こどもたちを取り巻く教育環境、学校状況について、多くのひとたちはテレビや新聞での情報が頼りです。しかし、政治的なアプローチによって、学校現場は多くのひとたちに知らされている内容よりも混乱しています。創り出す会の定例会で提供された情報をもとに、これらについて発信していきます。
2013.1.3 |
学校教育の多様化へ
いまの日本の公教育は、税金が投入されているという意味では公立学校も私立学校も同じくくりだ。私立学校は補助金がカットされたら経営が成り立たなくなる。 国立大学は、一応、独立行政法人として法人格を授けられたが、運営費はほとんどが税金だ。 日本のように私立学校でありながら、国から補助金をもらっている国は少ない。 金をもらうということは、国の政策に従うことを意味している。だから、私立学校を建学した精神が脅かされることを恐れて、多くの国の私立学校は補助金をもらわない。 そのかわり、アメリカのように企業や個人資産家からの多額の寄付を受けつけている学校は多い。 自分の富をよのなかに再分配することで、社会に尽くし、神に感謝するという強い宗教心が背景にあるという見方もある。その一面を否定はしない。しかし、アメリカのように寄付行為が会社の必要経費として認められる税制が大きく影響しているのも確かだ。 つまり、ある会社が年間の収支決算で1000億円の収入を得て、800億円の支出があったとしよう。200億円が利益になる。国はその利益に対して税金をかけてくる。日本の場合は60パーセントぐらいの課税率だと思った。アメリカでは、その200億円のうち100億円を慈善事業として各団体や学校に寄付したとする。するとそれが必要経費として認められるので、残りの100億円が課税対象になる。仮に100億円の課税率が10パーセントだったら、日本の会社よりも利益が多く残ることになる。社会に貢献できて、かつ利益も多く確保できるわけだ。 日本では寄付行為が必要経費として認められていないので、多くの資産家や大企業は寄付という利益を捨てるような行為はやろうともしない。 けちに見えてしまうのだ。 一枚の写真がある。 2012年秋に、わたしが担当している小学校特別支援学級のこどもたちとみかん狩りに行ったときの集合写真だ。15人のこどもがカメラを見てそれぞれの表情をしている。 ピースポーズのこども。キャップのひさしを後頭部に回して笑顔のこども。首をかしげたこども。舌を出しているこども。あらぬ方角を見つめているこども。うつむいているこども。両手をだらりと出してお化けポーズのこども。 みんな表情やポーズは異なるが一枚の写真のなかで、ともにみかん狩りを共有している。 それぞれ脳の成長に何らかの特徴をもつ。話し言葉が出ないケースもある。 ひとりひとりの違いを認め合い、それぞれにあった学習計画を作成し、学校が保護者と相談しながらできることをふやしていく。特別支援教育の基本にある考え方は、公教育全体に対してもあてはめていい時期にさしかかっている。 2012年冬の衆議院選挙で大勝した安倍自民党政権は、公教育に関して中央の統制を強める計画がある。これまで知事や市長にとって邪魔な存在だった教育委員会を無力化しようという計画だ。 一般のひとは、教育委員会の役割をあまり知らない。 これは戦後に導入されたアメリカの教育制度の一部だ。 アメリカでは州ごとに教育法が異なる。公立学校に関する予算の使い方や、学習内容が州によって異なるのだ。それを憲法が認めている。 アメリカ建国の歴史を振り返ると、南北に分かれて殺し合いをしたほどの国家なので、中央政府による統制には強く反発する気質があるだろう。だから、公教育については、住民による投票によって選ばれた教育長が、委員を集めて、教育委員会を組織して、自主独立の教育を実施する。結果について責任を負うので、次の選挙で落選することもある。 日本でも戦後に教育委員会制度が導入されたばかりの時期は、教育長や教育委員の公選制が実施された。しかし、自民党などの保守政権にとって、教育委員会が住民の代表ではやりにくい。なんだかんだと条例を作って、公選制度は消失した。 いまの教育委員会は、教育基本法・学校教育法などに規定された公教育制度を全国津々浦々まで行き渡らせるための事務的な職務が中心になっている。その教育委員会を支えるために役所の中には教育委員会事務局が存在する。学務課、指導課、保健課、給食課、施設課などに分かれている。 だから、いまの教育委員会は住民の願いを実現する組織ではなく、法律どおりの学校教育を遂行する役所的機構の一部なのだ。 戦前の日本では学校教育が多くのこどもたちを戦争へ駆り立てた。こどもたちは天皇のこどもと教えられ、赤子と呼ばれた。赤子は天皇のために戦い、天皇のために死ぬことをもっともすばらしい生き方と教えられた。その教えを信じ、多くのこどもたちが少年や少女のまま戦地に赴き「天皇陛下、バンザイ」と叫んで死んでいった。 これは、軍部の方針が政府を動かし、政府の方針が文部省から各学校に命令され、実現した。 戦後の日本国憲法では、学校教育への政治の介入を禁止している。 戦前の苦い経験から、同じことを繰り返してはいけないという誓いの証だ。 現在、大阪の橋下氏や安倍氏のようなひとたちが、教育委員会を邪魔者扱いするのは、教育長や教育委員に気概のあるひとがいるからではない。 教育委員会という制度が、忠実な法の執行機関になりすぎて、市長や知事など権力者の思いのままにならないことが多いからなのだ。 