、あー今夜中がいいのか。了解です」
 短い電話だ。
「あの、教頭先生。ここにいて大丈夫ですか」
 携帯電話をバックにしまって、井桁が笑う。
「大丈夫。いまのはカゴメさんよ」
「カゴメさんって、介助員の比翼さんですか」
「そうそう、カゴちゃんって呼んでるの。彼女は校長で定年退職したのよ。わたしの大先輩。再任用の話があったんだけど、どれも断って、特学の介助員を引き受けているの」
「えー、校長先生だったんですか」
「そう、あまりそういうところを見せないけどね」
「言われなければわからなかったです。いまのうちの校長とは大違い」
 言ってから、まずいことを言ったと思ったのか、佐藤の表情が曇る。
「いいのよいいのよ。その通りなんだから。そうそう、佐藤さん、職場を出たら、教頭はやめてね」
「えー、でも」
「だって、それだけで近くに一般のひとがいたら、学校関係者だってばれちゃうでしょ。学校って昔よりも風当たりが強いから、非難したいひとたちにとっては、教員の会話は恰好のネタだと思わない」
「そうですね、気をつけます。でも、キョ、いやなんて呼べばいいのでしょう」
「井桁さんで十分よ」

1月6日・午後0時30分・ゆうひ

 仙田は、塩辛と4合瓶の日本酒を持って食堂「ゆうひ」のドアを開けた。
 カウンターが空いているのを確認して、厨房にもっとも近い席に座る。
「正月からご苦労さん、はい、桜さん、これ」
 仙田は、桜に塩辛の入ったタッパーと日本酒を渡す。
「あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします」
「何よ、あらたまって」
 仙田は、席からおりてお辞儀をする。
「こちらこそ、ことしも俺の胃袋を満足させてくださいな」
 厨房から店主の淳が出てきた。
「よ、仙ちゃん、ことしもよろしくな」
 淳は、桜からタッパーを受け取る。
「昼から、やるかい」
 そう言って、お猪口を飲む仕草をする。
「いいねぇ、お願い。冷やでいいから」
 仙田は、数ヶ月に一度築地市場に買出しに行く。一人暮らしをしているので、自分のためだけでは行かない。だいたい、知人の注文を聞いて購入してくる。ゆうひの素材としては、季節オンリーのメニューになってしまうが、淳がうまく調理するので、季節オンリーメニューを楽しみにしている客も多い。
 暮れにも行った。そのときに大きいスルメイカが安く売っていたので、まとめて10杯買って、半分をゆうひに、半分を自分で塩辛にした。その塩辛を小分けして、カゴメにあげた。近所の隠居にもあげた。仙田の塩辛を楽しみにしているファンが少なからずいるのだ。
 淳もそのなかのひとりだった。桜は、仙田の塩辛を炊き立ての土鍋ご飯に乗せて食べるのが好きだった。
「仙ちゃん、いまのご時世、昼からアルコールはまずいんじゃないの」
 桜が心配をする。
「ご心配、ごもっとも。でも、昼までできょうの仕事は終わらせてきたから、午後は休暇にした。だから、もう会社には戻らない」
 学校関係者が、学校以外で勤務先を言うときの隠語が、会社だ。
「じゃぁ、安心」
 桜は、四合瓶の包装を解いた。
「これ、山猿っていうの。聞いたことないけど」
「あー、同業者の紹介でね。この辺じゃ大船の関所っていう酒屋でしか扱っていない。山口の酒だよ」
「へー、山口ね。珍しい。仙ちゃんの同業者の方も、やっぱりスペシャルなお客さんを相手にしているの」