公然と公職選挙法に違反して、告示期間後のインターネット情報を更新した橋下氏は「あんな馬鹿げた法律に従う必要はない」と、弁護士とは思えぬ発言をして、自己正当化している。 憲法では、6歳から15歳までの9年間を義務教育期間にしている。 ほとんどこの期間をカバーするのが、小学校と中学校だ。 義務教育期間は、保護者がこどもに教育の機会を与える義務を負う。 そのために、行政は、必要な学校を用意している。 しかし、義務教育期間の小学校と中学校は、あまりにも画一すぎて、選択肢がほかにない。中学校と高校を一つにした中高一貫校ができたが、小学校にはほかの選択肢がない。 多様化は、内容を異なる別の教育機会を用意し、保護者やこどもがそれを選択できる権利を持たなければ実現化しない。 「そんなもの必要ない」 「どうして、そんなものが必要なのか」 いまさら、そんなことを言うひとがいたとしたら、あまりにも能天気な生き方をしすぎている。理由は自分で調べてほしい。 ゆとり教育の弊害としてこどもの学力が低下したという非科学的な論理で、かつての詰め込み型授業が復活した。 一斉指導、知識の詰め込み型指導によって、多くのこどもが学習への意欲をなくして、学校に行くことがいやになった時代を忘れたかのようだ。 ふたたび不登校のこどもは増加へ向かうだろう。 きっと教育行政の責任者たちは、いまの学校に不満なら自分で勝手に勉強しろとでも思っているんだろう。家庭にそれだけの経済的な余裕があるならばかまわない。しかし、経済的に恵まれていないこどもは、どうすればいいのか。 学校に行ってわけのわからない勉強を一日中叩き込まれる。叩き込まれても、何も理解できない。テストをすれば0点ばかり。勉強ができない、家が貧しいと、周囲から差別され、隔離され、無視されていく。学校へ行くことがつらくなって、家庭に引きこもる。親はあわてる。力ずくで学校へ行かそうとする。親子の関係が冷めていく。 一部のエリートを育てる教育を安倍政権は目指していくだろう。 大多数の落ちこぼれたちは、徴兵制度によって最前線の危険な場所に送り込めばいいと考えているのだろう。 学校教育を多様化しなければ、こういう時代はすぐそこに迫っている。 |
2009.2.28 |
教員免許更新制度のねらい
文部科学省が今年度から試験的に開始し、新年度から本格的に実施する教員免許の更新制度。 多くの手間と費用がかかる制度をなぜ行政が進めようとするのか。 教育研究集会では、少しずつ学者たちの声が上がって来ていた。 そのなかに、興味を引くものがある。 これまでは、教員免許は大学で免許の種類に応じた単位を取得し、教育実習を経て入手するものだった。一番手間と時間とお金がかかるのは、小学校普通免許だろう。4年間も大学に通い、4週間も教育実習をしないと必要な単位が修得できないからだ。 しかし、それだけの手間隙をかけた免許だからこそ、価値が生まれ、よのなかは教員に対して専門性を評価してきたのだ。 それがたった10年間しか効力のない免許になったのだ。 10年後には更新できず、免許失効状態になるかもしれない。 そんな不安定な職業を、今後、若い人たちが選ぶとは思えない。 行政は、そこでこれから、通信制を含め、いまよりも簡単に教員免許が取得できるように法改正を行うのではないかという憶測がある。 広く浅く人材を確保し、10年後にふるいにかけて、行政に都合のいい人材を残していけばいいというのだ。 これまでのように、専門性の高いやり方でしか免許を発行しないと、多くの人材は集まらない。ひとを雇うときには、より多くのなかから選んだほうが、優秀な人材が埋もれている確率は高くなる。だから、免許取得のハードルを下げるというのだ。 いかにも、少ない教育予算を懸命に執行しようとする行政感覚の高い官僚が考えそうなことだ。 その結果、どんな教育が行われるのかとか、どんなこどもが育つのかという、根本的な理念はまったく見えてこないのだが。 |
2008.12.21 |
スクールソーシャルワーク
公立小学校や公立中学校では、こどもに何らかのトラブルがあり、専門的な指導や支援が必要と思われる場合、どういう対処がなされるだろうか。 トラブルと言っても原因は多様だ。 親に原因がある場合は、こどものこころや身体の傷つきが心配になる。 友人関係に原因がある場合は、多様な価値観の保護者たちとの意見調整が必要になる。 器質的な原因がある場合は、専門家との検討会が必要になり、保護者の自覚と受容がこどもの指導計画を左右する。 これらの原因を探り、必要な人材を集め、定期的に検討会を開催し、有効な手立てを相談する。 通常級では、担任がひとりで多くのこどもを指導しているので、トラブルを見逃す可能性が多い。また、個々人の価値観により、こどもが示すトラブルサインを感じるひとと、感じないひとに分かれてしまう。担任次第で、こどもや家庭の問題が扱われたり、気づかれなかったりするのが現状だ。これは教員の能力とはまったく関係がなく、そもそも個々人のトラブルを解決するトレーニングを積んでいないし、そのためにたっぷりこどもと向き合う時間など保障されていないのだ。 複数の教員がチームを作る特別支援学級や養護学校では、器質的に障害のあるこどもの入学が前提になっているので、トラブルがあって当然という考え方でこどもの指導計画を作る。そのため、問題を自分たちだけでなく専門機関との連携のなかで解決していこうという気持ちが生じやすい。また、保護者に過度の期待をかけることの負担感を知っているので、保護者にお願いできることと、できないことの区分け整理も行う。 ひとりのこどもを取り巻く問題について、多くの専門家が定期的・持続的にかかわっていくシステムが日本の公立学校には定着していない。それは担当する人材が不足(というか存在そのものがない)しているからだ。 これまで各学校で、複数のひと(教員とそれ以外の専門家)がひとりのこどものためにトラブルを解消するための取り組みが可能だったのは、おもに教員の中にやる気のあるひとがいたからだ。やる気とは業務ではない。やらなくてもいいことをやる気持ちだ。だから、やる気のないひとを責めることはできない。 学校・地域・家庭・専門機関の橋渡しをする新しい職種として、スクールソーシャルワーカーの誕生を実働、各学校への定数配置を強く希望する。ひとりで何校も掛け持ちをするせこい予算的な措置では、トラブルを抱えているこどもの願いを聞き取るのは難しいだろう。 高校進学 神奈川県では、今年度から通信制の県立高校を開校した。 これまでの普通科高校に併設されていた通信科を、通信科のみに特化させたのだ。 中学校に在籍しながら不登校を続け、学力が十分に備わっていない生徒を対象にしていた。この高校は通信制だが、通学するクラスも併設されている。もともと学力がついていない生徒を対象にしているので、入学者の学力選抜は行わない。 その結果、開校初年度の入学者は大きく定員を超えたそうだ。書類選考だけで入学できるという条件が、多くの生徒と保護者に受け入れられたのだろう。 不登校の生徒が、予想以上に多かったわけではない。不登校ではない生徒も入学を希望したのだ。1000人を超える生徒を収容する大規模高校になってしまった。 生徒の収容と教職員の数との関係から、新年度は何らかの入学者調整を検討しているという。 ニーズがあるのだから、もっと同様の高校を作ればいいのにと思う。 いま神奈川県内の公立中学校では、卒業生のなかに一定数の発達障害と思われる生徒がいる。発達障害でも知的障害が伴わなければ、高校受験をクリアできる。しかし、社会性やコミュニケーション能力に障害がある場合、知的に高いだけでは入学した高校で友人関係が築けず、悩むケースが多い。 養護学校(特別支援学校)の高等部は、療育手帳がAランク以上という入学条件をつけた。すでにキャパシティーを超える生徒を抱えている養護学校としては、苦肉の策だったのだろう。しかし、その結果、多くのBランク、もしくは手帳の申請をしたらBランクと思われる児童や生徒が中学校を卒業した後に、進学する学校がなくなってしまった。 経済力のある家庭では、高額な入学金と授業料を支払って、発達障害を専門に受け入れている私立学校を選択するケースが多い。また、不登校や低学力、非行やこころの問題などの生徒を受け入れている私立学校でも、発達障害の生徒を受け入れている。こちらも授業料は高額だ。 つまり、経済的に厳しい家庭では、発達障害、もしくはそれに近いと思われるこどもがいた場合、高校の選択肢が限られてしまったのだ。 だから、書類選考だけで入学できる公立高校の開校は、多くの耳目を集めるところになった。 |
2008.10.27 |
教育内容の道徳化と政治の介入
新しい学習指導要領では、各教科において、道徳的な指導が義務付けられるようになる。 これは、各教科の指導において、協力的な態度や連帯感、愛国心などを、何かしら盛り込んだ指導が必要になることを予想させる。若い教員が研究授業をするときに、教科の特性に応じた目標を立てる。それとは別に、道徳的な観点からの指導目標も付け加えなければいけないことになるだろう。 学習の場において、最大の目標は学力の育成と向上であって、その過程において、道徳的な態度まで指示・強制するというのは、指導の限界を超えた試みになるのではないかと危惧をする。正しい答えが発せられても「姿勢が悪い」「声が小さい」「はっきりと発言しろ」など、目標とは別の部分にまで細かい指示が飛ぶようになるかもしれない。 地方議会で、卒業式の式次第が話題になっている。 「君が代の斉唱は思想信条の自由と関係があるので、列席の保護者の方には強制するものではありません」 いままでは、そういうアナウンスが事前に行われた。これに対して「学習指導要領に指導が義務付けられているものを、あえて保護者に誤解を招くような説明をする必要はない」という声が議会であがっているという。 学校の活動に口を挟むような、指示に従わないような者は、保護者ではないとでも言いたいのだろうか。とくに、思想信条の自由に関係する内容は、憲法上の問題があるデリケートな問題だ。にもかかわらず、それを「誤解を招く」表現として槍玉に挙げるというのは、筋違いのような気がする。 決して政治的な問題にしようというものではない。 もともと、創り出す会は政治団体ではない。個別ニーズにあった新しい公教育の枠組みを、公費負担で立ち上げることを目指している。だから、すでにある公教育の行く末には大きな関心はない。しかし、公教育全体が大きく変化していくなかで、個別ニーズなど消し飛んでしまうような危険な変化が蔓延するのは、悲しいことだと感じている。 |
2008.6.29 |