 学校の近くの食堂なので、桜も自然と隠語を覚えている。スペシャルなお客さんとは、脳の発達に特徴のあるこどもたちのことだ。
「あー、そいつとは大学の同期でね。暮れに久しぶりに会って、この酒を紹介されたんだ。酒米が珍しい。コクリョウミヤコっていうんだよ」
 淳と桜が少しずつ作り、ためている、陶器のぐい飲み。かごに入ったぐい飲みを、桜が三つ取り出す。
 どれどれ、淳が栓を抜く。鼻を瓶の口に近づける。
「広がるねぇ」
「だろぅ」
 とととととと。ぐい飲みの半分ほどに山猿を注ぐ。
「じゃ、ことしもよろしく」
 三人で乾杯した。
 がた。頭上で何かが触れた音がした。
「正月早々、しけこんでるやつがいるみたいだな」
 仙田は、瞳を天井に向ける。ビップルームのことを、仙田は知っている。知っているなんてレベルのものではない。あの部屋への思い入れはだれよりも強い。
「さっき、井桁さんと佐藤さんが来て食事の途中だったんだけど上がっていったの」
 ふうーん。仙田には興味がなかった。
 わざわざ人目を避ける必要があるのだから、大事な話なのだろう。結婚話かな。でも、そんなのは秘密にはしないか。結婚前妊娠でもしたのか。相手はだれだ。
 夢想をふくらませながら、仙田は山猿を少しずつ口に含んだ。
「きょうは火を通したもの、それとも火を通さないもの。どっちの気分だ」
 淳が山猿を飲み干して、厨房に戻りながら、振り返った。
「まだ大して市場が開いてないから、火を通したものがいいかな」
 了解。淳は厨房に入った。
 階段をひとが降りる音が響く。仙田は振り向かない。階段を降りた井桁が店内を見回し、仙田を見つけた。一瞬、仙田の背中で空気が張りついたように感じた。
 もう一つの足音は、とても弱々しい。その足音を助けるように、井桁の強い足音が重なった。振り向いてはいけないと、仙田は直感した。自分は、いま、何も見ていないし、何も聞いていない存在になることを求められているのだ。
 佐藤は、涙で曇る眼前の風景のなかに、だれがいるのかなど確認はできなかった。視界に映るものがぼやけて、脳裏に過去のいまわしい場面がよみがえる。
 井桁は、桜にお金を支払い、佐藤の肩を抱き寄せながら、声を出さずに唇だけ「じゃあね」と桜にわかるように動かした。

1月6日・午後8時・比翼カゴメ邸

 背中に小山、正面に小さな海岸。バス通りをはさんだ家並み。そのなかで、古くからの大きな屋敷が比翼カゴメの家だった。同い年の夫は、学校用務員として働き、カゴメと同時に60歳で退職した。再雇用の誘いを断り、いまは趣味の釣り三昧の日々を送る。
 海風町には町立小学校が3校ある。比翼の住んでいる海寄りの地域は、渚小学校が学区だ。高台を切り崩して開校した海風小学校の周囲には森と畑しかない。これに対して古くからの渚小学校の周囲には、旅館、土産物屋、雑貨屋、魚屋、八百屋などが立ち並ぶ。海風町役場もあり、小さな町の政治、経済の中心地なのだ。最近では、外食チェーン店まで進出している。
 井桁は、海風小学校から比翼の自宅まで歩いた。木戸でインターフォンに用件を告げた。
 ほどなくして、カゴメが現れ、井桁を敷地内に招き入れた。
「ゆっくりできるの」
 カゴメが、思いやる。
「少しは」
 そう言ったとき、井桁の胃袋あたりで、空腹の虫が悲鳴をあげた。
「やだぁ、お昼はゆうひでちゃんと食べたのに」
 井桁は、自分のへそあたりを押さえた。
「チャコちゃん、旦那に電話して。きょうはうちで食べていくって」
 カゴメは、井桁の名前、知耶子を短縮して、チャコと呼ぶ。
「ありがとう、じゃ、甘えますね」
 きれいに手の入った庭園を障子のガラス越しに見ながら、井桁は掘りごたつに入っている。
 カゴメがお盆にガラス製の徳利とお猪口を持ってきた。肴は、太刀魚の塩焼きだ。
「まずは、あったまろう」
 カゴメもこたつに入る。互いに直角の位置関係に座る。井桁が高清水をカゴメのお猪口に注ぐ。徳利をカゴメが受け取り、井桁のお猪口に高清水を返す。ふたりはお猪口をもって、小さく合わせる。
「あけまして、おめでとう。ことしもよろしく」
 月並みな挨拶で、始まる。
「ご主人は」
 井桁が、ふすまの向こうを気にする。
「もうこの時間には寝ているわよ。釣りがいまは人生のすべてだから、朝が早いのね。だから、今夜は何も気にしないで、飲んで、食べて」
「ありがとうございます」
 竹箸を使って、井桁は太刀魚を口に運んだ。