考察:アキバ事件 2008年6月8日。東京の秋葉原で無差別殺人事件が発生した。歩行者天国にトラックで突っ込んだ男が、さらにナイフを振り回して通行人を殺傷した。7人が亡くなり警察官を含めて10人が負傷した。 たまたま現場に居合わせた医師が救急隊に引き継ぐまで応急的な措置をした。学会で東京に来ていた医師は、飛行機で帰るまで時間を使って秋葉原で楽器を買おうとしていた。そのときに惨事に遭遇する。多くの負傷者を救護しようとするひとたちに指示を出し、トレアージュさながらの措置をした。その医師が、現場での応急措置をしているとき、負傷者をただ興味本位で覗き込むだけの見学者に対して、ぶん殴ってやろうかと思ったと感想を述べている。 このことは、無差別殺人事件の報道では、あまり報じられていない。わたしは、犯人の男の異常さと同じぐらい、この医師が感じた憤りも、この事件の特徴であろうと感じている。目の前の惨事や傷つくひとたちを傍観し、観客になりきってしまう感覚は、傷ついているひとたちやそれを救護するひとたちの気持ちを想像する力を失っている。何もしないで傍観するなら、きっと惨事の現場では邪魔なだけの存在だ。しかし、自分が邪魔だと思われていることには気づけない。 相手の気持ちを想像する力が欠如しているか、もともとないか、減退してしまったか、麻痺してしまったか。いずれにせよ、それはひととしての社会的な能力が低いことを意味している。 青森県出身の25歳の男Kは、青森県内で有数の偏差値の高い高校を卒業し、短大に進学。静岡県で人材派遣会社の仲介で自動車会社で塗装の検査係をしいた。 この履歴を知って、まず思うことは知的には高いということだ。学校的な課題には、問題なく答えを用意できる記憶力や判断力があったと想像できる。さらに新聞報道では卒業文集が紹介されている。そのなかで、親の意向に従っているからよいこどもに思われるのは当然だという書き込みをしている。思春期を経た男が、自分を紹介するときに、親の産物であることを自慢する傾向そのものが何らかのコンプレックスを背負っていると判断できる。父親は勉強には厳しかったらしく、Kがこどものときは家から父親の怒鳴り声が周囲に聞こえたという。 知的に高く、親の精神的な支配から脱しきれないまま高校と短大に進学したKは、いいひとを演じてひとをだますことぐらい簡単だと、ネットに書き込みをしている。親との関係を良好に保つために身につけた術だと思うが、自我の形成が必要な時期に、親の顔色をうかがう人格を優先させてしまったのか。 ひととひととの関係は、支配と従属ではない。しかし、こども時代に親の支配力が強すぎると、こどもは精神的な自立がはかられないまま成長してしまう。いつまでも従属する考え方から抜け切れず、欲求不満を何らかのかたちで解消しようと試みる。なぜか、多くの場合はテレビゲームなどのひとを相手にしない対象に向かう。従属することを受け入れながら、そんな自分がゲーム世界で支配者になろうと試みる。とても悲しい一方通行だ。地面に穴を掘って「王様の耳はロバの耳」と叫んでいたほうが健康的かもしれない。 Kは警察の取調べに対して、動機につながる供述をしている。 仕事がうまくいかなかった。自分が馬鹿にされていた。むしゃくしゃしていた。女性にもてなかった。よのなかがいやになった。だから、秋葉原に行ってひとを襲うことを考えた。 この動機につながる供述は、Kの尋常ではない精神構造を現している。尋常ではないというのは、通常のものの考え方では、そういう結論にはならないだろうということだ。 つまり、仕事がうまくいかないひとはたくさんいる。馬鹿にされることだってだれにでもある。むしゃくしゃしたくなるときは、わたしだってある。女性にもてない自分を悲観しているひとだってたくさんいるだろう。わたしはしょっちゅうよのなかがいやになる。 それでも、こういう理由の結論が、無関係のひとを襲うことにはつながらない。そんなことをしても、不満や不平は何一つ解消されないことを知っているからだ。Kは偏差値の高い高校に進学した知的能力を有しているにもかかわらず、こんな単純なことが理解できていない。無関係のひとを襲ったら、新たな悲劇が生まれるだけで、自分を含めて家族や友人も生きてはいけないような地獄の始まりになることを、多くのひとは知っている。だから、そんなことはしない。また、無関係のひとには、家族や友人がいて、そのひとたちからの恨みや憎しみが生じるだけで、やはり何も自分の苦しみを解決することにはつながらないことに気づく。だから、そんなことはしない。 それなのに、Kは北陸地方までわざわざナイフを買いに行き、事件を起こした前週にも秋葉原を下見している。とても用意周到なのだ。こうと決めたゴールに向かって、揺るがない計画を淡々と実行している。 ブログやネットの掲示板に、刻々と心境や行動をアップしている。それを「だれかにわかってほしい、救ってほしい気持ちの現れだったのではないか」と指摘した専門家がいた。わたしはそう思わない。わたしは、自分の行動を記録するための手段としてKはネットを使っていたと考える。計画したことを着実に実行しているかを確認するための手段だったのではないかということだ。手帳への書き込みと同じだ。手帳と違って、不特定多数からの反応があるから、多少のつながりを意識したとも思われるが、決して反応と同調する姿勢は見せていない。そのことからも、とても救いを求めていたとは思えない。 また警察の取調べに対して「ネットに書き込みをすることによってだれかに制止してほしかった」と供述したと新聞では報じていた。この供述にも疑問がある。あれだけの細かい書き込みをして、救いや制止を求めていた。しかし、その手が差し伸べられないから、行動をエスカレートさせた。これが事実なら、かなりの性格異常か、人格の破綻が想像できる。常軌を逸した精神状態で、ナイフを用意したり、車を借りたり、高速道路を使って運転したりできるとは思いにくい。 警察の取調べは、取調官の質問に対して応じる形が一般的だ。その答えを調書に書く段階で、主語が容疑者になる。 「どうして、ネットにあんな書き込みをしたんだ」 「書き込みをしたんだ」 「おい、それを聴いているんだ」 ひとを刺した感触や、流れた血の記憶、怒号や罵声、ひとが自分を取り押さえた事態に直面して、極端に精神状態が高揚し、整理できない状況だと予想される。自閉症スペクトラムでは、そういう自分のなかで情報が整理できない、つまり相手が自分に何を聴いているのかを考えられないときには、エコラリアといって、相手の言葉を即座に返す傾向がある。即時のエコラリア(鸚鵡返し)という。 「ああやって、細かく書き込むことで、だれかに制止してほしかったのか」 「制止してほしかったのか」 「やっぱり、そうなんだな」 「そうなんだな」 「よし、じゃぁ調書を作るぞ。わたしはだれかに制止してほしくて、ネットに書き込みをしました。これでいいな」 「これでいいな」 取調べの現場に、精神医療の専門家がいれば、こういう応答からすぐに自閉症スペクトラムであると判断するだろう。 文部科学省は、青少年が切れる現象について、脳科学的に研究するチームを発足させると発表した。 異常行動をとる青少年のものの考え方を、その本人の成育や環境に限定するのではなく、脳の発達の問題としてとらえようとする試みならば意味があるだろう。しかし、統計をとったり、分析したりするだけでは、まったく意味がない。具体的な手立てが実行されない限り、時間が経過すれば予算がカットされチームは消滅するのだろう。 また、わたしは今回のKの行動は、決して切れた勢いによるものとは考えていない。 出勤した。仕事着が用意されいなかった。 「くびってことか」 ロッカーを蹴っ飛ばし、大声でわめき、勝手に職場を放棄した。 ことしの4月に派遣労働者を大量解雇する方針を会社側から伝えられていた。その不安感が増幅して、仕事着がなかったことで爆発したととらえることもできる。しかし、実際には仕事着は用意されていた。Kが見落としただけなのだ。 学校で100点ばかりを取っているひとたちは、人格的にも、人間的にも優れているという、日本独特の価値観を根底から見直さないと、文部科学省のチームは何の成果も挙げられないだろう。 職場で仕事着がなければ探せばいい。探しても見当たらなければ同僚に尋ねればいい。 「おかしいなぁ。いつもならここにあるはずなんだけど、俺のつなぎを知らないか」 「週明けだけからリネンから回ってきて、新調されたものが別のところにあるんじゃないのか」 「あーそうだった。ありがとう」 Kは、こういうコミュニケーションを職場のひとたちととったのだろうか。それでも、仕事着がなくて、駄々っ子のようにわめいたのか。 わたしはKを知らない。見たこともない。話をしたこともない。 だから、Kを決め付ける手がかりを持たない。 だけど、Kのような行動や考えをする多くのひとたちと出会っている。そのひとたちとの日常を通して、Kがどうして今回のような事件を起こしたのかを想像することができる。もちろん、Kの見たてはまったく外れているかもしれない。だから、Kとはこういうひとだったとか、こういうひとだったのかもしれないなどと、考えようとは思っていない。しかし、わたしが日常的に出会っているKのような行動や考えのひとたちが、成長して同じような事件を起こしてはほしくない。 だから、今回の事件で報道されているKの人物像を、もう少し別の視点からとらえて、よのなかにたくさんいるだろうK予備軍が、社会的に生きやすいようにするにはどうすればいいのかを考えたい。 四肢に見かけ上の問題がなく、脳の発達に問題があるこどもを発達障害児と呼ぶ。 発達障害は大きく分けて、脳のどの部分に障害が見られるかで、知的障害と情緒障害に分類される。ひとの脳は複雑なので両者を併発しているケースもある。 知的障害は、同年齢のひとたちに比べて、知的能が低い。時間をかけて、少しずつできることを増やしていくことが社会的自立へ向けては有効な手立てだ。おもに大脳新皮質に何らかの障害があると考えられている。大脳新皮質は、脳が進化してきた過程で最後に創られた領域だ。人間の脳とも呼ばれる部分だ。ほかの動物に比べて、ヒトは大脳新皮質がとても大きい。読む・書く・話す・計算をする・覚える・見る・聞く・手指を操作するなど、重要な働きをしている。 情緒障害は、おもに中枢神経に障害が見られると言われている。中枢神経は脳が形成される最初の段階で創られる。呼吸や脈拍などを管理する生命の維持管理装置としての役割を果たす。また、相手との距離感や表情から感情を読み取ること、その場の空気を読むことなど、社会的な存在として必要な能力とも関係している。 情緒障害は、その特徴によってさまざまな障害名がついているが、そんなことはどうでもいい。すべてを自閉症スペクトラムという範疇でとらえた方が、臨床的な判断ができる。 自閉症スペクトラムの大きな特徴は3つある。 とくにきわだつ不得手な三つの発達領域を1996年にローナ・ウイング(児童精神科医・英)が示した。 ・社会性の障害(ひとと相互的にかかわって場にふさわしい行動をとる能力の不全) ・コミュニケーションの質的障害(相手との相互的コミュニケーションを楽しみ発展させていく能力の不全) ・イマジネーションの障害(思考と行動の柔軟性の発達不全) この3つの特徴は、ひとが社会的に生きていくときには致命傷になりやすい。よほど、周囲が理解しないと、仲間はずれやいじめの対象になる。