 台所に立ち、井桁は食器を洗う。となりのテーブルでカゴメが洗った食器を拭く。乾いた頃を見計らって、食器棚にしまう。
 井桁が、カゴメに頼まれていたのは、河鹿の様子だった。
 若い河鹿は教員としての意欲はあるのだが、いつもから回りする。意欲をうまくかたちに移せないのだ。それを先輩の仙田に叱られる。ひとは叱られて伸びるタイプと、萎縮するタイプに分かれる。明らかに河鹿は萎縮するタイプなのだが、仙田はおかまいなしだ。それが、カゴメには気になる。
 仙田は仕事ができる。それを自慢するような仕草を見せない。
 しかし、仕事ができない相手に対しては厳しい。真っ直ぐ過ぎる。
 カゴメがとやかく口を挟むと、たった3人の海風学級は指導者の関係が崩壊する。だから、いつも援護を井桁に頼んでいるのだ。
「それにしてもねぇ。河鹿さんにはまいったもんだ。始業式前前日になっても出勤しないとは」
 井桁は、食器を洗いながら、振り向いた。カゴメのため息が聞こえる。
「あしたは出勤するでしょう。動静表をチェックしてきましたので」
「だといいんだけど。もしも休暇を取ったら、仙ちゃん、怒るよ。河鹿さんのアパートに乗り込むぐらいのことは平気ですると思うな」
 ふふ。そういう熱い教師がいてもいいではないか。井桁は、ゆうひで山猿を飲んでいた仙田を思い出す。
「わたしの予想では、仙ちゃんはもうきょうは授業準備完了。あしたは家庭訪問のつもりだと思うよ」
 カゴメは、拭いた食器をきれいに重ねる。
「ピンポーン。わたしの机上に朝から家庭訪問して出勤するってメモがありました」
「家庭訪問から戻ったときに、河鹿さんが休暇を取っていたら、血の雨が降るかもね」
「そんなぁ、よしてください」
 そう言いながらも、井桁は海風学級のスタッフをうらやましく感じた。
「さ、片付けも終わったことだし、向こうでお茶にしましょう」
「もう遅い時間ですから、わたしはこれで失礼します」
「チャコちゃん、忘れ物はいけないわ」
 カゴメは、茶器をお盆に乗せて、和室に向かう。後ろを追いながら、井桁は忘れ物って何だろうと考えた。
 緑茶。からだの芯が温まる。
「さ、忘れ物を見せて」
「え、忘れ物って」
「あなたがここに来た目的は、わたしに伝えたいことがあるからでしょ。それも急に何か問題が発生したから、あしたではなくきょうがよかったんじゃないの」

 井桁は、お茶を半分飲んだ。両手で湯のみの温もりを受け止める。
「何もかもお見通しですね」
「チャコちゃんとは付き合いが長いからね」
 井桁は、ゆうひで佐藤から相談されたセクハラの話をした。話を聞いている間、カゴメは珍しく険しい表情を何度も浮かべ「許せない」と鋭くつぶやいた。
「わたしは、組合に相談するように佐藤さんに言ったんです。あそこなら女性部もあるし、セクハラ問題担当のセクションもあるので。でも、佐藤さんが話を大きくしたくないから、そこまでしないでほしいって強く断るです。校長に頼んで、浅葉さんに指導し、浅葉さんから誠意ある対応があればいいって。でも、それじゃ、犯罪に近いことをされたのに、謝ってくれればいいなんて、ひとがよすぎるって反対したんですけど」
 カゴメは、二杯目のお茶を湯飲みに注ぐ。
「たしかに組合に話をもっていけば、対応に間違いはないと思うわ。でも、佐藤さんが心配するように話が大きくなるかもしれない。もしかしたら、佐藤さんの手を離れて、代理人が法的な手続きをするようなね。そこまでは佐藤さんが求めていないってことなのかしら。わたしなら、昔からセクハラの噂が絶えない浅葉さんのことだから、いつかきちんと処分されたほうがいいと思うけどね」
 空になった湯飲みを両手で持ちながら井桁はうなずく。
「親身になろうと思えば思うほど、彼女のつらさが見えてくる。自分が受けた苦しさを蒸し返されるのがいやだという気持ち。でも泣き寝入りしたら、口惜しさはふくらむばかり。どうすればいいのか、わからなくて、身動きが取れない。ただ、わたしがこんなことを言うのはご法度なんですけど、いまの校長、鶴湯校長に、この問題を解決する能力があるとは考えにくいんです。若い佐藤さんにはそんなことは言いませんでしたが」
 井桁の湯飲みに二杯目の緑茶をカゴメが注ぐ。
「鶴じゃ、無理ね。佐藤さんにとっては校長ならば諸問題を解決する能力があって当然だと考えているんだろうけど。校長だってピンきりなんだから。とくにあと二ヶ月で定年退職を迎える鶴の最大の関心は、このまま何も問題が起こらないことのはずよ」
「そうなんです。だから、校長を期待して相談しても、反対に期待が裏切られて、いまよりも、もっと苦しむ佐藤さんが予想できてしまうんです」
 カゴメはお盆を持って立ち上がる。
「とりあえず、話はわかったわ。今夜は遅いから、ここまでにしましょう」
「あら、やだ、もうこんな時間」
 携帯電話の時計が午後10時をさしていた。
 カゴメは木戸まで送る。
「遅くまでごめんなさい」
 井桁が頭を下げる。
「謝る必要はないわ。あしたはわたしは休務日だけど、適当に理由をつけて出勤する。そのときに今後のことを相談しましょう。くれぐれも佐藤さんの動向には気を配っていてね」
 木戸の向こうにカゴメが消えた。井桁は、静かに感謝の礼をした。
 暗い小さな港町。外食チェーンの照明だけが灯台のように明るい。カゴメの家から歩けば10分の道のり。井桁は自宅まで小走りで帰る。

一章・了

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