就職しても長続きしないだろう。だから、幼年期からの専門的な指導や支援が必要になる。 自閉症スペクトラムの発生率は100人に1人ととても高い。珍しくない障害なのに、成長してから事件を起こすひとが多い。それは、100人に1人の自閉症スペクトラムのうち、6割から7割が知的障害を伴わないからだ。 つまり自閉症スペクトラムの特徴をもちながら、150人に1人ぐらいは勉強ができ、なかにはとてもできるひともいて、進学校に行くケースもある。就職も結婚もする。しかし、自閉症スペクトラムとしての特徴が成長とともに消えることはないので、成人してから、社会との不適合・不適応に悩むことになる。こどものうちは、勉強さえできれば許される日本固有の学校的価値が自閉症スペクトラムの問題行動を隠していると言える。 当然のことだが、親にはこどもが自閉症スペクトラムであるという自覚症状はない。 最近、事件を起こし、裁判で精神鑑定が行われ、アスペルガー症候群と診断されるケースが多い。成人してから、アスペルガー症候群と診断されたということは、かなり顕著な特徴が発現していたのだろう。もっとこどものときに周囲が気づいてあげればよかったのにと、そういう記事を読んで思う。 アスペルガー症候群は、知的障害を伴わない自閉症スペクトラムのほとんどと考えていいだろう。適切な特別支援教育を受けてこなかったがために、成人して犯罪を犯してしまう悲劇の責任は、だれにあるのだろう。 判例では、アスペルガー症候群と鑑定されても、正常な判断能力はあると認定され、有罪になるケースが多い。アスペルガー症候群だからといって、決して軽い障害だと誤解してはいけない。適切な支援がない限り、生き方が困難なままおとなになっていくのだ。 社会性の障害に含まれる特徴のうち、Kについて報じられる内容に関するものとして次のことが挙げられる。 ・警戒心や羞恥心の発達にも不全がある ・生命の尊厳や畏怖の念に欠ける ・自分の感情を相手にわかりやすく表現するのが苦手 ・他人と感情を共有するのは困難 ・ひとと一方的にかかわる(道具的使用) 犯罪を予告していると思われる多くの行動や、証拠を隠滅していなかったり逃亡計画がなかったりする稚拙な行動から、警戒心や羞恥心は皆無と考えていいだろう。正常な犯罪者には動機があり、犯罪を実行した後はそれを隠す行動を優先する。それがまったく感じられない。 トラックで無差別にひとを轢き、倒れたひとをさらにナイフで襲う行動には、生命への尊厳は感じられない。 仕事着がなかったとき、「辞めろってことか」とわめいても周囲は驚くばかりで、Kを理解しようとはしなかっただろう。「どこになるのか、だれか知りませんか」という言葉を使うことができなかった。 ネットに心境をつづったとき、最初の段階では多くの応答があった。なかには励ますものもあった。そういう相手の気持ちを感じる力がなく、一方的に自分を卑下し、同時に社会全体への憎悪を膨らませていった。また女性にもてるとかもてないとか、記号としての女性像を対象にして、個人としての憧れのひとや片思いの相手を具体的にイメージできていない。恋する相手としての具体的な女性ではなく、記号(道具)としての女性像しかイメージされていない。 イマジネーションの障害に含まれる特徴のうち、Kについて報じられる内容に関するものとして次のことが挙げられる。 ・わくわくする能力に障害があるので、知らないことや見えないものは不安に感じる ・不安を解消するために、勝手に決め付けることが多い ・一度思い込んでしまうと考えを修正するのが苦手 ・不測の事態で混乱する ・原理や原則を抽出することが苦手 ・自分の経験が他人の経験とすべて一致すると信じ込む ・自分なりの秩序を守りたいという気持ちが大きい ・興味がかたより、狭い範囲の知識が多い 派遣社員を解雇する計画。いつ自分に降りかかるかわからない見えない不安に対して、極端なほどの恐怖を感じている。この仕事がなくなったら、次の仕事を探そうという前向きな姿勢は見られない。 勝手な決め付けは、Kのネットへの書き込みに随所に見られる。また、強い思い込みがありすぎて、励ましの書き込みを受け付けられていない。 唯一の不測の事態は目的を達成した後に、警察につかまったことだろう。警察につかまらない計画を立てていなかったので、ひとを殺すことが計画のゴールだったと考えられる。 無関係のひとを傷つけたら、自分の親や兄弟がその後、どんな苦しい立場になるのかとか、傷つけたひとやその家族にどんな悲しみを与えるのかという、よのなかの原則を抽出できていない。 相手の気持ちを想像できないので、どうしても自分の経験を世界の中心にしてしまう。周囲のひとも同じことを考えていると信じる。それに流されない存在は、全面的に否定する。職場の同僚や、漠然とした女性像など、自分の秩序を崩そうとする存在が許せない。 興味がかたより、狭い範囲の知識が多いことは、決して間違ったことではない。しかし、ひととの関係不全の裏返しとして、ゲームや音楽、ビデオやネットなどにはまり込んでいく、いわゆるオタク系の心理では、世界を広げられない。 この考察は、決してKを擁護するためのものではない。 また、自閉症スペクトラムという発達障害があればなにをしても罪に問うべきではないと訴えているわけでもない。判例では、アスペルガー症候群と鑑定されても有罪が確定している現実がある。 少なくとも高校を卒業する年齢までに、適切な支援が長年にわたり行われれば、自閉症スペクトラムであっても、社会に適応して生きていく可能性がある。知的能が高いがために、テストの成績だけで優秀の人物評価を与えられ、社会性やイマジネーション、コミュニケーションの障害が見落とされてしまう危険性を、多くのひとに考えてほしいのだ。 |
2008.5.24 |
学力テストのその後
昨年の開始時にはマスコミが大きく報じた全国一斉の学力テスト。 今年度も4月に実施されたが、昨年と違い、マスコミは大きくは扱わなかった。 結果の公表が義務付けられていないので、集まったデータがどのように使われるのかが問題になる。もともと、学校間格差や教師の力量不足解消が目的だったのではなく、膨大な資料を集め、明らかにされていない別の目的に結果を使おうとしていたのではないかと話し合った。 |
2008.4.26 | 市民によるこれからの"学校"づくりの可能性を考える学習会 巣鴨地域文化創造館13:30-18:00 呼びかけ人として1人、参加者として2人、創り出す会から参加しました。 参加者 呼びかけ人 古山さん:教育の多様性を考える会 http://www.asahi-net.or.jp/~ru2a-frym/ 竹内さん:教育改革ネット http://www.ernet.jp/ 十時さん:湘南に新しい公立学校を創り出す会 http://www.shonansho.org/ 一般(所属のみ) 朝日新聞編集委員 湘南に新しい公立学校を創り出す会 海苔の会社経営 NPO 4コネクション http://www.4connection.org/ グリーンフォワード http://www.greenforward.org/ 学童保育指導員 ホリスティック協会 横浜シュタイナー学園 http://yokohama-steiner.com/ 湘南サドベリースクール http://shonan-sudbury.org/ NPO 東京賢治の学校 http://www.tokyokenji-steiner.jp/ NPO こんな学校にしたい会 オープンドアスクール http://www.opendoor-urayasu.com/archives/daihyou/index.html IWC国際市民の会 ほか 竹内さんが進行で、古山さんが資料を用意した。 呼びかけ人の自己紹介で始まる。十時さんがこの学習会開催の経緯を説明した。 自己紹介のあとで、古山さんの資料が提示された。 内容:日本のオルタナティブ系学校の現在・現在学校を作ろうとすると・学校設置の規制緩和に関する経緯 提示された資料を中心に、参加者が各自の思いや疑問、意見を出すというかたちだった。 初回ということもあり、無理な意見集約は見られなかった。 5月と7月に継続した会議が予定されている。 個々人のもつ教育観や学校観が異なるので、学校設立へ向けた枠組み論ではコンセンサスがはかれるかもしれない。 10年前にはこうした動きが皆無だったことを考えると、参加者の半数以上が何らかの形で自分のバックグランドをもち、その地平でものを語れるようになっていたことは、市民立学校の誕生へ向けて教職員以外のひとたちが実践を積み重ね、自信をもつことにつながると感じた。 行政との距離感については、創り出す会がかつて経験した対立と協調の異なる軸を、どう調整するかが課題になりそうだ。 |
2007.12.17 | 学力テストの廃止 ことしから始まった全国公立小学校・中学校の学力テストは、文部科学省が民間教育業者に出題を丸投げするかたちで実施された。結果が各都道府県教育委員会や市町村教育委員会に送られたが、公表されたところは少ない。それに対して、公立学校の序列化を助長するだけだと実施に反対した愛知県犬山市に続いて、来年実施されるテストを廃止する方向で検討している自治体が増えているという。 県立高校が揺れている 学力向上の重点校に選ばれてしまった高校(かつての進学校)は、校長が躍起になって授業時間数を増やそうとしている。ことしの始業式で、生徒の意見を無視して、土曜日の補習と部活の禁止を命令した校長がいた。これに対して、生徒が猛反発をして、結局、補習は自主参加、部活は実施してよいことになった。 渋谷大学 特定非営利活動法人シブヤ大学(英文表記:SHIBUYA UNIVERSITY NETWORK)についての報告がありました。その構想を参考に、湘南でも似たようなことができないかというものでした。参考にする事例や資料が少ないので、もう少し掘り下げた報告を次回に期待することにしました。 |
2007.6.23 | 教員免許の更新 参議院でどこかの学校の学級会みたいな多数決採決が続いている。 すでに数の力を頼りに衆議院で通過した教育関連法案が、参議院でも採決され、可決成立した。 与党の考えている教育の中央集権化が一歩前進した。 一般のひとたちには、あまりなじみがないかもしれない。だから、無関心なひとも多いだろう。しかし、今回の法案は、将来の日本の公教育が大きくこれまでと変わってしまうほどの怖いものだといつか気づくときが来るだろう。 国家公務員のなり手が少なくなっているという。省庁の不祥事を受けて、若い世代が国家公務員になるのを敬遠し始めたそうだ。 教員は、身分は地方公務員でありながら、待遇は教育公務員特例法という法律によって、地方公務員とは一線を画している。 日本に先んじて、教育改革を推進したイギリスでは、大量の教員解雇が続く。また、力ある教員たちが離職し、若いなり手が減少した。そのため、多数の外国人を教員として雇用した。公用語であるブリティッシュイングリッシュを、やや発音が違うオーストラリア人やアメリカ人の教員が教えなければならない事態に直面している。 わたしは、今回の教育関連法案で、確実に現役教員の中途退職が増加するだろうと予測している。また、若い世代で教員を目指すひとたちが減少するだろうとも予測している。文部科学省・教育委員会・校長・教頭・主管教員らの顔色を伺い、いじめや不登校が発生すれば、現場の教員が、とかげの尻尾きりみたいに責任を負わされ、処分される体系が確立したのだ。 しかも、10年ごとに教員免許が更新される。更新されなければ、当然解雇される。 教員免許法は、大学などの教育機関で、定められた教職関係の単位を履修し、認定されれば教員免許を取得できると定めている。それなのに、有効期限を設けるというのは、免許の質や価値を著しく低下させていくだろう。たった10年しか効力のない免許のために、とても多くの時間をかけなければならない教職課程の履修など、将来に不安定要素をかかえてしまい、一生の仕事として目指す職業としてとらえにくくなってしまう。 教員免許をもってはいるけど、教員にはなっていないひとは、全国にたくさんいる。そのひとたちも、含めて、免許の更新を貫かなければ、意味がない。運転免許だって、ペーパードライバーでも、日常的に運転しているひとでも、一定期間ごとに更新しないと、免許は失効してしまう。 すでに文部科学省は、更新にかかわる研修についての検討を始めたという。ずいぶんすばやい対応だ。あらかじめのシナリオができていないと、ここまで早い動きはできない。政治は、どんどん茶番化している。 年間に30時間程度の研修を予定しているという。授業のある教員に、年間30時間の研修を受けさせるのだ。仮に、午後の時間を使って、どこかの施設で講義や講習を連続するとする。おそらく2時間程度だろう。それだけで、更新の年の教員は、年間に15日間も午後の授業を自習にしなければならない。免許を更新する年の教員が担任になった保護者は、不運だ。 また、教育行政、お得意の手法で、夏休みに集中的に研修を連続するというのも考えられる。 一日研修で、午前中3時間、午後3時間とすると、6時間の扱いだ。それだけで、5日間も、強制的な研修に行かなければならない。こどもの教材を作ったり、自ら研修内容を選択したりという、自主的な考えや意欲を奪うのには好都合なやり方だ。しかも、この研修は、あしたの授業に結びつく研修ではなく、自らの能力や資質を問われる研修だから、少しでも点数を上げることに力点が置かれる。点数を上げるためには、児童観や教育観など、教育の本質的なものに封印をして、当たり障りのない模範解答を連続することが必要になる。 研修は、勤務地では行わないだろう。どこかの施設に行くわけだから、出張扱いになる。出張だと往復の交通費が支出される。教育予算が削られている現状で、また無駄な支出が増えていく。 いつから、日本の政党政治は、多数決を唯一とし、議論が封じられるようになったのだろう。内閣(政府)が国会(立法府)に絶大な権限を誇示し、大統領制のような仕組みを確立してしまったのだろう。どこかの国の独裁政治を批判しているうちに、いつのまにか自分の足元も似たような構造になっていたことに、メディアは気づいているのだろうか。 すでに学校現場には、やがては給与にまで反映されると言う人事評価システムが導入されている。 毎年、春に年間の指導方針や指導内容の計画を提出させられ、校長や教頭の面談を受ける。それが、年度末にいくつかの項目に分けられて、S・A・B・C・Dの5段階評価をつけられている。民間企業の能力主義が教育現場にも入り込んできているのだ。 「あなたの目は、どこを見ているのか?こどもか、教員か、親か、はたまた教育委員会か?」 職員会議で、校長や教頭にこのような発言をするわたしは、つねに自分への評価が下がることを覚悟し続けなければならない。 そして、多くの教員は、自分かわいさ、生活の保全が先行し、ものを言わなくなっていく。いや、すでにものを言わなくなっている。 |
2007.3.24 |
学力テストの導入 2007年4月から全国一斉に公立小学校と公立中学校について、学力テストが導入される。 これは、こどもたちの学力を評価するためのものではなく、全国一斉に同じ問題のテストを行うことによって、学校間の学力差を定量化するためのものだ。問題は民間企業が一手に引き受けて作成し、答案の採点も民間企業が行う。全国で受験するこどもたちの総数を考えると、文部科学省はこの企業にいくらで発注しているのか興味がわく。そして、学校別、学年別の結果が、その民間企業に蓄積される。さらに、性別や名前という個人情報も。 昨今の政府の教育再生会議でも同じだが、こどもの成長や学力の習得を、定量化することができるという基本的な考え方は、実際に教室で教壇に立ち、こどもたちの指導にあたってきた教員たちの発想とは大きく異なる。世界的な調査で外国に比べて優秀な成績が取れなかった。だから、授業時間数や授業日数を増やせば、こどもたちに学力がつき、優秀な成績が取れるようになると考える。ひとの成長は、決して定量化できるものではなく、こどもどうしの関係、こどもと教師の関係、家庭の安定度など、多くのこどもを取り巻く環境によって左右される。その個別具体的な要素を抜きにした指導によって、これまでこどもたちから学習への意欲を削いできた反省がまったく感じられない。 |
湘南に新しい公立学校を創り出す会
Copyright©ACNIPS 1997-2014